885 :
がいやまん:2005/09/10(土) 06:26:48
スマソ。この辺、順序を追って羅列すべきであった。今、ウォーキングに出るところ
だから一寸待ってね。
886 :
がいやまん:2005/09/10(土) 07:53:41
皇祖については、鹿児島川内の可愛山稜から高千穂にかけて、いわゆる、隼人族
の多いところが、現在の沖縄人、アイヌなどと共に縄文時代の日本人の純粋の
血筋が強いところでもあり、北部九州が早くから大陸と接触したのに比べ、古い
しきたり、照葉樹林の文化をとどめており、古くから日本人のふるさとと考えられ、
皇孫はこの地方の人であるとする考えが古くからあったのだろう。しかし、神代の時代
は考古学的には遺跡に乏しく、高千穂のごとく天然の奇勝を崇拝したのだと思う。
こうした奇勝では出雲の加賀の潜戸とか、台湾の花連アミ族のタラコ渓谷とか、
他にも各地に様々なものがある。しかし、イザナギなどもアワギガハラに禊に行く
のであるから、関門付近のものは海流の関係で日向まで簡単に航行できたのでは
なかろうか。
887 :
がいやまん:2005/09/10(土) 08:11:11
大陸の稲作技術を受容して経済力を身につけたのは吉野ヶ里遺跡に代表される
背振山脈周辺の文化であり、これは次第に福岡県東部の遠賀川流域に拡大する。
佐賀県の伊都国平原遺跡から出土する超大型内行花文鏡は日本独自のもので
この近辺に北部九州全体の王権が誕生したのであろう。神話のオノゴロ島などは
この地域が起点であったことを示している。王権の象徴は三雲遺跡の朱である。
九州に続いて朱の集積が見られるのは吉備の楯築遺跡である。で、東遷はあったか
というと、神話ではニニギは空中で生まれたとあり、まだ、JALもないことでえあるから
これは、安曇海人族による山陰地方への文化の移転、豊前、宇佐地方で成立した
渡来系色の強いものの日向、吉備、播磨灘周辺への移動があったのであろう。
888 :
がいやまん:2005/09/10(土) 08:21:39
神武は丹生川でシイネツヒコ(大和の大王だろう)に丹を使って魚を殺したりして
感服させているが、この丹を使う魔術師というのがニニギということであろう。
楯築に集積する大量の朱はこの遺跡がニニギのものであったことを物語るので
はないか。
889 :
がいやまん:2005/09/10(土) 08:30:12
倭人伝にある支維国というのは紀伊であり、いわゆる吉備は投馬国、応神も
この国の名前を取ってミトモワケと名乗っている。これはニニギの国であり、
ここが高天原であったのだろう。投馬国の世帯数からしてほぼ間違いない。
楯築遺跡がニニギから神武にいたる皇祖の墳墓、造山古墳は応神陵として
おこう。
890 :
がいやまん:2005/09/10(土) 08:42:06
こうすると纒向建設は天孫投馬国とニギハヤヒ系の東海・渥美(安曇)海人族系
の合作となるが、天孫・ニギハヤヒ・出雲の談合の地が滋賀県の野洲川の付近、
つまり、天孫系はアメノヒボコを動員し、賀茂系の銅鐸宗教の産業転換、宗教改革
を行い、この際鏡山神社などが作られたのだろう。またヒミコ共立の合議も行われ、
大国主の国譲りも行われた。纒向遷都、箸墓(天津神籬)建設も決定された。
しかし、この後ヒミコのスカートの下で磯城の豪族が政権を握り、女王の死亡を
伏せても側用人の男王による統治が続いた。ここに国内の不満は高まり、「箸墓
建設にこき使いやがって、竣工したら、女王が崩御するなんていい加減なことを言
いやがって」などととんでもないことを言うものが出始めたが、ここに日食が起きる。
891 :
がいやまん:2005/09/10(土) 08:47:40
参謀本部の思兼命は天才的ひらめきで岩戸神事を挙行、崇神をハツクニシロス
スメラミコトと宣言し、箸墓でひつぎの儀を行う。このとき急遽九州から鏡を取り寄
せたが、崇神は「キモイ(恐れ多いという天皇語)」といってこれを檜原神社に祭らせる。
892 :
がいやまん:2005/09/11(日) 07:07:33
「宇佐国造家の伝承によると、「古の菟狹國の~都は、筑前・筑後・肥後・肥前・
大隈・薩摩の六ヵ國には在らず。筑豊・日向・肥後・備前、この四ヵ所の所領のう
ち、最たるものは備前にして、古の菟狹國の~都は備前なり。備前・備中・備後・
美作は古の菟狹國第一の~都にして、第二は九州、第三は蒲郡以西をもってこ
れに當つ。」とあるといい、それ以前には、鳥取県河原町(旧八上村)におり、隠岐
ノ島からそこに移ってきた経緯が、因幡の白兎の話になっているのだという。」
http://hw001.gate01.com/sangatu/jinmu_setonaikai.htm 漏れはとんでもない誤解をしていたようだ。備前は投馬国ではなく宇佐国であった
らしい。すると、倭人伝の世帯数の多い投馬国とは何だ。鞆の港(潮待ちの港か)
を宇佐国の国称と聞き違えたのか。陳寿さんしっかりしてよ。
893 :
がいやまん:2005/09/11(日) 07:14:05
ところで宇佐神宮の聖なる山、御許山というもは倭面土山とも書ける。倭面土国王
は帥升であった。スサノオに非常に似ている。大体、海外渡航歴のある倭王と言うの
は伝承ではスサノオをおいて他にない。すると漏れはもう一つ誤りを犯していた。
楯築遺跡被葬者はニニギではなくスサノオかもしれない。
894 :
がいやまん:2005/09/11(日) 07:18:11
すると孝霊天皇が隠岐島の黄魃鬼征伐に妻木晩田に出かける伝承はスサノオ
征伐ということになるが。ウッソーなんていわれかねない。しかし事実は記紀よりも
奇なりということもあるかもね。
895 :
がいやまん:2005/09/11(日) 07:40:52
鮮卑に拉致された倭人については↓北倭とする説がある。
「漢の光和中、鮮卑の檀石槐、倭の善く網して捕うるを聞き、東して倭人国を撃ち、
千余家を得て、徒して秦水の上に置き、魚を捕らえて以て糧食を助けしむ。鮮卑は
東胡の種なり。即ち今の韃靼東北の地にして、謂う所の倭人は即ち北倭なり。夷の
俗は善く沈没して魚を捕う。今に於ても亦た然り。夷は種落多く、渡島の蝦夷と曰う
は其の東北の海中に在る者なり、北蝦夷と曰い、東蝦夷と曰うは其の徒(うつ)りて
内地に居る者なり。北は越国と謂い、東は陸奥国と謂う。齶田(アギタ)(一に飽田
に作る、今、秋田に作る。)と曰い、淳代と曰い、柵養(一に城養に作る。)と曰い、
津刈(一に津軽に作る、又た都加留に作る。)と曰うは、皆な東北の別なり。宋書に
曰く、毛人は五十五国と。唐書に曰く、倭国の東北は大山を限りとし、其の外は即ち
毛人なりと。総て其の内外の種落を言うなり。夷種は分れて内地に居るも、其の始は
詳かにするを得可らず。 」
http://www.st.rim.or.jp/~success/arai_emisi.htm 倭面土国王が治安の悪い満州をスイスイ通過して「「安帝の永初元年(107)、倭国王
帥升等、生口百六十人を献じて請見を願う」」というのは倭人がこの地にプレゼンス
を持たないことにはありえない。また、こんな疑問が生じる。スサノオは北倭人であった
のが宇佐国に入ってきたのでは?
896 :
がいやまん:2005/09/11(日) 07:45:12
つまり、楽浪海中に倭人ありというのは、楽浪海中、九州西岸、環日本海の制海権は
縄文時代から安曇海人族が握っていたんじゃないのか。
897 :
がいやまん:2005/09/11(日) 08:15:11
スサノオは天照に(1)斑馬の生剥ぎの皮の天幕への使用、(2)水田耕作に危険防止違反
(3)野糞(厠を知らない)など馬飼ツングース(プロトモンゴルか)的民族性を理由に出雲
方面に神ヤライされている。このスサノオの特性と一致するのは「馬韓」、「月支」等という
原三国の半島の地名である。つまり、原三国自体が大部分倭人であったのではなか
ろうか。もちろん日本語では解釈のできない国名も多く、原韓人の国もあったではあろうが。
原三国の北方系要素は半島には残らず、全て日本に流入したのではなかろうか。
898 :
がいやまん:2005/09/11(日) 08:19:04
このスサノオ集団は(鹿飼(香椎宮)、宇佐、宮島、春日、鹿島)の時代とは2百年程か、
の時間差があるようだ。
899 :
がいやまん:2005/09/11(日) 09:17:33
日御碕神社御由緒によれば:
http://www.web-sanin.co.jp/local/taisya/yuisyo-h.htm 「神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に
登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられて
お投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ケ丘に止った。」
つまり出雲に着任後馬韓、コムナリ、に出向いているようである一方、当社には
「孝霊天皇六十一年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神
の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて
賊船覆没せりと云う。こゝに於て神威を畏み神恩報賽の祭りを執行して現在に至る。」
との伝承もあり、隠岐島の黄魃鬼とはスサノオとは別のヒコハニかもしれない。
900 :
がいやまん:2005/09/11(日) 09:57:30
>>892 「筑豊・日向・肥後・備前、この四ヵ所の所領のうち、最たるものは備前にして、
古の菟狹國の~都は備前なり。」・・・この国名はもしかして、日本(ホモト→ホムタ)
であって、応神はこの称号を取ることにより日本国王、この国の別名が投馬であり、
ミトモワケ、ホムタワケとしたのではないかな。
901 :
がいやまん:2005/09/11(日) 12:13:56
>>892 古の菟狹國→隠岐島→八上(ヒスイ産地)→気多大社→白山神社→諏訪大社→
秩父神社→鹿島神宮と関係するらしい↓
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/LL-SuwaKashima.html つまり、まず、気多大社の御由緒↓
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/ketahon.htm 能登国能登郡(現鹿島郡)気多本宮は延喜式神名帳に所謂、能登生国玉比古神社
と伝承すものなり。
上世の昔、大己貴命、出雲国より因幡国気多崎(因幡の白ウサギの地)に至り、
八上比唐フ許に通せ給い、夫より鹿・亀の二霊に駕して、当国当所に渡らせ給う、
今の府中の浦是なり。
この時老翁夫婦出向きて、菓餅二品を柏葉に盛りて饗す。 一品は野老、一品は
焼付餅。 曰く、我此の地に住せる事無窮。 汝命、永く此の地に留座して国土人民
を保護し賜えと、応諾了て去りぬ。 伝え曰く、此の老翁夫婦は素戔嗚尊・稲田姫の
二神也と云々。
<邪馬台国時代では>
大入杵命は人皇十代崇神帝の皇子なり、伝へて云ふ上古草昧の代、妹命と共に
此の国に下り大に殖産興業の途を開き給う (中略) 薨じ給ふや御遺骸をタ日直
刺処親王塚に葬り給い、御神霊を上村に鎮め給うと能登之臣の祖神にして郷土
開拓神なり (中略) 能登臣の祖神能登部の氏神として尊崇措かざりき、乃ち
此の宮を兄宮、沼名木入姫命の神祠を妹宮、村名を能登部兄村妹村と云いて以て
神の御名を負ひ称へ拳れり。
その社名を能登生国玉比古神社と尊称し能登比盗_社と並びて、能登国の本郷
の神たりしに略しては能登比古神とも称したるにや、何時しかその元の名の忘られ
てここに能登生国玉比古神社の社号争ひの事など起り始め、さては大入杵命の
御名の考證より (中略) 余木、與木、撰木は入杵なり或は此の命の (中略)
「此の地ヨキ地かも」 との御言によせてか (中略) 余喜比古神乃ち大入杵命なり
との考さへ出づるに至れるにや (中略) 気多本宮にてもその社伝に大入杵命を祭
神とせるよし神璽箱に表記並びに棟札の存するありという。
崇神は宇佐と関係しているかと思っていたんだが、どうも複雑な経路のようである。
902 :
がいやまん:2005/09/11(日) 12:20:54
宇佐族はヒスイのどの商業活動もおこなっており、四隅文化圏にまで手を伸ばし、
和邇族の攻撃を攻撃を受けたが、出雲族の好意により難を逃れたというのが因幡の
白兎の話かも。東西両陣営は厳しく対立していたようである。白山神社キクリヒメは
やはり渡来系要素があったのだろうか。
903 :
がいやまん:2005/09/11(日) 14:27:39
904 :
がいやまん:2005/09/11(日) 14:58:37
905 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 19:54:55
アマテラス=卑弥呼はすぐ目に付くけど
スサノオ =帥升は意外性があっていいですね
驚きました。
906 :
がいやまん:2005/09/13(火) 08:07:34
スサノオは渡航歴、三韓におけるスソマ、出雲の須佐という地名などが目に
付きますが、帥升は一大卒、襲津彦、権の帥からして官名の線も捨て切れ
ません。が、倭面土国王と名前は別でしょうから官名の列記というのは
おかしな感じもします。しかし、当時倭面土には後の邪馬台国四官のように
複数の官職があり、帥升とはそのうちの一つということもありえましょうか。
この官職名、帥升がスサノオのニックネームにと転じてゆく。
http://www.toshikozo.co.jp/kousatu/kodaitizunokasaneawasehouniyorukozikisinnwanozu3.htm 上記の地図からもスサノオは考えられる倭面土国の中心燧灘の周辺部を
迂回している感じで、高天原は宇佐かなとも思われますが。
今ひとつ考えられることはスサノオが韓国語ソシモリ(牛頭)という呼称も持って
いたことで、この牛を意味するソシは帥升に非常に近いということです。升はナシメ
の場合のシです。
907 :
がいやまん:2005/09/13(火) 11:33:49
スサノオ、牛、アメノヒボコ、布留/フヨなど渡来系はにぎやかです。
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】というスレトピックスですので
河岸を変えることにします。
908 :
がいやまん:2005/09/14(水) 15:05:31
神武天皇の実年代については、天の香具山のハニをとってヒラカを作った、すなわち、
新型車の発表のようなことを行った。また、河内、大和、紀伊を平定している。などから、
いわゆる庄内土器の始まりの頃だろう。AD200年頃ではなかろうか。この頃九州・中国
地方にかけては吉備の大王が統治していた(楯築遺跡)のだから、その協力によって
紀州を東海勢力から大和の方にぶんどったのだろう。東海地方とも婚姻関係を結び、
吉備の討伐も行い、倭国の統一、布留式土器に時代に入るのは孝霊帝時代で、ヒミコ
が共立されるのは後漢滅亡の寸前であり、帯方郡・公孫との外交関係が永続すると
見ていた頃だと思う。AD220年ころだろうか。神武はイザナギにならい、日向で禊を
受けたのであろうが、事実は倭人伝の通り、各国の共立により女王が立ったのでは。
イスケヨリヒメ→ヤマトトトヒモモソヒメといったところか。
909 :
がいやまん:2005/09/14(水) 15:15:32
↑てなことで、実質の初代天皇は崇神ということになり、極めて短期間で法皇のような
ものになり、実際は垂仁、豊とのファミリー統治であったのかも。雄略のような真の権力
者が生まれるには相当の年月を要したのだと思う。
910 :
がいやまん:2005/09/15(木) 09:30:48
>>889 【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】 で書き込み中に気付いたのだが、
どうも神武東遷は渡来人、特に、高句麗系(高麗人)によってツングース鹿飼族
の渡来ルートのバイアスが入っているようだ。歴史的事実は楯築遺跡方面から
の支援による女王共立制による河内、大和、紀伊圏の文化的統合といったもの
だろう。また、倭人伝で豊、長門周防、安芸が抜けているが、豊葦原瑞穂の国
という実体があったはずだ。ヤマというのは八女、耶馬溪辺りかな。豊葦原瑞穂
の国というのは豊前など水田耕作に適した三巴(ミズハ)の国という意味だと思う。
人口的に投馬国が近い。投馬とは巴とも読める。もちろん、西都原という実体は
ある。しかし、古墳の分布は関門から放射状に広まったもので西都原から一路
東遷という可能性は低いと思う。積石墳は豊葦原瑞穂の国を越えてその彼方の
播磨、讃岐、土佐、大和、日向で始まるということは豊葦原瑞穂の国には後背地
である四隅突出墳地方の影響もあってのことか簡単には入れなかったのだろうか。
911 :
がいやまん:2005/09/15(木) 09:33:18
豊葦原瑞穂の国では強力な大王の専制が丹沙などに見られる協力な富の
集中をもたらし、中小の古墳は育たなかったということもある得るか。
912 :
がいやまん:2005/09/15(木) 15:26:30
913 :
がいやまん:2005/09/15(木) 17:42:28
しかし、楯築遺跡は中円双方墳、これはユーラシア突厥族の古墳。また、この時期に
出雲日御碕神社は月支王ヒコハニの来襲を伝えている。全国的に展開するコマイヌ
(突厥族のライオン石か)、狼信仰、月山信仰、巨石、石像は突厥の祖先と見られる
月支族の到来を物語る。つまり、馬はないようだが、騎馬民族が渡来したわけだ。
垂仁の頃の天日槍、秦集団の中に月支族が入っていたのかもしれない。
914 :
がいやまん:2005/09/15(木) 17:56:10
孝霊帝のウラ征伐とは月支族を征圧したのか、それとも、月支族と和睦し、月支族との
対等な条件で纒向を建設したのか。纒向が半世紀ほどで廃れるところを見ると異民族
主導であったのかも知れない。古墳の中心が奈良盆地の北部、佐紀盾並に移行する頃
初めて地元勢力が勃興する。そして河内に移り西に拡大する。そして吉備方面からの
反動が起こる。これを乗り越え更に九州、三韓へと勢力が拡大する。こんなもんだろうか。
915 :
がいやまん:2005/09/17(土) 09:27:10
吉備に独特なものは特殊器台だが、大型銅鐸の中子と製作プロセスが似ている
感じだ。滋賀県野洲あたりの銅鐸業者が動員されたということはないだろうか。
又、荒神谷の銅剣銅矛の流入が抑えられているのも不思議。更に、豊前の鏡
も来ていない。積石墓もこの地方を迂回している。しかし、巨石遺跡は多い。一方、
巨石遺跡は九州、大和、熊野、京都松尾神社等に多い。これは秦系か。
荒神谷、賀茂遺跡の銅剣銅矛、銅鐸は鉄剣、鏡の文化に負けたのか。鏡の少ない
吉備とはどんな役割だったのか。仲哀は蔚山出身で伊都県主から鏡を受ける。
そのときの注釈に「イソイソしい」などというギャグのようなものがある。「イソ」というの
は献納物という意味ではないのか。これなら伊勢の伊雑宮の意味も解かる。
平原女王の内行花文鏡、は国産であるが、ヒミコの三角縁神獣鏡とは魏帝のいう
ヒミコの好物、特注品、で、国内では偽ブランドを横行させる。ヒミコは八咫鏡とは
縁遠い人物ないし、出自かもしれない。
916 :
がいやまん:2005/09/20(火) 15:06:25
917 :
がいやまん:2005/10/04(火) 21:35:37
神武は熊野、大和を征し、長髄彦を討った。熊野、吉野、大和の征圧は神武が
九州にあった山岳宗教を近畿に移したことであろう。長髄彦の一族の祖ニギハヤヒ
はハヤヒワケ、肥前・肥後、の出自で出雲の四隅突出型古墳文化圏、方形周溝墓、
前方後方墳、後期銅鐸文化と関係の深かったものであろう。神武の足跡は瀬戸内海
の積石墳文化と並行し、香具山での新型土器のデモンストレーションはその時期的が
庄内土器の頃と見られる。神武は布留式土器に登場する邪馬台国の環境整備を行った
もので、これに参加した久米、九州東部の種族は山岳宗教に関係するものであった
可能性がある。つまり、山岳巨石加工技術を持っていたものではなかろうか。主として
吉備・山陰の方面から入ってくるその後の布留式土器の時代のさきがけであろう。
神武の系図の出自は国外ではなく高天原であるが、1000年も続いた甕棺文化を
継承し、新たな古墳時代を開くものにとって、高天原の文化を地上に伝えるとして
後世に伝えることがもっとも正しいと考えたのであろう。
918 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:40:07
ふうん
919 :
がいやまん:2005/10/27(木) 07:17:12
920 :
がいやまん:2005/10/27(木) 10:32:05
921 :
がいやまん:2005/10/27(木) 10:44:46
神武記は当時のハードな交渉を戦記物に仕上げたものだと思う。結局出雲は
後退する事になり、先ずは丹後に退いたようである。↓
出雲大神宮
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kameoka.html こうした出雲勢力の国譲りがあり、纒向には箸墓が建設されるが、その前方と
後円を結ぶ線は三輪山にそっぽを向いている。卑弥呼は箸墓時代、モモソヒメ時代
であるが、狗奴国国王とは素より和せずといわれている。これはこの間の事情を
ものがたり、大国主とは大狗奴主のことだろうと思われる。
922 :
がいやまん:2005/10/27(木) 10:54:05
カムヌナカワミミが神武の嫡子タギシミミを誅するのは出雲・越密約の発動であり、
「タギシミミ命(前述)が三人の弟たちを殺そうとしているときに皇后イスケヨリヒメが
悩み苦しんで、御子たちに火急を知らせた際の歌。狭井河(さゐがは)よ 雲立ち渡り
畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす* 狭井河から雲が広がり、畝傍山の
木の葉がざわざわと音を立てはじめた。 風が吹こうとしている 畝火山 昼は雲揺ゐ
夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる * 畝傍山は、昼は雲が揺れ動き、
夕方になると風が吹く前触れとして、木の葉がざわざわと音を立てている とお歌いに
なり、皇子が危機をさとった。」というのは卑弥呼の国政関与を示すもので、倭人伝
の伝えるとおり、倭国女王であったのだろう。
http://shrine.s25.xrea.com/kumeuta.html
923 :
がいやまん:2005/10/27(木) 19:04:00
出雲と大和の対立は神話学上の天孫と地祇、天と地の二元対立であり、出雲を
一つの極とするともう一つの極は世界軸である。それは最終的には伊勢とされ、
出雲との関係はピッチャーズ・マウンド/前方部対キャッチャーズ・プレート/後円部
の関係のシンメトリーの国土/ダイアモンドとなるのであるが、倭姫巡幸記の描くように
紆余曲折があった。クリスタルな国家に対する縄文的拒絶反応とでもいおうか。
日本人の気持ちがわかるような気がするんだ。崇神も色々苦しんだようだ。
924 :
がいやまん:2005/10/27(木) 19:06:56
スマソ。前方後円を逆にしてしまった。太陽光線を背にして投げるのが、神武が言った
ように天孫のマナーだった。神武は何かジンクスを語るようにつぶやいている。
925 :
3番3:2005/11/02(水) 22:01:16
考古学的に弥生文化は北西九州を中心として発展し、金印は奴国に与えられた
のに天孫は何故日向の高千穂に降臨するのか。西都原には何故古い古墳が
あるのか。日向に降臨したのをニニギ系とすると、河内にニギハヤヒ系が降臨
しているが、もしこの2つの天孫が北西九州出身であるのなら、何故移動を強
いられたのか。又スサノオも出雲に負われているがそれはどこから負われたのか。
926 :
3番3:2005/11/04(金) 11:36:13
一つの鍵は吉野ヶ里の朝鮮小銅鐸が出雲に流れることだ。又、背振山脈東南部出土の
前漢後漢鏡が丹後籠神社で伝世されていることもある。又、高千穂に天下りするのは
阿蘇方面からが順当。こうしたことを考えるとどうも筑後の辺りがくさいのだ。しかし、
本来北九州にあった政権が日向とか、日田に移るというのは戦時中疎開のようだ。
やはり、スサノオが相当暴れたのとは違うか。
927 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 02:25:35
神武は単なる暴虐な人殺しなのに、何が「不殺」か?
928 :
3番3:2005/11/05(土) 12:52:39
神というのは中国語で非常にすばしっこいという意味で、これは他国にも同じ
例がある。極度に訓練された武道家は敵の生命を奪わずに、敵を無力化する
域の技を持つといった意味と違うか。人を殺してしまうような格闘ではまだまだ
芸は浅いぞということだろう。これは戦術、戦略においてもしかりだろう。
929 :
3番3:2005/11/05(土) 13:00:50
倭国の統一は女王共立であり、建国は統一女王、乃至は、それが祭る御魂によって
行われたのであって、このいみにおいて神武は神の武をもつ存在で、人を殺す存在
ではない。但し多くの戦闘において犠牲者が出ているとは思われるがその責任を御魂
とするわけにもいくまい。
奈良時代になってから勝手につけた名前だろ。
本人は神武なんて名乗ってないよ。
931 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 08:55:18
武と名乗っていたかも・・・
いや妄想ですが。
932 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:26:12
sage