安土城復元の新説って

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1なーな氏
最近出たって聞いたけど、どーよ?。
詳細ギボーン。
2日本@名無史さん:2001/06/18(月) 23:34
きぼーん
3日本@名無史さん:2001/06/18(月) 23:44
城なら戦国・三国志板(ゲーム系)の人達の方が詳しいんじゃないの
4日本@名無史さん:2001/06/19(火) 00:17
宮上のやつは、問題外。
やつの薬師寺モコシ移築説も度窮鼠
5日本@名無史さん:2001/06/19(火) 01:08
内藤のが一番まともです(つーか唯一まとも)。
ほかの安土城復元図は、「どうでもいいものです」

マスコミ対策がうまい宮上が変な図面を吹聴していますが、相手にしないように。
6日本@名無史さん:2001/06/19(火) 06:23
気になって検索エンジンであちこち探したら、
『城郭史研究』21号(平成13年6月27日発行)に、

再読「安土日記」― 安土城天主に関する一考察―

というのがあるらしい。
どうせ宮上・兵頭らに続くドキュソの妄想だろうけど。
読んだ人いる?。
7日本@名無史さん:2001/06/19(火) 06:26
6です。
>>5
>マスコミ対策がうまい宮上が変な図面を吹聴

…って先生もう死んでませんか?。
昨年末に死亡記事が新聞に出てたような…。
だからテレビは内藤説一色。長生きはするもんだ(藁。
8滋賀@名無史さん :2001/06/19(火) 16:26
もっと知りたいage。
9日本@名無史さん:2001/06/20(水) 00:21
内藤の復元は、ほぼ確実に本物と推定される図面をつかっているのだから、
正確なのは当たり前。
10日本@名無史さん:2001/06/20(水) 00:29
>>9
皮肉でっか?本気で断定してるとしたらあほっぽい。
11日本@名無史さん:2001/06/20(水) 00:46
宮上説の真偽は別としても、内藤説に対する批判は
まともだったよ。
12滋賀@名無史さん:2001/06/20(水) 18:05
友達からのききかじりだけど、
江戸時代の城跡の調査と「信長公記」で復元した図面が「天主指図」で、
これを内藤先生が見つけて「信長公記」と城跡を比較して、

「おおっ合致するやん」

と妄想爆発でこしらえたのが内藤説の天主ということでよろしいか?。
そうだとあまりにも内藤先生がかわいそう…。

で、内藤先生は宮上先生の意見をどう考えているんでしょうか。
また、内心自説をどう思っているんでしょうね。ちょっと興味あり。
13>11:2001/06/20(水) 23:12
宮上信者うぜえぞ。
14>12:2001/06/20(水) 23:23
偽造という証拠を挙げろ。
15日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:36
あおりは醜いよ。
16日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:45
宮上みたいなドキュソ説を煽りって言うんじゃないの?
17日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:53
太田牛一の著作「信長公記」には本人が書いたものから
版本に至るまでの1〜4及び刊本の5種類に大きく
分けられる。これは内藤先生の調査であり、なおかつ
作業的に妥当なもの。

しかし、「天守指図」の記述内容は一番原初に成立した
1類本より著しい改稿がなされた2・3類本に酷似して
いるのである。これは「天守指図」が2・3類本を底本に
して作成されたに外ならない証拠と思われる。
しかしここで内藤氏は、牛一が改稿にあたって何らか
別の天主に関する史料(つまり「天守指図」のようなも
のね)を見たのだ、と証拠もないことを言いだし、強引に
天守指図先行存在説を維持しているのである。

これは既に宮上氏が大昔に指摘しているのに、内藤氏は
知らんぷりである。どうしたものですかね。
18>17:2001/06/20(水) 23:55
信長公記には、安土城天主が多角形であることは、どこにも書いていません。

よって、それは宮上の単なる妄想。
19日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:57
>>16

多分宮上氏の『國華』掲載論文、読んでないな。
学研本だけで「煽り」なんて言っていたら恥かくぜ。
今後、内藤氏こそドキュソと決定されるであろう。
20>19:2001/06/20(水) 23:59
宮上こそドキュソ。
薬師寺東塔に関する奴の論文には、ほとんどの建築史家が呆れ、無視している状態。
安土城についても同じ。
21>18:2001/06/21(木) 00:00
「公記」+現地の踏査という可能性はどうですかね。
22日本@名無史さん :2001/06/21(木) 00:00
では両方ドキュソということで…。
23>21:2001/06/21(木) 00:03
そもそも、安土城天主台は、上部が崩壊しており、そのような推測は不自然。
また、礎石も埋まっていたはずで、中央部の宝塔などは推測不能であったはず。

よって、江戸時代からこのかた発掘調査までは、基本的に天主台は4角形と推測されていた。
24な〜な氏:2001/06/21(木) 00:05
うわあ、いっぱいの書き込み。
で、新説の話はど〜なったの?。
ぎぼーん。
25日本@名無史さん:2001/06/21(木) 00:09
な〜な氏っていったい:。

>>23
江戸期に埋没していたという証拠など実は何もありません。
昭和初年の報告書にあやふやな形でふれられている話が
ひとり歩きしてるだけですよ〜。
これも内藤氏の情報操作のひとつ。どうもなあ。
26日本@名無史さん:2001/06/21(木) 00:58
「城郭史研究」はまじめな考古学雑誌。8月4・5・6日に高知大で「全国城郭研究者セミナー」が開かれるぞ。
27日本@名無史さん:2001/06/21(木) 06:40
そりは「中世城郭研究」では?。

「城郭史研究」は考古的な色合いはやや少ないし、
在野の研究者の発表が多い。だから内容は精粗さまざま。
まじめではあるが全体的には評価が分かれる原因と
なっていると思われ。
28滋賀@名無史さん:2001/06/21(木) 08:18
で、誰も新説について知らないんだね…結局。
29日本@名無史さん :2001/06/21(木) 14:42
城郭史研究はもう店頭に出てるから自分で見てみたら?
安土日記は比較的正確だって内容だったと思う。
30日本@名無史さん:2001/06/21(木) 14:48
27さんの評価で正しいんじゃないか?
確かに城郭史研究は在野が多いね。
ただ、そんなこといったら中世城郭研究なんて全員在野では・・・。
まぁ、問題は内容だけどね。在野ってことで評価する人もいるのは事実。
31日本@名無史さん:2001/06/21(木) 17:30
と、いう訳で買ってきました(どこにもはないのね:)。

何か漆喰塗りの白壁天守の復元図とか平面図や、何でか絵巻物の
盆栽の図版なんかも載ってるけど、詳しい話は読んでから…。
32日本@名無史さん:2001/06/21(木) 22:03
読書中age。

確かに著者のいう通りだ。文は拙くて分かりにくいところが
あるけど。ふむふむ。

で、「天守指図」の宝塔は宮上氏のいう金灯籠に決定ぃぃ〜。
そういや吹き抜けの照明に適当だわな。
(やっと第一章を読み終わった)
33日本@名無史さん:2001/06/22(金) 04:24
age
34日本@名無史さん:2001/06/22(金) 06:41
カキコせず寝てしまった。スマソ。
お詫びに説の内容を私なりに書きます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
内藤説の「宝塔」が、「信長公記」の記述から宮上説が
導き出した金灯籠だとすると、一番信頼性の高い1類本の
「安土日記」に「金灯籠つらせられ」、吊ってあったと
あるのはとても内藤説には都合が悪い。太田牛一が続いて
筆写した2類・3類本と分類される自筆写本などには
「金灯籠をかせられ」とあるのも、1類本の意味から
言えば従来考えられていた「金灯籠置かせられ」ではなく
「金灯籠を架せられ」と思われる。少なくとも牛一は
そういう理解であったはず。
ちなみに、牛一没後の江戸中期の刊本では「据へ置かる」
という記述のものも出てきており、当時の一般の理解が
窺われる。

ここで、「指図」に返ってみると、吹き抜けに金灯籠を
置いたかたちになっている以上、内藤説がほのめかす
「指図」の類を参照して改訂した結果、1類本から
2類本の異動がなされた、という考えは怪しいものになってくる。
2・3類本の「をかせられ」を「置かせられ」と読んだ
江戸期の人間が「指図」を作ったという順序にしたほうが
分かりやすい。
だから「指図」は上屋構造の復元の参考にはなりません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
以上、一章目はこんな内容でした。
35日本@名無史さん:2001/06/22(金) 19:50
さて、二章目ですが…残念なことに
数日留守にしますので月曜日になります。
一応今日お昼に全部読んだけどね。スマソ。

ひとまず延命age。
36>25:2001/06/23(土) 12:59
江戸期に礎石が露出していたなどという証拠も全くありません。
残存する図面を「捏造」と決め付けていますが、彼の復元の方がよほど捏造でしょう。
37日本@名無史さん:2001/06/24(日) 01:09
宮上信者うざすぎ。
多角形の天守閣なんて岡山でも例がある。
何ら不思議ではない。
38結局:2001/06/24(日) 02:42
どーなんだよ?
安土城の内部は吹き抜けの空洞だったのか?
宝塔が安置されていたのか…?
そこの見解をはっきり述べてから語れよ

そうぢゃなきゃ、卑怯だよ

でも確か、かつてテレビで、
『もし1〜2階が吹き抜けだったとしたら、
記録されている柱の数が多過ぎる。
また、もしそんな建造物があったなら、当時の記録に残るはず
よって、安土城の内部は普通の階層になっていたはず』
という内容の番組をやってたね

お前らの意見を望む
真面目なやつだけ書き込め
嵐は出てけ
他のトコに行け
39日本@名無史さん:2001/06/24(日) 22:53
34、35です。帰ってきました。

38さん、ウザかったのならごめん。
結局現状では諸説紛々で何といえばよいのか…。

漏れは紹介してる論文が今のところもっとも史料に忠実に
考えているかな、と思う。「安土日記」の検討を通して
一度議論を振り出しにもどしているという点で、今後の
たたき台になる一本だね。

>安土城の内部は吹き抜けの空洞だったのか?

「天守指図」を支持する人はあったというでしょうし、
否定する人は考えようもないか、ないしはなかったと言います。

>宝塔が安置されていたのか…?

先に書きましたが、「天守指図」の理解如何によります。

まだ2章以降について紹介していませんが、例の論文は
そのへんについて冷静にもそしてなるべく客観的に考えようと
している点、好感が持てました(一部脱線してるけどね:)。

しかし38氏、そのテレビの発言、そもそも
「また、もしそんな建造物があったなら、
当時の記録に残るはず」なんてのは、現在重要であっても
残っていない史料の多いことを考えれば変な指摘なんで
すけども…世の中そういう事、多いですよね:。

ちなみに今回の論文の説は、変形5角形+倉の出張り、
ということで、平面は岡山城似だよ。
40なーな氏:2001/06/25(月) 07:26
age。
41日本@名無史さん:2001/06/25(月) 20:12
さがりっぱなしなのでやっぱり紹介やめ:。
読みたい人は自分で読んでね。

じゃあね〜(◎∵◎)/◇〜。
42滋賀@名無史さん:2001/07/02(月) 17:24
見苦しいがage。

天主台の石蔵中央の礎石がない部分、何も見つからなかったばかりか
戦前に出た甕の破片もいつかに掘り返した際の混入らしい。当時検出
した床の漆喰も大半が溶けちゃっていたらしいし、結果的に戦前の発掘が
災いした形となった。残念:。

どうなるのかなあ、今後。
43名無しの笛:2001/07/02(月) 21:42
少し前の『歴史街道』誌に何か安土城関連の記事が載っていたような気がするが
無くしてしまった。あれってどの説に基づいていたのかな?
44日本@名無史さん:2001/07/03(火) 07:30
あれは内藤説。

内藤先生インタビューで「安土城は西洋も視野に入れた荘厳な建築」
云々と大洞を吹いとった。既に史料から完全に逸脱しとるゾ。
逝ってヨシ。
45日本@名無史さん:2001/07/14(土) 13:35
盛り上がってますか?
46日本@名無史さん
盛り上がりませんねえ。