1 :
日本@名無史さん:
教えて下さい
2 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 22:26
3 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 22:30
>>
2ウソ
源氏の流れをくんでる
4 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 22:32
5 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 22:33
>>3 それもウソでしょ。大本営発表を簡単に信じるなや
6 :
関係ないが:2001/05/04(金) 22:56
子孫の方は日本郵船の次期社長候補らしいぞ
徳川は明治になってから「松平記」を出すまで
新田の系図漁りをしていた。
300年もかけた捏造、涙ぐましいな。
8 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 23:23
なつぞう(藁)
古代朝鮮からの渡来系の一族との説あり。
10 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 23:30
>>8 俺の言ってるのか?
だいじょうぶか?(まじ消防?)
捏造は「ねつぞう」と読むんだぞ。
11 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 23:32
12 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 23:58
都会だと「なつぞう」と読むのか?
うぜーのはオマエだよ、なつぞう君!
13 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 00:00
いゃーねぇ
田舎者は
何だかコンプレックスの塊って感じ
14 :
:2001/05/05(土) 00:25
無名の家系から出た武将が偉くなってから家系図を飾りたがる心理って、今でいえば高卒の代議士や宗教家が財を築き上げてから「○○大学名誉博士」の学位を欲しがる心理と似たようなものか?
15 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 14:01
徳川はエタの出です
16 :
ジョーカー:2001/05/05(土) 14:08
松平親氏ないしはそれに該当する自称念仏行者の
浪人は、松平清康(家康の祖父)の祖父位の代
だった、という説も有るとか聞いたが。
親氏が新興小土豪だった松平氏の娘婿になったんだよね。
その松平家は西三河の盗賊で、松平郷―現在の豊田市と
その一帯―を乗っ取ったという、親氏サン並に
得体の知れぬ一族だとか。
17 :
ジョーカー:2001/05/05(土) 14:30
でも、河原者ではないよ。
18 :
名無しさん:2001/05/06(日) 13:54
親氏は長男に家督を譲って松平太郎左衛門とし、
自分は次男を連れて中山七名の切り取りをやったとされてるね。
松平太郎左衛門家は江戸時代は交替寄合。
本家なんだから大名に取り立ててやればいいのにケチだ。
酒井家も親氏の子孫と名乗ってるが、
これは徳川家にへつらった上で家格を上げようという魂胆だろうな。
19 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:07
酒井家も親氏の子孫らしいぞ。
要は親氏がスケベでいいかげんなものだから松平家、酒井家の両方の娘を
孕ませてしまったらしい。
ちなみにこの話は司馬遼太郎の街道を行くの濃尾参州記に載ってました。
20 :
名無しのオプ:2001/05/06(日) 22:23
徳川出自の例の話はようするに電波なんだけど、
白土三平の「カムイ伝」で使用されてから、かなり一般的になってしまったんだな。
でもなんでそれを知ったからって、おたずね者にならなきゃなんねーんだ?>忍者カムイ
21 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 00:49
そもそも徳川の名乗り自体早とちりだった可能性がある。
徳川が先祖としている得川頼有は「得川」としてしか登場しないが
今川関係の文書に徳川と言うのが出てくる。たぶん誤植と思われる。
また得川頼有の親は世良田義李であるが、松平の系図もいじって先祖に
世良田を名乗らせたりしたのが、変な説を生み出す基なのかも知れない。
あまりキッチリやり過ぎたのが逆効果な気がする。
基本的に新田の庶子の中ではマイナーな方なのであまり、キッチリやり過ぎると
矛盾が増える。
得川氏は実際には但馬に本拠地を移した事になってる。
22 :
徳川夢精:2001/05/07(月) 12:36
世良田って、別所?
23 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 13:27
松平氏サンカ説を知らないのか?
ま、それはともかく松平氏が山岳地帯を
基盤にしてきた一族なのは事実。名家のはずがない。
24 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 17:15
源氏は捏造らしいが
さすがに被差別民はないだろ
25 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 17:50
捏造するほど誇れる家系か?
得川なんて分家の分家、庶流の庶流じゃん。
義家の子孫なんぞ全国に掃いて捨てる程いただろうし、可能性はあると思うがね。
26 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 20:34
>>18 家康とは種違いの久松は大名なのに本家筋は旗本?なんですか。
忠吉とか忠輝に乗っ取られた松平もいましたよね、長沢とか。
異父弟を重んじ、古参の分家には実子を送り込む。ちょっと変わってますね。
27 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:33
得川氏は新田氏の開祖義重の庶子が世良田氏を名乗り
その嫡男が得川を名乗った。いわゆる新田の分家の一つ。
新田姓は宗家しか名乗らず地名を姓にしていくのが基本。
上野国では他の分家山名、岩松、里見あたりの方がはるかに力があったから
マイナーなだけ。
足利の分家吉良や今川が名門であったのだから、血統的には詐称する価値は
在ったと思われる。
28 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 00:48
タクシーの運転手ボコるくらいだからろくでもないんだろうね。
29 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 01:25
>28
あんたイヤミなひとね(藁
30 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 02:02
>>27 >上野国では他の分家山名、岩松、里見あたりの方がはるかに力があったから
>マイナーなだけ。
この辺の新田支族を名乗っちゃうとバレバレだし、敢えてマイナー系を
名乗ったのかも(藁
31 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 02:19
被差別民が成り上がっていったから、下克上。下は被差別民を含む。
源氏って言ってる人は全員冗談だよね?
徳川が源氏なら俺もお前も皆源氏だ。
32 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 04:59
加茂氏説、在原氏説の根拠は?
33 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 05:28
>>31 でも当時の日本って、家康以上に出自不明な秀吉が関白に
なっちまう国だからなぁ。下克上も珍しくなかったし。
34 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 17:53
>>32 加茂氏説については、googleで検索しても結構出て来ます。
三代松平信光が、加茂朝臣を名乗っている記録があるのが大きいみたいですね。
また松平郷はまんま加茂郡にありますし、三つ葵の家紋は加茂社に縁深い
(ただし普通は二つ葵で、徳川のそれはアレンジらしい?)ところ等。
在原氏というのは初めて聞きました。なんかソースあれば知りたいっす。
35 :
日本@名無史さん:2001/05/12(土) 16:31
実は明智家の一族という説もある。松平郷と明智庄は35キロしか離れていない。
三河には菅沼、植村、三宅などの土岐家の分家が多い。
そう言えば、日光東照宮の鐘楼に「桔梗紋」があるのも意味ありげ。
(おっと天海=明智光秀説になってしまう。スレが違うので退散)
36 :
日本@名無史さん:2001/05/12(土) 16:38
前どっかのスレにも書いたのだが、
徳川時代に関東あたりで家康のじいちゃんと
されている人物の名が彫られていた石碑が
出てきて、幕府によって即刻立ち入り禁止に
されて闇に葬られたってような感じの話しを
どっかで聞いた(読んだ)のだが知っている人いるか?
37 :
日本@名無史さん:2001/05/12(土) 17:06
新田系だったとしたら、貧乏覚悟でなぜ、はるばる三河まで出てきたんだろう?
38 :
日本@名無史さん:2001/05/12(土) 20:42
1360年代の三河の守護職、大島義高は新田氏の一族。大島義高の死後、その一族や
家臣団は三河に定着し、おもに松平氏と今川氏に仕えた。
39 :
日本@名無史さん:2001/05/12(土) 23:22
>>36 たしか群馬の新田郡の寺でした。
(「龍○寺」という寺ですが、一字思い出せない・・・・)
「本田豊」という部落問題の専門家が書いた本に載ってましたよ。
40 :
日置藩主:2001/05/12(土) 23:29
あひゃひゃひゃひゃ・・・・
41 :
日本@名無史さん:2001/05/13(日) 14:27
>>40 そう言えば、日置藩の初代藩主って豊臣秀頼の子、国松だったっけ?
違った?
オヤまた井沢信者がゾロゾロ……
42 :
日本@名無史さん:2001/05/13(日) 20:58
徳川氏は藤原系の土豪でしょ、結局。
源氏の家系図は完全な詐称で、吉良家から買い取ったんじゃないの?。
43 :
日本@名無史さん:2001/05/14(月) 02:34
>>42 藤原氏の系図も買ったモノの筈です。
在原でも加茂でも、はたまた東国から願人坊主が流れてきたと
しても、結局三河松平の土豪であったのは間違いないでしょう。
44 :
日本@名無史さん:2001/05/14(月) 02:59
三河は一色、細川などの発祥の地で、鎌倉時代から足利氏の勢力が非常に強いところ。そんなところにノコノコと天下のお尋ね者である新田一族がやってきて隠れたなんてナンセンスもいいとこ。
45 :
日本@名無史さん:2001/05/17(木) 14:40
新田一族の中でも、山名、大島など、足利方についていた一族も多いよ。
46 :
日本@名無史さん:2001/05/17(木) 14:50
>>39 そうですか。ありがとうございます。
ま、なにはともあれ、徳川の新田系説は嘘八百という
ことで間違いないですね。
ところで、私の記憶違いだったら申し訳ないのですが、
江戸時代たしか尾張藩あたりから、各藩の大名の
出自の暴露本が出て発禁処分になったというような
資料を読んだ記憶があるのですが、これまた思い出せ
ません。
毎度のことですみませんが、自分なりに調べたものの
手がかりがありません。御存知の方おられたらよろしく
お願いします。
47 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 00:09
徳川の先祖は、加茂氏の部民だよ。加茂部某というんだろう。
48 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 13:06
>46
尾張藩って吉宗に対抗した藩主(名前ど忘れ)といい
暴露本といいなかなか気合はいってますな。
スレに関係なくてスマソ。
49 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 23:14
>>27を訂正
記憶が混乱していました。
世良田義李の後を継いだのが、世良田頼氏で得川頼有は庶子でした。
徳川系図では世良田義李が徳川(得川)を名乗ってその後代々徳川(得川)
を名乗った事になっていますが、全く事実無根です。世良田氏は現実に存在し
一時的に、力は無くても新田代表になった事が有ります。
また得川頼有も義李の所領の中の「とくかわのかう」を譲り受けたと言う記録
があるだけで得川と名乗ったと言う根拠はありません。あくまで、基本は地名を名乗
るから、そうだろうという推測に過ぎない。
つまり徳川(得川)氏という新田の氏族は存在しなかった可能性が大です。
石碑の話がありますが、徳阿弥親氏の石碑の事ですね。
松平家に入り婿したと言う親氏が武蔵国で葬られていたと言う奴ですね。
また尾張の暴露文書というと家康の出自について、やばい事が書かれて
いたと言う「重代記」の事ですか。
50 :
日本@名無史さん:2001/05/19(土) 03:51
徳川の先祖は部民
51 :
日本@名無史さん:2001/05/19(土) 13:32
徳川が部落民だったってぇ話は、
新田町徳川地区に被差別部落が
あるからということが根拠のお話です。
明治以降の部落差別政策に好都合な
話なので被差別民を蔑視するための
良い教材として、まことしやかに
語られていました。
吾妻鏡に徳河三河守って名前があったから
「自分の先祖はこれにきーめた」と
なっただけのこと。
徳川氏と新田町徳川地区とは、現実には
縁もゆかりもありゃしない。
52 :
名無しさん:2001/05/19(土) 19:38
>>18-19
>>32 >>34 三河物語などによると、新田一族の親氏という人物が、時宗の僧となって全国を放浪しているときに、三河の豪族の酒井忠時(大江氏)のもとに一夜の宿を求め、酒井家の娘を身ごもらせた。
のちに、親氏は、同じ三河の豪族の松平太郎左衛門信重(在原氏)の婿養子となり、嫡子の泰親をもうけた。
しかし、さらにのちに、酒井家の娘に産ませた子である広親が、親氏を尋ねてきた。
ちょうど、その頃の酒井家には、後継ぎとするべき男子がいなかったので、親氏は、広親に母方の酒井家を継がせ、松平家の家臣とした。
親氏を源姓松平家の初代とすると、家康は、9代目となる。
なお、江戸時代に旗本として残った松平太郎左衛門家は、3代信光の庶長子の信広を祖とする。
新田義重から親氏までの系図
義重−義季−頼氏−頼有−家時−満義−政義−親季−有親−親氏
親氏から家康までの系図
親氏−泰親−信光−親忠−長親−信忠−清康−広忠−家康
53 :
名無しさん:2001/05/19(土) 22:25
a
54 :
日本@名無史さん:2001/05/20(日) 00:23
>>51 明治以降の部落差別政策って何だよ?
アンタ馬鹿か?
55 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 21:29
何が真実なの?
56 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:13
「三河物語」を信用しちゃ、いけない。あれは、スキット彦左衛門が、わからないところを適当にデフォルメしてるのじゃ。
57 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 23:38
新田源氏じゃない事は、ほぼ確実。
涙ぐましく、長い事捏造に励むから突っ込まれ所が多くなっただけ。
例として八切止夫の説(センミン説)と関連付けると
徳川が規定した現徳川郷は、利根川の古地図を踏まえると(大正14年の
大規模な堤防工事まで利根川の位置は安定してない)世良田氏が領有していた
頃は殆んどが川の底だった。つまり、そういった階層の人の居住地の可能性が高い。
そこで八切は徳川が自分の故郷としてここを正木文書等に出てくる「とくかわのかう」
にあてはめ、数々の特権を与え保護したのがセンミンの証拠だとしている。
俺は単なる捏造ミスだと思うけどね。
でも、本当に名門の血筋って足利氏等でもそうだけど、あまり自分の故地に
特別な思い入れは無い風に見える。
あまり故地とかに執着するのは偽者の証なのかも知れない。
58 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 23:41
足利(ほかリアル源氏)のほんとの故地は京師だろうからね〜
59 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 06:38
>>57 八切止夫なんて持ち出してくると最悪だよ。
亡くなった人の悪口言うのも何だけど、
八切史観って、あまりにメチャだもの。
徳川と世良田の地理的関係なんて、
地元に行ったことがないため露骨に間違えてる。
こういう話題をするならせめて世良田や徳川に
行ってみなきゃね。
60 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 06:53
「岡崎市史」掲載の在原氏出自説の系図は?
61 :
名無しさん:2001/05/28(月) 15:30
62 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 16:36
>61
在原氏出自説の系図だよ。
63 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 19:10
>>59 誤解の無いように言っておくと、八切説を肯定はしてないよ。
むしろ否定してるんだけどね。
あまり、やり過ぎるとボロもたくさん出てくるから
トンデモに突っ込まれるって意味で書いたんだよ。
それから、利根川が安定したのは大正10年の工事からだった。訂正
64 :
長州人:2001/05/28(月) 19:21
>>54 平成の現在 同和部落に住む人間の50パーセントが本籍地と現住所(部落)が一致しないとのこと。
ほとんど明治以後のセンミンが現在の部落民に結びついてると思われ・・・
65 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 21:12
新田氏と松平氏のつながりはとぎれとぎれに出てくる。
『藤沢寺記』によれば、「至徳二年、新田一門過半波合にて討たれ、
新田相模守義隆父子、有親父子、わづかに逃れ奥州に下り、有親は塩釜の
あたりにかくれ居給ひけるが、小山若犬丸の催促にしたがひ、宮方の徒、
馳集りしに、同六月、鎌倉殿氏満、大軍にて発向あり、新田.小山、田村等悉く
退散す。有親ひそかに本国新田祝村に帰住し給ひしかも、鎌倉の捜索厳しければ、
自害し給はんとせられしとき、護身宇賀神の霊夢に感ぜられ、その時、
遊行十二世尊観上人、たまたま岩松青蓮寺に旅宿あしかば、その弟子となり、
有親、親氏、泰親、三人とも名をかへ姿を改め給う」とある。
その後、有親は長阿弥に、親氏は徳阿弥と遊行僧となり放浪することになる。
では、両名が何故三河にいったのかは『称名寺略記』に「徳川有親および其長男
親氏従士石川孫三郎と本刹に来住す、蓋し孫三郎は本刹住持の兄たるの故も以って
なり、有名なる牧渓筆『渡宋天満宮』は当時有親公の寄進にかかる後、親氏は
松平村に移り有親は亨徳元年本刹に於て卒す」とある。称名寺は時宗の寺であり、
上野国から三河国へきた理由が述べられている。
時宗本山藤沢の遊行寺にある『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』の自空上人の項にも、
親氏親子の事が記されている。同書には、親氏親子は石川孫三郎に従って三河に来た
ことが述べられいる。また、親氏が長男で泰親が次男で兄弟であったことも説明されている。
当時から親氏が源氏を称した記録として、三河国足助八幡宮に、徳阿弥自書の
『大般若経』百九十巻を奉納し、その奥書に「応永廿七年 太郎左衛門源親氏」とある。
また、三河国滝村万松寺の『法華経奥書』に「心願の成就を祈り奉る者也。応永三十四年
書了す。三河国松平郷、太郎左衛門尉源親氏」とある。後世の偽作ではないそうだ。
67 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 22:09
68 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 22:23
69 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 23:12
家康は従五位下・三河守に叙任される直前、吉田兼右から徳川系図を受け、
系図を整えていますが、この徳川氏(源姓)は、途中で藤原姓に改姓した
奇妙なものでした。そのため、三河守叙任後の家康は、公式文書には
藤原姓で署名しましたが、私書はあくまでも源姓を使いました。
近衛前久が子の信尹に宛てた書状には、家康について「本来は得川、
ゆえあって徳川」と記されています。
源氏と主張しながら、藤原姓を使っていたことが、後世著しい不信感を抱かせる
原因となっていて、家康が新田氏の末裔と称したのは、将軍任官に際しての
方便だったのだろうという現在の渡邊世祐定説の根拠となっています。
渡邊論文が大正時代に出版されてから、松平氏は源氏とは無関係と
いうことがほぼ定説になっていますが、論文が出た当時は、
>>66さんの親氏の
書簡どころか、祖父の清康が世良田清康と称していたことすら知られておらず、
後に事実が明らかになったことで、松平氏の世良田氏へのこだわりは、単に
任官に際しての便宜のためという以上の、根の深いものだったことが明らかに
なっています。
そもそも松平家は、親氏以来、真偽のほどはともかく、
源氏を称しています。また「浪合記」では、世良田政義の子の世良田政親が
松平郷に隠れ住んだことが記されています。
源氏だろうがなかろうが、個人的にはどっちでもいいんですけどね。
ただ、何か決定打が発見されたらおもしろいでしょうね。
脱線するけど、
家康に久松以外の弟がいたというスレが前にあったけど、
あれ結局どうなったんだっけ?やっぱりガセだったっけ?
71 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 23:34
8代将軍吉宗の頃、武蔵国から親氏の
墓碑が出たとかいう話はどうなの?
それが本当なら三河と関係なさそうだけど。
72 :
にほん@ななし:2001/05/29(火) 00:34
>71
1801年に、府中市の時宗のお寺で「徳阿弥親氏」と刻まれた板碑
が出たそうです。時宗が、徳川家との縁を強調するために作った偽物
と考えられています。2年前、町田市立博物館の展覧会に転じされま
した。展示の図録に、詳しい説明が載ってます。
73 :
日本@名無史さん:2001/05/29(火) 01:33
>>70 「徳川の母と子」には、家康には異母兄弟が3人以上いたと書かれてました。
なお、別冊歴史読本の「葵・徳川三代」という本には、家康は双子で、弟は
東京品川区の海安寺に葬られていると書かれてました。
74 :
70:2001/05/29(火) 21:37
>>73 どうもありがとう!
>>18 松平太郎左衛門家は松平一族では本家筋にあたりますが、
隣接する大拾松平家に攻撃され、見る影もなく没落していました。
家康の時代になった頃、ある合戦で手柄を立てた者がいて、その者が
太郎左衛門家の当主(家臣もろくにいなかったのかも)だったらしく、
家康は旧領復帰等々色々と世話したそうです。
以前松平郷に行った際に知りました。
75 :
風紀委員1:2001/05/29(火) 22:34
告知
荒らし防止のため、これからは以下の規制をこの板全体にかけたいと思います。
つきましては、ご異議のある方は取り急ぎ、「日本史版 風紀委員会」まで
ご意見をお聞かせください。
<規制案>
proxy規制、ID表示、連続投稿禁止規制、連続スレッド立ち上げ禁止規制
<規制の趣旨>
アラシ行為の撲滅(スレ立てアラシ、スレ上げアラシなどの予防措置)
<異議の受付>
五月三十一日まで・風紀委員会へどうぞ
<規制の実施時期>
管理人に依頼し、できるかぎり早期の実施を予定。
日本史版 風紀委員会
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=990956059
76 :
日本@名無史さん:2001/05/29(火) 22:36
告知
荒らし防止のため、これからは以下の規制をこの板全体にかけたいと思います。
つきましては、ご異議のある方は取り急ぎ、「日本史版 風紀委員会」まで
ご意見をお聞かせください。
<規制案>
proxy規制、ID表示、連続投稿禁止規制、連続スレッド立ち上げ禁止規制
<規制の趣旨>
アラシ行為の撲滅(スレ立てアラシ、スレ上げアラシなどの予防措置)
<異議の受付>
五月三十一日まで・風紀委員会へどうぞ
<規制の実施時期>
管理人に依頼し、できるかぎり早期の実施を予定。
日本史版 風紀委員会
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=990956059
77 :
名無しさん:2001/05/30(水) 01:48
>>62 だから、
>>52に、親氏が在原姓の松平太郎左衛門家の婿養子になったって書いてあるでしょう?
78 :
通行人:2001/05/30(水) 02:53
>>34 三つ葵ってもともと松平と同じ加茂社関係の本多の家紋だったのでは。
徳川を名乗るようになって,本多の了承を得て三つ葵にした。
その後,逆に本多家が主家に遠慮して家紋を変えた。
沼田頼輔さんの日本紋章学にそんな記述があったと思う。
79 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 05:10
>>78 徳川家で「葵の紋はうちで使うからかえろ」とせまったのに、
本多家で「葵の家紋(立ち葵)はうちのほうが昔から使っているから」
とつっぱねたという逸話がありますが(^^;
80 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 05:17
>世良田二郎三郎
家康の影武者(w
81 :
名無しさん:2001/05/30(水) 17:51
82 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 10:10
いつ頃の話?
83 :
日本@名無史さん:2001/06/07(木) 21:42
上
p
85 :
日本@名無史さん:2001/06/18(月) 20:41
鴨神社の庭掃除の子孫
86 :
遊行聖:2001/06/18(月) 22:13
結局、松平家に婿養子に入った、徳阿弥なる時宗の遊行僧が
始祖であることまでは事実として、新田氏の系譜はこじつけ
でしょう。
新田郡世良田郷得川…萎え。
87 :
>86:2001/06/18(月) 22:19
そんなの誰でも知ってるよ
88 :
名無しさん:2001/06/19(火) 15:32
松平家が家康以前から源姓を名乗っていたのは事実。
89 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 17:45
>88
松平清康だけでしょ?
90 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 18:38
91 :
日本@名無史さん:2001/06/20(水) 15:05
>90
どこで名乗ってるの?
92 :
日本@名無史さん:2001/06/20(水) 17:52
>>91 永享十二年の日付の萬福寺本尊の台座銘の金石文や文明十八年の日付の信光明寺蔵の観世音菩薩の願主奉納署名などがある。
93 :
日本@名無史さん:2001/06/21(木) 08:15
現存してる?
どうなんでしょ?
94 :
日本@名無史さん:2001/06/21(木) 10:01
あのね、はっきり言って、
徳川家の出自が源氏だろうと天皇家だろうと、
朝鮮系だろうと被差別部落だろうと、どうでもいいんじゃない?
95 :
名無しさん:2001/06/21(木) 13:00
>>91-92
源親氏って署名されたものも発見されてるんでしょ?
96 :
日本@名無史さん:2001/06/21(木) 15:08
>92
thanks
97 :
日本@名無史さん:2001/06/21(木) 15:08
>95
どこで?
98 :
日本@名無史さん:2001/06/21(木) 15:10
>92
それは本当に松平信光のものなの?
彼とは別に、源姓をもつ信光がいたということはないの?
信光って多い名前だとおもうし。
99 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 02:11
松平○○源信光って書いてあったということなんでないの。(○○は通称)
100 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 02:20
>>98 原文はこう
台座銘 信心願主松平和泉守源信光
信光明寺蔵 松平入道源信光敬白
101 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 06:55
102 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 16:13
>100
ありがとう
103 :
日本@名無史さん:2001/06/30(土) 01:03
信光も新田源氏を名乗ってたわけ?
104 :
日本@名無史さん:2001/06/30(土) 01:05
105 :
日本@名無史さん:2001/06/30(土) 03:57
在原姓松平氏の姉娘に清和源氏新田氏族世良田徳川親氏が
婿となり、その跡を妹娘の婿である賀茂泰親が継いだが、
その跡は再び親氏の子信光が継いだ。
信光から見れば血系は清和源氏、松平の家系ということなら
在原姓、養父の跡を継いだという点では賀茂姓ということになる。
世良田徳川氏は南朝尹良親王を擁して転戦していたが
(皇子尹重の母は世良田政義女)結局三河に零落。
106 :
日本@名無史さん:2001/07/01(日) 12:07
信康は松平の系統だったので始末されたという話しもあるね。
「捨て童子 松平忠輝」では家康を大名の子として描いていた
隆慶一郎もこの件では何か言ってたと思うが忘れちまった。
誰か知らない?
107 :
日本@名無史さん:2001/07/01(日) 13:07
>>94 そういう意見はステロタイプだよ。
推理小説読んでる人間に向かって
「犯人なんて誰でもいいじゃない。
読むのやめたら」とはいわんだろ。
>>106 隆は世良田の影武者説。たしか。
108 :
日本@名無史さん:2001/07/01(日) 13:39
『消された一族』 清水昇 あさを社
郷土出版のうえ絶版なので入手は困難だろうけど
見かけたら、読んでみる価値あると思う。
徳川の徳川氏創造により消された世良田氏の悲惨さが書いてある。
109 :
日本@名無史さん:2001/07/01(日) 20:54
>>78 >>79 家康が松平家の立ち葵の紋と本多家の三つ葵の紋を替えさせたという話もありますね。
東映の戦国武将シリーズの「徳川家康」という映画(主演・北大路欣也)は、徳川として
今川から独立する前の松平姓のころの家康の物語ですが、この中では、家康の父・松平広忠の
頃から松平家の家紋は後の本多家の家紋・立ち葵丸が使用されています。
110 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 03:26
便乗質問させてもらいます。
楠正成の出自、子孫について詳しく御聞かせください。
橘姓出身と聞いたのですが。
111 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 03:31
楠木っていえば観阿弥だか世阿弥だかが楠木氏の出身って説が
あったよね?
112 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 03:58
>>111 観阿弥の母親が楠木正遠の娘という観世文書が記述が残ってる。
ちなみに観阿弥は服部氏の出身ね。
従来の尊卑分脈などの系図では正遠は正成の父親とされるが、これは同名の平安末期の公家橘正遠との混同による系図の潤色。
実際の楠木正遠は正成の伯父にあたるので、観阿弥の母親は正成の従姉妹ということになるらしい。
113 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 04:08
>>110 「古代氏族系譜集成」に紹介されている系図(出典は「各家系譜」「本宮社家系図」「熊野氏和田系図」)などによれば正成の祖先は物部氏の熊野国造になる。
熊野連広方のときに叙位をうけ、橘良殖の子を名乗ったためそれ以降橘朝臣を名乗ったという系図が紹介されています。
114 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 23:06
115 :
日本@名無史さん:2001/07/06(金) 19:44
>110
楠木正虎
116 :
日本@名無史さん :
NHK「太平記」では楠木・観阿弥血縁説をちゃっかり頂戴していた。
ブサイク武田鉄也と樋口可南子が兄妹という設定(見えねーよな、藁)