1 :
歴史@時輔:
さらなる情報求む。
シラネーヨ
3 :
日本@名無史さん:01/09/02 19:38 ID:kQOmYqJI
いなかったって根拠はなんだよ
4 :
P1:01/09/02 19:42 ID:S8VBkjR2
取りあえず、日本書記を全部読んでから書きこむように。
5 :
>>1:01/09/02 20:18 ID:c3mblrLM
ソース、キボンヌ。
>>1 そんな事も知らなかったの?日本史の常識だYO!
7 :
日本@名無史さん:01/09/04 01:21 ID:gS9vHn9.
百済の威徳王晶のこと
8 :
日本@名無史さん:01/09/04 19:21 ID:/xQr.A8g
聖徳太子は日本最初の忍者で
巨大ロボットまで造ったんだよ。
9 :
聖徳太子は誰ですか?:01/09/05 00:13 ID:TP6GHBqM
聖徳太子と蘇我馬子は、推古のいい面と悪い面を体現した架空の人物。
10 :
日本@名無史さん:01/09/05 00:14 ID:rJzJwjXc
11 :
日本@名無史さん:01/09/05 00:15 ID:rJzJwjXc
で、いなかったってやつは
その根拠あげろや。
でないと論議になんねえぞ。
12 :
日本@名無史さん:01/09/06 01:06 ID:SVg0Fg0g
いるっていう根拠きぼ〜ん
13 :
日本@名無史さん:01/09/06 01:13 ID:FTvCKF5I
小学校の教科書からして載ってるからね。
とりあえず、定説に挑戦するほうから根拠を挙げてくれないと困る。
14 :
日本@名無史さん:01/09/06 01:24 ID:SVg0Fg0g
上高森は教科書にのっていたはずだが・・・
あれもあるのか・・・
省特待しは韓国人です。
16 :
日本@名無史さん:01/09/06 02:23 ID:eFlr.zUU
大山シンパはいないの?
17 :
日本@名無史さん:01/09/06 02:28 ID:Yh.cf1uY
津田左右吉が言い出しっぺ。
18 :
日本@名無史さん:01/09/06 02:46 ID:rrNTrE2w
在野の歴史家の聖徳太子架空人物説には、聖徳太子と
蘇我馬子や蘇我入鹿が同一人物だ、というものがあった。
大山説は、廐戸王は実在したが偉大な人物ではなく、
彼が偉大な人物だったことを窺わせる史料は全て後世の
捏造だ、というもの。
大山説の難点の一つとして、『隋書』の記述から当時の
倭国の文化水準の低さを断定してしまっていることが
挙げられると思う。
19 :
日本@名無史さん:01/09/06 20:55
昔は5000円や一万円の札に聖徳太子が描かれてあった。ありがたいお金に描かれてある人を
世の中の人はありがたいと思った。その人の神仏儒習合や十七条憲法だったか?話し合い第一や
平等主義を知らず知らずのうちに学んだ!それを竹下のボケがいまだ名前がわからんやつの肖像に
変えよった!いっつたい夏目と福沢ともうひとりはだれなんだ!
20 :
日本@名無史さん:01/09/06 20:58
IDでるかな?
アンタ、偉大なる新渡稲造知らないの?
まじ?
22 :
日本@名無史さん:01/09/06 22:23
>21
まあ、落ち着きなされ。「新渡稲造」ではなく、「新渡戸稲造」ですぞ。
ちょっと調べたのだけど、山川の日本史教科書に福沢諭吉は
記載されていたけど、新渡戸稲造は記載されていなかった。
知名度は夏目や福沢と比較するとイマイチかな。
23 :
日本@名無史さん:01/09/06 23:14
>>13 そんなに困るこたぁないじゃないか。
定説にそんなに自信があるなら、個々の説にいちいち反論するより
存在の証明をきっちりしてみせてくれりゃあ、話ははやい。
いまあるヤツも、今後出てくるかもしれないヤツも、
アホ説をまとめて一挙に葬り去れるじゃねぇか。一番効率はいいぞ。
で、存在の立証をきぼ〜ん
24 :
日本@名無史さん:01/09/06 23:25
太子はいたかどうかおいておいて、
例の17条の憲法ってのは後世の筆が入っているのは常識。
当時無かった言葉や概念が入っているから。
25 :
日本@名無史さん:01/09/06 23:55
>>14 それは、定説に「なりかけて」いたものを覆した例でしょ?
26 :
日本@名無史さん:01/09/07 13:22
>>25 じゃあ、大阪府堺市にある日本で一番面積の広い古墳はどうだ?
あの古墳はかつて仁徳天皇のお墓というのが定説で教科書にも載ってたろ。
が、今じゃあ、ほとんどの教科書は大山古墳などと書いてあるはずだ。
これなんかも典型だな。
教科書に載ってる定説なんて言っても、一皮剥きゃあ根拠なんて何もない。
聖徳太子もそうじゃねぇのか?
実在したって根拠があるなら、スパッと出してくんな。
27 :
日本@名無史さん:01/09/07 16:29
写真・遺骨・国外為政者との接見記録(国外における)の何れかで
確定
>>26 教科書の例を出したのは、それだけ通説としての浸透度が強いって言いたかったわけ。
普通、通説に挑戦する側が、「今までの通説はここが間違ってる」って具体例を挙げるのが
普通のこと、というか礼儀でしょ?
俺は古代史に詳しくないし、聖徳太子非実在説について判断できない。
今までそんなこと考えもしなかったからね。
でも、電波系じゃなくてちゃんとした説なら興味があるから聞いてみたいと思う。
だから、とりあえず非実在説を主張する人は、その理由を出してくれ。
それが間違ってると思ったら反論するし、妥当だと思ったら
ああそうかって納得するからさ。
30 :
日本@名無史さん:01/09/07 20:41
>>21 どんだけ偉大なんだ?言ってくれ。新渡稲造さんのことを?教えてくれ。俺は知らないな
とにかく、新札の発行した時期は一番さしさわりのない人間を選んだんだ。竹下が言ってた。
さしさわりのない人が何で偉大なんだ?一部の分野で業績を上げた人なんだろ?どうなんだ?
偉大さの選定基準が違うだよ!
31 :
日本@名無史さん:01/09/07 20:47
>>21 たしかに、外国に通用するジェントルマンではありそうだな。しかし、
その偉大さというのは、一部のさしさわりのない分野なんだ。
要するに、竹下登という政治家はどう転んでもさしさわりのない方法
を好んだ人なんだ。ちょいと本題からそれてますね。すいません!
>>29 だったら、こんなところでクダ巻いてるより、検索エンジン使うか、
本屋・図書館行った方が早いと思うぞ。
33 :
日本@名無史さん:01/09/08 23:21
聖徳太子架空人物説の中で、最も説得力のあるのが大山説だろうから、
その根拠について少し考えてみたい。先ずは、大山説の根拠の概略から。
聖徳太子の実在を論ずる際に問題となるのは、『日本書紀』と法隆寺系
史料ということになる。法隆寺系史料とは、現在は法隆寺西院金堂に安置
されている薬師像・釈迦像の光背銘文、現在は中宮寺にある天寿国繍帳の
銘文、『三経義疏』である。
このうち、法隆寺系史料は、『日本書紀』編纂以前に成立していたとされ
ているにも関わらず、同書には利用された形跡がなく、いずれも同書編纂
以降に捏造されたものだと推測される。故に、聖徳太子の事跡については、
『日本書紀』においてほぼ確実と認められるものに限られる。
憲法十七条は、後世の用語が見えるというだけでなく、当時の文化・国制
水準に相応しくなという意味でも、後世の創作だと推測される。『隋書』の
「倭王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聴政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。」
との記事からして、当時の倭国において中国思想がよく理解されていたとは
思われない。
対隋外交や冠位十二階の制定は事実であるが、聖徳太子が行なったとの
記事はない。故に、聖徳太子の確実な事跡は、
(1)用明天皇と穴穂部間人王との間に王族の一人として生まれた。
(2)推古9年(601)に斑鳩宮を造って居所とし、その近くに法隆寺を
建立したこと。また、斑鳩宮と法隆寺が後に焼失したこと。
の二点に限られ、有力な王族とは言えるが、普通考えられているような偉人・
聖人ではない。いわば、廐戸王は一級宗純、聖徳太子は「頓智坊主の一休さん」
的存在で、その意味で聖徳太子は架空の人物なのである。
大山説の難点は、当時の倭国の政治行為(に関する観念)から倭国の文化
水準を断定してしまっていることで、『隋書』の該当記事からは、当時倭国に
中国思想を充分理解できる王族がいなかったとは必ずしも言えず、『日本書紀』に
見える憲法十七条に多分に後世の潤色があるにしても、その原型が推古朝に
廐戸王によって作られた可能性は否定できない。
また、対隋外交や冠位十二階の制定についても、『日本書紀』巻22(推古紀)に
「立廐戸豐聰耳皇子爲皇太子。仍録攝政。以萬機悉委焉。」とあるから、廐戸王が
関与していた可能性を否定はできない。もっとも、大山説で指摘されているように、
曖昧で具体性に欠けた話にのみ廐戸王の名前が見え、対隋外交や冠位十二階の制定
といった確実な事跡の記事に廐戸王の名前が見えないのは確かに不審ではある。
廐戸王が優れた知識人・政治家であることを確実に証明する根拠があるわけでは
ないが、その可能性を全くは否定できない、というのが妥当なところだと思う。
35 :
日本@名無史さん:01/09/08 23:37
書記編纂時の皇太子に
「理想の皇太子像」を教えるために
厩戸や中大兄の事績に虚構が入ったって話があったなぁ
大山説?なにいってんだか(藁
聖徳太子本人がひとりでやれる仕事じゃ無いのは当然じゃん。
当時の中国は5湖16国の異民族割拠の時代がやっと終わって、日本同様、文化
レベルの低い遊牧民系の 隋やで、支配層は。
対隋外交や冠位十二階の制定は、当時の守旧派の物部とかを一掃させる
ために、政策ブレーンで仏教推進派で有力ゼネコンだった秦河勝ら大陸系の
秦氏が廐戸王にかかせたんだよ。シルクロード貿易で漢氏らと合従連衡してた
し、百済をたすけて半島経営の立てなおしをしないとヤバかったんで、
同じ遊牧民系王朝の随なら、ま国際的には対等でやれるやろといって、秦の
中華ヒエラルキーの血統の高さ(秦河勝で秦始皇帝〜弓月王〜21代目)をPR
しつつ、蘇我+廐戸王+小野妹子ラインで、大和朝廷の本格的国際デビューを
一発かましにいかせたんだろ。
その後、流入した景教の影響なんかで、廐戸というキリスト誕生伝説という
当時のアジア国際政治のインテリ支配層向けに、国際宗教の景教、マニ教
(ともに東方キリスト系)のモチーフもとりいれて、うちの王子は聖人で、
いままでの田舎者政治(物部)とはちがいまっせ、同盟するなら対等でやりま
しょうというためのブラフまで仕掛けてる。
国際宗教誘導派(主に仏教)が政策ブレーンによる政治をしてるんだから、
秦河勝や百済、随の担当窓口を研究しないと、事実はみえてこないと思われ
ちなみに、秦河勝 +廐戸王はシリア、ペルシャはもちろん、タイとか南方情報
もしいれていたと思われ
ベースが華僑+ユダヤのシルクロード商社ですから、随のアキレス腱はよく知っていたはず
随誌東夷伝みたら、いろいろでてるよ
38 :
日本@名無史さん:01/09/09 12:45
>>34 大山説の難点というが、それはほとんど最後の『犯人探し』の部分に限られる。
太子の存在を示す史料のほとんどが失われたことは、かなり確かなことに思える。
だとしたら、『疑わしきは排除する』という原則に従い歴史から除くのが常道というものでは?
少なくとも、『聖徳太子が○○をした』式の記述は全て削除すべきと思うが。
39 :
日本@名無史さん:01/09/09 13:56
大山説というのは、初めに聖徳太子はいない!ことにしよう!という前提にたった説明。というのが定説。
所詮大山説に聖徳太子はいてはならない、ということだから議論にならないね!
いなかったら教科書変えなくてはならんな・・・・
41 :
日本@名無史さん:01/09/09 15:05
>>34 >『日本書紀』に見える憲法十七条に多分に後世の潤色があるにしても、
>その原型が推古朝に廐戸王によって作られた可能性は否定できない。
この論法をゆるすと、
『東日流外三郡史に多分に後世の潤色があるにしても、その原型が古墳
時代までに成立していた可能性は否定できない。』
などというものがまかり通ることになるので不許可である。
『否定できない』という言い訳はトンデモの温床。
>36
確か遠山美都男氏がそのようなことを述べておられたと
記憶しています。
>37
>聖徳太子本人がひとりでやれる仕事じゃ無いのは当然じゃん
それは全員が大前提としている筈ですが・・・。
>38
原則としてそうすべきだとは思うのですが、そうすると、全体
的な時代像を描くのが困難だ、と大山氏も指摘されていました。
>39
最初に結論ありきではなく、各種史料の信憑性を検討していった
結果、聖徳太子架空人物説に至ったのだと思いますが・・・。
>41
申し訳ございません。ただ、憲法十七条の場合はそれなりの根拠も
あり、学界では、憲法十七条には官僚制の萌芽期に相応しい条文も
あるとして、推古朝の作成を支持する見解も根強いようです。
43 :
日本@名無史さん:01/09/09 18:48
>>42 39ですが、あなた反論には「記憶しています。筈ですが。大山氏も指摘されてました。思います。
支持する見解も根強い。」とか3人称でいうことが多いですね!大山説のみに頼ったの推論が多いですね!
さらにいえば、大山説は無責任な論拠だということ、「ちょんのいううこと!」
>43
ええっと、一応「反論」を・・・。
「思います」と「支持する見解も根強い」以外は「反論」で言ったつもりは
ありませんし、後者も「反論」というほどのものでもありません。また、大山説
のみに頼ったつもりもありませんが・・・。
「見解も根強いようです」と言ったのは、素人の私が参照した著書や論考は
少ないので、複数の研究者の憲法十七条推古朝作説を確認していても、それが
主流かどうか確信が持てなかったからです。
ところで、「大山説は無責任な論拠」との御見解について、具体的に御教示
戴けるとありがたいのですが。
45 :
日本@名無史さん:01/09/09 20:42
>>44 要するに、間違った問題からは間違った答えしか出ない!ということです。それとですね、
全体的にあなたは主観が強い人だと思います。しかし、言葉尻をつかまえての議論は議論
になりませんので今後は気をつけます。
46 :
日本昔ななし:01/09/09 20:45
本木君がいなかったの
>>10 聖徳太子が建造した巨大ロボットに関する資料
聖徳太子は彼が生まれる六百年ほど前に地球に飛来した超エネルギー体・パコの存在を知り、地中から掘り出すことに成功した。
ところが、そのあまりの威力に驚いた彼は、パコはまだ当時の人類には早すぎる存在であると判断。
後世にすべてを託そうと、パコを再び封印したのである。
そして、その秘密を防衛する守護神として、身長40mはあろうかという巨大ロボット・磁雷神を建造した。
48 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:10
大山のなんのとか、カッパノベルズにでもでてくるようなへんてこりん本を持ち出して
言い合いするのもどうだか?
49 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:18
「○○と××は同一人物だった」とか、「○○はいなかった」とか、
「○○の記述は××の記述をそのまま借用したものだった」とか、
そんなもの暇さえいくらでもできるよ。
そのうち、「織田信長と豊臣秀吉と徳川家康は同一人物だった」って
スレを立てたいと思ってる。
「ナポレオン・ボナパルトは実在しなかった」って「証明」した人も
19世紀のイギリスにいたことだし。
いつまでやれば気が済むの。
50 :
日本@名無史さん:01/09/10 06:14
現在発行されている紙幣に聖徳太子がないのは、
きっと十万円札で使おうと思ったんでしょうね。
ニトベが出たのはバブル初期だったし、インフレ
がもっと進むと思ったんでしょう。
しかし、未だにサウナ等でもらえる「百億円札」
は聖徳太子でなかったかしらん・・・?
仮に遠山説を採っても
大王位につかなかった太子が
なぜそこまで崇められるのか(死後100年近く経過して)?
I沢の説くように、非業の死を遂げたからなのか
それとも…?
52 :
日本@名無史さん:01/09/10 09:59
むかし、テレビで「上杉謙信は女だった!」と狂ったように言ってたおっさんがいたが。
大山さんもその輩か!あるいは、ピラミッドが日本にもあるとかもあったし、結局は
コジツケてこと?
53 :
日本@名無史さん:01/09/11 00:42
みんな読んでねぇなあ。
『いなかった』ってのは一種のブラフで、
本質は、正しく史料を扱って後に『聖徳太子』と呼ばれた人物の
実像を見直そうって話だろ。
のちに造成された太子信仰のしがらみがベッタリついてるから、それをはがさないと。
お札の写真だってパチモンだし。
55 :
日本@名無史さん:01/09/11 22:22
>>53 そんな事いったらキリストの絵だってバチモンじゃん!お釈迦さんもそうだろうよ!
56 :
日本@名無史さん:01/09/13 00:30
「日出る国の天子、日没する国の天子に書致す」
これ本当に聖徳太子の言葉かな?
聖徳太子って、天皇じゃないじゃん、それがなんで天子を名乗るの?
57 :
日本@名無史さん:01/09/13 01:56
>>56 民族・神話学板の「日ユ同祖論が真実ならば・・・。」を読んでみろ。
その書を送った日本の王、タリシヒコが蘇我馬子であることが理解できる。
聖徳太子=蘇我馬子で蘇我氏が天皇位に就いていたんだ。それが日本史の真実。
58 :
日本@名無史さん:01/09/13 01:56
>>56 あくまで対等な立場で書簡を送るという意味で、実際に書いたのが誰かとは関係ないのでは?
今でもトップが判を押した書類はトップの認証があったということになるわけだし。
59 :
日本@名無史さん:01/09/13 02:00
>>57 あそこを読んだら明らかに電波だったので無視。
「蘇我」が「我、蘇り」だって?
そんなこじつけ、幾らでもできるんだってことはすでに証明されているでしょ。
60 :
日本@名無史さん:01/09/13 02:41
>>56 聖徳太子の言葉とは書いてないと思うけど
推古が隋に送った国書でしょ
61 :
日本@名無史さん:01/09/13 03:04
>>59 最初から全部読んでみろや。面白いぞ。
>>60 日本の王、タリシヒコと書いてあるんだ。男性名なんだ。
62 :
日本@名無史さん:01/09/13 10:26
>>57 聖徳太子=厩戸皇子=馬屋戸皇子=(蘇我)馬子
63 :
日本@名無史さん:01/09/13 12:00
>>61 中国では女帝は有り得ないから(武則天はまだ出てない)
日本だって女帝(帝かどうかは別にして)は初なわけだし、
女性であってもタリシヒメ?となのるかはわからないだろ
64 :
日本@名無史さん:01/09/13 12:23
↑ あんまり恥ずかしいことを書かないほうがいいよ。
65 :
日本@名無史さん:01/09/13 15:33
女が天皇だなんていうと馬鹿にされると思ったから、
太子を天皇代理としただけじゃないかな
66 :
オームの椿三十郎:01/09/13 15:42
そもそも聖徳太子という名は諡だろ。
しかも死んでから120年も経って付けられた名だ。
今、幕末の志士に新たな戒名を付けて、崇め奉ろうというようなもんだ。
何故本名ではいかんのだ?
本名を呼称する習慣が無かったことを鑑みても、通名で呼ぶのが道理だろう。
勝海舟という名を封印して、戒名を以って通名に摩り替える必要がどこにある?
大体そういう時は、政治的陰謀や奸計による隠蔽であるのが見識ってもんだ。
要は「聖徳太子が実在したや否や」という問題は、括弧付きの(聖徳太子)によって何が隠蔽されたかにある。
つまり、『日本書紀とは何か』という問題と同義なのだ。
スレの最初の方に、教科書に載ってるから云々とか言っていた気楽者がいたが、こういう奴にとっての歴史は“歴史新聞”なんだろうね(藁。
円周率が3.14だという中学生に、「円周率は3だもん。教科書にのってたもん。3.14なんてのってないもん!」というのだろう。
ましてやπなんて聞いた日にゃ(藁
67 :
日本@名無史さん:01/09/13 16:45
実は聖徳太子こそ倭の大王であった。
しかしながら、日本書紀は、藤原氏が
蘇我氏と上宮王家を滅亡させて、新しい
大王を擁立したなんて書けないので、
二重三重に嘘ついて事実を隠蔽したのだ。
(嘘その1)
「蘇我氏が山背大兄王を失脚させ死に至らしめた」
実は、中臣鎌足が、蘇我氏と同じ時期に倭王であった
山背大兄王を滅ぼし、代わりに軽皇子を擁立したのである。
(嘘その2)
「大化の改新の主人公は、中大兄皇子である」
実は、中臣鎌子と軽皇子が主人公であった。
中大兄皇子が主人公であったという話は、
後から皇室の歴史を飾るために付け加え
られたものである。
68 :
日本@名無史さん:01/09/14 01:38
>>63 >そもそも聖徳太子という名は諡だろ。
>しかも死んでから120年も経って付けられた名だ。
>大体そういう時は、政治的陰謀や奸計による隠蔽であるのが見識ってもんだ。
それ言ったら、○○天皇という言い方も全部
当時の呼び方に改めなきゃいけないんじゃないか?
聖徳太子じゃなくて厩戸皇子と呼ぶぐらいだったらまだいいけどさ。
69 :
日本@名無史さん:01/09/14 02:47
何ボケたこと言ってんの?
まさか、厩戸皇子が通名だと思ってんじゃあないだろね。
聖徳太子の通名、いくつあるか数えたことある?
聖徳太子は通名こそが隠蔽されていて、その隠蔽を隠蔽するために謚名がされているわけ。
70 :
日本@名無史さん:01/09/14 09:27
人にものを聞く態度かヴォケ!
72 :
日本@名無史さん:01/09/14 21:04
井沢元彦の「逆説の日本史」を読んでみな。
厩戸皇子は、推古女帝のために天皇になれなかったから、悲運の皇子ということで
後世たたらないように、わざわざ「聖徳太子」と呼ぶようになったと書いてあるから(藁
元彦説によれば、「聖」とか「徳」とか良い文字で諡された人物は、たいてい生前は
悲運だったり、暗殺された人だったらしい。
73 :
日本@名無史さん:01/09/14 21:12
↑(藁 の意味がわからん。
74 :
日本@名無史さん:01/09/15 01:22
>>72 仁徳天皇は無視してるところが(藁 ←井沢説
76 :
日本@名無史さん:01/09/15 02:37
>>72 おいおい…イザワ君の言うこと信じてるのか?
まあ君がシアワセならそれでもいいんだが。
77 :
日本@名無史さん:01/09/15 03:01
「天皇陵の比定なんてデタラメだ!」と宮内庁の比定を否定しながら、
「仁徳天皇陵は世界最大の陵墓」と宮内庁の比定を信じ込む井沢(藁
78 :
日本@名無史さん:01/09/15 03:08
稲中の井沢の方が面白い分だけマシだな。
79 :
日本@名無史さん:01/09/15 04:07
だから,不比等のでっちあげだって。
80 :
日本@名無史さん:01/09/15 04:29
ある命題について、井沢が言ったから偽であるとか、その逆に真であるとか、それは脳味噌の足らん奴のすること。
誰が言おうと、説明原理として矛盾、破綻無く説明出来ていれば、『説』として十分成立するだろう。
‘徳’という文字に関する考察は傾聴に値するだろう。
そして、
>「聖」とか「徳」とか良い文字で諡された人物は、たいてい生前は
>悲運だったり、暗殺された人だったらしい。
(ほんとは72みたいな文章の下手なやつコピペすんのヤなんだけどさ)
という説が仮説として成り立たしめない例として仁徳天皇を挙げるなら、話が逆立している。
何故なら、椿三十郎がどうしてその謚名をつけたのかを、我々が知る手立てはないからだ。
ここまで書けば脳味噌の足りない68や72でも逆立の意味がわかるだろ。
81 :
日本@名無史さん:01/09/15 07:03
何でだれも1つも挙げないんだ?> 通名全部
82 :
日本@名無史さん:01/09/15 08:26
秋篠宮佳子
83 :
日本@名無史さん:01/09/15 15:35
聖徳太子
上宮厩戸豊聡耳命
厩戸皇子
豊耳聡聖徳
豊聡耳法大王
法主王
上宮太子聖徳皇
聖徳王
聖徳法王
上宮聖徳法王
法王(主)大王
馬屋門(戸)皇子
85 :
日本@名無史さん:01/09/15 19:15
おいおい、聖徳がつくのをはずして、
厩戸と馬屋門をまとめてみよ。
いくつ残るんだか。
86 :
日本@名無史さん:01/09/15 19:54
何で聖徳がつくのを外す必要があるんだyo?
もしかしたらこいつ、聖徳がつかない通名が、実在したある人物の、同時代的な呼び名と思っているとか。
さぶ〜。
87 :
日本@名無史さん:01/09/15 19:59
↑ 凍え死ね
>>83は逆立の意味説明してみ。
捨て台詞じゃなくってさ(藁
89 :
日本@名無史さん:01/09/15 21:59
>>88 おまえがしてみ。
おまえが一番の脳足りん。
90 :
日本@名無史さん:01/09/15 22:24
生前にも聖徳が含まれる名前が使用されていたのですか??
91 :
日本@名無史さん:01/09/15 23:20
一万円札に聖徳太子の肖像をお願いします!
92 :
日本@名無史さん:01/09/16 00:57
一万円札に卑弥呼の肖像をお願いします!
・・・・・・どっちの卑弥呼?
93 :
日本@名無史さん:01/09/16 01:07
ぼうやははやくねようね。
95 :
日本@名無史さん:01/09/16 09:03
>>93 邪馬台国の「卑弥呼」と、(10年位前に人気のあった)アダルトビデオの「卑弥呼」さぁ。
AVの「卑弥呼」って、知らない人多いよね。
聖徳太子=蘇我善徳
=百済の法王
=新羅の金竜春(武烈王の父)
>>84 法隆寺釈迦三尊像の光背銘文にある上宮法皇がぬけてる。
>>95 あ、なるほど、そういうことか。
考えつかなかった。納得。
99 :
日本@名無史さん:01/09/16 20:55
天照大神すなわち卑弥呼ということだが、明治時代に天照大神の肖像のお札ってなかったかな?
だれか、おしえてくれ!もしも、卑弥呼(天照大神)のお札があれば復活だ!なくても、作れば良い!
100 :
日本@名無史さん:01/09/16 21:20
神功皇后じゃなかった?
101 :
日本@名無史さん:01/09/16 22:56
>>100 そうだ!そうだった!じゃあ卑弥呼のお札を作ろう!神功皇后でもいい!神功皇后
のは豊満でとてもいい!一万円札は聖徳太子で、5000円は神功皇后で、1000円は卑弥呼だ。
卑弥呼の肖像がないけど、神功皇后があるなら作れるだろ!
102 :
日本@名無史さん:01/09/16 23:26
聖徳太子はいなかった。
推古は男。
一万円札は神武天皇で、5000円は聖徳太子で、1000円徳川家康はだ。
104 :
日本@名無史さん:01/09/16 23:38
実は聖徳太子こそ倭の大王であった。
しかしながら、日本書紀は、藤原氏が
蘇我氏と上宮王家を滅亡させて、新しい
大王を擁立したなんて書けないので、
二重三重に嘘ついて事実を隠蔽したのだ。
(嘘その1)
「蘇我氏が山背大兄王を失脚させ死に至らしめた」
実は、中臣鎌足が、蘇我氏と同じ時期に倭王であった
山背大兄王を滅ぼし、代わりに軽皇子を擁立したのである。
(嘘その2)
「大化の改新の主人公は、中大兄皇子である」
実は、中臣鎌子と軽皇子が主人公であった。
中大兄皇子が主人公であったという話は、
後から皇室の歴史を飾るために付け加え
られたものである。
105 :
日本@名無史さん:01/09/16 23:42
106 :
名前をいれてちょ:01/09/16 23:43
聖徳太子と祭り上げて誰が得をしたのですか。
107 :
日本@名無史さん:01/09/16 23:47
西暦0000年の日本を語らなきゃ聖徳太子の謎はわからないな
108 :
日本@名無史さん:01/09/17 00:24
109 :
日本@名無史さん:01/09/17 00:31
それにしても蝦夷は変な名前だよな。
野蛮人という意味だろ。
ちょっと前に悪魔って名付けようとした
奴がいたけども。
110 :
日本@名無史さん:01/09/17 00:38
変じゃないってば。よくあるって。
怨霊史観によれば蝦夷にこそ
立派な名前を奉らなければいけないような
きがするのだが。
112 :
日本@名無史さん:01/09/17 03:24
>>95のチンポ厨房。
オナニーしている暇あったら、本居宣長、落合直澄を調べなさい。
113 :
日本@名無史さん:01/09/17 09:07
>>103 それでもいいけど、徳川家康はいい肖像がないな!へたに肖像があるからでっち上げれんし!
114 :
日本@名無史さん:01/09/17 13:09
>>109 「蝦夷」は中国の用字だけど、和語の「えみし」「えびす」「えぞ」は、みな
同じ emchiw とかいうアイヌ語で「自分」という意味の語の音訳だったと思うぞ。
「蝦夷」の「蝦」は「えびす」の「えび」から来てる?
「野蛮人」の意味は、あとから蔑視によりできた意味だろう(「熊襲」も同じ)。
115 :
日本@名無史さん:01/09/17 13:42
毛人と書いてえみしと読みます、よろしく。
116 :
日本@名無史さん:01/09/18 22:17
エビスビールと書いてエミシビールと呼びます、よろしく。
117 :
日本@名無史さん:01/09/24 23:38
聖徳太子伝説と景教の関係はどうなっているのでしょうか?
118 :
日本@名無史さん:01/09/28 18:39
「景教」というとキリスト教ネストリウス派だね。
聖徳太子vsネストリウス派なんて、雑誌ムーでも読んだことない。
興味あるのでage
119 :
日本@名無史さん:01/09/28 19:35
太子の伝承って、数十人のプロットライターがいれば作れそうだよね
神武天皇とかも
いや、もちろんフィクションってわけじゃないよ
半島から来た帰化人の伝承や
各時代の皇太子にまつわる伝承等を一気に詰め込んで
アレンジしたらああなったんじゃないかなぁ…?
原型はあるだろうけど、明らかに神がかったような
宗教者が当時の日本にもいたんだってことを
後世や、他国に示すために創作したものなんじゃないかと思います
120 :
日本@名無史さん:01/09/28 19:51
>>117 景教が中国に伝わったのは、635年にペルシャの僧オロボン(阿羅本)が
長安で布教を始めたのが最初だから、年代的にいっても聖徳太子とは
接点がないようよ。
121 :
日本@名無史さん:01/10/01 23:47
>>120 ところがちがうのです。
出生もふくめた聖徳太子伝説が完成した時期には伝わってきています。
>>121 世界史板で電波を流すのはやめましょう。
民俗・神話学板の日ユ同祖論スレにでも行って下さい。そのテの話がイヤってほど出てきますから。
123 :
日本@名無史さん:01/10/02 22:41
ニホンシイタ ナンデスケド.......
124 :
素朴なアズマ:01/10/04 06:21
聖徳太子って「日出る処の天子」で始まる国書を中国に送ったそうですが
太子は天子じゃないでしょ。官名詐称じゃないですか?
125 :
日本@名無史さん:01/10/04 19:51
ペ天子だったからかまわないのです。
「日出る処の天子」の国書を送ったのは「上宮法皇」じゃないかな。
「法皇」っていうのは仏法に帰依した天子ということでしょう。
そもそも法隆寺釈迦三尊像の光背銘文にでてくる「上宮法皇」とは
聖徳太子のことなんでしょうか?
127 :
日本@名無史さん:01/10/06 12:43
新スレ立てるまでもないと思うからここに書いとくけど、
11月にNHKで聖徳太子のドラマやるみたいよ。
128 :
日本@名無史さん:01/10/08 00:29
>仏法に帰依した天子
これって時代的にはどうなんだろう?
もっと後だと上皇(引退した天子)が仏門に入ったら法皇なんだけど
上宮法皇って引退した天子なの?
天子の時の名前は?
聖徳太子は同時に何人の話を聞けましたっけ?
130 :
日本@名無史さん:01/10/14 06:07
>>128 >これって時代的にはどうなんだろう?
法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日
上宮法皇枕病弗※于食王后仍以勞疾並著於床(後略)。
法隆寺釈迦三尊像の光背銘文にでてくる「法興」という年号があります。
法興年間は591〜622年にあたります。
隋書倭国伝は開皇二十年(600)〜大業四年(608)だからこの時代に「上宮法皇」が
「日出る処の天子」とか「海東の菩薩天子」を称した阿毎多利思北孤であった可能性が高いと思う。
>上宮法皇って引退した天子なの?
上宮法皇と実在の危ぶまれるNo.2の聖徳太子はまったくの別人と考える。
光背銘文に上宮法皇の母親を「太后」、夫人を「王后」と書いていますが、これらは
No.1の天子(倭国王)の母親、夫人につかう字でなないでしょうか?
それと法(皇)をなのる人物はやっぱり仏法に帰依した天子
もしくは仏門にはいった天子では?どうでしょう?
131 :
日本@名無史さん:01/10/28 20:49
上宮法皇が馬子だったのではないかな
消された歴史は難しい
132 :
日本@名無史さん:01/11/05 12:31
な〜んと、NHKは聖徳太子を実在人物としてTVドラマ放映するらしい!!
これでまた多くの人民が間違った知識を
133 :
日本@名無史さん:01/11/05 16:48
上宮聖徳法王帝説
134 :
日本@名無史さん:01/11/05 22:43
聖徳太子を葬った人間は、竹下登!こやつは何一つ碌なことはしなかった!
135 :
日本@名無史さん:01/11/05 23:57
3日に番宣を兼ねた(と思われる)歴史番組の放送があったけど、
あれは内容に問題があるなあ・・・。
天寿国繍帳の復元が番組の目玉だったけど、あれは後世の偽作
の可能性が高い。少なくとも、天寿国繍帳の銘文はまず間違いなく
後世の捏造。
天寿国繍帳の銘文で使用されている暦法は儀鳳暦なのだけど、
これが日本で使用されたのは690年以降のこと。儀鳳暦とは唐の
麟徳暦のことで、唐で麟徳暦が施行されたのは665年のこと。
136 :
日本@名無史さん:01/11/07 23:49
>>135 C14はやってないの?
新しい年代がでれば、ほぼ確実に偽作といえそうだけど。
137 :
日本@名無史さん:01/11/08 00:39
聖徳太子は、新羅の金春秋と同人物ということが分からない馬鹿がいるな。
138 :
日本@名無史さん:01/11/08 00:46
そんなに長生きしたのか
古代天皇は、100歳を越える長寿だろ。
140 :
日本@名無史さん:01/11/08 01:05
>136
C14のことはよく分からないのだけど・・・
ちょっと検索してみたら、「C14年代測定法の紀元後のデータは補正の幅が大きく」
とあった。仮に天寿国繍帳が後世の偽作だったとしても、聖徳太子没後百年以内に
作られた可能性もあり、そうも年代差があるわけではないので、決め手にはならない
かもしれない。
141 :
日本@名無史さん:01/11/08 03:52
いずれにしろ、何の歴史的検証をしなかった段階で、あの番組は
“歴史モノ”ではないでしょう。
そもそも復元した天寿国繍帳っだって想像の産物でしかないし。
けど、視聴者もそこんとこはわかってるんじゃない?
142 :
日本@名無史さん :01/11/08 04:25
なんで、また田向なんだ。NHKはせっかくの素材を
糞料理にしてしまった!
143 :
日本@名無史さん:01/11/11 18:29
聖徳太子の伝説がつくられたころには、
ちょうどキリスト教(正確には景教)が東アジアにも伝わってきてますね。
聖徳太子は、金春秋を模して後生に作られた伝説というのが、定説だね
145 :
日本@名無史さん:01/11/15 02:09
◆ 反論 ◆
聖徳太子が、地球儀を持ってたり、騎馬を好んだり、
牛乳がすきだったり、花郎(ファラン)の戦士を重用したり、
ネストリゥス派キリスト教の情報も得ていたりする逸話を根拠に、
太子自身が渡来したんじゃないか?などと考えるロマンチストが
いらっしゃる。
維新期にも匹敵する、推古朝の開国された風潮を、
奇説論者たちは、理解していない。
あの時代、日本(倭)の有力者たちは、
大陸や半島の文化人や技術者から、多くを輸入した。
146 :
日本@名無史さん:01/11/19 02:56
NHKの「聖徳太子」で、大和朝廷の人たちが百済語を喋っていたんですが、
あれって事実なんですか?また、当時の百済語って再現可能なんでしょうか?
147 :
日本@名無史さん:01/11/24 22:35
百済語?ほんとにしゃべってたの?
148 :
日本@名無史さん:01/11/24 22:56
もっくんの聖徳太子かっこよかった〜。
149 :
日本@名無史さん:
大山誠一はdデモ作家と心得て置いた方がいい。