長曾我部盛親のヘタレぶりを嘲笑おう!

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1酔鯨ジョーカー@司牡丹
関ヶ原では西軍に属しながらも参戦せずに
逃げ失せ、更には上京して家康に許しを乞うたが、
領地を没収され浪人に。大坂の陣で再起を図ったものの、
夏の陣では早々に逃げ出して、隠れている所を
蜂須賀の家臣に捕まり、市中引廻しの上、
六条ヶ原で打首獄門。
これでも土佐の武将なのか?恥を知れ!
2日本@名無史さん:2001/05/06(日) 15:47
薩摩最強、二位が土佐と書きまくったのが司馬だよな。
どっちも全然違うので、一般人の戦国感が狂ってしまった。
3日本@名無史さん:2001/05/06(日) 17:38
浪人時代、京都の寺子屋で子供相手に教えていたって本当?
4酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/06(日) 17:46
>2
父親の元親は大した者だが、盛親は五本の指に入る腰抜け。
>3
大岩祐夢と号し、伏見で寺小屋の師匠などを
していたそうです。
5日本@名無史さん:2001/05/06(日) 19:08
薩摩最強!説は正しい。
土佐は無視してよし!
6日本@名無史さん:2001/05/06(日) 20:40
大きな間違い。
ど田舎で偉大な指導者がいる国の兵士は強い。
ど田舎でへたれな指導者がいる国は、隣国の偉大な指導者に制圧され
その支配下に入るとつよい兵士に変身。
上方や発展した土地の兵士は偉大な指導者がいても基本的には弱い。
7日本@名無史さん:2001/05/06(日) 20:43
>>1
あの関が原の地において、遊軍であり、後詰であり、
本戦に参戦できない陣地地理条件であったこと。
堂々と”本人が上京”して申し開きを行ったこと。
あの勝ち目の無い大阪の陣にてなお、局地戦に快勝し、
しかし再起を期して潜伏し、
しかしながら果たせず刑場に死したこと。

これがヘタレだと?
面白い感性してるね。

8日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:06
>>7
同意
9酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/06(日) 22:35
>7
盛親は当初、家康側(東軍)に付くつもりが、
三成陣営に阻まれて、それで三成側(西軍)に付いた。
優柔不断ないしは無節操とも取れるが、
それだけでへタレとは思わん。作戦だからね。
だが、大坂夏の陣でのあのザマはなんじゃい。
同志たる武将達が次々と戦死している中で、
部下を見捨て、逃げ隠れするのはへタレ以外の何者でも
なかろうが。こんな男は土佐の男に相応しくない。
10酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/06(日) 22:40
但し、私は長曾我部氏に土佐一国を統治し続けてもらいた
かったのだ。それをあの腰抜け盛親がブチ壊しにしたのだ。
11日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:44
少なくとも 当時の考えでは家を滅ぼすのは最大の不忠
再起のために逃げたのは へたれだとは思わない
時代は戦国であり江戸時代での武士の価値観で盛親を判断するのは
酷であると思います 平気で部下を見捨てて逃げるような男であったとは
思えません
12与六:2001/05/06(日) 23:53
立花宗茂は柳川に返り咲くことに成功したのにね。他の大名達の受けが良く無かったのかな?
13日本@名無史さん:2001/05/07(月) 06:30
>1
「戦雲の夢」 司馬遼太郎 著 講談社
をご一読下さい。
14日本@名無史さん:2001/05/07(月) 06:45
>>13
小説じゃ・・・

>>9
「戦場で華麗に散るのが武士」
なんて概念は、平和ボケした江戸時代以降の思想。
いわゆる”ファッション武士道”ですよ?
それくらいあなたご存知でしょう?
なら、>>11さんの意見が理解できますでしょう?
15日本@名無史さん:2001/05/07(月) 07:43
救いがたいアホボン。
兄の謀殺で時代錯誤振りをいかんなく発揮。
てゆーか家中掌握もろくすっぽできずに
政治感覚まるでなく、戦場ではヘタれと
一体何を褒めればいいんだ?

親父の痴呆が子に報いとも言えるが。
16名無しさん@1周年:2001/05/07(月) 08:01
長曾我部盛親のせいで土佐の郷士は270年間苦しみ続けた。
17日本@名無史さん:2001/05/07(月) 09:03
それは決して長曾我部のせいではない それは山内のせいではないか
その考えは絶対おかしい 逆恨みといわれても仕方ない意見だと
思う
18日本@名無史さん:2001/05/07(月) 10:59
>>17
でも郷士制をつくった挙句に四国制覇に失敗して彼らの身分を保証できなくなった長曾我部の責任は大きい。山内が全員雇えというのは無茶な話。
それから、どちらにしても士農工商制のもとでこういう存在は消え去る運命にあったと思う。
>>15
津野親忠を殺したのは久武親直。

話はかわるが、誰か長曾我部民部(足立七兵衛)について知ってる人いませんか?実在したのかとか。
1917:2001/05/07(月) 11:13
山内の政策にはかなりの問題があったと 思う 全員雇わなくたって
宥和政策はいくらでもあったはず 他の大名には上手くまとめた例も
たくさんある 自分が対象としているのは 差別の歴史は長曾我部が
はじめたかのように言われる事に対しての否定

あくまで 差別 弾圧をはじめたのは山内である
20日本@名無史さん:2001/05/07(月) 11:15
一領具足制(≒郷士制)はともかく、四国制覇の失敗は、織田家の内部事情にも原因があった。
長曾我部は明智系で三好が秀吉系。
信長が三好応援の長曾我部討伐を決定した時点でアウト。
21日本@名無史さん:2001/05/07(月) 11:39
>>13

>>2の書き込みみろよ。
22日本@名無史さん:2001/05/07(月) 12:32
>>20
信長って性格的に三好の方を嫌いそうな気がするけど、やっぱり長曾我部とはぶつかるしかないと感じたのかな。
23日本@名無史さん:2001/05/07(月) 13:25
>>22
基本的には三好の方を嫌いなんでしょう、たぶん。
でも四国統一の勢いの長曾我部より、阿波一国さえあやしくなってきた
三好を応援した方が漁夫の利は大きいと踏んだんじゃないでしょうか?
24日本@名無史さん:2001/05/07(月) 13:37
25酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/07(月) 20:15
盛親が津野親忠を殺した理由は?
26酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/07(月) 20:24
まあ、関ヶ原の時、盛親は若過ぎたんだよ。
まだ25・6歳だったわけだろう。
これじゃ政治感覚が無いのも仕方が無いな。
つまり盛親を溺愛した元親が悪いのだ。
27日本@名無史さん:2001/05/07(月) 20:35
確かに政治感覚はない気がする いい年をして 関ヶ原前夜の
政情を正確に把握していなかったのは 坊やと言わざるをえない

弁護するならば 元親によって家督相続が明言化されておらず
相続者としての覚悟があまりなかったこと 平和な時代に
物心ついたため 家があまり諸大名と付き合いが無かったため
政治に疎かったのかもしれない

しかし 関ヶ原で国を失い そのまま歴史から消え去ったのなら
へたれと言われても反論し様が無いが そのご大坂城に入城し
長曾我部の名を高からしめたのも 盛親である

一流の人物ではなかったかもしれない が 決して へたれの
部類に入る 男ではない と 愚考いたしまする
28酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/07(月) 20:39
>27
成る程。へタレというのは誤りだった。
蜂須賀、毛利、真田のように二重作戦・生き残り策を
取れなかったものだろか?
29天之御名無主:2001/05/07(月) 21:19
18
久武親直のざん言によって、
盛親が香川親忠を殺したというのは作り話だよ。
親忠(徳川ゆかりの姫を妻にする)が盛親に無断で徳川に和平交渉を進めたのに警戒して(一説には親忠にすでに土佐半国を与えるという徳川の取り決めがあったという)
盛親が殺したというのが主原因だよ。
久武がどうのこうのが入り込む余地はない。
30酔鯨ジョーカー@司牡丹:2001/05/07(月) 22:34
>29
成る程、そういう理由だったのですか。
それにしても盛親は政治感覚が乏しすぎる。

関係の無い話だが、長曾我部の上級家臣(と言うか
一領具足ではない侍)で、一領具足による浦戸一揆の後も残留し、
山内の家臣に取り立てられた者もいたのかな?
それとも、関ヶ原以降の土佐藩上士はほぼ全員が掛川以来の
山内家臣なの?
一領具足が、郷士など下士に起用された事は知っているけど。
31日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:07
盛親はもともと嫡男じゃなかったからねぇ。
32日本@名無史さん:2001/05/08(火) 04:53
仙石がワリイんだよそもそも
あいつがいなけりゃ…
33世界@名無史さん:2001/05/08(火) 08:05
>>30
いないんじゃない?
武市半兵太ですら、下士のまとめ役でしょ。
もっとも上士よりは実質ね豊かで偉かったかもしれんが。
34世界@名無史さん:2001/05/08(火) 08:32
>>29
間違い指摘だけど、香川親忠ではない津野親忠だよ。
香川というのは次男が相続して関が原の前に死んでるよ。
関ヶ原後、親忠は無断で藤堂高虎にとりなしを頼んだ。

家康は最初は盛親を土佐一国をもち許すつもりだったけど、
盛親が親忠を殺した件に怒り盛親を殺害しようとすらしたという。
それを盛親からとりなしを頼まれていた、井伊直政がとめた。
35世界@名無史さん:2001/05/08(火) 08:34
盛親が親忠を殺したのを家康に報告したのが
藤堂高虎だ。
井伊直政は面目丸潰れだったろうな。
36世界@名無史さん:2001/05/08(火) 08:48
>>29
津野親忠に土佐半国が与えられるという噂があったのは事実だけど、
家康の意志は盛親に土佐半国減封の措置を取ったと思うけどな。

しかし、弟ではなく兄を殺したというのは世間の評判をわるくした。
母親は同じ兄なのかな?
だれか知ってる人、教えて。
3734:2001/05/08(火) 08:50
修正−−−−−土佐半国をもち
38日本@名無史さん:2001/05/08(火) 09:26
>>30
長曾我部の家臣じゃないけど、関ヶ原以降家老になったひとで百百綱家がいるよ。
39憂国の士:2001/05/08(火) 14:56
>38
百百綱家は土佐の小土豪か地侍だったのですか?
40日本@名無史さん:2001/05/08(火) 20:33
>>32
実際にどの程度影響があったかはともかく、土佐に限らず四国の人には
ダニやウジ虫並にに嫌ってる人多いね。
41日本@名無史さん
>>39
百々綱家はもともと織田秀信の家老。
山内家が土佐移封されてから、浪人となっていた綱家を召し抱えた。
土佐とは何の関係もないっす。