河井継之助先生
2 :
日本@名無史さん:2001/06/10(日) 21:05
薩長の馬鹿と一緒にするな!!
ということで
==============終了================
復活あげ
6 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 01:12
中島三郎助
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/6663/rekishi_koza/html/z_kurofune1.html (以下は抄録です)
1821(文政4)年1月、浦賀奉行所の役宅で生まれました。名は中島三郎助永胤(ながたね)。父・清司永豊は浦賀奉行所の与力で、三郎助も14才になると与力見習として、奉行所に出仕し、1837年、モリソン号砲撃事件に関わり、以来、海防問題に強い関心を抱くようになりました。特に砲術に関しては、諸流派の免許皆伝となり、高島秋帆によってもたらされた洋式砲術にも手を伸ばし、大砲の製造から砲台の建設に至るまで、様々な知識を得ていきました。
1853(嘉永6)年6月3日、ペリー艦隊が来航し、通訳の堀達之助とともに応接掛与力として最初に黒船に乗り込みました。アメリカ側の今までにない強い態度に「自分は浦賀奉行所の副奉行であるが、明日は奉行が来るであろう」とウソをつき、翌日、義弟であり同僚の香山栄左衛門を奉行として黒船に送り交渉させました。
6月9日、ペリーらは久里浜へ上陸し、アメリカ大統領からの国書を日本側へ渡したあと、三郎助や香山らは黒船に招待され、蒸気機関・大砲・ピストルなどを見せられました。この時の三郎助の様子をウィリアムズは「頑固で気難しい役人であり、なんでものぞきまわり、目に付いたことを根掘り葉掘り調べる好感の持てない男」と記し酷評しています。
この年の秋の大船建造令によって、日本で最初の洋式軍艦『鳳凰丸』をわずか半年余りで完成させました。
一方、幼少の頃から和漢を学び、漢詩文・和歌・俳諧の道に通じ、特に俳諧では『木鶏(もっけい)』の名で知られ、幕末の浦賀俳壇の中心的な存在でした。
1868(慶応4)年8月、榎本武揚らとともに8隻の軍艦で蝦夷に向かいました。
1869(明治2)年5月16日明け方前より、三郎助を主将とする浦賀隊と、額兵隊が守る千代ヶ岡台場への攻撃が始まりました。
戦いの様子は、幕府軍艦神速(しんそく)の乗組員であった内藤清孝が記した『蝦夷事情乗風日記』によると「午前2時、戦いの火蓋は切って落とされた。敵は薩摩藩を先陣とした300人ほどであり、この戦いで中島三郎助は胸を打たれ堀之内で戦死、長男恒太郎は刀を上げながら敵陣へ切り込み、次男英次郎も胸と腹を打たれ大手前で戦死した」と記されています。この戦いで、浦賀隊のメンバーが一人も陣を離れることなく勇敢に戦ったことは、後に大きく評価されます。しかし、中島父子の他に、朝夷(あさいな)三郎・近藤彦吉・福西周太郎の十代の若い侍と、中島を恩人と慕って函館へ来た柴田伸助が犠牲になりました。
実は、三郎助は、死を覚悟していましたが、軍議の場で榎本に降伏論を展開するなど、恭順派だったようです。
中島親子が生涯を閉じた函館市中島町には、終焉地を示す石碑が建ち、毎年5月、この碑の前で碑前祭が行われています。お墓は、東浦賀の東林寺にあります。子孫は東久留米市に住んでします。
辞世の句「ほととぎす 我も血を吐く 思ひかな」
7 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 01:50
小栗上野介
8 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 02:06
原田佐野介
>8
原田左之助だろう
10 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 02:15
勝海舟
三島億次郎
12 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 02:36
とりあえず、白人を日本刀でブッタ切った武士達全員。
白人への襲撃を描写した文書によると
どの襲撃か知らんが
死体のそばで白人の腕が刀で切り落とされて道に落ちていたんだと。
とりあえず、白人を襲撃した武士達の果たした役割は
大きかった。
13 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 02:44
原市之進
14 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 02:45
橋本左内。
15 :
世界@名無史さん:2001/06/16(土) 02:57
井伊直弼
河井継之助
17 :
名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 03:27
林肥後守忠崇
18 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 03:35
大鳥圭介
19 :
名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 03:38
司馬あたりの影響で作られた虚像だとわかっていても土方歳三
20 :
名無しのオプ:2001/06/16(土) 03:39
かつしん
21 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 14:37
桑名雷神隊の立見鑑三郎。
賊軍出身者で陸軍大将は凄い。
22 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 14:40
会津の柴五郎も陸軍大将だっけ?
23 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 15:25
小笠原長行
24 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 16:15
楯岡道雪
(別格目付、公儀御庭番支配、甲賀者頭領)
>>26 薩長の馬鹿と一緒にして欲しくない。
こっちは佐幕派でマタ〜リしたいので断る。
盛岡藩家老楢山佐渡
>>27 なるほど、そういうことですか。私も佐幕側の人間が好きだけど、
一つのスレの中でバランスよく薩長派・佐幕派の人物をプッシュ
し合った方が双方のファンにとってもいいと思ったのだけど・・・
30 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 02:24
やっぱ小栗でしょう。
はっきり言って勝の十倍はすごい。
慶喜が小栗の進言に耳を傾けていれば
薩長は負けていたと思う。
田舎侍の新政府よりはもう少しまともな
政権をうち立てていたことでしょう。
>>30 小栗はたしかにあの時代に京都にいなかったのが
惜しかった。江戸にいるから的確な情勢判断ができずに
保守的な政策を主張したという面はあるよね。
32 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 02:52
>29
だいたい幕末の人間を何から何まで薩長と砂漠で
しか分けられないアホが多いですな。
因縁のタッグマッチ
ガトリング河井・埋蔵金小栗vs米百俵小林・氷川精話勝
34 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 04:46
栗本鋤雲
35 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 10:00
栗本とくれば福地桜痴 しかし彼らは明治になっても在野の人で活躍したのに、小栗は斬首と・・余りに不運過ぎる。 小栗も永井みたく箱館に籠ればよかったのに。
36 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 16:26
河井継之助
37 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 02:45
age
38 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 03:36
河井はどうしてか熱狂的なファンがいるな。
河井のどこがいいのか教えてくれ。
>>32 薩長と佐幕に分けて話すとこにきて
なに言ってんだ?
バカ丸出し。
40 :
!:2001/07/11(水) 04:04
41 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 04:23
勝海舟は佐幕でいいのか!? ほんとーにいいのか!?
42 :
>41:2001/07/11(水) 04:26
なにりきんでるの?だれも佐幕とかいってないよ
43 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 04:27
では、なんだろう?
44 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 05:16
卑怯者、風見鶏、日和見、ペテン師、法螺吹き、曲学阿世・・・
勝は人格そのものが卑俗で愚なのであって、
佐幕、倒幕以前の問題。
あの時代、明確な信念を持つもののみが佐幕派たりえた。
ところが、勝てば官軍の風潮が蔓延し、
目先の形勢に右往左往し倒幕派に追従した卑屈さや臆病が、
時代の先を読んだ英断であるかのように吹聴されてしまう。
そして最大の裏切り者である勝は一躍時代の「英雄」となる・・・
実に気持ち悪いね。
45 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 06:03
タヌキ親父の幕府がそんなにいいかなぁ。
豊臣秀吉の政権を簒奪した田舎者江戸幕府煎ってよし。
糞幕府が鎖国したおかげで日本は時代遅れの国になった。
46 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 07:13
>糞幕府が鎖国したおかげで日本は時代遅れの国になった。
正確には幕府は鎖国なんてしていないし、
江戸時代の日本は世界的に見てそんなに遅れた国ではない。
それよりも豊臣秀吉や明治政府がやったアジア侵略で叩かれるのをなんとかしてくれ。
47 :
日野市民:2001/07/11(水) 12:50
佐幕派でいっちゃん好きなのは歳三。
地元民の身びいきは承知の上(藁
48 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 14:02
>>46 幕府の貿易独占にすぎないってんだろ?
文化の交流を制限したのはどういう利点があったんだ?
鎖国政策で得たのは浮世絵の完成だけという気がするがね。
49 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 17:58
やっぱり小栗だね。
50 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 18:08
長井雅楽。「航海遠略策」は卓見だった。切腹も見事だったという。
51 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 18:08
>48
キリスト教の流入を防止しようとしたんでしょ。
別に愚かな政策だとも思わないけど?
52 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 18:15
勘定奉行,川路聖謨こそ理想的な日本人官僚の姿也
53 :
>52:2001/07/11(水) 18:19
ピストル自殺…小栗や榎本と比して余り語られないけど、
維新を迎えた幕臣の身の処し方として見事だな。
悲劇だけど。
54 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 18:29
川路の上司であった、旗本の石川ナントカは維新後、乞食になったという説がある。
まさに「周ノ粟ヲ食ラワズ」を地でいくような人物。惜しい。まことに惜しい。
55 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 19:13
OASIS
56 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 19:21
>>52,53,54
同意です。
幕末の旗本、御家人の中にはお粗末な人物もいたと思うけど、
時代が時代なだけに、上級職に抜擢されていった人物は概ね素質優秀、
精神構造に何か1本筋が通っていたと思います。
責任感、信義則等々、何れも現代官僚は足元にも及ばない。
それは何故か?若年時において、いい意味での伝統的教育がなされて
いたか、否かにかかっているのでは。
現代は学校、家庭を問わず真の教育が希薄。
鉄を熱い内に打たないでなんとする。嗚呼、日本は滅びる。
ーーー>でも幕府は滅んだな。それはすなわち人材登用が遅かったから。
今の日本はどうでしょう。
57 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 19:38
平山図書頭
大人物なり・・・・・・
58 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 22:37
幕府が滅んだのはひとえに慶喜さんとかれを将軍就任にバックアップした大奥のせいでしょうな。
59 :
日本@名無史さん:2001/07/12(木) 03:53
>56
あなたみたいなひともいるんですね
すこしくこころづよし。
60 :
吾輩は名無しである:2001/07/12(木) 03:59
昨日の「その時」で蒙古襲来のとき、
一騎打ちを仕掛けて、集団でぼこぼこにされたり、
大砲に驚愕したり、
かぶら矢射って、失笑されたりの
結果惨敗を見て、
それからなんにも学んじゃいねえ、と思ったよ。
情報収集って大事さ。
61 :
日本@名無史さん:2001/07/12(木) 13:29
>>52 川路はたいした人物である。遠方出張の時はその大部分を歩き通している。
城下や宿場等、人通りが多いうちは籠に乗っているが、それを過ぎると籠行列
の先を早足で進み、寄り道しながら情報収集し、宿場の手前で追いついてきた籠に
乗るなんてことを繰り返していた。たかだか2〜3時間の新幹線で転寝している
木っ端役人とは比較するだけ、やぼ。
62 :
日本@名無史さん:2001/07/12(木) 23:37
中公文庫から川路に関する本がでていたはずなんだが…急にどこの本屋にもなくなってしまった。
絶版か?
63 :
日本@名無史さん:2001/07/16(月) 11:39
age
64 :
日本@名無史さん:2001/07/16(月) 15:36
>>62 川路は、倒幕側と違って手枷足枷の中で活動していたために、派手な動きがなかった。
だから、川路を題材にしょうとする作家や歴史家が少ないんじゃないの?
クロウト受けする人物だとおもうけどね。
65 :
日本@名無史さん:2001/07/16(月) 17:54
松本良順先生好きだな〜
66 :
日本@名無史さん:2001/07/16(月) 20:19
>>64 そうだね。派手さがないと人気がでない。人気がでなけりゃ本にしても売れないからね。
本来ならこういう人物の研究が必要なのだが。
67 :
日本@名無史さん:2001/07/17(火) 09:09
>>66 全く同意。
でも、有り難い事に、どんなに頑張っても売れそうも無い素材を真面目に料理する
作家や歴史家もいるってこと。またそういう本を読んでいるあなたに1票。
68 :
日本@名無史さん:2001/07/17(火) 10:45
>>30 滅茶苦茶同意
俺の言いたいこと、全て言われてしまった。