北村一輝演じる長崎頼綱について

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1日本@名無史さん
どう思いますか。
2日本@名無史さん:2001/08/06(月) 16:08
ドラマでは「平頼綱」になってますが、
正しくは「長崎平左衛門尉頼綱」つまり「長崎頼綱」ですね。
3日本@名無史さん:2001/08/06(月) 16:12
二重人格?
4長崎円喜:2001/08/06(月) 16:14
平左衛門尉頼綱公は、それがしの大伯父でござる。
5日本@名無史さん:2001/08/06(月) 16:51
>>4
直系の子孫ではないのね。
6日本@名無史さん:2001/08/06(月) 18:19
>>2
長崎は分家の名字だろ。ちっとも正しくない
7日本@名無史さん:2001/08/06(月) 18:23
>>2
>>6
別スレに逝け

>>1
ドラマ板に逝け
8日本@名無史さん:2001/08/06(月) 18:32
ちょっと
イメージが悪いよな
ぎばちゃんと争うにはかわいそうな
9日本@名無史さん:2001/08/06(月) 18:56
なんで頼綱が浮浪者出身なの?
10日本@名無史さん:2001/08/06(月) 19:02
長崎頼綱は、浮浪者ではなく、
長崎盛綱の嫡子です。
NHKの時宗はデタラメ。
11日本@名無史さん:2001/08/06(月) 19:03
>>6
長崎は分家じゃないよ。
頼綱の親爺が長崎氏の初代だから。
12長崎オタ:2001/08/06(月) 19:07
うざい。あちこちのスレに出ないでほしい。
13日本@名無史さん:2001/08/06(月) 19:08
北村一輝は長崎頼綱というやくは演じていない。論理的に一貫させてほしい。
14日本@名無史さん:2001/08/06(月) 19:12
NHKの時宗は、時輔を生きていた話にするのだから
歴史ドラマというより伝奇ドラマ。
頼綱も、平頼綱にされてしまい、それは誰?という感じ。
頼綱は、北条氏の家宰の長崎氏の嫡男だよ。
15日本@名無史さん:2001/08/06(月) 19:14
長崎は確かに分家だな。弟筋の方だから。
16日本@名無史さん:2001/08/06(月) 19:16
>>15
分家じゃないよ。
頼綱の父親が、長崎盛綱だから。
17日本@名無史さん:2001/08/07(火) 01:24
すでに学界ではいちおう結論の出てる話です。
森幸夫「平・長崎氏の系譜」(安田元久編『吾妻鏡人名総覧』吉川弘文館、1998年)://www2.justnet.ne.jp/~jingu/takahashi-shinichiro-shingen.htm
18日本@名無史さん:2001/08/07(火) 02:54
優良スレ           普通            クソスレ
 ┝━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━┥
                        88彡ミ8。   /)
                       8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
                        |(| ∩ ∩|| / /   <ココ!
                       从ゝ__▽_.从 /
                        /||_、_|| /
                       / (___)
                      \(ミl_,_(
                        /.  _ \
                      /_ /  \ _.〉
                    / /   / /
                    (二/     (二)
19日本@名無史さん:2001/08/07(火) 03:21

なんでわざわざタイトルに「北村一輝」って入れる必要があるんだ?
20日本@名無史さん:2001/08/07(火) 03:33
濃い顔、力の抜けた目、
ちょっぴりの胸毛、ギャランドゥ満載。
そして妙にかん高いお声だからです。
21日本@名無史さん:2001/08/07(火) 03:57
女装した方が似合うと思われ>頼綱
22日本@名無史さん:2001/08/08(水) 07:23
>>17
学界に結論なんか無いよ(笑)
君は、学界コンプレックスの素人みたいだね。
長崎氏については、まだまだ研究途上だよ。
23日本@名無史さん:2001/08/08(水) 07:25
長崎一族で、長崎の名字が伝えられていないのは
頼綱だけ。
他は、みんな長崎、飯沼、関という名字を名乗っている。
24日本@名無史さん:2001/08/08(水) 07:29
2517:2001/08/08(水) 10:56
>>22
いやいや、もちろん学問に終点のないことぐらいは認識してるよ。
長崎氏に関しては細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479)や
あるいは『政治経済史学』115(号数不確か、論文名失念)にも関連論文があるし
頼綱や円喜個人、内管領そのものについての研究ももちろん膨大にあり、
現在も研究途上であることは言うまでもない。
まだまだ不明のこともあるいっぽう研究の蓄積によって得られた知見も多く
これからも引き続き研究が進められていくだろう。
ただいずれの研究においても平頼綱が長崎氏ではなく平姓であることは
一致しておりこれは学会の共通認識となってすでに久しく
(というか私は寡聞にして学会において長崎頼綱という説の存在を知らない)
私が結論が出てると言ったのはこの点に関してである。
16以前のログにおいてこのことが議論の中心となっていたから
それを受けて書いたまでのことで別に長崎氏について未解決の問題はないなどといっているのではない。
当該問題に関しても頼綱と光綱が兄弟か否かなどの点では説が分かれているが
いずれにせよ長崎の号が頼綱の兄弟乃至頼綱の父の兄弟に
よって称され始めたという点では一致している。
この頃の(及びこれ以前にも)幕府吏僚には頼綱の他にも平姓の者が見えるが
このことは内管領の身分や幕府での位置、幕府他職との関係、
及び将軍や執権との関係を考える上で有益な意味を持っていると思う。
何か話がずれてしまったが、要するに私の言った結論が出てるというのは
そういう限定された点(長崎氏が内管領平氏の分かれであること)についてである。
口振りからするに学会の人とお見受けするのでこのことに関しては同意を得られると思う。
26日本@名無史さん:2001/08/08(水) 12:43
>>22
学会コンプレックスの素人はおまえ。
27日本@名無史さん:2001/08/08(水) 16:50
きた「いつき」ですか「いっき」ですか。
28天之御名無主:2001/08/08(水) 16:56
学問的には 平か長崎かは問題有りでしょうが、
同時代の日蓮の文章には「平」となっています。
ですから 今回のドラマの中では 平を使うのが
当然となるでしょう。当時から「長崎」と呼ばれていたのなら、
長崎頼綱・・・・と書くはずです。
29日本@名無史さん:2001/08/08(水) 17:01
>28
日蓮の文書では
他の人たちは
どのように表記されていますか?
30日本@名無史さん:2001/08/08(水) 19:58
頼綱は、平頼綱でいいとして、では、なぜ長崎頼綱ではなくて平頼綱だったのかが問題。
むしろ、こちらの方が問題だろう。
いうまでもなく、頼綱の父の盛綱は長崎盛綱であり、頼綱の子も長崎の名字や飯沼の名字
を名乗っている。
頼綱は、長崎盛綱の嫡男であり、北条得宗家の執事を父から継承している。
にもかかわらず、長崎の名字は、頼綱の弟の光綱が名乗り、この長崎光綱が北条高時の時の
内管領だった長崎円喜の祖父である。
このような長崎一族の中で、頼綱が長崎を名乗らなかったことの方が不自然であり、
2つのことが考えられる。
1、長崎頼綱となのっていたが、それは伝わらず本姓の平頼綱のみが伝わった。
2、頼綱本人あるいは長崎氏の中に、頼綱に長崎を名乗らせない何かがあった。
31日本@名無史さん:2001/08/08(水) 20:06
1 ありえない。
  親も子も伝わっている。
2 ありえない。
  名乗らせなかったら平ではなく他の名字を名乗る。

よって平頼綱でよくない。
32日本@名無史さん:2001/08/08(水) 22:03
>>14
同意。
33日本@名無史さん:2001/08/09(木) 03:53
このスレって夏厨ってやつ?
34悪夢:2001/08/09(木) 23:56
奥田英二、公明党より出馬!
35日本@名無史さん:2001/08/10(金) 00:08
>>32
長崎頼綱説ですね。
36日本@名無史さん:2001/08/10(金) 06:27
内管領長崎高綱・高資(高時)
内管領平頼綱(貞時)
得宗家執事平盛綱
得宗家被官平盛時:将軍頼経の辞職を伝えるため上洛し頼嗣を将軍とする宣旨を得て帰った。
頼朝右筆平盛時
平盛俊:保元・平治の乱に父盛國と共に従う。一ノ谷で戦死。
平盛國:平清盛随一の側近。

代々(新)左衛門尉を通称とする。室町幕府政所執事伊勢氏も同族。
37日本@名無史さん:2001/08/10(金) 08:46
↑ なにがいいたいっスか。
38頼網:2001/08/10(金) 09:39
ボクは孤児です。。
39寄り綱:2001/08/10(金) 23:12
あまつさえ北条家筆頭SPです。
40日本@名無史さん:2001/08/11(土) 00:58
系図

長崎盛綱----平頼綱----長崎宗綱
          --飯沼為綱
          --長崎頼基
     --長崎光綱--長崎高綱---長崎高資---長崎高重
41日本@名無史さん:2001/08/11(土) 14:33
うーーん、やっぱり長崎頼綱が正しいのかもしれない。
42日本@名無史さん:2001/08/11(土) 17:36
>>40
長崎盛綱は確かなのか?
43日本@名無史さん:2001/08/12(日) 17:08
>>30、40、41、42
同一人っぽいけど、結論でいうと
長崎頼綱と記述のあるのは構成作られた系図のみ、
父親の平盛綱も長崎とあるのは系図のみ。
だから平であるのもなんの不思議もない。
44日本@名無史さん:2001/08/12(日) 17:17
>>27
かずき
45日本@名無史さん:2001/08/12(日) 17:19
>>30
長崎光綱を頼綱の弟と断定してるけど、平盛綱との弟という系図もある。
なぜ断定してるの?
46日本@名無史さん:2001/08/12(日) 17:21
>45
断定なんかしてないじゃん。
47日本@名無史さん:2001/08/12(日) 19:06
>46
>長崎の名字は、頼綱の弟の光綱が名乗り

断定してるじゃん
48日本@名無史さん:2001/08/12(日) 19:11
長崎の名字が、光綱に始まり、光綱の系統なら問題もないが、
頼綱の子も長崎を名乗っているからね。
やはり、長崎頼綱が真相ではないのかな。
49日本@名無史さん:2001/08/12(日) 19:18
>47
断定してないじゃん
50日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:48
頼綱と父の盛綱が共に平姓のままで、頼綱の弟の光綱から長崎氏は
始まったとすると長崎の名字は、光綱の子孫が名乗ることになるが、
頼綱の子も長崎の名字を名乗っているのは、やはり頼綱も長崎の名字
とは関係があるからではないのか。
51日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:54
長崎頼綱だよ。
52日本@名無史さん:2001/08/13(月) 01:08
長崎に決まってるじゃねえか。
さあ、みんなでNHKに抗議の葉書出そうぜ。
53日本@名無史さん:2001/08/14(火) 18:40
sage
54日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:11
長崎の名字が頼綱の弟の光綱系だとするなら、
頼綱の子が長崎を名乗っているのはどうしてなのか?
55日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:20
>54
名字を名乗る時期が人によって家によってアバウトなだけじゃない?
56日本@名無史さん:2001/08/15(水) 00:30
単に自分がよっている史料が変なだけ。
57日本@名無史さん:2001/08/15(水) 01:38
>>54
鎌倉時代の名字は、領地支配の証しみたいな性格があるので
決してアバウトなものではないよ。
58日本@名無史さん:2001/08/15(水) 01:42
>>54
それは長崎の名字が、長崎光綱に始まるものではなく、盛綱や頼綱も
含めた一族全体のものだからだろう。
盛綱は長崎盛綱とも伝わっている。頼綱は長崎系図では長崎頼綱とあるが、
これは疑問も多い。
59日本@名無史さん:2001/08/15(水) 08:56
>57
名字がアバウトなんていってないよ。
ある日突然全員一緒に名字を名乗りだしたのでは
ないだろうっていってるわけ。
60日本@名無史さん:2001/08/15(水) 09:25
当時は平と呼ばれていたという事実さえなければ
堂々と長崎なのになあ。本当に惜しい。
61日本@名無史さん:2001/08/15(水) 10:19
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        i  /-/:: ~~''; : ←>>九州左遷された頼網
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62 :2001/08/15(水) 14:57
系図なんて後からどうとでも細工できるんだから、系図を参考に「長崎頼綱」だった
というのは根據がない。
同時代史料(日記とか)に、彼が長崎姓で呼ばれている史料があるかないかだ
63日本@名無史さん:2001/08/15(水) 15:11
ないのよね〜それが。
64名無しさん:2001/08/15(水) 15:59
日蓮の文章には「平」と載ってるんだよね。既出だけど。
65日本@名無史さん:2001/08/15(水) 16:16
>64
文書だろ、と一応つっこんでおく。
6662:2001/08/15(水) 19:21
>>63-64
じゃあ、平頼綱で決まりじゃん

********************終了********************
67日本@名無史さん:2001/08/15(水) 20:44
>>49
どこをどう見れば断定していないといえるの?
アラシ隊員なだけ?
68日本@名無史さん:2001/08/15(水) 20:46
>>67
どこをどう見れば断定しているといえるの?
アラシ隊員なだけ?
69日本@名無史さん:2001/08/15(水) 21:32
長崎氏のなかで、得宗家の内管領(当然長崎氏の長)になったものは
特別に平氏を名乗るというのはどうだろう?

で、平禅門の乱の結果、得宗家内管領平氏(平頼綱一族)は誅滅されて、
新たに内管領に任命された傍系は、「謀反人」の本家と決別する意味で
敢えて平姓を名乗らなかった
70日本@名無史さん:2001/08/15(水) 21:46
>69
名字が一般化しただけでしょ。
71日本@名無史さん:2001/08/16(木) 01:18
>>69
でも平頼綱の子の中に長崎を名乗っているのがいるからややこしい。
72日本@名無史さん:2001/08/16(木) 01:20
>>70
名字が一般化したから、平ではなくて長崎頼綱なんだよ。
名字の一般化は鎌倉幕府の初期に始まるから頼綱の時代は、
名字の一般化が定着した時代。
73略系:2001/08/16(木) 01:23
長崎盛綱----平頼綱-------長崎宗綱
          -----飯沼為綱
          -----長崎頼基
     --長崎光綱-----長崎高綱---長崎高資---長崎高重
74日本@名無史さん:2001/08/16(木) 01:28
名字はかまくらのもっとずっと前から一般化していたよ。
75日本@名無史さん:2001/08/16(木) 02:03
頼綱は平清盛の子孫で、清盛にあこがれたため「平」姓に変えたのかもしれない。
76日本@名無史さん:2001/08/16(木) 09:55
だからそもそも長崎盛綱じゃないんだよ。
あえて言えば、平氏から長崎氏が現れたということ。
つまり本流の平氏は滅んで、分流(らしい)長崎氏が実力をもったということ。
77日本@名無史さん:2001/08/16(木) 10:04
>>72
何をもって定着というか。
武士が一斉に名字を名乗り始めるわけもなかろうが。
78日本@名無史さん:2001/08/16(木) 10:05
>76
おいおい。
平朝臣長崎○○だろ。
79日本@名無史さん:2001/08/16(木) 17:48
>78
それは長崎高資の流れのほうだけ。
80日本@名無史さん:2001/08/16(木) 17:52
>79
おいおい。
平朝臣平○○なわけないだろ。
81日本@名無史さん:2001/08/16(木) 18:53
:'  ':
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        i  /-/:: ~~''; : ←>>あしたのジョー
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        ;  ;~'i_,,,,......,,....; :
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82日本@名無史さん:2001/08/16(木) 20:43
「平荘」の地頭とかだったら、ありうる。
83日本@名無史さん:2001/08/16(木) 23:02
>>80
そんなこと書いてないよ。
平朝臣○○だよ。
84日本@名無史さん:2001/08/17(金) 00:10
いずれにしろ当時の史料を提示できない以上
長崎頼綱は×
ということだね。
85>:2001/08/17(金) 00:11
北一輝とは関係ないんだね
86日本@名無史さん:2001/08/17(金) 00:45
昔は北村康だった。
87日本@名無史さん:2001/08/17(金) 01:47
名付け親は三池らしいが、その場で適当に決めたという噂が・・>一輝
北一輝が頭にあったらどーしよー
88日本@名無史さん:2001/08/17(金) 15:55
>>68

だから
>長崎の名字は、頼綱の弟の光綱が名乗り
89日本@名無史さん:2001/08/17(金) 15:58
>>88

だから
>長崎の名字は、頼綱の弟の光綱が名乗り
90日本@名無史さん:2001/08/17(金) 16:29
>89
だから
>長崎の名字は、頼綱の弟の光綱が名乗り
91日本@名無史さん:2001/08/17(金) 16:30
>90
だから
>長崎の名字は、頼綱の弟の光綱が名乗り
 ↑ ヴァカだろう?
92日本@名無史さん:2001/08/17(金) 16:45
ヴァカだね 
93日本@名無史さん:2001/08/18(土) 00:17
89だけど、やっぱり長崎頼綱しか考えられないyo
94日本@名無史さん:2001/08/18(土) 00:25
>>93
なぜ?
95日本@名無史さん:2001/08/18(土) 00:47
景気回復の祈祷をいたせ・・・。日顕。
96日本@名無史さん:2001/08/18(土) 01:16
>>84
当時の史料といっても信ぴょう性のあるものはあるの?
平頼綱説の根拠の吾妻鏡も疑問多いしね。
97日本@名無史さん:2001/08/18(土) 01:57
 後深草院二条の『とはずがたり』の中で、久明親王の東下の場面で、
「平左衛門入道が二郎、飯沼の判官」という表現があり、
これは頼綱の次男である飯沼助宗をさしてます。
『とはずがたり』の史料的価値はともかく、同時代なのは確かだと思います。
98日本@名無史さん:2001/08/18(土) 14:06
>>97
それは「平」姓の史料にはならんでしょう。
「平左衛門入道」は、「へいざえもんにゅうどう」であり、その場合の「平」
は、通称につける「源太」「平太」と同じもの。
頼綱の場合は、「長崎平左衛門入道果円」とも言います。
99日本@名無史さん:2001/08/18(土) 14:59
>>96
長崎頼綱とした当時の史料はあるのかぇ?
100日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:17
>99
長崎説を主張する人たちに資料だの根拠だの求めても無駄です。
101日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:55
>>100
しかし平説もこれといった史料は無いから、どっちもどっちだろう。
102日本@名無史さん:2001/08/18(土) 17:59
平説の東鑑は「技あり」だな。
103日本@名無史さん:2001/08/18(土) 18:17
>101
もう過去スレでいろんな人がこれでもかっていうくらい挙げてるじゃん
例えばガイシュツだけど、乱の時の史料である『親玄僧正日記』正応六・四・二二条に
 殿中以外騒動、可被打平禅門(頼綱)之故也、(略)合戦以前平左衛門宗綱参云々、
(略)杲然(頼綱)并飯沼左衛門入道(助宗)於一所自害之由風聞了、
とあるように、飯沼と平って明記されてるし。
未だ嘗て長崎って明記されてる史料、後世の系図以外挙げられてないじゃん。
104日本@名無史さん:2001/08/18(土) 18:35
じゃあ、間を取って飯沼頼綱。
105日本@名無史さん:2001/08/18(土) 22:07
 例えばの話ですけど、こういうのはどうでしょうか。

 平盛綱は「長崎」という名の土地に住んでいた(または所有していた)。
よって長崎盛綱とも呼ばれていた。
 平家の家督は長男の頼綱が相続。「長崎」という土地は次男の光綱が相続した。
光綱の子孫が「長崎」を相続し、長崎氏と呼ばれるようになる。
 平頼綱は次男の助宗に「飯沼」という土地を与えたので、次男は飯沼助宗と呼ばれた。

 根拠のない全くの想像ですが、北条家も義時の嫡男・泰時が家督を相続し、
朝時が「名越」の屋敷を相続して、子孫が名越氏と呼ばれているので、
ありえるのではないかと…… 証拠ないけど。
106日本@名無史さん:2001/08/18(土) 22:24
ありえるけれど、盛綱の長男が頼綱ということはないと思う。
頼綱は1240年か41年かそのあたりの生まれだろ?
盛綱は義時時代から活躍していてもうその頃40にはなっているだろうし
いくらなんでも長男はない。
10797:2001/08/18(土) 23:34
>>98
 でも、その後も読んでみると頼綱をさして「平入道」とも呼んでるのです。
108日本@名無史さん:2001/08/19(日) 00:19
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=995210097

860 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/18(土) 22:58
何げに角田文衞「平家後抄」を読んでいたら
>長崎家は、北条、三浦、土肥、千葉、畠山等の諸家と同様に早く坂東に土着した平氏
>の出自であって、伊豆郡田方郡の長前(現在、田方郡韮山町長崎)に起こった家で
とある。(補注 太田亮編「姓氏家系大辞典」第3巻(S38再版)4164−4166頁)
「姓氏家系大辞典」についてはスレが立っているのでどうぞ。

また、三位中将・平資盛を出自としていたこともあったそうだ。

ちなみに角田文衞氏によると
平朝臣頼綱と呼ぶのが正しいそうだ。
長崎は家名であって
氏の名は平。

序章で熊谷次郎直実を挙げて説明しているが
正しくは平朝臣直実
熊谷は家名であって次郎は字(あざな)
氏の名は平。

明治5年の「壬申戸籍」施行までは家名と氏名が区別されていたとのこと
三条実美も三条中納言 藤原実美

ということらしい。(^^ゞ

861 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/18(土) 23:07
おっと「平家後抄」には>>860 だが
>三条中納言 藤原朝臣実美
朝臣はご存じのように姓

北条時宗も
北条太郎 平朝臣時宗
というわけか。

862 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/18(土) 23:16
何度もスマソ
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=997081637&ls=100
のスレを読んでいなかった

よって
長崎左衛門尉 平朝臣頼綱=平頼綱

あちらのスレにレスすべきたったか(^^ゞ

863 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/18(土) 23:29
日蓮の書簡には平左衛門尉殿と書かれている

864 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/19(日) 00:02
>>863
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=997081637&ls=100
をよく読んでいなかった漏れが悪かった
長崎平左衛門尉 平朝臣頼綱
ということだ

日蓮は通称名で宛てているわけだ
109日本@名無史さん:2001/08/19(日) 00:25
カマっぽいっと思うんだけど。北条時宗と危ない関係に行きそうで嫌。
110日本@名無史さん:2001/08/19(日) 03:23
>108
長崎教徒か。
長々とコピペごくろうさん。
111日本@名無史さん:2001/08/19(日) 04:41

              __,,,
             /   >
          ///   /____
        / /    レ'' '''''''''~--,/__
       <               ̄  \
        ヽ                 ヽ
         >__              ヽ
        ())__>,,,,┌┐     __  ヽ
         ヾvフ;;;:~~~~|[] |  ヽイ~ \ ̄\|
         / ヽ/  | ト-'\ \\   \
         ヽ  |/  | |  ヽ/ \| ̄\ |
          | | |  ,|  |  |'''=-li    |/
          L|,,,|,,,/   ノ   ヽ/ >
           ~~ ~|   |,,,,--^~~,,,>_
     _,,-,_,-,_<~~し'~ ,,,,,-// /ー、|_,-,,-,
 ,,,--~~~ // //-/ |ヽ\ ~~~~-' /  |_|  ヾゝゝー--,,,,,、
/~===」/==//---lゝ\二二二/_/ /   |_|_二二==~ヽ
ヽ ̄ ̄二二二ー-~○/~~-___/   (○_____~~ --}
 ~ヽ//  |   //      |        | |      ヾヽ\/
   ヽ,| ヽ|   >>      |       <<   /   | |i--'
     ヽ ヽ <<        |         >> /    //
     // |ヽヽヽ___,,-~~---,,___| |,,//   { <
     | |  ヾ\/ヾヽ----"~~''-------//~--/     | |
     |i|  \  ヽヽ /~~~\    | | /      //
     ヾヽ  ヾ  | |/  |   ヽ    | |/      //
112日本@名無史さん:2001/08/19(日) 04:41
      ヾヽ  |  | |    |    |  || | |      | |
      //  | //    |  ヾ~~~~^--,,,,,|  ー-,ヽヽ
     //   |//|    | ゞヾ"    ~~-_   ヽ\
   < /      |/     | 《ゞゞ""       |    =ゝ__
  //       |      ヾヾゞ   _   ヽ/  ///[二} ヽ
 |        /|   /~~~~^^-,,  ////\\//  ヾ/\\ >
/       /  | /       \/ iJ ヾ/ ヽヽ\,,,, /\ ~  >
          //,,,,,,--^~~~~~^--,,,,,\   _|ヽ  ヾ| \ヾー  >
   ,,,,,----^^~~~~~~~         ~-,,|ー-'----,,,,,_  ヾヽノ
  /ヽ            /\             ~~~~--,,,
  | |       ___/   \___           / |
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  ヾ ヽ       \  J O J O  /           /  |
   |  ヾ     /         \           /  /
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   |   |      ||        ||            |  |
113日本@名無史さん:2001/08/19(日) 11:08
はいはい
114arere:2001/08/19(日) 13:17
時宗いわく
『我が頼りの綱なり』
って本当のせりふ??
115日本@名無史さん:2001/08/19(日) 16:14
さあ?どっかでいってるかも。
ただし、頼綱の名前は時頼の頼の字をもらったのだから、あんな場面でのせりふではないけど。
116日本@名無史さん:2001/08/20(月) 13:58
網野善彦の「蒙古襲来」には次のようにある。

平盛国----関 実忠
    +-長崎盛綱----平頼綱
          +-長崎光綱----長崎高綱

頼綱の父から長崎氏は始まっているとすると頼綱も長崎の名字を
なのっていた公算は高いが記録に無いため本姓の平のままにして
あるのだろう。頼綱の子の宗綱も長崎宗綱と名乗っている。
長崎であろうがなかろうが(飯沼、関)、すべてが名字を名乗っ
ている中で頼綱だけが本姓のままとうのはやはりおかしい。 
117日本@名無史さん:2001/08/20(月) 14:00
>>108
太田亮は、長崎頼綱と書いている。正確には、長崎平左衛門尉頼綱。
118日本@名無史さん:2001/08/20(月) 14:05
>>116
頼綱の父から長崎氏は始まっていないとすると頼綱も長崎の名字を
なのっていない公算は高いし記録にも無いため本姓の平のままにして
あるのだろう。頼綱の子の宗綱は長崎宗綱と名乗っている。
長崎であろうがなかろうが(飯沼、関)、すべてが名字を名乗っ
ていない中で頼綱だけが本姓のままというのはそれほどおかしくない。
119日本@名無史さん:2001/08/20(月) 14:40
平頼綱の子の助宗は飯沼の名字を名乗っているが、宗綱が長崎を名乗ったのは、
平禅門の乱の時、宗綱は、父と兄に同心しなかったからではないか。
そこで宗綱は、叔父の長崎光綱の一族になったのではないだろうか。
120日本@名無史さん:2001/08/20(月) 14:44
>>119
飯沼頼綱ってこと?
121☆めぐめぐ☆:2001/08/20(月) 14:45
122日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:07
>>120
どこからそんな結論になるのか?
>>120に書いてあるのは、頼綱の子の宗綱が長崎を名乗った理由の推論だろう。

  平頼綱-----長崎宗綱
      +--飯沼助宗
ということだろう。
123日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:11
>>122
あっそ。
124日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:16
ぶは あの女装姿は気持ち悪いー
いったい何の撮影かしらんが、踊る謎の女八郎、ってな感じだ。
125日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:17
平頼綱説の根拠は「吾妻鏡」にあるが、そこには「平左衛門尉頼綱」とある。
これを「たいらの・さえもんのじょう・よりつな」と読んだのだろうが、
それが間違いのもと。
正しくは「へいざえもんのじょう・よりつな」と読み、「平左衛門尉」の平は、
姓ではなく、梶原平三景時の「平三」と同じ通称。
頼綱の弟の光綱は「次郎左衛門尉」とあるが、もし上の「平左衛門尉」の平を
姓とするなら、光綱の姓は「次郎」になってしまう。
つまり、「吾妻鏡」は、平頼綱と表記しているのではなく、梶原景時を
平三景時と記すように頼綱の名前を書いているにすぎない。
つまり
「○○平左衛門尉頼綱」
「長崎次郎左衛門尉光綱」
と表記される名前で頼綱の場合は、光綱の長崎に相当する名字が書かれていないだけ。
126日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:32
>>125
梶原平三景時ということは
平平頼綱(たいらへいよりつな)とか
長崎平頼綱(ながさきへいよりつな)とかってこと?
127日本@名無史さん:2001/08/20(月) 18:01
>>125
同意
それでなきゃ頼綱だけが本姓で書かれるというか...
本姓で書かれたと誤解されてきたわけだね。
128日本@名無史さん:2001/08/20(月) 18:03
125=127
一人でな〜にやってんの?
129日本@名無史さん:2001/08/20(月) 18:29
梶原景時が「平三」として登場するときは、たいてい「梶原平三」と
書かれる。「由利中八」も同じ。

もし、頼綱が長崎姓で「平左衛門」が通称ならば「長崎平左」と出て
くるはずだが、そんな史料はない。
124もまた、「可能性がある」程度の幻想でしかない
130日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:28
>>126
名前の読み方の基礎を勉強したらどうか。
長崎平左衛門尉頼綱
梶原平三景時の「平三(へいぞう)」に相当するのは「平左衛門尉」になる。
頼綱の弟は「次郎左衛門尉」であり、頼綱は「平太」あるいは「太郎」なのだが、
父の盛綱もそうだが長子は「平(へい)」とのみ書き、それに「左衛門尉」という官位を
つけて「平左衛門尉」となる。

>>129
景時は「平三景時」という呼ばれ方もある。清盛も「平太清盛」と呼ばれていた。
頼綱もそれと同じように「平左衛門尉頼綱」と呼ばれている(吾妻鏡)。
131日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:33
>>97>>107についての説明はどうでしょう?
平左衛門入道の略が平入道になってるそうですが……
132日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:37
>>130
うそつけ、ば〜か。
133日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:37
>>125
「吾妻鏡」の
「平左衛門尉頼綱」は、「平(左衛門尉)頼綱」ではなくて、
「○○(平左衛門尉)頼綱」が正しい読み方で、○○=長崎というわけだろう。
134日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:42
>>131
「平入道(へいにゅうどう)」は、「平左衛門尉入道(へいざえもんのじょうにゅうどう)」を
略称してるだけじゃん。
もし「平入道」の「平」を本姓の「たいら」と解釈したいのなら、本姓と通称に宗と相当する「入道」は
続けて表記しない。
135日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:42
>>133
それにしてもさ、一回ちゃんと長崎平左衛門尉頼綱と記してるなら
信じてもいいけどさ、いきなり略称だけはおかしいよ。
136日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:47
>>131
源八幡太郎義家とはいわないのと同じ。
八幡太郎源(朝臣)義家(はちまんたろう・みなもとあそん。よしいえ)というように、頼綱も
平入道平(朝臣)頼綱(へいにゅうどう・たいらのあそん・よりつな)となる。
137日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:53
>>130
長崎を名乗る前は
平平(官職)○○
138日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:54
>>135
誤解しないように、長崎説が問題になっているのではなく、
平頼綱説が根拠とする「吾妻鏡」では、平頼綱にはならないことが問題になっている。
「吾妻鏡」は、平頼綱(たいらの・よりつな)と書いているのではなく、
平左衛門尉頼綱(へいざえもんのじょう・よりつな)と書いてあり、平左衛門尉の平は、
本姓の平(たいら)ではなく、通称につけられる平(へい)だと言っているだけ。
長崎頼綱という表記は「吾妻鏡」にはないが、同様に、平頼綱という表記もないということ。
つまり、頼綱は、平姓か長崎の名字かはともかく、姓も名字も付けられずに通称表記されているということ。
139日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:56
>>136
八幡太郎なら平太郎と違うんか。
140日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:01
>>139
ちゃんと読めよ(笑)
本来なら「平太」「太郎」とでも名付けるが、頼綱の父の長崎盛綱の時から
長子は、単に「平(へい)」とのみ表記しているんだよ。
長子=平左衛門尉
二男=次郎左衛門尉
141127:2001/08/21(火) 01:02
>>128
違うよ
142138:2001/08/21(火) 01:07
 だからね、私が言いたいのは通称表記のみしか出てこないなんてことが
ありえるのか、ということです。義経ですら源九郎義経とかかれた後、
九郎義経と書かれてるのではないの?
 それから、検索してみたら頼綱をさして平金吾の書いてある資料も
あるようです。金吾は衛門の中国風の言い方ですが、通称をわざわざ
言い換えるでしょうか。
143日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:08
>>138
だから当時は「平左衛門尉頼綱」と呼ばれていたのを
後生の人が
平・左衛門尉・頼綱
と勝手に解釈したということでしょ。

それでないと
北条やその他が平でないのが説明できないよね。
144fff:2001/08/21(火) 01:09
梶原平三景時の「平三(へいぞう)」に相当するのは「平左衛門尉」になる
>>○佐衛門は3男の名前ですか。?
145142:2001/08/21(火) 01:10
ごめん間違えた。私は135です。>>138にレスつけるつもりでした。
146日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:20
>>142
だから、なぜ、頼綱が、通称表記しかされていないのかと疑問視しているんだよ。
「吾妻鏡」の「平左衛門尉頼綱」という表記の「平左衛門尉」は通称+官位の類いの名前表記だから。
義経の源九郎も、源(姓・みなもと)+九郎(通称・くろう)ではなくて、
源九郎(げんくろう)という、それ自体が通称。
平金吾も「へいきんご」という通称。そういう場合の「平」は姓ではない。
というのも、姓と通称は並べないから。源八幡太郎とは言わないように。

>>143
そういうことです。
147日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:23
>>144
三男は、三郎左衛門尉でしょう。
148日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:24
>>146
「吾妻鏡」に「平左衛門尉頼綱」という記載は見当たらないけど。
よく似た記載はあるけど。
149日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:24
>>144
あのね平三は景時,平左衛門尉は頼綱

角田文衞が「平家後抄」で
長谷部信連
http://www.google.com/search?sourceid=navclient&q=%92%B7%92J%95%94%90M%98A
を通称「長兵衛尉」と呼ばれていたと記述しているのを同じ。

漏れはこれで125さんに同意した。
150142:2001/08/21(火) 01:26
左衛門尉や金吾を素直に官位ととれば解決すると思うが。
補任されてるかどうかが問題か……
151日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:27
吾妻鏡の巻51にあるのは「平新左衛門尉頼綱」(へいしんざえもんのじょう・よりつな)。
152日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:30

わけわからんなぁ

当時、「源」「平」という名乗りは一部の家を除いて使用を禁止
されていたのではないか?

しかしながら「長崎頼綱」という名乗りはおかしい 「長崎平左衛
門尉/平頼綱」でなければならない しかし、「平」は名乗れない
はず

いったいどうなってんの?
153日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:32
154日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:34
>>152
いやいいの
「北条太郎/平時宗」だから
155153:2001/08/21(火) 01:34
>>151
スマソ かぶった
156日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:36
>>150
そう、左衛門尉は官位です。頼綱は、平姓で左衛門尉という官位の持ち主なので、
平左衛門尉(へいざえもんのじょう)という通称なのです。この場合の「平」が本姓の
「たいら」ではなく、「平太」という類の通称の「へい」であるのは、姓と官位は続けて並べないからです。
157日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:38
>>142
この頃にはかなり形骸化して自称もありと思われ

成功による補任の可能性もあるが
158日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:39
>>152
平という姓が名乗れないなら、平頼綱は無いことになるね。
159152:2001/08/21(火) 01:41
使用制限があるのは「源」だけだったかな?
160日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:44
>>156
姓と官位は並べない。
確かに、源左馬頭義朝とはいわない。
左馬頭源(朝臣)義朝になる。
頼綱も、平左衛門尉平(朝臣)頼綱だね。
161日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:47
>>155
>>151をよ〜く見てミソ。
「新」が入ってるでしょ。
162日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:48
>>159
使用制限があるのではなくて、鎌倉時代は、姓より名字の時代なんです。
御家人の名字の認証を、頼朝は、権威の根拠としたのです。
頼綱は、北条徳宗家の御内人であり御家人ではありませんが、
北条徳宗家そのものが御家人なので、御内人だから名字でなくてもよいということには
ならないと思います。
163日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:49
「吾妻鏡」に
平三郎兵衛尉盛綱
って出てくるけど。
164日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:50
>>161
「新」があってもなくても、平新左衛門尉の平は、通称の「へい」ですよ。
165日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:51
吾妻鏡の巻51にあるのは「平新左衛門尉頼綱」(へいしんざえもんのじょう・よりつな)。

吾妻鏡の巻51にあるのは「平新左衛門尉頼綱」(へいしんざえもんのじょう・よりつな)。

吾妻鏡の巻51にあるのは「平新左衛門尉頼綱」(へいしんざえもんのじょう・よりつな)。
166日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:52
>>164
今までの説明と違うじゃん。
167日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:54
>>163
それは頼綱の父親です。三男なので「平三郎」なのです。
「へいざぶろうひょうえのじょう・もりつな」です。
168日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:56
>>166
同じじゃん。官位の前の「平」は、姓の「たいら」ではなくて、通称の「へい」と言ってるんだから。
169日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:57
>168
新は官位じゃねえだろう。
170日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:59
>>169
通称の構成要素でしょう。
「新しく左衛門尉になった」という意味の。
171日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:01
>>169
官位以外にも通称も姓(氏)とは並ばないと思われ
172日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:01
座間市アナンだよね。
173日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:02
私も>>125さんに同意。
たぶんそれがもっとも妥当な理解でしょう。
174142:2001/08/21(火) 02:02
それでは、「平」が姓ではなくて苗字だという可能性はないのでしょうか?
「平」という地名も探せばでてきそうですが……
175日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:03
ここおもしろい
176日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:04
>>171
だから、平新左衛門尉の「平」は、通称であって、姓ではないと言ってるんだけど。
何度、同じことを言えばいいのかな。
177日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:05
>>174
平左衛門尉、平新左衛門尉の「平」は姓ではなく、「平氏の者」という意味の通称。
178日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:06
>>176
おい,落ち着け
援護したつもりだが
179日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:09
平清盛の平は姓だけれど、平太清盛の平は通称の構成要素ということね。
源義平の源は姓だけれど、源太義平の源は通称の構成要素ということね。
180日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:10
名前論争で盛り上がってる。
北村一輝関係ないやん(藁
なんか頼綱、悪人みたいだなー。いつか時宗を後ろからグサリと刺しそうだ。
181日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:11
「吾妻鏡」での頼綱の表記は

平新左衛門三郎
平新左衛門三郎頼綱
平新左衛門尉頼綱
182日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:13
だから、平新左衛門尉頼綱の平は姓ではなく、通称の構成要素。
つまり、そこから平頼綱という見方にならない。
頼綱の正式の名前は、平頼綱だが、それは時宗が平時宗であるのと同じ。
時宗が北条なら、頼綱もまた姓の平ではありえない。
そういうことになるね。
183176:2001/08/21(火) 02:15
>>178
Danke Schoen.
184142:2001/08/21(火) 02:15
>>177
 頼綱一族が平・関・長崎・飯沼とバラバラの苗字を使ってた
可能性がないのかな、と思ったのです。
 「平頼綱」が「たいらの よりつな」ではなく、
「たいら よりつな」とか「ひら よりつな」だったとかいう可能性が。
185日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:16
>>182
下々が名字を名乗るなど30年早いわ!!!
186142:2001/08/21(火) 02:18
>>185
 ? 長崎は苗字でしょ
187日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:22
>>184
長崎氏は、本姓は平氏とされているから、頼綱の姓も平であり、
正式の名前は、平頼綱になる。しかし、頼綱を正式の名前で呼ぶなら、
時宗も正式の名前の平時宗と呼ばなければならない。
頼綱の平が名字であることはありえない。
長崎一族の中で、頼綱だけが、名字を欠落されて表記されている。
事情は分からないが、頼綱は長崎ではないとしても、平でもない。
いわば、名無しの頼綱のようなもの。
188日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:25
鎌倉幕府「新編追加」より

飯沼大夫判官助宗
大瀬左衛門尉惟忠
長崎左衛門尉光綱
工藤右衛門入道杲禅
平左衛門尉宗綱
189日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:27
>>188
宗綱は、後に長崎平左衛門尉宗綱と名乗っている。
190日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:33
平左衛門尉宗綱の「平」が姓の平ならば、
長崎平左衛門尉宗綱とはならず、長崎左衛門尉平宗綱になるはず。
191日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:34
>>188
当スレでは今後
「平頼綱」
と呼ぶことに決定いたしました。
192日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:35
>>190
しかし、長崎左衛門尉平宗綱ではなくて、長崎平左衛門尉宗綱だから、
そこに含まれる「平」は姓ではなく、通称の構成要素。
193日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:36
>189
名乗ってねえよ。
194日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:36
>>191
どういう解釈したらそういう結論になるんだ?
面倒だから平でいいやとしか思えんが
195日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:37
>>191
それは君の自由だけれど、ここでの論議のレベルからすると
かなり程度が低いよ(藁
196日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:38
>>192
ならどうして長崎左衛門尉光綱には太郎とか次郎とか
ついていないんだ。
197日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:38
>>189
名乗ってなかったらどうなるの?
198日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:39
>>197
宗綱も、名無しの宗綱だよ。
199日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:41
>>196
光綱は、長崎次郎左衛門尉光綱だよ。
ちゃんと前の方に出てるよ。ログはちゃんと読もうよ。
200日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:42
>>199
>>188をよ〜くよ〜く見てみようよ。
201142:2001/08/21(火) 02:43
>>189 宗綱は、後に長崎平左衛門尉宗綱と名乗っている。 う

とりあえず、そう名乗ってる(または呼ばれてる)文献の名前と
該当箇所を出してください。
202日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:45
>>200
光綱は、長崎次郎だよ。
203日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:48
>>202
>>188を見た結果がそれかい。
204日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:48
>>201
それよりも問題は、平左衛門尉○綱という名前の「平」が姓ではなくて、
通称の構成要素であるということの確認が第一だと思うけれども。
俺は、宗綱が長崎だろうが、名無しだろうが同じだと思う。
205日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:50
>>203
あなたは、平左衛門尉の「平」は何だと理解しているの?
206日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:53
私も>>125が、ほぼ正解だと思う。

平頼綱説の根拠は「吾妻鏡」にあるが、そこには「平左衛門尉頼綱」とある。
これを「たいらの・さえもんのじょう・よりつな」と読んだのだろうが、
それが間違いのもと。
正しくは「へいざえもんのじょう・よりつな」と読み、「平左衛門尉」の平は、
姓ではなく、梶原平三景時の「平三」と同じ通称。
頼綱の弟の光綱は「次郎左衛門尉」とあるが、もし上の「平左衛門尉」の平を
姓とするなら、光綱の姓は「次郎」になってしまう。
つまり、「吾妻鏡」は、平頼綱と表記しているのではなく、梶原景時を
平三景時と記すように頼綱の名前を書いているにすぎない。
つまり
「○○平左衛門尉頼綱」
「長崎次郎左衛門尉光綱」
と表記される名前で頼綱の場合は、光綱の長崎に相当する名字が書かれていないだけ。
207日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:54
>>205
長崎平左衛門尉宗綱の出典が明らかになるまでは姓。
208日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:55
頼綱は、長崎頼綱ではないが、時宗が北条時宗と呼ばれている現実では、
平頼綱ではありえないことが、「吾妻鏡」の読み方から示されたと思う。
209日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:55
>>204
つまり
例えば梶原景時が
平三右衛門景時とでも史料にあれば
平景時と現在呼ばれていた可能性もあったという
ことと同じかな?
平三右衛門は今勝手に漏れは考えた例だけど
210日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:56
>>206
コピペしてなんの意味がある?
211日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:58
>208
示されてないよ。
212日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:59
>>207
それは、姓氏の基礎知識の欠落です。
姓と官位は、姓+官位の順で並置しませんよ。
平左衛門尉の平は、平氏の者という意味を示しますが、
姓の平ではありません。
つまり、頼綱は、時宗と同じく平氏の出ですが、
名字は不明ということしか、平左衛門尉頼綱という名前からは
分からないのです。
213日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:00
>>211
主観的確信ではなくて、ちゃんとログを読み、
必要な反証をしなさいよ。
214日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:03
>>212
御託はいいから
長崎平左衛門尉宗綱の出典を
はよ示せや。
そしたらすべてが解決するわ。
215日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:04
>213
てめえはカマか、気持ち悪い。
216日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:04
>>210
論議の基本ログは、これだし、前に戻らなくても読めるようにしたんだけど。
217日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:06
>>216
新が抜けてるよ。
218日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:07
>>214
あのな>>212は、長崎説なんて言ってないじゃん。
吾妻鏡の表記では、名字の不明性しか分からないと言ってるだぜ。
>>215
そんな下らないことしか言えないのなら、去れよ。
219日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:08
 >>184がいうように名字が「平」ってことなら
>>188もわかりやすいのだがな。
たとえば「ひら さえもんのじょう よりつな」
どうせ本姓の「平氏」自称だろ。
220日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:09
>>214
それよりも、平左衛門尉の平は、姓ではないという理解が重要なんだよ。
221日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:10
>>218
あのな頼綱じゃねえんだよ。
宗綱なんだよ。
222日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:13
>>221
宗綱も同じじゃん。
宗綱の平左衛門尉の平は、姓だと言うのか?

姓は、姓の次ぎに官位を続けない。
だから官位の前にある平は姓にはならない。

つまり、頼綱も宗綱も、名字不明ということ。
223日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:17
平新左衛門尉頼綱(へいしんざえもんのじょう・よりつな)
平左衛門尉宗綱(へいざえもんのじょう・むねつな)

「たいらの・しんざえもんのじょう」や「たいらの・さえもんのじょう」
ではないんだよ。
224日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:19
もし、本姓の平を用いるなら
新左衛門尉平頼綱
左衛門尉平宗綱
になるけどね。
225日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:19
>>222
>>189を読んだ?
この出典がわかれば
姓だの官位だのいちいちいわなくても
わかるだろ。
226日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:20
40 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/08/11(土) 00:58
系図

長崎盛綱----平頼綱----長崎宗綱
          --飯沼為綱
          --長崎頼基
     --長崎光綱--長崎高綱---長崎高資---長崎高重
227日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:23
>>225
そいつの言い分は知らない。
ただ、論議の推移を見ていけば、宗綱が長崎だったか、そうでなかったかなんて
重要じゃないじゃん。
出典云々で、何を求めているの?
もし、宗綱は平左衛門尉だったとしたら、どうだと言うの?
そこにある平は、姓だと言うわけ?
228日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:24
もうネタ切れ?
そろそろおひらき?
また珍説期待してます。
どなたか知らないけど頑張ってね!
229日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:25
正しくはこうだと思う

長崎盛綱----○○頼綱----○○宗綱
           --飯沼為綱
           --長崎頼基
     --長崎光綱----長崎高綱---長崎高資---長崎高重
230日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:26
>>228
主観的確信に溺れるわけね。
君には史学の基礎力が無いのが残念だな(笑)
231日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:28
吾妻鏡からも平頼綱説は根拠付けられないことが分かったところで、
今夜はこれにて。
平頼綱説の方は、根拠を提示して下さい。
232日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:31
>228
何を言っても、
宗綱の平左衛門尉の平は、姓だと言うのか?

これに答えない限り、あなたは逃げてるだけだよ。
233日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:46

「北条時宗」だっておかしい 正しくは「北条相模守」「平時宗」
だろ
234日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:49
時宗が平時宗という次元では、頼綱も平頼綱が正しいのだから話はややこしい。
要するに、北条時宗という現実では、頼綱は平頼綱ではありえないとうことだろう。
ログを読み、「吾妻鏡」を見てみたが、確かに、吾妻鏡の書き方では、
頼綱を平頼綱と理解することは出来ない。
これは推論にしかすぎないが、頼綱は平禅門の乱によって長崎一族からは
「除籍」のような扱いを受けたのではないか。そのため長崎氏が内管領を務めた
鎌倉時代の吾妻鏡から、頼綱の名字は表記されなかったのではあるまいか。
それが、名字の無い、「平新左衛門尉頼綱」という座りの悪い表記になったのではないか。
235日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:55
吾妻鏡全巻を読むことをおすすめする。
236日本@名無史さん:2001/08/21(火) 03:57
といって吾妻鏡も完全に信じられるものでもなく
北条氏のイデオロギー操作が作用しているが。
237日本@名無史さん:2001/08/21(火) 04:25
今時、吾妻鏡を完全に信じているやつなんていない。
いちいち断る人がいるけど、不要だと思われ。
238日本@名無史さん:2001/08/21(火) 09:47
平左衛門尉を「へいさえもんじょう」なんていうのかい。
そりゃ平三、源太、藤次郎、喜八、勘太、善七、文五みたいに通称(輩行)につくのや
あるいは通称化した官職、吉左衛門、清兵衛、忠内、惣兵衛、伝蔵、長助なんかは
姓を音読してるのだろうが、左衛門尉なんて官職についているのは
名字だろ。名字には姓とは別に地名など新たに名乗ったのもあるが
姓がそのまま名字になったのも多いぜ。頼綱以前の得宗被官もそうだからな。
頼経の辞職を伝えに上洛して頼嗣の将軍宣旨をもらってきた平盛時とかな。
中原とか大江とか何となく執事的な身分の者に多いような気がする。
239日本@名無史さん:2001/08/21(火) 10:33
>>188を素直に読むと平は苗字だと思われる。
そうすれば5人とも苗字+官職名+諱ということになる。
よって「長崎頼綱」ではなく「平頼綱」
「たいらのよりつな」ではなく「たいら(ORひら)よりつな」
だと思われる。
240142:2001/08/21(火) 12:51
 おおっ、やっと苗字説に賛同者が出てくれた。なんか無視されてて……
証拠はないけど理屈は一番とおってると思うのだが。
 後は長崎(長前)が神奈川県の地名で、飯沼が千葉県のだからそのあたりで
平という地名を見つけて頼綱とその土地との関係を立証できればいいのだけど。
241日本@名無史さん:2001/08/21(火) 13:08
>>240
そもそも平なんて苗字はあり得ないっていうのが
前提みたいになっていたからね。
238さんによると苗字は必ずしも地名とは関係しないみたいだし。
身近に平(たいら)さん、平(ひら)さんがいるのだけれど
全然説得力がないか。
242日本@名無史さん:2001/08/21(火) 14:34
>>238
現代の感覚で”素直”に読んではいけないんだよ。官位の前には姓は並べないんだよ。
だから平左衛門尉頼綱の最初の「平」は姓ではなく、平氏の者という意味の通称。「へいざえもんのじょう・よりつな」と読む。
もし、姓としての平を用いるなら、左衛門尉平頼綱と表記しなければならない。「さえもんのじょう・たいらの・よりつな」と読む。

また、平を姓ではなく苗字ではないかという見方もあるけれど、残念ながら平という苗字は存在しない。
もし頼綱の平が苗字なら、頼綱は歴史的人物だから、「姓氏家系大辞典」でも取り上げられているはずだ。
しかし無いということは、頼綱の平は苗字ではないということ。

誤解の無いように言うと、「平頼綱(たいらの・らいつな)」という名前は、「平時宗(たいらの・ときむね)」
と同じ程度に正しい。しかし、時宗も北条時宗と苗字で呼ばれる現実(実際は、時宗は実名なので呼ばれず、
北条相模守とでもいうのだろうが)では、頼綱も本姓の平頼綱で呼ばれることはなく、何がしかの苗字で呼ばれて
いたのではないかということ。もちろん、これは推論にしかすぎない。しかし、「吾妻鏡」の表記の仕方とその読み方
からすると、「平新左衛門尉頼綱」の平を姓と理解して平頼綱と読むのは無理で(平三景時を、平景時と読まないように)、
「平氏の出の新しい左衛門尉の頼綱」という意味で、苗字が省略されているとしか読めない。
通称で「源」や「平」の字を使う場合(源太義平、源次綱、平太清盛、平三景時)と、姓としての「源」や「平」を
用いる場合、現代人には本姓と通称の感覚が分かりにくいが、きちんと識別しないと当時の名前の正しい理解は出来ない。
243日本@名無史さん:2001/08/21(火) 14:39
うーーん、頼綱の平を苗字と見なすのは、長崎頼綱説以上の暴論だと思う。
それに長崎頼綱説には、藩鑑譜や関氏系図、長崎氏系図などの、まがりなりにも
史料(信ぴょう性の度合はともかく)があるが、平=苗字説は、根拠の無い思いつき
の域を出ていないと思う。
244日本@名無史さん:2001/08/21(火) 14:43
>>242

3番目の文章の
「平頼綱(たいらの・らいつな)」は
「平頼綱(たいらの・よりつな)」に
訂正。
245日本@名無史さん:2001/08/21(火) 14:54
史書に頼綱の名前を「平頼綱」と記してあるのは、頼綱の苗字が不明だからだろう。
長崎氏の2代目だから、長崎頼綱だった可能性もあるが、そう記した鎌倉時代の史料がないため、
ただ単に「頼綱」と記すことも出来ないため、頼綱の姓の平を用いて「平頼綱」と本姓表記に
しているのではないだろうか。
私も、吾妻鏡の中の頼綱の名前の書き方からでは、頼綱の苗字は不明としか読めない。

北条相模守時宗あるいはではあっても、平相模守時宗ではない。正しい表記は、北条相模守平時宗となる。
頼綱もまた、○○平新左衛門尉頼綱か、○○新左衛門尉平頼綱にしかならない。
246142:2001/08/21(火) 15:05
 暴論なのはわかってるが、>>242の『姓氏家系大辞典』が書かれた時点で
「平頼綱(たいらの よりつな)」というのが定着してたら、苗字「平」が
採用されてなくても無理はないと思うよ。
 あと『とはずがたり』の「平左衛門尉入道」という言い方が引っかかる。
「平左衛門尉」を一続きの通称だとすると、通称+入道 になってしまう。
こういう例は他に見たこと無いと思うのだが。苗字+官位+入道 なら
おかしくないけど。それなら「平入道」も官位をとばしただけで、すっきりする。
247日本@名無史さん:2001/08/21(火) 18:38
そもそも頼綱の(新)左衛門尉が官職名とは思えぬが…
兵衛・衛門は、かなり早くから通称化・僭称が見られる。

平頼綱は確かに「左衛門尉」に任官したのかい?
248日本@名無史さん:2001/08/21(火) 18:42
>>242
正しく日本史(中世史)を学び、東鑑を読んだも者の感覚として
242の言うことは妥当とは思えない。
(「平新左衛門尉頼綱」の平を姓と理解して平頼綱と読むのは無理で)
という部分。別に無理ではない。
238の前半部分は、間違っているが、後半部分(本姓の名字化)の方が
242より遙かに理解しやすい。
249日本@名無史さん:2001/08/21(火) 18:50
なんとなく思ったが、「氏」と「姓」の使い方が242はおかしい
だからかみ合ってない
250日本@名無史さん:2001/08/21(火) 18:54
位記・口宣案とか、朝廷の正式文書で「平左衛門尉頼綱」と書かないのは確かだ
242の言うとおり「左衛門尉平頼綱」だろう。

ただ、「とはずがたり」とか「吾妻鏡」でこのスレで話題になっている部分は、
そんな正式なもんじゃないだろう。
251日本@名無史さん:2001/08/21(火) 18:55
鯖ようやく復活したか。

>>240
長崎は伊豆郡田方郡の長前(現在、田方郡韮山町長崎)
と「姓氏家系大辞典」にあるらしい。

>>246
「姓氏家系大辞典」第3巻(S38再版)4164−4166頁
に掲載されているそうだが
第3巻は「な」からなので「長崎」の項と思われ。
252日本@名無史さん:2001/08/21(火) 19:29
>>242
なぜ、平太でもなく平次でもなく平三でもなく
平一字だけなのだ?
頼綱とその長男の苗字は不明で
次男のみが飯沼とわかっているのか?
姓氏家系大辞典はそれほど権威のある絶対的なものなのか?
253日本@名無史さん:2001/08/21(火) 19:43
>>245
長崎氏の二代目って、初代はだれよ。
その人、長崎を名乗っていた形跡あるの。
254日本@名無史さん:2001/08/21(火) 22:44
>>253
頼綱の父の盛綱。
網野善彦によると

 長崎盛綱-------平頼綱
+
+----長崎光綱
となるらしい。
255日本@名無史さん:2001/08/21(火) 22:48
>>249
どうおかしいのか書かないと意味ないよ。
>>242の姓や苗字の理解の仕方は間違っていないよ。
256日本@名無史さん:2001/08/21(火) 22:56
>>255
 氏……藤原・源・平・大伴・橘 など
 姓……朝臣・宿禰・真人・連 など
 苗字(名字)……近衛・足利・北条・織田 など
257日本@名無史さん:2001/08/21(火) 23:47
   −( 平 )盛時−頼綱−宗綱
   |
盛綱−+
   |
   −(長崎)光盛−光綱−高綱
258日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:03
一、寺社并京下訴訟事正応四、八、廿
急可申沙汰之由、可被仰奉行人并五方引付、此上令延引者、
可触訴飯沼大夫判官助宗、大瀬左衛門尉惟忠、長崎左衛門尉光綱、
工藤右衛門入道杲禅、平左衛門尉宗綱歟
259日本@名無史さん:2001/08/22(水) 00:37
258さん、おつかれさま。
これ以外にも平が長崎や飯沼、この場合だと工藤や大瀬などと並記されている例は枚挙に遑がない。
このスレでも他のスレでも、平説派は当時の史料の記述を何度も出しているのに
長崎頼綱と明記された史料は一度として出されていない。
これは非常に不公平だと個人的には思う。ま、それはおいといて。

源平藤橘などを氏と断定するのは正確ではない。
名字には地名などを負って新たに名乗ったものも多いが
氏がそのまま名字となったものも多い。
中には高(高階)、長(長谷部)、宗(惟宗)、菅(菅原)のように氏を省略したものもあり
また、中には長宗我部や香宗我部、竹野から派生した竹上・竹下のように
氏に更に字を加えることによって(上下の他に東西南北中奥なども)
出来た名字もある。これには近藤や遠藤、加藤・尾藤・伊藤みたいな類も含まれるだろう。
太田亮によれば佐々木も氏がそのまま名字になったものである(宇田源氏だろなんてツッコミは無しよ)
ちなみに彼の太田もそうで、彼によればこの種のものは全て姓氏家系辞書に載せてあるので
それを見れば出自が分かるそうである。そうでない名字はまずは自力で
氏までたどり着いてそれから見ると。辞典のほうには名字も沢山載ってるけどね。
でもやっぱり大半の人はある程度自力で遡らなくちゃいけないだろうね。
260日本@名無史さん:2001/08/22(水) 08:50
 
261日本@名無史さん:2001/08/22(水) 16:34
長崎頼綱(そう記載された当事の史料はあるのか?)

平頼綱(平という苗字はあり得るのか?)

??頼綱(なぜ苗字が不詳なのか?)

結局、結論はどれよ!!!
262日本@名無史さん:2001/08/22(水) 18:20
百歩譲って「頼綱の名字は不明」ってことにしたら
「じゃあなんて呼べばいいんだ」ってことにならんか?
「平頼綱」って呼んだら「じゃあ平時宗と呼べ」って言うんか?

所詮、当時の人間たちが「平頼綱」だの「北条時宗」なんて「名字+諱」みたいな
呼び方はしなかったんだから、後の世からどう呼ぶかは後の人が勝手に決めるしか
ないのでは?
263日本@名無史さん:2001/08/23(木) 00:56
平頼綱という表記は、正しいか否かではなくて、
そう表記するしかないのではないか。
平左衛門尉頼綱という場合の平は、姓(カバネではなく、源、平、藤原、橘などのこと)ではない。
姓としての平ならば、既出のように、左衛門尉平頼綱とする。
すると、平左衛門尉とは、平太、平三や源太、源次、源九郎のような通称なのかということだが、
平左衛門尉の平が、姓(源、平、藤原など)とも苗字(北条、足利、長崎など)とも解せないとすれば、
通称と解する他はない。
すでに見たように、姓としての平ならば、平左衛門尉という表記様式にしない。
また、平という苗字は史料的にも確認されていない。
とするなら、平左衛門尉頼綱という表記は、平景時でも梶原景時でもなく、平三景時に相当すると理解するのが妥当。
しかし、平三景時も、本来なら苗字を冠して梶原平三景時と表記する。木曾次郎義仲、鎌倉源太義平も同じ表記様式。
頼綱の場合も、梶原や木曾、鎌倉に相当するもの(頼綱の時代では苗字)が必要になる。
平左衛門尉頼綱だけでは、平三景時、次郎義仲、源太義平に等しいから。現代風に言えば、下の名前だけというに等しい。
どういう経緯でそのようになったのかは分からないが、文章に、姓あるいは苗字無しに名前のみを最初から書くわけにもいかない。
そこで、平左衛門尉(へいざえもんのじょう)ということが平氏の出と分かり、官位を受ける時の名前表記が「平頼綱」と分かるため、
後の世の人間が、表記上の方便として平頼綱としているのではないか。
264日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:11
>>261
長崎頼綱(そう記載された当事の史料はあるのか?)
尊卑分脈や藩鑑譜など後の史料には長崎頼綱の表記はあるが、鎌倉時代の史料
 たとえば吾妻鏡には長崎頼綱という表記はない。ただし、平頼綱という表記もない。

平頼綱(平という苗字はあり得るのか?)
 頼綱ほどの歴史的人物が平という苗字なら史料として残っているはずだが、苗字と
 しての平の史料や記録はない。

??頼綱(なぜ苗字が不詳なのか?)
 分からない。一つ考えられることは、源や平という姓から、苗字へ移行する時代の
 名前表記の変化の過程が反映しているのではないかということ。
 つまり、平盛国---平三郎盛綱---平左衛門尉頼綱---(弟)長崎次郎左衛門尉光綱
 という経過は、姓→苗字の歴史の現れであると。ただし、これは後知恵の解釈に
 すぎないが。
265日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:28
長崎頼綱(長崎平左衛門尉頼綱)という表記は、長崎氏や関氏の系図に見られる。
太田亮は、姓氏家系大辞典の「長崎」の項では、それらに基づき、以下のように記している。

尊卑分脈には、
 平重盛----左中将資盛----盛綱(長崎流)

関系図には
 重盛---資盛---盛国(左近大夫将監、関谷太夫、民部丞)---弟、盛綱(長崎平左衛門尉、平三郎)

関家筋目には
 長崎左衛門尉盛綱----長崎平左衛門尉頼綱----長崎平太郎左衛門尉宗綱/弟・飯沼安房判官為綱/弟・長崎三郎左衛門頼基
266日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:36
>>265
最近の研究によると>>257の系図らしい。
267日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:38
>>263
 ある特定の一種類の文書だけで(例えば吾妻鏡)「平左衛門尉頼綱」
と記されているのなら、「平左衛門尉」は通称で、何らかの理由で苗字が
省かれて記載されたと信じてもいいのです。このスレでも頼綱は謀反人として
死んだので、生き残り権力を握った長崎氏が長崎一族とみなさず、長崎を
省いたのでは、という推論が出されてましたが、それを納得しても良いのです。
 しかし「平左衛門尉」の前に何もつけないのは、一種類の文書だけではない。
日蓮宗関係の文書、『とはずがたり』、手紙などでも一定して、前に何もつけてない
ことが、疑問なんです。これらバラバラの文書が揃いも揃ってあるべきはずの
苗字を省き、通称+諱だけ、または通称だけを記すことがありえるのか。
 それなら、用法を間違って氏族名の「平(たいらの)」を前につけてしまった
(これも揃いも揃って間違えるか? と思いますが)、または「平」は苗字として
使っていた、と考えるほうが無理がないと思います。
 後世の人が「平」という字を見て、反射的に平清盛などの平氏を思い出し、
勝手に「平頼綱」=「たいらの よりつな」にしてしまったため、「平」が
苗字と認識されなかったので、「平」という苗字は存在しない、ということになってしまった
可能性もあると思いますが。>>258の史料に載ってる他の人名と比べてみれば、
明らかに「平」は苗字のくるべき位置にあり、苗字として使用されてると思いますが。
268日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:39
ただし上記の尊卑分脈その他は後世の系図史料であり、頼綱の弟の長崎次郎左衛門尉光綱の
子孫の手になるものであり、先祖の係累の名前を長崎の苗字に変えたとも考えられる。
例えば、北条の苗字を名乗ったことのない伊勢新九郎(宗瑞)が子孫により北条早雲とされたように。

ただ、ここで注目すべきは、長崎平左衛門尉、長崎平太郎左衛門尉という表記があること。
これらは、長崎の苗字を外した平左衛門尉の平が姓ではないことを示している。
苗字+姓+官位という表記は史料的にも存在しない。
269日本@名無史さん:2001/08/23(木) 01:51
>>267
私も同様に思います。複数の文書であれば、やはり頼綱は苗字を削除されたとか、
何らかの理由で記載されなかったとは考えにくい。
平左衛門尉頼綱の平は、苗字ではないが、苗字に相当するものとして当時は見られていたのではないでしょうか。
>>264にある「源や平という姓から、苗字へ移行する時代の名前表記の変化の過程が反映しているのではないか」
ということが妥当なのかもしれません。その意味では、頼綱は、姓氏家系史において考察するにふさわしい人物
かもしれない気がします。
270日本@名無史さん:2001/08/23(木) 02:37
このスレ、頼綱の名前への執拗なこだわり、日本史板に
一番ふさわしい。
271日本@名無史さん:2001/08/23(木) 14:15
この問題を論じるには二つのステップが必要だとおもう。
第一のステップは長崎の苗字か平かどうか。
・・・これは後世の記録しかないため却下した方が良いと思われる。

第二のステップは残った平が(明確な)苗字か通称かどうか。
・・・これは平が苗字という根拠が無いので却下した方がよいと思われる。

現在の史料では推測できるのはここまで。
つまり、平頼綱は長崎でもないが平の苗字でもない。
だが、そうなると問題になるのは頼綱の苗字にあたるものは何だったのか?
ということだと思う。

結論から言うと、それが本姓の平であるということでしょう。
つまり頼綱は苗字は無いが、本姓の平を苗字同様に使用していた。
というか、苗字と本姓の区別は当時あまり明確ではなかったのではないだろうか。
272日本@名無史さん:2001/08/23(木) 17:44
>>271
次男には苗字があるのにその父(頼綱)、兄に苗字がないというのはいかにも不自然。
>>258を見ると平は苗字同然というより苗字そのものに見える。
273日本@名無史さん:2001/08/23(木) 18:47
>272
>次男には苗字があるのにその父(頼綱)、兄に苗字がないというのはいかにも不自然。

なぜ不自然かわからない。理由を教えてくれ。
次男は庶流ということで、だからこそ苗字を名乗ったとも考えられる。
274日本@名無史さん:2001/08/23(木) 18:49
>>271
>第一のステップは長崎の苗字か平かどうか。
・・・これは後世の記録しかないため却下した方が良いと思われる。

間違えた。ここで却下するのは長崎姓の方。
275日本@名無史さん:2001/08/23(木) 18:51
ということは平姓平氏ということかな。
276日本@名無史さん:2001/08/23(木) 19:05
>>274
そんなこと言うと、せっかく進展してきた論議を戻してしまうことになる。

長崎も平も却下だよ。
当時の史料には、長崎頼綱も平頼綱という表記は無い。
277日本@名無史さん:2001/08/23(木) 19:10
平盛国----平三郎盛綱----平左衛門尉頼綱----平太郎左衛門尉宗綱
                    +--飯沼安房判官助宗
           +--長崎次郎左衛門尉光綱  
278日本@名無史さん:2001/08/23(木) 19:20
>>273
武士にとっての苗字の意味をよ〜く考えてみようね。
279日本@名無史さん:2001/08/23(木) 19:53
>>267>>271の最後の部分に俺も賛成。
そもそも、姓と名字を厳密に区別してるのは現代の我々の方ではないのか?と
思ったりもする。
280日本@名無史さん:2001/08/23(木) 19:55
>>268
>北条の苗字を名乗ったことのない伊勢新九郎(宗瑞)が子孫により北条早雲とされたように。

ということは「北条早雲」と呼ぶのと同じくらい「長崎頼綱」は正しい
ってことになっちゃうが…
281日本@名無史さん:2001/08/23(木) 20:15
>>280
そもそも論を話しているのであって
単に呼ぶだけならかまわないと思うが。
ただ光綱を頼綱の弟とはせず別系としているものもあるので
そうすると長崎と呼ぶこともできなくなると思うが。>>257
282日本@名無史さん:2001/08/24(金) 00:27
>また、平という苗字は史料的にも確認されていない。

おいおい。そりゃ、あんたは確認してないかも知れないが
古代の氏がそのまま苗字になったのなんてやたら多いって。
もちろん平に限らず、源藤橘清中原大江その他もろもろ。
太田亮も新たに名乗った苗字よりこちらのほうが多いと言っている。

これまで何度も挙げられてるように当時の史料に
一つの文章中に飯沼その他の苗字と共に平(頼綱)が見えることから
平は苗字と考えてよい。そもそも高資や円喜たちには
長崎と明記されてる当時の史料がある、というよりほとんどがそうである
のに対して頼綱は一例もない。逆に高資たちを平と呼んでる
ものは管見ではない。少なくとも生前彼らは平頼綱、長崎円喜・高資と
認識されていたのである。後代の人間がどう呼ぶかはまた別問題である。
283日本@名無史さん:2001/08/24(金) 09:58
>>282
「平は苗字と考えてよい」なんてことはないよ。苗字としての平なんて初耳。
平はれっきとした姓。ただ、苗字のように使用されているということ。
安達泰盛のような御家人にとっては名字は、支配地との関係から重要なものだったが、
御家人ではなく、得宗御内人である頼綱のような人間には、御家人ほど名字に重要性は
なかった。だから、本姓の「平」と、通称の「平左衛門尉」のままで、本姓の平がそのまま
名字の役割をしていたと考えられる(しかし、これは、平が名字であることを意味しない)。
とは言え、鎌倉後期には御内人も名字が一般化し、頼綱の弟とされる光綱は、一族の出自の
地から長崎を名字にした。

頼綱の「平」には2通りの用法がある。
1.「平頼綱(たいら・の・よりつな)」という場合の姓としての平。
2.「平左衛門尉(へいざえもんのじょう)」という通称としての平。

吾妻鏡に記されているのは、2の方であり、1の「平頼綱」は、官位を受ける際
か、後世の表記にすぎず、頼綱に名字がなければ、2が通例だったろう。
そして、通称としての「平左衛門尉」が、形式的に名字の役割をしていたといえるだろう。
284日本@名無史さん:2001/08/24(金) 10:02
>>279
姓と名字を厳格に区別したのは御家人たちだよ。
彼らには、本姓より、自分の支配地を示す名字の方が重要だった。
だから支配地が変われば名字も変わった。
名字が定着するのは室町時代だろう。名字→苗字への変化。
285日本@名無史さん:2001/08/24(金) 10:19
>>283
頼綱は出てきませんが>>258の表記については
どのように解釈されますか?

吾妻鏡で頼綱は
平新左衛門三郎
平新左衛門三郎頼綱
平新左衛門尉頼綱
と表記されています。
286283:2001/08/24(金) 10:37
>>285
>258の表記も、吾妻鏡の表記も、通称の平であり、平の一字ではなく、
平新左衛門三郎、平新左衛門尉というように官位と列記され、平の字は「へい」と
発音し、名字に相当する役割をしていたと思います。
略記すると「平頼綱」となりますが、これは、姓の平の場合の「平頼綱」と、
平新左衛門三郎頼綱や平新左衛門尉頼綱の略記としての「平頼綱」があります。
両者の字面は同じですが、正確には区別すべきだろうと思います。
287日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:01
>>278
武士にとっての苗字の意味をよ〜く考えても不思議でもなんでもないよ。
288日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:07
>>282
一般的な話じゃないよ。
わかんないかな?
頼綱が苗字として平を使用したことが確認できていないということだよ。
もし苗字として固定されていたのならば、平姓平氏となり、
併記される場合もあるということだよ。
289日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:10
少し話し変わるけど、
能登畠山氏の重臣に、平(ひら)氏というのがいたけど、
彼らは平姓?
290日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:12
>286
たいらのよりつな



へいよりつな

初耳です〜
291日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:14
>>288
君の言いたいことは分るけれど、やはりおかしい。
どこがおかしいかというと、
「頼綱が苗字として平を使用したことが確認できていないということ」
そんなことは確認出来ない。なぜか、平は姓であって名字ではないから。
平という名字の例は一つも伝わっていない。
だから確認出来ないことは、
「頼綱が苗字の替わりとして平を使用したということ」
になる。
292日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:17
>>287
当事、苗字を名乗れる武士と名乗れない武士と
どっちが偉いのかなあ?
293日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:26
>>291
>「頼綱が苗字として平を使用したことが確認できていないということ」

この反論として
>そんなことは確認出来ない。なぜか、平は姓であって名字ではないから。
>平という名字の例は一つも伝わっていない。

この文はおかしい。なぜなら上の文では
「平の苗字は確認できない」といっているのに、
「平という名字の例は一つも伝わっていない。」といっている。

同様に、平という苗字(名字)は確認できないということじゃないの?
294日本@名無史さん:2001/08/24(金) 11:40
平(ひら)って苗字、あるじゃん。>>289
295日本@名無史さん:2001/08/24(金) 13:59
>>294
現代にはあるかもしれないが、明治以前には確認されてないよ。
296日本@名無史さん:2001/08/24(金) 14:09
>>295
>>289を見てミソ。
297295:2001/08/24(金) 14:16
>>289 >>295
戦国時代に、確かに「平光知」というのがいる。
しかし戦国時代は参考にはならないと思う。
というのも、系図が、何ほどかの正当性を持ちえたのは、
室町時代の足利氏がまだ力を持っていた頃までであり、
戦国時代の下克上というのは、系図の破壊(系譜より実力)だから。
戦国時代までは、武家は、武の家の伝承家業のようなものだったが、
戦国時代になると、秀吉が良い例だかが、下層農民でも働きにより
武士になることが出来、武士になれば、姓や苗字を必要として、
適当に源か平か藤原その他にして、適当な苗字にしている。
>>295では明治以前と買いたけれども、江戸時代の系図は疑わしく、
系図が、まだある程度、信ぴょう性を持っていた室町時代以前の例が
あるかどうかだと思う。
298日本@名無史さん:2001/08/24(金) 14:25
太田亮の姓氏家系大辞典では、
「ひゃう」「へい」「ひら」と発音する平という苗字として、
新居系図の平新大夫政時
大隈守公神結番交名の五番・平四郎馬
陸奥話記の散位平国妙
を上げているが、実際は、どんなものにも例外はあるという程度のことで、
かりに上記の平が苗字だとしても、頼綱の平左衛門尉の平は名字とはいえないだろう。
299日本@名無史さん:2001/08/24(金) 14:44
>>297
「平光知」は戦国時代からもしれないけれど
「平(ひら)」家は代々能登畠山家に仕えていましたよ。
300日本@名無史さん:2001/08/24(金) 14:51
>>298
一方の例外は認めるがもう一方の例外は認めない。
おかしな話だ。
平が姓であることを忘れ>>258を見れば
そこでの平は苗字以外に考えられないだろうに。
301日本@名無史さん:2001/08/24(金) 16:08
>>297
だれも系図の話なんかしてないけど。
302日本@名無史さん:2001/08/24(金) 16:16
>>301
そうだ、そうだ。
303日本@名無史さん:2001/08/24(金) 18:23
つーか、「平の苗字は確認できない」「平という名字の例は一つも伝わっていない。」
「史料で確認できない」の根據が
「姓氏家系大辞典」かよ…  あんなもん史料でもなんでもねえ。

「姓氏家系大辞典」に頼りすぎの意見としか思えん
304日本@名無史さん:2001/08/24(金) 18:57
>>303
そうだ、そうだ。
305:2001/08/24(金) 19:03
 当時、「平左衛門尉」というだけで頼綱のことを指すのが自明とされるほど、
有名だった。本人もそれで通したようだ。周りもそれで通すようになった。
平左衛門尉が、頼綱に固定されることになった。平左衛門尉で検索すると
かなり多数の人物がでてくるが、鎌倉時代の人は少ない。頼綱がめだつ。
左衛門尉を名乗った人はどの時代にも山ほどいる。

 勿論、姓がないはずはない。いつしか常に省略されるようになったと思う。
始めの頃は、きちんと長崎平左衛門尉とされていたはずだが、そのような史料
は失われ消えてしまった。そう考えるべきだろう。

 光綱は次郎左衛門尉である。平左衛門尉の平は長男につけられるそうであ
るから、光綱は弟であろう。光綱は太郎左衛門尉であるという説もある。盛
綱の弟に光盛がいてその嫡子が光綱ということになる。同じ左衛門尉に任官
していたのは間違いない。
 嫡流が姓を変えるのは変である。例がないわけではないが、それであれば
姓をわざわざ変えたことは強調されるはずである。ろくに使いもしないのに、
ことさらに姓を変えることはないであろう。特別な事情がない限りはそうで
ある。

 禅門が討たれたために、長崎という名が頼綱関係の記録の上から消された
というのはどうかと思う。確かに長崎一族からすれば消したかったかもしれ
ない。が、長崎頼綱名のある史料だけ消滅させたというのも変である。頼綱
と書く場合には必ず長崎という姓を落とさせたというのも妙である。禅門
に関わるすべての史料を破棄したというのならばわかるが。やはり長崎頼
綱とされるものがないのは、当時、そのように記されることは(殆ど)なかっ
たということを反映しているのであろう。


 長崎氏は平氏の出であるそうだ。元の姓に戻すことはありうる。しかし
北条氏も平氏の出ということになっている。ただ長崎氏は北条氏よりも
出自は遥かに由緒正しい。本流に近い。盛国は平清盛の側近中の側近であった。
平資盛の子である盛国の子孫というのは怪しいという説もある。昔からの北
条被官ではなかったかというのである。しかしそれでは盛国の子孫である
と自称するのは無理であろう。虚偽であることが一目瞭然となる。いくらな
んでもとがめを受けるだろう。野心があるのではないかと。

 どうみても、平頼綱と名乗ることは、得宗家に対しては、まずいのでは
ないだろうか。平頼綱と密かに名乗ったことが露見したのが、討たれる理
由の一つとなったのであろうか。「平左衛門尉」だけですませていたのは、
平頼綱という名乗りを隠すためもあったのであろうか。それであれば、納
得ができる。息子を将軍につけようとしていたというのが事実であれば、平
頼綱と密かに自称していたのは事実かもしれない。平盛国が祖というのは疑わ
しく、噂をばらまいたのは、頼綱ではないかという説もあるそうだ。そ
こまで布石して平頼綱と公然と名乗る準備をしていたのであろうか。主家
にとって変わるにはそれなりの大義名分が必要である。
 「平入道」という言い方にも皮肉がこもっているのかもしれない。

 あれこれ想像してみたが、結論はでなかった。難しい問題だ。
306日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:11
>>303
誰も「姓氏家系大辞典」が根拠だなんて言ってないぞ。
307日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:17
>>305
あんた思い込みだけでだらだらと長文はやめようよ。
>始めの頃は、きちんと長崎平左衛門尉とされていたはずだが、そのような史料
>は失われ消えてしまった。そう考えるべきだろう。

これが第一の思い込み。頼綱が長崎氏だというのは「後世」の史料のみ。
以下、すべての段に思い込みがあるのであとは挙げない。
308日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:26
だいたい長崎説を言いたてるやつは前提がおかしい。
「一人だけ長崎でないのはおかしい」とか言ってるし。
長崎でないのは一人だけとは断定できないし、仮に親が長崎だとしても、
なぜ子供も長崎を称さなければならないのか、その説明ができない。
309日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:37
>>305
自分なりの結論が出ないのなら書き込むな。
310日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:39
>>306
じゃあ、平という苗字が有り得ないとする根拠は何だ?
311日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:39
ははははは
312日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:47
>>310
有り得ないなんて言ってないだろ。
当時、平の苗字が「確認できない」と言っているんだよ。
313日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:49
>312
つまり否定も肯定もしていないということ?
314日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:50
>>312
できてるじゃん、>>258で。
時代は違うけど、>>289もあるし。
315日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:53
>313
よく読めよ。
「当時」と言ってるんだよ。
それに>>258は苗字と断定できないからこのスレ続いているんだろ?
316日本@名無史さん:2001/08/24(金) 19:54
間違えた。上は>>314に対してね。
317日本@名無史さん:2001/08/24(金) 20:02
>>315
よく読めよ。
時代は違うけどってわざわざことわってるだろ。
断定などという言葉は使いたくないけれど
断定できないのではなく
断定したくないだけだろ。
>>258を見て断定できない根拠は何?
一体当時のどんな史料があれば確認できるんですかねぇ。
318日本@名無史さん:2001/08/24(金) 20:06
>>312
当時、長崎の苗字は確認できるのか?
319日本@名無史さん:2001/08/25(土) 17:42
つーか、頼綱だの光綱だのの「左衛門尉」ってのは僭称(の通称化)じゃねえのか?
正式に「従六位」「左衛門尉」に任官されてんの?
320日本@名無史さん:2001/08/26(日) 03:19
北村一輝って眼が怖いー
いっちゃってるよー
321日本@名無史さん:2001/08/26 07:30
>>319
任官されてますが、なにか?
322日本@名無史さん:01/08/26 12:22
>320
F堺や鶴太郎よりマシでは・・
323日本@名無史さん:01/08/26 13:59
>>321
ソースは?
324日本@名無史さん:01/08/27 10:37 ID:iru8LTPU
[東寺百合文書]  **内管領平頼綱奉書案
  諸国田文の事、御教書案此の如し。早く仰せ下さるるの旨に任せ、若狭国分注進せし
  め給うべし。仍って執達件の如し。
    文永九年十一月三日       左衛門の尉頼綱
  渋谷十郎殿
325日本@名無史さん:01/08/29 21:52 ID:QwgfXyCU
何だかIDが表示されるようになってから、全くレスがつかなくなりましたね。
上げがわりに、これまでの意見を大雑把にまとめます。


吾妻鏡の「平左衛門尉頼綱」の「平」の解釈について今まででた意見は、

1、「平左衛門尉」で一続きの通称を構成し、その前にあるはずの苗字が省略されている。
    a.彼の一族が「長崎」の苗字を使用していることから省略されたのは「長崎」である。
    b.彼の苗字は不明だが、とにかく何らかの苗字が省略されている。

2、「平」は氏で「たいらの」と読む。

3、頼綱は苗字を持たず、氏「平」を苗字のように使用していた。

4、「平」は苗字である。


それぞれに対しての反論。

→1、頼綱の苗字を「長崎」とするのは後世の系図のみ。鎌倉時代の文書にはみられない。
   吾妻鏡以外の文書でも「平左衛門尉」の前に何もつけてないので
  意図的に省略されたとは思えない。

→2、氏は官位の前につけない。正しくは「左衛門尉平(朝臣)頼綱」である。

→3、4、「平」という苗字は確認できない。歴史的人物である「平頼綱」の「平」が
    苗字ならば『姓氏家系大辞典』などに載せられるはずである。



最近の流れはは1bと3の争いのようですね。
私は3か4だと思います。
326日本@名無史さん:01/08/29 23:11 ID:b00BgS/I
>>325
まとめてくれてありがとう。
ただ吾妻鏡では
平新左衛門三郎
平新左衛門三郎頼綱
平新左衛門尉頼綱
として登場しています。
私は4、ただし苗字の定義によっては3だと思います。
327日本@名無史さん:01/08/30 12:53 ID:wLOZ.KHI
で、324はなんなんだ? まさか321のソースのつもりじゃないよな…
328日本@名無史さん:01/08/30 12:53 ID:UQfilxXU
>>325
3.に対する反論が、
「苗字ならば『姓氏家系大辞典』などに載せられるはずである。」
というのはいただけない。
全ての苗字が『姓氏家系大辞典』に載っているわけではない。
329日本@名無史さん:01/08/30 18:05 ID:2In7WfLM
>>328
うん、だからそれは303で言うたった
330325:01/08/30 23:52 ID:HEPsOodc
>>328
 >>325はこれまでのレスのまとめのつもりです。
このスレッド上にでている3や4への反論を要約したものです。
この他の反論は出てなかったと思いますが、見落としてたらごめんなさい。

私自身は3か4だと考えてますので、「苗字ならば『姓氏家系大辞典』などに載せられるはずである。」
という反論には納得できません。
331日本@名無史さん:01/08/31 00:38 ID:jMasLUQ.
386 名前:これはGONネタになるよ! 投稿日:01/08/31 00:27 ID:8NTGe3qM
大変です、今まで風俗板で隔離していた現在にちゃんねる1のキチガイが
とうとう何か新聞沙汰になる事件を起こしそうです。
チキンアサゲ定食こと負け犬、本名アナル出欽(推定32歳) 別名けっこう仮面
吉原ソープベルコモンズで、アナル性交を強要しようとして
見つかり出入り禁止になったことから恨みを抱き、
当該スレでキチガイ屁理屈を2ヶ月に渡って毎日書き込んでいたんですが、
昨日とうとう、議論に負けて泣き出しました。
なにかとんでもないことになりそうです。
吉原ベルコモンズ Part6
http://www2.bbspink.com/test/read.cgi?bbs=club&key=997511823
このスレッドの>>623から>>711あたりにアナル出欽が逃げて
生き恥晒している醜態が克明に記録されています。
たぶん、恥ずかしくて死にたくなっているでしょうね。
ふつうこんな生き恥晒したら出てこれないですよね。
332日本@名無史さん:01/08/31 18:11 ID:EuGlnnRs
とりあえずjMasLUQは出ていけ
333日本@名無史さん:01/09/01 13:37 ID:EpqI7Vno
あーうざい
334e:01/09/01 17:23 ID:86FJeBaA
s
335日本@名無史さん:01/09/01 21:41 ID:YmF/WjyI
姓氏家系大辞典より(1)
長崎 ナガサキ
伊豆、武蔵、下總、陸前、羽前、越前、越後、肥前、肥後等に此の地名存す。
1恒式平氏
 伊豆國田方郡長崎邑より起る(この地は治承文書に長前に作る)。古く
より平姓と稱し、後述太平記に「貞盛 十三代を長崎圓喜」とし、叉尊卑分脈に
「重盛−左中将資盛−盛綱(長崎流)」と載せ、また關系圖に
「重盛−資盛−盛國(左近大失将監、夢庵、關谷太夫、民部丞)−
實忠(關左近将監)、弟盛綱(長崎平左衛門尉、平三郎、北條泰時の執事)−+
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
+−頼綱−−−−宗網
|  平左衛門尉  平左衛門尉
|  時宗執事    貞時執事
+−光網−−−−−光網−−−−−−高網−−−−−−+
    次郎左衛門尉  太郎左衛門尉  高経、入道圓喜 |
    入道果圓                          |  
+−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−+
+−高資−−−−−−高重−−−−−重保
    四郎左衛門尉   次郎       次郎
    高時執事      東勝寺自殺   關足利基氏
336日本@名無史さん:01/09/01 21:42 ID:YmF/WjyI
姓氏家系大辞典より(2)
叉關家筋目に「資盛嫡子平太郎盛國・配所にて出生す、帰洛の後也。寿永三甲辰
八月、伊賀伊勢の平氏・蜂起の時、頼朝・北條四郎時政に下知なして進発せしむ。
此の時、盛國・誅せらるべきを、頼朝・小松の厚恩を思ひ出でゝ死罪を宥め、北條
に頼まる。建久四年甲子夏、伊賀伊勢の平氏蜂起の時.盛國は頼朝の味方になり、
同進発す。太郎實忠・盛國の嫡男なり。關左近将監實忠と云ふ。始めて勢州鈴鹿
郡關谷を賜はる。父盛國が軍功の賞とぞ。
平三郎盛綱・盛國の二男、北條小四郎義時に奉仕、無二の寵臣也。義時・天下の
執権職に輔せられし時、相模守に任ぜらる。此の時平三郎は左衛門に任ぜらる。
義時父子修理亮泰時のニ代は、内執政たり。此の盛綱・關を改め長崎と名乗る。
時頼の時代、長崎左衛門尉盛綱・内執役たり。此の時.将軍は頼朝より四代目頼
嗣の治世なり。
長崎平左衛門頼綱・盛綱の息也。武蔵・父に増る、貞時・執役の内は頼綱・父に
替りて勤む。弘安七年甲辰十月、秋田城之助陸奥守泰盛と執役、頼綱と不和にな
る。泰盛・潜かに謀叛を企て、北條家、共に執役頼綱を誅せんとす。泰盛・将軍
を望む故なり。頼綱・是れを貞時に告ぐ依りて貞時と泰盛と、鎌倉にて合戦に及
ぷ。泰盛父子滅亡す。頼綱後に入道して長崎平左衛門人道果圓と号す、息四人あ
り。
嫡子長崎平太郎左衛門尉宗綱・爲綱の隱謀を貞時へ訴人す。これに依りて佐渡國
へ流罪、後に赦免有りて、守邦将軍の治世に、執事職を勒め、後入道して圓善と
号す。應長元年に入道す。二男飯沼安房判官爲綱・判官になる事、父入道果圓・
寵愛によつてなり。三男長崎三郎左衛門頼基・入道して思光と号す。元弘三・五
月廿ニ日、新田小太郎義貞・上野より鎌倉へ押寄せ、北條相撲入道宗鑑を責め滅
す。時に思光父子、長崎勘解由左衝門爲基は、極楽寺、由井濱.八木町口、東勝
寺表.所々合戦に、父子三度曾ひ.武勇を振ひ、後生死を知らず。四男同四郎高
頼・四郎高頼は、高時の未だ天下の権た
る時・甥長崎新左衛円尉高資が爲に、奥州に流罪せらる。
圓喜・北條高時入道宗鑑が時、初めて内管領を務む。家督をば長崎新左衛門高資
に譲り、高資が叔父四郎高頼を招き、高資を殺す事を計らしむ。時に高資・由を
聞いて・叔父四郎高頼を奥州へ流罪す。
長崎新左衛門尉高資・北條高時入道滅亡、元弘三五月廿二日」義貞利を得、此の呼、
高資・武勇を顯し自害す。
長男長崎二郎高重・高資の嫡子、武州入同郡川合戦より以来、鎌倉由井濱の軍迄、
數度勇力を顯はし、其の後東勝寺にかへり、主君高時入道、共に青が弧父入道拙
著にも自書を進め、香が丸首膿を切る。
二男長崎孫四郎高盛.子向田耶轟政・父子共に由井の軍に武勇を振ひ、高時自害
の間、父子一手に成りて一方を掛け破り、戦場をのがれ、潜かに勢州に逃げ.關の
谷亀山に蟄居す。世の聞を恐れて長崎を本名にかへり、關四郎盛政と云ふ、男子
五人あり。
長崎四郎盛政嫡子・關大郎盛澄・剃髮の後.柏巌と云ふ。足利尊氏の治世、父盛
政が許にて、尊氏の旗下に屬し、子孫長く相續」と。

(誤変換はご容赦を)
337日本@名無史さん:01/09/01 22:04 ID:EFa2LWhY
「吾妻鏡人名索引」御家人制研究会編 吉川弘文館 1980
 人名索引 通称・索引より

平九郎右〈左〉衛門尉 胤義      三浦
平四郎        胤泰      三浦
平〔九郎〕判官    胤義      三浦
平六兵衛尉      義村      三浦
平五郎        季長      日野
平内左衛門尉     景茂      長尾
平六〔{伏〕     時定      北条
平六左衛門尉     時定      北条
平六兵衛尉      時定      北条
平五〔郎〕      盛時      平
平左衛門三郎     盛時      平
平〔三郎〕左衛門尉  盛時      平
平新左衛門尉     盛時      平
平民部丞       盛時      平
平民部大夫      盛時      平
平新左衛門三郎    頼綱      平
平新左衝門尉     頼綱      平
平〔三郎〕左衛門尉  盛綱      平
平左〈右〉衛門入道  盛綱      平
平三郎兵衛尉     盛綱      平
平式部大夫      繁政      平
平内左衛門尉     俊職      平
平判官次郎      高義      平
平判官太郎左衛門尉  義有      平
平内兵衛尉      清家      平
平九郎滝口      清綱      平
平相国〔禅閑(門)〕 清盛      平
前平大相国      清盛      平
平大納言・前平大納言 時忠      平
平大納言       信国      平
平中納言       親宗      平
平宰相        経盛      平
平判官        康頼      平
平勾当        時盛      平
平左衛門尉      広光      m(__)m
平右近入道      寂阿(法名)  m(__)m
338日本@名無史さん:01/09/01 22:09 ID:KfNKM.F6
 伊勢の戦国武将・関氏の出自は諸説あって、上記の長崎氏の同族というほかに
源頼朝に倒された伊豆の目代・山木判官の父である関信兼と同族という説もあり、
関家筋目などの江戸時代の系図の信憑性は低いですよ。
339日本@名無史さん:01/09/01 22:14 ID:3iUIpiTc
図書館に行って来たよ
>>335-337はそのコピーをOCRで変換したもの
誤変換あっても許してちょ

但し、
三浦胤義 三浦平九郎右衛門尉胤義
三浦胤泰 同平四郎胤泰
日野季長 平五郎季長法師      
長尾景茂 長尾平内左衛門尉景茂
北条時定 北条平六左衛門尉
という具合に記述されている。

ということで今夜は報告だけ
340日本@名無史さん:01/09/01 22:17 ID:3iUIpiTc
>>336
>二男長崎孫四郎高盛.子向田耶轟政・父子共に由井の軍に武勇を振ひ、高時自害
の訂正
二男長崎孫四郎高盛.子同四郎盛政・父子共に由井の軍に武勇を振ひ、高時自害
341日本@名無史さん:01/09/02 00:08 ID:qaD3yfjo
時宗スレにも有るけど、タイタニックに出てたお金持ちが北村一輝に酷似してた。
342おまえらさ・・・:01/09/02 07:18 ID:byRtq7Kk

        /∵∴∵∴\
      /∵∴∵∴∵∴ヽ
      |∵(・)(・),∴∵∴ |
      |/  ○  \∴∵|
      | 三 | 三  ヽ ∴|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      |  __|__   |∵| < うるせーんだよ!
      \ \_/   |/    \______
        \____/
     ______.ノ       (⌒)
    //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
   / /:::::::::::|  /:::::ノ__ | .| ト、
   | /:::::::::::::::| 〈 ̄   `-Lλ_レ′
   レ::::::::::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
343日本@名無しさん:01/09/02 17:48 ID:3wrG4YG2
源平時代の上総介広常も苗字が判然としていない同じような例ですが、
これについてはいかに?
344日本@名無史さん:01/09/02 17:51 ID:omlmiTmY
>>343
答えは簡単。
時代が違う。
   以上
345日本@名無史さん:01/09/02 22:30 ID:mkxTDQcI

先週から「時宗紀行」にも話が出てくる、壱岐のカラテ大将も「平」だけど、彼も
頼綱と同じなんでしょかねぇ。
346日本@名無史さん:01/09/02 22:35 ID:xPsf1DhI
>>345
答えは簡単。
田舎者だから苗字がない。
   以上
347日本@名無史さん:01/09/03 12:52 ID:cRJnIRco
>>341
おお、確かに! 誰かに似てるなあ、と思いつつ出てこなかった。サンクス

>>345
副将みたいなのが「平殿!」といってたのが笑えた。
348日本@名無史さん:01/09/03 13:12 ID:U.D/pDVw
北村一輝はそれなりにハンサムだと思うがあの屈折した役柄ゆえ
嫌悪感を感じてしまう。
シーンによって(特に時宗がいるときといないとき)性格が激変する
のがちょっと...
349日本@名無史さん:01/09/04 18:08 ID:SrwPs27Q
>>349
母上がいるときといないときで性格が激変した「元禄繚乱」の綱吉萌え。
350日本@名無史さん:01/09/05 18:26 ID:4HnhV3D6
>>343
本によっては「上総廣常」になってるなあ。
千葉介が後に「千葉」氏になってるからか?
351日本@名無史さん:01/09/05 18:56 ID:Ay/MQq1Q
>350
ふつう上総介広常の家は上総氏とよばれるよ。
でもそれは本来、名字ということではなくて、
家としていわば上総流というようなもの。
352通りすがりですが・・・:01/09/05 20:40 ID:OTnDttts
>351
この当時(平安末期)はまだ名字の定義はハッキリしてないでしょう。
住んでる所の地名を冠しているだけで、実の親子・兄弟でも名字が違う場合があった
から。
353日本@名無史さん:01/09/06 10:39 ID:IRnDBTkM
>352
名字の定義ははっきりしてるけど・・・?
354日本@名無史さん:01/09/06 11:06 ID:pDwpgzXI
名字は「名(みょう)」の名でしょ?
353の言うとおりはっきりしているよ。
それを家の名として使用する習慣があったかどうかはハッキリしてないけど。
355日本@名無史さん:01/09/06 12:57 ID:M55PjPuk
>>352
頼朝の頃は
小山田の息子に稲毛や榛谷がいるしなあ
356日本@名無史さん:01/09/07 02:11
長崎頼綱でいいんじゃない。
357日本@名無史さん:01/09/07 10:40
平頼綱でいいです。
358日本@名無史さん:01/09/07 15:09
「へいしんざえもんのじょうよりつな」
略して「へいよりつな」で妥協しよう。
もしくは「へいぜんもん」。
それがイヤなら、このドラマに関しては「ハチ」だな。
359日本@名無史さん:01/09/07 18:59
平禅門とするなら、よみは「たいらのぜんもん」でしょう。
360日本@名無史さん:01/09/08 01:23
>>359
「へいぜんもん」だよ。この場合の「平」は姓じゃないから。
361日本@名無史さん:01/09/08 14:46
>>359>>360
わしは、本でどっちの読みも見たことがある。
362日本@名無史さん:01/09/08 14:47
シドニー銅メダリストの源純夏の「源」は名字。
だが、姓が転化したものという可能性も無くはない。

とりあえずたれ目とほくろが魅力的。
引退は惜しい。
363日本@名無史さん:01/09/08 15:20
対馬守ってた、平景降と関係あるの?
364日本@名無史さん:01/09/08 17:20
頼綱が「平」か「長崎」かということだけで
このスレ続くね。
長く続くわりに議論も持続している。
日本史板の真骨頂というべきか。
365日本@名無史さん:01/09/10 04:30
もうすぐ、安達家を滅ぼすよ。平頼綱
366358:01/09/10 11:37
結論は、「分からない」でいいんじゃないの?
但し当時は「へいしんざえもんのじょうよりつな」、「へいしんざえもんのじょう」、「さえもん」等と呼ばれていた。
系譜的には長崎氏との関係が深い。
本姓は「平(たいら)」の可能性が高い。
それだけ。
367日本@名無史さん:01/09/10 11:42
系譜的には長崎氏との関係は深くない。
368   :01/09/10 11:57
日本史では平ヨリツナで習ったから、平でええやん♪
369日本@名無史さん:01/09/11 00:44
>>368
知的探求心が無いねぇ(笑)
馬鹿まるだしだよ。
370日本@名無史さん:01/09/11 00:50
平頼綱が九州で孕ませた子孫が土着したのが長崎
それで以後長崎氏を名乗った。
371日本@名無史さん:01/09/11 00:59
>>370
長崎氏の名字のルーツは伊豆国の長崎邑だよ。
九州の長崎じゃないよ。
思いつきじゃなくて、史料を調べて発言してね(笑)
372日本@名無史さん:01/09/11 09:20
>>371
ジョークのわからない御仁。
373日本@名無史さん:01/09/11 09:34
史学科で純粋培養されてるんだよね。
にちゃんねるでも稀有の存在だなあ、ここの連中は。
374日本@名無史さん:01/09/11 11:29
>>372
何の、どこがジョークなの(W)
>>371が対象としたのは、>>370だが、どこがジョークなの?
無知をジョークだと言い繕うなよ。
>>371の方が、最後に「(笑)」があるだけジョークの理解出きる人種だよ。
375日本@名無史さん:01/09/11 11:30
>>373
ここは「学問板」の日本史じゃなかったっけ?
376日本@名無史さん:01/09/11 11:49
もうカチカチだね。
377日本@名無史さん:01/09/11 11:48
朝臣てなんですか?どんな意味があるのでしょうか?
378日本@名無史さん:01/09/11 11:51
>>371=>>374=>>375
のジョークは慶応義塾ユーモア研究会のレベルのジョークだな。
379日本@名無史さん:01/09/11 13:11
>>377
朝臣は「姓」の一種。
教科書にも書いてあるんじゃない?
380日本@名無史さん:01/09/11 17:33
>>371=>>374
バレバレだよ。
381358=366:01/09/11 17:56
>375
学問板の筈なんだが。
377のようなヤツばかり。
382日本@名無史さん:01/09/11 18:21
>>373
自分の知識を誇るのがこの板の特徴のようだ。
衒学的、これにつきる。
383日本@名無史さん:01/09/11 20:20
>>374
なんで必死になっているのか
わけわからん。
384日本@名無史さん:01/09/11 20:23
>>373
論破されちゃったのね。
ご愁傷さま。
385日本@名無史さん:01/09/12 01:25
>>374
は(W)
と(笑)があればすべてジョークらしい。
オモシロイ
386日本@名無史さん:01/09/12 15:06
ジョークかどうかはと゜うでもいい。
本題に戻ろう。
387日本@名無史さん:01/09/12 15:09
このスレの本題って何?
388日本@名無史さん:01/09/13 08:09
>>370
長崎氏の名字のルーツは伊豆国の長崎邑だよ。
九州の長崎じゃないよ。
思いつきじゃなくて、史料を調べて発言してね(笑)
389日本@名無史さん:01/09/13 08:59
>>388
つまんねぇ〜。
390歴史の勉強:01/09/13 09:34
九州の「長崎」は、長崎氏の所領があったから長崎って呼ばれるようになったんじゃないの?
平凡社の世界大百科事典にはそう書かれてたけど……。
391日本@名無史さん:01/09/13 10:09
>>390
その長崎氏はなぜ長崎と名乗るようになったかということなのだけど・・・。
392日本@名無史さん:01/09/13 13:37
>>391
それは伊豆の長崎から。
九州の長崎は知らん。
393日本@名無史さん:01/09/13 17:18
>>392
ふりだしにもどる。
394日本@名無史さん:01/09/13 20:25
平頼綱が九州で孕ませた子孫が土着したのが長崎
それで以後長崎氏を名乗った。
395日本@名無史さん:01/09/13 20:32
↑ まだ言うか!!
396日本@名無史さん:01/09/13 21:23
もっとふりだしにもどる。
397日本@名無史さん:01/09/13 21:33
ドラマでは「平頼綱」になってますが、
正しくは「長崎平左衛門尉頼綱」つまり「長崎頼綱」ですね。
398日本@名無史さん:01/09/13 21:35
>>397
ネタはもう飽きた!!
399日本@名無史さん:01/09/13 21:35
>>397
はいはい、そうですよ。
400日本@名無史さん:01/09/13 21:35
400
401日本@名無史さん:01/09/13 21:41
このスレネタに倒される。
402日本@名無史さん:01/09/14 02:06
鎌倉時代の史料には、「平頼綱」も「長崎頼綱」の表記もない。
403日本@名無史さん:01/09/14 09:28
↑ 「北条時宗」の表記はあるのか?
404日本@名無史さん:01/09/14 10:56
>>403
あるよ
405日本@名無史さん:01/09/14 10:59
>>404
へぇ〜、どこに「北条時宗」って表記してあるんだ?
4062・26:01/09/16 22:17
村を抜けば北一輝だ。
407吾嬬鏡には:01/09/17 02:02
北条時宗は、平時宗と書かれている。
しかし頼綱は、平頼綱とは書かれていない。
408日本@名無史さん:01/09/17 09:04
>>407
書かれているってもう誰も言ってないけど。
409歴史の勉強:01/09/17 11:45
今日「徹子の部屋」に頼綱タンが出るみたいだぞ
410日本@名無史さん:01/09/17 13:26
現在出演中アゲ!
411荒木敏哉:01/09/17 13:37
頼綱、38歳だって。。。
412日本@名無史さん:01/09/17 13:41
なかなか愉快な人だね。
413荒木敏哉:01/09/17 13:42
>>412
そうかな。
でも、カナーリオヤジだよ?
414日本@名無史さん:01/09/17 13:44
>>413
年齢も換算して、カナーリ天然惚けキャラじゃない…
415荒木敏哉:01/09/17 13:47
>>414
うん。
40手前の男性の話&話し方じゃないね。
416日本@名無史さん:01/09/17 13:59
ネタだろ。北村は32になったばかりのはず。
417日本@名無史さん:01/09/17 14:10
徹子の部屋でも32って言ってたよ。
>>411は聞き間違えたんじゃあない…
それにしてもボケてたけど。
418荒木敏哉:01/09/17 14:12
>>416
再現。

黒柳「あなた、おいくつ?」
頼綱「32です」
黒柳「え?38じゃないの?」
頼綱(一瞬ためらいながら・・・)えっ、、ええ(と頷く)」
419歴史の勉強:01/09/17 14:55
ううむ……この板の人はちゃんと見てたんですね。
んでも、海外行ってたころのパスポートを検証すれば、
正確な年齢わかんじゃないの?
渡部篤郎より若く見えるから、32だと思うけど。
420日本@名無史さん:01/09/17 15:09
だから、ネタはネタとして遊ばないと  >>419
421日本@名無史さん:01/09/17 16:14
海賊役やらせてあげれば良かったのに
422日本@名無史さん:01/09/19 03:56
長崎平新左衛門尉頼綱
423日本@名無史さん:01/09/19 10:21
日本の歴史 「蒙古襲来と徳政令」 筧雅博著 講談社より

「長崎」を名乗る御内人は、平頼綱の父
の代に、平左衛門尉の家から分かれた、いわば庶子流であるが、兼時とともに六波羅に入ったと見ら
れる人々の中に、長崎新左衛門入道性杲なる人物がいた。頼綱の従兄弟、長崎左衛門尉光綱は、朝
廷方の訴を得宗に取り次ぐ、五人の御内人のメンバーにえらばれており、六波羅に入った新左衛門人
通性呆は、たぶん、光綱の兄弟であろう。

 新将軍久明親王(後深草上皇の皇子)をむかえるため、上洛する人々の中に、頼綱の二男、飯沼新左
衛門尉助宗の姿があった。刈田狼籍の咎で鎌倉に連行された日蓮の支持者たちに矢を向け、改宗をせ
まった少年こそ、この助宗である。「飯沼」は、武蔵大田庄の一邑であり、浄土真宗の関東における
拠点、横曽根をふくむ。頼綱父子と真宗教団との距離の近さが、助宗に「飯沼」の名字を名乗らせる
きっかけとなったらしい。
上洛する助宗は、左衛門尉の官途に加えて使宣旨(検非違便に任ずる宣旨)を得たばかりであって、検
非違使としてのつとめを実際に果たすことも、上洛の目的であった。
424日本@名無史さん:01/09/19 10:26
423からの大胆な考察
頼綱は御内人として得宗家につたえてきたので領地を持っていなかった。
故に「名」字がない。

助宗が飯沼の領地を取得。故に「飯沼」を名乗る。

「長崎」は従兄弟、長崎左衛門尉光綱の系統。
由来は伊豆長前邑
425与六:01/09/19 13:00
牧瀬里穂、北村一輝、川原亜矢子の三人が映画作品「ターン」で共演していますね。
426空手日本史マニア:01/09/20 00:21
そうだよな、高時の時代の長崎高資と高増って盛綱次男の光綱の子孫だよな
427日本@名無史さん:01/09/20 00:48

なんと北村一輝が徹子の部屋に出ていたのか 観たかったなぁ
NHKスタジオパークでも観たけど、なかなか好青年だぞ
428歴史の勉強:01/09/20 03:38
結論:
1.平頼綱は長崎氏の嫡流で、同氏の出身地はおそらく伊豆
2.当時の呼称がまったく不明(平左衛門は確実か?)
3.平頼綱は、役者にとってはけっこう「おいしい」役
冫、  でもあいつすぐキレるからな〜
`
三〜
430北条時輔:01/09/20 12:29
皆さん、はじめまして。
創価板の住人です。
>>429さんとはまったくの別人です。

ちなみに創価学会では「平左衛門尉」を
「へい"の"さえもんのじょう」と発音しています。

ところで、平頼綱とは「平家の都落ち」の時、
平家一門を離れて、源頼朝の庇護を受けた
平清盛の弟である"平頼盛(通称:池ノ頼盛)"の
子孫ではないかと勝手に考えていたのですが、
全然違うみたいですね。(笑)
本題とは違いますが"平頼盛"の子孫はどうなったのか
ご存知の方はいませんか?

そもそも子孫が存在したのかも
私にはわかりませんが・・・
431日本@名無史さん:01/09/20 14:35
平家の都落ちのとき、なかなか合流しない上に、妻子をおいてきたというので一門の人の疑惑をかい、
ついでに嫡兄が屋島でそうそうと脱落し、その息子は十年以上助命されており、
弟がなぜか入水自殺してしまった、謎の小松一門の子孫という噂はありますね。>頼綱
432北条時輔:01/09/20 17:44
>>431さん
ありがとうございます。
へぇ〜。 そんな噂があるのですか。
小松一門とは平維盛・資盛の事ですよね。
433北条為時(赤橋長時兄):01/09/20 17:53
資盛の子親真の子孫が織田敏定、信定、信秀、信長
434北条忠時(重時6男):01/09/20 17:56
頼綱の妻の飛鳥井家はみんな雅興に雅世まあーしょうがないか
435与六:01/09/20 18:09
逆説の日本史によると、人望に篤い泰盛とは対照的な「悪人」であった、だって。
436日本@名無史さん:01/09/20 21:12
池袋の近くの長崎とは関係ないの?
437日本@名無史さん:01/09/21 08:17
織田氏は忌部姓。
得宗被官平氏は正度息正衡の兄弟の子孫。
池大納言家男系は数代で絶えたか。所領は女系を通じて久我家へ。
なお最近の研究によると北条時政の後妻の牧の方は池禅尼の姪らしい。
438日本@名無史さん:01/09/21 11:12
織田は藤原じゃないの?
439日本@名無史さん:01/09/22 05:18
↑ソースきぼーん
織田は自称平氏、実姓忌部と思っていたが
440日本@名無史さん:01/09/22 11:08
信長は自称平氏の前は自称藤原氏だったよ。
441日本@名無史さん:01/09/23 12:01
>>440
藤原を称していたのは信長だけじゃないよ。
442日本@名無史さん:01/09/24 15:14
大河で霜月騒動までやって欲しいよ。
443歴史の勉強:01/09/24 15:35
いや〜、由美ちゃんの筆によって下ろされると、
「頼綱凶暴化、泰盛虐殺、貞時の天誅じゃ〜」
オチになってしまうと思われ……。

「時宗さま〜あああ」と泣き崩れる頼綱のほうがいいんじゃないですか?
第一、安達泰盛が地味一辺倒なので、頼綱が彼を殺害する理由づけができないと思う。
444日本@名無史さん:01/09/24 22:23
長崎平新左衛門尉平朝臣頼綱
445日本@名無史さん:01/09/24 22:39
やっぱり、ギバでは泰盛は荷が重いを思う。
あいつはやっぱりましらの石クラス。
446日本@名無史さん:01/09/25 00:23
>>441
なにがいいたいのか・・・?
447日本@名無史さん:01/09/25 02:28
頼綱について・・
http://dabou.s1.xrea.com/swf/onigiri.htm
448日本@名無史さん:01/09/25 04:18
>>447
 ↑ ヴァカまるだし
449日本@名無史さん:01/09/27 13:13
ギバにピーターが
「泰盛殿の所領のある秋田…」
って話していたけど、城介って名誉職じゃなくて本当に所領も付属していたの?
秋田郡の国衙領のこと?
450日本@名無史さん:01/09/28 01:38
長崎平新左衛門尉平朝臣頼綱
451正夢:01/09/28 01:40
高嶋兄とかだったら武士の鏡っぽくて良かったのに…
452正夢:01/09/28 01:42
>>451
>>445に言ってます。
453日本@名無史さん:01/09/28 02:32
頼綱の肖像画ってないですよね?
454日本@名無史さん:01/10/02 04:17
長崎頼綱に萌え
455日本@名無史さん:01/10/03 00:40
やっぱりこの人は長崎頼綱なの?
456歴史の勉強:01/10/03 00:49
>449
安達氏は秋田に広大な所領を有してたはずだよ。
あの辺が庶流「おおそね」氏の苗字の地だったと思う。
大江広元の嫡流・長井氏も東北に所領を持ってたし、
北条氏に一番近かった安達氏が秋田に広大な所領を有したことに不思議はない。
鎌倉幕府は各地の支配権を奪取するために、けっこう旧律令制度を利用しているし。
457日本@名無史さん:01/10/03 01:04
長崎為基(勘解由左衛門)が肥前国深津江に逃げて定住し、
子孫の左衛門佐が深津江を「長崎」と改名、
江戸時代には「出島」が造られて南蛮貿易の拠点となりました。
現在も長崎県県庁所在地となっています
458449:01/10/03 15:07
>456
ありがとうございます。

>けっこう旧律令制度を利用しているし。
ってことは、やっぱり国衙領なんですかね?

すみませんでした。スレ違いなのでsageます。
459日本@名無史さん:01/10/26 05:47
あげる
460故人いわく:01/10/26 12:49
平禅門はヴィジュアル系ギタリスト顔だったという…
461日本@名無史さん:01/11/05 03:11
安達家を長崎頼綱が滅ぼす経緯と、長崎頼綱が滅ぼされる経緯を
教えてください
462日本@名無史さん:01/11/05 11:34
>461
長崎頼綱って誰ですか?
463日本@名無史さん:01/11/05 12:15
聖教新聞ではボロクソにいわれていた。
464日本@名無史さん:01/11/05 16:00
>>462さん
>>461君はそこを突っ込んで欲しくてわざと書いてるのです。
そのためにご丁寧にと二回も長崎頼綱って書いてるでしょ?
こんなカマッテ君は
相手したら駄目です。
465あぼーん:あぼーん
あぼーん
466あぼーん:あぼーん
あぼーん
467あぼーん:あぼーん
あぼーん
468あぼーん:あぼーん
あぼーん
469あぼーん:あぼーん
あぼーん
470日本@名無史さん:01/11/09 21:19
なんか荒れてしまってる。
言い直します。安達家を平頼綱が滅ぼす経緯を教えてもらえませんか?
どんな合戦だったのか、戦いの状況を教えてください
471日本@名無史さん:01/11/09 21:48
472あぼーん:あぼーん
あぼーん
473あぼーん:あぼーん
あぼーん
474あぼーん:あぼーん
あぼーん
475日本@名無史さん:01/11/12 11:51
北村一輝か。
「タイタニック」でローズをジャックに寝取られてぶち切れた、
キャル・ホックリー役のビリー・ゼーンに似ているような。
アントニウスの役もやってたな。
476あぼーん:あぼーん
あぼーん
477そりゃマンガ家:01/11/12 18:03
ヒロヒト
478>475:01/11/12 21:02
バックトウーザフューチャーでビフの子分もね。
479日本@名無史さん:01/11/22 03:21
正しくは、長崎頼綱
480日本@名無史さん:01/11/22 04:31
今日もハチはかわいかった。
481日本@名無史さん:01/11/23 17:55
あぽーん参上
482斬首つぐみ:01/11/27 17:14
845 :斬首 :01/11/27 16:47 ID:c4WeIB/q
し難い下衆野郎どもを化けて喰い殺したって、たいして悪いことじゃない
と思うけどねえ。


846 :神無 :01/11/27 16:48 ID:c4WeIB/q
        ,..-‐-、  _,... -─‐-...,,_
      /    ` ´        \
    /                 ヽ
    /         、            `,
   l | l       / ´|    .        |
   `L:|  ||   l| |   | |  l        |
      `ー'-r‐-、.|j  L_l__||__ヽ .      |
       | | '゙l_`l   ´,.-┬、 | |´l     | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         | |. ┴'      _|_j ' | | /      | < 天皇陛下が言ってたよ。一番こわい妖怪は、
       |  |  <      /  |´       ! | 夜盗のことなにも史乱やつだって
        ̄| \   ー-    ー-┘         l \_______________
          |   \__ .. - ' ´ | ス.        |
        i  _/1|     /  ヽ      | !|
         y´|  「   /   /\_    |/ |
    ,. -‐ ´  |   |  /   /     \   /__
   /      |   |/   /       ヽ /__ゝ
 /        | /   /            \_


847 :夜盗 :01/11/27 16:50 ID:c4WeIB/q
珊瑚姉貴!!ついていきやすぜ!!


848 :うせろ :01/11/27 16:54 ID:c4WeIB/q
というわけで今回は、なぜか夜盗の妻が得意になった珊瑚たん萌え〜
483日本@名無史さん:01/11/28 00:38
鎌倉時代の後期に、平頼綱でもないべ(笑)
頼綱は、鎌倉時代の呼び方では、長崎頼綱。
484日本@名無史さん:01/11/28 14:56
>483
たわごとはもういいよ
485日本@名無史さん
長崎頼綱。