1 :
日本@名無史さん:
誰か、日本六十余州別の石高の一覧が載ってるHP
知ってる人いませんかね?
サーチしているんですが、全然見つからない…
2 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 20:59
3 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 21:53
4 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 15:52
100石取りの武士、とかっていうと、実際自分で使える米は
おおよそ何石ぐらいなんですかね?60石ぐらいとかなのかね?
5 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 10:49
>4
各家中で違うよ。
6 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 11:37
およそ100石で3人といわれてますが・・
7 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 13:49
100石で3人暮らせるって意味?
5石が一人扶持なんじゃなかった?
8 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 16:43
6は意味不明
9 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 17:25
>6,7,8
動員する場合の軍役の数じゃないの?
10 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 17:33
たしか、一石ってのは一人の人間が一年間に食べる量だったような気がする。
一人一色一合×3=一日分
3合×365≒1000合=一石だったような気がする。
例 加賀100万国は100万人を食わすだけの生産力がある。
大体1万国で250人の戦闘要員を養えたってきいたことが有る。
11 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 17:47
>9
江戸時代の軍役は大体一万石で250〜300人。
ただ無理してもっと多い軍勢を動員することもある。
12 :
7:2001/03/01(木) 18:08
軍役よりも何人暮らせるかの話のほうが知りたいんだけど、
1石が1人の1年分?
となると1人扶持っていうのは何を意味してるの?
(1人扶持=1石ではないよね?)
13 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 19:01
>>12 扶養家族の分が入ってるんじゃないの。奥方と子供、親の世話
とか考えると、4〜5人分くらいの生活費がいるってことで
14 :
四国征伐敗残者子孫:2001/03/01(木) 19:19
>>10 太閤検地以前はそれで合ってると思う
以後は田の広さに全国統一されたはず
江戸時代は新田開発が盛んなところは
名目上以上あったと思う(仙台藩とか)
うろ覚えですまん
15 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 21:03
>13
それは違うんじゃないか?五人扶持とか十人扶持とかってのも
あるわけだから。
16 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 21:48
ほんとは、1人が1年に1石食べるなんてことはないんだけどね。
大量に年貢を徴収して大坂蔵屋敷にまわしてるんだから、
これはわかる筈だよね。
それから、検地では実際の生産力は到底把握できていない。
検地をやればやるほど打ち出しは増えるけど、
農民の抵抗があるのでなかなかやれなかった。
また、商品作物を生産する土地に設定されて、米の何倍かの年貢を
かけることになっていたりもするし・・。
あと、軍役だけど、関ヶ原の西日本の諸侯に100石あたり3人が
原則として割り当てられていた。
この比率を、参謀本部が「日本戦史」を編纂する時にあちこちに
適用したので、これが定説みたいになってしまった。
だけど朝鮮出兵の時は、100石あたり7人とか6人、5人の
割り当てもざらにあった。
江戸時代にも、平均すれば100石あたり4〜5人だよ。規定では。
17 :
バートン:2001/03/01(木) 23:23
>>1 知りたい石高って実高?それとも表高?
時代は?江戸時代初期?中期?後期?
まさか江戸時代を通じて全然石高数の変化や大名の改易が無いとでも思っているのか1は
大体大名の表高は判るとしても、幕府領なんかはどうするんだ、全然判らんぞ
1は無い物ねだりをしすぎですな
大体どのような理由で日本六十余州別の石高の一覧が知りたいのだ?
18 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 23:40
例えば
太閤検地で1反=300歩ってことになったが、
江戸初期の石高には、1反=360歩で換算されてるものも
混じっている。
同じ10万石と言っても、実質が違うことあり得るわけだ。
19 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 00:03
念のため。
石高は、反あたり収量を決めるものだからね。
だから、1反=360歩時代に対し、1反=300歩だと、
5/6の土地で同じ負担をしないといけないわけよ。
実質、農民(年貢を負担)も武士(石高に応じて軍役を務める)も、
負担が20パーセントアップね。
20 :
名無的発言者:2001/03/02(金) 10:33
>16
>江戸時代にも、平均すれば100石あたり4〜5人だよ。規定では。
その規定は何?
21 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 10:41
22 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 12:50
まめ知識だけど、
島津家なんかは、ほんとは30何万石しかなかったんだけど、
モミ高を適用したので倍の60何万石とかいうことになった。
島津にとれば、大名としての格式は高くなったが、
軍役を普通の大名の2倍勤めなければならなくなった。
こんな風に、一口に石高と言っても、設定の基準やそれが定まった
経緯はほんとまちまちよ。
23 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 13:09
薩摩は琉球経由の密貿易で肥え太っていたので多少軍役が
増えても大したこたなかでごわす。
24 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 15:02
しかし江戸時代後期には借金500万両でごわす
25 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 22:14
五公五民
26 :
日本@名無史さん:2001/03/30(金) 10:39
武士が普通に家族を養っていくためにはどのぐらいの俸禄が
必要だったの?
27 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 19:14
26に答えてageて
28 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 23:56
武士でも郷士は俸禄無し
29 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 00:40
時代によって変わるけど
一石は米俵4〜4・5俵分じゃなかったけ?
30 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 02:23
大体
一両 = 一石 = 150kg(一人一年あたりの米消費量) = 10万円
30石二人扶持の御家人だと、年収300万円+必要経費ですね。
兵隊サラリーマン。ただし、無役だといくらか差し引かれる。
500石の旗本だと、4公6民で年収2000万円+必要経費(領民
の奉仕)。ここら辺で役員・高級官僚ですね。
1000石級以上になると、米収入以外にも領地経営をやりようがあ
りますね。売上数億円の中小企業のオーナー社長という感じ。
万石以上の旗本なら下手な大名よりも裕福(過剰人員無・参勤交代無)
31 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 17:39
>16,21
慶安の軍役令で100石あたり3人ぐらい
>>30 旗本は1万石未満です。1万石を超えると大名になってしまいます。
33 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 17:58
一人扶持って何石ですか?
34 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 18:36
>33
何人扶持という場合は、何石とか何俵とはべつに勘定するはずです。
35 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 18:37
>30
一両あたりの金額は、江戸時代260年もあったのですから
一概にはいえないと思います。
たしか化政のころで現在の約8万円くらいだったと思います。
36 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 20:24
○人扶持というのは、蔵米取りの侍が合戦時に従軍させなければならない小者のことです。
常時養っておく必要はありませんが、祭日などの際には顔をそろえさせておかなければなりません。
1人扶持につき一日5合の「扶持米」というものが下ります。
一年360日で掛けて1800合。
禄高に換算すれば五公五民として、3石6斗ほど、となります。
37 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 18:25
>30
高級旗本には”交代寄合”と称する参勤の義務が在ります。
38 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 18:39
>1
石高についての詳しいことは、「時代考証辞典」、「続・時代考証
辞典」(稲垣史生 著:新人物往来社)のどちらかに、載っています。
39 :
日本@名無史さん:2001/05/09(水) 15:33
age
40 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 22:55
1人扶持が5石相当の藩もあるね
41 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 21:11
age
42 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 21:19
幕末だとかなり安いんじゃないんですか?
海援隊の日給が一日2両って聞いたことある。
43 :
日本@名無史さん:2001/05/28(月) 22:16
44 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 10:34
もちっとしりたい
45 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 11:16
>>44 具体的にどこらへん?
あんまり長文になってもな、と思うので。
46 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 12:18
44じゃないですが、米一俵って=1石なんですか?
47 :
さち子:2001/06/03(日) 13:21
こんにちは、戦国・江戸時代の収奪率については大学でも研究しました。
まず、知らない人もいるかもしれませんので、前置きですが
世間でありがちな誤解が石高=収入ですね。
加賀百万石の百万石というのは加賀藩が百万石収入があるという意味ではなく、
百万石、米の取れる土地の裁量権を与えられているという意味です。
それと一石が人が一年で食べる量としては多すぎるというのは
わたしは昔の人は米を大量に食べたと教えられました。
昔の人は今みたいにおかずは大量に食べず、お米を大量に食べたのは史書にもあります。
離乳食にもお粥が使われたくらいですしね。
あと、収奪率は各地で全然違います。
天領や親藩や譜代は4公かもう少し多い程度
外様は6公から7公です。
というのは徳川家の統治は関東移封のさいに北条家の統治に準じたのに対し、
外様は大閣検地の「二公一民」(66.6%)に準じたからです。
最大の外様の加賀藩ですら、二公一民です。
幕府は自分達のところの民には受けがいいように厚くしましたが、
外様の藩には三勤交代や工事義務などで、豊かにならないように画策し、
当然、そのツケは民にも回りました。
48 :
さち子:2001/06/03(日) 13:38
>>46 一石とは重量ではなく容積です。
一石は180リットルで
米俵にして2.5俵です(俵の大きさに関しては各地で差があり2俵のところもあります)
49 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 13:53
300石取りの武士、といった場合、実収は300石?
それともこれも収公しない分(農民が食べる分)が含まれてるの?
つまり
>>47に倣えば、旗本の300石取りは実収120石超で、
諸藩のそれは実収200石前後ということで間違ってない?
50 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 14:04
一石=10斗=100升じゃないの?
4斗=一俵 一俵=60キロ
すべて玄米です。勿論、江戸期では容積だったかも知れませんが。
現代では上記通り。
51 :
ももんが:2001/06/03(日) 14:08
50=ももんが
>49
その通りです。しかし諸藩のそれは公称の石高と実際の差もあり、又
それ程厳しく取り立てなかった事情もあるので実際の生産高はわかりません
52 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 14:29
50は何に対してのレス?
言ってることは正しいんだけど。
1俵=60キログラム=72リットル=4斗
1石=2.5俵=150キログラム=180リットル=10斗
ちなみに米の比重は1.2g/cm3
>勿論、江戸期では容積だったかも知れませんが。
これは何を意味するの?
石・斗・升・合という単位は昔も今も容積の単位ですが。
53 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 14:41
>>49 旗本よりも諸藩の武士が裕福という事じゃないだろ?
やはり、諸藩の武士よりも旗本の方が
高い石高を与えられてたみたいだね。
旗本なら千石なんて、そんなにすごくはないけど、
諸藩の武士で千石なんて、たいへんなもんだしね。
>>51 それと、「厳しく取り立てなかった」てのは違うと思う。
東北には厳しい取り立てで村が離散したなんて話しは
ごろごろあるしね。
54 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 14:42
千石取りとは
千石の収入ではなく、
千石の土地を割り当てられてった事だよ。
55 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 14:55
千石取りの武士なんてたいへんなもんだ。
たとえ、三十万石の大大名でも、300人しか雇えない・・・
56 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 15:05
100俵取りって言っても、実際は100俵もらえるわけではなく、
これも農民の取り分が含まれているんですかね?
57 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 15:13
58 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 15:13
へー、そうなんだ。
んじゃー、百俵取りより、百俵扶持の方が豊かな生活ができるんだね。
59 :
さち子:2001/06/03(日) 15:18
三勤交代は「参勤」ですよね。
もちろん、知らなかったんじゃありません^^;
変換ミス・・・
60 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 15:22
>>59 大名が三交代して、夜勤なんかしていたら面白い。
61 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 23:09
>>58 100俵取りとかの「俵」で支給される侍は、全部もらうんだよ普通。
四公六民で計算すると100石取り→実質手取り40石→100俵(1石=2.5俵)だから、
100石取りの侍と、100俵取りの侍はほぼ同格という扱い。
町方の与力とかも200俵取りだけど、一応馬に乗れる扱い。
騎馬できるのは、おおむね200石クラスからだったよね?
62 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 17:02
>>30 知行30石の武士だと手取りは12石(四公六民)くらいだろ?
63 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 17:12
64 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 17:53
知行の石高をみるとき、
現代の価値で年収に当てはめると、
どのような計算になるの?
公務員の初任給や年収を参考にしてイメージ的に考
えてみると、、、。現在の米の価格で計算はできま
せんよね。
俸禄だけの収入で藩士としての体面を保つ最低限を、
30俵2人扶持=実収15石6斗ほどとする。ある
小藩の分限帳などから、強引にそのように考える。
それを、現在の年収で、300〜400万円ぐらい
に当てはめる。
とすると100石取り=実収40石ほどは、およそ
750〜1000万円というような計算はどうでし
ょうか? あまりにも大雑把で感覚的なものですが。
どうでしょうか? もう少し多く考えたほうがいい
のかな? もう2〜3割増とか???
66 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 20:13
>>65 「100俵6人泣き暮らし」て言うほどでしょ?
もっと思いっきり「カツカツ」の状態を考えたほうが・・・。
だから年金受給者の水準で考えたほうがいいような気がする。
国民年金の受給者の平均額が月8万円くらいだろうから、これを基本としちゃう。
>>65の言う通りに30俵2人扶持を最低限とすると
このクラスが年収100万円くらい。
住居費はいらないし、贅沢もしなければなんとか生きていける。
100俵=100石取りは、年収300万円。
この金額でも最低一人はバイトを雇わなきゃいけないという状況。
200石の「お旗本」は、年収600万円。
中堅のサラリーマンが、馬と厩務員一人を雇うのはやっぱり苦しい。
400石で年収1000万円クラス。
ようやく、馬の一頭くらいは飼える。
こう考えると、現代の国が考える「最低限の生活」と
江戸幕府の公務員給与は実態と乖離していない。
定年後の庶民を月8万円で生活させておいて、
役人は初任給でも14、5万も払ってる今の日本は、やっぱり変?
役人やめても、ほぼ同じ給料の仕事(天下り)が用意されてるし・・・。
>>66 かなり少なすぎないでしょうか?
100石取りといえば小藩では上士でしょ。管理職ですよね。
あくまで、現在の感覚で年収300万というのは少なすぎま
せんか。
100石300万円とすると、農村の水呑み百姓なんてのは
年収いくらぐらいになるんでしょうか?20万とか25万円
ですか? 日雇い=今でいうフリーターなんかいくらぐらい
になるのか? それじゃあ現在でも暮らせませんよね。
現在で考えるなら、水呑百姓でもなんとか生活できていたん
ですから、その生活水準を国民年金受給者の額とか生活保護
とかの水準ぐらいには考えないと、、、、、。
100石取り(実収40石)といえば、現在で考えれば高級
取りだと思いますが、、、。労働者の平均年収にくらべて。
現在でいう庶民ではないと思いますが、、、。
どうでしょうか?
68 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 21:15
>>67 おおむね正しいと思うんですけどね、オレ的には。
年収300万円なんて手取りだとすりゃ普通だよ。
侍の年収が高くなかったのは事実でしょうねえ、、、。
小十人組の旗本(100俵)の暮らしがきつかったのは本当だし。
ま、家碌が初任給、あとは役職に応じて足高で
給料が増えていくっていう感じでしょうかね?
69 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 21:38
みんな、旗本を基準にしてるけど、
2公1民制の加賀藩など諸藩はどうなのかな?
70 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 21:41
>>69 諸藩は幕府の圧迫政策で武士の生活は
さらにきびしかったけど・・・
71 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 21:41
かな〜り貧乏なんだね>おさむらいさん
あ、だから「武士は食わねど高楊子」なんだ!
藩財政が厳しくなると、半知借上げとか、俸禄半分になるのよね。
まあ地方では生活水準質素にできるとしても花のお江戸なんて物
価高かったし、体面も有るしね。消費生活ですからね。
生活が苦しいっていっても、大多数の民百姓の平均水準とは違う
でしょうねえ。
73 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 22:22
そういや、今のお侍さん(公務員)はよく「給料安い」ってぼやくけど
手取り15万もあれば民間の20〜25万円くらいの生活できるんだよね。
都心近くに2LDKで月2万円とか、定価販売の百貨店でも互助会組織で10%引きとか、
都道府県庁勤務なら定食250円とか、床屋2000円とか。
まあその、現在の平均的な生活水準で比較すれば、、、。
生活保護世帯
国民年金世帯
フリーター
中小企業
自営
公務員(3種〜1種、地方)
大企業
スーパーエリート
色々ありましょーが、100石取りのお侍といえば全体の上の下か中でしょう。
手取り15万ではフリーターに毛が生えた程度ですよね。ボーナスあるとしても年収手取り300未満ですよ。1人なら、15万でも充分にくらせるけどね。
75 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 22:49
100石取りで全体の中?
人口を9分割すれば間違いなく上の上だと思うよ。
萩藩の資料によると、藩士5675人のうち、100石取り以上は
たったの661人だよ。藩士の下に農・工・商もいたわけで。
しかもその数たるや武士の4〜5倍のはずだろ?
富商もいただろうが、全体比でみればごくごく一部だろ?
76 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 22:54
表高より豊かな藩ってどんなところがあるの?
77 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 22:56
札差の手数料の割合はどれくらいなんでしょうか。
現在の金券ショップ並みの一割くらい?
これいかんによってはかなり、手取りが下がると思います。
それに下層の旗本は、まとまった金額が必要なので一度貨幣に
変えてからまた米を買うという悪循環だったようです。
74 上の下か中っていってるでしょ。(謙虚目に)
だから、現在のレベルで比較すると、高給取でしょ。年収1000万以上に該当すると思います。100石取りといえば。
しかし、藩財政の悪化に伴う半知借上げとか、米価の下落とか諸条件を考えると、生活が苦しかったりします。でも、それ以下の微禄のお侍の方が多かった訳でしょ。またその下には民百姓が、、、。
どう考えても高給取ですよ。現在でいえば、100石取り=少なくとも年収手取り1000万以上でしょう。
どうよ?
79 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 23:01
百石取り:槍一筋
二百石取り:馬一頭
馬といえば、現在でいう車ですよね。運転手付きの高級車というとこでしょうか。
お百姓でも農耕用に馬1頭ぐらいは飼っていたりしますよね。現在、庶民でも車の1台やそこら持っていますもの。
81 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 23:23
>>78 まぁまぁ、そんなに熱くなるなよ。
貨幣経済での生活者(武士)と自給自足(農民)とでは、現金収入に格差が出るのは仕方ないんだから。
82 :
81:2001/06/04(月) 23:29
実際、水呑み百姓が赤貧だったかというとそうでもない。
水呑みであっても、自作地を購入するに至った層がいた点を考慮すれば、
想像するほど生活レベルは低くなかったのかも知れない。
否、江戸期の農村文化の多様性、レベルの高さをみれば、
明治以降の農政のほうがよほど過酷とも言える。
それから、農民がつくっていたのは米だけじゃないぞ。
野菜、生糸、綿花これらは無税だ。
83 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 23:56
>>76 例えば、
播州赤穂藩なんかは、塩が採れるのでかなり儲かってた。
松の廊下→お取り潰しの遠因とも言われているらしい。
(おなじ石高(表向き)なら儲かるとこのほうがいいじゃない?)
産業が発達してくることによって、米より副業(?)で儲ける
とこも結構出てきたみたい。家の格式が高い、威張りたいので最初にはったりの申告を
していたところはけっこうあると思います。
(加賀大聖寺藩も似たような例と言っていいですかね?>ALL)
そう言えば、松前藩は米は採れなかったのに石高ついてますね(笑)
「石田三成の葦刈取り権」のようだ・・・
84 :
日本@名無史さん:2001/06/05(火) 00:11
>>83 仙台藩なんかも表高62万石に対して実収は100万石以上あったね。
ほんとうは倍以上だったとか
85 :
日本@名無史さん:2001/06/05(火) 11:38
赤穂藩は塩田で儲けていたと聞くし、新田開発で実高は表高よりはるかにあったと
いうのに、苛酷な取り立てをしていて、取り潰しの時は領民が大喜びしたらしいね。
儲かっていたのに、なぜそんな取り立てをしたのだろうか?
86 :
日本@名無史さん:2001/06/05(火) 11:52
>>85 外様なんてのは反乱をおこさないように
幕府に締めあげられまくってるんですよ。
むしろ、薩摩など政治力がある藩の方が
農民は楽だったんじゃない。
87 :
日本@名無史さん:2001/06/05(火) 12:05
表高とか実高がいくらだろうが、財政が逼迫してたのは事実。
そら、世の中は自然にインフレになるのだからあたりまえ。
88 :
日本@名無史さん:2001/06/05(火) 20:24
自作農なら米・野菜等食い物には困らない。
木綿・麻なら自分達で調達(自製)できる。
富農層が江戸中期以降、新田開発や領主に喜捨できたのは、
こういう背景がある。
お金がないのではなくて、必要無かったというほうがある意味正しい。
貧困にあえぐ農村--というのは、明治政府が必要以上に強調した側面を注意しよう。
89 :
日本@名無史さん:2001/06/10(日) 16:56
農家一軒平均の石高ってどれぐらいだったんだろ?
平均っていうか? 1町10石じゃなかった? これ以下は分地禁止じゃなかった?
91 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 20:13
外様では年貢は高かったけど、
収奪率は低かったみたいね。
92 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 20:24
代官は能吏がなったらしいね。
93 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 20:25
94 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 20:31
>>93 ようするに隠し田畑を
ある程度、見逃した。
95 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 20:37
>>94 じゃあ何で名目税率を高くするなどの手を込んだことをしたのだ?
96 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 21:02
一貫=何石ですか?
97 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 21:11
でも、外様の農民のほうが天領の農民より、
はるかに高い年貢を払ってて
生活は苦しかっただろうね。
98 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 21:19
99 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 21:44
酒田の本間家とかの豪農ってどのくらいの石高があったのだろう?
100 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 22:03
ついこの前読んだ本には全盛期で6万石って書いてあった>本間家
101 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 22:14
名主料(っていうのか知らないけど)で銭1000貫文もらってたらしいけど、いくらくらいなの?
102 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 22:38
>>100 6万石かー。そこらの大名じゃ頭が上がらないわけだ。
その上、大名ほど余計な出費がないし、幕府から課せられる
賦役も無い。あり余る財を米相場に投資して更に大儲け。
103 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 22:43
本間家の表高はどれくらいなんだろー?
104 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 21:49
age
105 :
日本@名無史さん:2001/06/16(土) 21:55
大名じゃないんだから表高なんてないでしょ。
本間様、6万石から、年貢と小作の取り分を引くと、実収はいくらぐらいあったのかな? それとも実収が6万石もあったのなら、年貢と小作の取り分も入れたら20万石以上あったってこと?
107 :
日本@名無史さん:2001/06/18(月) 22:21
>>106 どういう計算なんだ?、それ。実収が6万石つったら、6万石なんだよ。
庄内藩の租税率がどのくらいかわからないけど、5公5民だったら、本間様の取り分は3万石だ。
当然、一人で6万石の田を耕すことなんてできないから、小作の分も入ってる。
だから、本間様の取り分が6万石だったら年貢、小作の取り分も入れたら所有田畑の生産高20万石以上あるんぢゃないのってことだよ。
どうよ?
どうよ?
110 :
日本@名無史さん:2001/06/18(月) 23:47
age
あげ
112 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 00:27
本間家は農業だけやってたんじゃないよ。もともと商人なんだから。
113 :
107:2001/06/19(火) 00:28
>>108 お〜お〜、「実収」を本間家の純粋な取り分として考えたわけだな。
そうか、そもそも
>>100には実収なんて書いてないもんな、こりゃ失礼。
でもな、この場合は「本間家の水田からとれた米の最盛期の収穫量」だと理解すべきだな。
主家・酒井家の石高が17万石だから、本間家の6万石というのは妥当な線だろう。
仮に本間家の収穫高が20万石に達していたとすると、酒井家の実高もそれに応じて高くなるだろ?
それでも、17万石のうち、酒井家の収入は多くても半分(8〜9万石)だから、
本間家からの税収だけでも、収入の30%前後を占めることになる。
すごいもんだよ。
114 :
107:2001/06/19(火) 00:47
「本間様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に。」
戦前約3千町歩(3000ヘクタール)の 農地を保有したとい
われている。(小作人約3000人) 当然農業以外の収入も
あったはず。企業経営など。
酒田の殿様より勢いがあったってことか?
それで、スレの趣旨と違うけど、現在の本間様はなにをなさっているの?
117 :
名無史さん:2001/06/19(火) 16:55
>>115 酒田(庄内藩)の家老が呼んだ川柳だね。
「本間様にはおよびもせぬが せめてなりたや(大名)に」
118 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 17:59
現在の本間様は、経営していたスーパーが倒産。
ほそぼそとゴルフ用品屋さんをしている(笑)
(株)本間ゴルフ
119 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 18:01
諸行無常の響きあり(藁…っていいのか嘆いて良いのか分からん
120 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 18:31
121 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 21:19
あちこちにあるよな。本間ゴルフ。
ホームセンターのマルホンは風のごとく消え去ったが。
122 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 21:30
>>118 本間ゴルフは分家が道楽で始めた会社。本家は男がいなくて女性の方が元の本宅を資料館にし、本間美術館の館長になっている。
123 :
118:2001/06/20(水) 09:35
ああ、スマソ
本間美術館が本家か。
マルホンはホームセンターってよりはディスカウントスーパーって感じだったが
別に大して変わらんか。
今は札幌資本のカウボーイに吸収された。
124 :
日本@名無史さん:2001/06/22(金) 17:30
25万石じゃ大名でも10人ぐらいしか勝てるやついないなあ。
125 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 02:51
1000石取りの藩士、などといっても、その藩士自体がさらに家来を
雇わなければいけないわけだから、実際使える分はわずかにすぎない。
126 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 19:31
age
127 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 19:33
>>125 ちなみに外様の場合、藩になんだかんだと
収入の一部を吸い上げられる
128 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 21:29
借り上げか?
129 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 21:32
1石ってどのくらい?
130 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 21:51
過去ログに書いてあるよ。
131 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 22:06
132 :
日本@名無史さん:2001/06/29(金) 22:43
石高に応じた軍役の規定って江戸時代に何回ぐらい改定されているか
わかる人いる?
133 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 19:39
>132
慶安のお触書まで
134 :
日本@名無史さん:2001/07/12(木) 16:39
135 :
日本@名無史さん:2001/07/25(水) 15:16
もっと後にも改定されてなかったか?
136 :
日本@名無史さん:2001/07/25(水) 15:30
>135
ない
137 :
日本@名無史さん:2001/07/25(水) 21:15
祖先は上士それも毛利の殿様の直属の家臣のだったらしい。
明治維新の時 殿様から一地区(現在の人口十万のXX市の・・地区の大半)を貰ったらしいが
大正時代の当主(曽祖父)が道楽におぼれて没落。
(当時田舎だったその地区の田は売っても二束三文)土地を全て失い、僅かの蓄えと共に広島へ移住。
そのアホ祖父の次男がうちの祖父なんだが戦死した上に原爆で蔵が焼けて家系図やらの先祖の遺物を失う。
祖父方の親戚も途絶え、祖母も原爆で無くなった為、父はまだ幼いときに祖母方の親戚に引き取られた。
(幸い父には原爆症はないのが救い)
先祖がどのくらいの階級の人物だったかは知る術が無くなったのは痛いが、
あの広大な土地を道楽と芸者女に費やした馬鹿祖先と
祖母や親戚、先祖代々の遺品を灰にした米軍には憤りを禁じえない
138 :
日本@名無史さん:2001/07/25(水) 21:17
137>>
蔵は空襲で焼かれたのかもしれないらしい
うちの地方の米俵は通常よりも少し大きいんだよね。
140 :
日本@名無史さん:2001/07/26(木) 11:23
>137
結局はたわごとなんだろ?
141 :
日本@名無史さん:2001/07/26(木) 11:36
土地持ちなら大正時代で没落しないよね。
142 :
日本@名無史さん:2001/07/28(土) 12:31
137
>>141 当時の土地(しかも当時は田舎)の価値なんて二束三文。
没落した原因はもちろん道楽だけじゃないよ。
10代の時、家業の商船が何隻も沈没して廃業。
その後は働かず道楽人生を送って40の時には破産。
絶縁中の弟を頼って広島に一家で移住する。
財産全部相続した兄と違って弟は普通の生活だったらしいけど
質素倹約をおもんじるいい人だったらしい。
兄弟が逆だったら我が家も没落しなかったろうに
うちの地方の米俵は随分でかい
144 :
日本@名無史さん:2001/07/28(土) 16:27
>>137 >先祖がどのくらいの階級の人物だったかは知る術が無くなったのは痛いが、
除籍謄本をとれば,明治くらいまでの祖先の名はわかる。そうして萩藩の給付帳と付き合わせれば家格もわかる。
ただ次男の系統なら世が世なら,所詮部屋住みで大したことはないんだが・・・。直系で続いてきたの?
145 :
日本@名無史さん:2001/08/10(金) 18:36
146 :
日本@名無史さん:2001/08/10(金) 19:03
飛び地って基本的に被差別地区ですか?
147 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 02:56
そんなことは無いけど、罪を犯した人間が飛び地に転住させられるような
ケースが諸藩で多いのは事実だね。
148 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 03:23
>>137 そんなのうちだってそうよ。
お前ががんばりゃいいじゃん。
149 :
日本@名無史さん:01/08/30 03:16 ID:bbwXvY5A
150 :
日本@名無史さん:01/09/11 10:29
マスの大きさが違うって話は聞いたことあるが・・・
米俵がデカイってのはどういうことだろう。
明治以後の話しかもしれないが、
年貢、余分に取られたというよりは俵が単に大きめだっただけでしょ。
俵がでかくても中味は同じ量だったりして
153 :
日本@名無史さん:01/10/13 22:42
154 :
日本@名無史さん:01/10/14 07:16
俺は年収750万円の国家公務員だが
昔でいうと何石取りのサムライよ?
155 :
名無しさん脚:01/10/14 09:06
石高は現実の生産量と一致していないよん。
検地後の農業技術の向上と生産量増加を反映していないっす。
2公1民とかいっても、実際は66.6%の税金をとっていたわけではない。
現実には時期とか藩によって違うけど、近畿地方で30〜40%と思われ。
年貢30〜40%、地主30〜40%、小作人残り程度かな。
ある程度の自作農なら拡大再生産も可能よん。
そのほうが綿花生産→冥加金増大で藩もウハウハ。
>>155 たしかにそれは言えますね。
いわゆる隠し田を公然の秘密でしたしね。
しかし、天領よりも外様の方がはるかに収奪率が高かったのは
少なくとも事実ですよ。
外様は苦しかったですからね。
ところで俺は何石よ?
どんな屋敷に住める身分だったかね?
158 :
日本@名無史さん:01/10/15 02:49
159 :
日本@名無史さん:01/10/15 06:28
160 :
日本@名無史さん:01/10/15 06:32
67万石ってことはないだろ、それじゃ大大名だよ
161 :
超優良スレあげ:01/10/26 11:56
水呑み百姓の石高(年収)ってどのくらいだったんですか?現在の水準に直すと?
162 :
日本@名無史さん:01/10/26 13:13
固定資産(田畑)を持たず、家畜無し、雑穀を主食として労働対価に
よってのみ生活する水呑み百姓。一応家屋はあるが借家かな?
固定資産(家屋)無し、車無し、カップラーメン等のジャンクフード
で飢えを癒す、労働者さん。まわりに沢山いるのでは?
163 :
日本@名無史さん:01/10/26 13:27
>>157 税金分は差し引いて考えなくとも良いか?ヂキサンから
石高に応じてとペイバックとは、吉宗公よりキビシイ?
164 :
日本@名無史さん:01/11/05 00:02
750万といったら1000石以上じゃないの?
165 :
日本@名無史さん:01/11/05 00:09
今じゃ大金持ちの水呑みもいたことが証明されてるよ。
中世から近世にかけての農漁村は教科書とは全然違う世界だった。
166 :
日本@名無史さん:01/11/05 00:12
なぜ大金持ちなのに水呑みのままなの?
167 :
日本@名無史さん:01/11/11 01:20
なにやって金持ちになったんだろう?
168 :
日本@名無史さん:01/11/11 01:32
>>166-167 副業(商売なり何なり)の方が収入が上だったけど、
身分としての名目は「農民」て感じかな。
169 :
日本@名無史さん:01/11/11 01:38
直参より、裕福だった大藩の平侍みたいなノリ?
170 :
日本@名無史さん:01/11/16 03:24
すいません、質問なんですが島津藩で200石(表高700石)というのはどのくらいのクラスの侍なんでしょうか?。
○○の狩屋として歴代の島津の殿様がうちの屋敷を参勤交代の際に宿舎として使ったと言う伝承があるのですが
ちなみに西南戦争で完全に没落して今は貧乏です。
171 :
日本@名無史さん:01/11/24 23:39
700石取りなら立派なもんじゃないの?
それでも薩摩藩じゃ上級とは言わないのかなあ。
172 :
日本@名無史さん:01/11/26 18:41
奉行・代官クラスかなあ?家老になれるかは微妙かも。
173 :
日本@名無史さん:01/11/29 01:48
余裕でなれるって。
174 :
日本@名無史さん:01/11/29 15:38
一万石超えの臣下っていたんでしょうか?
分家除く
175 :
日本@名無史さん:01/11/29 17:23
大藩なら結構いたはず。
176 :
日本@名無史さん:01/11/29 17:48
>>174 いるいる。仙台藩なんか数家いるよ。
一門だけでも、筆頭の石川家が2万1千石だし、
亘理伊達家も2万3千石、涌谷伊達家が2万2千石・・・
などなど。
177 :
日本@名無史さん:01/11/29 17:51
薩摩藩じゃあ700石では家老は無理だろう。
小藩だったら100石の家老というのもいたようだが。
>166, 168
副業っていうよりも、そっちが本業だろう。
もっというと、農業なんてやっていない人も多かったんではなかろうか。
網野氏の著作では、輪島の例がでていた。
当時の輪島は水呑みがほとんどで、土地持ちもほんのわずかな農地しか
持っていなかったとか。だから、一見すると貧農だけが集まった貧しい
農村のようだが、実際はその地方でも屈指の大きなまちだったとか。
水呑みの実態は、塗り物の職人やら商家など、農地を持つ理由も持つ必
要もない人達だったとか。
だから、輪島が「町」であれば町人と呼ばれていた人達だったんだろう
と思う。
ただ、当時の「町」は行政上のものなんで、そこを支配している大名な
り幕府が町と認めなければ、「町」ではない、であるからそこの住人達
は町人ではない、となったんでは。
で、武士でも公家でも町人でもエタ/ヒニンでもなければ、僧や神官で
もない、要するにその他大勢が百姓に分類され、「百姓」のなかで土地
を持っていない連中は、実際の職業がなんであれ、金を持っていようが
持ってなかろうが皆「水呑み」ないしそれに相当する分類になった、と
いうことだろうかと想像しているんだが、どんなものだろう。
179 :
日本@名無史さん:01/12/02 14:00
網クンの言うことを信用していいのだろうか?
180 :
日本@名無史さん:01/12/02 23:16
>179
どこまで信じていいかはしらんけど、少なくとも当時の輪島が町だったと
いうことと、輪島の人別の構成くらいは、調べればわかる事実なんだろう
から、信じていいのかなと思うんだが。
他にも、例えば幕末期の新潟と小千谷の交換にしても、幕府の方は六百石
くらいの米が取れる、牧野家領の村(新潟)を六百数十石米の取れる村(小千
谷)と交換するという立場に立っている。
素直にとれば若干の加封だが、実際は港町を取り上げられて村をあてがわ
れるという処罰行為だった。
天領になった後、新潟奉行がおかれて新潟も正式に町になったわけだろう
が、それまでは公式には村なわけだから、商家で田畑をもっていない連中
などは、水呑み以外に分類のしようがないんではなかろうか。
181 :
日本@名無史さん:01/12/14 00:04
そうかな?
182 :
日本@名無史さん:01/12/24 14:23
本間家って、何で大名にならなかったんだ?何万石も領地があれば、普通は武装
するだろうに。
それから、村上藩士・小和田家って何石取りだったんだ?
183 :
日本@名無史さん:01/12/25 17:13
>>182 大名ってのはなろうと思ってなれるもんじゃないよ
184 :
日本@名無史さん:02/01/03 13:58
本間ゴルフも倒産しそうだな。
185 :
日本@名無史さん:02/01/12 21:02
186 :
日本@名無史さん:02/02/02 22:18
武士というのは何石取りぐらいなら余裕をもって暮らせたのですか?
187 :
日本@名無史さん:02/02/02 22:31
おい1石って何両なのよ?
188 :
日本@名無史さん:02/02/02 22:57
誰も知らないのかよ!
189 :
日本@名無史さん:02/02/04 20:14
戦国時代の一町とは何石?
前田家の本多氏は5万石で〜す。
全国の陪臣の中でも、トップで〜す。
191 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:20
>>190 加賀に天領ってあったのかな?
尾口谷村とか白山麓の村の人が「この辺は昔、天領やった」とか言って誇り高いんだけど、
どうも、そういう記録が無いんだよね。
もしかすると、本多氏の領地で住民が誤解してたのかもしれない。
192 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:23
毛利の吉川も5マソ石だよね。
支藩扱いされなかったから陪臣。
193 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:23
194 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:27
>>191 加賀は、白山麓のごく一部だけ天領でした。白峰とか、本当に一部だけね。
だからその人の言ってることは本当ですね。
195 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:39
白峰村は天領で間違いありません。
天領はどこでも誇り高いようですね。
196 :
日本@名無史さん:02/02/13 09:06
初歩的な疑問でスマソ。
本藩と支藩の石高の関係を教えて下さい。
やたらと支藩の多い毛利家とか鍋島家とか。
毛利家は36万石から分配して支藩に振り分けたんでしょうか?
鍋島家は35万石なのに、本藩の実収が9万石くらいしかなかったと聞いたんですが?
197 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:00
>>196 毛利は分地により藩を作った訳ではないから、
本藩の36万石はそのままです。
1612年でも実質54万石あったのですが、西軍総大将がそんなにあってはいけないという事で、
名目上は36万石にしたようです。
幕末は支藩も合わせれば100万石をゆうに超えてました。
鍋島は本藩から分地し三支藩を作っているから、
名目は35万石でも、本藩の石高は20万石強、実質は27万強。
支藩は合計で14万5千石もあったそうですが、
名目上の石高を減らさなかったので、江戸時代は結構苦しかったそうです。
198 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:14
>>197 それってでも地図を広げると納得できないな。
コメどころの佐賀、柳川、久留米のあたりで
佐賀平野がたった35万石っていうのは。
むしろ龍造寺支配を打ち消すのに必死で
鍋島本家からの有り難い分封という話しを作り上げたのが真実だと思う。
鍋島の場合徳川御三家の水戸紀州尾張を意識して鍋島3家を建てている。
それに加えて諫早など龍造寺系も含めると
実際はパイに余裕があった事情に加えて、
旧宗主龍造寺名義の封土を少しづつ実質的に鍋島へ移管する作業に
忙しかっただけに思える。
毛利領内の一揆打ち壊しって頻発しているけど肥前はほとんどないでしょ。
もし本当に苦しければ領民が蜂起するはず。
199 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:17
柳川と久留米は佐賀藩じゃないと思いますよ。
200 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:26
>>198 毛利は幕末以外は一揆が頻発していたけど、
鍋島は一揆が頻発して起ってなかったか?
201 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:29
>>199 そうじゃないって。
河川によってプランクトンや土砂が恒常的に大量に運はれた結果栄養分満載の沖積平野と
がちがちの岩盤の洪積世台地では全然違うって言ってるの。
洪積世台地に取っ組み合うお百姓は悲惨だよ。井戸を掘るところから始まり
雑木や雑草の除去、堆肥や水流を高地に押し上げる努力、、、、
あの周防長門の岩だらけの土地が100万石で
筑後川西岸のクリークを全部ひっくるめて35万石っていうのは
地理の知識をある程度知るまでもなく当然おかしな結論でしょう。
こういうことを平気でのたまう日本史ヲタって
やはり学会にがんじがらめに縛られてる隷属状況を自分では意識してないのかな?
理解に苦しみます。
202 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:38
>>198 >>2や
>>3を先ず見て、
本藩からの分地だからさ。
>>201 石高って米だけじゃないよ。
それにさ、山口は山の中腹まで棚田が覆っているんだよ。
石高の増加の為に血の滲むような努力の末だよ。
>>201 あいや、柳川や久留米まで含めた領域が35万石じゃ少なすぎるんじゃないの?
って言ってるのかと思った。
ちなみに35万石の真実は俺も知らないが、沖積平野だの何だの言うのではなく、
当時の佐賀藩の記録か何かをあたるのが本当だと思う。
204 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:51
肥前「全土」なら70万石弱はあったみたいだよ。
205 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:56
>>202 鍋島家は二重鎖国。
35万石といったって検断されるわけでもない。
幕閣も実地に調べたわけではないでしょう。
有田や伊万里を鍋島ブランドで厳重管理していた頃は
他国領へ逃亡した職人を追いかけて斬るほど徹底していた。
政治も経済も貿易も何事にもアップアップの幕末長州とは違う。
馬関といったって所詮長崎における物資の流入に比べたら全然見劣りするはず。
グラバーだって長崎で全東洋の交易を管理していた。
長崎奉行松平某の切腹にしたって真相はわからん。
おそらく幕閣にも地元の黒田鍋島ら大藩にも見捨てられて
詰め腹を切らされたんだろうな。
幕末鍋島藩は天領伊豆の代官に反射炉技術を教授したり
幕府軍艦の購入、修理、運行指南を実質全部担当していた。
鍋島は松平姓は持っていなかったが
小弐末裔を自称していたから名家と認められていた。
なんどもいうけど長州とは格が違うよ。
206 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:57
肥前には鍋島以外にも、これだけの藩があるんだよ忘れないでね。
松浦藩、大村藩、松平(島原)藩、唐津藩、五島(福江)藩
207 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:02
>>205 長州は莫大な資金を持っていたんだよ。
戊辰戦争では、官軍、奥羽列藩同盟ともに莫大な借金を外国からしているが、
長州藩だけはしてない。
新政府にも莫大な金を納めている。
昔の北回り航路を馬鹿にしないほうがいい。
あれだけ行動しても資金が有り余っていたある意味おかしな藩。
208 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:04
>>205 それと35万石の真偽とで一体何の関係があるのか?
209 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:06
210 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:05
211 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:06
>>211 あ、ごめん。
俺には(島原)が目に入っていなかったらしい。
213 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:14
加賀藩は分封した後に表高を変えてるのに、佐賀はそうしなかったんですね。
北回り航路では正しくなかったね。
北前航路だった。すまん逝ってくる。。。
215 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:29
>>213 見栄があったのでしょう。
薩摩も分封こそしてないが、あんなに石高はありません。
216 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:39
>>206 それは肥前という土地の豊饒さを物語る論拠にこそなるが
肥前というパイが小藩分立によって分断されていた閉塞状況なのではない。
松浦藩と大村藩は平戸と大村という古代からの地理植生にもとづいた政治区域。
源姓松浦党や有馬氏ら島原勢力はおそらく古代荘園管理者がそのまま支配者へと
横滑りしたものだと思われる。実兄弟の有馬晴信と大村純忠がポルトガル貿易と
結びついたのも宣教師に横瀬浦を寄進したのも荘園管理術のひとつ。
島原藩と唐津藩は江戸的発想の産物。
キリシタン撲滅を狙う幕府が天草を天領にした上で近くに親藩をひとつ置きたかった。
唐津にも秀吉の名護屋城を真似て九州北岸にも譜代藩をひとつ置きたかった。
でもこのふたつの小藩がほとんど機能していなかったことは明白。
例えば水野忠邦は幕閣へ浜松への国替えを猛烈に働きかけたし
対岸の熊本や八代こそ港として機能しているが現代に至るまで島原は一漁港に過ぎない。
転封前の有馬氏が持っていた貿易知識を何一つ活かしていないともいえる。
長州こそ歴史は厚東氏、大内氏、そして毛利氏、そのくらいでしょう。
あなたのいう「分封」の真の定義にあてはまるのは長州のほうだと思うよ。
つまり無け無しの土地を分け合うという意味でね。
グレート大内氏を持ち出すのはやめてね。
今川了俊を讒言して足利幕府に北九州支配をおねだりしただけでしょ。
密室政治と政治ブローカーとしての歴史は大いに認めるが
ここはあくまで江戸領国支配と「石高」のトピックのはず。
217 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:50
>>216 悪いが俺にはあんたが何をしたいのかがさっぱり分からない。
長州の支藩が長州36万石の中に含まれず、佐賀の3支藩は35万石の中に含まれる。
反論があるなら、それに対してすべきではないの?
218 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:05
んでちょっと調べてみたんですが、長州の支藩のうち徳山藩は後に分知してできた藩なので、
36万石の一部ということになりますね。
岩国と長府はよく分からなかったけど、最初からあった藩だから
>>197の通りかも知れない。
清末は長府の支藩で、長府からの分知なんですね。
219 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:26
>>217 とくせんが勝手に妄想した石高を「史料」だと鬼の首をとったように言うのはやめれ。
もちろんその石高をみせたのは鍋島家だけどね。
鍋島には鍋島のやり方があって真の石高なんて誰も見て知っているわけじゃないんだよ。
とくせんが実際に立ち入ったら斬られていただろうね。葉隠にもそういう記述があるし。
佐賀の3支藩が鍋島本家から有り難く封を頂戴していたという鍋島神話と
肥前鍋島の35万石というがどこからきたかわからん表向き石高がいったい何なのか?
このふたつは別々に論じるべき。
なんどもいってるが鍋島家は肥前を表向き鍋島領国と見せたがって必死だった。
しかし宗家の龍造寺が封土を小分けで鍋島に分け与えてくれなければ
土地所有自体ありえなかった。直茂のときは龍造寺と完全な主従関係、
勝茂のとき鹿島などの創出に苦労し、光茂のときにはじめて龍造寺庶家のひとつに
鍋島の血を送り込むことに成功している。肥前にはほかに千葉氏惣領も小弐庶家もいて
郷士出身の鍋島家が一代や二代でどうこうできる相手ではなかった。
龍造寺と鍋島って高家と吉良系図を借りた将軍家の関係にも似ている。
藤原姓松平と新田源氏へ改姓した徳川の関係にも似ている面もある。
そして資金提供者(資本家)と企業(資金運用者)の関係にも似ている。
あんたがそこまで35万石という数字を絶対視するなら
地代と利子についても識見があるんだろうな。
マル経じゃなくて近代経済学でもいいよ。
資金運用額だけ見せても銀行が金を貸さないように
鍋島の表向き石高を見ても肥前は理解できない。
機関車操業の苦しい藩が幕末に軍事大国になれるかな?
明治の朝臣を見てみな。下手すると長州より肥前のほうが人数多いよ。
鍋島領国の数字っていうのは特殊な性格上ほかと比較できないんだよ。
220 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:29
221 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:30
>>219 >鍋島には鍋島のやり方があって真の石高なんて誰も見て知っているわけじゃないんだよ。
当たり前だ。
>>197もまさにその通りのことを言ってるだろう。
誰も言ってやしないことに対する反論など聞かされても困る。
222 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:31
>>216 俺もお前が何を言いたいのか分からん。
山口にコンプレックスでももっているのか?
223 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:33
222=220=197ですけど、217は別人ですよ。
224 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:35
混乱を避けるために。199=203=208=217=218=221。
こうして見ると、俺は茶々入れの比率が非常に高いことが分かる。
225 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:41
>機関車操業の苦しい藩が幕末に軍事大国になれるかな?
これだけは違うよ。
財政的には苦しくなかったのです。
どーでもいいけど、幕末長州藩の財政が苦しかったって、
何処から聞いたんだ?
藩内でも一万数戦規模の演習をしているし、朝廷工作、馬関戦争、長州征伐、
戊辰戦争、兵全てが火器を持っていたし、ドキュソな藩士にも多額の援助、
新政府にも多額の上納をしている。
はっきりいって、長州藩が金銭に困っていたとは、珍説だぞ。
226 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:44
ついかすると長州藩が困っていたのは、ドキュソな藩士の暴走だよ。
その大馬鹿者の藩士が湯水のごとく金を使っていたのは有名だね。
227 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:44
>>222 上司が肥前で部下が長州(あるいは薩摩)という省庁は多数あったよ。
有名なのは大隈の外務卿や鉄道省(と当時は言わなかったが)とか
江藤の民部卿とか東大を始めとする教育分野とかね。
戊辰戦争の戦歴をひもとくとありえない人事だ。
つまり人事と資金という神域にさえ薩長がタッチできなかったのが
明治日本というエンタープライズを無事スタートさせるのに必要な根幹部分。
228 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:47
>>220 件のページ、なんか分かりにくい表記法ですね。
長府、徳山、岩国を含んで36万石だと思うんだけど。
成立の経緯から見れば清末は長府5万石の一部の筈ですし。
229 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:50
>>227 すまんホントに何言いたいのか分からん。
幕末長州が苦しいって話は聞かないね。
幕末以前の清風派の改革が成功して、それ以前の借金は実質的になくなっていたし、
北前航路を当て込んだ運上屋経営が成功していた。
231 :
日本@名無史さん:02/02/13 15:54
>>228 俺も良く分からない。
長府藩自体は、関が原以前からあったから、(20万石)
減封で別になっているのかもしれないし、
本藩からの分地になっているのかもしれん。
232 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:00
>>227 つーか新政府ってみな大久保のパシリじゃないのか?
233 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:02
234 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:17
>>225 これは京大の先生たちが書いている本だけど
、、、長州藩では「8万貫の大敵」と呼ばれた経常歳入の約22倍の借金があった。
、、、長州藩はこのころ藩財政は完全に立ち行かなくなっていた。
そのために木綿、紙、蝋などの専売制度などを考えたものであるが、
1831年(天保2年)藩全体に広がる大一揆が藩政府の動向を天保改革へと踏み切らせた。
村田清風は「三百年の御家(毛利家)と御国(周防長門)を百姓蹴りたて候口惜しさ」
と残念がる一方で、政務とる者自ら「この乱(天保一揆)何事より萌したるか、
よくよく考えるべき。罪は政をなす人にあるべし」と反省している。
天保一揆では藩のまとめた数字によると
100カ村以上の村が参加し、13万人以上の農民が動いたとされる。
一揆勢は庄屋、地主、商人たちの家を打ち壊した。
ある藩役人は「みなみな腹立ちもっともに候」と記している。
京大は最近なくなった井上なんとか先生のようにマル経つよかったから
経常歳入の22倍といっても、近代経済学(あるいはそこまで行かなくても
農業経済学の立場から)異論は当然あるだろうけどね。
しかし事実は事実で大阪でも長州藩は踏み倒し常習犯だったと聞く。
少なくとも225は楽観論過ぎる。たまたま朝敵の言論を封じ込めて
莫大な天領を押収できたからよかったが。
235 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:20
236 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:22
237 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:24
>>234 なぜ幕末の長州を語るのに清風の改革以前の状況を持ち出すのか?
238 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:36
廃藩置県の時長州藩は9万貫も資金があったのですよ。
>>234 どうでもいいが,「マル経」の例としてあげるのが
井上なんとか先生って,いかがなものか?
240 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:51
>>234 9万貫は長州藩「だけ」である資金量ですから。
241 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:52
毛利家への朱印状は萩本藩にまとめて一つ。
242 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:52
>>238 そりゃ水野氏を引っぱがして千葉に移して
かわりに徳川の若年当主を旗本御家人とひっくるめて
静岡70万石に押し込めたら天領だって浮きますよ。
第三国政府が牛込四谷赤坂六本木銀座新宿といった都心一等地の住人全員に
即時退去命令を出してどこか地方圏にいますぐ移住しろというようなもの。
廃藩置県をもちだすからには八百万石−静岡70万石=明治新政府と考えなければ。
フランス革命政府だってこんな手荒い真似はしていない。
基本的に革命以前には法服貴族が領主貴族より人口の上で多かったし
郡県制を施行するにもその土地の風土は破壊していない。
盗人長州は人の物は俺のもの俺のものは俺のものというスタンスだから
300年間天領でありつづけた土地でさえ俺のものと言い切れる。
この精神は筑前乱入をたびたび行った大内氏も同じ。
満州の妖怪岸信介も同じ。
沖縄問題に嘘涙を流せる佐藤栄作も同じ。
243 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:54
244 :
日本@名無史さん:02/02/13 16:59
>>242 俺にはお前が何を言いたいのか分からん。
いっている事が支離滅裂だぞ。
>>242 それって毛利氏が、300百年前にされた事では?
246 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:04
>>245 それって毛利元就が謀略姦計毒殺奇襲夜襲で築きあげた領土ではないの?
元就は家人姻戚も殺しまくってるよね。
247 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:05
明治新政府=長州藩とでも思ったのかしらん。
>>246 戦国時代に倫理観を持ち込まれても困るんですが・…
249 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:07
250 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:08
>>247 でしょうね。
長州が納めた金は幕府のから略奪した物だと思っているのでしょう。
251 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:11
毛利元就がこの時代にしても際立って凶悪だったとは思えないな。
最上義光あたりは、戦国時代の感覚に照らし合わせてもちと引くものがあるが。
>>246 つーか戦国時代に権謀術数を使わない国ってあるのか?
まあ、尼子、毛利、宇喜多の三者が汚いとは思うけどな〜
253 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:14
>>240 エンロン見てもわかるけど全米公認会計士協会も機能しなかった。
元会長自殺して終わり。真相はわからない。
何時の時代も監査はグルなんだよ。
シャンシャン総会で総務部長のすぐ脇に座っている監査役はなーんにもいわない。
明治日本のバランスシート見てそれが正しいなんて考えるのは
大久保と井上馨の脳内妄想においてだけだよ。
佐賀と親戚関係のあったグローバル派の桂は欝はいっていたし、
西郷は三井の番頭さんが大嫌いだった。
良識ある佐賀藩士は新政府の恐喝詐欺まがいの実態を見て
反乱を起こすか下野するか故郷に帰ったね。
>>246は徳川が正当な事をして幕府を開いたとでも思っているのだろうか?
255 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:17
>>247 >>明治新政府=長州藩とでも思ったのかしらん。
そのとおり良くできました。
明治新政府=長州藩でございます。
256 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:17
257 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:21
>>253 撫育方や長州の財政管理は定評がありますよ。
少なくともいい加減な数字ではありません。
今でも長州藩の財政の研究をしている人もいますし、関連の本は多く出版されています。
この数字がいい加減というなら、この世に正しい数字などありません。
>>253は大隈が岩崎の番頭であった事を知らないのだろうか?
260 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:31
それで結局、毛利家と鍋島家の支藩のことはどれがほんとなんだよ。
261 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:32
>>256 あんたも話しがわかってないね。
「死の商人」グラバーは元とれるのわかっているから銃7300丁売ったんだよ。
買い付けた連中が滅茶怪しい。井上馨と伊藤だ。
この二人の守銭奴は維新後立場が逆転したが本人たちはそう思っていなかった。
この二人が主と仰ぐのははカネ。
鉄道敷設でもグラバーはイギリス式を売り込むのに成功している。
グラバーは後に東京に移住し三菱の顧問にもなっている。
三菱の軍需産業べったり体質はこの頃から始まっているね。
なんか武器といい採掘事業といいブッシュが大好きな分野だな。
やっぱり考えることは同じなんだろうな。
このサイクルでひとたび巨大利潤を手にすれば決済なんていつでもいい。
すべて約定が先。グラバーと長州が臭覚を利かせてビジネスを拾ってくる。
約定ベースのバランスシートでは大赤字の長州がなぜかいつも決済ベースでは利益を生み出す。
いったいどこから元本と利子を調達したのやら。
すべては歴史の闇の中。
262 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:37
>>255 上司が肥前で部下が長州(あるいは薩摩)という省庁は多数あったよ。
有名なのは大隈の外務卿や鉄道省(と当時は言わなかったが)とか
江藤の民部卿とか東大を始めとする教育分野とかね。
263 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:37
>>259 大隈が佐賀閥のなかで一番キナ臭いのは確か。
だが北海道開拓使官有物払い下げ事件では世論についた。
下野して(下野させられた)からの、その後がこの男の真骨頂。
>>261 長州が幕末に軍備の充実にいくら使ったのかも分かっているんだよ。
闇から闇ではない。
>いったいどこから元本と利子を調達したのやら。
撫育方って何か知ってる?
265 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:41
>>261 >約定ベースのバランスシートでは大赤字の長州
この話のソースを教えて下さい。
266 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:45
>>261 幕末長州は赤字になってないって。
複数の資料からそれは分かっているんだって。
267 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:55
4白政策とか知っているのかなあ?
268 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:05
>>260 長府以外は内高ということで決着がついたようです。
長府は、結局よく分からなかった。
あれ、佐賀県って福岡県の分知じゃなかったの?
270 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:12
>>268 だから長府も含めて朱印状はひとつだよ。
長府はそれで、萩ともめたでしょう。
271 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:12
>>269 そういえば福岡県に食糧を供給するためだけに存在する県だとか
えらく失礼なことを言ってた人がいた。
272 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:14
長府って、たしか一度取り潰しになってるよね。
273 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:30
274 :
日本@名無史さん:02/02/13 18:49
>>234 >経常歳入の22倍といっても、近代経済学(あるいはそこまで行かなくても
少し調べてみたけど、ここは間違えてるね。
年収の6倍で一年間で出る赤字の24倍です。
ちなみに撫育方のほうには100万両かるくあったらしい(8万貫以上)
275 :
日本@名無史さん:02/02/14 00:07
age
276 :
日本@名無史さん:02/02/14 20:32
鍋島藩のことは結論が出たの?
277 :
日本@名無史さん:02/02/15 19:21
島原藩 松平(深溝)家 他 70,000
福江(五島)藩 五島家 12,000
唐津藩 小笠原家 他 60,000
鍋島藩以外で24万石
鍋島藩併せて59万7千石
これが幕藩体制開始時の肥前の石高。(表高)
69万1千石、これが肥前の明治4年?の石高(実高)
千石以下は斬り捨て
鍋島本藩の石高は27万3千石(壱岐含む)
小城藩4万石
蓮池藩1万5千石
鹿島藩1万3千石
平戸藩13万2千石(壱岐含む、新田藩が入っているのかどうかは不明
島原藩7万9千石(筑後豊後が入っている)
唐津藩6万5千石
大村藩6万石
福江藩2万7千石
鍋島藩は支藩併せて34万3千石
鍋島藩以外では、36万3千石
併せて70万6千石。
壱岐やその他の地方も多少含まれるので、肥前自体は69万一千石
佐賀藩 鍋島家 357,000
これら三支藩内分された藩で357,000石から引かれている
(蓮池藩 鍋島家 52,000)
(小城藩 鍋島家 73,000)
(鹿島藩 鍋島家 20,000)
平戸藩 松浦家 61,000
平戸新田藩 松浦家 10,000
大村藩 大村家 27,000
島原藩 松平(深溝)家 他 70,000
福江(五島)藩 五島家 12,000
唐津藩 小笠原家 他 60,000
鍋島藩以外で24万石
鍋島藩併せて59万7千石
これが幕藩体制開始時の肥前の石高。(表高)
69万1千石、これが肥前の明治4年?の石高(実高)
千石以下は斬り捨て
鍋島本藩の石高は27万3千石(壱岐含む)
小城藩4万石
蓮池藩1万5千石
鹿島藩1万3千石
平戸藩13万2千石(壱岐含む、新田藩が入っているのかどうかは不明
島原藩7万9千石(筑後豊後が入っている)
唐津藩6万5千石
大村藩6万石
福江藩2万7千石
鍋島藩は支藩併せて34万3千石
鍋島藩以外では、36万3千石
併せて70万6千石。
壱岐やその他の地方も多少含まれるので、肥前自体は69万一千石
280 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:30
ついでに毛利藩
幕藩体制開始時の萩藩は36万9千石(表高で実質は52万石以上あったらしい)
この石高から内分されたと思われる。(長府藩は不明)
岩国(藩)6万石
徳山藩4万石
長府藩5万石
清末藩1万石
明治4年?の実高100万2千石
一千石未満斬り捨て
萩(本家)藩73万一千石
豊浦(長府)藩10万石
徳山藩8万四千石
岩国(藩)6万3千石
清末藩2万3千石
併せて100万1千石
斬り捨てしているので、少し減っている。
281 :
日本@名無史さん:02/02/16 15:05
貫高を石高に直すのはどうすればいいのか?
282 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:35
別件ですが、
家康が、将軍宣下を受けた時と、大政奉還をしたときの
日本国内の総石高のデーターギボンぬ。
283 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:42
>>
そういう調子で実高と支藩合計でそれ以外の藩の実力もきぼーん。
仙台伊達と宇和島伊達合計とか。
284 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:47
実質石高で100万石を越えてた大名ってどれくらいあるの?
支藩あわせて
でも、表石高よりも多かったり、少なかったりするんでしょ?
水増しするのは家格を上げる為とか、家格格付けラインぎりぎりまで石高を
減らして、賦役を減らしたりとか。
薩摩なんか表は72万(77万か?)だけど、密貿易を入れるとどれくらいになるか
解ったもんじゃない。
286 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:55
>>281 時期によって、相場が無茶苦茶違うから無理です。
幕末の私の持っている数字なら、
1石=1400匁
100匁=一両
だそうです。この数字から出してください。
>>283 気が向いたら、飯食った後ででも作ってみます。
287 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:56
288 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:03
千石以下は切り捨てです。
下の段は明治4年?と思われる年の石高(実高)です。
前田家
120万石を内分し石高を訂正しています。
加賀藩102万5千石
大聖寺藩7万石(後に10万石)
富山藩10万石
七日市藩1万石
計121万5千石
加賀藩133万6千石
富山藩13万石
大聖寺藩8万4千石
七日市藩1万3千石
計万156万3千石伊達家
仙台藩62万5千石(京都などの飛び地を含みます)
(内分された藩)一関藩(田村家)3万石
宇和島藩10万石
(内分された藩)伊予吉田藩3万石
計72万5千石
仙台藩98万5千石
一関藩(田村家)3万1千石
宇和島藩7万6千石
伊予吉田藩2万1千石
計111万3千石
289 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:05
島津家
薩摩藩72万9千石
薩摩藩74万7千石(日向、琉球含みます)
(薩摩藩は石高を籾殻で測っていたそうなので、実際はかなり凹むそうです)
山内家
高知藩24万2千石
高知新田藩1万3千石
計25万5千石
高知藩49万4千石
高知新田藩3万6千石(飛地と本藩からの支給併せて)
計54万石
>薩摩藩は石高を籾殻で測っていたそうなので
石高→米の収穫量
訂正します。
千石以下は切り捨てです。
下の段は明治4年?と思われる年の石高(実高)です。
前田家
120万石を内分し石高を訂正しています。
加賀藩102万5千石
大聖寺藩7万石(後に10万石)
富山藩10万石
七日市藩1万石
計121万5千石
加賀藩133万6千石
富山藩13万石
大聖寺藩8万4千石
七日市藩1万3千石
計万156万3千石
伊達家
仙台藩62万5千石(京都などの飛び地を含みます)
(内分された藩)一関藩(田村家)3万石
宇和島藩10万石
(内分された藩)伊予吉田藩3万石
計72万5千石
仙台藩98万5千石
一関藩(田村家)3万1千石
宇和島藩7万6千石
伊予吉田藩2万1千石
計111万3千石
佐伯藩は毛利家とは仲が良くて毛利姓をなのっているようですね。
この藩は、表高2万石
実高、二万八千石
だそうです。
島津家の佐土原藩を忘れていた。
表高2万7千石で実高3万6千石
本家あわせての表高は75万6千石
実高は、78万3千石
黒田家(最初52万石を分地)
福岡藩47万3石
秋月藩 5万石
東蓮寺藩 4万石
福岡藩52万7千石
秋月藩5万2千石
東蓮寺藩は本家に九州合併されてなくなってます。
計57万9千石
細川家(加藤家)
熊本藩54万5千石
宇土藩3万石
熊本新田(高瀬)藩3万5千石
谷田部藩1万6千石
熊本藩68万8千石
宇土藩と熊本新田(高瀬)藩はデータなし。
熊本藩に含まれているのかもしれない。
谷田部藩2万8千石
計71万6千石+?
池田家
鳥取藩32万5千石
(分地)狩野藩3万石
(分地)若桜藩2万石
岡山藩31万5千石
(分地)生坂藩1万5千石
(分地)鴨方藩2万5千石
分地藩の資料なし。本家に含まれているのかどうか不明。
鳥取藩43万3千石
岡山藩47万5千石
計90万8千石
広島藩42万6千石
(分地)広島新田藩3万石
(分地)三次藩5万石
赤穂藩5万3千石
広島藩49万4千石
赤穂藩は取り潰し。
三次藩本家に吸収される。
広島新田藩は領地も特に決まってなかったそうなので資料はないでしょう。
そのまま49万4千石
佐竹氏
久保田(秋田)藩20万5千石
(分地?)久保田新田藩2万石
久保田藩39万3千石
久保田新田藩1万9千石
計41万2千石
蜂須賀家
徳島藩25万7千石
徳島藩40万9千石
(支藩なし)
296 :
日本@名無史さん:02/02/16 21:55
支藩含めた外様実高ベストテン
一位前田家、156万3千石
二位伊達家、111万3千石
三位毛利家、100万1千石
四位池田家、90万8千石
五位島津家、78万8千石
六位細川家、71万6千石
七位黒田家、57万9千石
八位佐竹家、41万2千石
九位蜂須賀家、40万9千石
十位は鍋島家といいたいところだが、意外な伏兵、
真の十位は有馬家、36万6千石
鍋島家は十一位でした。
十二位は上杉家です。
外様以外だと、尾張藩や紀州藩、会津藩、越前藩などが入ります
298 :
日本@名無史さん:02/02/17 12:18
あげとくか
毛利家と島津が逆転しているのが意外な感じがしますけど、それ以外はまあ順当と
いったところでしょうか。でも毛利は実高との差がすごいですね。
301 :
日本@名無史さん:02/02/17 17:22
なんでも、関ヶ原で敗北してから、毛利家は家臣総がかりで、敗北の怒りを鍬と鋤にゆだねて、
怒りにまかせてあちこちを開墾しまくったそうです。36万石が10年後に54万石に
なったそうですから、わたくしは、これを「毛利リベンジ開墾行為」と呼んでいます。
「開墾は憎しみ深く」
302 :
日本@名無史さん:02/02/18 00:00
>>301 毛利輝元は敗戦後に初めて手腕を発揮したような気がしますが
下関が毛利家の手元に残ったのも幸いしてますよね。
しかし、よく徳川家があの重要な地域の領有を許したもんですね。
山陰地方の領地だけだったら幕末のあの活躍は無かったのではと思います。
303 :
日本@名無史さん:02/02/18 00:19
>>296 加賀前田家、支藩も含めると156万3千石ですか、すごいですね。
家老も大名というお国ですから、驚きです。
304 :
日本@名無史さん:02/02/18 00:23
>>302 よく言われるように長門・周防ははじめ、吉川侍従広家に与えられる予定だったそうですが、あれが、
あのまま、吉川がほいほいと長門・周防の太守になっていたら
毛利家臣たちはどうしただろうね。
305 :
日本@名無史さん:02/02/18 01:11
>>304 毛利家臣団に暗殺されたと思われ。
以外と秀秋も暗殺されたのを誤魔化しているのかも。
306 :
日本@名無史さん:02/02/18 01:20
307 :
日本@名無史さん:02/02/18 01:43
>>306 赤穂浪士よりはマシだと思われ。
あれは逆恨みだが、これは怨まれてもしかたない。
308 :
日本@名無史さん:02/02/18 01:54
>>302 昔の山陰は、鉄の産地である上に、銀など鉱山がおおくある。
また商業的に見ても北前航路は明治までは、日本の大動脈でありつづけた。
そんなにマイナスな土地ではない。
戦国初期日本最大の大名大内氏と争った、山陰の尼子氏の基盤はそんなに脆くは無い。
309 :
日本@名無史さん:02/02/18 01:55
>>305 >>306 そりゃないだろ
吉川氏はかつて甲斐源氏を将軍に推戴するべく朝廷との共謀のため
上京を急ぐ梶原景時一行を地元駿河で襲撃し激闘の末一族全員自刃せしめている。
鎌倉末期の安芸移住後も武士団としての活動期間、為政のノウハウは
中世にかけて居所転々とした安芸毛利氏よりずっと上だ。
吉川家こそ伊東、狩野、相良、宇佐美、河津、工藤らと同族の駿遠豆の大族出身。
当時血脈とは別に家には聖性があると固く信じられていた。
吉川家をつぶすような真似をされたら逆に毛利一族が血祭りにあげられていたはず。
どこの守護家も国人も血脈より養子縁組等の家柄重視が多かった。
血脈の話しと家柄の話しは全然別ということ。
例えば昭和の宰相近衛文麿も血脈という点では徳川時代に皇族が入っているから
皇胤ということになるが、もちろん大織冠鎌足の子孫として行動したし周囲もそれを欲した。
通常歴史ヲタは隆景賛美だが小早川断絶(明治に勅命で毛利三郎をして復興するが)を
招いたという点で隆景の罪は重い。
310 :
日本@名無史さん:02/02/18 01:59
>>309 家臣にも脅されたらしいよ。
そのうえコイツお人よしのうえ、気が弱いから、
逆らえなかったんじゃないかな?
311 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:05
小早川秀秋ってどうなの?
暗殺って可能性はあるの?
312 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:12
小早川は、岡山で、発狂した、というのが定説である。
313 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:25
豊臣恩顧の大名と秀秋はアヤシイ。
豊臣恩顧の大名で、大阪冬の陣まで残っている大名はほとんどいない。
暗殺されているかもしれない。
314 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:29
小早川の死後、岡山には5才の池田忠継と、森忠政が入っているね。
315 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:35
岡山城内には夜な夜な春日局と宇喜多秀家が幽霊になってきていたとか、
大谷刑部のたたりだとかいろいろな噂が流れていましたね。
316 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:36
317 :
野中幹事長:02/02/18 02:47
秀秋の母親の名前が春日局だとさ。
319 :
日本@名無史さん:02/02/18 02:54
>>317 なんで母親の霊が息子秀秋の居城に出てくるんだ?
宇喜多や大谷と霊バトルしてたのか?
320 :
日本@名無史さん:02/02/18 08:21
>>315 大谷吉継は死んだけど、宇喜多中納言は3代家光の時代まで
生き長らえたから生霊だな。
321 :
日本@名無史さん:02/02/18 14:39
>>296 前田の支藩ってどこを含めてるの?
金沢、大聖寺、富山、七日市で156万もないけど。
322 :
日本@名無史さん:02/02/18 14:46
>>321 表高ではなく実高の話だろ。
伊達や毛利を見てミソ。
323 :
日本@名無史さん:02/02/18 16:28
324 :
日本@名無史さん:02/02/20 22:05
1608年慶長13年 10月
周防玖珂郡萩領山代地方
検地反対を愁訴し、13村の庄屋死罪
1717年享保2年 12月6日〜翌2月
周防玖珂郡岩国領日積、由宇村
新法反対、石銀、欠米の免除を要求して強訴、数百人
1787年天明7年5月27日
周防佐波郡萩領馬神村
貸米、飢飯米の支給を要求
1831年天保2年7月26日〜8月28日
周防吉敷、大島郡その他萩領
長門三田尻、山口、小郡地方、ほか一円
産物役所の廃止、減免、畔頭の不正、741戸打毀、10万人参加、
1831年天保2年
周防都濃郡徳山領夜市村ほか
米騰、福川、富田の米屋打毀、200人(福川騒動)
325 :
日本@名無史さん:02/02/20 22:11
八丈島の逸話で、家光将軍の時代、難破した船の
漁師が磯に流れ着いて高貴な雰囲気の釣りをしている老人に出会った
老人「オマエはどこの出じゃ?」
漁師「備中です」
老人「備中はいま誰が納めておる?」
漁師「へぇ、松平の殿様でさぁ・・(なんだこのジジイ偉そうに」
漁師、あとで田舎に帰ったらその老人が旧主宇喜多公と分かったそうだ
326 :
日本@名無史さん:02/02/20 23:14
327 :
日本@名無史さん:02/02/21 12:24
誤爆万歳!!!
328 :
シャッフル?:02/02/21 20:02
>327 :日本@名無史さん :02/02/21 12:24
今日の正午に書き込みがあるのに下から二番?
329 :
日本@名無史さん:02/02/22 21:57
age
330 :
日本@名無史さん:02/02/23 11:11
石高の定義を誰かしろ!!!
331 :
日本@名無史さん:02/03/03 00:03
定義って?
332 :
日本@名無史さん:02/03/16 01:51
意味不明
333げっとー
333,333
334 :
日本@名無史さん:02/03/21 13:42
ちゃんとしろ
335 :
日本@名無史さん:02/03/29 23:53
おうよ
336 :
日本@名無史さん:02/03/30 00:06
337 :
日本@名無史さん:02/04/01 02:14
太閤検地によると、土佐一国で10万石もないんですけど。
山内家20万石を雄に越えてます。
どういうカラクリなんでしょう。
また上杉家も越後は40万石もない。周辺にも多少もってたのは知ってますが、
公称120万石、実は200万石を越えていたとまで言われているにしては、
幾らなんでも少なすぎじゃないでしょうか?
少なめに報告していたとも言われていますが、少々疑問です。
詳しい人補足お願いします。
338 :
日本@名無史さん:02/04/05 23:16
豊臣政権下で秀吉恩顧の大名以外は、秀吉に賦役を押し付けられるから、
石高を過少に報告したという俗説?がある。
339 :
日本@名無史さん:02/04/20 15:16
検地したんじゃないの
ようはやり方による、と。
341 :
日本@名無史さん:02/04/22 12:41
当時はそれだけの高しかなかったということでしょう。
342 :
日本@名無史さん:02/04/27 00:02
は?
343 :
日本@名無史さん:02/04/28 21:16
大石内蔵助は1500石
幕末の長、周は約100万石
345 :
日本@名無史さん:02/04/28 21:37
俺の肛門は800万石
346 :
日本@名無史さん:02/05/02 06:57
豊臣秀吉が、石高を改悪した。
改悪前は、一石が一人当たりの米の年間消費量に近かった筈なのに、改悪後は約2割減っている。
その分、見かけ上の石高が増え、税収や賦役のノルマが増えた。
無学の秀吉が石高を改悪したことで、一番迷惑したのは、米を作って税を納める農民でしょう。
347 :
日本@名無史さん:02/05/05 13:16
>改悪後は約2割減っている。
どんな本に載ってますか?
348 :
日本@名無史さん:02/05/10 01:55
名スレに認定
349 :
日本@名無史さん:02/05/10 02:12
350 :
日本@名無史さん:02/05/10 12:27
同じでしょ?
変わってないから。
351 :
伊達遠江守家中:02/05/10 13:03
291 :分かりにくいので訂正します :02/02/16 20:14
伊達家
>仙台藩98万5千石
こっちは飛び地入れてないですよね? 常陸・近江を入れると約102万石くらいに
なるはずです。田村家は内分だったかなぁ? 将軍から代替わりごとに安堵される
領地目録が別途で出ているかどうかが内分か分封かの違いなのですが。
今、職場なので資料がないです。帰宅後に資料を掘ってみます。
>宇和島藩7万6千石
>伊予吉田藩2万1千石
吉田藩成立後、しばらく7万石だった時代があるので内分ではないはずです。
格が下がるのを嫌った宇和島では、後日検地を行なって表高10万石に高直し
をしています。
吉田が表高より減ってるなぁ。旧宇和島領内では割に豊かな地域をうちの先
祖が分捕ったはずなのに。(笑)
もしかしたら、漁業の収益を込みにして「豊か」ということなのか。
>337 338
秋田家を常陸に5万石で移した後に入った佐竹家が20万石だ。
同様に過少申告では? 「太閤検地」と言っても地域的に指出検地だった地域
(豊臣家の官僚が実際に入らなかった地域)もあると聞いています。
352 :
日本@名無史さん:02/05/10 13:46
>>337 山内氏も入国当初は98,000石だと思ったけど。
353 :
伊達遠江守家中:02/05/12 00:58
>325
続きがあるやん。あと、一部訂正。
老人「オマエはどこの出じゃ?」
漁師「備中です」→「備前です」
老人「備中はいま誰が納めておる?」→「懐かしいのう。わしも備前の生ま
れなのじゃ。で、備前は今誰が治めておる?」
漁師「へぇ、松平の殿様でさぁ・・(なんだこのジジイ偉そうに)」→「松
平新太郎様と申すお方です」
で、ここから追加。
老人「松平ではわからんのう、実の姓を言ってみよ。」
漁師「わかりません」
老人「それでは、家紋は何か?」
漁師「輪蝶でございます」
老人「なるほど、それでは小早川ではなく池田三左衛門殿のご子孫だのう」
漁師(なんじゃこいつ。殿様に対してなれなれしいぞ)
で、
>漁師、あとで田舎に帰ったらその老人が旧主宇喜多公と分かったそうだ
という落ちになる。
他に、福島正則の酒船の話もあるが、今回は割愛。
354 :
日本@名無史さん:02/05/25 01:02
355 :
日本@名無史さん:02/06/09 13:00
356 :
日本@名無史さん:02/06/09 13:58
1590 伊達政宗玉造郡岩出山に居城58万5千石
1600 2万石を加封 60万5千石
1603 仙台に移る
1606 常陸に1万石を加封 61万5千石
1634 近江に1万石を加封 62万5千石
1660 伊達宗勝に一関3万石・田村宗良に岩沼3万石を分与 56万5千石
1671 一関廃藩により3万石を回収 59万5千石
1682 一関を田村建顕に与え岩沼を回収 59万5千石
1868 28万石に減封
江戸時代、新田開発に励み内高100万石以上と言われた。
維新後草高28万石に減ぜられ、現高6万7740石により伯爵。
1615 伊達政宗の子秀宗新封10万石
1657 伊達宗純に吉田3万石を分与 7万石
1696 新田検地により3万石を高直し 10万石
維新後草高10万石を安堵され、現高5万2420石により伯爵。
前戸主伊達宗城の国家への勲功により侯爵に昇る。
357 :
日本@名無史さん:02/06/22 22:53
358 :
日本@名無史さん:02/06/23 01:12
>>352 高知県では年に2回米がとれるらしい。
単純に2倍にしたのかな。山内。
>>352 それはウソ、検索すればわかるような事。
長宗我部家の検地で21万石と出てる。
360 :
日本@名無史さん:02/06/23 07:12
「長宗我部地検帳」だったスマソ
362 :
日本@名無史さん:02/06/23 14:14
>>360 上杉家が出て行った後の寛永検地でも越後は41万石しかありませんが・・・
363 :
日本@名無史さん:02/06/23 14:32
土佐は過小申告の王様だね。,
364 :
伊達遠江守家中:02/06/26 14:41
>363
秋田家5万石っていうのもあるぞ。
関ヶ原の後、常陸へ5万石で転封した秋田家の跡に入った佐竹家が20万石。
過少申告したばっかりに、約4分の1に減収。
本人は、南部・戸沢らとともに最上義光の与力で東軍として参戦してたのだけ
どね。
今だって収入を3/4もごまかせば追徴課税ががっぽり
自業自得の見本みたい話だね
366 :
日本@名無史さん:02/07/13 22:40
367 :
日本@名無史さん:02/07/27 21:01
なんでや
ちんこ
石巻高校は今年も甲子園ダメでした。
370 :
日本@名無史さん:02/08/09 20:57
あげるぞ。
371 :
日本@名無史さん:02/08/09 21:45
非農民(家族4人ぐらい)が一年暮す為には当時のお金でいくらぐらい必要なんだろ?
372 :
日本@名無史さん:02/08/10 20:30
あげるぞ。
373 :
日本@名無史さん:02/08/10 20:38
くれ。
374 :
日本@名無史さん:02/08/10 21:22
>>364 秋田実季は久保田19万石→宍戸5万石だから
佐竹義宣が20万5800石で久保田に入ったのは別におかしくない。
375 :
日本@名無史さん:02/08/10 22:41
バーカおめーよう俺の先祖は300石の上級武士だぞ!!
おめーなんか足元にもおよばねーよアホ
>>85
376 :
伊達遠江守家中:02/08/10 23:28
>374
だからぁ、秋田家は太閤在世中は約5万石って判物貰ってるから「表高」は
5万石なの。19万石は多分差出しなかった分を含めた内高。
で、佐竹家は義宣在世中は表高を記した領地判物貰ってないから表高未定で、
義隆の代になって初めて表高が確定したの。
第一、関ヶ原で何となく西寄りの中立をとった佐竹が領地減るのはまだしも、
東軍寄りで動いていた秋田家が毛利・上杉並みの比率で減封されないといけ
ないのさ。
単に、秋田家の内部以外は「秋田家の領地高は5万石」だと思っていたから
じゃないの?
それに、領地没収の小野寺家3万石や豊臣家直轄地2.6万石も佐竹領にな
っているから、徳川としては佐竹家を10〜15万石くらいに削ったつもり
でいたんだと思うが。
377 :
日本@名無史さん:02/08/16 20:25
>376
おまえうざい。
378 :
日本@名無史さん:02/08/21 17:08
なんだよ、素人スレか。ゲラゲラ
379 :
日本@名無史さん:02/08/31 22:40
380 :
日本@名無史さん:02/09/02 01:34
>378
>なんだよ、素人スレか。ゲラゲラ
それならプロのご意見キボンヌ。
381 :
日本@名無史さん:02/09/15 12:39
ゲラゲラ
>>375
当方のご先祖様は、4800石ですが何か?
383 :
日本@名無史さん:02/09/22 12:59
384 :
日本@名無史さん:02/09/22 13:12
無意味だ。
俺のDLの速度は実質2Mbps/sだ! の方が意味がある。
385 :
日本@名無史さん:02/09/22 13:16
「吉野家」や「友達にハッカーいるんだけど」といった面白い文章。
今では多様にアレンジされてあらゆる板、あらゆるスレで見かけることができる。
そこで
>>1もそのような文章を作ろうとしたのであろう。
多くの人に楽しんでもらえる文を、
飽きのこない見事な言い回しを夢見て。
試行錯誤の末、私は一つの結論に達した。
「
>>1ではあのような文章を作れない」
才能の差というものに
>>1は気づいてないということを思い知った。
だが私はそこで諦めたわけではなかった。
一人で気づかせることが出来ないなら手を借りればいい。
>>1を叩く基盤となる文章を考え、それを加工、添削していき
最終的に
>>1に恥ずかしい思いをさせればいいのだ。
このスレは以上の趣旨の元レスして欲しい。
しかし
>>1を叩くのに2getばかりでは芸がない。
二百レスで
>>1は少し反省する。一つのスレで五回くらい反省する。
>>1よ。
二百レス後、自分の書いた文の出来を考えて欲しい。
間違っても「おまえら市ね」などと陳腐なことは言わないで貰いたい。
>>1の発言が多くの人の不快感をかっている文章であることを理解して欲しい。
386 :
日本@名無史さん:02/09/22 13:21
>>385 長文返すほどの凝ったコメントに見えないが・・・
387 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:41
貫高について教えて
裏作で作った麦には年貢がかかっていたのでしょうか。
ご存知の方があれば、ご教授ください。
389 :
日本@名無史さん:02/10/07 02:21
390 :
日本@名無史さん:02/10/08 15:58
どなたか現在の大阪府柏原市が何藩で誰が納めていたか
わかる人いますか?
時期はいつでもいいです。
>>390 角川日本地名大辞典の「大阪府」を見てください
即わかります
大き目の図書館なら、どこにでもあります
393 :
日本@名無史さん:02/10/10 21:25
うちの先祖は、廃藩置県で500石返した代わりに、県の官吏の職を得ました。
食べれなかったそうです。
394 :
日本@名無史さん:02/10/26 12:38
395 :
日本@名無史さん:02/11/09 12:49
396 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:30
米沢120万石の上杉景勝の家老
直江兼継は30万石だ。上杉家でも別格扱いだった。
家老が30万石なんて、そこらの大名よりすごいな。
397 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:39
上杉さんて、直江さんに何か弱味でも握られていたの?
398 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:39
会津120万石
与板組
399 :
日本@名無史さん:02/11/10 17:44
ほら、前の養父ご主人様がアレでしょ
ホリホラレ
400 :
日本@名無史さん:02/11/14 12:26
名スレの予感
401 :
日本@名無史さん:02/11/14 23:57
石高制って、
米以外にも、米以外の農作物、その土地の特産品、
商業的価値などをわざわざ石高に換算して表現しているんだよね。
その辺、詳しい情報を希望。換算方法など。
402 :
日本@名無史さん:02/11/15 00:01
石高制は日本独特の制度。
これを見ても、米は日本ではただの農産物と違うことをあらわす。
この辺、外人には理解できないんだよな。
以前の一粒足りとも、外米は日本に入れないという意地が。
外国流でいうと、「小麦30万トンの領主」
て感じになるのかね。なんかダサいな。
403 :
日本@名無史さん:02/11/16 19:16
age
age
405 :
日本@名無史さん:02/11/19 22:48
日本は、米本位制とでも言うべきか。
ヨーロッバでは、とっくに金地代だったのにね。
406 :
日本@名無史さん:02/11/30 18:39
407 :
日本@名無史さん:02/12/09 14:34
ハフハフ
408 :
日本@名無史さん:02/12/22 23:09
ハァハァ
これは難解。必ずしも面積と比例しないから。
410 :
日本@名無史さん:02/12/30 15:10
何石ぐらいの収入があれば一人が生活できたの?
一石あれば一年食いつなげるというけれど。
それは食費のみまかなえるってことでいいんだよね?
412 :
日本@名無史さん:02/12/30 15:15
食費のみ、というか単に米飯の問題だけじゃないの?
ご馳走は望むべくもなくても、野菜だの煮物だの漬物だの汁物
だのは必要なわけで。そういうのまで含めて米一石の代金で
賄えるわけではないんでしょう。
413 :
日本@名無史さん:02/12/30 17:09
>411
あなたはかなりの少食ですね。
414 :
日本@名無史さん:03/01/08 12:47
だな
415 :
日本@名無史さん:03/01/08 16:07
>>411 >一石あれば一年食いつなげるというけれど。
どこからそんな話が出てくるの?
一石ってどのくらいの量になるのか具体的に考えなきゃ。
416 :
日本@名無史さん:03/01/08 18:04
一石=150キロ
一石=10斗=100升=1000合でw2戦争中は1人1日2合3勺の
配給 その頃は副食殆ど無く餓死寸前 昭和18年以降は米の代わりに
脱脂大豆、高粱などをあてた。満州より朝鮮の元山などから夜間中立国の
ロシア船にみせかけ運搬。昭和20年以降は米の配給ナク小麦粉,とうもろこし
えんどう豆(但しアメリカでは家畜用のもの)になった。昭和25年(朝鮮戦争勃発)
までつづく。
418 :
日本@名無史さん:03/01/11 09:27
石で人口推計ができるのかな?100万石で100万人の人口?無理でしょうナ
でも大雑把では可能かもしれない。一人年間消費量一石とかんがえれば。
上述の如く、たとえば北海道(蝦夷)松前の如く鰊鱈鮭昆布の収穫を換価
したところでは明確でないし。
(^^)
(^^)
421 :
日本@名無史さん:03/01/16 21:56
江戸時代初期の日本は約2500万石で人口2500万ぐらいだったと
記憶しているが?
422 :
日本@名無史さん:03/01/16 23:31
紀州藩は55万5000石で
人口50万だ。
423 :
日本@名無史さん:03/01/17 23:21
五石ニ人扶持って実際のところどれくらい貧乏なんでしょうか?
分限帳に載ってたうちの先祖の足軽なんですが。
424 :
日本@名無史さん:03/01/17 23:36
一人扶持が355日×5合だから、一石ちょい。
425 :
日本@名無史さん:03/01/18 08:33
と言うことは、実際は二人扶持ということであって、
五石というのは名目だけということ?
そのあたりがいまいちよく分からん。
426 :
日本@名無史さん:03/01/18 09:00
五石は現米じゃないかな?
五石の税収のある土地をもらうのではなく
殿様の蔵から五石もらう
427 :
日本@名無史さん:03/01/18 09:25
何石何人扶持について詳しく教えて下さい。
428 :
日本@名無史さん:03/01/18 18:30
>425
現米五石+ニ人扶持(=現米3.6石)で合計8.6石。
五公五民で禄高に換算すると、約17石というところですね。
429 :
日本@名無史さん:03/01/18 18:32
五公五民なんてそうそうないでしょ?
430 :
日本@名無史さん:03/01/18 18:44
普通は四公六民?
431 :
日本@名無史さん:03/01/18 18:58
五石ニ人扶持、現米じゃないでしょうかね。
5石と2人扶持(=約3.6石)で、現米約8.6石ぐらいでしょうか。
4公6民で計算して、石高表示にすれば、およそ高21石5斗。
これだけで生活している(できている)とすれば、最低限の収入でしょうね。
現在にすれば、月収10万前後というような感じではないでしょうか?
432 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:32
家賃・水道料・諸税なし
433 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:44
>>430 天領だと4公6民。
天領は税金も安く、非常に暮らしやすかったとさ。
ひどいととこは
8公2民なんて藩もあったようだから。
それとくらべたら天領は天国だな。
434 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:59
>>430 諸藩の制度はよく知らないので幕府の場合
蔵米は年3回支給(たしか50%、25%、25%)
扶持米は1人扶持=玄米5合の計算で、月1回支給
食う分以外は札差が換金してくれるので、現金で受け取り
435 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:01
むっちゃ基本的なな質問で申しわけないが「石」ってのは
籾柄つき?精米済み?
常識的には籾柄つきだと思うが、扶持米が籾柄つきだと
現在価値に換算するとき目減りしちゃうんだが……。
436 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:07
8公2民!!!
漏れが農民だったら死んでもいいから一揆しますよ。
437 :
日本@名無史さん:03/01/20 17:55
A)7反の田地と3反の畑とそこそこの山林を所有している百姓
B)5石2人扶持(現米8石6斗、高にして21石5斗)の下級武士
さて、どちらが裕福でしょうか?
438 :
日本@名無史さん:03/01/21 21:31
武士は食わねど高楊枝。
とは言うものの、腹が減っては戦はできぬし。
439 :
日本@名無史さん:03/01/21 21:33
>437
感覚でもの申すが、Aでしょ。
百姓としては裕福な部類じゃないのかな。
440 :
日本@名無史さん:03/01/21 23:06
>>435 漏れもよくしらないけれど、もともと米って精米しないで保存するものでしょ。
そのほうがおいしいよ。
441 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:41
442 :
日本@名無史さん:03/02/08 17:57
7反の田んぼから何石の米が取れるの?
443 :
日本@名無史さん:03/02/08 22:20
平均で7石前後じゃないの?
Aって今の感覚で年収2500万でセル塩のってる人くらい?
もともと1反の田は1石(約150キロ)の米が採れる面積として決められたが、
農法の進歩で江戸時代には良田では1反で約2石の収穫があった。
現在は平均で4石以上だとか。
仮に2石の米が採れる良田が7反とすると、収穫高は14石。
四公六民の場合は百姓の手取りが8石4斗。
畑や山林の収穫はどういう計算だったのかよく知らない。
ただ、百姓はかつかつに働いてそれだけの収穫を得るが、
侍の場合は内職もできるからな。
あとは家族の人数にもよるね。
446 :
日本@名無史さん:03/02/09 03:59
年収2000万円でマスコミ勤務の私はベンツで通勤しております。
江戸時代に例えるなら300石程の上級武士ですね。
まあ、収入だけで武士に例えるのはかなり勘違いしていると思うが。
現代に武士はいないからしょうがないけどな。
448 :
日本@名無史さん:03/02/09 04:08
一般サラリーマンがベンツでなど通勤出来ないので上級武士でよろし
449 :
日本@名無史さん:03/02/09 08:22
ただね、石高は持つ武士は絶対に最低二頭の馬と
馬丁とか下男・下女とか何人かの人間を雇わなくていけなかったので、
その生活は実際はかなり苦しかったんだけどね。
現在で言えば五百万のくらい収入の家でも
5,6人の人と二頭の馬をその中から雇わなくてはいけないみたいなもんだな。
まあ当時なら下男、下女の人件費なんてそうは高くなかったと思うが。
450 :
日本@名無史さん:03/02/09 08:36
451 :
日本@名無史さん:03/02/09 08:53
下男・下女の人権費は本当に安かっただろ。
飯食わせて、土間に寝かせて小遣い程度の給金渡すだけ。
それに人を雇うなんてのは
現代の家庭ではよほどの上流家庭でもなきゃやらないが、
昔なら車みたいなもんだろ。
昔はさまざまな作業を省力化する
便利な道具も無かったから人間を雇って替わりをするわけだ。
452 :
日本@名無史さん:03/02/09 12:44
>449
武士と言っても足軽とか徒士の家もあるから必ずしも馬は必要ありません。
453 :
日本@名無史さん:03/02/09 18:35
445>> 百姓も農間稼ぎがあるし、内職もできるだろ。それに質素だから下級武士よりは楽だろ。
454 :
日本@名無史さん:03/02/09 18:41
天気予報の日本地図みてると、上総って山ばっかなきがすんだけど
石高は結構たかくない?耕作技術とか、品種が強かったとかあんのかな
455 :
日本@名無史さん:03/02/09 19:03
>>448 サラリーマンはしれてるけど、中小企業のオーナー社長とかいるじゃん。
江戸時代に当てはめた時何人の人間を使うかで算出したら
かりに資本金800〜1000万のオーナー社長で社員が15人いたとしたら
江戸時代の15人扶持って果たして何石くらいの百姓(武士でもいいが)にあてはまるのかな?
456 :
日本@名無史さん:03/02/09 19:49
100石=750万円と聞いた事有る(河井継之助関連の番組だったか?)。
サラリーマンを武士に当てはめれば、8割がたは100石未満の下級武士となろう。
457 :
日本@名無史さん:03/02/09 21:47
15人扶持っていうと、1.8石×15で、実収27石だろ。
石高に直せば、27×2.5で、ほぼ高67.5石だろ。4公6民で。
458 :
日本@名無史さん:03/02/09 22:44
150石の百姓でも人口500〜600人の村で一番の金持ちと聞いた事がある。ソースは不明。
459 :
日本@名無史さん:03/02/09 22:57
フジテレビ・・・30万石
共同テレビ・・・5万石
460 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:06
私の御先祖は500石旗本です。
今で例えるとどんな生活でしょう?
461 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:43
460 年収4〜5000万という所じゃないか。しかし、それなりの家臣や
下男下女も抱えなければならないので、実質的な可処分所得となると、、、。
462 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:47
458>> 150石も持っていると大地主だろ。少なくとも10町以上の身代だろ。
自作だけでは耕作は無理。
463 :
日本@名無史さん:03/02/10 18:46
500石、現在でいえば高額所得だろうが、、、。家族だけでの収入なら。
7〜80石の用人を一人、士分の家臣を一人、若党〜足軽2〜3人、下男下女2〜
3人ぐらいは養わなければならないだろ。家臣や奉公人にも家族はいるだろ。また、
家族の厄介人もいるだろ。
464 :
日本@名無史さん:03/02/11 22:28
いまの感覚で年間(年収)8万円の暮らしなど中国の山間部じゃあるまいし。
年収800万で家族4人養うとして1人あたり年間200万円。1人月16万6千円の生活。
1両=200万円くらいの感覚ではないか?
465 :
日本@名無史さん:03/02/11 23:08
464 それはない。 高100石=多くて年収1000万程度だろ。
30俵2人扶持とかでも生活できていたんだから。
30俵2人扶持=多くて年収400万程度だろ。
1両=200万円などであれば、30俵2人扶持などの下級武士なども高額所得だぞ。
物価が違うのかなあ?
例えば一流企業のホワイトカラーで年収1000万で家族4人養う今の感覚で
考えない方がいいのかなあ?
江戸時代の100石といえば一握りですものね。
年間1石、10万〜8万の年収でよく食べていけると思うけど。。
一握り?そうなんだぁ。旗本なんか50石〜500石のものが
全旗本の80%だけど。
468 :
日本@名無史さん:03/02/12 00:19
旗本自体が武士人口全体からすればごく一握りの階層だからね。
小藩では家老クラスが100石取りだったようなケースすら珍しくないよ。
470 :
日本@名無史さん:03/02/12 00:48
石高を現在の価値に換算するのは難しいよね。
でも、現代人の家計の支出で昔は不要だったものが多いから(クルマの維持費
やケータイ、種類の多い衣類など)、今よりはお金の必要が少なかっただろうね。
471 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:15
300諸侯は万石クラスだが1000石クラスの家老もスゴイ確率なんだよねえ。
472 :
日本@名無史さん:03/02/12 04:54
米1石は、たとえば江戸時代の貨幣価値でいかほどだったのですか?
それで当時何が買えたのか分かれば理解しやすいと思うんだけど。
473 :
日本@名無史さん:03/02/12 05:18
474 :
日本@名無史さん:03/02/12 06:34
萩藩の場合だと、「半知の馳走米」として家臣の年俸から半分を召し上げて、
借銀の返済に充てている時期が、文政期にあったから、単純に今の年収と比較して
考えることは難しいと思う。また、下男など武家奉公人への人件費など、
今とは違った出費もある。
当時とは、消費の傾向が全く違うわけだから、今の年収を参考にすることは無理がある。
475 :
日本@名無史さん:03/02/12 23:39
まあ現在の各階層の平均的な生活レベルを、当時の各階層の平均的な生活レベル
と比較することによって、それなりの比較はできると思われ、、、。
高100石、これは現在の感覚で言えば高額所得です。少なくとも年収1000万以上でしょう。
476 :
日本@名無史さん :03/02/12 23:58
旗本・御家人構成
宝永2年「御家人分限帳」 寛政年間(旗本のみ)「国字分武鑑」
0〜49石 13788人 112人
50〜99石 1130人 269人
100〜199石 1490人 883人
200〜299石 2476人 1085人 屋敷坪数 約600坪
300〜399石 1303人 837人 屋敷坪数 約600坪
400〜499石 339人 344人 屋敷坪数 約600〜750坪
500〜999石 866人 840人 屋敷坪数 約750〜800坪
1000〜1999石 445人 421人 屋敷坪数 約900坪
2000〜2999石 162人 160人 屋敷坪数 約1000坪
3000〜4999石 144人 142人 屋敷坪数 約1200〜1800坪
5000〜7999石 100人 106人 屋敷坪数 約2000坪〜2400坪
8000〜9999石 7人 6人 屋敷坪数 約2500坪
宝永2年(1705)
旗本 約5,331人 御家人 約17,213人
享保7年(1722)
旗本 約5,205人 御家人 約17,399人
蔵米取一俵=知行取一石
現米取一石=知行取二・五石
扶持米取一人口=知行取五石
米一俵60kgとする。平成十一年の東京における米の価格10kg3933円。(朝日年鑑)
これからすると米一俵=23、598円。それで知行高100石を見ると100俵になり、235万9800円。
値段の高い米5956円で計算すると357万3600円で月給20万前後のサラリーマン程度である。
〈大名と旗本の暮らし〉
477 :
日本@名無史さん:03/02/13 07:39
年収200万といえば、現在でいえば低所得者です。高卒の初任給年額でも、
それ以上はあります。
最低辺の士分の平均年収を、200万円前後と考えてよいのではないでしょ
うか? 諸藩の場合だと、30俵2人扶持ぐらいが、それに相応するのでは
ないでしょうか? 高にして35〜40石あたり。
中小藩だと、高100石は大身です。高級取です。現在でいう年収200万
などであるはずがありません。また半知などといっても、それは知行取りな
どの高禄者に限ってで、一律ではありません。下に行くほど削減率が少なく
なっています。下層では、実質一割とか二割です。
それでこの家禄以外に、役料他の諸手当が付き、老親の隠居料、家督前に出
仕した子息の手当てなどがついて、一家としての収入となるのではないでし
ょうか。
478 :
日本@名無史さん:03/02/15 02:11
一人あたり年間200万でしょう。
4人家族で年収800万。
そんなにある分けない
480 :
日本@名無史さん:03/02/15 18:19
小藩だと、隠居料6俵とか8俵、家老クラスで10人扶持とかですよ。
481 :
日本@名無史さん:03/02/15 20:38
>480
小藩てどれくらいのことを言っているの?
10万石以下?
482 :
日本@名無史さん:03/02/15 21:11
10万石なら大藩の部類だろう。少なくとも中藩であって小藩ではない。
483 :
日本@名無史さん:03/02/15 22:29
1万石とかの藩の場合ですよ。 中級藩士で33俵2人扶持ぐらい。10人扶持などにでもなると、もう上級藩士の一人です。
484 :
日本@名無史さん:03/02/15 22:41
1万石の藩に、士分の直臣は何人くらい?
30人くらいかな?
485 :
日本@名無史さん:03/02/15 22:44
小藩の家老と言うと、渡辺華山を思い出すな。
486 :
日本@名無史さん:03/02/15 23:51
1万石で30人はないでしょ。 100人以上はいるでしょ。足軽・坊主・中間
とかも含めると200人近いんではないでしょうか?
国許、大阪蔵屋敷、江戸藩邸(上・下)の管理や参勤など、30人では無理。
1万石くらいの藩で、家老といえば、まあ譜代で300〜400石くらいか。
487 :
日本@名無史さん:03/02/15 23:53
譜代門閥でなく、新規登用の家だと、せいぜい100石が限度でないでしょうか?
488 :
日本@名無史さん:03/02/15 23:55
私の知っている1万石の藩の場合ですがね。
489 :
日本@名無史さん:03/02/16 22:27
明治になっての禄制改革って、どのように家禄を削ったんでしょうか?
490 :
日本@名無史さん:03/02/16 22:49
>>484 前に読んだ本によると、1万石で約250人だそうですよ。
491 :
日本@名無史さん:03/02/16 22:56
250人(当主)が士分以上というのは無理でしょ。
高に直して平均40石(実収16石)としても、それだけで高10000石ですよ。
492 :
日本@名無史さん:03/02/17 12:39
おそらく490は軍役のことを指していると思われますが、軍役には士分以外も含まれます。
493 :
日本@名無史さん:03/02/17 12:40
赤穂の浅野家が断絶したときって、士分400人くらいいなかった?
494 :
日本@名無史さん:03/02/28 15:12
いたね
赤穂浅野家は53,000石だからね。
一万石で200人位というのは田原藩のことかなぁ。三宅家だっけ?
藩の財政は火の車だったようだけど。
496 :
日本@名無史さん:03/03/01 23:37
表高が10000石で、実質10000石なら、税収4000石くらいかよ。
内、支給給米総額2000石くらいとしたら、士分200人で、それ以下も
いるので、平均10石未満の手取りとなる。
悲惨だな。
497 :
日本@名無史さん:03/03/01 23:40
表高1万石、実質17000石、税収平均6500石ぐらいの藩で士分130〜140人。ある藩の場合。
498 :
日本@名無史さん:03/03/03 18:26
扶持(10人扶持とか20人扶持)をもらっていた富裕商人は、明治になって士族か?
扶持の処分はそうなったの?
499 :
日本@名無史さん:03/03/07 16:13
平民
500 :
日本@名無史さん:03/03/15 19:24
500
501
502 :
日本@名無史さん:03/03/29 08:58
蘆名盛氏 会津若松八十万石
503 :
日本@名無史さん:03/03/29 16:01
>>497 税収6500石をそのまま人件費に当てられるわけではないのでは?
藩の運営費、藩主の生活費もそこから出てるはずでは?
504 :
日本@名無史さん:03/04/10 20:57
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
507 :
日本@名無史さん:03/04/28 01:07
508 :
日本@名無史さん:03/04/28 01:13
公務員は帯刀、扶持米にすべき!
509 :
日本@名無史さん:03/04/28 01:42
公務員の給与を米で払うというのも財政対策としてはありだな。
日本人なら米食べるだろ?
510 :
日本@名無史さん:03/05/04 17:59
いいじゃん
511 :
日本@名無史さん:03/05/06 13:04
米を直接受け取ったと思ってるんだ(藁
ヴァカですか?
512 :
日本@名無史さん:03/05/21 11:18
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
514 :
日本@名無史さん:03/05/22 12:52
515 :
日本@名無史さん:03/05/24 00:18
慶長3年(1598)の検地石高(単位:石)
陸奥1.672.806
北陸道関
出羽 318.095 越後 390.770 佐渡 17.030 越中 380.298
能登 210.000 加賀 355.570 越前 499.411 若狭 85.000
関八州
相模 194.304 武蔵 667.126 上野 496.377 下野 374.083
常陸 530.008 下総 393.255 上総 378.892 安房 45.045
東海道
伊豆 69.832 駿河 150.000 遠江 255.160 三河 290.715 尾張 571.737
東山道
甲斐 227.616 信濃 408.358 飛騨 38.000 美濃 540.000
近江 775.379 山城 225.262
近畿
伊勢 567.105 伊賀 100.000 志摩 17.854 大和 448.945
紀伊 243.550 和泉 141.512 河内 242.105 淡路 62.104
山陰道
丹波 263.887 丹後 110.784 但馬 114.235 因幡 88.500
伯鰭 100.947 出雲 186.650 石見 111.770 隠岐 4.920
山陽道
摂津 356.069 播磨 358.534 美作 186.018 備前 223.762
備中 176.929 備後 186.150 安芸 194.150 周防 167.820 長門 130.660
四国
讃岐 126.200 阿波 183.500 土佐 98.200 伊予 366.200
九州
豊前 140.000 豊後 418.313 日向 120.088 大隅 175.057 薩摩 283.482
筑前 335.690 筑後 265.998 肥前 309.935 肥後 341.220
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
517 :
日本@名無史さん:03/05/28 18:17
駿河・土佐って意外に少ないな。
518 :
日本@名無史さん:03/05/29 00:10
戦国時代前期は、石高で兵力を算出できた。
10,000石で250人前後。
今川義元は駿河・遠江・三河を領有していたけど、
駿河は興国寺城以東を北条氏に占有されてるし、
三河西部は織田系の豪族に支配されてた。
一部が尾張まで食い込んでたけど、
どう考えても60万石程度の大名だった。
一方の織田氏は北尾張の平定が完了し、
少なく見積もっても40万石はあった。
桶狭間で今川軍が25,000も連れてくることは不可能。
せいぜい10,000人くらいだったと思われる。
これに対し、織田軍の兵力は10,000近い。
つまり、『信長軍』が2,000人であって、
桶狭間で戦った織田軍は5,000人以上だと思われる。
519 :
日本@名無史さん:03/05/29 01:27
520 :
日本@名無史さん:03/05/31 10:55
>>518 そういう見方をしていると、歴史が楽しくて仕方ないだろうな。
素直に羨ましいぞ。
521 :
2ch乗っ取り計画:03/05/31 11:17
でもどうやって今川軍に勝ったんだろう?
>>518 戦国時代前期は、石高で兵力を算出できた。
しかも戦国時代前期って・・・しかも桶狭間は前期ぢゃねぇだろっ!!
戦国時代中後期頃、主に南関東では貫高で兵力を算出できた。
槍持ち足軽であれば二貫四百文前後・・・最低でもこの位でないと
※西国と東国では一貫文の相場が違っていたため計算できず。
また豊臣政権までは石高との相場も極端な資料の不足と急激なインフレーション、毎年相場が急変動している為、正確には計算できない。
釣りでつか?厨房でつか?できれば三戦板に逝ってねっ!!!!!!
523 :
日本@名無史さん:03/05/31 14:50
でもどうやって今川焼きになったんだろう?
524 :
日本@名無史さん:03/05/31 15:47
1568年信長が上洛した時、兵6万というのは本当ですか?
525 :
困っています:03/05/31 18:24
>>523 本来、今川焼きと言われる食べ物は、和睦の道具として使われた。
今川焼き→いまがわやき→今がワヤき→今がワヤ期
…逝ってくる。
527 :
日本@名無史さん:03/05/31 20:47
禿げ藁!!!!!
カナーリ無理があるが、今度彼女に持って逝くよっ
528 :
日本@名無史さん:03/05/31 21:19
意味わかんね〜
バカかよ!
あああセックスしてーーーー!!!
>>515
陸奥の167万石って少なくないですか?
関ヶ原時の上杉と伊達の所領だけで180万石くらいあると思うが?
もっとも一部出羽も入ってはいるが。
530 :
日本@名無史さん:03/06/12 21:17
>>529 上杉は陸奥以外では四十二万石ある。したがって陸奥国内は七十八万石
陸奥にいる他の大名は
津軽三万石、南部十万石、相馬四万石、岩城十二万石、伊達五十八万石
この他に常陸の佐竹の領地も少しあったらしいからあっているんじゃないか
532 :
日本@名無史さん:03/06/19 18:33
533 :
日本@名無史さん:03/06/25 16:44
武蔵が一番豊かだったのか
534 :
日本@名無史さん:03/06/25 18:15
幕末期(家茂期)の石高をフランに換算した数値
加賀前田石高約120万石 約2080万フラン
薩摩松平(島津?)約76万石 約1316万フラン
尾張徳川約62万石 約1090万フラン
仙台松平(伊達?)約62万石 約1082万フラン
フランで出されても多いのか少ないのかちとわからんが・・
現在の米収穫高で換算すると、一反で4石、一町で40石だろ?
200石取りの侍でも、5ha程度だと思うと・・・・・
俺農家の跡取なんだけど、米9ha、大豆・アスパラ6haで専業してる。
石高に直すとどのくらいになるの??
興味あるんで教えてください!
>>535 一反で8〜9俵でしょ?
江戸期は、その半分ぐらいの取れ高だから。
>>535 500石ぐらいでしょ。
江戸期なら上級武士、現在は年収1,000万ぐらいの農家??
P.S 私も農家(兼業)です。
539 :
日本@名無史さん:03/06/28 01:57
>>535 北条流に貫高にすると
田9ha=75.64反(秀吉以前の単位で)=37貫820文
畑6ha=50.43反(上に同じく)=8貫320文
太閤検地流に石高にすると
田9ha=90.77反=118石(中田として計算)
畑6ha=60.51反=60石5斗1升(中畑として計算)
ただし、太閤検地では家屋敷の広さが石高に換算されるので、
至急家屋敷の敷地面積を報告されたし。
540 :
日本@名無史さん:03/06/28 02:58
尾張藩の表高61万9503石3斗2升5合
でも実際はかなり裕福だったらしい
541 :
日本@名無史さん:03/06/28 11:16
>>540 石高に木が換算されていないからね。場所によっては魚や海藻を
石高に換算している藩もあるがどういう換算基準があったのだろ
542 :
日本@名無史さん:03/06/29 03:09
そりゃ物価が基準でしょうな。
543 :
日本@名無史さん:03/07/06 15:48
日向って、延岡、高鍋、佐土原、飫肥4藩あわせても、20万石にもならなくて、面積の
割にかなり少ない気がするけど、日向って貧しい国なのかな。
本家と分家一族のの石高が、総計100石だってさ。これって多いの?
545 :
日本@名無史さん:03/07/06 16:44
>544
多いとはいえないね。
546 :
日本@名無史さん:03/07/06 17:54
>>544 一人の場合で侍の最低ランクだよ
そこそこ裕福な足軽で五十石だから
547 :
日本@名無史さん:03/07/06 18:55
>>543 山川出版社の『宮崎県の歴史』を前に借りたときのかすかな記憶で言うと
日向国は実際の所、山が迫っていて耕地面積が少なく、米の取り分で計る
石高にすると少なくなった。。。とかいう話だったような。
ただ飫肥藩辺りはその山から出る材木を大坂にばんばん売りまくっていた
ので実際の収入はそれよりは多かったらしいです。
まあ、日向国の諸藩や鹿児島藩に言えることですが、朝鮮出兵の時の検地で
実高以上の石高が割り振られてしまったので、江戸時代以降も藩の経営は非
常に苦しかったのは確かなようです。
誰か詳しい方後よろしくお願いしまつ。
548 :
日本@名無史さん:03/07/06 18:57
>>523 江戸の今川家の傍にある店が最初に出したからじゃない?
549 :
日本@名無史さん:03/07/06 19:00
>>518 昔は、駿遠三の三カ国の太守今川家と、尾張半国の織田家がどうして張り合っていけたのか不思議でしたが、結局今川家はそんなに石高はなかったのですね。
もっとも、今川家は金山持ってましたけどね。
550 :
日本@名無史さん:03/07/06 23:22
>>543 火山灰ばっかりであまり米作に適した土地柄ではないようです。
鹿児島、熊本、長崎も土地質は悪いようですが、薩摩芋の生産
にはかえって好都合みたいです。
琉球って何万石?
552 :
日本@名無史さん:03/07/07 01:28
10万石かよ。
すくねーな。
埼玉10万石饅頭と同じだな。
554 :
日本@名無史さん:03/07/07 15:26
10万石もあったっけ?
公称十万石 実際はそこまであったかどうか。。。
今でも土地は米作りに適してないと言われるからね>りゅうきゅう
__∧_∧_
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\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
557 :
日本@名無史さん:03/07/13 00:29
_______ ___________________
|悲しいときー! | |レス来てると思って開いたら山崎だったときー!!|
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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( ゚Д゚) ( ´д` )
⊂○ ○ヽ ||””””””””””|
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~ ̄ ̄ ̄ ̄
559 :
日本@名無史さん:03/07/17 20:26
560 :
日本@名無史さん :03/07/18 00:15
>>555 祇園祭の御稚児さんみたいなものだ。
従五位下、十万石格だからね。
確か喜連川氏もそうでしょ?
名誉石高だな。(W
561 :
日本@名無史さん:03/07/18 00:55
喜連川は実質5千石の1万石扱いじゃなかった?
対馬府中藩10万石も、本当はそんなに無いでしょ。
それとはちょっと違うけど、吉井藩は1万石の小藩ながら、御三家や前田家と同じ大廊下詰め
562 :
日本@名無史さん:03/07/18 01:06
>>561 喜連川は実質5千石の10万石格
対馬も10万石格(はじめ2万石格):対朝鮮を重視して格上げ
松前は3万石格
「格」が付いていることを考えよう。
563 :
日本@名無史さん:03/07/18 01:09
飛び地の領地を持ってる大名家て結構ありますよね。
そこに住む領民達も本国の領民と同じ年貢率だったんでしょうか?
564 :
日本@名無史さん:03/07/18 01:11
>563
一概には言えない、というのが答えだと思うけど。
基本的には同じだろうけど、土地柄、状況によっては違う場合も有り得るでしょ。
ふつう。
565 :
日本@名無史さん:03/07/18 18:45
公家の石高というのは、これも所領高でつか? それとも、、、。
蔵米30石っていうのは、そのまま30石もらえるのでつか?
567 :
日本@名無史さん:03/07/19 04:37
>565
ふつう蔵米だと30「俵」じゃないの?
568 :
日本@名無史さん :03/07/19 05:34
昔、京都郊外の市の保有資料で、地割図を見たことがあるが、
聞いたことのある公家の名がかなり記入してあった。
「○○殿」みたいに、その筆の権利(その図からは所有権なのか年貢徴収権かは不明)
を保有する家の名が1筆ごとに細かく記載されていた。
小さいものでも積み上げれば、公家も領地(?)を持っていたんだなと思う。
実際には、大名家などの有力層との縁戚関係や有職故実・芸術関係の指南役などで
金を稼いでいた家もあるので、意外と裕福な家もあったらしい。
>>539 レスありがとうございます。
200石弱ですか。
家は、230平米ぐらい。
倉庫も、全部合わせて230平米ぐらいです。
200石ってことは、米の売上が去年1000万弱だから、200石のお侍は400万の手取りになるわけですね。
去年は、1俵:12,000円でした。
今年は、11,000円ぐらいになりそうとのこと。一昨年は、13,000円だったのに。
毎年、米価が下がってきています。
570 :
日本@名無史さん:03/07/19 07:37
>>568 >>565 知行地を持っている公家も居れば、蔵米取(幕府の大坂の御蔵から配布される)も居る。
571 :
日本@名無史さん:03/07/19 18:19
昔の200石取りで、現在収入に換算して400万はないだろ。
年収400万といえば中小企業の中年サラリーマンの年収だろ。
昔の200石取りといえば、そんなにいないぞ。全体的に見れば高給取の部類だと思われ、、、。
100石取り=現在の社会的地位・生活様式などを総合的に考えると、年収1000万くらいの
感覚では?????
572 :
日本@名無史さん :03/07/19 19:22
単純には比較できないが、小藩での士分扱いは
日向高鍋藩(秋月氏)で、概ね100石取り。
藩の大きさにも拠るが、100石取りはそんなに悪くない。
感覚的にいうと、571は妥当な線だと思われ。
573 :
日本@名無史さん:03/07/19 19:29
高鍋あたりで100石取りだったら上士の部類でしょう?
中小姓とか徒士だったらせいぜい数十石だったような?
572さんは高鍋の人?
574 :
日本@名無史さん :03/07/19 19:37
高鍋藩内ですね。
給人といって、士分扱いは、上にも書いたように大体100石です。
もちろん例外はあるでしょうけど。
100石なら高鍋では悪くとも中士には入るでしょう。
時代にもよりますが、家老が250石程度だったりします。
杵築の大原家も200〜250石で家老ですよね。
漏れは近世史はあんまり得意じゃないんで、
この程度で逃げておきます。
>>574 高鍋藩の給人は上士ですよ。
その下が小給(旧称大小姓)、そして中小姓、徒士までが士分。
私の母方の先祖が高鍋藩の小給の家でわずか40石ぐらい。
黒水家という武家屋敷が今でも残っているでしょう?
(曾祖母がそこの家の出身。)幕末には家老も出した家で、
江戸時代を通して町奉行や用人等、世襲家老家に次ぐぐらいの
家格があった家だけど、あそこで最盛期で130石ぐらい。
ほとんどの時代は100石前後だったはず。
576 :
日本@名無史さん :03/07/19 21:10
お身内ならそちらのほうが正しいでしょう。
スンマソン。
1万石の小藩だと、給人(石高表示)は50石ほどから、これは上士。
次が扶持表示、10人扶持〜20人扶持
その下が、俵扶持表示。30俵2人扶持で中級藩士でつ。国徒士という最下級の
士分で16俵とか18俵でつ。
30俵2人扶持で、現在でいう年収4〜500万前後ぐらいの生活様式でないと
生活そのものがなりたたないでつ。
蔵米30俵2人扶持といえば、石高に直せば、40石ほどでつ。
横槍ゴメソ。
副業とかが必要になったのは、どの程度の士分になるのでしょうか。
579 :
日本@名無史さん :03/07/20 01:30
赤穂藩足軽組頭の堀部弥兵衛の家が150石。
大石蔵之助は1500石。
赤穂藩は5万石台だったと思うが、江戸前期とはいえ、
結構金持ちの藩だったんだな。
580 :
日本@名無史さん:03/07/20 02:29
足軽組頭って足軽じゃないよね。
581 :
日本@名無史さん:03/07/20 02:44
うちの祖母の先祖は平戸で百五十石から二百石(時々変わる)だ
ったそうだがとても貧乏だったようだ。二百石ぐらいでは上級
武士ではないのだろう。ちなみに赤穂の四十七士の赤垣源蔵と
従兄弟で、家格はほぼ同格だったらしい。
582 :
日本@名無史さん:03/07/20 05:44
足軽組頭って近代軍隊でいう歩兵小隊長ぐらい?
583 :
日本@名無史さん:03/07/20 07:32
>>569 ちょっと待て、昔と今では全然、米の価値が違うんだぞ。
現代の米価を基準にするのは無謀。
584 :
日本@名無史さん:03/07/20 09:12
>582
消防くさい質問だけどさあ。
軍制が全然違うんだからなんともいえんだろふつう。
585 :
日本@名無史さん:03/07/20 09:16
>>581 とりあえず名前間違っているよ
赤垣×
赤埴○
赤埴源蔵はたしか馬廻200石。
馬廻りったら上士だろ。
それに上士かどうかと裕福かどうかは関係ない。
名目は200石でも財政事情でそのまま貰っているとは限らないから。
>>584 自衛隊しか入れなかった中卒なんだから、そのくらい我慢してやれよw
>>585 たまに町奉行など〜奉行といった役職になる人もいるのだが歴代
殆どが馬廻使番で、使いっ走りをすると言う事はせいぜい下の上
といった感じではないだろうか。
588 :
日本@名無史さん:03/07/20 10:51
>>587 馬廻使番=使いっ走り
意味がわからん、というか違うだろ
それに>下の上
という分け方に意味があるのか?
589 :
日本@名無史さん:03/07/20 11:00
>>588 幸橋とかいう橋の着工許可を江戸まで取りに行ってきたとか、
なんかあきらかにパシリになっているような感じなのだが。
590 :
日本@名無史さん:03/07/20 11:02
>589
仕事したことある?
君の言い方だとこの世の仕事はずべてパシリみたいだけど。
>>586 今自衛隊は、倍率が無茶苦茶高くて、そうそう入れるものじゃありません。
592 :
日本@名無史さん:03/07/20 11:17
>>590 使番っていわば伝令の事だから足軽ではないが侍の一番下だろう
し足軽を下の下と位置付けて、下の上かなと思ったわけです。
平戸藩に行く前は浪人だったのでその事を恥じて祖母達は先祖の
事を他人に口外しなかったそうで身分が低いのかなと思ってます。
593 :
日本@名無史さん:03/07/20 11:20
>>592 馬廻りっつったら上士だろ
すくなくとも中級以上だよ
594 :
日本@名無史さん:03/07/20 11:35
直参だと、石高表示が旗本で、それ以外が御家人て感じなのかな?
595 :
日本@名無史さん:03/07/20 12:54
平戸藩で200石といったらかなりの上士だよ。
藩士の中で上位1割には確実に入る。
596 :
日本@名無史さん:03/07/20 14:15
>>594 お目見え以上か以下かの問題。
領地持ちか蔵米取りかは関係無い。
かなり強引に計算してみました。
米価は常に変動しているが現在よりは価値があるとして一俵=一両
一両が四千文なので一文銭が十円玉くらいとして一俵=四万円
年貢率はまちまちだが一石で一俵とします。
すると百石取りの侍で年収四百万円くらい。
一石=一反として換算すると三町歩の田畠を持つ農民の取り分が二百四十万円
598 :
日本@名無史さん:03/07/20 17:54
二百石は、今で言うと中間管理職相当ってことかな。
599 :
日本@名無史さん:03/07/20 18:01
藩により違うが100石=750万円くらい。
200石ゆーたら年収1500萬エソ。
官公庁課長クラスかな。
マスコミ・金融・保険・商社などでいったら30代クラス。
600 :
日本@名無史さん:03/07/20 18:28
そんなところでしょ。
お百姓さん(専業農家)は一人当たりで何石くらい生産していたのだろう
602 :
日本@名無史さん:03/07/20 19:27
百姓の場合は、米の生産の他にいろいろある。食料の大部分は自家生産だし。
商品作物を作って売る収入。農閑期の賃労働や家内での内職など。
603 :
日本@名無史さん:03/07/21 23:27
保守
604 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:37
土地持ち=百姓
百姓といっても、土地持ちは一種の権益。律令遺制という感じで公での土地の売買は比較的難しかった訳だ
百姓の衛門名等はまさに職制制度の遺制。職制制度をゆずると言う感じで農地権益が移行すると思えば良いのでは??
土地持ちの武士団=百姓へ
領主層(徴税権有り)=上士へ移行
こんなかんじでは??
605 :
日本@名無史さん:03/07/22 21:39
601>>
養蚕地帯か否かで違う
養蚕地帯ならプラス副業で数百両でせう
渋沢栄一の実家みたいに
近世の都市後背地農村って実は貨幣経済なんだよね
606 :
日本@名無史さん:03/07/23 18:12
>養蚕地帯ならプラス副業で数百両でせう
特殊な事例でしょ?
607 :
日本@名無史さん:03/07/23 21:21
都市後背地で、近隣に郷町が存在して、商品作物を栽培。天領や小藩領(飛び地ならなおよし)
飛び地とかで、商業権益や政治権益をもらう代わりに徴税請負する地主役みたいな人々
幕末の農兵の軍役なんかだと、名主に500石相当の軍役を課して上士格にして、ただ働きさせたりしている。
組頭とかでも下士待遇で軍役課したり。
調子に乗って、騎乗で足軽・中間引き連れて代官所に出仕したりして失笑買ったりしていた訳だ。
農兵軍役の質で豊かさが解ると思う
608 :
日本@名無史さん:03/07/25 12:55
609 :
日本@名無史さん:03/07/30 21:53
(^^)
611 :
日本@名無史さん:03/08/03 20:16
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
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...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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613 :
日本@名無史さん:03/08/10 16:24
(⌒V⌒)
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⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
615 :
日本@名無史さん:03/08/15 21:56
616 :
日本@名無史さん:03/08/20 20:27
617 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:14
結局1万石でお幾ら万円?
618 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:20
8億円だボケ
619 :
日本@名無史さん:03/08/30 16:24
そんなに高いかなあ?
519> 1万石の大名に何人家臣とその家族がいたと思うんだ。現在の米の値段じゃないんだぞ。
1万石の実収分で、8〜10億円といったところだろ。
100石取り=現在の年収800〜1000万円程度だ。
30俵2人扶持っていう最低のレベルで、250万〜350万程度だろ。
計算式を教えてけろ
物価の変動とかあって難しいけど、、。
例えば、当時の大工の日当を、現在の大工の日当に置きかえる。
当時の大工の日当と米価を対比する。それによって、現在の大工の日当を
当時の米価に換算する。それを石高に換算する。そうすると、100石取り=
現在の年収800〜1000万円程度にはなるということだ。
そもそも、30俵2人扶持で家族がいたら、現在で最低250万〜350万は
いるだろ。そういう考え方でもいいのと違うか?
624 :
日本@名無史さん:03/09/01 19:14
>>623 100石取とは知行取になりますが
一般にこれは100俵の蔵米取と実収は同じとされています。
時代によって米価も金銀換算率も変わりますので一概には言えませんが
例えば天明4年の御張紙値段は100俵48両です。
1両60匁として、銀に直せば2貫880匁ですが
同年の京都の大工日当は2匁9分なので
米100俵は大工日当の約1000倍ということになります。
これを現在の大工日当に換算しなければなりませんが
平成15年の国土交通省の公共工事設計労務単価(大工)は18815円なので
これで計算すると100俵は1800万円程度ということになります。
626 :
日本@名無史さん:03/09/02 14:34
>>625 リンク先の換算を使って
大工の日当で比較すると1440万〜1920万
蕎麦代金で比較すると576万〜624万、となります。
ただここで忘れてはいけないのは、使用人の食費や賃金をここから支払わねばならないということです。
親子4人、若頭・中間・下女各1人とすると
必要な飯米は年間12石6斗なので、残る22石4斗です。
これを御張紙値段で換算すると、31両弱になりますが、
給金は若頭3両、中間2両、下女1両2分として
給金を払った残りは24両強になります。
つまり主食費と使用人への給金を引いて手元に残るのは
禄米のおよそ半分ということになりますので
サラリーマンの平均以上の高額所得とは言えないでしょう。
まあ対面を保つ身分的経費もかなり必要だけど、それらも含めて、100石取り
といえば高給取の部類でしょ。
武士全体での割合はわかりませんが、100石取りといえば、そんなにいないで
しょ。使用人を雇うことができる=現在での高額所得のステータスではないです
か?
30俵2人扶持などの最下級の士や足軽中間や一般百姓にくらべてみたら、高額
所得でしょ。
それから、家の所得ということであれば、隠居がいて、成人子弟がいて出仕して
いれば、隠居料や子弟の出仕手当てなどで、実質140〜150石程度になった
りもしますよね。
628 :
日本@名無史さん:03/09/02 19:29
>>627 「100俵6人泣き暮らし」と言いまして
100石取りは貧乏旗本の代名詞、旗本の最下層です。
したがって幕臣の場合だと、高級官僚とか大企業のエリートサラリーマンに較べられるものではないです。
また武家は若頭や中間などを抱えることを義務づけられているので
経済的余裕がなくても何とかしなければならないのです。
現在の富裕階級が使用人を雇っているのとは事情が異なります。
また農民との比較ですが、
なるほど一般の百姓に較べれば豊かです。
しかし持高50石の庄屋・名主と言えばごく標準的なレベルですが
年貢率3公7民として35石、つまり100俵の米が手元に残ります。
これだけで100石取の旗本と収入は同じになりますが
たいていは酒造などの副業をやっていますから
庄屋・名主クラスの農民よりは貧しいと見てよいでしょう。
百石取りは侍のほぼ最下層だろ。
630 :
日本@名無史さん:03/09/02 20:43
>629
江戸幕府の御家人は100石以下だよ。
20石やら10石なんぞろごろいる。
一般の藩であれば足軽じゃなくても
5石2人扶持なんて珍しくない。
100石取だったら平均以上だしょ。
微藩なら100石の奉行、200石の家老もおる。
>>630 五石では、生きていくの苦しいな。
ところで普通の武家屋敷って金額結構はるのかな。
632 :
日本@名無史さん:03/09/02 21:05
>>630 御家人の禄高のトップは200俵だと思いますが。
それと御家人は蔵米取ですので、20石とか10石とは言いません
50俵とか100俵と言い表します。
必殺仕事人の中村主水の身分は、足軽でいいよね。
>>632 ただの御家人でも数千石貰っている人も居ます。
上のほうにレスあるんじゃないか?
636 :
日本@名無史さん:03/09/02 21:28
637 :
日本@名無史さん:03/09/02 21:38
>632
うちは陪臣なので直参のことには疎い。故平にご容赦。
639 :
日本@名無史さん:03/09/02 22:24
持高50石の庄屋・名主って、全体の何%だ?
当時の生活様式とか、全体の中で相対的に比べると、100石取りといえば、上層階級に属すると思うよ。
100段階の80ぐらいにはなるだろ。
640 :
日本@名無史さん:03/09/02 22:29
そもそも江戸期の中流(士農工商)というと、石高に直すとどれくらいだ?
当時の所得を100段階に分けて50段階ぐらいの年間所得で。何石だと50/100になるんだ?
641 :
日本@名無史さん:03/09/02 22:36
>>639 幕臣に限定すれば、支配階級の下の方ということになろうかと思いますので
まあ上層と言えば上層ですが
現在とは社会構造が違いますから
現在に置き換えれば上層と言えるかどうかは判断が難しいと思います。
642 :
日本@名無史さん:03/09/02 22:46
現在の貨幣価値に置き換えれば
使用人の食費・給金を引いた実収入は300万〜900万。
まあ平均的なサラリーマンの収入と同じと考えてよいと思う。
仕事だっていわば下っ端の公務員だし。
643 :
日本@名無史さん:03/09/02 22:48
>641
甚だ分かりにくい日本語ですな。
何をおっしゃりたいか分からぬ訳ではないが、
武士ならもっとはっきり物申すがよろしいかと。
644 :
日本@名無史さん:03/09/02 23:10
>>643 では書き直しましょう。
こういうところでは、現在に置き換えて話をしたがる向きが多いようですが
社会構造が異なりますから、これを的確に行うことは困難です。
ですからあくまで近世社会における位置を見るべきだと思います。
100石取の旗本は上にも書いたように支配階級の下層に位置しますが
その暮らしぶりは楽ではなかったといわれています。
645 :
日本@名無史さん:03/09/02 23:20
つまりだ、現在の年収1000万のサラリーマンが、若頭150万、中間100万、
下女60万(各職住保証)程度を雇っているのが、100石取りの現実ということ
でしょうか?
体面を保つための費用が必要であったということで。まあ100段階にすれば、80
ぐらいではないの?
646 :
日本@名無史さん:03/09/02 23:22
また、100石取りは小藩だとれっきとした上士だよ。中企業の課長・部長レベルです。
647 :
日本@名無史さん:03/09/02 23:31
>>645 上の方にも書きましたが
旗本が中間などを雇用するのは、そういうものを召し抱えておく義務があるので
現在われわれが自由意志で家事労働などのために使用人を雇うのとは意味合いが違います。
ですからこれは脇へ置いて考えるべきかと思います。
>>644にも書きましたが、100石取りの旗本の社会的地位を現在に置き換えるのは簡単なことではありません。
単純に収入で考えるにしても
300万から900万というブレが出てしまいます。
900万ならサラリーマンの平均よりやや上ですが、300万ならかなり下ですよね。
幕府の足軽は、身分としては何に該当するのだろう。
649 :
日本@名無史さん:03/09/03 01:44
御家人
650 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/03 02:36
我が家のお殿様(旗本)は750石の田畑の領主様でした。
我が家の先祖は収量750石のピンハネをしていたそうですが、
実際江戸にいる旗本の御領主様の収入は何石くらいだったのでしょうか?
>>476によると、住んでいたお殿様の屋敷は百姓の我が家の倍ほどあります。
ちなみに、蔵にあった槍刀武具その他諸事情等から判断して、旗本の元足軽だったようです。
領地は奈良県奈良盆地の真ん中です。
651 :
日本@名無史さん:03/09/03 16:58
>>650 これまでの議論は教科書的な4公6民で計算してきましたが
現実の年貢率は領主によって、また時代によってさまざまですし
知行高750石といっても
用水路・溜池・堤防などになってしまっていて年貢がかからない部分(永荒)がどれだけあるのかとか
また年によっては不作で全滅した部分には年貢をかけないとか、いろいろありますので
なかなか一概には言えないのですよ。
もしもご自宅に史料が残されているのなら
それを見るのが一番確実かと思います。
652 :
日本@名無史さん:03/09/03 18:22
干拓などで、実際の石高が増えていたりもしますよね。
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654 :
日本@名無史さん:03/09/03 23:40
はっきりしようよ? 100石取りはどうなんだ?
100石じゃぁ、江戸で暮らすのは大変だよ。
バイトしなきゃならない。地方なら普通に
暮らせるんじゃないか。
656 :
日本@名無史さん:03/09/04 01:13
現代に置き換えてみれば100石取はそんなもんだろう。
ただ、江戸期の人口の90%以上を占めた百姓の生活を
現在に着替えてみたら、家があるホームレス程度であろう。
現代で言えば年収300百万の貧乏サラリーマン程度の100石取りだとしても、
周りのほとんどはホームレスに毛が生えた程度。
比べるほうが野暮というものだ。
657 :
日本@名無史さん:03/09/04 07:22
無宿とか乞食などがホームレス相当だろ。
658 :
日本@名無史さん:03/09/04 08:14
>>656 『貧農史観を見直す』(講談社現代新書)でもお読みになればいかがかと。
659 :
日本@名無史さん:03/09/04 11:05
『ヴィジュアルワイド江戸時代館』(小学館)によれば
田6反・畑6反の標準的な百姓の年収を18両としている。
このうち、年貢・村入用は3両強なので
手元に残るのは15両ほどになる。
一方100石取の旗本の年収は
年貢率4公6民で40石、米1石1両で換算して40両となるが
若頭・中間・下男・下女を1人ずつ雇うと
その飯米として6石4斗8升、給金は8両2分必要なので
手元に残るのは25両程度。
百姓の1.7倍程度に過ぎない。
しかも旗本は物価の高い江戸に暮らしているのだから
>比べるほうが野暮
とは言えないと思う。
660 :
日本@名無史さん:03/09/04 17:51
田6反・畑6反ていうのは標準的なの?
661 :
日本@名無史さん:03/09/04 19:07
>>660 「典型的な本百姓の像を描けば、田畑合わせて一町歩前後の耕地と屋敷地を持ち、それを家族労働力をもって経営している、といったことになろう」(木村礎『近世の村』)
「標準的な小農民は、一〇石前後の田畑、居住地である屋敷、耕作労働のための農具を所持し、一組の夫婦と子供にせいぜい両親の加わった単婚小家族の家族形態をとり、農業労働は一組の夫婦労働力に依存していたのである。」(『日本歴史大系』3近世(佐藤常雄執筆))
662 :
日本@名無史さん:03/09/04 21:54
貧農暗黒史観はだちかんゆうことばい。
>632
>それと御家人は蔵米取ですので、20石とか10石とは言いません
町与力は、全体で一万石だかをもらっていたんではなかったでしょうか。
664 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/04 22:36
江戸初期、奈良盆地の真ん中の我が集落の状況。
集落を二分割して、新田(本集落から遠方の水田)350石に入植したのは、
男5、女6、子2、牛1、僧1とあります。
農家一戸あたりの耕作地は70石となり、
4公6民なら、農家一戸あたりの収入は42石となります。
農家一戸あたり70石も耕作し42石の収入を得ていたのでしょうか?
それとも移住した人数の中には小作人の人数は含まれていないのでしょうか?
665 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/04 22:43
666 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:00
日教組は歴史をレイプしている。
子供に反体制マインドを刷り込む為に、下手な大名よりも裕福なエタ非人が居た事もあるという史実は隠したりするからな。
667 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:09
>>664 これは名寄帳をみればわかることかと思いますが。
668 :
658-659:03/09/04 23:12
>>669 申し訳ありませんが、私、マルクス主義史観に立っておりません。
>>670 なんで日教組の行った悪事の責任をマルクスに押し付けるんだ?
672 :
日本@名無史さん:03/09/05 01:05
>>661 「典型的な本百姓」
「標準的な小農民」
本百姓の典型や小農民の標準は分かった。
本百姓は百姓全体の何パーセントいたのか?
対して水呑みは何パーセントいたのか?
そこを明らかにしないと無意味。
673 :
日本@名無史さん:03/09/05 02:23
>663
それは正しい。
でもその中から蔵米としてもらいます。
ですからその土地は領地というわけではありません。
674 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/05 03:01
続いて、
>>667により、
江戸時代初期が江戸時代中後期とあまり変わっていないとすれば、
この集落は大百姓1戸、本百姓4戸、小作10戸となります。
江戸初期の5戸は本百姓のみで、小作は人数に入っていなかったことになります。
この集落の平均収入は、4公6民とすれば、
集落の総収入は210石となり、一戸あたり14石となります。
小作10戸の収入が60石、本百姓4戸の収入が60石とすれば、
大百姓一戸の実収入は90石となります。
この大百姓は時代によっては醤油屋などの副業も営んでいましたから、
江戸の平均的旗本より豊かであったと思われます。
675 :
日本@名無史さん:03/09/05 07:23
>>672 摂津国のある旗本領の明治初年のデータは以下の通り。
高持百姓15軒、無高百姓(水呑)10軒
高持百姓の内訳
10石以上 3
9石台 1
8石台 3
7石台 2
6石台・5石台・4石台・3石台・2石台 1石未満 各1
676 :
日本@名無史さん:03/09/05 18:25
だから当時の収入による階層を100段階ぐらいにわけて、それを現在の100段階に置き換えることによって
比較するしかないだろ。
水呑み百姓=現在の生活保護世帯の収入ぐらいと考えればいいんじゃないの?
677 :
日本@名無史さん:03/09/05 20:11
>だから当時の収入による階層を100段階ぐらいにわけて、
>それを現在の100段階に置き換えることによって比較するしかないだろ。
第1段落はかなり難しい作業ですし
第2段落はもっと困難です。
もちろん水呑と比較すれば、100石取の旗本はかなり上の階層になりますが
農民全体の上から1割〜2割程度と比較すると
たかだかその2倍弱の収入しかないとも言えるわけです。
まあそういうものと理解すべきではないでしょうか。
678 :
日本@名無史さん:03/09/05 20:16
上に述べたように現代と比較するのは難しいわけですが
社団法人都市開発協会の調査によると
昨年のサラリーマンの平均年収は741万円であるのに対し
東北農政局の発表(農業経営動向統計)によると
昨年の東北地方主業農家の農業所得は367万円であり
サラリーマンの年収は農家の約2倍となるので
100石取の旗本は現代日本の平均的なサラリーマンに相当するといったところかもしれません。
679 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/05 20:40
>>675の摂津国のある旗本領のデータが平均的旗本領の姿とすれば、
奈良盆地の真ん中の我が集落は特異的に豊かな旗本領であったと思われます。
理由として、
@江戸時代には大和郡山柳沢藩の武士の娘が何人も百姓屋に嫁に来ております。
又、柳沢藩に関わる物品が残っていました。
A平地集落であるのに、本百姓の屋敷は石垣に囲われていました。
B明治に入ると、本百姓5戸の中では高等教育を受けた者が数人います。
明治中期にもなると、帝国大学2名、医学校3名、ほぼ全員が中学に進学しています。
大正・昭和初期にもなると、大学・専門学校の進学が普通でした。
現在、本百姓の子孫で絶えているのは一戸だけです。明治時代に相場に失敗して逃げました。
ただ、小作農の入れ替わりは江戸以来昭和まで常時あったようです。
一方、元小作農で大学進学者が出たのは昭和40年代に入ってからでした。
この集落は、関西でも比較的豊かな農民がいる旗本領としても、
非常に特異な集落であることが判りました。
なお、当集落の近辺では、殆どの農地が寺社領か柳沢藩領でした。
何人もってどのくらい?
681 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/06 00:45
我が家で徳川200年間で3人又は4人。
他の4家でも同様とすれば、合計15〜20人になります。
本百姓5軒の内、有力2軒ないし3軒だけに嫁が来たとすれば、
6〜12人でしょうか。
682 :
日本@名無史さん:03/09/06 14:48
>>678 農家の実収入が、そんなに低いわけ無いと思うが。
683 :
日本@名無史さん:03/09/06 15:07
684 :
日本@名無史さん:03/09/06 19:50
脱 税 農 家 必 死 だ な
685 :
677=683:03/09/06 20:05
>>684 まあこのように記録=史料には引っかかってこない収入というものはいつの時代も存在するわけです。
したがって近世の小前・水呑を貧しいというイメージだけで捉えるのは問題かと思います。
686 :
日本@名無史さん:03/09/06 20:29
賃労働もしてたわけだしな。
687 :
日本@名無史さん:03/09/06 22:42
武士と武士以外を隔てるものは収入の多寡ではなく矜持だな。
馬鹿にされようが的外れであろうが、武士は食わねど高楊枝。
これにつきるねぇ
688 :
日本@名無史さん:03/09/06 22:53
>>687 16世紀前半には「百姓=王孫」という認識があったという朝尾直弘の説もあるし
また百姓は年貢を納める「御百姓」であるから
領主は「百姓成立(なりたち)」を保証し仁政を行う義務があると、百姓たちは意識しており
したがって「百姓成立」が脅かされた場合は
「御救」を求める一揆を起こすことは正当であるという論理をもっていたとする深谷克己の説もある。
百姓には百姓なりの矜持があるわけですよ。
689 :
日本@名無史さん:03/09/06 23:06
>688
なんだか一向宗と共通する匂いがするな。
ま、武士には武士の百姓には百姓の矜持があるだろうね。
矜持を失った武士はそれこそ武士の風上にも置けないのだが、
江戸も末期になるにつれてそういう馬鹿武士が増えていったのだろう。
ところで矜持を無くした百姓はどうなったの?
690 :
日本@名無史さん:03/09/07 18:27
明治になってからの家禄の削減の実例ない? 下士などは増えていたりしてるよね。
>673
旧事諮問録にある元町与力の谷村氏の答問では、
「私どもも上総・下総の給地でございました…(略)」とあり、
与力の取り高はとの問いに対し、「二百石でございました。」
と答えています。他の箇所でも、「二百石を棒に振る」云々という表現で通しており、
「俵」は用いていません。
一万石の給地の支配に関しても、給地役と称する者を南北二名、三十俵二人扶持ずつ
あてがって支配所を預けていた由。(給地役は代々で主に給地出の者を宛てたそうです。)
また、与力の中に給地世話番という者がいて、五千石内の出入り事やなにかを調べる
とか、南北の給地に関わる事柄については、両方の給地世話番が立ち会って吟味する、
といった具合だそうなので、一般の蔵米取りの旗本や御家人とは事情が違うのではない
ですか?
692 :
日本@名無史さん:03/09/14 10:21
693 :
日本@名無史さん:03/09/15 03:08
講談社文庫『江戸の旗本事典』
勉強になるよ
694 :
日本@名無史さん:03/09/25 22:15
695 :
日本@名無史さん:03/10/03 02:24
696 :
日本@名無史さん:03/10/03 02:35
697 :
日本@名無史さん:03/10/03 02:36
kuso? kusaso-
698 :
日本@名無史さん:03/10/03 02:44
699 :
日本@名無史さん:03/10/03 05:00
創価?
著者: 小川恭一
他に何か書いたことあるのかな? 評判は?
701 :
日本@名無史さん:03/10/04 03:37
>700
なぜそんなこと気にするのかな?
肩書きとか看板で読むのではなく、自分で読んで確かめろよ。
三田村鳶魚の最後の弟子らしい。
旗本関係の本いろいろ書いてる。
702 :
日本@名無史さん:03/10/15 21:39
703 :
日本@名無史さん:03/11/02 13:17
704 :
日本@名無史さん:03/11/02 13:19
>696
癖なんかないよ。
ごく普通の文章にしか読めないが。
705 :
日本@名無史さん:03/11/20 06:56
706 :
日本@名無史さん:03/12/04 16:58
保守age
707 :
日本@名無史さん:03/12/12 18:51
新米age
708 :
日本@名無史さん:03/12/30 23:22
今年は不作だったねage
あぼーん
710 :
日本@名無史さん:04/01/17 18:00
711 :
日本@名無史さん:04/01/24 09:49
保守age
712 :
日本@名無史さん:04/02/07 14:05
713 :
日本@名無史さん:04/02/08 23:59
保全あげ
mL( ^∇^ )グッチャー!
715 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:56
1万石以上の陪臣て誰よ?
716 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:10
>715 んなもん、いくらでもいるぞ
717 :
日本@名無史さん:04/03/02 15:45
例えば?
718 :
日本@名無史さん:04/03/02 15:57
加賀の筆頭大老・本多阿波守政重
719 :
日本@名無史さん:04/03/02 16:47
>717 たとえば 本多刑部1万石 横山蔵人1万石 津田内蔵助1万石 今枝内記1万4千石 etc. この辺りの家だと語るような話が 無いんだよ。第一あまり知らんでしょ?
ふーん
722 :
日本@名無史さん:04/03/03 04:03
筆頭大老???
723 :
日本@名無史さん:04/03/03 06:17
>721 数字は似ているな
724 :
日本@名無史さん:04/03/03 08:13
大老というのは幕府だけの職名ではない。
福岡藩にも大老という職名はある。
725 :
日本@名無史さん:04/03/03 08:28
726 :
日本@名無史さん:04/03/03 16:14
加賀まりこ
727 :
日本@名無史さん:04/03/03 16:16
加賀の野村家が1200石で、それでもかなり大きい屋敷だが、
1万石なんてーと、その10倍くらい広い屋敷だったのか?
屋敷面積は禄高に比例するものではない。
もちろん1200石より1万石の方が屋敷は大きくなるだろうが。
729 :
日本@名無史さん:04/03/03 22:59
本多の上屋敷と中屋敷がそれぞれ1万坪 隣接している。
730 :
日本@名無史さん:04/03/04 23:29
マジっか!
731 :
日本@名無史さん:04/03/05 02:19
今なら百坪あれば立派に豪邸と呼ばれるかな…
まー目黒区とかならそうかもね
733 :
日本@名無史さん:04/03/05 05:49
足立区は?
734 :
日本@名無史さん:04/03/06 02:51
たそがれ清兵衛は50石だボケ
本当に50石貰ってるならもっと人間的な生活ができるわけで、
やっぱ禄なんて名目上の数値なのかな。
足立区は高級住宅地だからなあ
治安もいいし
737 :
日本@名無史さん:04/03/07 04:13
50石てと今で年収400万円くらいだよな。
娘2人塾行かせるくらいわけねーよな。
家賃もかかんねーし。でも使用人雇ってたな。
清兵衛の時代になると、給与から天引きされる額が大きい。
実際の手取りは良くて3〜4割だと思われ。
739 :
日本@名無史さん:04/03/14 20:47
>>735 50石ってことは、アガリは50俵でしょ?
そんな楽な暮らしができるわけない。
その上、藩の「お借り上げ」が20石あるんでしょ?
30俵で家来を1人養わなきゃならないし。
740 :
日本@名無史さん:04/03/14 20:50
現代ほど、金を使うことはないのでは?
人件費は安いし、電化製品とか自動車はないし、庭で野菜とか作ってるし。
741 :
日本@名無史さん:04/03/14 21:09
ちょっとした豪農1件で50石くらいの収穫量があったから、
その豪農1人に50石取りの領主が1人が張り付いていることもあったのか?
742 :
日本@名無史さん:04/03/14 21:14
相給の村も多い。
743 :
日本@名無史さん:04/03/14 21:17
一部の大藩を除けば、地方知行制は廃止されているのだから、
実際には藩が一括して徴収した年貢米を藩士に支給してるんだろう。
744 :
日本@名無史さん:04/03/14 21:21
庄内地方の物価はよくわからないので
江戸のデータで考えてみると、たぶん暮らしはかなり厳しい。
30×0.4で支給される禄米は12石。
本人と母親、娘2人、家来の飯米は、娘2人で大人1人分と考えて
5合×4人×360日で7石2斗。
禄米からこれを引くと残りは4石8斗となるが
ここから家来の給金3両=3石をひくと
1石8斗=1両3分1朱弱しか残らない。
745 :
日本@名無史さん:04/03/15 16:13
というか、高30石取り(30俵)で下男下女は雇えないだろ。
50石→30石(20石借り上げ)なら、下男下女も解雇して
倹約しないと生活できないわな。
内職もしてただろ。屋敷地内を菜園にもしていただろな。
746 :
日本@名無史さん:04/03/15 16:22
家禄の他に、小額ながら役料とかもあったと思う。天変地異の際には、交付金もあったはず。
資産があって、それを運用することができていれば裕福だわな。
747 :
日本@名無史さん:04/03/15 16:24
>>745 雇える雇えないではなく、旗本や御家人はその石高に応じて
家来を従えなくてはならない。
百石なら三人、五十石なら一人というように決められている。
そもそも武士とは戦が仕事なんだから、平時においても兵は
養っておかねばならないのよ。
748 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:04
でもね、借り上げ20石なんかされると、雇えないよね。必要なときのみのパートとか
になるんですよね。
749 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:09
>>748 主君の許可なく家来を解雇したりすると、切腹ものです。
登城するときにもお供を連れて行かないとダメ。
3両というのは、若頭(侍)の給金。
>>744の試算では、中間・下男・下女はとても雇えないし
若頭を1年間雇えば生活が成り立たない。
そこで
>>748の指摘のように
外出時など必要な時だけ若頭・中間を雇うのが一般的だった。
751 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:18
>>748 パートなんて無理だよ。
兵の数は、将軍家から各大名家に達せられているんだから、
家来の数を削減なんかしたら、将軍家に対する謀反と取られても
しかたない。劣り潰しの対象にもなる。
大名が将軍に約束している兵の数は、大名が旗本や御家人に
割り振っているわけだから、勝手な人員削減は大名家としての
面目が立たない事態になる。
752 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:22
何だか建前だけを振り回している人がいるようだが。
753 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:30
氏家幹人の『小石川御家人物語』あたりを読めばよろし。
754 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:34
>>752 もっと高禄で家来が何人もいる家なら、普段必要ない家来は
召し放つもとも可能だけど、登城の際に共をする中間最低一人は
召し放つわけには行かないの。
清兵衛さんちは50石だと多分もともと割当が1人だろうから、
召し放つに召し放てないんだよ。
755 :
日本@名無史さん:04/03/15 17:38
米の価格って、幕末あたりは江戸時最初期に比べて半額以下に
なってたんでしょ?
その上40%もお借り上げでは武士も苦しかったろうな。
借金まみれなのも仕方ないね。
756 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:09
>>754 幕臣の場合はパートで雇用ですね。
>召し放つわけには行かないの。
と書いているので、譜代奉公人と捉えているようですが
諸藩でもパートであるかどうかはさておき
武家奉公人の多くは雇用ですよ。
吉田伸之氏や森下徹氏の論考を参照されたし。
757 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:14
召し放ち=解雇だろ?
758 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:18
江戸の幕臣の場合と、国元の藩士や江戸詰の際の藩士とは分けて考えなければ
ならんよ。
759 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:20
>>757 年季雇用であるという認識なら、異論はありません。
760 :
日本@名無史さん:04/03/15 22:24
1万石程度の小藩なら、10人扶持で上士に属するよ。10人扶持=18石で、
高に直せば45石だな。高100石取りなど、れっきとした大身だ。
中士の最高で33俵2人扶持(高に直せば、42石ぐらいか)とかだな。
下士の最高で17俵2人扶持(高に直せば、26石ぐらいか)とかだな。
だいたい高20石以上が、士分(徒士以上)だな。
江戸詰めなどになると、その間手当てや旅費、留守家族の割増扶持がある。
村の中での1軒前の平均的な百姓の収入というのはいくらぐらいなのかな。
田畑あわせて1町ぐらい持っている百姓とひかくしたらどうなるのかな?
761 :
日本@名無史さん:04/03/15 22:41
何だが議論がループしてますね。
前にも書いたんですが
田6反・畑6反の標準的な百姓の年収は18両。
このうち、年貢・村入用は3両強なので
手元に残るのは15両ほど。
762 :
日本@名無史さん:04/03/15 23:00
武家と違って百姓の生活は金がかからないからなー。
体面を取り繕う必要がない。
裃などの衣装って今では考えられないほど高価なものだったらしいね。
リーマンがスーツ1着を買うのとはわけが違って、家族が一ヶ月暮らせる
くらいの値段だったらしいから。武家は何かと物入りだけど、
百姓はそういった出費は少ないわな。
763 :
日本@名無史さん:04/03/16 04:06
武家奉公人や足軽は基本的に世襲ではない。
百姓の次三男などが体格等を審査されて召抱えられることが多い。
怪我や病気などで用をなさない場合は解雇となる。
764 :
日本@名無史さん:04/03/16 06:42
足軽は世襲でしょ
>>763 城下町にそういった雇用のための
労働市場が成立していますね。
766 :
日本@名無史さん:04/03/16 15:01
>>764 足軽は「基本的」に世襲ではない。
一部で譜代化の動きがあるが必ずしも成功してはいない。
767 :
日本@名無史さん:04/03/16 18:08
古着が流通していたよな。
768 :
日本@名無史さん:04/03/16 19:04
大藩の1万石の家老の家の500石くらい家老にも家老はいたのか?
家老の家老は藩主のことを何と呼んだんだ?
家老の家老は家老のことを殿と呼ぶのか?
769 :
日本@名無史さん:04/03/16 19:10
大藩の藩主って「お屋形さま」とか呼ばれないの?
770 :
日本@名無史さん:04/03/16 20:40
御所(ごしょ)の称 喜連川家
御屋方(おやかた)の称
@御三家、越前松平、松江越前松平
A島津、伊達、細川、毛利、佐竹、上杉、宗
御館の称旗本 山名、最上、横瀬
771 :
日本@名無史さん:04/03/16 20:57
豊島区立中央図書館の伊藤さん、かわいい。
772 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:37
>50石ってことは、アガリは50俵でしょ?
一石は一斗の10倍が基本だろ? 4斗で一俵とすると
一石は米俵2.5個分。
たそがれ庄内藩はどうだか知らんけど、
旗本はちゃんと支給されていたらしいよ。
773 :
日本@名無史さん:04/03/16 21:55
>>772 どうも基本が判っておられないようですね。
知行100石からの年貢は4公6民で40石=100俵。
774 :
日本@名無史さん:04/03/16 22:45
775 :
日本@名無史さん:04/03/16 22:46
地方の足軽など、家に資産があるよな。次三男とかで、少しばかり分け地を貰って。
776 :
日本@名無史さん:04/03/16 22:53
足軽は身分的には武士なのか?
778 :
日本@名無史さん:04/03/17 09:47
一俵にどれだけ、米が詰まっているかは藩によって変わってくるので、
単純に比較できないのだが
一俵の格差は違憲でござる
780 :
日本@名無史さん:04/03/17 18:31
>>770 「おやかた(屋形、館)」の号は室町大名にしか認められてないのだな。
スルーされた小笠原と京極が可哀想。
>>778 厳密にいうとそうだが実際は幕府が基準。
782 :
日本@名無史さん:04/03/18 09:29
>>778 基準に満たない重さの米俵なんか出荷したら
幕府のお咎めを受けます!
783 :
日本@名無史さん:04/03/18 17:25
784 :
日本@名無史さん:04/03/18 18:10
785 :
日本@名無史さん:04/03/18 20:15
やめろ。
786 :
日本@名無史さん:04/03/18 20:26
787 :
日本@名無史さん:04/03/18 20:27
おまえら、もっとエスキモーを見習え。
788 :
日本@名無史さん:04/03/18 20:33
>>787 温帯モンスーン地域の社会には、その地域なりの慣習がある。
789 :
日本@名無史さん:04/03/19 18:12
ところで、藩主一族の取り分はどれくらいだ? 1万石の大名だと。
隠居、奥方、総領、厄介など、どれくらい取り分があったんだ?
こういう研究ない?
790 :
日本@名無史さん:04/03/19 19:40
その当たりは良く知りませんが、
明治2年の段階で領内の原石の1/10が藩主の家禄として公認されています。
つまり四公六民として一万石だと×0.1×0.6=600石
それで一般的には旧藩主にとって有利になったとされているようですから、
多分江戸後期の藩主一族の実収のそれよりかなり少なかったんでしょう。
あるいは初期のころはもっと多かったかもしれませんが。
791 :
日本@名無史さん:04/03/19 19:43
×四公六民として一万石だと×0.1×0.6=600石
○四公六民として一万石だと×0.1×0.4=400石
792 :
日本@名無史さん:04/03/19 19:57
>>792に追加しておきますと
この時点での小浜藩の石高は
正確には10万3500石です。
余計なツッコミがあると困りますので、念のため。
表高一万石だと原石は1万石ないことが多いから、
実際はもっと少ないか。
795 :
日本@名無史さん:04/03/19 20:25
>原石
タームに当て字を使うべきではないかと。
796 :
日本@名無史さん:04/03/19 21:50
ありがと。
>>792 約半分もが藩主関係になるんですか。
年々の収入の他に、代々蓄えた資産というものもありますよね。
それらを運用して収入にするという方法もありますよね。
藩主一族の個人資産を藩に貸して利をえるとか。
嫁入り婿入りなど、持参金などもあるし。
797 :
日本@名無史さん:04/03/19 21:53
>>795 ご指摘ありがとう、当て字じゃなくて単なる誤字です。
失礼しました。
799 :
日本@名無史さん:04/03/21 18:17
同心だろ。30俵2人扶持。高に直せば40石ほどですね。
同心とは、現在で云う刑事だな。高40石=年収400万程度でよろしいか?
役得もあったので実収入はかなりでしょうが、、、。
800 :
日本@名無史さん:04/03/21 18:55
>>799 30俵2人扶持だと、受け取る米は15.6石。
これを米価で換算すると46万8千円〜78万円
大工の日当で換算すると468万〜624万円
蕎麦代金で換算すると187万〜203万円
400万程度というのは少し高く見積もり過ぎかと。
801 :
日本@名無史さん:04/03/21 20:11
同心=現在の刑事と考えると、
なんぼなんでも、現在で云う年収400万〜500万が最低のレベルかと思われ。
現在で云う刑事の年収を基準に、30俵2人扶持を現在の年収に換算するということでどうでしょうか?
802 :
日本@名無史さん:04/03/21 20:44
都知事の年収は2100万
警視総監と東京地裁所長の年収を合わせても
おそらく合計は7000万円ほどだろうから
刑事の最低レベルの10数倍ということになる。
一方、町奉行の役高は3000石なので
これは同心の約77倍に当たる。
現在の職業を基準に年収を換算するのは間違っていると思う。
803 :
日本@名無史さん:04/03/21 21:53
>>802 そうだよね。必ずいるんだよねそういう人って。
物価水準とか違うしねえ。単純に比較できないよね
804 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:07
しかしな、当時の同心の生活レベル(全体の中で)を考えるには、
現在の同等の職種(これも全体の中で)で比較しなければどうするのかな?
相対的に比較しなければ見えてこないよ。
805 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:16
同心は行政官であったりもするので
刑事と比較すること自体が間違い。
806 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:28
>>804 そうだよなー。
当時の暮らしぶりを理解するには、なんらかの現代に置き換えた
比較が必要だよな。
807 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:38
現在とは、生活のあり方・暮らしのあり方が違うから
どれだけ正確に置き換えることができるのだろうか。
現在に直すとどれくらいということを知りたい人は多くいるようだが
これをそこそこの精度で出すことはかなり困難だと思う。
それがわからないと当時の暮らしぶりは理解できないものなのだろうか。
当時の人びとの中で、どの程度のレベルにあるのかがわかるだけでは駄目なのだろうか。
808 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:45
それでは実感できない人が多いんだから仕方ない。
多少、不正確でも現代におきかえないと実感がわかないよ。
809 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:46
学術論文ならともかく、こういうスレであれこれ考えるくらい自由だしね。
810 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:52
多少不正確程度なら良いんだが、その程度で済むかどうかが問題。
1両を現在の貨幣価値に換算するにしても
何を基準にするかでずいぶん変わってくるし
近世前期・中期・後期・幕末と、時代によっても変わってくる。
現在の仕事から判断することの無謀さは
>>802で指摘したとおりだ。
歴史を見る時には
できる限りその時代の中で考えてみることが大事だと思うのだが。
811 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:53
つまり、当時の生活(年収)レベルを100段階として、同心が仮に50なら、
現在の生活(年収)レベルを100段階とすると、当時の同心は現在の50段階
ということでないの?
そういう考えでないと見えてこないよ。
同心=現在の年収200万のフリーターレベルではないよね。
また100段階説の方がご登場ですか。
813 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:57
同心が、当時の全階層の中で、仮に100段階あるなら、その中でどのレベルか
考えてみることは重要だと思う。
それを現在に置き換えることでいいんでないの?
814 :
日本@名無史さん:04/03/21 22:59
では、どのように考えるんでしか?
100段階とか、1000段階とかの中で相対的に比較することが最も有効ではないかと考えますが、どうでしか?
815 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:06
まあ、比較したい者はすればいいし、無意味と思うならスルーすればいいだけでは?
816 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:08
>当時の同心は現在の50段階ということでないの?
その推定の根拠は?
817 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:13
余談だけど、同心って副収入(賄賂)が物凄く多くて
かなりの高額所得者だったらしいよ。
818 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:21
>>813-814 当時のレベルの中で比較せよというのは
>できる限りその時代の中で考えてみる
という私の主張とほぼ同じだ。
ただしそれを現在と比較する時に歪みが出ないかという点に留意すべきかと。
つまり現在、下から30%あたりに位置する層の暮らしと
江戸時代のこの位置の暮らしとが
生活のシビアさにおいて同じであるのかどうか。
10段階でも100段階でも1000段階でもよいが
各段階の等価性が保証されないと、正しい比較ができない。
現在は生活水準が上がっているので
かなり下の階層でも、それなりの生活ができる。
単純な比較は誤解の元だと思う。
819 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:33
当時のレベルの中での比較だけじゃ、想像力のはたらかない者もいるんだから、
多少の不正確には目をつぶるくらいの度量がほしいね。
別に学術論文に書くわけじゃなし、単なる好奇心レベルで言ってるわけだから。
もっと興味がわけば、いろいろ読んで調べるようになるだろうし、
そこまでやらなけりゃそこまでってことでいいじゃない。
820 :
日本@名無史さん:04/03/21 23:54
だから多少のことには目をつぶりますよ。
でも多少で済むのかどうか。
で、そもそも30俵2人扶持は
江戸時代の人びとの中でどれくらいのレベルなのか。
同心は付け届けとかがあるから、その分の算定が難しいので
30俵2人扶持の御家人と考えると、収入は15.6石=15.6両。
田6反畑6反の百姓の収入(年貢などを払った残り)は15両。
したがっていわゆる「標準的な百姓」とほぼ同じレベルだが
江戸と地方の物価の違いを考慮すると、やや下と見た方がよいだろう。
ところがこの標準的な百姓が
100段階のレベル50かというと、そこのところが難しい。
近世後期になると階層分化が激しくなり
このクラスの百姓はかなり姿を消してしまうわけだし。
百姓だけで社会が構成されているわけでもないし。
あとは100段階説の方にお任せする。
821 :
日本@名無史さん:04/03/22 01:25
1俵を4斗で計算されてるようですが、
幕府ではいつから3斗5升俵に変わったのでしょうか?
>>820 >収入は15.6石=15.6両
どの時期の相場ですか?
823 :
日本@名無史さん:04/03/22 14:54
刑事ならば、巡査長止まりでも、それなりに昇給するが
同心は、余程のことが無い限り昇給は無いからなぁ。
退職金やら年金なども含めた生涯賃金で比較せにゃ
ならんのと違う?
824 :
日本@名無史さん:04/03/22 15:25
1石=5〜10万円くらいでいいんですか?
825 :
salome2(Part1):04/03/22 18:17
>>824 あてにならないうえに、時期によってずいぶん違うんですね。
たとえば、新撰組(浪士組)が結成された文久三年(1863)の小売米価を見ると、
京都と江戸とではだいぶ開きがありますが、
京都:171.6〜183.7匁/石
江戸:139.0〜139.7匁/石
金銀の交換レートは、1両=84.090匁。 つまり1石(150kg)は
京都:2.04〜2.18両
江戸:1.65〜1.66両
平成14年度の自主流通米の平均は、60kg=17,000円(283円/kg)なので、
ざっくりいうと 1両は約21,000円(京都)。
仮に米1kgを500円とすれば1両は37.500円(同)ってな感じね、計算上は。
うーん、やっぱりあてにならないなあ。
826 :
salome2(Part2):04/03/22 18:18
ちなみに、
寛政元年(1789):(金銀レート:1両=66.700匁)
(自主流通米の平均価格で計算・端数処理は全部適当・以下同)
京都:58.0匁/石 = 0.87両なので、1両=48,800円
江戸:82.3匁/石 = 1.23両なので、1両=34,500円
慶応三年(1867):(金銀レート:1両=154.060匁)
京都:1147.6匁/石 = 7.45両なので、1両= 5,700円
江戸: 586.6匁/石 = 3.81両なので、1両=11,100円
ま、雰囲気をつかむぐらいですね(笑)。
間違ってるかもしれないから、さきに謝っとこ(笑)。
827 :
日本@名無史さん:04/03/22 22:58
現在の年収200万でもいろいろだわな。
こつこつ毎月貯金しているヤシもいれば、ブランド品をローンで買いまくって
自己破産するヤシ、ローンで高級車を買って返済に四苦八苦しているヤシもい
るし。入るを計って出を制することができれば、それなりの生活はできるわな。
200万で満足(充足)できるヤシもいれば、2000万でも不満足(不足)
しているヤシもいるわな。
ところで、30俵2人扶持あれば、一家4〜5人が食うには困らない生活はで
きたんだろ?
828 :
日本@名無史さん:04/03/23 21:18
ところで、「さんぴん」(3両1人扶持)とかで家族を扶養することはできたのか?
829 :
日本@名無史さん:04/03/23 23:29
>>817 その副収入はやっぱり中村みたいに殺しとかですか?
同心とは、他の家臣に付けられた足軽の事。
831 :
日本@名無史さん:04/04/02 21:31
ちょっと、視点をずらしてごめんなさい。
近現代の軍の編成単位で大隊とか、連隊とかいうけど、
大隊で3、400人、大隊長は少佐クラス。
3,400人位の軍役と言うと一万二千石ぐらい、
連隊で1200人ぐらい、連隊長で階級は大佐。
1200人規模だと五万石位。
で、江戸幕府の老中はこのクラスだから
老中を官僚と見るか、閣僚と見るか、
なんだか、単位をずらすのは面白い、
832 :
日本@名無史さん:04/04/05 15:58
国家元首の大佐もいるな
834 :
日本@名無史さん:04/04/13 15:22
age
835 :
日本@名無史さん:04/04/13 15:31
宮本武蔵の『十七人扶持実米三百俵』ってどうよ?
石に直せば度の程度のモンなの?
武蔵の当時の評価の低さを表す論拠になってるが、個人的には低くはなかろうって思うんだが。
836 :
日本@名無史さん:04/04/13 17:56
>835
当時は戦国も終わり、武芸者に金をかけなくなっただけだと思うが。
837 :
日本@名無史さん:04/04/13 19:21
>835 石に直せば、376.5石ぐらいだな。
一石イコール千合
839 :
日本@名無史さん:04/04/13 23:06
>>835 尾張の柳生が500石じゃなかったかな。
新規召抱えの50過ぎのオッサンにしては厚遇されてるんじゃない?
対馬藩の一万石で朝鮮の役に五千の派兵をしているのはどういうからくり?貿易?
兵5000ということは朝鮮出兵における九州大名の軍役から
計算すると10万石級かな?
10〜20万石ぐらい、対馬にそんなに人間が居たのか?
843 :
日本@名無史さん:04/04/15 17:43
江戸期に入って、国守格だっけ、そんなんで10万石相当の格式を与えられたと。
蝦夷の松前もやはりかさ上げして貰ってた思ったけど。
薩摩もたしか琉球を含めてかなりかさ上げして貰ってたし。
僻地、外国と接する様な国には格上げしてるよね。長崎警備の二藩とか。
朝鮮の役の時は、玄関先みたいなものだからめちゃくちゃ頑張ったんじゃないのかな、
秀吉も金を相当渡しただろうし、最前線がしょぼくれてたら戦争できないもの。
対馬兵五千は与力か一時的な傭兵?
確かに浪人は深刻だったが。
845 :
日本@名無史さん:04/04/15 20:57
動員できるのは一万石で400人ぐらい?
>>845 士だけで勘定しるか卒も含めるのか時代はいつなのか・・・。
847 :
日本@名無史さん:04/04/16 15:29
よめよ
848 :
日本@名無史さん:04/04/16 20:07
対馬にはそんなに人が住んでいない
対馬の場合は陣借りの浪人連中掻集めたてところだろう。
851 :
日本@名無史さん:04/04/17 16:32
私も朝鮮出兵関係で質問
文禄の役の羽柴秀勝(秀吉の親戚の方)の所領は岐阜だと思うのですか何万石でしょうか?
直前が甲斐24万石だと思うのですがよく分かりませんでした。
852 :
日本@名無史さん:04/04/17 16:59
岐阜の領主は織田秀信。
それは羽柴秀勝の病没後ではないですか?
織田秀信は岐阜13万石ぐらいじゃなかった?削られてるかも
美濃はそんなに石高低かったっけ?
江戸時代も細切れにさていたからよくわからんが地形からいって生産性は高そうだぞ?
織田秀信が岐阜城主になるのは羽柴秀勝の没後。
知行高は13万3000石。
857 :
日本@名無史さん:04/04/17 20:04
秀勝時代はもう少し所領が広かったんじゃないか?
国ごとの米の平均反当収量ってわかりますか?
859 :
日本@名無史さん:04/04/17 20:52
豊臣秀勝は信長の四男である羽柴秀勝の遺領丹波10万石を受け継ぎ諸侯に列す。
秀吉に加増してくれと不満たれて改易される。
のち蜂屋頼隆の旧領越前敦賀を与えられる噂があったが
実際は大谷吉継が入封してるので眉唾のようだ。
甲斐府中に入り甲府城の築城を命じられるが間もなく美濃岐阜へ転封となる。
岐阜時代の所領が13万石ぐらいなので甲斐一国を領してたみたいではないようだ。
ただ織田秀信が入城時期が1590年なので豊臣秀勝と少しダブる。
というか安土城が秀次の居城の材料として破却されたあとの秀信はどうなってたんだろ。
860 :
日本@名無史さん:04/04/17 21:01
ここで言っている羽柴秀勝は豊臣秀次の兄の方だよ
甲斐一国二四万石を拝領していると思うが、違うのかな?
秀勝 秀次 秀保
863 :
日本@名無史さん:04/04/17 21:37
秀吉のお姉さんの子供?
どっちだよ?
865 :
日本@名無史さん:04/04/18 06:12
秀吉の転封も激しいよな。
小早川秀秋とか
866 :
日本@名無史さん:04/04/18 16:35
戦国の国高は?
明治の某有名人の家。「七石取り」だったらしいけど、貧乏なほうなんでしょうか?
868 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:26
で、岐阜は何万石?
文禄の役では羽柴秀勝は8千人の動員を命じられている。
869 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:32
8000人動員となると25万石あたりが限度だな。
870 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:36
結局は甲斐時代と同じ岐阜の24万石ということになるのかなあ
しかし、朝鮮出兵は西国主体なのに秀勝だけ領国が離れている
殿だから総大将格で戦闘はしなかったのか、病没しているし
871 :
日本@名無史さん:04/04/20 06:42
たぶんそう
水戸藩って表高35万石なのに物成5万石と異常に少ないけどどうして?
>>868 西国と東国では違うよ。奥州の伊達なんて3000しか出兵していない。
あと力を削ぐ事も目的としていたから、毛利家なんてかなりの出兵強いられていた。
874 :
日本@名無史さん:04/04/26 22:36
米でなくとも石高に反映されるのか?
常識、米が取れないところの国高はどうなると思っているんだよ。
876 :
日本@名無史さん:04/04/26 23:14
松前藩などのことか?
877 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:01
石高のフィクション性が指摘されるようになって
もう20年ほどになるわけだが。
878 :
日本@名無史さん:04/04/27 01:16
ウチのご先祖さまは、5万石の某藩で、200石をもらってたんだが――。
なんか「200石」って聞くとたいしたコトないよな……。
でも、親戚のオッチャンたちは、「たった5万石の200石はたいしたもんだ」って、
けっこー自慢気に話していたりするんだが……、5万石の200石って、じっさいどれくらいのモンなの?
だいたいでいいから、だれか教えてちょ☆
879 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:45
880 :
日本@名無史さん:04/04/27 02:47
それって、思いっきり「並」。
課長じゃ、場合によっちゃ「並以下」ね……。
なんだよ、全然エラくないじゃん!
まっ、ハナからそー思ってたけど……。
881 :
日本@名無史さん:04/04/27 10:47
現代の企業はそれなりの大学でて頑張れば課長になれる可能性はそれなりにありますが、
当時は課長は一生課長が普通で、逆に平はずっとそのままの事が多いですから、
課長になれる割合が現代よりはるかに低いわけです。
従って今の比較よりはたいしたものだと思いますけどね。
それと同じ5万石でも新興大名の場合、家臣は寄せ集めになりがちなこともあり、
由緒のある大名より家臣の石高は低めになるのではないでしょうか。
同じ5万石でも二百石の重みが違うことはあると思いますよ。
確か7万石ぐらいで譜代の筆頭家老が500石とか1万石級で家老が百石とか聞いたことがありますし。
まあどんな藩でも5万石で二百石なら上士には間違いないです。
882 :
日本@名無史さん:04/04/27 18:49
そうだね。能力次第だが、200石なら家老クラスも無理ではないレベルと思われ。
>>880 確かに上はいくらもいたけれど、そもそも支配階級がそう多くはない時代だったし、
なろうと思っても滅多になれるもんじゃないからステータスはあったと思うよ。
道行く人に片っ端から二百石取りと言ったら、確実に「へぇ〜」くらいの顔はされた
んじゃないかな。
それに五万石の中での二百石取りだったら、家老から直接命を受けて藩政の現
場指揮をとる地位だったろうと思うから相当なもんだよ。確かに「県庁の課長」な
らば日本全体から見たら大したことは無いけれど、「県庁内」や「県政の中」では
捨て置けないんじゃなくて?
884 :
日本@名無史さん:04/05/05 14:28
過去に数十の藩の史料を調べた経験則的ないい加減な言い方しか出来ないが、
3万石前後かそれ以下の藩なら200石の家老というのはザラにいるが
5万石の藩の家老というのはもっと貰ってるね。
赤穂藩の筆頭家老の大石内蔵助は1500石だったかな?これはかなり多い事例
だけど、350〜500石内外は少なくとも貰ってる感じだった。
885 :
日本@名無史さん:04/05/05 21:41
土佐藩の後藤象二郎は上士だが微禄じゃなかったっけ。
886 :
日本@名無史さん:04/05/06 23:27
微禄どころか、大名なのに150石ぐらいだったのって誰だっけ。
家康の逆鱗に触れて家格だけで経済実態のない大名家。
>886
新田男爵家ですな。岩松家百二十石。
888 :
日本@名無史さん:04/05/07 07:19
>>887さん、サンクス
この新田家は維新後はどうなったんだろう。
爵位はもちろんだけど。
120石だと、版籍奉還の時の家禄に応じての秩禄だっけ、
金が出たと思ったんだけど、お公家さん扱いだったのかな。
岩松コレクションとかもあるくらいだから、そこそこ
はもらったんだろうけど。
889 :
日本@名無史さん:04/05/07 22:29
岩松家は交代寄合。諸侯じゃないよ。
>>888 満次郎俊純の代で新田姓に復して「新田勤皇党」を結成、
官軍側で戦い、1884年7月8日男爵に任ぜられています。
次の忠純は貴族院議員。
次の義美は新田神社宮司を勤めましたが、義美には男子が
無く、外孫陽子(次女汪子の娘)を養子に迎え今に至っています。
あと明治に新田を名乗った由良貞時という人物もいましたが、
こちらは爵位を授けられませんでした。
891 :
日本@名無史さん:04/05/22 09:02
何万石?
千石
893 :
日本@名無史さん:04/06/18 21:11
894 :
日本@名無史さん:04/07/13 17:46
ほ
895 :
日本@名無史さん:04/08/02 11:56
age
896 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:44
初心者ですが一石とは十斗、つまり一斗缶10個の米のことを言うのですね?
>>896 一斗缶は18リットルの容積の液体は入りますが、一斗の米は入りません。
899 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:27
age
900 :
日本@名無史さん:04/08/27 12:39
901 :
日本@名無史さん:04/08/27 12:42
902 :
日本@名無史さん:04/09/09 17:05
朝鮮の1石は何リットルでしょうか?
日本國之一俵以我國官斗量入八斗六升者也
という記述があります。
904 :
日本@名無史さん:04/09/29 19:27:15
age
905 :
日本@名無史さん:04/10/02 17:01:30
>>900 地域によっては戦国時代から石高制。
全国的に石高制に統一されたのは太閤検地からだけど、
近畿地方などは、もっと早くから石高制だった。
貫高制は、近畿から遠い遠隔地で普及していたものの、
戦国時代頃から銭貨が不足してきたためか
石高制に移行する国が増えつつあった。秀吉以前から。
高100石取りの武士と、自作田1町畑と山林少々持っている百姓(農閑稼ぎもできる)、どっちが裕福でしか?
908 :
日本@名無史さん:04/10/02 20:40:59
>>906 そういう話は以前もしたような気がするが
百姓の経営規模を見るときに、通常は持高を使う。
所持している田畑の面積を用いないのは
地域によって単位面積あたりの収穫量に差があるので
面積で較べても比較ができないからだ。
それに時代差も無視できない。
例えば17世紀初頭の東北で1町の田畑を持つ百姓と100石取りの武士を比較するのと
18世紀の畿内で1町の田畑を持つ百姓と100石取りの武士を比較するのでは
ずいぶんと差があるように思う。
だからあなたの質問に的確に答えるのは困難かと。
909 :
日本@名無史さん:04/10/02 23:01:22
では、18世紀の畿内で1町の田畑と山林少々を持つ百姓と100石取りの武士の比較では?
910 :
日本@名無史さん:04/10/02 23:37:17
>>909 大雑把に比較するために畿内と書いたけれど
畿内だって地域によってかなり差がある。
もう1度言うが、百姓の経営規模は持高で見る。
所持面積で聞かれても、答えられない。
理由は先に書いた通り。
911 :
日本@名無史さん:04/10/02 23:53:06
では、持高20石の百姓と100石取りの武士の比較では?
912 :
日本@名無史さん:04/10/03 00:07:57
実質の年貢率がどれくらいになるかというのは難しい問題ですが
10%〜20%ほどでしょうから
20石の百姓の手元に残るのは18石〜16石。
100石取りの武士が手にする禄米は30石。
単純に比較すれば武士の収入の方が多い。
913 :
日本@名無史さん:04/10/03 00:27:32
快川国師は、織田信長に追われた武将をかくまい、この武将を寺から無事に逃がした
怒った織田信長はこの三門に、この快川国師と寺の僧達100人を閉じ込め、火をつけた
いわゆる織田軍の兵火焼き討ちであった
この三門の横には、この時の国師の言葉が漢文の碑となってたっている
轟々と燃える火の中で、この快川国師は座禅を組み、こう唱えて火定(かじょう)したそうだ
「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」
(安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭(しんとう)滅却(めっきゃく)すれば火自(おのずか)ら凉し)
心を無にすることが事が出来れば、火というにも涼しく感じるものだ、だそうだ
何か、悟りきった人というのは、本当に怖いものは、無いのかもしれない
>>恵林寺の快川国師は明智光秀と同じ美濃土岐源氏であり
光秀の師匠であった。
その為、この殺戮により、心を決めたのではないか。
無論、足利義昭の密書やイエズス会の影響もあったろう。
しかし下克上の時代、誰でも、すきがあれば、天下を
狙ってもかまわない。ようは勝つこと。
914 :
日本@名無史さん:04/10/05 13:58:23
水戸藩の実高はMAXどのくらいでしたか?
35万石は高直し後の表高だけど、実高は会津や庄内以下のような気がします。
915 :
日本@名無史さん:04/10/05 14:01:26
>>914 多く見積もって25万石。
15万石そこそこという説もあります。
916 :
日本@名無史さん:04/10/05 21:25:01
水戸藩の藩士の石高は? それも表高なのかな? 100石で手取り10石とかいう感じ?
917 :
日本@名無史さん:04/10/05 21:31:24
水戸藩は実高も表高よりかなり低いわけだが、
収入だけでなく、支出の方も他藩よりかなり大きかった。
江戸常府なので、物価の高い江戸にほとんどの藩士を
常駐させざるを得なかった。
他藩の藩主なら、江戸では他藩の手前見栄をはっていても
国許に帰れば質素な生活になることが多いのだが、
水戸殿の場合は常に御三家の体面を整えねばならず
常に火の車だった。
918 :
日本@名無史さん:04/10/06 14:51:49
大日本史編纂に関わる出費も相当大きかったとか。(抽象的ですまん)
919 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:19:15
助さん、格さんの家禄は? 何石?
920 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:58:22
水戸藩は烈公斉昭の時に藩支出が頓に増大している。
幕政に参与できないにもかかわらず阿部伊勢守に肝いりによって
幕政顧問に起用され、その上、斉昭自身艶福かで子供がおおすぎたから
>>915 その内の1万石程度は、付家老の中山が持っていっちゃうわけですね。
家光はなぜ加増してやらなかったのでしょう?
1才違いの叔父、頼房とは仲がよかったんですよね。
922 :
日本@名無史さん:04/10/10 23:16:20
佐々木助さん、1200石。格さん、800石。
烈公の検地で35万石が26万石に改められ、農民の年貢が軽減された。
924 :
日本@名無史さん:04/10/11 00:40:13
斉昭は加増を要求して断られてなかったけ?
水戸が少ないのは高松が12万石と他の御三家の分家より飛び抜けて高い
からじゃない。それを合わせてと考えられたのではないかと脳内妄想。
925 :
日本@名無史さん:04/10/11 01:03:02
>>923 そうじゃなく商品作物は増税したので、
少しぐらいの軽減に過ぎない。確か1万石ぐらい
>>924 その通りです。さらに、家光の時には甲府25万石に
加増の予定もあった。兄だからずいぶん優遇された。
926 :
日本@名無史さん:04/10/11 07:16:22
>>922 助さん、格さんはそんなにもらっているの?
遠山の金さんは500石、鬼平は400石と聞いたけど‥。
927 :
日本@名無史さん:04/10/11 10:07:05
>>924 高松12万石と高直し水戸35万石を足せば47万石だけど、
領地が離れた別個の藩だし、実高は尾張の半分くらいでは?
尾張の木曽や紀伊の山林がない方が財政的には厳しいような
明治政府に届けた数字で、物成(収入)5万石だから、実高せいぜい15万石くらいでしょ。よくこれでやっていけたもんだ。
930 :
日本@名無史さん:04/10/11 20:40:03
貧は士の常
半知借り上げによって水戸藩士の実際の俸禄は表記の半分だった。
932 :
日本@名無史さん:04/10/16 11:23:21
といやのこめをかいたいかいたい
933 :
日本@名無史さん:04/10/16 11:25:17
>>931 幕末あたりでは、お借り上げのない藩の方が少数派だったと思う。
934 :
日本@名無史さん:04/10/18 13:26:30
連年半知といふことはあるまい
>>934 岡山藩は元々三十二万石しかないのに五十万石あると設定して
家臣に知行を分配していた。だからずっと実質額面の六割ほど
の石高。
936 :
日本@名無史さん:04/10/21 16:17:56
それは半知というまい
彦根は京都警護とういう理由で預かりがりますが、
会津はどういう名目で預かりがあったのですか?
938 :
日本@名無史さん:04/11/05 11:04:35
石高と城下町の町方人口って比例するの?
939 :
日本@名無史さん:04/11/05 13:23:03
>>938 比例しないと思う。
例えば鳥取と岡山、ほとんど同じ石高で同じ家格だけど(鳥取の方がわずかに上)
岡山の方が大きな街だし。
仙台と鹿児島だと、石高では鹿児島が上だけど、街の規模では仙台が上。
仙台は加賀百万石の金沢の城下より上。
940 :
日本@名無史さん:04/11/05 14:14:20
>>939 明治9年の調査だからだから、江戸時代とは少し変動があるかも知れないが、当時の人口は以下の通り。
金沢 97,654
仙台 61,709
鹿児島 45,097
岡山 32,989
鳥取 28,275
仙台と鹿児島の比較は正しいが、その他は首肯しがたい。
現在の都市の規模で比較していないか?
941 :
日本@名無史さん:04/11/05 14:16:58
>>940 岡山と鳥取も正しいと思うが?
金沢は思い違いしていたな。
942 :
日本@名無史さん:04/11/05 15:37:26
>>938 私も比例しないと思うな。
江戸時代の初期はともかく中期以降は。
産業の育成状況や、流通の経路地であるか否かの
状況が人口に影響していたと思われ。
943 :
日本@名無史さん:04/11/05 15:49:55
彦根35万石 井伊家 石高の割りに小さな街
姫路15万石 酒井家 石高の割りに大きな街
萩37万石 毛利家 石高の割りに大きな街
小倉15万石 小笠原家 石高の割りに大きな街
和歌山55万石 紀伊徳川家 石高の割りに小さな街
944 :
日本@名無史さん:04/11/05 16:08:51
>>941 4700人の差はそれほど大きなものとは思えないが。
945 :
日本@名無史さん:04/11/05 16:10:14
>>943 表高は家格を見るときには重要だが
経済力を見るときにはあまり意味がない。
946 :
日本@名無史さん:04/11/05 16:12:55
>>944 少なくとも比例しているとは言いにくいよね。
>>943 つーか、後の大名が拡張を行なってない限り、最初に城や城下町を作った大名の石高で
判断した方がよかろうかと。
> 彦根35万石 井伊家 石高の割りに小さな街
は、最初に入部した時は18万石。
> 姫路15万石 酒井家 石高の割りに大きな街
は、姫路城と町を作ったのは52万石+分家分34万石 池田輝政
> 小倉15万石 小笠原家 石高の割りに大きな街
は、城と町を作ったのは37万石 細川忠興
そうでないと、24→57万石の最上義光が整備した山形5万石は城が石高の割には大き過ぎ。
948 :
訂正:04/11/05 16:58:20
>>943 萩37万石 毛利家 石高の割りに小きな街
949 :
日本@名無史さん:04/11/05 20:51:35
松代10万石も猫の額ほどの小さな城下町
6万石の松本のほうが城下町は2倍近くでかい。
950 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:04:16
名古屋がでませんね。約62万石なのに日本で4位の大都市。
石高比例なら金沢や鹿児島の方が大きな街でもいいはず。
>>950 名古屋は明治以降の産業化が功を奏したのでは?
かく言う俺もどこからどこまでが名古屋城下なのかは知らないけど
953 :
日本@名無史さん:04/11/07 13:17:15
>>952 名古屋は明治初年の段階ですでに全国第4位の都市です。
ただ前にも書いたことだが、表高はその藩の経済力を示すものではないので
表高と城下町の規模を比較することにはあまり意味がない。
しかも大きな都市は単にその領国経済の中心であるだけでなく
隣接諸藩・諸国を含む地域経済の中核なので
その部分にも目を配る必要がある。
藩単位で流通経済を見ることの限界に留意すべきかと。
江戸も石高の割にはでかすぎないか?
955 :
日本@名無史さん:04/11/07 14:09:11
京、大阪も石高の割りに大き(ry
956 :
日本@名無史さん:04/11/07 14:09:49
957 :
日本@名無史さん:04/11/07 14:11:06
958 :
日本@名無史さん:04/11/07 16:01:47
>>956 米作りしていないんだから‥。
江戸は仙台藩の名産ササニシキで賄われたときいた。
↑
間違い探し
>>947 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
名古屋の町人人口は1721の五万人から1865には七万四千人に増加した
城下町では稀な都市らしいよ
>>958 江戸にも田圃はあった。
仙台藩の米で賄われているのなら、その分仙台の人口が減る。
962 :
日本@名無史さん:04/11/07 22:17:39
>>956 >間違い探し
ササニシキが江戸時代にある訳無いじゃん
963 :
日本@名無史さん:04/11/07 23:56:34
>>961 >江戸にも田圃はあった。
0%じゃないんだから、自給自足できるほどの田んぼがないということじゃん。
>仙台藩の米で賄われているのなら、その分仙台の人口が減る。
余剰米を江戸で米取引したに決まっている。
江戸の米の2/3は奥州産、その中心が仙台藩。
>>961の発想は貧弱。
>>963 > 江戸の米の2/3は奥州産、その中心が仙台藩。
多いだけで、ちっとも美味くないのが仙台米。要は貧乏人専用。
出典:『大江戸番付事情』石川英輔
965 :
日本@名無史さん:04/11/08 07:27:50
>>964 江戸時代の寒冷地だし、品種改良の技術だってなかったわけだから、
まずいに決まっている。
966 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:11:56
津軽なんて5年に1度は凶作だったわけで、表高と実高の乖離は大きい。
太宰も嘆いておる。
967 :
日本@名無史さん:04/11/08 15:13:27
>>965 >品種改良の技術だってなかったわけだから
品種改良の技術はあったよ。
>>960 約150年で人口50%増ってそんな稀ですか?
他にもありそうな気がしますけど
969 :
日本@名無史さん:04/11/08 16:40:12
>>968 反論するなら例証を挙げるべき。
名古屋は宗春の開放路線が今日の繁栄の礎を築いた、といわれている。
970 :
日本@名無史さん:04/11/08 16:47:11
>>969 江戸は開府以来もっと急激な伸びを示したんじゃないか?
開府以前は数千人程度の漁村でしょ?
開封から50年目の人口は正確には知らないが、50%増なんて甘いものじゃないと思うぞ。
自然増じゃないし。
>968
商業都市ならあるかもしれないけどね。
だいたいの城下町は経済活動の盛んになる元禄ごろまでは増加、
以後は大きな変化なしというのが主な傾向。
だから名古屋は珍しい例といわれる。
あと江戸は諸大名の城下町と同じに考えるのは無茶じゃない?
973 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:44:00
>>972 んじゃ、仙台は?
千代時代からすると飛躍的な伸びじゃないか?
「大名の城下町」について話してるのに
それ以前の状態と比較して何か意味あるの?
975 :
日本@名無史さん:04/11/08 21:55:19
976 :
日本@名無史さん:04/11/08 23:26:02
977 :
日本@名無史さん:04/11/08 23:32:58
>>976 日本で米の栽培ができること自体、品種改良の具体例。
稲の原種はインド東部らしいんだが、そこの原種を植えても
日本じゃ育たないよ。
978 :
日本@名無史さん:04/11/10 00:14:54
国主級大名の城下町で非県庁所在地
二本松・米沢・宇和島・久留米・柳川・厳原
(参考)萩・津山
石高(表高)は城下町の形成を考える際に多少の参考にはなる。
この程度でいいんじゃない。比例するとまでは言えないにしても。
県庁所在地がその県にいた最大の領主の城下町でない例(東京・大阪・京都除く)ならもっと
ありそうだね。
それは明治政府の報復。
県名もまた同じ。
>>980 石川県とか静岡県について説明してくれ。
982 :
日本@名無史さん:04/11/13 22:12:26
金沢県が石川県となったのは薩摩出身の県令内田政風のせい。
静岡は廃藩置県の前に静岡藩と改称している。
弘前忘れてた…
>979
ちょっと数えてみたけど、
福島・岐阜・滋賀・大分
ぐらいかな。
城下町ではない県庁所在地だと、
青森・新潟・埼玉・長野・千葉・神奈川・奈良・兵庫・長崎・宮崎
こんなところでしょうか。
県庁所在地の多数が国主大名の城下町である。とは言えると思います。
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