滅亡・改易大名家のその後

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254日本@名無史さん
雑賀孫一について昔こんな話を聞きました。
秀吉によって紀州征伐を受けた後、彼は九州は肥後国に移っていたそうです。
その後の九州征伐、さらに肥後一揆などに反秀吉方として奮戦したそうです。
その後、縁あって入国してきた加藤清正の配下になって朝鮮出兵に同道します。
当時の朝鮮は鉄砲が伝播しておらず、苦戦を続けました。朝鮮側は使い手を敵方である日本から密かに募集します。
厭戦気分も漂い始めた戦線からの離脱者はかなりの数に上ったそうです。
その中に孫一の姿もありました。朝鮮の役にあって蹂躙される姿を自らの故郷を失った姿と重ねたのかも知れません。
その後、慶長の役のさい、ウルサン城の攻防でかつての主である清正が苦戦していたその時、孫一が使者を送ったのか、
翌日に総攻撃をかける旨を伝えたのです。清正は彼の寝返りを責めることなくありがたくその情報を頂戴しました。
清正の奮戦は別の項に譲るとして、孫一はその後朝鮮において重きを置かれたそうです。
彼の使ったとされる鉄砲が韓国に残っているし、彼の末裔もまだ健在です。
韓国名はサヤカという(漢字を忘れた!)そうです。
戦時中は韓国人でもなく、また日本からは売国奴・非国民として扱われたそうです。