201 :
日本@名無史さん:
>>199 そうじゃないって。
河川によってプランクトンや土砂が恒常的に大量に運はれた結果栄養分満載の沖積平野と
がちがちの岩盤の洪積世台地では全然違うって言ってるの。
洪積世台地に取っ組み合うお百姓は悲惨だよ。井戸を掘るところから始まり
雑木や雑草の除去、堆肥や水流を高地に押し上げる努力、、、、
あの周防長門の岩だらけの土地が100万石で
筑後川西岸のクリークを全部ひっくるめて35万石っていうのは
地理の知識をある程度知るまでもなく当然おかしな結論でしょう。
こういうことを平気でのたまう日本史ヲタって
やはり学会にがんじがらめに縛られてる隷属状況を自分では意識してないのかな?
理解に苦しみます。
202 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:38
>>198 >>2や
>>3を先ず見て、
本藩からの分地だからさ。
>>201 石高って米だけじゃないよ。
それにさ、山口は山の中腹まで棚田が覆っているんだよ。
石高の増加の為に血の滲むような努力の末だよ。
>>201 あいや、柳川や久留米まで含めた領域が35万石じゃ少なすぎるんじゃないの?
って言ってるのかと思った。
ちなみに35万石の真実は俺も知らないが、沖積平野だの何だの言うのではなく、
当時の佐賀藩の記録か何かをあたるのが本当だと思う。
204 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:51
肥前「全土」なら70万石弱はあったみたいだよ。
205 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:56
>>202 鍋島家は二重鎖国。
35万石といったって検断されるわけでもない。
幕閣も実地に調べたわけではないでしょう。
有田や伊万里を鍋島ブランドで厳重管理していた頃は
他国領へ逃亡した職人を追いかけて斬るほど徹底していた。
政治も経済も貿易も何事にもアップアップの幕末長州とは違う。
馬関といったって所詮長崎における物資の流入に比べたら全然見劣りするはず。
グラバーだって長崎で全東洋の交易を管理していた。
長崎奉行松平某の切腹にしたって真相はわからん。
おそらく幕閣にも地元の黒田鍋島ら大藩にも見捨てられて
詰め腹を切らされたんだろうな。
幕末鍋島藩は天領伊豆の代官に反射炉技術を教授したり
幕府軍艦の購入、修理、運行指南を実質全部担当していた。
鍋島は松平姓は持っていなかったが
小弐末裔を自称していたから名家と認められていた。
なんどもいうけど長州とは格が違うよ。
206 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:57
肥前には鍋島以外にも、これだけの藩があるんだよ忘れないでね。
松浦藩、大村藩、松平(島原)藩、唐津藩、五島(福江)藩
207 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:02
>>205 長州は莫大な資金を持っていたんだよ。
戊辰戦争では、官軍、奥羽列藩同盟ともに莫大な借金を外国からしているが、
長州藩だけはしてない。
新政府にも莫大な金を納めている。
昔の北回り航路を馬鹿にしないほうがいい。
あれだけ行動しても資金が有り余っていたある意味おかしな藩。
208 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:04
>>205 それと35万石の真偽とで一体何の関係があるのか?
209 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:06
210 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:05
211 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:06
>>211 あ、ごめん。
俺には(島原)が目に入っていなかったらしい。
213 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:14
加賀藩は分封した後に表高を変えてるのに、佐賀はそうしなかったんですね。
北回り航路では正しくなかったね。
北前航路だった。すまん逝ってくる。。。
215 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:29
>>213 見栄があったのでしょう。
薩摩も分封こそしてないが、あんなに石高はありません。
216 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:39
>>206 それは肥前という土地の豊饒さを物語る論拠にこそなるが
肥前というパイが小藩分立によって分断されていた閉塞状況なのではない。
松浦藩と大村藩は平戸と大村という古代からの地理植生にもとづいた政治区域。
源姓松浦党や有馬氏ら島原勢力はおそらく古代荘園管理者がそのまま支配者へと
横滑りしたものだと思われる。実兄弟の有馬晴信と大村純忠がポルトガル貿易と
結びついたのも宣教師に横瀬浦を寄進したのも荘園管理術のひとつ。
島原藩と唐津藩は江戸的発想の産物。
キリシタン撲滅を狙う幕府が天草を天領にした上で近くに親藩をひとつ置きたかった。
唐津にも秀吉の名護屋城を真似て九州北岸にも譜代藩をひとつ置きたかった。
でもこのふたつの小藩がほとんど機能していなかったことは明白。
例えば水野忠邦は幕閣へ浜松への国替えを猛烈に働きかけたし
対岸の熊本や八代こそ港として機能しているが現代に至るまで島原は一漁港に過ぎない。
転封前の有馬氏が持っていた貿易知識を何一つ活かしていないともいえる。
長州こそ歴史は厚東氏、大内氏、そして毛利氏、そのくらいでしょう。
あなたのいう「分封」の真の定義にあてはまるのは長州のほうだと思うよ。
つまり無け無しの土地を分け合うという意味でね。
グレート大内氏を持ち出すのはやめてね。
今川了俊を讒言して足利幕府に北九州支配をおねだりしただけでしょ。
密室政治と政治ブローカーとしての歴史は大いに認めるが
ここはあくまで江戸領国支配と「石高」のトピックのはず。
217 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:50
>>216 悪いが俺にはあんたが何をしたいのかがさっぱり分からない。
長州の支藩が長州36万石の中に含まれず、佐賀の3支藩は35万石の中に含まれる。
反論があるなら、それに対してすべきではないの?
218 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:05
んでちょっと調べてみたんですが、長州の支藩のうち徳山藩は後に分知してできた藩なので、
36万石の一部ということになりますね。
岩国と長府はよく分からなかったけど、最初からあった藩だから
>>197の通りかも知れない。
清末は長府の支藩で、長府からの分知なんですね。
219 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:26
>>217 とくせんが勝手に妄想した石高を「史料」だと鬼の首をとったように言うのはやめれ。
もちろんその石高をみせたのは鍋島家だけどね。
鍋島には鍋島のやり方があって真の石高なんて誰も見て知っているわけじゃないんだよ。
とくせんが実際に立ち入ったら斬られていただろうね。葉隠にもそういう記述があるし。
佐賀の3支藩が鍋島本家から有り難く封を頂戴していたという鍋島神話と
肥前鍋島の35万石というがどこからきたかわからん表向き石高がいったい何なのか?
このふたつは別々に論じるべき。
なんどもいってるが鍋島家は肥前を表向き鍋島領国と見せたがって必死だった。
しかし宗家の龍造寺が封土を小分けで鍋島に分け与えてくれなければ
土地所有自体ありえなかった。直茂のときは龍造寺と完全な主従関係、
勝茂のとき鹿島などの創出に苦労し、光茂のときにはじめて龍造寺庶家のひとつに
鍋島の血を送り込むことに成功している。肥前にはほかに千葉氏惣領も小弐庶家もいて
郷士出身の鍋島家が一代や二代でどうこうできる相手ではなかった。
龍造寺と鍋島って高家と吉良系図を借りた将軍家の関係にも似ている。
藤原姓松平と新田源氏へ改姓した徳川の関係にも似ている面もある。
そして資金提供者(資本家)と企業(資金運用者)の関係にも似ている。
あんたがそこまで35万石という数字を絶対視するなら
地代と利子についても識見があるんだろうな。
マル経じゃなくて近代経済学でもいいよ。
資金運用額だけ見せても銀行が金を貸さないように
鍋島の表向き石高を見ても肥前は理解できない。
機関車操業の苦しい藩が幕末に軍事大国になれるかな?
明治の朝臣を見てみな。下手すると長州より肥前のほうが人数多いよ。
鍋島領国の数字っていうのは特殊な性格上ほかと比較できないんだよ。
220 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:29
221 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:30
>>219 >鍋島には鍋島のやり方があって真の石高なんて誰も見て知っているわけじゃないんだよ。
当たり前だ。
>>197もまさにその通りのことを言ってるだろう。
誰も言ってやしないことに対する反論など聞かされても困る。
222 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:31
>>216 俺もお前が何を言いたいのか分からん。
山口にコンプレックスでももっているのか?
223 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:33
222=220=197ですけど、217は別人ですよ。
224 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:35
混乱を避けるために。199=203=208=217=218=221。
こうして見ると、俺は茶々入れの比率が非常に高いことが分かる。
225 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:41
>機関車操業の苦しい藩が幕末に軍事大国になれるかな?
これだけは違うよ。
財政的には苦しくなかったのです。
どーでもいいけど、幕末長州藩の財政が苦しかったって、
何処から聞いたんだ?
藩内でも一万数戦規模の演習をしているし、朝廷工作、馬関戦争、長州征伐、
戊辰戦争、兵全てが火器を持っていたし、ドキュソな藩士にも多額の援助、
新政府にも多額の上納をしている。
はっきりいって、長州藩が金銭に困っていたとは、珍説だぞ。
226 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:44
ついかすると長州藩が困っていたのは、ドキュソな藩士の暴走だよ。
その大馬鹿者の藩士が湯水のごとく金を使っていたのは有名だね。
227 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:44
>>222 上司が肥前で部下が長州(あるいは薩摩)という省庁は多数あったよ。
有名なのは大隈の外務卿や鉄道省(と当時は言わなかったが)とか
江藤の民部卿とか東大を始めとする教育分野とかね。
戊辰戦争の戦歴をひもとくとありえない人事だ。
つまり人事と資金という神域にさえ薩長がタッチできなかったのが
明治日本というエンタープライズを無事スタートさせるのに必要な根幹部分。
228 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:47
>>220 件のページ、なんか分かりにくい表記法ですね。
長府、徳山、岩国を含んで36万石だと思うんだけど。
成立の経緯から見れば清末は長府5万石の一部の筈ですし。
229 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:50
>>227 すまんホントに何言いたいのか分からん。
幕末長州が苦しいって話は聞かないね。
幕末以前の清風派の改革が成功して、それ以前の借金は実質的になくなっていたし、
北前航路を当て込んだ運上屋経営が成功していた。
231 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:54
>>228 俺も良く分からない。
長府藩自体は、関が原以前からあったから、(20万石)
減封で別になっているのかもしれないし、
本藩からの分地になっているのかもしれん。
232 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:00
>>227 つーか新政府ってみな大久保のパシリじゃないのか?
233 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:02
234 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:17
>>225 これは京大の先生たちが書いている本だけど
、、、長州藩では「8万貫の大敵」と呼ばれた経常歳入の約22倍の借金があった。
、、、長州藩はこのころ藩財政は完全に立ち行かなくなっていた。
そのために木綿、紙、蝋などの専売制度などを考えたものであるが、
1831年(天保2年)藩全体に広がる大一揆が藩政府の動向を天保改革へと踏み切らせた。
村田清風は「三百年の御家(毛利家)と御国(周防長門)を百姓蹴りたて候口惜しさ」
と残念がる一方で、政務とる者自ら「この乱(天保一揆)何事より萌したるか、
よくよく考えるべき。罪は政をなす人にあるべし」と反省している。
天保一揆では藩のまとめた数字によると
100カ村以上の村が参加し、13万人以上の農民が動いたとされる。
一揆勢は庄屋、地主、商人たちの家を打ち壊した。
ある藩役人は「みなみな腹立ちもっともに候」と記している。
京大は最近なくなった井上なんとか先生のようにマル経つよかったから
経常歳入の22倍といっても、近代経済学(あるいはそこまで行かなくても
農業経済学の立場から)異論は当然あるだろうけどね。
しかし事実は事実で大阪でも長州藩は踏み倒し常習犯だったと聞く。
少なくとも225は楽観論過ぎる。たまたま朝敵の言論を封じ込めて
莫大な天領を押収できたからよかったが。
235 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:20
236 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:22
237 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:24
>>234 なぜ幕末の長州を語るのに清風の改革以前の状況を持ち出すのか?
238 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:36
廃藩置県の時長州藩は9万貫も資金があったのですよ。
>>234 どうでもいいが,「マル経」の例としてあげるのが
井上なんとか先生って,いかがなものか?
240 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:51
>>234 9万貫は長州藩「だけ」である資金量ですから。
241 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:52
毛利家への朱印状は萩本藩にまとめて一つ。
242 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:52
>>238 そりゃ水野氏を引っぱがして千葉に移して
かわりに徳川の若年当主を旗本御家人とひっくるめて
静岡70万石に押し込めたら天領だって浮きますよ。
第三国政府が牛込四谷赤坂六本木銀座新宿といった都心一等地の住人全員に
即時退去命令を出してどこか地方圏にいますぐ移住しろというようなもの。
廃藩置県をもちだすからには八百万石−静岡70万石=明治新政府と考えなければ。
フランス革命政府だってこんな手荒い真似はしていない。
基本的に革命以前には法服貴族が領主貴族より人口の上で多かったし
郡県制を施行するにもその土地の風土は破壊していない。
盗人長州は人の物は俺のもの俺のものは俺のものというスタンスだから
300年間天領でありつづけた土地でさえ俺のものと言い切れる。
この精神は筑前乱入をたびたび行った大内氏も同じ。
満州の妖怪岸信介も同じ。
沖縄問題に嘘涙を流せる佐藤栄作も同じ。
243 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:54
244 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:59
>>242 俺にはお前が何を言いたいのか分からん。
いっている事が支離滅裂だぞ。
>>242 それって毛利氏が、300百年前にされた事では?
246 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:04
>>245 それって毛利元就が謀略姦計毒殺奇襲夜襲で築きあげた領土ではないの?
元就は家人姻戚も殺しまくってるよね。
247 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:05
明治新政府=長州藩とでも思ったのかしらん。
>>246 戦国時代に倫理観を持ち込まれても困るんですが・…
249 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:07
250 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:08
>>247 でしょうね。
長州が納めた金は幕府のから略奪した物だと思っているのでしょう。
251 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:11
毛利元就がこの時代にしても際立って凶悪だったとは思えないな。
最上義光あたりは、戦国時代の感覚に照らし合わせてもちと引くものがあるが。
>>246 つーか戦国時代に権謀術数を使わない国ってあるのか?
まあ、尼子、毛利、宇喜多の三者が汚いとは思うけどな〜
253 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:14
>>240 エンロン見てもわかるけど全米公認会計士協会も機能しなかった。
元会長自殺して終わり。真相はわからない。
何時の時代も監査はグルなんだよ。
シャンシャン総会で総務部長のすぐ脇に座っている監査役はなーんにもいわない。
明治日本のバランスシート見てそれが正しいなんて考えるのは
大久保と井上馨の脳内妄想においてだけだよ。
佐賀と親戚関係のあったグローバル派の桂は欝はいっていたし、
西郷は三井の番頭さんが大嫌いだった。
良識ある佐賀藩士は新政府の恐喝詐欺まがいの実態を見て
反乱を起こすか下野するか故郷に帰ったね。
>>246は徳川が正当な事をして幕府を開いたとでも思っているのだろうか?
255 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:17
>>247 >>明治新政府=長州藩とでも思ったのかしらん。
そのとおり良くできました。
明治新政府=長州藩でございます。
256 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:17
257 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:21
>>253 撫育方や長州の財政管理は定評がありますよ。
少なくともいい加減な数字ではありません。
今でも長州藩の財政の研究をしている人もいますし、関連の本は多く出版されています。
この数字がいい加減というなら、この世に正しい数字などありません。
>>253は大隈が岩崎の番頭であった事を知らないのだろうか?
260 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:31
それで結局、毛利家と鍋島家の支藩のことはどれがほんとなんだよ。
261 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:32
>>256 あんたも話しがわかってないね。
「死の商人」グラバーは元とれるのわかっているから銃7300丁売ったんだよ。
買い付けた連中が滅茶怪しい。井上馨と伊藤だ。
この二人の守銭奴は維新後立場が逆転したが本人たちはそう思っていなかった。
この二人が主と仰ぐのははカネ。
鉄道敷設でもグラバーはイギリス式を売り込むのに成功している。
グラバーは後に東京に移住し三菱の顧問にもなっている。
三菱の軍需産業べったり体質はこの頃から始まっているね。
なんか武器といい採掘事業といいブッシュが大好きな分野だな。
やっぱり考えることは同じなんだろうな。
このサイクルでひとたび巨大利潤を手にすれば決済なんていつでもいい。
すべて約定が先。グラバーと長州が臭覚を利かせてビジネスを拾ってくる。
約定ベースのバランスシートでは大赤字の長州がなぜかいつも決済ベースでは利益を生み出す。
いったいどこから元本と利子を調達したのやら。
すべては歴史の闇の中。
262 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:37
>>255 上司が肥前で部下が長州(あるいは薩摩)という省庁は多数あったよ。
有名なのは大隈の外務卿や鉄道省(と当時は言わなかったが)とか
江藤の民部卿とか東大を始めとする教育分野とかね。
263 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:37
>>259 大隈が佐賀閥のなかで一番キナ臭いのは確か。
だが北海道開拓使官有物払い下げ事件では世論についた。
下野して(下野させられた)からの、その後がこの男の真骨頂。
>>261 長州が幕末に軍備の充実にいくら使ったのかも分かっているんだよ。
闇から闇ではない。
>いったいどこから元本と利子を調達したのやら。
撫育方って何か知ってる?
265 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:41
>>261 >約定ベースのバランスシートでは大赤字の長州
この話のソースを教えて下さい。
266 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:45
>>261 幕末長州は赤字になってないって。
複数の資料からそれは分かっているんだって。
267 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:55
4白政策とか知っているのかなあ?
268 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:05
>>260 長府以外は内高ということで決着がついたようです。
長府は、結局よく分からなかった。
あれ、佐賀県って福岡県の分知じゃなかったの?
270 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:12
>>268 だから長府も含めて朱印状はひとつだよ。
長府はそれで、萩ともめたでしょう。
271 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:12
>>269 そういえば福岡県に食糧を供給するためだけに存在する県だとか
えらく失礼なことを言ってた人がいた。
272 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:14
長府って、たしか一度取り潰しになってるよね。
273 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:30
274 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:49
>>234 >経常歳入の22倍といっても、近代経済学(あるいはそこまで行かなくても
少し調べてみたけど、ここは間違えてるね。
年収の6倍で一年間で出る赤字の24倍です。
ちなみに撫育方のほうには100万両かるくあったらしい(8万貫以上)
275 :
日本@名無史さん:02/02/14 00:07
age
276 :
日本@名無史さん:02/02/14 20:32
鍋島藩のことは結論が出たの?
277 :
日本@名無史さん:02/02/15 19:21
島原藩 松平(深溝)家 他 70,000
福江(五島)藩 五島家 12,000
唐津藩 小笠原家 他 60,000
鍋島藩以外で24万石
鍋島藩併せて59万7千石
これが幕藩体制開始時の肥前の石高。(表高)
69万1千石、これが肥前の明治4年?の石高(実高)
千石以下は斬り捨て
鍋島本藩の石高は27万3千石(壱岐含む)
小城藩4万石
蓮池藩1万5千石
鹿島藩1万3千石
平戸藩13万2千石(壱岐含む、新田藩が入っているのかどうかは不明
島原藩7万9千石(筑後豊後が入っている)
唐津藩6万5千石
大村藩6万石
福江藩2万7千石
鍋島藩は支藩併せて34万3千石
鍋島藩以外では、36万3千石
併せて70万6千石。
壱岐やその他の地方も多少含まれるので、肥前自体は69万一千石
佐賀藩 鍋島家 357,000
これら三支藩内分された藩で357,000石から引かれている
(蓮池藩 鍋島家 52,000)
(小城藩 鍋島家 73,000)
(鹿島藩 鍋島家 20,000)
平戸藩 松浦家 61,000
平戸新田藩 松浦家 10,000
大村藩 大村家 27,000
島原藩 松平(深溝)家 他 70,000
福江(五島)藩 五島家 12,000
唐津藩 小笠原家 他 60,000
鍋島藩以外で24万石
鍋島藩併せて59万7千石
これが幕藩体制開始時の肥前の石高。(表高)
69万1千石、これが肥前の明治4年?の石高(実高)
千石以下は斬り捨て
鍋島本藩の石高は27万3千石(壱岐含む)
小城藩4万石
蓮池藩1万5千石
鹿島藩1万3千石
平戸藩13万2千石(壱岐含む、新田藩が入っているのかどうかは不明
島原藩7万9千石(筑後豊後が入っている)
唐津藩6万5千石
大村藩6万石
福江藩2万7千石
鍋島藩は支藩併せて34万3千石
鍋島藩以外では、36万3千石
併せて70万6千石。
壱岐やその他の地方も多少含まれるので、肥前自体は69万一千石
280 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:30
ついでに毛利藩
幕藩体制開始時の萩藩は36万9千石(表高で実質は52万石以上あったらしい)
この石高から内分されたと思われる。(長府藩は不明)
岩国(藩)6万石
徳山藩4万石
長府藩5万石
清末藩1万石
明治4年?の実高100万2千石
一千石未満斬り捨て
萩(本家)藩73万一千石
豊浦(長府)藩10万石
徳山藩8万四千石
岩国(藩)6万3千石
清末藩2万3千石
併せて100万1千石
斬り捨てしているので、少し減っている。
281 :
日本@名無史さん:02/02/16 15:05
貫高を石高に直すのはどうすればいいのか?
282 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:35
別件ですが、
家康が、将軍宣下を受けた時と、大政奉還をしたときの
日本国内の総石高のデーターギボンぬ。
283 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:42
>>
そういう調子で実高と支藩合計でそれ以外の藩の実力もきぼーん。
仙台伊達と宇和島伊達合計とか。
284 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:47
実質石高で100万石を越えてた大名ってどれくらいあるの?
支藩あわせて
でも、表石高よりも多かったり、少なかったりするんでしょ?
水増しするのは家格を上げる為とか、家格格付けラインぎりぎりまで石高を
減らして、賦役を減らしたりとか。
薩摩なんか表は72万(77万か?)だけど、密貿易を入れるとどれくらいになるか
解ったもんじゃない。
286 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:55
>>281 時期によって、相場が無茶苦茶違うから無理です。
幕末の私の持っている数字なら、
1石=1400匁
100匁=一両
だそうです。この数字から出してください。
>>283 気が向いたら、飯食った後ででも作ってみます。
287 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:56
288 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:03
千石以下は切り捨てです。
下の段は明治4年?と思われる年の石高(実高)です。
前田家
120万石を内分し石高を訂正しています。
加賀藩102万5千石
大聖寺藩7万石(後に10万石)
富山藩10万石
七日市藩1万石
計121万5千石
加賀藩133万6千石
富山藩13万石
大聖寺藩8万4千石
七日市藩1万3千石
計万156万3千石伊達家
仙台藩62万5千石(京都などの飛び地を含みます)
(内分された藩)一関藩(田村家)3万石
宇和島藩10万石
(内分された藩)伊予吉田藩3万石
計72万5千石
仙台藩98万5千石
一関藩(田村家)3万1千石
宇和島藩7万6千石
伊予吉田藩2万1千石
計111万3千石
289 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:05
島津家
薩摩藩72万9千石
薩摩藩74万7千石(日向、琉球含みます)
(薩摩藩は石高を籾殻で測っていたそうなので、実際はかなり凹むそうです)
山内家
高知藩24万2千石
高知新田藩1万3千石
計25万5千石
高知藩49万4千石
高知新田藩3万6千石(飛地と本藩からの支給併せて)
計54万石
>薩摩藩は石高を籾殻で測っていたそうなので
石高→米の収穫量
訂正します。
千石以下は切り捨てです。
下の段は明治4年?と思われる年の石高(実高)です。
前田家
120万石を内分し石高を訂正しています。
加賀藩102万5千石
大聖寺藩7万石(後に10万石)
富山藩10万石
七日市藩1万石
計121万5千石
加賀藩133万6千石
富山藩13万石
大聖寺藩8万4千石
七日市藩1万3千石
計万156万3千石
伊達家
仙台藩62万5千石(京都などの飛び地を含みます)
(内分された藩)一関藩(田村家)3万石
宇和島藩10万石
(内分された藩)伊予吉田藩3万石
計72万5千石
仙台藩98万5千石
一関藩(田村家)3万1千石
宇和島藩7万6千石
伊予吉田藩2万1千石
計111万3千石
佐伯藩は毛利家とは仲が良くて毛利姓をなのっているようですね。
この藩は、表高2万石
実高、二万八千石
だそうです。
島津家の佐土原藩を忘れていた。
表高2万7千石で実高3万6千石
本家あわせての表高は75万6千石
実高は、78万3千石
黒田家(最初52万石を分地)
福岡藩47万3石
秋月藩 5万石
東蓮寺藩 4万石
福岡藩52万7千石
秋月藩5万2千石
東蓮寺藩は本家に九州合併されてなくなってます。
計57万9千石
細川家(加藤家)
熊本藩54万5千石
宇土藩3万石
熊本新田(高瀬)藩3万5千石
谷田部藩1万6千石
熊本藩68万8千石
宇土藩と熊本新田(高瀬)藩はデータなし。
熊本藩に含まれているのかもしれない。
谷田部藩2万8千石
計71万6千石+?
池田家
鳥取藩32万5千石
(分地)狩野藩3万石
(分地)若桜藩2万石
岡山藩31万5千石
(分地)生坂藩1万5千石
(分地)鴨方藩2万5千石
分地藩の資料なし。本家に含まれているのかどうか不明。
鳥取藩43万3千石
岡山藩47万5千石
計90万8千石
広島藩42万6千石
(分地)広島新田藩3万石
(分地)三次藩5万石
赤穂藩5万3千石
広島藩49万4千石
赤穂藩は取り潰し。
三次藩本家に吸収される。
広島新田藩は領地も特に決まってなかったそうなので資料はないでしょう。
そのまま49万4千石
佐竹氏
久保田(秋田)藩20万5千石
(分地?)久保田新田藩2万石
久保田藩39万3千石
久保田新田藩1万9千石
計41万2千石
蜂須賀家
徳島藩25万7千石
徳島藩40万9千石
(支藩なし)
296 :
日本@名無史さん:02/02/16 21:55
支藩含めた外様実高ベストテン
一位前田家、156万3千石
二位伊達家、111万3千石
三位毛利家、100万1千石
四位池田家、90万8千石
五位島津家、78万8千石
六位細川家、71万6千石
七位黒田家、57万9千石
八位佐竹家、41万2千石
九位蜂須賀家、40万9千石
十位は鍋島家といいたいところだが、意外な伏兵、
真の十位は有馬家、36万6千石
鍋島家は十一位でした。
十二位は上杉家です。
外様以外だと、尾張藩や紀州藩、会津藩、越前藩などが入ります
298 :
日本@名無史さん:02/02/17 12:18
あげとくか
毛利家と島津が逆転しているのが意外な感じがしますけど、それ以外はまあ順当と
いったところでしょうか。でも毛利は実高との差がすごいですね。