継体天皇は

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1日本@名無史さん
やはり畿内にも一定の基盤を持つ有力傍系王族が
物部、大伴、蘇我氏などによって擁立された大王と
みても良いのかな?諸君。
2日本@名無史さん:2001/01/31(水) 11:40
オホド王は越の国からきたんじゃないの?
オホドという名前からは、製鉄で財力もってたという憶測は
できるが。。
3日本@名無史さん:2001/01/31(水) 12:33
母親はコシの國出身だけど父親は近江ですね
応神の子孫であるというのは知れ渡っていたはず
4日本@名無史さん:2001/01/31(水) 12:38
>応神の子孫であるというのは知れ渡っていたはず

応神天皇の血をひくというのは、
詐称の可能性高いのに、
知れ渡ってたの?
5日本@名無史さん:2001/01/31(水) 12:46
問題は継体が果たして本当に男系において前王統に連なる人物か
どうかだよね。武力による王位簒奪であれば単なる詐称の可能性が
高いのであろうが、畿内の有力豪族に大王に迎えられたのであれば
傍系王族の可能性が高い。無論、応神の5世孫かどうかは確認のしようがないが。
6倭彦王:2001/01/31(水) 12:53
オレってダメ人間?
7日本@名無史さん:2001/01/31(水) 12:55
連れ子 安閑、宣化は本当はどうなったの?
8日本@名無史さん:2001/01/31(水) 13:06
>>6
ダメじゃないよ。正常な神経だ。
そもそも雄略(=武烈)が皇位継承権のある近親者を片っ端から殺していったのが、
ガイキチのなせるわざ。
うっかり大王になっても、君みたいなおどおどした奴はすぐ廃されて殺されたかもな。
9日本@名無史さん:2001/01/31(水) 13:23
京都板にも継体天皇がでてくるよ。
http://kyoto1.virtualave.net/test/read.cgi?bbs=main&key=980136374

継体天皇って長岡京市や京田辺市に都を構えていたんだね。
10目のつけ所が名無しさん:2001/01/31(水) 13:57
で、その後福井の方の本拠地はどうしたんだろ。
維新後の薩摩長州のように出身者がむちゃくちゃハバが
効くようになった訳でも無いみたいだし?
何となくオオキミ家の東征と相似形・・
11日本@名無史さん:2001/01/31(水) 15:04
支配者が支配される側に同化されて出身地特有の「らしさ」を失ってしまう例って
外国の歴史ではいくらでもあるよね?
プトレマイオス朝なんて創始者はギリシャ人だけれど
子や孫の代ですでにすっかりエジプト人になりきっちゃってるでしょ。
コシの国からきた王なんてヤマトの元からの有力者からみたら
異民族が王になったようなもんか?
それでもエジプト人がプトレマイオス朝の王たちを同化するよりも
はるかに簡単で手間のかからない話だったんだろうな。
12日本@名無史さん:2001/01/31(水) 17:27
継体政権下でも物部大伴ニ大連姓氏族が大連として支え
畿内に基盤を持つ臣姓氏族の代表者が大臣として支える構造は変わらない。
近江、越前の近親氏族は八色の姓制定時には真人の姓を与えられたが
政治的にはほとんど権力をもっていなかった。
やはり、継体は前王統の近親者で度重なるの皇位継承争いの結果
直系の王族が絶えたため大王に迎えられたのだろう。
13日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:52
継体 没 531年、そこで、欽明 即位 とすると
継体の連れ子、安閑と宣化はほんとうに即位したのか
というのも疑問だ。やはり応神系の皇統を守るために抹殺?
14日本@名無史さん:2001/02/01(木) 04:44
今城塚古墳って天皇陵の指定を受けていないんだよね
15日本@名無史さん:2001/02/01(木) 08:16
>>13

2朝対立でいいのかな。
欽明の531年は堅そうだし。
安閑、宣化の即位を否定する理由もない。

16日本@名無史さん:2001/02/01(木) 10:09
応神5世孫が万が一嘘だとしても、
応神から女系でつながっているというのは正しいと考えてよいのですか?
17日本@名無史さん:2001/02/01(木) 11:30
>16

清寧〜武烈の実在性をどこまで認めるかにもよるけど
基本的には前王統の皇女と考えてもいいんじゃないかな。
安閑、宣化の后妃などとあわせてもそれらの皇女の
存在そのものは確実なわけだし。
18日本@名無史さん:2001/02/02(金) 17:47
日本書紀の記述はおおよそ正しいんだと思います。
跡継ぎの血が途絶えて、とにかく血縁が近しい人を
探しだし無理にでも王に擁立、就任させようとする
豪族達の焦り、保身のドラマは、今でも充分通用す
るというか、昨今の総理大臣就任劇を見るようでと
てもおかしいです。
王朝交代というような激しい戦争があったと想像す
るのも楽しいですが、おそらく当時は今よりオール
与党だったんでしょうから、そんな戦いを挑むほど
気合いの入った人はいなかったんじゃないかと思い
ます。そして当時のこの国もよほど荒れてたんでし
ょう、誰も表だって責任をとるのをいやがってたん
じゃないかという気がします。
今も昔も談合談合。
19日本@名無史さん:2001/02/02(金) 18:14
継体の前後で、前方後円墳体制も変わらず続いているし、
コップの中の嵐に過ぎなかったことは確実だし、
王朝の交代とか、ドラスティックなものでは無かっただろう。
20日本@名無史さん:2001/02/02(金) 18:18
たとえれば英王ジョージ1世みたいなもんかな?
継体以後は豪族たちのカイライの大王がずっと続くような気がする
21日本@名無史さん:2001/02/02(金) 18:54
2朝並立だったら、9年に及ぶ大争乱の痕跡みたいなもんが
史料に残っていてもよさそうですね。
争乱を暗示しているのは、継体死亡(531)時の
「日本の天皇、太子・皇子、ともに崩薨りましぬといへり」という百済本紀の記事だけ。
ということで、2朝並立はあまり有望な説とはいえないような気がします。

上宮法王帝説と書紀で食い違う部分は、やはり法王帝説のほうをとってみたい。
つまり、継体の死後すぐに欽明が即位したと考える。
では、「安閑天皇」や「宣化天皇」とは何者だったのかというと
生前に大王に即位したのではなく、死後に大王の称号を追諡された人物でしょう。
書紀は安閑・宣化が追諡された534年と536年をそれぞれ安閑天皇と宣化天皇の
即位した年としていますが、これは書紀の編者が即位と追諡を混同したためで
実際には安閑・宣化はその時点ではすでにこの世の人ではなかったのでしょう。
書紀の記事の錯誤は意図的なものではなく、正直なところ昔の記録なので
正確な把握ができなかったための錯誤でしょう。

531年の百済本紀の記事も上述の仮説に照らし合わせると、うまく理解できます。
継体・安閑・宣化の3人はほぼ同時に死んだのは、なんらかの政変があったのかと思われますが、これだけの材料じゃなんともいえませんね。
22日本@名無史さん:2001/02/02(金) 19:37
>>21
なるほど膝を打つところがありました。ありがとうございます。

不勉強ですが、
継体王朝というのはかつぎだされた代打みたいなもんだったん
でしょうか。
欽明が長男だというのはどうなんでしょう、一度即位を辞退す
るなど、一悶着あったみたいだし・
23日本@名無史さん:2001/02/02(金) 23:52
欽明を生んだ携帯のよめはんは武烈の姉さんだな。
24日本@名無史さん:2001/02/03(土) 00:06
継体天皇を別と見る類の書には、いずれも畿内をが卓越する前方後円墳体制の
連続性など、考古的な話については触れず、文献をこねくりまわすに終始して
いることが多い。砂上の楼閣なのを自覚しているからだろうけど。
25日本@名無史さん:2001/02/03(土) 00:09
補足すると、古墳時代後期の初頭(6世紀初め頃)に、それまで目立った前方後円墳が
見られなかった尾張に、断夫山古墳と言うかなり大きな古墳が見られ、
継体天皇の最初の妻である尾張の豪族と関連づける説がしばしば見られる。
26日本@名無史さん:2001/02/03(土) 07:03
素朴な疑問だが、武烈に子がいなかったのなら
なぜ武烈の在位中に次期大王の選定をしなかったのかな?
27日本@名無史さん:2001/02/03(土) 07:22
継体天皇はどうして京都の二カ所を首都にしていたのか?
http://kyoto1.virtualave.net/test/read.cgi?bbs=main&key=980136374

当時の状況で京都という選択は初めて?するとなぜ?
28日本@名無史さん:2001/02/03(土) 07:41
古事記の記述ははなぜ仁賢以降そっけなくなるのか?
このあたりからも考えてみるか。
29日本@名無史さん:2001/02/03(土) 10:09
奥さんが尾張なのにどうして京都で都を構えたの?
30日本@名無史さん:2001/02/03(土) 11:16
清寧〜武烈の実在性はどう評価するのかな?
俺は基本的には実在していたと考えるが。
理由としては
応神〜雄略、継体以降の諸大王の実在性がある程度認められる以上
否定する根拠がない。
また、各天皇に呼応する名代があること。
いみな、称号に後世性がないこと。
である。ただ、武烈は怪しいね。
こいつのいみな(称号?)は仁徳、雄略の模倣だから。
31日本@名無史さん:2001/02/03(土) 11:20
22
>継体・安閑・宣化の3人はほぼ同時に死んだのは、
>なんらかの政変があったのかと思われますが、

欽明が生まれて成人した以上、
本来の大王家の血統を守るには、
この3人はもう邪魔な存在でしないのだから、
抹殺されたというのが、一番しっくりくる、
32日本@名無史さん:2001/02/03(土) 11:22
>31
かもね。
でも、継体は殺せないでしょ。
継体の死後、クーデターが起こって安閑、宣化が排除されたと見るべきか。
でも安閑、宣化の子孫っているんだよね。
33日本@名無史さん:2001/02/03(土) 11:36
>でも安閑、宣化の子孫っているんだよね。

子や孫がいたから、却って警戒されたんでしょ。
たしか安閑・宣化って没年が70歳ぐらいじゃなかったかな。
おそらくすでに成人した子や孫がいたでしょう。
彼らに子がいないんだったら、若い欽明としては
老人が死ぬのを待てばいいんだし。
34日本@名無史さん:2001/02/03(土) 11:52
>33
いやでも、安閑・宣化が殺されたんだったら
一族皆殺しになりそうなものだけどね。
35日本@名無史さん:2001/02/03(土) 11:54
ついでに欽明の皇后は宣化皇女石姫
36日本@名無史さん:2001/02/03(土) 12:04
崇峻天皇と同じで、没年70歳も追贈のような気がする。
37日本@名無史さん:2001/02/03(土) 12:49
そういえば古事記では継体は528年に死んだはず。
ということは欽明即位を531年とするとその間に安閑・宣化が
在位したのかも。
38天皇の実在性:2001/02/03(土) 13:02
むしろ、天皇の非実在性を証明しなければならない。
名前が後世風だからというのは、非実在性の証明にならない。
なぜなら、子孫が先祖の名前にあやかって名前を名乗るのは
普通のことであるから。
39日本@名無史さん:2001/02/04(日) 01:32
武烈・継体・安閑・宣化は見方を変えれば
大伴金村(おおとものかなむら)時代と言えるんじゃないですかね。
内政、外交、戦争、ばしばし天皇に指示を出してる。
というか武烈を廃して大伴が実権を握った、そして継体というカイライを
作ったのか?


40日本@名無史さん:2001/02/04(日) 07:21
しかし、楠葉を含めてほとんど京都府内に都を構えたのはなぜか?
大伴の勢力圏って違ったよね?
4139:2001/02/04(日) 19:21
>>40
すいません、大伴の勢力圏ってどこでしたか?
久米?和歌山・・

確かに大伴が強大で成立した王ならさっさと入ってきてもよかったですよね。
他豪族の反対があったのだと言うと矛盾しちゃうし・・うむむ

42日本@名無史さん:2001/02/10(土) 20:05
そのときに物部はどういう立場をとっていたのでしょう
43名無しさん:2001/02/12(月) 02:23
物部は同じ連姓の大伴に擁立された王を認めると、大伴に「大連」を取られるし、
かといって。「臣」の蘇我に組するわけにもいかぬし。。。
と悩んでいたのではないでしょうかね。

本題に戻りやすが、私自身は継体は応神は男系でなくて、
女系で天皇家との繋がりがあったのではと思っとりやす。

余談ですが、応神もかなりあやしい天皇ですよね。。。
44日本@名無史さん:2001/02/12(月) 21:39
>>43
うひゃー、やはり応神もあやしいですかね?
こうなると欽明あたりまでいかないと存在証明はだめですかね?
45日本@名無史さん:2001/02/12(月) 21:43
応神は仁徳とまぎらわしんですよね。いろんな意味で。
46日本@名無史さん:2001/02/12(月) 22:04
やっぱり応神の5世孫の系統は正しいと思う。
ただ、皇族(皇位継承者)ではなくなっていたとは思うね。
王家の血をひく地方豪族だったと見るべきでしょう。
何のつながりも無いところから王家に迎えるのは不自然。
47日本@名無史さん:2001/02/14(水) 01:57
当時他には皇孫はいなかったのでしょうか?
48名無しさん:2001/02/14(水) 03:54
>>11
本題からそれるけど、プトレマイオス朝の王はエジプト人になりきっていても、エジプト人に同化はしていないな。
最後の王・クレオパトラ(7世)だって血筋的には100%ギリシア人だよ。
49名無しさん:2001/02/14(水) 04:06
継体天皇が応神天皇の5世孫であることを疑う人の中には、応神天皇から継体天皇にいたる系図が日本書紀に一切書いていないということをその理由に挙げる人がいます。
しかし、応神天皇から継体天皇にいたる系図は周知の通り上宮聖徳法王帝説などには書かれています。
それなのに、これらを完全に無視し、逆に欽明天皇即位531年説のような部分だけ上宮聖徳法王帝説を引用するのは都合がよすぎるのではないでしょうか?
5043:2001/02/14(水) 20:47
日本書紀の記述を全部鵜呑みにすることはないと思いますが、
継体が応神五世の孫、というのは、皇位についた継体が正当であるということを
印象つけるためにつけた記述ではないかと、私は思うわけです。
ただ、天皇家と全く関わりの無い人物ではないとも思うのですね。
天皇家の血を引いてなくても、天皇になれるのであれば、
もっと時代が下がりますが、蘇我馬子あたりが天皇になっていそうじゃないですか。
51日本@名無史さん:2001/02/15(木) 22:08
とすると、古代においても、血のつながりは重視されていたということなのね?
52日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:13
つーか、蘇我氏が権力を壟断しているあたりの皇統譜をみると
皇位の継承の規則なんて、全く崩壊してるじゃないですか。

事実上出鱈目といっていいんじゃないですか?
53日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:48
>>51
魏志倭人伝に、卑弥呼が亡くなった後に乱が起こったけど、
宗女の台与を擁立して収まったとあるように、
古墳時代当初から、血筋が重要だったことが窺えます。
54日本@名無史さん:2001/02/16(金) 00:45
台代はトヨスキイリヒメでしょうか
55日本@名無史さん:2001/02/16(金) 01:27
血筋というのは女系の血筋ということではないでしょうか。
皇位の継承の仕方を見ると女系は正当なつながりを保っていたのではないかと
思うのです。
男系の血筋はそれほど大きな問題ではなかったんではないでしょうか。
56日本@名無史さん:2001/02/16(金) 01:32
>>55
そうそうそこなんですよね、
どうも日本の古代って、女性の血筋優先というか、それが
通ってればOKだったみたいな気がするんです。
史実じゃないとしても神武はコトシロノヌシ、出雲系の女を
嫁はんにすることで大和に落ち着いてるし。
57名無しさん:2001/02/16(金) 01:53
>>54
箸墓古墳の主を卑弥呼とすれば、
卑弥呼→ヤマトトトヒモモソヒメ
台与→トヨスキイリヒメ
となるのが妥当でしょう。
58日本@名無史さん:2001/02/17(土) 02:11
>>55-56
もしよろしければ、
議論深めるために、具体的な系統図をだしていただけませんかー?
59日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:48
>>55-56
印象論を垂れ流すな、ばか者。
60日本@名無史さん:2001/02/18(日) 00:10
>>59

確かに女系うんぬんは印象論的すぎる。
倭の五王、稲荷山古墳鉄剣銘文などを見ても当時すでに男系の系譜観念が
女系よりもはるかに重視されていたことは確実。
よって継体は男系においても5世紀の王統に連なる人物と見るのが妥当。
応神の5世孫かどうかは別にして。
6155:2001/02/18(日) 02:25
こういうのはどうかな?
女系が重視されていたという証拠にはならんが・・
http://www.tk.airnet.ne.jp/ponta/roots/database/k/kasugawani1.htm

深 目 ━┳ 日 爪 ━┳ 田 作 ━━ 磐 辺 ━━ 船 守 ━┓
     ┃      ┗ 糠君媛(仁賢天皇妃)         ┃
     ┣ 童女君(雄略天皇妃)                ┃
     ┗ 河 内 ━┳ 美奈古 ━━ 栗[久米臣祖]     ┃
            ┗ 夷 媛(継体天皇妃)         ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┗ 磐万侶 ━━ 稚 子 ━━ 弓 束[和珥部臣祖]
62日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:44
男系の血のつながりはあったんじゃないか?
やはり天皇は傀儡に近い、と考えるのが妥当…?
63日本@名無史さん:2001/02/19(月) 00:47
>>62

「傀儡」という言葉が適切かどうかはわからないが
擁立された天皇と見るべきかもね。
6455:2001/02/19(月) 03:05
http://www.34ch.net/kikyoya/tenno.txt
かなり汚いけどこんなんでどうですか?
65日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:08
>>1
蘇我はまだそんなに権力はなかったと思う。
大伴・物部・巨勢だろうな。
66日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:19
蘇我氏の専横は大伴、物部が失脚してからだ。
継体天皇が擁立された時、蘇我はまだ葛城氏の利権を引き継いで間もなく
そんなたいした発言力はないだろう。
67日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:25
それにほんとに「豪族に擁立」されたのかどうか…
例の鏡の銘文が継体天皇をさすという通説(?)をとれば
武烈天皇在世中にすでに畿内(オシサカ宮)にいて「大王」と呼ばれていたわけで
武烈天皇崩御後の後継者として初めから目されていた可能性もないではない、
その場合、倭彦王はたんなるアテ馬か?
68日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:26
>>55
ありがとう
69日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:36
男系なんだっつの。困った連中ダナ
70日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:59
男系だと思います。
他の男系でのライバルには誰がいるでしょうか。
71日本@名無史さん:2001/02/20(火) 03:23
>他の男系でのライバルには誰がいるでしょうか。

いません。

倭彦王は有資格者の中での年長者に対する儀礼的な処置にすぎまい。
武烈の死は突発的な事態だったので
宮廷内の女性皇族の意向もあったろうが
早い段階から継体天皇は内定していただろう
72名無しさん:2001/02/20(火) 21:00
>69・70・71
お言葉を返すようですが、私は男系ではつながってないと思う。
私見ですが、武烈の存在はなかったと思ってます。
よって、早い段階から継体が内定されていることはないでしょう。
早くから内定されていたとしたら、なぜ継体は20年も大和に入れなかったんですか?

73日本@名無史さん:2001/02/20(火) 22:49
>>72

畿内豪族の一部に反対論があったから。
74日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:48
>>72
武烈の存在はなかったというのには同意。
だが男系だろう…。
7571:2001/02/21(水) 02:23
男系、女系(または系譜がつながってない説)の話と
武烈天皇の実在云々の話と
継体大和入りの話は、
それぞれ長いんでごっちゃに進行しても…
76名無しさん:2001/02/21(水) 02:51
俺は男系でつながっていたと思うね。
だって、応神天皇って10人も男の子供をつくってるじゃん。
その男系の子孫はたくさんいたんじゃない?
77日本@名無史さん:2001/02/21(水) 05:39
それに「継体は20年も大和に入れなかった」というのは
日本書紀だけみてるとそうなるけど
隅田八幡神社鏡の銘文の「男弟王」(字については異説あるが)を
継体にあてる説は、たしか最近では有力になってきてんじゃないの、
そうしたら503年には畿内にいたことになる。
78日本@名無史さん:2001/02/21(水) 07:36
記紀の継体擁立劇は多少の誇張が入っているのだろう。
実際は畿内にも基盤を持ち早くから有力な王位継承者の一人と
目されていたのであろう。継体家は大王本宗家の分家。
79日本@名無史さん:2001/02/21(水) 07:43
武烈の実在性には疑問が残る。
しかし、手白香皇女や他の妹が実在し仁賢の実在も
ほぼ確実であるから、あえて武烈の実在性を否定する理由はない。
ただし、暴君説は仁徳の系統の最期の大王なので後から付加されたのであろう。
また、和風諡号は仁徳と雄略の諡号をつなぎ合わせて作ったものだろう。
つまり、暴君武烈は脚色によるものだが、仁徳系最期の王は実在した。
80日本@名無史さん:2001/02/21(水) 15:30
武烈は
仁徳系の嫡流(長男の長男の…)であり
かつ雄略の血をひく唯一の男子だった。
もし実在したならば伝承されている和風諡号を疑う理由はない。
81日本@名無史さん:2001/02/22(木) 01:03
実際の言動がどうであったかはともかく、
武烈の実在性に異論を唱える説ってあるのですか??
82名無しさん:2001/02/22(木) 01:22
学説はよく知らんが、小説なら
黒岩重吾作「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」に
それらしき説が載ってた。
83日本@名無史さん:2001/02/22(木) 01:48
>武烈の実在性に異論を唱える説ってあるのですか??

あることはあるけど学界で有力な方なのかどうかは知らない。
たいした根拠があるとも思えないが…
84日本@名無史さん:2001/02/22(木) 02:05
水野祐なんかもそうでしょ。
85日本@名無史さん:2001/02/22(木) 02:52
黒岩重吾ねー
邪馬台国九州説のおじさん。安本美典のおともだちなんだよな。
安本美典は全天皇実在説だから武烈も認めるんだけど。
86日本@名無史さん:2001/02/22(木) 02:52
米大使、離任を延期=実習船沈没事故で陛下におわび(時事通信)

 米国のフォーリー駐日大使は21日、3月中の離任を前に天皇、皇后両陛下と会見し、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」と米原子力潜水艦「グリーンビル」の衝突事故に関し「大統領と国民すべてを代表して心からおわびの言葉を申し上げます」と謝罪した。同大使はこの席で、当初3月1日に予定されていた帰国を、大統領の命令で延期したことを明らかにした。
 天皇陛下は「まだ9人の行方不明者があることを深く案じています」とした上で、「米国が捜索と(事故原因の)解明に力を尽くしていることは多としておりますが、事故の全容が正しく解明され、行方不明者の家族をはじめ関係者の心が安らぐことを願っています」と述べた。

[時事通信社 2001年 2月21日 00:47 ]
http://news.yahoo.co.jp/headlines/jij/010221/dom/17414501_jijdomx571.html


87日本@名無史さん:2001/02/22(木) 02:56
天皇陛下の大御心に感動。
88日本@名無史さん:2001/02/22(木) 03:03
支持率80%の天皇(制)
支持率5%の森(内閣)
89日本@名無史さん:2001/02/22(木) 21:46
武烈と継体は、逢ったことがあるでしょうか?
90日本@名無史さん:2001/02/22(木) 21:49
>>89

実は手白香皇后=武烈
91日本@名無史さん:2001/02/22(木) 21:59
>90
ワラタ
92日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:24
武烈と継体は、やっちゃったんでしょうか??
93日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:45
○○が××を一方的にやっちゃったんじゃなくて?
94名無しさん@ご利用は計画的に:2001/02/23(金) 17:28
継体がネコ
95日本@名無史さん:2001/02/24(土) 04:23
もし、継体が既に有力者として存在していたならば、
武烈と継体は、逢ったことがあるかもしれないです。
96日本@名無史さん:2001/02/24(土) 07:18
タチとネコ、じゃなくてセメとウケだろ。
97日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:01
武烈は継体に倒された可能性はあるかな?
98日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:07
押し倒されたの?
99日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:12
う〜む、
美少年と老翁のカップリングだから…
ショタもフケ専もヤオイも、三方みんな満足。
100日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:15
ホモ岡エロ前守忠相べー。
101日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:17
>>100
ウマイ!
藁タ。
102日本@名無史さん:2001/02/26(月) 02:01
男系、女系の話だけど、
相続争いがあったとき、女系ならなんとなくみんな矛をおさめて
しぶしぶ納得・・とりあえず暫定でいきましょか、ということは
あり得たと思います。卑弥呼の時みたいに。
103日本@名無史さん:2001/02/26(月) 02:03
武烈天皇と継体はあったことがないと思います。
継体はおそらく中央には出てきてなかったのでしょう

そのため武烈天皇による虐殺に巻き込まれずにすんだのではないでしょうか。
104日本@名無史さん:2001/02/26(月) 02:08
>>102,>>103
印象論を垂れ流すなっつーの。
これまでの議論の積み重ねがパーじゃねえか。
これだからネットはやなんだよ。

------------------<終了>---------------------

この後のログは電波とトンデモのみです。
105日本@名無史さん:2001/02/26(月) 20:06
>>104 議論の邪魔しないでくれ

ってことで仕切り直し
首都移転を各方面から(ex.地勢学的など)見直してみよう

507〜511 樟葉宮
511〜518 筒城宮
518〜526 弟国宮
526〜531 磐余玉穂宮
106日本@名無史さん:2001/02/27(火) 03:19
>>105
樟葉宮と弟国宮はじつはかなり近い。
というよりも桂川/宇治川/木津川をはさんで向かい側。
ここは京都府からの桂川と、滋賀県(琵琶湖)からの宇治川と、
三重・奈良県からの木津川という関西の三川が合流して淀川となる地。

http://www.mapion.co.jp/cgi/m?no=3091617500188000032
この地図で左上が弟国宮、左中が天王山、左下が樟葉宮。
それぞれには長岡天神と岩清水八幡宮という後に要地となる。

図にあるように、ここには京阪間のすべての交通網が集中する。
道路としては、名神高速道路、国道171(西国街道)、国道1、第二京阪。
鉄道としては、東海道新幹線、東海道本線、阪急京都線、京阪本線。

ここで重要なのは、継体天皇が最初に都を構えた樟葉宮は、大阪側(河内)で、
そのあとで構えた弟国宮は、京都側(山城)であること。
つまり、大和へ近づくという目標に対しては、後退しているのである。
107日本@名無史さん:2001/02/27(火) 07:32
>507〜511 樟葉宮
>511〜518 筒城宮
>518〜526 弟国宮
>526〜531 磐余玉穂宮

その編年じたいかなり疑問。
それと隅田八幡神社鏡銘文についてのあなたの見解は?

108日本@名無史さん:2001/02/27(火) 20:31
編年はしらんけどさー、都を移したのは事実じゃないの?
それぞれのところに地名とか伝承が残っているわけだし。

そうすると、どうしてそれらへ都を構えたのか、
どうして移動していったのか、ってことが焦点じゃないの?
109日本@名無史さん:2001/02/28(水) 13:49
>>107
癸未八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遺開中費穢人今州利二人等取白上同二百旱作庫此鏡

癸未が、383年か443年か503年なのかがわからない。
意柴沙加宮のオシサカが忍坂で允恭皇后とすると443年か?

男弟王を継体天皇をする説もあるがその場合503年?そうするとどういう意味になる?
110日本@名無史さん:2001/02/28(水) 14:48
もともと越前・近江方面に本拠地のある継体天皇が
そっち方面と交通の便のいいところに都をおくのは
別におかしなことじゃないだろう。
大和の外だっていってもすぐそこ目と鼻の先だよ。
歴代天皇が宮都をかえてるんだから
継体天皇のそれだけが問題視されるいわれ無し。

>男弟王を継体天皇をする説もあるがその場合503年?そうするとどういう意味になる?

継体天皇は503年の段階ですでに大和入りしていたってことになる。
111世界@名無史さん:2001/02/28(水) 14:51
男弟王を男大迹(継体)天皇、斯麻を墓誌が発見された百済の斯麻(武寧)王
(462-523、在位501-)とする見方もあります。
日本書紀によると、両親が日本の人質となっていた時に、九州の離島で生まれたことに因んで、
斯麻(しま)王と名付けられたとしています。
王冠には、糸魚川特産のヒスイ勾玉が沢山付けられ、木棺は日本特産のコウヤマキ製であるなど、
文献・考古資料共に、日本との密接な関係を示しています。
112日本@名無史さん:2001/02/28(水) 15:06
>111

トンデモ。
根拠ゼロ。
113日本@名無史さん:2001/02/28(水) 15:24
112はトンデモの意味も知らぬ電波鮮人。
111の発言は「斯麻を墓誌が発見された百済の斯麻(武寧)王
(462-523、在位501-)とする」というところ以外は妥当であり
とんでもなところはない。
それなのに百済王が天皇のために鏡を作らせたってのがよほど気に食わないらしい。
114日本@名無史さん:2001/02/28(水) 15:28
よくわからんが、
継体天皇が百済王ってこと?
そんな話聞いたこと無いぞ。
115世界@名無史さん:2001/02/28(水) 15:58
>>114
おいおい、読解力がなさ過ぎるぞ。
ヤマトの属国である百済の斯麻王が、ヤマトの男弟王(継体天皇)のために作ったと
銘文を解釈するものだ。
116日本@名無史さん:2001/02/28(水) 17:58
>>114
あんたはネットで論争に加わる前に勉強しなさいって。
117日本@名無史さん:2001/02/28(水) 23:14
>>105-108
樟葉宮は淀川系(桂川・宇治川・木津川)より大和側で、
弟国宮は反対側だよな。当時、あれを渡るのは大変で防衛ラインだったはず。
118日本@名無史さん:2001/02/28(水) 23:33
隅田八幡宮鏡銘文の癸未は503年とする説が有力。
「直」の姓の成立を443年まで遡らせるのはいささか問題。
斯麻は武寧王の実名の可能性が高い。
同時代の百済王であり、日本の人質となっていた武寧王が
渡来人を通じて鏡を贈ったものか。
119114:2001/02/28(水) 23:44
>>115>>116

スマソ。
おっしゃるように勉強します。
120日本@名無史さん:2001/03/01(木) 07:36
>>117
当時はさらにその領域に巨大な巨椋池があったので
いまよりももっと地形的に両者は離れていると思う
121日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:46
>>118
503年には小泊瀬稚鷦鷯尊がまだ生きていたはずだが‥
それに意柴沙加宮をどうとらえる?
122日本@名無史さん:2001/03/02(金) 07:31
武烈朝において、すでに継体は大和に居住し、
武烈を補佐する廷臣のひとりだったと解釈する他ない。

日本書紀は王朝交代めかして書こうとした潤色。
123日本@名無史さん:2001/03/02(金) 22:59
>>122
さすがにそれは、理由も正当性もないでしょう。503年はあり得ない。

>>109
443年だと思う。
124日本@名無史さん:2001/03/02(金) 23:26
503年が学界の有力説だときいているが具体的根拠はなんだろう?
それと443年説の人にも具体的根拠はききたい。

ついでに鏡それ自体から年代は決められるのかなという素人からの疑問にも答えてくだせえ。
125日本@名無史さん:2001/03/04(日) 01:25
>>120
そうすると、当時の豪族の勢力圏として、そのあたりに境界があったとして、
継体天皇がその影響下で右往左往して都を!?
126日本@名無史さん:2001/03/06(火) 05:58
7う
127日本@名無史さん:2001/03/06(火) 07:46
>>126
「7う」ってなに?
128日本@名無史さん:2001/03/08(木) 21:22
503年説は、一部の記紀否定派の脱線だと思うがな。
129124:2001/03/09(金) 03:38
>>128
その見解は興味深いね。詳しく展開してみてください。
124でいったとおり、各説の具体的な話もきいてみたいし。
130といっても:2001/03/09(金) 10:39
携帯駆使してるとこは、現代社会に通じるね
当時からi-modeかな?
131日本@名無史さん:2001/03/10(土) 05:05
継体天皇は男系でも女系でもつながっていた。終わり。
132日本@名無史さん:2001/03/13(火) 05:24
支えていたうちの有力豪族のうちの一つが蘇我氏だったという説は、
どういうあたりを根拠にしているのですか。
133日本@名無史さん:2001/03/13(火) 06:27
蘇我氏が台頭するのって,欽明朝ぐらいからだと
オレは思ってたんだけれど…どうなの?
134日本@名無史さん:2001/03/14(水) 12:07
欽明のパパが継体じゃないの?
135日本@名無史さん:2001/03/15(木) 18:54
継体の息子のうち、前妻の二人は天皇になったけど殺されたわけだよね。
というか、むしろ、対立したまま二重王朝になっていたともとれるわけで。
136日本@名無史さん:2001/03/15(木) 19:38
継体は仁賢の娘(武烈の姉)である手白髪命を皇后にしている。
これで世継ぎを儲けようとしたわけで、
めでたく欽明(皇室の祖)が生まれたから良かったものの、
世継ぎに恵まれなかった場合もあり得たから、
継体の2人の息子、安閑と宣化も
仁賢の娘(武烈の姉)を皇后にしていた。
安閑の皇后、春日山田郎女(仁賢の娘で武烈の姉)は
子供に恵まれなかったが、
宣化の皇后、橘之中比売命は恵波王(多治比真人氏の祖)
を生んでいる。
もしも継体と手白髪命との間に世継ぎ(欽明)が
生まれなかったなら、この恵波王が天皇になったはずである。
安閑、宣化と欽明はかなり年齢がはなれていたと見られるから
安閑、宣化の即位は、欽明が成長するまでの暫定的なものとするのが妥当である。
137日本@名無史さん:2001/03/17(土) 19:25
>>136
なるほど、継体も安閑も宣化も、仁賢の娘を皇后にしてたんですね。

仁賢や武烈の系統と、もしも血がつながっていなかったとしても、
次の世代からは女系で確実につながるようにそこまで頑張っているというのは、
当時の血筋の理念というか、周囲の豪族も含めて共通した考えだったのでしょうか。
138日本@名無史さん:2001/03/18(日) 05:55
恵波王(上殖葉皇子)を橘之中比売命(橘仲皇女)が生んだというのは日本書紀の説。
古事記では橘之中比売命の生んだ男子は倉之若江王だがこれは日本書紀では女性になっている。
結局、欽明天皇が生まれたからどうでもいいわけなんだが。
139日本@名無史さん:2001/03/18(日) 09:13
継体には欽明を除いて7人も男子がいる。
その中で母親別にみていった場合、安閑、宣化は他の5人に対して特に格上にはみえない。
これはつまり、継体の皇后となった手白髪命を除くと、
仁賢の娘で武烈の姉であるところの女性は春日山田郎女と橘之中比売命の2人しかいないので、
7人の皇子のうち、この2人姉妹のハートを射止めた2人(安閑と宣化)が
別格に昇格できたということだろう。
こうしてみると継体、安閑、宣化の3代は本人たちより
皇后の方が発言力なり権力を握っていた可能性もある。
140日本@名無史さん:2001/03/20(火) 06:49
こうしてみると、事実上、その間の期間は女系であった感じですね。
141136,138,139:2001/03/20(火) 12:02
皇位継承法が確立していなかった時代は、いつの世でも後宮の女性(皇后、皇太后など)
の発言力が皇位継承に物を言ったと思われる。そういう意味では女性に権力があったとはいえるが
男系が軽視されたわけではないので「事実上、その間の期間は女系であった」というのは語弊がある。
女系でつながることは、女系でつながってないより格上で有利ではあろうが
応神〜継体間の男系がつながっていることが前提であって、男系の中での競合の際にはじめて女系が問題になる。
(男系でつながってなくて女系だけでつながってても皇位継承上は無意味)
142日本@名無史さん:2001/03/23(金) 13:48
サリカ法のような概念は当時なかったの?
143日本@名無史さん:2001/03/24(土) 11:04
サリカ法ってなに? 王位継承のルールみたいなものか?
6世紀あたりまで、それが確立してないからモメゴトが多かった感じだよなあ。
144サリカ法:2001/03/26(月) 13:43
サリカ法を持ち出さなくなったときのフランスの状況

1回目の王位継承の揉め事(不義事件がからむ)
   フィリップ4世→ルイ10世→???

 ┌―フィリップ4世――┬―ルイ10世――――┬―ファナ2世(ナバラ女王)
 |          |          |
 |          |          └―ジャン1世(夭折)
 |          ├―フィリップ5世
 |          |
 |          ├―シャルル4世
 |          |
 |          └―イザベル
 |             ‖
 |             ‖―――――――――エドワード3世
 |             ‖        (イングランド国王)
 |            エドワード2世
 |           (イングランド国王)
 |
 └―シャルル―――――――フィリップ6世――――ヴァロア王家へ
  (ヴァロア伯)

2回目の王位継承の揉め事(イギリスがからむ)
   ルイ10世→フィリップ5世→シャルル4世→???
145日本@名無史さん:2001/03/27(火) 19:40
説明を途中でやめないでくれい。
サリカ法、知っている方説明宜しく。
146日本@名無史さん:2001/03/27(火) 20:42
ヨーロッパ王家の多くで「女性の王位継承権を禁じた法律」として有名なサリカ法は、
元々は紀元5世紀のフランク王国時代に溯る非常に古い法典です。フランクの部族の
一つであるサリ族が定めたことから「サリの法(ラテン語で Lex Salica)」と呼ばれ、
この中に土地の相続問題について「女性の相続を認めない」とする条文があった
のですが、シャルルマーニュ時代までは続いていたこの法典も、後にはすっかり
忘れ去られてしまいました。

ところが、このすっかり埃にまみれて塵と化す寸前だった法典が、突如再び引っ張り
出されることになります。当時のフランス王家であったカペー家は、
始祖ユーグ・カペー以来初めて、直系男性の継承者を全く欠くという危機に直面
していたのでした。この時が上記のような家系図の状況です。
147日本@名無史さん:2001/03/27(火) 23:21
そもそも事の起こりは、国王フィリップ4世の3人の息子たちの妃による
不倫騒動で、長男ルイの妃マルグリット、次男フィリップの妃ジャンヌ、
三男シャルルの妃ブランシュ(ジャンヌの妹)が揃って家臣と不義密通したらしい。
この一大スキャンダルで、裁判の結果マルグリットとブランシュの二人が
有罪となって投獄・離婚され、マルグリットは後に夫の命で殺されたと模様。
ちなみに、フィリップの妃ジャンヌだけは潔白とされ、名誉を回復。
ルイとシャルルはその後新たな妃を迎え、事件はひとまず一段落したが、
事はこれだけでは終わらなかった。
148日本@名無史さん:2001/03/30(金) 22:29
その後、フィリップ4世の死去で長男ルイがルイ10世として王位を継ぎますが、
彼は男子のないまま死去し、死後二人目の王妃が産んだ息子(ジャン1世)も
すぐに亡くなって、直系の人物は幼い王女ジャンヌしかいませんでした。

それまで女性の王位継承という問題が生じたことのなかったフランスでは
これは一大事で、しかもジャンヌの母は先述のマルグリットであったため、
ルイ10世の次弟フィリップが「ジャンヌは兄の子供でない可能性がある」との
疑惑を指摘し、結局は彼がフィリップ5世として王位を継ぐことになります。

しかしこれはあまりにも外聞の悪い話で、何とかジャンヌの継承権を合法的に
否定する手段はないものかと討議の結果、引っ張り出されてきたのが
「女性の相続権を禁じた」かのサリカ法だったわけです。

元々は土地の相続について定めたものですが、これを拡大解釈して王位継承問題も
これに添うものとしたわけで、以後フランスでは女性の王位継承権は認められない
ことが定まってしまったのでした。(ただしこの時点では「女系=女性の子孫」に
関してはまだ問題にはなっていませんでした)
149日本@名無史さん:2001/04/02(月) 11:10
というわけで、これによりフィリップ5世は自身の王位継承の大義名分を
立てることができたのですが、しかし歴史の皮肉な巡り合わせと言うべきか、
フィリップ5世自身もまた男子に恵まれず、更に後を継いだ末弟シャルル4世も
同様で、結局フィリップ4世の子孫は息子たちの代で男系の後継者を
全く欠く事態となってしまいます。

この時男系の血縁者で最も近かったのがフィリップ4世の弟の息子である
ヴァロア伯フィリップで、彼がフィリップ6世として即位、
ここからヴァロア王家が始まりました。>>144参照

ところが、ここでイングランド国王エドワード3世がこれに異議を唱えました。
彼の母親はフィリップ4世の王女イザベルであったため、フィリップ6世よりも
自身の方がカペー家の直系に近いと主張、ここで「国王の女子は女王にはなれないが、
その子供に王位継承権は認められるか」が問題となります。

つまり、遠い男系男子と、近い女系男子のどちらに王位継承権があるかの
争いです。(オリジナルのサリカ法によって少なくとも女子は否定されている。)
150日本@名無史さん:2001/04/02(月) 12:02
なるほどね。
男系男子は当たり前だからさておくとして、
日本の場合は、推古天皇が前例となって男系女子にも皇位継承権は認められたと考えられるね。
ただし女系男子にも女系女子にもいまだに(大昔から)認められてない、ってこと。
151日本@名無史さん:2001/04/09(月) 21:20
結局フランス側は「国王の子であっても、女性は本人及びその子孫には
王位継承権は認められない」としてエドワード3世の主張を退けようとしましたが、
これでエドワード3世が納得するはずもなく(何しろ当時のイングランド王家である
プランタジネット家は、ノルマン王家のヘンリー1世の娘を通じて王位を
継承していました)、この結果、あの有名な英仏百年戦争が勃発します。

英仏両国の内紛も絡んで1世紀以上続いたこの戦争は、その間も何度か英仏王室の
縁組みですったもんだを繰り返しましたが、最終的にはヴァロア王家の正統性を
認める形で決着しました。(ただしその後も、歴代イングランド国王は18世紀に
至るまでフランス国王を名乗り続け、自国では勿論サリカ法は採用しませんでした)
152日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:07
そんなこんなで、結局フランスではそのままサリカ法が定着し、
後にヴァロア王家が断絶した時もこれに従って、古くはカペー家に溯る
ブルボン家のアンリ(当時ナバラ[ナヴァール]国王)がアンリ4世として
フランス王位を継承、ブルボン王家が始まることになりました。

ちなみにアンリの母方の祖母はフランソワ1世の姉マルグリットですが、
王位継承権は彼女によるものではありません、念のため。

つまりイギリスでは採用していた女系OKというのに対して、
フランスでは女系は完全にダメということになったのでした。
153日本@名無史さん:2001/04/27(金) 20:48
>>144
ルイ10世からシャルル4世までの3人は母親がナバラ女王だったため
ナバラ国王も兼ねており、この間はサリカ法が適用されていましたが、
カペー家断絶後は叔父たちに退けられたルイ10世王女ジャンヌが
ファナ2世としてナバラ女王に即位、その後ナバラではサリカ法は
採用されませんでした。(ただし、アンリ4世以後は再びフランス国王が
ナバラ国王も兼ねることになり、サリカ法に準拠していますね。)
154日本@名無史さん:2001/05/08(火) 23:00
ためしあげ
155日本@名無史さん:2001/05/08(火) 23:01
ためしあげ
156日本@名無史さん:2001/05/18(金) 03:35
サリカ法の再発見並びに採用は一説によると百年戦争勃発以降とも言われてるけど、
ルイ10世・フィリップ5世・シャルル4世の王女たちすべてがフランス王位の
継承を認められず、またナバラ王位も同様であったことを踏まえると、
フィリップ5世即位の時になるわけかな。
157日本@名無史さん:2001/05/26(土) 04:36
フランスの隣国スペインでもアラゴン王家がサリカ法を取り入れたけど、
カスティリア王家は過去にウラーカという女王が存在したこともあって、
サリカ法は採用されませんでしたね。

その結果、後にカスティリア女王イサベル1世とアラゴン国王フェルナンド2世の
婚姻により、スペイン統一が実現することとなります。うまくできてます。
日本でもこういうことが起きていたのではないでしょうか。
158日本@名無史さん:2001/05/28(月) 18:45
実はアラゴン王家もかつてペトロニラという女王が存在したのですが、
これは考慮されなかったようですねーーー。だいぶまえだからかも。
159日本@名無史さん:2001/05/28(月) 21:11
160日本@名無史さん:2001/05/28(月) 22:09
  
161日本@名無史さん:2001/05/29(火) 01:40
あげ
162日本@名無史さん:2001/06/02(土) 17:40
んーと、イサベル1世とフェルナンド2世の結婚・即位と世継ぎ問題に
あたって王位継承法が改めて討議され、カスティリア王位はイサベル1世の後も
引き続き女王を認めるとしながらも、アラゴン王位については従来通り
男性の国王のみと定められてます。

女帝問題は古来から世界各国で難しいですね。
163日本@名無史さん:2001/06/02(土) 20:29
ケータイつー位だから
dokomoの株主?
164日本@名無史さん:2001/06/02(土) 20:58
おもしろすぎ。
165日本@名無史さん:2001/06/06(水) 14:59
>>162
ただしそれまでのサリカ法とはやや異なり、
国王に女子しかない場合はその女子の産んだ男子に王位継承権があるとされたので、
この結果後にファナ女王を経てカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)へ
スペイン王位が引き継がれちゃったんだよ。

日本でもそろそろかもね。
166日本@名無史さん:2001/06/11(月) 14:45
日本ではそれは許されない
167日本@名無史さん:2001/06/23(土) 00:06
日本では女子の産んだ男子には相続権はありません。
別の血統に乗っ取られたことになるから。
血統は父方の胤によって決まると考えるのが日本流。
168日本@名無史さん:2001/06/23(土) 06:44
手白髪命と継体の結婚が、年数的に
意図的に操作された可能性があるとかいう説を何かで読んだ
仁賢−欽明という血筋を信じるのなら
継体を含めた3代は一時的に擁立された婿入り王朝だったんじゃ?
用明−祟峻が早死にした時は推古が急遽即位してるけど
神功と飯豊を別にすると、これが最初の女帝即位
武烈(書記の記述は疑問だが)の死後後継者に困った豪族達は
仁賢の甥が成人して、即位の資格を得られるまでのツナギとして
オオド王を越の国から迎えたのではないだろうか
ところが、欽明の成人後も継体親子は王位を譲ろうとはしなかった
そして…
こうした経験からこれ以降は例え男系の血統が途絶えかけても
王位につく資格をもつ者が成人(あるいは何か特殊な経験?)
するまでは婿養子を取らず、女系を王位につけることにしたと思う
169日本@名無史さん:2001/06/25(月) 03:18
未成年の皇女さまたちが次々と年齢順に生前譲位していくように皇室典範改正します

三笠宮彬子女王殿下 19歳
三笠宮瑶子女王殿下 17歳
高円宮承子女王殿下 15歳
高円宮典子女王殿下 12歳
高円宮絢子女王殿下 10歳
秋篠宮眞子内親王殿下 9歳
秋篠宮佳子内親王殿下 6歳
170日本@名無史さん:2001/06/26(火) 23:19
>>168
その場合の欽明天皇の父は誰になるわけ?
171日本@名無史さん:2001/06/27(水) 00:22
春日山田皇后に大きな発言力があったことは
書紀の記述からも分かる。
平安後期には八条院が即位しかけているし
南北朝期には後光厳の即位に際し
広義門院が上皇に見立てられている。
172 :2001/06/27(水) 00:25
八条院って誰?
173日本@名無史さん:2001/06/27(水) 00:28
>>172
璋子内親王だよ
女院一覧でも見たら?
174日本@名無史さん:2001/06/27(水) 13:17
治天の君ですね。
175日本@名無史さん:2001/06/27(水) 14:19
>>168
そんなややこしい仮説をわざわざ立てなくたって、記紀の記述そのものをストレートに読めば
旧王朝の家系からみれば「継体を含めた3代は一時的に擁立された婿入り王朝」だ
っていう解釈にしかからないじゃん。素直に読めや。
176168:2001/06/27(水) 16:22
>>175
だから次の欽明朝と婿入り王朝との関係が謎なんだよ
欽明は生没年も、即位年も不確定
幼名も不明
これ以降「アメ〜」と名の付く天皇が多くなる
それ以前の名前とはかなり趣きが違う
177日本@名無史さん:2001/06/27(水) 17:52
安閑 広国押武金日 ヒロクニオシタケカナヒ
宣化 武小広国押盾 タケオヒロクニオシタテ
欽明 天国排開広庭尊 アメクニオシハラキヒロニワ

安閑の広に対して宣化の小広は兄弟関係を示す。欽明の広庭も関係あるかもしれない。
また3人ともクニオシというのが共通している。
178名無しさん:2001/07/02(月) 12:35
>>142-165
サリカ法は、後にドイツ(神聖ローマ帝国)でも、1740年のマリア・テレジアのハプスブルク家相続の際に問題となり、オーストリア継承戦争の一因となっている。
また、スペインでも19世紀にイサベル2世が即位した際に、これを認めずに傍流の男性王族を擁立しようとする動きが起こっている。
179日本@名無史さん:2001/07/04(水) 06:38
>>168
>これ以降「アメ〜」と名の付く天皇が多くなる
ヲサダヌナクラフトタマシキ、タチバナトヨヒ、ハセベワカササギ、
トヨミケカシキヤヒメ、オキナガタラシヒヒロヌカ。
舒明以降としたほうがいいんじゃないでしょうか。

>それ以前の名前とはかなり趣きが違う
安閑以降和風謚号が伝わってるからでしょ。
180日本@名無史さん:2001/07/04(水) 06:43
携帯天皇は持ち運びしやすい
181日本@名無史さん:2001/07/04(水) 10:46
20年大和入りできなかったっつーことに対する
解釈はどうなってるんでしょうか?
182日本@名無史さん:2001/07/04(水) 18:56
age
183日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:02
日本書紀の編年には信憑性がないね。
184日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:05
>>181
楠葉にまでははいっている。
つまり淀川系の防衛ラインを越えることはできていた。
185日本@名無史さん:2001/07/08(日) 04:12
樟葉・筒城・弟国いずれも淀川水系なんで
もともとその辺は勢力下だったって話もあるよ。
186日本@名無史さん:2001/07/10(火) 13:13
なるほど。
すると、純粋に大和へはいることができなかっただけなのね。
187日本@名無史さん:2001/07/16(月) 18:29
当時の淀川水系って、両側を治めるのはかなりつらくなかったですか?
そもそも、現在ですら、摂津側と河内側は、淀川わたると言葉が違うのに。
188日本@名無史さん:2001/07/28(土) 11:48
189日本@名無史さん:2001/08/01(水) 16:38
当時はもちろん巨椋池の存在があったと思うので、
楠葉よりも上流では川を渡ることがそもそも出来なかったのではないかと。
190日本@名無史さん
意外に陸運より水運のほうが人の行き来容易だったりして。