九州戦国史について語ろう

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438古庄党について
古庄氏は、藤原秀郷の流れを受けた現神奈川県厚木市古沢を中心とした在地勢力であったのがそもそも。
大友「古庄」能直が、頼朝の腹心たる中原親能の養子となり大友氏を称したことから、
実弟で古庄三郎重能が古庄家の総領となる。後の大友家豊後入国の際に古庄重能は神角寺合戦で
総大将となり豊後在地の大神党を誅しそのまま守護代職を務める。国東郡を中心に早くから
所領を有し、朽網、井上、高田、寒田、倉成、小田原、原尻、波多、草地、霧渡、坂折、永留家
に庶流を持つ。国東郡田染荘は吉弘氏、長野市、古庄氏から政所職「司法、行政、軍事面の責任者」
がだされる。1564年の政所は古庄鎮元。庶流の朽網氏は直入郡山野目を中心に大勢力を有しこれを恐れた
義鑑の時代以降待遇に不満を持ちたびたび反抗する。そのたびに古庄総領家は迷惑だった。
もっとも大友家は古庄総家には常に寛大だった。血縁は佐伯、吉弘、田原まで及ぶ。義統の時代には
その側近として母子に仕える。石垣原の戦い以降も大友家が高家になり江戸に留まるまで厚き親交が
あったといわれる。神角寺合戦から石垣原まで約800年大友家と隆盛を共にしたロマン。
語り尽くせぬが、今宵はここまでにしとうございます。 因みに大友家の出自論争に決着を着けたのは
小田原古庄氏の系図による。