歴史教科書から「従軍慰安婦」削除について

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30名無しさん@1周年
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織原容疑者“金髪狩り”のルーツは?
すべては「金」のつきあいで…

 「金」と「留学」、「イジメ」と「偽名」…。元スチュワーデス、ルーシー・ブラックマンさん(22)=写真左=失跡への関与が指摘される資産運営会社社長、織原城二容疑者(48)=同右=の素性を探ると、数々のキーワードが浮かび上がる。バブル景気が弾け、経営する会社が崩壊の危機に直面しながら、自ら破滅を選択するかのように東京・六本木を徘徊し、“金髪狩り”にふけっていた。織原容疑者の“心の闇”はどこで醸成されたのか。

 慶応ボーイで、フェラーリやポルシェを乗り回し、金髪女性を次々に毒牙にかけていた織原容疑者。

 捜査本部の調べに対し、震えながら、「今は何もいえない」と繰り返している同容疑者は、大阪市内でタクシー会社や不動産・ビル管理業などを営む資産家(在日コリアン)の二男、「金聖鐘」として誕生した。大阪市内でも指折りの高級住宅街にある豪邸は、高さ3メートルあまりの屏に囲まれ、周囲でもひと際目立つ。

 この家で育った織原容疑者は、大阪でもトップクラスの国立大学付属小−中学で学んだ。中学時代の教諭によると、「成績も中ぐらいで、目立たない普通の子供だった」という。

 だが、中学3年になると、これまでの生活をすべて捨てるかのような行動に出るのだ。目を二重まぶたに整形したほか、高校までエスカレーターで進学できたが、「彼は予備校などに通い、猛烈な受験勉強をしていました」(知人)と故郷を捨て上京、昭和42年、慶応高校を受験し、合格。近所の住民によると、「中学でイジメられたので、東京の学校に入ったといううわさでした。ただ、お母さんは『うちの子が、慶応に通ったんです』とうれしそうに話していました」。

 捜索を受けた世田谷区玉川田園調布の豪邸で、一人暮らしを始め、進学後は、名前を「星山聖二」に代え、同期には慶大ラグビー部総監督の上田昭夫氏や作曲家の吉松隆氏、有名代議士の息子、一流企業人がズラリ。ただ、「クラスも一緒になったことはないし、覚えがない」(上田氏)。

 それでも、織原容疑者と同じクラスにいた同級生の1人は、「うちの学校ではリーゼントがそんなにいなかったから目立っていた。どちらかといえば、ワルの部類で、成績はあまりよくなかった」。

 今回の事件では、アングロサクソン系の金髪女性に対する異常な執着ぶりと変態的な性向が浮き彫りになっている織原容疑者。「多くの級友が卒業後はすぐ慶応大学に進むなか、早くから『僕は留学する』と言っていた」(友人)と、外国に関心が強かった。一部で、慶応ボーイの遊び場として知られる東京・自由が丘で白人女性に声をかけていたとも伝えらている。

 事実、織原容疑者は卒業後に3年間、米国留学。この時期、帰化し、名を「織原城二」とし、慶応大法学部法律学科に入学。卒業後は、同学部政治学科に再入学した。

 実業家として打って出るのは昭和63年。高校時代に亡くなった父親が残した莫大な遺産を元手に、資産運営会社「プラント」(東京・銀座)を資本金1000万円で設立し、取締役社長として門出を切った。

 折しもバブル景気のただ中で、次々と物件を獲得し、事業を拡大。だが。平成3年ごろを境にバブルが崩壊し、物件は不良債権化。気が付けば、所有する約20件の物件など総資産約42億6000万円に対して、負債総額は約2倍の80億3500万円に達していた。

 培った人間関係がすべて「金」のつながりだったためか、手を差し伸べる実業家仲間は少なく、ほとんどの物件が金融機関や整理回収機構、東京都税事務所に差し押さえられていた。