16世紀末期の日本武士団は世界水準だったのか?

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1日本@名無史さん
朝鮮出兵も失敗したわけだし、日本武士団の実力と
いうのは、世界、特に明や李氏朝鮮の軍隊と比べても
大したことはなかったのかな...。
鉄砲は世界一だったけれど、明軍や李氏朝鮮と比べると
騎馬隊が弱く機動力がなさそう。
2pika:2001/03/14(水) 23:42
鉄砲も数は多いけど数十年前の水準のマスケット銃でヨーロッパの
銃よりも性能は下と聞いたよ。
3世界@名無史さん:2001/03/15(木) 00:00
4日本@名無史さん:2001/03/15(木) 00:31
>1
朝鮮出兵の敗因は、水軍が敗れ制海権が奪えず、
補給が続かなかったのが原因だろ。
陸戦だけなら日本軍は明・朝鮮軍より強かったのは明か。
5世界@名無史さん:2001/03/15(木) 01:00
どうしても日本は駄目だったと喧伝したい人達がいるんだな。
6日本@名無史さん:2001/03/15(木) 01:57
逆もな。おまえとか
7名無しさん:2001/03/15(木) 13:35
>>1
4番の言う通りだよ。
8【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/15(木) 21:22
日本の武士団は、元よりも明よりも強い。
9【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/15(木) 21:29
スペイン軍もオスマン軍も日本軍(武士団)の前には
屁のようなもの。
10日本@名無史さん:2001/03/15(木) 21:35
>>4

でも明軍の騎馬隊は武田騎馬軍団よりも強そう。
日本軍は機動力が欠けている。
11日本@名無史さん:2001/03/15(木) 21:38
>8
結果論で言うなら日本の武士団は元よりも強く、明よりも弱いというこ
とになってしまうぞ。
ただ、実質的には元の集団戦法に鎌倉武士団の個人戦法が通用しなかっ
たのは確か。その意味で日本の武士団が元より強かったとは言い難い。

一方、明軍と日本武士団とを比べると両者とも一長一短ありというところ。
1氏が言うように日本武士団は圧倒的な火縄銃による火力を有していた
し、長い戦国時代を経て練度も高かった。
一方、明軍は北方異民族戦で鍛えられた精強な騎馬隊と優秀な火砲を有
していた。
平野部での戦闘なら明軍、狭隘地での戦闘なら日本武士団が優勢という
感じになるだろう。あと、火砲を有するため攻城戦・守城戦では明軍の
方がやや優勢と言ったところかな。

ちなみに朝鮮官軍は当時兵力不足、練度士気不足、文官将軍の跋扈等か
ら朝鮮史上でも屈指の弱さを誇る時代。ただ、守城戦・水上戦において
何とか善戦を見せたのは李朝初期に開発された火砲があったことによる
ところが大きい。
12アラカン:2001/03/15(木) 22:41
周りを海に囲まれた島国なのに、なんで大規模な水軍が発達しなかったんだろ。
古くは白村江から文禄・ 慶長の役を経て(元寇は水軍の勝利とは云いがたい)、近代になるまで対外戦争で
勝ったためしがない。
13日本@名無史さん:2001/03/15(木) 23:17
陸戦では、朝鮮軍vs日本軍はともかく、明軍vs日本軍の場合、兵の数は関係
なかったのかな?
専門家じゃないから分からんけど。
14日本@名無史さん:2001/03/16(金) 01:49
戦国時代の日本の実力は多分世界一だったと思います。
何しろ、最初に種子島に二丁来た鉄砲が約50年後には何十万丁になってたのですから。
しかも、2000万人の人口がいて、何十万人の兵員が動員できた国は世界でも
そうありませんし。
15>12:2001/03/16(金) 02:19
というより、アジア史全体を見ても大規模な海戦てのは
ほとんどしてないんじゃないか?これはヨーロッパのように
多数の国をまたがる地中海のような海が存在しなかった
かもしれないし、網野善彦のいうように、アジア史ってのは
各国別の国史が区切られ過ぎてて、海の民のような存在が
無視されがちなのかもしれない。結局海賊レベルで
終わっちゃうもんね。でも裏では結構こつきあいが
多かったんじゃないかなあ?
それから戦国時代の日本軍は陸軍に関しては最強レベル
でしょうね。海軍がしっかりしてたら、ヨーロッパ列強
ともはりあえたかもね。
16日本@名無史さん:2001/03/16(金) 03:20
>15
前半はもろ手を挙げて賛成します。

日本の陸軍は最強か。
何と言うか、日本の軍隊にはヨーロッパのような
階級や部隊分けがなくて非常に大雑把なので
もともと万単位で戦う形の戦争は
苦手なんじゃないかと思います。
部隊は出身地で分けられて顔見知りの隊長に指揮される。
だから強いともいえるだろうけど
朝鮮の陣では他の部隊の苦境を見殺しにした例があるし、
大規模に協調した作戦は取りづらいかも。
日本のいくさ上手って真田信繁(幸村)とか
小部隊の指揮に長けた人ばかりでしょう?
あれも地縁・血縁(男色?)でまとまった部隊が
あればこその話じゃないのかな。
17日本@名無史さん:2001/03/16(金) 18:08
>>16
同感。
結局兵の練度は高くても組織として大部隊になると「軍隊」とは言えない。
烏合の衆よ。
18日本@名無史さん:2001/03/16(金) 18:12
問題は、その当時のヨーロッパにも
「軍隊」の名にふさわしい近代軍は、いまだ存在していなかったことなんだが。
19日本@名無史さん:2001/03/16(金) 18:14
いや、明は近代軍的組織だろ?
20ハヒィ〜ン:2001/03/16(金) 18:17
曰く、
ドイツは大将の質が高く、
日本は下士官が優秀である。
フランスは一般兵士が優秀。

イギリスはほぼ全てにおいて高い資質を有し、
アメリカはまぁまぁ。
ロシアは、もうッ全部最低ッ!
21日本@名無史さん:2001/03/16(金) 18:25
戦争はやればやるほど強くなると思う。
そういう意味で戦国時代を経たあとだがら
日本は当時世界最強だろ。
朝鮮出兵は補給線が伸びすぎて撤退しただけ。
朝鮮軍も明軍も純粋に軍事だけなら
敵ではなかった。
22日本@名無史さん:2001/03/16(金) 18:34
>>19
明は果たして近代軍的組織て言えますかね?
もしヨーロッパの近代軍のことが頭にあるのならそれは違うかも。
近代の西欧や日本軍はたとえば大部分が教育を受けていて国民としての
自覚もある人々で構成てるんじゃないかな?

明軍の一般兵士は逆にほとんどが教育程度も民度も低い無理矢理に
兵にされた人々なのでは? この問題って日清戦争でも日中戦争
になっても兵の士気の低さを見ればクリアされていないと思う。
23日本@名無史さん:2001/03/16(金) 18:36
↑ 構成てる ×

  構成されてる ○
24日本@名無史さん:2001/03/16(金) 19:48
>朝鮮軍も明軍も純粋に軍事だけなら
>敵ではなかった。

海戦では負けてたぞ。
海戦も純軍事の範疇に入ると思うぞ。

25日本@名無史さん:2001/03/16(金) 19:50
最低民族の中国・朝鮮も嫌いだが、やたらと
「日本武士最強」を主張するアホもいやだな。
26アラカン:2001/03/16(金) 20:20
>>24
同感です。海を渡って攻めていっているのだから、陸戦にいくら勝っても制海権を奪われては何にもならない。
立地条件の割に、日本人はどうも海戦を軽くみる風潮があるようです。
補給軽視の傾向は、それこそ立地条件に育まれたものといえるのですが。
27日本@名無史さん:2001/03/16(金) 20:51
陸でもそんなに勝ってなかったと思うが?
28日本@名無史さん:2001/03/16(金) 21:17
>24
っていうか陸戦でも結構負けてますぞ。
29日本@名無史さん:2001/03/16(金) 21:31
陸戦で負けた?
晋州城攻略戦の事いってんのか?
負けるって意味分かってていってんの?
30こんなに濃い過去スレがあるよ:2001/03/16(金) 21:44
31日本@名無史さん:2001/03/16(金) 23:55
慶長の役では、日本軍は京城を占領する事が出来なかった。
文禄の役では、わりと簡単に京城を占領出来たのにね。
32日本@名無史さん:2001/03/17(土) 00:34
同じ数同士&環境だったら日本軍は最強だと思う(1945年まで)。

レス違いではあるがなんでグルカ兵は最強って言われとるんだろう。
33日本@名無史さん:2001/03/17(土) 00:42
>同じ数同士&環境だったら日本軍は最強だと思う(1945年まで)。
戦争はスポーツとは違うの。(藁
34日本@名無史さん:2001/03/17(土) 01:40
>10
別に明は騎馬隊強くねーだろ。そりゃヌルハチ率いる満州軍団でしょー。
明は火力が強いんじゃない?ヌルハチも大砲くらってその傷が元で
死んじゃったみたいだし。
とりあえず陸戦は日本強いだろ。碧蹄館、シセンetc・・・。
35日本@名無史さん:2001/03/17(土) 01:48
>>34そんなこと言ったら日本側の誇張だとか言う奴が出てきそう
  それで不毛な兵力検証が延々と続く。
36日本@名無史さん:2001/03/17(土) 02:05
総合的に陸戦は日本軍が勝っていますよ
ただ戦略目的が果たせなかった時点で敗北つーか失敗したな
秀吉が途中で死んだのも日本軍にとって不運な出来事だった。
3710:2001/03/17(土) 02:52
>>34
もうちょっと勉強してくれ・・・
碧蹄館の地形図見てみ。これが騎馬隊向きの地形か?
ここは完全な狭隘地で圧倒的に火縄銃向きの地形。
碧蹄館での明軍の敗北は平壌攻略まで破竹の勢いだった李如松が日本軍
の強さを侮りすぎたためのものにすぎないよ。

それと明の騎馬隊が強かったかって話ね。
当時明は連年の女真族、ダッタン族の蜂起を鎮圧するために軍を出して
いる。朝鮮派遣軍の将帥(宋応昌、李如松、祖承訓等)は皆この女真族
討伐で戦功を挙げた者達ばかり。特に李如松率いる騎馬隊は女真族相手
に連戦連勝を重ねている。その騎馬隊が強くないと思うか?
これに対して当時の日本には本当の意味での「騎馬隊」ほ存在しない。
これでは平原での戦闘で日本軍が明軍に劣るのもうなずけるだろ?

あと、陸戦一般に関して言えば日本軍は朝鮮の義兵軍相手にも結構よく
負けている。日本軍が勝利を収めている戦闘は概ね日本軍の方が圧倒的
に兵力的優位を保っている場合が多い。決して日本軍が「劇強」な訳じ
ゃないのだ。
3810:2001/03/17(土) 02:57
念のため碧蹄館の戦いの両軍の兵力を書いておくと
明軍 :2万
日本軍:4万1000
地の利は日本軍。
これで勝てなければどこで勝てると言うんだ?
こんなの勝ったからって日本軍の強さを証明するには不十分だよ。
39日本@名無史さん:2001/03/17(土) 03:28
40日本@名無史さん:2001/03/17(土) 04:54
少なくとも陸戦では李氏朝鮮軍よりは強かっただろ。
41日本@名無史さん:2001/03/17(土) 05:14
どんどんトーンが下がるウヨさん
まともな反論も出来ないのね
もうこのスレの結論は決まったも同然
42名無しさん@1周年:2001/03/17(土) 05:29
>>41
反論するのも馬鹿らしいってのもあるがな。
43日本@名無史さん:2001/03/17(土) 05:34
政治思想板て中々面白いとこじゃねえか
ウヨサヨで馴れ合ってるのがとってもステキ
44日本@名無史さん:2001/03/17(土) 06:11
42の立派な反論が聞きたいものだ
サヨの意見ばかりじゃ釣り合いが取れないもんな
俺は首をながーくして待ってるよ。
45日本@名無史さん:2001/03/17(土) 14:46
>37
女真相手に連戦連勝って・・・負けまくってるじゃねーか。
明がそんなに強きゃヌルハチ叩き潰してるだろ。
ヌルハチ以前の女真はまとまってなかったから明に潰されていた
かもしれんが、ヌルハチがまとめた以後の女真は寧遠ぐらいでしか
負けてない。しかもそれは大砲をうまく使った勝利で、
決して騎馬隊のおかげではないぞ。
46日本@名無史さん:2001/03/17(土) 15:30
>45
だから時期をずらすなって・・・
女真族相手に連戦連勝していたのは朝鮮派兵直前の話。
遊牧民の根拠地を叩きつぶすためには歩兵主体の軍制じゃ無理がある。
これは漢代からの常識。騎馬戦に長じた衛青・霍去病がでるまで漢は匈
奴相手に決定的な勝利を収められなかっただろ。
つまり、当時の明の対女真軍の兵制は騎兵中心でしかもその練度は連戦
を経てそれなりのレベルにあったというわけだ。
少なくとも本当の「騎馬隊」を持たない日本軍とは比べものにならない
くらい騎兵戦では圧倒的優位にあったことは間違いないね。

まあ、確かに大規模にまとまった女真族と比べると明の騎兵が劣ること
は認めるけどね。
ただ、明がヌルハチ相手に連戦連敗を重ねるのは明国内の内紛によると
ころも大きいだろう?
47日本@名無史さん:2001/03/17(土) 22:08
アンゲー――
48日本@名無史さん:2001/03/17(土) 23:26
別に時期ずれてないだろ。碧蹄館で日本軍に敗れた李如松の兄弟、
李如柏がサルフの戦いに参加して負けているぞ。これでも時期が
ずれていると?しかもヌルハチ以前の騎馬隊は強力だったように
書かれているがそのわりにはモンゴルのアルタン・ハンに攻めこまれて
北京包囲されてんじゃん。明は女真にしろモンゴルにしろ、
まとまってない相手に対しては強いかもしれんが、統一された敵に
対してはダメじゃん。これは強力とはいわない。
49世界@名無史さん:2001/03/18(日) 00:13
日本は慶長の役では無理に北進しようとせず
まず半島南部の地固めから始めようとしてたようだ
これは倭城の配置を見てもその意図が分かる
秀吉が長生きしていればと言う括弧つきだが。
50日本@名無史さん:2001/03/18(日) 00:23
うよさようるせー名
51日本@名無史さん:2001/03/18(日) 00:40
日本軍にも本当の意味での騎馬隊が居ないように、
明にもろくな騎馬隊はいないのです。
数と技術の利を活かせる組織がまとまっていなければ
騎馬民族には蹂躙される運命。
52日本@名無史さん:2001/03/18(日) 01:19
>51
ヲイヲイ・・・
明に騎馬隊がいないって・・・
厨房はいね。
53日本@名無史さん:2001/03/18(日) 01:34
>48
このスレではあくまで日本軍と明軍の戦力比較してるんだぞ。
俺が言いたいのは明には戦闘経験を経て比較的練度の高い騎馬隊がある
のに対し日本軍には集団運用される騎馬隊がないって事。明軍が最強だ
なんて言うつもりは毛頭ない。ただ平原での戦闘で日本軍に分がないっ
て言ってるだけ。つまり日本軍が世界最強だったなどということはあり
えないっていってるわけ。この点に異議あるかい?

>49
秀吉が長生きしていれば朝鮮半島南部を日本軍が確保できていたとでも?
もしそうならもう少し当時の戦況を勉強されたし・・・

>51
確かに女真やモンゴルの騎馬隊相手に騎兵戦で勝利できる国なんて無い
わな。武将クラスの騎乗技術を一兵卒までが身につけてる遊牧民の騎馬
隊になんかとてもじゃないが勝ってこない。
だが、「最強の騎馬隊」に勝てないからといって「ろくな騎馬隊はいな
い」ということにはならんだろう。少なくとも明軍は世界水準以上の騎
馬隊を有しているといえるぞ。
54日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:10
蔚山の戦いで明側は2万近い戦死者を出したといいます。
日本側は守兵2000そこそこといわれますから、
鉄砲による防御のすさまじさがいかんなく発揮されました。
敗走に等しかったといってよろしいでしょう。

それにあれが、「日本敗北」を決定づけたというのも、
なにやら大本営発表みたいですね。
一年後にも同様に明の大軍の攻撃を受けた蔚山でしたが、
完成した城は寄せ手を受付けず、
城内で清正は左団扇でいたといいます
55日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:23
この戦は中世的な(略奪しながら戦う)方式が通用しなくなり、
補給の成否が勝敗に重要な意味をもった近代戦に通じるものがある。
56日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:23
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)
韓国人はこの役による朝鮮軍の敗北をどうとらえているのか期待しました。
韓国人らしく、秀吉の悪口ばかりで「禿げねずみ」「無知蒙昧」ととにかく
罵っています。また、この役が「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の先駆けと
断定し、「有名な三光政策の原形がそでにここにあったことが知らされる」と
書いています。
しかし、朝鮮内部の動揺や支配者層の無策無能ぶり、民衆からの搾取などは
詳しく、参考になりました。
反論したい部分はいくつかありますが、スレッドの趣旨から外れるので既出の
話題に関する部分に限定しておきました。


57日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:24
朝鮮の武将について
・鄭撥(チョンパル、チョンの漢字はなかったので近いものを使いました)
 日本軍の釜山上陸時、仮道入明を拒否し、鎮城に篭城。黒衣将軍と呼ばれる。
 血の海と化した城内でも顔色を変えず先頭に立って奮戦。
 部下からの退却要請を拒否し、銃弾に倒れる。城兵千人も壮絶な最後を遂げた。
・朴泓(バクホン)、慶南道左水営の守備管轄
 担当海域に1船の偵察船も出さず、みすみす大軍を上陸させる。
 海防の責任者だが、日本軍に圧倒されると軍糧と機材を焼き、居城を捨てて
 朝廷への報告を口実に山林に逃げ隠れた後、不意の変を政府に通報。
 彼の戦列の離脱により水軍の指揮系統は支離滅裂になる。
・李王(カクは王を二つ並べた字、イーカク)慶南道左兵使
 上陸の報を聞いて馬を東莱城へ馳せ向けたがプサン城が落ちたとの報を聞くと
 日本軍の凄まじさに恐れおののき、後方の蘇山駅を守るのだという口実を付け
 て戦わずに逃げ隠れた。
・宋象賢(ソンサンヒョン)
 東莱城の主将で、以前から侵攻を予期し城を補修修築し、兵を訓練していた。
 小西行長の軍隊より「戦わば則ち戦え、戦わずんば、則ち道を仮せ」との札が
 立てられると「戦死するは易し、道を仮すは難し」と返書を投げて闘い戦死。
 日本軍もその死を惜しみ、厚く葬って祭った。
・朴晋(パクシン)、密陽の市長
 蘇山駅を守っていたが日本軍に敗れ、密陽城に急ぎ帰って兵を集め、天険の
 要害を抑えて食い止めようとしたが、日本軍は山の背後に黒蟻がへばりつく
 ように散開して攻めたため、守備兵はその光景を望見しただけで潰散した。
 朴晋はやむなく火を放って軍器倉庫を焼き、城を捨てて山に入る。
・李イル(イーイル)、慶尚道臨時宰相兼軍司令官
 兵が動揺して逃げ散ったため部下の権吉(クオンキル)が村落を捜索し農民を
 集める。しかし日本兵に敵わず、戦死者の死体が累々と連なる中、馬を捨て
 衣服を脱ぎ、髪を振り乱して遁走する。
・シンリブ
 天嶮の地、鳥嶺で日本軍を防ごうとするが、山の尾根があまりにも険しいの
 で、主力の騎馬兵を動かせる平地で戦うほうが有利と考える。
 対して、政治犯として投獄中だった参謀の金汝ムル(キムムヨムル)は東南地方
 第一の要害地である鳥嶺で防ごうと諌めた。
 しかし彼は効き入れず、金汝ムルは必ず敗れることを知り「男児国に死するは
 もとより本懐とするところ…」と子に書を送っている。
 彼の予言は的中し、シンリブは突撃する日本兵に茫然自失してなすすべなく、
 敵数人を殺した後、子と共に河に投身自殺する。
・李陽元(イヤンウォン)、留都大将(首都防衛司令官)
 国王宣祖がソウルを退去した後、千余名を率いて国都を防衛する任に就くが
 日本軍がソウル近郊まで進撃してきたとの報に戦意を無くし、兵器を河に沈め
 変装して北へ逃げる。
・申キル(シンキル)、部隊長
 12000の兵をもって鴨緑江を挟み、日本軍と対峙したが、日本軍は退去する
 とみせかけて攻撃を誘い、老将の劉克良(ユククリャン)は渡江の軽挙妄動を戒めたが
 彼は一蹴し、渡江を決行し伏兵の奇襲にあい潰滅戦死。
 劉克良は下馬して地面に座り、これ、われの死所なりと叫び矢が尽きるまで弓を
 放ったが戦死する。

他にも大勢いますが、多すぎるのでこのあたりでやめます


58日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:25
蔚山(ウルサン)の攻防戦について
・明軍3万5900人、朝鮮軍1万3800人が参加、一部は日本軍の牽制にあたる
・日本軍は兵糧が尽き、城内の士気喪失は頂点に達していた。
・加藤は偽って降伏を約束したが,それは救援を待つ時間稼ぎが狙いだった。
・蔚山救援軍を見た朝・明連合軍は総攻撃を敢行した。攻撃兵は意気盛んで猛烈を
 極めたが、城兵も死に物狂いで防戦。ときあたかも大雨と寒さのため、人馬が
 多く死ぬので、攻撃を中止して一旦撤収。
(明・朝鮮軍は苦戦したとか飢えたとかいう記述は無し)
・朝・明連合軍は蔚山城を完全に攻略できなかったが、二万余の大軍のうち大半を
 殲滅し、敵兵を生き地獄にとじこめて恐怖と不安におののくようにした。
泗川(サチヨン)の闘いについて
・朝・明連合軍は3万6000名
・泗川旧城を守っていた川上忠実は門を開いて出撃してみたが、とても勝ち目のない
 ことを悟り、敵は新城に逃げ込むのがやっとであった。
・10月1日の早朝、3万6700人の連合軍は総攻撃を敢行。
・これに対し、島津義弘はただちに強力な反撃を命じた。
・連合軍は戦況が不利と知るや、南江を渡って星州まで退いた。
・この戦闘で島津勢は3万8717の鼻を削いだが約半数は付近一帯の老若男女の
 非戦闘員が無残にも殺されたのである。絶望的な戦争を強いられた再侵略時の
 日本軍の残虐行為はあまりにも際立っていた。
以上の様に、朝鮮方に都合良く書かれた記述が目立ち、
「いよいよ朝鮮軍の攻撃によって、侵略軍は蔚山・泗川・順天の一角においつめられた
にもかかわらず、なかなか日本へ撤退しようとはせず、相変わらずの人面獣心の蛮行を
繰り返した。そのため、朝鮮軍は(略)9月に敵軍が朝鮮から総退却するまで掃討作戦を
ひっきりなしに展開した」
「このように朝鮮軍の徹底的な掃討作戦により、侵略軍は日増しに夥しい死傷者を出し、
恐怖のどん底にはまり、(略)はては鼠取りに血眼になる、というみじめであわれなあり
さまだった」
とあります。
この撤退時の混乱については下著には述べられていないので正確な史実は不明です。

59日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:25
北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(吉川弘文館)
前著があまりにも感情剥き出しでしたので、対になる資料として選びました。
とはいってもどの程度客観的かは不明ですが、それなりに読めます。
蔚山(ウルサン)の攻防戦について
・明提督麻貴兵馬4万4800を率いて聞慶に到着、軍議を開く。
・明軍は城攻めにかかったが、石垣は堅険無比で用意に陥るものではなかった。
・兵糧と水が欠乏し、兵の逃亡が続出した上、明軍が投降を勧誘したので清正は城門を
 閉ざして日本兵の出入りを厳禁した。
・12月28日は終日氷雨であり、連合軍は飢えと寒さで戦闘心を失っていた。
・朝鮮軍と降倭は城下の火攻めと城外の水源を埋める作戦に出たが、日本軍の銃撃が
 激しく、目的を達することができなかった。
・1月2日、明軍は日本救援隊の遮断を試みるが、寒気のため兵士は皆凍え、軍馬は
 飢饉のため倒れ、士気は振るわなかった。
・大晦日以来、明側は清正を和談に引き出そうといろいろ接触してきたが、結局応じず
 明側の清正降誘作は功を奏しなかった。
・そのために明軍は総攻撃にかかったが、日本軍は夜明けとともに迎撃し、援軍も蔚山に
 迫っていた。明軍は全軍に撤退を命じ、日本軍はこれを追撃、そして明軍は全軍に武器
 食料を焼き捨てるよう命じ、慶州へと退却した。
・蔚山から撤兵する明兵は暴徒と化し、財産を略奪、婦女を暴行するなど暴虐をほしいま
 まにした。また、攻略失敗の責任を朝鮮に転嫁し、皇帝には戦勝として奏上した。
泗川(サチヨン)の闘いについて
・島津勢は周辺の兵を本城に引き上げ、わざと弱弱しく振舞ったがこれは島津氏の策略だった。
・9月30日、川上忠実は旧城を脱出。翌日には連合軍が新城に迫ったが鉄砲で撃退した。
・蔚山倭城は普請なかばだったが、泗川倭城は鉄砲隊の戦術に見合った城郭普請が完了して
 いたのである。

60日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:26
個々の戦闘の細かな描写は、書く人間によって大きく異なるのは、
この戦役の特徴です。
おおむね、日本においても日本側に悪く書くようにするのが近年の暗黙の了解に
なっているようです。
はなはだしきは、史実を変えてまで脚色するものもあります。

こうした脚色、主観が戦史に混じるというのは由々しきところですが、
大まかにとらえれば、蔚山、泗川など末期の戦いは、日本側が朝鮮南部
を恒久的に支配下に置こうとして築城したところに、反撃態勢を整えた
明朝鮮軍を迎撃、これを撃退したというのが事実です。

61日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:26
単に兵力比較したって意味はないと思うが?
だって戦争ってのは兵器の質だけでは決まらないものだしな。
朝鮮出兵の敗北の一番の原因はやはり日本軍の士気の低さにあると思うぞ。
たとえば大陸制圧を10年くらい作戦の練って、
日本人全体にそういう心構えを植え付けた上で侵攻したらどうだったか?
部隊によっても強さにはかなりの違いがあるし。たとえば島津とかさ。
とりあえず逆に明と朝鮮が組んで日本に侵攻したら?
ってことも考えてみるとおもしろいかも。侵攻軍、総数40万くらいでさ。
俺は日本軍買ったと思うぞ。
あと日本軍が組織化されてない近代化されてない軍隊だ、ってのには反対だ。
ちゃんと部隊によっての役割も決められてるしな。小荷駄隊とかいるだろ。
それほど劣った軍隊ではないぞ。むしろ世界最強だな、俺はそう思う。
62日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:28
慶長の役では、日本側の意図は米の豊富な朝鮮南側をわがものに
しようというものでした。侵略という言葉を与えられても仕方
ありません。
例によって緒戦に南朝鮮ほぼ全域を蹂躙しましたが、秋以降になると
南岸に退き城作りを始めました。
理由は
@北方は明側の守備態勢ができている。
A補給線が伸びる
B冬期に入る
といったものだったようですが、もうひとつ、当時、明側が
「40万の兵力で日本本土を攻める」
といったデマを流したということが後年の文書に見られ、
これが事実だとしたら、当時の日本軍が警戒したことも
あげられましょう。
日本軍は南岸に退いた後、半数の兵力を本土に撤収させており、
この理由がハッキリせず、
@半島に大兵力を置くことの負担(兵糧の確保)
というのがもっともらしいのですが、前記事実があったとすれば、
戦略上の配置だったのかもしれません。

朝鮮の城は日本の城と構造が異なっているため、日本軍にとっては
守りにくかったようです。日本式の城をずらりと南岸の
要衝に築いたのもそのためです。蔚山城はその普請中に襲われ、
苦戦をしましたが、10ヵ月後の再攻撃にはほとんど打撃は
蒙りませんでした。
他の城も主要なものは無傷であり、日本側の策略は成功したと
いえましょう。
当時、これら要衝では朝鮮住民との交易もあったようで、
日本側が恒久的な支配を進めようとしていたことが推察されます。
ただ、計画的なものではなかったようで、秀吉が死ぬとさっさと
引き上げてしまいました。
63日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:28
すこし誤字脱字があるが気にしないでくれ。
64日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:29
韓国側の見方として、済州島出身の金奉鉉による「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」
日本側は日本歴史学会編集・北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の2冊です。

65日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:31
新たな資料。
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)
大正十年七月十五日に脱稿された本であり、旧仮名遣いで書かれているためちょっと読みづらいです。
様々な資料から原文をそのまま載せ、解説を加えているのでかなり信頼できると思います。
これをもって再び蔚山、泗川の闘いを見てみますと、
蔚山(ウルサン)の攻防戦について
篭城者の手記や宣祖實緑の原文を提示しながらかなり詳しく書かれてましたが、長過ぎるので経過のみ
・我軍は城普請のみに力を入れて、敵の眼前の來り迫るを知らなかつた。我軍は全く敵情偵察に於いて、缺陷があった。
・12月22日早暁不時に襲撃せられ、苦戦の末退却した。二十三日は城の一部を奪われた。
・蔚山城を守ったのは二千名余(宣祖實緑)、攻撃軍四萬人(両朝平壌録)、朝鮮軍三千五百(宣祖實緑)
・敵死骸数壹萬三百八拾六人(浅野文書)

この戦は大勝利だったと結論づけています。戦前の文書である事を差し引いても、日本が勝利したのは間違い無いでしょう。

泗川(サチヨン)の闘いについて
此の一戦の為に、日本軍の威力は、数百年の後迄も轟いた。
此の一戦の敵にあたへたる打撃は洵に痛快であった。徹底的であった。明人が石曼子の名に恐怖した影響は、恐らくは
明治二十七八年役迄も、計上せねばなるまい。
・島津側に於いては、恒に明軍の来襲に備へ、がうも油断なかった。
・然も敵は大勢也、味方は小勢也。さればその勢力を、泗川新城に集合するに若かずとは義弘の軍略であった。
・明軍は幾許あった乎。あるいは十萬騎といひ(島津家記)、あるいは二十萬騎といひ(征韓録)、又た朝鮮側では
 一萬三千五百人(燃(略)室記述)といふ。なほ宣祖實緑には、中路の天兵二萬六千八百、我が(朝鮮)兵二千二百十五名とある。
・流石の文飾的明将も、此の大敗走を誤魔化す訳にはならなかった。
 宣祖實緑によれば「國を辱め威を損ず、深く痛恨すべし。、菫一元は級を降して功を立てしめよ」と重々しく書かれています。
66日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:32
この記録からするに、大勝利だったのは間違い無いでしょう。その後和議が結ばれたともあります。
蛇足になりますが、島津勢の泗川城撤退後に入った菫一元は朝鮮王宮より奪われた宝物を目にするが
彼はそれを城ごと焼いたらしいです(文章の解釈が間違ってたら申し訳ありませんが、城を焼いたの
は確実)。また、城に入ると残っていた兵糧二千五百石、馬三百、倭器刀塀を奪い、32顆の首を斬首
したらしいですが、それは朝鮮人捕虜か傷病者との説があります。
67日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:33
当時朝鮮は日本人の首一つを切れば、直ちに武官に採用し、科を許すとの触れを出しましたが、
明軍が朝鮮人の首を切って、日本人の首とするのはしばしばあったらしいです。当然朝鮮人同士での
首切りもあり、日本軍の耳鼻切りと大差が無い様に思えます。
そして、日本軍が朝鮮人を数多く連行した事も知られていますが、記録によれば明軍も引き上げる時
多くの女子を取り、皆率いて去ったそうです。その数は数万人を下らないとか…。
68日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:33
>この記録からするに、大勝利だったのは間違い無いでしょう。
>その後和議が結ばれたともあります。

前段は正解だが、後段は間違っているのでは。

蔚山で敗退した明は以後一年間、兵勢を立て直すことが出来ず、
対峙状態に入った。
一年後、秀吉の死を機に再度攻撃してきたのが、第二次蔚山や
泗川、順天だった。しかし、いずれも指摘のとおり攻撃は失敗している。
その後、日本側は一方的に撤退。
したがって、その戦いを機に和議が結ばれたというのではない。

69日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:34
さっきから話それてるぞ。兵力の比較だろ?
70日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:35
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。

71日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:35
この役が明に与えた影響ですが、少なくなかった様です。
日本軍は慶長3年12月には釜山を引き上げたが、明兵は萬暦27年(慶長4年4月)に一部が撤退を始め、
最後まで残った二万四千の兵が引き上げたのは萬暦28年(慶長5年)でした。
当時明は万暦帝の治世でしたが、1582年の寧夏ボバイの乱に始まり、朝鮮の役、97年の播州の楊応竜の乱は
万暦の三大征と呼ばれ、それぞれ二百余万両、七百余万両、二、三百万両を費やし明の財政に大打撃を与えました。
くわえて1597年に宮中の三殿が焼けると、用材を遠く貴州からも運ばせて造営工事を始め、材木一本9000両、
総工費は朝鮮の役を上回ったそうです。そのため銀がますます必要となり盛んになった商品流通を目当てに商税を
取りたてる事が決まり、宦官が全国に派遣されて税金の取り立てが行われました。これが悪名高い『礦税の禍』です。
明人の詩人は「倭奴朝鮮に逼る。虚費百億萬。竭盡す中國の膏。聞かず隻箭に蹶すを」と詠じ、慶長3年に朝鮮の李恒
福が北京に赴いた時、彼は「東征事起、府庫虚耗」(朝天記聞)と記しています。
慶長の朝鮮再役は日本では不人気でしたが、明にとっても不人気であったと思われます。
日本軍も明と戦う気は無かったのですが、朝鮮の強い要請で両者は再び激突しました。
役が終わって後に明の~宗は朝鮮国王宣祖に向かって、「王、舊物を還すと雖も、實は新造に同じ。凋を振ひ敝を起し、
爲に力倍ゝ艱まむ。宜しく薪に臥し膽を嘗め、前恥を忘るる無かるぺし。」と諭した(明史)。
国力の疲弊した明は1644年に滅亡します。朝鮮の役はその原因とは言わないまでも、様々な要因の一つであるのは
確かなこととおもわれます。
蛇足ですが、以前のレスで明兵が多くの人間を連れかえった事を書きこみましたが原文は「亂中雜録」で
「天兵多く我が國の女子を取り、還えるに及びて皆な率ゐて去る。山海關に至りて入るを得ず。乃ち房子等を與へ、
 配と作して奇住せしむ。前後並に數萬人」とあるのを個人的に解釈して書きこんだのですが、間違っていたらすいません。

72日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:36
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)には、朝鮮側が使用した兵器についても説明されています。
官・義軍がもっとも広範かつ一般的に使用した武器は弓箭だったそうです。
朝鮮が鳥銃と呼ぶ鉄砲が初めて朝鮮に伝わったのは、対馬藩の宗義智が1589年、朝鮮政府に献上したのが最初と
ありました。1592年李恒福(イハンボク)は「王朝軍は日本軍と戦うとき、接近して戦ってはいけない。それは
敵の先鋒には鉄砲と刀があるからだ」と警告し、『懲録』には「日本人は戦争に習熟し、しかも機械は精巧である。
昔は鉄砲はなかったが、今はそれを所有している。有効射程や命中率は弓矢に倍する。…弓矢の技は百歩にすぎず、
鉄砲は数百歩におよび。飛んでくるさまは、雨あられのよう。とても抗せるものではない」と鉄砲の威力を示している
とのことです。
その他の武器については「戈垣必備(クワウォンピルビィ)」(李王朝の武器に関する書)に説明があり、火器の種類は
二十余種類がある、とされています。
少し引用しますと、
飛撃震天雷
昔の火雷砲・地雷砲・衝天雷らの神法によってつくられた。これは敵をだます爆弾であるから大碗口から発射する。
発射するときは煙飛火烈して砲声が天地を震撼させる。よって飛撃震天雷砲という。明の飛空撃賊震雷砲と同様の
ものと思われる。古来から王朝にあったものではなく、軍器寺(兵器を製造する役所)の火砲匠の李長孫(イジャンソン)
が考案したもので、発射すると500歩飛んで地に落ち、しばらくして爆発する。敵はこれをたいそう恐れた、とある。
震天雷は鉄丸で、中に鉄片を入れて導火線を穴から出し、碗口の薬室に点火して発火する火器である。やや迫撃砲に
似ている。
大碗口は広範に使用された威力ある火砲であった。李瞬臣将軍は熊川浦戦闘において大碗口で震天雷を発射して敵軍を
掃蕩した。
大将軍砲は、大碗口とともに亀甲船や兵船の艦砲として威力を発揮した火砲であった。
虎蹲砲(ホジュンポ)は砲身の全長一尺九寸、重さ三十六斤、発射するとき四斤六両の火薬が必要だった。
佛狼機砲(ブルランキポ)
小説「高麗秘帖」によれば、ヨーロッパ各国で製造された艦載砲を模造した後装式の大火砲だそうです。
また、「車制対策」によれば、飛行機の原始的な形態ともいえる「飛車」が発明され、人が乗り城に入り、また人が
乗って外に出たとある。


73日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:36
ただ、どの程度信頼できるかといえば「火車」について、北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(吉川弘文館)では
荷台の上の装置から火箭を一斉に放つ、とありますが金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)では
「いまでいえば装甲車のようなもの」と食い違う説明をしていますので、話半分に受け止めました。
日本軍では加藤清正と黒田長政が晋州城の闘いにおいて亀甲車を考案し、城北面の石壁を崩したと本にあります。
この亀甲車とは、4輪車に櫃を取り付け、その中に兵が入り、轍を前方に回して前進し、退くときは車の後尾に結んだ
綱を後方にひそむ兵が引く仕掛けになっており、牛の生き皮数枚を剥いで裏返しに覆い(毛の部分が内側)火に耐えられる
ようになっていたとのことです。城からは巨岩を落として抵抗したものの、金梃で城壁の数カ所に孔を開け、崩した
らしいです。
話は変わりますが、金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)では出兵以前の日本についてこのように
説明がなされていました。
「各地に割拠した大領主のあいだに火花を散らす大戦乱は、民百姓の生活を極度に疲弊せしめ、経済的に破滅した
庶民のなかには流避離散する者さえいれば、あるいは、みなが一致団結して反封建の農民一揆が相次いで発生した」
「封建領主間の権力争奪戦は、織田信長が(略)天下統一の歩みを進めたが(略)京都の本能寺に宿をとった時、不意に
部下の明智光秀におそわれて殺された。本能寺の変は、秀吉にとって天下を狙える千載一遇のチャンスである」
一部ですが、日本人の感覚とはちょっとズレていると感じました。
また、明についてはこれでもかこれでもかという程倭寇の被害を並べ立てています。
当時の資料に倭寇のうち真倭は十に一つとはっきり書かれているにも関わらず、全部日本がやった様に説明されている
のは納得しかねます。

74日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:38
当時の朝鮮は16歳以上60歳までの成年男子が兵役の義務を負っていましたが、木綿二匹(米12斗価格分)を収めると兵役を
免除する「収布代役制」が広く行われ、地方の軍司令官やその官属が自己の私利私欲を満たすため、盛んに布を受け取って
いた。そのため、軍布を負担しえない貧しい者だけが軍人に召集されたので軍隊の質が低下した。
十六世紀後半には軍隊編成の基本というべき軍籍は、実質的にただ軍布を徴収するための「人頭税の台帳」にすぎなくなって
いた。これはこの時期、対内外的にこれという程の大事変が無かったからで、大衆の反乱は頻発したが、闘争が小規模で
分散していたので、政府は過酷な弾圧で十分鎮圧することができたからである。
支配階級は軍隊の訓練より軍布の徴収に血眼になり、人民から搾り取る最重要な方法となった。
当時、軍籍に登録された者は「病弱傭食之人」だけだったと「宣祖實緑」に記録されています。しかも軍布徴収は中央政府
や五軍営だけでなく、地方の官庁や兵営まで独自的に割り当てられた軍布を徴収したため、1人について2重3重に収奪され
る場合が多く、彼等が納める軍布の量はやはり所属によって二匹あるいは3匹とまちまちで、一匹の長さも一定してなかった
特に政府は財政事情が逼迫するにつれ、軍布徴収量を増額配分した結果、いわゆる「黄口簽丁(ファンクチョムチョン、子供
を大人と見なして課税すること)」、「族徴(チョクチン、国家に対する負担を担った者が逃亡した場合、その親族から強制的に
保布を代理徴収すること)、隣徴(リンチン、隣近所から代理徴収すること)」、「白骨徴布(ベルコルチンポ、死者にまで課税
し、軍布を徴収すること)」などの弊害が横行した。
この時酷使されたのは水軍兵士で、水軍の苦役は法令の規定に宮殿の造営とか、他の土木工事のあるごとに徴発して他の用務
に使役されたし、上官が自己の利を営むための塩たき、採藻などをはじめさまざまな仕事に使役されたから、水兵の家族は
積もる怨念の涙で天に叫び地に訴えた。


75日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:38
蘇峰徳猪一郎著『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)によれば、
秀吉の死去後、五大老は朝鮮の諸将に撤兵を命を出し、順天、泗川では明軍は敗戦で戦意を失っていたため
早々と講和が締結されたらしいです。順天では提督の劉延が降倭の沙也可を使者として小西行長に和議を
持ちこみ、人質として劉天を差し出しました。朝鮮の資料「宣祖實緑」では順天城の攻防における劉延の
無能ぶりを「(略)提督事を行ふ、正に魂を奪はれたる人の如し。将卒皆軽侮す。適ゝ泗川の敗報を見、(略)
意を決して兵を退く。尤も痛泣を為す。(漢字を一部略字に変更してますので間違いがあればすいません)」
日本軍に手痛く迎撃されられた上に、泗川の敗報に報して日本諸将の撤兵意思を好材料として和を講じたの
でしょう。しかし、明と朝鮮の連合軍はそれを反故にして後に押し寄せることとなります。
泗川での講和
明側の資料、「両朝平攘録」には「(略)中路使督陣茅國科、撫臺の激を持し、金パクを賚して義弘に見え、動すに
大儀を以てし、諭すに利害を以てす。郭國安傍より之を賛す。義弘許諾す。」とあり、
日本側の資料「征韓録」には「十月八日に、徳水式部卿法印壽昌(略)、泗川の新塞に来て、殿下の厳命なりとて
和議の次第、貢税の品、掃陣の行を述らる。その掃陣の期限は、十一月十五日を期として、諸将相倶に釜山浦へ
(略)、然るに十月十三日に、参謀史龍添(略)、此の塞に来り、和議を請ふ。(略)彼の人質を請取(略)和議と相成りて
掃陣の催しあり」
ともかく、泗川の大勝によって明軍を和議に向かわせたのは資料から確実と思われます。
前のレスを補足すると和議を結んだから撤退したのではなく、撤退の過程で和議が結ばれた、という事ですね。
義兵のことですが、彼等の活発な活動が日本軍を苦しめたのは疑いありません。
ただ、支配者層は義兵の反日抗争を自らの階級支配の道具に組み入れようとやっきになったそうです。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)によれば、戦争初期においては義兵を官軍に引きこむため、
義兵将らにたいして高い職位を授ける措置をとったが、やがて義兵闘争が官軍の補助的役割をするようになると
義兵には厳しい統制と圧力がくわえられ、政府は義兵達が巡察使(道内の軍務を巡察する官職臨時軍司令官)及び
体察使(臨時宰相兼軍司令官)の指揮を受けるようにしたが、それらの指揮官は殆どの者が正確な指揮をなしえなかった。
戦争末期には、為政者たちは義兵の存在を十分留意していた。すなわちかれらは戦闘の経験を有し、武器を多数
備え、権力者にとって恐ろしい存在である事を認識し、義兵にたいする統率と圧力をより一層強化するとともに
迫害を加えた。そのため、義兵達は組織された部隊として機能できなくなった。
しかも、義兵部隊の核心的活動家はほとんどが被圧迫階級で、体を張って貢献したにも関わらず、政府はかれらを
正当に評価せず、戦争が終わると義兵たちはまたもや農奴的身分におとしめ、過酷な収奪を繰り返した。
義兵闘争の過程で官職を授けられた義兵将も、国家権力によって廃履のように捨てられるが、党派の政争に組み込まれて
権力者らの猜忌や謀略により迫害され、はては流配か死刑かの不遇な生涯を送らねばならなかったそうです。

76日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:40
いいよ、もう長いの。このスレ死ぬだろ?
意味のないこと書くな。
77日本@名無史さん:2001/03/18(日) 04:54
ぜんぜん無意味じゃない
詳しく読んでみたがこれは日本と明朝連合軍との
比較する上での良い参考になるよ。

78日本@名無史さん:2001/03/18(日) 12:28
駄スレだな。削除依頼だすか。
79日本@名無史さん:2001/03/18(日) 15:59
勝手に駄スレ扱いしてんじゃねえよ、バカサヨ。
80日本@名無史さん:2001/03/18(日) 16:03
>>79
お前もsageてるがな(萎
81日本@名無史さん:2001/03/18(日) 16:04
海軍が弱いのは、東アジアの船は全て「箱船」で航海に全く
不向きだったので、根本的に海戦には使えなかったからだとか。
じゃあ何故朝鮮海軍が強かったかと言われると・・・地の利かなぁ。

陸軍については、単純に言って
専制国家の徴集兵と、内乱を収めたばかりで練度の高い専業兵士では
あまりに強さに違いがあるのでは?

どちらにしても補給地から離れれば離れるほど不利になったとは思いますが、
日本が侵略戦争にあったのに比べ明・朝鮮連合は防衛戦争ですから、
地元住民の援助を受けられたという点で補給の不利は少なかったと思われます。
この辺の話題は軍事板行きですね。
82日本@名無史さん:2001/03/28(水) 06:09
ってか前の無意味な長文駄文がこのスレを殺した。ゆるせん。
もう一度やりなおしをきぼーん!
俺の意見は前に書いたがもう一度書く。駄文に挟まれ死んだ。
もう一度書く。

単に兵力比較したって意味はないと思うが?
だって戦争ってのは兵器の質だけでは決まらないものだしな。
朝鮮出兵の敗北の一番の原因はやはり日本軍の士気の低さにあると思うぞ。
たとえば大陸制圧を10年くらい作戦の練って、
日本人全体にそういう心構えを植え付けた上で侵攻したらどうだったか?
部隊によっても強さにはかなりの違いがあるし。たとえば島津とかさ。
とりあえず逆に明と朝鮮が組んで日本に侵攻したら?
ってことも考えてみるとおもしろいかも。侵攻軍、総数40万くらいでさ。
俺は日本軍買ったと思うぞ。
あと日本軍が組織化されてない近代化されてない軍隊だ、ってのには反対だ。
ちゃんと部隊によっての役割も決められてるしな。小荷駄隊とかいるだろ。
それほど劣った軍隊ではないぞ。むしろ世界最強だな、俺はそう思う。
83日本@名無史さん:2001/03/28(水) 23:27
 百年近くの戦乱で、当時の日本国内では農村が男手不足を起こしていたというし。
 個々の戦闘力比較云々はともかく、国力的に大陸に打って出るのは無理があったと思われ。
84日本@名無史さん:2001/03/30(金) 07:56
とりあえずあげておこう。
85名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 10:48
最初から朝鮮半島南部をきりとることを目的としていたならば
勝利の可能性は飛躍的に高まっただろうな。
86日本@名無史さん:2001/03/30(金) 10:57
日本の戦ってのはたいてい短期決戦の一発勝負。
大陸侵攻ともなれば長期戦は必至だろうから兵站の問題など
考えれば自滅したと思う。
それに戦国武将なんかほとんどがリアリストだけにそんな無益な
戦をいつまでも続けたとは思えない。
87日本@名無史さん:2001/03/30(金) 11:03
>>82@`86
ALL同意。
88日本@名無史さん:2001/03/30(金) 11:08
>83
それほんとう?
戦国時代ってかえって生産力があがっていたと聞いたことあるけど。
戦国っていうとなんか荒廃したイメージあるけど、あれは日本レベル
で戦国って話であって当時の世界の標準からみたらそんな物騒な
時代じゃないのではないかな。

89日本@名無史さん:2001/03/30(金) 11:39
それは勝ってる国の話
信玄時代の武田なんてなんせ国内で戦争をしたことがなくて
国内に城すらなかったんだから
奴隷国@三河などは飢餓状態が常態だったとかよ
90日本@名無史さん:2001/03/31(土) 01:33
>89
そうそう。
戦国時代、いくさのあった国では
捕虜がどんどん奴隷として売り飛ばされたんですよね。
人口も減ってしまいますよ。
91目のつけ所が名無しさん:2001/03/31(土) 02:18
>>89
でも、戦国期に日本全体では人口が2倍になった。
92日本@名無史さん:2001/03/31(土) 02:25
つーか、農業の生産性が低けりゃ食い詰めた余剰人口が流失して
足軽になるだろ。
93日本@名無史さん:2001/03/31(土) 03:02
周縁部ではいつも勝敗不明のつば競り合いをやってても、
国の存亡を掛けての戦いってことで言えば
単純計算で半分は負けて半分は勝ち残ってく事になる。
基本的に勝ち抜き戦で日本国土の取りあいをやってるのだから、
各国の中心部がそう何遍も焼き払われることはないだろ。
一回で終わり.
国中ではどこでも富国強兵で治山治水やってるんだし。
それに伊達でもどこでも農繁期になったら兵を引くのが普通だ
ったし.
94日本@名無史さん:2001/03/31(土) 10:37
やる気の有る人とやる気のない人の差が有りすぎなのが
悪かった。
95吾輩は名無しである
>>91
それは大袈裟で室町後期から人口増加が始まり、元禄期あたりに中世の2倍になって増加が止まった、
だったと思う。

明を倒した満州族は日本よりはるかに小規模だったから、チャンスがあれば日本も明を倒せたんじゃない?
中華の対遊牧対策のパターンに沿って、和議が成立。日本は毎年銀や布を貰うとかになる可能性もある。