神風について

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1日本@名無史さん
元寇の際、ほんとうに神風で元軍は全滅したのだろうか。高麗、中国兵がモンゴル軍ともめたので
引き上げざるを得なかった、が本当のところと聞いたのだが。
戦前の政府にて「日本は神国」ということを強調するための誇張では?
2日本@名無史さん:2001/05/07(月) 02:14
もっと2chを勉強して出直して来い。

=======(終了)=========
3奈菜氏くん:2001/05/07(月) 02:15
今更言うことか世。
4親切クン:2001/05/07(月) 04:53
>1
1回目の元冦の時は、上陸した夜に直ぐに船に引き上げた。
日本武士の思いも寄らぬ善戦により、負け戦だと思ったんでしょう。
で、すぐに退散。朝になって見てみると船が博多湾にない。で、神風が吹いたとされた。
まあ多少の強風は吹いたかも知れませんが、大量の船の残害や水死体の記録はないからね。
むろん、内輪揉めがあったかも知れないけどね。
2回目の元冦では元軍は上陸すら出来ず、2ヶ月以上も船で洋上をさまよっていた。
また2ヶ月以上も海上にいれば、台風が来て当然。偶然ではなく必然。
それで大半を失って大陸に引き上げた。神風と言えば神風だけど、それは
鎌倉幕府の善戦がもたらしたものだよね。鎌倉武士の強さを誉めるべきでしょう。
上陸させなかった時点で鎌倉幕府の大勝利って考えるべきじゃない?
全滅させる事ではなく、撃退する事が至上の目的なんだから。

たぶんそれが真実だと思います。もちろん証拠はないけどさ。だって歴史だもん。
神風は『神国日本』を徹底させる為のプロパガンダって考える方が合理的だと思いません?
5日本史@名無しさん:2001/05/07(月) 07:04
>>4
なんじゃ、それじゃ、わざわざ神風なんて神と天候に頼った
信仰をだしたから、逆効果だったじゃん。
それよりも本当に元寇の勝利の原因を研究すれば、
神風特攻隊なんてなかったじゃん。
6わざとです:2001/05/07(月) 10:04
神風特攻作戦はクソ。
神風特攻隊員は英雄。
7日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:06
>5
そうだよね。いまだに「元寇は奇跡的な暴風雨で勝利した」っていうのが通説なのが怖い。いつぞやの世にまた悪用されるやも。
8アズマ:2001/05/07(月) 23:10
モンゴルを撃退した神風は確かに存在した。
しかし、神風は天皇やサイゴク人が吹かせたものではない。
神風は、アズマのためにアズマの風神が下さった天の恵みなのだ。
9日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:12
>8
八郎?
10日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:13
>>8
あのさぁ、「アズマの風神」とやらは博多まで出張したって言いたいのか?(ワラ
11>>10:2001/05/07(月) 23:22
50年前の「バカボム」ことヤマトの神風は、琉球沖まで出張したんだろ(w
12日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:38
伊勢の枕詞か「神風」になったのはこのころからか?
13日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:39
元・高麗連合軍三万を迎え撃った日本の武士の兵力には
諸説あるけれども、俺としては「五千三百余騎」妥当だと思う。
この場合、一騎はだいたい五人ぐらいだから、日本の戦力は
二万六千余り。順次上陸して来る元軍水際で撃破すればいいから、
戦術上の問題で苦戦はしたかもしれないけど、劣勢に立たされる
ほどの戦力ではないと言える。
ちなみに、電波系の韓国人なんかが高麗のおかげで元軍が
撤退したなんて事を言うことがあるんだけど、高麗の
記録では積極的な攻撃を主張した高麗軍の司令官と
撤退を主張した元軍の司令官が描かれている。
自分を勇ましく見せたくて適当書いたのかもしれないが、
こんな記録を残しておいて日本に恩を売ろうとは言語道断だね。
14名無しさんの主張:2001/05/08(火) 00:51
知ってるつもりに出てた時宗の細密な肖像画あったでしょ。
あれはじめてみたんだけど、どうなの真偽のほどなんかは?
15日本@名無史さん:2001/05/08(火) 03:12
日本海側のどこかに蒙古が流れ着いたとの童謡だか民話があるらしい。
16おやすみなさい:2001/05/08(火) 03:18
天皇陛下バンザーイ!
17日本@名無史さん:2001/05/08(火) 05:12
ご神徳を強調するあまり、鎌倉武士のはたらきを過小評価したきらい
がある。
今津湾と博多湾に上陸した蒙古勢の集団戦法や「てつはう」及び毒矢
に苦戦したが、鎌倉武士の奮戦により多勢の敵兵を討ち取り、これに
より蒙古勢の矢ダネを消耗させた。
作戦上、博多の町を見捨てて後方の水城まで陣をさげたが、蒙古勢は
その夜の内に博多湾から撤退した。
日本軍の思いがけない善戦により多数の戦死者をだし、頼みとする矢
ダネが尽きたからである。
18日本@名無史さん:2001/05/08(火) 10:53
これって日本の武士のナイーブさが出て、外国人相手に「やあやあ我こそは」
ってやってあぼーんされたんだっけ?
19日本@名無史さん:2001/05/08(火) 11:26
文永の役は、宋に対する政略的、日本に対する戦略的意味合いが
強かったのでしょう。だから、戦術的に勝ち得てもあっさり退きあげた。
弘安の役では、南宋はすでに伯顔(百眼)によって攻め滅ぼされてい
るから、要はフビライの面子の問題だったのでしょう。
実際、船を作らされてのは南宋の人々で、当時の宋の造船技術から
して暴風ごときで簡単に転覆することなどありえないから、宋の人々
がボイコットしたのでないかという説もある。
弘安の役後、日本は大量の捕虜を抱え込むことになるのだが、元や
高麗人は悉く殺しているのに、南宋人は助命しているという話も聞い
たことがある。
しかし、その後の元と日本との交易・交流はあったらしいですね。
20日本@名無史さん:2001/05/08(火) 15:56
>19
天龍寺建立のために足利直義が元に貿易船を派遣した、というヤツですね。
21日本@名無史さん:2001/05/08(火) 16:00
いつも思うのだが、モンゴルはユーラシアにまたがる、史上類を見ない大帝国を作ったことになっているが、その地域ってほとんど砂漠じゃん。実際人がいるところって、ペルシャと東ヨーロッパの一部ぐらいだったんじゃないの?
そのころロシアには強い国なんか無かったから、あっさり侵入できてしまったんでは?
22>21:2001/05/08(火) 16:14
確かに。中国には人がいないし、ロシアはほとんど砂漠だもんな。
23日本@名無史さん:2001/05/08(火) 16:30
それだけ大きな範囲を大軍で移動出来たって言う事が評価される事なんじゃないのかな?
なかなか中国からヨーロッパまで攻め込むなんて出来ないもんね。
シベリア鉄道でも1週間くらいかかるんでしょ?
24日本@名無史さん:2001/05/08(火) 17:39
戦前の皇国史観からの北条氏って、どういう扱いかどなたか知ってます?
想像では、時宗は黙殺されて、あとは「天皇をないがしろにした悪人」てな感じですか?
25日本@名無史さん:2001/05/08(火) 18:28
元軍は、一回目の戦役のときでも、
たとえ博多を占領したとしても、
補給ができず。
すでに山口まで進軍してた幕府軍
3万に蹴散らされるのがおちだと
最近の軍事研究で考えられている。
26日本@名無史さん:2001/05/08(火) 18:42
モンゴル兵は残虐大好きで
そのためにはどんな苦労も惜しまなかった。
んで、ヨーロッパ戦でとっ捕まえてきた捕虜数百人を地面に寝転ばせて
その上に太い丸太を並べ、その上で飲めや歌えの大騒ぎ
宴が終わる頃には捕虜のほとんどが死亡・・・・。
というエピソードが村上春樹の小説に書いてあったけど
ほんとなんだろうか?
それ読んで以来、俺のモンゴル人にたいする印象が変わった。
もっとも得意とする技は生皮剥ぎだったらしい。
ん?俺ってドキュソ?
27 :2001/05/08(火) 18:47
>>26
十字軍はもっと残虐ですよ。しかも嘘吐きぞろいのキリスト教徒。
28日本@名無史さん:2001/05/08(火) 22:41
>>14
確か明治の頃に皇国史観で都合のよい歴史上の人物に追位をしたときに、造られた肖像画。有名な肖像画を元に造られたのだろう。楠正成や新田義貞の肖像画も同時に作成された。
2914:2001/05/09(水) 03:53
>>28
どもありがと〜。
鎌倉の頃って有名な伝源頼朝画像みたいに
以外と写実的な肖像画あるからひょっとしてとか思ったけど・・。

明治の頃って結構そういうテキトーなのあったらしいね。
長野の戸倉あたりで神武天皇から今上天皇までの肖像画をズラリと並べて
展示している施設に行った記憶がある。あれも無茶苦茶だったな〜。
30黒騎兵:2001/05/09(水) 04:44
昔、軍事板で「カミカゼ」スレがあり、元寇時の水軍についての好論争があったが、
かなり程度が高かった。
単に、鎌倉武士団の奮戦で元軍を追い返した、「神風」は後世の付け足しというだけ
の整理で終わり、では軍ヲタに笑われる。
>17
>(撤退は)矢ダネが尽きたからである。
んなわけあるまい(笑。
元軍は名うての「外征軍」だぜ、矢ぐらい現地製造できるだろう。
それに占領した対馬・壱岐を兵站拠点にしての補給線は、かなり太いと思うが。
31日本@名無史さん:2001/05/09(水) 06:16
>30
自分の論を述べたら。
32日本@名無史さん:2001/05/09(水) 06:39
南宋の兵だけ助けたのはやっぱり友好関係があったからなのかな?
網野氏は蒙古、高麗兵を皆殺しにしたのはアジア蔑視の証拠だとか
電波なこといってるけど。。。
33日本@名無史さん:2001/05/09(水) 09:49
>>25その幕府軍3万は東国武士が中心だったんですか?
34日本@名無史さん:2001/05/09(水) 10:26
補給路無しで進軍してきた蒙古はドキュソ
インパール作戦の日本軍と同レヴェル
35日本@名無史さん:2001/05/09(水) 10:58
>>24
時宗の評価は大国元を相手に断固たる処置を
とったとして戦前から比較的高い評価
36日本@名無史さん:2001/05/09(水) 13:37
時宗は井の中の蛙ではなく、南宋貿易や禅宗の高僧などから
海外の知識は入っていた。
特に、高麗の元により引き起こされた内乱状態は把握しており
日本におけるその可能性をも危惧したのであろう。
37飲尿=15:2001/05/11(金) 00:49
津軽地方の子守唄に、

泣くと山から、もっこが来るぞ♪

という歌詞のものがあります。
この「もっこ」というのは実は蒙古人のことで、
ほとんどが、十三世紀後半、二度にわたって日本を襲った元軍の生き残りなのです。
元寇の時、台風で沖合に流された元の軍船のうち何隻かがそのまま海流にのって
日本海を北上し、津軽の十三港(現在の十三湖付近にあった)辺りで陸地に漂着し、
乗っていた兵士たちは山中深く隠れ棲んで、
時折、人里に食料を盗みに下りて来たりして生きていたようです。
時には人をさらったこともあって、いつしか子守唄に、恐怖の代名詞として、
蒙古がなまった「もっこ」が定着したのです。

小松左京監修「雑学オモシロ百科 第七巻」P183 角川文庫より

って本当なの。
384でふ:2001/05/11(金) 03:09
>25
ですよね。1回目の元冦は人数も少なかったみたいだし、
先々まで占領が続けられるとは思えませんもんね。
脅し的な意味あいが強かったかも知れませんね。
でも本州に行かず九州制圧とかしたら、どうなったかなあ?
39日本@名無史さん:2001/05/11(金) 03:32
>>24
細かいことは忘れたが、時宗は英雄扱いに入っていたと思った。
明治天皇がわざわざ追位して(2位かそれぐらい)、円覚寺の時宗の墓で歌詠んでた。
義時は、上皇を流罪にした史上最悪人。(時宗はともかく)北条は歴代悪人、
ただし、泰時だけは別、ってのが皇国史観ののりだったと思う。泰時を悪くいう人はいないようだ。
40日本@名無史さん:2001/05/11(金) 04:46
>38
あのなあ、当時の人間がそこまで計算高く計略なんかしないの。
やれると思った人数できたのだよ。
脅し的意味だったら他にも方法があるし、
数年もしないうちに再来していたはずだし、継戦の準備もしていたはず。
あれで、尽きたと考えるのが自然。

朝鮮人や中国人のサボタージュで助かっただの、
あいかわらずの非主体的な日本史の見方が直らないものだ。
41日本@名無史さん:2001/05/11(金) 06:50
>>40ぷぷっ 在日が一人紛れ込んでます
  非主体的って何の事なんでしょうね
  歴史に完全なる客観性なんてありはしないのに
  虚しい・・・
 
  
42日本@名無史さん:2001/05/11(金) 07:30
>40サボタージュって、、、何時の話ししとんねん
自分の文章もっかいよく読んでから他人にえらそうな事言いなはれ。
43日本@名無史さん:2001/05/11(金) 08:23
>>38文永の役は途中で矢種が尽きたと元側は言ってますけどね
  実際の所はよく分かりません
  ただ元軍も消耗してたのは確かかもしれませんね 
  一度博多を放棄して軍船に戻ってるとこ見ますと。
44日本@名無史さん:2001/05/11(金) 14:35
陸続きであれば、羊をつれてパオにすんで何処までも遠征出来る
が、船での遠征は勝手が違った。
4538でふ:2001/05/12(土) 03:59
>>40
当時の人間の考えが分かるとはお見それしました。
昔の人はみんな後先考えないバカだってことですね。
いや〜、歴史再認識。(藁
46日本@名無史さん:2001/05/12(土) 05:22
おやおや。
このチョット上のほうで、誤爆されてる方がいらっしゃいますね。
同士討ちですか。
虚しい。
47日本@名無史さん:2001/05/12(土) 20:49
元寇の数百年前の”刀伊の乱”も一応侵略しに来たんだよね。満州族だっけ。勝ち目あると思ったのかな?
48日本史@名無史:2001/05/13(日) 00:31
元は、文永も弘安も本気だっただろうな。
引き揚げたとすれば、たぶん日本側の抵抗が、意外と強かったって
ことと、下の事情かも。

騎馬民族の元は、馬を船に乗せて連れてきたのかな?
高麗兵もいたにせよ、ユーラシアを馬蹄にかけた蒙古騎馬民族が馬無しか。

元にとって、大軍の渡海は、はじめてかな?
当時、大軍と馬群を一緒に渡海させるって、並大抵のことじゃなかったはず。

そのへんから詳しく考証した資料がないものか。
49日本@名無史さん:2001/05/13(日) 00:36
北陸あたりに回航しての上陸はできなかったのだろうか。
50日本@名無史さん:2001/05/13(日) 02:02
まあどんな戦にもこうすれば勝てたという敗因て言うのはありますし
だからといって九州武士の活躍を矮小化する必要もありませんし
詰る所、戦争というのはそういうものでありまして・・・・
51日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:55
続けてっ。
52日本@名無史さん:2001/05/19(土) 01:58
クビライは第三次の日本遠征も計画したが、重税にあえぐ民衆の不満や内乱
の為潰えた。
53日本@名無史さん:2001/05/19(土) 18:56
>52
実際には「凍結」です。

@1285年(実際に三百隻の船が五島列島沖まで来た)
A1287年(内乱のため、急遽高麗から満州へ転進)
B1291〜92年(対馬沖を通過、第一次琉球出兵)
C1294年(またも五島列島沖に出現、第二次琉球出兵)
D1298年(耽羅への連絡艦隊か?)
E1301年(禅僧の使者を送ってきただけ)
F1306年(対馬沖を通過し、サハリンを攻撃)

元が日本への出兵を断念するのは1307年です。
日本側にはこれ以降1366年まで、蒙古襲来の記録がありますが、
あてにならないので、やめときます。
54与六:2001/05/19(土) 19:28
長門探題はいつまで存在したのかな。
55sage:2001/05/19(土) 21:30
クビライよりフビライのほうが好き。
56日本@名無史さん:2001/05/19(土) 21:33
クビライは宇宙刑事シャイダーに滅ぼされました。
57日本@名無史さん:2001/05/24(木) 01:26
クビライよりオビワンのほうが好き。
58しらなかた:2001/05/25(金) 02:46
>>53
サハリンを攻撃してたとは・・・。
勉強になります。
59日本@名無史さん:2001/06/01(金) 03:07
元冦上げ
60日本@名無史さん
41@`42=foolish
46=wise