>>424>>427 平安京人はきれいで豊かな地下水を飲み、糞便を巨椋湖に垂れ流し。
豊かな餌で魚は育ち、栄養豊富な水は葦原を繁茂ささせ、
水穂豊かな水稲地帯となり、都人の口を満足させた。
そして1200年の月日が流れ、都人の糞便で巨椋湖は埋まったのか?
巨椋湖から流れでた淀川下流の浪速人は、今も昔も都人の糞便水を飲み続けている。
あまりにも小説的過ぎでしたでしょうか?
429 :
日本@名無史さん:03/11/01 20:52
>428
>都人の糞便で巨椋湖は埋まったのか?
本気で思ってるわけないと思うけど
巨椋池は豊臣秀吉の河川改修により
淀川水系の河川水が直接には流れ込まないようになり、
明治期の改修ではにお雇い外国人・ヨハネス=デ=レーケの指導のもと
巨椋池は淀川から完全に切り離され、
昭和初期に食糧増産のため埋め立てられた。今でも巨椋池跡は大都市近郊では
あまり見られない大田園地域。
>>429 そうです。
桃山時代の河川改修により、
巨椋湖の面影は完全に無くなり、
巨椋池となったのです。
もちろん、
都人の糞便で埋まった由ではありませんネ。
平安京のころには、京の南に隣接していた湖水が、
時代が下がるにつれて、食料の大生産地帯に変貌していったのです。
古代都市を考えるに当り、都市への食料供給については非常に重要な問題です。
従来の多くの国史研究家にとって忘れ去られていることではないでしょうか?
都市住民への澱粉(カロリー)と蛋白質(人体の主要構成成分)の供給が重要です。
>>430続き
継体が奈良盆地進入前に、なぜ、彼の地に20年もウロウロできたのでしょう。
その地には経済的背景、特に食料の供給ができたのです。
北に巨椋湖周辺の食料(澱粉・蛋白)の供給が、南に河内湾(ヒラ潟=枚方)からの蛋白質の供給ができたからです。
平安京になっても事情は変りません。
432 :
日本@名無史さん:03/11/02 06:17
>429
ヨハネス=デ=レーケ、淀川、木曽川に近代的改修を施した
明治初期の治水の神だな。築堤、瀬替、荒山の植林、砂防ダムの建設などなど。
デ=レーケの淀川改修により、大阪市は大規模洪水から逃れ、
本当にデーレーケを祀る神社創ろうとしたら
一神教を是とする彼の子孫に断られたとか。
433 :
日本@名無史さん:03/11/02 07:33
>428
そもそも、宇治川を超えて、鴨川、桂川の水が、巨椋湖に流すためには、
川の立体交差が必要なのですが
434 :
日本@名無史さん:03/11/02 08:06
>>433 桂川、宇治川、木津川の合流点が巨椋湖なのですよ。地図を見ましょう。
435 :
日本@名無史さん:03/11/02 08:16
現在、八幡市で三川(桂川、宇治川、木津川)合流してるが、これは人工的に改修した結果だな。
昔はもう少し東で合流してたようだな。
それにしても大阪の水道水は滋賀、京都の下水を取水しいて、
質が良くないことは昔(明治期)から指摘されているのに全然改善されないな。
エルサレム、ローマ、ミラノ、パリ、コンスタンティノープル
>ロンドン>>>京都>>慶州>>北京>大阪>>東京>>ニューヨーク>上海
巨椋湖の範囲
東:宇治市
西:天王山の麓
南:城陽市
北:京都市南区・伏見区
平安時代には高瀬川は、現在の様に桂川と合流せずに、
鴨川と共に、巨椋湖に直接流れ込んでいたと思わせる記述がある。
桃山時代の河川改修
桃山城の城下町にあたる伏見を洪水から守る為、
巨椋湖に流れ込んでいた宇治川を、半円状に北に迂回させ、伏見の排水を良くした。
又、巨椋湖に流れ込んでいた木津川を、巨椋湖ぞいの西側を流れるようにした。
これにより、巨椋湖は川の流れ込まない巨椋池となった。
伏見の南側の向島は、巨椋湖の中の島であったことを示す地名として残っている。
438 :
日本@名無史さん:03/11/15 19:00
巨椋池の島の地名と言えば中書島とかも。
中書島は戦前の地図では、まだ島だったような記憶。