心に残った辞世の句

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1日本@名無史さん
なんとなく2chの余命もいくばくもない雰囲気ですが
それにふさわしい話題を。
日本史上心に残った辞世の句って何ですか。
一番有名なのは豊臣秀吉の
「つゆとをちつゆときへにしわかみかな
       なにわのことはゆめのまたゆめ」
ですかね。
2吉田松陰の:01/08/26 13:52
これも辞世の句でしたっけ?
留魂禄の冒頭の一句
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
しびれるね。
3上杉謙信の:01/08/26 14:11
四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒
4日本@名無史さん :01/08/26 18:01
辞世の句っていつ頃から詠まれ始めたのだろうか。
現存する最古の辞世の句って誰?
5日本@名無史さん:01/08/26 18:05
俺は高杉晋作の

「おもしろきこもなき世をおもしろく・・・」

だな。
6日本@名無史さん:01/08/26 18:10
>>5
同意。
むしろ最後の七七の句を付け足さない未完のままがいいね。
モ−ツアルトのレクイエムと同じで。
75:01/08/26 18:38 ID:aCdcnBlw
>>6
たしか、臨終を看取った尼さんが続きに

「すみなすものは心なりけり」

ってつけたんだよね?
それで高杉晋作がニヤって藁って死んだって聞いた。
8日本@名無史さん:01/08/27 08:39 ID:iru8LTPU
>>4
 有馬皇子も詠んでたはずだからそれよりは前だと思うけど。
9日本@名無史さん :01/08/27 09:45 ID:YfaOCjms
徳川家康って辞世の句ってあったっけ。
戦国武将とか思ったより詠んだ人少ない?
10日本@名無史さん:01/08/27 10:14 ID:qFdaRb9c
>>9
「先に行く あとに残るも 同じこと 連れていけぬを わかれとぞ思う」

って家康の句じゃなかったっけ?

あと蛇足ながら石田三成は
「筑摩江や 芦間に灯す かがりびと ともに消えゆく わが身なりけり」
11日本@名無史さん:01/08/27 10:25 ID:xGmOMQ/U
陸軍大将阿南惟 昭和二十年八月十五日 自刃

「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル。昭和二十年八月十四日夜陸軍大将阿南惟幾
 神州不滅ヲ確認シツツ」

辞世
 大君の深き恵に 浴みし身は 言い残すべき 片言もなし
12車持娘子:01/08/27 10:30 ID:ZjtzbtLg
我が命は惜しくもあらずさにつらふ君によりてそ長く欲りせし
13日本@名無史さん:01/08/27 10:34 ID:PGHcVNu6
足利義輝の奴が好きだったな。よく覚えてないが。誰か補完してくれ
14日本@名無史さん:01/08/27 11:13 ID:S349KvBg
>>13
五月雨はつゆかなみだか時鳥 わが名をあげよ雲の上まで
15日本@名無史さん:01/08/27 11:22 ID:z75Vf9Nw
大内義隆 44歳
さかならぬきみのうき名を留めをき
世にうらめしき春のうら波
討人も討るゝ人も諸共に
如露亦如電応作如是観
16日本@名無史さん:01/08/27 11:25 ID:z75Vf9Nw

順逆二門に無し
大道心源に徹す
五十五年の夢覚め来れば
一元に帰す
17日本@名無史さん:01/08/27 14:08 ID:/.YwUGI6

明智光秀ですね〜。
日和見で裏切った筒井順けいを恨んだと言うけど、
ホントですかね。
光秀さんはどちらかというと
ときは今雨が下知る五月かな
の方が有名ですね。
18日本@名無史さん:01/08/27 14:43 ID:LJ/OXGlM
散り残るもみぢはことにいとおしき亜希の名残はこればかりぞと・
19日本@名無史さん:01/08/27 14:43 ID:di39mhEU
>>13
五月雨は
つゆかなみだか
時鳥
わが名をあげよ
雲の上まで

だよ。
20日本@名無史さん:01/08/27 22:47 ID:tszU9Jj2
>>10
家康にしては素直っていうか、ひねりがないというか。
秀吉の方が凝ってますね。
21現代尊皇派:01/08/27 23:06 ID:nSLlF.dw
おもしろきこともなき世をおもしろく

高杉晋作
22日本@名無史さん:01/08/27 23:12 ID:AfiBDM6s
「願わくは 桜の見ゆる 春死なむ」
ご存知の通り西行の辞世の句だが、これを絶叫しながら死んだやつがいる。
戦国期の島津本家。現在の鹿児島県の加治木町周辺しか領地が無く、
各分家から攻められ孤立無援、屋敷に火を放って泣きながら絶叫して自刃。
もともとの句のイメージからかけ離れているし、そもそも自作ですらない。
でも、かえって真実味がある。よくこの状態から100年も経ずして九州統一直前まで行ったものだ。
23日本@名無史さん:01/08/28 01:31 ID:XzZztgJM
家老衆は止めろ止めろと言われども
           止めて止まらぬこのゴスケかな

細川の殿様(忠利だっけか?)に殉死したお犬様係の小者の方の辞世だったよーな
24日本@名無史さん:01/08/28 01:44 ID:6S4DOL8A
「わが事も 全て了りぬいざさらば さらばさらばで はい左様なら」
陸軍大将 土肥原堅二 A級戦犯として死刑

「これでよし 百万年の 仮寝かな」
海軍中将 大西瀧治郎 特攻開始者

世間的には色々評価の分かれる人間だろうけど、これらの句は(・∀・)イイ!
25日本@名無史さん:01/08/28 23:16 ID:9NkD2ynY
秀吉の辞世の句なんか結構いけると思うけど
誰から習ったんだろうね。
26日本@名無史さん:01/08/29 23:42 ID:gSr.hgzY
>>4
万葉集に何編か政争に敗れた皇子の作品が入っている。
そのうちの一つではないか?
27test2:01/08/29 23:50 ID:vTIa5UMc
28日本@名無史さん:01/08/30 00:03 ID:PSIocViI
>26
大津皇子の辞世あたり古そうですね。(12さんの車持の娘
子の歌は時代がわかりませんが、万葉集の歌)
大津皇子のは、
「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
万葉集 巻三、416。皇子が謀反を計り自害させられたのは
686年でした。

辞世というと、何年か前の大河ドラマ『毛利元就』で、陶晴
賢が浜辺で斬られ、誰もいない砂の上にあおむけになって、
血を吐きながら辞世を詠むシーンがあったのには笑った(笑)。
誰があれを後世に伝えたのというのかい?
29日本@名無史さん:01/09/01 17:56 ID:BeIuwiXM
辞世の句を読むというのは日本固有の文化なのかな?
世界史ではあまり聞かないけど。
死の前にね中世ヨ−ロッパの騎士が詩を読んだり、
中国の武将が漢詩を読んだって話聞きませんねえ。
もし日本固有の文化だとしたら
相当評価されていいんじゃないだろうか。
30日本@名無史さん:01/09/01 19:16 ID:XNBh0kuw
金鳥 西舎に臨み、 鼓声 短命を催す。
泉路 賓主なく、 此夕 誰が家にか向ふ 。 大津皇子

衛鼓 人を侵すに急、 西傾 日は斜めならんとす。
黄泉 旅店なし、今夜 誰が家に宿る。 後周 江為

撃鼓 人命を促し、頭をめぐらせば 日は斜めなり。
黄泉に一店なく、今宵 何の家にか宿る 朝鮮 成三問
31:01/09/01 19:29 ID:XZKFH1Yo
死ぬ間際にちゃんとした歌が詠めるかな。
死期が近いと思ったらあらかじめ用意しておくものなのかな。。。
32日本@名無史さん:01/09/01 19:55 ID:LUN2Mz6U
>>30
朝鮮、中国でもあったのか。
後周は南北朝時代の6世紀くらいだな。
ということは辞世の句も渡来してきたものなのか。
それにしても2番目と3番目の詩よく似ているね。
というよりパクリに近い?
33日本@名無史さん:01/09/01 20:18 ID:9gGvDeW.
>>30
>>32
というより30は大津皇子の辞世の句の元ネタが
中国、朝鮮の漢詩だってことを言ってるだけなんじゃない?
34悲しきかな・・:01/09/01 22:18 ID:sSgIzXCI
辞世の句スレ、前から立てたかったんだYO!
気付いたら立てられてたYO!
ついでだから・・・
辞世の句じゃないんだけど、前9年の役の時の

年を経た 糸の乱れの苦しさに 衣のたてはほころびにけり

かな。
1番すきなのは1の書き込みの通り秀吉の句かな。
なんか寂しさを感じさせるところがイイ!
35日本@名無史さん:01/09/01 22:28 ID:eXUZTYUc
「帰らじと かねて思えば梓弓 亡き数に入る 名をぞ留むる」
この、楠木正行の辞世が好きです。
36ハマヘル好き:01/09/01 22:29 ID:wOb2v2RI
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
伊達政宗 
37日本@名無しさん:01/09/01 22:38 ID:cHrmOsqI
あらたのし 思いは晴るる 身は捨つる
            浮世の月に かかる雲なし
                            大石内臓助
38日本@名無史さん:01/09/01 22:43 ID:jRDcz3UI
わが生涯に一片の悔いなし!!

ってのは冗談で、

「板垣死すとも自由は死せず」
かな。
まぁ、本人が言った訳ではないらしいけど、後々まで遺志を受け継ぐって感じ
がいいです。(我が巨人軍は〜ってのも同じか)
39日本@名無史さん :01/09/01 22:55 ID:KAbX6CIg
板垣さんはその後死んでないよ。
というかこのセリフ自体本人が言ったか信憑性が
疑われているらしい。
4030より。。。:01/09/02 06:48 ID:3NyxvUho
>>32 >>33
良いとこ突いたけど、チョットおしいね。南北朝のは「北周」で、
「後周」は五代十国時代だから十世紀。
朝鮮の成三問のは何時頃か。。。ここには朝鮮史に詳しい人が多
いようだから誰か答えて!(朝鮮では教科書に書いてあるかな?)

それから漢詩においては、「パクリ」は深い教養を示すものとし
て、称賛されても非難されることはないので念の為にネ。
41日本@名無史さん:01/09/02 07:20 ID:f1wgiLjU
30みたいなのはホイホイでてくる
アナタの教養もたいしたもんだ
42香川の1です:01/09/02 08:34 ID:bskP2G.6
>>38 板垣さんは刺された時、「いたっ」とだけ言ったらしいよ。
それを新聞が勝手にせりふを付け加えただけ。
「いたっ・・・・・・がき死すとも自由は死せず。」
4330さんへ:01/09/02 10:11 ID:PxpjVHV6
>>32 >>33 >>40
30さん、間違いの指摘どうもありがとう。
あ−、やっぱり朝鮮半島経由で渡来してきたんだっていう
早とちりの頭で書き込みしたため「後周」と「北周」をチェックせず
間違ってしまった。
しかし問題の漢詩が10世紀頃とすると大津皇子の方が早いことになる。
これはどういうことなんだろうか。
逆に日本→朝鮮→中国の経由でもたらされたのか、
それともの三人の作者以外に>>30と同じような詩があって
それをベ−スにしたのか。
どう考えても同じ詩を知っていたとしか思えないくらいよく似ている。
44日本@名無史さん:01/09/02 11:54 ID:tD0p9z72
>>43
おっしゃるとおり、この漢詩製作時代で比較すると 日本→中国→朝鮮になります。
しかし、この様な流れを想定するのは少し無理がありますし、これらの漢詩が夫々独立して
製作されたと考えるのもやはり困難でしょう。
(仮にこれが朝鮮→日本であれば、間違いなく韓国学者は大津皇子のパクリだって言うでし
ょうけどネ!)

とすれば、後者のこれらの元となった漢詩があったと想定するのが、もっとも蓋然性が高い
と思われます。しかし僕の知る限りこの元漢詩は発見されていなようですネ。
とすれば、大津皇子は現存しないレベルの元漢詩を知っていた可能性があり、彼の漢詩に関
する教養がただならぬものだった(モチロン当時の中央貴族全般について)ことを物語って
いるように思います。

こういった問題は、聖徳太子の三経義疎についてもあるのですが、ここに聖徳太子より後世
の人物による解釈らしいものが記述されているからと言って、それは現存しない共通の元解
釈があったからかも知れないので、必ずしも三経義疎が後世の偽書だとは言い切れない。
テキストクリティークの難しさですね。。。(スレ違いのことをいってスミマセン)
45伊達マサムネ:01/09/02 12:49 ID:Fdkav3W.
漢詩だけど「馬上少年過ぐ(中略)楽しまずんばこれ如何」
ってのが好きだね。彼の人生を物語っている。
46日本@名無史さん :01/09/02 12:53 ID:Ycdd45jc
>>45
ぜひ全文を
47アナーキスト:01/09/02 16:14 ID:UJNnLXG2

上州博徒・大前田英五郎辞世之句
「あら嬉れし行く先知れぬ死出の旅」
稲川会上州大前田一家八代目総長、小田建夫 現在住吉と抗争中
平成十三年夏終幕
アウトロースレ閉鎖
2ちゃんねる閉鎖直前
株価一万円割れ寸前
上州大胡、大前田英五郎墓前にて我無言
48アナーキスト:01/09/02 16:28 ID:UJNnLXG2
「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」
BY仁義の墓場 石川力夫
49日本@名無史さん:01/09/05 21:42 ID:.Qmpo6c6
蒲生氏郷の辞世の句知ってる人いませんか。
戦国大名らしくない美しい風雅な句だったと
記憶していますが、句自体は忘れてしまった。
どうしても思い出せない。
50片倉小十郎:01/09/05 21:56 ID:P0j7L1Sw
馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何
51世界史だけど最高:01/09/05 22:49 ID:1W3CQSrA
力抜山兮気蓋世  力は山を抜き気は世を蓋う
時不利兮騅不逝  時に利あらず騅ゆかず
騅不逝兮可奈可  騅のゆかざる、いかんすべき
虞兮虞兮奈若何  虞や虞やなんじをいかんせん
52日本@名無史さん:01/09/05 22:53 ID:0dFw7K2g
>>51
項羽を忘れてましたね。
53日本@名無史さん:01/09/05 23:00 ID:lAY1JGz2
>>49
 蒲生氏郷の辞世

限りあればふかねど花は散りぬるを 心短き春の山風


だったと思うが漢字変換は間違ってるかも……
54日本@名無史さん:01/09/06 06:58 ID:bA9fq1Zo
>>53
ありがとう!
 
55日本@名無史さん:01/09/06 09:55 ID:E3xE6Tks
ものすごくメジャーで申し訳ないんですけどやっぱり在原業平の
「きのうけふとはおもはざりけり」かなぁ、、、
56勝海舟:01/09/06 10:28 ID:BfPAi9gc
辞世の句ではないけど最後の言葉
「これでおしまい。」
57日本@名無史さん:01/09/06 13:03 ID:9eFbgmEU
「板垣死すとも・・・」と言ったのは松本魯一だよ。
58松尾芭蕉:01/09/06 13:23 ID:/YtuLBB.
旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け巡る
59日本@名無史さん:01/09/06 16:24 ID:qW7hGfHc
「君がため 尽くす忠義 は 水の泡 消しにし後は澄み渡る空」岡田以蔵
気持ちは良く伝わるけど、こんな教養のあった人だろうか?
60日本@名無史さん:01/09/06 23:26
>>59
以蔵の死に方からして辞世の句を読む時間があったのだろうか。
最後の七七はすがすがしくて竜馬っぽい感じだね。
短歌に触れる機会があったとすれば武市と京都で活動していた頃かな。
それ以外には落ち着いてそういうものをたしなむ時期も見あたらないし。
61日本@名無史さん:01/09/07 00:12
こうしてみると辞世の句は
人生無常型と人生完遂型の2種類に分けられそうだね。
62日本@名無史さん:01/09/07 00:27
辞世の句とちょっとちゃうけどな、東郷茂徳の
「いざ児らよ 戦うなかれ 戦わば 勝つべきものぞ ゆめな忘れそ」
は、戦争回避に努めたA級戦犯のリアルさがよい。
63日本@名無史さん:01/09/10 09:15
「大博打 元も子もなく すってんてん」甘粕正彦
甘粕が「ラストエンペラー」に出てきたような人物なら納得できるが、
どうもこの句はうそ臭い気がする。あくまで主観だけど。
64日本@名無史さん:01/09/11 06:54
50は政宗だろ…?
65日本@名無史さん:01/09/12 23:56
>>63
甘粕氏、わかりやすい詩だけど
風情ある歌心全くゼロだね。
66日本@名無史さん:01/09/15 00:50
辞世の句って日本に固有のものですか。
詳しい人解説お願い!
67日本@名無史さん:01/09/15 00:56
29 名前:日本@名無史さん 投稿日:01/09/01 17:56 ID:BeIuwiXM
辞世の句を読むというのは日本固有の文化なのかな?

おなじことを聞くなヴァカ! こんな短いスレさえ、前レスを読まんのか?
68日本@名無史さん:01/09/17 09:55
61がうまくまとめてくれているけど、最後に一発格好付けとこうって
感じの句も探せばありそう。
その人物(秀吉とか以蔵)にしては出来すぎの句とか。

「家あれども帰るを得ず、涙あれども泣く所を得ず」川島芳子
あたりは全然同情する気にならない句だ。
69日本@名無史さん :01/09/18 22:38
北条時宗の辞世の句って知ってる方います?
70日本@名無史さん:01/09/18 22:40
>>68
まあ彼女も歴史に翻弄されたということで
多少大目にみてあげませんか?
甘いかな?
71日本@名無史さん:01/09/18 22:51
甘粕の「大博打」の主語というのは、
甘粕自身の人生を指しているのか、
激動の満州国をさしているのか、
満州に国運をかけた日本を指しているか
よくわからない。
大日本帝国の辞世の句とすれば、
あまりにも的を得ていて哀しいものがある。
72ゲル:01/09/19 00:07
石川五右衛門の
石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ
73日本@名無史さん:01/09/19 00:19
三浦義同(道寸)
うつものも うたれるものも からわけよ
             くだけて後は ただの土くれ
74日本@名無史さん:01/09/19 00:25
細川ガラシャ

ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
75日本@名無史さん:01/09/19 00:27
おらは しんじまっただ けつのちを ふこう

                天皇ヒロヒト
76日本@名無史さん :01/09/19 00:28
>>73
道寸の句、無常型に属するものとしては飛び抜けて素晴らしいね。
戦国武将の定めとはいえ、これだけの句を作れる人を殺すのは
本当に惜しい。
77日本@名無史さん:01/09/19 00:33
>>74
そういえば女性の辞世の句ってあまり聞かないね。
どうしてですかね?
78日本@名無史さん:01/09/19 00:47
>>77
そうですね、辞世はあっても歴史に刻まれる人が圧倒的に少ないからでしょう。
私があと知っているのは「別所長治の北の方」くらい

もろともに消え果つるこそ嬉しけれ おくれ先立つならいなる世を
79日本@名無史さん:01/09/19 09:12
>>77
清少納言あたり残していてくれれば機知に富んだ面白い句が
あったのかもしれないが、
晩年についてほとんど消息が知られていないし。
紫式部のはあるのか?
彼女もなにげに晩年の消息は分からないところが多いのだろうか。
あと和泉式部とかその他の人は?
ここまでくると短歌スレで聞いた方がいいのかな?
残ってないということは平安時代などは辞世の句っていうものは
あまり意識されてなかったという認識でいいのかな。
80日本@名無史さん:01/09/19 11:07
徳川家康

辞世じゃないかもしれないけど
「人生とは重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」
ていう言葉が心に残る
8111:01/09/19 17:00
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   http://www.mionet.com/downup/top0006.htm
82名無し:01/09/19 22:03
>77
小生の祖母は旧旗本の娘で、戦後88歳で亡くなりましたが、辞世を
残しています。その娘の伯母も残しました。
恐らく同じく娘の小生の母も用意しているでしょう。

武家の文化なのかもしれませんが、町人でも歌心のある人は残したのでは
ないかと思います。歌心は日本人なら皆同じですから。

小生も辞世を準備します。息子にも、いうつもりです。
83日本@名無史さん:01/09/19 22:25
荒木村重の正妻(名前忘れた)の辞世の句アップして。
84日本@名無史さん:01/09/19 22:40
荒木村重の正妻ってどういう人生送った人?
知らないので教えて。
村重謀反の時に殺された?
85日本@名無史さん:01/09/19 23:56
>>83

みがくべき心の月の曇らねば

    光と共に西へこそ行け
86日本@名無史さん:01/09/20 00:01
信長に謀反を起こした荒木村重が有岡城を脱出して毛利の元へ行く時期に詠んだ歌です。
「だし」という名前の女性で、落城した後に処刑されました。
死に際は潔かったそうです。
遠藤周作の「反逆」という小説に登場します。
8784:01/09/20 00:01
この辞世の句からすると村重謀反により捕らえられ
処刑されたみたいだね。
下の句は西の方(毛利)に出奔した村重を慕っている心情を
歌っているようですね(ただし以上は全て私見)。
88日本@名無史さん:01/09/20 00:15
旅に病んで夢は枯野をかけ巡る
松尾芭蕉
8963:01/09/20 09:27
>>71
超遅レススマソ。私は「大博打」は満州国だと思います。
甘粕は東条英機の後輩で同じくらい天皇陛下マンセーだったらしいので、
大杉事件で退役後も満州国で「お仕え」のつもりで頑張っていたんだと
思います。だからこそ満州国を「大博打」と最後に自虐的に喩えるとは
考えにくいので、うそ臭いと思ったわけです。(それに日本軍人なら教
養として、即興で一句詠むくらいのことは出来ると思うし)

>>ALL
横道にそれてすいません。軌道を元に戻してください。
90 :01/09/20 22:28
生くるまで生きたら死ぬであろうと思ふ  前田慶次郎
91日本@名無史さん:01/09/20 22:58
>>90
馬鹿丸出し>前田慶次
どーしても原哲夫の馬鹿慶次思い出す。
92日本@名無史さん:01/09/20 23:10
93日本@名無史さん:01/09/20 23:11
>>91
じゃあ来年の大河ドラマの及川ミッチ−の慶次で
口直しを(笑)。
94日本@名無史さん:01/09/20 23:16
>>92
結構同一スレあったんだね。
知らなかった。
でもこのスレが一番長く続きましたね。
95日本@名無史さん:01/09/21 23:52
>>80
この言葉は家康自身によるものではなく
後世の人が創作したということです。
ところで辞世の句に限らず家康の句って聞いたことないが。
短歌の類をたしなまない人だったのだろうか。
96日本@名無史さん:01/09/22 21:16
>>88
松尾芭蕉の辞世の句を詠むと
志半ばで病になってしまったような印象を受ける。
彼が「おくの細道」紀行を終えて次に目指したものは
何だったのでしょうか。
97沖雅也:01/09/23 00:21
「涅槃で待つ。」
98:01/09/23 00:24
なにか抜けてるよ。
99日本@名無史さん:01/09/26 01:59
>>82
82さんの話がネタでなければ
今時そんな人もいたんだ−と
結構感動的な話。
100千利休:01/09/26 16:53
提ぐる 我が得愚息の 一つ太刀
いま此の時ぞ 天に抛つ
101日本@名無史さん:01/09/26 17:17
かなり遅レスもありますが調べてたら引っかかったので。

>>1
秀吉の辞世は51歳の時のものらしいです。
没する12年も前にこんな心境になるものなのかな。

>>9
「嬉しやと 二度さめて 一眠り うき世の夢は 暁の空」

>>100
「 人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ) 吾這宝剣祖仏と共に殺す

              堤ぐる我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ天に抛」
102日本@名無史さん:01/09/26 22:23
>>101
秀吉の辞世の句の情報ソ−スは何ですか。
死ぬ12年前というと1586年でばりばりと天下統一に向かって
ばく進していた時期ですよね。
あの句は天下を統一して全てを手に入れた秀吉が
死ぬときには全てを手放してこの世を去らなければならないという
シュチュエ−ションがあって
始めて納得できるような気もしますが...
103日本@名無史さん:01/09/26 22:26
>>102
信長公記です。
104日本@名無史さん:01/09/26 22:40
>>103
レスありがとうございます。
信長公記を読めばわかることでしょうが
どのようなシュチュエ−ションで詠まれたのでしょうか。
105日本@名無史さん:01/09/26 23:33
>>13,>>19
違うよ!!
「五月雨は露か流れかほととぎす わが名をあげよ雲のうへまで」
足利幕府再興の夢が閉ざされた無念をうたっているね〜
義輝最高!!
106日本@名無史さん:01/09/27 09:07
>>101
秀吉の話はじめて知った。
というか知らなかったの俺だけ?
107101:01/09/27 19:55
>>102
一応、ソースです(ページの下のほう)
http://www.sousai.com/hp/institut/sekkei/sekkei4.htm
信頼できるかは?ですが・・・

>>103
信長公記にそれらしい記述ありましたっけ?
あるわけないような気が・・・
何巻のどのあたりか教えて頂けると有り難いです。

>>106
私も知りませんでした。
108日本@名無史さん:01/09/28 13:10
>>101の家康の辞世の意味が分かるような分からんような、、、
誰か解説お願いします。
109日本@名無史さん:01/09/28 13:19
>>7
遅レスだが
その下の句を詠んだのは
野村望東尼ではなかったか?
断定できずスマヌが
110日本@名無史さん:01/09/28 13:25
「雪霜に 色よく花の さきがけて 散りても後に 匂ふ梅が香」芹沢鴨

小指を噛み切ってその血で書いたところが句の意味とあいまって
いかにも天狗党らしいというか、木村継次だと思う。
実際に、これが辞世の句にはならなかったが。
111日本@名無史さん:01/09/28 16:28
>>14
>>19

 将軍家の復興に尽力し、松永一族郎党に非業の死を遂げた
彼のことと照らし合わせると……。うーん。……言葉がありません。
112日本@名無史さん:01/09/30 14:57
 
113日本@名無史さん:01/10/05 20:18
厳密には辞世ではないが
毛利元就が最晩年に詠んだ句(1571年3月 なお同年6月死亡)

友をえて 猶ぞうれしき桜花 昨日にかはるけふの色香は

観光で郡山城に行った記念に記す
114日本@名無史さん:01/10/05 20:34
≫109
そうそう、望東尼だった
死の床に居たんだから、晋作とも相当親交深かったのかな

晋作の辞世の句はらしくて好い。都都逸の作詞も最高だ。
115名無し:01/10/06 12:17
北条時頼のゲ(かつという字か):

「業鏡高懸37年、1槌打砕 大道坦然」
意味は「業の深い人生を37年送ってきたが、今その迷いも覚めた。
目の前に広い道が見える。心は静まり落ちついている」ということか。
ご専門の方どうぞ。
116日本@名無史さん:01/10/06 12:32

辞世の句でアラビア数字使うと趣を損なうなあ。
できれば漢数字で書いてくれ。
「業鏡高縣三十七年 一槌打砕 大道担然」
117日本@名無史さん:01/10/06 13:09
>>115
37年はそういう表記でもマチガイではないが
1槌は明らかなマチガイ。
一郎を1郎と表記するのと同じ事といえばわかるだろうか。
118日本@名無史さん:01/10/06 13:33
5代目の後は13代目から 有名なはなしなので既出だったらすまん
北条基時「待てしばし 死出の山辺の旅の道 同じく超えて憂き世語らん」
鎌倉攻防戦に出陣するにあたり詠んだとなってる。待てと止めたのは、その寸前
鎌倉に、滅亡の報が届いた六波羅探題北方の息子仲時のこと。
本当は他に元ネタの歌があるとのことかもしれませんが…。
息子をなくした50過ぎと思われる武将の気持ちがよく出てると思う。
119日本@名無史さん:01/10/06 20:31
>>97
沖雅也の待ってる人が日テレの「あの人は今」に出てた。
現在は新宿二丁目で喫茶店をやっているらしい。
しかし、あの二人がそういう関係だったとは...
想像できん。
120名無し:01/10/06 21:24
「珍重せよ大元3尺の剣、春風影裏電光を斬る」
これは元が支那を征服したとき、元の兵士に斬られた有名な仏教の僧侶の最後の
言葉でした。名前忘れたのでご助言お願いします。
121山田風太郎:01/10/06 21:30
いまわの際に言うべき一大事はなし。
122日本@名無史さん:01/10/06 22:02
死ぬる迄恋女房に惚れ候。すみ子今帰ったよーーー天皇陛下万歳
123日本@名無史さん:01/10/06 22:53
辞世の句ではないけど江藤新平の
”ただ皇天后土我が心を知るのみ”もすき。
124日本@名無史さん :01/10/06 23:37

江藤新平って処刑されてるでしょ。
辞世の句残ってそうだけど。
125歴史の勉強:01/10/07 03:34
「棄我百年命、報公一日恩」
「出門妻子贈寒衣、問我西行幾日帰、来時×黄金印、莫見蘇秦不下機」
「四大元無主、五薀悉皆空、西国生霊苦、今日斬春風」

(×は欠け字。人偏に「党」の旧字より成る。「仮に」という意味らしい)

一番上は、1333(正慶2)年の鎌倉合戦に際して金沢貞将(さだゆき)が北条高時に献じたもの。
もっとも、太平記に書かれているだけで、実作があるか疑わしいから、「伝説」の域を出ない。
下ふたつは、モンゴルから派遣された使節の辞世の詩。上が杜世忠、下が何文著のもの。
こういうものを作る教養人を、あっさり龍ノ口で処刑した北条政権の外交感覚を疑う。
126歴史の勉強:01/10/07 03:37
120は無学祖元が元兵に斬られそうになった時、とっさに読んだといわれる「臨刃偈」。
ゆえに、斬られた、とするのは誤り。
もっとも、昔の禅僧が作った詩を改作したらしい。
125の何文著の詩を比較せられたし。
127日本@名無史さん:01/10/07 10:16
>>122
122の句は誰の?
128歴史の勉強:01/10/07 12:22
122は、1936年の「2・26事件」に参加して、
処刑された陸軍将校の辞世だよ。
「澄子」は奥さんのこと。
129日本@名無史さん:01/10/07 12:28
ガイシュツだがガラシャの時世の句は好きだな

あとは別所長治の

今はただ 恨みもあらず 諸人の いのちにかわる わが身と思えば

も悲壮感があって好きだ
130   :01/10/07 12:36
宇野元首相が例の問題で退任したとき「明鏡止水」
131日本@名無史さん:01/10/07 12:51

これは故事成語からの引用だよね。
132歴史の勉強:01/10/07 13:49
つーか、死んだわけじゃないのに、辞世は大げさでは?
133日本@名無史さん:01/10/07 13:51
まあ、政治的に死んだということでセ−フということで..
134名無し:01/10/07 14:03
>126 ご教示、有難う御座いました。

>125 北条時宗が元の使者を斬った話は、子供の頃酷いと思った。
しかし、戦う以上、国内を見られたので、生かして帰すことは出来
なかったと知り納得した。

今の我々よりも賢いのである。
ただ日本人らしく気の毒に思って慰霊碑を建てている。

昔の使者というのは、実に命がけだったのだ。
交渉が不調なら、生きて帰れなかった。
135歴史の勉強:01/10/07 15:06
つーかさ、外交官殺すのはまずいって。
日本史上、外交使節を殺害した例って、これとシベリア干渉戦争時代だけじゃない?
シベリアに日本軍が駐屯した時、共産軍からの外交使節を何回か殺害したことがあるんだけど、
その報復として、ニコラエフスクの日本人が大量虐殺されたんですよ。
普通さあ、戦争中だって外交官は殺さないよ?
だって、豊臣秀吉の時は朝鮮の外交官を殺してないぜ?
136日本@名無史さん:01/10/07 20:35
「弓矢とるくにに生れし益良雄の
名をあらはさむときはこのとき」
明治大元帥陛下
と山本五十六元帥海軍大将
137日本@名無史さん:01/10/07 21:54
「出門妻子贈寒衣、問我西行幾日帰、来時×黄金印、莫見蘇秦不下機」

↑これって、なんで「西行」になるんですか?
蒙古から見て日本は東でしょ?
138歴史の勉強:01/10/07 22:21
よくわからんのですが、中公の「日本の歴史」第8巻にそうあったのです。
ここでは漢代に西域に派遣され、名を挙げた張騫の故事を踏まえてのもの
と考えるのが妥当ではないでしょうか?
もっとも、張騫に限らず、中国には西域の派遣される人を唱った詩が多いから。

「遠いところに派遣されるのに、妻子が暖かい服をくれたんだ、
みんなして、いつ帰ってくるか聞いたんだ、
でも、帰ることも、志を遂げることもできずに、死ぬことになってしまったよ」
という程度の意味ですから。
139歴史の勉強:01/10/08 11:48
返らじと、かねて思えば、梓弓、なき数にいる、名をぞとどむる

有名ですが、楠木正行が四条畷合戦で戦死する前に吉野に行って書いたとされる歌。
結果的に辞世になっちゃってますが、まあ名作ですので書き込んでおきましょう。
140日本@名無史さん:01/10/08 12:49
話が少しずれるけど楠木正行の墓って四条畷近くの私鉄の駅の
ホ−ムの中にあったんだけど(自分は関東在住)あれってどうして?
あんな雑然としたところに墓があるなんてちょっとショックだった。
詳しい事情を知っている人いたら教えて下さい。
141名無し:01/10/08 13:26
>135 気持ちはわかるけど、命がけだと結果が問題だ。
生き残るためにはなんでもしたんだよ。またしなくてはいけないんだよ。

モンゴルがサマルカンドを征服したとき、抵抗した都市の住民、老若男女、犬、
猫に至るまで、斬首し、それぞれの首のピラミッドを作ったと言う。
井戸は石をつめて、町は廃墟にした。
いまでも人々は亡霊が出ると恐れてその廃墟に近寄らないという。

モンゴルのバクダッド攻略。モンゴルに殺された無数のアラブ人の死骸が腐敗し、
モンゴル軍は疫病をおそれ、攻略後数ヶ月市中に入らなかったと言う。

こういう相手だからね。外国官も糸瓜も無いんだよ。
臨機応変が大切だ。先例を守っていたら、命が無い。
いまも同じだよ。
142日本@名無史さん:01/10/08 14:46
これでよし 百万年の 仮寝かな
大西瀧二郎海軍中将
143日本@名無史さん:01/10/08 15:32
吉野山 風に乱るる もみじ葉は
  我が打つ太刀の 血煙と見よ
              吉村寅太郎
144日本@名無史さん:01/10/08 15:56

下の句、他では見あたらないような血なまぐさい感じ。
天誅組の幹部らしいというか...
同情するというよりちょっとひいてしまうくらいの
鬼気というか殺気を感じてしまう。
145日本@名無史さん:01/10/08 19:41
146日本@名無史さん:01/10/08 21:36
辞世の句じゃないけど、土方が山南に向けて(だと言われている)句が好き。
土方のは憎めない句が多いなと思う
147日本@名無史さん:01/10/09 02:51
世の中の米と水とを汲み尽くし尽くして後は天津大空

島津義久の辞世の句。
別に薩摩マンセーじゃないけど何かイイ!
148日本@名無史さん:01/10/09 05:41
君がため 尽くす心は水の泡
  消にしあとは 澄み渡る空
      岡田以蔵
149歴史の勉強:01/10/09 19:32
ひさびさに見て思うが、三浦道寸の辞世は非常によくできている。
ああいう人物を殺すのは惜しい。
さらに惜しむらくは太田道灌の辞世がないことか?(暗殺じゃしょうがないか)
150日本@名無史さん:01/10/09 19:56
岡田以蔵って句のたしなみとかあったのか?
151日本@名無史さん:01/10/10 00:18
>>150
だな、これ>>148は結構イイとおもうが。ストレートだけど。
152日本@名無史さん:01/10/10 00:24
朝倉宗滴は詠んでないの?
153日本@名無史さん:01/10/10 16:35
「動かねば闇にへだつや花と水」沖田総司
下の句は有るんだろうか?
154日本@名無史さん:01/10/10 20:28
というか沖田の辞世ってあったんだ
155日本@名無史さん:01/10/10 20:33
当方滅亡!
156歴史の勉強:01/10/10 22:51
>155

ああ、道灌の辞世か!
曽我兵庫に浴室(んなもん、当時あったのかねえ?)で襲われた時の。
157ゲーテ:01/10/11 13:54
「もっと光を。」

この前に、
「カーテンを開けてくれ、」
と言った。

そんなことをどこかで見た記憶があるのです。
「カーテンを・・・」ではないかもしらんが、似たようなこと。
知っている人がいたら
詳細キボンヌ
158日本@名無史さん:01/10/11 14:04
「アッソ…」 by昭和天皇。まさかね(w
159沢庵:01/10/11 14:28
弟子達に辞世の句を、と言われたが断る。
散々渋った末、一筆。
「 夢 」
160日本@名無史さん:01/10/11 14:30
>>149,156

 これですよね。

  「昨日までまくめうしわをいれおきしへむなしふくろいまやぶりけむ」
        (もうそう)

  「かかる時さこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思い知らずば」

 何で2種類あるのかまでは不明。
161日本@名無史さん:01/10/11 14:32
世の中におしまるる時死にてこそ、花も花なれ色もありけり。
これは秀吉に水攻めに会った清水むねはるの辞世です。
162わしじゃ!:01/10/11 15:56
是非に及ばずじゃ!
163日本@名無史さん:01/10/11 19:20
>130
「明鏡止水」もっと前に誰か政治家が使ってなかったっけ?
164歴史の勉強:01/10/11 20:35
森鴎外の「ばかばかしい」はホントでしょうか?
165日本@名無史さん:01/10/11 21:11
>>152
義景は詠んでるが…。

七転八倒
四十年中
無駄無地
四大本空

だったと思う。うろ覚えにつき
間違い&ガイシュツの場合はスマソ。
166日本@名無史さん :01/10/11 21:20
>>161
清水宗治、備中高松城の一戦で後世まで名を残したよね。
「虎は死して皮を残し 人は死して名を残す」の言葉通り。
毛利は本当にいい家臣を持ったと思う。
ただ宗治について備中高松城での出来事より前の事は
何も知らないんです。
彼の前半生についてご存知の方いらっしゃいませんか。
ぜひ知りたいです。
167日本@名無史さん:01/10/11 21:54
>>166
あまりハッキリした事分かってないけど、ホイ。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/b_simizu.html

宗治の頃は完全には被官化されてないようですね。
つまりは高松城主の地位を安定させるために毛利と結んだと…。
確か子孫は維新後、男爵家になっていたと思います。

宗治の辞世には
  浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の
             名を高松の苔に残して
というのもあったと記憶してますが…一緒に死んだ兄貴のかも。
168166:01/10/11 22:59
167さん、どうもありがとう!
長年ひっかかっていたものが一気に取れた思いです。
清水氏は備中の国人衆だったのですか。
秀吉が大名に取り立てようとしていたとはやりそのますらおぶりを
秀吉も評価していたのですね。
それを断り毛利氏に忠実に仕え、碧蹄館の戦いでも活躍していたとは。
途中で断絶もせず、宗治の遺志を脈々と伝えていたとは嬉しい限りです。
169日本@名無史さん:01/10/14 01:47
このスレの資料うまくまとめることができたら
ちょっとした自由研究のネタになりそう。
ただ総論部分(辞世の句一般について)が薄いか。
その議論があまりありませんね。
170日本@名無史さん:01/10/14 20:36
さっき大河「時宗」でやっていた元の正使の辞世の句
よく聞いてなかった。
詳細わかる人いる?
あの時代、元でも辞世を詠むことは普通に行われていた事なのかね?
171日本@名無史さん:01/10/14 20:57
yomiuriサイトの「蒙古襲来」より

同年九月七日、杜世忠以下五人の使者は鎌倉の竜ノ口に引き出され、
衆人環視の中で全員首を刎ねられた。
杜世忠は死にのぞんで、次のような辞世の詩をしたため、
従容として死んだ。

―門を出ずるに妻子は寒衣を贈り
我に問う、西に行き幾日にして帰る
来たるときもし黄金の印を帯びたれば
蘇奏を見て機(はた)を下らざるなかりしをと

さすがに国使をつとめる人物だけあって杜世忠も副使の何文著も
詩文を詠み禅宗の心得もあるような男達だった。
副使の何文著は漢人で偈(げ)を残している。

―四大(しだい)、元(もと)主なく
五蘊(ごうん)、悉く皆空(くう)なり
両国生霊の苦
今日秋風を斬る

これなどは古人の有名な句を改作したものらしいが、
異国で果てる使者の心情がよくにじみ出ている。
鎌倉幕府は高麗人の通訳も含めて五人を斬首し、
それを市中のさらしものとした。
172歴史の勉強:01/10/14 21:04
>170
僕が125に書いておいたのが原文。

今日の大河じゃ末行の「不下機」が「不可機」になってなかった?
あとで再確認しようと思う。
173170:01/10/14 21:07
172さん、すまん。前レスよくさらってなかった。
174日本@名無史さん:01/10/14 21:16
>>172
「不下機」と「不可機」では意味がどう違ってくるのか
詳しく教えていただけませんか。
175歴史の勉強:01/10/14 21:20
中国語の「不」は動詞か形容詞の前に付いて、否定の意味を表す。
だから、「機」は動詞でなくてはならない。
しかし、「機」を動詞で使うことはあまりない。
この詩の「機」は「機会」程度の意味。
よって、「不下機」のほうが文意は通る。
176日本@名無史さん:01/10/20 17:28
今日の放送で字幕が「不可機」になっていたのを確認。
177歴史の勉強:01/10/20 20:58
再々言うことになるけど、杜世忠の辞世、
次の再放送もしくはビデオ化までに訂正しておいてほしい。
話の流れから言うと字幕の必要はないと思うんだが、
あえて出したからにはちゃんと責任とってほしい。
まして辞世だし。

だってさ、将来大河「北条早雲」が作られる時、三浦道寸の辞世が、
「討つ者も、討たれる者も、『かわやけ』よ、」
とかなってたら、すげー嫌じゃん?
178快川 紹喜:01/10/20 23:34
心頭滅却すれば火もまた涼し!
179吉田 松蔭:01/10/20 23:37
親を思う心に勝る親心 けふの音づれ何ときくらん(親兄弟当て)
180伊藤 博文:01/10/20 23:38
あの馬鹿野郎が!
181太宰 治:01/10/20 23:40
池水は濁りににごり 藤なみの影も映らず 雨ふりしきる
182北条 早雲:01/10/20 23:41
俺でなくては!
183乃木 希典:01/10/20 23:48
神あかりあかりましぬる大君の みあとはるかにをろかみまつる

うつし世を神さりましし大君の あとしたがひて我はゆくなり
184榎本 健一:01/10/20 23:49
おおい、俺もうダメだよ。どうもありがとう
185日本@名無史さん :01/10/20 23:49
>>180

マジ?
186William,Kidd:01/10/20 23:51
今日はまったく気まぐれな、何も信じられない時代だぜ
187日本@名無史さん:01/10/20 23:56
>>185
ハルビン駅で胸部を撃たれその場に倒れた時、付き添い
から犯人が朝鮮愛国主義者の安重根という男と知らされたとき
吐き捨てる様に言って不帰の人となった。
188東条 英機:01/10/21 00:01
たとへ身は千々に裂くとも およばじな栄しみ世をおとせし罪は
189日本@名無史さん:01/10/21 00:16
そもそも辞世には二つの淵源があった。一つは中国の臨刑詩であり、
もう一つは僧における遺偈にある。・・・中西進著「辞世のことば」
190日本@名無史さん:01/10/21 00:23
>>182
出典は何ですか?
191日本@名無史さん:01/10/21 00:54
>>189
それってどこの出版社から出てますか。
辞世の句について網羅的に記した本がなかなか見つからないので
読んでみたいです。
その他にそういう本を知っている方がいたら教えて下さい。
192日本@名無史さん:01/10/21 01:07
風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせむ
193日本@名無史さん:01/10/21 01:21
>>191
中公新書(中央公論社)。
194日本@名無史さん:01/10/21 02:27
すがすがし花の盛りにさきがけて玉と砕けむ大丈夫は
死するともなほしするとも我が魂よ永久にとどまり御国まもらせ

享年二十二歳 緒方襄 海軍少佐
195日本@名無史さん:01/10/21 08:20
>>190
『臨終のことば』 PHP文庫
196日本@名無史さん:01/10/21 10:38
>>194
いい意味でも悪い意味でも今の世の中こんな心情の22歳いないよね。
197日本@名無史さん:01/10/21 10:56
ますらおのますせんずれば
   男塾一号生 富樫
198日本@名無史さん:01/10/21 10:58
世紀の遺書
199日本@名無史さん:01/10/21 11:23
ホントは辞世と呼ぶべきじゃないだろうが、
「太平記」第21巻『先帝崩御事』より、

「玉骨はたとえ南山の苔に埋ずもるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」

これを漢訳すると、

玉骨縦埋南山苔
魂魄常望北闕天

となり、辞世ともとれなくない。
200歴史の勉強:01/10/21 11:24
よっしゃ!
200ゲットー!
201日本@名無史さん:01/10/21 12:32
>>199
後醍醐帝のようなことを死ぬときに言う人ちらほらいるよね。
徳川家康とか諸葛亮とか。
後醍醐帝のベ−スはやり三国志諸葛亮なのかな?
202日本@名無史さん:01/10/21 19:36
>>186
186はどういう人ですか?
203日本@名無史さん:01/10/21 20:09
>>202
イギリス王立(?)の大海賊キャプテン・キッドでしょ?
204森鴎外:01/10/21 21:01
>>164
余は石見人森太郎として死せんと欲す・宮内省、陸軍皆縁あれども、生死の別るる
瞬間、あらゆる外形的取扱いを辞す。森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎墓
の外一字もほるべからず。宮内省、陸軍の栄典は、絶対に取りやめを請う

・・・・時世の句じゃないけど遺書です。
205日本@名無史さん:01/10/21 21:07
森林太郎さんのお墓、東京の三鷹禅林寺にありますね。
ほぼ真向かいに太宰治墓。
206Johann,Goethe:01/10/21 21:20
>>157
俺「今日は何日だね?」
秘書「(3月)22日です」
俺「さあ、よろい戸を開けなさい」

俺「光をもっと、光を」
・・・・・沈黙・・・・・

後世の創作
「あの美しい女の顔が見えないのかね!黒い巻き髪・・すばらしい肌をした・・
 あそこに、あの暗がりをバックにして・・・さあ、よろい戸を開けなさい。
 光をもっと、もっと光を!」
207在原業平:01/10/22 18:42

つひにゆく道とはかねてききしかど
      きのふけふとは思はざりしを
208日本@名無史さん :01/10/22 21:42
「なよ竹の 風にまかせる 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」
前NHKでやってた「街道を行く」シリーズの「奥州」の回ででてきた、
戊辰戦争のときに一家そろって自刀した武士の妻の辞世の句。
武士の妻の凄みを感じる句で忘れられません。
209新門辰五郎:01/10/23 00:06
おもいおく まぐろの刺身 河豚の汁
 ふっくらぼぼに どぶろくの味

なんとも洒落っけのある辞世で。
210日本@名無史さん:01/10/23 01:04
私はこの目でローマを見た中浦ジュリアンだ!
逆さずりにされて棄教をせまられるが、こう言って殉教した。
211日本@名無史さん:01/10/23 02:34
カントの最後の言葉は”Es ist gut”、
つまり「うまい」と言った。
死ぬ前にぶどう酒か何かのませてもらったらしい。
漱石も似たようなシチュエーションだった記憶あり。
212三島由紀夫:01/10/23 02:40
・益荒男が たばさむ太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

・散るをいとふ 世にも人にもさきがけて 散るこそ花と 吹く小夜風

これは文学者の最後の”作品”として見たらどうなんだろ。
213こぶへいのおやじ:01/10/23 03:10
危篤状態で入院中、家族が何を問い掛けても無反応
「あなた!自分が誰かわかるの?」

「・・・」

「田村マサカズ」

ち〜ん、ご臨終です。

真の芸人だNE!
214元三浦市住民:01/10/23 03:31
三浦道寸の辞世の句って
油壺マリンパークの駐車場の奥に句碑があったね

ちなみに油壺という地名も、その時の戦いの血で海が油を捲いたようになったからと
言われているとか
コジツケっぽいけどね

辞世、ではないが、いいなと思うのは西行法師の晩年の句
「捨て果てて 身儚きものと思いしも 雪の降る日は寒くこそあれ」
215大学生:01/10/23 06:54
>231

「加山雄三!!!」

じゃなかったっっけ?
こぶちゃんの親父さん、林家三平の最後のことばは。
216日本@名無史さん:01/10/23 12:08
「魁けてまたさきがけん死出の山 迷ひはせまじすめらぎの道」清河八郎
本人は死ぬ気は無かったけど、詠んだ夜に殺されちゃってる。
湧き上がる意気込みと、あっけない中断が好対照の皮肉な一句だと思う。
映画「暗殺」で演じた若き日の丹波哲郎がカコ良すぎ。
217こぶへいのおやじ:01/10/24 01:11
>>215
少年隊がテレビの中でいってたのはマサカズだったよ。
少年隊の勘違い?
218名無し:01/10/27 22:54
>171 北条時宗が元の降伏要求の使者を斬ったのは理屈に合っている。
戦う以上、敵に内情を見せて返すことは危険だったのである。

これは当時の世界の常識だった。
フラグがエジプトのマムルーク朝に降伏要求の使者を送ったとき、マムルークは
口上を述べさせたあと、即座に使者を斬首した。
こうして戦闘の用意をしたのである。
モンゴル側も敵のこうした対応は常識だったのだろう。

今とは時代が違う。甘くなかったのである。昔の武将は賢いのだ。
219大学生:01/10/28 11:46
>217
こぶちゃんがテレビで言ってたのが「加山雄三!」だった気がするんですよ。
病室で昏睡状態の三平師匠が突如上半身を起こし、
「加山雄三!」
と、禅僧さながらの大喝を発したらしい。
さすが芸人……芸に対しては一切妥協なし!
横山のヤッさんみたいだなあ、と。
220蕪村:01/10/28 20:14
 白梅の明け(く)る夜ばかりとなりにけり
達観が窺え、芭蕉の辞世と対比されます
221日本@名無史さん:01/10/29 01:29
220さん、TV東京系でやってる「美の巨人たち」って番組
知ってます?
あれで与謝蕪村がとりあげられた回があってとてもよかったですよ。
蕪村の辞世の句を見てあの時紹介された絵を思い出しました。
222日本@名無史さん:01/10/29 01:34
>>219
確かに芸人としてはよく言ったという感じなんだろうが
加山雄三本人としては微妙なものがあるような気もする。
何も俺の名前を叫んで死ななくても..みたいな。
加山雄三のコメントとか残ってないんですか。
あったら知りたいです。
223さるぼぼ:01/10/29 02:01
既出だったらごめん。
「吉野山 風に乱るる もみじ葉は
     我が打つ太刀の 血煙りと見よ」
224日本@名無史さん:01/10/29 02:06

吉村寅太郎辞世は何回か既出。
でも何回も紹介されるということはそれだけ人気が高い
辞世の証なんだろうな。
225日本@名無史さん:01/10/29 09:29
播磨国三木城主 別所長治の辞世の句
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代わる 我が身を思へば」
2年以上の篭城を続け、力の限り戦い、最後は別所一族の命と引換えに
城兵の助命を取り付けた。
立派な武将であると思う。
彼が死んだのは20台後半。
現代の我々ではここまで覚悟が出来るだろうか。
226蕪村:01/10/29 15:14
>194
22才で少佐とは本当でしょうか、恐らく戦死の特進でしょうが2階級でも
中尉ですから早すぎるのでは
>221さん
こちらはTV大阪ですが見たことないです・
227221:01/10/29 19:28
「蕪村」さん、「美の巨人たち」大阪ではやってないのですか。
それでは番組HPもありますので
検索HPでTV東京「美の巨人たち」で探してみて下さい。
スレ違いですが30分で一枚の絵についてじっくりと解説する
民放には(?)珍しい文化的香り高い番組です。
228日本@名無史さん:01/10/29 21:09
>>226
士官学校をでると少尉に任官されて
その後、1年ぐらいで中尉になるんじゃなかったっけ。
229 :01/10/29 22:58
織田信孝の
「むかしより 主をうつみの 野間なれば
 報いを待てや 羽柴筑前」
ってのもなんか鬼気迫る物があったな。
230蕪村:01/10/30 00:43
士官学校はよく知りませんが海軍兵学校の卒業年齢は18〜19歳と思います
陸軍大学を卒業なら今の学齢と一致しそうな気もしますが
それでも最初は任少尉でしょうと思われます
納得いかない人事です
231日本@名無史さん:01/10/30 02:46
1の辞世の句
はべジータのですね。
232坂井三郎:01/10/30 19:48
もう眠っていいか?
233M.Ts ◆bJNtyUaM :01/10/30 23:12

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ
 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ
 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ
 俺タチハソノ先導ニナルノダ
 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

臼淵大尉
太平洋戦争末期、戦艦大和の水上特攻時の最後の言葉
取り様によっては辞世の句と取れるのでアプします
234日本@名無史さん:01/11/01 19:08
233の言葉って結構有名だよね。
太平洋戦争時の若者の遺言、辞世の句は非常に優れたものが多いと思う。
235日本@名無史さん:01/11/01 19:40
最後の大名、そして唯一の脱藩大名
林昌之助忠崇

真心の あるかなきかは屠りだす 腹の血潮の色にこそ知れ

戊辰戦争、仙台で降伏するときに切腹覚悟で詠んだうた
実際は昭和16年に94歳で死んだけどそのときも辞世をと望まれても
「あの時に言った」と言って亡くなったっていう

・・・格好良すぎ。
236日本@名無史さん:01/11/02 00:04
≫226
親類の陸軍軍人23歳で戦死した時大尉だったよ。
死後二階級特進で中佐。
恩賜で同期より早く卒業したらしいから基準はわからんけど。
237日本@名無史さん:01/11/02 04:05
>211
夏目漱石「はやく注射を打ってくれ・・・。」
238日本@名無史さん:01/11/02 13:20
吹くと吹く 風な恨みそ 花の春
 紅葉の残る  秋あればこそ
 
みたいな辞世は北条氏政の辞世?
本によって氏照のものだったりするので謎
239日本@名無史さん:01/11/02 14:45
≫225
別所長治の妻の辞世も涙もの。
後れたり先立ったりせざるを得ない死期をともに自害だから
一緒に迎えられてうれしいみたいな内容だった。
240蕪村:01/11/03 23:33
>236
そですか若くても(22)あるんですね中佐
241日本@名無史さん:01/11/08 15:13
何処やらに 鶴の声聞く 霞かな

病臥するや各所を厄介物としてたらい回しにされ、
最後は見事な野垂れ死にを遂げた
放浪乞食俳人、井上井月の辞世の句
242日本@名無史さん:01/11/08 16:45
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛
243日本@名無史さん:01/11/10 01:02
なにか辞世の句コレクションみたいな流れになってきたね。
そういえば辞世の句について句をまとめた本とか見たことないのだが
あるのだろうか。
244日本@名無史さん:01/11/10 04:59
>>243
ちゃんとスレを読め
245日本@名無史さん:01/11/12 22:29
やっぱり辞世の句というのは死に赴く人の言霊を現世に残して往生させるという鎮魂の儀式ではないでしょうか。
どなたか十辺舎一九の「...灰左様なら」という辞世の句の全文ご存知ないですか。
246日本@名無史さん:01/11/12 22:33
斉藤君、セイロク!
驚異的なスタミナ、忘れません!
247名無し不動さん:01/11/12 22:34
生涯を 賭けて盗めど 今までに
 身に付く金は 今日の錆び槍
          (小塚原刑場にて)
天明時代の盗人・天狗小僧霧太郎
248日本@名無史さん :01/11/12 22:50
>>245
『此世おば どりゃ お暇に せん香の 煙とともに 灰左様なら』

・・・・判らんぞ 十辺舎一九!
249日本@名無史さん:01/11/13 00:54
>>247
天狗小僧とかだと当然切腹じゃなくて打ち首獄門ですよね。
そういう者でも辞世を詠む間は与えられたんでしょうか。
それとも秘かに獄中で詠んだものが流布したとかなんでしょうか。
250日本@名無史さん:01/11/24 09:56
「吉野山 風に乱るる もみじ葉は
     我が打つ太刀の 血煙りと見よ」
幕末の天誅組の指導者吉村寅太郎が本陣とした奈良・五条の櫻井寺に行ってきたよ。
まだ血煙と見えるほど紅葉は赤くなってなかったけど記念に数枚拾ってきた。
寺には「天誅組本陣跡」の碑があっただけだったけど少しの間感慨に耽ってました。
251日本@名無史さん:01/11/24 10:00
「あす散るも 色は変わらじ 山桜」

東北戊辰戦争で散った二本松藩士の辞世
なんか好きだなぁ、と思う
252日本@名無史さん:01/11/24 10:11
まだ出てないな。

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

                    松陰吉田寅次郎
おまけ

   「是非に及ばず」
            織田信長
253250:01/11/24 10:13
さっき櫻井寺で感慨に耽っていたと書いたけど
この時天誅組に殺された代官はかなりの善政を施していた人だった
らしい。
ある意味、この人の行い云々よりも幕府の権力の象徴みたいな存在と
して殺されたわけで個人的には気の毒に思う。
辞世も後世に伝わってないみたいだし。
というより襲撃されて殺されたわけだから詠む暇もなかったのかも。。。
254日本@名無史さん :01/11/24 10:26
>>120
それは逆。「電光影裏、春風を斬る」が正しい。
同じ間違いが「我輩は猫である」に出てくる(念の為に言っておくけど、漱石が
間違えたわけではない)。

俺的には、辞世では無いけど、西行法師だな。

願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ
255日本@名無史さん:01/11/24 22:17
あら楽し 思いは晴るる 身はすつる 浮き世の月に 掛かる雲なし

                  大石内蔵助
なんか、完全燃焼したって感じがイイ!!!
256奥州王 伊達政宗:01/11/24 22:23
もう、出てるけど

馬上少年過

時平白髪多

残躯天所許

不楽復如何


この伊達政宗の漢詩が、一番好きかな。
天下人、秀吉そして家康を前に
溢れんばかりの才気そして覇気を持ちながら
虚しく馬上に時を送らなければならなかった
政宗の自身の運命への、あきらめとも悔恨とも読める
この漢詩が、たまらなく彼の思いを現していて
政宗自身に触れたように、400年の歳月を
感じさせないリアリティを、与えてくれる。
257歴史の勉強:01/11/24 22:46
伊達政宗の漢詩ですが、
「不楽復如何」→「不楽是如何」
でしょう。「楽しまずして、またいかん」では意味が通らないと思う。

それはそれとして、いい詩だと思いますね。
(現代中国語では「馬上」は違う意味を持ってくるが……)
258歴史の勉強:01/11/24 23:15
一応、無学祖元の「臨刃偈(りんじんげ)」を書いておきます。

乾坤無卓孤×地
喜得人空法亦空
珍重大元三尺剣
電光影裏斬春風

(×は、竹冠+工(扁)+「おおざと」(旁)。杖の意味らしい)

(試訳)
天地のどこにも、杖を立てる地すらない;
人も空(くう)であり、仏法もまた空であることを知り、たいへん嬉しく思う;
大元の兵士よ、おまえたちの三尺もある剣を珍重しようではないか;
その刃が触れあって火花が飛び散る中で、春の風を斬るのだな

電光はえらく現代的な単語って気もしますが、「電」の字は
中国語では「金属が触れあって出る火花」「雷の光」くらいの意味だそうです。
「空」は仏教語。
「また」って字は、「亦」か「又」か、わかりません(適当に復元したもんで)。
259日本@名無史さん:01/11/26 19:02
age
260日本@名無史さん:01/11/27 05:01
一茶

「盥から盥にわたるちんぷんかん」

とか、そんなんだったと思う。つまり、産湯から、死体になって洗われる
までこの世にあったけど、なにやらぜーんぜん分からんかった、みたいな意。

空海は

生のはじめに昏(くら)く、生の終わりに冥(くら)し。 だっけか。

漢字を忘れた。冥い、のか、昧い、のかによって意味がずいぶん違うな。
261日本@名無史さん:01/11/28 23:55
あかとんぼ はねをとったら あぶらむし
262日本@名無史さん:01/12/01 09:05
>>260
「盥」って何て読むの?
263日本@名無史さん:01/12/01 12:05
>262

たらい、です。産湯を使ったり、死んだ方の体を洗ったりする時使うから。
264日本@名無史さん:01/12/01 14:57
ふ−ん、一茶って悟ったようなイメ−ジがあるけど
そんな辞世を詠んでたんだ。
というよりなにか小難しいことをいうよりは悟っていたというべきか。
感じ的に一休禅師の臨終の心境に似てるな。
265260:01/12/01 23:41
悟りの境地とは、「犬が西向きゃ尾は東」つまり当たり前のことが当たり前と
受け入れられるってことだ、みたいなのを読んだことあるけど、そんな感じかな。
一茶で言えば、死ぬ時には肩肘張った心がとれて、
「ちーともわからへんかったわ」と素直に呟けた、ってこと?
266日本@名無史さん:01/12/02 00:06
板垣退助は「いた(がき)た(いすけ)」だったらしいよ。
267日本@名無史さん:01/12/08 17:59
板垣の話だが、ある外国人が不思議に思ったのは
板垣は自由民権運動の首領であったのに身分関係に厳しく士族以下の身分の者
とは絶対に一緒に風呂にはいるなど同席しなかったそうだ。
他方、板垣に攻撃されている政府側の伊藤博文はざっくばらんで誰とでも
気さくに付き合ったらしい。
ある意味、自由民権が土佐および板垣党の巻き返しの手段にしか過ぎなかった
ことがわかるエピソ−ドだと思う。
268日本@名無史さん:01/12/13 11:13
まあ..板垣は今で言う自由主義者、民主主義者とはちがうわな。
269日本@名無史さん:01/12/13 12:57
身はたとへ 太平洋に水漬くとも 留め置かまし 大和魂

    海軍飛行兵曹長 長井泉 (20)
270日本@名無史さん:01/12/21 00:42
もうほぼ出尽くしたんでしょうか。
271日本@名無史さん:01/12/21 00:47
283 :ぁゃιぃアズマ人 :01/12/21 00:29 ID:fndtqGxa
>削除人さん

 >>282が、先ほどご説明した妨害者の依頼です。以下のスレッドの削除依頼は、
私達の主催する皇国史観スレッドに対する悪質な妨害ですのでご遠慮願います。

皇国史観で東日本人を侮辱するな! その12
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1006434527/


またも、アズマの自己擁護レスが!
今度こそ言い逃れはできまい・・・・
272辞世ではないが:01/12/21 03:18
咲きしより今日散る花の名残まで 千々に心のくだけぬるかな
伊達政宗

あらざらむ此の世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
和泉式部

仙涯和尚
死にとうない
273日本@名無史さん:01/12/24 07:21

恋い多き女和泉式部らしい辞世だ。
これ本物の辞世?後世の人が作ったとかじゃなくて?
274十辺舎一九:01/12/24 09:51
この世をば どりゃおいとまに せん香の   
     煙りと共に 灰左様なら
275十辺舎一九:01/12/24 09:52
棺桶に花火抱いて入った
276日本@名無史さん:01/12/24 10:17
≧267
俺の記憶では伊藤博文は確か農民出身じゃなかったか。
そこがえらいとこだとおもうけど
277276:01/12/24 10:19
訂正
そこが伊藤のえらいとこだとおもうけど
278日本@名無史さん:01/12/24 12:17
>>276
276はなぜ≧使ってるの?
 
279日本@名無史さん:01/12/24 12:35
うう、ババしたい…
280日本@名無史さん:01/12/24 12:58
ローカルルール投票にご協力を!!
281272:01/12/24 15:55
>>273
う〜ん
多分本人の作でしょう。
百人一首に入ってるよ。
282日本@名無史さん:01/12/24 16:40
討つ者も 討たれる者もかわらけよ
       所詮もとの土となりけり
283日本@名無史さん:01/12/29 23:59
富樫源次

ますらおの ますせんずれば(以下略)
284日本@名無史さん:02/01/02 20:59
辞世の句ではないのですが‥。
木村重成の妻(当時十八歳だそうです)が、大坂落城が近いことを悟り、食を慎んでいた夫を怪しんで問質し、覚悟のほどを知って心事をつくして自害し、夫の門出を励ました― その時、夫に宛てた手紙は、
心打たれました。少々長くて恐縮ですが、また、ご存知の方も多いとは存じますが、ご紹介まで‥。

一樹の蔭、一河の流れ、是他生の縁と承り候が、そも、をとゝせの此(ころ)よりして偕老の枕を共にして、
只影の形に添ふが如くなれまゐらせ候おん情こそはうれしう候へ。
この頃承り候へば、主家の為め最早最後の御一戦の御覚悟の由、かげながら嬉しく思ひまゐらせ候。
唐の項王とやらむの虞氏、木曽義仲殿の松殿の局、さるためしは、わが身も厭はしう候。
されば世に望み窮りたる妾(わらわ)が身にては、御身御存生の中に最後を致し、死出の道とやらんにて待ち上げ奉り候、必ず必ず秀頼公多年海山の鴻恩御忘却なき様頼み上げまゐらせ候。
あらあらめでたくかしこ。  妻より。

敵将である家康が名将と称えた木村重成だそうですが、その妻もまた、武将の妻としての一生を全うしたのですね。
私はこれが一番心に残っています。
285日本@名無史さん:02/01/02 21:30
家康が討ち取った武将の首実検をしたら重成の首からは
お香の匂いが立ちこめていて武士のたしなみあっぱれなりと
誉めたらしいね。
286日本@名無史さん:02/01/02 21:48
こんなエピソードもありますよ。
ttp://www.m-network.com/sengoku/sen-epsk.html
287日本@名無史さん
大内義隆

「如露亦如電 応作如是観」