古史「上記」について

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1小笠原右京
大友能直が編纂したという古史「上記」についてしってることを、大いに
語ってもらいたい。
2日本@名無史さん:2001/06/13(水) 02:56
「上記」には伝来の異なる2本があり、内容もかなり違う。
宗像本は内閣文庫、大友本は大分県立図書館に入っている。
宗像本の方が先に発見されていて、これをもとに吉良義風が
「上記抄訳」を明治10年に出版した。

世に宮下文書、竹内文書、九鬼文書と言われるものがある。
俗に古史古伝と言われ、古事記以前の歴史が書かれているとされるが、
これらはすべて「上記抄訳」を元にして作られている。
「上記」にあって「上記抄訳」にない記事は全く含まないのだから、
明治時代に宮下文書を作った人間が「上記抄訳」をネタにしたことは明白。

明治末に出た竹内巨麿の伝記には竹内文書のことは書かれていない。
大正の末、酒井勝軍が竹内家に出入りするようになって突然出てきた。
九鬼文書に至っては昭和になって竹内文書を元にして作ったもの。
作成経路は「上記」→「上記抄訳」→宮下文書→竹内文書→九鬼文書だ。
未だかつて誰も「上記」の実物について研究した者はいない。

なお、和田家文書はこれらとは全くの別物。
荒神谷遺跡の発見を予見する記事がある一方、
藤村新一関連の旧石器に関する記事は全くないなど、
否定できない要素を多分に含んでいる。
3日本@名無史さん:2001/06/13(水) 04:42
ばかやろう。似たようなスレ乱立させんなよ。よく探してみれ。
ただし>>2の解説には同意。
九鬼文書は霊学(当時のオカルト)方面からひっぱってる記事の方が
竹内文献の影響より多そうだけどな。
4奈々氏:2001/06/13(水) 08:35
なお、和田家文書はこれらとは全くの別物。
重複スレみたいだからレスをつけるのはどうかと思うが、一応。
3氏の意見に同感だが、2氏が最後に付け加えてる

>なお、和田家文書はこれらとは全くの別物。
>荒神谷遺跡の発見を予見する記事がある一方、
>藤村新一関連の旧石器に関する記事は全くないなど、
>否定できない要素を多分に含んでいる。

あぶないなあ、おい(藁。
おそらく古史古伝については「歴史読本」連載の要約と思うが、
和田家文書についてそれはないだろう。単に和田のおっちゃんの
学習と記事選択の採否の問題。それともネタか?。
5奈々氏:2001/06/13(水) 08:35
重複スレみたいだからレスをつけるのはどうかと思うが、一応。
3氏の意見に同感だが、2氏が最後に付け加えてる

>なお、和田家文書はこれらとは全くの別物。
>荒神谷遺跡の発見を予見する記事がある一方、
>藤村新一関連の旧石器に関する記事は全くないなど、
>否定できない要素を多分に含んでいる。

あぶないなあ、おい(藁。
おそらく古史古伝については「歴史読本」連載の要約と思うが、
和田家文書についてそれはないだろう。単に和田のおっちゃんの
学習と記事選択の採否の問題。それともネタか?。
6奈々氏:2001/06/13(水) 08:37
訂正。
一行目の「なお、和田家文書はこれらとは全くの別物。 」
は削除してくらさい:。スマソ。
7日本@名無史さん:2001/06/21(木) 00:57
ウエツフミはいろいろ面白いね。
歴史よりも民俗資料みたいな記事に興味深いとこが多い。
8さち子:2001/06/21(木) 09:00
でもね、上記も偽書ですよ。
今の天皇家の前に
鵜葦不葦合(うがやふきあえず)王朝七十三代
とか怪しげな事も書いてありますしね。
9さち子:2001/06/21(木) 09:14
>>2
そうですね。 酒井勝軍が竹内文書作成の首謀者ともいえます。
ただ、わたしは竹内文献は長山靖生氏の主張したとおり、竹内巨磨と父・祖父がある程度、偽作したと思ってます。
ある程度、教養もある、酒井勝軍がほとんど作ったにしてはサンフランシスコだのヨハネスブルクだのメルボルンだのが
大古の地図の地名に出てくるのはどうかと思いますので。
10日本@名無史さん:2001/06/25(月) 00:10
>サンフランシスコだのヨハネスブルクだのメルボルンだの

そのての地名が出てくるのは戦後版。
戦前の竹内文献にはないよー
11日本@名無史さん
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