1 :
日本@名無史さん:
別に成功したら良かったと言ってるのではありませんが
秀吉が朝鮮・明を征服する理由というのは土地を手に入れること、
一番重要なのが徴税権を手に入れることです。
封建時代は皆そうでした。
正確には金山とか、他にもいろいありますが、一番安定しているのは農民からの収奪です。
秀吉は四国・九州・関東・東北と次々に大軍を送り込んで制圧し、
九州の延長のように朝鮮を考え、大軍を送りこみました。
朝鮮は平和の世に慣れきった国で軍隊も10万程度、
それを日本の鍛え抜かれた精鋭20万で簡単に制圧し土地を手に入れられるはずでした。
伐採、朝鮮半島で日本軍は連戦連勝でした。 しかし、、、、
2 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 00:11
住民が従わないのです。
戦国の日本ではその土地の領主たちを倒せば、
その土地は勝者の者になります。
しかし、朝鮮の地においては住民は逃げ、あるいは抵抗し、
時には女や子供に至るまで命をかけてはむかったのです。
日本国内の戦いでは冠風えられないことです(一向宗は特別)
秀吉は異民族を征服するという事がどういう事かわからず、
日本の戦国の論理を適用してしまっていたのです。
3 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 00:17
>>1 成功したらよかったのにね。
原住民はいらんが土地が増えるのはいい事だ。
4 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 00:18
5 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 00:28
>>4 俺もそう聞いた、
朝鮮出兵の頃の話って朝鮮では、
日本に植民地にされた劣等感からかなり歪曲されてるっぽい。
6 :
でもよ:2001/05/30(水) 00:33
結局失敗に終わってる
まあ戦そのものは敗走ではない様だが、
失敗の理由は何よ?
7 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 00:40
>>4 >>5 それは、ちょっと・・・
最初の頃は朝鮮の農民も状況がわかってなかったみたいね。
でも、だんだん抵抗がはげしくなっていったんだよね。
>>6 朝鮮水軍の活躍と民衆の抵抗です。
8 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 02:59
加藤清正が捕らえた王子を擁立しておけば少なくとも大義名分だけは建ったと思う。
9 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 03:26
被差別階級(2chでもお馴染みの白丁とか)は歓迎したらしいね。
役所を襲撃して戸籍を燃やしたりしたらしい。
10 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 03:29
異民族制圧はモンゴル軍に学びましょう。
彼等は「従うなら良し、少しでも抵抗したら皆殺し」理論の適用で
大陸を制覇しました。
11 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 05:22
>>9 ていうか、真っ先に戸籍を燃やした。白丁はマンセー三唱!
12 :
さち子:2001/05/30(水) 06:51
こんにちは、史学科出身で社会系の教員免許も持ってるさち子です。
日本では封建時代の戦国大名など武士同士の争いは
領民にとって、首のすげ替えにすぎないんですね。
プロの武士同士が勝手に戦ってるにすぎない。
一方、大陸での民族をからめた戦争は
服従するか皆殺しだかの壮絶なものです。
戦争になれば領主も武士も領民も一連託生でした。
外国の人が日本の農民が合戦を弁当を持って見物してたなんて話をすると驚きますね。
13 :
さち子:2001/05/30(水) 06:54
例えば秀吉が関東の北条氏を倒したあと、
領民たちが命をかけて刃向かってくるなんてありえないでしょう。
秀吉は関東仕置きや九州仕置きと同じように
朝鮮遠征を考えていたようですね。
14 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 08:03
>>1 しつもーん
明国の農民から米を奪ってそれを日本に持ってくるのにどのくらいの手間が掛かるか
考えたことがありますか?
15 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 08:13
>>4 当初朝鮮の民衆は日本軍を歓迎したそうですね。
漢城を脱出する国王一家に向かって石を投げる輩もいたそうな・・・。
普段の悪政で民心も王家から離反していたのでしょう。
16 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 08:51
>>14 田舎者の秀吉はそんな難しい事、計算してなかったように思われ
>>15 しかし、除々に抵抗がはげしくなり、
慶長の役においては日本軍による耳そぎ鼻そぎのが行われた。
日本に送られた耳鼻の中には明らかに乳幼児の物もあったそうな。
17 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 08:57
以前から疑問に思っていたのだが、植民は考えていなかったのだろうか?
18 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 10:08
結局、秀吉の頭ん中では、戦国の領地切り取り合戦が
永遠に続いていたわけか
19 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 10:39
>>18 結局、秀吉もいくさ人で血がたぎっちょっただけじゃけぇ(・w・)
20 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 12:29
失敗したのは朝鮮出兵ではなく明征服。朝鮮はどうでも良かったが、軍隊が通過するのに必要だっただけ。
結局、明の征服はならず、戦略目標を達成できなかったため、朝鮮から撤退。
21 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 17:20
朝鮮の民衆の抵抗云々は戦後の史学の歪曲で
変えられ、実際には狂った愛国心のものたちのわずかな
規模のものでしかなかったようです。
征伐が失敗した最大の要因は、明軍の参戦によるものです。
実際に陸戦では明軍との戦しかあまり記録されてません。
22 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 18:39
>>21 まあ、数十年も狭い国土で切磋琢磨して武器を改良し戦ってた軍団に
武官はいらないと蔑んでた国が勝てるわけがないね。
23 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 19:46
>>8 加藤清正にとらわれた2王子(臨海君と蒼海君だったっけ?)は加藤清正に感謝状
を送っているよ。その感謝状は清正の娘が嫁いだ紀伊家に今でも残ってると聞いたことあるよ。
24 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 20:15
唐入りの本当の狙いは明が南蛮人に征服されてその力が日本侵略に使われるの
を防ぐためだったとか。
25 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 20:20
>>17 文禄慶長の役では少なくとも1万人以上に日本人が朝鮮側に帰順しているみたい
ですね。
その反面、朝鮮人捕虜の多くが奴隷としてヨーロッパ人に売り飛ばされたとか。
26 :
339:2001/05/30(水) 20:41
先に台湾を取っておけばよかったのではないかと思われ・・・。
そしたら福建から唐入りできたから思われ〜。
まあ身の程知らずがイタイ目に会うという典型だよな。
といっても白村江の戦いといい太平洋戦争といい日本って
どうしてこうも無謀な戦いが好きかねぇ?
勝てもしない戦にすぐ手を出すなんてまさに何にでも噛み付くドキュン狂犬だな。
しかも侵略するたびに返り討ちだなんてまったくダサいな・・・
28 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 23:06
っていうか日本が海外進出して成功した試しがないじゃん?
29 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 23:38
>>27 この話題なんか気にさわったみたいですね?
どこらへんが不愉快でしたか?
30 :
でもよ:2001/05/30(水) 23:43
確かに最終的には成功してないよね。
現在の経済進出も過程かも
でも最終的に勝った国って何処???
31 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 23:46
27は馬鹿だな。
だから、今の日本だよ。
今の世界の有様だよ。
現在の国境線(民族の境)は歴史の帰結。
え?琉球は「侵略」じゃなかったの?
アイヌは?
成功したら自国の領土、自国の領土でなくかつて足を踏み入れたなら「侵略」
それが歴史の帰結、つまり現在からの修辞というものだよ。
それを知らないで侵略だの何だのと騒いでいるのを聞くと、ほんとに馬鹿だと思う。
32 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 23:51
>30
差引勘定からいうと勝ったのは日本じゃないか。
明=○朝鮮に対する宗主国としての権威の保持。
×10万人以上の兵隊の損失、多額の出費。
朝鮮=○李朝の存続
×=国土の荒廃。人命財産の損失。
日本=磁器技術の獲得。陶工の捕獲。
×=5万人以上の人命の損失。
物質的な面では日本が得したな。少しだけ。
33 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 00:22
>>32 でも日本人の血はしっかり朝鮮人の中に流れ込んだ(薬)
34 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 00:29
>>33 実際、植民地時代を含めると、隠れ日系ってどのくらいいるのかな。
35 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 00:33
毛利水軍に天津を陥落させておけば明軍の攻撃は大幅に遅れたものと思われ
36 :
でもよ:2001/05/31(木) 00:39
>>33 >>34 そういうくだらない血統の話は卒業したら?
第一血統を話したら人間はアフリカ系だしね。
すでにその手の話はスレにありすぎ確かNHKの調査結果あったでしょ
日本人はの血統は色々混じった混血らしいね。
で朝鮮人は色々混じった混血、で中国人も色々混じった混血
でアジア人は で何人は・・・ バカバカしい。
こういう話の場合血統より、意識や文化で話すべきでしょ
実際、日本は陶磁器なんて相当影響うけたんだし
37 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 07:43
>>32 損得で勝ち負けを決めるのは間ちがってるね。
戦闘の敗者よりも勝者の損害が上回ってる子とはあるし、
そういえば、太平洋せんそうでも日本は結果敵に勝ったんだっ人いるなあ。
>>35 毛利水軍にそんな実力ないよ。
日本の水軍は瀬戸内海やらの戦術水軍であって、
戦略水軍たりえなかった。
それと、日本が確実に明・朝鮮に劣っていたのは
大砲ですね。
どうして、大砲だけは明・朝鮮は高性能を揃えてたのに
日本は持ってなかったんだ・・・
38 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 09:36
39 :
Cipher:2001/05/31(木) 11:09
日本の船は大洋航海型でなかったから結構、脆かったって話を聞いた。
海戦が弱かったのもそのためだとか。
後、秀吉が明征服を考えたのは 当時のスペインやポルトガルなんかの
画策とか考えられないのかなあ?
統一日本の侵略行動が フィリピンとか東南アジアに向けられると困るのは
彼らだから違う方にそらそうとしたとか…。
40 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 11:17
薩摩焼きの宗家の苗字って未だに朝鮮の苗字だったような
41 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 11:18
当時の日本の水軍の強みは、小型船による機動力と、海上の複雑な地形や
潮の流れを熟知していたことに尽きる。
外洋を越えて不案内な海で戦っても何の強みもありません。
>どうして、大砲だけは明・朝鮮は高性能を揃えてたのに >
>日本は持ってなかったんだ・・・
高性能といえるほどのものかなw
一番いいやつで旧式のフランキだったな。
しかし大砲の効果で攻城戦や野戦で日本を打ち破った
例が残念ながらないのだよ。小規模戦闘ではあったかも
しれないが。発射速度は10分に1発くらいだろ?せいぜい。
海の戦いには有効だったろうが、それでも大砲よりも火矢のほうが
効果的だったと思われ。
>41
それは明朝鮮にも言えて当時外洋を制圧できる水軍なんてものは
東アジアに存在しなかった。秀吉が朝鮮の水軍にまったく
顧慮しなかったのは「道案内」という朝鮮をなめきった
認識だったから。出現した水軍を「海賊」と呼んでいるくらいだ。
海洋を縦横に駆け巡ることがいかに難しく常識の域を
超えていたかが分かる。
すでに西洋はそれを本格化させる時代をつかみかけていたのだが。
もっとも戦争後期には秀吉は水上でも逆襲に転じ、
終始制海権を保持した。一時は半島南岸全域を制していたが、
李舜臣の再起で、半島西岸に及ぶことは出来なかった。
秀吉死後の撤収の際に島津が李舜臣と海戦を行っているが、
あの地域が両軍の制海の境目だったのだろう。
十数年後、伊達がスペインローマに使節を送るなど、
その後の日本の造船技術の進歩は目を見張っただけに惜しまれる。
45 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 19:46
李朝は17世紀に入って、後金(清)の侵略に備えて、1624年、1635年、1643年に
日本に対して援軍を依頼しようとしているが、結局実現しなかった。
46 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 20:42
結局日本は単一民族主流国家だからなぁ。
異民族を支配すること自体ダメダメなんじゃないの?
47 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 20:43
そして同時に異民族に支配される事も潔しとせず
48 :
世界@名無史さん:2001/05/31(木) 21:18
>>47 潔しとする民族など居るかィ
バスク、チェチェンを見よ
49 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 21:29
50 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 21:31
>>48 支配されそうになったからとて、敵に突攻はしまい
51 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 21:40
戦国時代にヨーロッパからもたらされた地図では朝鮮がかなり小さい
だから簡単に踏み潰せると思ったらしい
小西行長や加藤清正が朝鮮は思ったよりもずっと広いというような
書状を送っている、ま、なめて掛ってたんだろな
52 :
さち子:2001/05/31(木) 23:23
朝鮮軍の震天雷と言われる火器はそうとう威力を発揮したみたい。 それと平壌城攻略戦は明軍の大砲が威力を発揮してますよ。
明軍の提督、李如松は
「倭軍が頼むのは鳥銃のみ、それに引き替え、我が軍には5,6里も飛ぶ大砲がある倭軍など一捻りにしてくれる」
と語ったそうです。
しかし、ペクチェグァンの闘いでは李如松は直属の北方系の騎馬隊に
手柄を立てさせようと平壌に大砲のほとんどおいて、出撃したため大敗・・・
53 :
なるほど:2001/06/01(金) 00:02
>>52 運用に問題があったわけだ。
もったいない
54 :
>52:2001/06/01(金) 01:17
ヘキテイカンにたとえあの大砲を持っていったとしても
野戦ですから役に立たなかったです。
発射速度と大砲の機動力を考えてみよう。
大砲を持っていったとしたら、確実に100%近くあの戦いで日本側に
捕獲されていたでしょう。
捕獲された大砲は後数年しての慶長の役に日本側が装備ないし
再生産していた可能性もありますから、参加しなかったことは
かえって明朝鮮側にとって幸いしたのではないでしょうか。
大砲の威力が発揮された大きな戦いとしては小西行長が
平城にこもっていた最初の戦闘のときだったでしょうね。
55 :
ところで:2001/06/01(金) 01:22
日本側で大砲が最初に使われるのは何時?
大阪の陣で使われていたようだけど それは別物?
56 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 01:25
当時はお互いにスパイを放って敵情を見ていたそうです。
明側が大砲を持っていかなかったのは、「手柄を立てさせる」
といった後年の史家が述べているような事情ではなく、
野戦に対処した指揮官の判断だったと考えられます。
その意味で負けたあの指揮官は正しかったのではないでしょうか。
騎馬隊を主力にしたのは間違いでなかった。
そのように見るのが「考える歴史観」とでは?
57 :
碧諦館:2001/06/01(金) 01:50
朝鮮の記録では重い大砲は騎馬隊についていけず、歩兵も置いてきたままで、
数千の明の騎馬隊に数万の日本の足軽が襲いかかった、といったかんじです。
58 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 02:13
>57
韓国の専門書にはそう書いてあるようですが疑問なのは、
4〜5万以上の明の援軍のうち数千の出撃による敗戦が、
その後指揮官をして
「衆寡敵せず」
と言わせ和平に向かわざるを得なかったことを考えると、
矮小の感否めないと思うのです。
59 :
58:2001/06/01(金) 02:27
やはり参謀本部の研究資料にあるように最低2万は出陣していた
と考えられます。明の援軍の陣立てを見ますと騎兵が
半数かそれ以上あります。
数としては参謀本部の研究資料と合致します。
つまりこれら主力部隊が壊滅したというのが実相では
ないでしょうか。指揮官が戦闘意欲をなくしたのもうなずけます。
砲兵、歩兵は随伴戦力の域を出なかったのではないでしょうか。
無論これらを結集させなかったのは明側の失敗だったわけですが。
ただその後の戦役の経過を見ますと戦技において優れた日本側の
勝利は必然だったような気がします。
60 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 02:47
この調子では補給線の話が出るのは相当先のようですな・・・
伊達正宗が独自の補給線を確保していたとか、気候の関係で戦
略物資の味噌が腐ったとかいう話が出てくるまで外に逝きます。
61 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 05:25
補給の話は軍事的には興味があるかもしれないが、
本質的な問題ではない。
62 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 11:16
大砲の件についてはなんとも言えないけど、
やはり、大砲をいかそうとせずに
騎兵のみで戦闘を仕掛けた明軍には驕りがあったでしょう。
大砲をいかすようにしなければ明・朝鮮に勝ちはなかったです。
63 :
日本@名無史さん :2001/06/01(金) 20:00
このスレの題名からも補給の話は本質的な問題だぞ。
64 :
さち子:2001/06/01(金) 20:40
大砲の件はわたしは62さんと同じ考えですが
それはさておいて、
秀吉軍はほとんど国内戦感覚で戦っていたように思えます。
そして、なんといっても情報不足からくる無計画さ。
秀吉は朝鮮を九州の延長のように考え、九州の大名に高い軍役を与えましたが
どうも、朝鮮があんなに寒いとは思わなかったようで、越冬(特に最初の)で多量の犠牲者
を出していることなどはその好例ですね。
朝鮮の寒さについては島津義弘のような九州大名ばかりではなく、
東北の大名ですら、驚きと弱音の発言をしています。
65 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 20:44
>64
防寒食料として唐辛子を持っていったはずだから、
そういうところから考えるとまったくの無計画というわけではない。
無計画なら何も出来なかった李氏朝鮮のほうでは?
66 :
さち子:2001/06/01(金) 21:10
>>65 一部の大名などには情報があったかもしれませんね。
小西などは対馬の宗家から情報があったでしょうね。
しかし、越冬(特に最初の越冬)で大量の犠牲者が出たのは
島津家や伊達家の史書などからも明らかですよ。
あそこまで寒いとは思わなかったのか、情報に差があったのかはわかりません。
>>55 日本の最初の大砲使用ですが、
「最初」かはわかりませんが
大友宗鱗の国崩しが有名ですね。
臼杵城の戦いで、追い詰められた大友勢が城を囲む島津軍を
砲撃したところたいへんな威力を発揮し、
島津兵はパニックを起こして、右往左往し統制がとれなくなったそうです。
それで、島津軍はしかたなく、城下に放火して退却したという話です。
67 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 21:14
北朝鮮の冬は北海道よりも厳しいし、
南も冬は結構寒いしね。
68 :
河川@道路:2001/06/01(金) 21:40
明はすでに国力の衰えていた時期であり、うまくやれば中国制覇も時間をかけて
じっくりやれば夢ではなかっただろうな。実際女真人は中国制覇を実現している。
せっかく朝鮮の王子を2人もとらえているのに傀儡政権を作ることも考えていない。
モンゴル人でも朝鮮は間接統治を行ったのに。
69 :
世界@名無史さん:2001/06/01(金) 22:28
>>32 亀レスだが、陶磁器技術は戦争前から日本に入ってるらしいぞ。
あれだけ茶の湯が人気だったのに、国内で陶磁器を造ろうと思わないほうが不自然ではないか?
70 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 23:07
31は馬鹿だな。
自分で勝手に侵略の定義を創作して他人を馬鹿呼ばわりとはな。ほんとに馬鹿だと思う
71 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 23:11
もし李成桂がいたら「どうぞお通り下さい」とかいって朝鮮半島奥地まで
おびき寄せておいて、突然奇襲攻撃に転じて全滅させられていたと思われ
72 :
質問です!:2001/06/01(金) 23:15
>69
磁器を日本で作ることは出来ませんでした。
磁器の輝きに魅せられていた戦国武将たちが、
だから朝鮮の陶工を連れて帰ったのです。
磁器が日本でできるようになったのはこの戦争後です。
73 :
質問です!:2001/06/01(金) 23:19
「補給」はこの問題にとって、本質的ではありません。
それは「軍事的」な小さな事柄です。
「補給」という概念は当時世界のどの戦争でも
確立されてはいませんでした。
秀吉はそれでも当時のレベルとしては補給や上述されていた
衛生の問題によく対処していたと思われます。
74 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 23:24
72,73です。
この戦争の失敗の原因(本スレのテーマ)は、
補給よりも歴史、文化の問題でしょう。
71さんの指摘に関連するように、中華文明とある意味隔絶して
近世を迎えた日本の当然まみえた限界だったといえるでしょう。
清が明を滅ぼしたのは軍事力だけではありませんでした。
むしろ軍事力では屈服させることは出来なかったのです。
中華文明と接触しつづけた女真族だったからこそなしえた事業でした。
75 :
日本@名無史さん:2001/06/02(土) 20:16
age
76 :
世界@名無しさん:2001/06/03(日) 00:52
最初から征明と言って進出するあたりの秀吉の戦略の無茶さ。
それが一番の原因であって、戦略レベルでは日本の方が明らかに上だったようですな
77 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 01:08
朝鮮征伐と書いたら彼の国では大騒ぎですが、元冦を日本征伐と書いてもおとがめ無し。
それどころか、倭乱とまで言い出し、「戦争ではない」属国の反乱だと定義しています。
これ、立場を逆にした似たような事例が日本に起きたとしたら、
日本語的に直せば「チョン公騒動」ですよ。
78 :
69:2001/06/03(日) 02:43
>>72 それは知っている。
ただ、秀吉のあれ以前から日本の陶工が向こうに行ったり、朝鮮からこちらに来てたりは
していたらしい。
だから、戦争があってもなくても陶磁器の技術は日本に入っていただろうから、日本の得
にカウントするのは違うんではないかなと思って。
ヨーロッパで迫害されたユダヤ人がアメリカで才能を発揮したように、
朝鮮の職人蔑視・冷遇に耐え兼ねた陶工が日本へ移住してきて,その技を発揮したという側面もあり,
アメリカのユダヤ人の成功がヨーロッパの対ユダヤ政策の失敗の結果であるように、
李朝の職人政策がでたらめだった為,日本で陶芸が発達したと思う.
80 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 10:10
明の騎馬兵と日本の武将の一騎打ちって、なかったの?。
81 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 11:16
>>65 唐辛子程度では防寒装備に値しない。
そもそも、半島南部ならともかく、
北海道よりも寒い北部でどうするつもりだったんだろう。
82 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 13:13
83 :
81じゃないけど:2001/06/03(日) 13:46
>>82 そりゃ、樺太並に寒いわな、シベリア寒気団が満州から
陸づたいにくるみたいだ。
南鮮も冬は結構、厳しいうえ雪が多いぞ。
もともと日本海側の山陰・北陸並の気候なうえ、
大陸性寒気団のせいか?
84 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 21:02
>81
いいんだよ、唐辛子持っていったからキムチが誕生したんだから。
85 :
日本@名無史さん:2001/06/10(日) 09:28
age
86 :
日本@名無史さん: