南京事件について

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1もう終わってると思いますが
とりあえずスレッド作ります。
「レスを全部読む」「最新レス」で表示されなくなったレス
も以下に転載します。)
2転載:2001/03/07(水) 08:54
1002 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/07(水) 04:47

>1001
嫌韓派の日本人の方。自作自演はお止めください。


1003 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/07(水) 04:54

>>1001-1002
自作自演はお止めください。


1004 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/07(水) 06:52

南京事件そのものはあった、ということで大団円!
3転載2:2001/03/07(水) 08:55
1005 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/07(水) 07:06

>グース
まず「秦教授」の件だが「南京事件 P212〜P214」(中公新書)
のなかで「スマイス調査」の「近郊農村の部分」も採用している。

その秦の本はいつ出た? ここ2年以内か? それなら秦が軌道修正
したということになる。


1006 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/03/07(水) 07:41

>980
そうなんだ。まあ、あった派、無かった派、の本を読むだけじゃなくて
そう言う資料も最低限読まないとダメだね。
でも東京裁判の弁護側って有能だったんだろうか・・・・

ところで何人って書いてあったの?
4すみません。元スレ書くの忘れました:2001/03/07(水) 08:56
5日本@名無史さん:2001/03/07(水) 09:02
秦郁彦『南京事件』は1986年発行です。

で、秦郁彦は98年の文(下のリンク先)を読むと人数も「4万から6万」
となっているので変わっているようですね。スマイス調査についても絶対
的な信頼をおいているわけではないようです。
http://www.japanecho.co.jp/docs/html/250413.html
6tosi:2001/03/07(水) 10:26
30万人肯定派の人々に問う、

     もしあなたが、海外旅行に
いったとしよう、町外れを散歩していると変わった作りの
建物があり、ついあなたは興味本位でその建物にはいってしまいました。
はいったとたん、なにかをふんずけてしまった。
よくみるとそれは鶏のヒナであった。
気持ち悪いのであなたはその場所を離れました。

  その後帰国し、一年が経ちそんな事も忘れていた時、
あなたはある噂を耳にする。
  それはあなたが海外で30万匹もの鶏のヒナを
虐殺したという、とんでもないものであった。
 話はそれだけにとどまらず、そのヒナを
殺されたという海外のヒナ業者から、正式な謝罪
および、ヒナ一匹200円、六千万もの損害請求を
うけた。   その業者がいうにはその建物には
当時30匹のヒナを飼っていたといい、その全部が
いなくなったという、そしてあなたが、その建物で
ヒナ一匹ふんずけてしまったのを目撃した人がいるとの
ことだった。
  週刊誌などは、おもしろがり、あなたが
残虐なやりかたで殺したと書いた。 あなたは
近所の人からも気持ち悪がられ、石をなげられたりした。
 そこで聞きたい、あなたがこの状況になったとき
30万匹ヒナを殺したことを認め、六千万払い、
一生、石を投げられ暮らしますか?


7日本@名無史さん:2001/03/07(水) 10:49
旧スレの970の、肯定派、はこう言っている

>こんなんで、勝手に否定派が(精神的)勝利宣言をぶっても、肯定派に
>とっては「ハァ!?」なのよ。
>肯定派は数の厳密な確定のために研究してるんではない。
>(理由、史料不足だから、どのみち正確な数字は出せない)
>日本軍がどのような蛮行を行ったかを残された(限られた)史料、証言から
>導き出し大まかな全体像をあぶり出す作業をしてきたのだ。

これ、語るに落ちた、ってやつじゃない?(藁
>日本軍がどのような蛮行を行ったかを
って言ってるじゃん。
結局最初から、その証拠が欲しいだけでしょう。
最初から確定できないと分かってるなら、なんで10万とか20万とか30万とかの数字を出してきたんだよ、今まで。
5万以下と、10万以上じゃ全く違う事は肯定派が一番分かってるからこそ、5万以下という数字を認める事が出来ないわけだろ(藁
そうなると、今までの様には日本を非難できなくなるもんな〜。
あっ、違うか。もし5万以下でも今まで通り「大虐殺だ〜」って叫び続けるんだもんね(藁

結局前のスレと同じ調子で、このままずーっと続くんでしょう。
8名無しさん@1周年:2001/03/07(水) 10:58
「日本は1931年9月18日、柳条湖事件を起こし中国東北への侵略を開始したが、この満州事変から1945年8月の日本敗戦までの14年間、日本は731部隊を中心に細菌戦の研究を行い、細菌兵器を開発・製造し、その『成果』にもとづいて、実際に中国の十数地域で細菌を空中からあるいは地上で散布した。その過程で、731部隊における人体実験で少なくとも3000人が対象とされただけでなく、細菌配布によって多数の犠牲者が生み出された。中国人はいわば「二重に殺害」されたのである」(松村高夫「731部隊と細菌戦」三田学会雑誌91-2(1998)71)。
http://www.hayariki.com/
9970ではないけれど:2001/03/07(水) 20:26
>>日本軍がどのような蛮行を行ったかを
>って言ってるじゃん。
>結局最初から、その証拠が欲しいだけでしょう。

南京事件が終わって既に幾十年。その間に多々積み上げられた研究。
いまさら「日本軍は悪いことをしたのかしていないか」なんてレベルから検証を行う
などという非効率的な方法は、関連研究に対して一切の知識を持ち得ない無知な人で
しか取りえないだろうね。

>最初から確定できないと分かってるなら、なんで10万とか20万とか30万
>とかの数字を出してきたんだよ、

確定できないとわかっていることに対しできるだけアプローチすることを
否定するのならば、古い歴史の事などほとんど言及できない。
邪馬台国はどこですか?大和王権の成立っていつ?安土城はどんな城だった?
戦争中に空襲で死んだのは何人ですか?原爆で死んだのは何人ですか?
確定できるとお思いで?

970で批判しているのは、数の厳密な確定にのみこだわり、確定できない事項に
対して断定的に語りそれ以外の主張を一切認めない姿勢であると思いますが。
10噛み合わないことを逆手にとって叫び続ける愚者達に:2001/03/07(水) 20:27
のせられないようにお気をつけたもれ、という文だと思います↓

南京大虐殺におけるイメージとしての「数の問題」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/onisi.html
11日本@名無史さん:2001/03/07(水) 21:05
たかだか70年前の近代組織がやったということなら
確定出来ない方がおかしいと思うけど。
12日本@名無史さん:2001/03/07(水) 21:41
>>11
戦争中に空襲で死んだのは何人ですか?原爆で死んだのは何人ですか?
アウシュビッツで殺されたのは何人でしょう?
13日本@名無史さん:2001/03/07(水) 23:19
>>12
ヴァカ(藁)
普通推定でも30万から数万に振れることはない。
最大幅誤差+-1万人

http://www.matsushita.co.jp/corp/shashi/shougai/Michi078.htm
>昭和20年に入り、日本本土への空襲が激化、東京は3月、4月、5月の大空襲をはじめ、
>前後102回の空襲で、関東大震災をはるかに上回る被害を受けた。
>空襲は全国206都市のうち98市におよび、死傷者約66万5千人、焼失家屋約236万戸、
>日本は文字通り焦土と化した。

http://www.hiroshima-cdas.or.jp/HICARE/ab2.html
>直接被爆者の数は34万人〜35万人であったと考えられます。これら被爆者全体のなかで、
>昭和20年12月末までに約14万人(誤差±1万人)が死亡されたと推定され、
http://homepage1.nifty.com/institute/n5/A5.html
>死者73,884人重軽傷者74,909人、罹災人員12,820人(半径4キロ以内の全焼全壊の世帯数)
>、罹災戸数18,409戸(半径4キロ以内の全戸数、市内総戸数の36%)、全焼11,574戸(半径4キロ以内、市内総戸数の約3分の1)、
>全壊1,326戸(半径1キロ以内)、半壊5,509戸(半径4キロ以内)と推定されています。
14日本@名無史さん:2001/03/07(水) 23:24
しかし、米軍が長い時間を掛けてとてつもない人員と爆撃機と金と時間と爆薬を使って
66万人なのに、日本陸軍は1ヶ月やそこらで軽く30万人を虐殺出来るって
すげぇ組織なのか、中国人が馬鹿なのか。

サヨサヨはどう思ってるんだろう(藁)
15日本@名無史さん:2001/03/07(水) 23:25
>>13
アウシュビッツは?
16日本@名無史さん:2001/03/07(水) 23:49
そもそも否定派は「歴史修正主義者」と称されるように
ナオナチのとる論法と似ているのだよね。
「ヒトラーの署名した文書がないからヒトラーが指示したわけではない」
「ガス室と称される所で人が殺された所を直接見た者はいない」などなど。
原爆や東京大空襲にかみつく者がいなくてよかったよかった。
17日本@名無史さん:2001/03/07(水) 23:50
◆石原慎太郎はコヴァ嫌い
 ゴーマニズム宣言の著者で知られる小林よしのり氏
 絶賛の東京都知事石原慎太郎氏は実はコヴァ嫌いだった事が判明。
 都庁での会見
 「俺はねぇ、あーゆぅ知識も教養も無い人間が糞みたいな漫画で
  俺の似顔絵書いたり、政治思想に口出ししてるのが気に入らないんだよ。
  俺はあいつがどうも大嫌いでねぇ、あいつみたいなのを勘違い野郎っていうのかね?」
 とコヴァを激しく非難した。一方小林氏は
 「サヨクのデマだよ。石原知事はわしの事を理解してるはずだよ。」
 と低学歴な見解。
 

18金日成:2001/03/08(木) 00:09
南京で熱くなるドキュンが日本にいること自体が終わってるんだよ。

中国がネタで言ってるに決まってんだろ!!!!!!!
19日本@名無史さん:2001/03/08(木) 01:21
なんか最近は100万人に増えているという。
現代用語の基礎知識を纏めた本に、100万人説が載っているとかいないとか。
もう笑っちゃうしかないです。
馬鹿らしくてついていけるか。勝手に言ってろ。
20日本@名無史さん:2001/03/08(木) 01:31
共産圏の言うことなんて信用できるわけがない。
自動車とか電話とか、めったやたらに役立つ発明は全てソ連人の業績だ、と
大まじめに辞典に記した国が大親分だったんだからな。アホらしい。
21李登輝:2001/03/08(木) 01:34
どうせなら一億とか言ってほしいな(藁
自分とこで何千万も殺っといて、日本には30万ぽっちで根に持つなってんだ
22日本@名無史さん:2001/03/08(木) 01:53
向こう側の主張がどのように変化していったかを辿る研究はないのかね。
早晩、50万人は軽く越えるぜ、間違いなく。
増やしゃいいと思っているに違いないんだ。真面目に付き合ってると馬鹿になる。
23日本@名無史さん:2001/03/08(木) 02:01
>>16
ああ、「修正」するんだ。
じゃあ、もともとが間違ってたんだね(笑)

というか実証主義は近代以降の世界では当たり前だが・・・
24日本@名無史さん:2001/03/08(木) 02:16
東京裁判に提出の埋葬資料はリライトされたものだ。
ほんとは、正式な記録があったのだが、事件後、約7年に
渡って南京は日本の傀儡政府が治め、日本軍に都合の悪い
資料は殆ど没収処分されてしまった。
東京裁判では、その事実を踏まえたうえで、リライトされた
資料が信用に足るものかを証人尋問等により判断した。

このように、為政者による没収という事は確実にあったのであり、
正式資料が無いのをいいことに、「崇善堂の埋葬はデッチアゲ」
とか宣っているのが、否定派なのだ。
(実際には、崇善堂埋葬隊と自治委員会の事務的やり取りの文書=没収を
 逃れた文書、が残っているのだが)
肯定派は、没収された事実を見逃すことはしない。だからこそ、残存史料
だけで判断する否定派の論法には組しないし、
正式史料が無いものは無い、のだから、無いものを持って、数の厳密な確定
などという危険なことはしない。

各自の研究による所感はいくら言っても良い。
それぞれが思う数字を思ってればいいのであって、数論で相手を打ち負かす
ことが南京論争の本質ではない。


25日本@名無史さん:2001/03/08(木) 02:24
どーでもいいが、一部に
30万否定=南京事件は無かった
南京事件はあった=30万虐殺
としか考えられない奴等がいるのは確か
26日本@名無史さん:2001/03/08(木) 02:30
>>24
行政に必要な台帳とかも全部奪われたわけ?
南京に進行した日本軍の補給物資の内訳とか、消費弾薬の補充届けとか
そういうのも全部ないの?
27日本@名無史さん:2001/03/08(木) 02:36
17>それは本当なの?
28日本@名無史さん:2001/03/08(木) 03:14
>>14
>しかし、米軍が長い時間を掛けてとてつもない人員と爆撃機と金と時間と爆薬を使って
>66万人なのに、日本陸軍は1ヶ月やそこらで軽く30万人を虐殺出来るって

東京大空襲って1回当たりどれだけの費用で何日かかって何人死んだんでしょうか。
誰か知らない?
29名無しさん@お腹いっぱい:2001/03/08(木) 03:59
>>28
http://www.ne.jp/asahi/yokokourou/home/news_tp/08/99_02_02jiji.html

B○○が来襲機数。
○○*4500(標準) *9100(最大)が搭載爆薬の量。

http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/ok_b29.museum.html
30日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:04
超空の要塞と主に歩兵の軍隊とを、更に高性能爆弾と小銃弾丸・銃剣とを
比較しようとする思考回路の健全性を疑う。
パソコン画面の横に鏡を置くことを勧める。
31日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:15
>>24
それぞれが思う数字を思ってればいいのであって、
数論で相手を打ち負かすことが南京論争の本質ではない。
なんじゃそりゃ?
32日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:49
大虐殺派=日本軍が計画的、組織的に軍人、民間人を殺害した。(したがって10万以上)
中虐殺派=捕虜の殺害は前線指揮官の独断で行はれた。民間人への暴行、虐殺もあったが計画的なものではない。(4〜6万程度)
否定派=捕虜は便衣兵なので、軍規は適用されず即時処刑は合法。民間人の殺害については中虐殺派に近い。
33なんとも言えない派:2001/03/08(木) 10:41
日本兵でも当時の状況を良心から?語る人が居るようだけど
具体的に南京のどこそこの家に押し入り主人を射殺し娘を上官がレイプして、
殺したetc.......みたいな証言や本、取材などで語ってる人っているのですか?
34日本@名無史さん:2001/03/08(木) 10:56
>>32
民間人を計画的に虐殺した、という主張はあるの?
「三光」のように組織的に略奪・虐殺を行なうようにもっていったという話はあるだろうけど。
それは“虐殺”を“計画的に”行なったとは言わんでしょ。
35日本@名無史さん:2001/03/08(木) 13:25
日本軍による「大規模」な虐殺の実例が太湖の島の一つ「馬山」の事件である。
南京では死体処理が行なわれていた3月12日(旧暦2月11日)、
この島の山頂にいた国民党軍に食料補給などして協力した島民は、中国軍撤退後に
日本軍の包囲を受け、「三光作戦」の復讐を受けた。
無錫市からの避難民や他村の漁民なども含めて@`「約1500人」が殺害されたが@`
そのうち純粋の島民は999人であった。あとの四分の三は山などに逃げて
見つからなかったからだが@`見つかった者は赤ん坊であれ老人であれ全て虐殺された。
一家全滅が80余世帯@`焼失3000余間。

日本軍が蛮行を働いたことは事実。しかし10万規模での虐殺を実行するのには
当時の日本軍がいかに野蛮な鬼畜で鬼子であろうと能力的に不可能ではないのか?
まさか悪逆非道だから30万虐殺できたとはいえないし逆に皇軍は立派だったので虐殺はなかったとも言えない。
当時の日本軍が道義的観点抜きで@`組織・装備の点からどの程度の「虐殺能力」があったのか?
36名無しさん@お腹いっぱい:2001/03/08(木) 14:28
>>35
常識的な虐殺肯定派の人だ。
最後の部分を語るのを拒む人が多いからな。
37日本@名無史さん:2001/03/08(木) 16:34
某国のでっち上げだよ。なんだかんだ理由つけてアドバンテージを
握るためだよ。某国には毎年かなりの額を援助しているのが
なによりの証拠。
38日本@名無史さん:2001/03/09(金) 00:12
>>32
違うねえ。
数4万〜6万をあげている者とそれ以上のものは、日本軍の行為に対する
認識はほとんど同じでしょう。要するに日本軍の計画がお粗末だったから、
南京事件のような場当たり的で支離滅裂な進軍・攻略をするに到ってしまった、
ということ。誰も計画的だなどと言ってないよ。
39>33:2001/03/09(金) 00:16
40>39:2001/03/09(金) 01:52
これがどの部隊でも普通に行われていたのであれば数の問題は重要でないような気がしてきた。
しかしHPが偏ってるっぽいので出来ればこの証言集への反論も読みたい。
まあベトナムや朝鮮、その他の戦争でも当たり前だったんでしょうけど・・・気分はよくないね。
41日本@名無史さん:2001/03/09(金) 02:26
>>40
全ての部隊で行われたかはわからない。全ての部隊の記録は公開されてないしね。
(秩序ある隊もあったかもしれないけど、無理に戦線伸ばした故に
末端では現地調達に頼らざるを得なかったと考えられ・・・)
>まあベトナムや朝鮮、その他の戦争でも当たり前だったんでしょうけど・・・
だから、それらを糾弾するには日本のこういう行為だって認識して
批判するべきはしっかり批判しないといけない、という論理なのだけど。

否定派はそれがわかってない。自らは虚勢をはり相手に対しては非難する
だけの、子供の喧嘩のような対抗を延々と続けることしか考えていない
42名無しさん@お腹いっぱい:2001/03/09(金) 03:05
>>38
そんなにお粗末で場当たり的だったら中華民国の首都を落とせる訳無いだろ。
近代軍隊の運営から勉強し直せ(ぉ
お粗末で、場当たり的と言ったり用意周到に計画的に虐殺したと言ったり
肯定派の言うことは矛盾してるな。
43世界@名無史さん:2001/03/09(金) 03:38
三光作戦って日本軍の灰燼作戦の中国名のようだけど、
灰燼作戦について命令書とか文章になっているものはあるんですか?
44グース:2001/03/09(金) 05:27
相変わらず「市民虐殺派」はインチキばっかだな(笑)

>正式資料が無いのをいいことに、「崇善堂の埋葬はデッチアゲ」
>とか宣っているのが、否定派なのだ。
     ↑
無知丸出しだな(笑)
正式な資料以外にも「1937年〜1938年」に「崇善堂が埋葬した」
という記録が「まったくない」

「戦後の記録」ばっかりなんだけどねぇ(笑)
こうやって「市民虐殺派」は「歴史を捏造」していくのか。
前スレでもそうなのだが「市民虐殺派」は基本的に「無知」すぎ(笑

当時南京にいた「外国人の日記」「記録」「私信」にも
出ていない。

それに対して「紅卍字会」の埋葬については「豊富な資料」
が残っている。日本の記録にも残ってるよ(笑)
もちろん「中国側」にも「外国人の記録」もある。

「虐殺派」の「井上久士だって認めてる」(笑)

前スレで「散々やって」決着がついたはずだがな(笑)
第一「当時の南京にあった死体」は4〜5万体程度。
どうやって「11万体も埋めたの?」(笑)
前スレで、死体の数に関しては「反論一つなかったんだがね」

まさに「オウム返し」だな。
45yahooから:2001/03/09(金) 05:45
>これでもラーべが「戦死者を含めて4万人」と言っていないんですか。

はい、言ってません。ラーベは「紅卍会が埋葬していない死体があと3万体もあるということだ」と言ってるだけです。どう考えても、それが全部じゃないね。揚子江に突き落とされた遺体の全てが、下関の波止場や河岸に流れ着くハズはないし、下流に流れたり沈んだままの遺体だってあるだろうからね。

「南京事件」(秦郁彦:中公新書)p137
-------------------------------
外国人や中国人生還者の証言も近似しているが、この頃、下関の波止場は、日本軍の常設処刑場と化していたらしく、毎日のように下関の三つの桟橋上で処刑が行われ、のちに外国公館の苦情で下流に移された、という石松政敏氏(第二野戦高射砲司令部副官)の証言もある。

もともと、下関は13日に佐々木支隊が突入して負残兵を江岸と江上で撃滅した地点であり、20日すぎに本格的な死体掃除を始めるまでは、常時大量の死体が累積していた。さらに江上を浮流したり漂着する死体も多く(数千、数万レベルの証言が多い)、当時の訪問者は南京アトローシティーを象徴する風景として、強烈な印象を受けたようである。
--------------------------------
埋めたのではなく、川に捨て他、といった主張をしています
46グース:2001/03/09(金) 05:48
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=978681036&ls=50
「市民虐殺派」が「恥」をさらした前スレねん(笑)

どんどん「恥」さらすよ(笑) >>24 引用
>正式史料が無いものは無い、のだから、無いものを持って、
>数の厳密な確定などという危険なことはしない。
    ↑
厳密でなく「20万虐殺」とか「30万虐殺」とかって
「厳密」ではないが「インチキだよなぁ?」

第一、当時の南京にいた人口に関する資料は「残ってる」
1937/12/13の南京の人口「20万程度」
その殆どが「安全区にいた」公文書T-6 T-9

「安全区」での大量虐殺は確認されていない。

翌年には「安全区だけで25万人」に人口は増加している。
また、安全区以外にも「住民は戻っていたらしい」

@つまり「市民の大量虐殺」は不可能。

南京防衛軍は「落城時5万」=これは「台湾の公刊戦史」の記述
による。東京裁判判決文でも「5万」という数字が出ている。
    ↓
つまり「5万人」全員が「違法殺害」だとしても
「南京城区」における「違法殺害は5〜6万」にしかならない。
現実には「戦死が2〜3万」あるので、

@「南京城区での違法殺害は2〜3万」

これは「前スレ」でさんざんやったな(笑)
再び引用
>正式史料が無いものは無い、のだから、無いものを持って、
>数の厳密な確定などという危険なことはしない。
    ↓
「市民虐殺派」の主張は資料がないので「信頼できません」(笑)
つまり「中国の主張=30万」も「捏造」であり。
「南京事件調査会」(15万〜20万以上説)=「妄想」ということねん。
47グース:2001/03/09(金) 06:05
>>45 引用
>(数千、数万レベルの証言が多い)
    ↑
この部分についての「ソース」がわからんから「反論」
のしようがないな(笑)

常識的に考えて「10万体」も河に流す理由がない(笑)
虐殺派の主張によると「下関」には「死体がゴロゴロ」
していたらしいから。

第一「下関」の岸辺は「水深が浅く」死体は流れない。
      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
流すとすれば「沖まで運ばなければ」ならない。

戦死体が「あった」のは確かだろうし「処刑体」もあった。
ただし「殆どが陸地」に残された。
一部は「河に流された」
そう考えるのが自然だろうね(笑)  
48日本@名無史さん:2001/03/09(金) 06:19
どっちも資料が偏ってるからな
信用できんよ
49七四散:2001/03/09(金) 06:22
1913,27年の事件をさす。
50グース:2001/03/09(金) 06:34
>>45
あと一応ね「ラーベの言う下関に3万」ってのは
「紅万字会」の推計ね(ってラーベが言ってる)

で「紅卍字会」は「約43000体」埋葬。

これらの「資料」は「南京特務機関」にも残されており
「大阪朝日新聞」にも
「11000円で約32000体埋葬。残りの処理に8000円必要」
という記事が掲載されている。
(単価で計算すると8000円=27000体×30銭)ちょと多めの見積もり。

つまり「当時南京に存在した死体は4〜5万体」
それ以上(例えば15万体)も死体が存在した「記録」はない。
また「目撃証言」もない。

「市民虐殺派」は自説に都合の悪い資料は「見ない」で
「資料がないない」って騒ぐんだよなぁ(笑)
51グース:2001/03/09(金) 06:43
>>48
「なかった派」が使用している資料は
1 当時の公文書
2 当時南京にいた「外国人の日記」「報告書」
3 当時の新聞記事など「一級資料のみ」

「市民虐殺派」の引用する資料は
1 戦後作成された「中国側のプロパガンダ」
(例 崇善堂の埋葬記録)
2 いつ作成されたか不明な「日記」
(なかには、最高裁でインチキ判定がでた資料含む)
3 なぜか「当時の資料」は無視して
「書かれれないから、なかったとは言えない!」
と「逆切れ」する(笑)

市民虐殺派もさ、ちょっとは「資料」を調べようね(笑)
52日本@名無史さん:2001/03/09(金) 07:21
グースもいいかげんにしろや(藁

事件後、7年に渡って「傀儡政府」が統治したんや!
日本軍に都合の悪い資料は処分されているにきまってんだろが(藁

38年2月6日付けの書簡、「査するに幣堂が埋葬隊を成立させて
から今まで一か月近くたち・・」
で充分証明してるよ。
これをどう捉えるかは考え方の違いだからしょうがない。
埋葬初期には紅卍字会の旗、腕章等を付けなければ活動
出来なかったことも、東京裁判証言で明かだ。

結論、崇善堂は活動していた。東京裁判での証言も信用出来る、以上!
53日本@名無史さん:2001/03/09(金) 07:27
グースよ
当時の一級文書があるというなら、近郊県45万行方不明(3月時点)
のその後、の動向を明記してある一級史料をあげてくれ(藁
54世界@名無史さん:2001/03/09(金) 07:33
>>52
「疑わしきは罰せず」という言葉を知ってるかな?
55日本@名無史さん:2001/03/09(金) 07:34
日本自身で自らの「南京事件」に対する見解、解釈が
中国の主張と食い違いがあっても当然だと思う。
56グース:2001/03/09(金) 07:39
>>52 引用
>38年2月6日付けの書簡、「査するに幣堂が埋葬隊を成立させて
>から今まで一か月近くたち・・」
    ↑
これが「戦後の創作」なんですけど(笑)

>崇善堂は活動していた。
    ↑
「活動はしてたかも」(笑)
ただし「埋葬記録の11万」はでっち上げ(笑)

「肝心のところに反論」しないのが「市民虐殺派」
なんだよなぁ(笑)
まぁ「南京大虐殺否定論13のウソ」って「トンデモ本」
でも「肝心なところの反論」はなかしね。

>>52 引用
「存在しない死体をいかに埋葬したか」
ここに反論しないと意味ないよ(笑)

結論 存在しない死体を埋葬できるわけがない(笑)

>>52 電波引用  
>事件後、7年に渡って「傀儡政府」が統治したんや!
>日本軍に都合の悪い資料は処分されているにきまってんだろが(藁
     ↑
外国人の記録に出てないのは?(笑)
それ以前に「紅卍字会」の記録にも「崇善堂」の名前は
出てないんですけど(笑)

結論  崇善堂は活動していたかも。
   但し「埋葬記録11万はインチキ」 
57日本@名無史さん:2001/03/09(金) 07:40
>53
だからその行方不明者が虐殺されたとすれば、大規模な中国人殲滅作戦が実行されたことになる。
そのような人員、装備、設備が当時の日本軍に用意できたとは考えられない。
58グース:2001/03/09(金) 07:46
>>53
>近郊県45万行方不明(3月時点)
>のその後、の動向を明記してある一級史料をあげてくれ(藁

この部分についての「資料」はないよ(笑)

ただし「南京城区」で市民大量虐殺を否定できる
資料は「すでに提示」してる。
     ↑
ここに「反論するべき」じゃないのかねぇ?

それと「南京城区」での犠牲者は「3万人程度」
で「いいのかな?」(笑) 違うなら「反論したら?」

まぁ「市民虐殺派」が資料を提示して反論することは
「極めてマレ」だからなぁ(笑)

59グース:2001/03/09(金) 07:52
>>57
誠に正論ですな。

普通に考えると「人口減少=虐殺」とはいえない。
現に「南京城」の市民は「80万以上」が避難している。

「市民虐殺派」は都合のいい考え方しかしないから
「常識がわからない」
60世界@名無史さん:2001/03/09(金) 08:12
「大虐殺派」って、どういう教育を受けたのかな。やっぱりバリバリの反日教師に教育を受け、洗脳が直っていないのか・・・。

それとも、大学で左翼教授に当たってしまったかな。それとも白人牧師の反日放言を真に受けている切支丹とか。
61日本@名無史さん:2001/03/09(金) 09:16
>>51
「最高裁でインチキ判定」
名誉毀損で相手が訴えてきて、根拠が不十分とされ、相手が勝った。
インチキという判定ではない。
これをインチキというのは「インチキ」なのでは?
62日本@名無史さん:2001/03/09(金) 14:07
東京大空襲の資料も、公式な統計をあきらかにしたのは8年後だって。
捏造なのかね。
63日本@名無史さん:2001/03/09(金) 14:27
>>42
用意周到に計画的に虐殺したとは誰が言ってるの?

近代軍隊の運営?その前に歴史的経緯を勉強せよ。
上海派遣軍、当時の軍上層、上海から南京に到るまでの経緯
知らないわけはなかろうて。
64グース:2001/03/09(金) 14:30
>>61 はい「インチキです」
>日中戦争の従軍日記をもとに記したとする、東被告側の
>主張にたいして、「日記の内容を裏付ける資料は存在せず、
>(著者は)本件を目撃していなかったと推認せざるを得ない」
>と1審の東京地裁判決を支持していた。

(参考資料 http://www2k.biglobe.ne.jp/~kanayama/hyousi/kizi/k201301a.html

証拠不十分か(笑) 物は言い様だな。
「日記の内容を裏付ける資料は存在せず」だもんな(笑)

ちなみに「当時の戦友」は全員「東日記」を否定。
これでも「インチキ」ではなく「証拠不十分」で逃げるのかぁ。

「ウソ」をついて無実の人間を「虐殺者あつかい」した
人間をもかばうのが「市民虐殺派」なんだよなぁ(笑)

ちょっとは「反省する気持ち」はないの?
65グース:2001/03/09(金) 14:45
>>62 引用
>東京大空襲の資料も、公式な統計をあきらかにしたのは8年後だって。
>捏造なのかね。
    ↑
正気か?(笑)
っていうか「あまりに幼稚」すぎて反論する気も起らん。

1938年の各資料には「紅卍字会」が「約43000体」埋葬した記録
が「詳細に残ってる」
「南京特務機関」「特務機関員の証言」「ラーベの日記」
「ミニー女史の日記」「大阪朝日新聞」他「写真、映像」もあるらしい。

ところが「崇善堂」が埋葬したという記録は「まったくない」(笑)
また「15万体もの死体があったという記録もない」

それで「戦後になってから」続々と「崇善堂」が埋葬したという
「証拠」が続々と「中国政府の手で発掘された」
だから「不思議だなぁ」と言ってる(笑)

東京大空襲は「当時の資料」に記録されていて(笑)
「被害統計の公式発表が遅れた」だけのこと。
戦時中に発表されなかったのは「機密保持」のため。
戦後はGHQに遠慮したせいかもねん。

もうちょっと「マシ」な反論してねん(笑)
66グース:2001/03/09(金) 14:49
>>63
>上海派遣軍、当時の軍上層、上海から南京に到るまでの
>経緯知らないわけはなかろうて。

具体的に「説明」してねん(笑)
お互い「手持ちの資料」が違うと「見解」も違うよ。
だから「こういう理由で虐殺が起った!!」て書いてねん。
67名無しさん@お腹いっぱい:2001/03/09(金) 15:00
>>52
>事件後、7年に渡って「傀儡政府」が統治したんや!
>日本軍に都合の悪い資料は処分されているにきまってんだろが(藁

行政に必要な市民台帳とか土地の登記簿とか全部処分したのか?(笑)
68日本@名無史さん:2001/03/09(金) 15:32
>>66
秦郁彦も笠原十九治も読んでるのでしょ。わかってるなら反論せよ。
69日本@名無史さん:2001/03/09(金) 15:33
だから、でっちあげだって、銭せびってるだろう。
70日本@名無史さん:2001/03/09(金) 15:37
>67
事件があった当時の資料はないよ。
事件後に人口が減っている資料はあり、それを全て避難したものだと
断定する人はいるけどね。

なぜに攻略・統治した日本軍側のあるべき公式資料が残っていないことを
糾弾する人がいないのかね?
71日本@名無史さん:2001/03/09(金) 15:49
 南京についてはようしらないけれど、

@ 数の認定問題についてはどうやら「近郊・農村」を含めるかどうかで変わってきそうだと、
素人としてはおもうけれど、何故含めるべきなの?あるいは含めないべきなの?

 含めないのは意図的に日本を云々、含めるのは意図的に日本を云々とかではない、合理的説明
を聞きたいとおもうがどなたか説明願えないだろうか。

A 虐殺について、
  在った派(20万から30万?あるいはそれ以上?)
  在ったけれど数が少なかった(4万から5万程?)
  無かった派(一切なかった)

 コテハンないから、誰がどの意見か不明なんだけれど、それぞれどの立場をとっているの?
少なくとも「無かった」派は、秦氏とか一応在ったとする派の意見は採用できないようにおもうのだけれど。
彼らにも反論するなら別だろうが。

 B 爆撃云々と比較する人がいるけれど、素朴な意見としては想定されうる陸軍の攻撃方法と(2ヶ月ほどだった
と主張されているようだが)空から個人をねらい得ない数日程度爆撃とを比較するのは無茶だと考えるけ
72日本@名無史さん:2001/03/09(金) 15:55
>東京大空襲は「当時の資料」に記録されていて(笑)
>「被害統計の公式発表が遅れた」だけのこと。

戦後発表された資料が、空襲が起こった当時に記録された被害状況や死体の数などの
資料そのままであると?南京の埋葬記録などなどを偽物と断定する一方、こちらは
信じられると。
では何故に今頃になって空襲被害者の名簿づくりが始められ「家族や親戚で被害者が
いた人はお知らせ下さい」などと呼びかけをしているのやら。
これだってつっこめば「ではあの統計の根拠は何?」とならないの?
73日本@名無史さん:2001/03/09(金) 16:00
法律屋としていうならば、民事訴訟は、原告・被告の攻撃防御
関係において、一切当事者に任せるのであって、司法機関が職権をもって
「南京大虐殺の有無」を認定して判決を下す、というものではないのだけ
れど。
 最高裁の判決がどうの、といったものは少なくとも「国」が南京事件は
無かったとお墨付きを与えるものではない。みんな知っているだろうけれ
どね。裁判所は、南京云々が在ったという証拠を持っていても、あるいは
無かったという証拠を持っていても、あくまで当事者同士の攻撃防御関係
からのみ、判決を下すよ。
 名誉毀損は、あくまで「名指し」されたことにたいする問題であって、
南京云々が在ったか、無かったか、といった事件の有無にまで踏み込んで
判決下したんじゃないとおもえるけれども、どう?
74日本@名無史さん:2001/03/09(金) 16:04
73を補足すると、あった、なかった、という科学的事実認定を
裁判所が職権で行って、判決を下すのではない。
 当事者同士が、法的手続きにそった形で裁判に資料を準備できたか
どうかだけが問題になる(民事訴訟はとくに)。だから、歴史的真実
がいかなるものであれ、当事者の論戦で不備が在った方が、勝訴する。
裁判の勝ち負けと、歴史学あるいは科学として「事実の有無」を混同
してはだめだ、ということだけどね。
75日本@名無史さん:2001/03/09(金) 16:07
 そもそも、ポイントは当事者として名指しされるべき合理性
があったかどうか、が判決に関係するのであって、そもそも
南京大虐殺があったかなかったか、という議論にこの判決が
援用されるのは、今のところは、ちょっと無理を感じる。
76日本@名無史さん:2001/03/09(金) 17:36
>75
この裁判に関する中国の主張はまさにそちらさんが言ってるのと同じなんだ
けどそれはどう思うね?
77日本@名無史さん:2001/03/09(金) 18:01
>>76
中国がやってるから自分らもやるということか。
仲良く喧嘩してね。
78グース:2001/03/09(金) 20:35
>>68 論外だな(笑)
論点がはっきりしないのに「どこに反論するの」?
市民虐殺派はこうやって「論点」を明確にしないんだよね。

で「こっちが引用」して反論すると「そんなことは言ってない」
とか言うんだよな(笑)

>>70 引用
>なぜに攻略・統治した日本軍側のあるべき公式資料が残っていないことを
>糾弾する人がいないのかね?
      ↑
「南京大虐殺」の議論とは別の問題だから(笑)
79グース:2001/03/09(金) 20:49
>>72 論点のすり替えが始まったぞ(笑)
東京大空襲の被害状況が「信用できないなら」勝手に突っ込んで
ください(笑)このスレは「東京大空襲スレ」ではないので(笑)

>>72 引用
>南京の埋葬記録などなどを偽物と断定する一方
     ↑
都合の悪いレスは読まない主義らしいな(笑)

1938年の各資料には「紅卍字会」が「約43000体」埋葬した記録
が「詳細に残ってる」
「南京特務機関」「特務機関員の証言」「ラーベの日記」
「ミニー女史の日記」「大阪朝日新聞」他「写真、映像」もあるらしい。

ところが「崇善堂」が埋葬したという記録は「まったくない」(笑)
また「15万体もの死体があったという記録もない」

それで「戦後になってから」続々と「崇善堂」が埋葬したという
「証拠」が筍のように「中国政府の手で発掘された」
だから「不思議だなぁ」と言ってる(笑)

根拠なく「崇善堂埋葬記録」を否定しているわけではない。
ちなみに >>50 で「南京にあった死体の数」については「約4万体」
と「資料に基ずく引用」で検証している。
存在しない「死体」を埋葬したというなら「死体が存在した根拠」
を示すべきだろ?(笑)
80日本@名無史さん:2001/03/09(金) 21:06
70は、君に言ったわけではない。話の筋を読もうね。
中国側において事件当代の資料が残されていないことを奇妙だと糾弾する
ならば、まさに当時支配者だった日本側の絶対に存在したはずの記録がない
ことを奇妙だとしないのはおかしいね、という話だよ。

そして、「戦後になってから」「中国政府の手で」発掘された資料を否定する
人には、今頃になって被害者の名簿なんかを作り始めている戦後作られた
「空襲被害」の統計は「当時の記録があった」などとして肯定というのは
どういうこと?ということ。
81グース:2001/03/09(金) 21:28
>>73-75 引用
>「南京大虐殺の有無」を認定して判決を下す、と
>いうものではないのだけれど。
   ↑
この部分はその通り。わしも「前スレ」で
「この判決をもって南京虐殺がなかったとは言わない」と明言した。
   
どうやら「法律屋」さんはこの裁判の経緯を知らん
らしいので「簡単に説明」
    ↓
「東史郎」の南京プラトーンは「まず記述が不正確」
という問題があった。これは「日時」が「戦闘詳報」などと
大きく食い違い「当時書かれた日記としてはあまりに杜撰」
という「研究者からの指摘」が最初。
    ↓
二番目に「当時の戦友」たちの全てが「東史郎の著作」は
「インチキではないか」という指摘があった。これは「名誉毀損」
以外の部分(頻発したレイプ事件など)の部分である。
もちろん「そんなレイプ事件など一軒もない」との戦友談
    ↓
結局「誹を認めない東史郎と出版社」に対して
名指しで虐殺者とされた橋本氏が「名誉毀損」で訴えるしか
なかった。ということであり、決して「名誉毀損」だけが問題
だったわけではない。
    ↓
あくまでも「東史郎」という人間が「虚構の日記」
を捏造し「その一部分に無実の人間を」「虐殺者として描いた」
と「最高裁は判断した」ということなのねん。
(つまり東史郎はウソつきってことねん)

つまり「虐殺派」推薦の資料は「法廷論争になれば」
負ける程度の「資料価値」しかないということ。
    ↓
>法的手続きにそった形で裁判に資料を準備できるか
>どうかだけが問題になる(民事訴訟はとくに)。
    ↓
東史郎を支援した「出版社」「左翼団体」「弁護士」
そろって「資料を準備できなかった」(笑)
そういうことだ。

「法律」でメシを食ってるなら「確定判決」の意味は
理解できるよなぁ?(笑)

「ウソと捏造」で「虐殺者」と「マスコミ」に公表され
たら「法廷で戦うしかないよなぁ?」=法律やさん。

1審か最高裁まで「完全勝利」なら「東日記はインチキ」
と言われてもしょうがないと「普通の人」は思う(笑)
82日本@名無史さん:2001/03/09(金) 21:32
なんだ、結局裁判では名誉毀損で争われただけじゃん。
83日本@名無史さん:2001/03/09(金) 21:35
で、東史郎以外の人までぜーんぶ否定しちゃうわけにはいかんでしょ。
84日本@名無史さん:2001/03/09(金) 22:18
 ですから、そのやりとり自体を「攻撃防御」というのだけれども、その
攻撃防御というあり方自体が、必ずしも歴史学的議論を必要するものじゃ
ないんですよ・・・。ま、東氏の著作がどれだけホントか、という資料的
価値云々への疑問は当然否定できないけれどね(ただし、口頭弁論等にお
いてキチンと、相互が論戦を交わしていることが前提ですが)。いくら
「学術的に真実」でも、攻撃防御をキチンとしなかったら、しないほうが
負けますよ。そのことを指摘したまでです。
 
85日本@名無史さん:2001/03/09(金) 22:22
 一つききたいのですが、資料について「疑わしい」と判断される
べき科学的・合理的基準は、歴史学者のあいだで統一されているのでしょうか。
 どちらに私は組するつもりもないけれども「疑わしい」「捏造だ」
などとは、主観から何とでも言えるわけで。
 どこぞの遺跡での石器鑑定でさえ、その真偽は確定しがたいもの
であった。ならば、普通科学的であろうとするにんげんは、容易に
ある資料について、感情的にならず、慎重に留保するとおもうのですが
どうでしょう。
 
86日本@名無史さん:2001/03/09(金) 22:28
 71について「双方」の答えを聞きたいとおもいます

 そもそも何故、南京の近郊農村を加えるべきなのか、加えたらいけないのか。その
合理的説明を持たない立場は、数字を云々することはできないと考えるけれど。

 もうひとつ、無かった派は、あった派である秦氏の意見を援用できるのか。素朴な
疑問がどうしてものこります。
87日本@名無史さん:2001/03/10(土) 00:26
>>71
(まる1、まる2は機種異存文字でパソコンによっては文字化けするので使わない方が
よろしいかと。)
>1、近郊農村を含める

笠原十九治の意見はこれ。
「事件発生の区域は、南京城区とその近郊の六区を合わせた行政区としての南京特別市全
 域であり、それは南京攻略戦の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあ
 った」
88日本@名無史さん:2001/03/10(土) 00:29
時期の問題もあるのだけどね。否定派は朝香宮らが凱旋入城する12月17までと
言っているものもいるから。(もちろんそれまでの行為は便衣兵摘出で云々という)
89日本@名無史さん:2001/03/10(土) 01:57
私は、否定派が数論に拘る理由が判らない。肯定派は推論だって開き直って
いるんだから、否定派はコンニャクを叩いているようなもんだと思う。(笑)

また東京裁判では軍人の違法殺害も民間人の殺害も含めて認定しているんでしょ?
それで20万という暫定数は出しているけれど、「人道に反する罪」?
で判決を下しているわけで、数の多い少ないでは判断してるとはどう考えても
思えないわけです。たとえ、1万人の捕虜を殺害しただけでも、関係者は
死刑になったでしょうから。・・数の多さ少なさじゃないと思うのです。
肯定派は東京裁判が数議論じゃないことを踏まえて推論を言ってるのだと
思いますよ。

そこで第二弾であるこのスレでは、数論の不毛な議論はやめて、
「教科書に南京事件をあった事として載せることは是か否か!?」
で議論すべきじゃないでしょうか?
「新しい歴史教科書を作る会」が検定によって南京事件の存在を肯定
した折りなので、今がタイムリーだと思います。
数論はオナニー議論に陥りやすいので、より現実に則した議論をして欲しい
ものです!
90日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:11
>>89
趣旨は賛成。
但し日本史板なので、あまり「日本史」から離れないようにしたい
ものだ。政治思想みたいな方へ行くとちょっとなあ…
思想を100%からませるなというのは無理だろうけど…
またどうせ荒れるんだろうな…
91名無的発言者:2001/03/10(土) 02:18
>>89
数の論理になるのは社会はあくまで実証主義だから。
空き巣に入られて警察に被害届出して調書を取られるとき
30万取られたかもしれません。1万円取られたかもしれませんとか
証言があやふやだったら信用されないでしょ。
92あんす:2001/03/10(土) 02:24
史実だが真実ではない。
93日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:26
もう見てて疲れたよ。
94日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:28
数は最低万単位でないと議論する意味が無いのでは?
市民・兵士・便所兵合わせて3000人殺されたじゃなぁ
95日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:29
>>91
信用されるよ。
まさか被害者が正確な被害額を申告しないと警察がとりあげないとお思いで?
96つっこんどくと:2001/03/10(土) 02:32
中支方面軍司令官(南京事件当時)の松井石根は「不作為」の罪。
97日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:37
産経を焼き討ちしようか・・
98あんす:2001/03/10(土) 02:39
レヴェル低いね
99おまえが:2001/03/10(土) 02:47
なんでまともな産経がマイナーで、
嘘ばっか書く朝日や毎日がメジャーなんだろうね?
100日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:47
>「教科書に南京事件をあった事として載せることは是か否か!?」
>で議論すべきじゃないでしょうか?

それで虐殺はあったかなかったかという議論になってしまうのだってば・・・

まあ、私は特に南京事件が記されなくとも日本軍がいかに無謀でお粗末な
戦争をしてきたかの片鱗が記されていればいいと思うけどね。
もちろん簡潔に説明するには南京事件のせたほうがいいと思うけど。

流れを見ると、南京事件の直前に行われた宣戦布告無しの南京空爆が
世界に非難され、南京事件直後に日本国内では国家総動員法が公布された。
歴史の流れで見れば、ポイントとなる事柄ではあると思うのだけどね。
101日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:51
ついでにいっとくと
歴史の実証は、史料が無いから無かったのだとか、史料でわからない
ことまで断定するようなものではありません。
102日本@名無史さん:2001/03/10(土) 02:59
あった・無かったでモメるような事件は
教科書に記載されるべき事じゃ無いんだよ。

それよりも、歴史の教科書としては
捏造をしてまで歴史を歪曲しようとする
奇形な輩がいるって事をしっかり書くべきだ
103日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:07
>>102
>あった・無かったでモメるような事件は
>教科書に記載されるべき事じゃ無いんだよ。

じゃ古代史も記載しないの? 
104日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:09
>>102
ごもっとも。
だから南京で30万とか何とか書いているのをそのまま鵜呑みに
してはいけませんよ。という教え方をすべきだ
105日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:11
産経を焼き討ちしようか・・
106グース:2001/03/10(土) 03:12
>>85 引用
>資料について「疑わしい」と判断されるべき科学的・合理
>的基準は、歴史学者のあいだで統一されているのでしょうか?
     ↑
なかなか「建設的」な疑問なのねん。
結論から言うと「統一基準はない」

というか「市民虐殺派」は「虐殺しましたぁ!」という証言
については「全く検証をしない」(笑)
だから「学問的に疑問」な証言であっても採用し「インチキ」を
指摘されるのねん。

「なかった派」が製作した「南京戦史」においては
次のような検証を行っている。
1 基本的事項として「所属中隊、上官の氏名、戦友の氏名」
2 日記の記述と「戦闘詳報」との確認。

この2点が確認されない場合は「資料価値なし」との判断を下す。
   
例えば「船橋照吉」という人物は「南京戦史」の執筆者の
一人である「板倉氏」のもとに「船橋日記」を送付している。
ところが「基本的事項」があやふやであり、歩兵九連隊との
実戦記録が合致しないため板倉氏は「資料として採用しなかった」

ところが「虐殺派」は「船橋日記」を採用(笑)
まったく「検証しないどころか」板倉氏の下にある日記とも違う
「新たに虐殺を捏造」したものだった(笑)

のちに「経歴詐称と日記の捏造」を「船橋照吉」は認めた。

つまり「なかった派」が却下した「日記」を「虐殺派」が拾い上げ
またまた「虐殺派は恥をかいた」のである(笑)
107日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:14
「南京戦史」は虐殺行為があったこと認めて詫び入れてるじゃん。
108日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:15
産経を読もうか・・
109日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:17
>>91
被害者の発言があやふやの場合、狂言という可能性もあるから
警察はそういう方面から洗っていくよ(笑)
110グース:2001/03/10(土) 03:22
>>106 の続き。
平成3年3月に「石原発言を許さない京都集会実行委員会」
が主催した集会で出版された「歴史を偽造するのは誰か?」
という「冊子」がある。

まぁ内容は「公開質問状」や「日本兵の証言」
「中国の学者」や「日本の虐殺派の学者」の意見などである。

ところが「引用された証言」の一人は「東史郎」(笑)
(後に「最高裁で日記は信用できない」と判定された嘘つき)
もう一人が「船橋照吉」(笑)
(捏造を自白した嘘つきだけど、人間として正しい奴)

つまり「捏造のダブルキャスト」(笑)

虐殺派の「レベル」が知れる結果となった。

まったく資料の検証をしない「虐殺派の学者」
彼らの口から「反省の言葉」は聞こえない。
111日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:23
>>109
取り上げて、あらってかなきゃいけないんじゃん。
初めから疑わしいから取り上げないなんてことをしないで、
一つ一つとりあげていってね。
112グース:2001/03/10(土) 03:27
>>107
南京戦史では「3000〜6000」畝本説と「1〜2万」板倉説
が併記されている。

この結論に対し、中国は北京日報で
「30万虐殺を頑として否定している」と抗議した。

「南京戦史」の見解は「概ね正しい」とわしは思う。
>107もそう思うならそれでよいのでは?
113日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:27
>>110
その冊子と証言を取り上げた論は学者が書いた物なの?
114日本@名無史さん:2001/03/10(土) 03:52
85氏の言ってることはおおむね正しいよ。
史料を否定する方が、難しい作業を伴う。

相手の使っている史料を「検証していない」と決めつけるのはいいが、
ならばその相手が使用している資料を検証しなければ、反論もできるはずがない。
反論が出来なければ、先行研究として尊重しなければならないの。
めんどくさくても、やらなきゃいけないのよ。一次史料重視の世界なんだから
一次史料を出されて「検証がめんどくさい」とか「あてにならない」と言って
無視して良い決まりはない。

そういうことは、史料の判断以前に歴史を研究する上での常識なのよ。
115グース:2001/03/10(土) 03:54
>>113
ここが難しい(笑)
「編集段階で誰がどの程度係わったかは」不明。
寄稿したのは「洞富雄」「本多勝一」「小野賢二」
などの蒼々たる「虐殺派の学者」

主催者は
心に刻む会、カトリック京都福音センター、京都府教職員組合
社会党京都府本部、部落解放同盟など7団体。

代表者である「駒井氏」(部落解放同盟)は
「船橋日記を調査したことがプライバシーの侵害にあたる」
「これは脅迫だぁぁ!」と逆切れ(笑)
訴えてやる!と、内容証明郵便を各所にばらまいた(笑)

>「虐殺派」のレベルが知れる結果
とは「こういう行為も含まれる」ってこと。

虐殺派の学者は「東日記」「曽根一夫」を始めとして
「検証すればわかる」ことを検証しない。
インチキ写真は好んで使用する(笑)

また「この日記は事実ではない」という訴えには耳を
かさない。

それでも「虐殺派の学者から反省の言葉はない」のである。
116グース:2001/03/10(土) 03:57
>>114
>ならばその相手が使用している資料を検証しなければ、
>反論もできるはずがない

前スレでさんざんやった(笑)
虐殺派の資料はほとんど検証して「信用できない」と見解が出てる。

また「新たな証拠」があるなら「一緒に検証しよう」
117日本@名無史さん:2001/03/10(土) 04:03
>>114 引用
>そういうことは、史料の判断以前に歴史を研究する上での
>常識なのよ。
    ↑
これは「わし」に対する「あてつけ」だな(笑)
「先行資料」の検証をしつこく迫った「虐殺派」に負けて(笑)
インチキ長田の恥ずかしいHP(はぁと)=の検証はした。

前スレになるが「笠原作成の虐殺表」の検証はキッチリやってる。

また、忘れちゃったの?

都合の悪い事は「すぐ忘れる」虐殺派(笑)
118グース:2001/03/10(土) 04:12
>>114 虐殺派の恥さらしage

>一次史料重視の世界なんだから一次史料を出されて
>「検証がめんどくさい」とか「あてにならない」と言って
>無視して良い決まりはない。

「なかった派」が提示した「一次資料」を「無視」してる
のは「虐殺派」なのでは?(笑)
あと「スマイス調査」も「一次資料」なんだけど(笑)
埋葬記録は「戦後の記録」だから「2次資料ね」(笑)

まぁこれだけ「理解」していれば「虐殺派」も「一次資料」
に基ずいた検証をやってくれるだろう(笑)

さて「どんな結果がでるかな」(笑)
119日本@名無史さん:2001/03/10(土) 04:24
しかし、60年も経ってから新証言や新ドキュメントが次から次へ出てくる
って一体どういうわけ?
120日本@名無史さん:2001/03/10(土) 05:27
 対日交渉に当たって金正日書記は「表面上は高圧姿勢を取り、内部的に
引き込め」と指示、「日本は戦争を恐れているので押せば譲歩するし、
(北朝鮮が)少し譲歩すれば喜ぶ」と金日成主席時代からの方針を踏襲している。

 北朝鮮は日本と韓国を離反させるため、従軍慰安婦や歴史教科書問題などが
持ち上がるたびに、両国関係を悪化させるよう工作している。

 黄元書記は、外国がコメ支援以外の経済援助や投資を行わなければ
「北朝鮮は五年で内部崩壊する」と予測。日本が賠償金を出すことは
「死にかけている蛇に桃の実を与えるようなものだ」とした。

http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9709/html/0926side03.html
121カイト:2001/03/10(土) 06:09
中国韓国ビびり過ぎ
122カイト:2001/03/10(土) 06:15
おまえら国益に反することを何時までも言ってんじゃない。ペシ!
日本人が日本に得する主張しなかったら議論になんねよ。
なんでそんなに虐殺肯定なの?
123日本@名無史さん :2001/03/10(土) 07:05
南京事件は学問じゃなく政治問題。
グースがいくらダラダラと同じことを繰り返しても得るものは無い。

南京事件を「数の問題」として認識しているかぎり、否定派は
現実で負け続けるでしょうな。。
124日本@名無史さん:2001/03/10(土) 07:24
>>123
結局「中虐殺」派(秦氏など)も「否定派」のカテゴリーに入れて葬り去ろうとするのが、
中国&「大虐殺」派のねらい、ということですな。
125日本@名無史さん :2001/03/10(土) 07:24
おおかたの国民にとっては「どうでもよい」問題でしょうな。。
126日本@名無史さん:2001/03/10(土) 07:30
大虐殺のまぼろしならぬ、まぼろしの「大虐殺派」「市民虐殺派」といったところか。
「中虐殺派」なんてコトバを持ち出して、“大虐殺はなかった”って言いたいだけだよな(笑)
127日本@名無史さん :2001/03/10(土) 07:34
>124
肯定派はそもそも大虐殺だの中虐殺だの小虐殺だの、といった
分け方は無意味と言ってるんじゃないの?
単に有ったか無かったか、で、南京大虐殺という言葉自体が政治用語
であるから大虐殺の定義(何人以上が大虐殺か)なんて主観の
問題として殆どの肯定派は認識していると思うぞ。
128日本@名無史さん:2001/03/10(土) 07:53
小火器しか持ってない中隊や小隊が1日で1万人近く殺したという報告自体で
おかしいって。
近代軍隊のこと勉強した方がよい。
129グース:2001/03/10(土) 07:59
>>123
オウム返しが精一杯らしい(笑)
前のスレでも同じ事いってたね。

問題なのは「南京城」で「中国や虐殺派の学者」が言うような
「市民殺戮が、あったのか、なかったのか」ってこと(笑)

それを「簡単に数の問題」と言うのが「虐殺派」のトリック。

まぁ「虐殺派」の主張は全く「インチキということで」
理解しておくよ。まともな反論もなくなったし(笑)

>>123 引用
>南京事件は学問じゃなく政治問題
    ↑
少しは「難しい言葉」をしってるようだね(笑)
最初から「南京大虐殺は中国の捏造」だった。
これは「常識」(笑)

政治問題と軍事問題が絡むから「はっきりさせれない」
だけのこと。

今度くるときは「もうちょっと勉強しておいで」(笑)
130Dearグース:2001/03/10(土) 09:54
>「なかった派」が製作した「南京戦史」においては
>次のような検証を行っている。
> 1 基本的事項として「所属中隊、上官の氏名、戦友の氏名」
> 2 日記の記述と「戦闘詳報」との確認。

そもそも、記憶に頼る証言をこういうやり方で「検証」すれば
ほとんどの証言が「信用できない」結果になるのは当然だと思うけど。
それとも「虐殺の証言」をしているのは東史郎と船橋照吉だけなの?

それとも「信用できる」証言からは虐殺の事実はでてこなかったから
虐殺はなかった、ということなの?
131日本@名無史さん:2001/03/10(土) 12:33
司令官の撤退命令が出される前に「作戦」が始まりそれが一貫して秩序だったもの
であるとしたり(そんな秩序だったものではなかったという外国人の記事もあるが)、
その中には「資料にないから」住民が紛れていることもなかったと断定し、
ある一つの部隊が残っていれば他のいくつもの部隊も同じように見たり、
処置は解放も含むとみたり(同じ日記で「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之
を片付くることとなしたるも」とあるし、その師団長自身に「処置せよ」と言われ
てショックを受けたという証言―「証言による南京戦史」のもの―もあるのに)、
軍医だから見方がちがうだろうと推定したり(軍医にそれを伝えた―この記録は伝
聞で書かれている―者は軍人かも知れないのに)、
海軍は「下関に到着してから」「流れてくる者だけ」を攻撃したなどと史料に書かれて
いる事実とは違うことを述べられたり、
戦果は過大と見積もって減らすのはいいが、先に各々で減らしておきながら最後に
また同じ理由で減らし、二重に減らしている。表で書かれているのは全部隊の30
パーセントの城付近の「記された」「戦果」でしかなく。

それらの検討を通して陣中日記を「使わない」意義を述べてくれるのかと思ったら
ほんとに数のことしか言われないし。個々の日記の内容や証言について検証してないし。

なんだかんだいって、数にしかとびつかないし、いくら虐殺の証言や記録の断片を
出されてもその内容にコメントがないし。
数の部分だけを取り出せば、他に日本軍が非難されている記事や燦々たる被害・加害の
内容に踏み込まなくてもすむもんね。
132そういえば:2001/03/10(土) 12:35
いつのまに「市民」だけの虐殺の話になったんだ?
133日本@名無史さん :2001/03/10(土) 12:41
>129
>問題なのは「南京城」で「中国や虐殺派の学者」が言うような
「市民殺戮が、あったのか、なかったのか」ってこと(笑)

剔出で無実の市民が多数間違われて連行殺害されたのは確かだと
思うよ。まあ、数の厳密な特定は証拠が無いので不可能だけどね。
どちらにしても許される事ではない。

134日本@名無史さん:2001/03/10(土) 13:00
>>133
>剔出で無実の市民が多数間違われて連行殺害されたのは確かだと
>思うよ。まあ、数の厳密な特定は証拠が無いので不可能だけどね。
>どちらにしても許される事ではない。
この事に関しては全くの素人なんだけど、これじゃ読んだ限りでは、説得力がないと思う。
「無実の市民が多数間違われて連行殺害された」というのはどうしてなの?
135日本@名無史さん:2001/03/10(土) 14:41
無理だって。

旧日本軍の火力は?
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=984178761&ls=50
136日本@名無史さん:2001/03/10(土) 15:06
>>135
軍事板の人が参加してくれば、大虐殺派はもう駄目だろうね〜(藁
137名無しさん:2001/03/10(土) 17:32
>>133
>どちらにしても許される事ではない。

事実の究明よりも、日本軍を断罪することが目的なのですね。
どうしてそこまで日本軍を眼の敵にするのですか?

138日本@名無史さん:2001/03/10(土) 17:48
>>137
まあ、道義上の話になると歴史板からすこし離れるような気もするが…
個人的には、日本軍というよりも日本軍の軍規がどうだったかが興味
あるな。明治の頃は日本軍の軍規がしっかりしていて、それが評価され
ていた面があったわけで、はたして日中戦争時緩んでいたのか。
どうなのか。緩んだとしたら何が原因なのか。
ま、これは日本軍に限った話ではないけどね。
139日本@名無史さん:2001/03/10(土) 17:55
>>136
良かったね、参加してなくて。
軍事ファンで「大虐殺なんて無かった」という人は見たこと無いからな(笑)
140日本@名無史さん:2001/03/10(土) 18:15
「大」虐殺(一般市民を含む無差別大量虐殺)はなかったが@`
虐殺はあった(捕虜の即時処刑及び@`一般市民への暴行・殺害)
141軍事板住民:2001/03/10(土) 18:31
>139
おいおい、変な挑発をするなよ。
この問題は単純なくせに、妙にヒステリックで、合理的思考が通用しない、
ほんと、あまり関係したくないんだから。
142市民の連行に関する件:2001/03/10(土) 19:48
上海派遣軍第9師団歩兵第6旅団「南京城内掃蕩要領」「掃蕩実施に関する注意」
一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、
その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す
一、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし

『ニューヨーク・タイムズ』38年12月9日 T・ダーディン
南京の男性は子供以外の誰もが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃
の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、
多くの場合、もちろん軍とは関わり合いのない男性が処刑集団に入れられた。また、
元兵隊であった者が見逃され、命びろいする場合もあった。
(中略)
 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の
死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、
兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。

『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』38年3月16日
(フィッチの談話)
12月14日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げ込んだ六
千の元中国兵――彼の情報ではそうなっている――の身分と居場所を教えるように要求
したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国の
制服の山を見つけだし、近辺の者一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。
安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、
今度は日本大使館に抗議に行った(12月13日に日本軍と同時に南京に入城していた)。
そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は1300人が縄につながれているのを
目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。
彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、
行った先の河岸で処刑された。

143日本@名無史さん:2001/03/10(土) 19:49
中国における「皇軍」の実態
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjh7128/genron/data/kougun.htm

阿南惟幾人事局長のメモ (阿南資料・12月22日)
中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るもの
にして言語に絶するものあり
144攻略途上近郊農村の状態:2001/03/10(土) 19:51
145いつの時代も報道はいいかげん:2001/03/10(土) 21:03
>>142

>南京の男性は子供以外の誰もが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃
>の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、
>多くの場合、もちろん軍とは関わり合いのない男性が処刑集団に入れられた。また、
>元兵隊であった者が見逃され、命びろいする場合もあった。

どうやって日本軍が見分けられなかった中国兵かどうかをこの記者は見分けられたんだ?
146日本@名無史さん:2001/03/10(土) 21:32
>>143

この軍規の乱れは日本軍では異常事態だったんだな。このお陰で軍司令官松井大将は
事実上の譴責処分になった。12月28日に参謀総長と陸軍大臣の連名で松井大将宛に
国際関係を鑑み、軍紀・風紀の乱れを正す「国際関係に関する件」という要望電を送っている。
さらに翌年の1月4日付で大本営陸軍部幕僚長である閑院宮の名で「軍紀風紀に関する件」と
いう文書も送付されている。

またこの件では中島師団長に問題が多く、陸軍省の阿南人事局長は、次のように非難している。

「中島今朝吾16師団長の戦闘指導は人道に反する」
147グース:2001/03/10(土) 21:36
>>130
なかなか「いい感じ」(笑)

>記憶に頼る証言をこういうやり方で「検証」すればほとん
>どの証言が「信用できない」結果になるのは当然だと思うけど。
    ↑
たしかに「証言」ならそうだが「陣中日記」となると
話が違ってくる。

陣中日記とは「戦争当時記載された一級資料」だが、
戦後になって「書かれた手記=証言」は証拠としての価値が
低いということ。

当時書かれた日記なら「部隊の行動記録」とか
所属部隊ぐらいは記載してあるだろ?(笑)

>それとも「信用できる」証言からは虐殺の事実はでてこなかったから
>虐殺はなかった、ということなの?
      ↑
「使用できる日記」からは「無差別に市民殺戮」をした
記録は出てこない(笑) 捕虜の処刑に関する記述はある。
つまり「史実にそった事実」しか出てこない。
148グース:2001/03/10(土) 21:48
>>146
12/13日の「日本軍」南京入城以降も戦闘は続いていた。

つまり「一部分で捕虜が白旗振って」たり
もう一方では「上海派遣軍指令本部」が攻撃を受けていたりする。

この状況で「捕虜を保護」するのは難しい。
そういう局面もあったことは「理解するべき」

虐殺派は「都合の悪い資料」は見ないから
「12/13日本軍の南京入城後(中国兵が全員降参)した」
と間違った認識をしている。
149146:2001/03/10(土) 22:33
>>148

自分の命がかかっている時に捕虜のことを考えろというのは酷だというのは
当然ですね。
また軍規の乱れといって問題にしていることも、南京攻略時に婦女暴行が
100件に上ったといったことだったりする。このことで参謀長が注意を
何度も喚起したりしていることから日本軍が軍規を守ることに神経を使って
いたことが伺えます。
それに比べるとベルリンでは女性の半分がロシア兵の餌食になったりしており
戦場で軍規を守らせるこは非常に難しいことです。
こういったことは都合が悪いので虐殺派の皆さんはかんがみてくれませんね。
150日本@名無史さん:2001/03/10(土) 23:25
これも良くあるパターン。“××もやってたではないか”
151日本@名無史さん:2001/03/10(土) 23:35
中村粲にしろ秦郁彦にしろ、剔出の杜撰さによって民間人が
多数連行殺害されたであろう、とは述べていたよ。

それに対し、藤岡信勝はそれに対しても反発してるんじゃない?
152146:2001/03/10(土) 23:45
>>150

149をよく読んで欲しいね。
”××もやってたではないか”それゆえに問題ないとは言っていない。
日本軍の上層部が常に軍規を守らせるのに腐心していたことを述べている
のだよ。軍規を守らせるのが如何に難しいかを述べるためにベルリンの
例を出したことは読めばわかるはず。
明らかな国際法違反、理解するべきとか鑑みろとか、
そういうことを追求しないと他の国のことも「鑑みろ」「理解しろ」
ということになってしまうということ、わかってんの?
何のための国際法ですか。

現場でそれを守らないような状況においやっていたこと、実際守られていな
かったことは全く鑑みないわけですか。
154日本@名無史さん:2001/03/10(土) 23:52
「市民を殺した」「女を強姦した」そんなこと、上に戦果として提出しなければ
ならなかった文書に書くとでも思ってるのでしょうかね。

それ以外の記録や証言はあてにならないとか言って。
もはや意図的にやっているとしか思えないな。
155名無しさん:2001/03/10(土) 23:55
民間人じゃなくてゲリラだ。
正規兵が軍服を抜いて、民間人を擬装する。
城内にはまだ戦車、大砲、機関銃、小銃、ピストル、
爆弾など武器弾薬が山ほど隠されており、日本軍は
きわめて危険な状態にあった。戦闘中だ。

中国は上海日本人租界奇襲から人民戦争のゲリラ戦を仕掛けてきた。

というのは全国民が兵隊ということだ。民間人と思うと爆弾を
投げて日本人を殺す。
軍服で識別できないのである。
民間人はいないのである。

米国はベトナムでべトコンのゲリラに散々殺されてやっと
人民戦争を理解した。

虐殺がないというのは科学的に不可能だからだ。
それに軍事目的がない。
ただしゲリラや擬装投降兵は処刑する。周囲を多数の敵に囲まれて
いながら多数の敵を抱え込む馬鹿はいない。
156日本@名無史さん:2001/03/10(土) 23:57
>>153

実際の裁判で情状酌量の余地があり求刑懲役5年に対し懲役3年を言い渡すという
言い回しを聞いたこと無いの?法律とかって杓子定規に運用するものじゃないよ。
157日本@名無史さん:2001/03/11(日) 00:04
軍規がこれっぽっちも見られない中国軍を相手に戦っている日本軍に軍規を守らせ
ようとする日本軍首脳も大変だったろうなあ。相手は何でもありで、日本軍は
国際法で手足縛られている状態。これじゃ現場の日本兵はやってられんよ。
158>156:2001/03/11(日) 00:37
松井やよりが開いた中世魔女裁判みたいに厳格な法の適用が望まれると逝っているのだよ(w
159日本@名無史さん:2001/03/11(日) 00:59
>>156
実際の裁判じゃないよ。歴史を考えてるんだよ。

第一、裁判のように実際に違反行為をした個々に対して細かく検証して
いるわけではないでしょうが。「日本軍」に対して言ってるの。
160日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:06
>軍規がこれっぽっちも見られない中国軍を相手に

武装解除して戦闘出来る状態ではなくとも捕らて殺し
投降しても殺し、投降の呼びかけておいて応じた者も殺しておいて
国際法に縛られていると宣いますか。
161日本@名無史さん :2001/03/11(日) 01:10
>155
あきらかに第二次上海事変の当時の中国軍の話ですね。
そっくり南京城区戦に適用するのは違うと思うよ。
外国人ジャーナリストの報道やラーベの日記を読めば
総崩れになって、殆どが軍服と武器を捨てて逃げたいだけの
兵士だと判るけどな。
城区戦の時は臨時的に強制徴用された(新兵訓練もされない)
兵士が多く、戦意も高くなかったことがラーベの日記からも判るよ。

162日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:29
>>159

おいおい、どっちが微にいり細にいり日本軍の行動を検証して違法性を声高に
叫んでいるんだ?
163Dearグース:2001/03/11(日) 01:32
>>147
>戦後になって「書かれた手記=証言」は証拠としての価値が
> 低いということ。
ということは戦後の調査による聞き取りなどは重きを置かない、
という考えなの?(これは確認の質問でケチをつけているわけじゃないよ)

>当時書かれた日記なら「部隊の行動記録」とか
> 所属部隊ぐらいは記載してあるだろ?(笑)
あとからの記憶やメモを頼りに書かれた物は
全て「部隊の行動記録」や「所属部隊」が書かれていないの?
(これも確認で別に問いつめているわけじゃないよ)

もしそういった記録があれば(そういう日記/記録の類いがあるかは知らないが)
それは「信用できる」のかな?
164日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:42
>>160

国際法上、捕虜の資格を持っていた人たちがどれだけ殺されたのか
教えてください。
165日本@名無史さん:2001/03/11(日) 02:35
虐殺派の人々は近代軍隊の所持している銃器の特性というものを
知っておいた方がよい。
近代軍隊が持っている武器というのは敵兵士を殺すためのものではなく
戦闘力を奪うためのものである。
人または動物を殺すための武器ならば猟銃の方が軍隊の持っている自動小銃より
優れている。
猟銃ならば対象の末端に当てるだけで末梢から相手の神経系をずたずたにして
ショック死刺せることも可能であるが、自動小銃は手などを貫通するだけで
終わるであろう。
弾が命中したときの殺傷能力としては1桁ほど率が異なる可能性が高い。
自動小銃で敵兵を殺すには急所を撃ち抜くか大動脈系を傷つけるかしかない。
これは人道的立場から国際法上で決まっていることであり、真意は相手を殺すよりも
行動不能にした方が相手国または軍隊にとって不利益が大きいためである。
よって軍隊の持っている自動小銃や軽機関銃で虐殺行為をするということは
極めて不経済的なことであり、まともな考えを持つ司令官の下では行われない。
166グース:2001/03/11(日) 02:55
>>163 なかなか建設的な疑問(笑)

>戦後の調査による聞き取りなどは重きを置かない、
  ↑
結論から言うと「2次資料」という扱いになる。
当時の記録である「一次資料」と比較すれば「信頼度は落ちる」

ただし戦後の証言でもその証言が「史実との矛盾」がなければ
「重要な証拠」となるのねん。

南京の例でいうと「南京特務機関」の「丸山証言」などは
当時の埋葬記録との矛盾もなく、また「埋葬場所選定」という
難問があったという「新事実もあきらかになった」
非常に価値のある「戦後の聞き取り調査」と言える。

>全て「部隊の行動記録」や「所属部隊」が書かれていないの?
    ↑
「虐殺派」が推薦する資料の中には「そういう物もある」
また「船橋照吉」は歩兵という「経歴詐称」をしていたが
実は「輜重兵」だった。
曽根一夫は「歩兵の分隊長」として「南京虐殺を描いた」が
実際には「砲兵隊の初年兵」だった。

つまり「虐殺派」は証言を引用するとき
その人間が「兵隊かどうか」すら検証しなかったことになる。

結論として「軍隊の在籍が確認」できて「所属部隊が明確」
そして「行動記録が公式記録と一致」してなおかつ
「当時の戦友からクレーム」がでない「陣中日記」については
信用できる。ただし「戦果(人数)はあてにならない」     
167グース:2001/03/11(日) 03:03
>>161
>あきらかに第二次上海事変の当時の中国軍の話ですね。
>そっくり南京城区戦に適用するのは違うと思うよ。

これは「ちょっとおかしくないか?」
上海での戦いは1937/11/9が「一応の終結」で
南京陥落は12/13日だよ(笑)

しかも上海からに南京に向かう途中でも戦闘したし。

@「上海戦の教訓を南京で生かすのは当然」だと思うが(笑
168グース:2001/03/11(日) 03:31
>>161 引用
>殆どが軍服と武器を捨てて逃げたいだけの
>兵士だと判るけどな。
    ↓
消耗弾 小銃5000発 重機関銃2000発
15センチ砲2門 弾薬600発
20ミリ砲8門 弾薬1000発
小銃960丁 弾薬39万発
重機関銃12挺  軽機関銃33挺
拳銃103挺 弾薬26万発
手榴弾55122発 青竜刀2020振り
迫撃砲10門 弾薬57218発
便衣服2300着 夏衣袴25300着

あんまり「多いので省略」しました(笑)
これは「安全区から押収」した武器の「一部」です。
12/14〜12/24(第7連隊)

戦意のない「敗残兵」が「これだけの武器」を隠し持って
いたという認識には恐れ入る(笑)

「南京大虐殺の徹底検証」東中野教授より抜粋。
169日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:37
>>168
1師団分の武器だな、こりゃ。
170日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:46
>>168
武装解除した投降兵からの押収品じゃないの?
(俺は勉強してないんで当て推量で書いているのだが)
“隠し持って”いたというのは本当かな?

しかし、東中野センセの御本からですか。そうですか。
171日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:50
>>165
大量処刑には銃架を要する機関銃が用いられたのでは?
それに即死させる必要ないしね。
172日本@名無史さん:2001/03/11(日) 05:08
>>170
>しかし、東中野センセの御本からですか。そうですか
言いたい事があるなら、そういう奥歯に物の挟まった様な言い方は止めて、言ったらいいんじゃない?
「東中野センセの御本」の問題点があるんだったら、挙げてみたらいい。
それとね、どこかが間違っているからといって、それをすぐに全体に広げるのは良くない。
全体に広げるのなら、それなりの理由がないとね。
173日本@名無史さん:2001/03/11(日) 05:12
>>171
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki5/nankin/nankin.html
>「全く無防備、無抵抗、しかも全然予期しない人々に向かって一方的に発射しても、
>その致死命中率は6%である。この異常に高い率で逆算しても、10万人殺す発射弾数は、
>約17万発・輜重車約200台分ということになる
174日本@名無史さん:2001/03/11(日) 05:16
>>171
http://www.japaneseweapons.com/kikanjyu/experiences/ex02/ex02.htm
>銃本体と同じく、弾倉も何回かの使用で内部が汚れてくるので、清掃が必要で ある。
>清掃は上蓋の安全ピンを外し蓋板をスライドさせ外すと長方形のコイルスプリングと
>抱弾部(フォロワー)が取り出せる。 こうして内部の汚れを拭き取り、塗油し、組み立てる。
<略>
>現実2名で運搬出来る数量は1挺につき10個以下と推定する。その為に首掛けの装弾器があり、
>発射現場で絶えず助手が空の弾 倉にバラで持って行った実包を装填したに違いない。
175日本@名無史さん:2001/03/11(日) 05:56
>>173
その「6%」はどのように計算したのか?
数千人の中国兵がいるところへ撃ち込んで弾丸が当たらないはずはないしねえ。

>>174
細かいことだが、そこで説明されている「九九式」は南京より後で出来たのでは。
176日本@名無史さん :2001/03/11(日) 07:23
>168
私もそれがゲリラ戦用に隠していた武器とは考えにくいな。
日本軍の発表の詳しい内容もわからんし。
安全区委員会のメンバーの証言にもそんなものは無いしね。
東中野といえば、NYタイムズのマイクロフィルム、に関し
板倉由明から、ガセネタと徹底批判されたドキュンだしねぁ。
177日本@名無史さん:2001/03/11(日) 07:37
「ゲリラであろうと裁判手続き抜きで即時処刑は違法といわれれば@`違法としか言いようがない」
「上海戦から南京戦までの軍人を含めた中国側の死傷者が30万というならわかる@`しかしいつのまにか@`
南京攻略後@`「無差別に」中国人を30万人虐殺したことになってしまった。」
このようなかんじのことをこのまえ秦氏が言ってた。
178177訂正:2001/03/11(日) 07:43
いつのまにか→中国は
179日本@名無史さん:2001/03/11(日) 13:17
>>175

>その「6%」はどのように計算したのか?

致死命中率と書いてあるように急所にあたる確率でしょう。頭と心臓にあたらなければ
そう滅多には死なないから6%という数字は妥当なものでしょう。
180逮捕・処刑の状況:2001/03/11(日) 15:58
「ラーベの報告書」
武装解除された部隊の各人、またこの日(12月13日)のうちに武器をもたずに
安全区に庇護を求めたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群のなかから
分けだされたのでした。手が調べられました。銃の台尻を手で支えたことのある人
ならば、手にたこができることを知っているでしょう。背嚢を背負った結果 、背中
に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができていないか、あるい
はまた、毛髪が兵士らしく短く刈られていないか、なども調べられました。何千人
もの人がこうして機関銃射撃または手榴弾で殺されたのです。恐るべき光景が展開
されました。とりわけ、見つけだされた元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎ
ると思われたので、まったく無実である数千の民間人も同時に射殺されたのでした。
しかも処刑のやり方もいい加減でした。こうして処刑されたもののうち少なから
ぬ者がただ射たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振り
かけられ、生きたまま焼かれたのです。これほどひどい目にあわされた者のうち数
人が鼓楼病院に運び込まれて、死亡する前に残忍な処刑について語ることができま
した。私自身もこれらの報告を受けました。われわれはこれらの犠牲者を映画で撮
影し、記録として保存しました(前述のマギー牧師撮影のフィルム)。射殺は揚子
江の岸か、市内の空き地、又は多くの小さな沼の岸で行われました。

『浅羽町史』に掲載された兵の書簡
去年の三十一日まで支那兵の捕まえたのを、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、
手を縛って落としておいて、上から銃で撃ったり刀で首を切ったりして殺すが、亡国
の民は実に哀れだね。まるで鶏でも殺すような気がするよ。十二月二十七日の夜は、
兵站部に食糧を盗みにきたので七人捕まえて銃剣で突き殺したが面白いものだったよ。
全く内地にては見られない惨状だよ。
181逮捕・処刑の状況:2001/03/11(日) 15:59
野戦郵便局長 佐々木元勝陣中日記『証言による南京戦史』

夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇ふ。乞食の大
行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、
引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思ふのだが、
船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・

 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した二百人を
後ろ手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した(ここは聞き書き----洞富雄氏注記)。
(中略)
夕方頃、自分で通つた時は二百名は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあつた。
(中略)
これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を振り、
意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まつたく平然
としてゐた。服装検査の時、髪が長いので”女ダ”といふことになり、裸にして立たせ、皆が
写真を撮った。中途で可愛想だというので、オーバーを着せてやつた。殺す時は、全部背後か
ら刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中
三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。


 第6師団 元上等兵・児玉氏 毎日新聞1984年8月15日の報道

集団射殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南約六十キロの蕪湖へ向けて出発した同月
(十二月----洞富雄氏注記)十六日頃行われた。児玉 さんらに、揚子江近くの小高い山に
機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に重機関銃を据え付けると、
麓の窪地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃
て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は
約五十メートルの感覚で「三十挺はあった」という。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう
処理したのか。他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、
児玉さんはうめいた。
182武器放棄の状況:2001/03/11(日) 16:01
『ニューヨーク・タイムズ』38年1月9日 ダーディン
日曜日(12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。
民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」
が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴
・軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。
交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン
車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ゴミ捨て場のようになっていた。

『シカゴ・デイリーニューズ』
38年2月3日 A・T・スティール
午後4時半頃、崩壊がやってきた。始めは、比較的秩序だった退却であったものが
日暮れ時(当時の日没は午後5時ごろ)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍
が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ出した。まもなく街路には捨てられた
背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。

『シカゴ・ディリーニュース』
38年2月4日 A・T・スティール
日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機
関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区(難民区)
になだれ込んだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は
地獄であった。
まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町はあちこちで兵士が
軍服を投げ捨てて、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身
につけているのを見た。下着だけで歩きまわる者もいた。
小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路に廃棄された軍服や武器、弾薬、装備など
が散乱した。平時であれば、一般 住民――まだ約10万人が市内にいた――はかかる逸品
を得んと奪い合うのだが、今や軍服と銃を持っているところが見つかれば殺されることを
誰もが知っていた。

パニックになった兵士たちは、走行中の私の車に飛び乗り、どこか安全な場所に連れてい
ってくれと哀願した。銃と金を差しだし、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一
群の兵士たちが、少数のアメリカ人宣教師とドイツ商人によって設立された安全区国際委
員会本部の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りに
でもなると信じて、入れてくれるように懇願した。
とうとう、その一部が銃を捨てながら門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃器を堀を越
えて投げ入れだした。拳銃、小銃と機関銃が中庭に落ち、宣教師によって慎重に拾い集め
られ、日本軍に差し出させるためにしまい込まれるのだった。
183日本@名無史さん:2001/03/11(日) 16:04
何万人もいっぺんに長時間続けてうち続けていたという条件でなければ
>>173のような説は成り立たないと思うのだが。
184グース:2001/03/11(日) 16:15
でたでた(笑)
虐殺派得意の「垂れ流し」
別名「書き逃げ」とも言う(笑)

結局「虐殺派」はまともな議論ができないんだよな。

引用することによって「何を証明」したいのかという
「最も重要な部分」が欠落しているんだけどねぇ。
185日本@名無史さん:2001/03/11(日) 16:42
虐殺派の人たちにお願い。頼むから具体的な数字を出してくれないか。
何が言いたいのかわからんぞ。
186グース:2001/03/11(日) 17:08
とりあえず「NYタイムス」ダーディン記者とスティール記者
の誤報事件について。

ダーディン記事 要約
日本軍の下関門の占領は、中国兵の虐殺をともなった。
彼らの死体は高さ6フィートの山を築いた

スティール記事 要約
下関門から城外に出るとき、厚さ5フィートに積まれた市街の上
を通過しなければならなかった。日本軍も同様に通過した。
路上には「民間人の死体」中国軍の装備や兵隊服が散乱。
     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これらの死体を「日本軍の虐殺」として報じた「ダ−ディン記者」
は1987年(昭和62年)に「下関門で戦闘は無かった」と認めた。
スティールは1986(昭和61年)に「死体は圧死」したものだった
と「真相を語った」

@つまり「中国軍の同士討ち」を「日本軍の虐殺」にすり替えていた
ということ。あくまで「反日」が彼らの態度ということを忘れては
いけない。

ちなみに「下関門=把江門(漢字ちがう)」
ここは中国軍の第36師が土嚢を積んで重機関銃を設営していた。
目的は「中国軍の撤退阻止」のためである(笑)
(督戦隊の激しい奴)と思ってもらっていい。

ここでの戦闘は「激しく」中国軍の戦車隊が機関銃陣地
を蹴散らして終了した(笑)

民間人の死体というのは「便衣兵」のことである。
あたり一面に「軍服」が脱ぎ捨てられていたことは
スティールも語っている。日本側の証言もほぼ同じ。

渡江する兵士は「軍服着用」のものはいなかったが、銃器は
携行していた=南京戦史(関口大尉、橋本大尉)

つまり「NYタイムス」記事は反日色が強い新聞だったということ。
187日本@名無史さん:2001/03/11(日) 17:16
>>173

>「全く無防備、無抵抗、しかも全然予期しない人々に向かって一方的に発射しても、
>その致死命中率は6%である。この異常に高い率で逆算しても、10万人殺す発射弾数は、
>約17万発・輜重車約200台分ということになる

これって6%が正しいとすると

10万人 ÷ 6% = 167万発

が正しいんじゃないの?
もし167万発が正しいとすると6.5mm弾は120発で2.5kgって言われているから

167万発 ÷ 120 × 2.5kg = 34.8 トン

30万人を殺そうと思うとさらに3倍の 104.4 トン!! が必要ですね。しかも目の前で逃げもせず
羊のように大人しくしている人たちを殺すだけで 銃弾 104.4 トン ですよ。
日本の輜重は貧弱で有名だから物理的に出来るわけ無いじゃん!!
188日本@名無史さん:2001/03/11(日) 17:26
>>187
誰が全員を射殺したなんて言ってるの?
189日本@名無史さん:2001/03/11(日) 17:29
>>188
全員ではなく一部の30万を殺したのなら
全員で何人いたの?
190日本@名無史さん:2001/03/11(日) 17:30
軍服を脱ぎ捨てていれば便衣兵、て全然根拠無いねえ。
191日本@名無史さん:2001/03/11(日) 17:33
軍服を着てた一般市民ってのも全然根拠ないねえ。
ミリタリーマニアか?
192グース:2001/03/11(日) 17:38
一応突っ込んどくか(笑)

@マギー牧師が「目撃した殺人事件」は一件のみ。
あとは「伝聞」でしかなかった=東京裁判

>『浅羽町史』に掲載された兵の書簡
@所属が不明、名前が不明の記事を引用するのは「虐殺派」
の特徴(笑)

>>181
「なかった派」製作の「南京戦史」にはこのような
記録も収録されている。学問的に公平な態度だろう。
約200人の敗残兵を殺害。

そのしたが「虐殺派」らしい引用(笑)

>約五十メートルの感覚で「三十挺はあった」という
単純に考えると「1500メートル」になるんですけど(笑)
捕虜はどのように「並ばされて」いたのでしょうか?

>なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう 処理したのか。
>他のどの隊が虐殺に加わったのか。
>私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、
     ↑
都合よすぎですねぇ(笑)
まずこの証言は「いつ、どこで、誰が」という要素
が抜けています。
16日頃、揚子江近くの小高い山=抽象的ですねぇ(笑)

機関銃30丁を1500メートルも並べての「処刑」ですから
さぞかし「大量の死体」が並んだことでしょうが
その処理は「聞かされてない」そうです(笑)

普通は「信用できない」部類の証言なのですが(笑)
「虐殺派」には「もっともらしい証言」としと
思えるんでしょうなぁ(笑)
193グース:2001/03/11(日) 17:58
>日本の輜重は貧弱で有名だから物理的に出来るわけ無いじゃん!!
     ↑
悲しいぐらい「真実」(笑)

そして「不思議な事にね」
@「処刑のために大量の弾薬を運びました!」
という証言は「まったくない」(笑)
輜重兵だって「日記」つけてるし、インチキの「船橋照吉」
は「輜重兵」だった(笑)

虐殺派は「機関銃」さえあれば「弾」が無くても
1万人位は殺せると思ってるらしい(笑)

また「殺害したら」かならず「死体」が残る。
1万人なら「約500トン」
これが「きれいに倒れてるとすれば」=1万平米
つまり3キロ四方という広大な面積が必要になる。
折り重なったとしても「2キロ四方」ぐらいにはなる。

ネットの上で「1万人虐殺」って書くのは楽だけど
実際には「大変な作業」なのねん(笑)
194日本@名無史さん:2001/03/11(日) 20:22
うーん、グースを昔マスコミ版で見たけど、相変わらずすげー。
まさか、研究者じゃないだろうな(藁
195187:2001/03/11(日) 21:55
調子にのってもうひとつ計算。

>1944年ルソン島リンガエン湾に上陸したアメリカ陸軍は無尽蔵な砲弾を
>使用して日本軍が立てこもるマニラ市内に向けて390門以上の榴弾砲など
>で徹底した絨毯砲撃を加えました、マニラ市内には堅固な建築物は殆ど無く
>殆どの市民が残留していたのにもかかわらず市民の死者は4万人程度でした。
>91万発の榴弾をまともに撃ち込まれてその程度なのです!

この話から30万人殺すには

91万発 ÷ 4万人 × 30万人 = 682万5千発

砲弾の重さを30kgとすると総重量は

682万5千発 × 30kg = 20.5万トン

砲弾では20万トン以上を使えば30万人殺せますね。これだったら機関銃のほうが
まだ現実味がありますね。(笑)
196日本@名無史さん:2001/03/11(日) 22:04
グースはこれまで秦説に近い数の虐殺説を採っていたと思ったが
いつのまにか東中野のまぼろし派の論調に変わってるぞ。

結局、少数説では教科書に載ってしまうから、最後はまぼろし説に
なるのかね?(藁
197日本@名無史さん :2001/03/11(日) 22:18
私は詳しくは知らないけど、偕行社という将校の親睦団体が
かつて正式に虐殺の存在(1万5千位だっけ?)を認めて謝罪
したんで、まあ虐殺はあったということでしょう。
大虐殺とか小虐殺とかいう呼び方は人それぞれの主観で変わる
から、まあ1万5千が大虐殺というならそれでよいんじゃない
ですかね。田原総一朗さんが新著のなかで、秦氏説?を支持しつつ
数に拘わらず、日本軍の非を認めていましたが、私もそれに
賛成です。
198日本@名無史さん:2001/03/11(日) 22:36
ところで、中国は通州事件で謝っているの?
199日本@名無史さん:2001/03/11(日) 23:14
通州事件で当時の日本は賠償金もらってます。
200日本@名無史さん:2001/03/11(日) 23:16
>>191
武装解除していれば、戦闘意志のある兵と認められないと思いますが?
201日本@名無史さん:2001/03/11(日) 23:23
>@マギー牧師が「目撃した殺人事件」は一件のみ。
>あとは「伝聞」でしかなかった=東京裁判

あ、東中野と同じ事言ってる。

伝聞=なかったというなら、海外で戦死したという日本軍人では
戦死と認められない人がいっぱいでてきてしまいますわ。
靖国神社に入る人が減ってしまいますね。

>@所属が不明、名前が不明の記事を引用するのは「虐殺派」
>の特徴(笑)

書簡に書かれた行程、上司の名前からどの軍にいたかは推定されてまっせ。
名前だって書かれてる。

>まずこの証言は「いつ、どこで、誰が」という要素
>が抜けています。
>16日頃、揚子江近くの小高い山=抽象的ですねぇ(笑)

この証言は、秦郁彦氏の本にものっている。
第6師団歩兵第13連隊第2大隊機関銃中隊の人の証言で、当該書では
16日に蕪湖へ向かう途中の歩兵13連隊が捕らえた「1千名以上の敗残兵」
(荻平昌之大尉手記)中華門外で射殺したシーンとして取り上げられている。
兵の証言だけでは抽象的だが、他の史料とつきあわせてみて矛盾がないかどうか
という作業はそちらでは行わないわけですね。
(秦の作業が信用ならないとするなら、その作業に対しての絶対的な矛盾点をつく必要がある)
一兵士が、どこから連れてきた捕虜でどう処理したのか全て詳細に知っていなければ、
納得しないと。記されていないことについて「絶対に不可能である」という条件を自ら
設定した上でのさらに推定しかされないわけで。
お粗末な研究だ。
202日本@名無史さん:2001/03/11(日) 23:27
>>195
普通に考えて、処刑方法にもいろいろあると想像できませんか?
180とか181見ても。
203>184目的は書いてるが:2001/03/11(日) 23:28
多々ある中の一部でしかないけれど

180 名前:逮捕・処刑の状況投稿日:2001/03/11(日) 15:58
181 名前:逮捕・処刑の状況投稿日:2001/03/11(日) 15:59
182 名前:武器放棄の状況投稿日:2001/03/11(日) 16:01
204187:2001/03/11(日) 23:51
>>202

単純に砲弾や機関銃で30万人を虐殺するのは難しいということを言っている
だけですよ。30万人殺すのに効率的な方法は何でしょうかね?(笑)
>>204
>単純に砲弾や機関銃で30万人を虐殺するのは難しいという
>ことを言っているだけですよ。
無意味だと思わない?
砲弾だけ、機関銃だけ、で戦闘・殺害していったわけではあるまいに。
どうしても計算したいなら、当時のどんな武器・殺害方法を組み合わせ
てもこれ以上は無理、という数なら参考になると思うよ。
206日本@名無史さん:2001/03/12(月) 00:08


>>200

捕虜となる資格については、『戦争と国際法』(城戸正彦 著)より。

「捕虜については、捕虜資格を認められる範囲と、捕虜に与えられる待遇が重要な問題とされるが、
捕虜資格は交戦資格をもつ者が捕えられた場合に認められるもので、両者は不可分の関係にある」

「捕虜資格を持つ者」 = 「交戦資格を持つ者」 であることがわかる。そこで「交戦資格を持つ者」は、
『国際人道法』(藤田久一 著)より

「正規の軍人は一般に制服着用を必要とするが、軍艦、航空機はそれに一定の外部標識を付ければ十分である」

軍服を着ていれば

「正規の軍人」 = 「交戦資格を持つ者」 = 「捕虜資格を持つ者」

である。軍服を脱いだ時点で捕虜資格を失うことになる。つまり軍服を脱いだ時点で捕虜になれなくも文句は言えない。
207日本@名無史さん:2001/03/12(月) 00:12
>>168
それって「南京城内掃蕩成果表」って書名じゃん。
なんで“城内掃蕩による鹵獲品”が“安全区内で兵士が隠し持っていた武器”って話になっちゃうわけ?

>>193
1万平方メートルがなんで3キロ四方になんの?
東京ドームの総面積が約4万7千平方メートルだよ。
つまり東京ドームぐらいの広さがあれば4万7千体ぐらい並べられるってこと?
2段重ねにすれば約9万体だね。
208187:2001/03/12(月) 00:16
中国は以下のように主張している。30万人にこだわらなければ中国に失礼でしょう。

「南京大屠殺」(日本名 南京大虐殺)は
場所 「南京城」とその周辺
日時 12/13日から6週間
犠牲者 30万人(市民皆殺し、婦女子斬殺)
209187:2001/03/12(月) 00:27
>>205

中国の顔を立てると6週間で30万人を効率的に殺す方法を考えないといけないんですよ。
日本軍のショボショボの輜重をこき使って弾薬を補給しながら旧式のボルトアクションの
38式歩兵銃、連射もままならない機関銃、銃剣を使い、中国軍の便衣兵の攻撃に気を
つけながら、6週間、30万人虐殺ゲームを完遂しなければならんのですよ。
210Dearグース:2001/03/12(月) 00:27
>>166
>ただし戦後の証言でもその証言が「史実との矛盾」がなければ
>「重要な証拠」となるのねん。
ここで言ってるその「史実」はどこからくるの?

>「虐殺派」が推薦する資料の中には「そういう物もある」
何パーセントくらいなの?

>また「船橋照吉」は歩兵という「経歴詐称」をしていたが
> 実は「輜重兵」だった。
>曽根一夫は「歩兵の分隊長」として「南京虐殺を描いた」が
>実際には「砲兵隊の初年兵」だった。
そういう創作は問題外だと思うけど、虐殺派は彼らの証言を引用して
どの「虐殺場面」の証明をしているの?
で、それは「大虐殺」全体を否定できるような決定的なものなの?

>つまり「虐殺派」は証言を引用するとき
>その人間が「兵隊かどうか」すら検証しなかったことになる。
しかし、所属部隊や行動記録が確かめられている記録もあるんでしょ。
検証しなかったんじゃなくて検証できなかったんじゃないの?
証言の数が多ければそういういいかげんなものの数も増えると思うけど。
211銃剣だけでも可能だと思うが:2001/03/12(月) 00:56
軍民30万が不可能か単純に考えてみましょうか。

期間は東京裁判でパル判事も認めた残虐行為「6週間=42日」(顕著な改善が
見られたのは2月6日、あるいは7日すぎと言っているので正確に言えば
6週間以上だが)。
日本軍の人数で言われている最低の数、約10万人。

日本軍の10分の1の人数(1万人)が、一日当たり一人殺しただけで42万人になる。

不可能かい?
212日本@名無史さん:2001/03/12(月) 01:08
>>209
鹵獲品は?
第七師団の報告書だけでも
「水冷式MG156丁」
「チェコ式MG647丁」
「火薬庫7棟」
とか鹵獲してるみたいだけど。
213187:2001/03/12(月) 01:12
>>211

輜重が弱いので銃剣で1人1人突き殺すしかないだろうね。
6週間にわたり日本兵が南京市で一般市民とかを追い掛け回して
殺しまくっていたらたくさんの証言が出てくるはずなのだがこれについて
ラーベはなんか知っていたかな?
214日本@名無史さん:2001/03/12(月) 01:22
昔、テレビで日本兵が中国人を2人ずつ後ろ手に縛ったまま
正座させ、延髄(首の後ろ)に38歩兵銃を突きつけて
ズドン!と即死させている映像フィルムを見たが、
なるほど、あのように殺せば百発百中で急所を撃てるなぁ
と思ったよ。
南京従軍カメラマンの佐藤信寿氏の証言と同じ殺し方だった
な。
215日本@名無史さん :2001/03/12(月) 01:30
日本兵1人あたりの携行弾数、未使用時で約180発〜200発。

南京攻略戦参加日本軍総数約20万。

ひとり10人射殺したとして200万人。
ひとり5人射殺したとして100万人。
ひとり2人射殺したとして40万人。
ひとり1.5人殺したとして30万人。
ひとり1人殺したとして20万人。
216>206:2001/03/12(月) 01:36
東中野とおんなじだ
(「陸戦の法規慣例に関する条約」 条約付属書)
第一款 交戦者 ●
 第一章 交戦者ノ資格
第一条「民兵と義勇兵」
 戦争ノ法規及権利義務ハ、単ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラス、 左ノ
条件ヲ具備スル民兵及義勇兵団ニモ亦之ヲ適用ス。
一. 部下ノ為ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト
二. 遠方ヨリ認識シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
三. 公然兵器ヲ携帯スルコト
四. 其ノ動作ニ付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト
民兵又ハ義勇兵団ヲ以テ軍ノ全部又ハ一部ヲ組織スル国ニ在テハ、之ヲ
軍ノ名称中ニ包含ス。

「これを満たせば民兵及び義勇兵にも正規兵と同じ権利が与えられる」という法であって、
正規兵がこれを満たさなければ捕虜になる資格はない、という法ではない。
正規兵は軍服を脱いだら捕虜資格を失うと、どこに書いてあるの?
217216続き:2001/03/12(月) 01:37
で、上記を満たしていなければもはや「交戦」しえない。
しかし武器を隠し持っているなどの「ゲリラ」だったらどうするか。
その場合は捕らえた上しかるべき手続き(判定)を行って銃殺しても
構わないでしょう。しかし、これについて秦郁彦も述べている。

 捕虜の資格があるかないかはこの際関係ありません。その人間が、銃殺に値するかど
うかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なんです。
(中略)日本は、敵を裁く軍律裁判の条例などもきちんと整備していたにもかかわらず、
実際にはほとんど開いていないんです。出先の兵隊が、捕らえてきた中国人の額を見
て、眉毛から上が日焼けしていないのは鉄兜を被っていた兵士だろうときめ、銃殺し
ていましたから。逆に、こいつは『朝日新聞』の支局で使っていたボーイの家族だか
ら、見逃してやろうとか。
 つまり基準がないんです。これは弁明のしようがありません。

 捕虜のなかに便衣兵、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣兵かとい
う判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウィークポイントなんです。
218まあ割り引いて考える必要はあるけど:2001/03/12(月) 01:39
「鹵獲軍需品及び兵器は二十四榴(榴弾砲)以下、各種火砲、小銃、弾薬その他莫大なり」

 (12月18日軍発表)
219187:2001/03/12(月) 01:40
なんとか殺せそうな気がしてきたなあ。あとは死体処理だけだ。
1日何人づつ埋葬していったのだろうか?処理しないと町中死体だらけで
疫病の心配もあるし。どうなんだろうね。
220日本@名無史さん:2001/03/12(月) 01:46
輜重にかんしては、日本軍は大量の94式軽装甲車(マメタンク)
を弾薬専用車として投入しほぼ歩兵の進撃に追随している。
例えば、毎日新聞の写真では11月30日に広徳で撮られた
独立軽装甲車第2中隊の大部隊が写っているが、これは歩兵の
進撃に合わせていることが判る。
日本軍は食料の兵站部隊は軽視したが、弾薬搬送には力を入れて
いたことが判る。
221>217:2001/03/12(月) 01:53
軍律裁判って何?

222日本@名無史さん:2001/03/12(月) 01:56
南京大虐殺でヒトラーへの報告書
朝日新聞ニュース速報は、南京大虐殺について、当時南京に駐在していたドイツ・ナチス党南京副支部長、ジョン・ラーベが、ヒトラーに宛てた詳細な事件の報告書が出てきたと報じた。ラーベは当時、南京に設けられた「安全区」を運営する国際委員会(4カ国、15人)の委員長として、約25万人の中国人避難民の救済に奔走した。
 タイプ打ちで全260ページの報告書は1938年6月8日付のヒトラーあての手紙で、南京陥落直前の37年12月9日からのラーベの日記の抜粋などからなり、「30年間も世話になった中国人たちが、いかに悲惨な体験をしたかを報告したい」などとしている。
 報告書によると、日本軍は南京侵攻後、武器を捨てて安全区へ逃れた多数の中国兵を捕虜として扱わず、数千人単位で組織的に処刑した。一般人についても「兵士らしい特徴があったり、日本兵の前に現れたりしたというだけで、何千人もが殺された」と記述。最終的な非戦闘員の死者について根拠は示していないが、「中国側のいう10万人は多すぎるが、5万から6万人ぐらい」と推定していた。ラーベは「日本軍は南京にいたと考えられる中国兵の数だけ、中国人を殺そうとしたのだろう」との理由からこの大量虐殺は、組織的に行われたと見ていた。
 南京大虐殺は1937年末から翌年にかけて旧日本軍が大虐殺を行れたもので、中国側は日本軍の南京攻略の進軍中、南京周辺での虐殺も含め、30万人以上の犠牲者が出たと主張しているが、日本ではその数値を疑問視する声があり、社会の教科書に載せる載せないなどで議論されている。読売新聞では、「今回の報告書は同盟国人であるドイツ人が直接体験したことをつづった記録であり、『虐殺』の実態を解明するうえで貴重な史料となりそうだ」としている。
ttp://www.come.or.jp/com/j96/12b.html#10
223日本@名無史さん:2001/03/12(月) 02:19
>>214
捕まえるときの日本軍の被害は?
224187:2001/03/12(月) 02:20
考えてみると人間を殺すのは一瞬だけど埋葬するのは大変だねぇ。
市外まで死体運んで穴掘って埋めるんだから。これも簡単に出来るよという
証明を誰か考えてくれ無いかなあ。
225日本@名無史さん:2001/03/12(月) 02:20
>>215
俺は7~8万人って聞いてるけど?
226グース:2001/03/12(月) 04:56
>グースはこれまで秦説に近い数の虐殺説を採っていたと思ったが
     ↑
これは変わってないよ(笑)
中国の主張は「捕虜の処刑は虐殺」だから、当然おなじ基準
で算定しないと意味ないよね。

わしの算定では「南京城区」で違法殺害約2万人。
秦教授の「南京事件」では「南京城区だけなら約3万」

これは「当時の一次資料」を検証すれば「この程度」
にしかならないってこと。

まぼろし派は、さらに「捕虜の合法殺害」を引いていく。
当時の状況を考えれば「捕虜、敗残兵」の処刑が全部違法
とは言い切れないのも事実。

議論の方向が「数の問題」から「国際法」にシフト
したので「いきがかりじょう」こうなったのねん。
227グース:2001/03/12(月) 05:08
>>201
全体的におそまつなレスだな(笑)

>書簡に書かれた行程、上司の名前からどの軍にいたかは推定されてまっせ。
>名前だって書かれてる。

>この証言は、秦郁彦氏の本にものっている。
     ↑
書いてあるんだったら「最初からきちんと」引用したら?
間抜けな引用するから「虐殺派」が笑われてるのが理解できないの?

証言を引用するなら「出展」や「どういう立場の人間か」を
明確にした上で「この証言からなになにがわかる」
という風にするべき。
それができないから「虐殺派は垂れ流し」って言われるんだよ(笑)
>>180-185

>伝聞=なかったというなら
    ↑
だれがこんな「馬鹿なこと言ったの?」
伝聞=事実でもないし、伝聞=なかったでもない。

@伝聞は確認されるまで「内容は判明しない」でしょ?
基本なんですけど(笑)
228グース:2001/03/12(月) 05:24
>>210
>ここで言ってるその「史実」はどこからくるの?

「南京の場合」には「軍隊の行動記録」が残ってる。
それと「合致すること」が証言者の最低条件と考えてもらってよい。

>そういう創作は問題外だと思うけど、虐殺派は彼らの証言を引用して
>どの「虐殺場面」の証明をしているの?
     ↑
「存在しない虐殺」があったと主張している。
つまり「著者」以外には目撃者のいない「虐殺があった」
ということだ(笑)

>所属部隊や行動記録が確かめられている記録もあるんでしょ。
     ↑
なかった派製作の「南京戦史」の証言は、すべて
「実在が確かめられている」
つまり「当時、南京で従軍した兵士の記録」に間違いない。
その中には「捕虜の処刑」に関する記述もある。

「虐殺派」推薦図書においては「検証されたという話」
は聞かない。よく引き合いに出される
「南京虐殺を記録した皇軍兵士」(だったか?)は
「東日記」の引用があることから「検証作業」をしていない
ことが「あきらか」である。

>検証できなかったんじゃないの?
    ↑
なかった派が検証して「インチキ」と判明するなら
「検証できなかった」というよりは「やらなかった」と
いうほうが正確だろう。
229グース:2001/03/12(月) 05:53
>>207 引用
>“安全区内で兵士が隠し持っていた武器”って話になっちゃうわけ?
    ↑
東中野教授の著書の文脈からすると「安全区内の掃蕩」と解釈できるから。

「南京虐殺の徹底検証」P184より抜粋。
>こうして安全地帯における第7連隊の掃蕩が12/14から
>始まった。〜略〜
>さて、第7連隊の「南京城内掃蕩成果表」(12/13〜12/24)

こういう感じになっている。

さらにP186「安全地帯の将兵は大量の武器まで隠匿していた」
と書かれていたので「安全区内での捕獲」と理解した。
「一時資料」にはあたってないので「わしの誤読」かもしれない。
「資料に基ずく指摘」なら早急に訂正する。

>1万平方メートルがなんで3キロ四方になんの?
    ↑
これは「ならない」な。完全な計算違いでした。

東京ドーム(47000平米)なら約5万人の死体は収容
できる計算だな。実際には機関銃による処刑では
「びっしりと死体を敷き詰める」とはいかないだろうから
処刑場の規模として「1万人の処刑」を行うには
「東京ドーム」くらいの面積が必要ということだろう。
230グース:2001/03/12(月) 06:08
また「数の議論」が復活してきたが(笑)

当時の南京市民「20万」は安全区にいた。
安全区での「大量虐殺」はなかった。
(これは一次資料により確認できる)

便衣兵掃蕩で一般市民も「安全区」から連行されたが
「ミニー女史の日記」によると「家族からの捜索願い」が
出されたのは「約700名」

恐らく1万人程度は「便衣兵」として処刑されたと推定
されるので「約1割」が市民だった可能性がある。

当時の資料によると「南京城内」その周辺部に合計で「約4万体」
の死体があった。=紅卍字会の資料、大阪朝日新聞、
ラーベ、ベイツ、ミニー女史らの記述も「4〜5万体」
(当然、戦死2〜3万も含む)
これ以上の死体が存在したという「記録はまったくない」

つまり「死体の数」に「虐殺派」からの反論がない以上
少なくとも「南京城区」においては中国の主張は「ウソ」
であり「笠原十九司」が描くような地獄絵図もまた
「想像にすぎない」ということなのねん。
231187:2001/03/12(月) 07:22
>また「数の議論」が復活してきたが(笑)

資料とか使わずにどこまで現実味があるのか考えてみたんですが。
死体の処理が駄目そうですね。トラックへの死体の積み込み、積み下ろし、
市外へ運び出す時間を全部合わせた時間を1体あたり6分、1日1万体の処理、
1日10時間休み無く作業すると仮定してトラック1台で1日100人が処理できるから
トラック100台を動員して南京で毎日死体回収をしないといけない。
う〜ん、こんな馬鹿なことするわけないな。
232日本@名無史さん:2001/03/12(月) 09:07
>227
>書いてあるんだったら「最初からきちんと」引用したら?
もともとの出典は毎日新聞(書いてあるよ)、洞富雄も引用してるし同じものを
秦氏も引用しているというだけ。どういう意図で出しているかは記しているし。
推論の垂れ流しばかりする人に言われたくないねえ。

最初から何も尋ねずに調べずに疑わしいとしているのはそちらだよ。
>@伝聞は確認されるまで「内容は判明しない」でしょ?
だから取り上げないなどというわけにはいかないでしょう。それなら裁判において
さえ証言の価値が全くなくなる。裁判所が「伝聞」にも頼ってることになるやね。
だいたいその伝聞には取り上げるにも値しない程の矛盾点があったのかな?

そもそも海外で戦死した人などはちゃんと「戦死」だと確認された人ばかりなのかな?
233日本@名無史さん:2001/03/12(月) 09:54
>>215
仮に日本軍が20万人いたとして@`
日本軍兵士20万人全員が中国人の処刑執行人であったとするのはあまり説得力がない。
戦闘・警戒任務とは別の「虐殺専門部隊」が編成され@`中国人無差別大量虐殺が行なわれたとみたほうが自然では。
234日本@名無史さん:2001/03/12(月) 11:05
>>209
>連射もままならない機関銃

>>174のリンク先を見ますと、日本軍の機関銃は弾着もよく集中しており信頼性も割と高いようですよ。

>中国軍の便衣兵の攻撃に気を
>つけながら、6週間、

“南京占領後に便衣兵から攻撃を受けた”という事例はあるのですか?
235日本@名無史さん:2001/03/12(月) 11:09
死体の処理といえば、川に流した死体はどのくらいあるのでしょうか。
236グース:2001/03/12(月) 14:42
>推論の垂れ流しばかりする人に言われたくないねえ。
    ↑
さて「資料に基づかない推論」をのべているのは
「虐殺派」だろうか「なかった派」だろうか?(笑)

>裁判所が「伝聞」にも頼ってることになるやね。
    ↑
だから「東京裁判」は問題なのだが(笑)
マギー牧師のインチキぶりは有名で「虐殺派」ですら避けて通る
のは「ご存知ない」ようだな。

@実際には「見ていない殺人」をあたかも「実際に目撃」したか
のように「裁判で証言」するのは許されるの?(笑)

>伝聞には取り上げるにも値しない程の矛盾点があったのかな?
    ↑
基本的に「法廷」は伝聞の検証をするところではない(笑)
(実際に起った事件)を裁くのが法廷。

>海外で戦死した人などはちゃんと「戦死」だと確認された人ばかりなのかな?
     ↑
ちゃんとした「戦死」の定義が不明だが(笑)
一般的にいうと戦死のなかには「行方不明」も含まれる。
(日本に帰ってこなきゃ戦死あつかい)
南方の島々では「玉砕=全滅」が多く、細かい記録は残っていない
場合が多い。その場合「全員戦死」となる。
小野田さんや横井さんのように「戦後、ジャングルから発見」される
兵隊さんもおるから、100%確実ではないにしろ「概ね正確」と言って
よいのでは?
237グース:2001/03/12(月) 15:19
>死体の処理といえば、川に流した死体はどのくらいあるのでしょうか。
    ↑
1000人以上〜1万人以下(推計)と思われる。
下関は水陸交通の要所なので「船舶の航行に差し支える」
部分の死体は早機に処理をした。(戦死体がほとんど)
約1000体〜数千体との証言あり。

2番目に「虐殺派」が主張する、処刑した捕虜の遺体を
河に流した(説)だが「これもちょっと無理」

冬期の揚子江は「堤防直下の川岸まで水がない」ので
「遺体を投げ込む」には、かなり沖まで行かないと無理。
ちなみに「川岸は泥濘状態」(泥だらけ)

下関の処刑場は、下関から約8キロ(渦子付近)あたり。
山田支隊=歩65の栗林証言のよると
歩65は全員総出で「死体を河に流そうとした」が、一日では
終わらなかった。結局この死体は「浅瀬に堆積」したまま
流れることは無く「翌春、紅卍字会が埋葬」した。
(この埋葬は記録に残っている)

@以上のことから「大半の処刑遺体」は川岸に放置された。
と結論していいと思う(埋葬記録も残ってるし)
238名無的発言者:2001/03/12(月) 17:36
>>233
近代軍隊だと戦闘部隊は総兵力の5割を切るね。
239187:2001/03/12(月) 23:14
>>234

http://member.nifty.ne.jp/chikuzen/gun/m_gun/11lmg.htm

11年式軽機関銃に関しては上記のアドレスに書いてあるとおり壊れやすく
よく整備していないとあまり信頼性が無かったと思われます。
240日本@名無史さん:2001/03/13(火) 00:31
マギー牧師はちっとも「避けて通られて」なんかいませんぜ。
怪我人や強姦被害者の救護活動が中心だったマギーが、その被害者と接して
得たことについての証言で価値はある。それでも日本軍弁護側の尋問に対し
実際に殺害を目撃したのは一例だと正直に答えている。
フィルムもあるね。「映像の世紀」で当該フィルム「と言われている」もの
が放映された際、ナレーションが全て伝聞形になってうれしかろう。

で、何を以て「インチキ」で「避けて通られて」「実際に目撃したか」のよう
に証言してるって?
松井大将一人の証言さえ一致させることができず、検察側の証拠・既にある
世界中の悪評を前にして、弁護側(日本軍弁護)が唯一なしえた有効な反撃。
しかし、それだけでは9ヶ月の期間15回もの審理の中、事態は到底有利に
働きませんでしたなあ。それが、裁判自体が伝聞に基づいたものばかりであると?

そういえば、事件に関する憲兵の報告書などの一切の公文書も「焼却した」と
言って提出されなかったようですねえ。
241世界@名無史さん:2001/03/13(火) 00:40
>>239
>戦闘射撃における故障発生率は210発に1発なり
210発で1回整備が必要な機関銃を射殺用に使うだろうか?

>日中戦争の頃には分隊単位での戦闘行動も考慮する必要になった。
>つまり1個小隊には4個分隊があったけどもその4個分隊すべてに
>軽機関銃を配備する必要があったのだった。
>(実際には89式重擲弾筒を2つか3つ持たせた1個分隊を
>つけていたので、軽機を装備したのは1個小隊で3個分隊編成だった)
数としては1分隊で1つあるかどうかということか?
242日本@名無史さん:2001/03/13(火) 01:23
http://member.nifty.ne.jp/chikuzen/gun/m_gun/92hmg.htm

92式重機関銃の説明読んでたら、

>給弾はベルト式ではなく保弾板式と呼ばれる金属の板に弾がずらりと
>並べてある方式で、これはホチキス式機関銃である38式機関銃から
>の仕組みで、悪くいえば骨董品的な給弾方法であったといえる。

しかも保弾板を20回も使いまわしたって、日本軍は機関銃でたくさん
弾を撃つのを嫌がっていたのか(藁
243日本@名無史さん:2001/03/13(火) 01:29
(本当に30万殺したかどうかは別として)
30万殺すのも不可能ではないと、いわれているのに・・・
参照>>211
244日本@名無史さん:2001/03/13(火) 01:31
>機関銃
なんか、連射数を下げてまで集弾率を上げたって書いてありますね。
245日本@名無史さん:2001/03/13(火) 01:32
犠牲者30万人としておくことが日中友好には不可欠です。
246日本@名無史さん:2001/03/13(火) 02:13
やっぱり貧乏日本軍は節約、倹約、一発必中を是としていたので
機関銃は贅沢だったのだなあ。
247グース:2001/03/13(火) 04:35
マギー牧師の証言について
>何を以て「インチキ」で「避けて通られて」「実際に目撃したか」
>のように証言してるって?

インチキなのは「目撃していない事件を」
「目撃したと語った」から(笑)

>」「実際に目撃したか」のように証言してるって?
    ↑
東京裁判での「マギー証言」を見れば一目瞭然なんですけど(笑)
(殺されるのを目撃した)(殺戮行為を組織的にやった)
(あらゆる方法で中国人を殺した)(溺死させた)
(多数の婦人や子供が殺された)(老婆を射殺)
      ↓
とマギー牧師は「さんざん言っておきながら」
反対尋問で「現行犯はどれぐらい確認したか?」
と突っ込まれると、
      ↓
「一人の事件は目撃した」(殺人事件)
と「二日間に渡る証言の大部分が伝聞」であることを
ようやく「認めた」のである。

反対尋問がなければ「伝聞だとは言わなかった」だろう。
なぜなら「伝聞した事件」については「上の証言」とは別に
「被害者から聞いた話」として証言してるから(笑)

あと「マギー牧師」が本当に目撃した事件は
「強姦2件」と「強盗1件」のみ。
そのうち「強盗事件」はアイスボックスを盗んだ(笑)
というもので「どういうわけか詳細な証言は無い」ようである。

@以上のことは「東京裁判」関係資料をあたれば「簡単に判明」
することなので、ちょっと「知識のある虐殺派」は「マギー証言」
を引用しない。

>「マギー証言」を引用しなくても「南京における日本軍」の
>蛮行はしょうめいできるか=(知識のある虐殺派の見解)
248グース:2001/03/13(火) 05:19
>>240 引用
>裁判自体が伝聞に基づいたものばかりであると?
    ↑
虐殺派らしい理論展開だな(笑)
全ての証拠が伝聞とは言わないが「伝聞が証言」が多かった
のも事実。あと「ウソの証言もな」

「マギー証言」について「90%が伝聞」
「ロバートOウィルソン証言」=日本軍の暴行については100%伝聞

「許伝音証言」=日本軍がロシア公使館に放火(1/1@`12時頃)
と証言するも弁護側から
「ロシア公使館が放火された事実はない。証人は夢でも見たのか」
と突っ込まれる(笑

裁判官は「弁護人は証言者の言葉をそのまま受け入れろ」
と「明らかに偏向」した発言で打ち切った。
その他にも「許伝音」は発言の訂正をしているので
「その証言は信用できない」というのが普通の見解だな。

@その他中国人の証言はほとんどが
「虐殺現場から生還した唯一の人間」だった(笑)
(伝聞も含めると10人以上が「唯一の生き残り」なのねん)

日本軍の処刑は不完全で「一人だけは生還」するという
奇妙な証言に「パル判事」も疑問を抱いている。

ちょっと「東京裁判」関係の資料にあたれば
「いかに馬鹿しい裁判」だったかは見当がつくだろう。
249日本@名無史さん:2001/03/13(火) 05:25
>>243
中国人たちを捜索し@`捕まえ@`処刑するために@`日本軍はどのくらいの部隊を投入したと思われますか。
まず中国人を「捕獲」しないと処刑できません。簡単に「殺す」と言われますが@`それにいたるまでの過程は容易ではありません。

250日本@名無史さん:2001/03/13(火) 08:13
 日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げになる上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなった。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜になったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、そのため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。またたとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺された。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにおこなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法でおこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬した死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わせて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わせると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラックを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測ではその他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定できるものであり、根拠のあるものである。

  高興祖(南京大学教授/通訳:袁広泉)より
http://www.mmjp.or.jp/nankin1937/gao1.html#SEC3


251日本@名無史さん:2001/03/13(火) 11:31
>>250
そういうさ、貼り逃げはやめろって(藁
252マザーグース:2001/03/13(火) 12:24
グースさんへ
今発売されている「自由」という論壇雑誌に
丹羽春喜大阪学院大学教授が
「スマイス調査が内含する真実を探る」を寄稿し
スマイス報告書が秦郁彦氏の意見を裏付けるもの
ではないと結論づけています。
僕にはこの議論にコメントできる力がまだないので
できればグースさんに論評していただきたいと
思っています。
253日本@名無史さん:2001/03/13(火) 15:01
>>249
捜索? 投降兵は捜索する必要ないじゃん。
「便衣兵」狩りは実際に相手が兵士かどうか調べなかったというんだから、
これまた“捜索”とは言えないしなあ。
254日本@名無史さん:2001/03/13(火) 15:49
みんな殺すことばかり考えて死体の処理のことは全然考えないのねぇ。
アウシュビッツで4年間に200万しか処理できなかったのにどうやって
日本軍が6週間で30万人も処理できるの?
無理がありすぎるよ。
255日本@名無史さん:2001/03/13(火) 16:27
>253

背中に背嚢や銃の痕があるかを調べていたよ。
256日本@名無史さん:2001/03/13(火) 19:08
>>255
基準がそれだけだと思ってるの?一般人なども連行された証言も
いっぱいあるよ。こいつは兵じゃないから帰してくれ、と日本人が
いったらあっさり帰ってきたとかね。
257日本@名無史さん:2001/03/13(火) 19:11
>>254
アウシュビッツで処刑していたのはどんな人達でした?
どれくらいの人達でした?
家の前や川岸等々人目に触れて誰にでも(許可さえいらなければ)
処理できるところに死体がありましたっけ?
258グース:2001/03/13(火) 20:42
一応突っ込んどくか(笑)
>>250 引用
>「被害総数30万人以上」という数字は肯定できるものであり
>根拠のあるものである。
     ↑
日本の「大虐殺派」でもせいぜい「20万人以上」
笠原十九司は「15万以上20万に近いか、それ以上」
という見解で「30万という数字は確定」できないでいる(笑)

結論 「中国の主張」30万人虐殺の根拠はない(笑)


259グース:2001/03/13(火) 21:03
>>250 引用
崇善堂の11万埋葬については「前スレ」で散々やったので
簡潔に説明するが「崇善堂が1938年当時埋葬したと言う一次資料」
は存在しない。
また「外国人の記録にもない」「日本側の記録にもない」

@崇善堂埋葬にかかわる資料は「全て戦後」の作文である。
結論 崇善堂埋葬記録11万は「全く信用できない」

>1954年の元日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で
>書いた次のような申し開きである。
     ↑
これも「戦後の資料」拷問か洗脳で無理やり自白させられた
としか思えない電波な内容だった。

>運輸兵を800名選抜し、トラックを配備し、船舶で死体を運送した。
>太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田が処理したのが
>19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。
>彼の推測ではその他の部隊の処理したのが約5万体あり、
>あわせて15万体の死体を処理した。
   ↓
これらの「大田供述」は100%否定されている(笑)
260日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:08
>>243
あんなものは証明と言わない。

中国人が屠殺される豚のように待ってればという一番無理な仮定が
必要だからな。
261日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:28
>260
日本軍の10分の1である1万人で
(これも日本軍の人員が10万程度であるという少数派=否定派の意見
に基づいて)
一日あたりたった一人殺しただけで、40万殺せるのだよ?

262日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:34
>>247
引用しない=インチキ、避けて通っている
などとするのは余りに単純ですわ。
そもそも、君は「否定論13のウソ」読んだのではなかったの?

>「マギー証言」を引用しなくても「南京における日本軍」の
>蛮行はしょうめいできる

他の証言も記録も多々あるのでこんなことは当たり前。


>反対尋問がなければ「伝聞だとは言わなかった」だろう。
反対尋問があって正直に答えたのは、かえってそれまでの発言が「伝聞」だと
されても何の不都合もなかったからでしょうね。いや推定だけど。

しかし、そちらの言うことも間違いではないことは認めますよ。
「伝聞」であるということを、事実が存在しなかった「可能性」に
かけるそちらの言い分も認めますよ。

周辺の諸事実・証言と鑑みても一致せず、一貫性のない不審な証言を繰り返した
日本軍側の証言者に比べれば遙かに印象はよかったことでありましょうが、
中国人が連行されていくのを目撃し、殺害の跡に死体が放置されているのを目撃し
殺害場面だけは伝聞、というものなども伝聞は伝聞ですから。
他の証言等々とつきあわせを行って特に矛盾のあるものではなくとも、伝聞は伝聞
だからね。
そのような態度はどんな事にもどんな人にも一貫して持っていただけるのだろうなあ。
例え日本軍でも。

>そのうち「強盗事件」はアイスボックスを盗んだ(笑)
これですね↓

日本の兵隊は、日本総領事館の通告に何ら考慮をはらうことはありませんでした。
また、外人の財産に対する「アメリカ」の大使館の通告に対しても、何ら考慮を
払うことはありませぬでした。時々私は日にちは覚えて居りませぬが、日本の兵
隊が「トラック」で、中山陵方面を「トラック」一杯に冷蔵庫(アイスボックス)
等を積んでいくのを見ました。

で、後に南京に駐留する外国人が嘆願書に署名をし、日本大使館に
非道な行為を止めるよう伝えたと。
日本軍はたいそう行いがよろしくなかったようですね。
263日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:36
南京事件に対するパル判事の意見だって忘れないでね。
---------------------------------------------------------------
いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠にたいして悪く
いうことのできることがらをすべて考慮に入れても、南京における日
本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐は
ほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、
続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、
ようやく二月六日あるいは七日すぎてからである。
弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。
かれらはたんに誇張されていることを愬えているのであり、かつ退却
中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。
----------------------------------------------------------------
日本軍の行いは凶暴だったようで。
----------------------------------------------------------------
この事件において提出された証拠の宣伝と誇張を出来うる限り斟酌しても、
なお残虐行為は日本軍そのものが占領したある地域の一般民衆、はたまた
戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である。
-----------------------------------------------------------------
圧倒的だそうで。
264日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:42
これだけの虐殺がなされた中で、強姦二例強盗?一例しか目撃できなかった
マギー牧師って一体・・・
現地にいて阿鼻叫喚の現場を目撃しなかったんだろうか?
265グース:2001/03/13(火) 21:48
>>259 の続き。
まず「大田供述」によると
「12/13日陥落直後の南京到着」
「12/15日早朝、輸送船に乗って同日、下関到着」となっている。

これが「真っ赤なウソ」(笑)
12/13日は「各所で戦闘」が行われていて
「陸軍部隊が下関に到着」したのは「12/13日午後3時半頃」
「海軍の砲艦(保津、勢多)の下関突入=午後3時40分」

軍艦以外の貨物船などが南京に寄航できるようになったのは
「12/18」日以降のことである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは「中国軍が設営した機雷の除去」に手間取った為なのねん。

2番目に「安達少佐」は「梶谷軍曹」と行動を共にしており
「下関到着は12/14日の午後」=梶谷日記及び手記
     ↓
つまり「安達少佐」の「13日下関到着はウソ」「14日の死体処理も無理」

さらに「12/17日」は入城式。「12/18日」は慰霊祭。
佐官級の将校は「当然出席」しなかればならないので
    ↓
>16.17.18日で35000人の死体処理をした
>安達少佐は東部地区、大田が西武地区を担当した
(以上、大田供述の要約)
これも「不可能」ということ。    

梶谷日記によれば
@碇泊司令部の死体処理は26日より2日間。
@兵士10名、労働者40名で「水際の処理のみ」
@処理した数は「約1000体」
@全て「河に押し流し」わざわざ運んで「埋葬、焼却」したものはない。
@生存者はもちろん「女、子供」の死体はない。

まぁ「以上の検証で十分だと思うが」(笑)
さらに「ダメ押し」
当時揚子江上いた「アメリカ、イギリス」の船舶が
「死体を満載した30隻以上の日本船」を見たと言う記録は無い。

@結論 「大田供述はでっちあげ」
@結論2 「虐殺派はまたしてもインチキな情報を垂れ流した」
266日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:49
>>264

怖くて怖くて目と耳を塞いで6週間をすごしていたんでしょう。
267日本@名無史さん:2001/03/13(火) 22:25
>>264
だから、怪我人や強姦の被害者の救護にあたってたんだってば。
268日本@名無史さん:2001/03/13(火) 22:26
>>261
それは@`日本軍兵士1万人が@`1日1万の「中国人」を捕らえ,機関銃の前へ連行し、
「完全に」処刑できればの話。
269日本@名無史さん:2001/03/13(火) 22:54
>>268
君わざとやってるでしょ。

全兵力の(それもいくつか説がある中で最低の数)10分の1の人数が、
一日一人殺していくことは(機関銃だなんだと関係なく)そんなに難しいのか?
270日本@名無史さん:2001/03/13(火) 23:02
>>269
「殺す」のは簡単だが、「捕獲」が困難。
271Dearグース:2001/03/13(火) 23:10
>>228
>「存在しない虐殺」があったと主張している。
>つまり「著者」以外には目撃者のいない「虐殺があった」
>ということだ(笑)
質問の仕方が悪かったかな。
俺としては虐殺派が東日記を引用してどんな「虐殺場面」を
虐殺派が「証明」しているか確認したいので、件の日記を
使用している本(虐殺派の書いたやつね)を教えてくれないかな?

>「虐殺派」推薦図書においては「検証されたという話」
>は聞かない。よく引き合いに出される
>「南京虐殺を記録した皇軍兵士」(だったか?)は
>「東日記」の引用があることから「検証作業」をしていない
>ことが「あきらか」である。
あの…あなた、もしかして虐殺派の本を読んでいないの?
俺は虐殺派の本と否定派の本を読み比べようとしたけど挫折したんだよね。
ところがあなたが自身満々で「虐殺派はインチキだ」って言うから
色々質問してみたんだけど。
そもそも、書名もはっきりと覚えていない本の中で東日記が
どういう風に引用されているかを覚えているの?
(虐殺があったかどうかの)真実はどうあれ俺としては
そんな「二次資料」を軽々しく信用するわけにはいかんのよ。
(特に2ちゃんではね。)
272Dearグース:2001/03/13(火) 23:15
>>271の訂正。
>俺としては虐殺派が東日記を引用してどんな「虐殺場面」を
ここは『「船橋照吉」や「曽根一夫」を引用して』の間違い。
273日本@名無史さん:2001/03/13(火) 23:26
>>269
日本軍が各地で虐殺を繰り返しているという噂を聞いて
逃げる人々はいなかったのかってこと。
用は南京に留まった人々の何人中何人が殺されてその他何人が逃げたかってことよ。
274あほらしい:2001/03/14(水) 00:51
>>273
過去ログたどって、きちんと話の筋を理解しなさい。
275gu-su :2001/03/14(水) 01:45
>日本軍はたいそう行いがよろしくなかったようですね。
    ↑
否定はせんよ(笑)

>南京事件に対するパル判事の意見だって忘れないでね。
    ↑
ここが問題だな(笑)
虐殺派は都合のいい引用しかしないから。
結論だけ言うなら「バル判事=日本無罪論」ってことになるのでは?
     ↑
とまぁ「こう言う主張」もありうるわけでね(笑)

それでは「バル判事」の有難いお言葉を検証しよう。
>ベイツ博士が証言したように、残虐は ほとんど三週間に
>わたって惨烈なものであり、合計六週間
      ↓
ベイツの証言は「一応採用」したわけだ。
当時のアメリカと日本の関係は理解できると思うが「ベイツの反日活動」
は有名だった。
裁判において「ベイツ氏はノートを読みながら」証言し
「スマイス博士」の調査報告を「捻じ曲げて引用した」
(城内で12000人の男女及び子供を含む非戦闘員の殺害)
という部分がそれである。

>弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。
    ↓
「残虐行為=捕虜処刑」と言う事であれば否定はできなかった。
また「少数ではあるが」兵士の犯罪行為もあった。
だから「否定」はできずに「中国の主張は過大である」としか
言えなかった。
 この部分の解釈が「現在の南京論争」の発端でもある。

>戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である。
    ↓
「戦時俘虜」にたいしてね(笑)
つまり「捕虜や敗残兵」を処刑したことは否定できないということ。

@以上を総合して考えても「20万〜30万」というような虐殺を
バル判事は認めなかったと言えるのではないか?

つまりバル判事の意見は
「検察側の証拠は怪しいものが多いが、あまりに数が多いので
(少しはやった)んだろう。しかも日本軍は「犯罪行為」を否定
していない」という風に理解できる。

結論 バル判事の意見は「南京大虐殺を認めたものではない」
276グース:2001/03/14(水) 02:15
もう一つ「バル判事」の有難いお言葉を(笑)「要約」

まず「南京における残虐行為」の話について。

米国南北戦争における「獄中の虐待」については、後日になって
ほとんど否定されているが、「憎悪心」を喚起する為に企画された
「宣伝の重大な要素」だったとの=論文を引用

そして「具体例」に言及した。
(首を斬ってサッカーをやった)(俘虜を切り刻んだ)
(牢獄で窓から外を見たという理由で殺害された)
(負傷者を射撃のマトにした)(銃剣で刺し殺した)
(死体は山と積まれ、ネズミや犬の餌食となった)
@「週刊誌は敵軍の兵士が、負傷兵の体に銃剣を突き刺してる写真」
を公表した。(以上は米国の南北戦争の話なのねん)

そして「上のような話を数多く挙げて検証する必要は無い」
「我々の前には(南京虐殺)の証拠が提出されており、その
「証拠」に基ずいて独自の決定をしなければならないのである」

「俘虜が至る所で残忍な番兵や、凶悪な看守に遭遇した点に、
また詳細に描写された種々の残忍行為に類似した所がある」

「脱出する話にも、多分に一致した所がある点を見逃しては
ならない」

「ほとんど全部の殺戮事件において、常に一人の人間が、
不思議なほど類似した状況の下に脱出している」

とまぁ「常識的」な見解でしょ?
「虐殺派」の学者はこれを読んで(当然読んでるはず)
どう思ってるのか「聞いてみたい」わい(笑)
277グース:2001/03/14(水) 02:31
バル判事の「マギー牧師と許伝音」批判

上の「証人」の話を「曲説とか誇張」とかを感じることなく
読むことは困難である。
(そしてマギー牧師と許伝音の証言批判が続く)

証人は「躊躇無く強姦事件と主張している」
「ある部屋の中に、一人の兵隊と一人の中国娘がおり
その兵隊が眠ってるところを発見したと言う場合においても
それは強姦したあと寝たのだ=と、言えることになる。

「また証人はこの話をするにつれ、自分の語っていることに
疑いはないと、ほとんどその気持ちになっているのである」
    ↑
虐殺派のみなさん「コピペ」する時「こういう気持ち」
なのでは?
   
278日本@名無史さん:2001/03/14(水) 03:02
>>275
>結論だけ言うなら「バル判事=日本無罪論」ってことになるのでは?

とりあえず南京に限れば、パル判事の(南京の場合松井石根に対する)
無罪論は、南京事件の事実認定をした上で「どの程度まで被告に責任を
負わせるか」という段階での無罪論だよ。事実認定には関係ない。

>「戦時俘虜」にたいしてね(笑)

「一般民衆」とも書いてあるが。

>@以上を総合して考えても「20万〜30万」というような虐殺を
>バル判事は認めなかったと言えるのではないか?

パル判事の意見には数値は記されていないのに、またまた数を出してくる君
の言うことは的はずれ。
数が30万でなければ、どんな論が展開されていようとも構わないの?
君が攻撃しているのは虐殺派と呼ばれる者の論理ではなかったの?
パル判事の最終的な意見は、概論としては虐殺派の言ってることとほぼ同じだよ。

そちらがだらだらと書き連ねて下さったパル判事の細かい見解があっても、>>263
のような意見・結論に到った意味をよくよく考えなさいな。
さらに言えば、現在ここで裁判を行っているわけではないのだ。そちらが書
き連ねたパル判事の見解は松井石根等々を裁き刑を課す「裁判」における見解
(それも何十年も前で、後には裁判の際提出されなかった日本軍・外国人の資
料も多々発掘されている)であることを忘れてはいかんよ。
279日本@名無史さん:2001/03/14(水) 03:20
「三光作戦」では
1940年1月25日にて河北省潘家峪
そのころ村には,241戸約1500人が住んでいた。しかし出稼ぎや村外の親類へ行った者が200人ほどいたので,実際には1300余人が常駐していた。「燼滅作戦」でこのうち1230人が殺された。
この作戦に日本軍3000人・傀儡軍2000人が参加し、機関銃も装備していた。
この計算で6週間に10万人の処刑を行なうとしたら、1万人の「虐殺部隊」に充分な弾薬・自動車が供給されれば可能。
280279訂正:2001/03/14(水) 03:27
1940年1月25日にて河北省潘家峪→1940年1月25日河北省潘家峪にて
281グース:2001/03/14(水) 03:27
相変わらず「恥さらし」だな >>278

>パル判事の最終的な意見は、概論としては虐殺派の
>言ってることとほぼ同じだよ。

「おいおい都合がよすぎないか?」
マギー牧師の証言に「価値」があるっていう主張は?(笑)
その他「裁判での証言は信用できる」とも言ってたよね?

@「バル判事は=虐殺証言はあやしい」って言ってるんですけど。

「虐殺派」はこれだからなぁ(笑)
ていうか「バル判事の意見書」読んでないだろ?

「南京城及びその周辺において殺害されたものの見積もりは
26万ないし30万」
     ↑
(検察側の南京事件)=この物語の全部を受け入れることは
いささか困難である。

これが「バル判事」の言葉なのだがね(笑)

あとは「読解力」の差だろうな(笑)
バル判事の意見は「秦教授」の意見に近いと思うがね。

「虐殺派」とは「まったく違う」よ(笑)
「証拠に対する考え方が全く違うだろ?」(笑)
あんまり「幼稚」な事は言わないでね。
おなか痛くなった=笑いすぎ。
282グース:2001/03/14(水) 03:43
>>278
分かりやすく説明しよう。

すでに「前スレ」でも「現在のスレ」でも
「証言を重視して引用」してるのは=虐殺派だよな?

「なかった派」は「資料をもとに検証」してるよね。

バル判事の態度は「紛れも無く後者」だろ?
だから「証言は怪しいが、全部は否定できない」
という結論になる。
    ↓
これは「秦教授」の考え方に近い。

少なくとも「虐殺証言を理論の主題にした」=笠原十九司
とは「全く違う」(笑)

現在は「ラーベ日記」「ミニー日記」の発掘により
「虐殺の反証」が可能になっているが「バル判事」の時代には
いま、ワシらが議論している「南京の人口」「防衛軍兵力」
「死体の数」「埋葬記録」について「ほぼ中国側の主張」
を認めるしかなかった。
(人口問題のついては裁判官が妨害した)

この辺の状況を考えて「バル判事」の意見書を読み直して
みれば?(笑)
283>279:2001/03/14(水) 04:08
南京戦に参加した人数は、諸説の最低をとっても10万程度。
284グース:2001/03/14(水) 04:27
>>252
興味深い論文だが「マイナー誌」のせいなのだろうか
「本屋になかった」
ネットで注文したいので「出版社」と「何月号」かを
教えてねん。
285日本@名無史さん:2001/03/14(水) 08:46
パル判事の「最終的な意見」は「概論として」はといっておろうが。
「裁判での証言は信用できる」とはどこに書いてあるの?
マギーの話は、虐殺派も避けてとおる、インチキ、等々そちらが言
っていた話からはじまっているのであって、意味が違う。
君は歴史の研究における上での話をしているのか?
誰かに対して罪を裁き刑を科す裁判でもしているつもりなのか?
他の部分もよく読みなさい。(まあ無理だと思うけど)

>26万ないし30万
>この物語の全部を受け入れることはいささか困難である。

これを全部受け入れている者が日本の学者にいるかい?

>バル判事の意見は「秦教授」の意見に近いと思うがね。
君の論理は秦郁彦とも全く異なるよ。そもそも東中野など使っているではないか。
秦と東中野の論理は雲泥の差があるのは承知の上だろう。
笠原に対してだけに下手なレッテル貼りをする前に、秦郁彦と東中野の論理も
両立し得ないことを理解せよ。数にしか目がいかない人には無理だろうけどね。
286日本@名無史さん:2001/03/14(水) 08:47
そういえばここには「なかった派」に対して、秦郁彦の論に対する見解を尋ねる
書き込みがあったが誰も答えてないな。
287マザーグース:2001/03/14(水) 09:50
>>284
グースさんへ
大変失礼しました。以下の通りです。
  「自由」自由社 2001年4月号
   定価510円
   編集者 加瀬英明
   発行者 石原萌記
   「スマイス調査が内含する真実を探る」
     ー虚構の南京大虐殺ー
   43ページから55ページまで
288世界@名無史さん:2001/03/14(水) 18:07
>285
>パル判事の「最終的な意見」は「概論として」はといっておろうが。

26万ないし30万人の虐殺があったと言う人と、
「この物語の全部を受け入れることはいささか困難である」
と言っているパル判事の意見が「概論として」同じ?
その根拠を示してくれよ。

>笠原に対してだけに下手なレッテル貼りをする前に、秦郁彦と東中野の論理も
>両立し得ないことを理解せよ。数にしか目がいかない人には無理だろうけどね。

オマエモナー。
289日本@名無史さん:2001/03/14(水) 18:23
三光作戦は中国側の作戦。
290日本@名無史さん:2001/03/14(水) 21:50
>26万ないし30万人の虐殺があったと言う人と
誰?当然日本の研究者だよね?
291名無しさん:2001/03/14(水) 21:50
南京事件がプロパガンダだということは世界で常識だ。
国民党宣伝部は欧米の通信社に金を出して記事を書かせ、担当者は
さらにバックマージンまで取っていたという。

30万人を拘留するのには後楽園が8つ必要だ。
巨大炊事場の後もないし、糞尿の巨大処理設備もない。
水を与えた記録もない。公文書がない。
日本にないだけでなくシナ側にない。

何もない。ないはずだよ事件がない。
あるのはつじつまの合わない洗脳作文、偽写真、偽証言だけだ。

アイリスチャンは米国籍だが、行動がおかしい。
CIAが不審に思うのではないか。
292日本@名無史さん:2001/03/14(水) 21:54
>>263のようなことを言う虐殺否定派はいないよ。
293日本@名無史さん:2001/03/14(水) 21:58
>>287
加瀬英明って、韓国人のふりして『醜い韓国人』て本書いた人ですね。
294日本@名無史さん:2001/03/14(水) 22:34
>>293
286の論文を書いたのは
丹羽春喜大阪学院大学教授であり、
ケインズ経済学者です。
295日本@名無史さん:2001/03/14(水) 23:33
>>294
概要だけでも教えてくれませんか?

しかし、秦郁彦自身も最近はスマイス報告よりはラーベや東京裁判の
最低数を意識している節があるようだけどね。
296日本@名無史さん:2001/03/15(木) 01:25
6週間で10万人以上の無差別虐殺は、計画的・組織的でなくては不可能だと思います。
悪質な兵士による暴行・殺害だけでは2万〜3万(一般人)が精一杯じゃないでしょうか。
杞憂かもしれませんが中国の「30万説」を受け入れることは、
「南京事件」は意図的・計画的に行なわれたものである、
ということにされてしまうのではないでしょうか。
どっちにしろ、「戦争犯罪」に違いはありませんが、
計画的・組織的であるか、突発的暴走による犯罪かで「南京事件」の評価は大きく変わると思います。
297グース:2001/03/15(木) 04:25
>秦と東中野の論理は雲泥の差があるのは承知の上だろう。

「どこが?」
基本的に「捕虜の処刑」「便衣兵」の扱いという「見解の相違」
だけだと思うがな(笑)

大虐殺派=15万〜20万「崇善堂」埋葬記録を採用
中間派=2〜6万「崇善堂」埋葬は完全否定
まぼろし派 1万以下「捕虜処刑は合法」とし中間派の数字
      (2〜4万)から合法殺害をマイナスする。

このように分類できる。
わかりやすく言うと「公的な一次資料」のみで「南京城」とその周辺
だけの虐殺を計算すると「約2〜4万」となる。
「この数字は中間派もまぼろし派も使用している」

@つまり「秦教授」と「東中野教授」の差は「それほどない」

虐殺派は「一次資料に独自の推計」を加え、さらに「崇善堂埋葬記録」
を証拠採用しているので「15万〜20万以上」となる。
本多、笠原、藤原、井上(こいつは30万っていいそう)、滝谷
吉田、小野、渡辺春己、洞富雄、などが含まれる。

@秦教授と「虐殺派」は採用している証拠が全く違うので
見解の相違どころの話ではない。まったく別物である。

>「なかった派」に対して、秦郁彦の論に対する見解
     ↑
秦教授の説は「基本ライン」として捕らえてる。
つまり「ここから国際法の議論がはじまる」と考えてねん。
   
298グース:2001/03/15(木) 04:50
>>295
ラーベの「5〜6万人」って話だがあれが結構「悩ましい」のねん(笑)

略さずに引用してみる。「南京の真実」文庫版P362

>中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとの
>事ですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。
>われわれ外国人はおよそ5万から6万とみています。
>遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日200体は
>無理だったそうですが、私が南京を去った2/22日には
>3万の死体が埋葬できないまま下関に放置されていたといいます。

問題なのは「5〜6万」という数字が「民間人のみ」を指している
のか「軍民併せて」という意味なのか、がはっきりしない。
「どっちにも読める」から困ったな(笑)

あともう一つ付けたすと
「下関には3万の埋葬されない死体があったという」
が、その後「紅卍字会が埋葬したのは」=「約1万体」

つまり「ラーベの言う5〜6万」には当然「下関の死体も含まれる」
ので、過大に見積もった「下関の2万」をマイナスすると
      ↓
@「ラーベは南京での犠牲者が3〜4万」と見ていたことになる。

さて「皆様はどう思いますか?」
299日本@名無史さん :2001/03/15(木) 07:00
おいおい、秦はラーベ日記の史料的価値を認めているが
東中野はラーベの日記は全てウソだと言ってるぞ。
300日本@名無史さん:2001/03/15(木) 11:37
秦氏は、
南京の人口についてラーベは安全区の人口は言っているが市全体の人口ではないといって
いる。
中国兵の数も、10万。笠原等の言う15万も全く否定してはいない。
陣中日記等日本側の史料も多々使っている。

笠原だって、城市内とその付近だけで20万とはいっていないし
城内だったらラーベの数も否定していない。
秦氏は近郊農村を含まない(でしょう?笠原がそれらを含むことを批判しているのだし)
数が4〜6万(先のリンク先にあった英文=1998年=での推定)だから・・・

城内と付近の数だけで言えば、笠原も秦も同じくらいだよね。
事件そのものの内容については、両者とも同じようなこと言ってるし。
301にしても:2001/03/15(木) 11:42
誰が埋葬記録だけを史料としてるっちゅうねん・・・
わざと相手を馬鹿らしく見せるためにやってるとしかおもえんわ・・・
302日本@名無史さん:2001/03/15(木) 11:45
で、東中野とパル判事の事実認識(>>263)は比べてどうなのかなあ?
303グース:2001/03/15(木) 21:51
なんか勘違い多いな(笑)
分類すれば「秦教授」説は「否定派と共通」するものが多い。
ということなののだが(笑)
「虐殺派=笠原説」ではあるが、中間派、まぼろし派は
それぞれ「微妙に見解がちがう」これは当然。

「秦教授」=「東中野」ではないよ(笑)

>秦はラーベ日記の史料的価値を認めているが
>東中野はラーベの日記は全てウソだと言ってるぞ。
    ↑
これも「検証の結果」東中野教授の結論として「ラーベ日記」は
信用できない、という「資料批判」であり「完全否定」というわけでもない
と思うが?

>笠原だって、城市内とその付近だけで20万とはいっていないし
     ↑
笠原は蝙蝠だからな(笑)
「笠原」説では「12/13日南京城に40〜50万市民が残留」としている。
虐殺ではなかったら「その市民はどこにいったのかな?」(笑)

>笠原等の言う15万も全く否定してはいない。
    ↑
「笠原」説は「15万中、捕虜になったのが8万」
「秦教授」は「捕虜になった数として3万」
明確な否定はしてないが「参考にすらしていない」

>陣中日記等日本側の史料も多々使っている。
    ↑
東中野だって「陣中日誌」使ってるよ(笑)

>城内と付近の数だけで言えば、笠原も秦も同じくらいだよね。

「ウソはいかんよ」
笠原は「捕虜殺害だけで8万」「その他に南京市民=数万」
としているのだがね。
「笠原」は言う事が「コロコロ変わる」から信用できないのねん。

>>302
>東中野とパル判事の事実認識

違って当然。まず時代が違うし「証拠の質、内容」も違う。

>誰が埋葬記録だけを史料としてるっちゅうねん
    ↑
では「インチキ埋葬記録」はやっぱり「否定」ということで
いいのかな?(笑)

@何度も言うが「中間派の代表が秦教授」4〜6万
そこから「捕虜の合法殺害」をマイナスしていくのが
「まぼろし派」
304日本@名無史さん:2001/03/16(金) 00:12
ラーベも、単に20万と言ったり、陥落直前20万以上、と言ったり
そのときの気分で大ざっぱに言ってるところがある。

安全区は当初20万位居たであろうが、5〜10万が城内の空き屋に
潜伏していた可能性はラーベの20万以上という言葉と、1月17日
の日記内容「・・増えた5万人は廃墟になったところに住んでいた人
達だ。・・」から充分に信用出来る。
また11月23日時点で50余万という公文書記録があるし、そのころには
既に金持ちの大部分は避難済みで、交通機関を利用しにくい貧困層がさらに
30万も揚子江対岸に避難出来た可能性は低い。
また長いこと働けず、金の無い貧困層が1月に揚子江対岸から有料の渡し船に
乗って戻ってくることは、さらに考え難い。
結局、廃墟に潜伏した住民を含め、30万位が残った可能性は高い。
潜伏者の内、日本軍に発見されて殺害された者もいるだろう。

以上の理由により、グースが「20万」と限定してしまうことには
納得しかねる。
305日本@名無史さん :2001/03/16(金) 00:33
>グースwrote
>「笠原」説では「12/13日南京城に40〜50万市民が残留」としている。
虐殺ではなかったら「その市民はどこにいったのかな?」(笑)

笠原はこんなこと言ってないがな。ソースは?
前のスレでも書かれたが
笠原が言った40万〜50万とは、広義の南京攻略戦開始時期
(日本軍が上海戦区と南京戦区を分ける進出制令戦を突破した時期
=11月19日前後)
の人口を言ったのであり、それは11月23日付け公文書の50余
万と一致しているがな。
306305:2001/03/16(金) 00:57
進出制令戦×。進出制令線◯。
307本多勝一「南京への道」より:2001/03/16(金) 03:51
南京攻略戦では上海派遣軍に「野戦瓦斯第一、第二中隊(甲)と野戦瓦斯第七小隊」、
また、第10軍に「野戦瓦斯第六中隊(乙)と野戦第八小隊」、つまりそれぞれ毒ガス隊が居た。
のちの中国戦線で大規模な毒ガス作戦が実施されることになるこの重大な国際法違反は
日中戦争当初から計画されていたのであった。
南京へ進撃中の兵隊の陣中日誌にそれが書かれている例もある。
虐殺に使われた可能性もあり、次がそれにあたる。

一個所に集まった数千名の中国軍正規兵の屍体を目撃したことがあります。
それほどの数の正規兵の戦死体を見たことは後にも先にもないことでした。
その死に様が妙なのです。まず外傷がないこと、
それから倒れている位置が下関の土堤下恰もやっとそこまで這いおりて、
力尽き、呼吸が絶えたという格好に見受けられます。
「あれはガスにやられたんじゃないか」と私達は噂しあいました。
(藤原審爾編「みんなが知っている(百万支那派遣軍による中国婦女子の受難)」)
308グース:2001/03/16(金) 04:11
>>304
>ラーベも、単に20万と言ったり、陥落直前20万以上、と言ったり

「約20万人」ということでいいのでは?

>「笠原」説では「12/13日南京城に40〜50万市民が残留」
      ↑
「南京事件」岩波新書P220
>南京攻略戦が開始されたとき「南京城区にいた市民」は40〜50万
「南京虐殺否定論13のウソ」P86にも「同様の記述あり」

なるほど笠原十九司は「広義の南京戦」とは「記述しないで」
読者を騙したわけだな訳だな(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
こういう「日時を書かない人口推定」が笠原を含む「虐殺派」
の学者の卑怯なところだろう(笑)

「南京事件」笠原十九司P133 要約(南京陥落の時)
>(日本軍が攻めてくるという情報)恐怖の情報が
>居住区(自宅)に残留していた10数万の市民を震撼させた。
     ↑
こういう記述がある。
「安全区に20万」「居住区に10数万」合計「30万人以上」
と笠原十九司は言っている。

ちなみに
「居住区に10万以上も市民が残っていた」という資料はない。
309本多勝一「南京への道」より:2001/03/16(金) 04:16
徳川義親の自伝「最後の殿様」(講談社・1973年)には、この大群衆に機関銃掃射を命じた参謀のことが次のように描かれている

ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。
殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。
今日では南京虐殺はまぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは、数万人の中国民衆を殺傷したということである。
しかもその張本人が松井岩根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、
藤田(勇)くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
長中佐は藤田くんにこう語ったという。
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子供を交えた市民の大群が怒涛のように逃げていく。
そのなかに多数の中国兵がまぎれている。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。
そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。
中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士は躊躇して撃たなかった。
それで長中佐は、激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに斬り殺した。
驚いたほかの兵隊が一斉に機関銃を発射し、大殺戮になったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、
藤田くんは驚いて、「長、その話だけは誰にもするなよ」と厳重に口止めしたという。
310グース:2001/03/16(金) 04:32
>>304
疑問のもち方は正しい。
だが「80万市民が脱出」という記述が「ラーベ日記」
12/6日の記述にあることは無視できない。
(その上でラーベは残留市民約20万としている)

また「アチソン報告」でも「市民の4/5が南京を脱出」
という「ラーベ日記」を裏付ける記述がある。

また「12/5頃」には城門の通行はかなり制限され
「12/8日」には「完全に閉鎖」されている。
(城外の敗残兵すら入れない状況)

さらに「12/8」日には防衛軍司令官「唐生智」が
>すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない。
との避難命令を出している。

南京陥落は12/13日。
少なくとも「安全区に避難する時間は5日間もある」
避難命令を無視すれば中国軍による「銃殺」もありうる。
(ミニー女史の日記に軍の命令に従わなければ銃殺との記述)

以上の条件を考察すれば「安全区以外に10数万も市民」が
いたわけはないのねん(笑)
311本多勝一「南京への道」より:2001/03/16(金) 04:33
守山(義男)氏は、朝日の従軍記者として、その事実をまのあたり見てきた人である。
南京を占領した日本軍は一度に三万数千の中国人、しかも、
その大部分が老人と婦人と子供達を市の城壁内に追い込んだ後、
城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射を浴びせて皆殺しにしたそうである。
そのとき南京城壁のなかは、文字通り死体の山を築き、血の海に長靴がつかるほどであったという。
(篠原正瑛「西にナチズム東に軍国主義」ー「日中文化交流」157号)
312グース:2001/03/16(金) 05:02
>>304
ごく一部の市民が「自宅に残留」した可能性はある。
だがその数は「数百人程度」だろう(根拠は無いが)
すくなくとも「10数万という数」ではない。

12/13南京が陥落し日本軍が「殺戮」を開始したとするならば
その辺りにいた市民はどうするだろうか?
@「安全区に逃げこむしかない」のである。

ところが「12/13@`12/14」と安全区に多数の避難民が殺到したと
いう記述はは無い。
「日本軍が市民を殺しまくってる」という噂すらないのである。
(レイプ事件の噂はある)

ミニー女史の日記 12/14日
>日本兵によって無理やり家を追い出された人の話や
>日本兵の略奪の話も耳に入ってくる。
との記述がある。

つまり「虐殺の事実」はなく「レイプと略奪」の噂しか
安全区には流れなかったと言う事だ。

仮に12/13日の時点で、南京の人口が「22〜23万」だったとしても
翌月には「25万程度まで増加」しているので
「市民大量虐殺はなかった」と考えるのが自然なのねん。

>「20万」と限定してしまうことには納得しかねる。
     ↓
あくまでも「一時資料」によれば「南京の人口は約20万」
もちろん概数なので「1割程度の上下はあると思う」
313グース:2001/03/16(金) 05:22
>>311
ちょっと「話が戻る」が>311のような「つくり話」
を信じてるのが「虐殺派」の学者なのねん(笑)
(笠原十九司、他多数)

中間派「秦教授」の説では「311のような事件は否定」
以下「まぼろし派」も激しく否定。

>311に該当するのは「把江門」での「つくり話」だが
詳細は >>186 で説明済みなので「興味のある人は参照」
314Dearグース:2001/03/16(金) 05:56
>>313
なんだか無視されているようなのでもう一度質問。
俺の>>271-272の疑問には何時答えて貰えるのかな?

>ちょっと「話が戻る」が>311のような「つくり話」
>を信じてるのが「虐殺派」の学者なのねん(笑)
>(笠原十九司、他多数)

この書き方を見る限りあなたは「虐殺派」の主張にずいぶん通じているようだし。

>>271の質問は一部間違っているのでもう一度質問し直すね。

>>228
>「存在しない虐殺」があったと主張している。
>つまり「著者」以外には目撃者のいない「虐殺があった」
>ということだ(笑)
質問の仕方が悪かったかな。
俺としては虐殺派が「船橋照吉」や「曽根一夫」を引用してどんな
「虐殺場面」を 虐殺派が「証明」しているか確認したいので、件の日記を
使用している本(虐殺派の書いたやつね)を教えてくれないかな?
315グース:2001/03/16(金) 07:15
>>314
船橋照吉の件については「過去レス」で説明した。
「石原発言を許さない京都集会」という左翼団体集会での
「歴史を捏造するのは誰か」という冊子に引用されていた。
ということだ(手元に原本はない)

「曽根一夫」については「当時の論壇雑誌」などで
相当議論になった人物で「虐殺派の学者」のほとんどが
擁護に回った。

例えばこう言う風に利用される(笑)
http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/itiran_nankin.htm
(参考HP)からコピペ
『南京虐殺と戦争』 曽根一夫 泰流社 1988年
 一般にあまり知られていないが、南京事件において一兵卒として
残虐行為を行った人の手記。一言で言って、生々しい。
「三十万人も虐殺者はない=南京大虐殺はでっちあげ」という類の人びと
に読んでほしい。「南京事件研究家」の板倉由明が「創作」と非難した
(『諸君!』88年12月号)が、秦郁彦に「本人が『悪いことをしました』
と告白しているのに、当時まだ生まれていず、中国の土を踏んだこともない
『南京事件研究家』が、事件から五十年後に『悪いことはしていなかったはずだ』
とたたく風景ほど珍妙なものは他にあるいまい」
と一蹴された(『正論』89年2月号)。

とまぁ「未だに曽根の虚構を真実だとを信じる」虐殺派がいることも事実。

「曽根氏が経歴を詐称したと言う些細な事柄をもって
その貴重な証言を疑う心無い人がいる」
     ↓
この「発言」をどこかで見たが、わしの「蔵書」なのか
「図書館の本」なのか「だれぞのHPなのか」ちょっと忘れた。
確認次第報告しよう。
     ↓
「こういう馬鹿なことを平気でいうのが虐殺派」なのねん。

東日記、曽根日記、一連の騒動は以下の雑誌が詳しい。
産経新聞社「正論」平成5年12月号=教科書に登場した史実の創作。
文芸春秋社「諸君」平成6年2月号
「世界史教科書に出現した曽根一夫の亡霊」

>虐殺派が「証明」しているか確認したいので
「引用して証明」だけが「利用方法」ではないということを
理解してくれ。
曽根一夫の場合は「秦教授」ですら最初は騙された。
(現在どう思っているかは不明)    
この件については「秦教授」も反省するべきだと思う。
(反省してるかも)

あと「わしは趣味でやってる」ので「なんでも知っている」わけではない。
あまり買いかぶらないでね。
316グース:2001/03/16(金) 07:57
追加と訂正だな。
東日記、曽根日記の引用(略奪命令)があったのは
×「皇軍の記録した南京大虐殺」ではなく
○「天皇の軍隊と南京事件」80p 吉田裕著
でした。非常に勘違いしてました。

「15年戦争小史」P117 江口圭一にも引用アリ。

「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(これと混ざってました)
これは「陣中日記」を集めた資料集で「笠原十九司」の「南京事件」
などに「激しく引用」されているが、
陣中日記が掲載された「19人」のなかで「匿名が17人」もいるので(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
資料価値は「南京戦史」に比べれば「格段に落ちる」
しかも「日記の中でも伏字」があるという徹底ぶり(笑)
そんなに「検証されるのが怖いのかな?」

わしは「基本的に匿名」の証言は信用できないと思ってるし
匿名の日記(証言)を「注釈もいれず」に実在の人物として
引用するのは「インチキである」と思う=笠原十九司(南京事件 岩波)

実在の人物と「匿名の人物」では「証言の重さ」が違うし
「信憑性」だって違うのは常識なのだがなぁ。

だから「虐殺派はインチキ」と呼ばれるのねん(笑)
317マサカド:2001/03/17(土) 14:15
グースご苦労さまー、慰労アゲ。
318日本@名無史さん:2001/03/17(土) 14:33
いっそ100以下に行くまで放置してみたらどうかな。
319日本@名無史さん:2001/03/17(土) 22:07
グース氏のホームページなんてあるのかな?
320日本@名無史さん:2001/03/17(土) 22:08
sage失敗。。。
321日本@名無史さん:2001/03/17(土) 22:45
>>320
> sage失敗。。。
大文字じゃダメだよな〜
322グース:2001/03/18(日) 00:53
>>319
資料を集めてる最中なので、春ぐらいには開設できるかも。
まぁゆっくりやるのねん(笑)

ホームページとしては(南京虐殺はウソ=サピオのHP)
http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/index.htm
このHPは非常によくできているので「なかった派」のHPは育たない
という面もあるのねん(笑)

逆にいうと「数だけは否定派」のHPのほうが多い。
なかには「とんでもない勘違い」をしているHPもあるので
その辺の「勘違い」を批判する内容になる予定。
(当然、アンチゴー宣の長田のHPも含まれる)

全体的なイメージとしては「サピオのHP」を補完しつつ
「笠原十九司」及び「南京事件調査研究会」を批判する
感じかな。

しかし未だに「20万大虐殺」を信じてる人って結構いるのだなぁ。
学校教育って問題多し(笑)
323日本@名無史さん:2001/03/18(日) 02:42
結局共産国家のいうことを信じるかどうかってことだろう?
同板の「中国のロボット兵器」スレッド見てみろよ。はらわた千切れるぞ。
こんな奴らのいうことまともに付き合っていられるか?
324sage:2001/03/18(日) 02:46
>>323『同板』
ごめん、軍事板だった……。必見のスレッドですぞ。
325日本@名無史さん:2001/03/18(日) 03:12
>>323
また論点を勘違いしてる人が来たよ・・・
326323:2001/03/18(日) 04:29
論じる前に、根拠の虚しさを感じることはないか?
論ずることに意義を感じるディベート精神しかないのか?
……空しいんだよ、ログ読んでると!
327日本@名無史さん:2001/03/18(日) 13:14
>>322
グースのホームページ、楽しみにしてるよ
南京事件をを論じてるくせに、グースのホームページも見てないのか、ゴルァ、って言えるようなの頼む。

328日本@名無史さん:2001/03/18(日) 17:57
>>311
南京城壁近くで、機関銃を撃ちまくったという話ですね。
本当だとすると、今でも城壁に無数の弾丸の跡があって、それを掘ると
日本陸軍製の弾丸が山ほど見つかるはずなのですが、どうでしょうか。

ベルリンなど、市街戦が激しかった場所では、当時からのある建物などに、
弾丸の跡が多く残り、市街戦の悲惨さを現在に伝えています。

南京城壁には、どれだけの弾丸の跡があるのでしょうか。
329世界@名無史さん:2001/03/18(日) 18:14
>>326
>……空しいんだよ、ログ読んでると!

だったら「共産国家のいうこと」が論拠にされてなどいないことが分かるはずじゃないか(失笑)
330世界@名無史さん:2001/03/18(日) 18:17
>>328

>城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射を浴びせて皆殺しにしたそうである。

これだと地面に弾がめり込むような気がするが。
まあこの話は伝聞を重ねてるみたいな書き方なので、どこまで信用していいか分からないなあ。
331名無しさん:2001/03/18(日) 21:24
大陸の城壁は日本人の想像を超える。
写真を見ると,高さは高く,幅が広く何百人も立てる巨大な運動場である。

多くの門は砕石を詰めては入れないようになっていたようだ。
日本軍は直接攻めて、沢山の兵士が中国軍に殺された。
中には捕らえられて焼き殺された兵士もいる。
そこで重砲で砲撃して,門を壊した。これは中世の城攻めと同じである。
はじめは地下道を作り,爆薬を仕掛けて城壁を破壊したが,後大砲の進歩で
城壁は意味をなくした。城壁が破壊されると,守備兵は撤退する。
そして逃げようと開いている門に殺到した。撤退を許さない中国督戦隊が,
逃げようとする兵士を機銃掃射する。味方に殺された死骸が山をなしていたようだ。
それでも逃げようとして押し合い、圧死する兵士も多数出た。
一部兵士は安全地帯に逃げ込む。軍服を脱ぎ,シナ人市民を襲って日本軍への
攻撃を狙う。こうして多数が危険なゲリラ化した。
これらは逮捕されて,処刑された。民間人の服を着ているが,実は兵隊だ。
332日本@名無史さん:2001/03/19(月) 02:38
>>331の出典は何かな。まるで夢でも見てるかのようだが(笑)
333日本@名無史さん:2001/03/19(月) 13:45
>>311
本多勝一先生、その城壁での現場検証の結果をお願いします。
先生は南京にも行かれているので、その現場をご覧になった
のですね。もちろん、城壁や周辺の古い建物には、弾痕が多
く残っていて、掘り起こすと日本軍の銃弾が発見されるでしょ
う。

これらの目に見え、現存する証拠があれば、虐殺否定派を完
全に黙らせる事ができます。
334成嶋武良:2001/03/19(月) 13:54
戦争に虐殺は付き物。
それでおしまい。
ウヨもサヨも十分楽しんだでしょ。
335やれやれ:2001/03/19(月) 13:58
結論:無抵抗の民衆に対しての虐殺なんてのは無かった!
336ミギーズ@USA:2001/03/19(月) 15:25
南京虐殺否定派の英語の本が、アメリカで売られていました。
Amazon.com で入手可能です。

タイトルは"NANKING ANATOMY OF AN ATROCITY"
著者は、MASAHIRO YAMAMOTO

南京での死者は、少なく見積もると、18@`500 多く見積もると52@`000
という意見です。このような冷静に南京事件を分析した本がアメリカで
は手に入りませんでした。ですので、Rape of Nanking 30万人説が
アメリカでは通説になってしまいました。

アメリカ人に、この本を広めるしかないです。英語の掲示板で紹介しま
しょう。
337日本@名無史さん:2001/03/19(月) 16:45
>>335
それも無理だろう。
ただ「虐殺」と言ったのでは犠牲者が10人でも「虐殺」だ。
少なくとも「便衣兵狩り」で民間人を殺してるよな?
338日本@名無史さん:2001/03/19(月) 22:08
>>303
>「笠原」説は「15万中、捕虜になったのが8万」
>「秦教授」は「捕虜になった数として3万」
>明確な否定はしてないが「参考にすらしていない」

1998年の秦氏の文(Japan Echoより)
Based on two documents@` the official military history compiled by the
Nationalist government on Taiwan and the diary of Major General Iinuma
Mamoru@` who was chief of staff of the Shanghai Expeditionary Army@` I
estimate that the Nanking garrison consisted of 100@`000 soldiers; I also
estimate that 50@`000 were killed in action and that 30@`000@` after being
taken prisoner@` were executed. Recently@` however@` Sun Zhaiwei (of the
Institute of History at the Jiangsu Academy of Social Sciences) and
Kasahara Tokushi have estimated the size of the garrison as 150@`000@`
of whom 80@`000-100@`000 were killed.

For the moment@` let us accept their estimate and say that up to 100@`000
soldiers died@` perhaps 50@`000 in action and another 50@`000 in violation
of the Hague Convention. It follows that out of the 300@`000 killings
officially attributed to the Nanking atrocities by the Chinese@` at least
200@`000 must have been murders of civilians.

もちろん自説の主張はしているが笠原の数も「参考にすらしていない」とは
思えませんが。笠原に対して否定もしていませんね。
むしろそれもひきあいにだして中国の数では多すぎる、というようなことを
言っていると思います。
339日本@名無史さん:2001/03/19(月) 22:09
>>315
てことは、秦郁彦は「未だに曽根の虚構を真実だとを信じる」虐殺派ってことに
なるのですね。
自分が引用した部分について訂正するようなものはないとも言われているようですが。

>>316
>匿名の日記(証言)を「注釈もいれず」に実在の人物として
>引用するのは「インチキである」と思う=笠原十九司(南京事件 岩波)
さて、笠原十九司が引用したものには匿名だとか部隊名不明なんてものが
そんなに多かったかなあ。
340Dearグース:2001/03/20(火) 02:33
>>339
ちなみに笠原十九司「南京事件」(岩波新書)に引用された
「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(以下「〜兵士たち」の
陣中日誌は3つでそのうち2つは仮名。
「南京事件」には特にそのことは注記していない。部隊名は明記してある。
ここで描かれている幕府山の捕虜の虐殺。その他にも「南京戦史」
「南京戦史資料集2」が引用されている。(この二つは偕行社が発行)
まず、捕虜取得の場面。これは「南京戦史」の体験談を引用。
軍指令部からの「捕虜処刑の命令」については「南京戦史資料集2」の
山田少将の陣中日記を引用。
末端の指揮官が「処分命令」を受けたことについて「〜兵士たち」の陣中日記を引用。
避難民も一緒に殺害されていたことについて「〜兵士たち」の陣中日記を引用。
捕虜の始末について「南京戦史資料集2」の陣中日記を引用。
「捕虜の始末」がてまどったため部隊の出発を延期したことについて
「南京戦史資料集2」の山田少将の陣中日記を引用。
死体の始末について「〜兵士たち」の陣中日記を引用。
と、まあこんなところ。仮名であることを明記しないことで
どのくらい(また、どういう理由で)信憑性が落ちるのかは
俺にはちょっと判らないな。

「〜兵士たち」に掲載されている19の日記(正確には17の日記/日誌、
1つのメモ、1つの軍事郵便)のうち17は仮名になっている。
その理由は資料提供者に「さまざまな妨害が加えらえるケースも多いため」
だそうで、日記中の固有名詞も伏せ字にしてある部分がある。

内容については俺はこれがどれくらいの資料価値を持つのかは判定できない。
(その能力もない)読み物としては大変面白く、当時の生活や軍隊生活
の一端が垣間見える。また、身体検査や部隊の移動、軍隊内の行事から
乗船前の旅館、部隊の乗船した船名などが事細かにしるしてあるので、
興味のある人は図書館とかで借りて検証されることをお勧めする。

>>315@` >>316
グース氏よありがとう。これについてはいずれレスをつけるので。

341世界@名無史さん:2001/03/20(火) 02:39
しかし、戦争によって起こる民間人の被害をほじり始めると
アメリカも痛し痒しだろうな。
ベトナムで何人殺したことか。
342日本@名無史さん:2001/03/20(火) 02:48
>>322
そのホームページ見られないんだけど
343日本@名無史さん:2001/03/20(火) 10:40
>>322
松尾一郎のホームページか?
ならアドレス変わったよ。だいぶ前に変わってるはずだけど、
チェックしてないのね。(そもそもサピオのページって何?)
http://www.history.gr.jp/nanking/
田中正明の捏造資料使ってるし、既に批判されている東中野などの論使ったり
虐殺あったということを示している文献をあげてその論を使っておきながら
なかったと主張したり、なんかむちゃくちゃなぺーじだね。
344日本@名無史さん:2001/03/23(金) 00:27
政治思想板でウォッチスレまで立てられている、あの“松尾男爵”のサイトか……。

前には東中野先生が登場したし、グース氏って実は典型的な方だったのね。
345日本@名無史さん:2001/03/24(土) 00:01
今週に入ってからグースが現れないな。
346日本@名無史さん:2001/03/24(土) 01:09
347日本@名無史さん:2001/03/24(土) 02:17
>>346
ひでえ状況(藁
さすがはマスコミ板、噂通りってとこですかね。
田中正明や西尾を持ち出すのが当たり前ですかあ。

グース先生もさぞかし居心地がよろしいのでしょうね(藁
348名無しさん:2001/03/24(土) 11:49
敵性宣伝は頭から拒否する知的訓練が必要だ。
内容以前に、出どこが何処かで、対応がわかる。
南京事件の宣伝は、日本に敵対する中国政府が流したものだ。
ということは自動的に嘘と見て良い。
これを戦略的な判断と言う。日本以外では常識だ。

戦争で死者が出てもそれは別の話し。日本人も50万人以上が虐殺され、
殺されている。50万人と行ったら大変な数だ。それには婦女子もはいっている。
通州日本人大虐殺事件の惨状は良く知られている。
349日本@名無史さん:2001/03/24(土) 12:33
>>348
だから通州事件では賠償金もらってるんだって。
350日本@名無史さん:2001/03/24(土) 12:40
>>348
その論理じゃグース先生のネタは信用しなくていいってことに……(藁
351日本@名無史さん:2001/03/24(土) 15:49
「第一一四師団第六六連隊第一大隊 戦闘詳報」

(一二月一二日午後七時ごろ)最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道路線上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 一般に観念し監視兵の言を厳守せり。
(一二日夜)捕虜は第四中隊警備地区洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二〇名を使役し徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

(十三日午後二時)午後二時零分、連隊長より左の命令を受く。
 旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛して逐次銃殺してはいかん。
(中略)
 各隊共に午後五時ごろ準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。とくに隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

(長田註:助命する旨の投降勧告をした上で、その勧告を信じて投降した捕虜を殺害している。これは「陸戦の法規慣例に関する条約」に違反している。)


(「南京戦史資料集」「「南京難民区の百日」笠原十九司 青木書店 所載)

352日本@名無史さん:2001/03/24(土) 15:50
「第一六師団第二〇連隊 牧原信夫上等兵の日記」

〔一一月十八日〕

ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、老人が持たないからといって橋から蹴倒して小銃で射殺しているのを目前で見て可哀想だった。

〔一一月二二日〕

道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子でのびていたのも可哀想である。
 橋の付近に五,六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。

〔一一月二六日〕

(中略)自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。兵隊達は早速二名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。

〔一一月二七日〕

支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。

〔一一月二八日〕

午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。・・・・・・自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げていく。何のために逃げるのかわからないが、逃げるものは怪しいと見て射殺する。
 部落の十二,三家に付火するとたちまち火は全村を包み全く火の海である。老人が二,三人いてかわいそうだったが命令だから仕方がない。次ぎ、次ぎと三部落を全焼さす。そのうえ五,六名を射殺する。意気揚々とあがる。

〔一一月二十九日〕

武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の戦で破れてより全く浮き足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地に立てこもるのかわからないが、全く見えない。

〔一二月一日〕

途中の部落を全部掃討し、また船にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一軒家に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。
353日本@名無史さん:2001/03/24(土) 15:51
南京戦に於ける軍民殺害について

「日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに斬り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。」

(「最後の殿様」徳川義親 「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 所載)
354日本@名無史さん:2001/03/24(土) 19:38
相変わらずサヨはコピペしかできない。

思考停止の証明だな(藁

355日本@名無史さん:2001/03/25(日) 00:35
>>353
とりあえず突っ込んでみるか。

>前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

佐官が前線にいるってのは変じゃねえか?ましてや、

>それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀で
 その兵士を袈裟がけに斬り殺した。

佐官が兵卒に向かって「人の殺し方」の伝授か…。(´ヘ`;)ハァ

>おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となった
 という。

「いっせいに」っていうんだから複数の機関銃で射撃したんだよな。そんな
に機関銃陣地が近接してるってか?

こんなネタ本信じるなよ。っていうか、これが変だと思えないような奴が軍
隊の事を語るなよ。


356日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:02
南京戦に於ける軍民殺害について

「日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに斬り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。」

(「最後の殿様」徳川義親 「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 所載
357日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:03
殺戮に用いられることの多かった日本刀について

「今度の事変では、飛行機の発達から、日露戦争の時のように、大兵集団の会戦というような事が、徒に兵を損ずるのみなので、自然、分散的な陣形をとり、彼我少数を以って、所在に白兵戦、格闘戦を演ずる機会が多くなった。殊にゲリラ戦術、便衣隊潜入等の後方撹乱戦其他で、一面恐ろしい器械化戦が行わるると共に、多面一騎打の原始戦が盛んに行われ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのようなところさえある」
「これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に遡って見て、実際乱戦中に敵とわたり合って血戦した事実は、小説や講談にあるようにそうザラにあったものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るというような場合が多く、実際十人も二十人も斬ったというような話は、例えば敵を城壁域内際とか袋路地のような所へ追いつめ、ひしめき合いわめき合う処を片っ端から滅多斬りにした時などの事で、そうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いてみると、四五人斬ったかと思う頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝わって来る」


(成瀬関次「戦ふ日本刀」 「南京大虐殺−まぼろし化工作批判」洞富雄 所載
ただし、旧仮名遣いなどは改めてある。)
358日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:03
日本刀による捕虜殺戮の様子・旧陸軍将校鵜野晋太郎氏の記録より

「 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れて剣背(峰、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
 "ドスッ"と鈍い手応えと同時に、噴水の如く、二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無惨。漂う血の匂い。・・・・・・つづいて私は四十がらみの村幹部の後方に廻った。
 (先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
 目釘は異状ないが、刀身は僅かに曲りが出たようだ。
 (大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
 (失敗だ!落着け!)
 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。
 「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」
 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四〇センチのところに膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元に戻したが、僅かな曲がりは残った。
 (エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)
 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌−「抗日歌」を、五人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。
 「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」
 だが不安がふとよぎった。−(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定※に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心してきたではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)
 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な鳴き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀を振るって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、鍔元がガタガタになって来た上、再び刀身の四〇センチまでが右五度に曲がった。そのため二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。
 血の匂いは暫らく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。」

(鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」 「南京大虐殺否定論13のウソ」南京事件調査研究会 柏書房より)
359日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:04
「江寧県誌」
一二月下旬、上坊で婦女一〇名が強姦され、陰部に鉄棒を刺して殺害される。三八年一月八日、陸郎村で県城から避難していた市民が、「敗残兵狩り」で一〇〇余人殺害される。そのとき婦女八人が輪姦され、腹を割かれて殺害される。岔路郷では南京城から近く、交通の便も良いため、日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」のために頻繁に襲来、婦女二五〇余人が強姦され、多くは殺害された。石馬村だけでも女性二〇余人が凌辱され、殺害された。曹村では三度にわたって日本軍部隊が襲来し、五〇人が殺戮された。

(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)
360日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:04
「高淳県誌」
一月、襲来した日本軍によって高宣●王家、南○の二村が放火される(長田註:●は土へんに于、○は土へんに更)。掃蕩や「女性狩り」にきた日本軍が各県城や各村で婦女を強姦、多くは殺害した(日中戦争期間中、全県で数百名の女性が強姦された)。

(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)
361日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:08
「第六師団歩兵第二三連隊の一兵士の従軍日記」

十二月十五日−
今日、逃げ場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に婉々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえてきては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行りだした様子。
十二月二十一日−
今日もまた罪の無いニーヤ(中国人のこと)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。

(「朝日新聞」一九八四年八月五日付 「天皇の軍隊と南京事件」所載)
362日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:40
この引用の嵐はなんだろう?
何か意見があるようでもないし。
ワープロの練習でもしてるのかな。(笑
363日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:41
>>351-361
グース氏が必死でコピペしてます。あたたく見守ってあげましょう。(藁
364日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:47
>363

 田原二世?
365グース:2001/03/25(日) 04:45
「虐殺派」ってこんなもんよ(笑)
まともな議論ができない人たちだからねん。

普通の人=資料を引用して=その説明(解説)をする。
その上で結論を明記する。
   ↓
「虐殺派」=コピペが精一杯(汗

まぁ議論の「基本」ができてないってこと。
「あたたかく見守ってあげましょう」
366グース:2001/03/25(日) 05:06
一応「資料批判」って奴をやるね(笑)

>>351 南京戦史から引用(多分コピペ君は原典を読んでない)
「第114師団 第66連隊第一大隊戦闘詳報」
    ↓      〜〜〜〜〜〜〜〜
結論から言うと「後日改ざんされた可能性が高い」

南京戦史では「その戦闘詳報」を
「戦況の進歩状況とちぐはぐ」
「了解しがたい部分」
「全文を通じその表現は極めて異様」
以上のように論評している。

「南京戦史」は「公立図書館ならあるはず」なので「原典」
を確認したほうがええよ。

理由としては第66連隊の「第二大隊陣中日誌」(防衛研究所所蔵)
との食い違いがあること。ちなみに「第一大隊詳報=虐殺命令」
では書かれていなかった「師団命令、甲61号、甲63号」などが
「第二大隊陣中日誌」には記載されている(信頼度が高いってこと)

これも「引用して解説」すると長くなるので
詳しくはホームページで見てくれ(建設中)

結論 第一大隊は「独自の判断」で捕虜を処刑し、後日になって
   「戦闘詳報」を改ざんした可能背が高い。
367グース:2001/03/25(日) 05:12
>>356
「最後の殿様」徳川義親からの引用らしいが(笑)
それって陣中日記なの? 戦闘詳報なの?
それとも「小説からの引用」なの(笑)
     〜〜〜〜〜〜〜〜
すでに「下関」に民間人がいない理由は説明してある。
(ダーデインの捏造の件)
まぁ「都合の悪い事は見なかったことに」するのが「虐殺派」
だからなぁ。
368グース:2001/03/25(日) 05:25
>>357
何が言いたいのかよく分からん。
中国兵を狭いところに追い詰めて「日本刀」で斬りつけた?
ってことかな(笑)

別に否定はせんよ(笑)そういうことも「あった可能性」はある。

>>358
捕虜処刑の様子だな。
「捕虜の処刑」自体は誰も否定してないし(わしの見積もりだと約2万)
日本刀で「9人」を殺害するのが「どんなに大変か理解できる」

>水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から
>四〇センチのところに膝をあてがい、右に約五度曲がったのを
>両手でぐいと元に戻したが、僅かな曲がりは残った。
    ↓
血のりで切れなくなるのは「本当」
刀が曲がるのも「本当」

>貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ
つまり「刀は実戦向きではない」のである(笑)

この様子では「100人斬り」など到底不可能ということが理解できる。
369グース:2001/03/25(日) 05:31
>>359 >>360
これは「中国のプロパガンダ」ですね(笑)

中国は「虐殺30万」として「数々の証拠を捏造」してるからなぁ。
日本の学者「洞富雄」氏でも「20万以上」だし
「笠原十九司」は「軍8万、民6万=合計14万」あるいはそれ以上。

「虐殺派」の学者ですら「捏造」と判断した証拠が
「10万〜15万」人分もあるという現実を考えると
「中国の県史」は信用できんだろ?(笑)
370グース:2001/03/25(日) 05:40
>>361
はいはい「捏造記事の大家」朝日新聞の記事
名も無き「一兵士の日記」ですか(笑)

日記の記事が正確だとすると「この人物がそうとうの悪党」
という事が理解できます。

日本軍は「成人男子だけで20万人」もいたのです。
これは「50万クラスの地方都市」の「成年男子人口」と
一致すると思われます。
「もちろん犯罪者」もいるでしょう。

それ以前に「匿名の日記」でよければ「あなたでも書けます」
朝日新聞に投稿してみてはいかがでしょうか?(笑)
371日本@名無史さん:2001/03/25(日) 06:21
岡江久美子とヤリてぇ。
月曜日番組本番前に、岡江久美子と早見優をトイレの個室に呼び出すんだ。
早見優のカエル顔にオレのチンポをしゃぶらせて、岡江久美子のおっぱいを
ブラジャーの上から揉むんだ。
「ねぇ、はやくしよ。番組始まっちゃうよぉ。」岡江久美子の外側に垂れた小
さなおっぱいの乳首がコリコリ固くなっている。
「たまにはあたしにもチンポはめてぇ。いつも舐めるだけじゃイヤ。
いつも岡江さんばかりでずるい。」早見優がオレのチンポを舐めながら、
涎を垂らしながらおねだりをする。うるせぇ、オレは早見優の顔をチンポでビ
ンタする。てめぇみたいな痩せマンコにはハメるきはしねぇんだよ。
口だけで充分だ。すっげぇイヤラシイ顔しているもんな。
岡江久美子を後に向かせスカートを捲る。パープルのビキニパンティ−にガー
ター。パンティーを下ろし後ろから岡江久美子のオマンコにチンポを入れる。
少し緩いぬるぬるのオマンコ。
「ああぁ、いいッオマンコ気持ちいいッ、はなまるよ、はなまるチンポよ!」
岡江久美子があの笑顔でよがり狂っている。
チンポの出入りを早見優がモノ欲しそうに見つめ、オナニーを始める。
 今日も岡江久美子はオレの精液でどろどろのパンティーを履いたまま
 テレビで微笑んでいるのさ。
 今度は金曜日に森尾由美といっしょに犯ってやるか。
372日本@名無史さん:2001/03/25(日) 10:55
>>366
東中野と同じ事言ってる(笑)
既に何度も反論されてるので、その一つを書きましょうか。

あなたのネタ元である東中野氏が言っているのは「第一大隊が架空の
旅団命令をでっち上げた」ということです。
ついでに言えば、これはありえません。
東中野氏自身が書いていることですが、「戦闘詳報」とは、上部組織に
対する報告書です。自分が出した覚えのない違法な命令(「捕虜取扱規
則」違反)に基づいて、「捕虜の処刑」という違法行為を行ったなどと
いう報告を部下がしてきた場合、それを見た上司が何もしないなどとい
うことはあり得ません。

更に、東中野氏は「第二大隊の陣中日誌」という史料を、自説の根拠の
一つにしています。
しかし、東中野氏が挙げた他の史料は、南京戦史資料集に収められてい
ますが、この「第二大隊の陣中日誌」のみは納められていません。それ
ばかりか、この史料は防衛庁防衛研究所の図書館にもありません。
(確認済みです)そういう史料を根拠にされても簡単には信じられません。
373日本@名無史さん:2001/03/25(日) 11:00
>>368
刀剣修理の技術者が戦時中大陸に渡っていたそうですね。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjh7128/genron/data/nangjin/hyakunin/nihontou.htm
374日本@名無史さん:2001/03/25(日) 11:11
372の3行目以下は、別の掲示板でされていた指摘を引用させていただきました。
375日本@名無史さん:2001/03/25(日) 12:06
「コピペが精一杯」と嘲りながらも、そのコピペに反論するグース。
わざわざ1週間ぶりに戻って来てまで。

要するにその「コピペ」が有効な攻撃だってことだな、これは(藁
376日本@名無史さん:2001/03/25(日) 12:44
南京話はどの板に逝っても無限ループですな。何が楽しいのかな。
377日本@名無史さん:2001/03/25(日) 12:58

南京にしろ慰安婦にしろ言い出しっぺはどうせ碌でもない奴。
特に慰安婦問題の火付け役の吉田清司は次のように語っている。

週間新潮 1996/5 特集号
「秦さんらは私の書いた本をあれこれ言いますがね。まあ、本に真実を
書いても何の利益もない。 関係者に迷惑をかけてはまずいから、
カムフラージュした部分もあるんですよ。だから、 クマラスワミさんとの
面談も断わりました。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、
新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしょうがない。」

こんな連中の後を正義面してついて行った初心な奴らは梯子を外されてしまった格好だ。
自分こそ正義だと思ってた連中は、もう後には引けないわな。(藁
378おたく、名無しさん?:2001/03/25(日) 14:37
これまた無限ループだ。
という以前に、従軍慰安婦問題を持ち出して南京大虐殺を否定するんですか。
ハラホレヒレハレ〜(藁
379日本@名無史さん:2001/03/25(日) 14:42
>>378

中国の言う”南京大虐殺”はもう否定されたんだよね。
380グース:2001/03/25(日) 17:52
>>372
>東中野と同じ事言ってる(笑)
>既に何度も反論されてるので、その一つを書きましょうか。

だから「引用先の南京戦史」読んだら?(笑)
南京戦史では「その戦闘詳報」を
>「戦況の進歩状況とちぐはぐ」
>「了解しがたい部分」
>「全文を通じその表現は極めて異様」
以上のように論評している。

原文の引用先が「南京戦史」なら「解説についても触れる」べき。
まぁ「都合のいい引用」は虐殺派の得意技だからなぁ(笑)

>この史料は防衛庁防衛研究所の図書館にもありません。
>(確認済みです)
     ↓
ほうほう、すると「板倉氏」南京戦史の編集委員も
「ウソを書いた」というわけか?
ところが「板倉氏」が捏造したと言う批判は聞かないなぁ(笑)

ところで「どういう確認をしたの?」(笑)
381日本@名無史さん:2001/03/25(日) 17:56
>>380
板倉氏が「第2大隊の陣中日誌」を使ってましたっけ?
382日本@名無史さん:2001/03/25(日) 17:59
>>380
「南京戦史」の解説を部分的に取り出さず、関連箇所を全て引用してみてください。
383グース:2001/03/25(日) 18:01
>>372
もしかして「自分では確認してない」のに
インチキ「サヨク」の「捏造ネット情報」を信用したのかな?

正式名称「歩兵第66連隊第二大隊陣中日誌」防衛研究所所蔵
1999/12/8初版の「本当はこうだった南京事件」板倉由明
P144 の注釈による資料一覧に「きっちり出ている」

東中野教授も「確認」してるんだろ?

さて「ウソつき」はどっちかな?(笑)
384グース:2001/03/25(日) 18:09
前にも説明したが「南京戦史」は各公立図書館に寄贈されている。
わしも「現在は手元に無い」(来週には届く。買いました)

引用した部分は「板倉氏」(南京戦史編集委員)の著書から
の引用である。板倉氏自信が「後日改ざんされた可能性」
を指摘しているということ。

それより「第二大隊」の陣中日記が「ウソである」という根拠
を示すべきだな(笑)

都合の悪い陣中日記は信用しないのかな?
385日本@名無史さん:2001/03/25(日) 18:14
>>383
で、板倉氏はそれをどう引用してるのですか?
東中野さんと同じ事言ってますか?
386日本@名無史さん:2001/03/25(日) 18:21
>>384
あのねえ、改竄というなら、誰がどういう意図でどうやって改竄したか、
板倉氏はそこの所をどう書いているの?
あなたはどう考えているの?

仮に命令が改竄だったとしても、16師団等でも同じような方針で
あったことは事実だし、この連隊が捕虜の虐殺を行ったことまで
否定されてはいないのよ?

387グース:2001/03/25(日) 18:35
>>386
>この連隊が捕虜の虐殺を行ったことまで
>否定されてはいないのよ?
    ↓
もちろん「捕虜の処刑」はあった。
誰も否定はしていない。

>改竄というなら、誰がどういう意図でどうやって改竄したか
    ↓
その辺は「東中野教授」が推論している。
「誰が」=この部分については「はっきりしない」
どういう意図で=独断で捕虜を処刑した「責任逃れ」
どうやって=別に難しく考える必要は無い。執筆者次第だから。

詳しくは4/5日開設予定のわしの「HP」でやる。
資料を引用して開設すると「長くなるから」(笑)
388日本@名無史さん:2001/03/25(日) 18:49
>>387
だから、東中野の推論を受け入れるなら>>372の文はどう捉えるのさ。
戦闘詳報だよ?グース氏が頼りにする公文書だよ?上に報告する物だよ?
389日本@名無史さん:2001/03/25(日) 18:53
で、まだレスが付けられていないものも多々あるようですが、
338あたりからのレスは如何したのでしょう。

390名無しさん:2001/03/25(日) 20:59
南京事件は戦争宣伝なので自動的に嘘として良い。
資料以前の話しだ。外国人は嘲笑している。
日本人が物事の扱いを知らないからだ。

こういう話しは、自分にとって損するのか、得するのかだけ考えれば良い。
支邦人はそう考える。事実などどうでも良いのだ。
それを日本人が引っかかったので、攻めてきた。
流石に日本人も気がついて反撃しているがポイントがずれている。

支邦では日本軍は常時10倍以上の敵と戦っているので、南京で非戦闘員を
虐殺などする暇はなかった。
だがそうした史実は、重要ではない。

重要なのは日本の子供が中共に狙われていることだ。
子供を守るために、デマを無条件で否定する強い意思と武力が必要だ。
「力なくして正論なし」というではないか。
391グース:2001/03/25(日) 21:04
>>388
>グース氏が頼りにする公文書だよ?上に報告する物だよ?
     ↓
基本ができてないな(笑)
他の記録(他の部隊の戦闘詳報、陣中日記)などと
「大きく食い違う」から「第一大隊の詳報」は信頼度が薄い
ということなんだけど(笑)

分かりやすい所では「南京城壁攻防」についての記述がある。
>午前7時0分予定のごとく行動を起こし機関銃を斉射して、連隊主力の
>城門侵入を援護するとともに、同時に当面の掃蕩を開始す〜略〜

>午前10時遥に破壊されたる難問城壁上に日の丸を認め、連隊主力の
>南京入城せるを知り、全員は隊長の音頭をもって感激の万歳を三唱
>し皇居を遥啓す。=第一大隊戦闘詳報
    ↓
反論1
南門城壁には「第6師団 歩473中隊」が12時20分に登頂し
16時40分確保した。
反論2
歩150は雨花門を爆破し16時7分に日章旗をあげている。
反論3
歩13の中華門占領は13日の13時頃。
工兵隊の爆破により「開門」したのは15時30分。

以上の記述が「南京戦史」に掲載されており(笑)
だからこそ「第一大隊の戦闘詳報は怪しい」のである。
(城門攻撃に加わった形跡はなし。時間も合わない)

板倉氏の解説によると
「自分の連隊の武勇伝を創作し書き込んだとしか思えない」
そうである。

>>388
いかに公文書といっても「無批判で受け入れてはいかん」のは常識。
相反する二つの記録がある時は「検証」が必要ってこと。
理解できたか?

392グース:2001/03/25(日) 21:27
>>389
わし「前スレから返事もらってない」ものが沢山あるが
その辺りは批判せんのか?(笑)

まぁ「虐殺派」は都合が悪くなると「話をすり替える」から
おおめに見てたんだけどね。

総論として「南京の人口問題」「南京防衛軍の兵力」(捕虜の数)
「埋葬記録の信頼性」「死体の数」などを検証した結果

@中国の「30万虐殺は100%ウソ」と判明。
@笠原一派の「南京事件調査研究会」の「10数万以上」も
 1937、1938年当時の資料だけでは「証明不可」
@当時の一時資料を検討すると「南京城と周辺区」での死者は
 「4〜5万人」でしかない。(戦死含む)
@日本軍の戦闘詳報、陣中日記での「捕虜殺害数」は
 笠原説によると「約80000人」だが「渡河撤退中の戦果2万」
 は「どうかんがえても戦闘行為」なので、反論があるなら
 国際法のどの部分に「撤退する敵を撃ってはいかん」という記述
 があるのか示すべき。
  また「幕府山、山田支隊の捕虜」は当時の新聞記事によると
 約15000名。「両角日記」によると「処刑は約4000人」
 
 笠原表「約8万」から「渡河戦果2万」と「山田支隊の1.5万」をマイナス
 すると「捕虜殺害45000人」となる。
@一般に「戦果報告が2〜3倍に膨らむのは常識」なので
 「45000人」を半分にすると「2万ちょっと」
 1/3にすると「1万5千人」となり「なかった派の推計と
 ほぼ一致」する。

とまぁ「本論の部分には全部レスしたけどね」
あおりは「無視しましょう」って前スレで指摘されたから(笑)
あおりっぽいのは「無視」したよ。

 結論 「南京大虐殺は悪質なプロパガンダ」
393Dearグース:2001/03/26(月) 22:05
>>372
>しかし、東中野氏が挙げた他の史料は、南京戦史資料集に収められてい
>ますが、この「第二大隊の陣中日誌」のみは納められていません。それ
>ばかりか、この史料は防衛庁防衛研究所の図書館にもありません。
これについてはもう少し詳しく知りたいな。
東中野氏の主張(第一大隊が架空の旅団命令をでっち上げた)が
載っている著書名と第二大隊の陣中日記の所在について判る
参考書があれば教えて欲しい。

ちっとも「Dearグース」でなくてスマソ。
394Dearグース:2001/03/26(月) 22:23
>>315
>船橋照吉の件については「過去レス」で説明した。

>>106であなたは
>例えば「船橋照吉」という人物は「南京戦史」の執筆者の
> 一人である「板倉氏」のもとに「船橋日記」を送付している。
>ところが「基本的事項」があやふやであり、歩兵九連隊との
>実戦記録が合致しないため板倉氏は「資料として採用しなかった」

と「船橋日記を板倉氏が検証して南京戦史に採用しなかった」ことを
書いているが「なかった派」に関して「だれが何についてどうした」
とはっきり書いているのに「虐殺派」については

>ところが「虐殺派」は「船橋日記」を採用(笑)
>まったく「検証しないどころか」板倉氏の下にある日記とも違う
>「新たに虐殺を捏造」したものだった(笑)

と、その経緯も誰が何に採用したかも指摘していない。
その上で最後に

>つまり「なかった派」が却下した「日記」を「虐殺派」が拾い上げ
>またまた「虐殺派は恥をかいた」のである(笑)

と結論づけている。で具体的に挙げた事実はというと>>110での

>平成3年3月に「石原発言を許さない京都集会実行委員会」
>が主催した集会で出版された「歴史を偽造するのは誰か?」
>という「冊子」がある。

のみで、これでは「左翼団体集会」のパンフレットに使われたことは
わかるが、このパンフレットに「虐殺派の学者」がどれだけ
関わっているかを指摘せずに>>110

>まったく資料の検証をしない「虐殺派の学者」
>彼らの口から「反省の言葉」は聞こえない。

と「虐殺派の学者」全体の行為のように書くのは
事実の歪曲になるんじゃないの?
395グース:2001/03/27(火) 04:27
>>393
>東中野氏の主張(第一大隊が架空の旅団命令をでっち上げた)が
    ↓
「南京大虐殺の徹底検証」=東中野教授 展転社 1800円
ネット通販なら一週間ぐらいで手に入る。

「本当はこうだった南京事件」板倉由明 近代文芸社 2400円
これは非常に「よくできてる」
南京戦史を買うまでもなく「これ1冊」で十分争点は理解できる。

他には「南京戦史」(3冊セット)があるが一応「非売品」なので
古本屋を探すしかない。2万円前後はする。

「南京戦史」P317より引用
歩66第一大隊の戦闘詳報を見ると、隣接部隊等の進歩状況とちぐはぐ
な部分や、軍事的慣例と異なる記述などがあり了解しがたい部分
があるが、13日午後2時の連隊命令
「旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し
逐次銃殺しては如何」に、したがい全員を処断したとされている。
全文を通じその表現は極めて異様である。=引用終了

また「1大隊=処刑命令」の本文は南京戦史資料集(1)P666以降、
問題の「全部殺すべし」はP673に収録されている。
396グース:2001/03/27(火) 04:53
>>394
>「虐殺派の学者」全体の行為のように書くのは
>事実の歪曲になるんじゃないの?

そういう見方もある。
わしは「笠原一派」=南京事件調査研究会は「全部いっしょ」
とおもってるから「そういう書き方」になった。
まぁ「あえてそう書いた」と理解してもらっていいよ(笑)

理由として「南京調研」は「主張が全部いっしょ」だから(笑)
左系の学者は「独自の意見」ってのはないのかね?
「南京の人口」については「笠原氏の主張といっしょ」
「南京防衛軍」については「笠原氏の調査によると15万」
「埋葬記録」は井上氏、洞富雄氏の指摘のように・・・
とまぁ「内輪で統一見解」をこしらえてるわけだ(笑)

まず「問題なのが」、国際委員会の公文書「T-6」に記載された
「日本軍の入城時、難民のほとんどが安全区にいた」
という記述を「虐殺派の学者は絶対しない」こと。

また「ラーベ」が「安全区以外には中国人は確認できなかった」
という「引用」もだれもしない。

また「当時の人口が30万以上」であったという「資料」も提出しない。
笠原(説)による難民の流入についても「資料を全く出さない」
なのに「虐殺派の学者は全員=笠原(説)を支持してる」

南京防衛軍の編成については「笠原理論を引用するのみ」
それが「常識的」なものならいいが「史実に反する珍説」
を検証しないで垂れ流してる=虐殺派の学者全員

とまぁ「こういう理由だ」
まともな「虐殺派の学者」がおらんというのが「わしの主張」
397グース:2001/03/27(火) 05:44
>>396
一応補足しとくねん。

人口問題における笠原(説)は
非難した南京市民も多かったが、他の地区から流入する難民
が多く、12/13日、南京陥落時に30数万以上の人口だった。

こういうものだが「ミニー女史」の日記によると
難民の流入は「多いときは1000人以上」という規模で
毎日1000人としても3〜4万人。まぁ普通に考えると「2万人」程度。

どう計算しても「30万人」には届かない。
しかも「難民は安全区に行くしかない」わけで(笑)
当然、国際委員会の公式記録「20万」に含まれる。

仮に笠原(説)の主張通り「10万規模」の難民が12/初旬から
「南京城」に存在したとしよう。
(まぁ順次集合したとしても7〜8万はいただろう)
安全区に避難民が集まるのは「12/7日」の夜からである。

安全区ができるまでの間「まぼろしの難民」は南京のどこに
存在しえるのだろうか? しかも「記録に残らないように姿を隠し」て。
      ↓
つまり「こういう検証」すら「虐殺派の学者」はしないってことねん。

あと「南京防衛軍」については
「日中戦争」関係の本を読むと「1師=5000〜10000人」
員数もまちまちだったとして「1師=一万以下」としている。
7000〜8000人として計算している場合が多い。
ダーディンは「中国軍の1師は通常でも5000人」
「南京において補給の無い部隊は2〜3000人ってこともありうる」
日本軍「1師=5000人」で計算。
と見ていた。これはもちろん「雑兵まで含めた総数」である。

これらの「常識」を打ち破る「珍説」をまったく検証しない
「虐殺派の学者」は「ちょっとは他人の本」を読むべき(笑)

笠原(説)「1師=常に11000人」
南京調研で聞き取り調査した「陳さん(説)1師=2万以上」
まさに「珍説」としか言いようが無い(笑)

まともじゃないやろ?(笑)
398名無しさん:2001/03/27(火) 07:33
ラーベは20万以上、とも言ってるんじゃないですか?
ラーベもかなりいい加減に言ってますよ。

20万以上には30万も含まれるでしょ?

それに1月に5万人も安全区人口が増えたということは
金のない貧困層は揚子江を船で渡れないから、
やはり、ラーベが日記で語るように、城内の廃墟に隠れ
住んでいたと考えられるのではないでしょうか?
日本軍に発見された者を含めると30万規模ということも
ありえるでしょう。
ラーベ達が城外の廃屋を調査したという記録も無いので
実際、ラーベ達は潜伏者を捜索することはしていないの
でしょう。
10万くらいなら、世田谷区並の広さの城内に分散すると
極めて目立たないでしょう。
東京ドームでさえ満員で7万も入るのです。
世田谷区に東京ドームが何千個入るでしょうか?
城内には南部が特に密集していますが、全体的に家屋によって
占められています。
ラーベ達は捜索まではしていないとなれば、隠れていた可能性
は高いと言わざるを得ない。
399398:2001/03/27(火) 08:19
訂正、 城区の面積は、世田谷区じゃなく、JR山手線の
内周面積に相当、でした。
安全区が世田谷区の面積?に相当ですね。
すると東京ドームは山手線内周には何万個も入るのかな?
10万人が分散して隠れたら、殆ど目立たないですね。
400398:2001/03/27(火) 08:22
さらに398で「ラーベ達が城外の・・」は
「ラーベ達が城内の・・」の間違い。
401日本@名無史さん:2001/03/27(火) 09:19
>>398
隠れている人間を探し出し、処刑する(10万人以上を!)為の人員、時間を考慮すると、不可能では?
402日本@名無史さん:2001/03/27(火) 12:51
>>398
>>401の一撃で轟沈!
403日本@名無史さん:2001/03/27(火) 14:44
この程度で大喜びとは……
ラーベたちが見つけていなかった人たちは穴の中に隠れていたとでもいうのか?
そこを通った日本軍が「空き家」を漁るだけで見つけられた人も多かっただろう。

それにその人たちは後で安全区へ流入していくんだろうが。
404グース:2001/03/27(火) 19:40
「南京城=世田谷区の80%、鎌倉市とほぼ同じ」約39平方キロ
推定人口「85万」
@城の外側3郷区=(燕磯区、孝陵区、上新河)推定人口「15万」
詳しい地図が無いので面積不明だが「そんなに広くは無い」
以上の合計で「南京市(南京城区)の人口100万。

「安全区、最大全長3キロ、最大幅2キロ=面積3.8平方キロ」
ここに最大で25万人もいたのだから「噂が広まるのは早い」(笑)
12/8、安全区として発表され公式に避難民を受け入れる。
この日「南京の城門は閉じられたので、他地区からの難民流入は無い」

>JR山手線の内周面積に相当
    ↓
これは南京防衛の外郭陣地(他の都市)を含んだ面積。
南京作戦区のことだと思われる。
405名無しさん:2001/03/28(水) 00:19
そもそもラーベ達が20万とか20万以上とかいったのは、
どうやって調べたのかが、「南京の真実」を読んでも判らない。

11月23日付けで南京市が発表した、50余万(11月後半時点)
から推定したのだろうか?
それとも日本軍が発行した良民章がキッチリ20万または25万人分発行された
という記録でもあるのだろうか?

ラーベ自身が20万と言ったり、20万以上と述べたりしていて、しかも
1月17日の日記では増えた5万人は廃墟に住んでいた、と述べている。
ラーベの言葉からは厳密さが感じられない。論議の分かれるところだろう。

城門が8日に閉じられたのなら、やはり25万以上が安全区と城内の廃墟
に隠れていたとしか思えないのだが。
揚子江(下関辺りの川幅が1.2q以上)を一文無しの難民が渡って戻る
ことは考えられないな、やはり。5万人が戻るには本格的な動力船で
ピストン輸送する必要があるし・・。無料で運航する会社でもあったのか?

南京城壁の全長はおよそ34qだそうです。
34qといえば、JR山手線の路線長とほぼ同じです。
よって外郭陣地は含まないと思いますが。

406日本@名無史さん:2001/03/28(水) 02:26
ラーベが20万と言っているのは安全区の人口であり南京市全体の人口ではない。
陥落当時の正確な市民数は、当時の統計はなく、難民や軍人の流出入が激しかった
ため確定できない。
防衛軍の数は10万(でも笠原の論も否定せず参照されている)。

と、先に英文での引用された秦郁彦の論には書かれているね。
407日本@名無史さん:2001/03/28(水) 02:28
>1/3にすると「1万5千人」となり「なかった派の推計と
>ほぼ一致」する。

そうそう、南京戦参加部隊の30パーセントの記録からのみ割り出した数だ。
詳報・日誌が公開されておらず詳細不明の連隊はあといくつあったっけ。
408グース:2001/03/28(水) 04:49
>>405
>「南京の真実」を読んでも判らない。

「警察庁長、王固盤の話」として南京市民は20万以上
と書いてある。ラーベの日記11/28日分。(南京の真実 文庫板 P77)

その1 アメリカ大使館のアチソン氏は「市民の4/5が南京を脱出」
と報告している。
その2 ラーベは80万市民が脱出としている。
その3 南京の戦前人口は「約100万」である(異論はないようだ)

とまぁ「当時の資料によると」およそ20万人という推測がなりたつ。

わしが言いたいのは「虐殺派の学者」がこのような
筋道だった理論を展開せず「笠原教授が言うから30万以上」
というレベルの低い議論をするなということである。

蛇足だが「中国で販売されているラーベの日記」からは
南京の人口に関する記述は「削られている」そうである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
409グース:2001/03/28(水) 04:56
>25万以上が安全区と城内の廃墟に隠れていたとしか思えないのだが。
   ↓
可能性としてはありうる。
ただし「日本軍の虐殺がなかった」というのが前提になるが。

「廃墟」に住むというのは妙な表現だとは思わない?(笑)
わしは、流民が「廃墟」に住み着いたと考えたほうが筋が通る
と思ってる。市民が「廃屋」に住んでいるというのは考え難い。

>南京城壁の全長はおよそ34qだそうです。
そうですか勉強不足でした。
410グース:2001/03/28(水) 05:14
>406
「12/13に貴軍が入城した時に安全区内に一般市民のほとんど全部を集めていました」
日中戦史資料集9 P126

南京市民は、ほとんどが安全区にいたとの記録があります。
全員ではないにしろ「10数万人」が安全区外にいたという
日本軍の記録、外国人の記録、目撃情報はないのねん。

普通に歴史を考えるなら「南京市民はおよそ20万」でいいのでは?

秦教授は「笠原理論」を明確には否定していませんが
「研究内容を見れば」一目瞭然です。
笠原一派「南京調研」も秦氏の説を批判しております。
411グース:2001/03/28(水) 06:05
>>407
>南京戦参加部隊の30パーセントの記録からのみ割り出した数だ。
>詳報・日誌が公開されておらず詳細不明の連隊はあといくつあったっけ。
     ↓
これも「虐殺派の学者」のトリックなんだが(笑)

そもそも「捕虜の獲得」とは12/13〜12/14頃までであり
「捕虜確保、捕虜処刑」についてはほとんど解明されている。
というのは軍上層部の日記が開示されてるから(笑)
今後「連隊クラス」の日記が発掘されても
「数千、数万」単位の「捕虜処刑」の話は出てこない。

@なぜなら「数千という多量の捕虜獲得」は「上層部に報告」
しなければならないから。(まぁ常識だな)

だからこそ「秦教授の説」が成り立つわけだ(笑)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(当時の記録を積み重ねる方法)

現在判明している「日本側記録による捕虜の処刑」
を当時の常識に従って「30%〜50%」とすれば「約2万」
南京落城時の「南京軍が5万」(公刊戦史、東京裁判記録)
として「戦死1〜2万」「生存が1万」
@合計で殺された捕虜「2〜3万」

秦教授(説)は「守備軍10万中、戦死5.39万」
「生存捕虜1.05万」「脱出成功0.56万」「捕虜殺害3.0万」
として、殺された捕虜「約3万」としている。

戦死5万というのが目を引くが「戦場からいなくなった敵兵」
と考えると合点がいくだろう。(撤退成功を含むということ)
412日本@名無史さん:2001/03/28(水) 08:37
>その2 ラーベは80万市民が脱出としている。
>その3 南京の戦前人口は「約100万」である(異論はないようだ)

なんかいつまでやっても議論を堂々巡りねえ・・・
413日本@名無史さん:2001/03/28(水) 09:05
グースはなぜに時々秦説を持ち出してくるの?
理論的にも結果としても全く違うこと(東中野に似た説)言ってるのに。
市民の数しかり、防衛軍の数しかり、捕虜の処刑しかり
秦の書いている内容を見れば、笠原達と似たようなこと言ってるのも一目瞭然なんだけど。

それから。笠原だって南京陥落してから城市内だけで20万などとは言ってない。
城市内だけで5、6万というのは全く否定していないじゃない。(ラーベの見解についてのコメント)
範囲を城市部に限定してそれを考えるならば、笠原も秦も同じようなことを述べて
いることになる。
そういうことはどう考えるの?
414日本@名無史さん:2001/03/28(水) 09:39
グースってやつは粘着質だね
415グース:2001/03/28(水) 11:54
>秦の書いている内容を見れば、笠原達と似たようなこと言ってるのも
>一目瞭然なんだけど。

ソース希望(笑)
秦教授は「南京での捕虜殺害3万」
南京城内での市民殺害は「約6000」(スマイス調査)
南京市民の無差別大量虐殺は否定。
崇善堂埋葬記録は考えない(当時の記録ではないから)
「まぼろし派の見解もほぼ一緒」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

笠原説は「捕虜殺害8万」「市民6万以上」(スマイス調査は無視)
「20万に近い数。あるいはそれ以上」
南京市民の無差別大量虐殺は「積極肯定」
崇善堂埋葬記録を積極採用。

@秦教授と「まぼろし派」の見解の相違は「国際法」の解釈のみ。

>南京陥落してから城市内だけで20万などとは言ってない。
     ↓
笠原は説は城内外で15万以上。
崇善堂埋葬記録を採用する限りこの数字は動かない。

>城市内だけで5、6万というのは全く否定していないじゃない

否定派していないが、「5〜6万であるともしていない」
ラーベは5〜6万としか認識できなかったが「本当はもっと多い」と
笠原十九司はいっている。

>>413
どうでもいいけど「いいかげんな事は言わないように」
このレスについては「ほとんど説明済み」の件だ。
416日本@名無史さん:2001/03/28(水) 20:46
>>414
> グースってやつは粘着質だね
粘着質でなきゃ、何度も同じ質問にこんなに丁寧に反論しないよ(藁

結局堂々巡りするね、この議論って。

ホームページ開設を楽しみにしてます>グース氏
417名無しさん:2001/03/29(木) 02:23
>409(グース氏)に関し
ラーベの言う廃墟とは、文意から判断して、避難して空き屋になった家
を指してるでしょうね。8日の城門が閉められる前までに城外から避難
して来た避難民が、膨大な数の空き屋に隠れ住んだ(短期間)ということで
しょう。
元々、城区のスラムに住んでいた住民でも自宅の床下や屋根裏部屋などに隠れて
日本軍をやり過ごした住民はいるでしょう。
そういった人たちが、1月にやや落ち着いてから安全区に入ったのが5万人
増の理由だと思われます。
一方で、隠れ方が甘い者も大勢いて、かなりの数が殺されたと思われます。

NYタイムズ1月9日のダーディン記者の記事には、
「〜市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
 総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数くらいにのぼるであろう。
 記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍
 の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた」
と、市民の死骸が城内の安全区以外にあったことを述べています。

12日夜から13日にかけて避難する兵隊(便衣の兵隊)とともに
大勢の市民も下関へ向けて逃げていることも考え合わせると・・・
(下関には既に船が無く兵隊もろとも残滅される)

初めから安全区に留まった市民、城外からの流入難民が、およそ20万。

安全区外の城内に潜伏した市民と流入難民が約5万で、1月になって
安全区に入った。

兵隊(便衣)と共に下関に逃げ、残滅の巻き添えを喰った市民、と、
安全区外の空き屋に隠れ住もうとしたが、見つかって殺された市民が
数万規模いたといえるでしょう。

スティール記者によると、パニックになった市民が
「〜とつぜん巣を追われた野ネズミの大集団のように、わずかな食料と
 寝具類を背負って、退却する部隊の後を追って南京脱出をはかった」
そうです。
418グース:2001/03/29(木) 03:17
>>417
なかなかいい反撃だ(笑)

>安全区外の城内に潜伏した市民と流入難民が約5万で、1月になって
>安全区に入った。
    ↓
この部分については資料がないが、ありえると考える。
ただし12/8以降「25万」で、翌年「25万以上」に人口が増加してるので
「市民大量虐殺」はなかったと考えたほうが「筋が通る」

意外と「勘違いされる方」が多いが、日本軍の入城以降は(12/13以降)
安全区以外にも住民はいたと思われる 。
つまり1938年一月の人口は「安全区の25万」+「市内の住民」
ということだ。(つまり大量虐殺はないってこと)
419グース:2001/03/29(木) 03:31
>>417
>記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、
>一帯は日本軍 の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたる

一般人の死者は「日本軍の砲爆撃」によるものですね(笑)
これは「虐殺」には入らないと思われますが?
(南京攻防戦の空爆、砲撃の犠牲者)

>市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
     ↓
これは例の「下関門」での事故の件ですね。
かなり前のレスで説明しましたが「この部分は捏造」と
ダーディンは白状しています。
下関門(把江門)での戦闘は「なかった」ことが確認されています。
仮に「市民が混ざっていた」としてもその責任は「中国軍」
にあるでしょう(笑)
機関銃で陣地をこしらえ「退却する味方」に発砲したわけですから。
420グース:2001/03/29(木) 03:55
>>417
>とつぜん巣を追われた野ネズミの大集団のように、わずかな食料と
>寝具類を背負って、退却する部隊の後を追って南京脱出をはかった」
    ↓
これは「誰が訳した文章」でしょうか?
こんな「ひどい捏造された訳は見たこと・・・」(笑)
ちなみに、このような光景が報道されたことは「まったくありません」
ダーディンもステールも「そんなことは一言も書いてない」のですが(笑)

正しい引用
1938/2/3 シカゴ、デイリーニュース(南京事件資料集1 P473)
>大使館敷地になだれ込んでくるところであった。いずれも寝具や
>包みの重たい荷物を背負って、あたかも驚いた地ネズミの大群の
>ように館の防空壕に急ぎはいるところであった。
     ↓
南京調研編集の「アメリカ関係資料編」より引用しました。
日本軍入城の情報を掴んだ「アメリカ大使館」使用人の家族が
大使館の防空壕に避難した様子です(笑)
その時ステールは日本軍入城が「デマ」だと思ったそうです。

>30分後、中国軍まる一個師団が大使館の横を駆け逃げていく
>のを見たとき、私たちはそのことを知った。
アメリカ資料編 P474より引用。

安全区内を通過して撤退する中国軍を追いかける「市民」
はいなかったようです。市民は「安全区のほうが安全」だと
思っていたようです(笑)
421グース:2001/03/29(木) 04:25
>>417
基本的な了解事項として(笑)
「下関門」(把江門)は通行不可能だったことは
「覚えておいてね」

わずかに隙間があったのですが「避難車両」と死体で
封鎖されていた(してしまった)というのが実情です。
だからこそ兵隊さんは「ロープを作って」壁をよじ登ったわけで(笑)

避難民がいたとしても荷物を背負って「高さ10メートル」位
の壁を、ロープで上るといった芸当を期待してはいけません。

日本側資料(南京戦史 P160 歩33平山証言要約)によると
>14日朝「把江門」到着。外側に土嚢を積み上げ閉鎖されて
>いて入れない。約2時間の作業で通過できようになった。

つまり「下関」に大量の難民がいたというのは「まぼろし」
と言っていいのでは?
422名無しさん:2001/03/29(木) 07:38
ダーディン記者が捏造と白状したんですか、それは知りませんでした。
いつ、そう言ったのでしょうか。

スティール記者の発言は、資料(コピー)がどっかいってしまった
ため、野ネズミの集団(これは憶えている)・・・という記事と、
たしか「シカゴデイリーニュース」のスティールの記事には把江門で
パニックに陥った群衆のことが書かれていましたよね。
(市民の荷車などで渋滞になった、と)その両方を私のうろ覚えで
書いてしまいました。
ただ、訳は正確じゃないにしても、軍隊、市民が把江門に殺到
したことは確かだと思います。
それで、同士討ちは確かなんですが、12日の夜9時ころに最後
の中国軍戦車が門を撃破して、門は開かれたと憶えております。
よって、夜9時以降に市民が相当数脱出したのではないでしょうか。
423名無しさん:2001/03/29(木) 07:44
なお、私は、南京安全区からの便衣兵狩りで間違われて
連行され、殺害された民間人と、下関に兵隊に若干数混じって
逃げ、残滅された民間人はトータルで、1〜2万だと思っています。
秦氏もそれに近い意見だと思いましたが・・・?
424Dearグース:2001/03/29(木) 10:21
>>419-420
頭がおかしくなりそうなので質問。

>>市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
>      ↓
>これは例の「下関門」での事故の件ですね。
>かなり前のレスで説明しましたが「この部分は捏造」と
>ダーディンは白状しています。

グース氏はダーディンのこの記事は「下関門」の件だと
推測しているようだが、>>417の引用を読むと

>NYタイムズ1月9日のダーディン記者の記事には、
>「〜市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
> 総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数くらいにのぼるであろう。
> 記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍
> の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた」

とあり後半部分でダーディンは
(1)日本軍が南京市内を制圧した後に市南部を訪れた。
(2)そこで戦闘に巻き込まれた一般市民の死骸を見た。
(3)彼らは南部もしくは南西部から脱出できなかった市民である。
ということを記事にしているようだ。
この記事が「捏造」でなければ日本軍の攻撃開始後も安全区以外に
一般市民がいたことが推測できる。

さてグース氏が前レスで触れたと言っているのは恐らく>>186

>ダーディン記事 要約
>日本軍の下関門の占領は、中国兵の虐殺をともなった。
>彼らの死体は高さ6フィートの山を築いた

ことだと思うがこのグース氏の要約ではダーディンが「捏造」したのは
下関門で中国兵が虐殺されたことで市南部で一般市民の死体を見たことではない。
さらに>>186で「下関門=把江門」指摘されているのでダーディンは
○南京市北西部での把江門での中国兵の虐殺
○南京市南部での一般市民の死骸を見たこと
の2点を「捏造」したことになる。こういうあからさまな捏造を行う
新聞記者がいるとは俄には信じがたい。

さてこれらのことは自分なりに調べてみたいので
(質問1)>>186の記事の要約は一体どの新聞の何日の記事のものか?
(質問2)同じく>>186の1986年のダーディンに対するインタビューの
     載っている(もしくは引用されている)書籍/雑誌の名前を
     教えてほしい。

追記:>>395
何故>>372に対する質問にあなたが答えるの?
まあいいや。「本当はこうだった南京事件」は手に入れた。
今読んでいるところだ。東中野氏の著作も注文した。
グース氏よ、ありがとう。
425日本@名無史さん:2001/03/29(木) 11:55
私も大学の図書館で『南京戦史』『南京戦史資料集』1,2ともに借りてみた。
『南京事件資料集』は借り損ねたのでそのうち借りる。
『本当はこうだった南京事件』も注文した。東中野氏のものも注文。

『資料集』に66連隊第2大隊の陣中日誌が掲載されていないというのは
本当だね。第1大隊戦闘詳報に対してのコメントはグース氏が引用した
通りだけど、だから偽物などとは書いてないし、命令についてもそれを
出したとされる連隊側の資料がないから判断しようがないというような
こと書いてるよ。

しかし第一大隊のこの日の部分を捏造だと判断するとしたら、この第1大隊は
この日何をしていたのか。師団が城内に入って掃討をしている間一日ぼうっと
していたわけでもあるまいし・・・まあ板倉氏の読んでみますがね。

にしても、やはり資料は足りないよ。グース氏は上層部の資料はあらかた公開されて
いるから平気みたいなこと書いているけど、戦闘詳報等だと上層に行けばいくほど
おおざっぱな記述のものが多く、細かいことがよくわからない。
師団長レベルの個人的な日記だって16師団くらいのものじゃない。それ以上の階層
になると戦況や配置等々はおおかたわかるけど、師団や連隊の中で行われている状況
がよくわからない。
426日本@名無史さん:2001/03/29(木) 11:56
南京戦史資料集をざっと見て

初年兵の陣中日誌の執筆者は、匿名(署名がイニシャル)のものも取り上げられて
いるね。これなんか原文は戦後清書したものらしい。

南京衛戌軍の戦闘詳報12月4日に、「便衣の敵軍(日本軍)」が出現とある。
解説に拠れば、これに示されている第9師団はこの時まで夏服を着用していたから、
防寒のため一部の兵が民服を着ていたのだってさ。
427グース:2001/03/29(木) 16:36
>>422
>ダーディン記者が捏造と白状したんですか、それは知りませんでした。
>いつ、そう言ったのでしょうか。

1987/9/14日 笠原氏とダーディンの対談(アメリカ資料集P571)
この下関区域では、それこそ大勢の兵隊が把江門から脱出しようとして
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
(注、兵隊のほとんどは圧死、墜落死です)
〜中略〜
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように
思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。


当時のダーディン記事=日中戦史資料集9 P283(昭和48年初版)
>日本軍の下関占領によって守備隊の多量虐殺が起きた。
            〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
>中国兵の死体は土嚢の間に山積みにされ、高さ6フィートの
>塚をなしていた。
〜中略〜
>日本に抵抗すれば、このように恐ろしい結果になると
>中国人に印象づけるために、恐怖ができるだけ長く続く
>ことを望んでいるようなようすである。

説明する間でもなく「捏造記事」ですね(笑)
以上の記事は「アメリカ資料編ではどういう訳かカットされている」
部分の記事です(笑)都合の悪いところは「見なかった」ことに
したいようですね。

428グース:2001/03/29(木) 17:11
427の(注)は原文にはありません。

>>422
>12日の夜9時ころに最後の中国軍戦車が門を撃破して門は開かれた

これは南京事件(岩波)のP136の記述だと思われますが
結論を言うと「笠原氏の捏造」

問題1
戦車で門を破壊したという「資料が提示されていない」
南京保衛戦、抗日戦争といった「中国側資料」にも記述なし。
問題2
日本軍の記録と合致しない。
日本軍は「把江門」を迂回する形で「下関」に到着し、
渡河中の中国軍に銃撃を加えている。つまり門は閉じていた。
「土嚢がぎっしりと積まれていた」という証言は
アチソン報告12/9(アメリカ資料集P98)
「把江門を通過した時、土嚢で封鎖する作業が〜」
という電文とも合致する。
問題3
当時の戦車は「ブリキのおもちゃ」程度なので土嚢を積んで
閉鎖された門を破壊するのは難しい。南京城の他の門が
日本軍の砲撃(戦車砲より強力)に耐えたことを考えると
砲撃による破壊もむり。

資料がないので大雑把になるが当時の戦車砲は「20〜30ミリ」
程度で、破壊力はさほどでもない。(零戦の機銃が20ミリ)  
429グース:2001/03/29(木) 17:21
>>423
スマイス調査によると「連行され行方不明」が4200人。
「これには便衣兵狩も含まれる」
つまり「便衣兵狩も含めて(他の例も含め)連行され
行方不明が4200人ということ。

便衣兵掃蕩は「ほとんどが敗残兵」だったので
純粋な民間人は最大でも4000人。わしの見立てでは1000人。
(それでも多量ではある)

なおスマイス氏の言葉「敗残兵がまぎれこんでる可能性がない」
というのは「死者2400人」に対してのことである。

430グース:2001/03/29(木) 17:49
>>424
おたがい混乱しているようだな(笑)

1 ダーディンが見た「大量の死体」は「把江門」と「南部地区」
の2箇所だけである(笑)

2 その内「南部地区」の民間人の死体は「砲撃、爆撃」による
ものである。これは12/5ミニー女史の日記にも記述があり
これは「戦争被害者」であって「虐殺の犠牲者」ではない。
また、ダーディンも「砲、爆撃の被害者」と記述している。

結論 南部地区の死体は「日本軍の入城前12/5の死体」

3 すると「南部地区から脱出できなかった市民」が死んだ
場所は「把江門」しかない。
(ただし、ダーディンは市民の脱出を目撃していない)

4 把江門では「中国軍同士の戦闘」しかなかったので
そこに「仮に民間人がいたとしても」その責任は日本軍にはない。

南部地区から安全区を抜けて、ドンパチやってる把江門(最北の門)に
行くという「判断の甘さ」と「味方同士で戦車もちだす」中国軍の
モラルが問題である。

わしが市民なら「安全区」に引きかえすがなぁ(笑)

結論
○南京市北西部での把江門での中国兵の虐殺=捏造
○南京市南部での一般市民の死骸を見たこと=事実だが12/5日の爆撃
431グース:2001/03/29(木) 18:28
432日本@名無史さん:2001/03/29(木) 23:50
門が破壊されたかどうかは知らないが、少なくともさっさと逃げちゃった司令部の記録
や、米国大使館内に避難した軍医の記録だけ(南京戦史資料集に掲載の資料)では判明
するわけがない。
簡単に「捏造だ」という前にせめて疑問形にとどめておくか、もうちょっと資料
調べてみるかしたら如何。先に重機関銃で捕虜を殺害した人の体験談を初めから
疑ってかかったときと、同じ失敗するおそれもあるぞよ。

下関門ではないが日本軍によって破壊された門はあるじゃないの。門そのもの
ではなく門の横の城壁だけど。それを考えると、『南京戦史』に掲載されている
邑江門の写真は城壁部分が木に隠れてほとんど見えないからわからないなあ。

しかしその写真の下には「下関付近には1000以上もの平服も交じった屍が横たわり」
と書いてあるけどね。
433日本@名無史さん:2001/03/29(木) 23:55
簡単に捏造だの都合の悪いところは・・・云々いうけど
少なくともダーティンが自ら記事が違うことを述べているわけだし
それを日本の学者が掲載しているわけだし、後に書かれた物では邑江門
(把江門だと字は似てるが発音が全く違うよ)の件は中国兵によるもの
だと書かれている。もし『南京事件資料集』でのインタビューより以前
はそれの死体が日本兵との戦闘によるものだという認識だったならば、
その見識を改めたということでいいじゃないの。
インタビューだってもう10年も前の話だよ。

マッカラムの件やらを訂正もせずにそのまま載せている誰かよりは全然
ましだと思うけどね。
434日本@名無史さん:2001/03/29(木) 23:59
>なおスマイス氏の言葉「敗残兵がまぎれこんでる可能性がない」
>というのは「死者2400人」に対してのことである。

ソースは?
「死傷者数および原因ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、
敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。」
と書いてあるのは見たことあるのだけど。
原文にはそう書いてあるの?
435グース:2001/03/30(金) 02:05
訂正を一発
>以上の記事は「アメリカ資料編ではどういう訳かカットされている」
>部分の記事です(笑)都合の悪いところは「見なかった」ことに
>したいようですね。
    ↓
これは「100%勘違いでした」アメリカ資料編に、この記事は掲載されてます。

実は、アメリカ資料編にはNYタイムスと「まったく同じ記事」が
掲載されており(P544)その部分では「カットされてます」が
NYタイムスの記事は「全文掲載されているようです」

記事がカットされた新聞=世界日報(サンフランシスコの華僑新聞)

436グース:2001/03/30(金) 02:16
>>432
言ってる意味がよくわからんが?

日本軍の記録によると「門が破壊された」のは「14日朝」という
複数の記録がある。
13日の戦闘でも「門が開いていた」という証言はない。
また「物理的に不可能」

これでも疑問系をつけなくてはならないのなら
「南京大虐殺」自体に疑問形をつけるべきだろうな(笑)

>下関付近には1000以上もの平服も交じった屍が横たわり
    ↓
あたり一面に軍服や装備品が落ちていたという証言から
「便衣に着替えた中国軍」と考えるのが普通では?

その写真の解説には「荷物を抱えている」という表現は
ないようですね。少なくとも笠原氏が言うような
「荷物を背負った難民」ではないでしょう(笑)
437グース:2001/03/30(金) 02:39
>>434
「死傷者数および原因」=この部分は題名。
>ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、
>敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。
    ↓
日中戦史資料集9 P222「南京地区における戦争被害」スミス博士

とまぁ「ここに報告されている数字」とは「死亡者」のみを指し
「死亡者については敗残兵は含まず」2400名ということだな。
「題名を本文に組み込む」と意味が変わってくるがね(笑)

拉致については「50世帯」に一件の聞き取り調査という方法上
便衣兵狩による被害が当然含まれる。逆にいうと「便衣兵狩り」
を統計から削除したという記録はない。(被害者4400人)

これも「虐殺派」の洗脳なのだが、便衣兵狩りの被害者はすべて民間人
という思い込みはよくない。大半は「敗残兵、便衣兵」を正確に
選んだが「1割ほどは民間人を誤認」したというのが実情だろう。

アンチゴー宣の長田氏のHPでは
「すれすれの裏技」が炸裂してるので注意すること(笑)
438日本@名無史さん:2001/03/30(金) 02:43
>>436
門が開いていなくとも城壁(門の横等)は壊せるということ。
門が開いていたなどと言ってないよ。
それが「物理的に不可能」と断定できるわけ?
まあ君がそう思うならそう書けばよろし。

>あたり一面に軍服や装備品が落ちていたという証言から
>「便衣に着替えた中国軍」と考えるのが普通では?
グース氏は全てがそうだと考えられるわけだね。
別に民間人が大量に交じっていたと主張するつもりはないが、
死体が荷物を持っていたら、それらは真っ先に取られると思うがね。
解説にないからと言って存在しなかったと判定するのも早いのではないかい。
439名無しさん:2001/03/30(金) 02:50
スティールの記事のコピーが見つからないので仕事帰りに本屋で
探したら載ってる本があったので、携帯のメールに書き移しましたが
グースさんが420で引用した38年2月3日のシカゴ・デイリー・
ニュースでした。474ページ(アメリカ関係資料)に、
「〜パニックに陥った群衆の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。
 トラック、大砲、オートバイと馬を引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり
 一方、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。〜」
と、以上のように民間人が敗走兵に混じって逃げようとしていたことは判ります。

そして門が残骸や死骸で塞がれていたと確かに書いています。
ただ、現実に多くの兵士が城壁を乗り越えるなどして下関に出ているので
婦女子は諦めただろうけれど、男性民間人は兵士と同じように乗り越えた
かもしれませんね。
で、夜9時頃に戦車隊が撤退してきたというのはグースさんは笠原氏の
捏造と言われますが、これも本屋で探した本にちょこっと載っていました。
この戦車隊は、「市内の三条巷で市街戦を準備していた陸軍装甲兵団」
とありますね。出典が判らないので自分で調べないことには判らないですね。

当時の国民党軍が使っていた戦車はドイツ製の1号、2号といった戦車です
ね。まあ、軽戦車でも10トン近く、又はそれ以上はあるわけで「ブリキのおもちゃ」
は言い過ぎかと・・・
私は城壁上の機関銃座を潰すことなら充分可能だと思いますよ。
同士討ちの戦闘時間は夕方からの数時間なので、機関銃の弾丸が
尽きた可能性もありますがね。
第36師の機関銃座さえ無くなれば、後は門の扉をゆっくりこじ開ければ
よいわけで、土嚢(扉の半分だけ積んであった)を軽戦車で押し崩すことは
充分可能だと思います。死骸は押しつぶしたのでしょう。
12日から13日は民間人もゆっくり寝てるような状況ではないので
把江門が開いたという情報が安全区に広まれば、20万難民の内1万人
程度は下関に向かったと私は思います。

ダーディン記者が自分で1月9日の記事が捏造、と言ったわけじゃないんですね。

1月9日のNYタイムズの記事の、「〜一帯は砲爆撃で破壊され一般市民
の死骸がいたるところに転がっていた」はけっして一般市民が砲爆撃だけで
死亡したということではないですね。建物の破壊はそうだけど。
なぜならダーディン記者は、その前の部分で

「〜年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や
 警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。日本兵が近づいてくるのを見て
 興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。
 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、
 民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せに
 なっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは
 明かであった。〜」
 と書いています。
 ダーディンは砲爆撃以外でも、日本軍の民間人射殺があったとしているんで
 すよね。

440日本@名無史さん:2001/03/30(金) 02:56
>>437
>「死傷者数および原因」=この部分は題名。
で、なぜに「ここに報告されている数字」が「死亡者数」だけと判断できるの?
原文を見たのなら原文を書いてよ。

ちなみに私が見たのはアンチゴー宣のホームページなどではないよ。
441日本@名無史さん:2001/03/30(金) 02:57
それから、ずっと先の戦闘詳報・陣中日誌等からの数の件だけど、
(前スレッドから読み直してみると微妙に言い分が変わってるのはおいといて)
表に含まれているのは必ずしも詳報や日誌(公的なもの)ばかりではないよ。

両角手記はこそ終戦後しばらくして書かれた物だというのにグース氏は簡単に
信用するの?
先にもあったが『南京戦史資料集』には17日に1万5千名始末したという
65連隊第1大隊上等兵の日記もある。
「今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、
今日は山で。」
歩兵第65連隊第7中隊の上等兵も17日までに殺した数が2万。
「十二月十八日(略)昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様
に重なっているそうだ。七時だが未だ片づけ隊は帰ってこない。」
これについて前スレッドでグース氏は実際は幾百云々といっていたが、それは次の
19日の記述であって18日に片づけ終わらなかった遺体の数でしょう。
もっともこれら兵達の日記を取り上げれば両角手記の信用性が絶対的にあやしく
なってしまうのだが・・・
それはおいても、両角手記を含めてもこれらはあくまで戦果として報告するものではない。
重砲兵第2大隊の記事は参照が『南京の日本軍』となっているが、そちらでは『証言に
よる南京戦史』からの引用に基づいている(東史郎のものではないよ)。
佐々木支隊のものは支隊長の「私記」から。他にも上等兵の日記等々・・・

戦果として上層部に報告されたものではない数までを全てひっくるめて「過大」だとして
3分の1にもしてしまうのは如何なものかと思うけど。
442名無しさん:2001/03/30(金) 03:13
439の「20万難民の内1万人」というより、
「城内の安全区以外にいた者(日本軍入城前に)も含めた20数万の
 内、1万人位」というほうが私の考えに正確なので訂正します。
443グース:2001/03/30(金) 05:43
>>438
>それが「物理的に不可能」と断定できるわけ?
     ↓
判定できる。当時の戦車に装備された機銃では不可能。
また「体当たりで壊れる壁」ではない。

>存在しなかったと判定するのも早いのではないかい。
   ↓
民間人がいたとは「なおさら判定できない」のでは?
あの日、あの時、あの場所に、「便衣に着替えた多くの兵士」
がいたことは事実。
444グース:2001/03/30(金) 06:13
>>439 記事の補足引用
題名 将校が退却を阻止する。

数人の青年将校が、退却する大群の前に立ちはだかって食い止めようとしていた。
激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちは
いやいや向きを変え、前線に向かってのろのろと戻り始めた。
だが盛り返したのはつかの間であった。30分以内に中国軍の
士気は瓦解し、全軍は潰走することになった。

何万という兵士が下関門に向かって、群れをなして街路を
通りぬけていった。
〜中略4行(中国軍撤退の様子)

兵士らが退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか
離れていない交通部の100万ドルの庁舎に放火したとき
〜中略3行(爆発の様子)〜
銃弾と砲弾の破片が高く、あらゆる方向に甲高い音を出して散り
川岸にいたる道路をうろうろする群集のパニックと混乱を一層
高めた。燃え盛る庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。
>「〜パニックに陥った群衆の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。
>トラック、大砲、オートバイと馬を引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり
>一方、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。〜」
兵士たちは行路を切り開こうと望み無き努力をしたが、無駄であった。
〜後略12行(下関門は塞がれていて、ロープで脱出も船はない)〜

と、前後を補ってみました。
この文は「中国軍退却」を描いた文であり、民間人を示唆する
表現、単語はなく、全ての文の主語は「中国軍」ということが
分かっていただけたでしょうか?

>トラック、大砲、オートバイと馬を引く荷車
これも「中国軍ですね」

この文章で言う「群集」とは「兵士」を指しています(笑)
つまり、市民の脱出を目撃した者は「誰もいない」と言う事。
445グース:2001/03/30(金) 06:22
>>440
全部写すのはめんどくさい。
この手のレスは煽りと受け取るよ(笑)
>なぜに「ここに報告されている数字」が「死亡者数」だけと判断できるの?
    ↓
拉致については「50世帯」に一件の聞き取り調査という方法上
便衣兵狩による被害が当然含まれる。逆にいうと「便衣兵狩り」
を統計から削除したという記録はない。(被害者4400人)

虐殺派は「拉致に便衣兵は含まれない」と解釈してるが
以上の理由により「便衣兵狩りも含まれる」

わしは見解を示した。反論は自分で資料を引用するなり
理論を組み立ててからにしてくれ。
446日本@名無史さん:2001/03/30(金) 06:30
>>437
>これも「虐殺派」の洗脳なのだが、便衣兵狩りの被害者はすべて民間人
>という思い込みはよくない。大半は「敗残兵、便衣兵」を正確に
>選んだが「1割ほどは民間人を誤認」したというのが実情だろう。

「大半は・・・正確に選んだ」とか「1割ほどは民間人」だとか、いったい
何をもとに言ってるの?
447グース:2001/03/30(金) 07:05
>>441
前スレ読んだのなら「わしの立場」は理解できるな?

南京大虐殺の規模「3000〜30万」のいずれかを判断する
のに「陣中日記」は必要ないというのがわしの考え。

なぜなら「南京の人口20〜25万」「南京軍落城時5万」
「埋葬遺体4〜5万」この3点のうち「2点」が証明できれば
おのずと結論はでるから(笑)

結論は南京大虐殺=「捕虜殺害を中心に3万前後」の規模。

ところが「陣中日記」の検証をせがまれたから(笑)
南京戦史まで買ったわけで「個別の事件に興味はない」
個別の事件の検証をやると「戦後の証言」や「手記」
といった「あやふやな物」まで使わないと無理ということ(笑)

>両角手記はこそ終戦後しばらくして書かれた物だというのにグース氏は簡単に
信用するの?
    ↓
虐殺派が「戦後まとめた資料」を
全て否定するなら、資料として採用しなくてもいいよ(笑)
都合のいい資料だけ採用するのはフェアじゃないだろ?

否定論13のウソで「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」
に記載された「匿名の日記」によると「1〜2万は殺した」
とされている。

「南京の氷雨」教育書籍 阿部輝郎著作(絶版)によれば
平林中尉証言「1万以上というが、4〜5千が実数ですよ」P108
という証言もある。
「大量の油を前もって準備するとなると、駄馬を大量動員
して運んでおかなければならず、実際、そんなゆとりは
ありませんでしたよ」=平林証言P109

火事があって「多数の捕虜」が脱走したのは確からしい。
だが脱走後の数は不明である。恐らく誰も数えていないだろう。

いずれにしても「公式の資料」ではないから「真相は分からない」
だが「1万人を1列で行進」させると約10キロになる。
4列でも2.5キロ。これを夜中に行進させるのである。
また「遺体の処理」も不明である。

河に流したとはいうが「流れずに堆積」していた。
という中国側の証言もある。
そして当時「下関に3万」と言われた死体は「1万」しか
なかった。以上から「山田支隊の処刑は約5000人」
と考えた。そういうことだ。
448グース:2001/03/30(金) 07:19
>>446
便衣兵として「15000人」掃蕩というのが日本軍の公式発表。

ミニー女史の日記によると(南京事件の日々P158)要約
@2/7現在、避難民の報告で行方不明とされているのは合計723人。
@これらの男性は12/16日に拉致された(便衣兵狩り)

@以上の約700名は、3月のスマイス調査の時「拉致された」
と申告したはず。(スマイス調査=拉致4400名)
の中に当然含まれる。

@ミニー女史の下に届かなかった「拉致」もあるだろうから
ざっと1000人以上が「誤認された」と思われる。

15000にたいして1000以上=「ざっと1割は誤認された」と推測。
449日本@名無史さん:2001/03/31(土) 01:07
>>437
それは『南京戦史』の説をうけてるの?批判もあるのにあえてそれに納得するのならば、
それなりの説明ができるでしょう。
便衣兵狩りによる拉致も当然含まれるよ。そんなこと50世帯に1件などという方法
とどう関係あるの?仮に便衣兵が存在したとしてそれが「敗残兵」に含まれないと
どうして断定できるの?
南京においては便衣兵と衝突したというような記録もないし、日本軍だって「敗残兵」
の掃討と言ってたのに。(「便衣兵の掃討」と称していた例ってあるの?)

日本軍の公式発表の出典は?ダーディンは↓と言ってるが。

  南京掃蕩を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍が自ら発表
  している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。

実際には確実に兵だけを選別して捕らえているなどと軍も思っていないはずなので
(記録や命令等を鑑みれば)捕らえられた人数がこれ以下になる可能性はほとんどない。
ちなみに>>498にもあげられているが、同じ日の記事には↓も書かれている。

  日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸
  を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵
  隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。
450日本@名無史さん:2001/03/31(土) 01:09
>>447
>虐殺派が「戦後まとめた資料」を
>全て否定するなら、資料として採用しなくてもいいよ(笑)
>都合のいい資料だけ採用するのはフェアじゃないだろ?

「戦後まとめた資料」だから否定してなんかいないよ。
同じ組織で同じ日時の同じ状況を記した当時の日記複数と整合性がない、
戦後しばらくしてまとめた記録や証言を「グース氏は」簡単に信じるの?
と言っている。君は「戦後の資料だ」と言うだけで否定的に捉えた資料は
なかったか?山田日記も兵の日記2つも『南京戦史資料集』にあるものだよ。
『南京の氷雨』は両角手記を使用しているし、筆者が取材して得た証言や回
想を載せて実状としているのでしょ。
夜中だからとか処理方法が不明だからどうだというの?
師団の人員多数を繰り出して二日かかる処理が「流しただけでほとんど
が堆積した」というのも君の「推測」でしかないだろう。

まあそれはおいても、両角手記をそのように受け取るなら君も他の史料に対して
同じ姿勢をとらなくてはだめよ。
こちらの主旨としては、その手記の信憑性はとりあえずおいて5000だと「推測」
するならそれでもいいが、こういう私記や日記の類まで詳報等と一緒くたにして
3分の1にも減らしてしまうのはおかしいんでないかい、ということ。

ちなみに両角手記でも決して否定できないことは*捕虜を殺害を指示したのは師
団長レベルの人間ではなかった*ということ。

  軍は強引にも命令をもってその実施をせまったのである。ここに於いて山田
  少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。

山田少将の記録からも明らかになってはいるけどね。
451日本@名無史さん:2001/03/31(土) 01:11
>なぜなら「南京の人口20〜25万」「南京軍落城時5万」
>「埋葬遺体4〜5万」この3点のうち「2点」が証明できれば
>おのずと結論はでるから(笑)

で、証明できたの?
グース氏は前スレッドで防衛軍は折衷して10万なら認めたのではなかったの?
南京の人口は「30万なら範囲」と言わなかったっけ?
埋葬遺体は、日本軍が処理したもの(これがただ川に流しただけでほとんどは
流れなかった、というのも推測でしかない)や、その他いくつかの慈善団体
(紅卍会や崇善堂だけではない)や南京市が処理したものも。埋葬に日本軍の
許可がいらなくなった時期には市民だって埋葬できた。
それらの団体・個人が全部、全ての期間(日本軍の許可が必要でなくなった時期も)
に渡って紅卍字会の下で働き埋葬数が包含されていたと「推測」はされていたのは
覚えているがね。
452日本@名無史さん:2001/03/31(土) 03:36
>>451
>グース氏は前スレッドで防衛軍は折衷して10万なら認めたのではなかったの?

当初10万、落城時5万=台湾の公刊戦史
これは「認めてるよ」(笑)
東京裁判判決文の「5万の兵を残し〜」っていう記述もある。

「残兵5万」=「戦死2〜3万」「捕虜、敗残兵2〜3万」
捕虜の中には「生存、解放が約1万」あるので

@「南京における捕虜殺害は約2万」
453日本@名無史さん:2001/03/31(土) 03:48
>>452
東京裁判判決文(日中戦史資料集8 P396)
>右のような捕虜3万人以上が殺された。

東京裁判でも捕虜殺害として「3万以上」という認定ですね(笑)
この辺は「基本中の基本」だと思ってましたが(笑)
「ご存知なかった?」

だからこそ「笠原説=捕虜8万」は「珍説」なのですが(笑)


>南京の人口は「30万なら範囲」と言わなかったっけ?
    ↓
誤読ですね。
避難の途中経過にある11月末〜12/初旬にラーベが言った
「20万以上」という表現には、流動人口の把握が困難なため
上記の範囲内においては「20万〜30万」もありうる。
と、いう話だったはずですが(笑)

南京落城時12/13の人口は「約20万」
これは、国際安全委員会の公式見解でもあります。
わしも「これを支持」してるんだけど(笑)
454日本@名無史さん:2001/03/31(土) 03:56
>>449
もうちょっと「きちんと読んで」からレスしてねん。

わしの主張は
>大半は「敗残兵、便衣兵」を正確に選んだが
>「1割ほどは民間人を誤認」したというのが実情だろう。
「敗残兵とも書いてるんですけど」(笑)

>便衣兵狩りによる拉致も当然含まれるよ。
    ↓
これは「スマイス調査」の拉致に「便衣兵狩り」も含まれる
ということなら=「わしの意見と全く同じ」(笑)
確かに「当然含まれるよなぁ」

>仮に便衣兵が存在したとしてそれが「敗残兵」に含まれないと
>どうして断定できるの?
    ↓
この文の意味がわかりません。
便衣兵狩りにの内訳は「敗残兵、便衣兵、誤認された市民」
だと思われます。
455日本@名無史さん:2001/03/31(土) 04:06
>>449
>老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、
>兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。

兵隊って「中国兵」のことでしょ?
(日本軍の仕業ならはっきり書くのでは?)
督戦隊が逃走する兵隊を後ろから撃ったと考えるのが自然
なんですけど(笑)

アメリカ資料集P564 ダーディンインタビュウ
「南京の防衛軍は、老人と若年者だったというのが私の印象です」

@南京防衛軍には「老人」も多かったようですね(笑)
456日本@名無史さん:2001/03/31(土) 04:15
>>455
補足すると
1937/12/18NYタイムス(日中戦史資料集9 P282)
「日曜日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を
脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってもよい光景だった」
(日曜日=12/12日、陥落の前日)

もちろん「老人兵」も軍服を脱いだでしょうね(笑)
このとき「民間人をから便衣を強奪」した様子も
記事には書かれてます。
457グース:2001/03/31(土) 04:39
455.454はわしのレスね(笑)

>>450
全体的に意味がわからん。
>同じ組織で同じ日時の同じ状況を記した
>当時の日記複数と整合性がない
   ↓
具体的に説明してねん(笑)
平山氏(実名)とは「合致してる」んだけどね。

>夜中だからとか処理方法が不明だからどうだというの?
    ↓
夜だから「1万の処刑」には不向きだと言ってるんだが。
殺したら死体が残るはず(笑)

>師団の人員多数を繰り出して二日かかる処理が「流しただけでほとんど
>が堆積した」というのも君の「推測」でしかないだろう。
     ↓
ソース希望(笑)
何人でどのような処理をしたのか「引用」してくれ。

わしの蔵書「南京大虐殺の研究」P190(洞、藤原、本多)編
「陳さんの証言によれば、幅15メートル、長さ500〜600メートル
高さは約2メートルほどの量の死体が揚子江岸に積まれた
という」

これは「山田支隊の1〜2万殺害」の検証を行ってる部分
の記事なので、他の虐殺事件ではない。

上記の「山のような死体」は
引用「正月がすぎて柳の芽が出る頃まで死体はかなり腐って
放置されていた。しかし、ちょうどその頃慈善団体がきて
死体の処理をしたのを覚えている。近くに万人杭を作って
埋葬したが、いま、自分にはその場所はわからない」
(南京大虐殺の研究P190)

>これがただ川に流しただけでほとんどは
>流れなかった、というのも推測でしかない
    ↓
わし「中国側の証言」って書いてるよね?
いいかげんな事は言わないように。
458グース:2001/03/31(土) 05:01
>>450
>こういう私記や日記の類まで詳報等と一緒くたにして
>3分の1にも減らしてしまうのはおかしいんでないかい
    ↓
おかしくないよ(笑)
特に「下級兵士」の証言や日記に記載された「数字」は全く信用できない(笑)
なぜなら「自分で数えたわけではない」から。

陣中日誌に記載される数字は「噂や伝聞」によるものがほとんど。
「戦闘詳報」の数字よりも過大になる傾向がある(笑)

@これは「戦史研究の基本」だから覚えておいてねん。

例えば「「君が捕虜を移送」する一員になったとする。
前述のように「万単位」の移送なら4列編成でも
「3キロ弱」の行列だ。しかも月明かりのみで街灯など無い
中国の川岸である。見渡すかぎり人の波しか見えない。

この状況で、正確な数など「わかるはずがない」よな?
「見渡す限りの捕虜だった」あとは推測になる。
他の戦友は当事者の「不正確な記憶」を頼りに
おのおの「陣中日誌」に記述するということ。
459グース:2001/03/31(土) 05:34
>両角手記をそのように受け取るなら君も他の史料に対して
>同じ姿勢をとらなくてはだめよ。
     ↓
意味がよく分からないので「どのような姿勢をとるべきか」
教えてください(笑)

ちなみに私「両角日誌」は引用しておりません。
「数の部分」においては連隊長の記録が「4000人」
ということであり、それを補足する証言もある、
ということです。

@まさか「捨てハンの勘違い」君に説教されるとは
思わなかったなぁ(笑)

で、わしに説教たれるくらいだから「さぞかし勉強」してると思うので(笑)

@1 一次資料のみを使用して「東京裁判における」南京大虐殺の規模を推計
してみて下さい。(注、崇善堂埋葬記録は2次資料です)

@2 その後で「あなたが採用した記録(2次資料)をつかって」
南京大虐殺の規模を推計してみて下さい。(資料の選定は自由です)

@3 二つの答えが違うなら「なぜ違った結果」がでるのか
考察してください。
(一次資料とは1937〜1938当時の記録です)

わし今までさんざん質問に答えたので「是非上記の質問」
に答えてね。捨てハンだからって「逃げないでね」

逃げると「虐殺派全体の印象」が悪くなるよ(笑)
460日本@名無史さん:2001/03/31(土) 05:46
このスレ最初から見てみたが、
グースって人はようするに何て主張したいわけ?
南京事件はなかったと言いたいの?
461日本@名無史さん:2001/03/31(土) 06:05
>>460
> このスレ最初から見てみたが、
> グースって人はようするに何て主張したいわけ?
> 南京事件はなかったと言いたいの?
グースじゃないが、本当に読んだの?
読んでたら、こんな事言わないよ、普通は。
誰が、なかったなんて言ってるんだよ(藁
中共の主張するような「南京大虐殺」は無かったと言ってるがな。
462日本@名無史さん:2001/03/31(土) 09:44
>>461

この手の論争で文章読解力が無い奴がぞろぞろ出てくるのは毎度のこと。
酷くなるとスレも読まずにどんどん書き込んでくる。特にニュース議論板の
南京スレは酷かった。
463Dearグース:2001/03/31(土) 12:58
>>430
>1 ダーディンが見た「大量の死体」は「把江門」と「南部地区」
>  の2箇所だけである(笑)

たしかに「大量の死体」関してはそのようだが、>>439

>「〜年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や
> 警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。日本兵が近づいてくるのを見て
> 興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。
> 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、
> 民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せに
> なっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは
> 明かであった。〜」

という引用を読むと「2箇所」以外でも見ている可能性が出てくるな。
もっとも「大量の死体」を見たのは2箇所だけかもしれないが。

>2 その内「南部地区」の民間人の死体は「砲撃、爆撃」による
>  ものである。これは12/5ミニー女史の日記にも記述があり
>  これは「戦争被害者」であって「虐殺の犠牲者」ではない。
>  また、ダーディンも「砲、爆撃の被害者」と記述している。

俺も「ダーディンも『砲、爆撃の被害者』と記述している」と思っていたが
>>439の引用を読むと

> 1月9日のNYタイムズの記事の、「〜一帯は砲爆撃で破壊され一般市民
> の死骸がいたるところに転がっていた」はけっして一般市民が砲爆撃だけで
> 死亡したということではないですね。建物の破壊はそうだけど。

という風にこの記事のニュアンスも変ってくるぞ。>>417

>「〜市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
> 総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数くらいにのぼるであろう。
> 記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍
> の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた」

も「殺害され」た「大勢の市民」の内、砲爆撃で死んだものと
「日本軍」に「射殺」されたものがいる(すくなくともダーディンはそう認識している)
というニュースを伝えていることになると思うが。
それとも>>439氏とグース氏はそれぞれ別の記事をお互い同じ記事だと勘違いしているのか?
464Dearグース:2001/03/31(土) 13:02
>>463の続き。話が脱線してしまったのでもう一度最初から。

>1 ダーディンが見た「大量の死体」は「把江門」と「南部地区」
> の2箇所だけである(笑)

> 2 その内「南部地区」の民間人の死体は「砲撃、爆撃」による
>  ものである。これは12/5ミニー女史の日記にも記述があり
>  これは「戦争被害者」であって「虐殺の犠牲者」ではない。
>  また、ダーディンも「砲、爆撃の被害者」と記述している。

> 結論 南部地区の死体は「日本軍の入城前12/5の死体」

これについては異論はあるが(>>463参照)グース氏の認識は判った。

>3 すると「南部地区から脱出できなかった市民」が死んだ
>  場所は「把江門」しかない。
> (ただし、ダーディンは市民の脱出を目撃していない)

ここでグース氏が何を言いたいのかわからないのだが。
「南部および南西部から避難できなかった大勢の市民」が
邑(てへんが付く)江門に逃げたという記事はなかったんじゃないの?
>>420参照)
つまり、>>427

>日本軍の下関占領によって守備隊の多量虐殺が起きた。
>             〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>中国兵の死体は土嚢の間に山積みにされ、高さ6フィートの
>塚をなしていた。

という記事に民間人のことは記述されてない。1、2の前提が正しいなら
ダーディンは死体に関しては見た通りのことを(邑江門で死体を見たのなら)
書いているのだと思うのだが。
3の前提はなんのためにあるの?

>4 把江門では「中国軍同士の戦闘」しかなかったので
>  そこに「仮に民間人がいたとしても」その責任は日本軍にはない。

それはそうだが、「仮に民間人がいた」ことがダーディンの「捏造」記事とどう関わりがあるの?
「中国軍同士」の戦闘での犠牲者を「守備隊の多量虐殺」と書いてあるんだから
最初から民間人は関わりないと思うのだが。
465日本@名無史さん:2001/03/31(土) 13:07
>>461-462
460のようなことも言いたくなるだろう。
“肯定派は捏造している”だのなんだの言い募っているではないか。
「中京の主張するような」ならともかく、実際にはそれより数の少ない説も否定しようとしている。
466Dearグース:2001/03/31(土) 13:16
>>463-464のさらに続き。俺への直接レスではないが、
>>427
こちらの方がより俺の疑問に答えていると思うので。

>1987/9/14日 笠原氏とダーディンの対談(アメリカ資料集P571)
>この下関区域では、それこそ大勢の兵隊が把江門から脱出しようとして
>お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
>(注、兵隊のほとんどは圧死、墜落死です)
> 〜中略〜
>これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように
>思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。

これは1937年当時そう認識していた、という告白ではないと思うのだが。
「守備隊の多量虐殺」という記事を中国軍の同士討ちと知っていて書いたのなら
捏造と言えるだろうけど、>>444

>>「〜パニックに陥った群衆の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。
>>トラック、大砲、オートバイと馬を引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり
>>一方、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。〜」

こういう状況でダーディンが邑江門まで出かけて中国軍の同士討ちを目撃した
とはとても思えない。「南京事件」をスクープしたダーディンが追加取材を
しなかったとは考えられない上、東京裁判にも口述書を提出している。
(検察側はこれを証拠としては使わなかったようだが。
 俺が記事の日付にこだわってるのもそのためなんだけどな。)
ここからは全くの推測なんだけど、ダーディンは砲艦オアフ号で南京から脱出しているので
(「南京事件」秦郁彦 p2)艦に乗る時に邑江門を通ったんじゃないかな。(下関から乗ったんだと思う。)
その時に邑江門の死体の山をみて「日本軍の虐殺」と勘違いしたんじゃないだろうか。
(「本当はこうだった南京事件」p174の板倉氏の推測を参考にしたんだけどね。)
当時のダーディンが親日家だとは思えないし、パネー号事件から日は経ってないし
埠頭での「男子の処刑」を目撃しているから邑江門の死体と結びつけて「虐殺」と
記事にしたんでないかな。(日本兵にインタビューして裏をとるわけにもいかないし)
この推測が的外れでないならば、「守備隊の多量虐殺」記事に関しては
「捏造」よりも「先入観による誤報」ぐらいのニュアンスが適当だと思う。
467Dearグース:2001/03/31(土) 13:53
補足。
>>466の推測に関しては>>433の書き込みも参考にさせてもらいました。
468日本@名無史さん:2001/03/31(土) 14:59
>>461
すでに秦氏も笠原氏も30万人説を下回る人数を推計しているのだが・・・
にもかかわらずあえて、

>中共の主張するような「南京大虐殺」は無かったと言ってるがな。

なんて言うのかね?

469日本@名無史さん:2001/03/31(土) 16:20
>462
ほんとに多いな。
>>465とか>>468とか。
グースの主張に異論があれば論理的に反論すればよい。
それが出来ないから印象批判ばかり。
自らを貶めている行為だと気づかないところが滑稽だね。
Dearグースを見習えば?
470グース:2001/03/31(土) 18:01
>年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。
この記事は憶測でしょう。少なくともダーディンが目撃したのは
長江岸での「俘虜処刑」の現場(100〜200名?)程度の現場
しかありあせん。

>消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。
これは「便衣兵狩り」の様子ですね。消防士や警官は
体つきが民間人と違い「がっしり」していて、日焼け
の跡(ヘルメットの跡)などがあり「誤認逮捕」されやすか
った。

>日本兵が近づいてくるのを見て興奮したり恐怖にかられて
>走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。
戦場なら当たり前(笑) 映画「プラトーン」で始まってから
45分ぐらいの所で「村を捜査」する場面があるのですが、
「突然走ってにげようとした男」を裁判もせずに後ろから
射殺するシーンがあります。是非はともかく「戦地では走る」
のは自殺行為です。

471グース:2001/03/31(土) 18:09
>民間人の死骸を毎日のように目にした。
戦地ですから当然ですね(笑)
砲撃、爆撃の犠牲者もいたでしょうし、便衣をまとった兵隊
の死体も当然あります。また「中国軍の殺害」した民間人
もいるでしょう。(便衣欲しさ市民を虐殺)

@「死体がある」=「虐殺遺体」ではないということ。

>中国軍の同士討ちと知っていて書いたのなら捏造と言えるだろうけど
これは見解の相違だな。
誤報が分かった時点で「訂正」するべき=わしの主張。
472日本@名無史さん:2001/03/31(土) 18:11
>>470

消防士や警察官が殺害されたのは、抗日的要素を排除するためだろう。
473日本@名無史さん:2001/03/31(土) 19:15
>>469
何を言ってるんだ?
グースじゃなくて>>461の言ってることがおかしいって言ってるんだが。
474グース:2001/03/31(土) 19:17
>それとも>>439氏とグース氏はそれぞれ別の記事をお互い同じ記事だと勘違いしているのか?
    ↓
「ほとんど正解」問題の新聞記事の見出しに注目
1938/12/22 NYタイムズ(ダーディン)
○地理的に不利な南京。
○考慮に無かった退却。
○放置された将校たち
○兵力を割かれた広東軍
○中国軍焼き払いの狂宴
○効果のあがらない砲兵隊
○日本軍、スパイが援助
○中国軍もちこたえる
○熾烈な機関銃銃撃戦
○武装を解く

○中国兵の大量投降
年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や
警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。日本兵が近づいてくるのを見て
興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。
日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、
民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せに
なっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは
明かであった。

上の記事の後
○外国人財産も略奪される=この記事が「約4000字」ほど挿入。

○両軍の死傷者多数
市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数くらいにのぼるであろう。
記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍
の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた」

こうなって
「南京攻防戦においては、双方の軍ともに、栄光はなきに等しかった」
こう結論されてます。

記事を順番に読んでいくと「南部の死者は砲爆撃の犠牲者」
としか読めませんが?(笑)
475グース:2001/03/31(土) 19:22
>>474
わかりやすく言うと「悪訳」ですね(笑)
間違い=避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
正しい=避難出来なかった大勢の市民は「犠牲になり」

こう訳すべきでしょうね。
「両軍の死傷者多数」という見出しからも「市民虐殺」の記事
ではないことが理解できます。

476名無しさん:2001/03/31(土) 22:02
 439の「名無しさん」(殆どコテハンのようなもの(笑))です。
 私が引用したダーディン記者のNYタイムズの記事は、全て1月9日
 の記事からです。(前に図書館で肯定派の書物からコピーしたもの)
 この記事は、南京事件調査会編の「アメリカ関係資料」に収められて
 います。
 一応、全文じゃないですがコピーに載ってる部分をそのまま紹介します。

「南京の男性は子供以外はだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。
 背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を
 選びだすのである。
 しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に
 入れられた。
 また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいする場合もあった。

 南京掃討を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本
 軍自ら発表している。 そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に
 潜んでいると強調した。

 年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や
 警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。日本兵が近づいてくるのを見て
 興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。
 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、
 民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せに
 なっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは
 明かであった。(中略)
 市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民
 は殺害され、総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数くらいにのぼるであろう。
 記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍
 の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた」

 1938年 1月9日、NYタイムズ

 と以上です。

 >474
 1938年12月22日のNYタイムズっていうのは私は見ていませんが。
 南京事件から1年後の記事ですか?
477461:2001/03/31(土) 22:08
>>465
>実際にはそれより数の少ない説も否定しようとしている。
そりゃ、知ってるよ。別に、それ自体は問題ではないだろう。中共の主張する30万より少ない説を否定するのはまずいのかな?
>中共の主張するような「南京大虐殺」は無かったと言ってるがな。
↑俺が言ったこの部分は
>南京事件はなかったと言いたいの?
↑この部分に対する答えだよ。
無かったとは一言も言ってないから、これは正しくない。>>460がバカである事は間違いないよ。
478461:2001/03/31(土) 22:11
>>468
>>477を見てね。
479日本@名無史さん:2001/03/31(土) 23:43
>>477
なるほど。論理的には正しい。ソフィスト的手法だね。
480名無しさん:2001/04/01(日) 00:23
>444(グース氏)
スティール記者の記事では、荷車とか出てきた(大八車みたいなのを想像)
ので民間人を連想したのですがね。
まあ、ハッキリ民間人が安全区から下関方面へ逃げる場面を外国人記者は
見ていない、ということは了解していいですが、
ただ、多くの兵士が軍服を脱ぎ捨てて、民間人の格好で逃げ出したのを外国
人記者は知っているので、本当の民間人がその中に混じっていたとしても
兵士が民間人の格好をしているのか、本当の民間人なのか、見分けがつかな
かった、というのが本当のところだと思います。

あと、これはたぶん「南京戦史資料集」?のものだと思うのですが、
(グース氏は出典をお判りでしょうか?)

12日の夜10時過ぎの出来事として

「長江沿岸は把江門を突破してきた敗残兵と避難民の大群で、
 下関埠頭を中心に南は三叉河から北は煤炭港あたりまで、
 数キロにわたって埋めつくされた」

という記述が見られます。

また、松井岩根大将の専属副官、角良晴大尉の回顧録を
遺族がまとめた「七生賦」に

「南京は思ったより困難なく攻略できた。 下関に十三万人
 の支那人が対岸の漢口に渡れずに残った」

とありますが、下関には兵隊だけがいたというのは考え難いのです。

481グース:2001/04/01(日) 01:37
>>476
1938ではなく1937/12/22が正解。
謹んで訂正。

わしのレス474と>>476は同じ記事と判明。

この記事の場合「訳がおかしい」のと「虐殺派の学者」の
引用のしかたが適切でないから、市民が日本軍に殺された
という印象を受ける。
(この悪訳はアメリカ資料編全般に見られる)

>市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民
>は 「殺害」 され、総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数
     ↓
普通に読むと「市民が日本軍に殺された」と読めるよね?
しかし不思議な事に、この文に「主語はない」
そして「日本軍の処刑」を「常に虐殺」と訳している「訳者」
にしては「殺害」という表現は穏当すぎる(笑)

それだけでは「殺害」=「爆撃による被害者」と説明するには
弱いので、根拠を示そう。

この「南部の被害者」の記事は違う日のNYタイムズに掲載
されている。次のレスが「問題の記事だ」(笑)

482グース:2001/04/01(日) 01:46

1937/12/19 NYタイムズ(ダーディン)
★南京における外国人の役割賞賛される。
○外国人グループ、包囲攻撃中も留まり、負傷者や多数の難民の世話にあたる。
○生命しばし危機にさらされる。
○市政府官吏避難のため、安全区委員会が任務を遂行。
〜20行省略(内容は上の見出しの説明)〜
○ドイツ人グループの長を務める。
〜18行省略(安全区メンバー紹介など)〜
それにもかかわらず、この地域は暫くの間、かなりの規模にわたって
非武装地帯となり、そのため日本軍もあえてこの地域を砲撃する必要
を認めなかった。その結果、10万を越す非戦闘員たちは、安全区の上
を通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にもかかわらず、日本軍の
市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。

○それ弾損害を与える
日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、100人以上の死傷者を出した。
それ弾による死者はほかにも100人はいるものと思われる。
一方、安全区という聖域を見出せずに自宅に待機していた
民間時は5万以上を数えるものと思われるが、その死者は多く
ことに市の南部では数百人が殺害された。
(アメリカ資料編P423)〜〜〜〜〜〜

さて問題の記事です。↑
この記事は「安全区の歴史」について紹介した記事であり
「日本軍の入城後」の記事ではない事に注意してください。

安全区に砲弾が落下したのは「12/11日」の事で、
これは「ラーベ日記P111」「ミニー日記P45」の両方で確認できます。

つまり「12/11日」には「安全区に10万人」「その他市街地に5万人」
とダーディンは推測したわけです。

>その死者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。
@この記事は「原文をみないと誤訳」とはいえませんが「ちょっと変な訳です」
と、いうのは「市民を殺害したのは砲弾」ですから、正確に言うと
「100人が砲撃の犠牲になった」と訳すべきでしょう。
何度も言いますが「この時期はまだ日本軍は壁の外側」にいるのです。


工事中のHPから抜粋したものでスマンが、
市の南部で「市民が殺害された」のは「12/11以前」の出来事。
この記事をよめば「殺害」=「爆撃の被害者」ということが
理解できるだろう。
483グース:2001/04/01(日) 02:19
>角良晴大尉の回顧録を
    ↓
これが問題の「角証言」(笑)
結論からいうと「まったく信用できない」

角証言の要約(ほんとはこうだった南京事件P289)板倉氏

1 南京大虐殺はたしかにあった。それは自分の証言するこれ
一つだけで、他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。

2 日本軍入城時、城内には一般住民は一人もおらず、城内での
虐殺はなかった。

3 住民25万はすべて下関に集まり対岸に渡ろうとしていた。

4 揚子江(長江)に面した西側城壁はキレイに取り除かれ
邑江門は木の枠だけ残っており、避難民の城内から下関への
通行は自由であった。

5 渡し賃は渡河希望者が殺到して、最初の5ドルが10ドル
になり、最後には30ドルに上って貧乏人には払えなくなった。

6 結局ほぼ半数、12〜13万の住民が渡河できずに下関で
第6師団につかまった。

@これが「南京戦史」では掲載しなかった部分。
この1〜6は、あまりにも「荒唐無稽」なので、まともに取り上げら
れるとは「南京戦史編集部」も思わなかったらしい。
ただ無視すると「虐殺派」が尾ひれをつけて宣伝するから
南京戦史の「本論とは無関係」である「総括」でとりあげた。

2の反論 安全区は「まぼろし」だったのでしょうか?(笑)
3の反論 邑江門(下関門)でのダーディン報道を含め、ここで
壮絶なる同士討ちが行われ「高さ5フィート」に及ぶ死体の山
があったのは「見てないらしい」
4の反論 ステールの写した写真では「壁は健在」だった。
5の反論 12/12日の揚子江(長江)の「渡し船」は中国軍の管理下
にあり「民間人の渡河はありえない」

まったく「穴だらけ」なので、本来まともに取り上げるべき
証言ではないのねん(笑)

それにしても「角良晴」少佐は「南京でなにを見たのだろうか」
まったく(謎)である(笑)
484名無しさん:2001/04/01(日) 02:56
>481(グース氏)
ん〜、これはグースさんとは別の解釈も可能ですよね。

>○それ弾損害を与える
>日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、100人以上の死傷者を出した。
>それ弾による死者はほかにも100人はいるものと思われる。
>一方、安全区という聖域を見出せずに自宅に待機していた
>民間時は5万以上を数えるものと思われるが、その死者は多く
>ことに市の南部では数百人が殺害された。
(アメリカ資料編P423)〜〜〜〜〜〜

上のタイトルが、占領前の安全区に被弾したそれ弾の件のみを指していて、
後半部分は入城後に南部で行われた殺害を指しているようにも読めますが。

ただ、>総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数
と私が引用した記事にはあるので、戦闘員の死亡計数が同数なら
中国兵の死者が数百人?という疑問も出てきますね。

どちらが正しいのか私には確認する資料がまるで無いんで解りません。

でも数百人くらいの城内潜伏民殺害ならグースさんでも認めるのでは?

485名無しさん:2001/04/01(日) 03:12
>483
グースさんどうも。
1〜6の事を言ってるとしたらたしかに角証言はあまりに
荒唐無稽ですね。
これは南京事件調査会の資料からではありません。
これは「私の見た南京事件」で奥宮正武氏が無論評で
とりあげていたもののコピーからです。
486名無史:2001/04/01(日) 03:41
今日は初めての名無しです(笑)

>>452-453
>当初10万、落城時5万=台湾の公刊戦史

前スレでやってたのは何だったか・・・
前のスレッド(>>2にリンクされています)318から続いていた話を、392への
レスである395で「南京軍はおよそ10万ということで話をすすめる」とだけ
言って切ったのは君のほうではないの・・・

>東京裁判でも捕虜殺害として「3万以上」という認定ですね(笑)

「以上」ね。

>だからこそ「笠原説=捕虜8万」は「珍説」なのですが(笑)

笠原は捕虜8万とは言ってないよ。敗残兵殲滅も含んでいる。
グース氏は人の著作を(特に笠原の書いてること)を誤読するね。

岩波『南京事件』の表でも敗残兵殲滅を抜かせば残りは最低6万程度、
「詳報」等も含まれており報告が過大であること(笠原もそれを記し、算出
した数は「あくまで概数」としている)を鑑みてそれを半分にして3万。
公開されていない分の資料を鑑みれば倍にしてまた6万程にもなるかね。
すげーおおざっぱだが。捕虜の数は確実な線で3万、予想として5@`6万程では。
実際何といってるかは知らないが。
もう一例あげれば
藤原彰が95年時点で公開されている詳報・日誌・防衛庁の『戦史叢書』の
記述など公的な記述をもとにして算出した数では、確実に不法な捕虜殺害
であることが判明する数字を約1万3000とし、捕虜にしたという記事で行方が
わからないもの(公式に捕虜収容所に収容した記録もなく釈放したとの証拠
もない、殺されたと考えられる)もので約2万2千、これをあわせれば3万5千。
資料の公開されていない残り7割強の部隊が捕虜の不法殺害をしていたとは
考えられないので実際はこれより遙かに多かっただろうと言っている。
詳報や日誌等が過大だとしても残りの部隊等を考えれば捕虜殺害3〜5万は
かたいと考えていると思う。

東京裁判の認定は最低限の確実な数だろう。「約3万」「3万(断定)」では
なく「3万以上」なのだから。比べても別に笠原らが珍説とは思えないがね。
487日本@名無史さん:2001/04/01(日) 03:43
486続き
>南京落城時12/13の人口は「約20万」
>これは、国際安全委員会の公式見解でもあります。

確かに初めは20万だと考えていたかも知れないが、その後においても初めの
認識が正しいと考えていた証左は何かあって?
1月の時点でも、ラーベは町の全域に渡って調査を行っていなかったことがわかる。
ましてや陥落前後の城壁付近、閉まっていた城壁外のことなどはわからんでしょう。
安全区内の人口だって外国人の見解は一致してないし。難民・軍の流出入で市民
全体の人数ははっきり断定できないし、ラーベにも正確に全市民数など認識できな
かったと思うがね。(これは秦の見解でもある)ラーベの数は安全区の住民を基準
にしているだろうし、これがだいたい最低数と見る方がいいと思うが・・・
でも、グース氏は「証明」して「断定」できるわけだ。20万と。資料も少ないのに。

>>454
ちゃんと読んでるよ。じゃあ主旨しか書かないよ。
スマイスが「敗残兵」の中に便衣兵を含んでいないという確証が何かあるのか?
日本軍は「敗残兵掃討」とをしたがその意味の中に「便衣兵」を含んでいたはずで
「敗残兵掃討」「便衣兵掃討」という用語を並列して使っていたわけではないのに
スマイスのいう「敗残兵」という言葉の中に「便衣兵が入っていない」などと考え
るのはどういうこと?
488名無史:2001/04/01(日) 03:43
>>457
>平山氏(実名)とは「合致してる」んだけどね。

「証言」はね。

>ソース希望(笑)
>何人でどのような処理をしたのか「引用」してくれ。

先に処理方法は不明と書いてるやん。何人かもしらんよ。

 大寺隆日記第65連隊第7中隊・第4次補充上等兵
  十二月十八日
 (略)午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞、帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞
  ありて各分隊に分かれる。午後は皆捕リョ兵片づけに行ったが俺は指揮班の為行かず。
  昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なっているそうだ。
  七時だが未だ片づけ隊は帰ってこない。
  十二月十九日 幕府山要塞
  午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き折り重なる幾百の死骸に
  驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午後二時ま
  でかかり作業を終わる。

>わし「中国側の証言」って書いてるよね?
>いいかげんな事は言わないように。

「山田支隊の処理した死体」は「流したけどほとんど流れなくて堆積した」という
証言なの?私は隊の処理した死体は流したのではないとも全く堆積してはいないとも
言ってないが。グース氏が断定調で書いているのでそれは推測でしかないのでは、と
いう意味なのだが。
489名無史:2001/04/01(日) 03:44
>>458−459
>特に「下級兵士」の証言や日記に記載された「数字」は全く信用できない(笑)
>なぜなら「自分で数えたわけではない」から。

『南京戦史』のうけうりか。
実際の現場の兵の、上層部に報告することのない個人的な日記なのだよ。噂を聞い
ての記述も確かにあるが、実際に携わった者による個人的な記録もある。それらに
記されているものが「全く信用できない」で、全部「詳報」(上層部に戦果として
提出するもの)のように3倍も過大だとするのかい?両角手記を使用した4000の数
まで過大だとして「詳報」と一緒にして減らすのもどういうこと?

>ちなみに私「両角日誌」は引用しておりません。
>「数の部分」においては連隊長の記録が「4000人」
>ということであり、それを補足する証言もある、
>ということです。

意味不明。連隊長って両角のことでしょ。
事柄(この場合山田支隊捕虜殺害4000人)を直接証明する資料として使用している
のに引用するとかしないとか何が関係あるの?

まあ数が4000と主張したいならそれでもいいんじゃないの(前から書いてるけど)。
こっちが聞きたいことの主旨ではないし、>>450にも書いたが両角手記でも
「捕虜*殺害*を指示したのは師団長レベルの人間ではなかった」
ということが否定できない(むしろ山田日記の補足になる)のだしね。
490日本@名無史さん:2001/04/01(日) 04:36
>>483
しかし角証言でも『南京戦史』編集部が否定できない部分はある。

○下関の捕虜の処理の件で司令部に電話があったこと。
○長中佐がそれを「ヤッチマエ」と言ったこと。
○松井大将と共に下関で死体を見たこと。

角が奇妙な認識をしている理由として、
氏が松井石根と共に12月17日午後1時過ぎに南京中山門外に到着し、
12月21日午前10時30分に上海へ出発しているので南京戦のみならず、
南京城内外の一般的状況も全く知らなかった、ということを編集部側が
書いている。司令部の認識はこんな程度だったようね。
491グース:2001/04/01(日) 04:48
>>486
>(特に笠原の書いてること)を誤読するね。
    ↓
笠原が「読者に誤読させるように」書いてるから(笑)

>報告が過大であること(笠原もそれを記し、算出した数は
「あくまで概数」としている)
    ↓
これが問題(笑)
どの程度の概数なのか書かないと「読者は判断できん」だろ?

@概数で「約8万」というと「7万以上〜」判断するのが「一般読者」

ところが実際には「2〜3倍」の開きがあるのだから
この表の概数とは「約8万」の「50%〜33%」と「明記するのが公平」
だと思うがな(笑)

>公開されていない分の資料を鑑みれば倍にしてまた6万程にもなるかね。

絶対ならない。
増加しても、せいぜい1割程度。
前にも説明したが「1000を超え、万単位の処刑」は
師団に報告しないと無理だから。

>「3万以上」なのだから。比べても別に笠原らが珍説とは思えないがね。
    ↓
南京残留兵力が「約5万」(東京裁判記録)
にも係わらず「捕虜、敗残兵、戦死合わせて9万」と主張
している「笠原説」は「珍説ではないの?」(笑)
492グース:2001/04/01(日) 05:08
>>487
>その後においても初めの認識が正しいと考えていた証左は何かあって?

奇妙な事を言うなぁ(笑)
安全委員会が「間違っているという根拠はなに?」

例えば「12/13南京陥落のとき30万以上、市民がいた」
という論拠があり「20万説」を批判するならいいが、

「まったく根拠」なしで
>認識が正しいと考えていた証左は
こう言われてもねぇ(笑)

>「山田支隊の処理した死体」は「流したけどほとんど流れなくて堆積した」という
>証言なの?
     ↓
虐殺派の主要メンバーの見解だから「そうなんじゃない」
紅卍字会の埋葬記録もあるしね(2後半以降、下関一体で約1万)

前にも説明したが、12月の長江は渇水期で岸辺は「泥、泥」
なので「かなり沖まで死体を運ばないと」流れない。

10000人の死体だと「500トン」の重さになる。
笠原説だと「その2倍」=「1000トン」の死体だ。
そのほとんどを「水に流した」なら相当の大工事だな。

>揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なっているそうだ
少なくとも「2万の死体」なら、この程度ではない(笑)

それとも「死体でピラミッド」作る理由でもあったのかな?
493グース:2001/04/01(日) 05:16
>>489
>『南京戦史』のうけうりか。
「戦史研究の基本なんですけど」(笑)
秦教授も「戦果が2〜3倍に膨らむのは常識」って言っております。

陣中日記が「戦闘詳報」より正確という見解は
「初めて聞きました」(笑)
@ぜひ「根拠を教えてください」

>まあ数が4000と主張したいならそれでもいいんじゃないの
私は「約5000人」としておりますが、良いようですね。

>「捕虜*殺害*を指示したのは師団長レベルの人間ではなかった」
    ↓
わし「この件に関するレスは書いておりません」ので(笑)
この件については「議論に参加してないので」(笑)
494グース:2001/04/01(日) 05:25
>>490
つまり「みても無い奴が勝手な事を日記に書いてる」
ということは「多々ある」のよねん(笑)

特に「数の問題」に関してはその傾向が強いってこと。

○下関の捕虜の処理の件で司令部に電話があったこと。
○長中佐がそれを「ヤッチマエ」と言ったこと。
○松井大将と共に下関で死体を見たこと。

以上ついても「それぞれ反論はあるようだ」が(板倉氏の見解)
ここで議論しても意味が無いので、また後日ということで(笑)

○長中佐がそれを「ヤッチマエ」と言ったこと。
長さんなら「やりかねない」という証言は山のようにあるなぁ(笑)
人望って大切にせんとね(笑)
495日本@名無史さん:2001/04/01(日) 11:51
ちょっと確認したいんですが・・・。当時の南京の人口が25万人って本当?
496名無しさん:2001/04/01(日) 12:35
下関での捕虜の処刑は判るだけで1月後半まで続いていますね。

ラーベの日記の1月22日に
「今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ
 向かっていった。 どれも中国兵で満員だ。おそらく
 捕虜だろう。 ここと蕪湖の間で捕まって揚子江のほとり
 で処刑されることになっているのだ」
とあります。

奥宮正武氏が捕虜処刑を目撃したのが12月25日と27日
ですね。ラーベの日記からも、信憑性は感じられます。

角と松井が南京にいた時期も、処刑は一時中断はあったかも
しれませんが、処刑自体は続いていたということですね。

ついでながら、安全区からの便衣兵狩りについては
16師団の佐々木到一少将が12月22日に「城内粛正委員長」
という任務を命令されて、24日から1月5日まで便衣兵を
剔出する査問工作を安全区でおこなっていることが、
佐々木本人の私記でも明らかになっていますね。

497日本@名無史さん:2001/04/01(日) 13:00
奥宮の証言は日時が曖昧になっている。奥宮は処刑を目撃したしたと言うが、
それは、民間人なのか、捕虜(捕虜としての資格のある者)なのか、便衣兵なのか、
それがはっきりしていない。
498グース:2001/04/01(日) 18:53
499日本@名無史さん:2001/04/02(月) 00:07
>>491
>笠原が「読者に誤読させるように」書いてるから(笑)
ここでは「誤読」している人は君だけらしい。
(私以外にも君に「誤読」を指摘した人がいたからね)

>前にも説明したが「1000を超え、万単位の処刑」は
>師団に報告しないと無理だから。

師団レベルの記録にどれだけの「捕虜の処理」が記されると思ってるの?
比較的個人の日記が確認されている16師団などは師団の公式記録にどれだけ
のことが記されてる?他の師団も。
だいいち、1連隊あたり1000未満、仮に500ずつ捕虜の殺害があったとして、
それが積み重なるとどれくらいの数になると思ってる?
君が勝手に「増加しても1割程度」と推測するのは勝手だけど、それとは異なる
推論を断定的に否定できる要素なんかないはずだ。

>南京残留兵力が「約5万」(東京裁判記録)
>にも係わらず「捕虜、敗残兵、戦死合わせて9万」と主張
>している「笠原説」は「珍説ではないの?」(笑)

ないよ。東京裁判の結果が正しいと言いたい訳じゃないんだから。
ここで東京裁判云々でたのは、たまたま「捕虜8万」なんて誤読をしてきて
一緒に話が出てたからだよ。
笠原が東京裁判の数を意識して論をたてているわけではないのだから。
500日本@名無史さん:2001/04/02(月) 00:10
>>492
説明した部分をまるですっ飛ばしてレスするのね。
安全区がその報告書を書いた当時市民全体の正確な数を把握することができた
という根拠がなければ、その数字が正しいなどと言えないでしょう?ということだよ。
ラーベの記録を見れば安全区以外に人が全く存在しないという前提がなければ市民
全員の数が20万だったなどと言えない。20万と言っているのは安全区での数。
難民の流出入で確定はできない。当時ではなおさらできなかったはず(これは秦氏も言う)
ラーベ自身が1月の時点でも市内全体を調べていたわけではなかったことは日記でわかる。
数ははっきりしないが安全区以外にも人がいたという報道はある。
仮に安全区以外に10万人がいたとして・・・という話は最近ここでもやっていた。
広さからいって家の中を見回って歩くわけでもなければ、それらの人がほとんど見つ
からないという事態があり得ないことはない。事実はじめに街には人がいないと書いた
ラーベが1月まで増えた5万人の人(これも見積もり)を廃墟に住んでいた人と書いている。

「それなのに」20万という報告(安全区の数)が居住する全ての数でそれが正しいと
断定できる根拠は?

>虐殺派の主要メンバーの見解だから「そうなんじゃない」

山田支隊の処理した死体がほとんど堆積したという見解なの?

奥宮がでてきたからついでに言えば、彼は岸辺に近いところはかなり深く、
目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に
流れ去っていた、と言っている。
今は本そのものを持っていないので確認できないが。
501日本@名無史さん:2001/04/02(月) 00:12
>>493
>秦教授も「戦果が2〜3倍に膨らむのは常識」って言っております。
意図的だね。
個人の日記に記してあるのは「戦果として上に報告する数ではない」と言っている。
戦果として報告された噂の類もあるが、直接処理に携わった時の個人的な記録もある。
戦闘詳報より正確って何のこと?何が正確で何が正確でないの?
先のレスにも関連するが、戦闘詳報に書かれないことが書いてある(個人の体験など)
ということを言ってるのだが。そもそも情報の種類が違うのよ。

>わし「この件に関するレスは書いておりません」ので(笑)
以前「処理には解放も含む」とか言ってたから興味あるかと思ったよ。
数の確定より何より、こういう部分を重要な問題にするつもりはないわけね。

>>494
おかしな言説なので一言。

>つまり「みても無い奴が勝手な事を日記に書いてる」
>ということは「多々ある」のよねん(笑)

角「証言」の奇妙さの理由はそういうことではないよ。
上層部の人間は実際に現場のことを知らなかった故に当時の現状について
奇妙な認識違いを起こしうる。
上記のような次第の上にかなりの老齢での「回想」である。
ということだよ。
502グース:2001/04/02(月) 00:40

>>499
>師団レベルの記録にどれだけの「捕虜の処理」が記されると思ってるの?

この点についての「見解」を伺いたい(笑)
「師団に報告されない、捕虜の処刑はどれほどあるの?」
資料を提示して説明してねん(笑)

>1連隊あたり1000未満、仮に500ずつ捕虜の殺害があったとして、

困った仮定だな(笑)
そんなに「あっちこっち」に中国軍は隠れてたわけだ(笑)
「妄想」もいいけど「資料も読もう」ね。
中国軍の数には「限りがある」のは常識だと思ってたが。

>笠原が東京裁判の数を意識して論をたてているわけではないのだから。
    ↓
意味が不明(笑)
わしら「歴史好きの素人」と違い「大学教授」でもあり
国から金をもらっている身分で、「数多くの著作を出版」
している「笠原教授」が東京裁判記録をしらないはずがない(笑

「東京裁判記録を意識しないで」論を立ているのが問題なのでは?
503日本@名無史さん:2001/04/02(月) 00:46
>>498

南京城区から上海側にのびる(南京行政区に入る)近郊農村の人達はどうしたの?

12月2日なんて日本軍が上海からやっと南京戦区に突入する時期に
済南・除州なんて遙か北西(上海とは反対側。ちなみに上海よりも遠い)
から「難民は南京に向かわなかった」と言われても。

ちなみに12月8日から門が閉じられて城内に入れなかったとしたら、
清野作戦(12月7日〜9日)で焼き払われた人達は城内にも安全区にも入ることが
できなかったことになるね。
504グース:2001/04/02(月) 00:48
>>500
>正確な数を把握することができたという根拠がなければ、
>その数字が正しいなどと言えないでしょう?

この論からすると南京陥落時の人口「30万〜40万」という
根拠は「全く無い」から「虐殺派」の言い分は通らない
ことになるな。

>安全区以外にも人がいたという報道はある。
     ↓
「12/13日南京陥落時」に限定すると「ない」

12/11以前の事として「NYタイムズ」には「安全区10万」「その他5万」
という記録があるのみ。
ちょっと前のレスで引用したから(南部の爆撃の件)参照してねん。
505名無しさん:2001/04/02(月) 00:54
>497さん
>奥宮の証言は日時が曖昧になっている。

よく意味がわかりませんが、奥宮の本では戦死した
飛行機搭乗員の遺体捜索を行った12月25日と
12月27日の両日に、いずれも下関で処刑現場を
目撃していることが書かれています。

ちなみに奥宮正武氏はこの本の中で最も信頼出来る
数論として、秦郁彦の4万前後論を支持しています。
(P68)
506名無しさん:2001/04/02(月) 01:39
ひき続き497さんへ
>民間人なのか、捕虜(捕虜としての資格のある者)なのか、便衣兵なのか、
それがはっきりしていない。

たしかに奥宮氏はたんに中国人としか書いていません。ただ次の
部分から、奥宮氏が断定的に書かなかった訳が判るんではないでしょうか。

・・・そこで、ある種の疑問が生じた。 それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れて
 くることができるか」ということであった。
そこで、処刑場の入り口付近にいた一人の下士官に、その理由を
尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、“腹のすいた
者は手を上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていく
かのようにして、トラックに乗せているとのことです」と説明して
くれた。

と以上のように書いてあります。 ということは奥宮氏の認識は
便衣兵か、あるいは民間人(間違われた)と思っていたという
ことではないでしょうか。
少なくとも奥宮氏の目撃談からは軍服を着た中国兵は出てこない
ことは確かです。
その上で奥宮氏は便衣兵捕虜であっても処刑は国際法上違法という
論を述べています。
507名無しさん:2001/04/02(月) 02:09
500さんの
>奥宮がでてきたからついでに言えば、彼は岸辺に近いところはかなり深く、
目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に
流れ去っていた、と言っている。
今は本そのものを持っていないので確認できないが。

この部分はP35、36にある、25日の目撃談ですね。
奥宮氏が処刑を目撃した場所は下関にある開源碼頭(波止場)
にある処刑場です。
こう書かれています。
「岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの
 流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去って
 いた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸
 から少し離れたところにある浅瀬に流れついたので、その付近
 は血の川になっていた。そして、死にきれないものは銃撃に
 よって、止めが刺されていた。・・・」

と以上のように書かれています。
まあ、波止場なら水深もあると思いますね。
あと、下関辺りの揚子江はその上流が幅約2キロあったのが
下関辺りで約1キロ位に狭まるため、水位が増し、流れも速く
なります。
川岸も流れに削られて急深な場所もたくさんあります。
現在の日本のようなダムで堰き止めた川ではないので、冬場
に日本の川のような渇水にはなりませんね。少なくとも本流は。

傍流岸で殺害された者の死体は流れないこともあり、船で川の
真ん中まで引っ張って流したようです。
村瀬守保氏が撮影した写真に船で引っ張ってから流す風景写真
がありますね。
508名無しさん:2001/04/02(月) 02:29
グースさん(504)
>12/11以前の事として「NYタイムズ」には「安全区10万」「その他5万」
という記録があるのみ。
ちょっと前のレスで引用したから(南部の爆撃の件)参照してねん。

南京城の門は8日までに閉められたので、城外からの流入難民は
8日以降は入場出来ないですよね。?
また城内から城外へ出ることも出来ませんよね。?
そうするとNYタイムズの11日以前とは8日以降の城門が閉められた
以降の話しなわけで、13日の陥落当日は城内の空き屋(ラーベ言う
ところの廃墟)に、8日以前に流入避難してきた難民がおよそ5万
隠れ住んでいたことになると思いますが。?
509名無しさん:2001/04/02(月) 02:37
507の「風景写真」という表現は変なので、光景写真、
または場面写真、というべきでした。
また508の「入場」は×、「入城」です。
510グース:2001/04/02(月) 03:59
>>503
>清野作戦(12月7日〜9日)で焼き払われた人達は城内にも安全区に
>も入ることができなかったことになるね。

当然そうなる。安全区が公式に発表されるのは「12/8」なのに
前日の12/7から安全区に避難民が集まったのは「中国軍による焼き払い」
の為なのねん。
12/8、門が閉鎖されるからこそ、城外の下関では警官が家を回って
住民に「避難を強要」してたわけだ。


511グース:2001/04/02(月) 04:19
>>508
>NYタイムズの11日以前とは8日以降の城門が閉められた
>以降の話しなわけで、
   ↓
そう限定はできんと思うが(笑)
砲弾は常に落下してるし、12/5日には「南部に落ちた砲弾」
が「貧民区の親子を直撃した」との記述もある。(ミニー日記)
詳しい状況は良く分からんが「ダーディン」も当然知っていただろう。
人口密集地帯の貧民区直撃なら「100人ぐらいは死傷」しても
不思議ではない。

>8日以前に流入避難してきた難民がおよそ5万
>隠れ住んでいたことになると思いますが。?

う〜ん(笑)
8日以前の難民は「下関にある難民キャンプ」に収容された。
との記述が「ミニー日記」にはあるので、城門が閉鎖前12/7〜12/8
にかけて「城内の安全区に誘導された」と思われる。
この時点で「上海方面難民」が全部安全区に収容されたと思う。

ミニー日記では12/12日、ステール記事では12/13と、避難難民が
安全区につめかける様子が記述されてるので、
12/11以前に民家に住んでいたのは「持ち主の市民」でしょう。
512名無しさん:2001/04/02(月) 07:38
グースさん
こちらも、う〜ん(笑)ですよ。
「下関にある難民キャンプ」ですか?

12、13日というのは、下関門(把江門)は城内から
出ようとする中国兵でごった返している状況ですよね。
そこを、下関側から逆流しようと難民がするとは
とても考えられないんですが。。。
下関門は残骸と遺体で、よじ登らなければ、通過出来ない
という状況だったのでしょ?

かといって下関は残滅戦がおこなわれ危険だし。。。

もし12、13日に難民が安全区に入ったのなら
ラーベが言う、1月になって増えた廃墟に隠れ住んだ
難民5万、の記述はどうなる???

陥落時(13日)に安全区以外の城内に隠れ住んでいた者はいない、
というのがグースさんの主張だったわけで、

どうも納得出来ませんねぇ。
513グース:2001/04/02(月) 15:30
下関難民キャンプの住民は城門が閉鎖前12/7〜12/8
にかけて「城内の安全区に誘導された」と思われる。
と、いうことで

>12、13日に難民が安全区に入ったのなら
    ↓
12.13に安全区に避難したのは「南京市の住民」と解釈してくれ。

>ラーベが言う、1月になって増えた廃墟に隠れ住んだ
>難民5万、の記述はどうなる???
     ↓
どうなるんでしょう?(笑)
秦教授を含めた「市民虐殺は、なかった派」は、この問題にあまり
詳しい回答はもっていないようで〜。
514グース:2001/04/02(月) 15:45
>>513の続き
虐殺派の主張では、12/13日「安全区に20万」その他地区に「10万以上」
で「5万人以上が虐殺」され、残りが治安の良い安全区に避難した。
だから「1938年初頭の安全区に25万」
という認識らしい(あまり詳しくは語っていない)
     ↓
これはこれで「妙な話」なのねん。
ラーベの日記によると安全区の住民は徐々に増加したらしく
12/25の日記で、良民証発行について「20万もいるから大変」
と記述しており、12/26の日記では20万市民の食料について
「スマイス博士が心配」との記述がある。

1/17日になって「人が増えたなぁ、屋台も出てるなぁ」
「難民数の推計は25万人、増加した5万は廃墟から」
という認識にかわる。

日本軍の「無差別市民虐殺」があったのなら12/13以降「避難民が急激に増加」
するはずだが、現実はそうではなく「徐々に増加」している。

合理的に解釈すると12/13「南京城内に約20万」
城の外(近郊農村)から流入した分が5万。(自分の家に戻ったら廃屋になっていた)
こう考えるのが一番無理がないと思う。

515グース:2001/04/02(月) 16:00
>>512
>安全区以外の城内に隠れ住んでいた者はいない
    ↓
いくらかは「いた」(そう考えるのが自然)
ただし「存在を証明する資料、証言が乏しい」(ほとんどない)

また「安全委員会」にも「陥落時多数の市民が市内で虐殺」
という話は届いていない。
(外国人たちは多数の中国人使用人を抱えていたので、安全区内
の情報収集にはこまらなかった)

T-6文書の「市民のほとんどが安全区に集合」の
「ほとんど」=90%と考えると「2万人程度が城内に残留した可能性」がある。
ただし残留民のほとんどは「虐殺されずに」、備蓄食料の不足に伴って
徐々に安全区に避難した。
城の外から「約3万のもと住民」が、城にもどったが「我が家は廃屋となっていた」
それで1/中旬に安全区の人口は「約25万」

>>514の説は「資料に基ずくもので」
今回の説は「資料に基づく推測」である。(資料解釈の違いとも言う)
516Dearグース:2001/04/02(月) 22:55
浦島レスになっているようなのでsage。

>>474 >>481
>>476
グース氏、名無しさん氏どうもありがとう。

些細な事の質問で悪いけど、
>>476で名無しさん氏の日付は1月9日になっているのに
>>474でグース氏の日付は12月22日なの?
内容から判断するにおそらく同じ記事なんだろうけど。

まず、南部及び南西部の死体について。
グース氏が引用してくれた見出しから判断するとダーディンの記事は
南京防衛戦(城内から見てるからね)を時系列にしたがって記述している
と思われる。だとすると、

「○武装を解く 」→「○中国兵の大量投降 」と続いているから
「○中国兵の大量投降」での出来事はグース氏の言う通り(>>470参照)
更衣兵狩りでの出来事だろう。とすると>>476で引用されている

>「南京の男性は子供以外はだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。
> 背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を
> 選びだすのである。
> しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に
> 入れられた。
> また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいする場合もあった。

の下りも恐らく同じ見出しの一文なのでは?
そうだとするとダーディンは直接見たかどうかはともかく更衣兵狩りについて
それなりに取材をしていると考えられる。だからこそ民間人の死体を見て

>民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せに
>なっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは
>明かであった。

と確信したのだと思う。更衣兵としての嫌疑をかけられた男性は
「処刑集団」に入れられているわけだからね。つまり「路上のうつ伏せ」の
老人は更衣兵の嫌疑をかけらたわけではないのに撃ち殺されたことになる。
517Dearグース:2001/04/02(月) 23:02
>>516の続き。

この「○中国兵の大量投降」で書かれているのは日本兵の「不法行為」の
ことではないかな?「○外国人財産も略奪される」もそう。
これも多分(真犯人はともかく)日本兵の行状として書かれていると
思うのだが。
だとすると「○両軍の死傷者多数 」で南京防衛戦の総括を行って(いると思う)

>市の南部および南西部から避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
>総計ではおそらく戦闘員の死亡計数と同数くらいにのぼるであろう。
>記者は日本軍が地域を挙握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍
>の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた」

と南京防衛戦と日本軍の更衣兵狩りの結果としての南京市内の情景として
報道したんではないかな。

ダーディンが記事で
「南京攻防戦においては、双方の軍ともに、栄光はなきに等しかった」
と結論づけているのも両軍に死者が多数で出たことではなく、
「統帥の不手際による中国軍の大敗北」と「勝利の栄光を台無しにする
日本軍の蛮行」を指して言っているのではないだろうか。
518Dearグース:2001/04/02(月) 23:08
>>516-517の続き。

さて次は「殺害」について。
まず、訳の問題についてだが、>>475

>間違い=避難出来なかった大勢の市民は殺害され、
>正しい=避難出来なかった大勢の市民は「犠牲になり」

この「正しい」訳にしても結局「更衣兵狩りの犠牲になった」と
とれるだけのことだと思うが。>>481

>そして「日本軍の処刑」を「常に虐殺」と訳している「訳者」
>にしては「殺害」という表現は穏当すぎる(笑)

なぜ、原文を見ずにこういうことが書けるのかわからないな。
「日本軍の処刑」を「虐殺」と思っているのは訳者ではなく新聞記事を書いた
人間(例えば、ダーディン自身)なのではないか?
「アメリカ資料編」なんだから当時のアメリカの姿勢がでているだけの
ことと思うのだが。
519Dearグース:2001/04/02(月) 23:12
>>516-518の続き

>>482
>○それ弾損害を与える
>日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、100人以上の死傷者を出した。
>それ弾による死者はほかにも100人はいるものと思われる。
>一方、安全区という聖域を見出せずに自宅に待機していた
>民間時は5万以上を数えるものと思われるが、その死者は多く
>ことに市の南部では数百人が殺害された。

これは日本軍の砲撃によって市民が「殺害」された、
と言ってるだけだと思うけど。
これにより日本軍入場後の「民間人の殺害がなかった」ことの
証左にはならないよ。(実際にあったかどうかはまた別問題だが。)

>と、いうのは「市民を殺害したのは砲弾」ですから、正確に言うと
>「100人が砲撃の犠牲になった」と訳すべきでしょう。

撃ったのは誰だ?更衣兵か?

砲弾によるものでも爆撃によるものでも「殺害」と
表現するのは当時のダーディンを始めとするアメリカ人の
対日感情を表わしているだけだと思うよ。
520名無しさん:2001/04/03(火) 03:12
Dearグースさん
「更衣兵」じゃなくて「便衣兵」だよ。グース氏に突っ込まれる前に
指摘しておきます。(更衣兵でも合ってるなら私の無知で謝る)

グースさん(514)
>合理的に解釈すると12/13「南京城内に約20万」
城の外(近郊農村)から流入した分が5万。(自分の家に戻ったら廃屋になっていた)
こう考えるのが一番無理がないと思う。

この推理でいくと、12月9日の城門閉鎖の前までに、近郊県から城区
に避難してきた流入難民はゼロということにしないと成り立たないと
思うのですが。。。?
グースさんは城区の人口が戦前100万で金持ち80万の避難人数を
引いて20万という論を立てているのですから、20万の内訳には城区
以外の流入難民数は入ってないわけですよね?

城外周辺の清野作戦で追い立てられた人達はカウントされているでしょうが
避難民には陥落前に近郊県から流入した避難民もいるでしょう。?

もし陥落前の、近郊県からの難民が城内にいた場合、グースさんの論を成立させ
るには、安全区にいる城区出身の難民は10数万人で、それに近郊県からの
難民を数万加えて、20万としなければならないのでは?

私は近郊県からの流入難民は陥落前にもあったと思うので(その多くが
城内の空き屋に隠れ住んだと思う)安全区の城区出身者20万(当初)
+流入難民数万(城内)、が陥落当時いたとみます。
元々城内に住んでいた住民で自宅に隠れ住んでいた者も含めて25万以上
と、私は見立てます。

あと13日以降にも当然近郊県からの流入難民はあったとみます。
ただそれは同時に、近郊県の住民は揚子江対岸の安全な場所に避難出来な
かったということを意味しているとも思います。

なんか、こんがらがる話で解り難いけど。
521グース:2001/04/03(火) 04:53
>>516-519
大体その解釈であたってると思う。

>老人は更衣兵の嫌疑をかけらたわけではないのに撃ち殺されたことになる。
  わしの見解は「脱走兵」の射殺と考える。
>>455-456 参照

「翻訳」の問題、とくに「悪翻訳」の例はいくつかあるけど
本題とは関係ないので「そのうち」やるけどいくつか紹介。
「日中戦史資料集」(洞富雄)と「アメリカ資料編」(南京調研)
で同じ記事を掲載しているけど「微妙に翻訳が違う」という例。

○日本軍の 大量殺害=中国人死者、一般市民を含む3万3千人(アメリカ編)
★日本軍による 集団虐殺=一般市民を含め3万3千(日中戦史資料集)
虐殺という表現に注目。

また例の「下関門」(邑江門)での大量死体については
○防衛軍兵士の集団 殺戮 を伴った。
★守備隊の 大量虐殺 が起きた。

以上のように「虐殺」という翻訳は「適当に変化」しており
MurderかSlaughterという表現で「 Massacre」という単語では
なかったように思われる。

○(南西部)一帯は日本軍の砲撃で破壊され、一般市民の死骸がいたるところ
に転がっていた。
★日本軍の砲撃によってその各地区(南西部)がほとんど破壊し尽くされており
中国人の一般人の死体がいたるところに転がっていた。
    ↓
この事件の「翻訳が」
>一方、安全区という聖域を見出せずに自宅に待機していた
>民間時は5万以上を数えるものと思われるが、その死者は多く
>ことに市の南部では数百人が殺害された。
(アメリカ資料編P423)〜〜〜〜〜〜
この翻訳では「ちょっとな」っていうのがわしの見解。

文章を一つの文脈で区切った場合「誤解を招く翻訳」は「悪翻訳」
だろうと思う。
522グース:2001/04/03(火) 05:25
う〜ん(笑)説明が難しいな。

12月9日の城門閉鎖の前までに、近郊県から城区
に避難してきた上海方面難民は「約2万」
これは「ミニー女史日記」から推測した数。この難民は当初
下関地区の難民キャンプに収容されていたが、「12/9には」安全区に移動した。
(と、思われる)

>城区の人口が戦前100万で金持ち80万の避難人数を引いて20万
     ↓
「80万」は南京市からの避難人数で、周辺農村の避難民は含まない。
仮に「全員が揚子江ルートで脱出」したと仮定すると
「南京市民約80万+周辺農村=100万(推測)」という計算になる。

それに、さすがの「ラーベ」も「徒歩による避難」までは把握できなかった、
と思うので実際に南京から脱出した人口は「80万以上」だったと思う。

いずれにしても概算になるが「12/13」当時の南京市民(周辺3郷区を含む)
「20万」と上海方面難民「約2万」で「総合計22〜23万」までは考えられる。
安全区に「ほとんどの市民を収容」という記述を「90%収容」
と考えると「安全区に20万」その他市内に「約2万」となるが・・。
(偶然にもスマイス調査と一致したりする)

わしの見立てでは最高がんばっても「25万」かな。
安全区に逃げた兵隊が1〜2万いたとすれば「25万に届くし」(笑)

日本軍による南京市民の殺害は「0」ではないが、「1万」も無理。
スマイス調査の「約2000人」ってのは意外と正確に思えてきた。
(とりあえず便衣兵狩りは別に考える)
523日本@名無史さん:2001/04/03(火) 10:19
このスレ、今まで見てきた南京関連スレの中では結構レベルが高いと思う。

つまり、付いていけない・・・・・(;o;)

ちゃんと本を読む事にしよう・・・・・・
524Dearグース:2001/04/03(火) 22:31
>>520
>Dearグースさん
>「更衣兵」じゃなくて「便衣兵」だよ。グース氏に突っ込まれる前に
>指摘しておきます。(更衣兵でも合ってるなら私の無知で謝る)

そのとおりです。どの本を見ても「更衣兵」とは書いてません。
「平服に着替えているから更衣兵」と思っていたけど
「便衣=平服」を着ているから「便衣兵」だったんですね。
訂正しお詫びします。
俺のレスの「更衣兵」は「便衣兵」と読み直してください。

どうも、基本的な用語をちゃんと理解していなかったようだ。
525名無史:2001/04/04(水) 00:45
私も浦島
>>502
>「師団に報告されない、捕虜の処刑はどれほどあるの?」
「比較的個人の日記が確認されている16師団などは師団の公式記録にどれだけ
のことが記されてる?他の師団も。」と先に質問されたことを忘れないように。

>困った仮定だな(笑)
で、限度だとかなんとか関係なく千単位以下の処理を積み重ねればどれだけ
の数になるとお思いで?という話なのだが。仮定は仮定で主張ではない。

>「笠原教授」が東京裁判記録をしらないはずがない(笑
「意識しない」と「知らない」ことになるんですか?
「残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、
続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく
二月六日あるいは七日すぎてからである。」 (パル判事)
などの見解から著しく乖離した意見を持つことは問題ではないのかな。

>この論からすると南京陥落時の人口「30万〜40万」という
>根拠は「全く無い」から「虐殺派」の言い分は通らない
>ことになるな。

30数万と「断定する」根拠は全くないね。

>>507
詳しい引用ありがとうございます。
526日本@名無史さん:2001/04/04(水) 01:10
下関に軍がいるのはもちろん(全員が城内に入ったわけではないのだから)
揚子江上流の太平辺りからから川沿いに北上してきた国崎支隊が、下関対岸の浦口を
13日夜におさえており、12日〜13日にかけてこの辺りでは戦闘が続いている。
下流からは海軍が南京に突入してきているし、川沿いに上ってきた部隊もある。
12日には揚子江の上流にいたアメリカやイギリスの船を誤爆するなど、制空権は
日本が握っていた。
少なくともこのころ、揚子江から一般市民が無事に避難することは困難かと・・・

第1線は8日前後に南京外周陣地に進出(そこはもちろん「近郊農村」)。
12日には城壁に迫る。
ここから先は清野作戦の範囲で焼き払われた土地が多く、ただでさえ給養を現地調達
に頼っていた日本軍は宿営も徴発も困難。ようやく第1線に補給がおいつきはじめた
がそれでも十分ではなかった。
上海から放射状にのびた波状進軍で南京城へ集結した日本軍は
「地図上で見る限りアリの這い出る隙間もない包囲陣」(秦郁彦『南京事件』)

さて、城外の住民はどうなったでしょうね。
527日本@名無史さん:2001/04/04(水) 01:15
スマイス調査の記述

死傷者数および原因
ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる
可能性はほとんどないといってよい。(中略)
占領軍の報復を恐れて日本軍にる死傷の報告が実際より少ないと考えられる理由がある。
実際に、報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあった
ことが知られているのに、それが一例も記録されていないことによっても強調される。
528名無しさん:2001/04/04(水) 06:06
スマイス調査では城区の民間人の犠牲者(便衣兵狩りで間違われた者も含む)は
1万2千人ですよね?たしか・・・

私もスマイス調査(秦説より多い)が「落としどころ」としては
良いのではないかと思います。(城区の民間人の犠牲者に限れば)

城区の全民間人の犠牲者が1万2千。
中国兵の違法殺害が4〜5万。中国兵の純戦死者が6千〜1万(蒋介石秘録)

以上のように推定すると、5〜6万という、ラーベらが上げた数字(内訳が
曖昧だが)に一致するし、東京裁判でも数字を特定した部分が6.2万、
とこれまた一致するし、秦教授も5〜6万なら受け入れてもよい、という
姿勢を雑誌「諸君」で示していたし。笠原氏も否定していないので、
30万はオーバーだけど、5〜6万は「落としどころ」としてちょうど良い
と思います。

近郊県の死者は判らない部分が多いので、とりあえず除外(笑)ということで・・
スマイス調査の2万6千を採用すれば、5〜6万+2.6万、というのが
近郊県も含めた全犠牲者ということになるかと思います。
529グース:2001/04/04(水) 06:52
>>525
>16師団などは師団の公式記録にどれだけのことが記されてる?

詳細な確認はしてないが「大量処刑については、ほぼ確実に記録」
と考えている。

わしが調べた所によると「大隊単位での行動記録」の公開
が「30%」ほどしかない=と、いうことらしい。
大隊というと「概ね1000人」(四個中隊)の規模である。

「陣中日記、戦闘詳報の2/3が未公開だから、全部公開
されれば捕虜処刑が増える(2倍、3倍)」
   ↓
この条件を満たすには「大隊以上の規模である連隊、師団クラス」の
「処刑記録を除外」して考える必要があるってこと(笑)

○分かりやすく言うと「大隊に限った陣中日記、詳報の合計」を出して
それを3倍にするのは「統計学上ありえる」推計といえる。
(理解できるよな?)

その場合「中島日記の捕虜2万」は「師団日記」なので「使用不可」
「飯沼日記の2万」も使用不可。佐々木支隊の2万も使用不可。
難民区掃蕩の第7連隊、処刑7000も使えない・・・

こういう風に上部団体の記録を全部削除して
「大隊規模の100処刑」とか「200処刑」を合算して
(まぁ何人になるか分からんが)
それを「3倍」にするのが「数学的手法なのねん」(笑)
530グース:2001/04/04(水) 07:02
>>525
>(パル判事)などの見解から著しく乖離した意見を持つことは
>問題ではないのかな。

これもどっかでやった話だな(笑)
前スレだったかな?
バル判事は「検察側の20万以上という物語を受け入れるのは」
★★「いささか困難である」★★
って言ってるんですけど(笑)

ちなみにバル判事は「ベイツ」説を受け入れていたようで
「ベイツ説=市民12000、軍人28000」
中間派の主張に近い数字ですな(ただし市民12000には根拠なし)

まぁ「このへんは基本ですな」
531グース:2001/04/04(水) 07:12
>>527
まぁこの問題もHPでいずれやるけどね(笑)
>報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあった
>ことが知られているのに、それが一例も記録されていないことによっても強調される。
   ↓
わしの推測だと「スマイス博士」の言葉じゃないと思うよ(笑)
(日中戦史資料集にはスマイス博士の言葉として掲載)

まず、統計学の基本として「幼児の死亡」が調査して「0」だったから
といって「全く存在しない」ということではないんだよね。
「50世帯」につき「1世帯」の抜き取り調査だから、
「たまたまサンプルに抽出されなかった」だけのことで
「統計をわかってる学者ならこんな事は言わない」

視聴率調査において「深夜番組は0%」ということもあるけど
これも「0」と言う事ではないよ(笑)

(高校生なら数学の先生にでも聞いてみな)
532グース:2001/04/04(水) 07:24
>>528
>スマイス調査では城区の民間人の犠牲者(便衣兵狩りで間違われた者も含む)は
>1万2千人ですよね?たしか・・・

これは「ベイツ」説。(スマイス調査の注釈部分はベイツの補記)

スマイス調査によると「市民殺害2400」「拉致4200」
合計6600が「殺された可能性が高い」という見解。
ただし「南京城区」に限る。

>スマイス調査の2万6千を採用すれば

ここが難しい。
26000人の中には「中国軍の殺害」も「戦闘に巻き込まれた」
も含まれるから。(大半は戦闘に巻き込まれたと思われる)
まぁ「多めに見積もって9000人が日本軍の責任としてもいい」

>30万はオーバーだけど、5〜6万は「落としどころ」としてちょうど良い
>と思います。
    ↓
いいセンスだね。近郊区含め5〜6万なら「わしも理解する」
あとは中国次第だな。

533名無史:2001/04/04(水) 14:37
>詳細な確認はしてないが「大量処刑については、ほぼ確実に記録」
>と考えている。

南京戦史資料集は確認してみましたか?
しかし報告しなければならない大量処刑でなくとも、積もりつもればなんとやら。

ここで言っているのは
「絶対にありえない」「絶対に不可能」と主張する人達に対して
先にも議論された
10万以上もの人を日本軍が殺すのは不可能→不可能ではない
と同じように
被害者の数がこれ以上増えるわけない→嘘です
といってるだけ。

>この条件を満たすには「大隊以上の規模である連隊、師団クラス」の
>「処刑記録を除外」して考える必要があるってこと(笑)

以下、言ってることがまるで変わってきたが統計学的手法だのなんだの何が関係あるの?
統計学だのの前に何種類もの性質の異なる史料を扱っていることを鑑みないといけんとよ。
「上部団体の記録を全部削除して」などといいう手法をとるのは無謀だし反則よ。

>バル判事は「検察側の20万以上という物語を受け入れるのは」
>★★「いささか困難である」★★
>って言ってるんですけど(笑)

はあ、言ってるね。この裁判の時の「陥落時から」という定義なら
20万以上を主張する人はいないと思いますが。

>わしの推測だと「スマイス博士」の言葉じゃないと思うよ(笑)
で、原文見ました?
534日本@名無史さん:2001/04/04(水) 14:38
グース氏が何に反論しているのかちっともわからなくなったので、とりあえず
大嫌いらしい笠原氏の意見をまとめてみましょうか。

笠原の推定する中国軍総数は15万人。そのうち4万が脱出、2万が戦死、1万が
行方不明、8万が捕虜敗残兵の状態で殺された。
なんだかんだ言ってもこれは当時の参謀長・飯沼少将の日記ともある程度符合する。
  十二月十七日
  (前略)  今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約
  二十コ師十万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍
  及び第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの今後尚
  撃滅数増加の見込。

殺害数について。その範囲を城区と近郊6県(南京攻略戦の戦区であり南京行政区の全域)
日時を大本営が南京攻略戦を下令し中支那方面軍が南京戦区に突入した12月4日前後から。
で、軍民10数万〜20万以上、もちろんそのうち8万は軍(敗残兵殲滅と捕虜殺害)。
一般市民の死者についての参照としてスマイス調査の割合を受け入れているので、
援用すれば県城農村地域(南京行政区の範囲である「6県」含む)の死者は、
城内と城壁付近の2倍以上という見解になる。
それに基づいて笠原の見解における城内と城壁付近の一般市民の死者を鑑みると、
1万〜4万というところか。

もちろん一番大事なのは数の確定ではなくその内容であることはいうまでもない。
殺害でなくとも強姦や掠奪(外国人に対しても)等々も続出したし、実際の兵の殺害方法や
病院にまで入って摘出する等々の行いが批判的に見られていたことも見逃してはいけない
のだから。
535日本@名無史さん:2001/04/04(水) 14:49
ちょっと補足
スマイスの調査では近郊農村は「4県と半分」のみの調査だが、
ここで用いているのはその数値ではなく「城内及び城壁付近:近郊農村」の
「割合」の話ですので。
536日本@名無史さん:2001/04/04(水) 15:16
さらに補足+訂正。
スマイスが「4県と半分」を調査して笠原等は「6県」なのだから
割合も多少変わってくるはずであった・・・
すると城内+城壁付近で一般人死者1万〜3万程度という認識になるのかな。

>>528
ラーベが言っているのは「民間人」の死者だと思いましたが?
537やれやれ:2001/04/05(木) 00:41
歴史教科書からやっと、南京大虐殺などという
プロパガンダは消え
南京事件と表記されるようになりました。
538世界@名無史さん:2001/04/05(木) 00:47
>>537
アホだな・・・
539日本@名無史さん:2001/04/05(木) 01:45
>>538
オマエモナー
540日本史大好き名無しさん:2001/04/05(木) 02:01
真に日本を思う方は、4/5・正午までに集中攻撃を仕掛け、
下記サイトをダウンさせるべし!!!来たれ、同志!
http://www.fusosha.co.jp/

ワラワラ。
541日本@名無史さん:2001/04/05(木) 02:05
春だな・・・
542グース:2001/04/05(木) 03:02
>>533
>被害者の数がこれ以上増えるわけない→嘘です
>といってるだけ。

「全ての陣中日誌、戦闘詳報が公開されたら、捕虜処刑が
 2倍になるかもしれない」
という主張は「まちがい」ということで理解してもらったとする。

わしは「1割ぐらなら増えるかも」と思ってる。

>。この裁判の時の「陥落時から」という定義なら
>20万以上を主張する人はいないと思いますが。
   ↓
南京事件調査研究会の主張は「20万も視野に入ってる」
「10数万以上、20万に近い数。あるいはそれ以上」=笠原説。
洞富雄説は「20万以上」、藤原彰氏もこの説を支持している。

>>わしの推測だと「スマイス博士」の言葉じゃないと思うよ(笑)
>で、原文見ました?
    ↓
日中戦史資料集9(初版)に掲載された「日本語訳」は読んだ。
英文の原文は読んでない。
ただし「スマイス調査」には「ベイツ博士(歴史学)」も係わってる
し「埋葬遺体の詳細な調査〜」を主張しているのは「ベイツのみ」

スマイス博士は「社会学の権威」と聞いている。
もちろん「統計の専門家」でもある。
「幼児の殺害が記録に無いから、死者が少ない」
等と言う妄言を言うとは思えない。
543グース:2001/04/05(木) 03:29
>>534
笠原説は「南京城区で10数万以上の軍民殺害」
これを「忘れないように」

笠原説では「12/13、南京市民は30万以上」
その内「約5万以上」が虐殺。軍人が「約8万」=南京城区。
    ↓
これは「あきらかに間違い」という説明を何度もしている。


>その範囲を城区と近郊6県(南京攻略戦の戦区であり南京行政区の全域)
>日時を大本営が南京攻略戦を下令し中支那方面軍が南京戦区に突入した12月4日前後から。
     ↓
中国政府の主張でもないし、東京裁判で裁かれた範囲とも違う。
その範囲、時間は「南京大虐殺とは無関係」(笑)

歴史を捻じ曲げて犠牲者の水増しをはかりたいのは分かるが、
少なくとも「公式に虐殺が認定された範囲」=東京裁判
で認定された「範囲での議論もするべき」

★★★追加★★★
「我々の言う30万とは、回りの6県その他地域を考慮にいれてない」

これは笠原氏推薦の「孫宅魏=江蘇省社会科学院研究員」による
「南京大虐殺60年、東京国際シンポジュウム」での発言である。
この意見は尊重するべきだと思う。

範囲を広げ、時間を拡大し、議論をすり替えるようなまねは
「中国側」も認めないであろう。
544グース:2001/04/05(木) 09:25
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/index.html
HP一応形になったので報告。

南京防衛軍の戦力推計を追加。
あとは少しずつ追加してくのねん。
545名無しさん:2001/04/06(金) 00:57
グースさんのHPは重くて、なぜか開けないんだけど。。因みに私は
今だダイヤルアップ接続ですが。

>543
孫宅魏氏の「南京国際シンポジウム」の発言はたしかにそうですが、
笠原氏らが、範囲を近郊県までに設定したのは、1987年12月に
南京事件調査会が2回目の現地調査を実施した際、南京市歴史学会と
交流会を行い、歴史学会顧問の張允然氏らとの会合で一致した範囲ですね。
中国の歴史学会の言う南京事件の範囲を採用したわけです。
まあ、中国でも個人レベルでは意見に差があるということでしょう。

さらに中国では中国人民政治協商会議全国委員会が「南京保衛戦ー原国民党
将領抗日戦争親歴記」というのが出されていて、
南京戦の範囲を5段階に分けて記しています。南京事件調査会もこれを基に
範囲を決めていますね。

スマイス調査にかんして、

ちょっと図書館によって軽く調べたところ、スマイス調査(南京地方に
おける戦争被害)というのは
南京国際救済委員会(安全区委員会の後任団体)による調査なんですね。

統計の出し方というのが、結構大ざっぱで、城区に関しては1938年3
月当時南京在住の市民から(安全区とその周辺のみ)毎50家屋につき1世帯
を抽出し、その集計を50倍したものが6千6百という数字だったわけですね。

ただそれに対してスマイスもベイツも、少なすぎるという印象を持ち、それで
埋葬団体の資料と照らし合わせて、新たにはじき出した数字が1万2千人
なんですね。(埋葬団体資料とは紅卍字会の)
スマイスは、「南京城内外で虐殺された非武装の者は4万人を下らず、
そのうち30%くらいが一般市民で、他は兵士(便衣兵)だった」
と述べていてます。
つまり
「4万×30%=1万2千」ということになりますね。

>536さん
>ラーベが言っているのは「民間人」の死者だと思いましたが?

これにかんするヒトラーへの上申書を読むと、中国側の民間人10万
に対する言葉としてなら確かにラーベのいう5〜6万は民間人だが
そのすぐ後の紅卍字会の埋葬してない下関の3万遺体が、日記と照合
すると全滅した中国軍の死体ということにもなるので、曖昧なんですよ。
546グース:2001/04/06(金) 05:28
統計学的にいうと

>50家屋につき1世帯を抽出し、その集計を50倍したものが
>6千6百という数字だったわけですね。

これは詳細調査という部類に入る。
例えば「視聴率調査」は関東の場合「たった500世帯」の抜き取り
調査にしかすぎない。それでも「誤差は数%」

ttp://www.videor.co.jp/a_rate/ra_about/q8.html
ビデオリサーチ(参考までに)


>埋葬団体の資料と照らし合わせて、新たにはじき出した数字が1万2千人
     ↓
これは「ベイツ」のホラ話なのねん。
紅卍字会の埋葬記録では「市民と軍人」と分別した記録はないし、
また「分けるのも不可能」(便衣兵と民間人の死体は分別できない)

○「民間人12000」というのはベイツの個人的な感想にすぎないのねん。

日中戦史資料集9 に記録された「スマイス調査」においては
ベイツの説を(注)として「小さい文字」で記してある。

注の部分
「市内及び城壁付近の〜中略〜生存した場合を含むことによるものであろう」
まぁ他にも(注)結構ある。
547グース:2001/04/06(金) 05:40
略さずに引用してみる。「南京の真実」文庫版P362

>中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとの
>事ですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。
>われわれ外国人はおよそ5万から6万とみています。
>遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日200体は
>無理だったそうですが、私が南京を去った2/22日には
>3万の死体が埋葬できないまま下関に放置されていたといいます。「下関には3万の埋葬されない死体があったという」
が、その後「紅卍字会が埋葬したのは」=「約1万体」

つまり「ラーベの言う5〜6万」には当然「下関の死体も含まれる」
ので、過大に見積もった「下関の2万」をマイナスすると
      ↓
@「ラーベは南京での犠牲者が3〜4万」と見ていたことになる。

ラーベは「南京陥落時、市民のほとんどが安全区にいた」
としているし、
「中国の主張では多数の中国人が安全区以外に隠れてた
というが、確認できなかった」
とも言っている。

つまり「純粋な市民のみで5〜6万」ではなく
○「捕虜、敗残兵、便衣兵の処刑を含めて5〜6万」
   ↓
こう言っていることになる。

結論「南京大虐殺は軍民合わせて3〜4万」というのが「ラーベ説」
548日本@名無史さん:2001/04/06(金) 06:29
定説の20万人の虐殺って難しいと思いますか。
趣味で良く読む古代史ではその程度よくあるけど、感覚的に
分からないんですが。
刀と弾丸どっちが楽なんでしょう?
南京大虐殺って全部銃殺だったんですか?
549日本@名無史さん:2001/04/06(金) 06:32
う、そういえば、銃剣ってあったんだ
550日本@名無史さん:2001/04/06(金) 08:05
>>548
中共の言う数十万というのは古代史的な感覚でとればいいかと。

http://members.aol.com/shuntachi/bayonet/bayonet.htm
なんかサヨは銃剣銃剣ってうるさいけどこんな物でそんなに
殺せるかね?
牛刀や中華包丁より貧弱よ(笑)
551日本@名無史さん:2001/04/06(金) 08:07
http://www.mmjp.or.jp/nankin1937/osaka.html
>三叉河の辺で機関銃掃射を受けて二万人の人々が殺されるのを目撃します。

これ笑えるな。
552日本@名無史さん:2001/04/06(金) 08:18
553日本@名無史さん:2001/04/06(金) 23:24
>>550-552
話がまたループしてますな、この人たち。
しかし銃剣の使い方が分かってるのだろうか……
554名無史:2001/04/07(土) 00:55
>>542
>「全ての陣中日誌、戦闘詳報が公開されたら、捕虜処刑が
> 2倍になるかもしれない」
>という主張は「まちがい」ということで理解してもらったとする。

してないよ。

正確に言おうか。「1割しか増えない→ウソ」と言っている。
君はそれ以上増えない、ということを論理的に何も説明していないのだよ。

>英文の原文は読んでない。

ならばむやみに疑うのはやめましょう。ちゃんと書いてあるよ。本文に。

DEATH AND INJURIES DUE TO HOSTILITIES
NUMBER AND CAUSE
・・・・・・(途中略)
There is reason to expect under-reporting of deaths and violence at
the hands of the Japanese soldiers@` because of the fear of retaliation
from the army of occupation. Indeed@` under-reporting is clearly emphasized
by the failure to record any violent death of young children@` althogh not a
few are known to have occurred.

ついでに>>546
>日中戦史資料集9 に記録された「スマイス調査」においては
>ベイツの説を(注)として「小さい文字」で記してある。

これはちゃんと原本にも書いてあるの。丁寧に1ページごと注がふられているの。
注もあわせて『WAR DAMAGE IN THE NANKING AREA December@`1937 to March@` 1938』
の1冊として書かれてる。
555日本@名無史さん:2001/04/07(土) 00:59
>その内「約5万以上」が虐殺。軍人が「約8万」=南京城区。
それはどこに書いてあったの?

地域的範囲としては南京市が管轄していた行政区全体、とする学者もいる。
井上久士は南京のシンポジウムで、定義を時間的範囲は12月13日から、地域的範囲が
市行政区全体とする定義(陳安吉)とするならば「多くても20万」と明言し、孫宅魏か
ら異議を唱えられている。その他井上自身はシンポジウムで中国人学者によって出された
定義や数等々への疑問、中国の複雑な事情を感じたことなどを正直に書いている。

で、既にこのように中国の学者から異議を唱えられる等日本の「虐殺派」さえもかならず
しも中国の意見と同一ではないのに、日本の学者の話をしていてなぜか「中国が・・・」
と言い出す。中国が認めなかったら、何だというの?

>中国政府の主張でもないし、東京裁判で裁かれた範囲とも違う。

だから何?
中国政府の主張をしているわけではないし、東京裁判のやりなおしをしているわけでも
ないのだよ。
南京事件をどう考えるか、その問題意識から生まれ見直された一つの定義であって
もちろんその定義に異を唱えることも可能だが、それが
「中国政府の主張ではない」「東京裁判で裁かれた範囲とも違う」
ですか?何でそれにこだわるの?
では笠原等の定義でその数は認めるんですか?主張の主旨である、外国人や日本の史料や
証言でもはっきりしている事件における日本軍の行動とその原因は認めるんですか?

>例えば「視聴率調査」は関東の場合「たった500世帯」の抜き取り
>調査にしかすぎない。それでも「誤差は数%」

厳密に登録簿などから無作為に抽出する方法と、全滅した家等々も正確に把握できてい
ない状態な上に占領下である社会での調査の誤差を同一視するのは無謀です。
556日本@名無史さん:2001/04/07(土) 01:07
避難してきた人達について笠原とのインタビューでダーディンが言及している
じゃないの。
・・・
城内と城外の2つの場所から避難してきましたが、南京の郊外から避難してきた
人たちのほうが多かったでしょう。南京城内に住居のある人たちは、自分の家に
いれば安全だろうと考えていました。戦闘から逃れるために城内に入ってきた難
民達は、住む家がないので安全区つまり難民区へやってきました。もちろん、日
本軍の南京占領前に南京から避難していった市民も相当いましたが、ほとんどの
城内の住民は、自分の家に留まりました。彼らは最初、日本軍は残忍なことはし
ないだろうと思っていました。そして2,3日もたてば、すべての片が付いて平
静な事態に戻ると考えていました。住民は怖がってはいました。しかし、厳格な
軍事占領となるであろうから、全面殺戮などおこるはずがないと考えていました。
・・・
知ってるなら参照としてあげてくれてもいいじゃないの。

それから。
ドイツの公文書館所蔵の南京関係の資料も大月書店から発売されたから、読ん
でみてはいかが。笠原十九司、吉田裕等々も関わっている本でお気に召すかどう
かは知らないけど。
557日本@名無史さん:2001/04/07(土) 01:10
大月書店発売の本、タイトル入れ忘れ。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』
石田勇治 編訳、笠原十九司/吉田裕 編集協力、笠原十九司/田嶋信雄 解説
本体価格\3@`400- 刊行年月日:2001/3/19
558日本@名無史さん:2001/04/07(土) 02:09
やっぱ火あぶりとか、地面掘らせて、土埋めですか?
スパルタカス戦争みたいに十字架自分で立てさせるのって良いですね。
559日本@名無史さん:2001/04/07(土) 02:20
素朴なぎもんなんですけど。
日本軍て、南京に入場する前に、かなりの、一般人を、殺してるのに、
なんで、南京のだけ、こんなに、虐殺がなかったと、いいはるひとが、
いるんでしょうか?
なんか、意味あるの?
560日本@名無史さん:2001/04/07(土) 02:29
>>559
はぁ?
逆だろ。
http://www.history.gr.jp/nanking/dathin.html
> ――上海から南京近郊に到達するまでの過程で日本軍が
>中国側の捕虜や民間人を多数殺したという話しは当時あったのですか。
> 「いや、それはありませんでした。中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、
>撤退していたし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。
>私は当時、虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。
>虐殺は日本軍が南京を占領してからなのです」
561世界@名無史さん:2001/04/07(土) 02:42
>>560
あのう、認めるか認めないかはおいといて、とりあえず南京への
行軍過程においてもすでに日本軍の殺害・略奪・強姦は指摘されてるんですけど。

562日本@名無史さん:2001/04/07(土) 03:01
>>561
当時南京方面にいた当事者以外の信頼出来るジャーナリストの
ソースキボー
563日本@名無史さん:2001/04/07(土) 04:33
銃剣って、奥刺しのようにトドめを刺す為の物じゃなかったっけ?
使い方は槍のように、ズブッと突き刺す。
だから刀のように振り下ろすよりも歯こぼれが少なく、
また、多少切れが悪くても突き刺すだけだから問題無いかと。
ハサミでも全体重を乗せれば突き刺せるようなもんで。
全体重ってのは、ライフルで突き刺す体勢を想像した上で。
564グース:2001/04/07(土) 05:09
>>554
>正確に言おうか。「1割しか増えない→ウソ」と言っている。
>君はそれ以上増えない、ということを論理的に何も説明していないのだよ。

細かいとこにこだわるねぇ(笑)
当時南京攻略にかかわった「師団クラス」の詳報や、陣中日記
はかなり公開されており「捕虜の獲得」「大量処刑」については
ほぼ100%解明されていると言っても良い。

つまり「行動不明な師団」はない。
行動の記録で言うなら「師団クラスの行動は100%」分かっている。

○虐殺派の反論はこうだ
「南京攻略に参加したのは歩兵大隊数でいうと57個大隊であるが、
戦闘詳報や陣中日記が公開されているのは16個大隊についてだけ。
すなわち、3割弱しか公開されていない」=藤原彰(説)
(歩兵大隊=約1000人の部隊)
で、全部公開されれば「虐殺数も増えるだろう」という
「希望的観測」なのねん(笑)

ちなみに「虐殺派の学者」でも「捕虜処刑の記録が2倍〜3倍」
になるという妄想をしてるやつはおらん(笑)

★ちょっと「考えれば分かるが」
大隊で獲得した捕虜については、上部団体である「師団」に
報告される。「数千〜数万」なら大隊独自で殺す事は不可能。

仮に未公開の「捕虜処刑記録」が出てきたとしても、
○「既に師団で記録されたものばかり」と、考えるのが普通。
ただし「2人殺したとか、3人殺したとか」細かいものは
師団に報告されないから「若干は増加するだろう」

結論 今後、大隊クラスの行動が判明しても
   「捕虜処刑の数値が劇的に変わる事はない」(常識)
565グース:2001/04/07(土) 05:17
>>554
ならばむやみに疑うのはやめましょう。ちゃんと書いてあるよ。本文に。

わしが言ってるのは「その原文を書いたのがベイツではないか?」
という事なんだけどね(笑)

>これはちゃんと原本にも書いてあるの。
   ↓
あたりまえだろ(笑)
英文にも書いてある。日本語訳にも書いてある。

○「ただ、引用するときに(注釈)だと説明しない奴がいる」
これが問題だと言ってるんですけど(笑)
例=アンチ、ゴー宣の「長田」氏のHP。
566グース:2001/04/07(土) 05:25
>>555
>その内「約5万以上」が虐殺。軍人が「約8万」=南京城区。
>それはどこに書いてあったの?

つかれるね、どうも(笑)
「笠原」説では12/13南京陥落時の人口は30万以上〜
で、翌年に「南京の人口が25万まで減少」=市民虐殺「5万以上」

笠原説では南京防衛軍は当初15万。
撤退と逃亡が「5万」戦死「2万」残り8万が「南京で殺害」

妄想もいいけど「本も読もうね」(笑)

567グース:2001/04/07(土) 05:42
>>555
>「中国政府の主張ではない」「東京裁判で裁かれた範囲とも違う」
>ですか?何でそれにこだわるの?

なんで「こだわらないの?」(笑)
範囲と時間についての「公式判断が東京裁判」でしょ?
そこで「初めて20数万なんていうインチキが出てきたんだからさ」

わしの主張は
「中国で言う南京大虐殺は、全く捏造」
「東京裁判での認定も間違い」
「南京市での殺害10数万説もありえない」
(南京事件調査研究会はトンデモ団体)
まぁこんなとこかな。

当然「インチキを捏造」して「30万虐殺」を公式に発表している
中国に対する「謝罪の必要はまったくない」
南京大虐殺記念館にある「正面壁に記載された30万」
が消えない限り「一言も謝罪してはいけない」

謝罪したとたん「中国のインチキ主張を全部認めたことになる」から。


>では笠原等の定義でその数は認めるんですか?
     ↓
つかれるね(笑)
仮に「南京行政区」まで範囲を広げても「5〜6万」
にしかならないって「何度も言ってるがなぁ」(笑)

結局、虐殺派は「範囲と時間」を限定すれば「なかった派」
に負けるから「範囲を広げてごまかしてるんだよなぁ」

では「555」
「南京城区に限って言うと、軍民含めて3〜4万」
っていうのは「納得したのか?」(笑)

あと「中国が大虐殺を捏造」したことも「納得したか?」(笑)
568グース:2001/04/07(土) 06:00
>>556
ダーディンインタビュウね(笑)
問題1
>ほとんどの城内の住民は、自分の家に留まりました。
    ↓
日時が指定されてないね(笑)
ダーディンに記事では12/11頃「安全区に10万」「その他5万」
と書いており、12/11以降も安全区に多数の市民が避難している。
(上のレスで引用してる)

なによりも
「私の記憶は記事ほどはありません。南京滞在中の数日間の虐殺や
事件に関していえば、記事に述べている事以外に、私の知ってることは
ありません」(アメリカ資料編P559)

こうも言ってるからねぇ(笑)

>『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』
早速手配してみるよ(笑)
笠原氏の係わった本って「なぜか、虐殺がなかった証拠満載」なんだよね。
569土方歳三:2001/04/07(土) 10:49
age
570名無しさん:2001/04/07(土) 12:32
虐殺肯定派が南京防衛軍の総数を15万としたことに関し、
昭和47年発刊の洞富雄の「南京事件」がすでに
15万説を採用していることが判りました。
15万説というのは中国では国防研究院が編纂した
「抗日戦史」(1966年刊)にすでに書かれている
数字で、中国では15万が一般的に軍関係者に信じられて
いる数字のようです。詳しい内容は知りませんが、雑兵
少年兵など、12月に入ってから、混乱下で急遽集められた
者はカウントされていない可能性がありますが、文章による
確証はありません。

あと私は東京裁判の数字はかなりイイ線いってると思いますよ。

東京裁判では数字を確定してる部分では

非戦闘員が1.2万、掃討戦で2万、捕虜3万以上

としています。ただ、以上は城区のみで、近郊県に
避難した民間人の死者を5.7万としています。
近郊県の犠牲者については私には納得出来るだけの
詳しい証拠が無いというのが私の結論ですが。
(なお、東京裁判では判決において20万以上虐殺された
 という推測論も出されている)
571やれやれ:2001/04/07(土) 13:32
>>538
世の中、教科書に乗ってたという理由だけで
南京30万人大虐殺を信じてた人って
少なくないと思うがね。
572日本@名無史さん:2001/04/07(土) 13:51
>国防研究院が編纂した「抗日戦史」(1966年刊)

秦郁彦の『南京事件』ではこれを参考文献にあげているから「台湾の公刊戦史」
つーのはこれのこと?
だとしたらどういうことなんだ?
グース氏の「陥落時5万」は秦郁彦によってるようだけど?
573日本@名無史さん:2001/04/07(土) 18:23
>>571
教科書のそんなとこまで覚えてないのが普通だよ。
574グース:2001/04/07(土) 20:08
>>572
「台湾の公刊戦史」
これの原本は確認していない。
いわゆる「孫引き」になるので「引用先図書」とページ数を明記した。
(まぁ基本ですな)

ちなみに図説「日中戦争」P81 河出書房、太平洋戦争研究会にも
「台湾(中華民国)の戦史では「当初10万、落城時に3万5000ないし5万」
と、同様の記述がある。

結論 国防研究院が編纂した「抗日戦史」(1966年刊)
     ↓
これは「台湾の公刊戦史」ではない(笑)
575日本@名無史さん:2001/04/08(日) 00:15
>>563
なら各家庭にある中華包丁で頭たたき割った方が早くないかい?
銃剣をつけた銃は総重量4kg、150cm越えるべ。
町中でこんなもんを弾を装填したまま持ち歩いて住民を追っかけ回すなんて
非合理的じゃないの?
576やれやれ:2001/04/08(日) 00:37
>>573
実際こういうことがあったんだよ。
  ある雑談掲示板で「石原は南京大虐殺はなかったとか
いっている。右翼だ。」と書き込んでいる
人がいたんで、「じゃあ南京大虐殺が本当にあったという
証拠はあるのか?」レスつけたんだがその返事が
「教科書にもちゃんとのってる、だからなかったなんて
いうのは右翼にきまってる。俺は歴史には詳しいんだ」
だった。
577グース:2001/04/08(日) 03:40
>>576
その手の話は結構あるよね。
「教科書がウソ書いてるのかゴラァ!」
って逆切れする人もおるし(笑)

578Dearグース:2001/04/08(日) 12:22
浦島レスでスマソ。よってsage。

>>521
>「翻訳」の問題、とくに「悪翻訳」の例はいくつかあるけど
>本題とは関係ないので「そのうち」やるけどいくつか紹介。

そうかな?たしかにスレの本題からは外れるかもしれないが
グース氏にとってはこっちの方が重要だと思われるが。

ではこの件に関しては「そのうち」ということで
とりあえず反論は止めておきます。
579おやじ:2001/04/08(日) 15:52
南京事件はあった。
数は30万といわれているが
中国の言ってる数なので
4桁は越えないだろう。

でいいじゃん。
580日本@名無史さん:2001/04/08(日) 22:42
1万に満たないという説では論証が必要だろうな。
581日本@名無史さん:2001/04/08(日) 22:43
>>575
日本兵が“陛下から賜った”小銃を放り出したらエライことに……(笑)
582名無しさん:2001/04/09(月) 00:34
いくつか共通性のあるデータを羅列してみます。

陸軍将校の親睦団体「偕行社」が発表した犠牲者数
は、
民間人1万5千7百人、捕虜の殺害1万6千人。

東京裁判、及び、南京国際救済委員会(ベイツ、スマイスが所属)
による城区の、民間人犠牲者の認定数。→1万2千人。

東京裁判認定の兵士の犠牲者数、捕虜3万、掃討戦2万。

ついでながら、1938年4月30日号の「抗敵報」
という中共軍の陣中新聞には
「日冠在南京屠殺了我四万二千個同胞」と書かれている。

1943年の米中合作の宣伝映画「中国の戦争」では
民間人の死者を4万としている。

秦郁彦教授は民間人の犠牲者を約1万としているが、
「諸君」誌1998年2月号(P85)のなかでは、
「・・揚子江に流れ去ったものを加えても、民間人の上限は
 四万を超えることはあるまい。」
と述べており、必ずしも、民間人の犠牲者、約1万が必ずしも
絶対数ではないことを認めている。(最大4万までの増加は受け
入れる模様)

まあ、以上のデータから、ラーベの言う、5〜6万は妥当な
「落としどころ」と言えると思います。
583名無しさん:2001/04/09(月) 00:35
いくつか共通性のあるデータを羅列してみます。

陸軍将校の親睦団体「偕行社」が発表した犠牲者数
は、
民間人1万5千7百人、捕虜の殺害1万6千人。

東京裁判、及び、南京国際救済委員会(ベイツ、スマイスが所属)
による城区の、民間人犠牲者の認定数。→1万2千人。

東京裁判認定の兵士の犠牲者数、捕虜3万、掃討戦2万。

ついでながら、1938年4月30日号の「抗敵報」
という中共軍の陣中新聞には
「日冠在南京屠殺了我四万二千個同胞」と書かれている。

1943年の米中合作の宣伝映画「中国の戦争」では
民間人の死者を4万としている。

秦郁彦教授は民間人の犠牲者を約1万としているが、
「諸君」誌1998年2月号(P85)のなかでは、
「・・揚子江に流れ去ったものを加えても、民間人の上限は
 四万を超えることはあるまい。」
と述べており、必ずしも、民間人の犠牲者、約1万が必ずしも
絶対数ではないことを認めている。(最大4万までの増加は受け
入れる模様)

まあ、以上のデータから、ラーベの言う、5〜6万は妥当な
「落としどころ」と言えると思います。
584名無しさん:2001/04/09(月) 00:39
二重投稿スマソ!!^^;
(板が重くて止まるんで、また押ししてしまった)
585日本@名無史さん:2001/04/09(月) 01:01
582は今までの議論を見てないのでしょうか?
586名無しさん:2001/04/09(月) 03:31
>585さん
見てますが、30万はオーバーで、「まぼろし」もおかしい
というのが私の意見ですが、おかしいでしょうか?
私は20〜30万説でもなければ、グース氏とも同じではないです。
東京裁判は当初の認定数はおおかた納得出来る数字だと思ってます。
秦氏はグース氏よりも数の認定に柔軟性があると思うのですが
グース氏が民間人の犠牲者を数千止まりに認定していることも
判ってますが、私は城区の民間人は1万以上だと思うわけです。
偕行社でさえ言ってるのですから、そうなんでしょう。
587日本@名無史さん:2001/04/09(月) 05:46
現地で取材してた第三国の記者は民間人の被害者は1万人以下と
言ってるね。
http://www.history.gr.jp/nanking/dathin.html
「ええ、数千という以上にはわからないですね」
588日本@名無史さん:2001/04/09(月) 09:37
>>587
ダーディンは笠原との対談で南京での虐殺は確かにあったと言ってるし
笠原のおおよその推測「軍人6万・民間人6万」にも「妥当だと思う」と言ってるの。
589名無史:2001/04/09(月) 10:32
>>564
>当時南京攻略にかかわった「師団クラス」の詳報や、陣中日記
>はかなり公開されており「捕虜の獲得」「大量処刑」については
>ほぼ100%解明されていると言っても良い。

話を戻してますね。
すでに公開されている師団クラスの「詳報」(公文書)等に、個人の日記などから
わかるような捕虜の殺害がどれだけ記してありますか?
師団に報告しなければならないらしい千人単位以下の殺害(=100単位の殺害)
でも、可能性としてどれほどの数が増えてしまうことになりますか?
と先に質問したの答えてもらってましたっけ。

私が指摘しているのは、グース氏が「可能性」の否定を行っていることであり
「師団の詳報」を見れば捕虜殺害等がほとんど記されているなどということを
書いている部分です。「1割増しだと思う」と推定するのは勝手ですが、それ
以外の可能性を「資料的に」完全に否定できるような根拠はまったくないはず。

>>565−566
>わしが言ってるのは「その原文を書いたのがベイツではないか?」
>という事なんだけどね(笑)

それでもスマイスの報告書として書かれております。注も同じ。
何故それらをわざわざ切り離して考えようとするの?

>で、翌年に「南京の人口が25万まで減少」=市民虐殺「5万以上」
人口は「30万から25万に減った」といい、市民殺害は城区だけで5万以上と言
っているのですね?まじめに、今手元にある(少ししかないけど)本を読んでも
よくわかんないんでよろしければどこにかいてあるか教えて下さい。

>残り8万が「南京で殺害」
先に「城区」でと言ってませんでしたか?
590日本@名無史さん:2001/04/09(月) 10:36
>>567
>なんで「こだわらないの?」(笑)
>範囲と時間についての「公式判断が東京裁判」でしょ?

同じ書き込みの他のレスをすっかりとばしているようだけど
「研究」が東京裁判の定義に初めから縛られなくてはいけない理由は何?
笠原等学者達がやっていることは東京裁判判決の証明でも否定でもなく「南京事件を
考える」ことですよ。君たちは違うの?
もちろん研究成果が裁判の判断と似たようなものになることもあるだろうけど、それは初めから裁判
での判断に縛られているということではないのだから。
で、公式判断に縛られるなら君のホームページには何故か書かれていないパル判事
の判決書「検察側の証拠に対して宣伝と誇張等悪く言えることを全て斟酌しても日本軍は
一般民衆・戦時俘虜に対して残虐な行為を行った」と認定されている内容は認めるの?

東京裁判の時間的範囲に限定するという説もありだとは思いますがね。
しかし地理的範囲として南京市全体を含めるなら、陥落に到る迄通ってきた当該地域で
の行動を問題に含める考え方も妥当だと思いますがね。もちろん異論があってもいいで
しょうが、しかしその考え方を完全否定をしてしまう人の見識が
>結局、虐殺派は「範囲と時間」を限定すれば「なかった派」
>に負けるから「範囲を広げてごまかしてるんだよなぁ」
では全くお話になりようがないではないですか。
笠原等の範囲は12月4日前後から、近郊6県含んで、の話です。
これでも軍民あわせて5〜6万にしかならないと「断定」できる根拠は示さ
れていないと思いますがね。
591日本@名無史さん:2001/04/09(月) 10:40
>>568
>日時が指定されてないね(笑)
指定されてないね。しかしラジオで「家にいれば安全」と放送していたというしね。
しかしダーディンが南京から出て行くまでに目撃する状況が変わっていたとしたら、
それについて言及すると思いますがね。

年月がたって記憶が確かではないと言っても、市民や軍人の数のように当時でさえ正確な
情報を得ることが難しい事柄や、他人の言葉や行動の日時等々の正確な記憶よりは、見た
まま聞いたままで認識する街の様子などの記憶の方がよほど確かでしょうなあ。

>>574
>これは「台湾の公刊戦史」ではない(笑)
て、ちと断定しすぎでないの?秦郁彦の記述は出典示してないからわからんけど
参考文献には出ているしれっきとした台北の中華民国国防研究院の出版だよ?
河出書房の方の出典は何?参考文献でもいいからあげてみてよ。

それにしても、前スレッドから見てわかったけど、根本的なところで認識違いがあったり
噛み合わない部分が噛み合っているかのような前提で話されたりに等々が、あいかわらず
まかり通ってるような気もするなあ。(それともわざとやってる?)
ということで、そのあたりのことを私もそのうちサイトにアップしてみようかと思った
りした。(今からやってもある程度アップできるのは今月末かね・・・)
ここにいる人は、ここや前のスレッド見て素朴な質問とか疑問とかなかったのだろうか。
関連事項でなんか知りたいことあったら教えてくらはいです。
(でも「虐殺じゃないやい!」という人のかわりには答えられないんで・・・)
592名無史:2001/04/09(月) 14:15
朝に急いで書いたら書き忘れていた。
>>567
>では「555」
>「南京城区に限って言うと、軍民含めて3〜4万」
>っていうのは「納得したのか?」(笑)

納得してないが数に関してならその説もありだと思う。それでもりっぱに虐殺。
事件内容と原因に対しての概要認識が同じなら大いに認めますよ。

>あと「中国が大虐殺を捏造」したことも「納得したか?」(笑)
何を捏造していると言ってるかは知らないが、その定義と根拠から鑑みて犠牲者数が
誇大だということは認めるよ(虐殺派学者だって認めてる)。
593グース:2001/04/09(月) 19:02
>>589
「南京攻略に参加したのは歩兵大隊数でいうと57個大隊であるが、
戦闘詳報や陣中日記が公開されているのは16個大隊についてだけ。
すなわち、3割弱しか公開されていない」=藤原彰(説)

詳細不明な大隊記録=31個大隊。
各100人の捕虜殺害の記入漏れがあったとして
100×31=3100名。
   ↓
笠原表での敗残兵を除いた捕虜殺害が「約6万」
   ↓
6万に対して、3100名は約5%。  
   ↓
全ての日記が公開されても、捕虜処刑の総数は5%〜10%しか
増加しない。


>、それ以外の可能性を「資料的に」完全に否定できるような
>根拠はまったくないはず。
    ↓
これは「話が全く逆」(笑)
「師団記録に無い「捕虜殺害」の記述があるから、大隊の記録が
判明すれば、捕虜殺害は増加する」という証明が無ければ、
師団記録に(捕虜処刑)がほとんど記入されているという
「常識」を否定することはできないのでは?

594グース:2001/04/09(月) 19:13
>それでもスマイスの報告書として書かれております。注も同じ。
>何故それらをわざわざ切り離して考えようとするの?

常識無いなぁ(笑)
本文と(注)はまったく違う。

必要だから著者が(注)としているのであり、引用する側は
それを明記するのが「基本的なルール」

しかも「スマイス調査」の場合、本文と違う事が書いてある。
本文では「殺された可能性のある民間人6600名」
訳注では「12000名に増加」
これは分けて記入しないと「著者の意思に反する」

>>残り8万が「南京で殺害」
>先に「城区」でと言ってませんでしたか?
「南京」=南京市=南京城区。
    ↓
これが「常識」
ただ「虐殺派」が「南京の意味を拡大解釈してるだけ」(笑)
595グース:2001/04/09(月) 19:20
>一般民衆・戦時俘虜に対して残虐な行為を行った」と認定されている
>内容は認めるの?
    ↓
わし「中間派」ですから(笑)
捕虜の処刑は全部「違法殺害」として計上しております。
もちろん「民間人の被害」も計上しております。

>噛み合わない部分が噛み合っているかのような前提で話されたりに等々が、あいかわらず
>まかり通ってるような気もするなあ。(それともわざとやってる?)
    ↓
いやぁ笑った(笑)
わざとやってるのは「虐殺派」でやんしょ?
わしは「資料に基づいた憲章」をしているのであり、
勝手な思い込みで反論してるのは常に「虐殺派」(笑)

◎大隊日記の件がまさしく該当するのねん。
596グース:2001/04/09(月) 19:31
「南京事件をどう見るか」青木書店 P146

孫宅魏
「私は南京の周りを含めると言う笠原先生の意見に賛同する。
しかし犠牲者数についてはもんだいがある。
私たちに言っている30万とは、まわりの6県その他地域を入れてない。
これはあらたな課題として考えていきたい」

つまり「近郊6県を含めると、30万以上の犠牲者」になり
犠牲者総数は「今後の課題」だそうだ(笑)

さて「何人に増加することやら」
597グース:2001/04/09(月) 21:28
Hse Long-Ksuen(comp)@`
History of the Sino-japanese War1937-45@`Taipei@`1971

秦教授のいう「公刊戦史」とはこれだと思われる。
(南京事件P265(参考書籍) 及び本文P206」)中公新書

公式戦史=公刊戦史とわしは理解していたが(笑)
598名無しさん:2001/04/10(火) 00:22
スマイスとベーツが「1万2千」という数字について共通認識が
あったのか?が問題のようですけど、

スマイスはティンパーリー編著の「外国人の見た日本軍の暴行」の原版
(英語版、1938年)のP59で、
「遺棄遺体処理の証拠は南京城内外で四万人ちかい非武装者が殺害され
 、その70パーセントばかりは便衣兵だったことを示している」
と語ってます。(日本語訳の同書ではこの項は省かれている)

すると4万の70%で、2万8千が便衣兵の殺害で、4万の30%は
1万2千で民間人の殺害ということになりますね。
スマイスの認識も民間人は1万2千なのではないでしょうか。
結論は同じで、考え方には若干の相違はあったかもしれませんが。

調査書は紛らわしいところがありますが、私はスマイスとベイツに明確な
意見の相違、対立は無いと思ってます。

ベイツは東京裁判でなんと述べたか、主要部分を載せておきます。

「日本軍入城後、幾日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の
 屍体がゴロゴロしておりました。この残虐行為の及ぶ全範囲というものは
 非常に広いのでありまして、全体のことを申し上げることの出来る人は
 一人も居りませぬ。我々は安全地帯及びその付近の地方について出来るだけ
 調査したのであります。 スマイス教授及び私は、色々な調査、観察の結果
 我々が確かに知っている範囲内で、城内で1万2千人の男女及び子供を含む
 非戦闘員が殺されたことを結論と致します。
 その他、市内で多数殺された者がありますが、我々はその数を調査すること
 は出来ませぬ。また市外でも殺されたものが相当居ります。

 今まで申したことは、中国の兵隊であり、或いはかつて、中国の兵隊であった
 ことのある何万人の男の虐殺を全然含まないのであります。」

 と、以上のように証言しています。

 なお国際救済委員会が城区で調査した範囲は、安全区とその周辺の
 民間人からサンプリングを行ったそうで、城区全域の民間人から
 ではないそうです。
 
599グース:2001/04/10(火) 02:12
>>598
スマイスはティンパーリー編著の「外国人の見た日本軍の暴行」の原版
(英語版、1938年)のP59で、
     ↓
これは「第何章にあたるのでしょうか?」

第3章「約束と現実」(日本語訳)
この章は「ベイツ博士」の記事で、

〜復習をすると公然と言明したのである。
他の諸事件はこの事件よりも多数の人を巻き込んだ。
「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が
南京城ないまたは城門付近で殺され、そのうち約30%がかつて兵隊
になったことのない人々である」
こうした状況に私が関心を抱くのは次の二つのことが原因である。

前後を補うと、こんな感じです。
もし英語版の記事とわしの引用部分が同一なら
「その部分はベイツ博士の説」でありスマイス博士の言葉ではない
ものと思われますが・・・。
600Dearグース:2001/04/10(火) 07:10
>>593
>これは「話が全く逆」(笑)
>「師団記録に無い「捕虜殺害」の記述があるから、大隊の記録が
>判明すれば、捕虜殺害は増加する」という証明が無ければ、
>師団記録に(捕虜処刑)がほとんど記入されているという
>「常識」を否定することはできないのでは?

質問。「本当はこうだった南京事件」(日本図書刊行会)
のp199に捕虜・投降兵の不法殺害について「処断一万六千」と書いてあるが、
この数字は「南京戦史」によっていると書いてある。
また、「南京大虐殺の研究」(晩聲社)のp87にはやはり「南京戦史」の
推定として「処断一万六〇〇〇」という数字を紹介している。
数字と文脈からしてこれは同じ記述に関して書かれていると思うのだが、
「本当はこうだった南京事件」にはその「南京戦史」が元にした
資料について明示されていない。
「南京大虐殺の研究」には『各部隊の「戦闘詳報」や「陣中日誌」などの
資料にもとづいて』という表現がされている。
「各部隊」ということは師団クラスの戦闘詳報や陣中日誌だけが根拠とは
思えないのだがグース氏の意見は

>>564
>当時南京攻略にかかわった「師団クラス」の詳報や、陣中日記
>はかなり公開されており「捕虜の獲得」「大量処刑」については
>ほぼ100%解明されていると言っても良い。

ということなので『師団記録に(捕虜処刑)がほとんど記入されている
という「常識」』からすれば「南京戦史」の考察の元になっている数字は
ほぼ師団クラスの記録によっているはずなのだがどうなんだ?
601名無しさん:2001/04/10(火) 07:29
>599(グースさん)
上記の内容は、私が図書館で調べた際、洞富雄の「南京事件」で
述べられていたものでして、原版の第何章、までは判らないです。
ただ洞氏の「南京事件」では、P104、P181と、2つの節にわたり
スマイスの言葉として出てきますね。
またP110の出典説明には
(邦訳「外国人の見た日本軍の暴行」にはこの条脱す)と附注されて
いますね。

う〜ん、どうなんでしょうねぇ。オリジナル版では自分で調べる術がない
ので困りましたね。
ただこの真相がどうであれ、ベイツの東京裁判での「〜その数を調査する
ことは出来ませぬ」という部分には真実味が、私には感じられるので
国際救済委員会の調査が100%網羅出来ていないという点では、
1万数千は認定出来るのではないかと思います。秦氏も受け入れる数字ですし
偕行社の上げる数字も1万以上を認定しているので、それほど大きな問題だ
とは思いませんがねぇ。。
602グース:2001/04/11(水) 02:06
>>600
なかなか「鋭い質問」だな(笑)

南京戦史では捕虜処刑数を
「各部隊ごとの集計である、戦闘詳報、陣中日誌」など
を可能な限り集めて詳細に検討している。

「南京戦史」(本編)P362〜P364(要点のみ)
準拠資料として
1 公式文書(戦闘詳報、陣中日記)
2 指揮官などの日記。
3 連隊史、参戦者の証言など。
この3区分のうち「指揮官日記の情報は過大なものが多い」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
例 飯沼日記12/14
「佐々木支隊の一中隊は南京、東方において約2万を捕虜とせり」
該当する歩38戦闘詳報
「尭化門守備の歩38第10中隊は、投降兵7200を捕縛して収容」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(グース注)このように「上海派遣軍参謀長である飯沼少将日記」と
実際の戦闘詳報では「3倍近い開き」がある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
佐々木少将私記
「〜我が支隊のみで2万以上の敵は解決〜その後捕虜続々〜」
歩33戦闘詳報
「13日、敵の遺棄死体5500(処決せし敗残兵含む)」
(歩33は支隊の主力部隊として最前線にいた)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
参戦した歩33の幹部も一様に「佐々木私記」の戦果は著しく
過大であると証言している。(これは本文)
603グース:2001/04/11(水) 02:25
>>602 引き続き南京戦史から要点のみ。

「各部隊ごとの集計である、戦闘詳報、陣中日誌」など
を可能な限り集めて詳細に検討した「敗残兵(捕虜)、便衣兵の摘出表」
   ↓
これを単純に合計すれば「3万8000人」(グース注 推計なし)

ただし「南京戦史」で推計した「南京防衛軍の戦力」から考えると
敗残兵(捕虜、便衣を含む)の最上限は「2万2000人」

単純合計の問題点
○「証言のみ」の数字は「個人差が大きく」信頼できない。
○激戦の間大量の捕虜に対応した場合「正確な数字ではない」(特に夜間)
○日本兵が少人数の場合「1000人以上の捕虜」を数える事は困難。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上の数字をもとに「南京戦史」が各場所において捕虜処刑の
推計した結果が
>捕虜・投降兵の不法殺害について「処断一万六千」

604グース:2001/04/11(水) 02:53
総 論
○「南京戦史」方式で「師団クラス」と「大隊クラスの戦闘詳報」
を比較し、大隊情報を優先し、情報が無い場合は師団クラスの資料
を補って合計すると「3万8000人」
(ただし、大隊情報は全部公開されてないので漏れがある可能性あり)

あらゆる情報のなかで(証言を含)「一番過大な数字」を合計すると
笠原説(南京事件)「約6万人」
主に師団クラスの日記が使用されている。

細かい記録を積み上げると「誤差」が広がるのはしょうがないが
両方の説を、単純に半分にすると
「捕虜処刑2万〜3万」という数字になる。

ちなみに秦教授推計は「捕虜処断3万」

グース推計は「残留軍5万-戦死2万-生存捕虜1万=捕虜処刑2万」

605グース:2001/04/11(水) 03:07
>>601
実は「南京事件」洞富雄著初版
わしの手元にあったりする(笑)
古い本なので結構間違いが多いのでまだ読んでなかった。

結論から言うと
「外国人のみた日本軍の暴行」評伝社(手元にあるのは昭和57年版)
これには「当該部分は省略」されている。「六号文書の重要部分もない」(笑)
日中戦史資料集(英文資料編)には全文が掲載されているようだ。

>偕行社の上げる数字も1万以上を認定しているので、それほど大きな問題だ
>とは思いませんがねぇ。。
    ↓
たしかに6600も1万2000も大した差ではないな。誤差の範囲内とも言えるし。

606名無史:2001/04/12(木) 22:37
>>593
>全ての日記が公開されても、捕虜処刑の総数は5%〜10%しか
>増加しない。

>>602以下のレスも含んで。

民間人も捕らえて殺していたことがわかっているのに、軍の人数から
「処断した捕虜」の数を計算しようとするのは如何なものかと思いますが。

で、結局「常識」は何だったの?
「師団」クラスの「戦闘詳報」だけでは偕行社の数さえでてこないはずだけど?

>あらゆる情報のなかで(証言を含)「一番過大な数字」を合計すると
>笠原説(南京事件)「約6万人」
>主に師団クラスの日記が使用されている。

正確に言い直し+補足すれば兵の日記(もちろん記されている数は1000以下)や
連隊の詳報だってあるし、全ての数字を足しているのではなくて連行しただけの記述や他
部隊の報告と重複している可能性があるものをぬかして「6万」。
607日本@名無史さん:2001/04/12(木) 22:46
ちょっと昔のレス。
>>594-595
>しかも「スマイス調査」の場合、本文と違う事が書いてある。
>本文では「殺された可能性のある民間人6600名」

しかしその数が少ないと考えていることが、本文に示されている。
そもそも注で述べている事柄に対して異論があるならば何らかの明記をするでしょう。
そうでもないのに著者の意見とは相容れないと解釈するとはこれ如何に。

>これが「常識」
>ただ「虐殺派」が「南京の意味を拡大解釈してるだけ」(笑)

はあ、先には城区と記したり後には南京と記したり忙しいですね。
で、結局「城区内で」云々の件に関してはどうだったんでしょう。

>捕虜の処刑は全部「違法殺害」として計上しております。
>もちろん「民間人の被害」も計上しております。

計上しているかどうかを聞いているのではなく、「一般民衆・戦時俘虜に対して
残虐な行為を行った」ことの認定は?
この認定を抜きにすれば、中国の公式数字より10万(定義の違いを鑑みればそれ以上か)
も数が少ない「虐殺派」だって秦や東中野と同じになってしまうよ。
608日本@名無史さん:2001/04/12(木) 22:48
>>597
何を言ってるのかわかんないけど

>公式戦史=公刊戦史とわしは理解していたが(笑)
では国防研究院が出しているのは公刊ではないの?日本語訳にもなっているらしいが。
公式戦史=公刊戦史て、一般に対して出版されていれば全て「公式戦史」?

>Hse Long-Ksuen(comp)@`
>History of the Sino-japanese War1937-45@`Taipei@`1971

『History of the Sino-Japanese War 1937-1945』
compiled by Hsu Long-hsuen and Chang Ming-kai.
Translated by Wen Ha-hsiung.
Chung Wu Publishing Co.@` 1971

『抗日戦史』
出版地 :〔台北〕
出版者 :国防研究院,中華大典編印会
出版年月:1966

『抗日戦史』の方が年代は古いね。いずれにせよ秦郁彦は両方参考文献であげて
いるのだからどっちかを無視していい理由はないでしょう。

>つまり「近郊6県を含めると、30万以上の犠牲者」になり
>犠牲者総数は「今後の課題」だそうだ(笑)

そうだね。「虐殺ではない」とひたすら固持する人達と同じような人が、中国
では大部分を占めているという事情は確かでしょうな。
609グース:2001/04/13(金) 03:55
>>606

>民間人も捕らえて殺していたことがわかっているのに、軍の人数から
>「処断した捕虜」の数を計算しようとするのは如何なものかと思いますが。
     ↓
なにを言ってるのか理解不能(笑)
もともと「南京事件 笠原十九司 岩波新書」で計算された
殺害表の話だったはずだがな。

都合が悪くなると話をすり替えるのは「虐殺派」の得意技。

>で、結局「常識」は何だったの?
>「師団」クラスの「戦闘詳報」だけでは偕行社の数さえでてこないはずだけど?
   ↓
これも「まったく意味不明」
師団クラスの「日記、戦闘詳報」という議論だったはず。
笠原表も「日記、戦闘詳報」を使用している。

整理すると「笠原説」で違法殺害された捕虜の数が「約6万」
しかし戦果報告が「2倍〜3倍に膨らむのは常識」なので
「実数は2万〜3万」

610グース:2001/04/13(金) 04:17
>>607
>そうでもないのに著者の意見とは相容れないと解釈するとはこれ如何に。
     ↓
前にも説明した。
「統計の学者にあるまじき無知な見解」を書いてるから
一部分については「ベイツ教授」が執筆したと思われる。
(もちろん証拠はない)

>はあ、先には城区と記したり後には南京と記したり忙しいですね。
そうだね。
虐殺派が「南京」の定義を勝手に拡大解釈するから、忙しいよね。

>「一般民衆・戦時俘虜に対して残虐な行為を行った」ことの認定は?
    ↓
残虐行為の判定は「具体例を検証」して個別に判断するべき(笑)

間違ってる主張
×日本軍が残虐だったから「中国の主張が正しい」
×日本軍が残虐だったから「30万虐殺は真実」

正しい主張
◎「中国の30万虐殺は捏造である」(このスレでも反論なしなので確定)
◎「ならば中国側の提出証拠の大半がウソである」
○「中国の主張30万に対し、グース説(約3万)が妥当だとすれば
  中国側提出の90%以上が捏造である」(議論中?)
◎「中国側が言う残虐行為の大半がやはりウソである」

日本側の「残虐行為」もあったかもしれないが
その内容(件数)は中国側の主張よりは「はるかに少ない」と言える。
611グース:2001/04/13(金) 04:32
では日本側の「虐殺行為はどうか?」

曽根一夫=偽者
東史郎=偽者
船橋照吉=偽者

以上は「捏造確定」

まぁ「戦時犯罪はどこの国」でもあるから「日本軍にもあった」
と考えるのが自然。犯罪者がいない国はないし、犯罪者が兵隊になることも
「当然ありうる」

一部の人間が「犯罪者」だからと言って、日本軍全体が「犯罪者ではない」
この辺の感覚が >>610 のレスを読んで判断できれば「普通の人」
できなければ「奇形サヨク」

>>561 こういう意見もある。
また「テンパリー」も「上海方面における日本の残虐行為を証明する
証拠はほとんど無い」と言ってる。

中国の捏造証言ばかりが証拠ではないのだよ(笑)
612日本@名無史さん:2001/04/14(土) 03:03
>>609
>もともと「南京事件 笠原十九司 岩波新書」で計算された
>殺害表の話だったはずだがな。

はあ。殺害数全般の話をしていたわけではないの?
あの表は殺害が記録されているだけの表であって、表のそれぞれについてこの全て
は軍人であるとか捕らえられた一般人はこれくらいとか具体的なこと笠原は言ってるの?

>師団クラスの「日記、戦闘詳報」という議論だったはず。

師団長クラスの個人の日記(私文書)に出てくる殺害の記録だけでも公式文書である
「師団」の「詳報」に全てが掲載されてますか?
連隊レベルの記録にでてくる殺害もどれだけ「師団」の「詳報」に掲載されてますか?
師団に報告されない(グース氏談)千単位以下の殺害でもそれが積み重なればどれだけ
の数になりますか?
と言うようなことを以前質問したはずなのですが。
グース氏は「師団記録に(捕虜処刑)がほとんど記入されている=常識」と言った。
その前には師団の詳報がほとんど公開されているから現在記録に見られる殺害数を1割
以上越えることはないと言ったのですよ。

>「南京」の定義を勝手に拡大解釈するから、忙しいよね。
それならば「城区=南京と記す」とか書けばよろし。虐殺派が勝手に拡大解釈
すると思っているならなおさらですわん。
先に「城区」と自ら書いているのに後で何も説明せずに「南京=城区」だという
概念を前提にして記すのは混乱のもとですわ。

>「統計の学者にあるまじき無知な見解」を書いてるから

書き記したらそれを「理解していない」から書いたことになるのかね?
「この統計で出た数は実態よりも少ない」という、表に対する自分の見解を主張
するための補足説明がそんなに「学者にあるまじき」かね。

>残虐行為の判定は「具体例を検証」して個別に判断するべき(笑)

兵まで個別に判断するのでしょうね。まるで裁判のようだなあ。
組織の責任者・幹部が免罪に「なるならば」日本軍は悪くないということに
なりましょうが、果たしてそうなりましょうか。

軍人さん個々人が何故そのような行為に到ってしまったのかという「原因」や
「組織」の問題に目をつぶってしまうのは勝手だけど(ほんとは勝手じゃないけど)
それではいつまでたっても笠原らに決定的な反論を為しえることができないことは
わかっててわざとやってるんだろうけどね。

まあがんばって。
613グース:2001/04/14(土) 05:05
>>612
はいはい、がんばるよ(笑)
614日本@名無史さん:2001/04/15(日) 16:45
グース氏の一人勝ちのスレ。
この人、何者?学生?院生?
615日本@名無史さん:2001/04/15(日) 18:22
自作すんな
616日本@名無史さん:2001/04/15(日) 22:18
まんこ
617日本@名無史さん:2001/04/15(日) 23:00
>>614
負けてるようには見えないが勝ってはいない。
618日本@名無史さん:2001/04/15(日) 23:34
30万説を唱える人も、幻派も勝てず、
中間説派(4万〜6万位まで)がここでは勝ったということかな。
619日本@名無史さん:2001/04/15(日) 23:34
>>617
グース氏に論争を挑む者に
すりかえがまま見られるのはどうして?
グース氏の論には一貫性があるし
明晰だと感じるけどね。私はすっかり説得されたよ。
620日本@名無史さん:2001/04/16(月) 01:17
グース先生は突っ込まれたとこを時々放っとくからなあ。それも一貫性か。
621日本@名無史さん:2001/04/16(月) 02:05
>>620
どこか指摘しなされ
622日本@名無史さん:2001/04/16(月) 23:07
>>620
スレの番号を教えてね。
623日本@名無史さん:2001/04/17(火) 03:02
>>618
たしかにここでは数が問題だから、中間派に分があると思うが、
(便衣兵のことは今は除くよ)
どこかのスレでグースさんが指摘していたように
その国際法上の評価がさらに問題となるね。
東中野さんや小室直樹さんだと適法なんでしょ。
秦さんはたぶん違法と考えてるはずだけど。
そしてさらにその上に政治問題としてどう対処するかが
問題になるね。あ、そんなの当たり前のことだったね。
624日本@名無史さん:2001/04/18(水) 00:33
このスレではとうとう、完全まぼろし派(捕虜処刑、敗残兵残滅全て合法、
民間人は数十〜数百人位までの殺害は認める派)がカヤの外だったね。
数十万派のダメージより、完全まぼろし派の方が苦虫を潰しているのでは
ないだろうか。
625日本@名無史さん:2001/04/18(水) 04:18
>>624
幻派の参加者いないに等しいからね。
スマイス調査を批判した丹羽春樹説をどうして
誰もとりあげないのかな?
聞いた話だと民間人の死亡は数百に落ち着くらしいけど。
626 :2001/04/19(木) 07:07
インドのパール判事は「日本は国際法に照らして無罪である」
と主張し続けた

インドのパール判事は国際法上から全被告の無罪を主張し続け、オランダ
のレーリンク判事、フランスのベルナール判事は、裁判の進行中から、東京
裁判にはいくつもの法的手続き上の、又、南京大虐殺のごとき事実認定上の
誤りが犯されていることをみてとり、裁判終結後にはそれを公然と口にする
ようになったのです。

英国枢密院顧問官国際法権威ハンキー卿

『戦犯裁判の錯誤』を著わし、裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、
「私は全然疑わない」と言明し、東京裁判の不公正を衝く。

英法曹界重鎮FJPビール氏

『野蛮への接近』を著し、「東京裁判は戦勝者が敗戦者に加えた野蛮な行為
にほかならない。」云々。

英国国際法で有名な W・フリードマン教授

国会議員であり、王室弁護士R・T・パジョット博士等、皆パール博士を支
持した。ロンドン世界事情研究所監修『世界情勢年鑑』(1950)は東京裁判
を解説し、パール判定が正論であることを裏付けた。

アメリカのチャールス・ベアート博士歴史学政治学の泰斗
『ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究』を著しその中で、
日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍
部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令したと発表し、パール博士の
指摘した点を裏ずけた。オランダ、フランスにおいても激論が戦わされ、つ
いに1961年オランダの法律雑誌は東京裁判に関するパール博士の論文を連載
した。ヨーロッパ諸国においてはこのパール判決がビッグニュースとして紙
面のトップを飾り大々的にその内容が発表され、センセーションを巻き起こ
した。
627日本@名無史さん:2001/04/20(金) 00:05
>>626
あれ、肝心のパール判決書の内容↓には触れないんですか?

「これ(南京事件)に関し本件において提出された証拠に対し
言い得るすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り
斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領した
或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したもので
あるという証拠は圧倒的である」
628日本@名無史さん:2001/04/24(火) 05:37
たまにはageておくか・・・・・・・・・・・・・
629日本@名無史さん:2001/04/25(水) 18:51
いつのまにか従軍慰安婦スレへ人が移ってますね。
630日本@名無史さん:2001/04/27(金) 06:55
そのスレどこ?
631日本@名無史さん:2001/05/03(木) 09:47
age
632日本@名無史さん:2001/05/07(月) 02:43
南京大虐殺はアメリカンジョーク
633日本@名無史さん:2001/05/07(月) 03:54
広島原爆はパーティの余興のクラッカー
634日本@名無史さん:2001/05/10(木) 14:50
パールで打ち止めか。
635日本@名無史さん:2001/05/10(木) 17:16
グース氏の論旨には説得力があるね。
だいたい、「まぼろし説」というのはこういうものだったのだが、
「虐殺派」がその後必死で自説を正当化するために騒いできたのが
今日までの数十年だった。
ところが「完全幻派」の登場で、「虐殺派」も息のつき所を得た感じ
で、いまやかつての「まぼろし説」つまりグース説に歩み寄らざるを
得ないところまできている。
あとは、これまでの自分たちの「業績」の「面目」を保つことだけが
「やるべき」ことになっているのだろうね。

かれらにくっついていっている若者が可愛そうだよ。
未来、その尻拭いをやらされるわけだから。
636日本@名無史さん:2001/05/10(木) 17:34
通りすがりの質問。

南京で日本兵による中国人3万人程度の虐殺はあった。

で今のとこいいわけ?
637日本@名無史さん:2001/05/10(木) 22:32
下がってるのにしょうこりもなく何度もあげるのは同じ人物がやってるの?
>>636
自分で考えろ

638日本@名無史さん:2001/05/10(木) 22:42
>>635
論争史まで「修正」せんでもええのに。
そういう話は政治思想板かコヴァ板で好きなだけやってくれ。
よってさげ。
639日本@名無史さん:2001/05/13(日) 21:39
南京の「虐殺展示館(正式名称忘れたのでスマソ)」
あれは太平天国の乱の時の犠牲者をわざわざ掘り起こしているんだって。
太平天国なら100万人ぐらいは殺されてるから。
それにしても悪趣味!
640日本@名無史さん:2001/05/14(月) 00:38
所詮プロパガンダのネタ
641日本@名無史さん:2001/05/14(月) 18:16
南京陥落寸前に国民党軍の督戦隊による同軍大虐殺はなぜ追及されないんだ?
「南京大虐殺」が日本軍じゃなくて国民党軍がやらかしたのなら、ひでえ濡れ衣。
ほんまにええかげんにせえ。
642日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:47
議論の真理「声のでかい奴が勝つ」
643日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:49
「ここ変」に発情したコヴァが揚げているものと思われ(w
644日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:50
保守派論客の福田和也が小林や「作る会」らの戦争観を批判(その1)

福田和也は近著で南京事件や教科書記述をめぐって「作る会」や小林らを批判している。
以下はその一部

福田「こないだ『国家と戦争』という本の座談で、小林よしのりさんと話をしましてね。彼が、僕の南京事件の
解釈にこだわるわけです。僕はやっぱりあれは恥ずべき事件であると思っているわけ。でもそれが彼には
気に食わない。徹頭徹尾批判すべきではなく、ただ「大虐殺」派を批判しつづけていればいいという姿勢
なのね。「小林さん、そうは言うけれど」と、僕はちゃんと礼儀正しく言ったんですよ。
「そうは言うけど、実際問題としてニューギニアとか何かの戦線で死んでいった人たちや南京で捕虜の
処分をさせられた兵隊はかわいそうですよ」って。」(続く)

(ソース:西部・福田・小林ほか『国家と戦争』、宮崎・福田『愛と幻想の日本主義』より)

645日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:51
保守派論客の福田和也が小林や作る会の戦争観を批判(その2)

福田「南京だって彼らが言うように便衣隊を殺しただけなのかもしれない。しかし問題は殺したかどうかじゃ
なくて、国際法的に適法かという枠組みで規定するしかない。すると、ジュネーブ条約の中に捕虜を処理
するのは、その現地部隊であってはならないという規定が明確にある。当たり前なんで、現地部隊で
やったら無茶な扱いになるに決まってる。だから現地部隊から国家、つまり本国政府で選別して管理しな
ければならない。でも南京攻略作戦自体が、派遣軍の暴走としてはじまったから、本国の了承もサポート
もなく、捕虜の管理機構もない。細かい処理をする余裕もないし、食料もない。面倒くさいから
始末してしまえとなった。いずれにせよ、軍部の作戦なり何なりが滅茶苦茶だったことは事実でしてね。
そのことを指摘しないで小林さんはどうするのだろうと思うわけ。」(続く)

(ソース:福田和也・小林よしのりほか『国家と戦争』、宮崎哲弥・福田和也『愛と幻想の日本主義』より
646日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:51
保守派論客の福田和也が小林や作る会の戦争観を批判(その3)

福田「すると「それは必要ない。みんな喜んで国のためだと言って死んでいったと考えればいいんだし、
実際そういう人もいる」と彼は言う。それは完全に足軽を作るための理屈なんだよね。足軽を作りたいなら
作るでいいかもしれない。けど足軽の理屈で上から下まで全部を押してしまうとはね。」

宮崎哲弥「足軽の理屈で全部上までやってしまうと、まさに弱者のナショナリズムになってしまう。
だいたい足軽としていやいや戦に徴用されて、生殺与奪権を握っている上官の命令に従っただけなのに、
指揮官の責任感の欠如や戦時国際法の無知のために、あたら命を落としたり、戦犯として処刑された「じっちゃん」
たちを可哀想だとは思わないのか。そういう軍や政府の指導層の無能さ、無責任さが戦後の極端な厭戦感情を招来
したのだから、戦後を虚妄と簡単に片付けること自体が歴史感覚の欠如を示していてね・・」

(ソース:西部・福田・小林ほか『国家と戦争』、宮崎・福田『愛と幻想の日本主義』より)

647日本@名無史さん:2001/05/18(金) 02:03
全スレを読んだ(疲れた・・

結論は「中国の主張する30万人説はありえない。しかし「南京虐殺は無かった」も疑わしい。
少なくとも数千人から数万人前後(?)の虐殺はあった。しかしその具体的な人数や方法など詳細をめぐっては論争中」

というところでしょうか?>ALL

648日本@名無史さん:2001/05/18(金) 02:48
2chの結論は30万人はありえないに決定のようですが、
虐殺肯定派側の有力な反論があれば興味があります。

それから、さっき、他のHPで南京の地図を見たのですが、
日本軍の配置からすると、
南西に追い込んで殲滅させる作戦ですね。きっとこれは。
649考える名無しさん:2001/05/18(金) 03:57
>>648
三十万人はありえないけど数千から数万人ならあったらしい、
がスレの結論じゃないの?

あなたは「完全否定」派ですか?
650日本@名無史さん:2001/05/18(金) 07:35
また繰り返しか。。。
651日本@名無史さん:2001/05/18(金) 15:41
A型は徒党を組んで国民を操ろうとする。注意せよ!
特に全国民の5%しかいないAA型は偏固で神経質。  
652648:2001/05/18(金) 20:18
>649
え?完全否定は不自然だと思いますが?
653日本@名無史さん:2001/05/18(金) 22:25
グース氏のHP最近更新してないな。
あきたのかな?
654日本@名無史さん:2001/05/19(土) 02:08
>数千から数万人ならあったらしい

そんな結論も出てないよ。
しかも、このスレッドに結論自体ないと思うけどね。
655南京@名無史さん:2001/05/19(土) 11:29
「中国兵は武器で殺し、日本兵は目で殺し、南京娘をはめ殺す。
はめもはめたり数百万。愛の南京大虐殺。」

戦前、南京に駐留していた親戚のオヤジが酔っ払って言った、
妙に記憶に残るセリフ。
656日本@名無史さん:2001/05/19(土) 21:18
南京大虐殺→南京大勝利
657日本@名無史さん:2001/05/19(土) 21:41
児島襄「日中戦争4」(文春文庫)P50〜51より引用
通州には、中国軍部隊として、独立第三十九旅七一七団第一営(溥鴻恩)が、
郊外に駐屯していたが、二十七日、支那駐屯軍歩兵第二連隊主力の
攻撃を受けて、退却した。
 第二連隊は、前述したように南苑攻撃に参加するが、
その前に通州の安全を確保するために中国側の武装解除をもとめ、
拒否されたので「撃攘」したのである。
 これで、通州は、「無事の街」になったとみなされた。
 通州は、親日政権「冀東防共自治政府」の所在地であり、
四個総隊と教導総隊から成る冀東保安隊のうち、第一、
第二総隊および教導総隊約三十人が駐留している。
 第三、第四総隊は天津に分駐していたが、宋哲元の
“蜂起”指令に背をむけた。通州の保安隊も同様に親日心に
富むものとされ、しかも、野砲を持つ強力な存在なので、第二連隊が
南宛にむかったあとも、警備能力は十分だと考えられたからである。
 ところが、実際には、第一総隊長兼教導総隊長張慶餘、
第二総隊長張硯田は、既述したように、ひそかに宋哲元に服従している。
 しかも、保安隊員のほとんどは血気にはやる十八〜二十歳の青年であり、
南苑戦闘にかんしては、中国側が勝ったとのラジオ、新聞の逆宣伝を
信じて興奮していた。
 それだけに宋哲元の“蜂起”指令をうけると、文字どおりに
「武者ぶるい」をして蹶起した。
 いわゆる「通州事件」ーであり、中国側の「抗日戦史」には、
「率所部約五個大隊・・・乗敵不意以奇襲・・・実開爾後偽軍反正之先例」
と、いわば“正義の叛乱”事件としてあつかわれている。
 だが、中国側にとっては、敵である日本の味方としての地位を放棄して“蜂起”
した保安隊の行動は、たしかに「義挙」といえるであろうが、その「反正」の内容
はもっぱら非戦闘員である日本人男女を対象にした虐殺であったのである。
658日本@名無史さん:2001/05/19(土) 21:48
「南京戦史」(偕行社)の佐々木到一中将の日記より引用
「その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の
辛惨を顧むれば兵隊ならずとも『皆やつてしまへ』と云い度くなる」

そもそも南京攻防戦の前に起きた通州事件では二百何十人もの
日本の民間人が婦女子や子供に至るまで猟奇的なやり方で殺されたんだから。
「通州の日本人大虐殺があって、多くの日本人が中国に反感を持ったから」
とでも言ってくださいよ。理由も無く突然弱者中国に襲いかかったんじゃない。
それを無視して南京で乱戦中の日本兵の残虐ばかり言い立てて、
三十万虐殺だなんてそりゃあないって。中国があくまでそれにしがみつくんなら、
こっちだって「通州虐殺は三十万だった」のキャンペーンやろうぜ。
659日本@名無史さん:2001/05/19(土) 22:43
>「通州の日本人大虐殺があって、多くの日本人が中国に反感を持ったから」
>とでも言ってくださいよ。

そんな嘘はつけませんね。
しかも、通州事件では賠償金ももらってるしね。
660日本@名無史さん:2001/05/19(土) 22:46
はじめから南京進出なんて想定した準備ではなかったのに、
無理な行軍をさせた結果が
「多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧むれば兵隊ならずとも
『皆やつてしまへ』と云い度くなる」
なのであるはずよん。
661日本@名無史さん:2001/05/19(土) 23:08
>無理な行軍をさせた

日本の兵隊は自発的に進軍していった、通州事件の無念を晴らすために。
662日本@名無史さん:2001/05/19(土) 23:46
南京事件とは話が別なんですけれど、国民党軍は、1937年に黄河の堤防を破壊し
90万人の水死者と数千万の罹災者を出しているんですよね・・・・
それが原因で日本の3倍もの面積の農地が泥に埋まり、疫病も蔓延したり・・・
日本軍の南京占領後、731部隊の支部隊、1644部隊が南京に置かれた理由
なんですよね。建前ですけど。
663食いだおれさん:2001/05/20(日) 00:26
>自発的に進軍

確かに(先陣争いもあり)第一線部隊は自発的に進軍していったが、兵站が
追いついていなかったんだよね。だから「無理な行軍」になってしまったわけ。
664日本@名無史さん:2001/05/20(日) 00:35
グースは最近どうしてる?
665日本@名無史さん:2001/05/20(日) 13:06
666日本@名無史さん:2001/05/20(日) 21:42
まあいいや。
じゃあ、一人も、と言ったら双方にとってあれだから、
百人。
現代でも近代でも、百人でも非戦闘員が無理やり殺されりゃ、ジェノサイドでしょう?
沖縄で米兵に沖縄県民が、北海道でロシア兵に北海道民が、とかさ。
百人以上は非先頭員を殺してない、と言い切れるなら
南京事件はなかった、と言っていいんじゃない?

そうかよ?反証できんの?
ぞろぞろ出版されはじめてる海外の史料にも。

中国の主張がおかしいのはおかしいとして、
南京事件はあったけど中国の言ってることはデマだ、
とそういう視点はないのかよ。
667 :2001/05/21(月) 02:42
>>666
>南京事件はあったけど中国の言ってることはデマだ、
>と、そういう視点はないのかよ。のひとは、↑

このスレッドの大半の人は、そういう認識だと思われ。
668日本@名無史さん:2001/05/21(月) 02:57
すいません、いわゆる731部隊に関してのいいスレッド等
あったら教えて下さい。
スレ違いですけど、すでにガイシュツだと思いますんで
ここで聞きます。誰か知ってたら教えて下さい。
南京事件や従軍慰安婦問題はある程度分かってるんですが、731
部隊に関してはほとんど知識がないです。軍の支部隊が暴走したと
かなんたらぐらいしか知らないので(これも間違ってるかも)。
関係ないのでsageときます。
669世界@名無史さん:2001/05/21(月) 03:13
さあ、本読んだほうがいいと思うよ。
常石敬一の本は新書でも出てるよ。
でも新書は内容は薄めだから、朝日文庫のほうがいいかもね。
あ、秦郁彦も「昭和史の謎」で一章をそれに費やしていたけYO。
670日本@名無史さん:2001/05/21(月) 21:26
>>667
しかし普通の戦闘と同じ程度のものでしかない、という人と
違う、という人でしょ。
671日本@名無史さん
>>655
その親戚の方がご存命かどうかは分かりませんが、お気持ちを
察するところでは、やってもいない、いわゆる『南京大虐殺』をやっ
たと周囲から言われるのが悔しいのでしょうなあ。

「確かに南京娘を殺したさ、良い仲になって、はめ殺したさ」と…。