1 :
日本@名無史さん:
御祖父さん、お祖母さんとかに聞いた話とか知りたいです。
2 :
日本@名無史さん:2001/03/03(土) 03:28
おいらの大叔父さんは陸軍将校、中尉だっだかな、として上海で敗戦、
武装解除後、国民党軍なのかな?「これからこっちは内戦やるから、
こっちの将校になんない?どうよ?」って言われたけど、一旦日本に
帰ってからね、っていって帰ってきたら、結局中共の勝利、ほんと、
帰ってきてよかったといっていた。
3 :
日本@名無史さん:2001/03/03(土) 04:45
わしは陸軍中将
昭南を攻略した
4 :
日本@名無史さん:2001/03/03(土) 08:32
軍事関係にのみでいいのなら軍事板に似たようなスレ有るよ
5 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 05:30
俺の祖父は徴兵されなかった。
6 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 05:47
肩すかしで5の勝ちい
7 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 05:49
大戦後のチョンの暴れっぷりならばぁちゃんによく聞いた。
8 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 11:08
誰が徴兵対象になるかって誰が決めたの?
9 :
はらけんさぶろー:2001/03/04(日) 11:30
わたしはい亜ン府とやりまくったよ
10 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 11:48
ヒロヒトを処刑しておくべきだった。
11 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 11:51
一応「戦争体験」スレの第二弾ということでいいかな?
12 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 11:55
私の母親は言っていた。戦争の終わりになって田舎に疎開したのが
結構楽しかった。だから、戦争というと楽しい思い出しかないって。
今年65歳の鬼畜な発言の母親でした。
13 :
酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/04(日) 11:57
私の父方の祖父は、ソビエト赤軍の侵略で、昭和20年(1945年)
8月に樺太の真岡(現サハリン州ホルムスク)にて戦死。
露介を殺せ!
14 :
NASAしさん:2001/03/04(日) 12:11
15 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 15:50
母方の祖父は徴兵されて南方に行っていたんだが
帰ってきて、一番最初に発したのが「本場のバナナは美味かったなぁ」
聞いた時ワラタ。
16 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 16:40
戦後の占領軍の検閲の話を父に聞いたら、
戦後家に届く手紙の封筒が必ず1度あけら
れていて、セロファンテ−プで再度封され
ていたそうな。その時父は始めてセロファ
ンテ−プというのを見たそうな。
17 :
日本@名無史さん:2001/03/06(火) 02:50
単なる土管を防空壕の入り口と勘違い
して執拗に機銃掃射していったらしい。
18 :
日本@名無史さん:2001/03/06(火) 04:01
お、立てようと思ったスレがあった。
もう氏んだけど、俺のじいちゃんは戦争中、海南島に行ってた。
そこで農業関係の仕事してたんだって。位は上の方だったって聞いたけど。詳しいことはわからない。
日本が戦争に負けたとき支那(現中国)が攻め込んできて、殺されそうになったけど、
地元の人に助けてもらったんだって。その時は「日本軍は信用がない悪い部隊なのに地元民に助けられるか?」
って思ったけど今思えば、やはりある程度信用があったんだと思う。
その後の海南島は・・・
本当に台湾は、海南島のようにならなくて良かったと思うよ。
あーあ、もっと詳しく聞いとくんだった。この間ばあちゃんも芯だし。
19 :
日本@名無史さん:2001/03/06(火) 22:11
あげとくか・・・
20 :
世界@名無史さん:2001/03/07(水) 02:01
俺のじいさんは、大東亜戦争で沖縄に送られるはずだったんだが、
病気にかかって、結局そのまま終戦を迎えた。
沖縄に行った友人達は、みんな戦死したらしい。
もしその時病気にかからなかったら、俺は存在してなかっただろう。
じじいの手柄話を聞いてもつまらんのと一緒。
つまらん話ばっか。
22 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 04:46
太平洋戦争時にうまく病気にかかった人ってラッキーだよね?
うちの祖父は戦争ちゃんといってマラリアにかかってかえってきて結局
早死にした気の毒な人だが、知り合いのお祖父さんで、戦争のとき肋膜炎で
戦争行かなかったくせにまだ90才近くでピンピンしている。
塞翁が馬やね。
23 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 04:57
俺に祖父さんは兵役逃れで大学は理系に進み科学者になる予定だった
それが不運にも原爆で被爆しちまった、在学中に。
家の母方の祖父の兄は、ガタルカナルで戦死されました。
位牌にはガタルカナル西地区で戦死と書いてあり
祖父も特攻機に乗る予定でしたが、乗る前に終戦を迎えたそうです。
父方の祖父は金持ちで、曽祖父が政治家だったのもあり
病気を理由に徴兵を逃れてたらしい。
25 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 09:34
知り合いのジジイが満州で「馬賊1000人殺した。
女100人位強姦した。」と自慢していた。
そいつの孫が自衛隊に入って「面白い事何にもなかった。」
と三年位で除隊して帰ってきた。
26 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 11:30
うちのじーさんは丙種合格で45年に満州で徴兵された。
支給された銃に弾が入らないから上官に言ったら、敵からぶんどった銃だから弾は入らん。
戦闘になったら銃剣でどうにかせい。と言われて死を覚悟したそうな。
で、南支のどこかに向けて行軍してたら終戦になって、結局一度も戦闘しなかったとさ。
27 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 23:57
>>25 その人俺知ってるかも。似たようなことを言ってるよ。
あちらで楽しかったのは「人殺し」なんだと。
銃剣で何度も刺してるうちに動かなくなるのが面白いのだと。
日本では人が殺せなくてつまらんと、今でも言ってる。
みんなに嫌われているよ。別人だったら、かえって恐いな・・・
俺んちのじいさんは、佐世保港で昼寝してたら
突風が吹いて目が覚めたそうだ。
その後、それが原爆の爆風であることを知ったらしい。
28 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 00:56
ジーさんは国鉄の車掌だった。
汽車に乗車中、米軍機から機銃掃射をくらい汽車が脱線、
ジイサン大怪我で入院。
その時同僚(客だったカモ)が機銃弾(20mmカナ?)をもろ顔面にクラって、
頭がチギレ飛んだのを目撃したそうです。
今の東海道線(静岡〜浜松間)での出来事。
29 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 01:27
うちのじいちゃんは、尼崎で工場をやってたんやけど、
結構な技術を持ってたらしく、戦争に行くよりも物を作って
お国に尽くせてゆうことで、徴兵されなかったらしい。
でも、終戦の年に工場は空襲で燃えちゃったらしい。
30 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 03:06
うちの祖父は昭和18年末か19年はじめに召集されて、19年の
夏頃には戦病死してしまったそうだ。
うちの父は末っ子で、19年に生まれてる。
祖母はどんな思いでうちの父を育てたのかのう。
ところでスレッドに関係なくて申し訳ないのですが
祖父は大分の人で、戦病死したのは中国の桂林あたりだと
聞いたんだけど、所属していた連隊とかその行方を知る術って
ないでしょうか?
すでに祖母が亡く全くわからなくなってしまったんです。
31 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 03:08
うちのじいさんは医者として東南アジアに行ったらしい。
隣の島の部隊が全滅したそうです。
終戦後、アメリカ人の捕虜に薬をやらなかったことで、戦犯にされそうに
なったらしい。ばあさんは芦屋にある、競馬場の中で芋を作ってたそうです。
32 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 03:17
家の近所に住んでた爺さんはガダルカナル帰りだったらしい。
毎日戦闘よりも食料の確保の事ばかり考えていた
と親友であるうちの祖父に愚痴ってた。
>>30 住んでた地区(県など)で部隊(師団)が解かるはず。図書館とかで事典を読めば?
33 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 03:31
土浦海軍航空基地で働いていた祖母は
ある日撃ち落された米軍機を見た。
なぜか操縦席には腕一本しかなかったそうな。
そこにはつり竿だのチョコレートだの
墜落時のサバイバルツールが残っていて
上官に、食ってみろと言われたが
毛むくじゃらの手にびびって
みんな近寄らなかったそうです。
>>32 なんの事典を読めばいいのかもわからないのです・・・
小倉あたりかなー・・・とも思ったのですが、
どの地区がどこの師団に行ったのか等々はっきりわからないので
なんとも・・・
35 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 09:36
祖父は台湾で電気技師をやっていたので戦わなかったそーな。
36 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 09:59
昔、バイト行った先の社長は中国いったらしいけど
中国兵は動きが速くてみえなかったといってた
37 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 12:50
うちの祖父が死ぬ前に「日本がアメリカに勝つと思ってか?」
という質問しとけばよかた。
38 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 19:17
このスレ見たんで、今日定年になる方に
戦争の話をしてみた。もう聞けないかも知れないから。
子供の頃、小規模の空襲があって、避難先から戻ったら
近所の子がやられたと教えられて、現地に行ったら
穴が開いていて、周りの木に肉片や髪の毛が飛び散って
いたそうだ。
「幼い馴染みが、一瞬で消え去った衝撃は忘れられん。」
といって涙ぐんでた。辛いこと聞いてごめんなさい。
39 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 20:58
20年程前に亡くなった義理の伯父は、C級戦犯で暫く巣鴨プリズンに入っ
ていた。容疑は捕虜虐待。裁判では否認したが証人が出たために有罪に
なったそうだ。で死ぬ前に別の叔父が訊いたそうだ。本当に殺ったかど
うか。すると
「気合を入れるために、イギリス兵の胸を木刀でたたいていたらぐたっ
となっちゃった」と言ってた。やっぱりやったんじゃねーかよ!
40 :
日本@名無史さん:2001/03/31(土) 23:28
家の義理のGさんは、敗戦後、中国から戻ってきたら
嫁さんもたじろぐほど、人格が変わってしまったそうだ。
気さくが取り柄だったのに、無口で冷めて暴力的に
なってしまった、と言っていた。
或る日、自分は人を何人も殺したことを
酔いの勢いで口走ったらしい。
でもそれを聞いたBARさんは、今でも嘘だと信じている。
41 :
日本@名無史さん:2001/03/31(土) 23:39
中国で無抵抗の捕虜を銃剣で刺殺したり、行軍中に現地の女のまむこに
ニンジンを突っ込んだりした爺さんを持つ奴はいないの? マジで
俺の爺さんは陸軍で比島に出征してそれどころじゃなかったようだけど
(あと、大叔父は海軍)
42 :
41:2001/03/31(土) 23:40
マジレス頼んますよ
43 :
日本@名無史さん:2001/03/31(土) 23:42
できれば南京事件に関わった親類がいる方、歓迎。
44 :
2:2001/04/01(日) 01:18
家の近所のジイさんは元パイロット。
呆ける前に話を聞いたんだが、本土を空襲された時に
迎撃のため出撃したものの、こちらの飛行機では
遥か上空を行くB-29のところまで届くのがやっと。
撃ち落とそうにも、あちらの方が速すぎて
てんで追い付かなかったそうだ。
「爆撃機よりも遅い飛行機では、故郷を守れない・・・」
その時、日本の敗戦を悟ったらしい。
45 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 01:42
体育の老教師が、中国で日本刀で人を切った話をよくしていた。
46 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 01:51
俺の爺さんに聞いた話(10年近く前にガンで死)
爺さんは戦争が青春だったみたいだった。(今の中国に5,6年)
歩哨に立った友人が、朝に眼をえぐられて金玉をちぎられて死んでいたと、
聞いたな。下っぱの話でした。
47 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 02:29
ウチの爺ちゃん、兵役逃れの上軍需産業で大儲け。
戦争が終わるといち早く材木確保して豪邸建ててた超非国民。
戦後は、よく、戦争帰りの人を「人殺し」「キ**イ」呼ばわりしていたらしい。
一方、工場で働いてた朝鮮人に気前よく渡航費貸してたり・・・。(勿論返して貰うつもりはない)
まあ、間違っても朝ドラとかテレビのドラマには出てこないタイプのキャラだわ。
48 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 02:51
俺の親戚のばばがいってた。
じじは船を沈められて二人で海に浮かんでいたらしい。
じじはサメに下半身食われて死んだらしい。
悲惨な報告ご苦労。戦友。南無。
49 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 04:51
>>41 家族にそんなこと話すと思う?ふつうさあ。
戦時中ならともかく戦後に話すと思う?
ちょっとだけならあるよ。
私の親戚(直接の祖父ではない)はまだ子供だったらしいけど
中国へ行った兵隊さんは「チョンの首いっぱいとったぜ!」
みたいなこと言ってたし、聞いている子供達も「すげえ!」
みたいな感じだったんだって。
戦後になって南京虐殺の話を聞いて「確かにそういうことも
あったかもなあ。やりかねないなあ」と思ったと。
あの頃の自分たち(中国人蔑視の心など)を思えば、虐殺等々
残虐行為の否定なんてできないよ、と言っていた。
以上。
50 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 13:24
>>30 地元に慰霊塔があれば見てみるといいよ。
その地元の部隊名とか、戦士した人の名前が刻んである。
○戦死 ×戦士
やってしまった、スマソ。
>>47 んなこたーない。すずらんで夏八木勲がやっておったぞ。
53 :
日本@名無史さん:2001/04/02(月) 23:56
age
54 :
日本@名無史さん:2001/04/03(火) 00:02
>>49 別に戦果を誇るのは問題ないと思うが。
その首が民間人の物なのかどうかが問題なんだけど。
55 :
日本@名無史さん:2001/04/03(火) 00:42
疎開話とかも知りたいな。
56 :
日本@名無史さん:2001/04/03(火) 01:18
うちの祖父は経理担当だったから戦わなかったらしい。
実際戦った人って一部なんでしょ?
57 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/04/03(火) 13:56
>>43 うちの母方の爺さん(日本人)は戦時中中国の鉄道会社につとめてて
南京が占領された三日後位に用事があって南京へ行ったらしいが
死体なんて一個も見なかったと言っていた
で 戦争が終わってから虐殺の事実を知ったんだって
とはいえ虐殺を肯定も否定もしてなかったが
58 :
日本@名無史さん:2001/04/03(火) 14:29
うちのおじいちゃんも、通信兵だったので
べつに戦わなかった、って言ってた。
ちょっとほっとした。
あと、終戦時の玉音放送を聞いた時はやっぱり泣いた?
ってたずねたら
「泣くとかなんとかよりも、腹が立って腹が立って」
って言ってたのは、リアルだなと思った。
59 :
奈々氏さん:2001/04/04(水) 08:23
母方の祖父が某軍需企業の設計師だったんで徴兵は免れた。
そのかわり勤め先と家を空襲で丸焼けにされてしまった。
幸い家族に死者は出なかったんだけど。
茨城県の北部のある市の話です。
60 :
信じられないけど実話です:2001/04/04(水) 10:06
ウチの「元総務部長」は、
松代大本営建設を指揮し、森近衛師団長殺害に関わったそうです。
このまえテレビに出ててビックラしただ。
61 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 10:10
うちのじいさんは朝鮮総督府に勤めていたが
帰国の時は「またな〜」ってな感じで、
ご近所さんの朝鮮人と別れたと言ってたよ。
ホント、転勤かなにかで引っ越しするような感じだったらしいよ。
62 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 11:01
友達の爺さんが硫黄島にいたらしい。(米人です)
下っ端の兵隊で朝弾を受取ると受持ちの豪にはいって銃だけだして撃ってたらしい。
顔出すと当っちゃうし、もらった弾は使いきんないと怒られるしで「恐かった」といっていた。
なんかリアルでした。
63 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2001/04/04(水) 11:18
うちのじいさんは満州に渡ったのち生活に困って
馬賊に入門した。
その後、馬賊の頭領の右腕として活躍。
しかし、関東軍の説得により馬賊組織そのまま満州軍の1連隊
となり、連隊長となる。
やがて、終戦を迎えるが満州はソ連侵攻に対して関東軍が
尻尾をまいて退却したため大混乱。
祖父は自分の部隊を率いてい抗戦しつつ、付近の邦人を保護
しつつ後退し、やっとのことで港(大連?)につき、無事日本に
帰国したという。
64 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 11:28
うちのじいさんは特殊潜航艇でパールハーバーに
奇襲をかけようとしたが、失敗して上陸して
現地人になりすました。
今でもハワイでアロハシャツを売っている。
65 :
名無し:2001/04/04(水) 11:45
うちのじいさんは、シベリア抑留者でした。周りの人で死んで
しまった人も多かったらしい。
いまだに、ロシア語で「ご飯だよー」「集合」とか言える。
海部首相の時に貰った銀の器(抑留者がもらった)を大事にしてる。
66 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 12:12
うちのじいさんもシベリア抑留。かなり遅くまで(昭和29年頃?)日本に
帰れなかったようだ。
本家(じいさんの実家)に身を寄せ、3人の息子を一人で育てたばあさま哀
れ。
3人兄弟の長男だった父は空腹の余り本家の庭の柿を取って食い、20も年
長の本家の従兄にKOされたそうだ。
67 :
名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 12:42
親父は軍医で中国を転戦した。洛陽あたりにも行ったらしい。
まともに戦闘に会ったは1回ぐらいだったらしいが。
死ぬ前に軍医仲間の戦争手記を集めて自費出版した。
これからまじめに読んでおこう。
68 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 13:54
じいさんは広島の近くの港(名前忘却、漢字一文字)で働いてた。
ピカッ!と光が後ろからさした後に、爆音で窓ガラスが砕ける。
外を見ると広島の方に変な形の雲が。
最初は化学工場が爆発したんだと思ってたらしい。
後で広島に救助に向かった友達は放射能で亡くなったとか。
ばあさんは東京大空襲の次の日に自宅から仕事に向かったらしい。
山手線(だったかな?)は停まってたので線路沿いに歩いて行ったら、
線路の脇には死体が壁のように積み上げられてたとか。
69 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 14:34
>>68 うちのばあさんは東京大空襲の前日に一家で地方へ疎開してセーフ!
しかし駅で機銃掃射にあったことはあるそう。
ばあさんは背中におぶっていた母を下ろし、腹に抱きかかえて地に
伏せた。
幸い助かったが、隣で伏せていたお婆さんは直撃され死亡。
さらに凄かったのは、あれよあれよという間にお婆さんの背負って
いた荷物をはいで逃げた奴がいたという……。
やはり実体験は映画なんかとは重みが違う。
>>68どの
広島の近所で漢字一文字の港は、呉と思われ。
71 :
sage:2001/04/04(水) 15:37
そうそう、それです。<呉
読み方は「くれ」ですよね?
72 :
【^▽^】ジョーカー:2001/04/04(水) 15:51
うちのじいさんもシベリア抑留
シベリアでは仲間を売って祖国ソビエトに貢献して
とりたてられました。
帰って来た時は立派な共産主義者に成長していて、
周りの人に天皇を打倒して革命を成功させようと
説いてまわりました。
おかげで、今でも私の祖国はソビエト連邦共和国です。
73 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 16:05
僕がTVでプロレス観戦していると、
必ず祖父は「野蛮でウソ臭くていやだ」と言って怒った
理由は、足で頭を蹴ったら皮がめくれるはずだ、とのこと
自分が戦争中実際にやり、その感覚が忘れられず苦しいらしい
戦車部隊におり、中国の何処かにいったらしいが
中国の食べ物や風景の良い話しかしない
亡くなる前まで同期会に行っていたが、そこでしか吐けない
愚痴もあるだろう
74 :
【^▽^】ジョーカー :2001/04/04(水) 16:13
うちのじいさんも共産革命に目覚める前は
日帝の手先として中国人を斬りまくっていたらしい。
斬りまくって中国人の耳を切りとって瓶につめて
方面軍司令部に送っていたらしい。
共産主義に目覚めてからは日本人を斬っておけばよかった
と後悔してたらしい。
75 :
日本@名無史さん:2001/04/05(木) 23:49
>ジョーカーさん
話には聞いていたけど、本当にそういう人いたんだ。
家の親戚のジイさんも、同じくシベリアに行っていたが、
「表向き従っている振りした。心の中で舌出してた」
って笑っていたけどね。
76 :
日本@名無史さん:2001/04/06(金) 23:07
俺のじいさんの兄弟の中に、
「中国人のように卑怯な人間になるな」といっていた
人がいた。なんでも、あちらにいた時すぐ逃げるし、
約束破るしで、本人はひどく腹が立っていたらしい。
彼は当時兵隊でした。そういう奴には、気合いを入れてやった
と言ってたが、何をしたか、悪い方向に想像を働かせてしまう。。
もっとも、一部の人達の中では、それは是なのかもしれないが。
77 :
日本@名無史さん:2001/04/07(土) 00:25
うちのお祖父さんは、福岡の飛行部隊(たぶん特攻隊じゃないかな・・・)に徴兵されたけど、飛行機が足らなくて結局飛ばなかったそうな。
そのあと新聞にのるほど(いまだにその新聞保管されてる)成功して、会社起こしたらしい。
78 :
日本@名無史さん:2001/04/08(日) 01:10
日本@名無史さん
79 :
日本@名無史さん:
俺の爺さんは戦前バスの運転手だったので輜重兵として徴集され、南方で
物資輸送トラックの運転手をしてた。
ところが大腸カタルに罹って内地へ強制送還。で、その後、爺さんの所属
していた部隊は見事全滅。
爺さん一人50余年生きながらえて2年前に亡くなった。俺を生んでくれ
た恩人は大腸カタルということになるのかな(藁