アテルイについて語ろう

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1名無しさん@1周年
語ってくれ
2日本@名無史さん:2001/06/15(金) 20:53
アテルイの命を保証すると言明した坂上軍を信じて投降しましたが
桓武に首をチョンぎられました。
桓武は御袋がチョンなので嘘をついたのですね。
だからザイは信用ならない。
3日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:02
桓武最低だな
4日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:05
桓武天皇の母がチョソということは教科書に書いてたっけ?
5日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:09
桓武天皇の父は光仁天皇、母は渡来系の氏族を祖とする高野新笠です。
母高野新笠が渡来系氏族であったことから当初、山部親王の天皇への
即位には多くの反対がありましたが、時の実力者であった藤原百川らの後押し
もあって皇太子へと進み、天応元(781)年、45歳で天皇に即位しました。

藤原氏も最低だね
6日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:09

              ∩
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      ( ´Д`)//  < 先生!桓武天皇はチョンです!
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7なんか左翼っぽいが・・・:2001/06/15(金) 21:23
http://kawa-k.vis.ne.jp/jyugyou/nihonnjinn/nihonnjinn6.htm

教師:そう、重いね。それに対して蝦夷の人たちは身軽な馬に乗って、鎧と言っても動物の皮を重ねただけのものしか身につけていなかったんだ。どっちが動きが速いかわかるだろ?。
生徒:「蝦夷!!!」
教師:そう。だからなかなか勝てない。その上に蝦夷の指導者のアテルイが賢くて、逃げると見せて田村麻呂の軍を山に囲まれた狭い盆地に誘い込み、両方から挟み撃ちにしてやっつけるというわけ。
生徒:「へえーっつ、頭良いね。で、どっちが勝ったの?。」
教師:結局勝負がつかなくて最後は田村麻呂のほうからアテルイに手紙を送って、戦争をやめることにしたんだ。
生徒:「アテルイはのってきたの?。」
教師:そう。乗ってきた。そして田村麻呂といっしょに都まで行って天皇に会い、家来になるという約束で都までアテルイと主な大将を連れて行ったんだ。そして桓武天皇にあわせようとした。
生徒:「会えたの?。」
教師:会えない。桓武天皇はアテルイたちを殺せと田村麻呂に命令したんだ。
生徒:「ひでー、だまし討ちだ!!!」
教師:そう。こうしてアテルイたち蝦夷の指導者たちは殺されてしまったんだ。で蝦夷たちはどうしたと思う?。
生徒:「怒って戦う!!!」
教師:そう。戦った。でも指導者がいない・・・・・・
生徒:「それじゃ勝てない!!!」
教師:そう。そうやってだんだん蝦夷の抵抗はできなくなって、最後は降参してしまったんだね。

8日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:27
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/akio53/aterui.htm

田村麻呂の出現以前、蝦夷征伐はうまくいっていなかった。朝廷がはじめて派遣した大規模な征伐軍は大敗する。『続日本紀』によれば、その戦いは延暦8年(789)夏のことで、北上川周辺において五万余の大軍を集結させた朝廷軍と、アテルイ軍とが戦った。アテルイ側の正確な兵数はわからないが、朝廷軍の半分以下だったといわれている。衣川あたりに釘付けにされ、あえて六千の精鋭を進軍させたがアテルイの戦術に翻弄され溺死するもの千余人という、致命的な大敗北を喫したのである。

 アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強に抵抗した゛蝦夷゛の首長と副将で、征夷大将軍・坂ノ上田村麻呂の軍に帰順(802)、田村麻呂将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命嘆願したが、許されず両雄は河内の国で処刑された。アテルイは名将であった。しかし、侵略軍に対して自衛戦争をしただけなのに「負ければ賊軍」で朝廷に反逆した逆賊となってしまった。
9日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:32
坂上田村麻呂は侵略者だと教科書に明記すべし。
10桓武はチョソ:2001/06/15(金) 21:32
http://www.jomon.com/anbe/emisi/zemi/10zemi/kadoya-2.htm

アテルイやモレの住む日高見国(ヒタカミノクニ)は、北上川流域の豊かな平和な国だった。ところが、『日本書紀』の景行紀に、「その土地は肥沃にして曠し。撃ちて取るべし」とあるように、中央政権にとっては、掠奪すべき「水陸万頃」の国だった。
 とはいえ、祖先以来ここに暮らす人々には、守るべき父祖の地で、襲いくるものがあれば、阻み追い返すべき聖なる土地だった。だから、中央政府では、「まつろわぬ者」「あらぶる者」として「蝦夷」と賤しめ、口実を以て征夷の対象としたのである。
 延暦8年(789)春、「板東の安危この一挙にあり」という桓武天皇の特命を受けた紀古佐美は、東山・東海・北陸の諸道の国々から武器・食料・兵士5万2000人を多賀城に集め、軍を分けて衣川に進んできた。以後、しばらく進軍が停滞したので、桓武天皇はいらだち、再度の進撃をうながした。そこで、古佐美は、4000人の精鋭を選りすぐって北上川を渡河し、アテルイの本拠と見られる巣伏村を衝かんとした。だが、アテルイは、わずかな手兵でこれを誘い、伏兵で逆襲し壊滅的打撃を与えたのである。

 『続日本紀』によると、渡河軍四千人のうち、戦死者25人、矢に射られて負傷した者235人、溺死者1316人、裸にて帰着した者1257人という散々たる有様で、紀古佐美は、すごすごと都に帰っていった。こうして、坂上田村麻呂が登場することになった。

 以後、坂上田村麻呂とアテルイ・モレらの長くて激しい戦いが続くが、時に利あらず、アテルイらは降伏し、ついに斬られてしまう。身長5尺8寸、胸の厚さ1尺2寸、怒れば猛獣もたちまち斃るといわれ田村麻呂も、意に反して処刑された北方の雄者アテルイの最期に、熱い涙を注いだことだろう。

 おや? 桓武の騙し討ちを省いているね。
11日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:34
本来の日本人ってアテルイの側だよね明らかに
右翼、愛国者なら天皇なんて崇拝できないはずだが
天皇バンザーイとやってる右翼が多いのは不思議でならない

12日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:45
チョンの血が混ざるだけでこんなことになるとは
チョンは怖いね
13桓武はチョソ:2001/06/15(金) 21:47
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kanmu.html

桓武天皇は弟の早良親王を皇太子にたてたが、
長岡京事件で弟を嵌めた後淡路島に移送時に急に死んだ。
アテルイの件でも分かるように謀略が大好きだったようなので
早良親王も暗殺されたのかもネー

しかし遷都反対派は2年後の延暦4年9.23、長岡京造営工事を検分中の種継を暗殺。犯人として大伴竹良らが捕えられ、取調べの結果、故大伴家持らが共謀して大伴・佐伯両氏を引き込み、種継暗殺を計画、これを早良親王に報告後、実行したとの自白を得る。大伴継人・佐伯高成・大伴真麻呂・大伴竹良・大伴湊麻呂・多治比浜人(春宮主書首)らを主犯格として斬刑に処し、右兵衛督五百枝王は伊予国流罪。大蔵卿藤原雄依・春宮亮紀白麻呂・右京亮永主らは、隠岐流罪。東宮学士林忌寸稲麻呂は、伊豆流罪に処した。また皇太子早良親王を乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉した。早良親王は10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで絶命した。
14桓武はチョソ:2001/06/15(金) 21:49
同じHPからだけど
重大な事に桓武の即位で天武朝の皇統が絶えている!

773(宝亀4)年1.2、母の罪により廃太子された他戸親王に代わり立太子。
このとき37歳。山部親王の立太子により、天武・草壁・聖武の皇統は完全に途絶えることとなった。

チョソ天皇によって日本は乗っ取られている!
15日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:54
>11
それは違うね。
縄文と弥生の混血によって大和民族が生まれたわけだろう。
アテルイが縄文人ならば
現在の日本人とは異なるし、倭人であれば、
アテルイのほうだけ日本人の代表ということにはならない。
16日本@名無史さん:2001/06/15(金) 21:57
桓武天皇の母親がチョンだなとという発想はそれこそチョンの発想。
高野新笠の父親の先祖が百済出身(系図上の話)というだけ。
つまり家系に過ぎないのであって、 血統的なものではない。
現に高野新笠の母親は土着系の土師氏出身。
17日本@名無史さん:2001/06/15(金) 22:14
野朝臣新笠 たかののあそみにいがさ


生没年 ?〜789(延暦8)


系譜など 和乙継(やまとのおとつぐ)の子。和(倭)氏は百済系渡来氏族。母は土師宿禰(のち大枝朝臣)真妹。即位以前の光仁天皇の室となり、能登女王・山部王・早良王を産んだ。夫が即位した後、姓を和史(やまとのふひと)から高野朝臣と改めた。子の山部親王が即位した後、皇太夫人と称せられ、崩御に際し皇太后を追贈された。


略伝 733(天平5)年、能登女王を出産。737(天平9)年、山部王を出産。770(宝亀1)年、夫の白壁王が即位。773(宝亀4)年1.2、子の山部親王が立太子。778(宝亀9)年1.29、従三位に叙せられ、正式に天皇の夫人となったことが判る。781(天応1)年4.15、高野夫人を皇太夫人と称する詔。789(延暦8)年12.28、崩じ、皇太后を追贈された。崩伝に、百済の武寧王を祖先とする和氏の出、美貌・有徳で若い頃より評判。光仁天皇即位以前に妻となり、山部親王・早良親王・能登内親王を生む、とある。790(延暦9)年1.14、故皇太后に天高知日之姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)の諡を奉る。
18日本@名無史さん:2001/06/15(金) 23:11
>>15
で、天皇家は縄文人なわけ?弥生人なわけ?
>>16
>つまり家系に過ぎないのであって、 血統的なものではない。

いやいや、血統的なものだよ。朝鮮人の血統を引き継いでいる。
養子が入った形跡はないじゃない。
19日本@名無史さん:2001/06/15(金) 23:21
というかアテルイを嘘ついて謀殺したり
弟の早良親王を嵌めるところがなんとも
チョソの思考形態そのものじゃないか。
大体即位時に反対された理由というのが
母親の件なんだよ。
きっとチョソが天皇になるとは
ゴルア!と吹き荒れたんだろうな。
でも藤原氏もチョソ系らしいと聞いた事あるので
往時の日本はいつのまにかチョソに乗っ取られていったのです。
まあ現代ではチョソへの帰属意識も皇家は無いしね。

あ、思い出しだけど
桓武って
朕は百済の外戚なり!と豪語したエピソードがあったはず。
だれか調べてくれ。
20日本@名無史さん:2001/06/15(金) 23:33
横レスになりますが・・
天皇家の起源は朝鮮半島です。
韓国とはれきし認識問題としていまだに日韓問題として残ってます。
神道の宗家である天皇家の起源が朝鮮半島にあることになれば、
困るのは神道ですね。ですから、一貫して天皇の韓国訪問に反対してます。
もちろん、国民の目の届かないところで政府に圧力かけてるわけです。
私は同じ様なことを”天皇の家系”スレでも書きましたが、チョンとか
言われましてね(藁、ほんとに可笑しかった。
天皇万歳とかいう人種は気付いて欲しいですね、自分のルーツがわからんヤツ
程、天皇なしには生きられない間抜けな人間だっていうことにね。

私は自分のルーツがはっきりとわかってる人にある意味で共感をもって
おります。それはエミシであり、アイヌであり、在日韓国朝鮮人であり、
在日中国人たちです。
私のルーツは、800年ほど昔、九州にたどり着いた中国人です。
ですから、近代天皇制などにはまったく興味ないどころか、あくびさえしたく
なりますね(藁

では・・・
21日本@名無史さん:2001/06/16(土) 00:28
東北に多い照井姓はアテルイにちなむという説があります。
22東北人:2001/06/16(土) 00:31
私達エミシはアテルイを殺した天皇を激しく恨みます。
23日本@名無史さん:2001/06/16(土) 00:36
いや桓武はチョソだけどもう千年以上立っているから
今の天皇家は朝鮮に心寄せていないでしょ。
東北人も千年以上憎んでいる奴いるのか?
ユダヤ人ぐらいでしょ。
千年も二千年も同化せずに帰属意識が変わらないのは。。。。
24日本@名無史さん:2001/06/16(土) 01:05
今の韓国が台湾みたいな感じの国だったらこれほど誰も拘らないと思います
たとえ天皇が半島系でもね
今の韓国の日本に対する姿勢がアレだからなのかも
25日本@名無史さん:2001/06/16(土) 01:11
というか桓武が嘘をつくところが現在の朝鮮人の歴史姿勢と
あまりにも共通しているね。
チョソ特有の遺伝子でもそんざいするのだろうか
26名無しさん:2001/06/16(土) 01:39
てゆうか、桓武天皇の母は百済系、現在の朝鮮人は新羅系。
両者が同一民族である保証がそもそもない。
さらにいえば、百済系の人々は、ほとんど完全に日本にどうかしてしまって大陸には残ってない。
おそらく、現代日本人と現代朝鮮人なら、現代日本人のほうが百済系の血は強いのではないだろうか?
27日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:00
>>20
そうですね、天皇家は朝鮮起源です。
1910年の朝鮮併合は悲願であった民族の統一がなされためでたい年ですなぁ
2010年には100年を記念する行事を盛大に執り行いましょう!(藁
28名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 04:06
桓武天皇の母親がチョンだなとという発想はそれこそチョンの発想。
高野新笠の父親の先祖が百済出身(系図上の話)というだけ。
つまり家系に過ぎないのであって、 血統的なものではない。
現に高野新笠の母親は土着系の土師氏出身。


29日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:07
桓武天皇の母親が百済系と言っても、
先祖の一系統が百済系なだけでしょ。
帰化して何代もたってるわけだし。
30日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:11
そもそも100代以上も続く天皇家の1人の天皇の外祖父のが
百済系(100%ではないだろう)なだけで、
桓武天皇がチョンと言ったり、天皇家全体までチョンの家系などというのは、
トンデモな飛躍もいいとこ。血でいえば、1人の外祖父の血など今にどれだけ
残るか計算で考えてみたらいい。それに当時は数十万人の亡命百済人が
いたことを考えれば、ほとんどの日本人の血に百済系が入ってるだろう。
31日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:11
天皇が朝鮮系である証拠は一つもありません。皆騙されないように。
朝鮮人が良く言う「天皇陵を掘り起こせば、天皇が朝鮮系である
証拠が出てくる」というのも嘘です。なぜなら前方後円噴は日本発祥
だからです。朝鮮にも前方後円墳はありますが、一番古いものでも
日本で一番古い古墳より300年以上は新しいです。
32日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:11
「魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。

好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述が見られる時期に、
朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を広げたことで一致。
宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。

考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代中期〜後期(5〜6世紀)
になると、朝鮮半島南部にいくつも見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。 」

300年以上も倭のぱしりをしていた連中が大和朝廷の始祖で
ある、などということはありえない。
33日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:12
人類遺伝学会(96年)で公表された結果を共同通信がこう伝えている。
          ------------------------
 アイヌ民族や韓国人など東アジアに住む人たちを遺伝子レベルで分析した結果、現
在の本土日本人の遺伝子群の約六五%が弥生時代以降に大陸からもたらされた遺伝子
に由来していることが国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の宝来聡助教授らの共同研
究で分かり、二十三日の札幌市での日本人類遺伝学会で発表された。
 また、骨や歯の研究から弥生時代以降の渡来集団との混血の度合いによって在来系
(縄文系)と渡来系と二つに分けられるという「二重構造モデル」が遺伝子レベルの
研究で一層強められたことも、同助教授は明らかにした。
 宝来助教授は、国際日本文化研究センター(京都市)の尾本恵一教授らとともに、
東アジアに住む人たちを本土日本人、沖縄住民、台湾系中国人などの五つの人類集団
に分け、計二百九十三人から血液などを採取、母親の系統がたどれるという細胞中の
ミトコンドリア遺伝子を比較した。
 二百七の異なる塩基配列のタイプを調べた結果、十八タイプが二つまたは三つの集
団に共通して見られた。うち、本土日本人と韓国人は八タイプが共通しており、両者
が遺伝的に近いことが分かった。
 また、ミトコンドリア遺伝子の変異のパターンから二百九十三人は十八の集まり(
群)に分けられた。うち韓国人と中国人が多数を占める七つの群に五○%もの本土日
本人が入ったのに対し、アイヌ民族と沖縄住民はそれぞれ二○%以下しか入らなかっ
た。
 同助教授は、この大陸系の特色を持つ七群に入る五集団の割合から、ミトコンドリ
ア遺伝子がどれだけ渡来によってもたらされたかを試算。その結果、本土日本人のミ
トコンドリア遺伝子の約六五%は大陸由来、残る約三五%は縄文由来となった。弥生
時代以後約九百年続いた渡来が現代の日本人の遺伝子構成に大きく影響していること
が示された。
34日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:12
 最近では、縄文人たちが自然共生型の高度な生活文化や洗練された信仰体系を持っていたこと、また縄文末期には一部の地方で初期の稲作農耕が行われていたことなどが分かってきている。
 そして、一方では6千年前頃から始まった気候の寒冷化によって森林の食糧生産力が低下したために縄文人の人口は減少傾向に入り、やがて突如として列島に蔓延したウィルス性の疾患(ATLウィルス)によってその人口が一気に激減したことも知られるようになってきた。そこから推測されることは、自然と共生しながら豊かな文化や信仰を育んできた縄文人たちの生活が、自然の猛威に脅かされて存亡の危機に瀕していた時に、より安定的に食糧を供給できる稲作農耕の高度な技術を携えた渡来人たちが彼ら席巻していったのではないかということである。
 ただし、縄文人が有していた文化水準の高さから考えると、渡来人は自分たちが持ってきたものを一方的に縄文人に押しつけるだけでは縄文人をうまく支配することはできなかったのではなかろうか。ことに宗教的なことに関して言えば、渡来人は縄文人がもともと持っていたものを尊重し、それを制度的に再組織化することによって洗練させ、自らもそれに帰依していった可能性が高いように思われる。
 そうした宗教的な帰依の対象を天皇に集約するにあたって、渡来人たちは縄文人たちの自然信仰と天皇信仰を巧みに同化させていった筈で、それはイスラム・マタラム王国がスノパティとニャイ・ロロ・キドゥルを結びつけた時よりも、はるかに徹底したやり方がとられたと思うのだ。
 これに関してより大胆な仮説を立てているのは栗本慎一郎氏で、同氏は田原総一郎氏との対談『闘論・二千年の埋葬』において、天皇制は古代における縄文勢力と弥生勢力の妥協の産物であり、弥生人たちは縄文の首長をそのまま天皇として奉り、統治システムは弥生人が持ち込んだものを採用した可能性があると語っている。
 そして、それ故に天皇は弥生の中心に居座りながらも、常に日本文化の基層部を担う縄文とも直結しうる両義的な存在になったというのだ。栗本氏はこの説を敷衍して、日本人の政治的な意思決定の曖昧さは、縄文と弥生の妥協の産物として天皇が生み出されたことに由来するとも語っているが、これもまた興味深い仮説である。
35日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:12
70年代のアカの置土産ともいふべき「原住民史観」によつて
サンカ/アイヌ/蝦夷=原住民=出雲 /国津神=縄文人
      大和朝廷=侵略者=高天原/天津神=弥生人
といふ図式が作られた。
こんなのは冷戦下での第三世界論(左翼のアジア解放論)のもじりで、
初期には政治的プロパガンダであることが意識されてゐたのだが、
今は古代のロマンを売る通俗本のネタになるだけ。
これで歴史がわかったなどとは思考停止も甚だしい。
たんじゅんな二項対立で世界が理解できるなら、学問はいらぬ。
階級闘争史観で十分、といふことだ。
36日本@名無史さん:2001/06/16(土) 04:13
●馬場悠男(国立科学博物館人類研究部部長)

現代のアイヌはすでに和人と半々ぐらい混血しているとされ、
本来の”縄文の血”はかなり薄まってしまっている。
37竜峰太:2001/06/16(土) 11:29
おいらの出身、大阪府枚方市にアテルイの墓がありますよ。
38日本@名無史さん:2001/06/16(土) 11:49
アテルイはチョンだった。
39日本@名無史さん:2001/06/16(土) 12:47
アテルイは英雄だね!
小沢一郎にもその血が流れているね。
もう10年くらい前だけど、北上川中流で遺跡が見つかったね。
奥州独立すべし!
40日本@名無史さん:2001/06/16(土) 14:01
アテルイの本拠地・岩手県水沢・胆沢地方ってやっぱり
独特の雰囲気がある。まず神社仏閣が古いし行事も特別。
偉人の町って言われるほど優秀な人材が多く出ることでも有名。
が、蝦夷=アイヌっていうのは短絡的な気もする。
41日本@名無史さん:2001/06/16(土) 14:04
アテルイはチョン
42日本@名無史さん:2001/06/16(土) 14:20
アイヌ、つーか平安時代まで完全には日本国に同化していなかった
(吸収されていなかった)豪族集団だったんじゃないの?>蝦夷
43薩摩人:2001/06/16(土) 15:00
でもさあ電波少年で岩手のゴミ集めの時に
県庁のなんとも投げやりな御役所仕事を全国に
公開されているぞ。
あれが県民気質なんじゃないか?
身びいきばかりせずに現実を直視しろ!
44日本@名無史さん:2001/06/16(土) 16:40
>>40
オレ、九州人だけどね、岩手水沢は最高よね。
おっしゃる通り、独特な雰囲気があるよ。
小沢氏の実家は郵便局やってるよ。
いい町さ。
もちろん、ほかの岩手も見どころがおおいけどね。
45名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 16:45
アテルイはチョン?
ネタだろ
もし本気で書いてたら頭悪すぎる
46日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:03
日本人はみんなチョン
47日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:20
水沢の話をするのに岩手県庁を出しちゃダメだよ。
水沢あたりの人は「自分たちは伊達、盛岡は南部」と思ってる。
青森県が津軽と南部で真っ二つなように、
岩手県も南部と伊達で住民意識が違う。
秋田県も鹿角郡の人の意識は秋田じゃなく盛岡を向いてるし。
48日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:27
もうお願いですから私達東北人を馬鹿にするのはやめて下さい。
49日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:38
>>46
お前がチョンなのは分かった
50日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:40
アテルイはチョン
51日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:43
52日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:49
51はチョン
53日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:54
>>48
東北は謀反蓄の巣窟。
蔑視されて当たり前。
54日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:54
いい加減なこと書くなよ
55日本@名無史さん:2001/06/22(金) 23:59
◯◯はチョン ってひたすら書くだけのスレになったりして。
漏れもチョン
56日本@名無史さん:2001/06/23(土) 00:00
53はチョン
57日本@名無史さん:2001/06/23(土) 00:02
>東北は謀反蓄の巣窟。

謀反畜って何?
58日本@名無史さん:2001/06/23(土) 00:44
謀反人だと人扱い。
畜生に人をつけるのは不適切。
59日本@名無史さん:2001/06/25(月) 03:53
わかりにくい造語を勝手につくるなや!!!
60日本@名無史さん:2001/06/29(金) 00:02
謀反って幕末に東北諸藩が幕府方についたことを言ってるの?
もしそうならばひとつきくけど南北朝時代は南朝方に味方しても、北朝方に味方しても相手側からすれば
謀反人だったわけだけど、この時代に謀反人にならない方法って有るのか?
現在の人たちは謀反人の子孫か、謀反人の領地に住んでいた庶民の子孫以外存在しないと思うけど。
61日本@名無史さん:2001/06/29(金) 00:35
誰かを差別し畜生呼ばわりするおまえこそ畜生以下だ58
62日本@名無史さん:2001/07/08(日) 09:17
まじめにマターリやったら面白いネタなんだけどな。
どうしてこう糞みたいな書き込みばかりなんだろうかなあ。
63日本@名無史さん:2001/07/08(日) 18:36
宮沢賢治は伊達、南部どっち?
64ハマコー:2001/07/08(日) 20:21
>>63
宮沢賢治君は(南部の)人殺しだっ!
65日本@名無史さん:2001/07/08(日) 20:27
おぉ、謀反人ケッコウ毛だらけ、って感じ。

殴られて殴り返せない弱虫野郎は関東以北にはいなかった、
て事だもんな。オトコ(オンナもね)たるものかくあるべし。
強きを挫くのが侠気ってもんだろ?
66日本@名無史さん:2001/07/08(日) 20:43
アテルイの話しよう
67日本@名無史さん:2001/07/08(日) 23:36
どんな顔してたの?
記録あり?
68アテルイの顔:2001/07/09(月) 00:19
69能見台:2001/07/17(火) 20:24
◎名前について
 アテルイと読んでいるが、本当の読みはどうなのか。以前にアイヌの歴史の本を読んでいたら、アク・ルイではないか。意味が弓・強で英雄の名前としてふさわしい。というようなことが書いてあった。その本自体は、ちょっと考えが偏っているとも思ったが、名前の件についてはそうかもと思うところがあった。
 アテルイをアイヌとするのは乱暴だが、あの辺りが、アイヌ語族の圏内だったというのは、今の地名から考えても無理がないかと思う。また、アテルイは悪路王(アクロオウ)という名前もある。記録には、彼の名前は漢字で書いてあって、テは「弖」の字だっが、他の用例を知らないので、これをテと読む根拠をよく知りません。ただ、この字は音読みの無い国字のようですが、国字の場合、その漢字をさらに細かい漢字に分解したときのそれぞれの意味が重要だったりする。例えば「雫(しずく)」は雨がおちるとか。 そうなると、「弖」に弓の字が入っているのも、なにか関係があるのかと気になります。
70能見台:2001/07/18(水) 14:52
>>69
やっぱり「弖」はテか、とネットを検索して思う。
71日本@名無史さん:2001/07/18(水) 21:27
漏れはチョンですか?
72日本@名無史さん:2001/07/21(土) 00:15
悪路王って、アテルイのことだっけ?
73日本@名無史さん:2001/07/28(土) 12:15
つるねんまるてい
74日本@名無史さん:2001/08/01(水) 02:39
モレについても語ろう。
75日本@名無史さん:2001/08/03(金) 23:25
私のアテルイの知識って
高橋克彦の「火怨」を読んだ程度だけなんですが
実際蝦夷っって朝廷群に勝ち続けていたんですか?
この戦いに物部は関わってるの?
(とっても厨房な質問でスンマセン)
76日本@名無史さん:2001/08/04(土) 07:33
当時、いわゆるアイヌ民族は出現しておりませんでした。
そこにあったのは「擦文文化」初期と考えられます。
(あるいは「続縄文」の後期か?)

 この「擦文文化」は、北海道全土と東北北部に広がっていた文化で、いわゆ
る「擦文式土器」が用いられていたことから、こう呼ばれております。
 擦文文化の人々は、縦穴式住居に住み、金属と石器の両方を使用しておりま
した。稲作は行ってはおらず、猟や木の実の採取、簡単な農耕などを行ってい
たとか。
 彼らの遺跡からは鉄器も出土していますが、これが自前の物なのか交易によ
るものなのかは謎です。学会では、交易説が多数だとか。
 そして、注目すべきは、彼らは、どうもアイヌ語を話していたらしいことで
す。

 しかし、彼らは、いわゆるアイヌ人ではありません。
 彼らの文化は、あきらかにアイヌのそれとは異質です。
 彼らは長らく、自分達の生活様式を変えませんでした。奥州の平泉商人達と
交易をしてた時も、「擦文式土器」を作っていたようです。
 いわゆる「蝦夷(エミシ)」が、彼らだと思われます。

 「擦文文化」は、「続縄文文化」と直結しております。彼らの作る「擦文式
土器」は、「続縄文式土器」の発展形態であり、本州の文化の強い影響化にあ
ります。生活様式も遺跡を見る限り、やはり「続縄文」と連続していることは、
間違い無いとされております。
77日本@名無史さん:2001/08/04(土) 07:33
 そして、アイヌ人の祖先は、彼ら「擦文人」である、と言うのが、定説とな
っております。
 だいたい、13世紀頃,「擦文人」が風俗を変えて、アイヌ人になったと考
えられております。

 しかし、同時に、それに疑問を呈する学者もいます。
 と言うのは、「擦文人」の文化が、あまりにアイヌと違いすぎるから。
 少なくとも、擦文人の血が入ってるのは確かだけど、もっと複合的な民俗混
合の結果、アイヌが生まれたのでは無いか? と。
 その候補に上げられているのが、樺太、千島、大陸のアムール川流域に渡っ
て存在した「オホーツク文化」です。
 「オホーツク文化」には、クマを神聖視するトーテミズム信仰、楽器のムッ
クリなど、アイヌ文化と共通する物が多いからです。
 一方、「擦文時代」の遺跡からは、こうした物が殆ど出土しない(最近にな
って、「擦文時代」の遺跡から、クマ送りの儀式の跡なる物が発掘されたと言
う報告がありますが、まだ議論中の模様)。

 しかし、このクマ送りの儀式をアイヌが始めたのは、実は18世紀以降だと
言うことが分かってきたりしてます。
 アイヌ文化にオホーツク文化の影響が多くあるのは事実ですが、これは後世
のアイヌに、いわゆる「山丹交易」によって、入り込んだにすぎないのでは?
というのが、有力なようです。
78日本@名無史さん:2001/08/04(土) 08:23
>>76
「続縄文」と「擦文」の境界は、難しいよね。
「続縄文」がBC200〜AD800で、「擦文」がAD800〜1200
だから、アテルイが生きた時代は、ちょうどその境目あたり。

ところで、青森からは「擦文」の遺跡は出土してます。
けど、岩手からはどうなんだろう?
これが鍵になるかもしれませんね。
79日本@名無史さん:2001/08/04(土) 08:59
>>76
素人考えですけど、アテルイが擦文人というのも、ちょっと乱暴な結論
な気も。
彼は、擦文人に近い文化圏の人だったとは思うけど、おそらく、大和の
文化の影響を受けて豪族化した、中間みたいな人々だったんでは
80◆a15TfM4E:2001/08/17(金) 21:02
test
81日本@名無史さん:2001/08/20(月) 03:20
アテルイねぇ。
82 :2001/08/20(月) 20:34
捨て 置け
83井沢元彦:2001/08/21(火) 01:34
桓武は蝦夷が都から見て東北(鬼門)に位置するから攻めたんだぞ
ちゃんと俺の本読めよヴォケどもが
ちゃんと買えよ、間違っても立ち読みなんかすんなよ
84梵阿弥:2001/08/23(木) 14:28
>>83
偽書の武功夜話なぞを元に記事を書くでない。
85日本@名無史さん
age