★★☆ビューティフルエンプレス・元正天皇☆★★

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150日本@名無史さん
>それと聖武・孝謙帝時代は、官位の点で南家に比べると北家が冷遇されている
>と言う印象があります。

南家の長男豊成が参議に就任したのは34歳の時。
南家の次男仲麻呂が参議に就任したのは38歳の時。
北家の三男八束が参議に就任したのは34歳の時。
北家の四男清河が参議に就任したのは年齢不詳ながら八束参議就任の翌年、すなわち清河35歳未満。
従五位下が与えられたのは豊成21歳、仲麻呂29歳、八束26歳、清河26歳未満(推定)。
従四位下が与えられたのは豊成34歳、仲麻呂36歳、八束30歳、清河28歳未満(推定)。
以上を検討すると、少なくとも聖武朝で北家が冷遇されていたとは認められません。
ただ八束の同母兄永手は参政が非常に遅れ、参議を経ずに43歳で権中納言。
ですが官位自体は従五位下24歳、従四位下36歳と他と比べそれほど遜色がありません。
参政の遅れは永手の方に特殊な事情があったと見るのが妥当でしょう。
(橘諸兄政権時にのみ冷遇されているところから見て、諸兄と永手は不仲だったよう)

>南家の豊成と仲麻呂が従二位・右大臣と従二位・大納言の時に、北家の永手が
>従三位・権中納言で、八束が従四位・参議ですからね。

それは孝謙・仲麻呂政権でのことですよね。
(諸兄が首班であったものの主導は明らかに孝謙・仲麻呂側にあった)
これ以降は確かに北家と南家の差がついてきますが、それは仲麻呂専横があったからこそ。
豊成は南家のみならず藤原四家の中でも最年長ですし、ここでの比較は適さないでしょう。