武士の「忠義」について

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1αジョーカーω
よく、それは江戸時代の学者の頭の中で創られた
美学だとも聞きますが、戦国時代などには、そのようなものは
観念すら無かったのでしょうか?
例えば、私の父方の祖父方の先祖は、
津野氏家臣で、津野家が長曽我部氏に服属してからは、
それに仕える形となり、関ヶ原からは山内氏に仕えています。
2日本@名無史さん:2001/08/03(金) 23:02
お前の先祖は裏切り者
3北畠公の末裔:2001/08/03(金) 23:09
忠義という発想は武家にはなかった。本来、公家の生き方であった。
4日本@名無史さん:2001/08/04(土) 00:01
「忠義」っていうのは「家」に対するものですね。
個人的な繋がりならありましたよ。
衆道の方向に行っちゃいますけどね。
5日本@名無史さん:2001/08/04(土) 00:19
戦国時代でも人や状況によるでしょ。毛受家照とか忠義の士は一杯いると思うが…
6 :2001/08/04(土) 05:07
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake.html

けっこう北畠ファン多いから。違うHPも読むべし!
なんつうか、西国と東国の狭間で揺れる国家主義者だね。だから、伊勢神宮は
紀伊と伊勢のあたりにあるのかなあ、と思われる。伊勢人は、江戸を造った
商人であり土建屋である。やっぱ、そういうところに位置させたと思われ。
霧山城って怖い(幽霊出るみたい)っすよ。
7日本@名無史さん:2001/08/04(土) 05:36
当時のヨーロッパの基準から見ても、日本の武士の主君への「忠誠心」
の無さは異様にうつったようで。
8さち子:2001/08/04(土) 07:08
>>1
江戸時代の学者の頭の中というよりは
当時の幕府や諸大名などがそれを必要としたわけです。
なぜなら、守護大名(もしくはそれに近い)の
江戸時代への生き残りなんてのは島津、伊達、南部など
わずかで、そういう意味では江戸時代の武家なんて、
ほとんど反逆者という事になってしまうわけですが、
そういう戦国時代の下こく上の論理を江戸期にまで
適用されてはかなわないというので、史学者に
そうさせたんですね。
9さち子:2001/08/04(土) 07:13
これは他の人も書いてましたけど、
徳川家康にしてからが、
当時の「一番、力がある者が天下を取る」という
風潮にのったにもかかわらず、
彼のうまい点は自分が天下を取った後、
そういうのをできないような風潮にしてしまった所ですね。
10日本@名無史さん:2001/08/04(土) 11:57
新渡戸稲造「武士道」
11日本@名無史さん:2001/08/04(土) 11:58
葉隠
12日本@名無史さん:2001/08/04(土) 12:47
>>11

当時の一般基準で、ガイキチのお書きになったキケン思想。
13日本@名無史さん:2001/08/04(土) 12:53
大山倍達『極真への道』
14日本@名無史さん:2001/08/04(土) 15:00
葉隠れは、鍋島家中からでたんだよな。
親分が下克上の代表みたいなもんなのに、たいしたもんだ。
15日本@名無史さん:2001/08/04(土) 15:27
武士の忠義は出鱈目だと思うが
御恩と奉公の関係に基づいた忠義関係は当たり前だったと思う。
現代でいえばビジネスでの報酬に見合うだけの労働という感じじゃなかったかと
思われる。
16日本@名無史さん:2001/08/04(土) 15:38
ちなみに、私はビジネスマンなのですが、
お金も当然大切なのですが、
お金よりも、人の情や恩義を大切にして行動するよう心がけております。
17:2001/08/04(土) 23:42
葉隠は元をたどれば軍人である武士が
現代のような平和な時代を、
いかにだらけず、気を緩めずに生きて行くか
その心がけを書いたものでごくまともな本ですよ。
18名無しさん@2周年:2001/08/04(土) 23:47
>>16
あんたはエライッ
でもそのような奴はここで堂々と
言わんと思われ
19日本@名無史さん:2001/08/04(土) 23:50
小松政夫はエライッ
20:2001/08/05(日) 00:14
>>16
こう言っては悪いですがビジネスマン失格ですね。
人に優しくするよりも突き放す方がずっと難しい。
非常に徹しきれない人は自分に甘いだけです。
両者を使い分けられる人が最高の企業人でしょう。
21日本@名無史さん:01/08/27 18:14 ID:r8p1JZRI
鎌倉末、北条得宗家の被官(身内人)に名前を忘れたが某と言う武士がいた。彼は剛力で成らし、得宗高時から名刀を授かるなどしていた。得宗家の威光を借りた傍若無人ぶりは非道かったらしい。
新田軍の鎌倉攻めの時、彼が新田軍の前に立ちふさがった。北条軍からは喝采があがり、新田軍からは誰が一騎打ちに立ち向かうかと静まりかえった。その瞬間彼は兜を脱ぎ、刀を捨て新田軍に投降した。両軍から恩を仇で返す不忠者と非難を浴びせられたと太平記に書いてあった。
当時も忠義は重んじられているんじゃなかな?近世までは武士は主人の家ではなくて、主人個人に忠義を果たすのが当たり前でしょ?代が変わると必ずしも以前のように家臣であるとは限らない。
ちなみに鎌倉幕府滅亡時北条得宗家と運命を共にしたのは一族と得宗家被官が殆どみたい。御家人は倒幕軍に寝返った人が多いみたいだね。
22日本@名無史さん:01/08/27 18:34 ID:Lyuebyrg
その某は、その後どうしたんだ?
両軍から非難されては居場所もあるまいに。
23日本@名無史さん:01/08/27 20:41 ID:P3tMDOo2
十文字腹を切って果てました。
24日本@名無史さん:01/08/27 21:04 ID:VM5/Qqkw
戦国時代は殺伐としてたのだろうが、一方で家臣を守れないダメなボスは
見捨てるという西欧の封建制にも通じる合理的な面?それともやっぱり殺
伐とした面?も有ったのかな。武田が傾くと随分すげないもので、『甲乱
記』にある「比説城ノ介殿へ廻忠せば、伊那郡は過半恩賞に可申請。侍は
渡リ者なれば、いざ此由を豆州に申シ進ゼばやと」云々のセリフの、よく
出てくる「廻り忠」とか、ここの「侍は渡り者」などは考えてしまった。
家来だって底辺のピイピイは別にすれば、武士でそれなりの家筋があれば
その時々の勢いは主君と違いがあっても、ある意味では同じ世界の人間な
のだから、実力を中心にした対等の関係があったでしょうかね?それに忠
義も人情も無いどうしようもない人間は昔から居ただろうし。勿論譜代の
家臣とそうでないかなど色々あるのだろうけど。8、9さん辺りでまあ答
えは出ているのでしょうが、以上日本史の素人でした。
25秀吉は:01/08/27 21:10 ID:AQFKazus
忠義を商う、という感覚だったらしい。
26日本@名無史さん:01/08/27 23:18 ID:8o4DIDDk
家臣は忠義の代償を求めてからね。
27現代尊皇派:01/08/27 23:32 ID:nSLlF.dw
石田三成は忠義の人と呼べるのではないか?
28日本@名無史さん:01/08/28 22:59 ID:FW4oZjaI
たとえば腹を切らせたりね・・・
29日本@名無史さん:01/08/30 02:25 ID:detc1wLU
age
3075:01/08/31 04:39 ID:SgWeqLtw
age
31日本@名無史さん
ageとく。