1 :
日本@名無史さん:
何度もいろいろなスレで討議されましたが
一度、この件について専用スレを建てて
討議しましょう。
私は条件はありますが日本にも
騎馬武者や騎馬隊は存在したと思います。
2 :
日本@名無史さん:2001/08/03(金) 08:17
したでょうね。
義経を見ればわかる。
義経は騎兵戦術では世界の最高峰
「神出鬼没」
4 :
日本@名無史さん:2001/08/03(金) 09:28
>>3 またまたー、田舎者がぁ。
簡単に世界の最高峰なんて言うなっつの。
5 :
日本@名無史さん:2001/08/03(金) 09:29
せっかくだから、旗でも立てておこう。
___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――
│
│
│
│
│
6 :
日本@名無史さん:2001/08/04(土) 12:03
馬狙え
7 :
日本@名無史さん:2001/08/04(土) 12:34
騎馬武者はいたけど、騎馬隊は存在しなかった。
8 :
日本@名無史さん:2001/08/04(土) 15:42
「騎馬隊」って言い方にも語弊があるよな。
「騎馬に乗れる身分の武者の集団」と「下っ端から上官まで騎馬に乗ってる騎兵」とは違うし。
ただ、日本にも極まれに足軽まで馬に乗せた強行偵察隊がいたみたいだね。(勿論常設の兵科じゃなくて緊急の編成で。本多忠勝か誰かがやってたような…)
9 :
世界@名無史さん:2001/08/04(土) 16:14
>>2 >>3 学問板の日本板でも、こういうこという人いるんだ。
なんかがっかりだな。もっとレベル高いと思ってたのに。
>>9 こんな2ちゃんねるでも、こういうこという人いるんだ。
なんかうれしいな。もっとレベル低いと思ってたのに。
(ホントにレベル高い人なら、そもそも2ちゃんねるに来ないよ)
(2ちゃんにも少しは素晴らしい人いるけれど、ホントに極少数)
(あなたのお気持ちはわかりますが、2ちゃんに期待しちゃいけないよ)
11 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:12
騎馬隊は日本には数少ないが、それに近いのは長野業政とその流れを汲む小幡党。
小幡党とは武田信玄の上野方面の国人衆で騎馬武者の率が武田軍の中で一番高い。
箕輪領主の長野業政は日本史ではマイナ―だが武田信玄が一度も勝てなかった武将。
12 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:41
いくら騎馬武者の比率が高くても
騎馬武者のみによる部隊編成がなされていなければ
騎馬隊とはいえないんだよ。
そもそも騎馬隊編成そのものが、戦国時代の主従関係からして
無理だと分かるだろう。
13 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:47
参考までに、天正3年の上杉家軍役帳によると、景勝の
部隊は
250丁 槍
40人 甲・打物・籠手・腰指 手明(=歩兵)
20丁 鉄砲
25本 大小旗
40騎 甲・打物・籠手・腰指 馬上
という編成で、計375人、騎馬の比率は10.7%です。
14 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:51
竹田騎馬軍団は世界最強。
15 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 22:52
16 :
13:2001/08/20(月) 23:13
武田騎馬隊の出典は『甲陽軍鑑』品第17にある「武田法性
院信玄公御代惣人数之事」だと思いますが、これは
一、武田典厩 旗黒地に白丸 二百騎
一、逍遥軒 旗色きれて見えず 八十騎
という書き方で騎馬だけを並べており、総勢9340騎になり
ます(計算は小林計一郎『武田軍記』による)。
ただし、あとの方をみると、「主共に五人づれにして」と
いう計算があるので、騎馬だけではなく歩兵もついていた
わけです。
この軍鑑の記述が正しいかどうかですが、小林氏はこれを
過大とし、9340人であろうと考えています。しかしそれだ
と逆に、1武将が出す人数が少なすぎるケースがあり(2人
とか)、よくわかりません。小林氏はもっと確実な史料か
ら武田氏の部隊編成を復元していますが、それによると、
軍勢100人に対して騎馬12人、槍58人、鉄砲7人、弓10人、
旗持6人、手明その他7人で、騎馬比率12%となり、上杉氏
とあまり変わらなかったようです。
17 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 23:27
甲陽軍鑑の何百騎という書き方に問題がある。
ていうかあの書物、本当に戦経験のあるやつが編集したのか?
徳川の旗本八万騎とかいうのも直参が八万人いるということで
八万の騎馬武者がいるというわけじゃないしね。
源平の合戦での何万騎というのも騎馬武者それだけの数いるんじゃなくて
付き添いとかいろいろひっくるめての数だし。
川中島の車懸かりの陣といい、この騎馬武者の数字といい、甲陽軍鑑は
ムチャクチャな本だな。
18 :
212:2001/08/20(月) 23:41
甲陽軍鑑の評価は古来の問題ですね。私も専門的にやった
わけではありませんが、記述の一部には、高坂弾正が書い
たものに基づいたところがありそうな気がします。ただし、
高坂が軍書を書いたのではなく、何かの覚書のようなもの
だったのではないか。それが材料の一部として使われてい
るというぐらいかと感じます。
山本勘助が軍師というのも多分誇張でしょうが、一時架空
人物説が有力だったのは、「山本菅助」にふれている晴信
書状が出てきて名誉回復されました。こういうこともある
ので、全く出鱈目な書というわけではありませんが、読者
の期待する合戦や軍編成関係については、小幡景憲の作為
がかなり入っているのでしょう。
武田は滅亡したので、上杉ほど史料の残り具合が良くない
ハンディがあるわけですが、頼りの甲陽軍鑑に毀誉褒貶が
あるのが問題。
19 :
13:2001/08/20(月) 23:42
13・16・18です。上の名前の212というのは間違い
です。m(_ _)m
20 :
モリース・ド・セックス将軍:2001/08/20(月) 23:51
>>11 小幡党は長野業政の流れじゃないよ〜。長野氏の被官のほとんどは、
箕輪衆として内藤氏の下に再編成。(『群馬県の歴史』山川出版等を
参考にしてちょ)
>>16,17
基本的に『甲陽軍鑑』の史料批判と解釈に誤りがあると思われ。
日本には騎兵はいません。断言。
近代軍制以前では、ヨーロッパの騎士も騎兵と言えるかどうか?
日本の武士をあえてヨーロッパ起源の近代軍制に当てはめるならば、
「乗馬歩兵」が近いでしょう。
ところで「武田騎馬軍団」て、誰がいつ頃から言い出したんだろう。
21 :
17:2001/08/21(火) 00:33
おっしゃる通り。
私も近代軍制以前の日本には騎兵がいないという説には賛成します。
ただ源平から鎌倉武士については先ごろ、講談社から出ている
「源平合戦の虚像を剥ぐ」という本を読んで当時の騎乗武者が
弓を主要な武器として扱ったような趣旨があったので、蒙古とは全く違うにしろ
騎馬武者という呼称はギリギリ当てはまるような感がします。
あと武田騎馬軍団というインチキの出所は、旧日本軍ではないでしょうか。
彼らが唱えた説を、後の学者が軍事の専門家が言ったことなんだからという理由で
安直に採用してしまったことが事の発端となったような気がしますね。
22 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:37
実際の騎馬は時代物ドラマに出てくる馬より小さかった。
でも必ず馬丁がついて
主人が攻撃に専念できるように馬をコントロールしたんでしょ?
そんでもって従者が徒歩で死角を守ると。
何か運動会の騎馬戦みたいだね(w
24 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:56
運動会の騎馬戦か。
うまいこというね。
ただ戦勝品が相手チームの帽子でなく
生首というちがいを除いて。
25 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 00:58
何故、日本でも西欧でも騎馬隊が発達しなかったのでしょうか?
真に世界最強であろうモンゴルはどうですか
(モンゴルに「世界最強」と冠してもナンセンスではないでしょう)
26 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:17
西欧でも発達してましたよ。
ほら、装甲騎兵って有名じゃないですか。
27 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 01:31
モンゴルは生活の全てが馬を乗ることだから騎馬隊というよりも
歩兵をやれというのがそもそも無理だと思う。
日本で騎馬隊ができなかったのは、中央集権国家ができなかったからでしょう。
中央集権政府があれば、人間を個々に把握して税金を中央に集め、中央政府が
軍の編成を決めるというようなことができる。
ところが封建制では、領地の所有者である領主が装備等を負担するわけだから
一括して大規模な騎兵を組織しようがない。
そこの違いじゃないかな。
28 :
名無しさん:2001/08/21(火) 01:52
ニホンノ騎馬隊って義経と信長の壇ノ浦だけじゃないの?
本格的なのは秋山好古でしょ?
29 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:08
30 :
モリース・ド・セックス将軍:2001/08/21(火) 02:41
>>25 多分、生存のために馬を必要とする社会では無かったからだと思う。
ユーラシアのステップでは生きていくのに馬が必要でしょう。まさに
「遊牧生活」。
それに比べ、ヨーロッパや日本、中国では、ある種の階級や、職能が
馬を必要としただけだから。
無論、ここでは時代ごとの社会の相違をあるていど無視して、「騎馬
隊が発達しなかった」か?にレスつけてるんですが。
>>26 装甲騎兵は近代軍制の産物だから、20で概答済み。
今、思い出したんだけど、明治以前の日本には蹄鉄が無いから、長距離
機動ができないし、去勢してないから密集突撃ができないんだよ。
31 :
モリース・ド・セックス将軍:2001/08/21(火) 02:46
↑ >長距離機動ができないし、
ごめん。戦場での長時間の機動だ。まちがえた。
32 :
ズク出せ:2001/08/21(火) 02:53
大河ドラマで実際に木曽駒のような小さな馬で戦国とか源平描いたらどうなるだろう。
やっぱり視聴率おちるかなあ〜?
それ以前に凶暴で暴れるので
望み通りのアクションをしてくれないと思う。
34 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 09:45
せっかくだから、旗でも立てておこう。
___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――
│
│
│
│
│
こまかなことを言って申し訳ないが、モンゴルの軍隊は戦術運用が柔軟で、確か金との
戦いの時に馬から下りて、塹壕を掘って歩兵として戦った!モンゴルの軍隊が必ずしも
騎兵による戦術に固守することのない軍隊だった。要するに勝つためには手段は選ばなかった。
36 :
ア〜ズマ:01/08/29 00:20 ID:KEKvjuY.
モンゴル軍が移動する時は兵一人につき馬四〜五頭の感じ。
乗り馬、替え馬、荷駄馬と馬ばっかり。
必要ならヤギや羊を食料として連れて行った。
食料が自分で歩く。
日本では馬が高価で一人で何頭も所有できるものではなかったし、
国内戦で移動距離が短い戦争が多かったから替え馬は必要なし、
荷駄馬より人件費が安いから従者に荷物を担がせたし、
さらに食料は戦場の近くの農民に供出させた。
結局日本の軍隊は馬上の武士の廻りを五人も六人もの中間、小者が
取り巻いて戦っていた。騎馬武者はいても騎馬隊はない。
ただし、太田道潅は全員が馬に乗った足軽隊というのを持っていた
そうだから、これは比較的騎馬隊に近いかも知れない。
37 :
23:01/08/29 01:59 ID:ubjbX29k
>36
>太田道潅は全員が馬に乗った足軽隊というのを持っていた
初耳だ。
ソースキボーン。
どのぐらいの規模の部隊?
38 :
歴史@時輔:01/08/29 08:25 ID:20mh9WTE
騎馬はある。なぜなら
○○騎
と数えるからだ。
39 :
日本@名無史さん:01/08/29 08:26 ID:loylVnHM
そうですね
40 :
歴史@時輔:01/08/29 08:28 ID:20mh9WTE
義経が急な崖を馬で降りたのは有名だろう。馬は荒地でも使用できるぞ。
41 :
歴史@時輔 ◆y554YKT6 :01/09/29 18:38
ageとくか
42 :
日本@名無史さん:
たしかフランシスコ・ザビエルが「日本人は弓術に優れている」とか、
「馬はいるが、徒歩で戦うことが多い」とか書いていたような・・・・
西国では馬にあまり乗らなかったのかな?