秀吉と家康どっちの方が悪者

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1日本@名無史さん
どちらが悪いでしょうか?
2日本史:2001/07/25(水) 10:35
秀吉贔屓の意見ですが。
秀吉は朝鮮に侵略を始め、死後に終わった。
明は朝鮮(李王朝だったのか?)に援軍を送った
それにより明は国力が低下し清にとって替わられる事となった。
家康は朝鮮と国交回復に努めた。

秀吉が悪い。
3日本@名無史さん:2001/07/25(水) 10:50
秀頼死なせたから家康悪い
4日本@名無史さん:2001/07/25(水) 10:51
好き嫌いで言えば秀吉が好きだけど
良い悪いで言えば秀吉が悪い。

三法師はどうなったか。
秀次はどうなったか。
利休はどうなったか。
5:2001/07/25(水) 11:00
秀吉がちゃんと体制を立てていれば、
秀頼が殺される事も無かった。

よって秀吉悪し…でも家康好きじゃない
6日本@名無史さん:2001/07/25(水) 11:18
どっちもどっちだろ。
なんちゅう幼稚なスレだ。
7日本@名無史さん:2001/07/25(水) 11:21
>6
どうどっちもどっちなのか説明してみな。
8日本@名無史さん:2001/07/25(水) 13:43
 英雄なんて皆、「わる」さ
9日本@名無史さん:2001/07/25(水) 14:08
天下一の厨房スレ認定!!!
10日本@名無史さん:2001/07/25(水) 14:09
>>9
理由を簡潔に述べよ。
11良質スレあげ委員会:2001/07/25(水) 20:47
あげ
12日本@名無史さん:2001/07/26(木) 01:18
>>3
 織田信孝とその母の坂氏と信孝の幼い娘、
つまり信長の息子と側室と孫娘を殺した秀吉も似たようなものだ。
13日本@名無史さん:2001/07/26(木) 01:22
先生、いえやすくんは ズルイから わるいとおもいます!
14日本@名無史さん:2001/07/26(木) 01:47
秀頼のこと、お頼み候と何度もいわれ、また秀吉在世時
家康に対して礼を尽くしたにもかかわらず

秀頼を苛め殺し、国松を斬首し、京都豊国大明神を破壊し、
秀吉の遺骨をばらまいた家康。
15日本@名無史さん:2001/07/26(木) 03:24
スレをたてた1が一番悪いと思う。
16日本@名無史さん:2001/07/26(木) 12:23
>14
家康に逆らったからじゃん。
17平和バカ:2001/07/26(木) 13:16
はーい、せんせー!
平和で仲良しが一番いいことだと思いまーす。
人を殺しちゃう戦争は悪いことだしぃ、
ケンカしたり、人と対立することも悪いことでーす。
だから、戦う武士はみんな悪人でーす。
ケンカ両成敗だしぃ、今の与党と野党もケンカしてるから悪い人でーす。
警察官は拳銃という武力を持っているので悪い人でーす。
18日本@名無史さん:2001/07/26(木) 15:08
>>15
1やけどしばくぞお前くるな
19戦争バカ:2001/07/26(木) 15:27
う〜ん。タロー君、それも一つの考えですが、センセーは頭がおかしいキミが一番悪いと思うよ。みんなでタロー君の悪いところを調教してやりましょう。
20日本@名無史さん:2001/07/26(木) 15:36
>>18
つーか関西人は出入り禁止だっての。氏ね1。
21日本@名無史さん:2001/07/26(木) 15:39
>>20
恥ずかしくないですか?
22日本@名無史さん:2001/07/26(木) 16:54
>>14
未開の関東に移封しといて礼をつくしたとは笑わせる
23日本@名無史さん:2001/07/27(金) 01:26
>>22
未開なら開発すればいいじゃん
24日本@名無史さん:2001/07/27(金) 01:29
>23
誰が?
25日本@名無史さん:2001/07/27(金) 01:46
>16
家康が豊臣家を挑発して逆らうようにもっていかしたの。
大体、逆らうって言葉もおかしい。
豊臣家の方が主筋なんだから。
26TAKU:2001/07/27(金) 01:50
 レス違いでスンマソン!ぜひおしえてください。
 もし信長が天下を取っていれば、秀吉は目の上のたんこぶだったのか?
 対外侵攻の為に生かせておくか、それとも死後の政権簒奪を恐れて殺してしまうか?
 秀吉が死んだとしても、信長実子・秀勝が継ぐので羽柴家は一門化?
 秀吉のライバルは誰になっていたのか?統一直後に勝家は亡くなりそうだし、養子蒲生氏郷、蘭丸、堀秀政あたりでしょうか?
 家康は粛清第一号は間違いなさそう…散々使いまわされた上にボロ雑巾に使い捨てにされそうですね・…それとも、秀吉みたいに奥州転封されてたかも。
 と、考えると信長が滅びた事が一番良かったと言う事でしょうか?
 妄スレ勘弁シテチョ! 逝ってきます…
27日本@名無史さん:2001/07/27(金) 01:55
どちらも残酷な事をやっているでしょう。
天下人が恨みをかうのは当然だと思う。
28TAKU:2001/07/27(金) 02:07
 >27
 でもなかなかボロは出しそうにないけど・…特に家康は、もし粛清となったら謀反を起こすか?
 家臣達との結束力がある事をかんがえたら、東方戦では少なからず家康の活躍の場がありそうなので、
見返りに加増する必要があるし、そう考えると信忠・一益、北陸方面軍とその他関東緒大名を動員すれば
家康の出番はないと言う事もありうる…朝鮮出兵で何らかの戦犯として殺すか?
 あ、イカンイカンまた妄スレじゃ・…
29下克上:2001/07/27(金) 07:17
>>25
豊臣の主筋の織田から政権を簒奪してるから、そんな偉そうなこと言う権利は全く無い。
30419:2001/07/27(金) 08:14
実力あるものが政権を奪取するのは当然です。
それは今の時代も同じ事です。

…朝鮮侵略で秀吉の方が悪い…
別に侵略を悪いと言ってるわけで無い、結局朝鮮侵略で得る物が
無かったのが悪い。
31日本@名無史さん:2001/07/27(金) 13:39
>29
逆らうって言葉の使い方が変だといってるだけ。
織田の話をもってくるのは話のすり替え。
32日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:08
>31
いつ徳川は豊臣の家臣になったの?
泣いて頼むから五大老筆頭になってやっただけでしょ。
33日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:23
>32
自分で矛盾した文書くなよー。w
五大老筆頭なったってお前が書いてるだろう。
その時点で主従関係が成立してるんだよ。

泣いて頼んだのは秀吉得意の人心掌握術。
これで戦国の世に終わりをつげ、天下を安寧に導く為に
家康の気をおさめようとしたの。

面従腹背で秀吉の思いを聞き流してたのが狸の証し。
34日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:30
>29
そそ。そして、家康公は信長公の盟友(対等)
本来、秀キチは信長公の家臣であった
35日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:33
信長と家康の同盟が対等だって?
信長に犬のようにあつかわれてたのに。
36日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:35
>33
あほな親戚のお手伝いをいやいやしてやっただけで
家臣になった覚えはありましぇ〜ん。
37日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:38
>36
語るに足らず。宿題早めにやっとけよーw
38日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:44
>37
語るに足らずって日本語?
39日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:45
器が違うよ。家康なんかに仕えたい?
40日本@名無史さん:2001/07/27(金) 15:50
>39
器が違うから滅びたんでしょ!
41日本@名無史さん:2001/07/27(金) 16:31
立てた1には悪いがこのタイトルだと欠点探しになって
不毛な議論に陥ることが多いな。
4242:2001/07/27(金) 16:45
信長政権で秀吉と家康どっちの方が偉かったんだろう。
家康に信長の家臣を裁ける権限が無ければ、家康と秀吉は同等と考えていいと思うが。
43日本@名無史さん:2001/07/27(金) 16:55
>42
えっ?
秀吉って信長の家臣でしょ。
家康って対等とはいえないまでも
信長の同盟者でしょ。
44日本@名無史さん:2001/07/27(金) 17:03
>>42
変な理屈だな。
武田信玄に今川家の家臣を裁く権限があるのか?
君の理論だと太原雪斎と武田信玄は同列ということになるな。
45日本@名無史さん:2001/07/27(金) 17:10
>43
同盟者とはいえ、事実上は織田家の『軍団長』と変わらないと思う。
石高で見ても、家康の領国(三河・遠江・駿河)より秀吉や柴田勝家の軍団領の方が高い。
とはいえ、やはり同盟者としての扱いはされてるけど。
46日本@名無史さん:2001/07/27(金) 17:14
>>41
激しく同意。
新たにレス立てますか?
47日本@名無史さん:2001/07/27(金) 17:18
信長にとって家康は同盟者と言うより客分だったんじゃないかな?少なくとも対等ではないよね。
4842:2001/07/27(金) 17:22
>43
武田討伐の恩賞で駿河の国を与えられてるのなら従属だと思う。
>44
そうだね。変な理屈だった。
49日本@名無史さん:2001/07/27(金) 17:22
>45
その石高って同じ時点での比較ですか?
50日本@名無史さん:2001/07/27(金) 17:38
>48
同意。

>43
太閤検地での計測結果で見ると

(三河+遠江+駿河)=約70万石

柴田の本拠の越前は一国で約50万石

まあ慶長三年の計測だから天正10年以前とはズレがありますが。
51奈菜氏君:2001/07/27(金) 17:58
家康は清洲会議に参加しなかった。
52えーちゃん:2001/07/27(金) 18:15
「目糞、鼻糞を笑う」
53日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:39
>52
どっちが目糞でどっちが鼻糞?
54日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:46
秀吉は織田家を簒奪しようとしたわけじゃない。
目の前に天下が転がってたから拾っただけだ。
家康は完全に謀反。というよりもとより秀吉の家臣という自覚無し。
55日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:50
>54
家康は豊臣家を簒奪しようとしたわけじゃない。
目の前に天下が転がってたから拾っただけだ。
秀吉は完全に謀反。というより信長の死後織田家の家臣という自覚無し。
56日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:52
秀吉は織田家に取り立ててもらった身分の分際
恩を仇で返した典型的な簒奪者。
57日本@名無史さん:2001/07/27(金) 20:55
秀吉は織田家に取りたててもらったわけではない。
信長個人が見出して拾っただけ。
信長には恩義があるが、馬鹿息子にはナシ。
信忠が生きてれば違っただろうけどね。
58日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:02
マジレスな

 戦国時代に世襲制というのは完全ではなかった。
織田信長自身が親族と争い、相手を殺している。
そういう世界。また下克上というのがまかり通っているので
両者とも簒奪者であっても、それは当時の考えでは
不思議でもなんでもない。

 しかし秀吉が信長の親族を権力から遠ざけるも、存続させた
事実と家康が豊臣家を抹消させた事実を比べると家康の豊臣家への
恐怖が思い浮かべることができよう。
 その点で家康の方が徹底しているということか。
59日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:02
>57
馬鹿息子って誰のこと。
秀頼のこと?
60日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:06
>>57
それを取り立てるって言うんじゃないの。
馬鹿だろうがなんだろうが守り立てるのが
家臣の役目。
それに信忠の息子を秀吉はどうした。
61日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:08
>>58
それは、秀吉は元同僚や元上司を家臣に持つことになったから
元主筋に強気にでれない足元が危うい政権だっただけじゃん。
62日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:09
>58
織田家が従順だったからでしょ。
豊臣家も1家じゃなかったら存続してたかも。
63日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:15
>>62 家康は秀頼の息子を探し出して斬首させて、娘は
尼に出して徹底的に豊臣家を滅亡させている。これは
なぜか?
 やはり後日の憂いを取り除いたということでしょう。
6461:2001/07/27(金) 21:17
>>63

俺のレス>>61は無視かい・・・
65日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:18
>>64 同意したつもりです。スマソ
66日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:27
>63
二度も敵対したからね、仕方がないでしょうね。
67日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:29
秀吉は旧主松下を大名に取り立てた。家康は旧主今川を
優遇しないばかりかドキュソ武将扱いをし苦労話や信長との変な
友情物語を創って自分を正当化した。
やはり自政権にかける、えげつなさは家康のほうが数段上。
そのおかげで、駿府を好んだのはおかしいとかトンデモに突っ込まれる
事になるんだけど。
68日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:35
>67
まず今川は家康の旧主ではない。
今川は旗本となった。
我が子かわいさのために甥を殺してはいない。
69日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:36
>>67
松下のその後は?
70日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:41
家康は今川氏真を牧野城主にしたりしてるよ。
>康は旧主今川を
>優遇しないばかりかドキュソ武将扱いをし苦労話や信長との変な
>友情物語を創って自分を正当化した。
これって家康が全てしたことかな?甲陽軍艦みたいな後世の権力者への諂い創作伝聞じゃないの?
71日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:43
>>68
いや、あれは典型的従属。
留学と言うか人質と言うパターンもよくある事。
別に旗本で優遇してるとはいえない。
そんな事いったらわが身可愛さに実の子を見殺し。
72日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:46
>>67
妄想に取り付かれて朝鮮へ出兵して多くの将兵を失う妄想簒奪猿を
英雄などと呼ぶ厚顔無恥な司馬遼のえげつなさよりマシ。
73日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:48
>71
秀吉と松下の関係と同じですか?
優遇する必要がありますか?
お家のためにでしょ。
74日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:51
>>72は秀吉の行ってきた、公共事業という
概念を理解していないらしいな・・.<藁

 家康は金による経済という概念がなかった
という意見もある。
75日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:52
>>71
信康は武田家に内通していたなら、我が子と言えども切腹は妥当だろ。
76日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:55
>>70
全部とは思わないけど、原型は創ったと思うよ。
自分が天下取ったら、さっさと主見捨てるのを良いとは言え無いからね。
>>73
と言うよりも変な義理堅さの話だね。別にかなり前の主に義理立てする
事も無いと思うから。
77>>74:2001/07/27(金) 21:56
アホか。どうとでも取れることを都合の良いように解釈するな。
朝鮮出兵は明らかな失敗。秀吉は大坂人には都合が良かったかもしれんが
非大坂人には暴君以外の何物でもない。英雄とは呼べん。
78日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:56
>>74
公共事業って?
79日本@名無史さん:2001/07/27(金) 21:58
>76
松下のその後をご存知ですか?
義理堅いとはね〜!
80日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:02
>>77 だからお前さんは経済という概念がないと
言ったろ?秀吉の本能寺以降の公共事業(戦争)は
毎年きちっと行われている。この投資先を朝鮮に
向けたんだよ。失敗に終わろうが結局は金を
どこかで使わないことには日本の経済が停滞するの。
 当時の豊臣家の資産と収入を知っていて話をしてる
のか?
 少なくとも、家康には金による経済は理解できな
かったんだろう。これはよく指摘されている。
だから家康は豊臣家というシステムを恐れたんだろうな。
81日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:04
>80
馬鹿丸出し、ご苦労さん。
82日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:05
>>81 どこが馬鹿なのかい?煽り屋さん。
8377:2001/07/27(金) 22:06
堺屋太一はもういいよ。あの当時の日本はゼロサム社会なんだろ(ぷぷ

朝鮮出兵は明らかな失敗。
失敗したものは取りやめるだけだろ。
84日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:09
>>74
建設ラッシュと傭兵の輸出(実は棄兵)による国内の安定。
85日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:09
>82
それがわからない、あんたも馬鹿丸出し。
86日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:12
>>84
それだけじゃ、金増えないじゃん。
87日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:14
>>79
江戸初期に徐封されてたと思う。
詳しくは解からないんだけど。
88日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:15
>>85 馬鹿で結構だよ。煽るだけの人に
馬鹿といわれても屁でもない(笑)

 自分の考えを説明できない聾唖者に
言われてもね。
89日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:16
>>88
こいつは障害者を差別するとんでもない奴です。
90日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:22
 差別していないよ。聾唖者に馬鹿といわれても
気にしないと書いたのが?差別なのか?(笑)
 逆に手を差し伸べているのだが?

 スレに関係なのでサゲ
91日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:29
>>80
あの阿呆みたいな花見とかも公共事業?
大体、朝鮮出兵で水軍の重要性を悟らずに大敗し、それを死ぬまで
続けたのは理解に苦しむ。
最盛期は小田原攻め。その後は完全にドキュソ色ぼけじじい。
それに大坂が商業都市として発達したのは江戸時代からで、当時は
大したことなかった。せいぜい、堺が近いくらい。
ケインズばりに「金を使わねば経済は動かない」という概念が秀吉
にあったとはとうてい思えん。
だって、大坂城の金蔵に意味もなく金溜め込んでるような奴だもん。
92日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:32
>>90
あなた本物の馬鹿ですね。
93日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:35
>>91 金を貯め込むのは烏のように動物的本能かも知れない。
(貨幣というより光り物として。)
94日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:37
>>91 聚楽第も公共事業。何かにしろ金を使っている。

 へぇ、91氏の意見は当時の大坂の街が長浜からの商人
や尾張からの商人であふれていたことを知らないんだ。
 秀吉の業績を見ると金を使って経済を動かしていたように
しか考えられないんだけど?
 日本の半分の金を集めているのにそれを使わないと、ほんとに
経済が破綻する。大阪城にたまっていたのはごく一部。
 夏の陣が終わったときの蓄積量は家康が死んだときよりはるかに
少ないよ。しょせんその程度。
 バンバン金を使って経済を回して、豊臣家を儲けさせる。
95日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:38
>>93
成金にありがちだな。
96日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:39
>>94
なら最初から集めなきゃよかったじゃん。
97日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:46
どのみち朝鮮出兵に失敗したわけだし
経済成長の余地は無くなったわけ
なら、秩序ある安定社会を目指すべきじゃない?
98日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:47
>97
そうそう、自給自足大いに結構。
99日本@名無史さん:2001/07/27(金) 22:53
>>94
せいぜい、天下人の門前市ってとこでしょ。
本格的になったのは秀忠政権時の大阪城主・松平忠明のおかげ。
そんなに金払いがよかったのなら朝鮮出兵の軍費を全部持つことだ
って可能なはず。得に最前線は秀吉子飼いなんだし。
それでこそ公共事業ってものだ。
朝鮮出兵のせいで彼等は経済的に破綻して石田三成に借金させられ
て恩を売られた事が東軍参加の理由の一つになったの知ってる?
要するに金をあちこちでばらまいたのは己の力を見せつけるためで、
経済なんて念頭になかったんだろ。金の茶室と同じ。
100日本@名無史さん:2001/07/27(金) 23:12
>>75
その武田と内通自体眉唾っぽいと思うけどね。
信玄だって今川を裏切るに際して息子殺してるから。
単純に武田に親近感があるというのはかなり苦しい。
まあ、ここも村岡とかの突込みどころだけどね。
ただ家康がえげつないだけの事だろうけど。
101日本@名無史さん:2001/07/27(金) 23:21
>100
どこがえげつないのだろう?
信玄は誰かに命じられて息子を殺したわけ?
102日本@名無史さん:2001/07/27(金) 23:40
>信玄は誰かに命じられて息子を殺したわけ?
これの意味がよくわからないんだけど・・
信玄は今川を攻めるのに義信と対立したんでしょ。
まあ勝頼の存在もあるのかもしれないけど。
今川の係累と言う事で信康が武田びいきなのは
当たり前と言うのが苦しいと言ってんだけど。
また、徳川自体武田と内通してたんだから仕方が無いと
通してたのは、えげつないと思うけどね。
103日本@名無史さん:2001/07/27(金) 23:48
>102
???
信長の命令では仕方なかったのでは?
104日本@名無史さん:2001/07/27(金) 23:50
>>103
 信長の命令という確証もないんだよね。
徳川家の文書にしか出てこないから。
105日本@名無史さん:2001/07/27(金) 23:52
>104
それで十分では?
そうでないなら息子を殺した理由は?
106日本@名無史さん:2001/07/28(土) 00:52
経済の面において秀吉が家康よりも優れているということは、まったく確かなことなんだけど、
だからといって朝鮮出兵が肯定されるわけじゃないよな。完璧な失政だぜ、ありゃ。
おかげで今でも隣国の奴等から文句を言われるザマだ。

家康の天下統一にはラッキーな部分が非常に多いのだが、
約250年間という世界史上希に見る長きにわたって内戦の無い時代を
開いたという功績を見逃すことはできないと思う。
結果論かな? ・・・・・・結果論だね。
107104:2001/07/28(土) 00:54
>>105
 『信長公記』に全く出てこない。
都合が悪いので書かなかったのでは? という意見もあると思うが
結構、公記には信長の残虐行為を記述しているのに、
信康切腹だけ書いてないのはおかしくないですか?
 書いてないということは、著者が信長の人生を語るのには
この事件は不要と判断したということになる。
つまり、織田家とは関係のない徳川家の内政問題と見られていたのではないかとも思えるのです。

 息子を殺すわけがない、というのも家康の場合全否定はしにくい。
秀康や忠輝の扱いは殺してるわけではないけど、薄情です。
必要があれば息子を殺せると思えます。
 なぜ殺したのかというのは、はっきりした理由はわかりません。
ただ年の近い親子ですから、信康が家康の最大のライバルになる可能性はある。
信長よりも家康のほうが信康の存在が脅威になりえたと思います。
この時期に信長が徳川との関係を危うくする必要性がわからない。
108日本@名無史さん:2001/07/28(土) 01:19
>107
内政問題というよりまさに取るに足りない事件だと判断したのでは?
息子を殺すわけがないのではなく、理由もなく殺すわけがないのです。
親子がライバル、親子が脅威、可能性がないとは思いませんが。
信長の娘婿を殺すことは織田との関係を危うくすることにはならないの?
109日本@名無史さん:2001/07/28(土) 04:05
朝鮮出兵以上に不経済なものもあまりないな
本当に経済がわかっていたのかいな
110日本@名無史さん:2001/07/28(土) 07:54
案の定、不毛な議論だ。
秀吉擁護派は家康の豊臣家への不義理。
家康擁護派は秀吉の朝鮮出兵非難。

結局の所、自分のお気に入りの武将の欠点聞かされても
不快になるだけじゃないの?
111107:2001/07/28(土) 12:35
>>108
 信長にとっては徳川家が内部抗争を始めて、武田や北条につけこまれるほうが
外交上脅威だと思うよ。内部分裂回避のため信康を殺さなくてはならない、と
家康から訴えられれば娘婿を殺すのも認めるのではないでしょうか。
 信康事件は酒井忠次が安土に行ったとき、徳姫の信康を訴える書状について
信長に事の真偽を尋ねられたとき、忠次は信康を庇いもせず認めたことから始まってます。
邪推すれば、これこそが信康殺害の許可を求める使者だったかもしれない。
信長にすれば娘さえ無事に帰してくれれば、この時点では徳川家の安定を選択したと思うけど。

 ここまで書くと、私が家康を嫌ってるかのように思われるかもしれないけど、
秀吉の方が嫌いです。信孝はともかくその生母や幼い娘を磔にするのは納得いかん。
112名も無き世界史さん:2001/07/28(土) 12:38
 この事件に関して私は信康の死は信長の命令ではなく、当時起こりかけた徳川家中の
内紛解決の結果ではないか?というものです。

 主旨は以下の通り。

1)信康の死に関して、信長は部外者である。
(あれほど猜疑心の強い信長が、そんな命令を出しながら、相撲の観戦や蹴鞠見物に
夢中で三河方面を警戒していないのはおかしい。)

2)信康の”早すぎる成長”と過剰なカリスマ性は家康の心に父親としての喜びよりも
権力者としての嫉妬を植え付けていた。(伊達輝宗のような男は例外なのです・・・)

3)公表された資料の筋書きを見た限りでは、この事件に遡ること4年前の水野信元
謀殺事件と「信康事件」のストーリーが似すぎており、これを下敷きに信長を犯人と
するストーリーが(家康死後の御用学者によって)作られた節がある。

4)水野信元謀殺事件をきっかけに徳川家は信康率いる岡崎衆と家康率いる浜松衆に
分裂し始めた。

5)華やかな戦働きが少なく、冷遇されがちな岡崎衆若手の間に主君家康への不満が
鬱積しており、お家騒動もありえた。

6)その問題解決の荒療治として家康は信康から全権を奪い、幽閉した。

7)この状況を当時生まれたばかりの三男(後の秀忠)を次期当主にしようとする
一派(秀忠の母の親戚は服部半蔵!!)が動き出し、「自害」に見せかけて暗殺した。

8)次男秀康は元々家康からは「おれの子ではないのでは?」と疑われていた。
(あまりの冷淡さに傅役の本多重次が泣きついたほどだったらしい)

9)信康の死に”責任があるはずの”徳姫は信康死後、信長死後も徳川家から
大事にされている。
113日本@名無史さん:2001/07/28(土) 12:46
>111
そのへんのことは「信長公記」に出てきているのですか?
114111:2001/07/28(土) 22:53
>>113
 「公記」に出てくるのは、1979年(天正7年)7月16日に酒井忠次が
うまを献じに安土に来た記事しか載ってません。あとは>>112にも書いてあるとおり
相撲見物や入京して蹴鞠見物などです。
115あぼーん:あぼーん
あぼーん
116日本@名無史さん:2001/07/29(日) 12:50
>>112
その傍証として、信康直臣のいわゆる岡崎衆のその後は不遇です。
改易、左遷など。
また、石川数正の出奔も大いに関係ありと思われます。
117日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:51
>>116
荻丸(結城秀康)を秀吉の養子に出したのも関係あると思われ

(荻丸は双子で、弟がお万の方の実家にかくまわれていた)
118風の谷の名無しさん :2001/07/31(火) 20:06
ははははは
119日本@名無史さん:2001/08/01(水) 13:31
>>117
>荻丸
漢字間違えてるんじゃない?
120日本@名無史さん:2001/08/07(火) 23:37
どっちもどっちジャネーノ?
121日本@名無史さん:2001/08/08(水) 02:11
信長→秀吉の恩>>>>>>>>>秀吉→家康の恩
122日本@名無史さん:2001/08/08(水) 02:23
司馬遼太郎は家康に関して評価辛いね。
ふつーの陰湿なおっさんって描写。
最近「覇王の家」読んでふと思った。
123日本@名無史さん:2001/08/08(水) 02:49
>>122
司馬のスタイル的にいって書いててつまんないタイプの武将
だからでないか?
おもいっきり保守的だし従属外交ばっかだし中年以降は陰険
だしケチだししつこいし。
124日本@名無史さん:2001/08/08(水) 02:51
司馬遼太郎は余り個人的な好き嫌いは入れずに
淡々と書いてる作品が多いが、
「覇王の家」「太閤記」「城塞」
なんかだと豊臣家よりの書き方してる。(微妙だが)
徳川家に対しては冷めた書き方してる。
125日本@名無史さん:2001/08/08(水) 02:54
>>121
旧主への仕打ち
秀吉→信長の孫>>>>>>>>>>>>>>>家康→秀吉の子・孫
126日本@名無史さん:2001/08/08(水) 03:02
>>124
「翔ぶが如く」だと、最初は西郷&桐野側に好意的に書いてる
のに後半になるとかなり冷めた書き方してるねえ。
色々調べたり書いたりしてるうちに評価変わったんか。
127日本@名無史さん:2001/08/08(水) 07:27
>>124
司馬が大阪人だからだろ。単なる地元贔屓。
128日本@名無史さん:2001/08/08(水) 09:22
>>125
旧主?
仕打ち?
129日本@名無しさん:2001/08/08(水) 13:34
司馬遼太郎はどっちでもいいんじゃないー?
家康が好きか嫌いかはわからんが、「城塞」に関する誰かとの対談で
淀と秀頼の事を色々調べましたがロクな人間でなかったと発言していた。
ロクな人間じゃないってー、おいおい。
130日本@名無史さん:2001/08/08(水) 15:24
>129
ろくでなしとは無駄飯食い、役立たず、昼行灯。
ちょっとだけあたってるかも。
131日本@名無史さん:2001/08/08(水) 15:49

横レスれす。無視してくらはい。
>>1
織田信長に天下取りの野望を抱かせ、
家康と秀吉に天下を取らせた明智光秀が一番のわるれす。
132日本@名無史さん:2001/08/08(水) 20:47
息子の出来に関しては徳川も似たようなもんかそれ以下。
秀忠は関ヶ原合戦で真田にこけにされて遅参し、
その名誉挽回をしようと大坂の陣では軽騎を率いて大急ぎで上洛し
家康に叱責されてる。
武家の棟梁たる者、大軍を率いてゆるゆる上洛し風格を見せねばならぬ。
大急ぎで上洛したら、諸侯の笑い者ぞって。
失笑してた大名さん多いんじゃないの?
133:2001/08/08(水) 20:55
>>132
政治手腕はどうよ?秀頼>秀忠か?
134日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:03
逆に秀吉在世で家康がこの世になくその権力を背景に
豊臣がじわじわ徳川を滅ぼそうとしてたらどうだ?
バックにある力が大きいと思う。
135日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:08
>>134
大阪の陣だって、家康だけの政治判断じゃないと思うがな。
136日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:10
あれは、真田にヴァカにされて1週間ツブしたのと
木曽川が増水して足止めくらったから遅参したんだろ
137日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:14
まあ若気のいたりでもあるんだろうが。
138日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:22
あまり大兵力が関が原に出現すると連帯感が低い西軍が崩壊して戦場で叩けなくなる
上杉勢への警戒も必要だから、秀忠はゆっくり進軍は正解。
139日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:25
ものはいいようだな。(藁
140日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:26

> 上杉勢への警戒も必要だから、秀忠はゆっくり進軍は正解。

 おれはこの説よく聞くけど反対。
 戦場に全資源を投入しないで「保険」をかける決戦などありえないし、
 数的に「保険」としては秀忠隊は主力といえる兵数を誇っていた。
141日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:27
>>139
煽り厨房に変化したヴァカ発見
142日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:29
秀頼=大野治長の隠し子説はどうよ?

猿太閤があの年まで、手をつけた女に誰一人子供
ができなかったというのに、いきなりポコッと
子供が淀殿に限ってできるとは、不思議きわまりない。
矢作川で小六に拾われたときに、熱病を発していた
というから、その熱で精巣が死んだのでは?
143日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:31
実子じゃない説を出されるとどうもなぁ。
確かにあの齢になって突然、子が出きるのはなんともいえん。
144日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:32
>>140
西軍諸将の内応が既に決まって関が原の東軍勝利は確定してるんだぜ?
145日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:35
> 西軍諸将の内応が既に決まって関が原の東軍勝利は確定してるんだぜ?

しかし当日の行動をみても確実じゃなかったろう。
146日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:36
しかし、秀吉の子に関しては鶴松と秀頼だけじゃないんでしょ。
秀勝という実子と女の子がいたと別スレかなんかで見たぞ。
147日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:38
>>145
だから、家康はあせったんじゃないの?
148日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:38
秀忠の誤落胤、保科ナンタラもあやしいぞ(藁
149日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:40
秀頼は秀吉の子ではないよ。ヴァカだなあ(W
150日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:41
>149
実子ともいえないが実子でないともいえない。
151日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:43
148は切れてクソレス立てました(爆
152日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:49
>151
お前、一言多いぞ。
153日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:50
149が立てたクソレス
家重@都立マツザワ病院
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=997274489&ls=50
154あぼーん:あぼーん
あぼーん
155あぼーん:あぼーん
あぼーん
156日本@名無史さん:2001/08/10(金) 10:16
本当に悪いのは前田利長ですよ。秀吉の大恩もわすれて父利家が家康がなんかしたら挙兵せよという遺言もまもらへんし・・・・・
157利家:2001/08/10(金) 10:29
わしはそんな遺言しとらんぞ。
158日本@名無史さん:2001/08/10(金) 11:10
やっぱり一番悪いのは小早川吉川毛利

秀頼頂いて出張ってこいよ輝元
ごちゃごちゃ抜かさず前どけよ吉川
鉄砲撃ちかけられたんならキレて徳川に向かえよ秀秋
159利家:2001/08/10(金) 11:18
いつから関ヶ原スレになったんだ。
160日本@名無史さん:2001/08/10(金) 12:49
家康は徳川家康なのに
秀吉は豊臣秀吉なのだ。
161あぼーん:あぼーん
あぼーん
162日本@名無史さん:2001/08/14(火) 12:54
天下人などみな悪人さ
しいて言うなら諸大名難癖つけて改易しまくった量で
徳川家の方が悪かな。
秀吉はよっぽど気に食わなかったものしか改易しなかった
からね。
163日本@名無史さん:2001/08/14(火) 12:56
「徳川家」と「秀吉」を比べてどうする。
164日本@名無史さん:2001/08/14(火) 13:53
>>162
秀吉は徳川家並の強力な統治能力が無かったからな。
165日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:14
信長を悪者にした小説・漫画・アニメなどは多いが、
秀吉・家康はほとんど悪者にされないよね。
真田十勇士を中心とした話で家康が悪者にされているくらいかな。
166日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:19
>165
そうかな?
167日本@名無史さん:2001/08/14(火) 14:45
家康がもっとも悪人扱いされてると思うけど。
魔王・信長とか言っても、基本的に善悪を超越した凄い奴って扱いだし。
168日本@名無史さん:2001/08/14(火) 15:11
>167
そうそう。
169日本@名無史さん:2001/08/14(火) 16:34
隆慶一郎は、豊臣家や石田三成に対して同情的だけど、やつらがやってきた非道に
対してはどう評価してるんだろう?
亡くなってしまった今となってはもう知るよしもないかな。
170日本@名無史さん:2001/08/14(火) 18:31
家康だな
あいつが鎖国しなければ、今の島国根性はなかったろう
日本全国大坂化
「もうかりまっか!」
を世界の標準語に!
大坂商人万歳!
世界を大坂の元に統一する!
そして、皇居を大阪城に!
171日本@名無しさん
>>170
一応突っ込んどくね。

鎖国を実施したのは家康ではなく秀忠と家光。
第一鎖国って言ったって本当は単なる幕府の貿易制限。
長崎のほかに対馬、薩摩、松前での貿易は半公認状態。

秀吉は大阪に皇居を移そうとして失敗している。

むしろ大阪を首都にしようと積極的だったのは徳川慶喜と大久保利通。