1 :
名無しさん@1周年:
上述の質問。
2 :
名無しさん@1周年:2001/01/20(土) 19:40
日本史上三本の指に入る
その馬鹿さ加減で無数の無垢の民を殺した糞馬鹿。
笑わせることに、日本人はコイツの神社を建てた。
司馬信者がたくさん来るぞ。
4 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 19:57
彼を馬鹿にする人が真のバカと分かる、リトマス試験紙のような人。
2がその典型。
5 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 20:00
まあ2がバカの煽りだと言うことは分かるな。
乃木だけじゃ誰かわかんねえよ
7 :
歴史趣味:2001/01/20(土) 21:41
作戦の巧拙と人格とは全く別だぞ。
第二次大戦前半のドイツ軍は連戦連勝だが
ヒトラーが良い人だって奴はいないだろうが。
しかしこの人、日清戦争の時
旅順で虐殺に関わった疑惑があるんだよな・・・。
実際の虐殺の規模や、彼が本当に関わってたかどうか
よくわからないが。
8 :
歴史趣味:2001/01/20(土) 21:53
山川草木転荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
だったと思うけど
間違ってたら訂正して欲しい。
名作。
9 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 21:57
文人??
10 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 22:01
旅順では乃木より森鴎外のアホを非難すべき。
脚気の為士気はメタクソ。
11 :
歴史趣味:2001/01/20(土) 22:06
軍人で漢詩人。
日本人の漢詩人としては第一級。
12 :
歴史趣味:2001/01/20(土) 22:11
「征馬すすまず人語らず」
この一句が、戦場の悲哀を言い尽くしてる。
「斜陽に立つ」で、戦場の一日がようやく終わりつつある事を
万感の思いを込めて示す。
やはり上手いよ。
13 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 22:16
大室とらのすけの友達。
14 :
歴史趣味:2001/01/20(土) 22:21
日露戦後明治天皇の前で号泣しながら
自決の許しを請うて
「朕亡き後にせよ」と言われたという説がある。
必ずしも小説だけの話ではないようだ。
若いころは放蕩児で、遊郭に入り浸っていたそうだが
ドイツ留学後、驚くほど自分を律する人になった。
15 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 23:17
学習院の生徒だった志賀直哉は,この小心者の俗物老人が大嫌いだったようだ.
白樺派というグループは,ある意味,この老人への反発があったればこそ形成されたともいえる.その意味では,乃木の果たした役割も無意味ではない.
16 :
ばか:2001/01/21(日) 05:56
乃木だけがドキュソじゃなくて、児玉もホントは似たようなものなんだっけ?
17 :
名無しさん:2001/01/21(日) 07:24
彼の死後、乃木伯爵家は、毛利一族のだれかによって相続された。
18 :
エリス:2001/01/21(日) 08:18
19 :
日本@名無史さん:2001/01/21(日) 08:26
学習院の初代校長もしてなかった?
20 :
国道774号線:2001/01/21(日) 21:56
鯨と英雄は…を地でいく人
21 :
日本@名無史さん:2001/01/21(日) 23:17
>16
司馬の小説だと、無為無策の第三軍司令部の作戦方針を児玉が一人で
方向転換、指導したように書かれているが、これは殆どフィクション。
児玉が提案したとされる内容は、それ以前に第三軍と大山司令部の間
の協議連絡で決まっていた。
児玉が参加した会議では、これらの事項が確認されたに過ぎない。
22 :
南:2001/01/22(月) 00:31
馬鹿な奴だ
23 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 00:50
その稚拙な作戦能力にもかかわらず、
戦前までは教科書で賞賛された人物。
それは忠君愛国者であった、この一点につきる。
明治天皇を追って自分も自決し、妻もそれにならった。
ただ、これだけ。
でもこれだけやる人間は当時でさえ希少だったということかな。
西南戦争で薩軍に軍旗を奪われたこと自体、ドキュンの見本。
でも陛下の憶えは極端によかったらしい。
>>15 親の脛をかじっていながら親に反抗する
アホボンなどに嫌われてヨシ。
25 :
歴史趣味:2001/01/22(月) 01:08
白樺派
人道主義を唱えながら
みな挙って大東亜戦争賛美。
26 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 03:18
>25さん
君はどうなのか?
白樺派か?
27 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 03:21
なんで唐突にそんなこと聞くわけ?
28 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 03:37
>27
それは1に対して?それとも26に対して?
29 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 03:59
ごめん。26に対して。
30 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 06:18
乃木坂、乃木神社、乃木会館などに名を残す江戸時代の大地主。
31 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 12:15
日本では一国一城の主が開城をした場合、攻撃軍から城受け取りの
軍使を派遣するという慣わしがあり、乃木将軍の発意によりこれを
行なうため軍使として明智光秀の子孫に当たるという津野田大尉が
派遣された。津野田大尉は敵将ステッセル将軍の官舎を訪ね、明治
天皇の勅語を手渡し、乃木将軍との会見を約して帰ってきた。
水師営の会見場は日本軍の支配下にある赤十字の旗が屋上に翻る野戦病院
に当てられていた民家であった。定刻に着いたステッセル将軍は庭の
なつめの木に馬をつないだ。遅れて乃木将軍と随行三名が着いた。手術台
に白いクロスが掛けられて会見のテーブルとなった。「昨日の敵は
本日の友」、会見は友好的な雰囲気のなかで進められた。
戦争終結を象徴するためのこういう演出は乃木将軍ならではである。
のちに唱歌も作られて国民に広く膾炙した。英雄は優れた演出家でも
あった。
はあ?ドキュンおやじは帰れ
33 :
能力値こんなところか:2001/01/22(月) 12:27
政治 37
戦闘 55
知謀 3
采配 58
魅力 79
野望 12
34 :
特殊技能は:2001/01/22(月) 12:28
殉死
35 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 20:22
oomuro
36 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 20:39
陸軍の乃木希典は海軍の東郷平八郎とならび、大日本帝国時代の二大軍神。
しかも、陸軍であるためか、軍人の人気番付ではダントツの万年一位。
作戦能力は稚拙だったが、明治帝に殉死したことが人気の秘訣。
37 :
世界@名無史さん:2001/01/22(月) 20:52
タイコ持ちか。
38 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 21:10
夫婦で死ねればタイコの鏡や。
39 :
【^▽^】ジョーカー:2001/01/22(月) 23:24
昔の子供は、乃木さんは偉い人、と遊んでいたそうな。
40 :
なな:2001/01/22(月) 23:28
第三軍の稚拙な作戦で何人の国民が死んだか
41 :
乃木:2001/01/22(月) 23:53
部下の言うとうりにやってたら
息子も戦死しました
そっとしておいてください
42 :
>19:2001/01/23(火) 09:21
初代ではないよ。
皇孫ヒロヒト君を入学させるにあたって、校長に迎えられた。
43 :
非公開@個人情報保護のため:2001/01/23(火) 10:57
陸軍の 乃木さんが 凱旋す
という子供の歌もある。
・・・児玉さんがの間違いだろ・・・・
44 :
品性下劣永田寿康:2001/01/23(火) 12:18
乃木人気は、
「能力」より「努力」や「忠節」を重んじる旧陸軍、ひいては日本国民
の体質が如実に表れているな。
45 :
滝上飛曹:2001/01/23(火) 12:23
乃木さんは長州でしたっけ?年齢的に奇兵隊あがりじゃないよね?
>>36 要らんツッコミだけど、日露戦争での軍神は陸海一人づつ、
橘中佐と広瀬中佐のみな。杉野、杉野はいずこ。
そういや俺長崎でな。一度小学校のキャンプに行った
青少年の家かなんかの近くに橘中佐の銅像があったよ。
そのあたりの湾は本当は千々石湾、別名橘湾とも言う。
大人になってはじめて事情を理解できたよ。
47 :
日本@名無史さん:2001/01/23(火) 21:32
司馬遼太郎によって必要以上に貶められた乃木・・かわいそう。
48 :
>47:2001/01/24(水) 02:16
激しく同意。
乃木だけが稚拙、稚拙といわれるけど、当時の軍司令官クラスで多少なりとも
近代戦を理解し、満足に指揮できたと思われる将官は(児玉源太郎は別格とし
て)野津くらいしかいない。乃木は貧乏籤を引いただけ。
49 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 02:43
>45
勉強不足。乃木は長府毛利藩士の家に生まれた
(毛利の支藩。現在の下関市長府)
吉田松陰の玉木家(萩・毛利藩士)とも親戚関係。
奇兵隊あがりではない
乃木って何?
自殺なんかしちゃってさー。
自殺ってのは現実逃避。
だから俺は乃木が嫌いなんだよ
51 :
名無しさん:2001/01/24(水) 02:58
現世(うつしよ)を 神さりましし 大君(おほきみ)の 御跡(みあと)を慕ひて 我はゆくなり
乃木元帥の辞世の歌
52 :
清水宗治:2001/01/24(水) 03:41
53 :
酔剣:2001/01/24(水) 04:16
>48
もっと勉強してから講釈を言え!
乃木は軍司令官のなかでは、特別に拙劣。ほとんど武人ではない。
西南戦争で軍旗を紛失し(たぶん日本軍史上唯一の例、切腹もの)、
薩軍の翻弄され続けて、軍才が無いことを、天下周知の事実にした。
しかるに、
明治大帝の寵愛を良いことに、日露戦争の後発軍司令官を拝命するや、
凡庸な伊地知参謀と組み、近代要塞に真正面突撃を繰り返し、
あまたの将兵の犠牲を、ほとんど顧みない作戦指揮に終始し。
それは、
あたかも、悲壮な文学的高揚感を演じる、詩人かと見まがうほどであって、
たとえば、
機関銃陣地への夜間攻撃に、わざわざ目立つ「白だすき」を付けさせたのも、
彼の美意識‘詩情’の故だけであって、軍事的合理性は無視された。
(露軍の銃手達は、初めは笑い、後には黙ったという・・)
凱旋後も、幼年学校・学習院校長を歴任するなど、社交界の有名人になり、
明治大帝が崩御されると、遺勲にそむき、前近代的な『殉死』を行うなど、
まさに、『自らの美意識あって、衆人無し』の傍若無人ぶり。、
乃木の目には、お上御一人しかなく(中世の古武士の如く)、国家も国民も
映っていなかった。近代国家の軍人として、完全に不適合な人物である。
もてはやした、懐古趣味のマスコミも悪かったが、
乃木将軍が、明治大帝の寵愛のために、正当な批判を受けなかったことが、
その後の、帝国陸軍に、人命軽視の肉弾突撃至上主義を植え付け、
必要以上の精神主義を招き、大東亜戦争の悲劇を用意することになった。
>乃木は貧乏籤を引いただけ。
錯覚しないでほしい、乃木の為、貧乏くじを引かされたのは兵士であり、
帝国陸軍であり、その後の日本国である。
54 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 05:35
『日本人の死生観 上・下』(加藤周一+M.ライシュ+R.J.リフトン著.矢島翠訳.岩波新書)はたいへん読み応えのある本なので、推薦する。本書は乃木希典の殉死について賞揚もしないが一面的な非難もしていない。淡々と日本人にとっての「死」を文化現象として分析する視点が非常に鋭い.
加藤周一氏が、エール大学大学院で講義をした内容を基礎資料として、アメリカの2人の著名な社会心理学者が加わり、近代日本における6人のエリートの死生観を考察し、そこから日本人の近代化、価値意識を把握していこうとする力作である。取り上げた6人のエリートとは、乃木希典、森鴎外、中江兆民、河上肇、正宗白鳥、三島由起夫である。
6人はいずれも近代日本のエリートである。乃木と鴎外は権力機構の内部に、兆民と河上は時の権力に鋭く反対し、弾圧を受けた。三島は権力に近づこうとして、その内側に入れなかった。白鳥は権力に反対もせず、近づこうともせず。穏批判的距離を置いた。死生観は、世界観との関連で定義されるものだ。近代日本の知識人の世界観は現世的であり、個人の価値が集団の価値に従属する傾向が強い。
乃木と鴎外と三島は、宗教的信条をもたず、所属集団を超える特定の哲学を持っていなかった。兆民と河上は政治的イデオロギーを執り、唯物論に基く無神論、または「宗教的」立場をとり、それぞれ万事を超越する真理とみなしていた。
乃木希典―富国強兵を達成する為、日本は天皇という古い象徴を復活させた。文化現象としての乃木の死は、古い精神の持続性を証明した。天皇は共同体の一部であり。抽象的なイデオロギーより、具体的な共同体を重視する日本人の一般的な原理は、殉死に共感した。死は抽象的大義の為でなく、共同体それ自体を意識した。
森鴎外―伝統的な価値の中に、創造力と生命力を再発見しようとする、鴎外個人の闘いの姿を示す生き方。
中江兆民―明治社会は兆民の卓越した才能を認めていたものの、兆民の政治運動は、主立った社会変革を何ももたらさなかった。しかし、兆民は自分が社会の期待に添わなかったのではなく、社会が自分にこたえようとしなかったと思っていた。
河上肇―生きる事と死ぬ事を通じて自己をまっとうし、他者には勇気ある理想を、自己には内心の平和をもたらした。
正宗白鳥―キリスト教は白鳥を独特な作家にした。死における白鳥の甘えの感情は、白鳥に死の超越の情熱的な感情を与えている。
三島由起夫―三島の場合、死は衰えつつあった創造力の帰結であり、自殺は三島に恍惚感をもたらしたであろうが、観るものにとっては、遠い過去からの奇異な叫びに過ぎなかった。
55 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 05:40
ジャップ>>>>>>>>>>>>>>>>>ロスケ
56 :
考へるヒント:2001/01/24(水) 05:44
「日本人の生活において,恥が最高の地位をしめているということは,・・・各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。
彼はただ,他人がどう判断を下すであろうか,ということを推測しさえすればよいのであって,その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。」(ベネディクト)
「甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりでなく,日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということができる。」(土居健郎)
57 :
能力値変更:2001/01/24(水) 05:55
政治 41
戦闘 13
知謀 2
采配 26
魅力 65
野望 16
特殊技能…詩文
58 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 05:57
>54
話を拡散しようとしないでもらいたい。
思想史の流れで、乃木を捉えるのではなく(しかも米国人心理学者W)
実際の軍事官僚として、彼がどうのような歴史的役割を果たしたのか、
現実にどのような影響を残したのか、これが主題だろう。
(なお、54を読む限り、良質の本とは思えないが・・)
59 :
音速の名無しさん:2001/01/24(水) 06:01
60 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 06:06
>53
・・・・考え込むネ
機関銃陣地への夜間攻撃に、わざわざ目立つ「白だすき」を付けさせたのも、
彼の美意識‘詩情’の故だけであって、軍事的合理性は無視された。
(露軍の銃手達は、初めは笑い、後には黙ったという・・)
61 :
世界@名無史さん:2001/01/24(水) 06:06
53は司馬オタ。
62 :
酔剣:2001/01/24(水) 06:10
>59
誉め言葉か、ゲスの勘ぐりか・・
これは、小生の年来の持論。
63 :
>>58:2001/01/24(水) 06:42
キミはスレ立てた本人かい?
乃木さんて、どういうひと?
というのが、このスレのお題目であり、2〜53のレスにしても各人が各自の乃木観を述べているだけであって、「話を拡散」するなっていわれても、これ以上どうやって拡散すればいいのか教えてもらいたい(w
「乃木ってどういう人?」というのが主題とするなら、
乃木はどうして殉死したのか なぜ殉死しなければならなかったのか
というところに関心は向かわざるをえないだろう。中心的な問題から眼をそらそうとしているのは君のほうじゃないのか?
64 :
名無しさん:2001/01/24(水) 07:29
65 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 13:31
age
66 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 17:32
乃木さんは、自分が死んだ後何十年も後に、見当違いの罵倒を
されることがあるのを知っても、決して自己弁護をしたりせずに
「ふっ」と寂しい表情を見せるのみ… そんな人のような気がする。
67 :
名無しさん@1周年:2001/01/24(水) 18:13
>66
私は、東北系の血筋だが、乃木さんを決して悪く思わんね。
白虎隊を尊敬し、容保公の三男(参謀)を、身辺から離さな
かったそうですね。
上は、祖母から聞いた話です。
本当か、どうかは解りませんが・・・
68 :
絶倫自慢か?:2001/01/24(水) 18:27
「還暦の翌年障子をつき破り」(まれすけ)
「春は昔に立ち回〔か〕へりけり」(鶴所)
69 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 18:30
ぎゃははははははは!
70 :
名無しさん@1周年:2001/01/24(水) 18:44
そいつあ・・・
すげえや
でも・・・
71 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 19:41
乃木将軍は名将です。ロシアが作った永久要塞を半年で陥落させた人物って
彼一人です。ドイツの名将マンシュタインでセバストポリは9ヶ月、クリミ
ヤ戦争では1年半です。
真面目に永久要塞が半年で陥落した例なんてほとんどありません。
もし、最初から二百三高地を攻撃していたら2個師団は全滅します。実際要
塞の大砲配置から分析すれば判ります。
72 :
日本@名無史さん:2001/01/24(水) 23:14
>71
それが本当なら今までのは名誉毀損だな。
軍事板住人の意見が聞きたい脳。
73 :
酔剣:2001/01/25(木) 00:24
>>71 最近、兵頭氏あたりの評論を斜め読みして、君のような感想を持つ者もいるらしい。
明らかな錯誤があるが、基本的なものとして。
1)旅順要塞が落ちたのは、第三軍司令部の指導の結果ではない。
第三軍司令部の反対(!)をおして配備した海軍要塞砲の威力と、
直前の児玉総参謀長の督戦指導の結果だ。
2)そもそも作戦目的は、旅順要塞の開城ではない、最低限の出血で、
湾内艦隊砲撃の為の「砲撃観測点」を確保することにあった。
**
乃木・伊地知は、海軍が、多くの犠牲を出してまで敢行した「旅順港閉塞作戦」の
意味を全く理解していない。たぶん、自分たちの旅順要塞攻撃戦の意味すらも、
大局的な考慮をしなかったのだろう(泣)。
日本軍全体の兵力規模を考えずに、無意味な消耗を重ねてまで、対要塞正面攻撃を
する必要はなかった。
あのままでは、奉天会戦を維持できるだけの兵力も残らないところであった。
74 :
酔剣:2001/01/25(木) 00:26
>71
>最初から二百三高地を攻撃していたら2個師団は全滅します
露軍が、陣地強化してきたのは、第五回総攻撃の前後からで、第一回強襲攻撃から
第一回〜第四回総攻撃までの間は、そうでなかった。
あるエピソードに、
八月十九日の第一回強襲攻撃の前、八月九日に、第三軍の反対をおして派遣された
海軍黒井中佐が、陸軍の思惑を無視して、露軍陣地の死角に、海軍重砲隊を揚げ、
湾内の旅順艦隊を砲撃して、戦艦レトグイザンに命中弾を与え、翌日の黄海海戦の
勝利要因をつくった。が、なんとその時に、第三軍司令部は、あわてて命令を出し、
「黒井重砲隊」を山から引きずり降ろした。
伊地知参謀の答えは「砲力は充分にある、陸軍のことは陸軍にお任せ願いたい」と。
>72
どの板の住人でも関係なかろう、まあ酔剣は軍事板のコテハンだが・・。
76 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 01:19
>73、74は司馬を鵜呑みにしすぎ。
77 :
酔剣:2001/01/25(木) 02:52
>76
何故か、乃木を批判すると、すぐに「司馬ヲタ」呼ばわり。
よそのスレでも言ったことがあるが、そのような硬直した価値観が、
かっての『日本の大不幸』を招いたものではないのか!
帝国陸海軍が短時日で、あの退嬰を晒したのも、合理的論議以前に、
情緒的レッテルを貼り付け、それで批判した気になる『悪癖』のせいだ。
そうとは思わないのか?
(なお、司馬史観は嫌いではないが、さほど容認しているわけでもない)
78 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 04:02
↑
話が大げさ。興奮しすぎ。
朝起きたらもう一度読み返してみ。
↑
でもレッテル議論の話はその通りだと思う。
2ちゃんねるでもウヨ、サヨの枠でしか論議できない人とか多いしね。
スレと関係ないので、さげ。
80 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 05:49
殉死した死体検案の結果、ためらい傷が沢山見つかったってホント?
それから奥さんは随分殉死に反対したらしいね。
死にたくなかったんだろうな。
81 :
標定射:2001/01/25(木) 06:51
軍ヲタ(^^;)です。
>>71 露国・黒海艦隊の永久根拠地セバストポリ要塞と急造の旅順要塞を、同列に
比較するのはアンフェア。また、マンシュタイン将軍云々は二次大戦の話、
軍事環境が別次元(藁。
確かに、露国は伝統的に陣地築城術に長けている。
しかし、露軍関東軍司令官ステッセル大将は、七月末の段階でも、要塞防衛
計画を策定しなかったぐらい、決断力に欠けた人物で、開戦の二月初旬では
旅順要塞の主要防御施設の大部分は設計図上にしかない状態であった。
一方、
第三軍は、露軍の縦深防御戦に手を焼き、剣山より北大王山までの防御陣突破に
51日もかかっている(北大王山砲兵布陣完了が8月11日)。
その間、攻囲戦の権威・要塞司令官スミルノフ中将の腹心・防衛指揮官の
コンドラチェンコ少将が、精力的に陣地建設に励み、強固な築城を完成し、
ステッセル大将も入城した。
しかし、しょせんは急造の築城で、防御陣地の配置は不十分であり、一部の
塹壕・砲台は露出したままであった。
最大の欠陥は、主防御線の縦深が浅く、一角が占拠されると、そこから直接に
旅順港が砲撃される状態であった事と、長距離砲が39門しかなく、有効な
対砲兵射撃が不可能だった事で、後にその欠陥は致命的に証明された。
設計上、ペトン堡塁の抗堪性は15センチ砲弾までで、日本海軍が持ち込んだ
28センチ砲には抵抗できなかった(対艦用の徹甲榴弾の威力はものすごく、
また、沿岸要塞砲なので砲弾の備蓄は充分にあった)。
82 :
標定射:2001/01/25(木) 06:54
↑
つーわけで、セバストポリ要塞と比べたらアカンよ。
馬鹿な奴だ
84 :
世界@名無史さん:2001/01/25(木) 11:56
>酔剣
一度さ、目黒の防衛研究所逝ってきなさい。第3軍が旅順包囲した段階で
の調査記録が残っている。砲台の数から各ブロックの間接砲撃火力を割り
出してみな。如何に第3軍の幕僚が司令部の命令を無視してでも最小限の
損失で81のいう主防御線の攻略したのかが判る。
二百三高地は対砲兵射撃を充分に行わなければ1時間と山頂にはいられな
い場所。ちなみに一番弱い場所は出師営から二龍山のライン。ところが、
そこだけは既に完成していた場所なため犠牲が大きくなっただけです。
1万強の犠牲はセオリ無視の作戦を要求した満州司令部、児玉のせいです。
あの時、時間かけてでも要塞攻略の手順を踏んでいれば犠牲は少なくなり
ます。伊地知参謀の欠陥は満州司令部と海軍部の要求に屈して五月雨攻撃
した事と思います。
陸軍は旅順攻撃する気はなかったし、第3軍は第2軍の左翼を受け持つ
部隊だったんです。もっとも旅順攻撃の成果はクロパトキンが恐怖に慄き
第3軍が動く病にかかったのは有名です。
85 :
世界@名無史さん:2001/01/25(木) 12:08
>標定射
それではあなたなら松樹山から東鶏冠山にかけての既に完成して
いた永久陣地は1・2ヶ月で陥落させられるの?
私は少なくとも最低半年から1年です。
要塞陣地は全ての大砲が希望地域に対して防御射撃出来るのが重
要なのです。剥き出しだろうとこちらは同射程の大砲を設置して
いる間に木っ端微塵になります。28cm砲とロシアの15cm
砲は同射程ですから支援砲無しには設置出来ない大砲です。
第3軍は長射程の15cm砲で一定時間のあいだ対砲兵射撃を加
え続けてます。その間だけは敵は反撃できません。また、望台攻
略後はここから湾内観測を開始して湾内砲撃も実施してます。
86 :
標定射:2001/01/26(金) 00:58
私は、セバストポリと急造の旅順要塞を、同列に比較できないと言いたかっただけだが・・
>85
>それではあなたなら松樹山から東鶏冠山にかけての既に完成していた永久陣地は
>1・2ヶ月で陥落させられるの? 私は・・・
失礼ながら、質問の意味が理解できない。まさか電・・?
>要塞陣地は全ての大砲が希望地域に対して防御射撃出来るのが重要なのです。
射界死角皆無、むろん、それが理想だろう。で?
>剥き出しだろうとこちらは同射程の大砲を設置している間に木っ端微塵になります。
>28cm砲とロシアの15cm砲は同射程ですから支援砲無しには設置出来ない
急造要塞の虚弱性の例として言及した、露天砲台は抗堪性が低い、これは当然でしょう。
28留の欠点は、重く・射程が短く・発射速度が遅い事で、本来は野戦向きではない、
しかし、後の奉天会戦にも転用されるなど、その破壊力・命中精度は極めて優秀で、
君の指摘にも関わらず、旅順攻略の最大要因となった、射程は7千で、君の言うとおり
露軍の加農砲と同程度だが、28留陣地が露砲撃によって破壊されたとは聞かない。
>望台攻略後はここから湾内観測を開始して湾内砲撃も実施してます。
若干、認識がずれている。実際は9月19日の総攻撃で南山坡山を占領した後、山頂に
海軍が観測所を設け、10月1日より28留による防御陣地と湾内への射撃を開始した。
その威力・精度は高く、多くの堡塁は破砕され、一ヶ月で湾内の戦艦群は(一艦を除き)
廃艦同然になった。ただ艦隊が浮かんでいるので、海軍は完全な確信を持てず攻撃続行を
希望し、12月5日に203高地を占領した後、射撃海没させ、満足した。
結果論だが、作戦目的から言うと、太平洋艦隊が無力化された11月以後の膨大な犠牲は、
必ずしも必要でなかった事になる(第三軍は旅順開城だけをめざしていたが)。
一月元旦、最大拠点の望台陣地が陥落した報を受けたステッセルは直ちに軍使を送った。
翌日、最後の戦艦が自沈し、旅順艦隊は消滅した。
87 :
酔剣:2001/01/26(金) 02:38
>>84 あまり詳細な事項は板違いのそしりを受けるので、簡潔に言う。
>如何に第3軍の幕僚が司令部の命令を無視してでも最小限の損失で
>81のいう主防御線の攻略したのかが判る。
難解な話法でやや理解しがたい。第3軍の幕僚が司令部の命令を無視した、
合理的な理由を言及してくれ。
>二百三高地は対砲兵射撃を充分に行わなければ1時間と山頂にはいられない
強襲攻撃後の防御線上の山頂は全てそうだろう、でないと要塞線ではない(笑。
203高地上の二つの山頂には強力な堡塁と加農砲陣地があり、大佐指揮の
有力部隊が籠もっていた。ただ比較的に見て、隣接する勝家大山・老虎溝山・
化頭溝山には野戦陣地だけで、相互射界も薄かった。
>一番弱い場所は出師営から二龍山のライン。ところが、そこだけは
>既に完成していた場所なため犠牲が大きくなっただけです。
地形的に虚弱な部分は、開戦前から巧緻な陣地が築城されていた。そんな場所は
“一番弱い場所”とは言わない(笑。
>あの時、時間かけてでも要塞攻略の手順を踏んでいれば犠牲は少なくなります。
乃木も上陸時『あわてるな、要塞は逃げていきゃあせん』と言ったらしい(大爆笑)
それが可能なら、遼東半島を剣山あたりで封鎖して旅順要塞を放置しておけば済む。
日本の連合艦隊が、バルチック艦隊と太平洋艦隊に挟撃され、制海権を奪われれば、
遠征軍は全滅、旅順なぞどうでもよくなる(笑笑。
>伊地知参謀の欠陥は満州司令部と海軍部の要求に屈して五月雨攻撃した事と思います
あれは、第三軍あげての総攻撃、次々に予備・新編師団を消耗していっただけで、
戦力の逐次投入なんて言う、なまやさしいものではありません。
**
たぶん、このレスは84氏のネタでしょう? 本気だとは信じられない。
88 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 02:44
てゆうか軍事板の連中ウザイ、おとなしく自分達の板に帰って下さい。
もういいよ、軍事板に帰ろう、ここの常連に悪いみたい・・
90 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 02:57
>軍事板の方々。
でも、資料ありがとう。
また何かあったらよろしくね。
91 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 02:58
まあ.争点にしだした奴が出たから,しょうがないだろう.
乃木が武士道をいうしか能がない人物で
実戦向きの将軍ではなかったっていう
通説的な理解を覆すほどの証拠はないって
ことでよろしいか?
軍事板or軍事ヲタのみなさん,お疲れさまでした.
日本史で、政治に関係する部分は「政治板」へ、
軍事に関係する部分は「軍事板」へ、経済は「経済板」へ、
学問・宗教・美術・風俗もそれぞれの板へ、
もちろん、国際関係史は「中国」「ハングル」へ行ってね、
で、戦国大名の話だけしましょ、合戦の話は抜きでね。はあと。
93 :
最後に:2001/01/26(金) 04:14
当時の帝国陸軍は、第三軍も含めて、決して硬直しただけの軍隊ではなかった。
旅順戦全体を通して、随所に人道的美談あり、武士道的矜持も見られる。
合理的な技術将校も多く、28留の砲座移動の簡便化をはじめ、
攻城戦術・技術にも、いろいろな工夫をしていて、成功例も多い。
地下坑道による爆破作戦はよく知られているが、塹壕戦に苦労して、
迫撃砲や手榴弾を発明(原型考案)したことはあまり知られていない。
それ以外にも、欧州の観戦武官によって持ち帰られた戦訓から、
大口径榴弾砲の評価が見直され、列車砲の誕生に発展したりした。
(伊集院信管は二次大戦まで使われたし、下瀬火薬の研究も・・・)
スレに直接関係がないのでsage、
94 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 14:43
白昼、婦人と性交中のところを、知人に見られてしまい、
翌日、知人と会った際、
「昨日は、乗馬中にて失礼!」と言ったそうな。
この話を知ったときに、とても嫌〜な気がしたのを覚えている。
いつ頃の話なのか、もし生徒達に厳格な教訓をタレていた校長の時なら嫌悪感倍増。
凱旋後、仏門にでも入れよ!
95 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 16:38
その話は今知ったが、俺は逆に親近感が湧いたぞ。
ユーモアのある人じゃないか。
96 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 16:57
>>94 セックスは食事と一緒
仏門に入る必要なし
97 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:01
ユーモア??ただの女蔑視の絶倫老人なだけ。
思えば奥さん可哀相、若いときは留守ばっかりで、居れば亭主関白で、
亭主に息子達を皆殺されても泣けず、遺族達からは白い目で見られ続け、
よその女癖は知らんが、いい歳になっても絶倫親父にサレ続け、
最後に一緒に死ねと迫られて、短刀で自殺。
悪く考えるとこうなる。・・・・でも、本人には幸せだったのかな?
《私なら、武人なら一人で死ねよ、って言いたくなるね》
絶倫の濡れ落ち葉族か・・?ぞっとする。
98 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:08
>>97 武家に嫁ぐってそういうもんだよ
嫁入り道具に、自害用の短刀持って行くのよ
会津陥落の前日嫁入りし
翌日、義理の母と一緒に首を突いて亡くなる女の話がある
赤穂の討ち入りの時、年老いた母を残して参加することに悩む息子
に武家の覚悟を教え諭した忠烈母の話もある
時代も変われば、人の恋も幸せも千差万別だ
100 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:41
過去ログ、ザッと目を通したけど、これには触れてなかったと思う。
第3軍以下の動員計画は無かったらしい。
『日本の参謀本部』(大江志乃夫著・中公新書)より抜粋
「もっとも悲惨であったのが第三軍であった。第三軍以下の軍司令部の
動員計画は無かった。旅順攻略のために第三軍の編制が決定されたとき、
軍司令官に起用されたのは、中将として休職二年八か月ののち
留守近衛師団長に復職した乃木希典であった。」(104頁)
101 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:52
>98
>武家に嫁ぐってそういうもんだよ
またまた分かったような・・、ウソッーだろう。
殉死は戦国時代までの遺風だが、女房は別だ。
落城時の話なら分かるが、「殉死」に女房連れなんて聞かんね。
濡れ落ち葉じゃあるまいし・・。
102 :
98:2001/01/26(金) 18:00
99も俺だけど、
俺は女房の覚悟を言ってるんだよ
息子が戦死して、夫が殉死、あんたはどうだい?
103 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 18:18
女蔑視?当時は普通のことだろ。
男性の貞操が義務付けられたのは大正九年だ。
現代の価値観で歴史上の人物を評価するな。
どうやら94にとって、絶倫とは悪であるらしいな。
「おんな太閤記」とかみて育ったんでしょう
106 :
**:2001/01/26(金) 18:43
>100
それが
>>53の『後発軍司令官を拝命するや』の「後発」の意味だ。
ついでに言うと
日清戦争において、1日の戦闘・200名の死傷者で旅順要塞を落としたが、
当時の乃木旅団長は、それに参加していた。
また、新編成された乃木第三軍の参謀の多くは、仏・独より呼び戻された留学中の
陸大出のエリート将校で、他の軍司令部の幕僚より実戦を知らず、誇りは高かった。
第三軍は、三個師団基幹の約5万1千名、火砲380門の規模で、
旅順の露軍を最大2万5千と判断していた(実際は陸軍4万2千、海軍1万2千)
あまり敵情偵察をしなかったようで、第二次大戦時の大本営とよく似ている。
最終結果は
攻撃日数155日・動員兵力約13万・死傷者5万9千名だった。
ちなみに露軍の損害は、戦死7700、戦病死15000、負傷多数、
(かなり衛生状態がわるかったように思われる)
107 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 18:43
黙っていれば気まずくなり、
礼儀正しく言えば滑稽になり、
曖昧に言えば嘲笑され、
ストレートに言えば下品になる話を、
乗馬に例えたユーモアのセンスは大した物だ。
これを女性蔑視と考える
>>94は、
人を笑わせようとか場の雰囲気を和ませようとかは
今まで一度も考えたことの無い人間なんだろうな。
「騎乗位」という言葉は男性蔑視です
以後、使用を禁じます
109 :
**:2001/01/26(金) 19:04
門外漢なので、素養のある人に聞きたいが・・
希典『うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり』
静子『出でましてかへります日のなしと聞くけふの御幸に逢ふぞ悲しき』
乃木の無理心中説はさておいて、将軍にはなにやら陶酔感があるようだが、
奥様は悲壮な詠嘆と言うか悲哀感があるように思えるが・・・
ひどい損害率だ・・将軍への酷評も無理はない。やはり戦後は隠棲すべき、
94=97=101=106=109=110
>111
若干誤りがあるが、ほぼその通りだ。普通に読めば、それくらい分かろうが。
113 :
名無しさん@1周年:2001/01/26(金) 21:52
二百三高地っていう映画見たけど無能なオジサンとしか思わなかった
あの映画のような感じで良いの?映画は違ってる?
114 :
王翦:2001/01/26(金) 23:18
映画の二百三高地は興行上の理由からだろうけど、名の通った俳優
を集めるのに重点が置かれ配役がイマイチだと思う。
映画公開の数ヶ月後に同じスタッフが俳優を大幅に変えて製作した
全8話のTVシリーズの「二百三高地」のほうが良い出来だったと思う。
田村高広演じるTV版の乃木大将のほうが仲代達也演じる映画版よ
り乃木らしさが出ていたと思う。
「軍人になるより、詩や文章で身を立てたかったがおじいさんは
許してくれなんだ」という乃木のセリフがTV版ではあるしね。
あの映画の脚本を担当した笠原氏の原作本(?)によると参考文献
のなかに司馬の「坂の上の雲」がある。
その影響がかなり出てると思う、「二百三高地」は。
ちなみに今村均将軍は、その著書「続 一軍人六十年の哀歓」の
最後のほうで司馬氏の著書での乃木の無能扱いに反論しています。
つまり適材適所を欠いた人事、そして参謀長が作ってきた計画を
軍司令官が否としてやり直しを命じることはむしろ避けなければな
かったという陸軍の風習をあげています。
115 :
名無しさん@1周年:2001/01/27(土) 11:36
つまり軍人としては無能なただのオッサンだったということなのかな?
116 :
世界@名無史さん:2001/01/27(土) 14:39
つまり軍人としては無能なただのオッサンで、文化人で、殉死をした潔さはあるけど。
117 :
日本@名無史さん:2001/01/28(日) 23:23
age
118 :
酔剣:2001/01/29(月) 20:52
遺書の一節に、
『明治十年役において軍旗を失ひ、其の後、死処(しにどころ)を得度(えたく)
心掛候も其機(き)を得ず・・・』とあるように、
西南戦争で前代未聞の軍旗喪失事件を起こした事を終生(当たり前だが)気にしていた。
ただでさえ、軍事的才能のほとんど無い人物が、そのうえに死に場所を探すような感覚で、
戦場に臨んだものだから、巧緻な作戦を執るわけがない。
不備はあるとは言え、相手は露軍の旅順要塞だ、前線から遠く離れた柳樹房の司令部で、
ただ、兵士を機関銃と地雷と砲弾の嵐に突撃させるだけの戦法に終始したのも無理はない。
なにせ、攻撃正面に二龍山と東鶏冠山の中間点を指向した理由が、大部隊を展開できる広地で、
旅順要塞の中核点だから一気に戦機を決められる、というのだから恐れ入る。
最終死傷者数が、第三軍創設時の総兵員数よりも多かったという、
>>106。
(これは、第三軍が完全全滅した、ということを意味する)
死に場所を求める「詩人」につきあわされる兵士・陸軍のほうがたまらん。
戦死した兵、一人一人が、国ではかけがえのない夫であり、親・兄であり、子である。
また、敵将がクロパトキンでなかったら、奉天戦は支えきれなかったかも知れない。
膨大な兵士を殺し、戦局を危うくし、なお凱旋後に栄職に就く。
当時のマスコミのせいとはいえ、いまだに、乃木同情論が強いのが理解できない。
119 :
酔剣:2001/01/29(月) 21:04
>最終死傷者数が、第三軍創設時の総兵員数よりも多かったという、
>>106。
>(これは、第三軍が完全全滅した、ということを意味する)
ふつう、第一線の突撃兵力は、前線一・後方二の割合だから、これは
第三軍規模の軍、三個軍の兵力を“すりつぶした”事になる。
戦局全体が崩壊しても、全然、おかしくない。
120 :
非軍事板:2001/01/29(月) 23:07
なんだかみんな詩文創作が軍事作戦と相容れないように
言っているけど、そうでもないと思うよ
ナポレオン「私が戦うのは芸術家としてなのです」
クラウゼヴィッツだって似たようなこと言ってるし
詩文をやるといっても下手の横好きの域を出ず
所詮、俗物老人の旦那芸だよ
118だって「」つきで「詩人」といってるだけでしょ
死んだ兵士の遺族にしてみればさ
無能な将軍の作戦のせいで無意味に殺されたと思うよりは
お国の為に役に立って死んだのだ…と思いたいわけよ
乃木をたたえるひとたちの心理ってそんなもんなんじゃないの
123 :
王翦:2001/01/30(火) 21:30
>121
金園社刊「乃木希典日記」に乃木大将の作った漢詩、和歌、俳句が多数収録
されています。
有名な「山川草木転荒涼・・・」や「爾霊山険豈難攀・・・」以外にもたく
さんの作品を残しているのですが、「旦那芸」と称される程度なのか否かは
私には判別できません。
この日記見てると金銭の支出に関する記述がやたらあり、金に細かいという
か、けっこう金銭に執着があったのではと思わせるものあり。
当時の物価の資料になるかも。(笑)
124 :
120:2001/01/31(水) 07:10
>>121 別にプロとか専門家である必要はなくてさ
そういうココロを持ち得てるかということだね
人の心理とかダイナミズムといったものを自然に操れる人が
実は一番あたまがいいと思う
軍事的技術や論理計算は部下に任せとけばいいこと
125 :
日本@名無史さん:2001/01/31(水) 09:21
クラウゼヴィッツが言う芸術家として戦うってのは、
戦略戦術を単なる小手先の技術ではなく芸術の域にまで
高めようぜって話だろう。
絵描きやピアノ弾きなら軍の指揮をうまく執れるなんて
わきゃないだろ。技術や論理は部下に任せておけって
言ってもな、司令官が部下の話を理解できんようじゃ
軍は成立しないぞ。
ついでに。あーたはチーフ・オブ・スタッフ制礼賛者の
ようだが、今のご時世トップは座って参謀長が実務、じゃ
会社も軍もつぶれちまうぞ。
126 :
124:2001/02/01(木) 06:30
もちろん最初から芸術的直観めざせばいいのではなくて、
チーフなんたらはよく知らないけど、言いかたが悪かったよね、
実務は第一条件だけどその上にもっと大事な大局観ってのがある、
日本人でこの段階にまで進める人は少ないということですね
で、乃木さんはその数少ない一人ではなかったかと
127 :
世界@名無史さん:2001/02/01(木) 09:24
>>124 乃木が大局観とやらを持っていたかも俺には大きな疑問だが、
とにかく戦争が下手だったことには疑問の余地がないぞ。
これについては如何?
ときに、日本人以外にはあーたの言う大局観を持った人が
多くいるのかね。具体例を二、三挙げてほしいね。
128 :
大久保利謙:2001/02/01(木) 10:15
わたしの幼いころは家によく荒木貞夫(陸軍大将)なんかが遊びに来てゐて
随分かはいがってもらひましたがね…学習院に入ったころの院長があの乃木
でせう?...おかげでわたしはすっかり軍人嫌ひになってしまひました。
129 :
黒田如水:2001/02/01(木) 14:02
乃木はただの馬鹿だよ!!
130 :
日本@名無史さん:2001/02/03(土) 05:50
>126
>実務は第一条件だけどその上にもっと大事な大局観ってのがある、日本人でこの段階にまで
>進める人は少ないということですねで、乃木さんはその数少ない一人ではなかったかと
何を言っているのか分からないぞ?
君の言う「大局観」たらつーのを、ちゃんと説明してくれないか。
それと
政治家と外交官と軍人は、なによりも実務能力が絶対条件だと思うが・・。どうね?
131 :
名無しのエリー:2001/02/03(土) 07:44
大局観がわかんねえのかよ
おまえら軍事ヲタには一生持てないもんだよ(ワラ
そういう君は邦楽ヲタ
133 :
日本@名無史さん:2001/02/03(土) 09:41
戦争の上手い人なんか一人もいない2ちゃんの人間が
戦争が下手だと乃木を非難する資格はないと思う。
134 :
日本@名無史さん:2001/02/03(土) 10:45
子供の論理だな。
135 :
七連隊史:2001/02/03(土) 15:28
このスレには、乃木将軍と伊知地参謀長が無能であるという前提がある。私はそうは思わない。司令官と参謀長が無能というのなら、当然に指揮下の第三軍も無能ということになるが、第三軍は大損害を出し続けても日露戦争における決勝戦力となったことは明確ではないか。いったいこの矛盾をどう説明するのか。
また第三軍は旅順第一次攻撃よりもはるかに多くの戦死者を奉天で出している。この責任を松川参謀はいったい追求されたのか。
136 :
七連隊史:2001/02/03(土) 15:30
今仮に作戦初期から203高地を目標に第1旅団全力で攻撃するとする。そこにはベトンのよう壁もカポリエールも存在しないが、山頂堡塁の前には日本軍将兵が始めて体験する鉄条網・マキシム機関銃・迫撃砲・地雷・手榴弾が存在し、また、露出した斜面で、旅順全域の砲台からの集中砲撃を受けることとなる。既に高崎山で大損害を受けている第15連隊を考慮すれば、第1師団全力の投入と、周辺砲台を制圧し艦隊を砲撃するための攻城砲陣地の前進も必要となる。また、後方には後備第1旅団が防備することとなるだろう。
第9師団はロシア軍が最も強力な配置を行なっていたクロパトキン要塞など水師営周辺の陣地群に展開し、助攻を行なうこととなるが、後備第4旅団と第11師団は東部正面に広く展開して戦闘行動は困難になる。
ロシア側は203高地で適当に戦った後、優勢な砲兵戦力の支援を受けて反撃に転じて、水師営周辺陣地を取り囲む第9師団の一部及び後備旅団を全力で攻撃し、北東もしくは北方へ前進する。海岸に達すれば完全包囲であるが、5?H前進するだけで効果は同じである。第1師団は袋の鼠となり、前進していた攻城砲陣地は圧迫を受けて崩壊し、第3軍司令部は危険にさらされて統制を失う。
第11師団が動けばその後方を衝かれてダルニーが危険となり、効果的な反撃が出来ないまま後退を余儀無くされる。彼我の兵力差は逆転し、露天であるがゆえに機動的に展開できる要塞野戦砲の移動によりダルニーの保持も困難となる。
これにより、ダルニーに設置された第2軍・第4軍・秋山支隊の兵站が粉砕され、北方の日本軍主力も壊滅する。旅順艦隊もバルチック艦隊も必要ない。
ナポレオン戦争で、また、後にハルハ河で、スターリングラートで行なわれた後の先もしくは後の後戦術である。極めて固く守られた要塞の奥まった一角が、一見無防備になっているということがどういうことなのか冷静に考えればわかるではないか。つまり旅順艦隊はエサで、203高地はワナであった可能性がある。ステッセルは野戦軍の司令官であり、旅順守備隊が動かないという前提は成立しない。
137 :
日本@名無史さん:2001/02/03(土) 15:57
長府のひとが立てたスレなのかな?
138 :
名無しさん@1周年 :2001/02/03(土) 16:12
なんか一人で受け答えしてるやつがいるな(藁
139 :
乃木大将軍閣下:2001/02/03(土) 16:17
わはははは、、、、
我輩は、乃木大将軍兼神様である。
皆のもの、ご苦労である。
しかし、何も考えでも良い。
突撃じゃ、わははははーー
お前ら、ムシケラの命なぞ、安いものじゃ。
はははっはーーー
140 :
日本@名無史さん :2001/02/03(土) 16:28
乃木がいかに悲しんだか知らんのか電波
141 :
名無しさんの主張:2001/02/03(土) 18:10
知らん???
142 :
名無しさんの主張:2001/02/03(土) 18:13
腹でも痛かったんだろ、蛆虫乃木の(ワラ
143 :
日本@名無史さん:2001/02/03(土) 18:57
ダイダラボッチ浮上!
144 :
七連隊史:2001/02/04(日) 19:42
伊知地第三軍参謀長は、当初は203高地攻撃を指向していた痕跡がある。第1師団は水師営周辺陣地を廻り込んで配置され、第9師団の主力もここを向いているからだ。多分この時点で、この要塞群の危険性に気付いたものと思われる。
大本営は旅順防衛戦力は12000名程度と推定していたが、この数字に根拠はまるでなかったし、南山を防備していたロシア軍2個師団が加わっていることは、上陸以来の戦闘で第三軍が身にしみてわかっていたことである。また、ロシア海軍の水兵が極めて精強であることも良く知られていたことで、これに隠匿された1〜2個師団が存在すれば、戦力差が逆転して先に述べたようなダルニー失陥が現実化した可能性は極めて高い。そうなれば海軍はただのカカシである。203高地どころではない。
水師営周辺の陣地は、旅順後背稜線の外側、水師営を中心とする盆地を取り囲むように配置された強力な要塞群であった。3方向に通路が通じており、ロシア側の反撃拠点としてはここしかないと言ってもよい地区で、日本軍にとって極めて危険な突出部だった。
第一次総攻撃で、伊知地第三軍参謀長は3個師団と2個後備旅団を集中して使用し、水師営周辺陣地を取り除くことに全力を上げる。攻防一致の戦略であり、極めて自然で合理的な作戦と考える。
145 :
七連隊史:2001/02/04(日) 23:48
司馬遼については、第一次攻撃では、「小塁ひとつぬけなかった。」と書いているから最初から間違った資料を下にしている。従って、無能とするその結論も間違っているのは当然である。それ以前に、だいたい降伏勧告が6月16日なんて第9師団が乗船もしていない日を記しているのは、悲惨としか言い様がない。事実を見てみよう。
第一次総攻撃における盤龍山東西前進堡塁の攻撃は基本的には助攻であったが、事前砲撃の一弾が掩蓋をつき破り火薬庫に引火して守備兵が一時稜線上に避難したことから防備体勢が知れ、第六旅団による攻撃が行なわれた。
従って、当初は歩兵第7連隊の第一大隊が盤龍山東堡塁、第二大隊が一戸堡塁に向かう程度の寡兵で開始されている。各中隊は大損害を被りながらも前面数十mから数百mに到達するが、最初に攻撃した第一大隊第一中隊、第三中隊、工兵隊の一部が堡塁近くの地隙に残存し、占領の可能性が見えたことから第7連隊・第35連隊・後備第4旅団による総力攻撃に移行する。これは凄まじい損害を受けて頓挫している。
ところが翌22日午前、地隙の姫野工兵伍長らによるよう壁爆破が成功し、盤龍山東堡塁に突入してこれを確保、堡塁前面の各隊生存者も追随し敵の反撃を阻止する。さらに23日夜の偵察で支那囲廓を突破し稜線上に進出することに成功した。ロシア側が水師営周辺陣地に兵力を集中していたことから奇襲効果が出た結果だと思われる。
24日、戦果を拡大するため第11師団の支援を受けてA高地・H高地への攻撃を開始。さらにA高地西側をトラバースするという奇策によってほとんど無防備な望台砲台の胸墻下に達するという状況に拡大する。後に旅順の生命を握る望台砲台に第一次総攻撃で到達していたのだ。望台砲台は周辺の最高地点であり、その視角は203高地など比較にもならない。
しかし、既に日本側の砲弾が尽きてしまい、兵站にも一発の砲弾もない状態となってしまう。後方に残った一戸堡塁や盤龍山北堡塁(鉢巻山)からの射撃も効果的で、ロシア側の反撃を阻止できないため、涙をのんで稜線上から後退することになった。ここで持ち堪えられれば以後の損害がどれほど軽減できたことか。
盤龍山の攻撃は「全山マルナリ屍体」という惨状にて終わるのだが、旅順陥落のシナリオが立った点は貴重で、その後も無意味な攻撃をくり返したとする理解は決して正しくない。1.5個師団以上の兵力を注ぎ込んだ水師営周辺陣地の攻撃も大損害を受けて全て失敗していることを考慮すれば、よほど現実的なプランだったとかんがえる。
146 :
日本@名無史さん:2001/02/05(月) 02:24
何を引き写したのか(あるいは、都合のいい郷土戦史のたぐいか?)知らんが、
独りよがりの机上作戦プランを蕩々と述べられても話にならない。
奉天会戦の損耗は、大兵の攻勢を支えていたための損害で、旅順要塞戦で見る我攻めと
同列には論じられない。牽強付会もいいとこだ。
ただ専門的な戦術考察は、ここでは迷惑だろうし、(ご存じだとは思うが)基本的に、
確実な結論が出る話じゃない。
軍事板に新スレ建てていただきたい、まあ、あそこも厨房だらけだが・・。
147 :
日本@名無史さん:2001/02/05(月) 03:16
例の小説のせいで乃木無能説がひろまったと思ってるひとが多いのかな?
司馬が作家デビューする以前から乃木は無能という評価は定着しており
司馬は乃木に対する一般的な評価を追認したにすぎない。
批判対象として司馬をあげること自体が、批判者自身の視点の位置も司馬と五十歩百歩だと
いうことを示しているような気がするなあ。
148 :
酔剣:2001/02/05(月) 04:48
146はハンドル名を書き忘れた、スマソ。
なお誤解の無いように言っておくが、
>『都合のいい郷土戦史のたぐい』との文言は、決して篤志家による
“郷土戦史”を批判しているのではなく、
「本の性質上、上部司令部の作戦指導への批判はなじまない」
という事を言いたかっただけであって、むしろ、郷土戦史そのものは、
以前から、高く評価している。
また、乃木将軍を軍司令官として不適と言っているわけで(金沢連隊も
含めた)、第三軍将兵の勇戦を批判しているわけでもない。
またあわせて、乃木の文人としての評価を批評する意図も、全く無い、
司馬遼太郎の評価についても同じ。
149 :
七連隊史:2001/02/05(月) 23:46
>酔剣氏へ
旅順での戦訓は全世界で研究され、また、満州事変では開戦の理由ともされ、ある面では数えきれない悲劇を生み出してきた。私は日露戦争を賞揚する気など全くない。しかし、間違った理解によって、歴史をひんまげ、都合よく誰かの無能の責にすることに、腹立ちとともに別の意図を感じるから、批判しているのだ。
また、早期に203高地を攻撃しなかったという点が、乃木批判の中核となっている感があるから想定される可能性、もしくは第三軍司令部の意図を想定しているので、君の言う我戦と言う指摘とは異なる思考も成立することを理解されたい。
150 :
のぎたん:2001/02/06(火) 21:34
97におおむね同意。
一人で死ぬこともできない、ケツの穴の小さい男。
だと思っている。人格者だなんて・・。
151 :
轢死の語りべ:2001/02/06(火) 21:52
乃木希典は,幕末の江戸長州藩邸に乃木希次の息子として生まれました。
何か粗相があると寒い冬の朝でもハダカにされ井戸の水をかけられたそうです。
希次は相当なスパルタ教育を施したそうです。
日本茶住人と2ch軍事板住人の激しい攻防が繰り広げられています。
さあどちらが勝か!!
153 :
世界@名無史さん:2001/02/06(火) 23:40
どっちが否定派なの?
154 :
世界@名無史さん:2001/02/06(火) 23:41
どっちが否定派なの?
一概に言えないけど
日本茶⇒乃木肯定派
軍事板⇒乃木否定派
あくまで目安として。
156 :
酔剣:2001/02/07(水) 02:39
>七連隊史殿、
>135
>司令官と参謀長が無能というのなら、当然に指揮下の第三軍も無能ということになるが・・・
この理屈が全く解からん!!
この理屈を発展させれば、有能・有力な兵士を指揮している司令官を批判する事が不可能になる。
>136
>日本軍将兵が始めて体験する鉄条網・マキシム機関銃・迫撃砲・地雷・手榴弾が存在し、・・
かなり不正確な知識だ、93にあるように、迫撃砲も手榴弾も攻城側の日本軍が考案したもので、
当然、露軍は装備していない。
>仮に作戦初期から203高地を目標に第1旅団全力で攻撃するとする。・・
私の
>>87に目を通してくれ、相対的にみて二龍山・東鶏冠山を強攻するよりも損害が少ないということだ、
むろん「相対的」ということであって、徹底的な対砲兵射撃や坑道戦術等が必要である事は言を待たない。
また、
皇帝の指令に違反してまで要塞に逃げ込んだステッセルが、要塞正面の守備兵を引き抜いてまで、
野外機動戦に移行するとは、まず思えないが、むしろ、その方が、日本軍の最終死傷者数は少なくて
済んだだろう。なによりも、旅順戦の目的は、湾内砲撃の為の“観測点の確保”にあるのであって、
屍山血河を冒しての旅順開城にあるのではない。【二週間ほど砲撃観測ができれば、それでいいのだ。】
5万九千名もの勇士を「すりつぶす」だけの戦術が最善だったとは、当時も今も、多くの軍人達は考えていない。
>149
>間違った理解によって、歴史をひんまげ、都合よく誰かの無能の責にすることに、腹立ちとともに別の意図を
>感じるから、批判しているのだ。
これがさっぱり、これが全く一番、ぜんぜん、理解不能だ・・・
間違った軍紳化伝説によって、歴史をひん曲げ、戦訓を学ばず、都合よく身内の無能を隠した当時の陸軍に腹立ち、
それが故、後世の陸海軍指導部の退嬰を招き、その為、未曾有の戦禍を招いたことに、憤るなら解る。
むろん、
明治大帝の庇護をいいことに、凱旋後も栄職を歴任し、一躍、世の寵児になり、各地で教訓・説教をたれていた
老将軍を擁護し、再評価しようとする動きに、腹立ちとともに別の意図を感じている、というなら十分に理解できる。
**
戦術的内容についての返答は(この板では・・)控えた。
まあ俺達は、百年以上たって当時のロシア軍の資料も
細部まであきらかになった上で論じてるからな。
その辺も考慮に入れなきゃフェアじゃないと思うんだけど。
158 :
酔剣:2001/02/09(金) 03:34
>157
それを言うなら、俺達は、日本海海戦の大勝利や、奉天会戦の辛勝も知って話してる。
でも、相手がクロパトキンでなかったら奉天会戦は日本の敗北に終わっていた可能性大だ、
あんな薄い戦線で、とにもかくにも勝てたのは、半分以上奇跡だとしか言えない。
常識的に見れば、奉天会戦は兵数不足で日本の負けだろう、もし、そうであったら、
乃木・伊地知の旅順戦での大出血は問題にならないわけはない。第一敗因になるだろう。
乃木擁護派は、結果オーライの歴史的事実から判断しているような気がする。
たとえて言えば、
先の大戦で、牟田口将軍がインパール戦で、大犠牲の末勝利し、インド独立が実現した、
そんな歴史があれば(そして日本の敗戦がなかったら)、牟田口は、今言われているほど、
無能とは言われていなかっただろう。乃木はそれだ。
日露両軍の資料を知って言う事がアンフェアなら、歴史経緯を知って言う事もアンフェアだ、
そして、そんなことを言い出したら、一切の戦史研究ができなくなる。
159 :
酔剣:2001/02/09(金) 04:01
>158
むむっ・・読み返してみて少しおかしいな。もし、牟田口がインド独立を実現すれば、
やっぱ無能じゃないよな。で、訂正。
×大犠牲の末勝利し、インド独立が実現した、そんな歴史があれば(そして日本の敗戦が・・
○インパール戦で、大犠牲の末辛勝し、そして日本の敗戦がなかったら、牟田口は、今・・・
まあ、言いたいことは、解っていただけるとは思うが、少し、たとえが下品だったかもしれない。
やや鬱だ・・
話がはずんでるとこですいませんけど、
乃木さんって、たまにいるとっても間の悪い人なんじゃないですか。
必要とされる時に必要とされる場所にいるけど
必要とされる能力を持ちあわせていなかった。
しかも本人もそれ(無力感)を自覚してる節がある。
う〜んわかるような、わからないような、、、、
そんなこと言うとべつに日露戦争だけに限らず日清戦争にも
言えちゃうし古今東西の勝ち戦にも敗因を探れば幾らでも出てくる
と思うんだけど「誰々がここに居たら」とか
「こうしてたら負けてた」とか、唯一別格なのは米軍ぐらい。
162 :
日本@名無史さん:2001/02/09(金) 10:12
面白いんであげ
163 :
世界@名無史さん:2001/02/09(金) 15:34
肯定派は当時の視点で見ているが
否定派は見下ろした視点で見ている。
164 :
日本@名無史さん:2001/02/09(金) 16:54
当時の視点でも乃木は無能な将軍とみられていたと思いますよ。
事実、日露戦中の世論の非難はすさまじかったし、
また世論ではなく陸軍内部の見解としても、陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」
から明らかだと思います。
司馬の小説に出てくる乃木って結局、日本陸軍の視点でみた乃木なんですよ。
まあ、ただ乃木は二人の息子を戦死させてるし、律儀者というイメージもあって庶民の間で人気はあったのでしょう。
陸軍や司馬の視点からはそういう要素が抜け落ちてますね。
>>163 肯定派は当時の庶民の視点でみているが
否定派は当時の日本陸軍の視点でみている
しかも見下ろしてるわりには視野が狭いような。
1つの側面だけから見るよりも2つの面、3つの面…を
見ればいろいろな発見があると思う。
>>165 「悪い面もあるかもしれないけど、良い面だってあったんだよ」と
言いたいあなたは肯定派。否定派はひっくるめて勘定した結果
「ヘタレや」と思ってる。
167 :
日本@名無史さん:2001/02/09(金) 19:27
迫撃砲を作ったのはロシア軍です。(日本は真似して量産)
旅順守備隊の兵力は約5万5千ですから、
その攻略に必要な兵力は常識的に言って55万名です。
第三軍の兵力は何万人だったでしょう?
否定派の皆さん。
貴方は南山の第二軍司令部をどう評価しますか?
168 :
酔剣:2001/02/12(月) 03:31
>167
失礼ながら、書き込まれた意図がわかりません。
軽便な資料程度を、一読されたらいかがでしょうか。少々疲れてきましたが、一応レス致します。
>迫撃砲を作ったのはロシア軍です。(日本は真似して量産)
旅順要塞戦当時、工兵が坑道から敵堡塁内に爆薬を投擲する為の、有力な兵器が無かった。
そこで湾曲弾道を持つ臼砲(弥助砲)にヒントを得て、内地より花火筒を取り寄せ、
爆薬を打ち上げてみるとうまくいった。それで射程二百メートルものを作成した。
初めは木筒に縄を巻いた物だったが(写真が残っている)、非常に有効な砲だったので、
奉天会戦時には、金属製で約二百門製造され使用された。
(日露戦争後も装備され続け、「青島攻略戦」にも使用されている)
列国観戦武官がこの砲に強い関心をよせ、各国で研究が進み、その発展型が一次大戦で
さかんに使用され、イギリスのストーク社が最終的に優秀なもの(現用)を開発した、
日本は昭和九年にそれを逆輸入して制式化した。
ついでに、弥助砲は戊辰戦争の時に、薩軍砲兵隊長大山巌(弥助)が発明した十二斤臼砲で、
大山の幼名からそう呼ばれた。大山は遮蔽物の陰から打てるこの小型砲の有効性に着目し、
戦前に、自ら指示して鋼鉄製の9センチ・15センチ臼砲を大量に製造させた。
人力運搬のこの湾曲弾道砲は、塹壕内の敵兵の殺傷に威力を発揮し、旅順戦で大活躍した。
砲数が不足して、現地で木製砲身の代用品まで造られたという。
(ちなみに、大山巌は小説で言われているような茫洋とした将軍ではなく、才知に富み、
必要な時には、参謀連を叱りとばして難局を打開した事もあったらしい。)
>攻略に必要な兵力は常識的に言って55万名です
どこの常識ですか?当時の日本陸軍の総兵力をご存じでしょう・・。
>南山の第二軍司令部をどう評価しますか?
このスレの主旨とは、若干ズレますので簡単に。
遼東半島の制圧のためにも、大連港を確保して補給路を確立させるためにも、南山要塞を
完全に占領する必要があった。戦傷者四千四百名は参戦人員の約12パーセント、
消費弾薬は五個師団・二旅団の手持ち弾薬全部、という凄惨、かつ激戦であったが、
時間的にみると一日足らず、十四時間の力攻めで攻略している。
露軍誤判断のおかげでもあるが、旅順要塞戦と比較するまでもない。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/12(月) 03:56
牟田口は馬鹿です。補給なしで2週間分の食料弾薬のみで2ヶ月以上の作戦を
戦って勝てると判断する人間は馬鹿です。どのような状況が味方しても勝って
いたハズがありません。しかも敗退中に歩けなくなった兵隊は全て処理させま
した。更に作戦責任者である自分は責任を取らず、天寿をまっとうしました。
こいつは歴史上の汚点です。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/12(月) 04:13
169書いた者ですが、言いたかったのは乃木大将は賢い人では
無かったと思いますが、人道、道義に篤い所から牟田口と同じ
レベルで論じるのは、いくらなんでも可哀想だと。
171 :
酔剣:2001/02/12(月) 13:34
>170殿
そのとおりです。159で(>少し、たとえが下品だったかもしれない。やや鬱だ・・)
と言ったのは、まさに、その意味です。
あまり好まない人物ではあるが、明治大帝の寵臣乃木老将軍と、卑怯な権柄者牟田口輩とを、
同列で比較したのは小生の言い過ぎでした。単に、戦局全般に対する無理解と、結果への無責任さを
言いたかっただけで、人間の資質、人格の水準等が同レベルとは、全く思っていません。
謝罪と訂正が必要ならば、謝罪と訂正を致します。
172 :
日本@名無史さん:2001/02/12(月) 13:36
あげます。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/12(月) 18:01
174 :
王翦:2001/02/12(月) 22:55
>164
旧陸軍参謀本部編「日本の戦史」の「日露戦争」なら持ってるけど、あれは戦闘経過の記述
が主で、乃木に関するそのように断定できる所見らしきものが見あたらないのですが?
陸大で谷寿夫が日露戦争について講義したいわゆる谷戦史を収めた「機密日露戦争」では乃
木第三軍に関し滿洲軍総司令部が第三軍をどうみていたかに関する記述があります。
これは「日本の戦史」や「日露陸戦新史」のように外部に発表するための本と違い内部での
研究ゆえでしょうね。
滿洲軍総司令部は「第三軍の行動今は奏功せり。而して奏功軍に恥をかかすは不要のことな
り。故に第三軍参謀長を整理委員となすことに決し、之を総参謀長より大本営に電報し、大本
営より直接公式に第三軍司令官に協議せしむるを最良策とす」と決議し、陥落前にあった第三
軍司令部更迭論に終止符を打ってます。
そして谷は「本項で示せる事実は、統帥上軽忽に附すべきものに非ずと信ず」と結んでいます。
つまり、日露戦争終結後は第三軍批判は表だってしてはいけないことだったのでしょう。
175 :
日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:12
明治38年3月9日、奉天会戦の末期、クロパトキンは全戦域に後退命令を出し、戦線縮小しつつ、
新着師団を中心とした予備兵力を、奉天北方の日本軍に指向し、一挙に大勢を決めようとしていた。
その時すでに乃木第三軍は迂回に成功しており、全面のロシア軍を排除しつつ西北より東進を狙っていた。
ここに、クロパトキン直轄の総予備と乃木第三軍の遭遇戦が起こった。
本来は後退するロシア軍に追随して攻勢をかけるところが、第三軍は現役兵が消耗枯渇し「補充兵中心」であり、
また、迂回行動を快速に行うために、輜重部隊の物資を最低にしていたので、補給キレで疲労困憊していた。
追撃してくる第三軍にロシア軍は、後退援護のための反撃を企画し反撃に出た。
このとき悲劇は起こった、乃木第三軍の最左翼に位置した後備第一旅団は大打撃を受け、耐えきれず、
ついに攪乱敗走し戦線は崩壊した、忠実勇猛な日本軍が銃を捨て逃げ出したのである。
野外遭遇戦での旅団規模の敗走は、日本軍としてはこれが唯一の例である、もしこのロシア軍の逆襲が、
遅延行動でなく、当初の計画通りの「総予備投入の反撃」であれば、奉天の原野は日本兵の死骸で埋まったであろう。
西南戦争での軍旗紛失も乱軍敗走のなかで起こった。
これは、上級将官はともかく、一般将兵には乃木司令官は敬愛されていなかったということになる。
明治帝と、同じ長州閥の山県有朋とに庇われて、表沙汰にはなっていないが、無責任で軍事無能の「愚将」であった。
殉死事件までは、これが定説であった。
176 :
日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:33
日本軍が戦闘に強いというのは戦前に作られた幻想
本当は弱い、欧米人相手だと特に弱い。
日本軍精強説は軍事板の住人も信じている傾向がある。
177 :
日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:58
日本がロシアに勝ったことは、トルコやフィンランドなどでは、
今も語り継がれているように、大きな出来事だったがな。
連戦連敗で属国になってばかりの鮮人は、悔し紛れのウソを言わないように。
178 :
日本@名無史さん:2001/02/13(火) 09:10
幻想といえば、真珠湾奇襲で多数の目撃例があったハーケンクロイツのマーキングが記されたドイツ製戦闘機と金髪のパイロットでしょう。
欧米人に敵わないという幻想こそ、戦前のものではないでしょうか。
仏印駐留時の日本軍に較べてのフランス軍のあまりの弱さに愕然としたのがベトナムの民衆の独立希求のはじまりだったという説も聞いたことがありますし。これは本当かどうかは知らないのですが。
179 :
王翦:2001/02/13(火) 22:24
>175
後備歩兵第一旅団の潰乱に関し、前述の谷戦史(機密日露戦史)では「此後備部隊の
用法は用兵上最も研究を要すべき拙案なり」と酷評しています。
でも総じて見れば谷教官は第三軍に同情的です。
180 :
軍事板住人:2001/02/13(火) 23:23
>176
『強い』というのがどんな意味か定義しにくい部分があるが、
一般的に言って、かなり高い戦闘力を持っている。
やや持久戦に不得手なきらいはあるものの、総合的に見てそう言える。
日本人個人はどうか知らないが、日本軍はとても強い。
>178
その話、ホーチンミンのインタビューにあったような記憶がある。
181 :
酔剣:2001/02/14(水) 05:30
>>179 >総じて見れば谷教官は第三軍に同情的です。
同情的と言うよりは、むしろ、明治天皇と陸軍長州閥に気を使わざるを得なかった
のではないか、小生はそう考えています。
戦役の総括に、本来はタブーであるはずの“情実判断”を加味し始めたところに、
二次大戦時の『軍事官僚の退嬰』の蠢動を見ます。
乃木のあの無意味な殉死と、その後の軍紳化策動によって、表だった批判ができなくなり、
昭和の「神懸かり的皇軍」へと繋がっていった、そう思います。
軍事の世界に必要以上の精神論を持ち込むことは、結果的に「軍事的合理性」が失われ、
兵理の無い軍事行動は、ひどい災禍をもたらします。
乃木はまさしく、それを体現した人物であって、軍事指導者にはなってはいけない人物であった、
そう考えています。
182 :
酔剣:2001/02/14(水) 05:58
↑誤解の無いように、
『軍事官僚の退嬰』の原因は、他にもいろいろ考えられます、
とりわけ、初代教育総監・寺内将軍の構想に大きな問題意識を感じています・・、
が、基本的には、現役軍人個人の「神格化」が、堕落、弛緩の最大要因だと考えています。
小生の乃木批判はその一部であり、唯一絶対の退嬰の原因と言っているわけではありません。
183 :
日本@名無史さん:2001/02/15(木) 21:26
起立!
184 :
日本@名無史さん:2001/02/15(木) 21:26
礼!
185 :
日本@名無史さん:2001/02/15(木) 22:20
乃木さんはたしかに殉死をして日本人好みの男だが
日露戦争で死んでいった兵士の遺族はぜったい恨んでいるよ。
戦争指揮が下手だの天皇の覚えがいいだというが、乃木さんは
完璧に死刑執行管だよ。
それを美化してることがおかしいと思う。
神の前ではみな平等。(笑)
186 :
光通信:2001/02/18(日) 01:16
上に同じ意見です。
今の社会で照らし合わせたら責任とらせられ首でしょう、一つの事業部を潰しかけたら
当然でしょう。でもこの人は戦争終了後も辞めてないし天皇が死んだら
殉職して、個人的な意見だけと自分の為に死んでいった人達に何にも感じてないよ
普通じゃないよね、てゆ〜か怒りさえ覚える。
この人は何処かおかしい人だと思う。
187 :
王翦:2001/02/18(日) 13:52
>186
皇師百萬征強虜
野戦攻城屍作山
愧我何顔看父老
凱歌今日幾人還
「乃木希典日記」の解説によると乃木大将が凱旋帰国後、この詩をよく揮毫し
たとのこと。
皇軍は戦に勝ったが野戦攻城でたくさんの死者をだしてしまった。恥ずかしく
、彼らの親にあわす顔がない・・・という意味でしょうね、この詩は。
旅順白漁区山上に東郷平八郎らと尽力し、表忠塔を建立し、祭文を捧げたり、
他にもあちらこちらで忠魂に行き祭文を捧げたり、記念碑の撰文をしたりしてい
ます。
古川薫著「軍神」記するところでは、下賜された恩賜金を使って傷病兵のため
に廃兵院を設立したそうです。
乃木が各地を講演した際、演壇に立った乃木は「私が乃木希典です。みなさん
のお父さん、お兄さんを殺した乃木であります」とまず深々と頭を下げたとか。
188 :
木村君:2001/02/19(月) 00:37
頭の下げる、そんな事誰でも出来る事
恥ずかしくて〜と思いながらも帰ってきてるでしょ、この人は口だけ!!
恥ずかしいと思うなら帰ってこなければいい。
何だかんだで元帥だっけ、多重人格者かな〜この人
そうだ、精神分裂症だ。間違いなし
189 :
歴史趣味:2001/02/19(月) 00:47
>>14を見て欲しい。
190 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 10:37
>乃木が各地を講演した際、演壇に立った乃木は「私が乃木希典です。みなさん
>のお父さん、お兄さんを殺した乃木であります」とまず深々と頭を下げたとか。
これは遺族の感情を逆撫でのような気がしますね。
米海軍が同じようなことを言うとどのような反響がおこるかわかったものではない。
よくもまあいけしゃーしゃーと言ったもんだ。
191 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 11:30
>若いころは放蕩児で、遊郭に入り浸っていたそうだが
>ドイツ留学後、驚くほど自分を律する人になった。
おしゃれだった乃木が普段でも軍服しか着ない堅物になって戻ってきて周囲のひとは驚いたらしい.
ドイツ留学中になにがあったのだろう?
プロシア将校の威厳にでも心酔したのだろうか?
軍制の近代化に役立つような戦術・戦略の面での成果を何一つ持ち帰らずに
乃木独特の教育論や精神主義が留学の成果であったとはどういうことだ?
武士道やら精神面の充実やらをしきりに口にしふりかざすようになったのは
ドイツ留学の成果が全くなく期待を裏切ったのを韜晦する手段ではないのか?
192 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 16:47
性格がそうさせたんじゃないかな。
それこそ日本人っぽい思想がそれなりにあったんだろう。
こういうこというと反論も多そうだけどね。(^^;>日本人っぽい
たらればはタブーだけど、こういう男を戦時中の大将にえらぶってのは
ほんと紙一重だね。
平和な時代なら堅物オヤジで部下や後輩に嫌われる程度の害のない男で
おわってるんだけどなぁ。
まあ本人にとっても日本国民にとっても不幸な人物だったことは確かだね。
193 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 18:43
乃木裏話
乃木の墓がある寺の住職が親父の親戚なので聞いた話なのですが、乃木の奥さんははっきり言って死にたくなかったらしい。息子2人が死んで乃木も定年になり友達に温泉めぐりをするんだーとか言っていたそうだ。
乃木事態は儒教の陽明学を心酔していて殉死すると決めていたらしいが。
まあ乃木の美学に付き合わされた奥さんが哀れである。
194 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 20:23
・・・無理心中だなこりゃ。犯罪じゃねえか。
195 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 20:59
たしかに奥さん被害者だ。かわいそうにねぇ。
もっとかわいそうな遺族もいるし、こりゃ乃木さんは最悪だね。
196 :
王翦:2001/02/19(月) 21:14
>188
>何だかんだで元帥だっけ、多重人格者かな〜この人
死後ですら元帥に叙されていません。大正5年に正二位を贈られてはいますが。
197 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 21:33
「東風吹かば〜」って乃木の歌だっけ?
198 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 21:35
>197
それ「海ゆかば〜」だろ。バカ。
199 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 21:43
日露の凱旋パレードか何かで行列を横切った犬を
殺したというエピソードを聞いたことがある。
当時の感覚では当然の行為なの?
200 :
王翦:2001/02/19(月) 23:05
>197
乃木の詩歌がほぼ収録されている「乃木希典日記」には「東風吹かば〜」という
一節を含む詩歌はありませんでした。
「東風吹かば匂い遺せよ梅の花 主なしとて春を忘るな」ならば菅原道真の作と
されています。
201 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:54
>>199 明治天皇の横浜競馬場行幸に護衛として行ったときの話でしょ(司馬遼太郎
『殉死』128頁)。あれは嘘。司馬の捏造か事実誤認。そもそも日露戦争
後(もしくは乃木が大将となって以後)、明治天皇が横浜競馬場に行幸された
という事実はありません。
202 :
199:2001/02/20(火) 01:21
>201
犬殺しは司馬の創作か事実誤認だったのね。
なんかほっとした。
203 :
木村君:2001/02/20(火) 02:49
190と同じ意見です。何も考えてないよこの人は、それとも考えられ無いのかな?
仕事が出来なくて出世できた。むちゃくちゃ運の強い人
他人の屍に乗ってね〜
204 :
王翦:2001/02/20(火) 22:36
>203
でもおそらく本人は運が悪いと思っていたでしょうね。
乃木の子息の戦死を悼む陸相から手紙に対し、乃木は自らの無能を恥じ、陛下国民
に詫びたい旨の返事を書いたり、凱旋後の復命書では自らの失敗を並べたてる異例
のモノを奏上したりと軍司令としてのダメっぷりの自覚はあるようですが、陛下の
寵愛に阻まれ自害も出来ず、生き恥をさらし続けなきゃならなくなった。
で、「朕が死ぬまで死んではならぬ」と命じていた明治帝が崩御し、ようやく
死ねたと。
もっとも、その数年前に病気で死にかけていたのですが。
205 :
osage:2001/02/21(水) 04:43
う〜んドラマチック。
206 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 03:40
どっかの映画で息子の戦死を伝えられると、
「よく死んでくれた」と乃木さんが呟いてるシーンがあった。
207 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:27
>>199 漫画「坊ちゃんの時代」でも同じようなシーンがあった気がする。
有名なエピソードなのかな。
牟田口廉也を無能呼ばわりするのはやめてもらいたい。
人格攻撃も亦同じ。
209 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 12:18
仕方ないだろ、牟田口は乃木と並ぶ日本帝国陸軍二大無能巨頭だ。
人格攻撃も仕方ない。変なビラ配って自己弁護するし。
ということで208さらしあげ。
牟田口さんは、そんな人じゃないよ。
211 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 13:46
乃木だろうと牟田口だろうと、ここに書き込んでる人の中に
彼らを上回る能力を持つ人は一人もいないことは間違いないけどね。
まあ、別のもっと優れた人を持ち出して、相対的な評価を下すしか
できないだろうな。
>>211 そうだよ、そのとおりだよ。
牟田口さんはベストを尽くしたんだよ。
今更、牟田口さんの採った作戦や行動を悪く言わないで欲しい。
可愛そうだろ。
牟田口中将をいじめるな〜〜〜
by牟田口廉也を守る会
乃木は無能だったが、卑怯ではなかった。
牟田口は無能な上に卑怯だった。
215 :
某板住民:2001/02/24(土) 16:18
>陰羽流殿
勉強してから、ものを言え。
別スレ立ててやるなら、きっちり相手になるよ。
216 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:22
いやいや、十人十色とあるように人の意見にも耳を傾けましょう。
ただその理由も言わずに好きだからとか可愛そうだからというのは
話になりませんなぁ。(笑)
ただ人の命を預かる将校や大将という立場というのはそれなりの責任があるのだから
いい加減なことをした男は批判の意見もきかなければダメだぞ。
217 :
標定射:2001/02/25(日) 04:36
当時の、有名な話でこういうのがある。
第三軍は、大規模攻撃を「六のつく日」によく行った。
露軍もそれを知って、その日までに休養を取り、弾薬を準備し、攻撃を待ったという。
(猿の一つ覚え、と言って、あざ笑ったらしい)
さすがに大本営も不思議がって、そのわけを聞きにきた、すると、伊地知参謀は、
「六のつく日は、縁起の良い日なので・・」と答えたという。(爆笑)
街の三流ギャンブラーじゃあるまいし、この素朴で無責任な低脳振りはどうだ!!
参謀がこのありさまで、肝心の乃木司令官も、ただただ「厳父にして慈父たらん」と
威厳を整えるだけの儒教かぶれ・・・・兵士はたまらんね。
>陰羽流殿
水上源蔵少将の事跡を読まれてから、牟田口を再評価されてはいかがかな。
218 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 05:01
中世からの武士的な感覚がまだ残ってたんだろな、痛すぎ・・・
>「六のつく日は、縁起の良い日なので・・」
219 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 05:30
2chで誉めるのは、けなすに等しいな(ワラ
乃木と聞くと必ず村山元首相を思い出して
しまう私。あのふたりは容姿も性格もそっくり。
悪い人ではないよね。。。
221 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 12:04
乃木陸軍大将伯爵万歳
>>220 >悪い人ではないよね。。。
村山?大悪人さ。
震災当初は、まだかろうじて救急車が動けた、大渋滞になって負傷者搬送は不可能になった。
村山は「個人の権利の制限は・・」って言って、最後まで、交通遮断の勧告を退けた。
米軍の空母派遣も断った、空母をヘリコプター基地として使い、且つ、空母の医療設備を使えたら・・
自衛隊の初動出動の不決断だけでなく、人命軽視の誤判断が多すぎた。
村山のおかげで、何千人が余分に死んだか(泣。
今、森に危機管理が云々って批判している社民党は、滑稽を通り越してグロだね。
223 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 04:51
最も、悪辣で、はた迷惑なのは、
「自分が善を為している、少なくとも悪を為していない」
そう信じて、せっせと残虐な結果を生産していく人物だ。
錯覚という自覚のない錯覚、これが一番怖い。ヒットラーや毛沢東のような
自意識の強すぎる指導者によく見られるパターンだ。
部下や国民は大迷惑。大悪人というより、大災厄人というべきか
224 :
>222:2001/02/26(月) 05:29
村山にしても乃木にしても自己の責任によって
多数の犠牲者を出しているわけだけれども、
それは彼らが無能であったせいで、悪人だった
せいじゃないよ。
225 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 09:57
高い権限を与えられた地位にある者は無能であること自体が罪であり、悪だ。
仮に無能者が責任ある地位に就き、しかもその職を果たせない場合、
真に人格者であるなら自分がその地位にあることの弊害を恐れて自ら
職を辞すだろう。
彼が周囲に与える弊害より自分の生活の安定や名誉を失うことを嫌って
職を辞さないのならば、とても人格者の名には値しない小人物ということになる。
また彼が自分が職を果たせないこと自体に気づかず職を辞さないのならば、
自分の能力すら把握できない度し難い無能者ということになる。
乃木牟田口逝ってよし。
226 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 19:53
このスレを初めから読んでみると分かるが、
乃木批判派のほうが多くの事実を知っているみたいだ。
乃木は不思議な人物で、調べれば調べるだけイヤになってくる。
乃木を好きな人は、何も読まず、知ろうとせず、情緒的に好いているだけがよかろう。
227 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 23:53
そうだな。科学的に解明できて満足してるのが軍事ヲタだもんな
228 :
名無しさん@1周年:2001/02/27(火) 01:42
>224
そうそう少なくとも彼等はカケゴルフはやっていない。
>228
あほ!その日村山は祝杯を挙げているよ。
震災日は、山花元委員長が、多数派を率いて「分離独立宣言」をする予定だった。
党内多数派が、自社さ連立を出れば、村山政権はどうなっていたか分からん、
大震災のため分派独立が延期され、その間に山花が病に倒れ死亡してしまったが、
村山連立政権の最大の危機だった。
当日朝、村山は武村蔵相とその話をしている、震災初期、村山はそれを奇貨として
ありがたがっていた節がある。
賭けゴルフどころじゃない、森以上に、危機意識はなかった。
230 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 01:29
>226
まさにそのとうりだね。
231 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 13:34
>>226 ただ実際に会うと、とても憎めない人だったんだろうと思う。
それどころか、かなりいい印象を抱いてしまうんじゃないだろうか。
その辺も、村山に似ているかな。
232 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 13:57
当時の遺族だって、言いたいことは山ほどあったんだろうけど、
乃木自身、息子を二人とも失っているから、あまり強くは言えなかったんだろうなあ。
軍部も、任命者責任などの問題が出てくると厄介だから、
勝ったのをいいことにうやむやにしたかったんだろうし。
233 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 14:09
言ってる言ってる。少なくとも戦争中は。乃木氏ね自決しろは当たり前、
息子二人氏んだことも「当然」ととらえられていた。青山の乃木邸が
遺族や出征兵士の家族はおろか一般市民連日の投石でめちゃくちゃだったのは
有名な話。
234 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 14:34
>233
そう、戦争中は言われてましたね。
ただ、何故そこまで言われた人が軍神になれたかを考えると、
息子を二人とも戦死させたことも大きいんじゃないかと思ったのです。
そうじゃなかったら、遺族からものすごい反発が起きたんじゃないかと。
235 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 14:54
戦後・・・っていうか、自決後じゃないか?軍神に祭り上げられたのは。
東郷も生ける軍神にはならなかっただろ。まあボケた後はいいように
神輿にされたけど。俺は乃木が軍神にされた正確な敬意を浅学にして
知らん。人格者とみなされていた(らしい)ことは知っているが、
軍人としての評価は限りなく低かったんじゃないか? 乃木が生前も
死んでも元帥に叙されなかったことに誰も疑問を呈していないことが
軍・一般問わない乃木への評価じゃないかな。
結局、明治天皇に殉じて死んだことで遺族もまあ腹立ちを収めたって
ところだと思うが。
236 :
120:2001/02/28(水) 22:10
ちょっと見るに耐えないスレになってきましたねー
兵を死なせた、そういう視点は自然と生まれるけど
違ったレベルの見方ができないと統帥なんてできないでしょうに
どちらの視点が高級かは別としてですよ
この弁護も情緒的とか言われるのかなあ。どっちが情緒的なんだか
結果的・即物的な、敗けた者は間違い、勝った者が正しい、
兵を多く死なせたから馬鹿だったなんて言うのは
真摯に歴史を学ぶ人間がやることとは思えないです
このスレ見てると、相変わらず日本人は抽象的な感覚が弱いな、
総中流意識で足ひっぱり合って生きてるなというのがよくわかります
237 :
王翦:2001/02/28(水) 22:27
「一人息子と嘆くじゃないよ、二人亡くした人もいる」というフレーズが日露
戦後に登場したそうです。
明治39年に刊行された「日露戦役録」の乃木評
「殊に乃木司令官の如きは常に前哨を巡視して部下の士をねぎらい、之を愛する
あたかも寵児の如く、故に士卒の之を慕う寧ろ慈母の如くにして、為に窃かに死せん
ことを願えり、而して将軍は長子勝典を南山の役に失い、今また次子保典を二百三高
地の突撃に失いたりしが、身に重責を帯べる将軍は眼中国家の他なく、更に悲悼の状
を見ざりしが、いわゆる武士は泣かぬに勝る涙あり、二百三高地占領後部下の士の哀
悼の意を述べるに至り、始めて涙潜然たりしと云う」(原文は旧字体)
この本の最終章「陸軍の凱旋」にて各軍をこう評してます。
第一軍 ・・・・つねに敵を震撼せしめたる
第二軍 奉天の会戦に偉功を奏せし
第三軍 ・・・・絶大の偉功をたて
第四軍 遼陽城第一の殊勲を奏し
鴨緑江軍 (経過を書いただけ)
はっきり言って第三軍を突出して持ち上げています、この本。
238 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 06:24
>>120 そうでしょうか。
別に負けたものが間違いとか馬鹿だとかは思わないですよ。
負けた事によって得る事ってのもあるからね。
ただし大勢の兵隊の命を人的ミスによって何度も犠牲にした場合、これは非難されるに
あたいすると思うぞ。同じミスを繰り返すとこれは馬鹿だ。
研究者は自分の研究題材に感情移入は許されないが、研究結果を評価するのは
後の時代の私達日本人です。
ばかじゃね〜の?(笑)
何が中流意識の足のひっぱりあいだよ〜。
何が相変わらず日本人は抽象的な感覚が弱いなだよ〜。
ちがったレベルの見方をされる方はご意見まで違ってらっしゃる。
恐れ入りました。
239 :
120>238:2001/03/01(木) 17:20
本当に負けた者から何かを得ようとしていますか?
非難する人は当時の乃木さんの意図を十分に理解できているのでしょうか?
決断にいたる経緯、決断の単純さに込められた複雑な意図や思い入れ、
そういう気持ちまですべて汲んだ上で非難しているでしょうか?
無理に乃木さんを弁護しようとは思いません。しかしこれは日本人の歴史観
にとって大切な問題であると感じています。
>大勢の兵隊の命を人的ミスによって何度も犠牲にした場合これは非難されるに
>あたいすると思うぞ。同じミスを繰り返すとこれは馬鹿だ。
もちろん非難するのは自然な気持ちでしょう。かといってそこで終わらせるのは
ちょっと違うのではないですか。そういうのを結果論であり下司根性だと言いたいのです。
私たちは歴史を裁いてナンボではなく歴史に学んでナンボのはずです。
私は普段世界史版にいますが、単純に見えるものほど複雑な事情があるものです。
必要以上に詮索するのが目的ではありません。史学以前に自分の成長の糧として、
簡単に断じられてしまう過去を見直すのは非常に興味深いことです。
240 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 17:30
歴史に学んでナンボ、という言葉には満腔の同意を示そう。
で、歴史をどう学べば「乃木にも理あり」とか考えられるようになるんだろう?
軍人として無能のきわみであり、多くの将兵を空しく死なせた男。膨大な国費と
時間を浪費して戦争をあやうくさせた不忠者。肉弾戦信奉と精神論を後の日本陸軍に
植え付けてしまった希代の悪人。
昭和天皇の養育係としては有能であったかもしれないが、他になにか功績があるかい。
それとも、乃木の歩んだ道から「硬直的な人事はいけない」「情実によって信賞必罰を
ゆがめてはいけない」「批判をそらすために神輿をかついでもてはやしてはいけない」
「無能な人格者を責任ある地位に就けてはいけない」「殉死は間違っている」
などという大切な教訓が得られるから、ゆえに乃木は日本に利益をもたらしたとでも
言いたいのかな(藁
「情緒的」に乃木を弁護したがっているのはお前さんではないか?
241 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 17:52
乃木さんはありゃだめだろう。
人間的にいいひとかどうか知らんが軍人として使えない。
あの人の部下で戦場逝けないでしょうが?
242 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 18:00
>肉弾戦信奉と精神論を後の日本陸軍に植え付けてしまった希代の悪人。
そりゃあんまりだ。責任は後世の人間の方にあるだろう。
243 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 18:53
120はなんだか乃木さんが好きなのかな。
まあ本人がちがうっていってるんだから違うんだろうけどな。
> 本当に負けた者から何かを得ようとしていますか?
簡単な話だ。なぜその人が負けたのか、という事などを学ぶ事ができる。
分かりやすく言えば反面教師。
負けた事で同じ失敗をしないためにも十分得ることができるだろ。
それが出来ていなかったと思われてる乃木さんは、それだけで軍人としては十分な
ばかっぷりを発揮してるんだよ。
非難してそこで終わらせた?今までのレスを読んでる限り、そんなことばっかり
じゃないだろ?勝手に日本人の歴史観をかたってんじゃね〜。
まあ120は負けたものからは何も得ることができないようなので
成功者の話だけを勉強して、屁理屈をこねまくって下さいな。
私達のような雑魚とちがって、さぞ素晴らしく方のようなので、それで十分でしょう。
>>242 >> 肉弾戦信奉と精神論を後の日本陸軍に植え付けてしまった希代の悪人。
> そりゃあんまりだ。責任は後世の人間の方にあるだろう。
でも先例というか精神論信者のモデルになってしまったこともすこしは責任はあるのでは?
近所に住んでるおっさんだったら、ただの頑固じじぃで終わってたのにねぇ。
244 :
120:2001/03/02(金) 02:27
240や243は日本人の一般的な考えだろうから批判するつもりはない
そういうのが下司根性だってことくらいは覚えといたほうがいいかもね
言葉では何とでもいえる。物事の本質を捉えることとはどういうことか
精神的に大人ならこのくらいのこと薄々気づくんだけどね。
歴史観どころか、日本人の意識構造の悪い部分が垣間見れるいい機会でした
さ、世界史板に帰ろーっと
245 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 02:37
以上、ウヨの独り言でした。ちゃんちゃん
246 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 03:25
ここにいるやつみんなウヨじゃん
247 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 04:54
おー、反論のコキ逃げだー。
なんかへんな奴があらわれて去っていったもんだ。
世界史板でもこんな事やってんだろうか、このコキ逃げ120連発男は。
248 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 06:09
>>244 それはあくまでもあんたの意見。
それを正論だと押し付けている事がわからないあんたはこのスレからすみやかに
立ち去るべし。
そして世界史板でゴタクを並べて同じ事を繰り返してください。
249 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 07:47
このスレは2人で切り盛りされてます(ワラ
250 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 11:44
どんどん過去を裁いてやろう。
251 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 03:04
>250
幼稚な言いようだな。
歴史的事項の批判的検証が「過去を裁いてやろう。」なのですか・・・
末期的なアホですな、まあ、見事な発想です。
ついでに義満か綱吉あたりを裁かれてはいかがかでしょう(笑?
PS
もし、貴殿が村山元首相の事を言っているならゴメンね、
村山あたりなら、まだ「歴史」になってない「過去」だ、裁くのも可能だろう。
252 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 04:10
なんだ自作自演スレか
もう歴史から学ばなくてもいいよ。
学んでも学ばなくても、どうせ結果なんてそう違わないって。
だから乃木さんの采配を非難するのはやめようね。
254 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 19:44
>253
いや、2度と間違いを犯さないためにも教科書に記述すべきだな。
世紀のクソバカ将軍と。
255 :
酔剣:2001/03/04(日) 21:56
何も知らなかった頃、その風貌や水師営の会見の印象から乃木将軍に好意を持っていた。
古武士然とした悲運の哲人将軍という感じだった。
それが高校生の頃「白襷決死隊夜襲」の写真を見て、大きな疑問が生じた。
地雷原・鉄条網に工兵が開口路を開け、その突撃路ぞいに、遮蔽物のないよう整備された
傾斜平原を歩兵が疾走して、敵堡塁の胸壁に取り付く。
侵攻路が限定されているため、容易に銃線に捉えられやすく、甚大な犠牲が出る。
これをさけるための夜襲のはずだ、それが・・・夜目にくっきりと白いバッテン印!
『なんだこれは、戊辰戦争の抜刀隊のままか?』
要塞堡塁も機関銃も地雷も鉄条網もサーチライトも無い時代の感覚・・・。
寡兵による夜襲に、敵味方識別が必ずしも必要とは思えないが、どうしても必要ならば、
背中に白布を張り付けておけばいいのに・・。
その後は
>>226が言ったとおり、知れば知るほど乃木に批判的になっていった。
現実の世界は漢詩の世界ではない、軍人や外交官が「自己の思い入れ」だけで判断すると、
自覚しないまま、大変な災厄を周りに及ぼす。
乃木だけでなく、昭和十年代の外交官僚・軍事官僚がこの国をどうしていったかを考え、
この「思い入れ過剰症」が、我が民族性に基づくものかどうなのか、それを知りたい。
(乃木擁護派の不可解な精神構造にも興味があるが・・)
256 :
公中:2001/03/04(日) 22:21
今の自衛隊は乃木将軍のような人に指揮してもらいたい。
もともと日本人の精神構造というのは不可解なものなのだ。
不可解な日本人を防衛する自衛隊も当然のことながら不可解
な軍隊でなければならない。
257 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 23:19
はあっ?
256はワケがわからんが、今の自衛隊に必要なのは国民の支持
なのだから、乃木のような世間にアピールするトップが必要なのは
その通りなのかもしれん。軍事的才能でもっと優れた人がいるかどうか
なんかにこだわってる場合じゃない。
259 :
日本@名無史さん:2001/03/05(月) 03:45
↑
彼が自衛隊のトップだって?
らちもない精神論を振り回されて、どうしようもない前近代的な武装集団ができるだけ。
オウム軍団みたいな「勘違い集団」はコワイだけで、国家防衛の役にたたんぞ!
>>259 君は乃木を精神論者の系譜に位置付けたいようだけど
その根拠は?
昭和のバカ軍人どもは乃木を馬鹿にしてたんだぜ?
防衛大学校の入試試験は漢詩1科目だけでいい。
漢詩の素養さえあれば自衛官は務まるし、国も守れる。
武器は要らない。
戦場で本当に必要なのは、敵を感動させ、涙させる詩を作れることなのだ。
↑
さすが学歴の無い奴は言うことが違う
263 :
日本@名無史さん:2001/03/06(火) 05:04
>>261 いや〜、爆笑させていただきました。
こんな時間に一人で部屋で爆笑している私も痛い人間ですが・・・。
264 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 06:17
いまどっちが優勢なんだ?
一般大衆には好意を持たれ、一部マニアには評判悪い乃木将軍。
「大衆はブタだ!」
266 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 10:55
ほんとに一般大衆にも好意をもたれてたのか?
267 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 11:11
歴史を学ぶということは、過去を美化することではなく、過去の過ちを
知ることだと思う。
そう考えると、乃木みたいな無能な指揮官を祭り上げるという伝統が、
太平洋戦争の愚行(インパール作戦とか)につなっがっていったのではないか?
明治天皇の寵愛を受けたとあったけど、そうすると明治天皇の責任は問われない
のかな?
適材適所の人事が行われないと言うことに、本当の誤りがあると思う。
268 :
267:2001/03/10(土) 11:13
誤字訂正。
>適材適所の人事が行われないということに、本当の誤りがあると思う。
269 :
酔剣:2001/03/10(土) 16:39
乃木は軍司令として無能であった上に、天皇個人への忠節心が強すぎて、それ以外は見えず、
一般兵士の犠牲や、客観的に戦局を理解する事に鈍感・無責任でありすぎた。
それだけでも充分に災厄だが、彼の古武士然とした風貌や、水師営での立ち振る舞いで、
欧米、特に英国のマスコミに大変好意的に取り上げられて(東洋の禁欲的詩的哲人老将軍)、
東郷提督と並んで、一躍、世界的著名人になった、この事と、明治大帝の寵愛のために、
軍内部での乃木批判は控えられた(でも、乃木は元帥府に入れず、伊地知も大将になれず)。
むろん、
日露戦役の犠牲・出血が膨大であった国民の怨嗟の声をかわすために、自らも二人の息子を
戦死させた乃木将軍の存在は、政府にとっても好都合で、ことさら人気を煽った部分もある。
ただ最大の問題は、あれほど拙劣な指揮をした将軍が別段追求もされず、むしろ栄爵を受け、
要職を歴任していることを、次代の軍事官僚が知ったということで、後の日本軍に人命軽視の
軍人精神偏重・突撃至上主義の非合理的先例を与えた、ということだ。
(当の乃木も栄職を渡り歩かずに、謹慎隠居すればいいのに・・・人格者であればね)
>267の言うように、明治帝の偏愛に大きな責任がある。また、乃木殉死をはやし立てた
復古調のマスコミにも(最大の)無責任がある。
まあ、マスコミの無責任は、今時大戦の敗北にも、今のバブル敗戦も同様だが
270 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 00:13
267みたいな頭の悪いやつがいるから言ってやるが
昭和の軍人は乃木をこき下ろしてたんだよ
おまえ本当に「歴史を学ぶ」とか
「過去の過ちを知る」って意味わかってんのか?
271 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 00:35
>>269 >後の日本軍に人命軽視の
>軍人精神偏重・突撃至上主義の非合理的先例を与えた
これは受け取る側の問題ではないのか。
そこまで乃木の責任になるのか。
要するに乃木批判ってのは乃木をとりまく日本人や
後世の日本人を批判していることになりそうだ
272 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:23
>271
>そこまで乃木の責任になるのか。
ちゃんと読んだらどうだ、あれは乃木批判が封殺されたことの問題点を言ったもので、
乃木個人の責任だとは言っていない。
ただ、己の無能に無反省で栄職を歴任するなどの行動をを見ると、
「人格者なんてとんでもない!!」そう言っているだけだろう。
>要するに乃木批判ってのは・・日本人を批判していることになりそうだ
いわゆる「一億総懺悔論」と同じね、日本人全体の責任とか性質のせいにすると、
批判が曖昧になり本質がぼけてくる。
むしろ、個人批判も含めて、問題点を徹底的に掘り下げて、しかる後に、日本人論だろ。
273 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 04:28
>270
>昭和の軍人は乃木をこき下ろしてたんだよ
風聞でなく、具体例を言ってくれ。
274 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 07:16
>273
「機密日露戦史」
275 :
>272:2001/03/11(日) 07:31
>己の無能に無反省で栄職を歴任するなどの行動を見ると、
>「人格者なんてとんでもない!!」そう言っているだけだろう。
君は「世間的評価」が目的かね。
結果だけで人を判断するなら不可解なものまでは一生見えまい。
本当の乃木の能力を掘り下げるのがこのスレなのでは。
276 :
名無しさん@ピンキー:2001/03/11(日) 11:35
アタマはあまり良さそうじゃないな。顔も普通レベルだと思う。
スタイルはかなりイケてた。村西がうらやましい。
277 :
273:2001/03/11(日) 14:22
>274
「機密日露戦史」あたりを根拠にして、
昭和の軍人は「乃木をこき下ろしてたんだよ」ってか!(藁藁)
‘こきおろす’っていうのは、もっと堂々と酷評する事じゃないかね?
三八銃に毛ほどの傷を付けただけで、死ぬほどの制裁(リンチ)を受ける、
そんな兵士達が『軍旗を紛失した将軍』乃木神社に、集団参拝させられるんだぜ、
軍紳信仰というのは、とてつもない(批判)言論抑制力を持っているわけで、
一部の生意気な参謀連が、陰で「こっそり、けなしている」ことなど、
屁でもないさね。
もし貴殿が270なら、あまりひどい罵声は控えてもらいたいものだわ。
278 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 16:42
なんかマニアックだな
上にへつらい下に当たり散らす。
上への不満は仲間内の酒席でただ愚痴るだけ。
雇われ人は悲しいね。そりゃ逆切れの1つもしたくなるだろう。
280 :
日本@名無史さん:2001/03/12(月) 12:41
おい! どこかに乃木信望者はいないのか!!
冷静に、擁護論を唱える奴はいないのか?
いない。
冷静に考えれば考えるほど擁護できなくなる人物。
牟田口の同類。
282 :
王翦:2001/03/12(月) 23:50
>270
今村均将軍は戦後でも乃木擁護派だった。
>273
「機密日露戦史」で谷は乃木をこき下ろしてはいません。
283 :
270:2001/03/13(火) 08:29
昭和の軍人がどういう考えを持っていたかがわかればよし
>一部の生意気な参謀連が、陰で「こっそり、けなしている」
>ことなど、屁でもないさね。
ワラタ
そういう視点がすでに主観的であることにも
歴史を「モノ」扱いする傲慢さにも
自分で気付かないのか
>283
>昭和の軍人がどういう考えを持っていたかがわかればよし
おいおい、ごまかしはいけないよ。
>267みたいな頭の悪いやつがいるから言ってやるが
>昭和の軍人は乃木をこき下ろしてたんだよ
という君の発言に、具体例は?と聞いていたわけよ、わかる?
昭和の軍人達が、実は『腹の中でどう思っていた』か?なんて事じゃないよ。
「こきおろしている」って、君の言葉の重みは何処へ行ったのかな。
まして、小生意気な作戦参謀連中が、どう思っていたかなんて・・笑
それに、282氏は『「機密日露戦史」で谷は乃木をこき下ろしてはいません』ってさ。
285 :
日本@名無史さん:2001/03/14(水) 04:32
一応、揚げてはみるが・・
286 :
森:2001/03/14(水) 15:45
次期総理大臣には、ぜひ乃木将軍のような
人格高邁な人をお願いしたい。
人格が高邁でありさえすれば、別に能力なんか
なくたっていい。
国政なんてガップリ四つで取っ組み合う覚悟が
ありさえすれば、何とかなるさ。
人格はともかく、能力はあろうがなかろうが関係ないしな。
待てよ、人格高潔だったら自分の無能に耐えられなくなって
いつか自殺してしまう。やっぱ人格高潔な総理は禁止。
288 :
日本@名無史さん:2001/03/15(木) 00:34
リーダーは柔軟なやつじゃないと務まらないぞ。
現代でも過去でも同じじゃないか。
289 :
日本@名無史さん:2001/03/15(木) 16:02
アホと柔軟の区別が難しいんだなこれが
290 :
通行人:2001/03/16(金) 00:13
仲代達矢はかっこうよかったよ。丹波哲郎もいかった。
これって決戦沖縄コンビだよな
291 :
王翦:2001/03/16(金) 00:23
「二百三高地」(映画版・TV版)を見たあと、「ガメラ2 レギオン襲来」
をみると、「お若い将校さんもすっかり立派になって」と感慨に耽ってしまう。
東宝映画「沖縄決戦」は牛島を小林桂樹がやってます。牛島が腹切るカットが
「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」に載っています。小林桂樹の後方に丹波哲
朗が腹切る順番待ちしてるから、おそらくこれが長勇ってことですね。
292 :
日本@名無史さん:2001/03/16(金) 00:34
age
293 :
日本@名無史さん:2001/03/16(金) 01:52
坂の上の雲の参考資料って何なの?
まさか司馬って軍事的な解説も自分の頭で考えたことってことはないよな
294 :
日本@名無史さん:2001/03/16(金) 02:01
いま、レスぜんぶ読み終わったけど、へえ、参考になるなあ。
で、軍事的に乃木はどうだったの?
結果的にA軍集団脱出の時間稼ぎをしたスターリングラード死守の
パウルス同様、肯定的な評価をしたんだけど、
やはり無能だったのかなあ・・・・。
好きな人なんだけどな。
誰がやっても、ああなってた。
いや、乃木の<凡庸>いがい対処の方法が無かったという結論が好みなんだが。
・・・難しいかな?
>>294 あなたがそういう結論を出すのはご自由だが、一般的な結論とは
異なるだろうね。
296 :
日本@名無史さん:2001/03/16(金) 11:20
どんなに旅順要塞が堅固で、
第一次総攻撃がどんなに戦術的に正しくて、
旅順による損害が最小限だとしても、
なにもわかってない一般庶民は日々損害が出ているだけと思って
何もできず徒に旅順で兵殺しているといって非難するだろう。
当時の一般庶民の評価などあてにならんよ。
298 :
日本@名無史さん:2001/03/16(金) 11:51
28サンチ榴弾砲はブ格好
299 :
296:2001/03/16(金) 12:12
>>297 当時の一般庶民の評価は根拠にならないってこと。
だから乃木が無能じゃないとまではいってないよ。
300 :
世界@名無史さん:2001/03/16(金) 12:28
当時だろうが現代だろうが一般庶民の評価は根拠にならんよ。
一般庶民が軍事的な知識を理解して評価してたわけじゃない、というのは同感。
302 :
>296:2001/03/17(土) 02:56
問題なのは、日露戦当時の一般庶民の乃木評価ではなく、殉死当時のそれでもなく、
もちろん二次大戦時の乃木将軍像でもない。大切なのは、かなりの程度、客観的に
鳥瞰できる、今現在の「戦史的・歴史的評価」なのだ。
東郷提督・乃木将軍の残した、後代への影響も含めた「大きな陰影」は、
帝国陸海軍の精神史、特に昭和軍閥の分析に、最も有効な鍵であろう。
303 :
世界@名無史さん:2001/03/17(土) 08:51
「かなりの程度、客観的」
に見えて実はとんでもなく目を曇らせている
304 :
日本@名無史さん:2001/03/17(土) 12:48
いま、「坂のうえの蜘蛛」という日露戦争をぶたいにした司馬遼太郎の歴史小説
よんでます。
映画「203高地」をみると乃木は、あの戦争で精神的に荒廃し、自刃をねがいでた
という風になってますが、
じっさいのところは、戦争があってもなくても、人格上の変化はとくになかったでしょうね。
昔、アラビアのロレンスが<過剰な体験によって人格が代わった><無垢であることをやめた>
という英国好みの贖罪論をよんだことがありますが、乃木にとっては203高地の惨劇は
彼の人格に、どれほどの変革を及ぼしたのか、疑問です
306 :
日本史@名無氏:2001/03/17(土) 23:36
西南戦争で連隊旗取られても切腹せずに生き長らえて
なんとか、汚名晴らそうと焦ってたのかも知れません。
307 :
日本@名無史さん:2001/03/17(土) 23:59
乃木伝説「軍旗紛失」
よく知られているようだが、その頃の軍旗の有り難さ、また奪取された
軍旗の末路はご存じですか?
308 :
日本@名無氏:2001/03/18(日) 00:10
>307
連隊全滅しても軍旗は守る。って聞きました。
連隊旗といっても旗自体は激戦でボロボロで紐だけに
なってたとじいさんから聞きました。
奪取されたモノの末路は知りません。
309 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 00:17
それっていつ頃からの風習と思っていますか。
西南戦争で小倉乃木連隊が下手打ったのは明治10年代です。
その頃の軍旗……というか国軍そのものに、それほどの思い入れ
というか価値は無かったんですよ。一般的にはね。連隊長自身は
洒落にならない気持ちで、それこそ腹でも切りたかったかも知れませんが。
310 :
王翦:2001/03/18(日) 00:27
>307
岩切正九郎は乃木の聯隊の軍旗を腰にまいていた河原林少尉を斬殺し、軍旗を
奪ったけど「なんじゃ、こいは、こげんもんないらん、おはんにやる」と軍旗を
人夫に渡した。
岩切の隊長たる伊東直二が「大手柄じゃっとに、ないごて人にやったか」と言
うと岩切は「おいは軍旗を奪るために従軍したのではごわはん。敵をずんばい斬
るためにごわす。敵を斬るのが悪ければ、帰んそ」と憤然と答えた。
出典 児島襄「大山巌」
311 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 00:48
あ、その話は知りませんでした。感謝します。
で、肝腎の軍旗ですが……。
再授された後で薩軍将兵縁の家で見つかっちゃったんです。公にすること
もできずに保管され、結局は奉焼されてしまったそうですが。
西南の役と同時代の「神風連の乱」でも、兵舎が襲われて軍旗が一時奪わ
れています。これが初の軍旗遭難事件です。ところがその後、軍旗を厳重
保管するようになったのは明治17年くらいから。
歴史について語るときは、当時の感覚をわきまえておきたいものです。
312 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 01:03
防府の乃木神社、面白いですよ。記念館みたいなものがあるんですが、
将軍収集の石ばっかりです。庭には「さざれ石」が置いてあります。
ここで初めて実物見ました「さざれ石」。
313 :
王翦:2001/03/18(日) 01:11
>311
補足すると、軍旗は岩切から人夫へ。そして人夫の上官たる村田三介へと渡り、
村田が戦死したのち、隊士が遺髪と共に軍旗を未亡人・沢子に送った。
河原林少尉と親しかった大塚義彦は、軍籍を離れた後、鹿児島県の警察署長とな
ると部下を動員して軍旗の行方を調べ、ついに未亡人宅を家宅捜査し天井裏に隠し
てあった軍旗を見つけた。
で、結局その軍旗は闇に葬られたと。(出典 古川薫「軍神」)
314 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 01:29
まあ結局「軍旗紛失」の伝説も、あっけないものですよ。
なんでこれで非難されるのか、全く解りません。本当。
どうして?根拠ある?雰囲気?ああ、なんとなく納得。
ちなみに「軍旗遭難」の時刻についても、有名なノンフィクション作品中では
『薩軍抜刀隊の夜襲によって乃木隊は算を乱して退却』としていますが、
実際は薄暮、つまりどう贔屓目に見ても夕方なんですよ。とても夜襲とか
どうとかの時刻ではない。ここらへん考察すると、所詮作品は作品ですな。
315 :
王翦:2001/03/18(日) 01:41
乃木が進退伺いたる待罪書を出し、山縣陸軍卿を議長とする会議が開かれた。
その冒頭で山縣は極刑に値する不始末だと強硬意見を吐いた。
だが結局「軍旗は格別至重の品に候へ共、旗手戦死し、急迫の際、万やむを
得ざる場合につき、乃木希典待罪の儀、何分の沙汰に及ばず候事」となった。
これらを見れば、軍旗が特別大切なモノであるという認識は当時でもあった
ことになる。ただし、昭和期ほどの絶対的重要性ではなかったわけだ。
そもそも乃木は明治七年の軍旗授与式に二日酔いの頭をふらつかせて列席し
たそうだ。
負い目に負い目が重なったと見るべきか?
316 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 02:02
もちろん会議参加者は幅広く私見を述べるでしょう。でなくては会議の
意味がないです。議長の言、そして結論を見比べると、この会議の信頼
性は十分にあると感じます。
にしても、二日酔い……痴話といい、いろいろと滅茶苦茶な人だ。
317 :
王翦:2001/03/18(日) 02:06
>314
児島の「大山巌」だと午後七時少し前に銃声がして、その後村田隊が斬り込ん
できたということになってます。
戦闘前の描写だと日没後で月光は明るかったが四周は暗い静寂に包まれていた
ってことになってます。
318 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 02:33
……夜襲……ということになる、ですね。王翦さんどうも。再び感謝。
なんだかチャット状態で面白かったですが、当方そろそろ限界、寝ます。
旅順、奉天にまつわる伝説も、眉唾が多いと思ってますが、如何でしょう。
319 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 06:12
age
320 :
日本@名無史さん:2001/03/19(月) 07:18
「坂のうえの雲」第5巻読了。
児玉が到着する2日まえに、ちゃんと第三軍と満州軍の連絡協議で、
主攻勢を203高地にかえた・・・という記述ありますね
321 :
日本@名無史さん:2001/03/19(月) 21:05
乃木将軍がコンクリへ肉弾をぶつけるような事をなぜ行ったと思いますか。
攻城戦に際して乃木将軍が当初考えていたことは、これに表れています。
「急ぐなよ 旅順の敵は逃げはせじ よく喰って寝て 起きて戦へ」
永久要塞への無茶はハナから考えていませんでした。しかし……
「第三軍全体が揃っていないのは承知の上だが、攻撃開始を望む」という
海軍からの要請があり、結局は陸海共同作戦の一環として、準備不足のまま
不本意にも攻撃を開始したというのが実状です。
これでなぜ乃木将軍が非難されるのでしょうか?不思議です。
>321
まず、レスを最初から全部読んで、それからレスしろよ。
323 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 02:16
>>321 読みました、全部。個人的には「軍事板住人は出てけ」の辺りが辛かった。
で、第三軍司令部の独自の方針でもなんでもなく、作戦の一部として
むしろ第三軍としては「強制」とも受け取られそうな作戦をやらされた
ことについては何も書かれていなかったと思いましたんで。
322さん、上記のことについて書かれていたことありました?
324 :
【^▽^】ジョーカー:2001/03/20(火) 02:40
乃木大将はこういう人だ
↓
旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営
庭に一本なつめの木 弾丸跡も著るく
崩れ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍
乃木大将は厳かに 御恵深き大君の 大詔伝うれば
彼かしこみて謝しまつる
昨日の敵は今日の友 語る言葉も打解けて
我は称えつ彼の防備 彼は称えつ我が武勇
かたち正して言い出でぬ「この方面の戦闘に 二子を失い給いつる
閣下の心如何にぞ」(ステッセル)と
「二人の我が子それぞれに死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目」と大将答え力あり
両将昼食共にして 尚も尽きせぬ物語
「我に愛する良馬有り 今日の記念に献ずべし」(ステッセル)
「厚意謝するに余りあり 軍の掟に従いて
他日我が手に受領せば 長く労り養わん」(乃木)
「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左
砲音絶し砲台に ひらめき立てり日の御旗
325 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 02:55
326 :
名無し不動さん :2001/03/20(火) 03:00
いおえくq8うjg09くぃf09くjpqx。jf0qじょせx
fjぢオアx塩w,j,おいjx,入ジョイ安治世xふぁお、djふぉj、
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327 :
酔剣:2001/03/20(火) 03:41
久方ぶりに来ました、横レス失礼します。
>323
>第三軍司令部の独自の方針でもなんでもなく、作戦の一部として
>むしろ第三軍としては「強制」とも受け取られそうな作戦をやらされた
>ことについては何も書かれていなかったと思いましたんで
むろん、第三軍は、独立した「軍閥」ではなく、帝国陸軍により編成された、
満州軍傘下の一軍団でしかありません。
したがって君の言う『強制とも受け取られそうな作戦』なんてものはありません、
上級司令部から、任務を強制されるのは、軍隊として当たり前のことです。
作戦遂行のための細々とした事項は、独自に裁量できますが、
作戦全体を俯瞰するような「独自の方針」は持つことを許されておりません。
>321
>海軍からの要請があり、結局は陸海共同作戦の一環として、準備不足のまま
>不本意にも攻撃を開始したというのが実状です。
海軍の要請がなければ、旅順要塞など、包囲したまま放置しておけばいいのです、
(実際、そのような計画が、開戦前の大本営で検討されていました)
すべての作戦には「作戦目的」というのがあります、旅順攻撃の作戦目的は、
『決められた時間内に、最小の犠牲でもって、旅順湾内の敵艦隊を殲滅すること』
でありました。「海軍からの要請で不本意に攻撃を開始したと」いう文言は、
本末転倒の認識です。
何のために第三軍が編成され、遼陽に行かず、旅順に寄り道させられたかのか。
当時の戦局の中で、旅順艦隊の位置付けは、致命的な重要性を持っていました。
大本営も満州軍司令部も、それを熟知していました、ひとり、乃木軍幕僚のみが
その自覚がなかったのです。
稚拙な戦術指揮の数々と、この作戦目的の無自覚、これが問題でした。
328 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 05:08
321=323 はぜったい最初から読んでない。もしくは実情を知らない。
327のいう通り、日本海軍はやがてくるバルチック艦隊と交戦する日に
そなえて万全な体制が必要だった。
そのためにも旅順港に残っているロシア海軍にくぎ付けになることを
もっとも恐れた。
だから陸からの旅順要塞攻撃が必要なので、陸軍に要請したんだ。
海軍は軍艦砲なども提供し、海兵も一部レンタルすると言ったのにも
かかわらず第三軍参謀連中(伊地知等)はそれを拒否し、しかも乃木はその参謀を
容認したんだぞ。
二0三高地奪取の提案も海軍の提供だ。
後に児玉源太郎が乃木にかわってすべての作戦を指揮したというのは
かなり嘘だが、それでも他の男にとってかわられた瞬間にすべてに勝利すると
いうのは乃木の無能ぶりもわかるだろ。
いやな男だよ、乃木ってのは。
え?それも知ってるって?
いや〜、まいったねぇ。
329 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 05:15
>>320 読んでいて一番楽しいところだね。
いいなぁ、俺もときどきして読んでたもんなぁ。
330 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 10:02
旅順へ向けて遼東半島を西進攻略中、陸海高級幕僚会議によって旅順港閉塞
作戦中の東郷連合艦隊司令長官の意見具申(迅速な旅順攻略の必要)が承認
され、満州軍総司令官に対して旅順攻略が求められた。
「第三軍は既に歩兵三十六大隊火砲二百七十余門を有するをもって、第九
師団及び野戦砲兵第二旅団全部の到着を待たず攻撃を実行し得る望あり、
刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望は実に已むを得ざるべし」
旅順露軍の守備兵力を一万五千、火砲二百門と見積もっていたことが
原因だろう。これなら勝負できると。実際は四万二千、六四六と約三倍。
上層部の判断誤りはあきらかで、現地軍を責めるのはいかがなものだろうか。
331 :
酔剣:2001/03/20(火) 17:30
>330
たしかに当初、軍中央は、旅順の敵兵力を過少に見積もっていた(
>>106)、これは、
露軍戦略への無理解(撤退する軍は弱兵力だろ)と日清戦争時の旅順要塞戦の印象から
誤判断したものと思われる。
この敵情認識は、乃木(日清戦時旅順攻略に参加)も第三軍幕僚も同様に誤認していた、
問題は、第三軍が敵情偵察を充分にせずに総攻撃に取りかかり、数次の要塞攻撃の後も、
かなりの期間、その誤った認識を改めなかったことにある。
第三軍は真剣に敵情偵察をしていたのか疑問が残る、たとえば攻撃正面について
>>118で、
『攻撃正面に二龍山と東鶏冠山の中間点を指向した理由が、大部隊を展開できる広地で、
旅順要塞の中核点だから一気に戦機を決められる(というのだから恐れ入る)』とだけ、
書いたが、実際は「旅順駅より遠いと、弾薬の運搬や弾列整備が煩雑だ」というのが、
最大の要因に一つだったと、戦役後に軍幕僚が言っている。
第三軍は、第二回総攻撃が粉砕された後に、ようやく主攻方面の移動を検討しだした。
敵情偵察を充分にしていれば、当初の誤判断は別として、もっと早くに敵情認識を修正
できただろう、その間の膨大な犠牲は、かなり軽減されたと思う。
過激に言うと、あれではまるで全軍の総攻撃で威力偵察をしたようなものだ。
332 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 19:54
旅順へ向けて遼東半島を西進中、剣山という要地を攻略している。
この戦闘で思いもかけず時間をとられるなどして、旅順の前哨戦において
現地軍は既に露軍侮り難し、を実感していた。
それを上層部に意見具申したりして認識不足を改めさせる手を尽くしたか
どうかは知らないが、第三軍の行動は、上層部にほぼ全期間を通じて
急がされたものだったのは明らかである。
これがなぜ現地軍指揮官誹謗の理由になるのかわからない。
333 :
日本@無名史:2001/03/20(火) 20:10
ナルシシトかも知れません。
意識的に「歴史に名を残そう」とゆう意図があったと思われます。
浅学が簡単にまとめてスイマセン。
334 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 22:55
203陥落後は、「今や多大の犠牲を供して強襲する必要なきが故に、多少の
時日を費やすも、確実なる方法により、勉めて我が損害を減じ、且つ全力を
一点に集中し、朝に一塁を略し、夕に一塁を奪い、逐次各堡塁に及ぼすの方針
を採りたり」という状況で、以後はこれが実践された。
「確実なる方法」とは具体的にいえば「工兵が坑道を掘って爆薬を仕掛け、
堡塁を爆破する方法」であり、その成果はまさに言行一致。
12月18日坑道作業によって東鶏冠山北の爆破に成功、堡塁内に突入、占領。
12月29日二龍山堡塁占領
12月31日松樹山堡塁占領、望台への攻撃開始
01月01日0330頃望台占領、ロシア軍司令部は降伏を決意。
203高地陥落後、永久要塞4箇所を占領させるために約一ヶ月近く(1207〜
0102)を要したのだが、損害はこの全期間で戦死者782名、負傷者は3000名
という。
乃木司令官はこれで無能と、肉弾攻撃しか知らないと誹謗されるのか?
335 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 22:58
>>332 急がされたから無駄な突撃を繰り返した・・・。おろかな考えだ。
じゃ時間に余裕があればよかったのか?
その後の第三軍の動きをみてもそう考えるのは難しいと思うが・・・。
もともと海軍も当初はバルチック艦隊対策で何もかもに急がなければならなかった。
(もっとも露艦隊はおもいっきり時間をかけて日本海にやってきたが)
その海軍はやるべきことをすべてやりきり、すばらしい仕事をしたと思う。
上村雪之丞などおもしろい名前に似合わず必死になって仕事をしたではないか。
それにひきかえ第三軍は大本営を旅順要塞よりかなり後方におき、昼寝三昧(うそ)
どうみても第三軍は終わってます。
336 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 23:02
>>334 それ、二〇三高地とった後だろ?
それを何のために引き合いに出したでしょう?
乃木じゃなくても知っている要塞攻撃の基本だね。
ひょっとして乃木ふぁん?
337 :
酔剣:2001/03/20(火) 23:17
>332
>認識不足を改めさせる手を尽くしたかどうかは知らないが
第三軍司令部が認識不足を自覚していたとは思われない、とりわけ
乃木将軍の「白襷決死隊」への命令を知れば、その思いは強まる。
(乃木は真剣に決死隊が効果を挙げうると信じていたみたいだ)
現地の第一線下級部隊の認識を、司令部がどこまで、汲み上げようとする
姿勢があったかも疑問、司令部が後方過ぎるとの批判もあった。
>第三軍の行動は、上層部にほぼ全期間を通じて急がされたものだった
作戦目的を考えれば、それは当然(笑。
逆に弾薬補給・兵員補充は、かなり優先されていた。
いずれにしても、拙劣な指揮の免責にはならない。
338 :
>334:2001/03/20(火) 23:30
203(爾霊山)高地の陥落後、比較的順調に攻略が進んだのは、敵の戦意喪失と、
旅順要塞の致命的欠点の一つに、防衛陣地の縦深が浅く、一角を占拠されれば、
全体的に脆弱化を及ぼす、というのがあったため。
これ、かなり前のレスに書いてなかったっけ。
339 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 23:43
海軍重砲隊の働きは、確かに素晴らしかったと思う。
08月に第三軍が総攻撃準備中の07日払暁、海軍陸戦重砲隊が砲撃開始。
08日、09日と継続され、戦艦「レトヴィザン」に命中するなどした。
10日0430、旅順艦隊は抜錨出航、黄海海戦においてほぼ戦闘能力を
失っている。この遠因となった。
しかし、陸海共同作戦として見た場合……。
07月23日に第九師団が大連に到着、前線へ配置される。
07月27日から前線にて攻撃が開始された。
07月28日まで営城子、西小磨子、双台溝、鞍子嶺などを占領
08月06日の大狐山・小狐山の攻撃が始まる
08月09日に大狐山・小狐山を占領
これでようやく旅順攻囲網がほぼ完成し、旅順の本要塞への直接攻撃が
可能となっている。この際に、更に目標奥地へと砲撃を加えてしまったら
そりゃ共同作戦相手は驚きますよ。
……よく考えると、では後の203高地での観測地確保なんて必要無かった
んでは、と疑問が湧く。海軍の要求と行動は妥当なものだったのだろうか。
340 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 00:04
>338
203そのものは旅順要塞本体にとってはあまり重要地点ではないです。地図を
みればほとんど飛び地です(うわ、我ながら暴言)。
露軍の戦意喪失は、203失陥によるものではありません。
>334では書きませんでしたが、12月15日のコンドラチェンコ少将戦死が
戦意喪失の大きなきっかけとなっています。
203で増援につぐ増援を仕掛けたのもコ少将であり、彼の勇猛果敢な戦闘
ぶりは露軍にとって大きな支えとなっていたようですから。
341 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 00:28
第三軍の軍司令部は柳樹房(東鶏冠山堡塁から直線距離で7.2km)に
位置していました。別に、戦争司令所は総攻撃のたびに前方に進め、
203高地から約2.9kmの高崎山となっています。
これは完全に敵軍の射程距離内、戦闘司令所はほとんど至近距離とも
思える距離ですが、妥当な位置はどのあたりと言われるのでしょうか。
ちなみに、12月01日の大山総司令官名での第三軍宛訓令では、
1・203高地に冠する戦況不明なるは、指揮統一の宜しきを得ざること
多きに帰せざるべからず
2・高等司令部及予備隊の位置遠きに過ぎ、ために敵の逆襲に対し救済
するの時期を逸すること
3・明朝の攻撃には、各高等司令部親しく適当な位置に進み、必ず自ら
地形と時期とを観察し成功機会を逸せず、占領を確実ならしむことを
期すべし
以下略……と、ほとんど嫌がらせとしか思えない訓令を、作戦行動中に
かますという非常識なことをしています。これが司令部位置批判の根拠と
されているようですが、あまりに酷い。
342 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 00:54
二○三高地の攻略は海軍の要請で、
目的はヒッキーのロシア旅順艦隊をバ艦隊到着前に
二○三高地からの砲撃で追い出し、連合艦隊はこれと会戦し殲滅すること。
二○三高地の攻略のために海軍は巡洋艦の主砲を提供すると申し入れたが、
伊地知はもちろん乃木も断っている。
自分の美学を追及し幾千の部下を殺した乃木と、
薩閥人事で乃木にあてがわれた伊地知。
最悪のコンビです。
がいしゅつだったらスマソ
343 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 01:16
06月26日遼東半島の歪頭山・剣山攻略後、満州軍・第三軍・連合艦隊の
首脳が集まって会議が開かれる。会議上で連合艦隊からの提案があった。
1攻城砲不足のため、海軍大口径艦砲を陸揚げして貸したい
2攻撃の重点を無防備の203高地に向けて欲しい
伊地知第三軍参謀長はこれらを拒否。
1砲力は充分にある
2攻撃開始一ヶ月後に考える
結局は海軍側が強く要請し、海軍重砲隊の編成ということに落ち着いた。
十五センチ砲7門、十二センチ速射砲6門、砲車付12ポンド砲20門。
終始、第三軍は海軍の提案をできるだけ受け入れるよう努力しています。
>>343 >終始、第三軍は海軍の提案をできるだけ受け入れるよう努力しています。
は? 同じ文章で
>伊地知第三軍参謀長はこれらを拒否。
って自分で書いてるやん。しぶしぶ、だろー?
345 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 20:21
そりゃ会議中は双方が要望をぶつけあいますよ。それが会議。
もちろん、歓迎という感情はないでしょう。組織としては異物な
わけですから。渋々、という感情は当然じゃないですか。
そしてその結果として、海軍陸戦隊重砲隊が編成されるんです。
それを「できるだけ」というのに、なにかおかしな所でも?
346 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 23:04
第三軍が海軍の提案を受け入れるよう努力していたのではなく、
大本営・満州軍司令部が、海軍(連合艦隊)に協力的であって、
メンツのため嫌がっていた第三軍司令部を、説得した。
終始、海軍の提案を受け入れるよう努力していたのは、満州軍司令部。
お間違えのないように(藁
347 :
日本@名無史さん:2001/03/22(木) 00:16
>346
この剣山山頂での会議で、経過説明からずっと主導していたのは第三軍ですよ。
満州軍司令部が第三軍に、海軍側の要請を受けるように説得していたという
のは知りませんでした。どうも。
348 :
日本@名無史さん:2001/03/22(木) 01:13
341では、203高地争奪時の戦闘司令所の位置について述べていますが、
第一回総攻撃の際の戦闘司令所は、団子山東北部にありました。
東鶏冠山までの直線距離はおよそ3.0kmという場所です。
司令所を遠くにおいた卑怯者、という誹謗の根拠はあるのですか?
349 :
日本@名無史さん:2001/03/22(木) 02:37
>>346第三軍が海軍の提案を受け入れるよう努力していたのではなく、
大本営・満州軍司令部が、海軍(連合艦隊)に協力的であって、
メンツのため嫌がっていた第三軍司令部を、説得した。
これの史料が見あたりません。教えて?
350 :
酔剣:2001/03/22(木) 05:17
話が面白くなってきているようですね。ただ(残念ながら)決算期ですので、小生は、
以前ほど「ひんぱん」に来れません(泣)。予め遅レス宣言しておきます(^^;)
>>343 剣山要塞は、大連と旅順の中間点にあり遼東半島の最高点に位置する要点であった。
山頂戦局会議は、連合艦隊・満州軍・第三軍の首脳が集まった。伊地知少将の説明に、
大山・児玉は口を挟まなかったが、連合艦隊から二つの要請が出され、やや紛糾した。
1)攻城砲力が不足している、大口径艦砲を貸与したい。
2)攻撃の重点を、ほとんど無防備の203高地に指向されたい。
旅順要塞戦が始まる前での、この海軍の指摘は、実に適切な着眼点だったと言える。
海軍は、数ヶ月に渡る旅順要塞との砲撃戦で、要塞のペトンは2・30センチ砲から
撃ちだされる徹甲榴弾でないと砕けないことを知っていたし、湾口よりの敵情観察で、
裸の203高地が、最も容易な攻略点だと判断していた。
(203高地は要塞戦後半から、コンドラチェンコにより急激に強化された)
第三軍参謀伊地知の返答は、
砲力は充分にある、陸軍のことは陸軍にお任せ願いたい。203高地については、
攻撃開始の一月後に考える(それまでに旅順を陥落させているはず)。
という、セクト主義丸出しの、傲慢なものであって、実際に、15センチ砲までの
「海軍重砲隊」しか許可していない。
彼は、後の海軍要塞砲48留の、供出・搬送の問い合わせに際しても、冷淡であった。
(後々、48留については、大本営・満州軍が、具体的な動きをしている)
>>346の言うとおり、全戦局を通して、海軍提案を受け入れるように努力していたのは、
大本営・満州軍であって、第三軍がそうだったとは、とても思えない。
351 :
酔剣:2001/03/22(木) 06:01
おお、これはどういうことだ!このままだと戦艦大和になってしまう。
訂正m(_ _)m・48留X→28留O
352 :
日本@名無史さん:2001/03/22(木) 08:02
28榴弾砲の話で、大本営と第三軍とでこのように通信がなされている。
08月24?日・伊地知参謀長より弾薬増加請求の電報
08月25日午後・長岡参謀次長より返電
「電報に対し、十五センチ臼砲を除き他の攻城砲の為約20500発を送る筈なり、
最早これ以上重砲弾を送るべきものなし、偏に節用を乞う。
攻城砲として二十八センチ榴弾砲4門を送る。9月15日頃大連に到着せしめ
んとす。これに対し意見あれば聞きたし」
08月26日・伊地知参謀長より返電
「二十八糎榴弾砲は其到着を待つ能はざるも、今後のため送られたし」
これを某作家は第三軍は「送るに及ばず」などと返答した、などと全くの
誤りを広めてしまったが、それはともかく、どこが冷淡?
素っ気なく答えているのがハナにつくかもしれないが、第一次総攻撃が中止に
されるかどうかという際どい場面でのやりとりである。事務的なのは仕方ない。
>352
君は、343・345・347・348と同一人物ですか?違いますか?
かなり詳しそうなので、今後の論議発展が期待されますが、このスレだけでいいですから、
「固定ハンドルネーム」を付けてくれませんか? お願いします。
でないと、論理の流れが理解しにくいし、話が拡散してしまうおそれも強いです。
354 :
王翦:2001/03/22(木) 19:22
>352
352で紹介されている通信のやりとりは「機密日露戦史」の「兵器弾薬欠乏の真因探求」
で紹介されているが、その「機密日露戦史」の「旅順要塞攻城作戦指導の経緯」にも収録され
ている長岡参謀次長談を要約すると
「送るに及ばず」との伊地知の返電があり、それに対したとえ不要になっても構わぬ
から大連に陸上げしておくようと折り返し打電。
で、その返電が「・・・今後のために送られたし」
おそらく某作家は長岡談話を抽出的引用したのであろう。出典はおそらく「長岡外
史回顧録」だろう。
なお児島襄の「日露戦争」も長岡談話に沿っている。
陸上自衛隊幹部学校の教官らが中心となって編集された陸戦史集の「旅順要塞攻略
戦」だと「送るに及ばず」の記述はなく「・・・今後のために送られたし」だけ。
355 :
嶽原:2001/03/22(木) 23:25
「送るに及ばず」と紹介した某小説作家。この紹介は理解に苦しむところであ
ろうか。作家の思惑は文章に現れる。曰く……
「……『意見あれば聞きたし』というのは、現地軍に対する東京の心づかいで
あった。姿勢が低い。 ところがこれに対する乃木軍司令部の返電は、歴史に
大きく記録さるべきであろう。『送るに及ばず』というものであった。
古今東西の戦史上、これほどおろかなすくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳
が存在しえたであろうか……」
……なにか恨みでもあったのだろうか……
356 :
嶽原:2001/03/22(木) 23:42
>353
>352 君は、343・345・347・348と同一人物ですか?
うわあ全弾命中。以後は嶽原と名乗ります。
しかしながら、別に詳しいわけではないですよ。もういっぱいいっぱい(笑)。
357 :
嶽原:2001/03/23(金) 00:39
しつこいが第三軍首脳部の在所について……。
08月21日0400、攻城砲兵部隊砲撃開始
第九・十一師団による夫々盤龍山・東鶏冠山堡塁への攻撃開始
22日0500、両師団の攻撃不成功を悟り攻撃中止を決断
両師団参謀長を今後の処置について指示を出すため軍戦闘司令所に招致
「第九師団の一部が盤龍山堡塁へ突入」の連絡、攻撃続行を決意
23日、第十一師団、盤龍山堡塁から望台方向への攻撃継続
24日、攻撃継続
砲兵司令官豊島少将「現状では明日25日中に弾薬がなくなる」
第十一師団長「既に万策尽きて攻撃の継続不可能」
1600、第九師団長に盤龍山堡塁の絶対確保を命じる
総攻撃中止を決断、発令
このように第三軍戦闘司令所は、特に22日など、刻々と変化する情勢に機敏
に反応している。激戦地の東鶏冠山堡塁から3.0kmという場所(団山子東北方
高地)に軍首脳が居たという証拠と言える。逆に「軍首脳は絶対に砲弾の届か
ない後方にいた」という話の根拠、どなたかご存じか。
358 :
日本@名無史さん:2001/03/23(金) 02:28
>特に22日など、刻々と変化する情勢に機敏に反応している
命令が二転三転してるだけじゃないかと思うのだけど.
と言うか,その場に流されてるとしか思えない.
本当に攻撃不成功を悟ったんなら,第九師団の一部は見殺し
にしてもよかったんじゃないの?
両師団参謀長を戦闘司令所に承知したってのも引っ掛かる.
指示を出すんなら伝令で充分じゃないかな.戦闘の最中に
参謀長を呼ぶのって一般的なの?
359 :
嶽原:2001/03/23(金) 20:42
見殺し……ですか。怖いことをさらりと言われる。
乃木将軍に関しては、どう論じても否定的応酬が可能であるということです。
第九師団の数百人をあえて見殺しにして
数万の第三軍兵士の命が無為に失われずに
済むなら、軍司令官はそうすべきだろう。
361 :
嶽原:2001/03/23(金) 21:05
どの時点での第九師団部隊を見殺しにすると言われるのでしょう。
この戦闘後、磐龍山堡塁は確保されているのですよ。
話を元に戻せば、357は第三軍首脳部の所在についての資料なり文献なり
の有無についての叩き台と思って頂きたい。
第三軍司令部は最前線の状況を見ていないという伝説の根拠、有りや否や。
362 :
王翦:2001/03/23(金) 23:29
伝説の根拠というか元ネタは12月1日に大山巌総司令官が第三軍に下した訓令では
ないかと思う。
1、二〇三高地に関する戦況不明なるは、指揮統一に宜しきを得ざること多きに帰せ
ざるべかざる。
2、高等司令部及予備隊の位置遠きに過ぎ、ために敵の逆襲に対し救済するの時機を
逸すること。
3、明朝の攻撃には各高等司令部親しく適当の位置に進み、必ず自ら地形と時機とを
観察し、成功機会を逸せず、占領を確実ならしむることを期すべし。
(以下略)
もう一つ考えられるモノとして志岐守治中将の口演がある。
日露戦争に第11師団の大隊長として従軍した志岐は第一次総攻撃に関して「然も軍も
師団もあく迄攻撃を遂行すべく、皮肉な言辞まで弄して突撃を命令し、第一線部隊長は
その到底無効なるを主張して高等司令部の敢えて第一線に近からざることを罵倒する状
況にあった際・・・」と述べている。
これらを第三軍司令部を非難するための攻撃材料として利用したのでは?
363 :
嶽原:2001/03/24(土) 00:34
>>36212月01日の訓令とは、某小説で「児玉が命令を口述筆記させ、大山の
もとにゆき承認を乞うた」とされているものですね。実際はもちろん、児玉
総参謀長が出発ののちの発信であるわけで、その時総司令部に残っていた井口
少将の独断で打たれた電報ではないか、という話を呼んだことがあります。
364 :
酔剣:2001/03/24(土) 02:13
>357 う〜ん、申し訳ないが、やや違和感が残る。
第三軍は7月26日より攻撃開始、出血しつつも8月9日までに主要塞線に進出し、
包囲完了後、8月19日より大砲撃を開始、いわゆる第一回強襲総攻撃を始めた。
二日間の大砲撃後、三個師団基幹五万七百余名が、水師営南・盤龍山・東鶏冠山腹に
突撃、屍山血河の勇戦を繰り返した。しかし、露軍の火線は激しく、とりわけ主攻の
東鶏冠山周辺は最も堅固な堡塁であったので、膨大な犠牲とともに攻撃はとん挫する。
被害に第三軍は驚き、22日払暁、攻撃停止を決断した。
しかし、金沢七連隊が盤龍山東西堡塁を占拠した(これはスゴイ!)ことが分かると、
攻撃継続を決定し、盤龍山正面に攻撃を集中し、一昼夜、肉弾突撃を繰り返すも、
効果無く、ついに攻撃開始より6日目の24日16時に攻撃停止した。
戦死傷者は一万五千八百六十名、31パーセントになり、突進兵力は全滅といえる。
軍旗衛兵6名の外全員戦死の連隊まであった。ちなみに、金沢連隊は千八百人の中で
三百人が生残しただけにすぎない。
これほどの被害をみると
>>331で言う『全軍での威力偵察』の意味が分かるだろう、
(大砲撃の効果が薄かったのは、留散弾多用のせいも大きいだろうが・・・)
さて、最終日の24日早朝、乃木将軍以下幕僚が前線視察に出かけ、山腹に散らばった
無数の戦死者を見て参謀連は茫然自失、指揮官らは号泣したという話がある。
だから、すくなくとも、最終日は前線まで出てきたと思うが、総攻撃の間ずーっと、
団山子の前線司令部に詰めていたかどうかはわからない。
むしろ、第九師団第七連隊が盤龍山東西堡塁まで進出した事を知ったのが遅すぎる、
師団長を呼びつけたというのも(前線司令部に?)解せない。
365 :
酔剣:2001/03/24(土) 02:13
>357
>逆に「軍首脳は絶対に砲弾の届かない後方にいた」という話の根拠、どなたかご存じか。
絶対にと、までは言わないが、有名な話としては。
第三回総攻撃中の12月1日に、児玉総参謀が、第一師団司令部の高崎山に立ち寄った折、
第七師団長が再攻撃の懇願に訪れ、児玉がそれを許可している。その後、柳樹房を訪問し、
乃木将軍と余人を交えず会談している。(第三軍中枢は総攻撃中、柳樹房に居た)
団山子といい、高崎山といい『戦争司令所』は、単なる野戦司令部(師団司令部)であり、
攻撃のたびに第三軍司令部が出張してきていたとは、とうてい考えられない。
軍団司令部とは、それほど身軽に移動できるものではなく、兵站処理や通信管理など、
予備部隊の把握、野戦電話の架設一つをとってみても膨大な雑務がある。
前線1に後方2の割合というのはそういうことだよ。
366 :
酔剣:2001/03/24(土) 03:05
まあ、第三軍司令部が、下げすぎだという話には、いろんな意味があるからね・・
奉天会戦の時、こんな話がある。
総司令部は第三軍の包囲行動が遅すぎるといらだっていた(疲弊していた、
>>175)
そこで、松川参謀が第三軍参謀副長に「軍司令部の設置が、後ろ過ぎるから、
指導できないのだろう」と叱った、副長が言い訳していると、児玉総参謀が出てきて、
「貴様は誰だ?」「三軍参謀副長、河合中佐であります」
「儂は児玉だ、乃木にかわれ」「はあっ、それは・・」
で、参謀長が出て、まあまあ話をおさめた。
後で、その話を知った乃木軍司令官は、直ちに出立を決断し、幕僚を率いたまま、
ただただ直進し、ついには第九師団の最前線小隊の散兵壕に達した。
司令部付き医官が小銃弾で即死する状態で、軍団指揮どころではない、
参謀や師団長が後退するよう、乃木司令官に懇願したが、乃木は聞き入れない、
第三軍の幕僚達は、乃木の頑固さと児玉の影響力を思い知ったという。
少なくとも、乃木は臆病だから後方に居たということはない。むしろ、
死に場所を探していたのかも知れない(それはそれで、はた迷惑だが・・)
367 :
酔剣:2001/03/24(土) 03:27
>366
↑明治38年3月6日の電話での話ね、
乃木は児玉より3歳年上、仲は良かったらしい。
でも、前線の兵隊さんは、びっくりしただろうなあ(笑。
散兵壕に、房付き将官が、ずらり・・で、ワイワイ・ガヤガヤと・・(笑
368 :
嶽原:2001/03/24(土) 07:22
そう、指揮官の類は前にいれば良いってもんじゃない。軍司令官ともなれば
尚更のこと。一戦闘をいわばプロデュースするのが役目で、それは補給を筆頭
に雑務雑務雑務……となすべき雑務の激務。その一つに、前線視察というのも
あるわけです。
「総攻撃のあいだずーっと前線司令部に詰めて(
>>364)」いる暇(!)は
ないし、命懸けの皆々も期待してはいない。戦争とはそういうものだ……。
第三軍首脳の行動に、非難されるところはあるのだろうか。
369 :
酔剣:2001/03/24(土) 15:58
>まあ、第三軍司令部が、下げすぎだという話には、いろんな意味があるからね・・
司令部の設置場所が問題にされたのは・・(
>>362氏の言及どおり)
1)前線の戦況把握が、充分できていない。
2)したがって、増援兵投入が遅延し、逆襲奪還される事例が多くあった。
また、
3)現状と乖離した突撃命令を(皮肉な言辞まで弄して)くだす、軍司令部に
第一線部隊長らが強く反発していた。
と、いうことだろう。第三軍の敵情偵察や敵情分析にかなりの不満があったわけだ。
小生の私的印象だが、
旅順戦時の軍参謀・伊地知将軍は、プライドの高い洋行帰りのエリートというだけでなく、
妻が薩摩閥の筆頭・大山巌の姪であったので、硬直的な作戦指揮に何かと専横の傾向があり、
ひどい反発があったようだ。特に砲科出身だったし・・・
>368>第三軍首脳の行動に、非難されるところはあるのだろうか。
たんとあると思うが・・(笑)・・・・・(まあ、個人的には彼の漢詩は好みだがー苦笑)
散兵壕に、房付き将官が、ずらり・・で、ワイワイ・ガヤガヤと・・(笑
不思議な光景!
371 :
嶽原:2001/03/24(土) 23:34
軍司令部が敵要塞陣地から7.2km、戦闘司令所は3.0km前後、この事実と
所詮は後方本営からの訓令と、どちらがより具体的に実状を伝えると思われ
ますか。
そもそも12月01日の訓令は、既に児玉総参謀長、福島参謀副長不在の総司令部
からの出されており、伊地知参謀と犬猿の仲である井口参謀の独断で出された
ものだという話もあるものです。
あと、時系列を混乱させるもとですし、出来れば旅順当時の話でまとめて
頂ければ幸いです。奉天とかは、また後で……ダメ?
372 :
嶽原:2001/03/24(土) 23:59
>>364 08月22日払暁、被害甚大に驚いて攻撃停止を決断
08月24日早朝、前線視察で茫然自失、号泣
これは両立しないでしょう。22日払暁に現地を見た結果、攻撃停止を決断したが
第九師団の奮戦で攻撃継続を決めたというのが自然あるべき話の流れでしょう。
24日早朝に現地を初めて見て茫然自失……というのは作り話ではないのですか?
373 :
嶽原:2001/03/25(日) 01:02
>>366 今度は「死に場所を探していたはた迷惑な頑固者」と来たか。
374 :
日本@名無史さん:2001/03/25(日) 01:59
攻撃停止を一旦決断した後に、再び攻撃を継続するという
あたりが引っ掛かるんだよな。戦況が伝わってるのなら、
第九師団の動向くらい掴んでると思うんだけど。
375 :
嶽原:2001/03/25(日) 09:23
山頂の陣地めざして突撃していく部隊の状況は把握できるでしょうが、
堡塁内部に突入したかどうか、というのは見えないでしょう。
この攻撃停止決断、更にすぐ翻意したことを、優柔不断と見るか
臨機応変と見るかはさて置き、12月01日訓令の二項目の
『高等司令部及予備隊の位置遠きに過ぎ、ために敵の逆襲に対し救済するの
時機を逸すること』の言が、実状を伝えないものであることを示すものだと
言えます。戦後の戦訓資料として発令される内容とも言える不自然さがこの
訓令にはあり、そこから井口参謀独断の発令ではないか、という疑いも生じ
ています。
376 :
酔剣:2001/03/25(日) 16:37
>>371 予め申し上げておきますが、私の乃木将軍に関する興味の中心は、182で
すこし触れたように、『軍事官僚の退嬰』の分析と、軍紳化の弊害にあります。
その為、資料・関連図書の未見も多く、桑原氏の著書も未読です。
>12月01日の訓令は、井口参謀の独断で出されたものだという話もある
したがって、この独断説の根拠を知悉していません。
が、一般的に言って、帝の寵臣・乃木大将と、大山巌の姻戚・伊地知少将を、
ある意味、叱責する内容の訓令を一参謀が独断発令できるものか?疑問で、
それほど、満州軍司令部の軍規が弛緩していたとも、思われません。
また、仮に万一、井口参謀の独断発令だとしても、そこまでするのは、内容に
そうとうな自信があり、事後取消しされず「公式」のままであるということは、
その訓令にそれなりの信憑性があるということの証明ではないでしょうか。
奉天会戦時のエピソード紹介は、さほど意味がありません。
第三軍は、伊地知参謀転出後もなお(司令部設置すら)上級司令部に信用されて
いない。そんな意味ではありません・・・。
377 :
酔剣:2001/03/25(日) 16:38
>>372 >これは両立しないでしょう。
なぜ両立しないのでしょう。第一次総攻撃の流れは、このとおりです。
>24日早朝に現地を初めて見て茫然自失…
私は「すくなくとも」とは言いましたが、「初めて」とは言っていません。
むしろ、砲撃量から考えて、自信満々の強襲でしょうから、攻撃命令の下命時に、
前線近くで望遠鏡を覗いていても何の不思議もないと思っています。
また、24日に惨状を見て衝撃を受けたことが、弾薬枯渇報告と共に、同日午後の
攻撃停止命令に繋がったのかも、と思うのも、無理のない話です。
>>373 >今度は「死に場所を探していた・・」と来たか。
私の、前レス
>>118を参照されたい。「今度は」ではなく、以前から来ています(笑。
378 :
嶽原:2001/03/25(日) 19:07
>>377 >>357で前述ですが、
砲兵司令官豊島少将「現状では明日25日中に弾薬がなくなる」
第十一師団長「既に万策尽きて攻撃の継続不可能」
この報告によって攻撃停止を決断、発令したのだと思います。第三軍は強襲法
にて攻撃しているので、砲弾弾薬の欠乏は攻撃そのものの可否に関わること
です。衝撃を受け、茫然自失となりあわてて攻撃停止などというのは……。
>>373 もちろん、明治のころからの誹謗の言であることは承知しています。
それにしても、373の一文は失礼でした。すみません。
379 :
日本@名無史さん:2001/03/25(日) 22:11
>>376『軍事官僚の退嬰の分析と軍紳化の弊害が興味の中心』
の割には『満州軍司令部の軍規が弛緩していたとも、思われません』と満州軍
についてはフリーパスなんですね。
不自然な訓令と思われませんか。戦闘終了後の反省会や評論会じゃないんです。
この訓令を受けた第三軍の対応は以下のものでした。
「203高地攻撃の失敗の原因、果たして右の如きか、軍は必ずしもその然らざる
を信じあり、しかれども、今敢えて軍の行動を庇護するの要なし、すべからく
この訓令を服膺してますますその然らざらんことを期するのみ」
第三軍のみならず、満州軍参謀について軍事官僚の退嬰の分析を願います。
380 :
酔剣:2001/03/25(日) 22:34
>378
>衝撃を受け、茫然自失となりあわてて攻撃停止などというのは……。
「あわてて」ではなく「悄然として」ということでしょう、停止命令は16時です。
全兵力の三割を超える死傷者と、十二万発弱の全備蓄砲弾を消耗しての攻勢断念。
突進兵力をほぼ全滅させてね、断腸の思いだっただろうな・・2人ともプライド高いから。
381 :
嶽原:2001/03/25(日) 23:55
旅順攻撃に際しては、常に砲兵の戦闘能力が大きく影響しています。
そもそも攻撃開始日じたい、天候のため砲弾の集積が遅れたために
一日順延されています。海軍・満州軍から早くやれやれと急かされて
いる状況にもかからわずに。それほど重要視していたのです。
このことから見ても、24日の攻撃中止についても砲弾が底をついたこと
が最大の原因と見るのが妥当と思えます。「あわてて」とか「悄然として」
とかの感情も無視できないでしょうが、二の次ではないでしょうか。
ましてやプライドなど……。
382 :
酔剣:2001/03/26(月) 00:52
>>379 噴飯ものの、下品な煽りだね(苦笑。
私の前レスを通読してくれとまでは言わないが・・・・・ひでぇ曲解。
私は、
『何故、あの帝国陸海軍が、短時日で退嬰化してゆき、昭和十年代の非合理で、
ことさらに人命を軽視する軍隊になってしまったのか?
何故、科学的思考よりも、思い込み精神論を重要視し、野郎事大的な主観を、
普遍的国益と錯覚し続けたのか?
その原因として、東郷・乃木らの軍紳化の弊害と軍隊内務班教育の誤謬とが、
考えられないだろうか。そしてそれは、我が民族の特性なのだろうか。』
・・なんて事を考えているが、明治の陸海軍を対象にしているわけではない。
>>379 噴飯ものの、下品な煽りだね(苦笑。
私の前レスを通読してくれとまでは言わないが・・・・・ひでぇ曲解。
『何故、あの帝国陸海軍が、短時日で退嬰化してゆき、昭和十年代の非合理で、
ことさらに人命を軽視する軍隊になってしまったのか?
また、科学的思考よりも、思い込み精神論を重要視し、野郎事大的な主観を、
何故に普遍的国益と錯覚し続けられたのか?
日露戦争後の東郷・乃木らの軍紳化の弊害と軍隊内務班教育の誤謬とが、その
主原因として考えられないのか?それは、我が民族の特性なのか?』
・・なんて事を考えているが、明治期の陸海軍を対象にしているわけではない。
>不自然な訓令と思われませんか。
訓令の事実が不自然なのか、内容が不自然なのか、身贔屓な情緒だけか、どちらだ?
1)公的文書である限り「訓令の事実」は不自然ではない。
2)この程度の内容なんぞ、第三軍が隷下部隊に下した命令と比べれば、不自然でも
何でもない。君は、下級部隊長の『あく迄攻撃を遂行すべく、皮肉な言辞まで弄して
突撃を命令し、・・(
>>362)』の言をどう聴く?
乃木将軍の凱旋直後の恐懼の姿勢は一時的ものなのか、たぶん、明治帝に対してだけ
なのだろうな(士卒をどう考えていたのだろうか)。
その後の、栄爵を受け、栄職を歴任し、遊説先で教訓をたれているところを見れば・・
383 :
酔剣:2001/03/26(月) 01:06
すまん。ダブッテしまった・・m(_ _)m
>381
>「あわてて」とか「悄然として」とかの感情も無視できないでしょうが、
>二の次ではないでしょうか。
をいをい、「あわてて」は君の言だぜ(笑。 むろん、感情は二の次だ。
突進兵力の全滅と、弾薬の枯渇が理由だろ。
>ましてやプライドなど……。
ちゃんと文脈を読解されたい。
384 :
嶽原:2001/03/26(月) 01:52
>382『私の前レスを通読してくれとまでは言わないが』(379も私です)
貴方が以前(
>>53)『>48もっと勉強してから講釈を言え!』と言われた直後
『西南戦争で軍旗を紛失し(たぶん日本軍史上唯一の例、切腹もの)』と言われて
いることには触れずにおりましたが、この前言如何しましょうか?
噴飯ものとか下品とか、怖い言葉が好きですね。
385 :
嶽原:2001/03/26(月) 03:14
>>382>不自然な訓令
訓令の内容が不自然と思います。身贔屓情緒も否定しません。
第一にそのタイミング。戦闘中に嫌味たらたらの内容を出すなんて。
第二にその体裁。総参謀長並びに参謀副長不在で、こんなもん出せるのでしょうか。
第三にその文面。具体的地名、距離も何もなく、こりゃ酷い、と。
第四に第三軍の対応。当事者意識が保たれた冷静さに同情感を持ちました。
>1)公的文書である限り「訓令の事実」は不自然ではない。
意味がよくわかりません。公的文書なら問題ないと言われるのですか。
2)この程度の内容なんぞ、第三軍が隷下部隊に下した命令と比べれば、
不自然でも何でもない。
命令と訓令とを比べようとする意味がわかりません。
386 :
嶽原:2001/03/26(月) 03:58
>>382『何故、あの帝国陸海軍が、短時日で退嬰化してゆき、昭和十年代の
非合理で、ことさらに人命を軽視する軍隊になってしまったのか?
また、科学的思考よりも、思い込み精神論を重要視し、野郎事大的な主観を、
何故に普遍的国益と錯覚し続けられたのか?
日露戦争後の東郷・乃木らの軍紳化の弊害と軍隊内務班教育の誤謬とが、その
主原因として考えられないのか?それは、我が民族の特性なのか?』
難しすぎて解りませんが、一点。
後段、東郷・乃木らの軍神化の弊害は極めて重大であると思います。
しかしそれを打破する手段として、乃木将軍を誹謗するのはお門違いです。
軍神化させた人々の思考をこそ指弾すべきでは。
387 :
嶽原:2001/03/26(月) 05:31
弾薬の不足を訴え、上級司令部に厳しく補給を要求した伊地知参謀は、その後
かなり煙たがられています。「弾がなければ戦はできん」と当然の道理を
訴えただけなんですがね。
「その道理が通れば貧乏国に近代消耗戦は出来ないではないか」という考え
から飛躍して、莫大な物質消耗に対応するには精神力に頼るしかない、という
奇妙な論が出てきて、日露戦が「弾が不足しても日露戦は勝てたぞ」とその
証明とされる。
日露戦争後の戦史教育の誤り、換言すれば伊地知参謀の悪口を言った連中が
日本陸軍を滅ぼしたと言っても過言ではないと思います。
388 :
酔剣:2001/03/26(月) 06:17
なんだ379は君か、僕はまた「人の意見をわざと見当はずれに曲解して、
相手が脊髄反射的反発をするように誘導する、たちの悪い煽り」かと思ったよ。
煽り屋には言葉使いが荒くなるものでね、悪かったね。
>384
>『西南戦争で軍旗を紛失し(たぶん日本軍史上唯一の例、切腹もの)』と言われて
>いることには触れずにおりましたが、この前言如何しましょうか?
どういう事かな??
もしかして(たぶん日本軍史上唯一の例、切腹もの)ではない、とか言いたいの。
311レスで、神風連の変の時に前例がある、と言っていたアレ、君のレスか・・。
あの時の軍旗遭難事件を簡単に説明すると、
『廃刀令』『斬髪令』などに憤慨した、黒田某を中心とする(熊本の)神道結社の社員
数十人の一隊が砲兵舎(だっけ?)に押し込み、軍旗を持ち出した。ってやつね。
(神風連とは刀槍だけで武装して、神占いの指示で決起した、士族約170人)
確かに軍旗が一時行方不明になったが、あれはほとんど『押し込み強盗』でしょう。
野外遭遇戦じゃないよ、で、押し込み強盗も前例にするの(笑。
萩の乱の直前、乃木の実弟「真人」が、乃木を勧誘しに来るが、その時の2人の会話が
残っている、弟に論破された乃木が最後の理由にしたのが『天皇から直接手渡された、
連隊旗を死守していく』だから決起に参加するわけに行かない、というものだった。
(弟との今生の別れになる会談に、乃木は後日の潔白の証明のために、部下兵士を
同席させて会話を記録させている。数日後、弟は戦死し、師の叔父は切腹した)
あの当時、軍旗はそれほどたいした物ではないと、いうのは言い過ぎ。事件後、乃木も
軍旗を奪還しようと、何度も負傷をおして出撃した。死のうとした形跡もある。
当時、陸軍内にも、乃木に切腹させよ、との声がかなりあった。
389 :
酔剣:2001/03/26(月) 06:53
ついでに一部捕捉しておこう。
>156
>迫撃砲も手榴弾も攻城側の日本軍が考案したもので、
>当然、露軍は装備していない。
旅順戦の中盤以降は、露軍も爆薬に短い導火線を付けた「投げ爆弾」を
盛んに使用しだした、まあ、原始的手榴弾と言えなくもない。
390 :
日本@名無史さん:2001/03/26(月) 06:55
鉄砲と日本人に,「金がないからあんな戦い方をした」
なんてありましたけど
391 :
嶽原:2001/03/26(月) 08:16
で、その後軍旗を厳重保管するようになったのは明治17年ころからだと
いうことにも注目頂きたい。親授された側の気持ちになればそれこそ
腹でも切りたかっただろうが、渡した側からみれば「まあ仕方なかろう」
というものだったということですよ。
遭遇戦で旗手が殺され奪われたのと、油断して押し込み強盗に取られたのと
どちらがより責任問題に関わるんでしょうね。
話がズレまくったので元に戻させて下さい。
第三軍首脳は砲弾の届かないところにいたという伝説は実状を伝えているのか?
392 :
嶽原:2001/03/26(月) 23:49
>382
>>362『第一線部隊長はその到底無効なるを主張して高等司令部の
敢えて第一線に近からざることを罵倒する状況にあった際・・・』との
状況を冷酷に捉えれば、「命令する側」と「命令される側」との差である
と思います。「無茶いってやがる、ここに来てみやがれ」といったところで
しょう。しかしながら、第一線の死地に赴く将兵がおり、そしてそれを命令
する将校がおり……それが戦争だと冷酷に受け止めたいと思います。
尤も、なるべく死傷率を軽減する努力はしなくてはならないでしょうが。
第三軍は、現実に、一ヶ月の坑道戦において戦死者800名以下、戦傷者3000名
で四大永久陣地を陥落させています。かような死傷率の少ない戦法を取りたかった
第三軍にとっては極めて不本意な強襲法による攻略だったことでしょう。
旅順攻撃を急かした満州軍・海軍ら外野の圧力の結果を第三軍が一手に引き受け
なくてはならなくなった、この矛盾、この不条理。
393 :
酔剣:2001/03/27(火) 00:24
>>386 >乃木将軍を誹謗するのはお門違いです。
>軍神化させた人々の思考をこそ指弾すべきでは。
そのとおり!だから、通常の批判を「誹謗」としか考えられない『乃木ファン』の
硬直化した思考を問題視している。
>>387 実に的確な問題意識だと思う。
欧州の観戦武官が、日露戦争から砲兵力の重要さを学び、列車砲・迫撃砲の誕生、
砲兵主体の軍編成改革など大幅な変革をしたのに、むしろ肝心の我が国においては、
『白兵突撃至上主義』が中心になっていく・・。
この格差は旅順などの陣地戦における、陸軍砲兵隊の信用度に一つの原因がある。
当時の野砲の弾種比率は、榴散弾6・榴弾1で、戦争を通じてほぼ変化はなかった。
榴散弾は爆裂弾で野外人馬殺傷に効果はあるものの、掩体壕陣地の破壊にはほとんど
効果がなく(ましてや要塞堡塁には・・)最終的に、歩兵の突進力がものをいった。
旅順要塞のペトン堡塁には、巡洋艦主砲クラス以上の徹甲榴弾でないと破壊できない、
そう思ったからこそ、海軍が剣山会議で艦砲貸与を提案したり(
>>350)、対艦沿岸砲を
提供した。ーーそれに対する、砲科のエリート将軍伊地知の返答はどうであったか(泣!
>換言すれば伊地知参謀の悪口を言った連中が日本陸軍を滅ぼした
>と言っても過言ではないと思います。
逆でしょう、むしろ伊地知的脳硬直が日本陸軍を滅ぼしたと・・(笑・笑
>状況を冷酷に捉えれば、「命令する側」と「命令される側」との差である
>……それが戦争だと冷酷に受け止めたいと思います。
だったら、満州軍司令部が第三軍に「好まれざる訓令」出したくらいで騒ぐなよ。
普段、部下部隊から、前に出てこいって言われるほど、後ろにいる癖に、
児玉に言われりゃあ、散兵壕まで出ていく。ホントニ、極端だよなあ
軍司令官って職責をどう考えているのか、自覚無しすぎ!!
395 :
嶽原:2001/03/27(火) 01:37
>>393後段 >逆でしょう、むしろ伊地知的脳硬直が日本陸軍を滅ぼした
海軍重砲隊についてですが、組織としてはまったくの異物の合流は嫌うもの
でしょう。会議でその実情を述べ、その結果受け入れるべきものは受け入れて
います。それなのに、当の重砲隊は旅順本要塞攻囲網がようやく完成しようと
いう時期に、更に奥地の市街地・港湾地区へと独自に砲撃を加えるという暴挙
に出る……独断先行も甚だしい行動といえますが、それはさておき伊地知参謀
の重砲隊拒否と、会議の結果受け入れたことはなんの問題もないと思えます。
さらに、「弾がなければ戦はできん」と、本営が煙たがるようなことを伊地知
参謀は率直に訴えています。当然の道理を訴えるような伊地知的思考が
日本陸軍を滅ぼした、とは思えません。
蛇足ながら、『脳硬直』などといわれる言は、
>>393前段で貴方が述べられて
いる「通常の批判」と「誹謗」と、どちらの言と思われますか。
396 :
嶽原:2001/03/27(火) 01:54
>>394当事者意識をもって、このように考えていたようです。
(379既出)この訓令を受けた第三軍の対応は以下のものでした。
「203高地攻撃の失敗の原因、果たして右の如きか、軍は必ずしもその然らざる
を信じあり、しかれども、今敢えて軍の行動を庇護するの要なし、すべからく
この訓令を服膺してますますその然らざらんことを期するのみ」
当事者意識を備え冷静に対処しています。
敵堡塁に肉薄しつつある将兵にとって「何言ってやがる、ここまで来て
みやがれ」という感情はいわば当然のものでありますが、軍首脳部はそう
いうことは出来ません。将兵もそれは承知の言であると思います。
自分で、自分のレス読んでどんな感想を持つ、何が言いたいのかよく分からん。
自分の言葉でいってみなよ。
398 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 03:44
「弾がなければ戦はできん」一見、こりゃ正論やね。
ただ、当時の日本は、砲弾を、精一杯生産していて、輸入もつついっぱいしていた。
それで、第三軍に優先権を与え、補充兵も弾薬も一番に送り込んでいた。
はやく、第三軍を北に転用したいから、応援していたんだ。
他の方面軍から、ねたまれるほどにね。
伊地知は、自分の力で旅順が落ちないのはおかしい、大本営のせいだ!
そう言っているだけ。単にエリートの責任転換、だだこねているだけ(爆笑。
足りないなら足りないなりに工夫をしろよ、
どの軍団も、注文した量の全部をもらってないぜ、こいつは子供同然のガキか?
399 :
嶽原:2001/03/27(火) 08:13
>>398 「足りん足りんは工夫が足らぬ」か……。どこかで聞いたような台詞。
伊地知参謀の率直かつ現実切迫の要求に対し、おそらく大本営もこのような
感情を抱いたことでしょう。これは大本営の参謀総長山県有朋が乃木司令官に
伊地知参謀の言をたしなめる内容の口上覚書を送ったことでも伺えます。
まさに、伊地知参謀の悪口を言った連中の思考が、昭和前期の陸軍内部で
大手を振っていたことがわかります。
4行目と5行目が飛躍してるな
それだけの根拠で、なんで「大手を振っていた事」が分かるの?
401 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 12:26
>それはさておき伊地知参謀の重砲隊拒否と、会議の結果受け入れたことは
>なんの問題もないと思えます。 さらに、「弾がなければ戦はできん」と、
>本営が煙たがるようなことを伊地知参謀は率直に訴えています。当然の
>道理を訴えるような伊地知的思考が日本陸軍を滅ぼした、とは思えません。
全く矛盾している。書きこみする前に自分の文章よく読みなおしてみろ。
まず、第一時総攻撃前旅順要塞の堅固さを認識できなかったことは
百歩譲って伊地知ひとりの罪ではないとしよう。日本陸軍全体が旅順を
過小評価していたからな。だが、既に数ヶ月の攻防で旅順が堅固であることを
経験として知っていた海軍の申し出を一顧だにせず断ろうとした伊地知の
狭量さは責められるべきだ。
傍目から見ても重砲が足りないとわかりきっていたから
海軍は重砲隊を進呈しようと申し出たんだろ?
後に「弾が無いからいくさが出来ない」と駄々をこねるほどの伊地知。
ならば陸軍の弾は払底してるから余っている海軍の重砲を部隊ごとつけるよ、と
現実に即した処置を行なった上級司令部。なのに伊地知は一旦断り、しぶしぶ
受け入れたわけだろ。伊地知は軍の火力を増強しようとする助け舟を
断ったことになる。海軍重砲隊を受け入れて第三軍は何か困ることが
あったのか。メンツだけじゃないのか?
>組織としてはまったくの異物の合流は嫌うものでしょう。
おいおい、国運がかかったいくさで「知らない人はいや」なんて
駄々こねる自由が軍参謀長にはあると思うのか? 乃木と伊地知に
甘い人だねえ・・・全くの異物ってな、別に宇宙人が援軍に来るんじゃ
ないんだぜ。同じ日本帝国の軍隊だよ。
伊地知がセクト主義ゆえに助力を断ろうとしたのに、どうして
「問題がない」としらっと言えるんだ? あんたこそ怖いこと平気で言うね。
たかが参謀長のメンツのために国家の資源の有効活用が妨げられても全く問題が
ないと言うのか。腹切っても追いつかん大罪だと思うが、如何?
そろそろ誤魔化すのは無しにしようや。伊地知が率直?
贔屓の引き倒しだな。伊地知は攻撃失敗の言い訳に砲弾の
不足を言いたてていたに過ぎない。自分の不手際を弾のせいに
してたんだよ。
伊地知が本当に第三軍の火力不足について深刻に考えて
いたか、俺は非常に疑問だね。考えていたという根拠
または傍証でもあるのかねえ。都合のいい解釈以外に。
403 :
嶽原:2001/03/27(火) 21:04
>>401海軍重砲隊の件
海軍は「助け舟」の気持ちで提案したのでしょうが、結局は攻囲網作成
の手順を無視するかのような先行をしでかしてしまっています。会議で
提案されたとき、こういう独断専行されること、制御の効かない事態に
陥ることを恐れたのではないでしょうか。
重砲隊が旅順要塞陣地を目標とせず、港湾部・市街地を砲撃している
ことに注目すれば、「陸軍への貢献」よりも「海軍としての悲願達成」
を優先していたようにすら思えてきます。
404 :
嶽原:2001/03/27(火) 21:31
>>401会議紛糾の件
会議で彼我の意見を述べあうことに何の非があるといわれるのでしょう。
陸軍と海軍という二つの組織が独立して存在している以上、その間に
意見の相違対立が出てくるのは当然ではないですか。はっきりと自分
の意見を述べることが大切で、妥協はその後の課題です。剣山の会議
において海軍・第三軍の間で議論が紛糾したことは、当然のことで、
何の問題もないと思います。
405 :
標定射:2001/03/27(火) 22:42
まあ
>>393だけじゃ、軍事ヲタでもない限り、分からんのも無理ないが。
砲撃戦において弾種の選択はとても大きい問題で、口径や砲弾数と同様の重みがある。
榴散弾中心の野戦砲と、徹甲榴弾の対艦砲とは用途は全く違う。
(榴散弾は空中で爆裂して人馬を殺傷、徹甲榴弾は硬い物に突き刺さって爆発破壊)
当然、砲科出身の伊地知少将は熟知しているはず・・。
大本営は、野外会戦重視のままで、野砲の弾種比率を容易に変えようとしなかった、
旅順の砲兵隊指揮官は何度も意見具申していたらしい、はたして、伊地知参謀は、
現場の弾種変更の要請をどれほど熱心に主張したのか?
ついでに言うと、剣山会議で、最終的に、伊地知参謀は海軍重砲隊を受け入れたが、
『15センチ』の制限を付けた。これはどういうことだろう?
当初、海軍の提案は「巡洋艦の主砲=20センチ級」対艦砲の提供だったはず、
まさかとも思うが
『陸軍砲兵をさしおいて、大口径の海軍部隊に手柄を独占』されたくなかった?
まあ、ゲスの勘ぐりは止すとしても、旅順要塞の抗堪性は15センチ砲弾まで(
>>81)
であったことを考えると(当時、日本軍は知らなかったが)、海軍提案をそのまま
受け入れておれば、犠牲ははるかに少なくなっていただろう。
でも、第一次総攻撃失敗の後、海軍に頭を下げて「前言訂正」なんてできないだろうね、
28センチ沿岸砲のおかげで一番助かったのは、伊地知参謀だったのかもしれない(藁
28センチ砲に「待つあたわざる」の伊地知と、それを間に合わせた有坂技術将校、
劣悪な環境下で突貫工事を成功させた工兵隊・・・嶽原殿、よく調べられたし
406 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 22:52
西南戦争ではただの役立たずでしたね。
>403
>重砲隊が、「陸軍への貢献」よりも「海軍としての悲願達成」
>を優先していたようにすら思えてきます。
作戦目的を考えれば、当然だろ・・・おかげで、黄海海戦を勝利できた。
まあ、ふつう乃木信奉者は、ぜんぶ伊地知のせいにして逃げるものだが、
伊地知を悪者にしないところは、それなりに評価しておくよ。
408 :
嶽原:2001/03/28(水) 00:09
>>405>28センチ砲に「待つあたわざる」の伊地知
伊地知参謀長が返電した08月26日の状況では当然のことでしょう。24日の
第一次総攻撃中止発令の直後、軍容建て直しをはじめ、攻城戦の今後をいかに
してゆくか…と忙殺されているときに、「巨砲を送ろう」と言われたら……。
限られた輸送手段(人力その他)を二十八糎榴弾砲に割かれるということは
その他の攻撃資材等の軍需品の輸送がそれだけ遅滞するわけですから、
眩暈がしたかもしれません。
それにしても、実戦に参加したときは「よく送ってくれました」という感じ
だったでしょう。一番助かったのが伊地知参謀だったかどうかは知りませんが。
>>405>間に合わせた有坂技術将校、劣悪な環境下で突貫工事を成功させた工兵隊
ご指摘のとおり、私はここらへんほとんど知りません。
臨時特設砲床を急遽開発したという話や大口径火砲の運搬・据え付けが極めて
迅速におこなえるようになったという話くらいしか……。10月01日には実戦
参加しているというのは驚異的です。
ところで、旅順要塞の抗堪性が15糎砲弾までというのが、よくわかりません。
たしかに第二回総攻撃の10月28日・29日では要塞の弾薬庫を爆発させると
いう大きな損害を与えていますが、この攻撃でも松樹山、二龍山、東鶏冠山
の堡塁は突破できていません。命中弾の数などという見方もありますが、
この抗堪性というのは、設計上のことなのでしょうか?
409 :
嶽原:2001/03/28(水) 00:33
>>408>この抗堪性というのは、設計上のことなのでしょうか?
しまった!
>>81で書かれていましたね。
410 :
標定射:2001/03/28(水) 04:31
露軍・コンドラチェンコ少将は工兵大学出身の砲兵将校で、要塞戦の第一人者、
1903年に旅順赴任。 要塞司令官・スミルノフ中将は「七人の悪魔」と呼ばれた勇将、
元はワルシャワ要塞の参謀長、1904年に旅順赴任(ステッセルが司令官に居座り・・
対立!複雑な事情があるが割愛)。
この2人の要塞戦のプロが旅順に来て驚いた「要塞など、どこにも存在しない!」
(前任者が、中国人労働者の賃金を横領したため、工事は未着工だったとか・・・)
築城術に長けたコンドラチェンコは、陣頭指揮で、旅順を近代要塞にする工事を行った。
しかし時間がない、日露開戦の2日前に南山陣地を築城するなど、遅延作戦を指揮しつつ、
なんとか旅順要塞を完成させた。
時間の制限があるので、充分に堅固なものは造れず、ペトン堡塁は、15センチ榴弾直撃に
耐えられる程度のものとした、まあ、設計上の目安でしょうね。
したがって、着任以前から存在していた「主要陣地」の抗堪性は、15センチ程度ではなく、
再補強により戦艦の装甲なみの強さになっていたと想像される。
軍港口の海方面の陣地と、旅順駅正面の広開地、および、市街背面高地などの既製堡塁は、
難攻不落の陣地になっていたのだろう(松樹山・二龍山・盤龍山・望台・東鶏冠山の要塞中央線)
**一度だけならず、二度三度と最強部分に突撃させられた・・兵士はたまらんね・・
確かに、東鶏冠山と西太陽溝の弾薬庫を大爆発させている、が、精巧な陣地は、それだけで
沈黙するものではない。先の大戦でも、コレヒドール島砲撃戦で敵弾薬庫を爆発させたが、
上陸部隊が上がるまで、米比軍は動揺しなかった。
弾薬庫より、信望厚い敵将コンドラチェンコ少将のほうが、効果的だった・・。
>重砲隊が旅順要塞陣地を目標とせず、港湾部・市街地を砲撃している
>ことに注目すれば、「陸軍への貢献」よりも「海軍としての悲願達成」
>を優先していたようにすら思えてきます。
旅順攻囲の目的はロシア軍旅順守備隊の撃滅でも旅順要塞の
奪取でもなく、ロシア太平洋艦隊の無力化だ。あんたは日本帝国の
目標をとりちがえている。旅順では、むしろ陸軍が海軍の目的達成に
貢献すべき立場だったのだ。ロシア太平洋艦隊の無力化はひとり
海軍の悲願などではなく、日本帝国が日露戦争を戦い勝つための
重要な条件の一つだったのだから。
412 :
日本@名無史さん:2001/03/28(水) 18:21
413 :
嶽原:2001/03/29(木) 01:38
>>411 物事には段取りというものがあります。この場合、まず旅順要塞の攻囲が一段階、
そして次のステップへ、という様に。そこで先行をしたのが問題だと述べました。
先行砲撃で旅順艦隊に少なからぬ被害を与え、既に皇帝の勅令を得ていた艦隊
に出航させたというのは大きな戦功といえるでしょう。しかし結果オーライで
は戦争が成り立ちません。海軍の先行は咎められるべき行為と思います。
それにしても、手持ちの資料では艦載砲の陸上転用の見込みが判然としません。
記念館三笠の副砲が8糎と15糎ですね。15糎以上の艦載砲は陸上転用可能だった
のでしょうか。どなたか詳しい方はおられませんか。
414 :
素朴な疑問:2001/03/29(木) 01:59
旅順攻囲の目的は、「旅順要塞の早期陥落と、第3軍の北上・合流」なのでは・・・・?
いやイズチ参謀が、なんであそこまで頑固に要塞の正面攻撃にこだわったのかと思うと、
作戦要綱に上記命題があったから・・・・と夢想してます。
いや、歴史的・戦略的には海軍の補助としての旅順艦隊の撃滅なんだけどさ。
415 :
嶽原:2001/03/29(木) 02:08
>>411「旅順攻囲の目的」の件
08月頃とは事情が異なりますが、11月頃に、このようなやり取りがあったそうです。
11月08日・山県参謀総長名の満州軍総司令官宛電報
「バルチック艦隊に係る大本営の状況判断は……略……此情況に就き大本営会議を
開きしに、速やかに旅順艦隊を撃破し、わが海軍をして……略……海戦準備を整う
るの時日を得せしむること頗る必要なりこれが為第三軍はまず敵艦撃破の目的を達
することを急がざる可からず。……略」
翌10日の返電
「……略……さらにこの攻撃を有効ならしむためには、松樹山、二龍山に対する
攻撃作業既に窖室に迄達し居る今日なれば、最早この攻撃計画を一変して他に
攻撃点を選定する等の余地を存せず。……略……以上の理由に基づき、第三軍を
して現在の計画に従い、その攻撃を鋭意果敢に実行せしむるを最捷径とす……略」
満州軍の総意として旅順陥落が目的として決定されていることを示しています。
現地軍の総意として旅順攻囲の目的が旅順を陥落させることにあったこと、また
第三軍は現地軍の一部であることをご理解頂きたいと思います。
416 :
酔剣:2001/03/29(木) 09:22
>>413 >それにしても、手持ちの資料では艦載砲の陸上転用の見込みが判然としません。
>15糎以上の艦載砲は陸上転用可能だったのでしょうか。どなたか詳しい方は・・・
やれやれ、ほんとうに海軍提案には辛い人だな・・・
徹夜明けだし、時間もないので簡単に書く(スレの本筋ともはずれているし)。
1)露軍も、旅順艦隊の20センチ艦砲を陸揚げして砲台に使っている、その写真、
けっこう日露戦争関係の雑誌の掲載されている。
旅順守備隊にできて、日本海軍にできないわけあるまい・・・・。でも、
最近、魚雷を打ち出す魚雷砲の写真を見てたまげた、あれは日本には無理かも(^^;)
2)日本の沿岸要塞に装備されていた砲として、28榴弾砲の他に、27加農砲・
15加農砲・12加農砲・24臼砲・15臼砲等がある。
まあ、駐退機構のことを疑問視しているのだろうけど、重い28榴が持ち出せて、
それ以外の砲が持ち出せないわけがあるまい。
417 :
嶽原:2001/03/29(木) 10:15
>>416「艦載砲の陸上転用」の件
コンクリ砲床に固定されて使われていた28糎榴弾砲をはじめ、数々の巨砲
がありますが、これら全ては元から陸上用のものでしょう?砲列用の資材・
ノウハウは既に有ったと思います。もっとも臨時特設砲床開発などの手間
も必要だったかもしれません。
そういうものと比べて、艦載砲は資材・ノウハウがあったとは思えません。
強引に陸揚げして据え付けたら最後、陣地変換も出来ないものだったと
したら、ちょっと腑に落ちない提案だ、という印象を受けます。
あと、私は確かに海軍提案には辛いです。海軍が急かす必要はなかったと思っ
ていますし、むしろ坑道を掘ってゆき陣地を爆砕するという、時間はかかる
が着実な方策を採ることを妨げた要因の一つだと思っているからです。
ロシア軍は一旦陸揚げした艦載砲をまたフネに
積み直すなんてことをやっています(ノーウィク
だったかな)。このことから、艦載砲の陸揚げは
そう難しいことではなく、復元も容易なぐらい
外した砲に加えられた加工は少ないということが
うかがえます。
ちょっと考えてみても、陸上の必要なポイントに
鉄板かなんかで土台を築いておいて、そこに
ターレットにボルトかなんかで固定してある砲架を
外して持ってきた砲を据え付ければいいだけで、
そう難しい話ではないのでは。要塞砲と艦載砲は
基本的に据え付ける方法は一緒ですよ。
419 :
嶽原:2001/03/29(木) 20:50
>>418 どうもありがとうございました。艦載砲の陸上据え付けはどうだろう?と疑問
がありましたので。装甲巡洋艦「春日」の高仰角発射可能な特殊砲(25糎)を
陸揚げして使う算段だったのだろうか、と漠然と想像しています。
420 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 20:52
勝手に想像してろよ
421 :
嶽原:2001/03/29(木) 21:05
はい、自由にして頂きます。「百年後 夢は彼の地を 駆けめぐる」なんちって。
422 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 22:10
いずれにしても、海軍が会議の席で正式に提案したことを、
「本当に、できるのか?」と疑い。
上級司令部が正式に出した訓令を、
「実際は、一参謀の私怨から出されたものかも」と無視する。
下級部隊長からの辛言・怨嗟を、
「冷静に、それが戦争だと」言い切り。
上級部が、こちらの進言に苦言を呈すると、
「当然の論を認めない、国を誤らせた思考」とくる。
実体的に、乃木と伊地知が反発していた可能性ぐらい考えないのか?
423 :
嶽原:2001/03/30(金) 00:03
>>422「海軍の件」
海軍の提案と行動については、首を傾げたくなることが多いと思います。
旅順港口の閉塞作戦は無謀ですし、旅順港の封鎖は密輸入を防げない不完全さ、
旅順港内艦船への砲撃も効果の真偽は不明瞭です。
そういう事例から、艦載砲の陸上転用も疑いの目で見ておりました。
「訓令」の件
発信の時期などから不自然と思いました。
無視というわけではないですが、訓令の内容に見るべきものが有りますか?
「第三軍擁護発言」の件
配下将校には「がんばれ(換言すれば死ぬ気で行って来い)」、上級司令部には
「弾を送れ」、この要求は当然のことと思います。逆に、これが無いと……。
>『乃木と伊地知が反発していた』ということは司令部内で確執があった、
ということですか?
う〜ん。勉強になりますね。203高地ファンとして。
ところでどなたか、日露戦争当時の日本陸軍の武器(とくに大砲関係)の図版・写真集
ってご存知ありませんかね?
中西立太さんの「日本の軍装」(大日本絵画。ほれ日露之朋友)買ったのですが、できれば
一般書店でも入手可能なのご教授いただければ幸いです。
PS。げ。大江志乃教授って、おれんちのご近所に住んでたわい
425 :
軍事常識:2001/03/30(金) 04:50
>423
>配下将校には「がんばれ(換言すれば死ぬ気で行って来い)」、
>上級司令部には 「弾を送れ」、この要求は当然のことと思います
おいおい、別に軍事通になれとまでは言わんが、すこしは軍事常識を勉強しろよ。
第三軍の作戦指導、そんな一般論で片づけるほど生やさしいものじゃないぞ!
前レスで『軍旗衛兵6名の外全員戦死の連隊まであった』なんて話みたので、
俺も資料を調べてみたが、酷いものだよ、将校全員戦死(死傷でなく、戦死だ!)
なんてのもあった。
孤島の玉砕戦ならともかくも、最大限6日間の陣地攻撃で、なぜこうなる?
尋常ないくさではない、偵察・分析・進退判断、すべておかしい。
上級司令部に文句つけている場合ではない、率先して討ち死にするしかない。
信じられない傲慢な無能さだ。
426 :
嶽原:2001/03/30(金) 08:25
第三軍が甚大な被害を生じたことは、確かに非難されるべきものでしょう。
しかしながら、425の後段の言、「率先して討ち死にするしかない」などと
言われるのも、いかがなものでしょうか。
「勝ったからいいではないか」という考えは万人否定されることと思います。
その裏返しとして、「大被害を出したのならば率先して死ね」「(濃霧の逆
さまで)無能である」という考えも、私は断固として否定します。
確かに、私は軍事通もしくは軍事常識がいかなるものか良く理解できていません。
まして、近代総力戦を初めて実体験していた旅順戦当時の状況・常識など…。
「前レスで軍旗衛兵6名以外全員戦死」とか「将校全員戦死」とかは、旅順
攻略戦を掲載したほぼ全ての資料・文献に記載されているエピソードです。
>425氏、これら文章を初見されたばかりというのは本当ですか?
425の文章から「文章を初見されたばかりというのは本当ですか?」
と断言できる嶽原の頭脳に乾杯。すばらしい飛躍だよね。
428 :
嶽原:2001/03/30(金) 21:22
すいません。頭に血が上っていました。前段でカーッときて、軍事通になれ
とかいうわりには「今更なにを言うんだ」という内容だったので。
失礼してsage。
429 :
酔剣:2001/03/31(土) 12:33
>>426 >「勝ったからいいではないか」という考え・・の裏返しとして、
>「大被害を出したのならば率先して死ね」「無能である」という考えも、
>私は断固として否定します。
そうだろうか? 「大損害の問題」は勝敗結果論の裏返しではないよ。
そう思うから、僕は、奉天会戦の辛勝を充分知りつつも、
乃木の戦力大消耗は、戦局全体(日露戦全体)を危うくしたと言い、
乃木は『戦局全体を考慮し、局面の作戦目的を理解する能力』の無い、
無能・有害司令官であると、批判しているのだ。
軍旗以外とか連隊将校全員が戦死とか、ちょっと考えられない、
二次大戦の、バターンの奈良旅団も、ガタルカナルの一木支隊も
そこまでは酷くはなかった。
実働4日間の陣地攻撃で・・連隊の完全消滅?軍団突進兵力の全滅?!
普通、それなりの偵察行動をし、攻撃時に適時の状況判断を行えば、
こんな事にはならない。
(まあ、戦況判断を行えないほどの後方に居たなら別だが・・)
そのうえ、同じ攻撃パターンで二度・三度・・・兵士はたまらんねえ。
たしかに
討ち死にしたら?と言いたくなるし、少なくとも、帰国後しゃあしゃあと、
栄爵を受け、栄職を歴任し、(自分の放蕩時代を棚に上げ)説教をたれて
いるのを見れば、うんざりして、隠遁でもしろよ!と言いたくなるだろう。
430 :
酔剣:2001/03/31(土) 14:17
遅レス・横レスで申し訳ない(
>>423)
>「海軍の件」
たしかに、後から考えると、旅順閉塞作戦は難しい作戦だったかも
しれない。
参考にした米西戦争のようなわけにはいかなかった、要塞の砲撃力、
旅順艦隊の戦意、が予想以上だったのだろう。
しかし、それなりの効果も挙げているし、(実際には使われなかったが)
バルチック艦隊用の機雷新戦術も案出している。
結果的に、黄海海戦以外は、旅順艦隊は湾内に閉塞されていた状態だった。
>「訓令」の件
>発信の時期などから不自然と思いました。
満州軍児玉総参謀が、第三軍の指揮権を一時的に掌握する予定で、作戦中の
『柳樹房』に乗り込んできた時期だった。
乃木は長州系としても、伊地知は薩摩閥だし、第三軍幕僚は上級司令部に
(大本営・満州軍)不満を持っていた可能性が強い・・それらを勘案して、
満州軍大山将軍が、児玉が動きやすいように、第三軍を牽制する「訓令」を
出した、そうは考えられませんかね?
>『乃木と伊地知が反発していた』ということは司令部内で確執があった、
>ということですか?
う〜ん、まあ、大いに可能性はある話だ。
伊地知軍参謀は、陸軍中央からずいぶん批判をされ、最終的には旅順陥落後、
第三軍から転出させられた(彼は第三軍参謀長として凱旋できなかった)。
資料を読む限り、乃木将軍が伊地知参謀長を強く庇った形跡はない。
(伊地知一人が、乃木の責任も押しつけられたかたちだ・・・)
また、乃木は子煩悩だったと言うが、伊地知の作戦で2人とも戦死している。
乃木は長州・山縣閥系だが、山縣有朋は伊地知を低く評価している。
むろん表面には出ていないが、乃木と伊地知が不和であっても、おかしくない。
431 :
嶽原:2001/03/31(土) 18:28
>『乃木と伊地知が反発していた』司令部内で確執があったということですか?
某資料で出身・軍閥のコンビネーションが出来ていたのは第四軍だけ、という話
がありましたが、第三軍でも司令官と参謀長が不和であった可能性というのは初
めて聞きました。興味深いところと思います。……某名無史さんでしたか、乃木
擁護は伊地知を非難するのが常だ、というのはここから来ているのでしょうか。
閑話休題、伊地知少将は水師営会見の四日後、新編成された旅順要塞司令部の
司令官に任命され、いわば旅順戦の後始末をすることになります。これが左遷
人事と言われていますが、旅順開城後の露軍捕虜四万人近く(そのほとんどは
傷病者)、露軍施設・資材などの接収管理などなど、問題山積の大任を任命され
たわけです。これらの取り扱いに落ち度があれば旅順攻略の武勲、水師営の会見
の成果など、広く諸外国に喧伝された評価が激減することになるような、終戦
処理の最高責任者としての任命が果たして左遷人事と言えるのかどうか。
見方を変えて第一線での能力不足の証明とも言われますが、これについては
なんとも……補給でせっつかれた中央側の報復とも見えます。
満州軍井口参謀は、某問題人物を更迭させたいという書簡を、大本営の長岡
参謀次長宛に送る際、「(某問題人物は危険至極の毒物に付、)第三軍の
伊公(!)と共に貴方にて何とか葬り方はなきものにや」と書いています。
上級司令部には嫌われてますね、徹底的に。
432 :
日本@名無史さん:2001/03/31(土) 20:03
参謀が司令官に任命されるってのは、やはり降格人事なんじゃないの?
433 :
嶽原:2001/03/31(土) 21:39
>>432 わかりません。どうなんでしょう?
ところで、戦後の論功行賞(これを参考にするのも難ですが)では、日露戦争
参加5軍の参謀長9名のうち、男爵をもらっているのは二名だけです。
その二名のうちの一名は、明治39年7月、同期のトップを切って中将に
進級しています。
それが誰かを問う前に、それが降格人事をくらった人物に相応しい経歴
であるかを考えてみて下さい。
434 :
432:2001/03/31(土) 22:19
作戦を考える参謀が、司令官の地位に付いたのだから
紛れもなく降格人事でしょ。少なくても、功績が認め
られた訳ではないよねえ。
同期のトップを切って中将に進級した逸材が、大将に
なれなかったというのもおかしいと思うけどね。
あ、井口参謀の意見が上級司令部を代表してるとは知
らなかった。どうもありがとうね。
などと書いては見たけど、やはり降格という表現は不適切
だな。ごめん。やはりあなたのいう通り「第一線での能力
不足による配置転換」の方が相応しいわ。
でも、それが中央側の報復とは思えないな。先に書いた通
り、大将になれなかったしね。能力を発揮してれば、乃木
の参謀から下ろされることはなかったんじゃないの。
ただ、乃木を一線から外さなかったところを見ると、責任
を取らされたとも考えられなくもない。ちょっと中途半端
な配置転換な気はする。
436 :
王翦:2001/03/31(土) 22:36
>430
>また、乃木は子煩悩だったと言うが、伊地知の作戦で2人とも戦死している。
乃木勝典は南山の金州城での戦死だから第3軍とは関係ないでしょう。
437 :
嶽原:2001/03/31(土) 23:07
>>434・
>>435 明治39年07月06日に中将に進級し、その後明治41年12月21日、第十一師団長
に親補されています。(六代目。初代は乃木)
つねに同期トップを切って進級していった伊地知は、健康すぐれず明治43年11月
師団長職を退き、大正02年01月予備役に編入されました。
大正06年01月23日、享年63歳で病没。墓は東京の青山墓地にあるそうです。
大将にはなれなかったですね。……それがなにか?と問いたいところです。
いや、降格人事を食らった人物に相応しいと思ってさ。
常に同期トップを切って進級していったにも関わらず
大将になれなかったあたりがね
439 :
嶽原:2001/03/31(土) 23:34
>>438 病には勝てませんでした。
爵位を授かったことで、軍人として十分満足だったかもしれませんね。
ちなみに、先述の「第三軍の伊公」とののしった井口は大将になりました。
……それがなにか?とも問いたいところです。免罪符じゃないんだから。
440 :
嶽原:2001/03/31(土) 23:40
日露戦争に出征した少将の数はそれこそ何十名という数ですが、そのなかで
論功行賞によって爵位を受けたのは二名だけ、その内一名はのちに元帥に
なってます。脱線にてsage。
441 :
嶽原:2001/03/31(土) 23:55
>>422>海軍が会議で正式提案したことを「本当にできるのか?」と疑い
長く脱線してましたが、海軍の件で。
旅順要塞に対する措置の問題が、開戦前に陸海軍統帥部の間で真剣に討議された形跡はなく、
これを陸軍で攻略するか否かも未定であった。明治36年12月30日、参謀本部と海軍軍令部との
間の作戦協議が開始されたのは、『旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき』
との海軍側の主張と、『朝鮮半島への露軍の先制侵入を恐れて臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき』
との陸軍側の主張との調整が重要課題だった(これについては陸軍側が譲って決着)。
海軍側は陸軍の援助なく海軍独力で旅順を処理しようと望んだようで、事前調整の段階から
陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたとされる。
海軍側では既に三段構えの旅順艦隊対策を講じていた。
第一段階:旅順港外に停泊する旅順艦隊に対する開戦劈頭の奇襲
第二段階:貨物船を沈めて旅順港口を沈めて旅順港口を閉塞すること
第三段階:港外からの12インチ、8インチ艦砲による間接射撃で港内の艦艇を撃破する
明治36年の夏には間接射撃のための試験射撃まで既に行っていた。第一段階(奇襲)の
機密保持を重視して、12月30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。
……と、こういう提案をやらかした先例があるので、この艦載砲転用の件についても
疑ってかかっておりました。三段構えの艦隊対策は全てが実行され、ほぼ全てにおいて
有効と認められる成果を挙げることができませんでした。
この期に及んで第三軍をせっついても、なあ……。
442 :
嶽原:2001/04/01(日) 00:59
開戦劈頭より、海軍は様々な事態に見舞われています。02月末ころからウラジオ
艦隊が元山沖に現れ、03月以降からは第二艦隊をウラジオ艦隊専任にしなければ
ならなくなる。紅海付近では戦艦オスラビア以下の艦隊が回航増援の機会を窺って
いる。さらにバルチック艦隊が来援すれば海上の情勢は危機に陥ると予想した。
で、「これらの情報ありたるを以て我が海軍においては戦勝の余勢に乗じ速に
敵艦隊の根拠たる旅順口を攻略してその増援艦隊をして東洋に回航するの希望を
放棄せしむるか、あるいは少なくとも之に対し我が海戦の勝算を一層確実ならし
むる必要ありとなし、旅順口攻略を以て遼東半島の敵に対する陸海軍連合作戦の
第一目標と為さんと希望せり」と要望します。
加えて「五月中旬のころ相続いて沈没し為に我が艦隊の勢力を減殺し、かつ
連合艦隊の各艦艇は開戦以来既に数ヶ月間頻繁なる坑道を続けしが為漸く修理
手入れを要するの時期に達せむとし、加うるは露国はいよいよ増援艦隊の編成
を発表し七月初旬を期して本国を出発せんとすとの情報ありしを以て」という
状況に陥り、大本営は「速に旅順口を攻落して敵艦隊を撃滅するの切要に認むる
に至り05月29日を以て第三軍の戦闘序列を発令」するわけです。
海軍の提案と行動、おそるべし。
443 :
酔剣:2001/04/01(日) 03:36
>>430で余計なこと言ったようで申し訳ない。まあ、推論なので・・。
小生としては、乃木と伊地知の不和説は、まんざら・・と思っていますが。
>436 おっしゃるとおり、「2人とも」ではなく「2人目の」と言うべき、
当方の勘違いです。
>442 >海軍の提案と行動、おそるべし。
いや、実に的確に敵行動を予測し、適切な対応を要請しているだけじゃないかな、
小生は陸軍砲兵の息子で、海軍に何の義理もないが、素直にそう思う。
恐るべしは、乃木擁護派の貴殿の論法。
「ただ乃木擁護あって、国家なし」とは言い過ぎだろうが、
>>441-442を知っていて、なお、
>>417の
>私は確かに海軍提案には辛いです。海軍が急かす必要はなかったと思っ
>ています
・・・・驚嘆、嘆息するしかない。
>>429 >>430で、小生がふれた、軍事無能と司令部位置の件、訓令の件、
乃木・伊地知を擁護する説のほうが「不自然」だと思うが・・。
444 :
嶽原:2001/04/01(日) 04:02
海軍は海戦劈頭に奇襲し、旅順港口を塞ぎ、港外から港内艦艇を砲撃撃滅する
自案を提案した当初、この旅順艦隊対応策に陸軍の後援を要求しなかった。
しかしてその実際は……。
02月08日、開戦劈頭の奇襲は失敗、港湾に押し込めたつもりがこちらが逆に張り付け
にされた格好になってしまう。予定通り閉塞作業を始めればこれが全然上手くいかない。
もともとは要塞砲台の準備不完全状態であることを前提の作業なのだから当然だ。
前提条件が既に崩れていることを承知のうえで実践、失敗。第三回目に至っては陸軍に
船舶の提供を求めるていたらく。
03月10日には港内射撃するにはしたが、そもそも岬越えで砲撃する設備・技量が
なく、成果は皆目見当がつかない。
……いったい何をやっているんでしょうね海軍。
445 :
嶽原:2001/04/01(日) 04:19
第二回閉塞作業に失敗後、04月07日以降は機雷封鎖に作戦を変更、敵将マカロフ
戦死の功を奏するも、第三回閉塞作業不成功ののちの05月09日から始めた
直接封鎖では虎の子「初瀬」・「八島」を触雷沈没させてしまった。
そのうちに張り付け状態で整備訓練もままならない状況に我慢ができなくなり、
遠路バルチック艦隊到来の具体的日程が迫るにおよんで
「その増援艦隊をして東洋に回航するの希望を放棄せしむるか、あるいは
少なくとも之に対し我が海戦の勝算を一層確実ならしむる必要あり」といい
ようやく陸海共同作戦などの言を持ち出す。
>>443『実に的確に敵行動を予測し、適切な対応を要請している』というのは
この海軍の提案と行動のいかなる部分を差すのか、皆目見当つきません。
446 :
竹原:2001/04/01(日) 04:43
>>443『実に的確に敵行動を予測し』た例なら、こういうのを知っている。
西南の役勃発の当初、乃木歩兵第14連隊長に歩兵一個中隊を要地長崎へ
分遣せよとの命令が下る。中隊が長崎に到着した日、長崎県令および
分遣中隊長より、兵力増加の要請電報が届けられた。薩軍が海路一挙に
長崎を衝くことを考慮しての電報であった。旧軍の「敵情判断」の思想
つまり「自由意志を持つ相手の行うであろう各種行動のうちで特に我が
方策に重大な影響を及ぼすだろうものについて考えよ」ということだ。
乃木連隊長はこれを薩軍に海上から進行する能力はないという判断に
よりこれを拒絶している。「敵の可能行動」を考慮するという考え方
である。『実に的確に敵行動を予測し』た乃木連隊長の判断により、
兵力分散の愚策は避けられた。
『軍事無能』といわれる指揮官の実際の行動かくのごとし。如何思われるか。
447 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 06:21
>>446 乃木さんが軍事無能だと言われた訳がよく分かったよ
ありがとう
448 :
447:2001/04/01(日) 06:39
ちょっと追加しとくか。
資料の使い方が中途半端だね。446の文章じゃ、乃木さんがどう
「敵の可能行動」を判断したか分かんないんで、あてずっぽうに
行動したような印象を受けるんだよね。「敵情判断」の思想がき
ちんとしてるだけに、なおさら印象が悪くなっちゃうよ。
「敵の可能行動」を甘く見過ぎたんで、旅順で大損害が出たので
はないかね。
449 :
×原:2001/04/01(日) 12:05
>>446 >>447 問題はどちらがより合理的か、ということです。明治10年02月12日、長崎からの
兵力増加要請電報を拒否しつつ、他方では薩軍北上に備えて久留米などの要地に
早期に兵力派遣することを熊本鎮台に要請しています。
あてずっぽうという印象を受けると言われるが、先見予測という作業は全てに
その偏見めいた誹りを免れません。圧倒的優勢、兵力、物量、時間的余裕などが
確保されていない以上、欠くべからざる作業です。
『敵の可能行動を甘く見過ぎた』これこそ、先述の海軍失策の原因です。加えて
『自軍の可能行動を過信した』というのが追加されます。
450 :
嶽原:2001/04/01(日) 13:01
>>441で海軍のことばかりだったのは不公平のようなので、
「開戦直後の時期、陸軍側は旅順をどのように思っていたのか」
陸軍側では明治35年以降、満州に対する攻勢作戦の研究を実施していた。明治36年
11月以降より更によく研究されるようになったが、その中で旅順問題には触れられな
かった。研究においては旅順は封鎖・監視に止めて勢力を遼陽方面への北進に集中し
旅順攻略は必要が生じたらその際に攻略すれば良いとされていた。
そのような状況でありながらも、明治37年01月に旅順攻城計画の一案が成った。
使用兵力:三ヶ師団・一ヶ野戦砲兵旅団・野戦重砲連隊
攻城特殊部隊(攻城砲兵司令部、三ヶ徒歩砲兵連隊、
攻城砲兵廠、攻城工兵廠、鉄道部隊)
攻城砲:15糎榴弾砲16門、15糎臼砲72門、12糎カノン砲30門、10糎半カノン砲4門
弾薬は各門800発
攻撃方向:北西正面(案子山および椅子山正面)
この案では、支那式野堡を多少強化した程度、という強度判断に基づいて15糎以下の
攻城砲に止めている。陸軍は旅順要塞の強度判断を著しく誤っており、そのために
この案から更に坑道戦用機材を削減され、砲弾数を削られた。
総合すれば開戦直前の時期におよんでも、海軍側は自案の機密保持を重視して
陸軍側への旅順問題についての説明をおこなわず、また陸軍側は万一に備えた要塞
攻撃腹案は持ちながらもむしろ北進軍への兵力集中を望みつつ、開戦を迎えている。
開戦前の陸海軍の作戦協議では旅順要塞の陸上からの攻略については論議もされ
ず、予定もされていなかった。この現状からは、旅順攻略戦が近代的総力戦となる
予想は全くつかない。初戦が惨状を呈するのは不可避であっただろう。
だから、俺はその記述からじゃ乃木さんの判断にどの程度合理性があるか
分からないと言ってるの。
どうして「『軍事無能』といわれる指揮官の実際の行動かくのごとし」と
言えるのか俺には分からんね。
452 :
嶽原:2001/04/01(日) 16:14
>>444 ・445 下品だったので書き直します。
開戦劈頭、海軍の自案が実行される。
第一段階:02月08日、旅順港外の敵艦隊に対する奇襲が行われた
敵艦隊は港内に避難、黄海の制海権は日本軍が握った
その戦果は小破三隻、二ヶ月後には戦線復帰した。
第二段階:02月24日、第一回閉塞作業(五隻)は不成功。
第三段階:03月10日、間接射撃による港内砲撃を実施したが戦果は不明。
以後は艦隊の撃滅ではなく、港口の閉塞に重点が置かれる。
03月27日、第二回閉塞作業(四隻)、不成功。
04月07日、機雷による封鎖策に転換。
(実施は12〜13日、マカロフ戦死の功を奏する)
05月03日、第三回閉塞作業(十二隻)、不成功。この後、閉塞作戦は放棄される。
05月09日、港口近くに艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換。
(15日初瀬・八島触雷沈没)
陸軍参謀本部側では、03月の海軍港内間接射撃の頃より結局は旅順要塞の攻略が
必要になるとの見極めをつけ、かねての成案を基に攻城特殊部隊の動員、編成など
の準備を進めつつあった。しかしながら、開戦前の協議のいきさつもあって海軍側
からの旅順攻略の要請がくるのを待ち、05月末の第三軍編成に至ったといわれる。
453 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 18:58
> 嶽原殿
なにバカ言ってんだ。443は
『バルチック艦隊が、近日に来襲するのが分かっていて、なおかつ、
連合艦隊は旅順港内艦隊に拘束され、修理・整備の余裕も無い状態』
であることを知りながら
『(旅順戦を)海軍が急かす必要はなかったと思っています』と言う、
君の言説を
『ただ乃木擁護あって、国家なし』って嘆いているんだよ!!
海軍行動の批判で、ごまかすんじゃないよ。大局を見ないセクト主義が
君の乃木擁護の本質か?
454 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 20:01
横レスですいません。
旅順要塞攻略の目的
1)バルチック艦隊来航前の旅順艦隊の無力化
2)第三軍の兵力転用のため、早期の要塞の無力化
が、戦争の勝利という大目的から導かれた目的であり、
そのために司令官はあらゆる方法を検討・実施するべきと
考えます。
仮に海軍のそれ以外の全ての提案、行動が不合理なもので
あったとしても、その提案が上記の目的に対して妥当であれば、
それを採用するべきでしょう。
重砲による火力支援がどちらの目的にも有効である以上、
会議の席で提案に反対というのは愚挙だと思われます。
また、事前の陸軍の要塞に対する認識がどうであれ、
現場の責任者として威力偵察などによる事前の敵情の把握は
当然の準備であると思われます。
海軍・満州軍総司令部・参謀本部・ロシア軍(笑)がどうであれ、
国の命運と多くの人命を預かる司令官はベストな結果をもたらす
べきでしょう。
いえ、議論を拝見していると、そのうち「乃木将軍の不幸は、
相手が強かったからだ。彼の責任ではない」という意見が出てくる
ような気がしたものですから。
455 :
454:2001/04/01(日) 20:03
>>453 454に書いた通り、私も同感です。
あと、乃木希典を考える上で、第三代の台湾総督であった時の
実績も検討するべきだと思います。
もっとも、ここでも後任の児玉・後藤のコンビには及ばない成果
しか上げていないと思いますが。
私の乃木希典への評価は、「無能な働き者」の「権威主義者」です。
彼の師の玉木文之進からして、有能とか合理主義とかからほど遠い人間でした。
その薫陶を受けただけのことはあると思います。
456 :
嶽原:2001/04/01(日) 21:34
>>453 05月第三軍編成、06月満州軍司令部編成、06月末大連近辺が主戦場、
いまだ第三軍攻城兵力が到着・展開されていない頃だというのに、
東郷連合艦隊司令長官の意見具申(迅速な旅順攻略の必要)が陸海高級幕僚会議
(陸軍参謀総長・海軍軍令部部長列席)によって承認され、満州軍総司令官に
対して旅順攻略が求められます。
07月12日「第三軍は既に歩兵三十六大隊火砲二百七十余門を有するをもって、
第九師団及び野戦砲兵第二旅団全部の到着を待たず攻撃を実行し得る望あり、
刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望は実に已むを得ざるべし」
「ただ旅順艦隊ありて要塞への考慮なし」、旅順のなんたるかをもしも本当に
海軍が理解していたら、これだけの兵力・砲力で『少しく無理押しを望』むの
は絶対不可だと思います。旅順港内に停泊している艦隊に海上兵力は為すすべ
なし、で焦るのはわかりますが。
国家を語ろうなんてだいそれたことは毛頭考えておりません。国家、って
経済とかナンとかナンとか、いろいろあるでしょうに、高々一戦争で語れる
問題ではないですよ。
457 :
嶽原:2001/04/01(日) 22:03
>>454 先述の海軍のドタバタに嫌気がさしていたのかもしれませんが、何にしろ
会議で双方が自説をぶつけ合うのは別に問題ないと思いますが。結局は
重砲隊は編成されましたが、案の定というか何というか、本要塞攻囲網作成
中の、結構な激戦中に旅順市街地・港湾めがけてほとんど盲撃ちといえる
砲撃をやらかしてます。海軍重砲隊の放列位置から、当日の激戦区前衛陣地
と旅順市街地とはほぼ同距離で、この時期あえて港側に砲撃を加える意味が
あったのでしょうか?
>「乃木将軍の不幸は、相手が強かったからだ。彼の責任ではない」
安心して下さい、絶対出ません。……似たようなことを言ったとされるのは
「坂の上の雲」でしたっけ?
>>455 情実請託をいっさい認めなかったため、一部官民の不評を買っていた、くらい
しか知りません。
いずれにしろ、先年まで征討戦闘が行われていたところの植民地総督、しかも
一年しか在任していないのに実績もなにも……。
それでも、道路開発は軌道に乗せたと聞いていますが。
458 :
嶽原:2001/04/01(日) 22:29
海軍陸戦隊重砲隊については、以後の本要塞攻撃の全期間において活躍して
います。この攻囲網作成中に先行やらかしたのは咎められているようですが、
以後は全然問題ないと思っています。
黒井中佐を隊長とする重砲隊は、『陸軍の思惑など気にせず、ロシア側の
死角をぬい海軍砲隊を山上に上げ、眼下のロシア艦隊めがけてポンポン射ち
込んだ。海軍にとっては宿願の敵艦砲撃の実現だが、日本陸軍までも泡を
食って山から「海軍重砲隊」を引きずり下ろした。』という話を読んだこと
ありますが、これは本当ならば独断専行極まりない暴挙としか思えません。
459 :
嶽原:2001/04/02(月) 01:08
>>453『海軍行動の批判で、ごまかすんじゃないよ』
海軍の状況だけを述べる(
>>441 452)のもおかしいですし、陸軍の状況も
併記しております(
>>450)が、これらは全て05月末の第三軍編成前の状況
です。乃木どころか、第三軍編成・満州軍司令部編成以前の状況です。
『海軍が急かす必要はなかった』と思うのは、これが永久要塞に対して
準備不完全なままの攻撃開始という状況になった大きな理由の一つだと
思うからです(
>>456)。
『東郷連合艦隊司令長官の意見具申(迅速な旅順攻略の必要)が陸海高級
幕僚会議(陸軍参謀総長・海軍軍令部部長列席)によって承認され、満州
軍総司令官に対して旅順攻略が求められた。「第三軍は既に歩兵三十六大隊
火砲二百七十余門を有するをもって、第九師団及び野戦砲兵第二旅団全部の
到着を待たず攻撃を実行し得る望あり、刻下の情況、第三軍に少しく無理押
しを望は実に已むを得ざるべし」』
460 :
454:2001/04/02(月) 02:02
>>457 >意見をぶつけ合うこと自体は
責任ある立場の人間が公的な場で愚かな意見を開陳することは
非難されてしかるべきでしょう。
>盲撃ち
第三軍の指揮下において行われたのであれば、乃木の責任。
そうでなければ、指揮権の問題となりますが、
指揮権委譲を第三軍が求めたのに却下されたのであれば、
却下した所の責任。
要求しなかったのであれば、第三軍=乃木の責任でしょう。
>一年しか在任していないのに実績も何も
彼は自分から辞表を出しています。
別に辞めさせられたわけではありません。
それに、条件を挙げるならば、彼の後の児玉も同じだと思います。
しかし、りょうしゃのせいかはひかくに
これは両者の統治への情熱と見識の違いではないでしょうか。
旅順航防戦については、乃木希典の責任下でやったことについて、
海軍や陸軍上層部を持ち出して語っても仕方がないように思います。
議論は、第三軍に権限があったか、そしてその権限の中でベストの
仕事を行ったかで判断されるべきでしょう。
461 :
454:2001/04/02(月) 02:06
×しかし、りょうしゃのせいかはひかくに
○しかし、両者の成果は比較にならないほど違います。
失礼しました。
462 :
453:2001/04/02(月) 03:15
>>457 >旅順市街地・港湾めがけてほとんど盲撃ちといえる
>砲撃をやらかしてます。
ほんとにいい加減なことばかり言うね、恥ずかしくないの。
何を根拠に「めくら撃ち」なんて言えるの?
敵砲台の死角をぬって、眼下の艦隊を砲撃し、主力戦艦(旗艦)等に命中弾を与え、
結果的に、危険を覚えた旅順艦隊が湾外に脱出、で連合艦隊と「黄海海戦」に、
敵旗艦レトヴィザンは、昨日の命中箇所から浸水、速度が落ちたため命中弾を受ける。
操舵損傷の旗艦のため陣形が乱れた旅順艦隊は遁走しサイゴン・膠州湾・上海に逃亡、
旅順湾に帰還した艦隊は半分の勢力になってしまった。
このときの湾内砲撃に陸軍砲兵も参加していたら・・・なんてまでは言わないが、
この殊勲甲の「独断専行」を、盲撃ちだの何だの、無理におとしめなくてもよかろう。
黒井砲兵隊は、適時のチャンスを逃さず、『確信的』に砲撃をし、大成果を挙げた。
断じて、統制違反の盲撃ちのごときものではない。
、
463 :
453:2001/04/02(月) 03:30
>456
>国家を語ろうなんてだいそれたことは毛頭考えておりません。国家、って
>経済とかナンとかナンとか、いろいろあるでしょうに、高々一戦争で語れる
>問題ではないですよ。
君は、意図的に読み違いをよそおっているのだろうな。
『ただ乃木擁護あって、国家なし』の国家とは『国家の危機』の意だろが、
なんで、ここで君に、国家経済の事を語ってくれ、なんて言うものか(爆笑。
君に常識はないのか??
464 :
日本@名無史さん:2001/04/02(月) 03:50
バルチック艦隊の来航が、連合艦隊の敗北や満州軍の壊滅を招こうと、
そしてそれが、明治国家の危殆を引き起こす『国家の一大危機』であっても、
やはり
乃木を急かせてはならない、ゆっくりと旅順包囲戦をすべきだった、何故なら
『臨機応変に戦略を練るなど「軍事音痴将軍」には無理だよ』
結局、 嶽原元帥はそう言いたいのだろさ。
465 :
日本@名無史さん:2001/04/02(月) 07:01
そうかぁ? > 盲撃ちの件
向こうまで届かずに味方をたくさん撃って
士気に関ると前線から苦情が散々出たと
聞いた事があるが
466 :
日本@名無史さん:2001/04/02(月) 13:13
>465
じゃあ、戦艦レトヴィザンやその他の損傷艦は、誰の砲撃が命中したんだ(笑?
旅順戦の間中、前線部隊から味方砲兵への苦情は日常的にあった。
敵味方接近している場面が多かったし、駐退機がおそまつで精密射撃が不可能だったから、
ただ、28榴弾砲は要塞砲であったので極めて命中精度がよかった(ほんとに救世主だ)。
海軍砲兵隊は、敵弾薬庫に命中させるなど、かなり優秀、
その風説は、陸軍中央と海軍に対する反発からでたと思われ、伊地知のセクト主義と同根。
あのさ、そもそも海軍重砲隊の旅順港射撃が独断専行
だったっていう根拠はあるんか? つまり、海軍重砲隊には
明確に別の射撃目標が与えられていたのか?
俺、そういった資料見たことないんだけど。
468 :
嶽原:2001/04/02(月) 22:33
>>462「盲撃ち」のはなし
この資料は08月07日から11日間の状態を紹介しています。
「海軍は港内に潜む旅順艦隊に少しでも打撃を与えようとして陸戦重砲隊を派遣、
08月07日から11日間で1277発の砲弾を撃ち込んだ。その効果を確かめるためと
港内の敵艦隊の状況を知りたくてたまらぬ海軍は、陸軍の気球隊に要請して
08月22日、軽気球を500メートルの高さまで揚げ、港内を覗こうとした。
しかしゴンドラに乗った海軍士官はひどい揺れでたちまち酔ってしまった。
その後は機械的故障が続出して、気球は用いられなかった。」だそうです。
08月22日まではほとんど盲撃ちという状況だったと判断しました。
たしかに、444・445で下品な言い様をしたのは恥ずかしかった……。
469 :
標定射:2001/04/03(火) 00:08
>467
>明確に別の射撃目標が与えられていたのか?
射撃目標が、明確に指示されていれば、基本的に『命令違反』になるんじゃないかな、
命令を逸脱しての独断専行なら、3日間も砲撃続行できないだろう。
たぶん、陸軍砲兵隊は総攻撃を控えて、砲列・弾列の整備中か、大狐山・小狐山戦への
支援砲撃中で、海軍陸戦重砲隊も確信を持って「湾内目標」を砲撃したという事だろう。
(重砲隊は市街北方で白玉山正面の火石嶺にあって、要塞東辺の大狐・小狐応援は無理)
要塞死角の稜線に観測点を揚げ、見える範囲を砲撃したのだろう、むろん充分な測距は
期待できなかったと思う。
戦艦レトヴィザン小破の他、旅順市街の燃料所・木材所等破壊や貨物船を撃沈している。
「盲撃ち」とは言えないだろう。
470 :
嶽原:2001/04/03(火) 00:42
>>469>たぶん、陸軍砲兵隊は総攻撃を控えて、砲列・弾列の整備中か、
○『大狐山・小狐山戦への支援砲撃中で』、海軍陸戦重砲隊も確信を持って
「湾内目標」を砲撃したという事だろう。 (重砲隊は市街北方で白玉山正面
の火石嶺にあって、○『要塞東辺の大狐・小狐応援は無理』)
○『……』のどちらの主張をされているのでしょう。火石嶺から大狐山・小狐山
周辺までと旅順市街地までとの距離はほぼ同じと見えます(いい加減、失礼)。
この攻囲網作成の段階において、なんでまた市街地を?あと、少なくとも状況
不明の市街地・港湾を山越えで狙うよりは的確な支援を行い得たと思いますが。
471 :
嶽原:2001/04/03(火) 01:18
>>470前段(
>>469の件)
すいません!全くおかしなことを書いてしまいました!
コピペしていてたった今気づいたところです。大変失礼しました。
472 :
標定射:2001/04/03(火) 01:57
僕の書きようがまずいのか、君の、文章読解力が『恣意的』なのか分からんが、
>○『……』のどちらの主張をされているのでしょう・・ってねえ。話題の拡散が狙い?
陸軍砲兵隊→総攻撃を控えて砲列・弾列の整備中か、大狐山・小狐山戦への支援砲撃中
海軍重砲隊→確信を持って「湾内目標」を砲撃
ということです。
>火石嶺から大狐山・小狐山周辺までと旅順市街地までとの距離はほぼ同じ
火石嶺は旅順街道と鉄道に挟まれた、新市街から6キロの地点と資料にある。
右に椅子山、正面に白玉山、左に松樹山があり、君の言う大狐山・小狐山へは
東へ松樹山・二龍山・盤龍山・望台・東鶏冠山・北斗山・白銀山を超えて、
砲撃することになる。可能かな?僕の資料を見る限り距離・標高がかなりある。
まあ、砲列を東に向け変えて(簡単な作業と思うか?)、望台越えで大小狐山稜を
砲撃しても、肉迫戦の最中だから『誤射が多くて、盲撃ちだ』と言われるね(笑。
8月7日から湾内砲撃を始め、3日後の8月10日に旅順艦隊は旅順港を脱出している、
「黄海海戦」を生起させたのは大殊勲と言える。作戦目的を考えればそうなる。
>471
資料を確認していて、リロードをしなかった。こちらこそ失礼!
結局、海軍重砲隊の旅順港射撃が独断専行であったと
断定できる資料はない、ということですか?
そもそも命令系統が正確にはどうなっていたかが知りたいです。
第三軍の指揮下におかれていたのか、海軍指揮下のままで大本営
経由で第三軍に協力するよう指示されていたのか、それ以外か?
475 :
標定射:2001/04/03(火) 21:49
独断専行であっても、そうでなかったとしても、さほどの問題はない。
旧軍では「独断専行」そのものは、さほど悪いことだとはされていない。
むしろ、機を見て為さざるを、消極的として低く見る傾向があった。
これは、どの国の軍隊でも同様で、戦機を見て『積極攻撃』することは当然である。
もちろん
明らかな命令違反・逸脱であれば処罰の対象になり、許されない。
従ってこの場合、海軍陸戦重砲隊には、別(目標)の射撃命令があったとは思えないし、
別途の任務が指示されていたとは思えない。
476 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 01:10
>475
英海軍だっけ「見敵必殺」
>477
しょうむないこと言うな、世界中、何処の軍隊でも一緒じゃ!
独断専行を禁止している軍隊がどこにあるか!!
(自衛隊は別として・・)
独断専行のレベルがちがうべさ。ここは乃木さんスレだ。
昭和の下克上軍隊もちだすと、話が別になるから、ま、それはなしにしようや。
>>乃木スレをのばしている方へ
乃木スレは毎晩楽しみにしてます。毎日、無料資料としてダウンロードしてます。
もっと書いてくだされ。
あたし個人としては、パリでサムライ魂を説く一方、金銭感覚無しの遊郭遊び
というところで、本来、軍人になるべき人物じゃなかったのかなと思っております。
横レス失礼。
ではご歓談をどうぞ
480 :
日本@名無史さん:2001/04/04(水) 14:10
>469
>見える範囲を砲撃したのだろう、むろん充分な測距は期待できなかったと思う。
それはある意味、正確な射撃は難しかった、誤射もあったと認めているのでしょうか、
6キロは戦艦を射撃するのに適当な距離なのでしょうか。
基本的に海軍重砲隊の湾内射撃を肯定する立場から、お伺います。
たかだか6000mですからねえ。日本海海戦での
砲戦距離も6000から8000mではなかったかな。
まあ、基本的に砲兵は点目標を狙うようには
訓練されないけど、この場合は海軍の水兵が
砲を扱っていたということで。
482 :
嶽原:2001/04/04(水) 23:11
海軍重砲隊の件で
08月07日から数日間の同隊の砲撃を、私が「盲撃ち」と言いました根拠は
>>468 に述べました。さて、「独断専行」もしくは「先行」と言った根拠、ありません。
……というか、手持ちに重砲隊の資料が無いことに気づきました。すみません。
>>458に転記しました一文、『……黒井中佐を隊長とする重砲隊は、陸軍の思惑
など気にせず……ロシア艦隊めがけてポンポン射ち込んだ。……日本陸軍までも
泡を食って山から「海軍重砲隊」を引きずり下ろした。』という話を読みまして
独断専行だと思っておりました。しかし、あらためて手持ちの資料を見たところ
同隊が第三軍の指揮下に入っていたことくらいしかわかりません。
「山から引きずり下ろされた」または「下ろした」という資料は見あたりません。
これは実際に有ったことなんでしょうか。
483 :
嶽原:2001/04/04(水) 23:37
>>481 艦載砲って、点目標に向けてまず適当(!)に撃ち、その弾着の遠近を計測し、
また撃って……と次第に目標に近づけていく、という方法でいわゆる命中弾
(目標を弾着が覆えば、的中しなくても命中と判定する)を得るのでは?
目標と自弾弾着の位置関係を常に把握していなくてはならないわけで、それが
難しい状況(見える範囲……見えたの?)では、いかに水兵といえども……。
いや水兵でなくても関係ないですね。
要塞砲は、各砲があらかじめ決められていた担当地域をまるで碁盤の目のよう
に区切り、相応する方位・仰角などを記録していたので、初弾から命中弾が得
られたようですが、08月07日からの状況ではそれも無理と思えます。
地図と方位磁石を頼りに撃っていたというのが実状かもしれませんよ。
484 :
標定射:2001/04/05(木) 00:34
>>480 海軍陸戦砲兵隊の砲手が水兵かどうかは不明だが、基本的に481氏の言うとおり
海軍にとっては、それほど難しい距離ではないように思える。
まあ15センチ砲(7門)12センチ砲(6門)にとっての話で(他の20門は、
陸戦隊用の野砲)、むしろ射程距離より標高差の問題の方が大きいかも知れない。
どちらにせよ、列強の中でも、ロシア軍艦の装甲は強力なほうで、6キロ先の戦艦に
損傷を与えたことは(12センチ速射砲で?)かなりの命中弾を集中した結果だろう。
なお日本海海戦は(私の資料によると)
7000mでロシア側が撃ちだし、敵前回頭後、6200mで日本艦隊も砲撃開始、
で、30分後には4600mの超接近砲戦になって、その時には日本艦隊の完勝が
確定していた。とある。
まあ現在とは砲の性能が違いすぎるので、6000mでの命中率はさしたるものでは
なかっただろう。
485 :
標定射:2001/04/05(木) 02:38
>>482 >「山から引きずり下ろされた」または「下ろした」という資料は見あたりません。
>これは実際に有ったことなんでしょうか。
常識的に考えて、自走砲ではあるまいし、海軍重砲が山尾根に上がったとは考えられ
ない、せいぜい(火石嶺?)山稜斜面に進出したくらいでしょう。
僕は、陸軍の抗議で、山頂から降ろされたのは観測班だと理解しています。
(もしかして、陸戦用12ポンド砲を尾根筋に引き揚げていた?・・ま、無理でしょう)
>>483 砲戦の前、距離調整等のため弾着確認射撃をします(これが『標定射』です(^_^)v)。
だから、必ず観測点が必要です。・・(要塞・陣地砲の場合は、事前に座標で特定)
陸戦の場合もかなり高度な作業ですが、海戦の場合は、彼我共に運動をしている為、
着弾時の敵到達位置の推理と、風の影響が読みにくく(風向がころころ変わる)、
大変な熟練を要します。
旅順湾内砲撃は、動かない目標を、固定陣地から撃つわけですから・・・・・
>風の影響が読みにくく(風向がころころ変わる)
そういや「本日天気晴朗なれど波高し」ですな、見晴らしが良くて、
風が強い、日本艦隊の熟練砲手の名人芸の勝利ですな。
487 :
日本@名無史さん:2001/04/05(木) 15:57
第三軍指揮下にあったということの真偽はともかくとして、
そうであったとするなら、海軍重砲隊が旅順港を砲撃した
ことの責任は第三軍司令部にあるんじゃないの?
きちんと射撃目標を命令していれば、海軍重砲隊とて
勝手に旅順港射撃なんかできないでしょ。やってれば
明確な命令違反になるから、「引きずり降ろされる」
程度じゃすまない。でも、黒井中佐他が処罰されたとか
いう話、聞いたことないねえ。
なんか、伊地知がへそ曲げてまともに命令与えないまま
ほっぽっといたから海軍重砲隊は「要するに勝手に
やれってことか」と解釈し、旅順港を射撃した。すると
慌てた伊地知が・・・ってところじゃないの、真相は。
488 :
日本@名無史さん:2001/04/06(金) 00:18
『海軍に応援をいただかなくても、陸軍には充分な砲兵力があり、陸軍のことは陸軍に
お任せ願いたい』
『203高地主攻については一月後に考える(そのころには旅順を陥落させておるゾ)』
『海軍要塞砲は不要だ、(特別に)大本営が送りたいのなら、送られたらよろしい』
こんな軍参謀と、それを是認の詩人司令官・・・・・。
『海軍陸戦砲兵隊は、適時、可能であれば湾内砲撃を行い、敵艦隊の戦力削減をはかる』
こうなるのは、軍人としてあたりまえ。たぶん、海軍中央もそれを指向していた。
陸軍の抗議にもダラダラ時間稼ぎ。軍令部(暗黙の)命令があったとしても当然の話。
>第三軍首脳は砲弾の届かないところにいたという風説は実状を伝えているのか?
>第三軍の桁違いの歴史的損害は、乃木・伊地知の指揮無能力のせいか?
これらの話題にうつろうよ。
489 :
嶽原:2001/04/06(金) 01:15
>>487 第三軍の指揮下に入っていた部隊だということは、多くの資料で述べられて
いるので、多分その通りでしょう。
「第三軍が海軍に求めた」か「海軍が提供を申し出た」かで異見がありますが。
ならば、指揮下部隊の攻撃続行・停止を管理するのは、責任を負う立場ならば
当然の事でしょうか。繰り返し申しますが、第三軍の段取りとして攻囲網の
作成を行っている最中に、市街地を砲撃されるのは望ましくなかったのでしょう。
総攻撃開始に先立ち、「要塞内の非戦闘員退去勧告」を出す段取りになっていた
(山県総参謀長の訓令により大山総司令官から伝達された)ので、その前に
非戦闘員のいる市街地砲撃を嫌ったのかもしれません。
490 :
嶽原:2001/04/06(金) 02:25
『海軍要塞砲は不要だ、(特別に)大本営が送りたいのなら、送られたらよろしい』
(488)に違和感を覚えたので、あらためて前レスからずっと見てみましたら、
沿岸要塞に配備されていた28糎榴弾砲を「海軍砲」と思われている記述が数カ所
(73、350)ありましたので、失礼させて頂きます。
これは当然、陸軍の巨砲です。イタリア式のものをコピーして作られました。
イタリア砲の元々はドイツクルップ社のものであり、日本軍28糎榴弾砲と
露軍の28糎臼砲(クルップ式)とほぼ諸元が同じものでした。ために日本軍が
撃ち込んだ不発砲弾が、露軍によって回収され日本軍陣地に撃ち返されたと
いうエピソードもあります(旅順東方の鞠家屯28糎榴弾砲陣地の破壊がこれ
によるといわれています)。
>「第三軍が海軍に求めた」か「海軍が提供を申し出た」かで異見がありますが。
>ならば、指揮下部隊の攻撃続行・停止を管理するのは、責任を負う立場ならば
>当然の事でしょうか。
当たり前じゃん。管理しないなら指揮権の放棄だ。無責任極まりない。
それとも何ですか、たとえば指揮下の各師団が勝手に敵陣に突撃を
繰り返して損害がばかばか出て全滅しかかってる、でも師団司令部は
攻撃をやめないなんてとき、軍司令官には攻撃を中止して後退せよと
命令する義理も義務も権利もないとでも?
>繰り返し申しますが、第三軍の段取りとして攻囲網の作成を行っている最中に、
>市街地を砲撃されるのは望ましくなかったのでしょう。
望ましくなかったなら、少なくともはっきり「旅順は撃つな」は言って
おかなきゃね。それに加えてこれこれの保塁を撃てとかどこどこの敵砲兵陣地を
射撃せよとか命令するのが本当。指揮下全部隊の方針を決めるのが司令部でしょ。
事前に何にも言わないでおいて、いざ始まったら「それは俺の方針と違うぞ!」
で大慌てでは・・・。
海軍重砲隊の旅順港砲撃については第三軍司令部の責任放棄であって、
批判されるべきなにものもないということで結論ですかね。488さんの
言われる話に移りましょうか。
492 :
嶽原:2001/04/06(金) 20:57
>>491「重砲隊の旅順港砲撃」の件
例えば何も指示がなかった場合、それは動いてはいけないという命令に
なりませんか?隷下部隊に指揮官が、命令の意味などをいちいち説明する
わけないでしょうに。もしも「待機」とか「何も言わなかった」のならば、
それなのに市街地砲撃をしたのは、結局は『命令違反』でしょう。
手足が、頭に断らず勝手に動いたようなもんじゃないですか。
それに対して『それは俺の方針と違うから止めろ』という、この対応の
どこが責任放棄なのか、わかりません。
493 :
日本@名無史さん:2001/04/07(土) 01:18
>>492 だからあ、ええかげんに戦争を理解しろよ。
>何も指示がなかった場合、それは動いてはいけないという命令になりませんか?
何のために「見敵必殺」って言葉があるのだ!
目の前に敵の弱点が出現すれば、即、つけいる、これ当然の軍事常識でしょう。
香港を陥落させた若林部隊長(だっけ?)は、命令違反者か!
何のため将校が居るのだ、現場部隊長の裁量権はどこにある、
有効な独断先行攻撃と、むやみな暴発攻撃とを判断するために将校教育があるのだろう。
戦争中、目の前に、戦機が拡がっても動けない、そんな軍隊があるか!!
>市街地砲撃をしたのは、結局は『命令違反』でしょう。
何度も言っているが、命令違反なら砲撃を継続できるわけがないじゃろ。
命令違反の部隊を、部隊長も変えずにそのままにしておくほど、日本陸軍は甘くない。
現場部隊長は、裁量権の規定に照らして齟齬があれば、命令逸脱程度でも、
厳しく裁かれる。でないと軍律が保てるわけない。
軽々に「命令違反」なんて断定しないでもらいたい、交通違反と同じではないぞ!
スマン、興奮してHN書き忘れた。
493は俺です、ちょっと言葉がすぎたか・・
495 :
嶽原:2001/04/07(土) 19:19
>>493「見敵必殺」の件
重砲隊の、あの時点で為すべきことが「(見えない)港湾部・市街地砲撃」
であるわけがありません。「見敵必殺」の言は、それこそ攻撃中の前衛陣地に
相当するのではありませんか?なお、472で貴方が述べたラインは(
>>472)
水師営─大狐・小狐山のラインにあたり、火石嶺─大狐・小狐山のラインでは
ないようです。「見えない箇所」へ砲撃するよりよほど効果はあったと思い
ます。その時点で既に支援砲撃の出番ではなかったとしても、効果の測定も
難しいような奥地砲撃をしでかした理由にはならないでしょう。
496 :
嶽原:2001/04/07(土) 22:07
495では暴走してしまいました。
『重砲隊の、あの時点で為すべきことが「(見えない)港湾部・市街地砲撃」
であるわけがありません』の部分です。重砲隊が、この時にどのような任務を
与えられていたのか解らないのに、為すべきことも何もないです。失礼しました。
改めて調べてみても、この時期の重砲隊の確かなことは「延べ三日に渡る砲撃を
加え、艦船・市街地に被害を与えた」ということで、「第三軍によって砲撃を止め
られた」という資料は見あたりません。……これって、もしや、「(28糎榴弾砲)
送るに及ばず」の迷言と同じく、創作なんでしょうか。ここ数日、そう思うように
なって不安続きです。
先の暴走部分は、「第三軍によって砲撃を止められた」のならば……という前提
での暴言ということです。
497 :
標定射:2001/04/08(日) 01:55
>>495 君は、海軍砲兵隊の旅順湾砲撃を「効果の測定も難しいような奥地砲撃」と言い、
同距離?だという、大狐山・小狐山砲撃を「奥地」とは言わないの?
>見えない
当時の砲の命中精度で、観測点が全く無しで、小口径砲(12センチ砲らしい)で
戦艦に損傷を与えられると思うの?
たまたまの一発が、艦隊旗艦・戦艦の喫水線以上装甲を破壊できるとは思えない、
複数の「命中弾の累積」が必要だったとしか考えられないだろ。
資料等で、狙わずに砲撃したような印象を受けたのかも知れないが、充分な観測点
が設けられなかった(当然だが・笑)と、取るべきで、完全な「盲撃ち」では無理。
>貴方が述べたラインは・・火石嶺─大狐・小狐山のラインではないようです。
僕も正確な軍用要地誌を持っているわけではないが、君の読図間違いでは・・。
大狐山・小狐山は旅順主要塞線の東辺外郭陣地で、堡塁の位置はわからないが、
南北約18キロの山稜線で、たぶん山頂・尾根筋に陣地が散在していたのだろう。
小狐山山頂なんぞ望台・白銀山のはるか向こうにあるんだぜ。
火石嶺は集落の意ではなく山塊の名と理解している。
旅順湾から直線6キロ、街道と線路に挟まれた地点、ここに海軍隊の砲列があった。
(私見として、山稜斜面まで前進して仰角を付けていたと思う)
旅順新市街の北6キロの地点から、大狐山・小狐山までのラインがどうだって?
約10キロ東方の、縦に流れる「南北18キロの稜線」を撃つラインだ、あれ以外
あるまい。実際にはかなり標高のある山々を越えて撃つわけだが(笑・・・
498 :
嶽原:2001/04/08(日) 09:19
『小狐山山頂なんぞ望台・白銀山のはるか向こう』といわれますが、
火石嶺─大狐・小狐ラインには、松樹山・二龍山・盤龍山・望台・東鶏冠山・
北斗山・白銀山などなどはかすりもしていません。龍眼北方堡塁がかする程度
です。
また、大狐、小狐ともに堡塁位置は山頂部に記入されています。大狐山は、
志岐少佐の回想のなかで「この山は旅順東正面の諸堡塁、砲台を眼下に見下ろ
す絶好の地であった」と紹介されています。周辺からよく見える場所であった
と考えられます。『効果の測定も難しいような奥地』ではないでしょう?
499 :
日本@名無史さん:2001/04/08(日) 11:17
あのー、最近、重箱の隅をほじくるような話題に集中しすぎてはいませんか、
海軍重砲隊が旅順砲撃が、効果的であったのか、合法的であったのか、は、
結果が示していますよね、黄海海戦が起こり、誰も処罰されていません、
それ以上はいいじゃないですか。
もっと、乃木将軍本人の話題をしましょうよ。
僕個人は、萩の乱の直前、弟の真人が乃木連隊長と最期の対談をした際、
部下の兵隊を、そばにおいて「会話を記録させていた」ってところに、
とても嫌なものを感じます。
萩の乱のHPで読んだだけですが、乃木連隊長は弟の勧誘に乗るわけでもなく、
弟を説得して止めるわけでもなく、ただ曖昧な言質を与えない会話に終始しています。
けっして武人の態度ではないと思います。
500 :
嶽原:2001/04/08(日) 12:22
乃木の前任である歩兵第十四連隊の山田初代連隊長が、萩の乱の首謀者の
実弟にあたるため、危険人物と見なされていました。そして辞任。連隊内に
動揺があったのは当然です。
その後任である乃木が、自分の去就を明確にして、部下にいささかの動揺
も与えないようにすることに気を付ける……当然のことでしょう。
乃木の日記に、「奥山(前原派)来、横山(前原派領袖)の書を持参す、
話を武司(乃木の部下)に隠聴せしめ、罵て帰らしむ」とあります。
自分は決して前原一派に組みしない、という固い決意を部下に示さねばな
らなかったのです。
『効果的であったのか、合法的であったのか、は、結果が示していますよね』
結果オーライでは戦争が成り立ちません。また、効果的であったことは同意
しますが、合法的であったかどうかは結果からは全然判りませんよ。
501 :
日本@名無史さん:2001/04/09(月) 11:14
>例えば何も指示がなかった場合、それは動いてはいけないという命令に
>なりませんか?
なりません。目の前に敵がいて、こちらが攻撃可能な状態にあるならば
普通の指揮官なら攻撃すべきだと考え、実行するでしょう。攻撃を思いとどまる
のは特別な場合、上級司令部から何らかの理由で攻撃を禁止されているとき
などに限られます。
何も指示が出ていないという状況を、私はフリーハンドの攻撃命令と
とらえ、あなたは攻撃禁止命令ととらえたわけですよね。つまり命令を
出さないというだけでこれだけの混乱が生じるわけです。軍司令部は
隷下部隊にこのような困惑を抱かせるべきではありません。この点で
第三軍司令部はミスを犯しています。
>重砲隊の、あの時点で為すべきことが「(見えない)港湾部・市街地砲撃」
>であるわけがありません。「見敵必殺」の言は、それこそ攻撃中の前衛陣地に
>相当するのではありませんか?
あなたは第三軍の視点からそう考えた。私や海軍重砲隊は海軍の視点から
旅順港の敵艦こそ真っ先に破壊すべき目標と考えた。目標を指示しない
ことで、やはり混乱が生じました。いくらあなたや伊地知が「港湾部・
市街地砲撃であるわけがない」と考えても、現に海軍重砲隊はそっちが
重要と考えたわけです。当然ですよね。問わず語らずのうちに
察しろと言われても無理な話です。攻撃目標に重要度で順位をつけ、
隷下部隊にそれを知らしめ、必要なだけの兵力をそれぞれの目標に
割り振るのはその戦場を受け持つ上級司令部の責任であり義務ですが、
第三軍司令部はそれを怠ったわけです。これも大きなミスです。
あなたは図らずもご自分で第三軍司令部が果たすべき責任を怠った
ことを立証されたわけですよ。
>>『効果的であったのか、合法的であったのか、は、結果が示していますよね』
> 結果オーライでは戦争が成り立ちません。また、効果的であったことは同意
> しますが、合法的であったかどうかは結果からは全然判りませんよ。
結果オーライで成り立つこともあるのが戦争です。戦史をひもといてみれば
わかると思いますが・・・。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負け
なしとも言います。少なくとも勝ち戦では結果オーライがありえます。
で、合法的であったかも結果から十分にわかります。黒井中佐他海軍重砲隊は
何の叱責も処罰も受けておりません。これこそ合法的であったことの証明です。
502 :
嶽原:2001/04/09(月) 22:37
496で書きましたが、調べてみるとこの時期の重砲隊の確かなことは「延べ三日
に渡る砲撃を加え、艦船・市街地に被害を与えた」ということで、「第三軍によ
って砲撃を止められた」という資料が見あたりません。……もしや「(28糎
榴弾砲)送るに及ばず」と同じく創作なのだろうか、と思うようになってます。
以後は「第三軍によって砲撃が止められたのならば……」のハナシとさせて
下さい。
>目の前に敵がいて、こちらが攻撃可能な状態にあるならば
……攻囲網作成の段取りも何もなくなってしまいます。その時攻撃可能な
部隊は海軍重砲隊だけでなく沢山在ったでしょうに。休養、弾薬の備蓄……
などなど、これらも大切なお仕事です。
>海軍重砲隊は海軍の視点
重砲隊は、我は現在第三軍の指揮下に在るという自覚がなかったのでしょうか。
それは大きな問題です。
>黒井中佐他海軍重砲隊は何の叱責も処罰も受けておりません。
武勲を挙げれば不問に付す、というのであれば何とも残念なことです。
先に上げた疑問の出発点になりました。
503 :
嶽原:2001/04/10(火) 01:13
>あなたは図らずもご自分で第三軍司令部が果たすべき責任を怠ったことを
立証されたわけですよ。
海軍重砲隊について資料を得ることも出来ずに困っているというのに、
無茶言わないで下さい。悪しからず。
504 :
日本@名無史さん:2001/04/10(火) 01:14
>>502 君は乃木神社の関係者か?
いい加減、海軍砲兵隊に、いわれないケチ付けるのは止してもらいたい。
僕には、
>>493 >>501 が至極まともな意見に聞こえる。
最初は、司令部の後方設置問題につき、野戦司令部を軍団司令部と同一のように強弁し、
次に、正式の上級司令部の訓令を私怨による偽訓令と、おとしめる。
はては、第三軍の拙劣さは、海軍が急かせたからだと言い、
黒井部隊長は命令違反か、とまで言う。
君には、幾多の将兵の犠牲が見えないのか、あの壊滅的出血は「必要限度」と言うのか、
確かに、乃木に気の毒な面はある、しかし、そうであっても
彼の無能と、無責任、および帰国後の無反省さは、許されるものではない。
28榴弾砲への伊地知の対応については、
>>354の長岡外史録を無視し、創作だあ?
軍司令部位置については
>>365をはぐらかし、訓令について
>>430に答えず、
いま、主要な問題でない海軍重砲隊を、不確かな推論で、無自覚だの命令違反など、
言いたい放題。
君は、海軍の対旅順艦隊作戦を嗤う一方、第三軍の対旅順要塞戦を嗤わない。
これこそ「贔屓のひき倒し」の好例ではないか、じつに不可解だ。
505 :
嶽原(非乃木神社関係者):2001/04/10(火) 01:39
「長岡外史録」について
長岡の談話では、八月下旬、有坂部長が長岡次長に、陸軍省で二十八珊榴弾砲
を●旅順に送ることを提案●し、長岡が沿岸防御に器具をしめしたのにたいして
有坂がこれを保証したので山県参謀総長の承認をえたのち、●長岡が寺内陸相の
説得にかかり●、「内地の防備を薄弱にしようというのであるから、陸軍大臣も
最初の間は余程考えられたが、往復3、4回の後、遂に同意せられて先ず六門を
送ることを決定せられた」としている。
ところが実際は?
バルチック艦隊の東航にそなえ、大連湾、鎮海湾、対馬防衛用に計30門を
09月10日までに到着するよう大本営会議で決定、●08月05日に陸軍省が承認●
した。●鎮海湾送付用●の六門を緊急に第三軍用に転用し、さらにつづいて鎮海
湾向けの残りの六門を増加し、つづいて対馬向けの六門をも増加、結局第三軍に
18門が投入された、ということになっている。
長岡外史録を全て無視するわけではないですが、特にこの部分における彼の
談話は、●長岡が寺内陸相の説得にかかり●の部分を強調した、自己の功績を
誇るための誇張、創作だと考えます。
506 :
日本@名無史さん:2001/04/10(火) 01:54
無能ものでしょ?
乃木以外の人間には誹謗中傷の嵐だな。
自分に都合のいい資料を探すのはさぞ大変な事だろうよ。
508 :
嶽原:2001/04/10(火) 02:22
>>504 >司令部の後方設置問題につき、野戦司令部を軍団司令部と同一のように強弁し
(
>>341)『第三軍の軍司令部は柳樹房に位置していました。別に、戦闘司令
所は総攻撃のたびに前方に進め』と書きました。『同一のように強弁』 との部位
をご指摘願います。
>次に、正式の上級司令部の訓令を私怨による偽訓令と、おとしめる。
(
>>363 >>371 >>385 >>423)偽訓令などと、一言も書いていません。部位
をご指摘願います。
>はては、第三軍の拙劣さは、海軍が急かせたからだと言い
そう思っています。海軍の言が発端となり『第三軍に少しく無理押しを望は
実に已むを得ざるべし』と、満州軍総司令官に旅順攻略が求められたのですから。
>黒井部隊長は命令違反か、とまで言う
攻囲網作成の最終段階時期における市街地・港湾部砲撃を「第三軍に止められた」
という文章を見て、そう思いました。しかし現在、「第三軍に止められた」という
事実が有ったかどうか判らない状態です。
509 :
嶽原:2001/04/10(火) 02:39
>君は、海軍の対旅順艦隊作戦を嗤う
(
>>444 >>445)いったい何やってるんでしょうね海軍。この海軍の提案
と行動のいかなる部分が『実に的確に敵行動を予測し、適切な対応を要請し
ている(
>>443)』といわれるのか、いまだに皆目見当つきません。
510 :
嶽原:2001/04/10(火) 02:43
あ、だめだ限界……玄海……日本海海戦……
511 :
日本@名無史さん:2001/04/10(火) 10:42
>……攻囲網作成の段取りも何もなくなってしまいます。その時攻撃可能な
>部隊は海軍重砲隊だけでなく沢山在ったでしょうに。休養、弾薬の備蓄……
>などなど、これらも大切なお仕事です。
段取り(なるものがあったとして)を台無しにしたのは第三軍司令部
でしょうが。海軍重砲隊の投入について腹案があるなら「別命あるまで
攻撃待て」とひとこと言えばよかったし、言う責任もあったんですよ。
>重砲隊は、我は現在第三軍の指揮下に在るという自覚がなかったのでしょうか。
命令もなにも無しのつぶてでは自覚もへったくれもありませんね。
第三軍司令部は我を意図的に無視するつもりだ、と思ったでしょう。
旅順攻囲の目的は海軍も大本営も等しく「在旅順ロシア太平洋艦隊の
無力化」で一致していたはずです。あなたも過去に満州軍総司令部と
第三軍のみ認識が違っていたと発言されてますね。
>>415あたりで。
海軍重砲隊はまさか第三軍が間違った現状認識をしていると(旅順
攻略戦の初っ端から)考えたでしょうか? またそれが判明していたとして、
間違った方針にあくまで従って無駄弾を撃つべきだったでしょうか?
指揮を受けることと「盲従」は違いますよ。
>武勲を挙げれば不問に付す、というのであれば何とも残念なことです。
海軍重砲隊の行動については、何の不法行為もなかったから当然処罰も
なかった、ということでは?
512 :
日本@名無史さん:2001/04/10(火) 10:43
いいですか、ちょっとたとえ話をしましょう。
あなたは海原商事のバリバリの営業マンです。営業成績はトップです。
グループ会社の陸山商事の第三部があるプロジェクトで契約を取るのに
手間取り、能力のあるあなたが一時出向してプロジェクトを助けることに
なりました。このプロジェクトには海原商事、陸山商事双方の命運が
かかっています。失敗すれば両者とも倒産しかねません。
陸山商事第三部に赴任してみると、みんなどう考えても間違った方面に
接待攻勢をかけている。ヒラ社員やアルバイト社員を飲みに連れて
いってもしょうがありませんよね。
赴任していくら待っても第三部の乃木部長も伊地知副部長も
あなたに何も言いません。自分は海原商事および海原・陸山両社
トップの合意で送り込まれたせっかくの応援なのに、座ってお茶を
飲むしかやることがない。そうしている間にも接待費はうなぎのぼりで
浪費されている。
ところで、あなたは交渉相手の社長の携帯電話番号を知っている。
海原商事から自分用にと持たされた潤沢な交際費もある。電話を
かければ相手の社長を接待に連れ出し、契約を取る自信もある。
万が一失敗しても何のリスクもないことははっきりしている。
さて、あなたは社長に電話をかけますか。それとも、乃木部長や
伊地知副部長が何も言わないから、やはり何もせずに座ってお茶を
飲んでいますか。
あなたは電話をかけて社長を接待に連れ出し、見事契約がとれたと
しましょう。これは誇るべき「独断専行」ですか? それとも許しがたい
命令違反であり、あなたは責任をとって会社を辞めでもしますか?
513 :
嶽原:2001/04/10(火) 20:40
>511『旅順攻囲の目的は海軍も大本営も等しく「在旅順ロシア太平洋艦隊の
無力化」で一致していたはずです。あなたも過去に満州軍総司令部と第三軍
のみ認識が違っていたと発言されてますね。
>>415あたりで。 』
「満州軍総司令部」と「第三軍」を併記する前に、下記を再読願います。
>>415『満州軍の総意として旅順陥落が目的として決定されていることを
示しています。現地軍の総意として旅順攻囲の目的が旅順を陥落させる
ことにあったこと、また第三軍は現地軍の一部であることをご理解頂き
たいと思います。』
>512
キャスティングにミスが多いと思いますし、「電話をかければ……自信もある。
万一失敗しても何のリスクもない」という、ほぼあり得ない状況設定がなされ
ているようで台本も練れていないようです。このシュミレーションへの参加は
断ります。
514 :
嶽原:2001/04/10(火) 21:08
>>507『乃木以外の人間には誹謗中傷の嵐だな。
自分に都合のいい資料を探すのはさぞ大変な事だろうよ。』
タイミングから(「長岡外史録」について
>>505)に対するコメントと
思われますが、誹謗なる言は一言もないと思います。実際の経過と長岡
談話との相違は、誇張・創作としか表せません。
日露戦争に関する書物は限られていると思います。その意味では資料探し
は大変ですね。しかし長岡談話の当該部についてはかなり以前から度々指摘
されている結構有名なハナシで、全然大変ではありませんでした。
>>513 >満州軍の総意として旅順陥落が目的として決定されていることを
>示しています。
>>415のあなたの引用からは、満州軍総司令部が旅順陥落を
目的としていたこと、第三軍がそれに従うよう命令されたことは
読みとれても、「満州軍の総意」として旅順陥落が求められて
いたというあなたの主張の根拠は見出せませんでした。
そのため満州軍総司令部と第三軍司令部を併記したのですが?
「総意」であったと主張されるなら、改めてその根拠も提示
願います。
#満州軍総司令部の発言をもって満州軍の「総意」であると
みなせるのなら、大本営の発言をもって日本軍の総意であると
みなせるはずですよ? でも、あなたは大本営と満州軍総司令部を
別個のものと扱っておられる。ご自分でご自分の首を締めることも
ありますまい。
>「電話をかければ……自信もある。万一失敗しても何のリスクもない」
>という、ほぼあり得ない状況設定が
現実の旅順攻囲戦の「たとえ話」として、どこかおかしいところが
あるでしょうか? 現実に海軍重砲隊が旅順港を砲撃してなんらかの
不都合がありましたか? また、海軍重砲隊は実際に敵艦を
沈めた(このたとえでは「契約をとった」)ではないですか。
逃げるのはおやめなさい。
516 :
嶽原:2001/04/10(火) 23:37
>>515>あなたは大本営と満州軍総司令部を別個のものと扱っておられる。
国内のほぼ全ての兵力が海外に出てしまう状況ではいちいち東京の大本営
を経由して作戦調整などが出来なくなり、いわば戦地大本営を作らなくては
ならなくなった、という経緯で「満州軍総司令部」が編成されました。
こと現地の作戦に関わるものは「満州軍総司令部」に大きな力があり、国内の
「大本営」の仕事は後方兵站の件がほとんどでした。
満州軍総司令官・総参謀長には参謀総長だった大山大将・参謀次長だった児玉大将
が就いています。開戦当初の大本営がまるまる満州軍総司令部となり、国内の大本営
参謀本部には、作戦部長・情報部長は欠員のままで、後方兵站担当の第三部長だけ
だった、という時期もあったそうです。
そういうわけで、『大本営と満州軍総司令部を別個のものと扱』いました。
現地軍の行動については、東京大本営よりもむしろ満州軍総司令部の意向が
日本軍の総意であった、そういう状況だったのですが。
>#満州軍総司令部の発言をもって満州軍の「総意」であると
みなせるのなら、大本営の発言をもって日本軍の総意であると
みなせるはずですよ? でも、あなたは大本営と満州軍総司令部を
別個のものと扱っておられる。ご自分でご自分の首を締めることも
ありますまい。
この答えになりましたか。これら電報の類のものは数多くの文献に記録
されており、別に大変な思いをすることなく確認できるものです。
興味がおありでしたら最寄りの図書館へどうぞ。
説明はいいから、もう結論を述べてくれません?
貴方が上げている論拠からは絶対的な確証は全く得られませんし、
枝葉の解釈はうんざりです。
説明はいいから、もう結論を述べてくれません?
貴方が上げている論拠からは絶対的な確証は全く得られませんし、
枝葉の解釈はうんざりです。
?
520 :
酔剣:2001/04/11(水) 02:45
嶽原殿、お久しぶりです。相変わらず、孤軍奮闘ごくろうさんですね(笑。
>509は、私に「出てこい!」とのお誘いでしょうか。
今、業界再編成の渦中にありまして、あまりレスする余裕がありません。
>>443の「的確に敵行動を予測し、適切な対応を要請しているだけじゃないの」
海軍は、
露軍太平洋艦隊の戦闘力を無力化すること、これを不可欠の絶対命題と捉え、
ウラジオ艦隊を殲滅し、貴殿指摘の、旅順艦隊への数次の海戦をしかけました。
これらは、日本海の制海権を確保して、
1)朝鮮半島との連絡線を確保し、遠征軍への補給を維持する。
2)日本国の海外交易を妨害させない。
というのが目的で、これらが担保されないと、戦争そのものが破綻する訳です。
むろん、露軍もこの情況を熟知しており、バルチック艦隊の回航が明確になると、
挟撃戦力を温存し、あわせて日本艦隊を拘束・牽制するため『艦隊の籠城!』を
旅順湾で行いだしたのです。
当然帝国海軍は、この事態を予測しており、戦前検討していた旅順湾閉塞作戦
(最終的には、秋山先任参謀は反対したらしい)を決行した。
しかし、旅順水道の完全閉塞は難しく、背面陸上より攻砲撃するしかないと、
判断して、陸軍の応援を要請した。・・・これのどこがおかしい?
おまけに、海軍陸戦砲兵隊の貸与と、知り得た敵要塞の弱点の情報提供をした。
(結果的に正論だった)・・・これら海軍の行為は適切な行動だと思うが・・・
海軍砲兵隊の湾内砲撃によって、危険を覚えた、旅順艦隊はウラジオへ移動を
はかり、日本艦隊との「黄海海戦」になった。黄海海戦の結果、旅順艦隊は
半分になり(沈没ではなく、サイゴン・上海・膠州湾に遁走して武装解除された)
露軍『艦隊の籠城』作戦は破綻した。大殊勲だと思う。
・・・どこが悪いのだろう、貴殿の感覚が理解できん・・・
>490
貴殿の指摘が正しいようだ、
二次大戦時の呉海兵団や横須賀兵団(猿島)等と混同していた。訂正する。
>>516 誰でも知っているようなことを長々と書いていただいて申し訳ないんですが、
>現地軍の行動については、東京大本営よりもむしろ満州軍総司令部の意向が
>日本軍の総意であった、そういう状況だったのですが。
あなたのこの結論が大間違いだと申し上げているのです。あなたの陸軍あって
国家なし的視点が如実に表れた発言ですね。
満州軍総司令部は現地「陸軍」の野戦軍に対する指揮権は持っていても、
海軍に対する指揮権は持っていませんでした。これも誰でも知っている
ことですよね?
海軍と陸軍の意見の調整をとり、日本軍全体の統一指揮をとるのが
大本営です。大本営は陸軍・海軍の上位にあり、当然満州軍総司令部も
大本営の指揮下にありました。
それを無視して、満州軍総司令部の意向をもって日本軍の総意とするのは
間違いでしょう、と申し上げているのですが。議論を有利に誘導するため
故意に誤ったことを言っておられるのですか?
あらためてうかがいます。日本帝国が第三軍を編制して旅順を攻囲させた目的は、
単に一個の旅順要塞を陥落させるという戦術的なものでしたか? それとも、
旅順にあったロシア太平洋艦隊を無力化して満州の野戦軍への補給を
障害なからしめるという戦略的なものでしたか?
海軍重砲隊が旅順港を砲撃し、ロシア艦を撃沈したのは第三軍の命令に
違反した行為だったという根拠がありますか? また、日本帝国の戦争遂行に
害をもたらしましたか?それとも戦争遂行を助けましたか?
最後に、上級司令部が間違った方針を持っているとき、唯々諾々とそれに
従うのは軍人として正しいと思われますか?
今度は質問から逃げずに答えてくださいますよね。
どうも、日露戦争における日本帝国の戦争指導について偏った、あるいは
誤った認識をお持ちのように見受けられます。電報のやりとりから乃木と
伊地知を弁護する資料を見つけ出そうとなさるのもよろしいですが、
入門書でもお読みになって一から勉強しなおされてはいかがですか?
522 :
嶽原:2001/04/12(木) 08:54
満州軍総司令部が、急増臨時の大本営補助機関であることはもちろんです。
問題なのは、第三軍がその一部であるということです。第三軍の上級司令部
の方針に第三軍は従っているわけですよ。
東郷司令長官の要望を受けて東京大本営が「旅順の早期攻略」を決定し、
その決定を総司令部に伝えた、という状況を確認して下さい。
>日本帝国が第三軍を編制して旅順を攻囲させた目的は、単に一個の旅順
要塞を陥落させるという戦術的なものでしたか? それとも、旅順にあった
ロシア太平洋艦隊を無力化して満州の野戦軍への補給を障害なからしめると
いう戦略的なものでしたか?
第三軍は上記のようにあくまで「攻略」を、しかも「早期」という要望と
ともに任務とされたのです。現地軍の一部として。
>海軍重砲隊が旅順港を砲撃し、ロシア艦を撃沈したのは第三軍の命令
に違反した行為だったという根拠がありますか? また、日本帝国の戦争
遂行に害をもたらしましたか?それとも戦争遂行を助けましたか?
旅順戦における重砲隊の活躍は素晴らしいものであることは(
>>458)で
認めております。その後(
>>482 >>496)で「第三軍に砲撃を止められた」
という伝聞の根拠がないことに気づいたということも述べております。
>最後に、上級司令部が間違った方針を持っているとき、唯々諾々と
それに従うのは軍人として正しいと思われますか?
この場合、海軍砲兵隊と第三軍との関係を指摘されているわけですが、
さきの伝聞が事実としたら、第三軍が砲兵隊を統率するのは当然のことだ
と思っています。
>どうも、日露戦争における日本帝国の戦争指導について偏った、あるいは
誤った認識をお持ちのように見受けられます。電報のやりとりから乃木と
伊地知を弁護する資料を見つけ出そうとなさるのもよろしいですが、入門書
でもお読みになって一から勉強しなおされてはいかがですか?
入門書ですか……そんな便利なものがあるとは知りませんでした。電報のみ
限定するわけではなく、当時の状況を把握できるものは等しく貴重な資料で
あると考えています。
523 :
名無史さん:2001/04/12(木) 10:12
友達の○乃ちゃんは電話で名前を聞かれたときに「乃木将軍の乃です」と
言って通じる人と「・・は?」という人はっきりわかれているって言って
たなあ。さりげなくその人の教養度がわかるのね。
524 :
504:2001/04/12(木) 13:27
>522
旅順要塞攻撃の作戦目的の無理解については、海軍・大本営の助言にかかわらず、
「満州軍司令部」の攻略命令を墨守した(中盤以降は児玉も203高地を指向したが)
だけと言い、そのくせに、
大山司令官からの正式の叱責「訓令」に、不自然だとか、酷いとか、はては
個人的私怨から出たものかとの疑念まで、言いたい放題の司令部無視。
君は、現地軍擁護のため、都合の良い「使い分け(二重規範)」をしているだけ。
525 :
嶽原:2001/04/12(木) 20:49
>504
>司令部の後方設置問題につき、野戦司令部を軍団司令部と同一のように強弁し
(
>>341)『第三軍の軍司令部は柳樹房に位置していました。別に、戦闘司令
所は総攻撃のたびに前方に進め』と書きました。『同一のように強弁』 との部位
をご指摘願います。
>次に、正式の上級司令部の訓令を私怨による偽訓令と、おとしめる。
(
>>363 >>371 >>385 >>423)偽訓令などと、一言も書いていません。部位
をご指摘願います。
アンタさ、せっかくちゃんと応えてくれている人に対して礼を失していると
本気で思っていないのか?
言葉遊びがしたいのなら他の話題でやれ。過去の事とはいえ、人が大勢
死傷した戦争なんだぞ?
官僚答弁みたいなクスレスはいい加減やめれ。
527 :
嶽原:2001/04/12(木) 22:24
>>512 海原商事:海軍、営業マン:海軍重砲隊、陸山商事:陸軍、第三部:第三軍
08月09日現在まで、確実な観測点が得られていない状況下、山越え遠距離
砲撃の効果は期待できません。重砲隊をトップ営業マンと擬する理由を述べて
下さい。
ヒラ社員、アルバイト社員:?東北方面各堡塁?
相手社長の携帯電話番号:?203高地?203高地の奪取?
自分用の交際費:?人員・砲弾薬?
契約成立:?港湾内への砲撃?観測点の確保?旅順艦隊の撃滅?
三・四段落目のキャスティングがサッパリ判りません。なんのための
「たとえ話」なのやら……。
>>526 504氏が『同一と強弁』また『偽訓令とおとしめる』とされた部位の指摘も
ないままでしたので、応えて失礼させて頂きました。
528 :
嶽原:2001/04/13(金) 01:14
>>512シュミレーションの状況設定に異議があります。
>グループ会社の陸山商事の第三部があるプロジェクトで契約を取るのに
手間取り、能力のあるあなたが一時出向してプロジェクトを助けることに
なりました。このプロジェクトには海原商事、陸山商事双方の命運が
かかっています。失敗すれば両者とも倒産しかねません。
実際の状況に照らせば、この方がより実状に合っているでしょう。
グループ会社一丸で、某プロジェクトの契約を取ることになっていたの
ですが、最初に海原商事単独で契約を結ぶことを試みたところ、失敗し
てしまいました。ライバルの気付かぬ内に事を運ぼうとしたのですが、
前提条件が叶わなかったからです。秘密裏に事を運ぼうとしたため、
グループ会社であるというのに陸山商事には詳細説明すらしていません
でした。陸山商事は、海原商事の劣勢回復の手並みを見守っていました
が、いよいよ単独解決が難しくなり、会長を含めた会議の結果、グル
ープ共同で事にあたることになりました。
陸山商事の第三部が事にあたることになりましたが、その際に、
海原商事からの応援ということで某営業マンが第三部に出向すること
が決まりました。第三部はこれを一旦断りましたが、条件付きで受け
ました。
全然印象が異なります。冒頭からこのような状況設定ならば、この
シュミレーションには参加できません。
529 :
504:2001/04/13(金) 02:16
>>508(525) 嶽原殿、
貴殿のご意向、あい分かった。
寸止め批判程度でよかろうかと、愚考した自分が不明であった。
「司令部の後方設置問題につき、野戦司令部を軍団司令部と同一のように強弁」
まず、
>>341で高崎山、
>>348で団子山の戦闘司令所設営位置を例に挙げ、
>ほとんど至近距離とも思える距離ですが、妥当な位置はどのあたりと
>言われるのでしょうか。
>直線距離はおよそ3.0kmという場所です。司令所を遠くにおいた卑怯者、
>という誹謗の根拠はあるのですか?
と反論されているが、
この反論は『高等司令部及予備隊の位置遠きに過ぎ』に対してのものであり、
『各高等司令部親しく適当な位置に進み、必ず自ら地形と時期とを観察し』の
指示に対するものでしょう。
軍司令部が後方すぎるとの批判に対し、戦闘司令所の位置が、いかに前線に近いか
を力説され(野戦司令部が前線近くにあるのは当たり前)、それでもって、
第三軍司令部が後方ではない、と強く主張されるのは、
1)軍司令部と野戦司令部の区別が、君自身ついていない。
2)その区別は知っているが、あえて混同しやすいように誘導した。
この2点しか考えられない。
1)2)どちらの場合も、「野戦司令部を軍団司令部と同一のように強弁」
と、言えるのではないか。
また、その後の貴殿のレスでは「軍司令部位置については
>>365をはぐらかし」
と言えるのではないか。
訓令問題も言及していいのだが、話が拡がる、今回はこの件のみ回答。
貴殿の感想や如何?
530 :
日本@名無史さん :2001/04/13(金) 03:49
526のようなキチガイは無視でお願いします。
>529
お気持ちは分かるが「寸止め批判程度」でよろしいかと思われる。
ゆっくり、まったりと行くのが2chらしくて・・・と、雑言失礼。
532 :
日本@名無史さん:2001/04/14(土) 00:15
乃木に思い入れがある、つーても、ちょっと海軍を悪く言いすぎたね、
ふつう、海軍好きは大人しいものだが、挑発しすぎ。
533 :
嶽原:2001/04/14(土) 02:12
>>529 まず第三軍司令部の件について。
365で言われているように、『軍団司令部とは……兵站処理や通信管理
など、予備部隊の把握、……膨大な雑務がある』というのに、そのような
中枢組織が敵堡塁から直線距離7.2kmに位置していてまだ遠いと?
どのくらいが適正距離といわれるのでしょうか。どのくらい近寄れと?
次に戦闘司令所(いわば野戦司令部、師団司令部クラス)について。
訓令で指摘されているのは「203攻撃時の高等司令部・予備隊」の位置です。
旧軍において高等司令部とは、通常旅団司令部以上を指します。訓令の第三
において「各高等司令部」とあるのも、旅団長、また師団長在地の司令部を
さすものでしょう。しかしながら、これらもまた攻囲期間ほぼ一貫して
敵側堡塁から約3.0kmほどの距離にあったと述べているのです。
『軍司令部が後方すぎるとの批判に対し、戦闘司令所の位置が、いかに前線に
近いかを力説され、……それでもって、第三軍司令部が後方ではない、と強く
主張』していると解釈されたようですが、
訓令の戦闘司令所の位置批判に対し、203戦当時の戦闘司令所の距離を
述べ、それがその時期だけでなく、ほぼ一貫してその程度の距離に置かれ
ていたことを述べているのです。
訓令が「軍司令部」の位置を批判しているように思えて、私としては確かに
不満に思っておりますが、これは文章そのまま「戦闘司令所」の位置を批判
していると見るのが妥当と思われます。貴方はこの点を混同されているの
ではないでしょうか。
534 :
嶽原:2001/04/14(土) 02:32
>532私が海軍を悪く言いすぎていると言われるのですか?私はどちらかと
いうと陸軍より海軍が好きですよ。でも、だからって
「陸軍の乃木のことなら、いいやどうでも」とは思えなかったです。
挑発しすぎ、と言われても、旅順に対する段取りの悪さは明らかですよ。
確かに、重砲隊については資料を調べずに伝聞を事実と仮定したハナシを
書いてしまったことは後悔しております。
535 :
嶽原:2001/04/14(土) 03:18
>>520酔剣さん、遅れながらこんばんは。
今、なんだか孤立(奮闘とは言えない……)の最中で、今までレスできませんでした。
>露軍太平洋艦隊の戦闘力を無力化することを不可欠の絶対命題と捉え、
ウラジオ艦隊を殲滅し、旅順艦隊への数次の海戦をしかけました。
この順なら海軍の敵行動予測、状況把握も問題ないと思いますが、実際はこうですよね。
08月10日の旅順艦隊出港(脱出)の報に呼応してウラジオ艦隊が対馬海峡へ。
黄海海戦終了後の14日、蔚山沖海戦でウラジオ艦隊はようやく撃破される。
計画では、旅順奇襲により旅順艦隊を処理したのちにウラジオ艦隊を、という
段取りだったのでしょう。つまり、開戦冒頭の旅順奇襲で旅順艦隊を撃滅できる、
できなくても閉塞作業が成功すると思っていたフシがあります。そもそも、
閉塞作業自体が、砲台の準備不完全な状態で奇襲的に行われるという前提で、
その前提は既に崩れていたのに、です。
相手が自分の思うとおりに動くと思っていたのでしょうか?奇襲後に相手が
艦隊保全策を採る可能性をいかほど考えていたのでしょうか。
>……背面陸上より攻砲撃するしかないと、判断して、陸軍の応援を要請した。
・・・これのどこがおかしい?
これは全然おかしくないですよ。「適切な対応を要請しているだけ」だと思います。
でも、その前、444、445の辺りの提案と行動は……「的確に敵行動を予測し」ている
とはとても思えないのです。
536 :
504:2001/04/14(土) 06:00
私の
>>529に対する返答が、この
>>533なのか??
実に、牽強付会の見本みたいな文だね(笑)。 驚いてしまったよ(笑)。
貴殿のお説によると、満州軍司令部の例の『12月1日の訓令』でいう、
「高等司令部」は「師団・旅団司令部を指している」と言うのか?
あの訓令は、師団司令部をもっと前に出せ、っていう意味だったのか?
なんとも大胆な、論理基盤の変更だこと(絶句・・)
今まで、貴殿はあの訓令について、
「酷い」「不自然だ」と憤り、また「井口参謀の独断ではないか」と疑い、
あるいは「逆に軍首脳は絶対に砲弾の届かない後方にいた、という話の根拠、
どなたかご存じか。」と大見得を切っていたのは・・・何だったの?
師団・旅団司令部設営位置の話題だったのか、
訓令で言う「予備隊」とは、師団予備(せいぜいが大隊規模)の意味か!
児玉が来て、真っ先に、軍司令部を「柳樹房」から「水師営」に移動させたのは、
訓令と無関係で(訓令は師団司令部の問題なんだろ?)、単なる偶然か?
貴殿の説のように、あの訓令の「高等司令部」が前線司令部のことを言っている
のだとしたら、たしかに「不自然な訓令だろうネ」意味がない。
満州軍総司令部は無意味なボンクラ集団だということになる(爆笑)。
>>365は、やんわりと、軍司令部と前線の戦闘司令部との、不正確な混用を
たしなめたものだろう。
あの訓令の「高等司令部」とは、第三軍司令部を指している、というのが、
今までのスレ前提でしょう。話の途中で前提を書き換えるのは遺憾ねえ
537 :
日本@名無史さん:2001/04/14(土) 15:23
海軍の意向が、旅順攻略戦に色濃く反映されているのは、作戦目的からして、
当然のことだ、大本営は完全に理解している。
また、旅順攻略を命令された『陸軍部隊』が、要塞攻略自体を作戦目標として
解釈し、その為には、へんぴな高地より、主陣地攻略を目指すのも、あながち
理解不能の考え方では無い。
天皇の寵臣・乃木司令官は日清戦争の旅順攻略に参加しているし、伊地知参謀は、
大山の姻戚でエリートと目されている、功名心にはやるのも分からぬものではない。
しかし、実働4日間の(第一回)総攻撃で、将校全員戦死の連隊がでるなど、軍団
突進兵力が全滅してしまう(軍旗以外、連隊が完全消滅なんて信じられない)。
誰が、どう弁護したとしても、乃木・伊地知コンビの失敗だろう。
普通、それなりの偵察行動をし、攻撃時に適時の状況判断を行えば、こんな事態が
起こるはずがない。
さらに問題なのは、ほとんど反省もせず、同じ総攻撃パターンを何度も繰り返し、
膨大な出血を強いた事だ。無能というより無責任と言える。
第一回はともかくも、第二回総攻撃以降は、203高地攻略を推す「海軍提言」を
考慮する必要はあっただろう。
大国ロシアを相手に兵力は不足しており、ただでさえ貴重な現役兵をすりつぶす、
これは不忠の極みだ。また将兵も、国に帰れば父親であり、夫であり、息子である、
たいした戦法改善もなさず、最も強固な正面堡塁に突撃させる指示ばかりじゃ、
冷血無能と罵られても不思議ではあるまい。
(28榴と塹壕戦工兵隊の活躍がなかったら・・児玉の指示がなかったら・・)
帰国後、栄爵を受け、栄職を歴任し、(自分の放蕩時代を忘れ)説教をたれる。
まさに『一将功成りて、万骨枯れる』の図。
桑原嶽信奉者殿、海軍を批判する前に、乃木の行跡を再検討されたら如何?
538 :
嶽原:2001/04/15(日) 00:51
貴方はこの訓令を『「高等司令部」が前線司令部のことを言っているのだと
したら、たしかに「不自然な訓令だろうネ」意味がない。』と言われますが、
203攻略戦の最中の訓令ですよ。『……兵站処理や通信管理など、予備部隊
の把握、……膨大な雑務が』ある軍司令部の位置をナンタラ言ってどうする
んですか。
激戦中の訓令が、前線に出ている戦闘司令所のことを言っているとは考えも
しなかったのですか?一体どんな先入観を持たれていたのでしょう。
539 :
504:2001/04/15(日) 03:16
>538
>203攻略戦の最中の訓令ですよ。軍司令部の位置をナンタラ言ってどうするんですか。
総攻撃中の軍司令部に、司令部の位置まで指示しなくてはならなかったところに
第三軍の悲劇がある。
この訓令と同時に乗り込んできた児玉総参謀長が、乃木から指揮権を自分に委譲させて、
最初に命令したことは【水師営への軍司令部の移転】だった・・・・・・
砲陣地・砲兵隊の移動、射撃目標の変更、予備兵力等の編成・配置換えを指示する前に、
『軍司令部の位置をナンタラ言って』柳樹房から尻をけっ飛ばして前進させたわけだ(笑。
ここに第三軍司令部のダラシナサがある、隷下将兵が気の毒だ。
君の資料には、水師営に軍司令部が進出したのは、いつだと書いてありますか?
乃木擁護のためには、資料をあさり細かい異説まで見つけるが、乃木無能の資料は
読もうとしないようですね(嗤)。
満州軍が各軍の“前線”下級司令部の設営位置に干渉した事例は見たことがないが、
第三軍の軍司令部位置にいらだっていた話はよく見る。
乃木擁護のためとはいえ、先入観を持って戦史を見ないことだよ。
540 :
504:2001/04/15(日) 03:47
ついでに言うと、隷下部隊が戦闘中に、司令部が移動することはよくある。
前線が急速に前進すれば司令部もついて行かなくてはならないからね。
二次大戦でのマレー半島がその好例だ、戦闘中の司令部移転は困難ではあるが、
不可能ではない、そのための司令部要員であり、移動訓練もしている。
>>365は「軍司令部に、いちいち前線司令所へ出張できるほどの身軽さはない」
との意味だろう。行ったり来たりはできない、それは当たり前。
541 :
:2001/04/15(日) 04:06
日本の 乃木さんが 凱旋す すずめ めじろ ロシヤ 野蛮国 黒畑
剣の玉 負けてたまるかチャンチャン坊 棒でたたくは犬殺し
シベリヤ鉄道ないけれど 土人の口から吹き出せば バルチック艦隊全滅し
島津の殿様十文字 字を書く鉛筆折れちゃった 店子の先輩会う時に
二階から飛び降りようか 鍛冶屋のおっさん熱かろ暑かろに
542 :
嶽原:2001/04/15(日) 13:14
『ついでながら……』と言われているのですから、540はいわば蛇足
に類するものでしょうが……。
マレー半島の状況を好例として示されるとは、追撃戦・電撃戦の類と
攻囲戦とで、状況のいかなる処に共通点を見い出されたのでしょうか。
先のシュミレーションもそうですが、当時の状況を把握し、それに
相応した類似例と照し合わせる、という点が第三軍批判には欠けている
と思います。
『鍛冶屋のおっさん熱かろ暑かろに 日本の 乃木さんが ……』
しりとりの歌(?)なんですね。全体を初めて知りました。
>542
蛇足ではなく、補足と理解していただきたかったが、どちらでもよろしい。
539が主文なのだからね(失笑)。
貴殿の挑発がきっかけだが、やや鋭角的なレスを連発したかなと、
これでも一応は反省しているんだよ(笑)。
>当時の状況を把握し、それに相応した類似例と照し合わせる、
>という点が第三軍批判には欠けている
当時の状況を把握し、それに相応した類似例と照合する、のは賛成する。
ただ、貴殿の方こそ、乃木かわいさのあまりだと思うが、そうとうに、
我田引水、一般常識を逸脱した発想が多くはないかい?
(軍事常識の問題はさておいて、という意味だが・・)
545 :
嶽原:2001/04/17(火) 03:52
504氏へ。一日空きましたが、よろしければ今後ともよろしく。
「訓令」で指摘されている「高等司令部」とは何を指すと思われますか。
私は、第一に第三回総攻撃(203攻略戦闘)中のものであること、第二に
三項目において『各』高等司令部と示されていることから、いわゆる師団・
旅団クラスの司令部のことと捉えました。
それでいて、これを第三軍司令部位置批判の根拠とするのならば、「余りに
酷い(
>>341)」と思ったのですが。
>>537 桑原氏の著書は、資料として購入したものの一読して内容が一般周知の事柄
から離れすぎていることに当惑し、それから半年くらいは見向きもしませんで
した。しかし、貴重な資料であることに変わりはないと思います。私の言は
桑原氏の著書からの抜き書きが多いので、それでいて著書を素知らぬフリをする
のも嫌らしいと思い、匂わせるHNを即製したまでですよ。
あと、信奉者は自分のHNを信奉対象名の逆読みから即製しないとも思います。
546 :
嶽原:2001/04/19(木) 02:45
>>539>この訓令と同時に乗り込んできた児玉総参謀長が、乃木から指揮権を
自分に委譲させて、最初に命令したことは【水師営への軍司令部の移転】だった
上記の539主要部については、大別して三点の異議があります。
1・訓令内容と軍司令部移動の関係
11月27日・夜より203高地への攻撃開始
11月29日・新規兵力の第七師団が投入 同日夜、児玉総参謀長は煙台出発
11月30日・同日夜203高地山頂を占拠(児玉移動中)
12月01日・早朝に露軍に奪回(児玉移動中)
203攻撃開始…児玉出発…一旦占領…露軍奪回、その後に来た訓令の内容が、軍
司令部の水師営移動と関係あるものと見るのは、少し厳しい状況ではありませんか?
貴方は『偶然か?』と言われますが、私は、児玉は到着時に203が陥落していても
軍司令部前進を求めたと思いますから、偶然といわずとも関係は無いと思います。
2・指揮権委譲の根拠
「第三軍の指揮権委譲に関する書簡」というものが云われていますが、児玉に
随行した参謀は「児玉大将、書簡持参」を知っていただけらしいので、当事者の
大山・児玉二名以外には誰一人として見た者のない書簡です。その内容、例えば
「どのような状況において指揮権を委譲する」とかいう事柄が全く判らないもの
を、児玉大将が到着後直ちに指揮権を委譲されたとする根拠として用いるのは
如何なものでしょうか。
軍司令官が親補職であることを考えると、軍司令官死亡時に形式(第三軍先任
順序)によらず児玉大将が職務代行することを大山司令官が認証するための書簡
という可能性もあるのです。
3・水師営への軍司令部移動の効果
主防御線内からの敵側積極反攻という、一応予想可能な危険に見合う効果として、
どのような事柄が挙げられるのでしょうか。実効のないものだとしたら、パフォー
マンスは大切なこととは思いますが、それに過ぎないとも思います。
547 :
嶽原:2001/04/21(土) 20:19
「日清戦争当時、旅順攻略関与」の件
乃木少将は明治25年12月08日歩兵第一旅団長に就任。歩兵第一旅団は第一師団
に属し、歩兵第一連隊(東京赤坂)と歩兵第十五連隊(高崎)から成ります。
明治27年08月20日、第一師団に動員令。09月04日師走準備完了、大陸へ移動。
11月03日第一師団は金州へ向けて出発、11月06日金州城を占領。11月21日旅順
要塞を占領。この際に占領後四日間に住民虐殺が行われたといわれています。
さて、第一師団所属の乃木旅団は何をしていたか……。金州城を占領したあと、
第一旅団は金州城の警備部隊と旅順攻略部隊に分散されます。第一旅団第一連隊・
第十五連隊第三大隊が予備隊として旅順攻略に参加、十五連隊主力は金州城の警備
にあたりました。旅順攻略戦の最中、金州城が清国軍の攻撃を受けたため、11月
21日第一連隊第二大隊は金州城へ反転、22日朝に乃木旅団長は第十五連隊第三大隊
の一部を率いて旅順より金州に向かっています。……旅順攻略においてほとんど
戦闘らしい戦闘はしなかったようです。
「乃木は日清戦争時に旅順攻略に参加していた」との指摘の実態は、あくまで
「参加」程度、「旅順を一日で攻略した経験者……」とかという紹介は事実を伝
えないものです。また虐殺問題については、虐殺が行われたとされる時期、部隊
を率いて金州城救援のため反転中でした。
蛇足:旅団司令部には参謀はおらず幕僚二名がつくのみで、旅団命令は旅団長
自ら発令するそうで。旅順戦後、乃木旅団は蓋平・太平山の戦闘において少数
兵力をもって敵攻勢に対し長期持久任務を完遂し、その戦功は高く評価されて
います。乃木には軍事学の素養が乏しかったという風説を否定する一例として
付記します。
548 :
嶽原:2001/04/22(日) 18:40
東北方面主攻案の採用
第三軍が旅順へ向けて遼東半島を西進攻略中、陸海高級幕僚会議が開かれる。
旅順港閉塞作戦中の連合艦隊司令長官からの意見具申が、この会議によって
承認され、満州軍司令官に対して旅順攻略が求められた。
07月12日「刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望は実に已むを得ざるべし」
07月18日大連にて満州軍児玉総参謀長と第三軍伊地知参謀長との会談、旅順攻略
の方針が決定される。
07月23日には第九師団が大連に到着、前線へ配置された。
第三軍に、総攻撃開始繰り上げを求める大本営電報や、「08月10日頃までに攻略
するように」という海軍軍令部長、並びに連合艦隊司令長官からの要請電報が届く。
第三軍はこれらを受け要塞に対する攻囲線に進出した。
07月27日から主防御戦前衛陣地への攻撃が開始される。
07月28日まで営城子、西小磨子、双台溝、鞍子嶺、大白山、長嶺子などを占領
08月06日露軍前衛陣地大狐山・小狐山の攻撃が始まる。
08月07〜09日海軍重砲隊が市街・港湾部に向けて砲撃を開始。
08月09日大狐山・小狐山を占領。旅順攻囲網がほぼ完成し、旅順の本要塞への
直接攻撃が可能となる。攻城砲兵・弾薬を展開させ総攻撃の準備を整え始める。
08月11日総攻撃の準備が整う。
08月16日ステッセル中将宛に投降勧告書を送る。
08月17日露軍側の拒否回答により全軍に総攻撃開始命令。
08月09日の大狐山・小狐山占領の後、使用不能になっていた鳳凰山周辺の鉄道
路線等に軽便鉄道を敷設し攻城資材の輸送が行われた。これらも含めて攻城準備
作業は人力土木作業である。前衛陣地を駆逐していた東北方面主攻案の攻城準備
作業でも、これだけ日数が掛かっている。
西方面主攻案が実際に採用されていたら、水師営も含めた前衛陣地の攻略も
済んでいない状況で、どれだけの日数が掛かっていたのだろうか。ただでさえ
西方面は、砲兵の展開が地積狭小のため困難であった。西方面への攻撃は、
「旅順早期攻略」という観点からも、また実際問題としても出来なかった。
549 :
嶽原:2001/04/22(日) 23:11
東北方案と西方案の比較
旅順要塞攻撃案は、東北方・西方の二案が考えられていた。大本営長岡参謀次長と
満州軍井口参謀は西方案を第三軍に提案。海軍は旅順港周辺を行動中に旅順港湾を見
下ろせると思われる西方高地(203高地)の存在に気づいており、西方案を支持して
いた。第三軍伊地知参謀は東北方案を選択した。
東北方案は、敵の最も堅固な正面と思われる場所を攻撃することになり、当方の
損害大となる可能性が大きい。それに引き替えての利点は以下のとおり。
1・当方砲兵の展開が容易で火力の集中が可能
2・後方連絡線が安全で補給容易
3・要塞要点(望台)の直接攻撃が可能
西方案はこの裏返しで、敵陣地設備薄弱と思われる箇所を攻撃することが出来、当方
の損害が少なくて済む可能性が大きい。それに引き替えての欠点は以下のとおり。
1・当方砲兵の展開が地積狭小のため困難
2・後方連絡線が敵積極攻勢の際危険に曝される恐れ有、また補給困難が予想される
3・防御線突破後も要塞内部の抵抗拠点が多い
第三軍は、北方戦線に対して後方の憂いとなる旅順要塞の迅速な攻略を求められて
いた。要塞は強度不明ながらも永久陣地であることは判明していたので、攻略法に
「強襲法(数日間砲兵火力で陣地を破壊、その後歩兵部隊が突撃して奪取する戦法)」
を採用した。
西方案の利点は奇襲の利点に通じるものがあるが、西方面の設備薄弱なのは当方面が
攻めるに難く守るに易いためであり、これを以て要塞欠点とは言えない。全周に堡塁・
砲台を備えた要塞に対してその利点が有効なのは初戦のみであり、結局はやがて正面
攻撃になる。その状況での本案の利点・欠点を再判断すると採用は難しい。
第三軍は砲兵火力の使用を重視したことから東北方案を選択し、攻城砲兵・弾薬を
展開させ総攻撃の準備を整えた。そして強襲法による第一回総攻撃が始まる。
550 :
嶽原:2001/04/25(水) 02:48
旅順要塞司令官が降伏するまで155日間、おおまかにわけて五回の大規模攻撃が
行われています。各攻撃毎に動員数、死傷者数を区分すると以下の通りです。
第一回:08月19日 〜24日 (06日間 )動員50765名、死傷者15860名(戦死??)
第○回:09月20日?〜24日?(05日間?)動員26400名、死傷者04849名(戦死??)
第二回:10月26日 〜31日 (07日間 )動員44000名、死傷者03830名(戦死1092)
第三回:11月26日 〜06日 (11日間 )動員64000名、死傷者16935名(戦死5052)
第●回:12月18日?〜01日 (15日間?)動員44000名、死傷者03800名(戦死0782)
死傷者は合計59304名(戦死15390名)、そして各攻撃毎のスタイルと成果は
主要なもので以下の通りです。
第一回:(強襲法:砲撃・突撃)盤龍山東・西堡塁(助攻方面:大頂子山、青石根山)
第○回:(西方前衛陣地の攻略)龍眼北方堡塁、水師営南方堡塁、南山坡山堡塁
第二回:(正攻法:坑道・突撃)盤竜山北堡塁、盤龍山東堡塁東南の独立堡(一戸堡塁)
第三回:( ? : ? )203高地
第●回:(正攻法:坑道・爆破)二龍山堡塁、松樹山堡塁、東鶏冠山北堡塁、望台
決して「真正面突撃を繰り返し」てはいません。第一回総攻撃は要塞の実状を
知らず力押しで大被害を被っていますが、正攻法を採用した第二回総攻撃では、
露軍の人的被害の方が多いという点でも効果的な要塞攻撃を行っているといえます。
第三回総攻撃では、それまでの攻城坑道準備をご破算にして急遽230高地へ
主攻方面を変更したことも、大被害を生じた原因と思います。
そして203高地攻略後の第●回攻撃では、僅かな人的被害で永久堡塁を続けざまに
攻略しています。それまでの砲撃成果や露軍の疲弊、予備隊の枯渇などの条件を無視
する気がする暴論ですが、初めから「旅順の敵は逃げやせぬ」で坑道戦をやってい
れば、少なくとも人的被害は激減していたと思います。
551 :
嶽原:2001/04/25(水) 03:10
「急ぐなよ 旅順の敵は逃げやせぬ よく食って寝て 起きて戦え」を
初めからやっていれば、少なくとも人的被害は激減していたと思います。
また、28糎榴弾砲は元々対馬・鎮海湾防備の為に08月上旬には要塞から
の撤去命令が出されているので、遅かれ早かれ旅順に振り向けられたで
しょう。空から重砲弾の雨、地底から爆薬の吹き上げ……という要塞攻城の
王道が展開された可能性はかなり高いと思います。
552 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 05:17
あげ
553 :
嶽原:2001/04/26(木) 13:50
旅順においては要塞自体ではなく、艦隊が問題なのだという観点から見る場合、
10月01日以降一週間の、28糎榴弾砲と海軍重砲隊の市街地・港湾砲撃の成果に
注目するべきだと考えます。10月01日、占領直後の南山坡山(203至近)山頂に
観測所を進めた海軍陸戦重砲隊は露軍艦艇・海軍基地などを砲撃しています。
その成果は艦艇損害のみに限っても以下の通りです。
10月01日 ?
10月02日 1330頃、旗艦「ペレスベート」左舷に命中、その他数発の命中弾
10月03日 ?
10月04日 「ポルタワ」「ポペーダ」「ペレスヴェート」等に数発の命中弾
10月05日 「ポルタワ」に28榴弾命中
10月06日 「ポルタワ」「レトヴィザン」に28榴弾各二発命中
10月07日 ?
07日までの大口径砲による攻撃に限っても、少なくとも「レトヴィザン」に四、
「ペレスヴェート」に四、「ポルタワ」に五、「ポペーダ」に一、の各命中弾
を与えたとされています。これまでの砲撃とは異なり、この砲撃の成果は攻撃側
にもある程度確認できるものでした。
203山頂に比べ南山坡山山頂からは旅順港の三分の一程度しか見えず、完全な
観測所とはいえません。しかし当地観測所設置と攻撃成果を見るとき、海軍側の
要望はほぼ達成されたと言えないでしょうか。
旅順艦隊の脅威を強調して203高地の攻略を求めたとされる海軍側ですが、この
攻撃成果をどう捉えていたのでしょう。完全主義は非現実的願望の誹りを免れません。
あまりの我田引水ぶりに皆あきれ返って
もはや誰ひとり顧みる者とてないというに・・・
嶽原氏はひまだね。
555 :
嶽原:2001/04/26(木) 21:47
我田たってなあ、別に目的あっての事じゃなし、
その意味では、まあ暇(笑)であることは間違いないです。
556 :
嶽原:2001/04/26(木) 23:36
「旅順 日露決戦の分水嶺」(PHP文庫・柘植久慶著)。
この229Pに「松樹山堡塁戦跡」、231Pに「二龍山堡塁戦跡」と紹介されて
いる二枚の写真があるのですが、撮影箇所が全く同じ。
……うーん、つらい。
557 :
嶽原:2001/04/27(金) 01:26
第三軍の強襲法失敗の対応
08月30日、軍参謀(工兵少佐)の正攻法についての意見具申を受けて各師団長・
工兵大隊長を集めて会議が開かれています。工兵大隊長は賛同するも各師団長は難色
を示し、会議は6時間に及んだとされています。軍司令官は正攻法を採用。31日に
各師団に攻撃目標が示され、09月01日より攻撃路の構築作業に入っています。
会議では第一回総攻撃の戦訓を取り入れた戦闘教令の作成も命じられ、突撃前の
火力発揚・諸兵種協同・築城の三者の調整要領を示したものが作成されています。
攻撃部隊は、「突撃部隊・外部攻撃部隊(堡塁両側と外部散兵壕を攻撃)・予備隊」
と区分され、突撃部隊は歩兵一中隊と工兵半小隊程度とするなど、攻撃要領が改め
られました。
09月01日から坑道が掘られ始め、二龍山・松樹山・東鶏冠山北の各堡塁へと地下
坑道が繋がり始め、爆破開始が12月18日。丸々4ヶ月の穴掘り・塹壕戦に関与した
従事者の記述などがあまり多くない事が、旅順戦のイメージに影響を与えていると
思います。
>>554 そう?
オレ的には、資料にしてるから、毎晩DLしてるよ。
別に嶽原さんだけじゃなく、さ。
559 :
嶽原:2001/04/28(土) 00:22
第二回総攻撃の一状況(露側記録)
「10月29日から31日までの52時間、日本軍は一分も休まず砲撃し、全勢力を
わが東北戦線に集中した。(略)日本兵は、陣地前五十歩まで掘り進めた塹壕
から、楯を片手に、まるでいなごのように堡塁、砲台めがけて来襲し、その
胸檣をよじ登った」
この時期、未だ敵守備兵力の見積もりは誤ったままだったようですが、戦闘
方法はこのように改められていたようです。
塹壕先端部での攻防は勿論熾烈でしたが、掘削作業自体が熾烈なものでした。
壕の掘削作業を露軍は砲火集中で妨害。夜間作業に切り替えると探照灯を使って
妨害。突撃坑道の破壊活動は活発に行われ、第二回総攻撃中に二龍山・松樹山への
突撃坑道は露軍逆襲を受け、松樹山では先端が一時奪取されています。最終的には
壕ではなく、完全な地下坑道を掘り進むことになります。
第二回総攻撃では28糎榴弾砲も参加していますが、この巨砲をもってしても、
歩兵突撃を成功させるだけの被害を露軍各陣地に与えることは出来ませんでした。
第二回総攻撃の参加兵力44000名、死傷者3830名(戦死者約1000名)。
露軍側の参加者約32500名、死傷者4400名(戦死者約0600名)。
560 :
嶽原:2001/04/28(土) 01:44
28榴弾威力の実際
この巨砲の果たした役割は実に大きなものがあると思います。それを伝説のままで
済ませるのも一法ですが、失礼。
よく知られているのが「不発弾」が非常に多かったということです。『同砲の弾丸は
軍艦の甲板を射洞するために作られたるもの故、自然地に弾着するときは不発となるこ
とが』欠点だった、というものですが、それに加えて砲弾自体の欠陥がありました。
1・信管の欠陥:発射時の衝撃で信管体が変形して機能せず、炸薬に点火しない。
2・炸薬の欠陥:発射時の反動で弾体内の黒色小粒薬が弾底に集まり、その一部は
弾底部にこびりついてしまう。更に命中時の反動で黒色小粒薬の大部分が弾頭部に
移動してしまう。こうして炸薬の間に空隙が生じた状態で、弾底部の炸薬の爆発だけ
で弾体が破壊されるために、全炸薬の瞬発による爆発力が発揮されず爆勢が極めて
減殺された。
この欠陥により、自然地もしくは艦体甲板への弾着に関わらず、不発弾が多かった
ために、不発弾を露軍が回収して日本軍側に打ち返したという事態が生じたそうです。
561 :
嶽原:2001/04/28(土) 19:50
旅順艦隊沈没の原因
旅順開城の直後から、沈没戦艦は撃沈されたのか自沈したのかという疑惑が持たれ、
02月08日から調査が行われています。02月19日からは、特に喫水線下の爆破痕が
水中弾によるものか、自爆によるものか、の点でも調査が始まります。結局、08月頃
まで調査は行われ、このような結論となっています。
調査対象は巡洋艦パルラダ(排水量6630トン、1899年進水)。同艦には二十八糎
榴弾砲12発(内3発が不発)が命中しているが、その『各弾の効力を審査するに其損害
の状態は未だ艦隊の致命傷たるを認定し難し。従て沈没の原因は之を他に帰せざるを得ず』
と判断され、『上記命中弾の効力は之を間接なる沈没の原因と認むる』と判定されました。
調査は『旅順港内の主力艦沈没は、日本軍砲撃による損傷を回避し艦隊を保全するための
キングストン弁開放による水没擱座。バルチック艦隊回航を期して引揚げ修理の上活動再開
可能な状態であったが、旅順開城によって使用不能を目的に自爆した』と結論付けています。
28糎榴弾砲の戦線参加が、旅順戦況の好転に大きく貢献したことは疑いありません。
しかしその実状に即した評価は、未だ為されていないように思えます。
562 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 02:18
7日の学研隔月刊「歴史群像」は旅順戦の特集。
563 :
日本@名無史さん:2001/05/09(水) 23:40
age
(゚ω゚)モキュ (゚ω゚)モキュ (゚ω゚)モキュ (゚ω゚)モキュ (゚ω゚)モキュ
565 :
日本@名無史さん:2001/05/12(土) 02:04
age
566 :
嶽原:2001/05/16(水) 23:10
旅順要塞の欠点
要塞主要堡塁線は、五つの半永久堡塁(白銀山、東鶏冠山北、二竜山、椅子山、
両太陽溝)、三つの堡塁(松樹山、大案子、オウコ嘴)、五つの独立砲台
(白銀山北、東鶏冠山、小案子第一、小案子第二、西太陽溝)からできていた。
半永久施設の中間には歩兵塹壕が設営され、鉄条網や陥し穴で掩護され、一番
危険な地域には地中に地雷が埋められていた。
主要堡塁線の前方の大狐山、小狐山、寺溝北方高地、203高地、南山坡山、
大頂子山の高地毎に前衛陣地がしかれ、そこには塹壕が掘られ、野戦用多面堡が
設けられていた。水師営村地区の防衛中心地は、水師営第一多面堡、竜眼北方
多面堡、水師営第四堡塁で守られていた。
旅順港の周囲の主防御戦上には若干の永久堡塁と、より若干強度の劣る堡塁が
配置され、中核的部分には海軍基地を構成するドック・作業場・内港があった。
堡塁が攻略されたのは12月19日の東鶏冠山北堡塁が最初だったが、係船ドックが
砲火の下に曝されたのは、早くも08月07日に守備軍が前進陣地から駆逐されて
一週間後、前進陣地の部隊が主防御戦に追い返される前だった。
要約すれば、堡塁群が12月19日以降まで防がねばならなかったことを、日本軍
は08月07日から可能にした。要塞戦で常に重大な要素である時期という点から
言えば、この点で守備軍はその役割を失っていたといえる。日本軍の砲撃が09月
20日南山坡山、12月05日に203高地という適切な観測所を占領するまでは効果的
なものでなかったことは事実だが、堡塁が未だ健在なのに、203高地の攻略により
日本軍がロシア艦隊を破壊できるようになったことは、最初の主防御戦の選定の
誤りにあった。
567 :
嶽原:2001/05/19(土) 03:42
旅順関連図書の地図・その1
PHP文庫「旅順」(柘植久慶)は、現在最も入手し易いと思われる。
本書掲載の「旅順・大連付近概要図」というものは遼東半島の突端部、大連から
旅順までの位置関係を把握するため用いられる。
旅順の前哨戦での激戦地である歪頭山、剣山、鞍子嶺などの位置や、第三軍
司令部の置かれた北泡子、双台溝などの位置は把握できるが、旅順近辺の重要
な場所の位置関係は奇妙に歪んでいて参考にならない。
旅順近辺の重要な場所は、「旅順要塞(1904年08月初旬)」図や「第三軍
の布陣(1904年11月初旬)」でほぼ正確に記されているが、本図と先の歪んだ
図を両方載せる無神経さには閉口する。
568 :
嶽原:2001/05/19(土) 22:11
旅順関連図書の地図・その2
新人物往来社「明治大正昭和天皇写真帖」も、高額だが入手し易い。
旅順戦について特にページを割いているのはやや奇妙な感を覚えるが、
掲載の旅順近辺の地図は「旅順要塞攻略戦日露戦争史」からの転載らしく、
正確である。火石嶺なども含めて重砲陣地が敷かれた位置も把握できる。
569 :
日本一優秀なスナイパーは:2001/05/22(火) 01:09
あげとくべか
570 :
嶽原:2001/05/22(火) 02:44
旅順関連図書の地図・その3
学研「歴史群像??47」特集記事にて旅順攻防戦に触れているのみである
が、隔月発刊誌の最新刊であり、安価で入手し易い。
旅順近辺の堡塁、砲台名前を多く記しているが、位置把握が困難になる
ほどの記入はやりすぎのようにも見える。「第一回総攻撃」図では、折角
柳樹房・火石嶺の位置も記入できる範囲を捕らえておきながら、両者地名
が記入されていないのは手落ちに感じられる。もっとも、本特集では軍司
令部の位置問題については言及していないので、当然の省略かもしれない。
571 :
日本@名無史さん:2001/05/24(木) 10:26
旅順関連図書の地図・その4
叢文社「血風二百三高地」(船坂弘)。昭和55年発行であり、入手は困難
と思われる。本書は「旅順要塞攻略戦日露戦争史」からの転載図が多い。
各総攻撃毎の配置図なども多数掲載されているが、なにより「旅順・大連地区
全般図」という、遼東半島先端部の詳細かつ正確な地図が掲載されているのが
貴重。というか、この図が使われていない各種他誌はおかしいぞ。
572 :
さすらいの妄想癖殿:2001/05/24(木) 17:28
麻布に乃木坂あり、原宿に東郷神社あり。
573 :
日本@名無史さん:2001/05/24(木) 18:21
辻占売り少年の話知ってる?
574 :
日本@名無史さん:2001/05/24(木) 18:57
納豆売りの少年の話なら聞いた事があるが・・・
575 :
名無的発言者:2001/05/24(木) 20:37
5月27日は横須賀の三笠で海軍記念日
576 :
嶽原:2001/05/25(金) 02:10
東京鎮台歩兵第一連隊(東京赤坂)・乃木連隊長
東京鎮台歩兵第二連隊(千葉佐倉)・児玉連隊長
明治11年、習志野における対抗演習の時のこと。児玉軍は帽子に白い日覆い
を被っていた。いよいよ演習が始まると、児玉は見物客の男には鉢巻き、
女には頬被りをさせて白い目印を増やして乃木軍の眼を眩ませた。
結果、第二連隊は7対3で優勢という判定を受けたという。第二連隊は
「キテンの利きしノギツネを 七分小玉で打ち上げた」という戯歌を唄い
つつ意気揚々と引き揚げたという。
嘘かホントか、後年の石穴戦法の類の、面白い話である。
>>575 私も一応2000円会員なんですが、残念ながら行けません。
577 :
嶽原:2001/05/26(土) 20:21
旅順関連図書の地図・その5
東郷会「図説 東郷平八郎」やや高額だが、入手し易い。
東郷平八郎元帥についての本なのだが、旅順についてもかなり丁寧に紹介
されている。掲載の「旅順要塞攻略図」は、等高線が記されている。鉄道線
がややいい加減なのを見ると、等高線も正確なのかどうかはよく分からない
が、貴重ではある。また、柳樹房や陸軍28糎砲、海軍15糎砲・12糎砲など
も位置を明記されているのは有り難いものである。
本書は全体に渡り平易、見やすく、かつ詳細。とても参考になる。
578 :
日本@名無史さん:2001/05/26(土) 21:07
上野公園西郷銅像階段下に乃木希典書
の石碑があります。あまりしあれてませんけど
壮麗にして巨大なものです。篆書ですが筆跡が
素晴らしい。「忠魂の碑」としるされてます。
579 :
嶽原:2001/05/30(水) 03:59
「乃木は戦が下手だ」と言われるのは、演習で負けることがあったことを
その論拠としていることが多い。
銃火をものともせず突撃し敵陣を蹂躙する等といった、実戦を想定しない
ような、演習のみで行い得るような戦法が、平時はよく用いられていたらしい。
平時国内の演習では部下にすら軽蔑されかかったある部隊長の話。
実戦で悠然と的確に指揮する部隊長の姿に、その部下が不甲斐なさを感じる
ほどだった演習時とのあまりの違いを訪ねたところ、「演習では弾が来ない
からドンドン来るからね。実戦はゆっくりやれるよ」と答えたという。
演習での風説は当てになりません。演習でのみ可能な戦法は、石穴戦法と
いわれて軽蔑されるものでした。
乃木大将万歳!
581 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 19:45
西南戦争でのエピソードはないの?
582 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 20:29
「一将功成り万骨枯る」とはこいつのためにあるような言葉だ。
583 :
日本@名無史さん:2001/05/31(木) 20:30
>>581 天皇から親授された連隊旗を敵に奪われる。
584 :
嶽原:2001/05/31(木) 23:57
『麻布に、日ヶ窪という町名があった。窪地になっている……まわりの三方が
高く、このあたりだけが大きく窪み、陽が射しにくい地形であることがわかる。
……江戸のころはとくに樹木が鬱然と地をおおい、晴れた日でも地面が黒く
湿っていた。……長府毛利家の藩邸はその崖下の蔭に入り込んでいる。この
位置ではわずかに午前中、東からの陽ざしを受けるだけであろう』
某歴史作家曰く、こういう場所は、『生涯洞窟のなかで灯をともしていたよう
な、そういう数奇なにおいを持つ人物』が生まれるに相応しいんだと。
ふざけるな。
585 :
日本@名無史さん:2001/06/02(土) 15:02
>>584 誰が書いたが知らないけどふざけてるかい?
作家が書いてるんならそういう「描写」はありだと思うが。
乃木が
『生涯洞窟のなかで灯をともしていたような、そういう数奇な
においを持つ人物』
だった場合、あんたにとってなんか問題あんの?
586 :
嶽原:2001/06/02(土) 18:28
>>585 うん。精神安定上および胃腸不全の問題がある。
冗談はさておき、そういう偏見むき出しで史観らしきものを説くな。
587 :
日本@名無史さん:2001/06/03(日) 08:52
史観なんて説く気ないよ。
その文章、意図的なレッテル張りだとは思うけど、良い表現じゃない?
乃木がどういう人間であっても作家はその人をダシにして言いたい事を言ってるだけでしょ。
それが乃木にとってひどい評価になったとしても、「作家」の言ってることを
否定したってしょうがないじゃん。
作家の書いてるものは歴史ではなく文学だよ。
588 :
age:2001/06/06(水) 02:05
あげ
海軍イロハ式モールス信号で「の」は
・・−−
の・ぎ・とー・ごー(乃木東郷)
590 :
日本@名無史さん:2001/06/07(木) 07:50
乃木さん…。
591 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 13:30
嶽原さんは、もうどっか逝っちゃったのかな。
乃木ネタ、知らない事が多くて面白かったんだけど
592 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 14:34
爾霊山
593 :
嶽原:2001/06/10(日) 03:49
594 :
日本@名無史さん:2001/06/11(月) 02:13
595 :
嶽原:2001/06/11(月) 02:17
「煽り」とは?
事実を知りたいだけですよ。
596 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 16:39
597 :
日本@名無史さん:2001/06/12(火) 17:30
乃木将軍って世界一参謀に恵まれない方ですよね!
598 :
嶽原:2001/06/12(火) 21:09
>>596 (許可というのが適当かどうかは別問題として)
はい。なるほどなあ、と思いました。
599 :
嶽原:2001/06/16(土) 01:53
576、579で私が書いた「石穴」は誤りです。「石浜」でした。訂正します。
実在の人物名をもじってつくった『石浜伊織』なる仮名氏を批判した書が
残されています。その中の一文……。
『第一種機動演習に於ては、弾丸の効力を無視して、有るまじき所に兵を伏せ、
殆ど児戯に類する突飛の戦法を以て敵軍たる○○連隊を苦しめ……』
こういうのを「石浜式」戦法と呼んだそうです。
恥ずかしながら訂正させて頂きます。
600 :
嶽原:2001/06/18(月) 02:57
旅順関連図書の地図・その6
学研文庫「日露戦争 上 旅順攻略戦」(平塚柾緒)ならびに
河出書房新社「図説 日露戦争」(平塚柾緒)
入手は容易であり、値段も手頃である。両書ともに旅順攻略戦については
「第3軍旅順攻略前進図」「旅順要塞砲台位置図」の二図を掲載している。
「攻略前進図」の方は遼東半島先端部を示すものだが、旅順近辺が奇妙に
歪んだいい加減な出来である。「旅順要塞砲台位置図」もまた、いい加減な
代物と言わざるを得ない。位置の誤りはなんとしても避けて頂きたい。
西方前衛陣地の一地名である「鉢巻山」が東北方前衛陣地付近に書かれて
いたり、「一戸砲台」が本要塞線からはるか離れた位置に書かれていたり、
「二百三高地」がとんでもない遠方にあるなど、明らかな誤りが多い。
更に言えば、1999年出版物と2001年出版物との間でほとんど変更が
なされていないのは、その歪み具合、誤り具合に問題がないと判断されて
のことだろうが、文章で詳細に解説していながら、掲載図の取り扱いが
これほどいい加減とは、どう考えても納得できない。
601 :
日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:00
この人ほど評価が分かれる人物も珍しい。
602 :
日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:04
乃木は戊辰では戦っていないけど、長州征伐の時は戦ったの?
603 :
日本@名無史さん:2001/06/20(水) 23:19
小倉藩との戦争「長倉戦争」では参加していますね。砲一門の長として。
あの時代、「山砲一門」の指揮を任されていたことは、意外と知られて
いないようです。「殉死」に書かれていないためかも知れません(笑)。
604 :
日本@名無史さん:2001/06/24(日) 01:21
あげとこう
605 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 22:30
白昼、婦人と性交中のところを、知人に見られてしまい、
翌日、知人と会った際、
「昨日は、乗馬中にて失礼!」と言ったそうな。
この話を知ったときに、とても嫌〜な気がしたのを覚えている。
いつ頃の話なのか、もし生徒達に厳格な教訓をタレていた校長の時なら嫌悪感倍増。
凱旋後、仏門にでも入れよ!
606 :
嶽原:2001/06/26(火) 07:45
上のコピペネタ、いつごろの話なんでしょうかね……。伝説が多い人だ。
607 :
兵八:2001/06/26(火) 23:05
>>605 仮に本当だとして、何が悪いのか判らんなー。茶目っ気があっていいじゃない。
・・・・なーんて言ったら、やっぱり叩かれるんですかね、ここでは。(笑)
608 :
嶽原:2001/06/27(水) 00:32
605は94のコピペですよ。
乃木批判は伝聞・伝説に基づき、しかも悪意解釈を前提とするものが多い
という典型例といえます。この類は追究・打破が難しい……ま、いいか。
609 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 00:36
乃木はカルト
白襷隊で人命を空しくした段階で軍人としての無能を自明にした
アイツが裕仁の教育係になったせいで敗戦の遠因を作ったといってもいい
610 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 00:41
乃木は白襷隊に加わって殉死すべきだった
軍人は忠誠心の度合ではなく、
能力で評価されるべきだったが
乃木という三流軍人のせいで、事後日本軍に精神論という
くだらないクソカルト宗教が根付いてしまった
611 :
嶽原:2001/06/27(水) 00:50
悪意解釈の他例……。
『アイツが裕仁の教育係になったせいで敗戦の遠因を作ったといってもいい 』
『事後日本軍に精神論というくだらないクソカルト宗教が根付いてしまった』
ほらね。
戦車も飛行機も無線もあれもこれも、何もかもが変わった時代の責任を
負わせようとする悪意解釈。
612 :
兵八:2001/06/27(水) 01:36
ま、悪口が多いのも英雄の条件。アンチ巨人も巨人ファンのうち。
乃木の悪口を言いたがる人間ほど、日露戦争の実態をなーんにも知らない。
「坂の上の雲」や「殉死」を読んで全部判った気になっているだけ。
・・・・・・ってことが、軍事版で私の得た最大の9教訓でしたね。
613 :
兵八:2001/06/27(水) 01:38
おっと、変な字が挟まってしまった。失礼。
614 :
嶽原:2001/06/27(水) 02:16
暴言覚悟で言えば、軍司令官は部下を死地に赴かせるのが仕事です。
第一線で攻撃担当部隊にごちそうが振る舞われるのは「お前等の命は
貰った」という暗の申し渡し。一将校の経歴の裏に万骨がひしめくのは
子供以外は万人承知のことです。酷いハナシです全く。
凱旋後、将軍が口演に招かれたそうな。前振りで戦歴を栄々披露されて
壇上に登る将軍……。残酷なハナシです。
で、口演するのも良し、絶句するのも良しでしょう。人それぞれ。
615 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 12:04
> 戦車も飛行機も無線もあれもこれも、何もかもが変わった時代の責任を
> 負わせようとする悪意解釈。
時代の変化を読めなかった無能三流軍人=乃木
ss
617 :
日本@名無史さん:2001/06/28(木) 03:03
乃木さんは、サイコパスです。
これホント。
618 :
日本@名無史さん:2001/06/28(木) 05:11
乃木の一番のファンは帝国陸軍。
乃木は糞。
長州人煎ってヨシ。
619 :
兵八:2001/06/28(木) 07:15
>乃木の一番のファンは帝国陸軍。
ほら、不勉強をさらしてる。帝国陸軍は乃木が嫌いだったの。少なくとも、エリート参謀連中は。
620 :
日本@名無史さん:2001/06/28(木) 07:34
>>280「冷静に、擁護論を唱える奴はいないのか?」
>>281「いない。冷静に考えれば考えるほど擁護できなくなる」
……今、改めて読むと大笑いだ。まるっきり逆になってしまったよ。
621 :
嶽原:2001/06/29(金) 02:33
乃木大将が海軍中将と東京から静岡へ出張したときの話……。
大将に夜行寝台汽車切符の手配を頼まれて、中将は内心困った。人の噂
では、乃木さんは汽車は三等、宿は木賃宿と決まっているというが……?
「切符は三等で?」「いいや」「では二等で?」「いいや」
「一等ですか?」「そう。一等寝台を二枚な」
翌朝汽車は静岡に着く。朝食と小憩のための宿をどこにしようか?中将は
静岡は不案内であるので、大将は「では自分の知っているところへ行こう」
と一流割烹料亭へ案内し、一等室で朝食を取った。
帰途、どうにも納得行かない中将はたまらず尋ねた。
「閣下は旅行されると汽車は三等、宿は木賃宿と相場が決まっているという
ことでしたので、自分もそのつもりでおりました。そこのところが腑に落ち
ません」
「あなたもわしも、帝国軍人として身分相応の待遇をかたじけのうしている
のだから、陛下の軍人としての面目を保つのは当然でしょう。(その噂は
部下や生徒への訓戒からのものだろうが)物が歪った場合、これをまっすぐ
伸ばそうとするときには反対側に強く曲げないと直らないからだよ」
存命中も、近隣者にもすらいろいろと誤解されていたようです。こういう
エピソードからも、伝聞・伝説のあてにならないことが分かります。……
ま、このハナシも伝聞なんですけどね。いろいろ見聞しなくてはならない、と。
622 :
日本@名無史さん:2001/06/29(金) 12:34
ここで村山と乃木の類似性について出ているけど、ほんとに一度
きっちり村山とその閣僚が、朝起きてから寝るまでどのように考え、
振る舞い、発言したかをニュージャーナリズム的に再現したいよ。
そんな本が出てない?あったら教えて
623 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 15:22
伝説の多い人
624 :
嶽原:2001/07/07(土) 02:37
新設第十一師団師団長赴任時の話
日清戦争の後、三国干渉の苦渋を飲まされて臥薪嘗胆を誓ったとはいう
ものの、大国清国を屈服せしめたという気のゆるみは軍民の間にたしかに
広がっていた。四国善通寺の新設第十一師団にも、その風潮は見られていた。
そんなある晩、丸亀第十二連隊の営舎から非常呼集のラッパが鳴り響いた。
師団長が善通寺第四十三連隊の兵を率いて入営してきたのである。当直将校
や幹部はあわてて営庭に出るも、それは僅かな数でしかなかった。大部が
夜の町に繰り出して帰っていなかったためで、彼らは慌てて駆けつけた。
一同が集合すると、師団長は口を開いた。
「今夜ここを夜襲したのが友軍であったからよいが、もしこれが敵であったら
第十二連隊は一瞬にして壊滅したであろう。国内においてさようなことのある
筈がないと考えるのは軍人として採るべき態度ではない。軍人は国の御楯で
ある。いついかなる時でも戦場にある覚悟でなければならない。
日本は清国に大勝したとはいえ、三国の不法なる干渉があったことを忘れて
はならない。三国、ことにロシアのその後の動向、彼が東洋を侵略せんとする
野心は明らかである。今後いかなる事態に立ち至るとも我々軍人はびくともし
ない覚悟を養っておかなければならない。それには平常の修練が大切である。
淫靡なる生活を送っていて、それが成しえられるはずがない。」
「とは言うものの、かく申す乃木も若い頃は諸子と同様であった。自分も
紅灯の下に緑酒を呷り白粉くさい女にうつつを抜かしたものである。だから
諸子に訓戒を与える資格などはないかも知れぬ。
だが、一度その過ちを翻然と悟るところがあって、その後はそういった
場所へは足を踏み入れぬよう心がけてきた。悟ったのはドイツにおいてで
あった。それはドイツ軍人が立派だったからというのではない。ドイツ軍
人はきわびやかに装い、香水をふりかけ、いかにして婦人に取り入るかに
腐心しているのであった。立派な人物もあるが一般の傾向はそうであった。
フランスを破ったドイツ陸軍の実力というものは高く評価しているが、
こんな有様ではドイツはその実力と名誉を永く保ってゆくことはできない。
大厦の倒れんとするは一木の支うるところにあらずで、国の勢いが崩れ
かかってからではもう遅い。諸子はこのことを他山の石として自分らが
国家の干城であることに自覚し、矜をもって行動を慎んでもらいたい。
日本がいまどういう立場に在るかをよく考えて欲しい。
乃木の言いたいのそのことだけである。終わりッ!」
627 :
日本@名無史さん:2001/07/07(土) 03:51
息子2人殺した人
628 :
兵八:2001/07/08(日) 21:02
森鴎外「乃木将軍」
つはものの 武勇なきには あらねども
真鉄(まがね)なす べとんに投ぐる 人の肉(しし)
往くものは 生きて還らぬ 強襲の
鉾(ほこさき)を しばし転じて 右手のかた
図上なる 標(しるし)のたかさ 二霊三
嶺(いただき)の ふたつ聳ゆる 石やまに
たえだえの 望みのいとを 掛けてこそ
きのうけふ 軍の主力を 向けてしか
霜月の 三十日の 夕まぐれ
将軍は 高崎山の 師団より
ただ一騎 柳樹房なる 本営に
帰らんと 曲家屯をぞ 過ぎたまふ
ほの暗き 道のほとりを 見たまへば
身うち皆 血に塗れたる 卒ありて
そびらには はやこときれし 将校の
亡骸を かきのせてこそ 立てりけれ
汝は誰ぞ そを何処にか 負ひてゆく
聞こし召せ 背負ひまつるは 奴わが
主と頼む 乃木将軍の 愛児なり
年老いし 将軍の家の 二人子
そのひとり 勝典ぬしは いちはやく
南山に 討たれ給ひて 残れるは
おとうとの 保典のぬし ひとりのみ
背負へるは その一人子の 亡骸ぞ
629 :
兵八:2001/07/08(日) 21:03
父君は 心ををしく 我が主をも
隊附の ままにあらせて 討死の
身の果ては おのれと三人 葬りをば
ひと時に 営めと宣(の)り 給ひしを
人人の 強ひて料らひ つるにより
さいつ頃 友安旅団の 副官に
職かはり まだ程経ぬに この朝開(あさけ)
あへなくも 空しき骸(から)と なりましぬ
果てましし 処は高地 二霊三
眼鏡もて 敵の備えを 望みます
うら若き 額(ぬか)のただ中 打ち貫かれ
ひと言を 宣給はん ひまもなく
持口の 南の峯に うせ給ふ
その骸を 奴背負ひて 此の村に
ありと聞く 野戦病院 たづぬれど
くるほしき 心からにや たづねえず
かくいふを 駒をとどめて 聞きましし
将軍は 病院の旗 あるかたを
鞭あげて 彼方にこそと さし給ふ
面ざしは かはたれ時に 見えねども
目ざとくも 雲の絶間ゆ 覗ひし
さむ空に まだ輝かぬ 冬の星
更闌けて 友なる星に 将軍の
睫毛だに 動かざりきと 語りけり
630 :
嶽原:2001/07/12(木) 01:13
よく言われる伝説で、奉天会戦時に第三軍の行動遅滞を非難されて激昂し、
軍司令部をしゃにむに前進させ遂に最前線の散兵壕にまで至らせ、司令部付き
の医官が小銃弾で即死するという状況となったというものがある。
医官死亡というエピソードが本当らしい雰囲気を与えるハナシである。
ところが、ある本には「粗末な民家」に司令部を設置したとしている。
>>367『散兵壕に房付き将官がずらり、ワイワイガヤガヤ』という
イメージに、疑問をもつのであるが、この『散兵壕に司令部が設置された』
状況を想起させる文章は、どの本に載っているのだろうか。知りたい。
631 :
嶽原:2001/07/19(木) 16:50
乃木の休職
1/明治07年05月 四ヶ月間 上司(桂太郎)への反感が原因?
2/明治25年02月 十ヶ月間 粛軍意見書の提出に絡むもの
3/明治31年02月 七ヶ月間 台湾総督辞任によるもの
4/明治34年05月 二年七ヶ月間 馬蹄銀事件に絡むもの
632 :
嶽原:2001/07/19(木) 17:30
乃木の結婚
明治11年、乃木は第一連隊長として東京に居た。このころは毎夜毎夜の酒宴
であり、家でも外でも凄かったらしい。母寿子は、妻をめとれば生活が改まる
かとも思い、妻帯を勧めた。
この頃は氏族は自分と同国人から嫁をもらう慣習があったので、母は旧長州
藩士の中から適当な娘を何度も紹介してくるようになる。乃木はそもそも乗り
気ではなかったので、苦し紛れに「薩摩の女なら、辛抱強くてよいと思うのだ
が……」とはぐらかした。慣習を逆手に取って防御しようとしたらしい。
ところが、母寿子は乃木の副官が薩摩出身であるのを知っていて、内緒で副
官に相談に行ってしまう。副官も心当たりの娘を紹介してしまう。母は大喜び、乃木に「薩摩の娘でちょうどよい娘さんがいます」とくる。これで乃木はもはやこれまでと観念したという。
翌日、当の副官に向けてこぼした愚痴…。
「薩摩女といえば逃げられると思ったが、母はどこから探してきたか知らんが
湯地という娘を見つけてきてな。お前は鹿児島だから知っとりゃせんか?」
633 :
日本@名無史さん:2001/07/29(日) 06:21
いい話や
夫人の名はお七。八百屋お七を連想するから体裁が悪いってんで
静子に改名させちゃった(w つくづくオモロいオッサンじゃ。
635 :
日本@名無史さん:2001/07/29(日) 12:21
>>605 「御婦人といたした」って言ったら(認めたら)
相手の女に迷惑かかる、そう思ったら
乗馬とか何とか言って(ヤってると認めないで)シラ切っておかないと。
見た者の言い分と本人の言い分が食い違ってたら
「事実」ではなく「噂」に過ぎない、ってことになるだろう。
「事実」と比べりゃ「噂」は大した事ではない、とすれば
乃木さんなりに女を護っていると言える。
まあ相手の女がどこの誰かは知らんが。
636 :
:2001/07/29(日) 12:27
>>605 >>635 女にしてみたら馬扱いされたと感じるんだよ。
女をかばうならもっと言い方があるでしょう?
637 :
日本@名無史さん:2001/07/29(日) 13:38
根拠薄弱な噂だと思うし、あまり論を交わすのもナンだと思う……。
638 :
嶽原:2001/08/01(水) 09:56
乃木と東郷と大山は親戚同士の間柄です。
平治の乱の頃、佐々木秀義という人物が居たのですが、彼の勇敢ぶりに
惚れ込んだ渋谷重国という人物が娘をめあわせます。
その娘の兄弟の家筋から、のちのち東郷家が出ます。
佐々木秀義の孫が宇治川先陣争いで有名な佐々木四郎高綱であり、高綱
の孫である泰綱・行綱の家筋からそれぞれ乃木家・大山家が出ます。
東郷平八郎の遠祖の叔母が、乃木希典と大山巌の遠祖・佐々木高綱の母と
なる間柄です。
639 :
嶽原:2001/08/01(水) 09:59
ああ、間違えた!5行目訂正です。
佐々木秀義の「孫」じゃなくて「子」です。
640 :
嶽原:2001/08/02(木) 18:39
ご本人同士で、血縁関係にあったことを知っていたのかどうか、とても
興味があるのだが、残念ながらそういうのを見聞きしたことがない。
出身が薩長に分かれていたから日頃疎遠だったのかも知れない。
203が陥落し旅順攻囲戦も一段落したのち、連合艦隊が内地に帰還する前に
乃木と東郷が会見することになった。セバストポリ攻撃の際に「高砂」が触雷
沈没したことで、乃木が参謀を派遣して弔意を表したさいに東郷が申し出た。
二人が会見したのは既に東鶏冠山も陥落した後であった。大連から汽車で
旅順に降り立った東郷を、乃木が出迎える。二人は静かに歩み寄り微笑を浮か
べ「やあ」と同時に言い、固い握手が交わされた。両将は幕僚達の敬礼に答え
たのち司令部へと歩いた。何も語らず何も聞かず、幕僚達もその光景に一語も
発する者はいなかった。
乃木は東郷を案内して攻囲軍の状況を見せた。海軍の乃木が馬が得意でない
ため二人は徒歩で歩き、常に乃木は敵陣側を歩き東郷を庇うようであった。
昭和二年に東郷はこの時の思い出を語っている。
『自分は従来いろいろな場合にあい、感慨にたえないこともずいぶんとあった
が、旅順攻略の際、乃木大将を訪ねたときほど感慨にうたれたことはなかった
よ。バルチック艦隊に対する準備のため、いったん内地に引き揚げることに
ついて、乃木大将の意見を聞く大用談があったからいたずらに感慨にふけって
いられない場合ではあったが、それにもかかわらず握手した際はしばらく言葉
が出なかったほどだった』
641 :
嶽原:2001/08/02(木) 22:11
明治44年、英国王戴冠式参列のため東伏見宮親王が渡欧される際に、陸海軍
を代表して乃木・東郷が随行することになる。
出発に当たり、周囲の者は乃木の質実剛健をおそれた(笑)。御名代の随行
員として大勢の人々といくのだから一人だけ飛び離れたことをされては困る。
副官は旅行用品を準備して乃木へ持って行った。鰐皮の財布、黒革の化粧
道具入れ、洗面道具……。ことごとく拒否される。普段から紙幣は封筒、小銭
はポケットという具合なので、鰐皮財布は「こんな贅沢品はいらない」と一顧
だにされない。洗面道具類は「わしは剃刀一丁あればいい。歯磨きは焼塩で
やる」と取り合わない……。
副官はいよいよ最大の問題を切り出した。
「閣下、まあそのようなものは構いませんが、一番問題なのは御洋服です。
いつも軍服で押し通すというわけにもゆきますまい」
乃木は笑って「うん、それはすでに注文してある」「はっ、背広をですか?」
「必要なるいっさいの服は東郷閣下におたずねして、閣下の作られる通りの
ものをわしも作ることにしたのだよ」
642 :
日本@名無史さん:2001/08/02(木) 22:26
↑
涙ぐましいねぇ・・・まるで「労働者を慰問される偉大なるキムイルソン」みたい・・・
643 :
:2001/08/02(木) 22:44
>>571 その本本当に無いね。読んでみたいよ。
神保町でも漁りに行くか・・・。
644 :
嶽原:2001/08/03(金) 00:18
御名代宮殿下一行乗船の賀茂丸は門司を出港、上海へと向かう。船上より
乃木も平服となるのだが、皆々その姿を見るのは初めてで目を見張った。
「どうですか、似合いますか。なにしろ二十年来のことなので……」
上海、香港、シンガポールと乃木と東郷はそれぞれ一室をあてがわれてい
たが、シンガポールから先は同室で起居することになる。偉人同士の付き合い
とはこのようなものかと、同船の人々を感嘆せしめたという。
二人よく並んで甲板を散歩したが、乃木は常に東郷を先輩として兄事し、
何事も東郷を先に立て、意見を聞き、時には労る様子さえ見せた。
『賀茂丸の航海中、東郷、乃木両大将が一つづり音以上の言葉を発したのを
聞いた者はなかった。二人の無言は大事業によって真価を測るべき人士の無言
なり。時折乗客が天候などについて話しかけることがあったが、両大将は頷く
か首を振るかで一言も発しない。二人はいつも離れることなく、日本の戦戯で
ある囲碁を喫煙室で戦わしていたが、終日戦っていても両者は碁盤を挟んで
無言で対し、何も言わず石を下ろすだけだった。時にはデッキゴルフを試みら
れるときもあったが、乃木大将が明らかに一語をを発したのはこの時のみだった。
それは大将が玉をはじきそこなった時である』(ロンドンデーリー誌報道より)
645 :
嶽原:2001/08/08(水) 01:45
御名代殿下一行が帰国の途につく際、乃木と東郷は別々に帰国することに
なった。乃木はヨーロッパ、東郷は米国を訪問・視察することになっていた
からである。乃木は旧敵ステッセルを訪ねるつもりでいたが、一応兄事する
東郷の意向を尋ねてみた。
「ヨーロッパ巡視のついでに、ロシアに入ってステッセル将軍を訪ねてみよ
うと思っています。彼に会って慰めたいと思うのですが、どんなものでしょう」
東郷はうなずき、じっと考えていたが、こう答えた。
「ロシア国民は敗戦の屈辱をいまだ忘れきってはおりますまい。せっかく
武士道的に同情されての慰問でも、むしろ彼にとっては有り難迷惑で恥辱を
新たにされる感がないとも限らない。露国訪問は再考されてはいかがですか」
乃木は東郷の忠告に従って露国訪問を取りやめた。
646 :
嶽原:2001/08/08(水) 21:37
>>643 私は今年初めに名古屋の古書店街で見つけました。結構美品で嬉しかった。
さて、公立図書館で二カ所見かけたことがあります。意外とお近くに……?
647 :
嶽原:2001/08/08(水) 21:39
乃木の台湾総督1
仙台第二師団長であった乃木は、明治29年10月に突然台湾総督を
任じられる。先任者は桂太郎陸軍中将であった。
29年06月に桂は台湾総督となる。桂は政治的手腕に優れる軍人で
あり絶えず中央への復帰を願っていた。そのような時に内閣が替わ
り松方内閣の組閣が始まる。陸軍長州閥の大長老山県は桂を陸相に
推薦し、松方も一旦内諾したようであるが、土壇場で薩摩閥が陸相
の座を握った。これに憤慨した桂はわずか3ヶ月で台湾総督の職を
辞してしまった。
そのお鉢が乃木に廻ってきたわけであるが、台湾征伐の経験のみ
を理由に、政治家的要素など少しもない人物をこのような役職に置
くこと自体が間違っている気もする。案の定「桶の中に桝を入れた
るが如し」などと言われる散々の赴任となっている。
648 :
日本@名無史さん:2001/08/08(水) 21:40
なげー駄文読まされるほうの身にもなってみろや
649 :
嶽原:2001/08/08(水) 21:42
乃木の台湾総督2
乃木が台湾へ行くと、総督官邸が二つある。一方は最初からある
粗末な洋式家で、もう一方は前任者桂が立てさせたという立派な日
本式のものだった。乃木は粗末な洋式家に入る。桂を嫌ってのこと
とも、また統治する者としての考え方を周囲に示すためだったとも
言われる。
乃木はまず、中台官吏の給料その他の待遇が内地の官吏に比べて
かなり良かったのでそれを改めさせた。官吏・武官の送迎を料亭で
催すことを止めさせ、商人からの贈物を一切拒否させた。自身とし
ては、莫大な機密費(時事ネタではない)と交際費とを厳格に区分
するなどした。
結局、このような清廉潔白な態度と質素倹約の方針は当時の官吏
達とは決定的に会わなかった。ある時、乃木の居合わせた席で
「『水清ければ大魚なし』、大人物は清濁併せ呑むようでなければ
いかぬ……」と言い出した者が出た。それまで黙って聞いていた乃
木は、こう答えた。
「でもなあ諸君、汚らしい泥鰌や大ナマズにうようよはこびられて
も困るからなあ」
一同、一言も発しなかったという。
650 :
嶽原:2001/08/08(水) 21:43
乃木の台湾総督3
当時の台湾ナンバー2とも言える立場の役職、民政府長官であっ
たのが曾根静夫という。彼は乃木排撃の急先鋒でもあり、「いかに
武士的精神が貴重だからといって、あまりに厳重にやり過ぎては新
領土開拓の治績は上がるまい。乃木は政治を知らん」と非難してい
た。
乃木は明治31年01月、突然に急ぎ上京せよとの電報を受ける。乃
木は当時陸相となっていた桂、伊藤首相、井上蔵相と会見する。こ
の会見の際、上京命令もなかったのに同行した曾根も同席してお
り、長時間の密議が交わされている。翌日、乃木の依願免官が発令
され、そのまま休職となった。乃木の後任には児玉が就任した。児
玉は赴任後直ちに曾根をクビにして後任に後藤新平をあて統治の明
朗化をはかる。彼の総督としての功績は高く評価されている。
乃木の知人は、当時の乃木についてこう述べている。
『自分が初めて乃木閣下にお目にかかったのは明治21年で、体躯肥
大にして鬚髯漆黒の偉丈夫だった……(その後)お会いしてみると
白髪白髯、頬の肉は落ち、別人のようでいかにこの高潔なる将軍が
醜穢極まる台湾の政治に苦労されたか一目にして理解できた』
651 :
:2001/08/08(水) 21:56
東郷のほうが人の心がわかるって感じがする。
自分の理想を押し付ける人っていうのもねえ。
652 :
嶽原:2001/08/09(木) 00:57
周囲にかなり助けられていると思います。それも、やはり人格に魅かれて
のことだと思いますが。
自分の理想を押しつけるという点は人後に落ちないのではないでしょうか。
これら若い頃には桂太郎と激しく対抗し、それが休職のきっかけとなった
り、様々なエピソード(例:木賃宿)の原因となっていますが、老年となった
のちには若い頃の自己の潔癖さを桂に詫び、親交を深めたといわれています。
>政治家的要素など少しもない人物をこのような役職に置
くこと自体が間違っている気もする。
児玉も条件は同じ。資質の問題。
上の見ろゼンゼン条件違うだろ。
655 :
日本@名無史さん:2001/08/10(金) 00:17
潔癖に過ぎる乃木には無理だったというのは事実でしょうね。
変わって児玉・後藤コンビはよく成果をあげられています。
656 :
日本@名無史さん:2001/08/11(土) 00:30
>>654 どこが?何も知らんのに人の意見に頼るべからず。
乃木の後の状況をそのまま継いだ児玉が台湾統治に
台湾の豪族(盗賊)を人間扱いというか平等として認め
交渉を行わせた。後藤新平という優秀な人間の提案を
採用、抜擢し実行させた懐の広さも優秀。
ひとつ聞きたいのだが、乃木にはこういった名将の
裏にいたNO2や有能な部下は多数いたのかね?
657 :
日本@名無史さん:2001/08/13(月) 00:25
乃木神話は捏造って話があるけどどうなのかな?
658 :
嶽原:2001/08/14(火) 21:56
乃木神話の捏造……いろいろあるでしょうね。
思いつくところでは、
西南戦争で奪われた軍旗は、奮戦によって直ちに奪還された
日清戦争で乃木の指揮する部隊は、一日の攻撃で旅順を陥とした
……うーん?
捏造というのはどんな話のことでしょうか。興味あります。
659 :
嶽原:2001/08/15(水) 00:55
>>657 市販の乃木批判本に、『乃木「神話」と日清・日露』という書がありますね。
これは、日清戦争旅順戦当時の市民虐殺問題に焦点を当てた内容のものです
が、これを読まれてみてはいかがでしょうか。
今ひとつ纏まっていない印象の記述が多くて読みにくかったですが、日清・
日露の公的戦史なるものがいかに軍にとって都合良く編纂されているもの
なのかがよく判り、いい資料となりました。
660 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 16:42
あげ
661 :
兵八:2001/08/20(月) 19:04
>>659 ゴメン、嶽原さん。マジな話、日清戦争時の旅順虐殺事件ってあったんですかね?
私にはとても信じられないんですけど。
662 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:50
uso
663 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 21:56
664 :
兵八:2001/08/20(月) 22:04
>>663 どうも。
なんだ、矢張りこういうパターンですか。
665 :
嶽原:2001/08/20(月) 22:56
>>547に私が読んだ資料の要点を書いています。
旅順近辺にて殲滅戦が行われたのは確かなようです。しかし、虐殺という
のは何かしっくり来ない印象を受けるところです。659は、住民虐殺を
話題にしていながら、いつのまにか戦闘員の末路・証言を織り交ぜていて、
何を論じようとしているのかよく分からない本です。
ちなみに、本書中では芥川龍之介の「将軍」の一節を取り上げ、「N将軍」
には虐殺事件を起こさせるような気質が認められるなどとあり、笑えます。
666 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 02:08
芥川の「将軍」は、はっきり言って「要塞」「殉死」「坂の上の雲」
よりも記述がヘヴィーで暗く、読むのが辛いです。
乃木嫌いの方が、司馬とかばっかりで芥川を引き合いに出さないのが
疑問に思うほどに・・・読んでない?
667 :
嶽原:2001/08/21(火) 02:58
例えば 芥川「将軍」第二節「間諜」の中の一節に、こんなシーンがある。
「露探だな」
将軍の目には一瞬間、モノメニア(偏執症)の光が輝いた。
「斬れ!斬れ!」
よく言いますよね、「小説に書かれていることだ、事実とは限らない」
「小説家がどう書こうが、それは問題じゃない」そのとおりだと思います。
それを『乃木「神話」と日清・日露』では、「この部分がドキュメント
であるかフィクションであるかは問うところではない」といいつつも
「乃木の眼にモノメニアの光が輝くのを見たのは驚くべき炯眼である」と
讃えているんです。なんだかもう、小説を参考にする思考の混乱ぶりが
ありありと出ていて苦笑いするしかありません。
他にも、この書では日清と日露の経過を混同している部分が多数見られ
纏まりがなく非常に読みづらい。「はじめに」「あとがき」で「乃木」の
語が使われたのはたった一回、本文中前半半分は乃木とは全く関係のない
記述が延々と続く……。「乃木」と表紙に書いたのは何だったんだ?
668 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 07:51
機密日露戦史では児玉の指揮権委譲は仕方のなかったという
書いていますね。旧陸軍のエリート連中はこういった本を
読んでいるので嫌いになったのでしょう。
しかし日清戦役の旅順事件での乃木将軍の統制は問題
があるな。また、
>>656で言われているように名将の下
には優れた仲間や部下が必ずいるのだが、今までの
レスを見る限り、いなさそうですね。
669 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 08:25
後藤新平のようなメジャー級の仲間や部下とは言えないでしょうが、
旅順攻囲戦での配下勇将は多数上げられます。一戸などは中でもやや名を知られているでしょうか。また、その時まで全然研究されていなかった仏制攻城法
を数日で翻訳研究して、第二次攻撃以降の正攻法採用を実現可能なものにした
参謀(名前失念)もいます。
日清戦争時の統率の問題点といえば、私はいかに戦争とはいえ殲滅戦は
やりすぎでなかったか、というところが気にはなります。668さんはどんな
ところが気になりますか。
670 :
日本@名無史さん:2001/08/21(火) 21:55
>>669 何を言っているの?一戸は乃木嫌いだよ。私が言いたいのは
乃木希典に慕っていった人間がいたのか?また彼の軍門に入りたいという
人々の伝記が無いということに疑念を感じている。
有能な名将は余談にもれずに部下または人材発掘という点で逸話を残している。
乃木将軍が参謀に恵まれなかったのは、人を見る目がなかったのでは
ないかと考えているのだが。
旅順虐殺に関しては占領地ではよくあることが表に出てしまったと
思います。この一点で乃木将軍が後世言われるほどに統制が取れていた
とは信じがたいと考えています。
671 :
嶽原:2001/08/21(火) 23:49
旅順占領日の夜に金州城救援の命を受けています。夜は留まり、
翌朝転進してます。普段言われているのは占領後数日間の住民虐殺
でありますが、その時、要するに乃木旅団は居ないんですが……。
672 :
兵八:2001/08/21(火) 23:56
>>670 >一戸は乃木嫌いだよ。
ちょっと待った!!そりゃ一体全体どこをソースにしてるの?まさか司馬?
一戸は乃木のことを大変尊敬していて、「私は乃木閣下のおかげで大将になれた」
って語ってるよ。彼自身、「今乃木」って称された位なんだからさ。
>この一点で乃木将軍が後世言われるほどに統制が取れていた
>とは信じがたいと考えています。
もっと常識っちゅうもんでモノを考えんと・・・・・・。
馬蹄銀事件であれだけ峻厳な態度を取った乃木が、住民虐殺等という大不祥事を
等閑で済ませたなんて事がありうるんかいな?
673 :
嶽原:2001/08/21(火) 23:59
日露戦時の旅順攻囲戦では、第一線部隊に「突入成りし後のことを考慮
して」憲兵を配しています。そんないわば規律のお目付役なぞを配された
第一線部隊はもちろん不満たらたらで、かなり強烈な文句を残した指揮官
もいます。「第一線の気持ちが判らん人だ」と。
さて、統率の点では乃木のこの手配はいかがなものでしょう?
674 :
兵八:2001/08/22(水) 00:08
今思い出しましたが、現代の中国では、日露戦争時の旅順陥落の際も
日本帝国陸軍による住民虐殺があったことになっているそうです。
2万だったか3万だったか。
まあ、いい加減に
「馬鹿も休み休み言え!」
といってやりたくなりますが。
675 :
嶽原:2001/08/22(水) 00:28
うわあビックリした!兵八さんどもども。
676 :
嶽原:2001/08/22(水) 01:02
旅順総攻撃第一日目に望台近くまで突出し、あわよくば突入も、
というところまで行った部隊がありますが、その部隊が一戸旅団
です。軍命令で撤退となったとき、彼は「乃木軍司令官の気持ちが
わからない。なぜ情況に一致しない命令を出すのだろうか」と憤慨
しつつ退却していきます。
あとになって、支援砲弾の欠乏状態や、自部隊の突出情況を理解
して納得されているようですが。一戸が乃木を嫌ったというのは、
多分この時の話でしょう。後には乃木を敬慕し、自身も「今乃木」
と称されるようになっています。
677 :
嶽原:2001/08/22(水) 01:44
>>670の主題は「人を見る目」「人材発掘」、だいぶ話が逸れましたね。
編成4軍にほぼ共通することですが、特に第三軍の編成は急遽のもので、
軍首脳部の編成も人との繋がりとかを考慮したものではなかったと思われ
ます。
参謀を手塩掛け育てる、という情況は平時におけるものだと考えますが、
乃木は日清戦後新設の善通寺第十一師団の師団長となっており、彼の新設
師団の育成ぶりはかなり評価されていると思います。
678 :
日本@名無史さん:2001/08/22(水) 08:04
>>672 藩閥体制に疑問を思っていた一戸が乃木を慕っていたというのは
おかしい。戦後のリップサービスならともかく津軽藩と明治政府の
関係を見て常識的におかしい。
ここのレスを見る限り日露戦争後の乃木批判は公にはできない
風潮があったとある限り、両方の意見が活きて来ますね。
679 :
兵八:2001/08/22(水) 20:10
>>678 だから、
「津軽人は薩長人が嫌いだ」→「一戸は津軽人で、乃木は長州人だ」→「だから一戸は乃木が嫌いだ」
って三段論法には無理がありすぎだと思うんですけど・・・・・・。
しつこいようですが、ソースは何処なんですか?
680 :
嶽原:2001/08/22(水) 20:15
とりあえず根拠を希望します。
「藩閥体制に疑問を思っていた一戸」
藩閥体制というキーワードにはやや辟易するところでありますが、
根拠のあるものならばそれは傾聴に値する指摘ですね。
こちらの根拠としては「今乃木」と称されていた事、彼自身乃木を
敬慕する発言をしている事、を挙げます。そちらはいかが?常識的に
とか言われても困ります。
681 :
嶽原:2001/08/22(水) 21:10
とりあえず、670さんの後段の問題点は解決としてよろしいでしょうか。
『旅順虐殺に関しては占領地ではよくあることが表に出てしまったと
思います。この一点で乃木将軍が後世言われるほどに統制が取れていた
とは信じがたいと考えています』については671の返答でよろしい?
ちなみに、669で私が述べている「殲滅戦」とは、金州城救援急行時に
遭遇した清国軍をほぼ全滅させたことを指してますのでお間違えなきよう。
682 :
日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:41
>>兵八氏 常識的という表現には反感を覚えます。
あなたの持っている知識がすべての人に理解されて
いない以上、それを常識的とするのは間違いです。
またあなたの言う常識には藩閥意識がなかったのは明確です。
一戸を”今乃木”というより”乃木後の乃木”と評価したのは
他人であって、彼自身ではない。
また彼が1901年に旅団長に就任して以来、対ロシア戦を研究した戦法
と乃木大将のとった戦法とは大きく違い,彼が人間性に引かれていたのは
事実だが、作戦面では批判的であった。
奉天戦に一戸少将が第3軍参謀長に抜擢した乃木大将の評価は
あります。ただ彼のような部下を直ぐに抜擢せずに伊地知の更迭、小泉の
負傷が重なってのことが少々懸念される。
彼自身が敬慕する発言というのはどの時期のどのような場で
発言されたものですか?詳しく聞きたいですね。
あと私の評価は乃木は日清戦争の功績等はある程度認めていますが、
旅順作戦における判断は誤謬が多かったと思います。
特に白襷隊に至る経緯は酷い。
やはり普通の官僚的な将軍だったという評価を未だ持っています。
683 :
日本@名無史さん:2001/08/22(水) 21:49
乃木邸は赤阪だよヴァーカ
684 :
兵八:2001/08/22(水) 22:59
>>682 話があちこち飛んでいる様なので、順を追って整理してお答えします。
>また彼が1901年に旅団長に就任して以来、対ロシア戦を研究した戦法
>と乃木大将のとった戦法とは大きく違い,彼が人間性に引かれていたのは
>事実だが、作戦面では批判的であった。
>奉天戦に一戸少将が第3軍参謀長に抜擢した乃木大将の評価は
>あります。ただ彼のような部下を直ぐに抜擢せずに伊地知の更迭、小泉の
>負傷が重なってのことが少々懸念される。
>彼自身が敬慕する発言というのはどの時期のどのような場で
>発言されたものですか?詳しく聞きたいですね。
(前略)
第一連隊の新品少尉に日露戦争において武名を上げた勇将一戸兵衛がいた。一戸は乃木の第三軍隷下の一旅団長として旅順陥落に大功を立て、戦争末期第三軍参謀長として乃木を補佐したが、もっとも乃木を敬愛した人物の一人である。
少尉に任官した頃、一戸は週番勤務をした。一週間の勤めを無事終えて、自宅に戻りくつろいで好きな酒をチビリチビリやっていたところ突然豪雨となった。
するとまもなく「公用」という声が玄関に響き、一兵卒が連隊からの命令を伝える状箱を差し出した。それを開くと再び週番勤務の命令であった。
一戸がその理由を尋ねると、某中尉は腹痛、某少尉は頭痛、某少尉は歯痛等等でその代わりということである。
つい少し前はいずれも元気だったのに、豪雨が始まった途端仮病を使い週番勤務をのがれんとしてそれを一戸に押し付けたのである。
温厚でめったに怒ることの無かった一戸もこれには腹が立ち、直ちに所労届を出して断ろうと思ったがその途端我に立ち返り、
「いやいや我過てり、過てり。人は人、我は我だ。よし他人が幾十人仮病をしようと、健全な我は豪雨だからとて急病人となるわけはない。公務とあれば詮無し。人を疑うではない」と思い返し進んで週番勤務についた。
ところがこのことはたちまち乃木連隊長の知るところとなった。乃木はすぐさま全将校を連隊本部に集めるや、厳然たる態度で仮病を使った将校一人一人にその急病の具合を尋ねるとともに、
彼らのその恥ずべき醜い心事を容赦なく指弾し厳しく戒めた。一方一戸少尉が何ら怨嗟の態度なく引き続き週番勤務に服したことを軍人の模範であると称賛した。
これが一戸と乃木の出会いであったが、以後一戸は益々乃木に心服、軍人の手本として仰いだ。後年一戸は陸軍大将となり、教育総監という陸軍首脳の地位に上り、乃木没後「今乃木」とまで称えられる人物となる。
旧津軽藩出身の一戸が大将にまで進むことは容易なことではなかったが、後年彼は「自分は連続週番のおかげで大将になった」と述懐している。
(岡田幹彦「乃木希典」)
「乃木閣下のおかげで大将になれた」と書いたのは私の記憶違いでした。ごめんなさい。
一戸が少なくとも乃木を人格者として敬愛していたのはこの通り間違いない事実ですが、戦術面で批判していたというのは寡聞にして知りませんでした。
もう一度聞きますが、ソースは何ですか?
>あと私の評価は乃木は日清戦争の功績等はある程度認めていますが、
>旅順作戦における判断は誤謬が多かったと思います。
>特に白襷隊に至る経緯は酷い。
>やはり普通の官僚的な将軍だったという評価を未だ持っています。
ここら辺は、私の云いたい事は殆ど軍板で出尽くしているのでそちらを参照なさってください。同じ事を何度も述べるのはメンドくさい&資源の浪費ですからね。
→
http://yasai.2ch.net/army/kako/990/990415657.html
685 :
日本@名無史さん:2001/08/22(水) 23:12
乃木はクソです!
========白襷隊遺族一同==========−
686 :
日本@名無史さん:2001/08/22(水) 23:17
生涯童貞
687 :
兵八:2001/08/22(水) 23:17
>>682 >兵八氏 常識的という表現には反感を覚えます。
>あなたの持っている知識がすべての人に理解されて
>いない以上、それを常識的とするのは間違いです。
>またあなたの言う常識には藩閥意識がなかったのは明確です。
つか、私が「常識で考えて」って云った箇所は所謂「旅順虐殺事件」に関する部分を指していて、「藩閥」云々とは関係ないんですが。
あえて私見を述べさせてもらうと、薩長土肥以外の「非雄藩」出身の人たちが雄藩出身の将校に反感を抱いていたのは、一般論として、「常識で」考えれば確かでしょう。
しかし非雄藩出身だからといって長州人全てに反感を持っていたとは到底云えないだろうし、ましてや一戸は乃木を尊敬していたという確固たる事実があるのだから、貴方のソースは何処にあるの?と問うただけなんですけど。
それから、確かに私にとっての常識は世間一般から見れば非常識な知識なのかもしれませんね。というわけで、前掲スレを読んで「兵八にとっての常識」を身に付けてくださる方が一人でも二人でも居るよう、願っています。
688 :
読書三昧の日々:2001/08/23(木) 01:19
乃木大将って言うのは、何回も聞いたことあるが・・
森鴎外先生が、大変尊敬していた人という位しか知らない。
689 :
嶽原:2001/08/23(木) 05:01
「乃木が愚将だなんて、常識じゃん」
「伊地知が役立たずなんて、常識じゃん」
「藩閥体制からみて一戸と乃木が不仲なんて、常識じゃん」
常識の陥穽探る楽しさよ 何がホントで何が嘘やら
690 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 07:16
軍閥興亡史(伊藤正徳)では伊地知のみ203高地重視を全面に押し立てていたと
いう記述がかしこに見受けられます。逆に師団長と配下の参謀が正面攻撃に
固執し、乃木大将がそれに押されたという意見で面白い。
伊地知の更迭は軍閥の犠牲者という視点ですね。
その点で坂の上の雲とは違いますし、伊藤氏自身、乃木大将に比較的
同情的な意見なので意外とこの辺が真実かもしれませんね。
またこの資料をもとにした旅順PHP文庫→拓殖氏の意見も同じですね。
ただし、この本をまともに信じると痛い目に遭います。
総予備の第7師団の一部による白襷隊の発案がなぜ出されたのかを
ご存知ならば、白襷隊というものがいかに悲惨な経緯をもっているか
もご存知でしょうに。
乃木大将が4回あった攻撃のうちの第3次総攻撃後の会議にて
第7師団を率いて敵要塞の中央を突破するという訓示に対し、参謀が
2時間をかけての代案であった。
この意見には各師団長が感銘して同意しかけていたとある。
つまり彼は死に場所を求めていたので1個師団の肉弾と精神力で近代要塞
を抜こうという視点を裏付けるものとなる。如何に乃木大将が日清戦争また
過去の戦争で功績があったとしても全ての功績を無にしてしまいますね。
第3軍の閉塞感を吹き飛ばした児玉参謀が来なければ堂堂巡りをしていた
のではと伊藤氏は述べています。これは機密日露戦史も同様の意見ですね。
児玉参謀の203高地の攻撃の妙は、今まで第3軍が203高地の正面攻撃また
援護砲撃にしても攻撃正面の堡塁に砲撃をしていたのを改め、
203高地への側射砲撃を防ぐために回りの山々の堡塁、砲台を制圧した
ことによる。この攻撃転換の末にそれまで逆襲によって奪回されていた203高地
の占領維持する事が可能となった。 (軍閥興亡史、機密日露戦史)
一戸の文献は東奥日報社の斉藤光政氏の論文を参考にしております。
兵八氏は一戸が第3軍参謀長に抜擢された事実と経緯を述べなかったこと
と勘違いなさったことに私は兵八氏への知識に疑念を持ってしまいます。
691 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 07:20
二等兵として乃木に配属されたら最悪だろうな
692 :
嶽原:2001/08/23(木) 10:53
中村少将の「白襷隊」提案は、乃木陣頭突入を回避するために出された、
というのは、伊藤氏『軍閥興亡史』で見ました。ただ、冒頭の伊地知203
重視案と同様に、あまり広く知られていない説だという印象を受けました。
特に、この第三次(大惨事と変換されて苦笑しました)攻撃は、事前に
満州軍総司令官へと攻撃案が報告されてかつ承認されたものであるので、
軍司令官自ら陣頭突入、なる誰が考えても拒否されるだろうな、という
ハナシはやや眉唾ものと思っています。
693 :
嶽原:2001/08/23(木) 10:56
ところで、「一戸の文献」というものの内容は、690のどの部分に出て
いるのでしょう?
私は、一戸少将の参謀長赴任が「(乃木の)抜擢」によるものだという話は
聞いたことがありませんが、『東奥日報社の斉藤光政氏の論文』にはそれが
論じられているということでしょうか。
695 :
嶽原:2001/08/23(木) 12:11
僭越ながら兵八氏(
>>684)の補足とさせて下さい。
東京第一連隊長当時の乃木を回想する一戸兵衛の談話。
「その頃の乃木さんは年も若く、風采も優美、普通人よりはずっと気も利き、
厳格で親切で元気に飛んだ非常に勉強した人であった。当時の軍人は今の
ように秩序立ったこともなく、一向世間に交わる事もしないから、寄ると
わらると連隊長の噂などで持ち切ったが、誰一人乃木さんを悪くいう者は
なかった。上のことは知らぬが部下はことごとく心服していた。
そこへ乃木さんは学問があった。当時の軍人は元気を主にして学問に重きを
置かなかったが、乃木さんは最もよく学問に努められた。これも部下の心服
するひとつになっていた。
当時の若い弛緩は酒でも飲んで荒っぽい話でもせねば軍人でないように
いっていた。休暇などには大勢で連隊長の宅へ押し掛けて酒を呷ったり戦争談
をしたりして元気を養った。今から思うと随分思い切った不秩序なこともした。
また親睦をはかるためといって、月に一度づつは料理屋へもいった。無礼講
というので上下の差別なく入り乱れて飲み合うのが、我々青年のためには
どんなに愉快だったろう。乃木さんも無礼講の席上で秩序のない遊びをする
のが好きだった」
696 :
嶽原:2001/08/23(木) 15:12
あと、状況証拠めいたことではありますが、乃木の葬式に際し、乃木の棺
を載せた砲車には、生前親交のあった陸海軍人が付き従っています。
陸軍からは大島久直中将・土屋光春大将・一戸兵衛中将・秋山好古中将など。
海軍からは上村彦之丞大将・八代六郎中将など。
一戸と乃木との交流は、私はこういうものだったと思ってます。
697 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 18:24
>>696 ならば、世の中の社長の社葬なみの付き合いですね。
698 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 20:39
一行居士の出る幕じゃねえひっこんでろ
699 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:07
乃木と一戸の仲がどうの・・ということについてですが、
凱旋途中?、料亭かどこかで第三軍幹部達が酒盛りして居る時、
乃木さんが楽しそうに笑っているのを見て一戸さんが
「乃木さんが久しぶりに笑った」と嬉しそうだった。
と、どこかで見ましたが。これを見る限り十分好意的では??
そして一戸将軍が「司令部は前線の状況を分かっていない!」と
言ったのだって、現在でもごく普通に見られる現場から事務への
一時のいざこざでは?
もちろんそんないざこざ無しに事務=司令部が現場=前線の事を
きっちり把握していればそれに越した事はないですが。
>>670 >乃木希典に慕っていった人間がいたのか?また彼の軍門に入りたいという
>人々の伝記が無いということに疑念を感じている。
遅レスですが・・
伝記というほどではないですが、居るですよ。第三軍参謀。
後に中央乃木会(記憶違いならスマソ)の会長になった人もいれば、
こんな会話をした、と著書に残した人も。
乃木「お前は俺にについていると損をするから、他に出世の道を考えなさい」
参謀「いや、そんな事は問題ではありません。何処までもお伴をいたします」
・・・乃木の予言どおり軍人生活恵まれませんでしたが、その参謀(藁
700 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:18
一戸は旅団長に就任した○一年に、早くもロシア軍の研究を指示しており、
その結論は兵力の集中運用による一点突破。だからこそ、全戦線にわたって
漫然と攻め続け、いたずらに消耗を続ける司令部が理解できなかったのですが。
701 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:20
中村覚 日露戦争の時、旅順攻防戦で乃木希典指揮下の白襷隊
で活躍明治天皇の侍従武官長1915(大正4)年1月 陸軍大将に昇進
白襷隊って成功したと見られたのかな。
702 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:24
11月25日、総攻撃前日。「特別支隊」の幹部を集めて支隊長・
中村少将(第1師団)による「特別支隊ハ最名誉ノ支隊ナリ。只一人
モ生キテ還ルヲ期スベカラズ。決死以テ目的ノ達成ニ努ムベシ。(略)
故ナク後方ニ止マリ、又ハ隊伍ヲ離レ、若クハ退却スルモノアラバ、
幹部ニ於テ之ヲ斬殺スベシ。」という壮絶な訓示が行なわれ、同時に
敵味方識別の手段として「白襷」を使用する事が取り決められ、以後、
この部隊は「白襷隊」として知られる事になります。
11月26日払暁。第七師団のうち特別支隊に参加する歩兵第25連
隊は旅順の正面、水師営北方の集結地へ、その他の部隊は予備として後
方への展開を完了します。
午前八時。28センチ榴弾砲の砲撃開始、午後十時には各種重砲の砲
撃も加わり旅順要塞は爆煙に包まれます。
午後一時。第十一師団工兵隊の陣地爆破を合図に第一師団・第九師団
・第十一師団による突撃が開始されます。しかし、旅順要塞の鉄壁の
防禦の前に突撃は頓挫、敵陣地に到達するかしないかの間に次々と日本軍将兵
は倒れていき、第1次、第2次総攻撃の繰返しの感がありました。
午後五時。全方面の攻撃失敗を知った第三軍司令部は特別支隊に「松樹山、
楊家屯、白玉山の占領〜要するに、進めるところまで進め〜」を発令します。
感想。何ゆえ砲撃の支援無く、正面攻撃なんでしょうね。
>>692 乃木にとって不都合のところは眉唾にするのはDQNだな。
704 :
兵八:2001/08/23(木) 22:28
>>700 それは野戦の研究結果ではないですか?要塞戦では成り立たちにくい戦法だと思うんですけど。
もうちょっと具体的に、せめて資料の引用文の形で示してくれないと、コメントの仕様がないです。
やっぱり嶽原さんの知識はすごいなあ。脱帽。
705 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:28
乃木はその無能さゆえに元帥に推挙されなかった。
自分のカミさんと無理心中したのは明治天皇への
あてつけとの話。
706 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:41
>>704 203高地が落ちたのはガタ落ちした日本軍の兵力を
1点に集中したお陰ですけど。全てを擁護するのは無理だぞ。
707 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:41
>>705 乃木はたんなるキチガイだから、そこまで考えてないだろ?(藁
708 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:42
兵八の資料は兵頭とウヨ岡田しか読んでないから意味無いよ。
709 :
嶽原:2001/08/23(木) 22:46
>>乃木にとって不都合のところは眉唾にするのはDQN
換言すれば、軍司令官といえども軍行動に私情・私憤を挟める余地は
あまり無いということですよ。「死んで詫びます」「ここで死なせて」とかね。
特に、この第三次総攻撃は事前に満州軍司令部へと作戦計画を伝え、
了承を受けたものであり、上記のような余地は尚更少なかったでしょう。
第三次総攻撃の途中で、203を主攻とするように作戦計画が急遽変更され
ます。その際、満州軍から派遣された参謀がその変更を一時拒んだことも
この想像の裏付けになると思うのですが。
710 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:48
>換言すれば、軍司令官といえども軍行動に私情・私憤を挟める余地は
あまり無いということですよ。「死んで詫びます」「ここで死なせて」とかね。
軍旗をなくして死んで詫びるというと同じなんですけど。
711 :
兵八:2001/08/23(木) 22:49
>>706 だ・か・ら。
「最初から203高地に全力を集中していれば、203高地は攻略でき、旅順も早期に落ちていた」
なんて単純な話ではないですよ。
712 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 22:51
>>711 最後に203高地に兵力を集中させて 児玉が高地を占領維持
出来ないのは周りの山々の側射射撃を行うロシア堡塁を制圧するため
に全火力を集中させたんでしょ。
なにも早期に落ちていたなんてどこにも
>>706に書いてない。
何を妄想している?
713 :
嶽原:2001/08/23(木) 22:56
明治39年01月初め、第三軍は内地帰還の途につく。
01月10日広島宇品着。宿泊の旅館の夕食は蠣飯であった。
旅館が出した沢山の飯を、第三軍幕僚は食い切れずに残してしまう。
「これは旦那様方のお敗けでございますね。旅順も奉天も落としなすった
方が、このお櫃は陥落できないのでございますか」と女中がいい、その
機知が気に入って乃木は大いに笑った。
あとになって一戸はその女中を陰へ呼んで礼を言ったという。
「よくいってくれた。ああして閣下が高笑いをされたのは久しぶりだよ」
714 :
嶽原:2001/08/23(木) 23:11
>>702 午後五時。全方面の攻撃失敗を知った第三軍司令部は特別支隊に「松樹山、
楊家屯、白玉山の占領〜要するに、進めるところまで進め〜」を発令します。
?私の資料では軍命令はこうなっていますが?
11月26日1600、軍司令官は特別予備隊に出撃を命じる。1800に隊は集合地
を出発した。
出発に先立ち、乃木軍司令官は中村少将に命令を与えた。
1・貴官の指揮する特別予備隊は、敵の不意に乗じて要塞内に侵入し、敵の
防御線を両断し、要塞の陥落を速やかならしむべし。
2・貴官は以上の目的を達成するため本夜暗を利用し、まず松樹山補備砲台
付近の敵塁を奪取して立脚点を占め、猛烈果敢に王家屯東方高地上に在る
複郭の一部を奪取し、成し得れば白玉山を攻略し、万一不幸なる情況に陥る
とも、其地を死守して来援を待つべし。
1では攻撃主眼を要塞本防御「線」の両断としています。2では、具体的
攻撃目標を「補備砲台付近の敵塁」に定め、そこを立脚点として「其地を
死守せよ」としています。
貴方の言われている「松樹山、楊家屯、白玉山の占領〜要するに、進める
ところまで進め〜」というのはどういう命令文からそう言われるのですか?
715 :
兵八:2001/08/23(木) 23:50
>>712 失礼。少し言葉が足りませんでしたね。
一点集中突破によって敵陣を分断し、敵の速やかな崩壊を図るという戦法は
基本的に野戦の発想です。
旅順のような要塞は各堡塁が緊密に相互の火力支援を行える構造になっているので、
一つの堡塁に全力を集中して奪取しようとしたとしても、他の堡塁から腹背射撃を
喰らう形になり、一点突破は難しいのです。
だから、一戸の言うような一点集中に理があるとは思いにくい。
また、203高地攻撃が成功したのは、それまでの第三軍による攻撃で旅順の各堡塁が
かなり深刻なダメージを受けており、効果的な支援が行えなかった事が大きな
要因です。よって、「一点に集中したから落ちた」というのは違うというか、
あまりに途中を端折り過ぎな表現だと思われます。
で、一戸が軍の作戦方針に批判的だったという元ソースがまだ出ていないんですが。
716 :
日本@名無史さん:2001/08/23(木) 23:51
>2・貴官は以上の目的を達成するため本夜暗を利用し、まず松樹山補備砲台
>付近の敵塁を奪取して立脚点を占め、猛烈果敢に王家屯東方高地上に在る
>複郭の一部を奪取し、成し得れば白玉山を攻略し,万一不幸なる情況に陥る
>とも、其地を死守して来援を待つべし。
日本語講座
松樹山を攻め、立脚点を占領でき”たら”、次に”猛烈果敢”に王家屯東方高
地上を奪取して進み、それが成功”すれば”、白玉山を攻略せよ。
万一不幸な状況に陥ったとしてもその地点を死守せよ。
”たられば”なんだよね。要するに進めるとこまで進め。
717 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 00:16
>203高地攻撃が成功したのは、それまでの第三軍による攻撃で旅順の各堡塁が
>かなり深刻なダメージを受けており、効果的な支援が行えなかった事が大きな
>要因です。
無茶苦茶ですね。あなたの意見はますます信用できません。
1回,2回総攻撃の軍の砲兵は師団つまり攻撃地区ごとにほぼ均等
に割り振られており、その攻撃重点地点も東山など東北正面であり、
西北の203高地の砲撃支援はできません。
二百三高地とその周辺の老虎溝山、化頭溝山付近って第1回から
第3回まで軽視されていたのは過去のレスで何度も見ています
よね。また二〇三高地付近がロシア軍に強化されたのは第2次攻撃
以降であり、それまでの攻撃によって弱められていたという
根拠はない。(益々強化されていっています)
それまで各師団に分散されていた砲火力を集中させて、特に
二十八サンチ砲の配置転換でもってロシアトーチカを破砕し、
周辺の堡塁を制圧させたのですが?こういった事実を無視し、
捏造する行為はどうかと思われますね。
ソースを提示しろと仰られていますが、あなたの根拠は
信用できませんね。
718 :
嶽原:2001/08/24(金) 00:26
>>717 二十八サンチ砲の配置転換:行われておりません。
失礼 重砲隊を高崎山ですね。
720 :
兵八:2001/08/24(金) 00:51
>>717 むむ?何か誤解があるようですね。
>1回,2回総攻撃の軍の砲兵は師団つまり攻撃地区ごとにほぼ均等
>に割り振られており、その攻撃重点地点も東山など東北正面であり、
>西北の203高地の砲撃支援はできません。
なにも、「旅順の全堡塁を同時に攻撃しなければならない」なんて言ってませんよ。
貴方が「203高地のみを集中して攻撃し、落とせば良い」ともとれる発言をなさって
いたので、「要塞攻撃にはある程度攻撃方向をを分散させる必要がある」と注意を
喚起しただけですが。
>二百三高地とその周辺の老虎溝山、化頭溝山付近って第1回から
>第3回まで軽視されていたのは過去のレスで何度も見ています
>よね。また二〇三高地付近がロシア軍に強化されたのは第2次攻撃
>以降であり、それまでの攻撃によって弱められていたという
>根拠はない。(益々強化されていっています)
東北正面を中心にして、旅順要塞全体にある程度のダメージを与えることが
出来ていたから、203高地攻略も成功したのだ、と言ってるのですが。
203高地とその周辺陣地にダメージをを与えていたから・・・・・・、ではないですよ。
ついでに言っておきますが、28センチ砲でトーチカを破砕した・・・・・・云々と
いう表現は語弊がありますね。28センチ砲の威力は確かに強大でしたが、
べトンの構造物そのものを崩壊させるほどではありませんでした。
721 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 00:59
>>720 コンドラチェンコはどうやって死んだのか?調べてみれば。
722 :
嶽原:2001/08/24(金) 01:06
>>716 砲撃戦の応戦中のようですから、議論拡散防止のために白襷隊については
休戦を提案します。以後ご了承下さい。
白襷隊は乃木大将の汚点だからね。心身薄弱で決断したら
あぁなるんでしょうね。
724 :
兵八:2001/08/24(金) 01:16
>>721 28センチ砲弾は重量200キロ以上もありましたが、詰まっている炸薬は
10キロ未満です。これではべトンの天蓋を貫通し、内部の兵員を殺傷する事は
出来ても、爆圧によって強固な構造物自体を吹き飛ばすことは困難でした。
この砲の威力が期待したほどでなかった事は、いろんな資料の一致して認める
所ですが。
725 :
嶽原:2001/08/24(金) 01:43
>>717『二十八サンチ砲の配置転換でもってロシアトーチカを破砕し』
二十八糎榴弾砲によって陣地が爆破・破壊されたというのはあまり
聞きません。砲弾の直撃による貫通穴は数カ所に生じたようですが。
同砲弾はもともと対艦船用のもので、柔らかい地面などへの弾着を
想定したものではなく、ために信管関係に由来する不発が実に多かった
といわれます。三発に一発とか……。また、ただでさえ少ない炸薬が
発射時の圧力と弾着時の衝撃で薬室各所に分散してしまい、爆破力が
大いに減殺されてしまうという欠点が指摘されています。
そういう物の、数少ない直撃弾で旅順防衛側きっての勇将が死亡
するということになってしまったのは、日本側としてはかなり幸運な
ことでした。現在徐々に公開されつつある旅順近辺に住む住人からは、
28榴弾はさほど効果を与えなかったようだという話を聞けるそうです。
726 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 01:44
初期の鐵甲弾と後期の劣悪な銑鉄弾との威力は違いますね。
旅順戦の初期に配備されていたのは海軍用の鉄甲弾ですね。
色々な資料をひくと初期の鉄甲弾はべトンには威力を発揮
したが、普通の塹壕に対しては効果はない。(当たり前)
このような資料を巧く使うと偏った意見を出すことも可能です、
727 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 01:45
海軍用=対艦用
白襷隊はかなわないから、言葉の揚げ足を突っ込むんだ。
729 :
嶽原:2001/08/24(金) 01:49
?言われていたのは28榴弾砲の事ではなくて?
>>717 『二十八サンチ砲の配置転換でもってロシアトーチカを破砕し、
周辺の堡塁を制圧させた』
730 :
嶽原:2001/08/24(金) 01:55
28榴弾砲の砲弾は、砲本体ともども本土にゴロゴロしていてそれを
持っていってますが。粗製砲弾ではなかったと思います。
731 :
兵八:2001/08/24(金) 02:10
>>728 軍板スレの720-750辺りを読んでから、もう一度いらしてください。
732 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 02:28
>>731 軍事板420 己の妄想を語っているけどこれを自慢したいのか?
@野戦で目立つように白襷をする これであなたの擁護意見は全て無意味。
リエージュ要塞は大損害でドイツ軍では二度と用いていません。
A旅順では予備兵力がありません。また他の野戦で2度、3度と使っています。
Bロシア側の感想でまたしても無意味。
あなた もうやめたら?
733 :
嶽原:2001/08/24(金) 02:35
現在の話題は主に二つと見えます。白襷隊と203争奪時の砲撃戦。
スレは一つです。どちらかにしましょう。
734 :
日本昔名無し:2001/08/24(金) 17:32
この人の銅像ってどこにあんの?東京?それとも出身地の山口?
735 :
嶽原:2001/08/24(金) 21:13
特に選択されないのならば、私は
>>716の「要するに進めるとこまで進め」
という白襷隊への軍命令の余りに乱暴な解釈に、異議を挟みたいと思っている
のですが。
736 :
兵八:2001/08/24(金) 21:17
>>728 おっと、しまった。720-750でなく、420-450であったか・・・・・・。恥だ。
>>733 せっかくですから、白襷隊に話を持っていきませんか?
>>724、
>>725に対する再反論も無さそうですし。
白襷隊に対する嶽原さんの見解もお伺いしてみたいと思いますし。
737 :
兵八:2001/08/24(金) 21:18
>>735 わちゃ、リロードしとけば良かった・・・・・・。恥の上塗りだ。
738 :
嶽原:2001/08/24(金) 21:49
例えば1・2と列記された命令文があった場合、1の方をより重視するのは
禁句のようだが「常識」である。
1・貴官の指揮する特別予備隊は、敵の不意に乗じて要塞内に侵入し、敵の
防御線を両断し、要塞の陥落を速やかならしむべし。
1には、防御線の両断を目的とする、と述べられているのであり、市街地
突入など一言もない。そして具体的地名が併記の2に説明される。
2・貴官は以上の目的を達成するため本夜暗を利用し、まず松樹山補備砲台
付近の敵塁を奪取して立脚点を占め、猛烈果敢に王家屯東方高地上に在る
複郭の一部を奪取し、成し得れば白玉山を攻略し、万一不幸なる情況に
陥るとも、其地を死守して来援を待つべし。
具体的地名として第一に述べられている松樹山補備砲台付近の敵塁というのは、第一次総攻撃でかろうじて占領できている 盤龍山東・西堡塁と同様に敵の
主防御線をおびやかす地点であり、前述1の命令文の具体的説明をしている。
そこを通過点としているのではなく、立脚点としていることからも、第一次
総攻撃で得られた楔のような占領地を拡大し、防御線の分断を強く意識して
いることが伺える。
続く地点は無謀極まるものであるし、1の防御線の両断という主旨から完全
に逸脱し要塞内部への侵入を意味する。夜陰に紛れての侵入が思いの外順調に
行った場合……と淡い期待を抱いて漫然と地名を連ねていったのかも知れない
が、そのため1と2の前半と、2の後半とでは、相反する命令になっている。
しかし、その場合1が優先されるのだろう。
少なくとも、2だけを取り上げて「日本語講座」展開するよりは比較的
マシな見方だと思っている。
739 :
699:2001/08/24(金) 22:18
・・皆さん凄い知識ですね。勉強になります。
これからもどんどん議論していってください。
読んでこちらも勉強します。
>>1 「乃木さんってどんな人?」については「静寂の声〜乃木希典夫妻の生涯〜」(渡辺淳一著)を
読むと、雰囲気が掴めるかと。小説ですが。
>>713 そう、前の発言で自分が言いたかったのそれです!・・さすがだなぁ。
とにかく、嫌いならそんな事しないでしょう。一戸将軍。
作戦に批判的なのと、好きか嫌いかというのは別次元の話と思いますが。
・・・あ、もうこの話終わってますね・・・逝ってきます。
740 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 22:22
>続く地点は無謀極まるものであるし、1の防御線の両断という主旨から完全
>に逸脱し要塞内部への侵入を意味する。夜陰に紛れての侵入が思いの外順調に
>行った場合……と淡い期待を抱いて漫然と地名を連ねていったのかも知れない
>が、そのため1と2の前半と、2の後半とでは、相反する命令になっている。
>しかし、その場合1が優先されるのだろう。
1・貴官の指揮する特別予備隊は、敵の不意に乗じて要塞内に侵入し、敵の
防御線を両断し、要塞の陥落を速やかならしむべし。
つまり 2の具体的方針は相反するので1の抽象的な目的を
優先させるということを通したいのですね。 あなたは
会社で上司からの命令を受けたことはないのですか?
741 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 22:28
1の目標を達成するために2の項目があるのでしょ?
>>738の意見はおかしい。
2の項目を無謀きわまる要求を達成すれば1の防衛線を両断
することも可能ですね。
しかしここで問題になっているのはこの無謀きわまる要求が
問題になっているのです。なぜこのような淡い期待をもとにした
命令が出されたことに問題があるのですよ。
742 :
日本@名無史さん:2001/08/24(金) 22:30
乃木の功績すべてを名将とみるか愚将とみるか、いずれにせよ
両者はDQNだな・・(藁
743 :
兵八:2001/08/24(金) 22:54
>>732 白襷隊に対する貴方の見解は、「要塞に夜襲を試みるなど無謀愚劣極まる」「現に夜襲は失敗した」「だから乃木と参謀たちは無能だ」でお終いですか?
「要塞に対する夜襲という戦法を試みたのは、当時としては止むを得ない事情もあった」「戦術的には失敗したが、100%の失敗とまでは言い切れない」「この失敗のみで乃木と幕僚の功績を相対化し、無能呼ばわりすることは酷だ」と弁護することは、「妄想」に過ぎないのですか?
戦史研究に於いては、一刀両断で切り捨てるのではなく、多様な観点からの分析を試みる態度が必要だと思いますが?・・・・・・いやココは史学板だったか。
>野戦で目立つように白襷をする
白襷隊は要塞戦で行われた戦法ですが?
>他の野戦で2度、3度と使っています。
・・・・・・どうも白襷隊の夜襲と、野戦陣地に対する夜襲(例:弓張嶺)とを混同なさっているようですね。ここでは旅順(要塞戦)の話をしているのでしょう?
>リエージュ要塞は大損害でドイツ軍では二度と用いていません。
リエージュ要塞云々は、旅順戦以外に要塞に対して夜襲を試みた戦例を示し、「要塞に対する夜襲などとんでもない」という貴方の偏見を相対化する材料として提示しただけですが、何か?成否はこの際問うていませんが。
>ロシア側の感想でまたしても無意味
ロシア軍の士気に大きな楔を打ち込み、間接的にせよ開城に寄与したことは「無意味」だと?
「多数の戦死者を出した」というだけで思考停止してしまうのはどうかと思いますよ。まあ、ヒューマニズムには反するかもしれませんがね。
夜戦と野戦を間違ったんだろ。DQNなやっちゃ。
745 :
兵八:2001/08/24(金) 23:00
>>742 「乃木の功績全てを名将と見」た覚えなどありませんが、何か?
>>745 どこが?乃木の否定的な意見みたことない。
748 :
兵八:2001/08/24(金) 23:07
>>747 「純軍事的に見れば、白襷隊は無残な失敗としか云い様がなかった」と述べていますが?
>>748 >「要塞に対する夜襲という戦法を試みたのは、当時としては止むを
>得ない事情もあった」「戦術的には失敗したが、100%の失敗とまで
>は言い切れない」「この失敗のみで乃木と幕僚の功績を相対化し、
>無能呼ばわりすることは酷だ」と弁護することは、「妄想」に過ぎ
>ないのですか?
しっかり弁護してるだろ?
750 :
兵八:2001/08/24(金) 23:23
>>749 「軍司令官の乃木にも責任がある」と書いた覚えもありますが。
皆さんの仰り様が余りにも一方的なので、自然こちらとしては弁護せざるを得ないというだけの話ですけど。
しかし、スレの流れを著しく阻害してしまったなあ・・・・・・。嶽原さんスミマセン!
>>750 そう?乃木よりも司令部、大本営に責任転嫁している
論調だね。司馬も同じ論調だけど (藁藁
>>751 挙句の果てにロシア軍が強かったからなんて主張するんじゃない?
坂之上の曇って、乃木と乃木軍司令部を分けて記述しているから
さも軍司令部の意見=乃木大将の意見と見えるんだよね。
擁護派も同じ。藁藁
坂之上の雲で伊地知が二〇三高地を軽視していた雰囲気を文章に出しているけど、
明確に二〇三高地を避けていたという記述はないんだよね。藁藁
755 :
嶽原:2001/08/25(土) 00:09
753・754
小説をネタ帳にするのは限界があります。
小説の世界では話題の白襷隊は1000名だとか。また、そんな小規模集団
だというのに少将が指揮官となったのは、兵士を殺しすぎたために将校を
殺さなければならなかった統帥上の理由からだろう、などと推測しています。
700番台になろうというこの期に及んで、内容の不備が既に明らかな小説
の名は出したくないのですが。
坂之上の雲は3000名と明記しているよ。批判する側って
批判される本を禄に読まないのは司馬派も擁護派も同じ。藁藁
だから乃木と乃木軍司令部と分けて記述しているのを
擁護派はすべて乃木としている。相手の本を読まないのは
どっちも同じ。
758 :
嶽原:2001/08/25(土) 00:27
756
そうなんですか……失礼しました。?あれ?
759 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 00:31
坂之上の雲の記述を全て否定するのは不可能だし
肯定するのも不可能。史観を提供しているのに
目くじら立てて部分否定でもって全否定するのは
当然不可能。また一部の肯定でもって全肯定も
不可能。
それもわからず、今の今まで司馬否定をしている
あなた方はDQN
760 :
嶽原:2001/08/25(土) 00:44
史観の提供?しょせんは大衆向け小説に過ぎないものだという認識で
おりますが。否定も肯定もなく、もうなるべくは見たくないと思います。
そういう気持ちが先の誤認に繋がったようで、現在反省しておりますが。
>>587の文章では、まさに目から鱗の落ちる思いをしました。
史観なる言葉でまた鱗がかぶさる思いをしつつありますがね。
762 :
兵八:2001/08/25(土) 01:23
>>759 つまり、あなたも別に乃木を無能・愚将と評価しているわけではないので?
だったら別に、私がこれ以上噛み付く理由も無くなるのですが。
某スレでは司馬だけを元ネタに乃木批判をしている御仁がいたので、納得いくまで追求しましたけど。
だから司馬のネタは事実を書いているよ。ただ装飾が多いから
ごまかされるけどね。シカーリ見ると面白いよ。藁藁
764 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 08:32
旅順における乃木は愚将といえるでしょう。
彼は優秀な指揮官の下で働けば使える突進型の将でじっくり
攻めるなどはできない将ですね。(日清戦争の評価より)
軍司令官にはなれない中級将官くらいの能力でしょう。
765 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 08:45
>>762 兵八の名将だ!という意見に噛み付いているだけったな。
ななしのごんべは、坂之上の雲もろくに読んでないぞ。
児島 襄をちょこっとかじった程度じゃないか。
450 名前: 兵八 投稿日: 2001/06/23(土) 00:06
>>447 まあ、このスレは「乃木大将は軍神にふさわしい名将であったか?」
とでも勝手に読み替えておけば宜しいでしょう。というか、私はそう
してます。
あんたも完全なDQNだよ。名将(有能)じゃないね。
766 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 08:53
兵八の偏った意見さえ乗っけなければいいスレだったよ。
あんたの意見は事実を妄想を織り交ぜているから批判的。
767 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 09:21
あのスレでは兵八も結構いいこと言ってたぞ。勇み足もかなりあったが・・・・・・。
具体的にどこら辺が「妄想」なんだ?
お互いに相手を見ずにクソの投げ合いをしているだけ。
とくに兵八の意見は愚将批判感想文だよ。
常識的とかこう考えればのオンパレード
>>768 だから、もうちょっと具体的に例示するなり、なんなりしてくれや。
「常識的とかこう考えれば」の何処が悪いんだ?事実の羅列だけじゃ論評になんね―じゃん。
>>769 ハァ?近場の例
>>743の
> リエージュ要塞云々は、旅順戦以外に要塞に対して夜襲を試みた戦例を示し、
>「要塞に対する夜襲などとんでもない」という貴方の偏見を相対化する材料と
>して提示しただけですが、何か?成否はこの際問うていませんが。
成否を棚に上げて弁護する意見なぞクソ。この他にも突っ込みどころは
かなりあるぜ、鉄砲の3段撃ちのスレでもボケたことほざいていたしな
失敗は人のせいで成功は乃木のお陰の論調だな。
全てを責任転嫁する。
それをもって擁護するなんて乃木もかわいそうだよ。
乃木に責任がなければ、功績の評価もなくなるのにね。
あれはこういったことを理解してない厨房なんだよ。
772 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 11:43
事実を知りたいだけ・・なんていっていたが、自分の希望に
都合の良い事実を知りたいだけなんだな。皆、<藁藁
773 :
日本@名無史さん:2001/08/25(土) 11:51
>>770 の論調でいけば、乃木批判派の旅順を落としたことの
成否は問わずに、あれだけの死者を出した乃木は愚将という意見も
成り立つ。
兵八は自分の意見の論調で墓穴を掘っているのに気付かず自分
は落とし穴を掘って落としていると勘違いしているのが
イタイ。
ななしのごんべは落とし穴にはまったぞ。<藁藁
あほじゃな。
775 :
兵八:2001/08/25(土) 11:57
そろそろ流れを元に戻しませんか?
嶽原さんの白襷隊論、聞きたし。
777 :
嶽原:2001/08/25(土) 21:06
776
いやあお恥ずかしい。755でハマってしまいました(笑)。
やっぱり小説とはいえ色々読まないといけません。反省しております。
772
事実を知りたいです。それは変わりありません。極端な意見はやはり無理
があるもので、事実とはかけ離れたものである可能性が非常に高い。そういう
意味では大衆小説なるものはその立場上事実より面白さ、受け安さを狙う
きらいがあり、参考にはならないと思っています…いや反省、思っていま
した。自分に都合のいい事実かどうかは問題ではありません。
でもって、電文とか手紙とか証言とか、そういうのがよく載っているものを
参考にすることになるのですが、何処かでは、そういう作業そのものが笑われ
たのはちょっと辛いものがありましたね。
778 :
日本@名無史さん:2001/08/26(日) 04:41
>776
おいおい、そんなに居丈高になって良いのか?
「乃木は旅順虐殺事件に関与した」とか、
「一戸は乃木を嫌っていた」とか、
「28センチ砲はロシアの堡塁を破砕した」なんて認識もDQNそのもの、単なる厨房認識じゃねーか。
741・742
1で作戦目的、2で作戦方法が提示されているのだと思います。
(2の冒頭「以上の目的を達成するため」)
目的が第一でありましょう。そして具体的な指示をする。どこか
おかしなところがありますか?
そして戦闘は相手の居るものです。具体的な指示が実行不可能に
なることは特段珍しい現象だとは思いませんが。
私は前述のように主防御線の分断という目的は、補備砲台近くの
敵塁確保によって達成されるものであり、立脚点の確保という文言
を重視しております。
741後段
>しかしここで問題になっているのはこの無謀きわまる要求が
問題になっているのです。なぜこのような淡い期待をもとにした
命令が出されたことに問題があるのですよ。
そうですね。私は先に述べた理由(軍司令官先頭指揮なんて、総司令部
に提出する作戦計画に載せられるのだろうか?)という考えから、伊藤氏
「日本軍閥史」の記述には納得しておりません。だからといって、中村少将
の特別攻撃隊の提案が「なぜ出されたのか」という疑問の答えを持っている
わけではありませんが。
白襷隊作戦採用における事実とは、今のところこういったものではないで
しょうか。
1中村少将が提案 2軍首脳はことごとく反対 3乃木軍司令官は採用
そして問題点として、提案の理由(きっかけ)、採用の理由となるので
しょうか。
781 :
日本@名無史さん:2001/08/26 07:41
乃木は責任とってみずから突撃死するとかいってただろ?
おとなしく、そのとおりにさせてやればよかったんだよ(藁
だいたい大将がいうべき発言じゃないよな。これ自体
782 :
日本@名無史さん:2001/08/26 08:09
781 小説?噂?
「歴史と旅」でしたか、最新号が日露戦争の特集をしています。
現在のものではないようですが、カラー写真が豊富でいいです。
海軍陸戦隊重砲隊の話で、市街地砲撃を開始しはじめた頃の
かなり詳細な話が興味を引きました。どうも目標地域を碁盤目の
ように区切り、或る区画に砲撃を加えていたようです。その頃の
戦果とは市街地の火災、工場の破壊など、なかなか順調だったと。
このスレで以前話題になりました、レトヴィザン被弾の時は、
重砲陣地の近くから港を望んだところ、偶然艦船が認められ、
これ好餌と砲撃を加えた、という話が載っています。
203高地の激戦が正にたけなわとなっていた12月1日、乃木は第九師団長大島中将に対し、電話による口頭で以下のような命令を発しています。
「第九師団ニ於イテ歩兵二個大隊ヲ臨時編成シ、一戸少将ノ指揮ノ下ニ、明朝午前6時マデニ軍司令部ニ送ラレタシ。
軍司令官自ラ陣頭ニ立チ、当該二個大隊ヲ以ッテ最後ノ突撃ヲ決行セントス」
これに対し、大島中将は切に乃木の翻意を求める旨を述べ、結局乃木は陣頭に立っての突撃を断念しています。
(児島襄による)
軍司令官自身による突撃という行為自体に対しての論評は、むしろ倫理学的な問題なので暫く置くとして、
ここで注目したいのは、もう最後の予備兵力が無くなるか、それとも旅順が陥落するかという土壇場に在ってさえ、
各級指揮官が乃木の出馬に反対していることです(乃木は第七師団長大迫中将にも同様の命令を出し、反対され断念している)。
この事実を勘案すると、事前の作戦会議の段階で乃木が陣頭突撃を宣言し、誰もがそれに賛同したという
「軍閥興亡記」の記述はかなり怪しいと、私にも思えます。
嶽原さんに
>>756さん。貴方がたの依拠している「坂の上の雲」は、
一体昭和何年度版の刊ですか?
私の手元に有る昭和46年度初版では、しっかりこう書かれているんですが。↓
「この中村少将に率いられた「退却なし」という1,000人の白襷隊が、
旅順要塞の放火を浴び、一挙に951人が血煙をあげて戦死するに至る。」
「しかし中村が人選された理由は、将官といえども死地へ飛び込む、
という、士気鼓舞のためであった。
余りにも多くの兵を旅順において殺しすぎたために、この場合、
将官を死なせなければならぬ統帥上の理由はあったのであろう。
なぜなら、1,000人というのは一個大隊の人数であり、その指揮官は、
少佐でよかったのである。」
「「旅順市街に突入せよ」という途方もない命令を受けた1,000人の白襷隊が
事実上潰滅したのは、午後8時40分の戦闘開始より一時間ほど経ってからであった。」
(第4巻60−65ページ)
786 :
嶽原:01/08/26 18:26 ID:p7jfuK2o
あらまあ。
ええと、実は持っているのは箱に閉じ込んでしまっていて、容易に
出せません。気になる度に書店で立ち読みして確認していました。
なので何年刊何版を確認したのかはわかりません。
……昨日立ち読みした文庫版「坂の上の雲」では、確かに
「3000名〜三個大隊〜大佐」という記述がなされていたのですが……。
なるほど、修正されていたのですね。 ありがとうございました。
787 :
嶽原(ID出るのね):01/08/26 18:38 ID:p7jfuK2o
まあ大衆向け小説ですし、事実を書き伝える啓蒙よりも、こういう風に、
ややフィクションがかってもショッキングに書いて、面白さ・受け易さに
流れてしまうのは、仕方ないでしょうか。
あんまりカリカリせずにいきましょう。新聞掲載小説を相手にしても……。
にしても、落ち込んでいましたので(笑)かなり気が楽になりました。
788 :
兵八:01/08/26 19:21 ID:tuYwbWsc
>「3000名〜三個大隊〜大佐」という記述がなされていたのですが……。
>なるほど、修正されていたのですね。
うひゃあ、せっこいコトをしますねー。桑原氏や船坂氏にツッ込まれまくって、
修正せざるを得なかったんですね。
789 :
兵八:01/08/26 19:24 ID:tuYwbWsc
ということは、第三軍司令部の戦場到着日など、他の間違いもこっそり
修正されている可能性が高いですね。
手元に「名称乃木希典」があれば検証するんだけど、残念。
790 :
兵八:01/08/26 19:27 ID:dV4NYxw2
どわ、誤字だ。名将だって。
791 :
兵八:01/08/27 01:11 ID:C2bJOJK2
んで、
>>756さんはどう取り繕うおつもりなんですかね。
まあどうでも良いし、二度と帰って来なさそうだからsageときますが。
792 :
嶽原:01/08/27 01:55 ID:dJBOhVek
755の発言から脱線させてしまいました(失礼)が、元に戻しましょう。
中村少将の提案については、どう考えたらいいものでしょうか。
提案の理由なるものを考えなくてはならないと思います。伊藤氏「軍閥興亡
史」が全くなんの文献も参考にせずに書かれたものだとは思えませんし、ここ
で問題点とした点「乃木の陣頭指揮を思い留まらせるために出された代替案」
であったとする記述の根拠となるような資料があるのかも知れません。
改定されるのは別にいいのでは?司馬が言いたいのは
史観なんだから・
司馬氏が桑原氏に突っ込まれたのは何年だったのでしょうか?
795 :
嶽原:01/08/27 22:23 ID:UlBcQS2g
桑原氏は、自著の副題を「司馬遼太郎の誤りを正す」としている程に
激しく司馬氏を非難しています。しかし、司馬氏が参考にしているのが
「機密日露戦史」であることから、巻頭言にて『本書の副題は、むしろ
「旧軍陸大戦史教育の誤りを正す」とした方がよかったかもしれない』
と述べています。司馬氏への非難は、氏の受け売りぶり、不勉強ぶりを
非難していると思った方がいいでしょう。
いつ突っ込まれたのかはわかりませんが、乃木神社機関誌に「坂上雲」
の内容を非難するコラムを載せたのは昭和58年頃のようです。
796 :
日本@名無史さん:01/08/27 23:03 ID:d13kl9YE
2・貴官は以上の目的を達成するため本夜暗を利用し、まず松樹山補備砲台
付近の敵塁を奪取して立脚点を占め、猛烈果敢に王家屯東方高地上に在る
複郭の一部を奪取し、成し得れば白玉山を攻略し、万一不幸なる情況に
陥るとも、其地を死守して来援を待つべし。
具体的地名として第一に述べられている松樹山補備砲台付近の敵塁というのは、第一次総攻撃でかろうじて占領できている 盤龍山東・西堡塁と同様に敵の
主防御線をおびやかす地点であり、前述1の命令文の具体的説明をしている。
そこを通過点としているのではなく、立脚点としていることからも、第一次
総攻撃で得られた楔のような占領地を拡大し、防御線の分断を強く意識して
いることが伺える。
続く地点は無謀極まるものであるし、1の防御線の両断という主旨から完全
に逸脱し要塞内部への侵入を意味する。夜陰に紛れての侵入が思いの外順調に
行った場合……と淡い期待を抱いて漫然と地名を連ねていったのかも知れない
が、そのため1と2の前半と、2の後半とでは、相反する命令になっている。
しかし、その場合1が優先されるのだろう。
少なくとも、2だけを取り上げて「日本語講座」展開するよりは比較的
マシな見方だと思っている。
>>779 私は前述のように主防御線の分断という目的は、補備砲台近くの
敵塁確保によって達成されるものであり、立脚点の確保という文言
を重視しております。
ハァ?何のために猛烈果敢に・・・・の後の文章が必要なの?
、補備砲台近くの敵塁確保によって達成によって1の項目が達成
できるならば、猛烈果敢という言葉はいらない。
797 :
日本@名無史さん:01/08/27 23:27 ID:d13kl9YE
>>784 ふーん 12/1 以降に乃木大将が第7師団の陣頭指揮をとろうとして
それを防ぐために白襷隊が編成されたんだ。時系列の違うもので否定しようと
しているの?嶽原氏もそういうところは突っ込まないんだ。
二〇三高地が一進一退で占領できるかどうかという段階とまだ重点を
東方方面に置いていた時期とを一緒に考えるのは愚かだよ。
そろそろ兵八氏には退場してもらわないといけないね。
ええ加減に厨房さらすのは勝手だが、偉そうな口きくなよ。
坂之上の雲は乃木史観、つまり陸軍での愚将論を主に展開
しているに過ぎないし、何ゆえ、戦前の乃木聖将論と愚将論とが
陸軍より主張されたか?その体質を示したに過ぎない。
798 :
兵八:01/08/27 23:39 ID:.NPd7ArY
>>792 砲兵に射撃させ、歩兵が突っ込むだけではダメ。
工兵に対壕を掘らせて歩兵が肉薄し、砲兵の援護の下に突っ込むのもダメ。
エーイ、ならいっそ砲兵も工兵も使わずに、奇襲に全てを賭けて歩兵が独力で突っ込んだらどうだっ!?
・・・・・・というのが、白襷隊の基本的な発想だったのではないでしょうか。
第三次総攻撃に至る戦況の推移を見ていくとそんな気がします。
証明できる資料が無い事が辛いですがね。
799 :
兵八:01/08/28 00:09 ID:CDvE2txs
>>797 >ふーん 12/1 以降に乃木大将が第7師団の陣頭指揮をとろうとして
>それを防ぐために白襷隊が編成されたんだ。
????
何がおっしゃりたいのか判りませんが・・・・・・。
白襷隊の攻撃は11月26日の事ですけど。
>二〇三高地が一進一退で占領できるかどうかという段階とまだ重点を
>東方方面に置いていた時期とを一緒に考えるのは愚かだよ。
??????????
いつ私が、203高地激戦の段階と最後の総攻撃前の段階とを同列に考えたのですか?
決戦のクライマックスでさえ、軍司令官が出馬しようとしているのを
部下が留めているのだから、
決戦が始まってもいない段階で軍司令官が出馬を表明し、部下が賛同したという話は
果たして事実かどうか、極めて疑問でしょう?
800 :
兵八:01/08/28 00:29 ID:CDvE2txs
>>797 >そろそろ兵八氏には退場してもらわないといけないね。
>ええ加減に厨房さらすのは勝手だが、偉そうな口きくなよ。
なんか何処かで聞いたような台詞だな・・・・・・。
まあ今の所、比較相対的に自分の考えが誤っているという気はしないので、
納得いくまでは居座りつづけるつもりです。
801 :
日本@名無史さん:01/08/28 00:50 ID:Q2qSEcE.
>>799 >>784で白襷隊とは別の事象をとりあげています。(児島襄)
このときの状況と白襷隊以前の案(伊藤正徳)とは違います。
違うのが当然なのに、伊藤氏の資料がさも12/1の会議のように
仰られるのはどうかと思いますね。
802 :
日本@名無史さん:01/08/28 00:52 ID:Q2qSEcE.
>>798 あぁつまり、行き詰まっていたんでしょ。
それを打開したのが児玉の作戦転換。
803 :
兵八:01/08/28 01:36 ID:o5AVeUQE
>>801 一体全体、
>>784の何処をどう解釈すれば、私が
「伊藤氏の資料がさも12/1の会議のように仰」っている、
と解釈できるのですか?全く以って不可思議です。
>事前の作戦会議の段階で乃木が陣頭突撃を宣言し、誰もがそれに賛同したという
>「軍閥興亡記」の記述
追伸:嶽原さんは名古屋在住ですか?先日T駅界隈の古本屋で、「坂の上の雲」の
初版本が全巻セットで売ってましたよ。
>>799 決戦が始まってもいない段階で軍司令官が出馬を表明し、部下が賛同したという話は
果たして事実かどうか、極めて疑問でしょう?
ほほぉ・・・つまり乃木大将は各総攻撃は全て決戦じゃなかったと
考えるのか?第2回までの攻撃も頓挫して打開策がない状況でつぎこそは
と考えていてもおかしくない筈ですがね。
資料を偏見をもって読む典型的な例ですね。
805 :
嶽原:01/08/28 03:25 ID:jBGWiNX.
>>804 ほほぉ・・・つまり乃木大将は各総攻撃は全て決戦じゃなかったと
考えるのか?
第三回総攻撃が、殊更に重視されるものだったということです。
攻撃案作成中に、天皇の勅語が下されています。攻撃前に勅語が下される
というのは極めて異例のもので、かなりのプレッシャーになっています。
また、攻撃案上奏と前後して、大本営総参謀長の山県からも、かなりに
プレッシャーを与える電文も寄せられています。特に勅語の存在が大きく、
もう失敗は許されない、という情況での総攻撃となりました。
>第2回までの攻撃も頓挫して打開策がない状況でつぎこそは
と考えていてもおかしくない筈ですがね。
文意がよくわかりません。
第一回総攻撃(強襲法)が損害多大だったので、第二回総攻撃は正攻法に
改めて行われました。それで戦法としてはほぼ確立し、以後は坑道をどんどん
掘り進めていってます。第二階総攻撃は支援砲弾が無くなったことであっさり
歩兵突撃は中止となっていますので、この時点では「つぎこそは」と考えて
いたと思います。坑道を伸ばし地下から爆破と、ということも可能となりつつ
あったわけで、そういう有利な展開も見越しての「つぎこそは」だったと思い
ます。実際はその後に勅語が出たことで後がなくなっていますが。
>資料を偏見をもって読む典型的な例ですね。
第三回総攻撃前の勅語の存在と、それが与えたプレッシャーについては、
貴方はどのように資料を読まれましたか?
806 :
嶽原:01/08/28 03:53 ID:jBGWiNX.
第二回総攻撃中止の際の情況は、「つぎこそは」という雰囲気が強いものです。
◎第二回総攻撃
10月26日、第二回総攻撃が北東正面に対して開始された。
083028糎榴弾砲による砲撃開始、海軍陸戦隊重砲隊も含め各重砲隊も参加。
同日盤竜山北堡塁を奪取、さらに砲撃と坑道作業を続けられた。
27日砲撃続行。露軍の反撃は夜間、日本軍坑道に対する突撃なども行われ、
突撃坑道の破壊活動は活発に行われた。東鶏冠山北堡塁の坑道は露軍によって
下方より爆破される。これにより同堡塁の堆土が飛散し、地下陣地上部のベト
ン壁が暴露される。暴露壁の破壊が進められる。
28日、東鶏冠山陣地で弾薬庫の一つが大爆発を起こす。また海軍砲の砲撃に
より旅順市街域に火災を生じさせた。
0400東鶏冠山北堡塁のベトン壁を破壊し内部に突入するが、まもなく退却する。
29日、西太陽溝(旅順新市街東側)の火薬庫に海軍砲が命中し大爆発を生じ
させた。二龍山・松樹山への突撃坑道が露軍逆襲を受け、松樹山では先端が一
時奪取された。
30日、突撃を再興し盤竜山東堡塁東南の独立堡および東鶏冠山北堡塁の一部
を占領した。しかし、松樹山・二竜山、東鶏冠山の三堡塁に対する坑道作業の
完成にはなお時間がかかるため、10月31日0800総攻撃は中止された。
第二回総攻撃の参加兵力は44000名。死傷者3830名(戦死者約1092名)。
露軍戦闘参加者約32500名、戦死者約616名、行方不明79名、戦傷者約3837名。
要塞防御側の死傷者数の方が、攻撃側の死傷者数よりも上回っており、正攻法
が効果的なものであることがわかります。
第三軍司令部は、「各師団は現在の位置を確実に保守すると同時に松樹山、
二龍山及び東鶏冠山北堡塁に対する攻撃隊は、以前其の動作を継続し、勉めて
速に之を占領すべし。各攻撃隊突撃実施の期は、予め之を報告すべし」として、
以後、松樹山・二龍山・東鶏冠山北堡塁の三堡塁に対する坑道作業の進捗が続
けられます。この時点で要塞本体に爆破によって損害を与えることができる
ほどに坑道開削は進捗しており、「つぎこそは」で爆破も考えられる情況でし
た。しかしながら「つぎ」はその坑道進展という有利な状況を生かすことの
できない、後のない決戦となるのですが。
807 :
嶽原:01/08/28 04:08 ID:jBGWiNX.
長すぎました失礼
805で、攻撃案作成中に勅語が下ったと書きましたが、誤りです。訂正します。
時系列は以下をご覧下さい。
10月31日0800、第二回総攻撃中止。
11月14日、大本営御前会議が開かれる。
11月19日、山県参謀総長は第三軍司令官宛に
第三回総攻撃の必成を期待する電報を送る。
11月20日、乃木は満州軍総司令官に攻撃計画案を策定・報告、承認をうける。
11月20日、第七師団大連に上陸、戦線に加入。
11月22日、第三軍宛に勅語が出された。
11月26日0800、第三回総攻撃開始。
809 :
:01/08/28 06:26 ID:kHd0Kwr2
山口県下関市長府に乃木神社と乃木元帥の生家がある。
1度行ったことあるが、水師営の歌を歌っている人達がいた。
極左勢力には虫唾が走ると思う。
810 :
嶽原:01/08/28 06:58 ID:KlQ/ZNb2
↑長府の乃木神社ですね。ここで「名将乃木希典(桑原嶽)」買ったんです。
懐かしい。買ってしばらくは、「なんだこりゃ、常識外れの内容だ」と見向き
もしなかったのだが、今では(笑)。
宝物館らしきものがあるんですが、中は質素。将軍収集の石がゴロゴロ。
結構な珍品もあるとか。生地は東京麻布の日ヶ窪で、9歳から長府に移住してます。
804です。
>>805 >>806 >>808 の意見には当然賛同します。
>>799での意見の反対意見
ですから。
私はプレッシャー(勅語,山縣老の電報等)に対して、明治天皇の言葉による激励と
所謂、要望(プレッシャー) 両方と考えています。
また勅語は山縣老が陛下に出すようにお願いされた結果だと思っていますが。?
そして次こそはと考えた挙句が白襷隊とその命令。というのが
当時の行き詰まりを表していると思います。
私は乃木が突撃肌の将軍だと思うが、名将という言葉の
中で全ての功績を良いように見るのはどうかと思います。
812 :
嶽原:01/08/28 09:34 ID:zFgJo5U.
白襷隊の構想は、18日頃の軍会議の辺りから出ているようです。
第一師団第二旅団長中村少将が、大規模奇襲部隊の構想を練り、第一師団
司令部に意見具申をした。師団長松村中将・参謀長星野大佐は「無謀すぎる」
と同意しなかったため、中村中将は戦線巡視に訪れた乃木軍司令官に直訴。
乃木は第三軍幕僚に具申内容を伝えたが、幕僚達の誰も同意しなかった、と
いう記述を見たことがあります。
11月24日、第三次総攻撃の命令が下ります。同時に特別予備隊の編成命令
が下され、総攻撃命令の第三項目に、
『特別予備隊は水市営付近に在って、旅順街道より突撃の時期を待つべし』
という命令が出されています。
私は「このままの戦法で次こそは落とせる」と思っていたところが、諸々
の要請により、そういかなくなった、と思っています。というのは、勅令や
電報が来る前まで第三軍参謀はこう認識していたという記述があるからです。
『私どもは当時(東北正面攻撃継続を)決して無謀とは思わなかった。全て
の障害は排除せられ、堡塁の外壕は歩兵が通れるようになっている。ただ
この上は外壕から堡塁内に飛び込めさえすればよいまでに諸準備が整った
からであります』
813 :
日本@名無史さん:01/08/28 22:09 ID:GSFVzvvo
失敗に終わった3週間後、まだ総攻撃の傷も回復せず、さらなる
総攻撃を断行して果たして成算があるのか?という押し詰まった
雰囲気の中、司令官以下8人は従来の死闘に輪をかけて、決死の
突撃を最後まで強行し、屍と魂をもって城塁を取るしかない。
との意見に一致していた。
第1師団長が提案した「各師団から最強の部隊を選抜して
混成決死旅団を編成し堡塁線攻撃のまっ最中にその中間を
抜けて長躯旅順市街に突入せしむ」
という特攻案はまさに当時の決意と思想とを代弁するもので
あった。後の白襷隊はこの思想と決意から生まれたものであった。
軍閥興亡史より抜粋
814 :
日本@名無史さん:01/08/28 22:15 ID:GSFVzvvo
>>812 私は「このままの戦法で次こそは落とせる」と思っていたところが、諸々
の要請により、そういかなくなった、と思っています。というのは、勅令や
電報が来る前まで第三軍参謀はこう認識していたという記述があるからです。
『私どもは当時(東北正面攻撃継続を)決して無謀とは思わなかった。全て
の障害は排除せられ、堡塁の外壕は歩兵が通れるようになっている。ただ
この上は外壕から堡塁内に飛び込めさえすればよいまでに諸準備が整った
からであります』
だからこそ、乃木軍司令部は決め手の白襷隊を”二〇三高地に
転換する前”に旅順要塞を分断せしむと考え、実行に移したのですね。
諸所の海軍、大本営の二〇三高地を落とせとかの要望を無視して。
しかしそれはプライドに負けた甘い判断でしたな。
815 :
日本@名無史さん:01/08/28 22:48 ID:GSFVzvvo
大野角次郎さん(第7師、第25連隊、第3中隊)の日記
11月14日朝門司着、午後2時 甲板に集まり日本国に判れを
告げた。18日午前9時ダルニー港(大連)に着す。
19日朝6時出発 下士以下は18貫目の背嚢を背負い7里の道を
歩くのに午後5時まで懸かり、東小摩子に着す。
11月25日、クロパトキン砲台下(我がほうが占領した)に至り、
山陰で夜を明かす。命令でわが連隊は第1旅団長の中村少将の
指揮下に属し、26日午前10時次の厳命を受く。
わが軍は1日も早く旅順を陥落せしめ、港内に在る敵艦隊を
撃沈する。本隊は今夜、松樹山に突撃してこれを占領し、
旅順旧市外に突入し、明日夜明けまでに旅順を攻略するのである。
故に本隊は全部決死隊である。1名たりとも残った者は
旅順の旧市街に突入せよ。敵は高い壕中にいるから竹の梯子で
上りて突殺せ、また爆弾を叩きつけろ。
ゆえに一同は死を決心した。こうなれば強い。自分は上等兵
であったから、部下で東京付近から出征した戦友7名を集め、
水盃をして「必ず死ぬと覚悟しようぜ」と申し合わせた。
11月26日 午後1時より左右両面より総攻撃は開始され
松樹山は砲煙で山形が見えない。
午後7時出発 第1、第9、第11の隊は松樹山正面に
突撃を開始した。小隊長高山中尉が決死隊の先頭で部下30
余名を率いた別働隊となり、自分もそれに加わり、手榴弾
5発ずつを持ち、山を這って上った。
本壕に突入せんとしたが、鉄条網の針が絡んで先に出られない。
足をばたばたさせているところへ後続部隊が来て壕中へ飛び込んだ
と同時に壕中には地雷が仕掛けてあったから、全部一度に吹っとん
でしまった。敵は小銃、機関銃をさかんに打ち出す中に竹梯子が
来たからこれを掛け、壕の銃眼めがけて手榴弾を打ち込み、また
銃剣を突っ込んだが、敵に梯子を外され、2間余の壕の下に転げ落ち
腰が抜けた。乱戦乱闘数時間。将校は1人残らず戦死したので指揮する
ものも無く、いかんとも出来ない。敵前で苦戦するのみである。
そのうち27日午前4時ごろと思うときに退却命令が来たが、一同は
退却をしない。1人たりとも残った者は旅順口に突入せよと命令したのに
退却とは何事だとドナリつけた。ところが退却命令が3回もきたので
負傷者を担ぎ戦死者の銃は1人で3挺ずつ持ち、敵の打ち上げる光弾の
下をようやくもとのクロパトキン砲台の下に65名ぐらいが集まった。
出発の時は1個中隊230余名だった。
夜が明けてから振り返って松樹山を見ると白襷をかけた将兵の死骸で
白くなって見えた。
(この後筆者は二〇三高地に転戦した)
816 :
日本@名無史さん:01/08/28 22:52 ID:GSFVzvvo
現地に着いて直ぐに訓練もろくにせずに第7師団を
突入せざる終えなかったのは大問題ですね。もう少し
余裕のあるところに回せなかったのでしょうか?
817 :
嶽原:01/08/29 08:17 ID:Xn5YDxag
まずは、特別予備隊の構想が誰によるものか、という点をはっきり
させた方がいいと思います。
1・第一師団長提案の「各師団から最強の部隊を選抜して
混成決死旅団を編成し堡塁線攻撃のまっ最中にその中間を
抜けて長躯旅順市街に突入せしむ」という特攻案が出る。
司令官以下八人は突撃を最後まで強行との意見で一致。
「軍閥興亡史(伊藤正徳)」
2・第一師団第二旅団長が、大規模奇襲部隊の構想を練った。
第一師団司令部に意見具申をしたが師団長・参謀長は
「無謀すぎる」と同意しなかったため、軍司令官に直訴。
「日露戦争(平塚柾緒)」「乃木と東郷(戸川幸夫)」
「名将乃木希典(桑原嶽)」
「日露戦争4(児島襄)」でも、ある一名が軍会議にて特別攻撃隊
の構想を提案、軍司令官は採用した、という記述があります。提案者
は第一師団長となっており、1にやや近い記述となっていますが、
他の出席者はことごとく反対したことになっています。
「日露戦争(平塚柾緒)」では、第七師団増加は軍の恥辱として
11月18日の軍会議は悲壮感ただよい、「今攻撃では生還など望まず、
軍の目的遂行あるのみだ」と叫び合った、と記述しながらも中村少将
提案説を載せています。
一人が提案、他者は反対、司令官は採用、という状況は間違いないと
思うのですが。提案者が異なったりしている書もあるので、その点は
やや弱いですがね。
818 :
日本@名無史さん:01/08/29 12:44 ID:Jes/dSeI
>>817 >>まずは、特別予備隊の構想が誰によるものか、という点をはっきり
させた方がいいと思います。
白襷隊(特別予備隊)の構想は中村覚少将間違いないでしょう。
問題は特別予備隊に対し、乃木が支持したのか、軍司令部が支持したのか?
その背景に何があったか?ではないでしょうか?
第1師団長はいわく付きの方ですから。案外第1師団長の提案というのは
信憑性がありますね。
819 :
日本@名無史さん:01/08/29 12:51 ID:N1Ycum8A
>>817 の書き方はおかしい。
>>813 では、
司令官以下八人は突撃を最後まで強行との意見で一致。
第一師団長提案の「各師団から最強の部隊を選抜して
混成決死旅団を編成し堡塁線攻撃のまっ最中にその中間を
抜けて長躯旅順市街に突入せしむ」という特攻案が出るのは
その後。
文章を入れ替えるとニュアンスが変わります。ご注意を。
最初は突撃には賛同していたが、いざ自分達がやるとなると
反対する軍司令官たちの構図が見えてきます。
こういう風にみると最初は
820 :
日本@名無史さん:01/08/29 17:52 ID:Peq5X256
821 :
嶽原:01/08/29 22:57 ID:B55v0mGI
819さん、そうですね。前後逆でした。
18日の師団長会議において、各師団長・軍幕僚ともに次回攻撃の必成を
誓ったうえでの提案ですから、何の気無しにあのように書いたのですが、
確かにニュアンスが変わりますね。
しかし、日露戦争4」児島襄には、軍幕僚がこの提案に反対したという
記述はありますが、師団長らが反対したという記述はありません。
822 :
兵八:01/08/29 23:35 ID:w6RAp6ao
>>815 の資料は面白いですね。どこから引用されたのですか?
823 :
嶽原:01/08/30 00:16 ID:Zikag07.
日記は生々しいし、状況がよくわかって良い資料ですね。
>本隊は今夜、松樹山に突撃してこれを占領し、旅順旧市外に突入し、
明日夜明けまでに旅順を攻略するのである。故に本隊は全部決死隊で
ある。1名たりとも残った者は旅順の旧市街に突入せよ。
のくだりは、実は複雑な思いで読んだのでありますが……。
824 :
嶽原:01/08/30 00:28 ID:Zikag07.
>>818 実は、師団長会議に旅団長が出席できるのか?という今更な疑問(笑)が
生じ、ちょっと調べているところです。出席者とか。
会議よりも以前に中村少将がかなりしつこく特別攻撃隊の意見具申して
いるようですから、会議で突然提案が示されたわけでなく、その時には
松村師団長も軍幕僚も知っていて、少し考えていたかも知れません。
もともとの「着想」は中村少将、作戦計画に関わる会議での「提案」は
松村師団長、というのはいかがでしょう。
825 :
兵八:01/08/30 00:34 ID:SdZJymCg
士気の鼓舞の為に、下士官・兵には敢えて「旅順市街に突入」という
壮大というか妄想的な指令を下したのではありませんか?
いくらなんでも、指揮官クラスは本気でそんな事が実現可能だとは
考えてはいなかっただろうと思うのですけど。
826 :
嶽原:01/08/30 01:04 ID:XT1bjEHo
白襷隊に「夜襲時の発砲は厳禁」との命令が下りるのですが、この命令には
「補備砲台に突入するまでは」という但し書きがあるのです。このことから
も、補備砲台の占領というのが一大目標と見えるのですが。
松樹山西側は街道が通り、要塞線の山嶺が途切れる地点です。ここを占領し
確保することで主防御線の分断を狙うという事も可能となると思います。
白玉山とか旧市街地とかは……? 一説には、白玉山は夜目に判り易い目標
として示されたとあり、現実的な到達目標として提示されたとは、私には
思えません。
827 :
日本@名無史さん:01/08/30 07:30 ID:skKp/oEE
>>826 命令においてそのような勝手な解釈が赦されるならば、
乃木軍司令部は無能ということを示すことになります。
明確な命令を出さないのは混乱を呼び起こし、作戦目的
を達成できませんので。
補備砲台までの発砲禁止は単に接敵まで発見されな
い為という極当たり前のことを指示したに過ぎないでしょう。
要塞を分断するというのは要塞を裏側から攻撃し、占領する
という命令書を普通に読んだ解釈が真でしょう。
こういうところでうがった見方をして何になるのですか?
あなたの提示した命令書でも指示通り見るほうが司令官の
意図が伝わると思われます。
各書籍でもほぼ同じ命令が見受けられますが・・。
その解釈を変えるというのは意図的に資料を捏造すること
になりかねません。
現実的な目標指示と思えないという印象を重視すべしでしょう。
つまり乃木軍司令部は現実的な戦場認識をしていなかった。
という司馬の史観(意見)、其の他の意見の論拠となります。
828 :
嶽原:01/08/30 08:48 ID:03ZxoWDA
『貴官の指揮する特別予備隊は、敵の不意に乗じて要塞内に侵入し、敵の
防御線を両断し、要塞の陥落を速やかならしむべし』というように作戦命令
が明示されているのに、なぜ 突撃部隊員には『旧市街に突入し明日夜明け
までに旅順を攻略する』という命令が伝えられたのでしょうか。
補備砲台突入まで発砲不可(以後は可ということか?)ということは、補備
砲台突入までは奇襲、以後は強襲ということですね。当地到達によって部隊の
意味合いが大きく変わるということです。1の目的の項目において白襷隊に求
められたのは「要塞線の両断」であり、「市街突入」ではありません。
松樹山西側には街道が通り、ここで山嶺が途切れる場所です。当地の一堡塁
の確保というのは、第一次総攻撃によって得られた盤龍山東・西堡塁の確保と
同様もしくはそれ以上の立脚点確保という一転機となり得るものだったと思い
ます。現実的な戦場認識と思いますが。
829 :
嶽原:01/08/30 12:40 ID:NP5Krfhw
白襷隊の攻撃目標と部署の指示は、次のようになっていたようです。
◎第一次攻撃:午後六時に集合地を出発、前進開始。
第一師団特別連隊は街道を進み、松樹山新砲台の西側を過ぎたらすかさず
松樹山補備砲台に突入攻略する。そののち東南約600mの110高地を攻略する。
第十一師団の大隊は劉家溝の南側高地を攻略する。
◎第二次攻撃:第一次攻撃の成功と同時に敵の不意に乗じて行う。
第七師団・第九師団の隊は元宝房と武庫の中間付近から旅順地区に突入し、
南方にある高地を占領する。できるならば白玉山の砲台を奪取する。
旅順市街に侵入することは、別命あるまで待つこと。
(「日露戦争 上」平塚柾緒)
結構具体的です。日記を書かれた方は上等兵でどの程度に命令を受けていた
のでしょうか。上は、幹部だけに対する指示だったかも知れません。
830 :
日本@名無史さん:01/08/30 14:42 ID:AaEVB25U
>>829 骨子
本隊は今夜、松樹山に突撃してこれを占領し、旅順旧市外に突入し、
明日夜明けまでに旅順を攻略するのである。
具体的指示
◎第二次攻撃:第一次攻撃の成功と同時に敵の不意に乗じて行う。
第七師団・第九師団の隊は元宝房と武庫の中間付近から旅順地区に突入し、
南方にある高地を占領する。できるならば白玉山の砲台を奪取する。
旅順市街に侵入することは、別命あるまで待つこと。
命令としては問題なく、骨子に肉付けされた具体的指示は的を得ています。
あと11/18日の会議では誰もが第7師団の増加は恥だと口にし、「今度の
総攻撃は生還など望まず、軍の目的遂行あるのみだ」と叫びあった 事は
書かないのですね。 都合の悪いところは省くのはどうかと思いますね。
(「日露戦争 上」平塚柾緒 P253)
このくだりは
>>813と同じですね。軍閥興亡史を参考にしたのでしょうか?
そして11/24の総攻撃開始前に有名な訓示
「今回の攻撃発展せざる場合には余は第7師団を率いて先頭にたち
要塞中央線に突入するなり。了承を請う。」
が出され、幕僚は感得するが、感傷はともかく乃木は自らの死を持って
城を抜こうとした。参謀は2時間をかけて訴止し代案として中村少将の
白襷隊が代案として認められた。
決行の直前の水師衛の決別と激励の訓示は身代わりとの決別であった。
しかし11/24夜未明に決めて11/25日は決行準備とはまったく混成旅団
の統制が出来ないでしょうね。これが一週間ほどあればまだ納得できるの
ですが、混成部隊が1日で準備などは普通は考えない。
この出来事は乃木軍の切羽詰った状況とみるか、軍事的無能もしくは
現実認識をしていないと考えるかは賛否両論でしょうね。
だが、白襷隊が行き当たりばったりの作戦であることは日程から
間違いなく、その原因が乃木大将の陣頭指揮阻止というのも納得
できるわけです。
砲弾の蓄積ができてないなら、攻撃を延期してもよい 10/18児玉
の赦しも得ているのに、第2次総攻撃に固執するのもなんともね。
病気にかかっている状態では心身ともに判断が鈍るということか。
831 :
嶽原:01/08/30 16:40 ID:qme5cFCM
>>830への疑問点
1・829(嶽原)の骨子に第一次攻撃の説明が含まれないのはなぜか
第二次攻撃部分は、第一次攻撃の成功を前提とするものであるのに、なぜ
第一次攻撃の「補備砲台を立脚点とし」の部分を骨子に含まれないのかが、
判りません。何度も繰り返しておりますが、目的と手段は別物です。
2・特別攻撃隊の準備が一日とは?
11月18日 第三軍、師団長会議
11月19日 山県参謀総長からの電報
11月20日 第三軍、満州軍総司令部へと作戦計画を報告
11月21日 大山総司令官からの訓令
11月21日 第三軍、参謀長会議(22日も開催?)
18日の会議では、各師団長は第七師団増派を軍の恥辱として次回総攻撃の
必成を誓ったとき、松村第一師団長が特別攻撃隊編成を提案したとも言われ
ますが、この時の第三軍幕僚は津野田参謀を除き揃って反対したそうです。
師団長が反対したかどうかはわかりません(「日露戦争」・児玉襄)。
乃木軍司令官はこの時、ただし付きで賛成しています。『奇道なれば
攻撃計画に参入せず。方法を決するもその実行を予期せず、本攻撃の経過
好機を看破して決行せざるべからず』
20日の段階での作戦計画は、攻撃目標、実施要領ともに前回と大体同じ
もので、特別支隊編成や203高地攻撃の予定は無かったようです。
21日の会議では、第三軍司令部と各師団参謀長とで作戦スケジュールが
決定されています。ここで、大山訓令の内容を取り入れて、203高地攻撃
が総攻撃スケジュールに繰り入れられます。これと同時に特別支隊による
旅順市街突入(!)も繰り入れられています。特別支隊による奇襲の利害が
討議となり、当日の会議では決を採らなかったようですが、翌22日、乃木
軍司令官が特別支隊編成を決定したそうです。
この前後、乃木の日記には中村少将の名前が出てきます。
20日・中村少将を山上に呼ぶ。参謀長と共に突撃計画に付き談合す。
23日・斉藤少将、大迫中将来る。中村少将を呼び、任務を命ず。
20日頃から中村少将との相談が行われており、22日の参謀長会議では
既に特別支隊の構想は総攻撃スケジュールに載っていたことをご理解下さい。
肝心なところで切ってしまいました。
そういうわけで、貴方が言われている24日の「有名な訓示(?)」が行われ
た時には既に特別支隊は作戦計画に取り入れられているので、訓示のあとに
二時間を掛けて軍司令官先頭を阻止し、代案として特別支隊の提案が認められ
たというのは、誤りだと思います。
833 :
嶽原:01/08/30 17:59 ID:9M5YF3uA
830で「24日の有名な訓示」と言われる例の文言ですが、有名ならば
「軍閥興亡史」以外にも載っていさそうなものですが、見あたりません。
「第七師団」「軍司令官陣頭指揮」というキーワード(そもそも本当に
訓示の場、軍首脳勢揃いの場であれば、何故に第七師団と指定するのか
わかりませんが)に符合するエピソードとして、以前兵八氏が上げられて
いたエピソードの前段にあたるものがあります。
12月01日0200頃、乃木軍司令官は津野田参謀とともに電話室に行き、
大迫第七師団長を呼び出した。電話は津野田参謀が応対した。大迫師団長
は義歯の具合が悪いということで電話の応対は竹上参謀に任せた。乃木が
津野田参謀に代弁させたのも、同じ理由であったらしい。
「おう、津野田か。閣下のご意向をつたえてくれ」
「やあ、竹上参謀、閣下はこういっておられます」
といったように参謀経由の通話が交わされた。乃木は第七師団長の
指揮による203高地攻略が未成であるのを遺憾とし、「大迫中将に躊躇
の心境があるのなら、吾れ自ら陣頭に立たん」と告げさせる。
第七師団側はこう答えた。
「津野田、師団長閣下のお言葉をいう。いいか……『大迫モ男子デアル、
暫時御猶予ヲ請フ』以上だ」
津野田参謀の復誦の声を聞いた乃木は、結構、と答え会話を終えるが、
続けて大島第九師団長を呼び出させた。向こう側の応対は、宮田参謀で
あり、再び参謀経由の通話が交わされる……あとは
>>784にて……。
これと混同されている可能性はありませんか?
丁寧な下りありがとうございます。今回は資料は無く感想文です。
11/24の総攻撃開始前に有名な訓示 軍閥興亡史では
総攻撃前夜と書いています。ただ私が11/25日(正確には26日)
と思っていましたので11/24と書いたまで、申し訳ない。
問題は仰る11/21未明から22日にかけての会議が総攻撃前夜と
解釈すれば特に問題はなかろうと思います。この特別予備隊に
関わる下りは軍閥興亡史以外に無いということは否定もできない
分けですし、そういう事実があったと考えても矛盾はないでしょう。
白襷隊はあまりにも決定から実行までの期間が短すぎます。
しかも編成をご覧になればわかるとおり、第7師団 25連隊が
半分を占めてますし、これは何を意味するのでしょうかね。
今私は乃木と軍司令部 特に既存師団長、参謀長との間で
巧くいっていなかったと考えております。こう考えるとすべての
キーワードが繋がっていくんですよ。
また第7師団を選択するという背景は、
もし既存師団の信頼が得ているのであれば、既存師団の損害から
完全に回復していないので、完全戦力たる第7師団を選んだ。
既存師団の信頼が得ていないのであれば、新米戦力で乃木の
評価も定まっていない第7師団を選んだ。
もしくは継子扱いされるであろう第7師団を指揮するという名目で
既存師団からの蔑視を避けることが目的であった。
上記三つが絡んでいると思われます。
白襷隊の命令に関しては軍隊の命令は他の連隊の命令は出な
いものです。よって2次攻撃部分を抜粋しましたが・・。
また中村少将の原案をそのまま中村少将が実行前に伝えたとも
考えられます。(別におかしいことではない)
あと立脚点という言葉の意味を理解しておられますか?
立脚点より目的地点に向うものですが・・。
先の意見で明治天皇の勅語も頂き、次の攻撃で落とすという
意気込みの中、11/26日の攻撃においてほとんど進捗しなかったこと
と、その後の白襷隊が松樹山の補備砲台を立脚点とするだけで旅順が
陥落すると考えるのはちと乃木軍司令部の甘さを露呈することになり、
あなた方の仰る”名将”論とはかけ離れていきます。
やはり旅順旧市街に突入するという命令の方がしっくりきますが。
それでも現実認識の甘さとなりますがね。
835 :
嶽原:01/08/30 21:43 ID:Em9eJlnI
>>834 参謀長会議が21日に行われ(どうやら翌日まで続い)たというのは、
20日、総司令部に提出した案に返答した大山訓令を作戦内容に反映させる
ためのもので、このタイミングで間違いないと思います。乃木の日記にも
書かれていますし。いずれにせよ、白襷隊の構想が短期間で実行に移されて
いるのは間違いないです。しかしわずか一日というのはないですよ。
24(25?)日に、なにがしかの発憤を促す訓令が為されたとは思います。
軍幕僚多数が反対し、自らも「奇道」とした特別支隊への訓令も有ったで
しょう。しかしながらそれが原因で白襷隊が結成され、乃木が『自身の
身代わりなる白襷隊を見送った』というのは、あまりにも酷い曲解と思い
ました。
軍閥興亡史は資料としては機密日露戦史と比較しても
遜色のないほどの価値があります。
擁護する意見で考えれば、さきの継子扱いを避けるという
名目があります。当時の各兵士の日記を読んでいくと、白襷隊
や二〇三高地などの大激戦を繰り広げた方ほど、死に急いでます。
乃木は慈愛の方として兵士と一緒にそういう話を聞く傍ら、
自らも死に急いでしまうという感傷に陥ったのかもしれません。
自らも病で苦しんでいましたしね。
837 :
嶽原:01/08/31 08:08 ID:SvPP7IO6
特別支隊の参加部隊・参加兵力
第一師団 第一連隊第三大隊・第二連隊第二大隊 :0832名
第七師団 第二十五連隊第一大隊・第二大隊 :1565名
第九師団 第三十五連隊第二大隊 :0345名
第十一師団 第十二連隊第一大隊 :0332名
合計3074名
特別支隊の損害
第一師団 0832名→死傷0394(戦死113)
第七師団 1565名→死傷1232(戦死410)
第九師団 0345名→死傷0265(戦死048)
第十一師団 0332名→死傷0210(戦死069)
合計3074名→合計2290(合計684)
>>833 日露戦争4 児島襄 p381にて決意を披瀝しております。
839 :
嶽原:01/08/31 20:19 ID:LpBGP822
>>838 有ったですね。見落としてました。ありがとうございます。
840 :
日本@名無史さん:01/08/31 21:36 ID:fo3OJiDM
児島襄 日露戦争4より
「ただし奇道なれば攻撃計画に算入せず。方法を決するもその実行をよき
せず、本攻撃の経過間好機を看破して決行せざるべからず。」
大将はそう、付言したが、実際には後述するように攻撃計画に含まれ、
その点にも大将の覚悟を推知される。山縣元帥電をうけても、大将の
泰然とした姿勢を保持したゆえんであろう。
略(山縣元帥からの電文等の下り)
11/21 第3軍司令部と各師団の参謀長たちは、次の作戦スケジュール
を決定した。
第一期 @松樹山、二龍山、東鶏冠山北堡塁、及び後方陣地線の攻略。
A203高地及び白銀山堡塁に対する強襲。
B特別支隊による旅順口市街突入。
略(上記作戦の説明。)
(上記の決定した際に伊藤正徳の軍閥興亡史では先の乃木大将の決意を
阻止するために白襷隊が代案で出されたことと書いている。)
特別支隊指揮官には第1師団第2旅団長中村覚少将が指定された
そして乃木大将は命令下達が終わると 各師団に「最モ勇敢ナル行動」
を求める訓示を行ない、次のような決意を披瀝した。
「要スレバ、予自ラ第7師団ヲ率ヰ、各師団二先立チ突進スルコトアルベシ」
師団長達は粛然として問うように覚悟と決心の光を放射していた。
だが・・・・・。大将と師団長たちの決意は必ずしも第1線の将兵には
共有されなかった。
問題は過去軍事板、この板で問われてきた攻城戦をしっかり把握してきたか?
という点において乃木は把握していないという証左が判明するわけですね。
この白襷隊が第一回総攻撃ならばまだ理解できるが、第3回を終えた後という
のが乃木の現実認識の甘さ、また各師団の独善を赦したことは彼の美徳が
すべて裏返しになった結果であり、その点は批判されるべきでしょう。
結局、彼は猪突猛進型の武将で大局を見据えた判断をさせるべき将軍ではない。
という結論に至ります。
猪突猛進型の武将は間違った判断であろうとそのまま突き進んでいきます。
しかし素晴らしい判断の時は素晴らしい功績を示しますので、その運用を
藩閥人事という事で示した明治政府にも責任はある。
しかし大本営、満州軍に責任を押し付ける擁護論者は彼を無能と示しているの
と同義である。なぜなら大本営、満州軍に責任があるということは、旅順を
落とした功績は大本営、満州軍にあるといえるからです。
責任が無い人間に功績はあるわけがない。
843 :
嶽原:01/09/03 00:51 ID:2f7SbtIo
>>841 「軍閥興亡史」には第一回総攻撃直後の軍会議(正攻法採用)の
記述がないのですね……。正攻法は某工兵部長提案の新方法で、他者全員反対
(強襲法継続希望)の本案を採択した軍司令官は、充分に攻城戦のなんたるか
を把握していたと思われますが。
842の一文は、「猪突猛進型の不退転気質」を非難されていると見受けられ
ますが、断行のきらいはあるものの、要点は臨機応変に対応していると思いま
すが。例としては上の正攻法採用決定、急遽の正攻法研究指示、支援砲撃準備
状況によってはせっつかれている攻撃開始も延期、などなど……。203高地への
主攻転換もそうです。これなどは上部からの派遣参謀が反対するのを説得して
了承を得ているのですから。
さて、「軍閥興亡史」は明治健軍から昭和滅亡までの長期に渡る歴史を語る
書です。所詮は歴史の中の一戦争の、そのまた一局地戦を見る資料としては、
限界めいたものを感じます。結局旅順主要塞陣地を落としたキモは、「肉弾」
ではなく「28榴弾砲」でもなく「土木作業と爆薬」でした。地味な土木作業と
はいえ、この正攻法採用の決定が大きなターニングポイントだと思います。そ
の記述がないのは残念です。また、白襷隊を乃木陣頭突撃中止の代案などとす
る記述は、頭痛なしには読めません。
軍閥興亡史 p327 に軍会議の様子はないが、各師団が正攻法に
移った理由を書いています。
すなわち敵前近く突撃陣地を築き、それから突撃路を掘って進路を
極力短縮し、かつ後方に退路を設けて進退の自由を確保するなどの作業・・・。
(前回の東鶏冠山堡塁突撃隊の一部は退路を失って孤立し、逆襲を
受けて全滅したことによる)
という理由からの採用であると考えますが・・。
あと軍閥興亡史 1 の400pの中に旅順関連の記述が40pほど
書いています。嶽原氏は何をもってそんなことを書くのでしょうか?
この軍閥興亡史 極力乃木の批難は避けてかかれているのにそれを
全否定するような意見は面白いですね。
平塚氏の日露戦争 上(学研)にも正攻法採用の決定の経緯の記述は
ないですね。
残念なのは解りますが、あなたの考え方は自分の考えに必要な資料を集め、
気に食わない記述に否定的になるのはどうかと思います。
あと正攻法記述の件ですが、各師団長は正攻法に反対じゃなくて、
下記の理由なんですけど?
1. 西から北に東に展開する各師団が”一様”に攻撃路を掘って
対面する堡塁、砲台の数は多く、地形もさまざまで一塁ずつを対象に
する正攻法は結局は兵力の分散投与を招き旅順口攻略を遅延させかねない。
2. 前回の攻撃での兵力の損耗が激しいので各師団が一様に突撃路を
掘って総攻撃態勢を整えるのは不可能である。
3. 仮に敵前50メートルに突撃陣地を準備したとしてもその50メートル
の”突撃”が困難であることは前回の攻撃で立証されている。
4.よって兵力と弾薬の補給とで戦力の回復を待ち”重点”を定めて総攻撃
が妥当であろう。
これを聞いて乃木は敵には補充の道はなく我が方にはそれがあるので
正攻の確実な時期まで待つという決意をします。しかしいつまでという
意見に対しては、海軍の要望もあるなどと正確な時期はその会議では
伝えませんでした。(日露戦争 児島襄より抜粋)
というのが各師団長の反対意見です。
つまり乃木の意見は全線にわたっての各堡塁に対する攻撃を正攻法で
という提案したのに対し、各師団長は重点を正攻法でという提案です。
それを各師団長が”正攻法”自体を反対とする意見にするのはどうか?
と思いますがね。捏造するのもいい加減にしたらよろしいかと。
司馬批判をするあなた方の意見はこんなものです。
845 :
嶽原:01/09/03 08:20 ID:Dhv8MI5k
乃木の意見が「全線」に渡るもの?言われているのがよくわかりません。
師団長達は、上記の理由により「成功法自体」に反対しているのでは
ありませんか?
「このような戦法は前例がない」「研究したことがない」「支援弾薬が
充分でないのに危険は作業はできない」……等という理由で各師団長反対し、
某工兵部長は欧州戦線での実例を挙げて賛成。
会議は紛糾、長時間にわたっています。
貴重な参考資料を全否定するような書き込みはしておりません。その内容が
乃木擁護だろうが批判だろうが、知ったことではありません。
他資料と読み較べ、「白襷隊身代わり説」は誤りのように思います。
846 :
兵八:01/09/03 19:36 ID:fIjzpz02
旅順の堡塁線の山々を見るときは、誰でも能くもコンナ誂え向きの山があったものだと
感心せぬものはない。ただ市街に近いだけが少し難であるが、既に地の利を占めている上に、
其の山は全部珪質岩で、火打石のような硬い岩である。
取りも直さず旅順は一個の巨大なる岩塊である。其の硬い石山をコツチンコツチンと掘り割って
対壕を作り、坑道を穿ち、そうして地中を潜ったのであるから、これだけでも旅順攻撃の苦戦が想像される。
敵は爆裂弾を浴びせ掛けて、石割作業を妨害する。我は砲弾と、其の上にグワラグワラと
一時に山が崩れてくるやうな音のする石とを頭から浴びる。鉄弾と石塊とで我等の損害は非常に大きかった。
斯様な岩を根気よく掘って攻路を進めていったのであるから、鶴嘴(十字鍬)も円匙も其の先が摩滅して、
全長の四分の一から六分の一までになってしまった。
これで旅順の山を掘って掘って掘りさがしたのであるかと思うとゾッとする。
而して一日の作業僅かに二三尺ぐらいしか掘れなかったのである。然るにそれで年の暮れまでに、
トウトウ縦横十文字はおろか、地の底まで掘ったのであるから根気が続いたものである。
九月上旬より起したる攻路は、十月下旬に至って、延長四千米に達し、
攻路頭における彼我の衝突のため、死傷三百余名を出したが、十月二十三日に至って
敵の外岸頂を去ること実に五十米まで近接した。
この攻路頭の小衝突は、殆ど半時も絶えたことがなかったのである。
十数名よりなる敵の決死隊が毎夜堡塁を出で、我が作業兵に向かって襲撃してくるのであるから、
敵は払わねばならず岩は掘って行かねばならずで、この作業は実に言うに言われぬ苦しみがあったのである。
我が攻路が近接すると、敵も油断をしてはおられぬのであるから、死力を尽くして妨害に出てくる。
こうなると我も到底尋常の攻路に拠ることが出来ぬから、初めて地中に坑道を穿って
前進せんとするの窮策を取らなければならなくなったのである。
敵も之を知ると、また地中を伝うて我が作業を妨害せんと試み、彼我作業兵の工事が進むにつれて、
地中で鼻を突き合わしているようになり、敵の方で一鍬打つと、こちらの攻路の小石や土が揺れて落ちるやうにもなった。
我が坑道作業に対して、敵が何時爆破を以って妨害作業を試みんとも分らんのであるから油断はならなかった。
そして爆破のために、我が作業兵の死体を遺棄するようなことがあってはならんと、長い綱を彼らの足に縛って
前進せしめたというようなこともあった。綱を後ろで引き手繰ると、ザクザクになって足だけが戻ってきた
というような恐ろしいこともあったのである。足に綱を縛られて行く作業兵の気持はドンナであったろう。
思うても身震いがする。
(櫻井忠温「銃後」)
坑道を掘るのも大変な作業だったようで、各師団長が正攻法に反対したのも判る気がします。
もし砲弾や予備兵力が豊富にあれば、敢えてこのように手間がかかる戦法など選択せずに
済んだのかもしれません。
847 :
嶽原:01/09/04 01:25 ID:6zYrDwWw
>>844 まず、08月30日の軍会議で討議された『正攻法』──「攻撃作業計画」──
の素案が作られた経緯を書きます。
0824 第一回総攻撃中止。それとともに、軍工兵部長榊原少将と参謀副長大庭
中佐を占拠した盤龍山東西堡塁に派遣、堡塁の強度、構造などを調査させる。
0825 榊原・大庭の意見と報告を参考に、以後の攻略法について検討を始める。
参謀井上少佐と工兵部副長宮原大尉に、各師団正面の地形、地質、敵情
などの現地偵察を命じる。
0826 ?
0827 参謀津野田大尉に、ドイツおよびフランスの「築城教範」の翻訳と研究
を命じる。
0828 軍砲兵部長豊島少将、軍工兵部長榊原少将を軍司令部に呼び、正攻法実
施についての意見を交換し細部問題点の討議を行った。
0829「攻撃作業計画」案が参謀長伊地知少将に提出される。
0830 1000、柳樹房の軍司令部にて正攻法採用の可否、および実施の可能性に
ついて討議が行われる。討議は6時間に及ぶ。
さて、0829時点での参謀井上少佐立案「攻撃作業計画」の概要は以下の内容です。
1・攻撃目標の堡塁
第 一師団:ナマコ山堡塁、水師営西南堡塁
第 九師団:竜眼北方堡塁、盤龍山北堡塁
第十一師団:東鶏冠山北堡塁、同砲台
2・攻撃築城を行う兵力
各目標ごとに工兵一個中隊のほか150〜200名の歩兵をあてる。資材などは
工兵廠で準備する
3・作業速度
一日約10mの壕を掘開
4・作業要領
第一攻撃陣地から二本の交通壕を前方へ100m掘進、その地点に攻撃陣地を
作る。新陣地に作業援護部隊を配備して、さらに前方へ掘進。この作業を
繰り返す
5・所要日数
もっとも長いもので25日、短いものは12日で工事を終了する予定
>>844の『乃木の意見は全線にわたっての各堡塁に対する攻撃を正攻法でと
いう提案した』という事は全く有り得ません。既に目標は限定されています。
『捏造するのもいい加減にしたらよろしいか』と思われるならば、調べて
みたらよろしい。市販本『血風 二百三高地(船坂弘)』に掲載されている
内容であり、特別に困難なものではない。
848 :
嶽原(847続き):01/09/04 02:40 ID:M8jflxJw
08月30日、乃木軍司令官は参謀井上少佐からの正攻法案提案「攻撃作業計
画」についての意見具申を受けて各師団参謀長、師団工兵隊長、攻城砲兵司
令部員等を司令部に召集し討議を行った。出席者は以下の通り。
軍司令官(乃木大将)軍参謀長(伊地知少将)軍参謀副長(大庭中佐)
作戦担当参謀(白井少佐、津野田少佐)兵站担当参謀(磯村砲兵少佐、
井上工兵少佐)情報担当参謀(山岡砲兵少佐、安原大尉)第一師団
参謀長(星野大佐)第九師団参謀長(須永大佐)第十一師団参謀長
(石田大佐)工兵第一大隊長(大木大佐)工兵第九大隊長(杉山大尉)
工兵第十一大隊長(石川大佐)攻城砲兵司令部員(佐藤中佐)軍工兵
部長(榊原少将)軍工兵部副部長(宮原大尉)軍砲兵部長(豊島少将)
野戦砲兵第二旅団長(大迫少将)
出席者の多くが強襲法継続案を唱え、各師団参謀長は初めての作業である
ことや砲兵掩護射撃が充分に得られないことを理由に攻撃築城作業実施に難
色を示す。
各師団参謀長の「作業はやれといわれればやるが、砲兵の援護射撃がなけ
れば大変に困難であり作業の成功は望めない。砲兵の援護射撃は出来るのか」
との質問に対し、攻城砲兵司令部佐藤中佐は「砲弾は全く底をつき、かつ追
加送付が不十分で、とても要望には応えられない。支援射撃は無理である」
と答える。
第九師団参謀長須永大佐は、「砲弾不足とあれば築城作業の成功は期待出
来ない。むしろ兵員と弾薬の補充を待って、一挙に強襲で片づける方がよい。
砲弾を充分に準備し、要点に火力を集中して突撃すれば、必ずや成功するに
違いない」と発言し、この強襲法継続案に第一師団参謀長、工兵第一大隊長
が同意を示し、会議出席者の多くが同調していった。その中で一人異論を述
べたのが工兵第十一大隊長石川大佐であった。石川大佐は欧州要塞戦の例を
挙げて正攻法に賛同する。
「ヨーロッパにおける要塞攻撃の戦史によれば、強襲攻撃で失敗した後では、
長期持久戦に持ち込んで敵の糧道を遮断するか、または攻撃築城(正攻法)
を行って成功している。この場合も実行はなかなか困難であろうと思うが、
攻撃築城を行う以外に方法はないと思われる」
立案側の軍参謀はこの発言に力を得て再び正攻法作業説明を始めるが、出
席者のほとんどは築城作業には支援射撃が必要であることを主張して譲らな
かった。
会議は6時間に及んだ。軍司令官は正攻法を採用。
「敵の兵員並びに兵器弾薬には補充の途なく、一人一発を失うと共に逐次其
の寿命を縮むるに反し、我軍は例え弾薬少なきも之が補充の道を有す。故に
正攻の確実なるに若かず」
31日、各師団に正攻法と突撃(強襲)を併用して行う旨の訓令が下達され
た。また正攻法においての「突撃教令」が定められ各師団に配布され、教育
訓練が行われることになった。
09月01日より攻撃路の構築作業に入る。
>>844の『各師団長は重点を正攻法でという提案』という事は全く有り得ま
せん。各師団参謀長(師団長は会議に居ない)は正攻法自体に反対の主張を
しています。
『捏造するのもいい加減にしたらよろしいか』と思われるならば、調べてみ
たらよろしい。市販本『血風 二百三高地(船坂弘)』に掲載されている内
容であり、特別に困難なものではない。
849 :
嶽原:01/09/04 02:58 ID:M8jflxJw
これまで、会議出席者を師団長と書いたり師団参謀長と書いたり不正確でし
たが、会議出席は師団参謀長です。
私が845にて師団長としたのは訂正します。以前にも同部に関する記載は間
違っているかも知れませんのでご注意下さい。まあこれをもって『捏造』とは
言われないとは思いますが念のため。
850 :
日本@名無史さん:01/09/04 07:33 ID:22Ea1G7Y
>>849 さて、0829時点での参謀井上少佐立案「攻撃作業計画」の概要は以下の内容です。
1・攻撃目標の堡塁
第 一師団:ナマコ山堡塁、水師営西南堡塁
第 九師団:竜眼北方堡塁、盤龍山北堡塁
第十一師団:東鶏冠山北堡塁、同砲台
これがどこからどこまでの範囲なのか理解していますか?
後 伊地知が203高地の攻撃を目論んでいたという明記は
8/30の会議にて幾多の文書で見られますのでご注意を。
851 :
嶽原:01/09/04 09:19 ID:fvrHFsE6
>>844 『軍閥興亡史 p327 に軍会議の様子はないが、各師団が正攻法に移った
理由を書いています。すなわち敵前近く突撃陣地を築き、それから突撃路
を掘って進路を極力短縮し、かつ後方に退路を設けて進退の自由を確保す
るなどの作業・・。前回の東鶏冠山堡塁突撃隊の一部は退路を失って孤立
し、逆襲を受けて全滅したことによる)という理由からの採用であると考
えますが・・。』
ここに記載されている(・・・)内の記述を『正攻法に移った理由』と言わ
れるのでしょうか。これは、正攻法に関するものではありません。攻撃失敗の
事態に陥った際の退却路作成に関するものです。
そして、この(・・・)内の記述を記載から除くと、そこには正攻法作業の
内容は書かれていますが『正攻法に移った理由』が全く書かれていないように
思われます。どこに書かれていますか?
『旅順関連の記述が40pほど書いています。』
……そうです。40ページで……?充分と言われるのですか?
『あと正攻法記述の件ですが、各師団長は正攻法に反対じゃなくて、
下記の理由なんですけど?』
>>843の『正攻法は某工兵部長提案の新方法で、他者全員反対(強襲法継続
希望)の本案を採択した軍司令官は、充分に攻城戦のなんたるかを把握してい
たと思われますが。』に対して、この記載が始まっていたわけですが、8月24
日から30日までの正攻法作戦計画への段取りなどからも、軍司令官が攻城戦の
なんたるかを把握していたと思われます。そして、
>>848に述べたように、
師団参謀長は正攻法自体に反対しています。
……いったい、
>>844で何が言いたかったのですか?
>>833 戸川氏の乃木大将 P145でも乃木の決意を披瀝しています。
853 :
嶽原:01/09/05 08:01 ID:JeawGcKg
>>830での論旨から著しくズレてきています。
『11/24の総攻撃開始前に有名な訓示が出され、幕僚は感得するが、感
傷はともかく乃木は自らの死を持って城を抜こうとした。参謀は2時間
をかけて訴止し代案として中村少将の白襷隊が代案として認められた。
決行直前の水師衛の決別と激励の訓示は身代わりとの決別であった。』
という「軍閥興亡史」の記述から、
>>830では
『11/24夜未明に決めて11/25日は決行準備とはまったく混成旅団の統
制が出来ないでしょうね。……混成部隊が1日で準備などは普通は考え
ない。……だが、白襷隊が行き当たりばったりの作戦であることは日程
から間違いなく、その原因が乃木大将の陣頭指揮阻止というのも納得で
きるわけです』と言われている。
24日の有名な訓令を、白襷隊構想実現のきっかけとして重視されている。つまり「24日の訓令内容を翻意するために白襷隊結成、そして25日に決行準備と
いうことは準備期間1日、余りに短い。その短い準備期間という異常ぶりも結
成の理由が司令官陣頭指揮という異常事態の身代わりとしてのものなら納得で
きる」との論旨だった。「軍閥興亡史」の身代わり説を信用に足るとする根拠
として24日訓令の内容とそれに対する参謀らの動きを重視されていた。
戸川氏の他書にも総攻撃前の訓示は出ていますよ。しかしそれには白襷隊結
成のきっかけになった、などとは一言もない。
既に(
>>835)でも述べていますが、異例の非公開勅語までもらってしまっ
た総攻撃前、なにがしかの発憤を促す訓令が為されたとは思います。軍幕僚多
数が反対し、自らも「奇道」とした特別支隊への訓令も有ったでと思います。
しかしながらそれが原因で白襷隊が結成され、乃木が『自身の身代わりなる白
襷隊を見送った』という「軍閥興亡史」の記述はどうにもおかしい。この時、
既に白襷隊構想は作戦内容に反映されているのだから。
問題点を整理しましょう。
1・24日に「この総攻撃が奏功せずば、軍司令官自らも第七師団を率いて出
陣する」というような発憤を促す訓令が行われた事実はあったか。
2・その訓令の翻意のために白襷隊が結成されたという、「軍閥興亡史」に
記されている身代わり説が成り立つ余地はあるのか。
私は1はあったと思い、2はなかったと思います。
854 :
日本@名無史さん:01/09/07 18:39
先日、渡辺昇一&谷沢栄一の本を立ち読みしていたら、
お勧めの本として「軍閥興亡史」が挙げられていた。
一方で相変わらず、乃木は愚将であり、旅順を落としたのは児玉の功績である、
みたいなことが書かれていた。
所詮この程度だよ、日本の保守論客なんて(w
主に司馬氏の乃木評価の跳ね返りという形で擁護論が展開されるように
なっております。擁護側に立っている私のネタ本は、「名将 乃木希典」
という本です。発行所は中央乃木会。著者は桑原嶽。初版は平成02年09月
05日です。
本書の副題は「─司馬遼太郎の誤りを正す─」というもので、司馬氏の
小説のあちこちの記述を論じております。
ただし、桑原氏は前書きにおいて、『「司馬遼太郎の誤りを正す」とした
副題を、「旧陸軍大戦史教育の誤りを正す」とした方がよかったかもしれ
ない』として、むしろ司馬氏が参考にしたと思われる戦前の陸軍大学校に
おける戦史教育の方を問題視しています。
司馬氏については、資料を鵜呑みにした不勉強ぶりを非難するというとこ
ろです。
司馬氏が「坂の上の雲」において参考にしたと、桑原氏が考えているのは、
「機密日露戦史」というものです。
これは、陸軍大学校において、大正十四年、専攻科学生に対して兵学教官
の谷大佐(当時)が講義を行ったときの講義録を本の形にしたものです。
専攻科とは、陸大出身者の中から選抜された特定優秀者の特別課程です。
ここでの講義録とは、まさに選ばれた者だけが知るもので、内容も軍事機密
として長く門外不出のものでした。
司馬氏は、昭和43年頃から産経新聞に「坂の上の雲」を発表しています
が、その前に、昭和42年に文芸春秋に「要塞」という短編を発表しています。
「要塞」の末尾には「参考にしたおもな書目」が挙げられているのですが、
この時には「機密日露戦史」は発表されていなかったのか、入手していなか
ったのか、本書は含まれていません。
「機密日露戦史」が原書房から発刊されたのは昭和41年、おそらく「坂の
上の雲」には本書が大いに参考にされたのだと思われます。
「機密日露戦史」の内容に引きずられて不勉強のままに作品を書いた、と
非難する根拠として、次の箇所を指摘しています。
「要塞」では、旅順二百三争奪戦の時の児玉の命令による陣地変換につい
て、その砲種・砲数を正確に「12糎榴弾砲15門と09糎臼砲12門」と正確に
書いています。しかし、そのように正確に記した 砲種・砲数が、「坂の上の
雲」では、ただ漠然と重砲のみと書いて砲種・砲数を不明としています。
「機密日露戦史」で不明としているために、そのように記述が後退している
というのです。
桑原氏の指摘はこのように、司馬氏が「坂の上の雲」において参考にした
資料を鵜呑みにして作品を作ってしまったためにおかしなものが出来てしま
った、と言う点を非難しているわけです。不勉強、いい加減、と。
昭和42年に既に知っていた砲種・砲数を、昭和43年以降にはあえて不明と
し、あろうことか「坂の上の雲」では「28糎榴弾砲を24時間以内に陣地転換
せよ」と児玉が命じた、としてしまったのは、面白さに走ったとしかいいよう
がありません。
桑原氏は、「機密日露戦史」の内容を講義した谷氏の経歴に着目し、谷氏
の講義録が生まれた経緯について考察しています。
谷氏は明治42年12月15日に陸軍大学校に入校し、大正元年11月25日に優
等で卒業しています。この時陸軍大学校校長が、第三軍参謀長伊地知と犬猿
の仲だった 井口省悟という人物だということに着目し、この頃の陸軍大学校
において行われた日露戦史研究に彼の意向が大きく影響したのではないか、
と述べています。
谷氏が陸軍兵学教官として勤務されていたのは、大正08年から09年までの
約一年半と、大正13年から昭和02年までの三年間で、合計05年に及んでいま
す。
この時期、もちろん井口は現役を去っていて、直接には何の影響もなかった
だろうが、井口の反伊地知思想は長く陸大の教官学生に影響を与え続け、更に
乃木への評価にまで影響したのだ、と想像されています。
もういっぱいいっぱいの私には、このような桑原氏の専門的に過ぎる記述に
は付いていけません。
陸大について、しかも当時軍機に属していたというようなものについて、
更にそれが生じた経緯、人物関係にまで考察を広げなくては、乃木批判・乃木
擁護は出来ないのかもしれません。
いやはやなんとも、とんでもない泥沼にハマリ込んでしまったもんです。
しかしまあ、面白いものだとは思います。
常識の陥穽探る楽しさよ 何がホントで何が嘘やら
0
sage
sage
sage
sage
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