九州戦国史について語ろう

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450日本@名無史さん
蒲池氏のロマン

蒲池氏のルーツは、一説によると、あの藤原純友らしい。純友の弟の藤原純乗が、
橘公頼を追撃して筑後に入り、蒲池の地に砦を築き(現・蒲池城跡の石碑がある)、近隣の領主となる。
そこへ松浦党の山代囲の子の山代圓が聟養子に入り、嵯峨源氏蒲池氏のルーツになる。
元寇の時も出陣して一族の山代諧が、佐志房らと共に討死にしている。
南北朝時代は南朝方に属す。蒲池12代目の蒲池武久に男子がおらず、
娘が高良大社で出会った宇都宮久憲と夫婦になる。
宇都宮久憲は、下野宇都宮氏の一族で、源頼朝の一番弓といわれた宇都宮朝綱の子孫で、
祖父、父と共に、肥後の菊池氏と共に南朝の懐良親王の征西軍府で戦っていた。
久憲は蒲池久憲となり、彼以降、藤原氏系宇都宮氏族としての蒲池氏になる。
筑後宇都宮氏としての蒲池氏は、筑後の筆頭大名となり、久憲の6代後の蒲池鑑盛の時、柳川城主となる。
鑑盛は、身一つに近い状態で落ち延びてきた理由造寺家兼(剛忠)と隆信を手厚く保護
(もし、蒲池鑑盛が、家兼と隆信の2代に渡る保護をしなければ、その後の龍造寺氏の興隆はなかった)。
鑑盛は、筑後守護の大友宗麟の幕下にあり、大友と島津の耳川の合戦に3千の兵を従えて参陣し、
大友氏総崩れの中で、果敢に島津の本営に突入を企てるが利あらず自決(湊川での楠木正成の一党の
自決に比されるような自決だったらしい)。
鑑盛の子の蒲池鎮漣は、反大友の立場にあり、龍造寺隆信に組みする。しかし、反龍造寺の意志があるため、
龍造寺2万の軍に攻められる。しかし、九州屈指の堅城の柳川城は、半年以上の篭城戦を戦いきる。
鎮漣と隆信は和睦し、隆信は娘を鎮漣の後妻にさせる。そうして親戚関係になり、義父として鎮漣を肥前に誘い、
謀殺する。龍造寺軍は再度、柳川に侵攻し、鎮漣の蒲池嫡流は滅びる。鎮漣の妻となった隆信の娘は、
父より夫を選び、蒲池家の支城のあった塩塚で自決(現在・蒲池鎮漣夫人殉難の地の史跡に指定され石碑がある)。
この時に、鎮漣の子で生き残ったのが、柳川城下で蒲池残党狩りをしている龍造寺軍の包囲網を突破した
16歳の徳姫(蒲池徳子)。彼女は長崎の有馬氏の元に落ち延び、次いで豊後に移り、大友一族の朽網鑑房と結婚し、
蒲池家を再興する。美貌で気丈な女性だったらしい。彼女は、今も蒲池氏の菩提寺の崇久寺に眠っている。
もう一人が、嫡男の宗虎丸の弟の宮童丸で豊前に落ち延びている。宮童丸の子孫は、豊前蒲池氏として現在も健在。
徳子の子孫は、筑前黒田藩や肥後細川藩の藩士(500石クラス)になり幕末の蒲池鎮克は西国郡代になり、
その子の鎮章は鳥羽伏見の戦いで幕府軍先鋒として討死に。子孫は関東に健在。
また、蒲池鎮漣の兄の鎮久(鑑盛の落胤。鎮久は鎮漣と共に佐賀で討死に)の子の熊千代は成人して、
龍造寺家晴の家臣になり(家晴は、隆信と違い、蒲池氏の恩を忘れなかった)、蒲池貞久となる。
家晴の子孫は鍋島時代は諫早家となり、貞久の子孫も諌早蒲池氏として残る。子孫は和歌山に健在。
さらに、蒲池鎮漣の従兄弟の蒲池鎮運は、嫡流滅亡後も存続。蒲池鎮運は豊臣秀吉の朝鮮遠征に参陣し、
釜山で死去。子の蒲池吉広は関ケ原合戦では立花宗茂と共に西軍に参加したため、家は取りつぶしになり、
筑前黒田藩に召しかかえられ郡奉行となる。その子孫は、現在も筑前・筑後に健在。
先般、その子孫が350ページの大冊『蒲池氏の歴史』を刊行。
ロス・オリンピツクの金メダリストの蒲池健夫氏や、城島市の銘酒「池亀」の蒲池氏、
また歌手の松田聖子(蒲池法子)や坂井泉水(蒲池幸子)も蒲池氏の子孫。