1 :
日本@名無史さん:
水曜のNHKの番組を見て、ちょっと泣きそうになった。
2 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 01:54
ああー、戦艦武蔵
3 :
Name_Not_Found:2001/05/04(金) 01:58
そのうち宇宙戦艦として復活するよ
4 :
名無し:2001/05/04(金) 02:10
でも、やっぱ翔鶴と瑞鶴を量産できるようにしておけば
よかったね。
5 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:11
進歩のない者は決して勝たない
負けて目覚めることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじすぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって
真の進歩を忘れていた
敗れて目覚める
それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか
俺たちはその先導になるのだ
日本の新生にさきがけて散る
まさに本望じゃないか
6 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:12
日本海軍もレーダーの特許権買っておけば良かったのにね
7 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:20
つーか、陸軍の間抜けがすべて悪い。
海軍はよくやった。
8 :
Name_Not_Found:2001/05/04(金) 02:21
まぁ、戦後まで生き残ってアメ公に持っていかれるよりは・・・
長門とかプリンツ・オイゲンは哀れだろ。
9 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:22
海軍=薩摩
陸軍=長州
の伝統が強いらしいね
10 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:27
海軍もけっこう間抜けだろ?
大和が可哀想だ
11 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:34
>>1 大和の番組やってたの?見たかった。
やっぱり大きな鉄の塊というのは男心に訴えるものがあるね。
スレタイトルの「ああー」に込められた思いを感じます。
12 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 02:48
13 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 03:03
前回の戦争は陸軍、海軍ともにうぬぼれていたと思われ
つねに新戦術、新戦法を考えていく自己改革能力が
なかった。
まるで、武田騎馬隊のように
火縄銃の使用法を無視したために、見事崩れ去った。
14 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 04:02
大和より信濃のほうが、もっと悲惨。
15 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 04:20
>>13 しかし、ハワイとマレー沖で、海戦においては航空機によるアウト
レンジ攻撃が万能ということを初めて証明したのは日本軍。
でもその結果は、太平洋戦争は航空機の生産能力が勝敗を分けること
になったんだけど・・・
16 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 04:24
へーそうなの。
17 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 04:42
18 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 04:47
大和、信濃、大鵬、みな悲惨だと思うんですが、
何を基準に悲惨度を決めているんですか。
いや、喧嘩を売ってるんではなくて、純粋に知りたい野田。
19 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 05:11
>>13 日本軍は巷のイメージと違って先進的だったんだよ。
15氏も言ってるけど、空母機動部隊を世界で初めて考案したのは
日本だし。
NHKの番組でも大鑑巨砲主義から転換できなかったって言ってたけど、
大和級三番艦の信濃を空母に改装してることからしても、戦艦に拘泥し
ていたとは思えない。それにアメリカだって戦争中にアイオワ級4隻を
はじめとする戦艦群を作ってるし。
明らかに発想で遅れていたのは、レーダーと海上護衛戦の発想かな?
生産力と技術力の差は圧倒的だったけどね。
ドイツ陸軍の「電撃戦」に比べると日本海軍はインパクトが薄い。
日本陸軍は話にならないが、海軍は陸軍ほどは精神主義に支配されていなかった。
技術部門で戦艦屋、飛行機屋、駆逐艦屋といった各「派閥」のバランスを重視し予算を「平等に」配分した結果、
ハイそれと、空母への転換ができないような組織になっていた。
21 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 06:47
信濃は戦う機会すら恵まれず沈んだ。
軍艦としてこれほどの悲劇はない。
22 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 06:50
大和かあ。
やっぱ、あの主砲だよねー。
ドゴーンと景気良くブッ放してみたいね。
どれくらいの威力があるの?
23 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 06:50
なんか潜水艦から飛行機飛ばしてアメリカ本土のカボチャを
ふっとばしたとかいう話を笑い話できいたが、本当のところは
そんな潜水艦って日本が初めて作ったって言うじゃん。すげえ。
24 :
吾輩は名無しである:2001/05/04(金) 07:47
朝永振一郎は戦中、レダー基幹部品の研究に従事していたが、結局日本のレーダー開発は成功しなかった。
そして戦後の彼の公式経歴からその研究歴は拭いさられた。
戦艦大和と武蔵の建造費をレーダー研究開発費にまわしておれば、目視測定の愚をなさずともすんだものを。
この愚を繰り返してはならない。
25 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 07:53
>どれくらいの威力があるの?
一式陸攻1500機分
by「ジパング」
26 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 09:44
>25
周囲100m以内の人の鼓膜をふっ飛ばします。
27 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 13:03
>>24 あの〜、日本にも電探(レーダー)はあったんですけど。。。
21号電探とか聞いたことありません?
昭和19年以降はほとんどの船についてますよ。
28 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 13:17
29 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 17:51
電探っていっても前周囲ではないし、調べたい方向に手動で向けていたんです。性能はPPI(まるいレーダー画面で針のようにピコーン、ピコーンってまわるやつ...笑)などおよびもつかず、目視のほうが(特に日本軍は優秀ですから)はるかに上だった、という証言があります。
「なんじゅうマイルも前から、探知するなんてできなかった。見えるようになってから、敵機発見!!こうですから..。」
それ以上に日本軍はシステムとしての軍に問題が多すぎます。イフ戦記みたいに「いい兵器」があれば勝った、とはとても言えないのではないでしょうか。
30 :
ヒューイット:2001/05/04(金) 18:14
>>27 もちろんレーダーはあったけど、「あんな機械に頼るなんて」という
くだらん意識があった。少々性能が悪くても育てていこうという意識が
かけていた。人間は使い捨てという、人命軽視の思想がそうさせたのかも知れない。
31 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 22:05
電探は本来砲術課(テッポウ屋とも言ったそうで)の分担になるべきものです。それはアメリカ軍がマリアナ沖海戦で証明しています。しかし、日本軍では航海課に配され「防御兵器」とみなされました。電探要員に配されると「なんで俺が防御部隊に...」と思った兵もいました。海軍技術研究所新川浩さんの証言によると
「戦争も後半になると軍人たちは『電探で負けた、電探で負けた』と言い張る。それまで、電波探信儀にあれだけ冷たい仕打ちをしておいて。」
32 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 00:28
大和を建造したドックって最近取り壊されたんだよね。
33 :
名無しちゃん:2001/05/05(土) 00:55
大和は片道特攻ではないという話を読んだことがある。
大和はタンクの半分の燃料で沖縄に行って帰ってくることができた。
その「半分」がいつのまにか「片道」ということになったらしい。
34 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 02:49
大和は徳山で4000トンの重油を積んでいます。(満載時は6400トン)速力16ノットでおよそ8300キロを航行できました。最短コースで進んだら沖縄は1000キロ足らず。もちろん、戦闘行動すれば大量に燃料は消費しますし、最短距離を行けるはずがありませんけど、決して片道燃料ではありません。
これは大和出撃許可の折り、「片道燃料でも出撃させたいんだあ!!」という強い進言があったこと、軍令部の小沢もなら、2000トン以内にするように、と言ったことから出たことらしいです。
35 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 16:27
age
36 :
名無し三等兵:2001/05/06(日) 17:52
>>34 たしか、タンクの底に残った帳簿に載ってない重油を給油してもらったのでは?
37 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 18:38
そうで-す。連合艦隊機関参謀の小林儀作大佐と呉工廠軍需部の島田藤治郎少将が相談して備蓄タンクのそこまでさらって、備蓄帳簿にはのってない量までかきだしということで-す。それがこの量だったらしいですよ。
38 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 18:42
本によっては「片道特攻」という悲壮をあおるより、この二人の努力を評価すべきだ、なんてのもありますよね。
39 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:18
>>23
イ−400 401 402ですね。
潜水空母 対独戦で余った艦船が パナマ運河を通って
太平洋に来れない様に パナマ運河を 破壊する計画 だったらしいです。
40 :
王翦:2001/05/06(日) 23:22
大和の副長・能村次郎の手記「慟哭の海」によると「大和」の保有燃料は、
呉出航前にタンクの底をはたいて搭載した約六千トン。
巡洋艦「矢矧」はすでに燃料満載だったので、「大和」が無事沖縄に到着
、敵泊地へ突入できるよう、途中護衛の任に当たる駆逐艦八隻全部に燃料を
移載。六日午前零時から作業を始め午前四時作業完了。
それでもなお「大和」には四千トンの燃料が残った。
41 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 23:22
>>34 じゃあ、あの番組の中で不沈砲台としてわざと座礁せよという命令は
後世の作り話ですか?
42 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 23:35
43 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 02:26
片道燃料じゃないと沖縄に突入はおかしいですか?
最後の水上艦隊、存分に働いてもらおう。せめて腹一杯にして。
44 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 02:30
あら、「慟哭の海」でしたっけ。「大和の真実」ってのも確か..?
45 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 02:43
>>43 最後の水上艦隊、存分に働いてもらおう。事後の本土沿岸警備や海上護衛用の
石油もあげましょう。気にしないで腹一杯食べて下さいね。
……死者への手向けもいいんだがね、現実切迫の問題を無視して情緒を優先し
た行動は、関係者存命中は美談としても歴史的にはそれじゃ済まないと思うよ。
46 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 03:19
あのねー。
レーダーという最新技術において当時の日本が送れていたことは否めない。
しかし第一次大戦から20年しか経っていない欧州において、
軍事経済技術の激烈競争が持続していた事実、しかも第二次世界大戦勃発
直後からのレーダー戦を経た連中と比較すると、そりゃ不利だったわね。
ポリシーの問題もあるのは事実だが、たった数年の激しい変化に、
極東で毎日てんてこ舞いの台所(今でも同じでしょうが!)
じゃまかないきれないわな。
弁護しているわけじゃないが、当時の日本の「失敗」から「学ぶ」べき
ものなんかないわな。
つまり「失敗」とは結果論であって、当時、それを「成功」に導く
技術なんてなかったわけ。
その運命を今見ておくことのほうが大事で、「失敗」を教訓に「成功」
の芽にしようなんて虫がよすぎる。
運命を見て、失敗の事実とそれにつながる現在進行形の失敗に対処する、
それが大事。
昔の失敗は「成功」の宝庫だよ。
その意味で、失敗者の先人を罵倒する輩は本当のドキュソ、大馬鹿やろうだな。
47 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 04:33
>>46 日本は世界に先駆けて「八木」アンテナっていう電探元祖を作っておきながら
モノに出来なかった。まあ実用が発明を育てるというのは確かだが、それでも
開発研究段階では日・欧米あんまり遜色なかったのにね。
閑話休題、46の『当時の日本の「失敗」から「学ぶ」べきものなんかないわな』
と『昔の失敗は「成功」の宝庫だよ』とが繋がらないように思えて、自分の読解
力にやや不安感を覚える。
話題が大和から離れてしまったね。失礼。
最大の「失敗」は、
そもそも当時の人間たちが「現在進行形の失敗に対処できなかった」ことなんだけどなあ。
49 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 06:49
45さん
誰か美談っていいました?当時の心境でしょう。
現在では理不尽に聞こえますが、当時は当然の考えだった、ってことはおおいんです。
例えばインパール作戦。
牟田口司令官の言葉。「補給なくとも戦うのが皇軍である。」
こういう言葉や考えを例に出したからと言って、「勇壮果敢を美化している」
って採るのは早計ではないかと思います。
50 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 07:00
「現在進行形の失敗に対処できなかった」例はたくさん。
とりあえず、ガダルカナルの三度の総攻撃(?)とそれに伴う
ソロモン戦をみてみれば。
まずい、大和から離れる。
51 :
世界@名無史さん:2001/05/07(月) 11:44
>牟田口司令官の言葉。「補給なくとも戦うのが皇軍である。」
これが旧軍の常識だったわけじゃないよ。牟田口は旧軍の中でも
一、二を争うドキュソだよ。
52 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 16:29
常識だとまでは言って無いです。
確かに牟田口はかなりのものです。しかし、日本軍の補給軽視は確か。
日露戦争以後改定されて陸軍の(というより日本兵の)教科書「歩兵操典」
補給に頼らず、敢闘精神で難局を打開するようにかかれています。
ちなみに、ガダルカナルも同様。島だったから、海軍がからんでいるから、は
却下。そもそもちゃんとした兵站計画をもって(たてて)いなかった。
ガダルカナルは後に大本営作戦課(奥の院)より派遣した参謀までが
総攻撃の日に「今夜は確実。ゆえに後バンザイを送る」と打電。
しかし分派した各隊は互いに通信もとれず、飢えに苦しみながら、各個バラバラに
アメリカ軍のまつムカデ高地に突撃し、全滅した。
これは明らかに補給の無い状態だった。にもかかわらず、「だいじょうぶよ」
と日本軍は打電する。これも補給軽視になりませんか。
53 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 16:38
おっと、本は陸軍士官学校の教科書「作戦要務令」でした。
将校になるための教科書でした。すみません。
54 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 16:39
大和はどうした。
55 :
名無しさんの主張:2001/05/07(月) 17:00
>>51 >牟田口は旧軍の中でも一、二を争うドキュソだよ
しかし、旧陸軍では、このようなドキュンな精神論が尊重された。
合理的な議論をしようとすると「臆病者!」と一喝。
結局、威勢がいい方が勝ったんだよ。
56 :
名無しさんの主張:2001/05/07(月) 17:06
佐藤幸徳が可愛そう・・・。
57 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 18:22
同意。
58 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 18:24
大和ではサイダーが飲み放題だったと聞くが
59 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 18:52
>>58 どの軍艦にもラムネの製造機があったんだよ。1本2銭だがな。
60 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 19:50
よーこんなデリケートな時期に大和放送したもんだ。
NHKも勇気あるな・・・
61 :
王翦:2001/05/07(月) 22:51
聯合艦隊参謀で大和による突入作戦案の採否にも関わった千早正隆中佐の著書
「日本海軍の戦略発想」によると、神先任参謀の突入案の突然の提示に対し、千
早中佐が「燃料は」と尋ねると神参謀は「約三千トン」と答えた。それでは片道
分しかないということで会議は行き詰まる。
そこで関補給参謀が呉にいた小林機関参謀に電話連絡し、小林参謀が軍需部な
どを駆けずり回っていわゆる帳簿外の燃料をかき集め、会わせて約一万トン余が
でてきた。
かくて燃料問題が解決し今まで躊躇していた豊田司令長官もゴーの決断をくだ
したとある。
この経緯が事実なら、小林大佐と島田少将の努力が作戦案の採用の最終的要素
となったことになる。
なお、アメリカ側の調査での豊田副武証言によると「その片道行動用の二千五
百トンの燃料を工面するのに非常に苦労しました」とある。
62 :
日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:02
やっぱ艦隊戦が最高っすね!
大和の実物を見た人ってどれだけいるんだろう?
うちのじーちゃんの旧友はフィリピンで
武蔵(らしき)ものを見たっていってたが、いささか怪しい。
63 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 00:20
>>62 うちの父親の中学校の時の先生で、大和見た人がいたんだって。
けっこう自慢らしく、よく「本物の大和は・・・」みたいな話をしてたって。
「どんなんやったって言うてた?」
って興味津々で父親にたずねると、
「ちゃんと聞いてなかった」って。聞いとけよ。
64 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 00:28
お、「日本海軍の戦略発想」はよんでませんねえ。
マリアナ沖海戦のインタビュー出演(NHK)見てから気になってた。
本、紹介して下さい。
65 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 00:30
>62
たしか、マニラ湾に大和か武蔵は入港しているはずだから、
その話は本当かもしれない。
非常に貴重な体験だと思うから、是非その人に合って、
いつどんな状況で見たのか聞いておいたほうがいいよ。
フィリピンでの生き残りの人は数少なく、まして
わずか1日か2日くらいの停泊の間に見たというのだから、
希少価値この上ない。
ちなみにレイテ戦の最中の武蔵大和はさすがに誰も見てないはず。
見たとしたらマニラ入港のときしかない。
66 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 00:43
西武線に武蔵大和て言う駅があるよ。
67 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 00:56
うちのじーさんが横須賀で働いてた時、大和見たって言ってたな。
当時、軍艦とかの整備してた人は大抵見てんじゃないの?
68 :
世界@名無史さん:2001/05/08(火) 00:58
そんなこといったら総武線には武蔵境駅があるぜ
69 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 01:03
>>68 「武蔵」と「大和」がそろってるから値打ちがあるのでは?
70 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 01:06
片っぽだけでいいなら、近鉄にけっこうあるよ。
「大和西大寺」「大和郡山」「大和八木」・・・
71 :
名無しさん:2001/05/08(火) 02:28
大和も武蔵も日本各地で点在する地名だすな。
昔から。
72 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 03:32
74 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 05:01
だからどした。
75 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 05:08
ゼロ戦の性能を細かく知らなくたって批評はできます。
21、32、52型。確かに違う。52型にいたっては重戦ですもの。
しかし、問題は使われ方。それによって、発展の形態も戦略も議論できる
と思います。
ゼロ戦について詳しくは坂井三郎の「零戦操縦法」をどうぞ。
76 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 05:09
でも情報はありがたいですなあ。
他の板より転載
台湾は親日だよね。
台北の空港で、日本から来た観光のおじいさんが金属探知器のゲートが鳴って止められました。
いくら通りなおしても鳴りやみません、とうとう怖そうなお兄さん達に別室につれて行かれました。
身体検査をされて恥ずかしそうにしていたおじいさん、体中の傷跡を係員に見せました。
係員「この傷は戦争か?」
おじいさん「弾が体に残っています。」
「どこでですか?」
「大和に乗っていました。」
瞬間、そこにいた係員、5人全員が直立不動で敬礼したそうです。笑って敬礼を返すおじいさん。
もちろん税関はパスした上に出口まで荷物を持ってもらって、おじいさん恥ずかしそうにしていたそうです。
78 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 11:55
>>77 その板で馬鹿にされてたな。
ガセだから。
79 :
>:2001/05/08(火) 12:31
本当だったら感動
80 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 13:18
涙が溢れてきて止まらない…(T_T)
81 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 14:54
俺の爺さんは戦中、役人で気象庁に努めていたそうだが、何をしていたのか
聞いたら「犬を飼っていた」と答えた。なんのこっちゃ
82 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 19:30
あははは、
私の祖父の友人が小学校の頃、言ってた話を思い出しました。
その方、「飛燕」(戦闘機)の整備員をしてましたが、
B-29がくると 「飛燕」を待避壕に移動する役目だったそうです。
「戦わないの?」
いわく「壊されたら、大変だろう」(わら
その時はなんじゃそりゃ、と思いましたが
今思うと、搭乗員の不足に悩んでいた、ってことでしょうか。
83 :
王翦:2001/05/08(火) 19:55
>>64 千早正隆著 1995年 中公文庫刊 「日本海軍の戦略発想」 のまえがきに
「大和」出撃案の採用経緯が記されています。
ついでながら大和の副長 能村次郎著「慟哭の海」は昭和42年に読売新聞社か
ら出版されています。
84 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 22:48
有難うございます。
千早正隆さんっていうと連合艦隊の参謀で、対空射撃が専門ですよね。
私が見た時も、日本軍の防御(対空)射撃(レーダーを含めた)の
軽視をおっしゃっていました。
私が知ってるのはこんな感じでした。
みつけて、読んでみます。
85 :
日本@名無史さん:2001/05/10(木) 04:18
吉村昭の「戦艦武蔵」なんてどうよ?
86 :
世界@名無史さん:
そういえば戦艦大和の戦後史とかいう本があったな。