1 :
非公開@個人情報保護のため:
源範頼の働きがなかったら、源氏は平家を倒せなかった。
義経の活躍も範頼のお膳立てがあったればこそである。
という様な話をたまに聞くんですが、実際のところはどうなんでしょう。
2 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:22
無能のあほ。
3 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:30
もーほー
4 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:33
蒲殿
5 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:35
義経よりは賢かった。兄の理想や恐ろしさを理解していた。
最後まで頼朝の政策を理解できなかった義経はタダのミリおた
6 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 01:41
ミリヲタと戦上手は違うでしょ。ミリヲタはあんなに有能じゃない。
義経が政治音痴なのは、その通りだけど。
7 :
横須賀:2001/02/27(火) 01:52
義経の子孫は(東北に残ってない限り)全滅でしょうけど、範頼の子孫は
鎌倉時代にも生き残っていたようです。姓はたしか「吉見」だったと思い
ましたが……。
範頼は死んだエピソードのほうが生きてたころより面白い人で、横浜市金
沢や横須賀市追浜周辺に、その最期に関する伝説がいっぱい残っています。
8 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 02:22
津和野城主の吉見は子孫らしいね
9 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 13:44
ミリヲタってなーに?
10 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 20:38
11 :
轢死の語りべ:2001/02/27(火) 20:43
三河守殿はかなり軽率な御仁でござった。
12 :
日本@名無史さん:2001/03/06(火) 20:51
>死んだエピソードのほうが生きてたころより面白い人
範頼公が聞いたら泣くでしょうな(笑)。
13 :
はちまんたろう:2001/03/07(水) 00:02
結局頼朝君にころされたかあいそおなひと
合掌
14 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 01:19
↑何で殺されたの?義経と違って頼朝には従順だったんでしょ?
15 :
前から殺したかったんじゃないの?:2001/03/08(木) 20:53
結局頼朝にとって、身内はすべて気を許せない存在だったんだろう。
自分の代わりになる人間として。
御輿にすぎない自分の意義・存在価値を、本当に自覚していたんだな。
16 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 22:02
>>6 いやいや、範頼だって御門葉ノ制を知らずに(本当は知ってるはずなのにうっかりと)堂々と「前三河守源朝臣」と書いちまうのは充分政治音痴だね。
17 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 22:23
御門葉ノ制ってなーに?
18 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 22:24
義経と同等くらいの活躍してんのに、
どーも影が薄いのはなんでだ?
19 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 22:58
>>17 特別待遇を受ける者のことだが、そのなかに「源」姓呼称が許されるというのがあった。
頼朝は朝廷が姓を与えるごとく、「所領を安堵=名字の名乗り」を考えており、
姓の呼称(とくに自分とおなじ「源」姓)の制限をしていた。当然義経も御門葉ノ制違反になった。
20 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 23:08
範頼の肖像画ってないの?
義経のはお世辞にも美男子とはいいがたいが、ひょっとして範頼の方がよほど男前だったりして。
21 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 00:23
頼朝の兄弟たちを見ていると、むしろ全成だけが異様に見えてくるな。
22 :
無知な市民:2001/03/09(金) 00:37
御家人>>>>一族
て考えだったんでしょうか頼朝は。
23 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 02:06
範頼はよくわからないけど、範頼軍はそうそうたるメンバーぞろいで
なんだかんだとよくやっていたような気がするのだが。
24 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 02:26
>>22 保元の乱の例を出すまでもなく、
源家も平家も藤原家や天皇家さえも
みな同族合い争っていましたからねぇ。
25 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 13:32
範頼生かしといても危険はなかったの?
26 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 23:38
頼朝と弟たちの関係は、争っていたと云えるのかな?
義経にも範頼にも、頼朝に取って代わろうなんて野心はなかったと思うが。
それでも、その存在が邪魔になったため、争いになる前に先手を打たれてしまった。
27 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 19:47
>19
>特別待遇を受ける者のことだが、そのなかに「源」姓呼称が許されるというのがあった。
>頼朝は朝廷が姓を与えるごとく、「所領を安堵=名字の名乗り」を考えており、
>姓の呼称(とくに自分とおなじ「源」姓)の制限をしていた。当然義経も御門葉ノ制違反になった。
これって誰の説? 「門葉」ってただ「一族」って意味だけじゃないの?
だって前三河守というだけで当時所領のない範頼が何の苗字を名乗れというわけ?
あの怒りって曽我事件余波での頼朝のヒステリーじゃないの?
28 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 20:11
なまじ無能だから、反頼朝勢力にかつがれかねない、というのもあったとか。
頼朝時代って、いうこときかない有力武士をひたすら粛正していたし、
統制には気を配っていたんじゃないかな。
29 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 22:29
>>27 >これって誰の説?
常識ですので、誰の説という言い方はされてません。
>だって前三河守というだけで当時所領のない範頼が何の苗字を名乗れというわけ?
???一応所領地の「蒲御厨(遠江)」より「蒲」を名字として、名乗っていましたよ。
件の事件は曾我事件の後書いた起請文に「前三河守源朝臣」と書いてしまった時のこと。
当然、頼朝は気付いて「『源』の字を戴す。もしくは御門葉たるの義を存ずるか。すこぶる過分なり。」
と咎めたのだが、使者が輪をかけてオバカで「義朝の息子で、頼朝の弟だから問題ない。」などのピント
外れの返答して万事休すとなりました。まあ、本読めば色々書いてあるので勉強して下さい。
30 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:15
>29
私も知らなかったーーー 門葉ノ制ってそういう意味なもんなの??
どの本を読めばいいのか教えてくださいませ。
31 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:32
義経の名字は何なの?
平家一門の結束具合に比べると頼朝の冷酷さは何だかなー
32 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:34
永井先生の本を読もう
33 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:38
「御門葉」=頼朝が親族と認めた源氏
34 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:39
36 :
世界@名無史さん:2001/03/11(日) 02:09
>>34 源の事じゃないよ
範頼の蒲みたいな名字のこと
それも知らなきゃ大バカですか?
37 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 02:16
いや、門葉、準門葉、家子の意味ぐらいは知っているけど、
それにともなう特権の意味を知らないのです。
姓がどーのこーのなんてあったけなーー?ってね。
で、義経、範頼たちは門葉にならないの?なぜ?
38 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 02:37
1193年8月 範頼失脚
1194年11月 足利義兼、御門葉に列せらる
義経、範頼の件があったからできたのが"御門葉"
39 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 02:40
>>31 >>36 >平家一門の結束具合に比べると頼朝の冷酷さは何だかなー
この発言が大バカってことでしょ?
40 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:24
>>39 平家は一族で栄耀栄華を楽しんだじゃないか?
大バカってどういう事?
バカでもいいけどマジレス希望
41 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:52
>38
どうもありがとうございまーす。
じゃあ、範頼と門葉ノ制については別に関係ないよねえ。
きちんと制度化してなかったんだし。それに姓の名乗りうんぬんは
頼朝のこじつけだと思うよ。正式な書類は普通、名字でなくて姓を書くのが
当たり前なんじゃないの??
42 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:54
あ、もう一つ質問してよいでしょうか。
あのう、全成は門葉にならないのでしょうか?
どーも彼って謎。義経より兄だし、頼朝挙兵のときには真っ先にかけつけてきたし、
悪禅師っていわれるぐらいだから武勇もあったと思うのだけど、
全然位置づけがわかんないのだ。
43 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 15:46
27っす。どなたか自分と同じ疑問を持つ方がいられるようで。
話があちこち進んでますね。
>常識ですので、誰の説という言い方はされてません。
常識というわりにはそんな「制度」に言及している書を見たことがないです。
>一応所領地の「蒲御厨(遠江)」より「蒲」を名字として、名乗っていましたよ。
範頼は三河守になるまで「蒲の冠者(蒲で育ったよー)」と名乗っていただけで
これは義朝の「上総の曹司」と同じようなもので、苗字ではないのではないでしょうか?
>当然、頼朝は気付いて「『源』の字を戴す。もしくは御門葉たるの義を存ずるか。すこぶる過分なり。」
>と咎めたのだが、使者が輪をかけてオバカで「義朝の息子で、頼朝の弟だから問題ない。」などのピント
>外れの返答して万事休すとなりました。まあ、本読めば色々書いてあるので勉強して下さい。
あのー、僭越ながら吾妻鏡は愛読書です。
吾妻のその一節は「使者がバカ」というよりも
使者の方が正論なので頼朝は黙るしかなかったという印象を受けますが。
頼朝は時々場当たりなことを言う人だから
いきなり「源姓」を咎められても、範頼側も目が点だったと思うのですが。
>42
全成は僧籍なので、一族という位置づけとはまた別なのでは。
44 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 19:23
>43
どうもありがとうございます。(42です)
全成についてはよく、僧なので、といわれるのですが、それだけではどーも説明できないよーな
感じもうけるので、気になるのです。
息子たちは、あとで将軍職を希望するぐらいだから、一族としての意識もあったし
周囲もそう見ていたと思うのだけれど、阿野氏?っていうのは、門葉にはいっているのですか?
足利が筆頭とかいわれると、舎弟一家はどーなっているのだ?と疑問になって。
それほど重んじられているようにも見えないので。
45 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 21:13
でもなぜ修善寺なんだろ? そんなに暗殺しやすい場所なのか?
46 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 21:48
>>43 >常識というわりにはそんな「制度」に言及している書を見たことがないです。
井沢元彦氏に賛同するわけではありませんが、「あまりにも常識だとそういうことは書かれない」という彼の主張は一理あると思います。
ただし、このことは姓氏関係の著作には結構出てきますよ。あなたが知らないだけでしょう。それをそう言われてもねえって思います。
奥富敬之氏や武光誠氏が一般人にも読みやすい著作を出しておられますので、一度読まれたら如何でしょうか。
「腰越状」に頼朝が怒った理由一つとして、御門葉でない義経が「源義経」と署名したのもまずかったと言われています。
>>44 >阿野氏?っていうのは、門葉にはいっているのですか?
はいっていません。
47 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 21:56
44>46
専門家の人でもいろいろ内部でおいおいという噂の高い人もいるし、
あんまりあてにできないホンも結構多いですよね。
ところで、どうもお答えありがとうございますが、なぜ阿野氏は入らないのですか?
どこに位置づけられているのでしょうか?
48 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 22:27
>>47 >なぜ阿野氏は入らないのですか?
元々は御門葉とは国司に推挙する家格ですから、9カ国すなわち9人の
「定員」があり、僧籍の人がその中に入りこむ余地はなかったのでしょう。
>あんまりあてにできないホンも結構多いですよね。
複数の著作で確認できますし、この件はよく聞きますのでまず大丈夫でしょう。
まあ読みもしないで、「見たことが無い」って言う人がいる世の中ですがね。
49 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 22:39
>48
どうもありがとうございます。でも謎。弟を迫害していたとしか思えない扱いですよね。
私が心配したのは、あげられたなかに、お○・・・・氏の名前もあったので、
結構ぶっとぶ記述を平気でする人だったので、心配だったのです。
でも、説明力としては不足している感があるので、読んでも納得できないかもしれませんけどね。
いろいろありがとうございました。
50 :
27:2001/03/11(日) 22:44
>奥富敬之氏や武光誠氏が一般人にも読みやすい著作を出しておられますので、
両方とも胡散臭いお名前ですねえ。武光氏の「名字と日本人」読みましたよ。
そういえばこの方、御門葉についてもその中で書いてましたね。
(言及した書を見たことがない、というのは記憶の彼方ということで、、、陳謝)
しかしまさに「おいおい」という感じで、噴飯ものでございました。
>正式な書類は普通、名字でなくて姓を書くのが当たり前なんじゃないの??
の41氏に同意。
だからこそ「御門葉だけに源姓が許された」「源姓を使用したから怒られた」
なんて武光氏の言には??なんですが。
義経が怒られたのは官職任官であって
範頼も怒りを買ったのは曽我にかつがれたからであって
源姓は関係ないと思うんですけど。
46氏はご自分の意見として、どう思われますか?
51 :
27:2001/03/11(日) 23:52
ところで、46氏は吾妻鏡を読まれ、、、てますよね??
52 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 22:13
御門葉ねえ。気になったので調べてみたのですが
日本史大辞典や日本史用語大辞典には特に「御門葉」の説明はなかったですよ。
わずかに国史大辞典に「門葉=血脈を一とする一族のこと」として
吾妻鏡の中の三浦氏のことが例で載ってました。
46が言うように「常識」だったら、説明が載っていてもいいんじゃないかな。
53 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 19:28
義経、本当は一の谷で平家をしとめる筈だったのに
でしゃばって水軍の到着前に攻めこんじまったため
取り逃がした・・・って本当ですか??
もしそうなら、義経はやっぱミリオタだなと思って。
>>53 福原攻め当時、まだ鎌倉軍は水軍を有していなかったと思うが。
義経はでしゃばったというより、むしろ遅刻だ。