滅亡・改易大名家のその後

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123日本@名無史さん
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結城氏(越前松平氏)の流れは主に四つあるけど

*嫡流
下総結城→越前北庄(68万石)[秀康の長男忠直の時に松平姓を称す。でも乱行で配流]
→越後高田(26万石)[忠正の長男光長。越後騒動で改易]
→美作津山(10万石)[名家の故を持って、光長の養子宣富が最高を許される]
→美作津山(5万石)[宣富の子が11歳で没し、無視改易の危機となったが、名家の故を持って甥の長熙が5万石での相続が認められる]
→美作津山(10万石)[美作津山藩7代目斉孝が将軍家斉16男斉民を養子に迎え10万石復帰。斉民の次は斉孝の4男慶倫が継いで明治。]

*次男の系統
上総姉ヶ崎(秀康の次男忠昌]→常陸下妻(3万石)→信濃松代(?)→越後高田(25万9千石)
→越前福井[北庄](52万5千石)[↑のほうの秀康長男忠直が配流なったので、忠正が入れ替わって北庄に入る。福居[福井]と改名。
→越前福井(45万石)[二代光通、兄弟二人に越前松岡5万石、越前吉江2万5千石を分知]
→越前福井(47万石5千石)[光通、松平越前光長の娘国姫(母は徳川秀忠の娘)を正室し、その圧力で婚姻全の側室との子を認知せず、
子は江戸へ出奔。国姫とは男児が生まれず、国姫自殺、光通も後追い自殺。結局、弟の昌親が分知されていた吉江2万4千と合わせて相続]
→越前福井(25万石)[昌親の相続には、越前松岡を分知された兄の昌勝や、光通の側室の子直堅もいたことから不平分子もおり、直堅派が脱藩。
昌親は昌勝の子綱昌に家督を譲って隠居するも、若い綱昌の素行が悪く、領国没収。先代昌親を藩主に戻させ、25万石。昌親は吉品に改名]
→越前福井(30万石)[吉品→昌勝六男吉邦→昌勝三男宗将。宗将は越前松岡藩5万石を継いでいたので、合わせて30万石]

宗将の次は結城秀康五男松平直樹の孫松平知清の次男宗矩が養子で継ぐが、これも実子なく一橋宗尹長男重昌が養子で継ぐ。
でもこの松平越前重昌も実子なく、一橋宗尹三男重富が養子で入り(10代目)ちょっと続くが、
13代目は徳川家斉24男斉善が養子で入り、その次が有名な田安斉匡8男松平越前慶永(春嶽)。
井伊直弼によって慶永が蟄居させられたあとは、越前徳川系の越後糸魚川藩主松平越前直廉(茂昭に改名)が継いで、明治。

糸魚川藩は、出奔した脱藩した直堅がこの直知が脱藩した直堅派家臣と江戸に逃れて、将軍家綱に家を認めてもらい、直知の養子直之の時に封じられたもの


直之は松平越前家の出雲松江藩の新田分知である出雲広瀬藩二代松平越前近時の三男。