邪馬台国はどこですか?

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1日本@名無史さん
みなさんはどこにあったと思います?
九州?畿内?それとも.....?
2胴元好位置:2001/01/11(木) 00:51
史学では近畿説で決まり。まだ北九州説言ってる奴は引っ込みがつかないのか地元。
その他はトンデモ。
3日本@名無史さん:2001/01/11(木) 01:14
でもまだどっちかはわかんないんだろ?
って事はさ、どっちでもないんじゃないの?
俺は東北、岩手だとみてるけどね。
4日本@名無史さん:2001/01/11(木) 01:20
だってずっと長い間探してまだ見つからないし。
恐らくは巨大である卑弥呼の墓がね。
って事は他の場所へ目をむけた方が矛盾が少ない
だろ?
5日本@名無史さん:2001/01/11(木) 01:25
>>3
東日流外三群誌の続刊がまた天井から落ちてきたの?(藁
6胴元好位置:2001/01/12(金) 00:27
現在考古学会では奈良県の纒向(まきむく)遺跡が邪馬台国ではないかとの説が強い。
周辺には最古の前方後円墳郡も存在する。出土土器の年代もほぼ当てはまる。
7氏名トルアキ:2001/01/12(金) 01:18
邪馬台はヤマトのことじゃないの?
8(*`▽´*):2001/01/12(金) 01:20
そのとおり、邪馬台はヤマトと読むのが正しいと思います。
9日本@名無史さん:2001/01/12(金) 02:23
宇宙戦艦邪馬台
10解決黒頭巾:2001/01/12(金) 02:29
西都原(宮崎県西都市)が邪馬台国です。
それ以外はでっち上げでございます。
直径150mあまりの円墳は日本中でここだけでございます。
11日本@名無史さん:2001/01/12(金) 03:06
伊勢です。
12日本@名無史さん:2001/01/12(金) 03:23
ウヨは畿内説かと思ってたら、つくる会の安本は九州説なんだな。
どちてこうなってるの
13日本@名無史さん:2001/01/12(金) 03:33
>>12
ウヨサヨに関係なく、既知外が九州説の支持者。そんだけ。
14日本@名無史さん:2001/01/12(金) 04:29
伊勢に1票。意外と知られてませんが、伊勢は文化の先進地。
15日本@名無史さん:2001/01/12(金) 06:16
卑弥呼のアレが伊勢に移されただけだろ?
16日本@名無史さん:2001/01/12(金) 10:42
>1
あなたは鯨統一郎?
17名無し:2001/01/12(金) 14:42
>6
纒向遺跡は卑弥呼共立以後の倭国の新生ヤマト王権の首都で、
それより古い唐子・鍵遺跡が邪馬台国、というのが、
寺沢薫氏(『王権誕生』)の主張のようですね。
寺沢説は、従来の邪馬台国大和説を批判した上に立っているのが
おもしろいです。
18日本@名無史さん:2001/01/13(土) 19:11
>>17
〉それより古い唐子・鍵遺跡が邪馬台国

そんなこと書いてありましたっけ?
 仮にもっと連続性が見られれば唐子鍵遺跡が邪馬台国の都とになるのだが…違うようだ
―みたいな論調じゃなかったでしょうか。

いずれにしても「○○遺跡=邪馬台国」みたいな
大規模弥生集落=3世紀当時のクニ
とみる考えはもう流行らないですよ。
もう「古代都市」の時代でしょう。
19名無し:2001/01/13(土) 23:24
>17
該当箇所(『王権誕生』p.267-8))前後を読み返してみました。
たしかにちょっと微妙な書き方がしてありますね。

一部引用しますと、
「……邪馬台国ヤマト説の人の中には、ヤマト王権の成立によって、
その王都が唐子・鍵遺跡から纒向遺跡に移っただけだと考える人もいる。
 しかし表面的にそのようにみえても両者の間に、権力論上つながる
考古学的状況はなく、むしろ多数の断絶が存在することは今までみてきた。
纒向遺跡はあくまでヤマト王権(新生倭国)の王都として建設された
新都市なのであって……」

ここでの寺沢氏の議論のポイントは、従来の邪馬台国ヤマト説が
弥生時代から古墳時代への権力中枢の「継続・一系説」を前提としていたのを批判し、
ヤマト王権の成立を(明治維新の比喩なども用いながら)「断絶・新生説」で
説明しようとしている点にあると思います。
(卑弥呼の「女王国」の実体はあくまで新生倭国のことであり、
決して「邪馬台国」のことではないとう主張も、それと関連します。)

こうした視点に立てば、従来の邪馬台国所在地論争が
(邪馬台国ヤマト説のみならず九州説の方も)暗黙の前提としていた
「邪馬台国=女王国=新生倭国」という単純な等式を批判することができるのでは
ないか、というのが私がおもしろいと思った点です。

ただ、そのように邪馬台国を弥生時代の「ヤマト」国とし、
それとは「断絶」して「新生」した倭国の王都が纒向遺跡であるとした場合、
前者の王都を唐子・鍵遺跡にみること自体は必ずしも否定されないと思うのですが
いかがでしょうか。
20日本@名無史さん:2001/01/13(土) 23:34
その見方を特に否定する意図はありません。
ただ、寺沢氏がそう主張したと紹介するのはおかしいナーと
書いただけです。

鯛は無いです。
21いやがらせ:2001/01/14(日) 01:48
唐子ってどこ?
22日本@名無史さん:2001/01/14(日) 02:07
もちろん茶碗の表です。
23:2001/01/14(日) 02:16
 今手元にないが、今朝(1月13日)の「赤旗」に、千葉の某研究所(佐原眞が所長やってるとこ)の副所長のインタビューが載っていた。それ見ると、その副所長もだが、日共もバリバリの「邪馬台国畿内説」であることがわかる。何しろああいう党だから、党が畿内説であれば、たとえば日本共産党福岡県委員会とかでも九州説は唱えられないのであろう。
 私は「現在の研究状況では、どっちか断定できない」という立場です。念のため。
 ところで纒向(まきむく)遺跡って、箸墓古墳(畿内説論者がよく卑弥呼の墓と言っている所)がある所だっけ?
24日本@名無史さん:2001/01/14(日) 02:57
右翼も左翼も支持する畿内説
25名無し:2001/01/14(日) 10:28
>20
たしかに、寺沢氏の主張の主眼が、邪馬台国所在地論争への解答にはないことは
同意します。
そのへんは、講談社の編集者の紹介の仕方に誘導された面があったかも。↓
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/topics/bpro/tuushin.html
26名無し:2001/01/14(日) 10:34
>21
http://www2.begin.or.jp/sakura/karako.htm

>23
>ところで纒向(まきむく)遺跡って、箸墓古墳(畿内説論者がよく卑弥呼の墓と言っている所)がある所だっけ?

そうです。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maki01.htm

27日本@名無史さん:2001/01/14(日) 12:59
>>25 それはだいぶ違うでしょう。

寺沢氏の考えは従来から
「纏向遺跡出現以降の邪馬台国は畿内ヤマト」というもので
「それ以前の邪馬台国の中枢が北部九州や吉備である可能性は排除しない」
とも明言しています。
28日本@名無史さん:2001/01/14(日) 14:37
東大の論述と筑波や一橋の論述は全然性格が違う。
東大の問題は「なぜ…か?」「背景は何か?」を分析させる問題。
筑波や一橋はただ暗記したことを文章にまとめさせるだけ。

29日本@名無史さん:2001/01/14(日) 14:45
>657
は?
655の不敬朝日はともかく、
デマや勝手な妄想カキコが多い中、
本人の言葉が「愚劣な出歯亀根性」か?
なんだそりゃ。


30日本@名無史さん:2001/01/14(日) 14:47
犬山城半年くらいまえTBSの噂の!東京マガジンで出てたよ。
なんか城内に住んでる旧藩主の親戚が税金はらってくれないとかで
市役所がこまってるとか。東京の旧藩主のおじいちゃんも
おおそうか大儀であった、みたいなかんじで話にならないって。
なんか顔にも口にも出せないけどお金なさそうなかんじ。
年寄りの相続税逃げ切りふんぞり返りみたい。
31日本@名無史さん:2001/01/14(日) 14:51
在日韓国・朝鮮人はいわゆる「強制連行」によって日本に住んでいるのでは
ありません。皆さん、左翼マスコミのプロパガンダに騙されないで下さい。

本当の彼らのルーツは、朝鮮の部落民である白丁が朝鮮での過酷な差別に耐えかね、
韓国併合後に裸一貫で(もともと裸一貫でしたが)日本に渡って来たものと、
朝鮮の被差別地域である済州島出身者、それに朝鮮戦争時に日本に密入国してきた
ものの三種類です。事あるごとに日本の弱体化を企てるかれら在日をもうこれ以上
許すことは出来ません!

(白丁とは朝鮮の被差別民のことです。李朝時代に身分として固定されたもので。
柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服も指定され、居住地も制限されていました。
また、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばなりませんでした。
1894年の甲午改革で身分解放が行われたがその後も差別は存在し続けました。


在日コリアンというのは李氏朝鮮下の部落民である白丁が、朝鮮での
過酷な差別に耐えかね、自主的に日本に渡って来たものがその
ルーツとなっている。
だから本国のコリアンは在日白丁コリアンを差別するのです。
在日=白丁説は、韓国の大学でも教えていますよ。
32名無し:2001/01/14(日) 16:50
(なんか関係ないレスが入ってますが無視して)

>27
そうなんですか。
私は寺沢氏のこれまでの議論についてはまったく知らないのですが、
『王権誕生』を読んだ限りでは、(従来の邪馬台国ヤマト説に対しては
批判的ではあるけれども)やはりまぎれもない邪馬台国ヤマト説の
ひとつと受け取らざるをえないと思ったのですが。

たとえば下記のような箇所。
「私は、『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」……とは、
 奈良盆地の「ヤマト」の範囲であったと考えている。」(p.249)
「……私は邪馬台国は弥生時代以来の「ヤマト」国だと思っている。」(p.264)
「邪馬台国が弥生時代以来の「ヤマト」国であるならば、その王都は
 「ヤマト」の拠点的母集落のなかでも中核的で最大規模である
 唐子・鍵遺跡をおいて他に考えられない。」(pp.267-8)

で、「纏向遺跡出現以降の邪馬台国は畿内ヤマト」という見方は、
19に書いたような「断絶・新生説」でむしろ否定されているのではないでしょうか。
33だからさ:2001/01/14(日) 19:35
唐子じゃなくて、唐古。
いいかげん直しなよ。
34日本@名無史さん:2001/01/14(日) 20:27
>>32
そうですよ。慎重な言葉を選びながらではありますが
寺沢氏の主張は邪馬台国ヤマト説のひとつです。

「私は、『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」……とは、
 奈良盆地の「ヤマト」の範囲であったと考えている。」(p.249)
=>陳壽が書いたのは主に「纏向遺跡出現以降の畿内ヤマト」
ということですよね。

「……私は邪馬台国は弥生時代以来の「ヤマト」国だと思っている。」(p.264)
=>これも陳壽が書いた「纏向遺跡出現以降の邪馬台国」のことですよね。

「邪馬台国が弥生時代以来の「ヤマト」国であるならば、その王都は
 「ヤマト」の拠点的母集落のなかでも中核的で最大規模である
 唐古・鍵遺跡をおいて他に考えられない。」(pp.267-8)
=>「しかし表面的にはそのように見えても」と続いています。
これは「纏向遺跡出現以前の「ヤマト」国」のことでしょう?

つまり「ヤマト」という言葉は政治的な「国」ではなくて
特定地域を指す地理的な意味で使われているだけではないですか?
35ああ:2001/01/14(日) 20:57
ああ
36昔、院にいましたが、:2001/01/14(日) 21:15
>32

邪馬台国が畿内にあったのか、北九州にあったのかは、断言できないと
思いますが、畿内説の論拠には非常におかしなものが見られますね。

以下、列挙すると、
○三角縁神獣鏡は、どう考えても日本製ですね。しかも原料の銅が華南
のものですから、晋が呉を併合した290年以降のものです。
○北九州のマキムク型古墳からは、三角縁神獣鏡とともに、庄内期の土器
が出ていますが、この鏡が290年以降とすると庄内期の土器の年代は、
近畿説の学者の言う2世紀前半などということはありえませんね。
(ホケノ山の画文帯獣鏡についても同じことが言えますね。そもそも、
ホケノ山も4世紀のものになってしまいますね。)

寺沢氏の主張は読みましたが、奈良盆地の集落が、ある時期一斉に絶滅
するという事実は、近藤さんとかが言われていた話ですよね。
それにマキムク遺跡などはどう考えても北九州系統の文化ですよね。
なぜ、吉備云々を持ち出すのか理解に苦しみます。
3736:2001/01/14(日) 21:21
反論お待ちしています。

それからここは、素人の方も見ておられると思いますので
言っておきますが、畿内説で決定というのは主に京大系の
学者がマスコミに吹聴している話で学会内で定説かしている
わけではありません。気を付けてください。
38日本@名無史さん:2001/01/14(日) 21:26
相当情報が古いんじゃない?
39>38:2001/01/14(日) 21:29
ほお、じゃあ反論してくださいな。
40日本@名無史さん:2001/01/14(日) 22:11
考古学会は、畿内説が大勢って言うけど、あそこほとんど
京大閥なんだから当たり前だよね。
変に逆らって、大学にいられなくなったら大変だもんね。
41日本@名無史さん:2001/01/14(日) 22:22
あの遺跡自体は古いんでしょうが、ホケノ山が3世紀中頃なんてのは下げすぎ。
280年くらいのもんだわな。
42名無し:2001/01/14(日) 22:50
>33
ありゃ、これは失礼。お詫びして訂正します。
(誤)唐子 → (正)唐古
43日本@名無史さん:2001/01/14(日) 22:55
つうか、魏志倭人伝の記述と箸墓古墳を比べると、形が違う、倭人の墓には
ないという櫛がある、殉葬者がみつからないなど、食い違う点が多いので、
以前は畿内説派でも「箸墓古墳=卑弥呼の墓」と主張するのは少数派だったが、
今では畿内説派のほとんどが「箸墓古墳=卑弥呼の墓」と考えているのでは
ないかという気がする。これはどう考えてもマスコミの煽りのせいだろうな。
44名無し:2001/01/14(日) 23:50
>36
ああ、なるほど。確かに私の読み方に一部誤読があったようですね。
ご教示感謝します。
要するに、『王権誕生』では「邪馬台国」の意味として
(a)纒向遺跡出現以前の奈良盆地のヤマト国
(b)纒向遺跡出現以降(女王が都した)ヤマト国
(c)(陳壽が「邪馬台国」と錯覚して等置した)新生倭国
の三つが文脈によって使い分けられていたのに、私は(a)と(c)の「断絶」に
注意を集中するあまり、(b)の意味の存在に無頓着になっていたようです。

ただ、「ヤマト」が政治的な「国」ではなくて特定地域を指す名であるとすると
(私もその見方が正しいように思いますが)、
纒向遺跡出現以前の邪馬台国の中枢が「北部九州や吉備である可能性」は
成立しないのではないでしょうか。「邪馬台国の中枢」ではなく
「新生倭国の権力母体」であればともかく。
45名無し:2001/01/15(月) 00:02
>40
「決定」とまでは言わなくとも、たとえば東大系でも吉村武彦氏は
「最近は大和説に傾いている」というふうに書いてましたね。
(『日本社会の誕生』)

学閥と言えば、(私は歴史学/考古学に関しては素人なのでさっぱり
わからないんだけど)同志社の考古学って結構有名人が出てますが
京大とはどういう関係にあるんでしょう。
また同志社出身者どうしでも、前出の寺沢氏は白石太一郎氏の説
(「狗奴国連合」とか箸墓=卑弥呼の墓とか)をかなり批判している
ようですが、派閥みたいなもんはあるんでしょうか。
46日本@名無史さん:2001/01/15(月) 01:38
>>44
>纒向遺跡出現以前の邪馬台国の中枢が「北部九州や吉備である可能性」は
>成立しないのではないでしょうか。

んなわけないじゃん。
氏の論は、「邪馬台国=卑弥呼のいる所は当時の倭国内で最大の都市である。
当時の遺跡で最大の物は唐古・鍵遺跡である。よって、唐古・鍵遺跡が邪馬台国である。」
という三段論法でしょ。でも、今後、九州や吉備で、唐古・鍵遺跡より大規模な当時の
遺跡が発見される可能性がないわけではないので、九州説などを完全に否定はしないと
言ってるわけで、逆に言えば、そんな遺跡が見つかればそっちを有力視するってことだよ。
47日本@名無史さん:2001/01/15(月) 08:13
ありゃ、こっちのスレのほうがまともな論議が・・・
あっちのスレはPart3までいって電波黒頭巾に乗っ取られたか。
>>36さん
もしかしてPart1で同じような主張をなさったことはありませんか?
あの時鏡の原材料(鉛)の組成で、鉱山の場所がわかるという説を知り、いろいろ研究成果を
勉強させていただきました。
ただ、私の手に入る書物は一般向けへの解説書だったので、それほど詳しくはなかったのですが・・・。
それによると、弥生時代の銅鐸や銅剣などは朝鮮半島、漢鏡は華北、古墳時代の青銅製品は華南
と大まかに分けられていました。三角縁神獣鏡も華南産地の鉛を使用していたとか。
ただ、三角縁神獣鏡が290年以降に日本で作られたという説にも、幾つかの疑問が(私には)
感じられます。(日本で作られた可能性は私も高いと思いますが)
1.鋳型が日本でも発見されていない。
2.魏の年号が入っている。しかも間違えている年号があり、改元時の混乱を反映していると
思われる。後に鋳造したとすれば間違えることはない。
3.呉から原材料を手に入れた可能性も否定しきれていない。

それからこれはより詳しい調査が必要だと思われるのですが、三角縁神獣鏡の内、
初期のいくつかが魏で製作され、日本で数多くの複製が作られた可能性はないでしょうか。
48名無し:2001/01/15(月) 09:38
>46
>氏の論は、「邪馬台国=卑弥呼のいる所は当時の倭国内で最大の都市である。
>当時の遺跡で最大の物は唐古・鍵遺跡である。よって、唐古・鍵遺跡が邪馬台国である。」
>という三段論法でしょ。

それはちょっと違うんじゃないですか。
第二段は、当時の「奈良盆地のヤマトの」遺跡で最大のものは唐古・鍵遺跡である、
ってことでは。
「当時」とはどのタイムスパンを意味するかにもよるだろうけど、
仮に弥生後期までという意味なら、それこそ吉野ヶ里遺跡の方が大きいわけで。
「権力中枢の東遷」という見方は寺沢氏も否定しているわけですし。

--
なお、44での「>36」は「>34」の間違いでした。訂正します。
49日本@名無史さん:2001/01/15(月) 10:12
>>47
>1.鋳型が日本でも発見されていない。

京都にある鏡作神社の御神体は三角縁神獣鏡の鋳型じゃなかった?

>初期のいくつかが魏で製作され、日本で数多くの複製が作られた
可能性はないでしょうか。

その可能性は否定出来ないがねぇ。
中国製鏡の大きさで三角縁神獣鏡ほど大きいのは見当たらないし、
日本国内での三角縁神獣鏡の扱いが価値の低い鏡であった事を
示している。
中国製鏡より価値の低い鏡は日本製と考えるのが正しいと思うよ。
現代とは逆だけど。
5047:2001/01/15(月) 11:57
>>49さん
>京都にある鏡作神社の御神体は三角縁神獣鏡の鋳型じゃなかった?

奈良の鏡作神社の御神体で、神獣鏡の鋳型の元となったと考えられる
縁無しの鏡(神獣の部分だけが残っている)を写真で見たことがあるのですが、
それ以外にちゃんとした鋳型があるのでしょうか?
この鏡にしても、鋳型の原型とする論拠がいまいち不明なのですが。

>>初期のいくつかが魏で製作され、日本で数多くの複製が作られた
>>可能性はないでしょうか。

>中国製鏡の大きさで三角縁神獣鏡ほど大きいのは見当たらないし、
>日本国内での三角縁神獣鏡の扱いが価値の低い鏡であった事を
>示している。

実は私もこの説には強い論拠がないように思ってます。(笑)
鏡としては大型の鏡もあったようです。ただしそれは揚子江流域のものが多く、
この流域には神獣をモチーフにした鏡、三角縁の鏡、大型の鏡がそれぞれ別個に
存在しており、三角縁神獣鏡が江南(呉)の職人が日本に渡ってきて
それらを組み合わせたとする根拠になっているのはご存知のことと思います。
ただ、三角縁神獣鏡が漢鏡などに比べて扱いが低いことや、数が多いこと、
材料が江南であることなどは、これである程度説明できるかなとは思います。

2.についてもご意見をお待ちしています。
51日本@名無史さん:2001/01/15(月) 12:13
>>47
京大閥の陰謀で九州説が日の目を見ないなんぞとの言説は
黒頭巾と同類だろう。
トンデモの証しだ。
5247:2001/01/15(月) 13:16
>>51さん
学閥がどうとか、学界の定説がどうとか、正直素人にはどうでもいい話で・・・。
なぜそんなことにこだわっているのかさっぱり判りませんね。
ただ科学として普遍的に捉えるなら、論理的で証拠がそろっている説には
賛同者が多いだろうということで、支持者を増やすために言っているのか・・・。
ほんとうはこの逆必ずしも真ならずなのですけれどね。
53快ケツ:2001/01/15(月) 16:46
>51
黒頭巾の方を持つわけではないが、アカデミーの陰謀はあったんだぞ。
とりあえず過去形にはしておいたけどな。
54日本@名無史さん:2001/01/15(月) 17:53
>>50
確か、遼東の公孫氏は呉と繋がっていて、呉の鏡作氏が居て魏に公孫氏
が滅ぼされると高句麗、日本に逃げた。
遼東からの亡命者は畿内に逃げてきた時、魏の景初が3年までしかない
事を知らずに日本で△鏡を作成したと言うのが素直な解釈。
畿内は大陸から遠いので大陸の情報が入りにくかったのだろう。
55日本@名無史さん:2001/01/15(月) 20:59
公孫氏が呉と繋がったという事実はないでしょう。
正確にいえば、繋がりそこなったというべきか。
公孫氏の捕虜になった呉兵士のなかに鏡職人がいたとか空想するのは
とうぜん素直な解釈とはいえません。

公孫氏が亡ぶ時に魏に投降せずに
はるか異国まで逃げて行ったような人間が
一転して魏の年号を使うのも不可解です。
56日本@名無史さん:2001/01/15(月) 23:18
>47
鉛ではなく銅に含まれる鉛の同位体のことです。
文様から見て原形は魏鏡ではありません。
それから宮廷製の場合、マークがありますが、例の鏡にはありません。

>52
陰謀ではありませんが、「卑弥呼の鏡が出土」なんてのは完全な煽りですよね。
5736:2001/01/15(月) 23:21
畿内説の皆様、反論はないのですか?
今のところ煽りだけのようですね(笑)
58>55:2001/01/15(月) 23:51
「日本人が作った」でいいじゃん。何の問題があるの
59正しい歴史:2001/01/15(月) 23:53
>58
異議なし。
60日本@名無史さん:2001/01/16(火) 00:12
「鉛の同位体分析によって三角縁神獣鏡には華南産の鉛が含まれていることが
判明しているがゆえに魏鏡ではない」という議論は成り立たないでしょう。

 前漢時代の銅鏡には華北産の鉛が使われていたということです。
そして、ほとんどの後漢鏡と三角縁神獣鏡には同じタイプの鉛が
含まれており、これが長沙近くの鉱山のものと似ていて
華南産だと言われています。

 ただ、馬渕の論文では「華南の鉛」とだけでなく
「華南・華中の鉛」という表現も使われており、この「華南産」を
「呉の鉛」と単純に同一視することは出来ません。
華北とか華南とかは、きわめておおまかな分類に過ぎないのです。

 なにより、対置式をはじめ呉鏡であることが確定している銅鏡に
使われている鉛はまた別の種類という結果が出ているのです。
椿井の三角縁神獣鏡に使われている鉛は後漢鏡の大半と
同じタイプなのですから、分析から得られるのは
逆に「魏の鏡である」という結論なのではありませんか?
61日本@名無史さん:2001/01/16(火) 00:16
>>56
それは逆でしょう。
文様から見て、魏鏡の可能性が高いのです。
62日本@名無史さん:2001/01/16(火) 00:19
それでは>>58 >>59 のご両名は >>54 に異議があるのですね?
63>60、61:2001/01/16(火) 01:01
はあ、神獣鏡は、同位体の分布から見て、同一鉱山のものですが。
だいたい、華南を制圧下においていない魏がどうやって華南の銅
を入手できるのでしょうか?
それに神獣鏡が魏の文様でないことは、中国考古学界の一致した見解でしょう。
6463:2001/01/16(火) 01:08
私は、金属屋ではありませんのが、同一鉱山云々は専門家に聞いた結果
です。
65日本@名無史さん:2001/01/16(火) 01:55
>だいたい、華南を制圧下においていない魏がどうやって華南の銅
>を入手できるのでしょうか?

貿易。

そもそも、魏の領域からは華南の銅(鉛じゃねぇのか?)を使った青銅器は出土しない
ということを立証しないといけないはずだが、それは済んでいるのかな?
66日本@名無史さん:2001/01/16(火) 01:58
どこの鉱山ですか?そのような結果は出ていないと思いますが?

 文様の研究は、王仲特の研究が発表された時代よりも
かなり精緻になっています。画文帯神獣鏡の文様では
対置式、重列式は呉の文様であるが、同向式は呉のものではない
可能性が指摘されています。徐州説、楽浪説などがあります。
馬淵の鉛同位体の分析結果はこれを支持するものです。

 文様の研究者では、同向式の系譜を引いている
初期鏡群の文様の変遷過程から三角縁が魏の領域で造られたと
考える研究者が多数います。
 鈕孔の形状の特徴も魏の領域の銅鏡と共通である点が注目されています。
6747:2001/01/16(火) 07:17
>>36=>>57さん
>>47は煽りではありません。念のため。

>>56さん
>それから宮廷製の場合、マークがありますが、例の鏡にはありません。
そのマークはどのようなものでしょうか。普遍的なものでしょうか。それとも
魏の宮廷オリジナルのものでしょうか。

>>54さん
あなたの説が正しいとすれば、やはり三角縁神獣鏡の制作年代は景初3年に近い
ことになり、36さんの説は成り立たなくなりますね。
55さんがおっしゃるように、魏の年号を一転して使う点も疑問ですし。
6854:2001/01/16(火) 11:02
>>55>>67
>公孫氏が亡ぶ時に魏に投降せずに
>はるか異国まで逃げて行ったような人間が
>一転して魏の年号を使うのも不可解です。

落ち武者と言うもの残党狩りを恐れる物だろう。
その地が勢力範囲外と言っても情勢が変れば
いつ何処でばれて処刑されるとも限らない。

大体俺達は何処何処で戦争に負けて逃げてきた
なんて初めから言うわけないよ。
戦勝国の魏から来たと言うのが落人の心理。
69日本@名無史さん:2001/01/16(火) 11:26
落ち武者が魏から来たと偽って住みついて
鏡職人を開業したっていうなら
そこは邪馬台国だろう?
7054:2001/01/16(火) 14:25
>>69
>落ち武者が魏から来たと偽って住みついて
鏡職人を開業したっていうなら
そこは邪馬台国だろう?

魏と密接な交流をしていた邪馬台国にそんな嘘が通用する筈がない。
そこは邪馬台国からは遠い辺鄙な国だったから成り立つ話。
畿内はこれらの落人がはいる事により急激に力をつけて次第に周辺を
征服していった。
71日本@名無史さん:2001/01/16(火) 15:10
>>54
68まではまあわからんこともないが、魏と密接につながりがあったからって、
落人を処刑する也引き渡す也する理由があるわけでなし。
かくまって、使った方がはるかに有用だ。
7254:2001/01/16(火) 15:36
>>71
落人の心理としては魏の息の掛かっていない所へ行きたいだろう?
73日本@名無史さん:2001/01/16(火) 21:27
その遠い辺鄙な国は倭の30国の一つなのかい?
それ以外なのかい?
74日本@名無史さん:2001/01/16(火) 23:08
>66
画像鏡、神獣鏡は、当時の魏の領域からはほとんど出土していません。
少なくとも確実に主流ではありません。
平原墓から出土した内行花文鏡等が当時の主流であることは否めないわけです。
それによくいわれる除州に関しては、除州の銅を産出する地域は、呉の領域ですね。長沙もそうですね。
最後にもっとも重要な点は、中国、朝鮮半島を含め、例の鏡は日本以外ではまったく発見されていません。


>67
尚方作という刻印があります。
平原墓からはこのような鏡が多数出土しております(例の鏡ではありません)。
普通ならこちらを卑弥呼の鏡とした方が説明がつくでしょうね。
落人云々でへ理屈をこねるより、日本製といったほうが説明が合理的だとおもいますが。
75日本@名無史さん:2001/01/16(火) 23:14
>66
画像鏡、神獣鏡は、当時の魏の領域からはほとんど出土していません。
少なくとも確実に主流ではありません。
平原墓から出土した内行花文鏡等が当時の主流であることは否めないわけです。
それによくいわれる除州に関しては、除州の銅を産出する地域は、呉の領域ですね。長沙もそうですね。
最後にもっとも重要な点は、中国、朝鮮半島を含め、例の鏡は日本以外ではまったく発見されていません。


>67
尚方作という刻印があります。
平原墓からはこのような鏡が多数出土しております(例の鏡ではありません)。
普通ならこちらを卑弥呼の鏡とした方が説明がつくでしょうね。
落人云々でへ理屈をこねるより、日本製といったほうが説明が合理的だとおもいますが。
76日本@名無史さん:2001/01/16(火) 23:20
つーか、この世界には、若草伽藍が発見された後でも法隆寺2寺説なんか唱えていた
電波学者がいるわけだかな。
京大系小林信者にいくら説明しても無駄だと思うぜ。
「魏鏡」だということが疑うべかららざる神聖な前提なんだからさ。
77日本@名無史さん:2001/01/17(水) 01:13
最近は、白石とか石野とか畿内説でも国産説が多くなっているよね。
しかし議論を見る限り、魏鏡でないとすると確かに庄内期が下がってしまうわけね。
こりゃ、畿内説ピンチだな
78日本@名無史さん:2001/01/17(水) 03:41
最新の報告書によれば、平原出土の銅鏡の大半は国産鏡です。
庄内期の年代観は魏鏡説とは関係なく、>>77 のようなことはありません。
79日本@名無史さん:2001/01/17(水) 06:40
>>77
「議論を見る限り」? 180°反対でしょう。
公孫氏領域からの工人渡来を考えた場合も
三角縁神獣鏡の初期鏡群製作年代は西暦240年になりますから
三角縁がまだないころの古墳の年代が逆に繰りあがります。

つまり布留0式が3世紀半ばで確定してしまうことになりますから
卑弥呼の晩年か死の直後には北部九州にも前方後円墳が営まれていることになり
「畿内説ピンチ」どころか、九州説完全にアウトでしょう。
80日本@名無史さん:2001/01/17(水) 06:47
>>75
三角縁に使われている鉛が、同位体分析により
江南の神獣鏡とは異質であるという結果が出ています。
つまり「徐州の銅」が呉のものではないのですから
これも結論が逆になるでしょう。
内行花文鏡等が主流という考えも根拠薄弱です。
8167:2001/01/17(水) 08:17
>>76
「尚方作」は漢鏡にもあったと思いますが。
あと出来の悪い「尚方作」の鏡が朝鮮半島からも出土していることから、
必ずしも「尚方作」が魏宮廷作とは限らないのではないでしょうか。
(もっとも平原墓の鏡は出来が良いと思います。)
「落人説」は私も賛同できませんが、三角縁神獣鏡がすべて後世(呉滅亡後)に
製作されたという説にも賛同できません。日本で製作された可能性は大きい
とは思いますが、鋳型の出土がないので、中国で三角縁神獣鏡の出土が見られない
のと同様、条件はイーブンだと思います。
82日本@名無史さん:2001/01/17(水) 09:39
>>79
「公孫氏領域からの工人」
が日本にきてすぐ鏡を作り出した訳ではないだろう。
紀年鏡の年号も鏡を古く見せる為、過去の年号を使う事もある。
さらに墓に入れられるのは20年〜50年後だろう。
83日本@名無史さん:2001/01/17(水) 10:11
>>76 理論的な主張がひとこともできなくて
京大陰謀説をふりまわしてる人はなに教徒?
84not79:2001/01/17(水) 11:06
>>82
>紀年鏡の年号も鏡を古く見せる為、過去の年号を使う事もある。
具体的な事例を挙げることが出来ますか?
後世の偽作であれば、年号を間違えるはずがないと思われるのですが、いかがでしょうか。
85日本@名無史さん:2001/01/17(水) 11:16
>>81
鏡より鋳型の方が見つかる確率は低いように思えますけど。
86日本@名無史さん:2001/01/17(水) 16:21
>>75
>尚方作という刻印があります。

そんな刻印のある銅鏡はありません。
銘文の中に「尚方作鏡」等の文言があるものはたくさんありますが
尚方の作った鏡に必ずそういう銘文があるという事実もありません。
87日本@名無史さん:2001/01/17(水) 16:49
>>82
「鏡を古く見せる為、過去の年号を使う」という
根拠のない仮定を濫用しない限りでは
西暦240年+伝世50年(これも非常識に長いが)でも
布留1式が西暦290年前後ということになり
これでもまだ庄内期はまだ石野の編年より繰り上がります。
よって
>>77 「議論を見る限り、魏鏡でないとすると確かに庄内期が下がってしまうわけね」
なんてことは全くないのであって、つまり
年代論を全然理解しておられないのですね。困りましたね。
88日本@名無史さん:2001/01/17(水) 18:42
九州説者は事実じゃないことばかり言うんだな。
89日本@名無史さん:2001/01/17(水) 19:31
>88
ばっかじゃん!
事実みてたら九州説やってるわけないだろ?
9081:2001/01/17(水) 19:32
>>85
>鏡より鋳型の方が見つかる確率は低いように思えますけど。
鋳型一つから鏡が何枚か製作されるからそのようなご意見なのでしょうが、
それは生産地と消費地が近い場合でしょう。三角縁神獣鏡が魏国内で
生産されたとしても、魏国内での需要は低く(大きすぎて実用的ではなかった)、
残存しなかったと考えられます。
もっとも、中国で鋳型が発見される可能性を考慮していなかったので、イーブンと
言うことはありませんね。やはり若干日本製の可能性のほうが高いでしょうか。
それにしても4世紀に入ってから製作されたというのは(踏み返し鏡はともかく)
ないと思います。
91>87:2001/01/17(水) 21:43
魏鏡でない=神獣鏡が魏が呉を併合した後の鏡ってことなら、
280年以降になっちまうじゃないの。
つーか、この議論決着ついてんじゃないの。
公孫氏が作ったていうけどさあ、朝鮮半島でも一枚も出てないじゃん。
中国の学者であれが魏鏡だって言っている奴がいるわけ?
92日本@名無史さん:2001/01/17(水) 21:46
>>91
どういう根拠で「魏鏡でない=神獣鏡が魏が呉を併合した後の鏡」
というんですか?
それは当然100%ありえない仮定ですが?
9387:2001/01/17(水) 21:51
>90
何でそんな奇妙な理屈をこねるわけ?
日本製ってのが一番合理的な説明じゃん。
94>92:2001/01/17(水) 22:00
魏って華北だけしか領土がなかったんだろ。

材料が華南なら、日本がその前の後漢かその後の普から手に入れたわけじゃん。
後漢ってのはいきすぎばら、普かその後の東普から手にいれたっていう理屈じゃないの。
おれは、愛好家にすぎんから、材料の話が本当かは良く知らんぜ。
(詳しい奴がいたら教えてくれよ)
つーか、中国の学者はどう言ってんだよ?日本の学者同士で話しあっててもしょうがないじゃん
95日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:15
>>94
 鉛同位体分析を行なったひとが「華南」という言葉を使ったのは
便宜的なもので、呉のことをさしているのではありません。
当の論文では、呉製の鏡の材料とも長沙付近の鉱山のものとも
異質であると結論しており、北方の材料であると明言しています。

 くりかえしますが「魏鏡でない=神獣鏡が魏が呉を併合した後の鏡」は
100%ありえません。これはちょっと考えればわかりますよね?

 中国の学者では、王金林などが魏鏡説です。
96日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:16
>94
中国から一枚も出土しない鏡を彼らが中国製というわけ
ありませんね。
邪馬台国が畿内か九州は、現段階では、はっきり断定は
できません。
しかし三角縁神獣鏡は、明らかに日本製。
では、彼らがなぜ公孫氏が作っただの、魏の宮廷が特注
しただの見苦しい言い訳をするのかということですが、
学者の世界では自分の師匠の学説を否定するということは
かなりとんでもない行為だからなんですよ。
ただそれだけのことですわ。
97日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:17
>>93
「日本製ってのが一番合理的な説明」だという理由はなんですか?
9894:2001/01/17(水) 22:19
>95

「華南」と書いてあって、「北方の材料」ってどういう意味だよ。
文章の意味がつながらないじゃん。
それに「北方」のどこなんだよ。
99>97:2001/01/17(水) 22:23
日本以外から出ないからに決まってんじゃん。
100日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:24
>>96
 昨年に甘露5年銘獣首鏡が発見されるまで
魏の領内でみつかった魏の年号がはいった鏡は一枚もありませんでした。
しかし、魏の年号が入っている鏡は魏鏡ではないと主張した人はいません。

 なぜでしょうか?魏代の鏡じたいが中国本土では少数しか確認されていないからです。
中国から一枚も出土しない鏡が中国製であってなんら不思議はありません。

 それから、楽浪出土の三角縁二神二獣の同向式神獣鏡は雲気文がある点以外は
ほとんど同じです。
専門家でなければ三角縁神獣鏡と見分けがつかないでしょう。
101>95:2001/01/17(水) 22:25
つーか、そんなに否定するってどう考えても怪しい。
なんで後でありえないか教えてくれよ。
102>100:2001/01/17(水) 22:30
だからあ、この鏡自体は、出土しているわけ?
してないんだろ。それからさあ、日本で500枚くらいでてんじゃないの
魏鏡が少数なら余計怪しいじゃん。
楽浪とやらで似た鏡がでていることがなんの証拠になるわけ?

103102:2001/01/17(水) 22:31
北方ってどこなの、早く教えて
104日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:33
>>98
測定をした本人が
華南とか華北とかはおおまかな領域のことを言っただけで
地理でいう華南や華北とは違うと論文に書いています。

具体的には、東北地方を中心に黄河より北の鉱山群を「華北」とまとめたので
それより南が「華南」と書かれています。
北方とは、長江より北の魏の領域ということになるでしょう。
105102:2001/01/17(水) 22:34
後、魏鏡、少数って何枚?
楽浪のもんは、何枚なの?
106日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:37
まだ気が付かないんですか?
「魏鏡でない=神獣鏡が魏が呉を併合した後の鏡」
なんてことがありうるワケがないでしょう!?

この間違いがわからなかったら
邪馬台国の議論が出来るだけの知識がないってことですよ。
107>104:2001/01/17(水) 22:40
本当かあ、そんな分け方するか?
普通揚子江より南が華南じゃないの。
だいたい、冬至東北なんて女真人しかいないじゃん。

おい、ここ見ている院生達よ、本当かよこれ?
すげえ、こだわってる所見るとこれキーポイントみたいだぜ。
教えてくれや
俺も材料の専門家にも聞いとくわ。
108>106:2001/01/17(水) 22:41
だから理論的に反論しろよ。
109>106:2001/01/17(水) 22:42
それから材料分析の出典教えてくれや。
110日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:45
別け方がどうかじゃなくて、その論文で便宜的にそういう言葉を使っただけです。
地理的な区分とは違うのです。

弱りましたね。
「魏鏡でない=神獣鏡が魏が呉を併合した後の鏡」
の間違いがわからないいんですか?
魏が呉を併合するわけないでしょう?
111日本@名無史さん:2001/01/17(水) 22:55
>>109
馬淵久夫、平尾良光「鉛同位体比法による漢式鏡の研究」MUSEUM
馬淵久夫、富永健「考古学のための化学10章」
ほか多数
112日本@名無史さん:2001/01/17(水) 23:08
ちなみに前掲の論文では、より正確に
中原以南と注記していますね。
113日本@名無史さん:2001/01/17(水) 23:18
>>107
おっと「東北地方」は不正確でした。
北朝鮮と遼西です。訂正しておきます。
114日本@名無史さん:2001/01/17(水) 23:35
>>82 の方。>>84
>>紀年鏡の年号も鏡を古く見せる為、過去の年号を使う事もある。
>具体的な事例を挙げることが出来ますか?

と反問されていますが、回答はまだですか?
115日本@名無史さん:2001/01/18(木) 06:47
>>96
理由もなく断定するのは理性的とはいえませんよ。
11690:2001/01/18(木) 07:45
>>93=>>99
>何でそんな奇妙な理屈をこねるわけ?
>日本製ってのが一番合理的な説明じゃん。

>日本以外から出ないからに決まってんじゃん。

「日本製である」とする根拠も、結局それだけしかないから理屈をこねられるわけです。
新発見があればすぐ覆るような根拠で、軽々に結論付けるわけにはいかないと思います。
少なくとも日本国内での鋳型や製造施設の発見、原材料の入手ルートの解明、などがあって
初めてそこまで主張できると思われるのですが。

>>96
「師匠の学説」うんぬんは民間の研究者や歴史愛好家にとっては意味のない主張です。

>>110
イジワルシナイデ教えてあげたら。彼の言っている主旨とは違うんだし。
117日本@名無史さん:2001/01/18(木) 08:59
>>105
>紀年鏡の年号も鏡を古く見せる為、過去の年号を使う事もある

っていうのを認めるなら、たしかな魏鏡なんてゼロじゃないの?
118日本@名無史さん:2001/01/18(木) 11:03
そもそも楽浪で三角縁神獣鏡に似た鏡が見つかったなら
これこそ公孫氏の残党が日本で作ったと言う説の補強材料だ。
公孫氏は一時遼東、楽浪、帯方まで勢力下においたのだから。
119日本@名無史さん:2001/01/18(木) 12:29
伊都国=平原の銅鏡が日本製だって調査結果が出たんだって?
あれが卑弥呼の銅鏡100枚の一部だって言ってた九州説は
ご臨終か。
120日本@名無史さん:2001/01/18(木) 13:22
>>119
平原弥生古墳は、発掘者の原田大六氏により、漢鏡の年代から、
2世紀前半のものとされていたのが、九州説に都合がよいように
3世紀に繰り下げようとしていただけ。
漢鏡も巨大な倭鏡も、鉛同位対比は全て華北タイプで、前漢〜後漢初めの鏡と同様。
古墳時代の遺跡から出土する鏡の鉛同位対比は、殆どが華中・華南タイプで、
後漢中期以降の鏡と同じタイプなのとは、全く異なっています。
121日本@名無史さん:2001/01/18(木) 17:33
>>118
補強ったって、九州説仲間からも「へ理屈」っていわれてんじゃん!
立証しようもない浪漫おっ拡げたって九州説の延命はムリムリよ。
122日本@平名平名:2001/01/18(木) 19:12
あらかた支配した機内のとある豪族が、町で売ってる「魏書」の中の「鮮
卑東夷伝」を立ち読みして・・・
 「ほう、ここはヤマトって言うんや。ほんならヤマトと呼ぶことにしょ
うか。む、漢書や後漢書には「倭」とあるな。ふむこれがヤマトと言う漢
字か。お?昔、鏡くれてるみたいだから、統一記念にこの年号のついた鏡
を作ろか?。そーいや呉から鏡の名人が来てたな。やつらにつくらせろ。
何?間違えて4年も作った?。しゃあない田舎の豪族にでもくれたれや」
・・・てな感じやったりして。なお歴史考証はずさんです(笑)
123日本@名無史さん:2001/01/18(木) 19:39
122みたいな話だと腹たたないな。
偉そうな口調でウソばっか書いて反証されても絶対訂正しない馬鹿九州説者には
いつも腹たつけどな。
124>122:2001/01/18(木) 21:12
畿内説でも魏鏡説は、減っていますよ。
既に国産説は、九州説の専売特許ではなくなっています。
125日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:21
今だに魏鏡説を唱えるもおられるんですねえ。
多分、私の知っている人でしょうな。
デザイン、材料の話は、もう出ているようだから、
他のを言うと、三画縁神獣鏡に書いている文章は、韻を
踏んでいないのですわ。
魏宮廷が「特鋳」させたような鏡に韻を踏んでいない文章
があるわけないのですわ。


126日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:22
河上邦彦なんかけっこう強烈な国産鏡説論者ですよね。
ただ鏡の専門家はたいがい魏鏡説のようですが。
127日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:26
>>125 九州説の特徴は「〜なわけがない」で全部すまそうとすること。
けっして証明はしない。お気楽だね(藁
128日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:28
白石、石野もね。
ところでこの話は、材料がどこの鉱山かはっきりさせること
が重要なポイントですね。
馬淵の論文では、そこがあいまいですが、同一鉱山ということ
ですから特定は難しくないでしょう。
この変つっこんでいる人を知りませんか?
129>125:2001/01/18(木) 21:30
「なわけない」というのは言い過ぎかも知れませんが、
可能性が極めて低いことは確かでしょうね。
それから、言っておきますが、私は畿内説です。
130日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:35
材料板で聞けば分かんじゃないの。
聞いてみたら。
131ありがとよ:2001/01/18(木) 21:48
そうだったな、呉を潰したのは魏じゃなくて普だったぜ。
ありがとよ。後は、「中原以南」ってのがどこかってことだな。
頼むぜ、院生ども、教えてくれよ。
132>128:2001/01/18(木) 21:51
そんなことはつっこんじゃいけないの。
どちらかの側の学者、邪馬台国論争で儲けている出版社
全部倒れちゃうじゃん。
133日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:51
プロットを見れば、鏡の測定値がばらつきながらも
一定のエリアに収まって規則性を示しているという状況でしょう?
特定鉱山まで割り出せるとは思えませんが。

たとえば対州と水口山なんて両方ともPエリアの中じゃありませんか。
134日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:55
>>131 「呉を潰したのは魏じゃなくて普だったぜ。」

それも正しくないと思いますよ、普通に考えれば。
135日本@名無史さん:2001/01/18(木) 21:57
うん!違うよな、普通。
136日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:04
院生ども、すまねえな、素人なもんでな。
「晋」だな。

>138
でもさあ、鉱脈ごとに普通違うんじゃないの?
だれかが長沙の銅がうんぬんって行ってたジャン
これだって特定できんじゃない


137日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:08
おまえら意地悪。
でも普通まちがえないよな、やっぱり。
138日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:15
>>136
鉱山の方が一定でも、銅鏡の測定値の方にばらつきがあるのです。
しかし呉鏡13面の分布と、三角縁の分布は全く重ならない。
つまり、呉の材料じゃないってことでしょう?
139>130:2001/01/18(木) 22:16
聞いてみるぜ。
でも、違っても言い訳しそうでやだな。
それは「輸入品です」なんてさ
140>138:2001/01/18(木) 22:17
呉の鏡って13面しか出てないんだっけ?
それじゃ比較にならんだろ。
141日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:22
ちょっとは調べてからモノいえよな(藁
142日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:35
>>129
後漢末から三国は銅鏡の衰退期です。
技術水準も低下が甚だしいですし
銘文も韻律の乱れや左字が目立つのが
この時代の特徴ではありませんか?
143畿内説だが、:2001/01/18(木) 22:36
北九州でもホケノ山みたいなタイプの古墳はあるわけですよ。
しかも「庄内期の土器」と「三角縁神獣鏡」つきでね。
しかし、不思議なことになぜか扱いが小さいわけです。
こんなのが、畿内で出たらたぶん大騒ぎですね。
プレスの報道にはこういうバイアスがかかっていること
を承知しといて下さい。

それにしても何がなんでもあの辺の古墳を「卑弥呼の墓」に
したがる樋口等橿原研の一部の学者のやり方には疑問を感じ
ざるおえないですな。まあ、功名心って奴ですかねえ。

>考古学愛好家の皆様へ
144>142:2001/01/18(木) 22:39
皇帝がわざわざ「特鋳」し、倭に「下賜」した鏡であるというならば、
そういう可能性は低いのではないでしょうか。
それとも、他にそのような例があるのでしょうか。
もしあれば教示願います。
145日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:45
>北九州でもホケノ山みたいなタイプの古墳はあるわけですよ。
>しかも「庄内期の土器」と「三角縁神獣鏡」つきでね。

え〜!!!!!! え〜!!!!!!
そんなもんあるんですか? どこです?
146日本@名無史さん:2001/01/18(木) 22:51
>>144
そえは逆ですよ。
「特鋳」し「下賜」したものなら韻律が正しいという例証がとれなければ
韻が乱れているから官製である可能性が低いと言えない筈ではありませんか。
傍証がなければ主張の根拠に使わないのが常道でしょう?
147日本@平名平名:2001/01/19(金) 07:05
>143
それは多分布留式の最初の方だと思いますよ。庄内式は近畿圏だけの土器、布留0式あたりで
全国に広まり、所謂古墳が地方でも造られ始める。結構布留の最初の方を庄内式と勘違いして
いる地方の研究者や学生さんはまだ多いのかなぁ。
148日本@平名平名:2001/01/19(金) 07:16
↑あ、早くても布留式の最初の方という意味ね、確実に三角縁が共伴するなら布留式でも前〜中って頃でしょ。
149日本@名無史さん:2001/01/19(金) 07:16
布留0で三角縁出てます?
第2主体とかじゃなくて?
150日本@名無史さん:2001/01/19(金) 07:57
結局、具体的には >>143 は那珂八幡をIBに持ってくるって話なんじゃないですか?
これはプレスどうこうと言われても困るけれど。
151日本@名無史さん:2001/01/19(金) 11:24
椿井は布留0でよいのでは?

福岡県教委の柳田なども、布留0より前には三角縁神獣鏡は出土しないと明言している。

三角縁を出した那珂八幡第二主体部は、布留0以降である事は確実。
築造そのものはもうちょっと上がるかもしれないという話。
152日本@名無史さん:2001/01/19(金) 11:46
>結構布留の最初の方を庄内式と勘違いして いる地方の研究者や学生さんはまだ多いのかなぁ。

勘違いというのではなくて、何をもって布留式のはじめとするかでしょう。
いわゆる精製三種を布留式の要件とするなら布留0は庄内式。様式名だから、こちらの方がよい?
153日本@名無史さん:2001/01/19(金) 14:14
椿井布留0はじつに微妙ですよね。OKかも…
布留0=庄内IVの理解でいいんでしょ。(多少異論でるかな)

いずれにしても >>143
>北九州でもホケノ山みたいなタイプの古墳はあるわけですよ。
>しかも「庄内期の土器」と「三角縁神獣鏡」つきでね。

この発言は相当誤解を生みますよ。
154日本@名無史さん:2001/01/19(金) 16:28
九州説者には華南のひとことで呉の銅だと言い出す人材もそろってるからな。
155日本@名無史さん:2001/01/19(金) 17:43
どっち説でもさあ
不勉強なおっさん厨房がしゃしゃり出てくると
レベル落ちちゃうよね。
156日本@名無史さん:2001/01/19(金) 17:54
東普はワラタ
157日本@平名平名:2001/01/19(金) 18:25
>152
 庄内式と布留式(須恵器常用以前)は基本的には一つの様式と考え
てよく、本当なら統一的様式名を与えたほうがすっきりするのでしょうが、私はあえて分けるのなら、布留式は東日本から西日本に汎く広がり、模倣されて作られ始めた土器こそが布留式で、それがまぁ布留0式と言えるのでしょうけど。それがいわゆる河内や和泉、大和、摂津や、播磨の長越遺跡なんかで出てくる庄内甕(甕といっちゃいますけど)と呼ばれるものとは違う、製作技法がマニュアル化されたというか、おおまかな合意がなされている土器が布留式と言えるような気がします。小型精製三種は庄内式でもあると言えばありますし。下手すると吉備では祖形のような土器が後期末?の墳丘墓からでますしね。・・しかし2chで庄内や布留の話とは(苦笑)
 >153
 布留0はわかりますが、庄内4(私のMacではローマ字でないもんで)とは誰の編年ですか?大阪の河内にある八○市教育委員会の○田氏のですか?それと私は三角=庄内でも良いと考えてますが、伝世の問題がある以上、時期はなんとも言えませんね。ただ岡村秀典先生のお説がもっとも説得力があると私は思います。
ちなみに私はただの愛好者です。
158日本@名無史さん:2001/01/19(金) 19:50
○尾の米○氏のです。
で、岡村先生もそうですが、文様をみていく限り
三角は魏鏡とせざるをえないんじゃないですか?
159>146:2001/01/19(金) 23:38
つまらない言い訳やめたら、○○先生(お弟子さんかな?)よ。
恥ずかしいと思うよ。
この世界確実なんてことはあんまないけどさ、普通あんた
みたいな考え方しねえよ。
160日本@名無史さん:2001/01/20(土) 00:02
「普」通しないかな?
161>151:2001/01/20(土) 00:28
いや、柳田氏は、那珂八幡について、「庄内期の土器が伴い、三角縁神獣鏡
が出土するのは北九州だけだ・・・北九州と大和政権のつながり云々」と
書いておられました(正確ではないかもしれませんが)。
確か、森氏の監修の本だったと思います。
162日本@名無史さん:2001/01/20(土) 00:42
材料板で質問たてといたぜ。
何か、あんたら普通の邪馬台国本に書いてないようなことばっか議論
してるけどさ、学者の世界でハジパイの人らなの?
「北九州の初期古墳」とか「銅材料が華南」なんてあんまのってない
っすよ。だいたい「船で行くと10日」みたいな議論ばっか。
ためにはなるけどさ。
163>all:2001/01/20(土) 00:59
例の鏡があくまで魏鏡だと主張されるなら、那珂八幡が「卑弥呼の墓」でもよさそうなものですねえ。
少なくとも例の鏡が出土する最古の古墳ですからね。
まあ、これは皮肉ですが(笑)。
ところで、ホケノ山ってどうなんでしょうね。
この前見に行ったら、看板に3世紀後半云々と書いてあったんですがどうなんでしょう?
発掘に関わった人いますか?

164>157:2001/01/20(土) 01:08
1つの様式ですか、そういう意見もあるのですか。
しかし、最近は、布留期は長いって言う人もいますよね。
だから庄内は、もっと下がるんだって。このスレでも誰か
がそう言ってましたが、こういう意見どう思われますか。
165日本@名無史さん:2001/01/20(土) 01:18
那珂八幡が築造された上限がIB(つまり庄内)なのはともかく
三角縁神獣鏡が出ているのは第二主体部ですから、庄内と三角縁が
共伴しているという話ではないはずです。
ただし、IBの時期に非「九州」的祭祀儀礼で奴国のどまんなかに
首長が葬られた事実は大きいわけで
柳田が九州には邪馬台国九州説の学者はいないというようなことを言うのは
つまりそういうことでしょう。
166日本@名無史さん:2001/01/20(土) 01:22
>>164
逆です。布留が長ければ庄内が上がりますよ。
167ただの愛好者 その2:2001/01/20(土) 02:59
>で、岡村先生もそうですが、文様をみていく限り
>三角は魏鏡とせざるをえないんじゃないですか?

同感!!
国産説を主張するヤツは、きっと倣製鏡をながめたことがないんだ!

と言いつつも・・・

工人が大挙してやってきて完全な技術移転がなされたとすれば、
中国製と寸分の違いのない鏡ができるはずだ。
国産でもかまわないだろう。

と言いつつも・・・

そんなに完全な技術移転があったなら、その影響は他にも出るはずだ。
三角縁神獣鏡の技術はそれで完全に閉じており、
他にその技術が転用された形跡がない。これは不自然だ。

と言いつつ、

そんなこと言ったって、日本以外で一枚も出ないじゃないか。

と言いつつさらに、

しかし、日本でしか出土しない中国鏡ってのも他にもあるぞ。

とかなんとか。

結局、自己矛盾を含みつつ、どちらかというと国産じゃない方に一票。
(全部とは言わないけど。)

最後の決め手は結局・・・電波?
168日本@名無史さん:2001/01/20(土) 03:08
>ただし、IBの時期に非「九州」的祭祀儀礼で奴国のどまんなかに
>首長が葬られた事実は大きいわけで

その通りだろうな。全面的に賛成。
その前段階として、お墓に備えられる土器が福岡平野では在地の土器から
畿内系の土器に変わっていくのも大きいだろうな。
これはただの流行ではすまない。
支配者層の意識が転換した、あるいは、人間そのものが入れ代わったということだからな。

ところで、IBって何か説明しなくて大丈夫か?
わからん人間のほうが多いと思うぞ。
できる限りわかりやすくしたほうがいいと思うがな、正確さは多少犠牲にしても。
169日本@名無史さん:2001/01/20(土) 03:51
最後のポイントはやっぱり芝草文(唐草)でしょう。
三角縁が魏で造られていたのでなければ
芝草文様が量産体制化でだんだん簡略化されていく過程が
方格規矩鏡の芝草文様の変遷と同じになる訳ない。
さもなければ毎年新しい工人が渡来してたかです。
170日本@名無史さん:2001/01/20(土) 05:20
愛媛だよ。
なぜってそうだと面白いから
171日本@平名平名:2001/01/20(土) 06:50
>158
○田さんの編年は八尾と東大阪市だけで通用する編年です。ここ15年ほど、
胎土分析で有名な某先生と、日本全国に併行期の編年作らせて布教活動さ
れてますけでど、何年か前に福岡に活動に行った時・・・うう、やめとこ。

>164
布留期の時期(年代)幅が広く、庄内の年代がもっと古くなる(あがる)という意
味ですね。様式差と年代は違うと思いますが、まぁそれは自然科学側の問題ですから、そのうち目安はつくのではと思います。
172日本@名無史さん:2001/01/20(土) 16:39
金属板でレスがついたぜ。調べてくれんだってよ。
しかし、はっきりすると困る人たちっていっぱいおるんだろうな。
おれなんか、高校の考古学倶楽部だからいいけどよ、えらい教授なんて
どうすんのかね。
173畿内説だが:2001/01/20(土) 16:50
>168
逆でしょう。マキムク式の古墳は、埋葬品、墳丘とも北九州文化圏
の流れを汲むものですよ。
2世紀までの畿内文化とは明らかな断絶があると思いますがね。
174>○○先生よ、言い方に注意してね:2001/01/20(土) 17:08
ちなみに神獣鏡の文様は、王先生初め、中国の学会では「文様を見ていく限り、魏鏡でない」
というのが一般的な見解ですがね(魏鏡説の方も少しはおられますが。)。
○○先生がそう主張されるのは勝手ですが、愛好家や素人の方もおられるのですから、
その辺も言っておくべきではないでしょうかね。
あなたの言い方だと誤解を与えてしまいますよ。
175日本@名無史さん:2001/01/20(土) 17:42
>>173
2世紀までの畿内文化とは断絶があるというのはそうですが
北九州文化圏の流れを汲むというのは変ではありませんか?
論拠は何ですか?
176日本@名無史さん:2001/01/20(土) 18:34
中国では王先生を中心に神獣鏡を一括して呉地域のものとする考えが強いようで
たしかに対置式や重列式の神獣鏡は呉の領域を中心に分布するのですが
こういった呉製と考えられる神獣鏡が魏の年号の銘文を伴っている時期を境に
派生した亜種の神獣鏡が呉の領域よりも北に分布しています。

三角縁の系譜は、典型的な呉の器種とは明瞭に一線を隔しており
このような北上した亜種派と、北方でかなり退化した方格規矩鏡を製作してたグループの
合体チームを想定しないと説明できません。

こうした急造の混成チームが成立しやすい状況は、やはり
崩壊した尚方を明帝が再建した時期以降ではないかと思われます。

景初、正始といった時期に三角縁を製作したとすれば、こうしたチームの仕事として
理解し易いし、明帝の死後尚方が縮小される状況の中で工人が流出して
日本列島に来る者があってもおかしくはないと思います。
177>175:2001/01/20(土) 20:57
>175
これら墳墓の副葬品、簡単に言えば「鏡、剣、玉」ですな。
まあ、昔からいわれている話ですよ。
銅鐸云々の話は言うまでもありませんが。

(墳丘にしたって葺石(張り石か?)付き、西新式土器付きの
前方後方墳墓すでにありましたからねえ。例のヒトデ型より
こっちの方が源といった方がよさそうなもんですなあ。
これも素人の方にはあんまり知られてないんですよね。)

弥生期の畿内の墳墓にこんなものはほとんどありませんからね。

>176
だから、呉の鏡でもないんでしょうよ。
だいたい、当時の中国では鏡は、実用品なわけですから、
あんな馬鹿でかいキテレツな鏡が作られるというのは奇妙な
話ですな。
今のところ、日本製だというのが合理的な判断だと思いますよ。
最もこの世界「確実」なんてものはありませんから、○○先生
のように狂信的に絶叫するわけではありませんが。


178日本@名無史さん:2001/01/20(土) 20:58
>173
 北部九州に明確な庄内以前の前方後円墳の祖形となりうる墳丘墓なん
てあるの?明確な資料があるなら教えて。高坏の脚だけ出して「これ
が庄内」なんて駄目だぞ〜。
それと2世紀の断絶ってなんだ?わかんないから、ちゃんと説明してよ。
179>素人の皆様:2001/01/20(土) 21:04
例の鏡は、すごくデカイんですよ。
50センチとかね。こんなの重くて使えないわけです。
中国の鏡ってのは実用品だからもっと小さくて手にもてる
わけですわ。
それに例の鏡は、紐を通す穴が4角形で磨かれてない
(つまり使う気がない)んですけど、こんなの中国では発掘
されてないと思いますよ(あったら教えてください)。


180>178:2001/01/20(土) 21:17
前方後方墳です。庄内以前と言うのは間違いなし。
それから、「祖形」かどうかは判断の問題ですわな。
別に私がそう思っているわけじゃないですよ。
少なくともヒトデ型よりはマシでしょうがね。

ご存知の唐古とかの大和盆地の弥生期の集落ってのは、ほぼ同時期に
絶滅するんですよ。
だいたい弥生期の畿内の文化ってのはしょぼいわけで鉄器なんか
ほとんどないわけですよ。3種の神器セットなんてのもないしね。
3世紀のある時期に突如、新集落が生まれ、例の鏡なんかも出てくる
わけです。
結局、邪馬台国問題ってのは、この新しい権力集団がいつ畿内にで
きたのかと言う問題なんでしょうね(後、どっから来たかもね)。
橿原研の連中は早めたがる傾向があり、九州説の連中は遅くしたい
わけですわ。

181日本@名無史さん:2001/01/20(土) 21:47
>>179
>例の鏡は、すごくデカイんですよ。
>50センチとかね。こんなの重くて使えないわけです。

おいおい! それ、なんの話だ?
例の鏡って、三角縁の話じゃあるまい。
そんなニオワすような変な書き方じゃなくて実例を挙げろよ!!!
182素人さん:2001/01/20(土) 21:56
>>180
> 結局、邪馬台国問題ってのは、この新しい権力集団がいつ畿内にで
>きたのかと言う問題なんでしょうね

この場合邪馬台国は新しい方? それとも古い方?
183日本@名無史:2001/01/20(土) 22:21
>178
は?前方後方墳?どこですか?報告書でてます?それと西新って確
か布留式併行で、いわゆる庄内式は無かったと思うけど。明確な
庄内甕でも出てるのかな?いずれにしても北部九州独自の墓とは
言えないし、まぁ仮に大和の石塚あたりでと同じ規模・時期とし
ても、大和より先行するとは言えないと思いますけどね。それと
もし平たい石が貼りつけられているなら、墳形からも出雲・備後
北部の影響とも考えられますしね。
 それとヒトデ型とはなんですか?
 それと絶滅って、中期末で?それとも後期末で?
 それからしょぼいのは認めますが、輸入物は輸出地に近いほう
が、質量ともにより多いのは当たりまえのことなんだから、それ
と巨大古墳を作る権力集団の有無とは関係ないと思いますけど?
 
184日本@名無史 :2001/01/20(土) 22:23
ああ、ごめん
>178では無く>180ね
185日本@名無史さん:2001/01/20(土) 22:29
>>180
宮の前1号とかいったらワラウ。
唐古も「絶滅」と環濠埋没と勘違いしてない?
186日本@名無史さん:2001/01/20(土) 23:11
>>179
>例の鏡は、すごくデカイんですよ。
>50センチとかね。こんなの重くて使えないわけです。

さすがにそんな三角縁神獣鏡は存在しません。
平原遺跡の内行花文鏡と混同していませんか?

>それに例の鏡は、紐を通す穴が4角形で磨かれてない

方形鈕孔の鏡は、甘露四年銘獣首鏡(魏)、方格規矩鳥文鏡(北京出土)
などがあり、これが魏鏡の特徴ではないかといわれています。

磨かれていない点では、後漢の方格規矩鏡と飛禽鏡
前漢の異体字銘帯鏡などに鋳造の時の型が鈕孔に詰まったままの
例が報告されています。

いずれも国産鏡説の根拠には全くならないでしょう。
187>186:2001/01/21(日) 13:28
>185
宮ノ前のことじゃないでしょうか。
柳○先生が同じようなこと言ってましたけど。

>186
それ遼東の奴ですよね。
洛陽付近で発掘されてます。
188187:2001/01/21(日) 13:36
「発掘されていますか?」の間違い。

それから宮ノ前なら、確かに庄内より古いでしょうね。
雛形といえるかどうかは、よく分かりませんが、宮の前
以外にもこのタイプがあるそうですが、誰か研究してま
せんかね。
189>186:2001/01/21(日) 13:45
もう一つ。
比較したら、方形紐孔は中国鏡では少ないと思いますよ。
磨いていないのもね。
一方、こちらは、400枚程度そういうものが
出ているというのはやはり奇妙なことですね。
私は、国産鏡を強く支持する結果だと思います。
190日本@名無史さん:2001/01/21(日) 16:43
しかし「マキムク式の古墳は、埋葬品、墳丘とも北九州文化圏の流れを汲むもの」
と言いたい例証に、楯築ほかを無視して宮の前を持ってくるというのはどうも。

それから長方形鈕孔は初期鏡群の特徴で、三角縁全体ではない筈ですが。
少数であるからこそ、工法の伝播経路が特定できそうではありませんか。
ほかにも外周突線や外銘帯の問題、環状乳の有刻/無刻など
江南系列の文様としては理解不能なファクターが多く
魏鏡説を裏付けているものと思います。

複数「ある」という事実が厳然とあるわけで
明確に魏鏡と位置付けできる遺品がこうも少ない以上
数が多いとか少ないとかいう議論は意味を持たないのではないでしょうか?
191日本@名無史さん:2001/01/21(日) 16:57
中国の鏡の研究は、目本よりはるかに遅れてるぞ。
ヤツらは鏡の研究などしなくても、歴史を再生できるからな、
シャカリキにやる必要がないんだ。

それと、王仲殊が畿内説なのはまるっきり無視かい?
192>191:2001/01/21(日) 17:26
>190
だから、「魏鏡」であっても、「呉鏡」であっても「理解不能」
なんですよ。誰かが言ってたの50センチなんてのは、ホラでし
ょうけど、中国鏡にしては大きすぎるのは確かでしょう。
無理矢理「魏鏡」にする必要はまったくありません。

>191
このスレで九州説なのは、愛好家の高校生の人だけでしょう。
ちゃんと読みなさい。
ところで材料の件は、分かったの?>高校生
193>185:2001/01/21(日) 17:32
唐古は、この時期には廃絶してるでしょう。
何か発見されたんですか?
194日本@名無史さん:2001/01/21(日) 17:53
>>188
洛陽付近での出土はまだない筈です。
現状では、北京南方の高碑店ででた甘露五年右尚方銘の獣首鏡と
大営村の方格規矩鳥文鏡(前掲)が幽州領域のものですね。

>>193
唐古鍵は環濠内投棄の土器に庄内甕が入っています。
その他理由で、調査にあたっている田原本教育委の藤田氏が
集落存続の見解を示しています。
195日本@名無史さん:2001/01/21(日) 18:08
>>192
江南の画像鏡なら田氏鏡とか周是鏡とか龍氏鏡とか
20cm超はけっこうありますよ。
三羊のは20cm超で三角縁です。
日本の三角縁は南北の要素がまざってるわけです。

で、そういう鏡が作られるのは
何処の可能性が最も高いかということじゃありませんか?
196日本@名無史さん:2001/01/21(日) 19:53
結局三角縁50センチ説ってなんだったんだ?
現物みたことない人がこのスレに来てたのか?
197日本@名無史さん:2001/01/21(日) 20:15
テンキーで2と5を打ち間違えたんじゃない?
198日本@名無史さん:2001/01/21(日) 22:26
本人が訂正してないからなあ。
このままだとこのスレの赤恥青恥番付にのるよ。
ちなみにノミネートは
 呉を滅ぼした「普」
 古墳には必ずある「櫛」
 50センチの三角縁
199日本@名無史さん:2001/01/21(日) 23:03
日本でしか出土しないから国産鏡であるという論理の方は
景初三年銘画文帯神獣鏡についてはどう考えているのでしょうか?
200日本@名無史さん:2001/01/21(日) 23:30
<<192
神岡あたりの数字もってきて得々とするのが関の山でしょ
そのへんが、おしえて君ですまそうとする人の限界
201日本@名無史さん:2001/01/22(月) 20:35
博物館で三角縁神獣鏡をたくさん見てきました。
やはりホウ製鏡とは相当ひらきがあるけれど
といって漢の鏡とも相当差があるみたい。
なんか微妙ですね。
三国時代の技術水準が堕落していたというなら
やはり中国鏡なのかなあ?
202>200:2001/01/22(月) 23:20
まだ、材料板の回答こねえぞ。
で、神岡って何だよ?
203中間総括:2001/01/22(月) 23:29
そんでもって、高校生の己が整理すると、

1 材料が華南製(中原以南)で
2 中国では一枚もでてこなくて
3 中国のえらい学者が「うちのじゃねえ」って言って
4 馬鹿デカくて、使えなくて
5 穴が◇で(中国鏡のほとんど○?)

ってとこ。

怪しい情報ばっかじゃん、どう見ても魏鏡じゃねえ。
どう思う、みんな?
204>195:2001/01/22(月) 23:31
そういう可能性が高いのは「日本」じゃねえのかよ
205もう一つ:2001/01/22(月) 23:37
ホウ制ってなんじゃ
206日本@名無史さん:2001/01/23(火) 02:11
>1 材料が華南製(中原以南)で

ププッ!華南製だって。
で、魏の領域からその華南産の材量とゃらを使った
青銅器は出土しない、ということは立証できたのかな。

>2 中国では一枚もでてこなくて

これはしょうがねえな。いまのところの事実だ。
ただし、似た鏡は出ている。

>3 中国のえらい学者が「うちのじゃねえ」って言って

日本のえらい学者も「うちのじゃねえ」って言ってるんだろ。
あんた中国人の言うことならなんでも信じるのか。
都合のいいとこだけ他カ本願。見苦しぃヤツ。

>4 馬鹿デカくて、使えなくて

中国の鏡にもあるぞ。王侯クラスの副葬品らしいがな。

>5 穴が◇で(中国鏡のほとんど○?)

楽浪・遼東あたりの鏡は長方形。
207日本@名無史さん:2001/01/23(火) 06:42
>205
中国鏡コピーまたはオリジナル国産と言う意味。人べんに方。
ついでにどなたか、三角縁が魏鏡or国産であることが、邪馬台国の
所在地とどう関係するのか説明してあげて。
208日本@名無史さん:2001/01/23(火) 09:01
>>205
でっ!「イ方」製鏡のなんたるやをしらないで
魏鏡じゃないとか国産とかいってたわけ?
ひょっとして、三角縁神獣鏡って直径50センチとか思ってる?
209日本@名無史さん:2001/01/23(火) 14:59
>>203 ってほんとに高校生?
厨房消防臙脂どころか赤茶じゃん!
いいかげんなことばっか!
とくに1なんかほとんどイイガカリだろ。
210日本@名無史さん:2001/01/23(火) 16:57
邪馬台国がどこだったかも知りたいけど
大和朝廷との関係も知りたいですね。
東遷なのか滅ばされたのか関係ないのか・・
211日本@名無史さん:2001/01/23(火) 19:06
それはまた別のスレ
212日本@名無史さん:2001/01/23(火) 21:45
どなたからも回答がないので再度質問します。

中国から一枚も発見されないから三角縁神獣鏡が国産であると主張される方に質問します。

景初三年銘同向式画文帯神獣鏡はどう考えるのでしょうか?
これは中国から一枚も発見されないから国産であるとは言えませんね?
それとも細部が違うと言いますか?
213日本@名無史さん:2001/01/23(火) 22:20
>中国鏡コピーまたはオリジナル国産と言う意味。

207を責めるわけじゃないけど、オリジナル国産を倣製鏡とは言わない方がいいと思うな。

ちなみに、イ+方はボウ製鏡、倣はホウ製鏡と読むのが普通。
ホウ制という制度はない。
214日本@名無史さん:2001/01/23(火) 23:22
鈴鏡なんかもボウ製鏡の部類に入れるよね。
語弊はあるかもしれないけど
オリジナル国産というのも間違いじゃないんじゃない?
215日本@名無史さん:2001/01/24(水) 06:37
>213
207はオリジナル国産を倣製鏡って言ってる?205の「ホウ制」は誰が見て
も「人方 製」(ぼうせい)の誤りなんだし、そこで倣製という言葉が出るの
かな?だだいたい倣製鏡って用語あるの?初めて聞いたなぁ。
 
216日本@名無史さん:2001/01/24(水) 06:47
ネット上で発生した代用文字じゃない?
漢字としては同じだし。
217日本@名無史さん:2001/01/24(水) 09:55
>語弊はあるかもしれないけど オリジナル国産というのも間違いじゃないんじゃない?

だから責めてるわけじゃない、と書いてるんだけど。
業界を含めて、語弊はなくした方がいいと思わない?

倣製にっいては、ほとんどがイ+方だけど倣も少しづつ増えてぃる。
たとえば、考古学のおやつのe漢字のイ+方の項を見よ。
218214(not207):2001/01/24(水) 10:41
斉藤忠の日本考古学用語辞典にもカッコ付きで(倣製鏡)って使ってっるね。
やっぱりJISにない字だからなあ。

で、どこで線ひくかってのはあるね。
ようは207が具体的になにを念頭において国産オリジナルって書いたかってことじゃない?

「これはイ方製じゃなくて倭鏡だ!」ってどこから言うか。
ハッキリしてるのもあるけど。
219日本@名無史さん:2001/01/24(水) 14:09
オリジナルっつうのは、倣の対極にある言葉じゃないかねぇ。
207の意図はゎからんけど。

上の鈴鏡なんかはどうする?倣でいい?
220日本@名無史さん:2001/01/24(水) 17:59
207です。
「人方」は真似るの意味ですし、中国の鏡を模倣しない、純粋なオリジナ
ル倭鏡と言う意味では言ったつもりではありません。邪馬台国位置論のス
レッドですし、「中国では出土しないが、中国の鏡の形態を真似て作った
=三角縁神獣鏡」説もあることを念頭において、オリジナル国産(中国鏡コ
ピーとは言えないでしょ?)としました。結果的に誤解を招くようないい
かたでしたね。おわびして取り消します。
221日本@名無史さん:2001/01/25(木) 06:45
そういう意味で言ってしまうと
「イ方」製三角縁神獣鏡という分類が出来なくなってしまいますよね。

「舶載」三角縁神獣鏡という分類名に抵抗がある国産鏡説の人でも
「イ方」製三角縁神獣鏡が、(いわゆる)「舶載」三角縁神獣鏡とは
銅/錫比率からして違う異質のグループであることは認めるでしょう。

で、そろそろ本筋に戻りますが
国産説の方は、上記で言う「イ方」製三角縁との違いをどう説明するのですか?
さきの景初紀年画文帯の扱いとあわせてお聞かせ下さい。
222日本@名無史さん:2001/01/25(木) 16:27
粘土で作った鋳型って一個でいくつ鏡を作れるのか
おせーてちょ。
223日本@名無史さん:2001/01/25(木) 16:48
224日本@名無史さん:2001/01/26(金) 12:16
221には誰も反論しないの?認めるのね?

------------んなら九州説の惨敗で終了?---------------
225日本@名無史さん:2001/01/26(金) 15:47
君みたいに毎日来てるヒッキーばっかりじゃないんだよ。
226日本@名無史さん:2001/01/26(金) 19:28
01/26(金) 15:47 に来た君も反論しないじゃん?認めるのね?
227日本@名無史さん:2001/01/26(金) 22:25
こちらにも載せておこう。邪馬台国論争なら、大論争HPが老舗で、詳しい人が多い
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a001.html
228日本@名無史さん:2001/01/27(土) 12:36
大論争HPも、バックナンバーを見れば分かるように、昔は九州説が元気だったけど、
今やトンデモ説と変わらないくらい落ちぶれたのに合掌。
229日本@名無史さん:2001/01/27(土) 16:29
じつは三角縁神獣鏡は中国でも見つかってるって聞いたよ。
ただ、まだ1枚だし
国産説の人が似てるけど微妙に違うとかうるさく反論するので
議論棚上げになっているとか。
230>206:2001/01/27(土) 23:30
500枚もの大量の鏡を魏の朝廷がなんで敵国の領土の材料を使って作るわけ?
不自然じゃん。
中国の学会のことは、よく知らんが、向こうの専門家が「魏鏡じゃねえ」って
言ってるってのはかなり不利なんじゃないの。
それに対して、日本の学界は、ちゃんとした反論が出来ているの?
それから、当時の魏の宮廷って洛陽か長安じゃないの。なんで遼東の鏡が
証拠になるわけ?

なんかあんたの反論って、すごい極小な証拠ばっかじゃん。
別に己は、あんたみたいに「絶対○○だ」と思っているわけじゃないぜ。
素人だから確実なことは言えないけどさ、このスレ見る限り、「今の段階では、」
国産と考えた方が合理的だと思っているだけだよ。


231日本@名無史さん:2001/01/28(日) 00:53
まず、何度も言っているのに一向に事実を認めようとしない材料の問題。
「敵国の領土」というのはあなたの空想。

第2に、むこうの専門家が言ってるって、あなたは何人名前を挙げられる?
当然日本の学会はきちんと反論し、ほぼ論破したと思われる。

第3に、洛陽から魏の鏡はほとんど発見されていない。
あなたは中国で発見されていないから日本製だと言っていたのに
今度は洛陽でなければ認めないと言うの?

第4に、あなたの主張には極小な証拠すらない。ただ「思っている」だか。

ゆえに、あなたはただ理由もなく「合理的だ!」と繰り返しているだけ。
232日本@名無史さん:2001/01/28(日) 00:59
>>230 どうして合理的なんですか?
233206:2001/01/28(日) 03:42
>別に己は、あんたみたいに「絶対○○だ」と思っているわけじゃないぜ。

期待に沿えなくてワリィな。「今の段階では、」どちらとも言えないってのがオレの立場だ。

はっきりしてるのは、230が出鱈目を並べたててるってことと、
国産だからといって畿内説が不利になるわけじゃないってこと。
王仲殊が畿内説だってのが、これを象徴してる。

>すごい極小な証拠ばっかじゃん。

ん?どうやら証拠と思い込みの区別がつかないらしい。
234日本@名無史さん:2001/01/28(日) 03:53
ププッウヨクはどうしても国産に拘りたいらしい>230
235日本@名無史さん:2001/01/28(日) 04:04
愛に国境がないように
馬鹿にウヨクもサヨクもない。
230は無知で馬鹿。
236日本@名無史さん:2001/01/28(日) 09:39
>>1>>3>>4
鯨統一郎1冊読んだだけでこんなスレ立てるとは大胆な奴だな…。
237日本@名無史さん:2001/01/28(日) 13:15
読書量の少なさなら>>230 もいい勝負するだろう…。
238>231:2001/01/28(日) 17:53
高校生相手に見苦しい情報操作はやめましょうや、○○先生よ。


>まず、何度も言っているのに一向に事実を認めようとしない材料の問題。
>「敵国の領土」というのはあなたの空想。

馬渕論文では、場所までは特定してないが、中原以南というなら呉の領土
である確立は高いはずですぜ。
ちなみに当時銅が出た「除州」は、王先生曰く呉の領土ね。

>第2に、むこうの専門家が言ってるって、あなたは何人名前を挙げられる?
>当然日本の学会はきちんと反論し、ほぼ論破したと思われる。

王先生はじめ、むこうの学会は、高校生君が上げているような理由で国産説が主流ですぜ。
当然のことながら、むこうの学会は「論破された」なんて毛ほども思ってません。
素人相手に嘘はいけませんな、先生よ。

>第3に、洛陽から魏の鏡はほとんど発見されていない。
>あなたは中国で発見されていないから日本製だと言っていたのに
>今度は洛陽でなければ認めないと言うの?

彼は、「あの鏡が中国では発見されていない」ことを主張しているんでしょ。
つまらない揚げ足とりはやめましょうや。
研究者として恥ずかしいぜ。

>第4に、あなたの主張には極小な証拠すらない。ただ「思っている」だか。
>ゆえに、あなたはただ理由もなく「合理的だ!」と繰り返しているだけ。

彼の挙げた論点で十分。
それからさあ、「国産説=九州説」の思い込みは止めてくれない。
最近は、畿内説でも国産説の人が多いからね(白石センセとかね)。高校生相手に見苦しい情報操作はやめましょうや、
239日本@名無史さん:2001/01/28(日) 18:48
あんた本人だろ?
240日本@名無史さん:2001/01/28(日) 19:40
>>238
ぷぷっ「除州」だって。あなた「普」が呉を滅ぼしたって言った人?
古墳に「櫛」があるって言った人もあなたかな?

もう一つぷぷっ「馬渕」論文だって!
結局あなた読んだことないんでしょ?
あの論文は、明言こそしてないけど、魏の銅だって示唆してる。

王仲殊もそう理解して、呉の工人が日本に来て魏の原料で三角縁を作ったって
アイディアを出してるけど、これは中国の学会でもあまり受け入れられてないんじゃないかな?
241日本@名無史さん:2001/01/29(月) 00:34
馬淵教授の論文集は、安本じいさんの季刊「邪馬台国」にしばしば載っている。
安本じいさんのトンデモ解説は無視して、原論文だけを見よう。
日本製の鉛が本格的に使用されるのは皇朝十二銭からで、同位体組成が均質で、
文献&出土木簡に見られる山口県の銅山出土の鉛インゴットと合致しています。

森浩一じいさんの盟友が、飛騨の鉛が中国のものと近いことを揶揄しているが、
飛騨〜能登は、大陸のかけらが日本列島と一緒に移動してきたもので、他の地域と違う。
飛騨は、古代には開発が遅れており、神岡鉱山の開発が本格化するのは近世からで、
このデータをごちゃごちゃ言うのは、そもそもナンセンスで、反対のための反対。
森浩一じいさんはサヨク思想に凝り固まり、考古学者の癖に邪馬台国九州説の妄想を持ったりと、
相当痛い人物だけど、サヨクマスコミの寵児となっていただけで、今や消える寸前。
242日本@名無史さん:2001/01/29(月) 00:40
241の補足
歴博特別展示「お金の玉手箱」解説書によると、皇朝十二銭は、同位体組成が均質で、
文献&出土木簡に見られる山口県の長登銅山出土の鉛インゴットと合致しており、
秩父銅山などとは外れています。
243名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 02:12
邪馬台国は、伊勢の国にあったのだ。
244日本@名無史さん:2001/01/29(月) 02:22
電波君の243も、せめて根拠を書いたらどう。
まあ、根拠なしが電波の特徴だからムリか。
245名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 03:30
猿田彦の神話 伊勢朝日郎むにょおおおおお。
246日本@名無史さん:2001/01/29(月) 06:30
どっちも男じゃん!
247日本@名無史さん:2001/01/29(月) 18:23
>>238
>それからさあ、「国産説=九州説」の思い込みは止めてくれない。

だって、あなた国産説で九州説でしょ?
248日本@名無史さん:2001/01/29(月) 19:46
そう。国産説だから九州説って判断したんじゃないよ。
1 不勉強で絶対に原典を見ようと努力しなくて
2 間違いを指摘されても絶対訂正しないで
3 具体的な証拠や出典は聞かれても絶対言わないで
4 返答に困る質問ははぐらかしたり無視したりっていう
「九州説のなかのおばかな人々」の特徴に合致するからだよ〜ん!
249日本@名無史さん:2001/01/29(月) 22:31
>1 不勉強で絶対に原典を見ようと努力しなくて
>2 間違いを指摘されても絶対訂正しないで
>3 具体的な証拠や出典は聞かれても絶対言わないで
>4 返答に困る質問ははぐらかしたり無視したり

ソンナヒトニ、ワタシワナリタイ

じゃなくて、こんな人が紀記トビでさらしものになってる。
250日本@名無史さん:2001/01/29(月) 23:10
>>238 「ちなみに当時銅が出た「除州」は、王先生曰く呉の領土ね。 」

王仲殊はそんなこと言ってました?
私の知る限りではそれとは違う主張だと思いますが。

出典を示してください。なんと言う論文ですか?
251日本@名無史さん:2001/01/30(火) 06:06
>238>250
徐州は三国当時、魏の領土ですね。
252日本@名無史さん:2001/01/30(火) 08:59
>250>251
乱世だからね。
呉も徐州の南のほんのハジっこは支配してたはず。
だから物理的に不可能ではないけど非常識だよ。
徐州のうち呉の支配地域から出た銅でつくったから
魏鏡じゃないなんて
そんなトンデモいうのは日本の安本ぐらいじゃないの?
中国人はきっといわないよ、そんなこと。
253日本@名無史さん:2001/01/30(火) 09:15
銅鏡の鉛同位対比による産地推定の話だけど、
前漢〜後漢初めの銅鏡は華北の鉛、後漢中期以降は華中・華南の鉛と、
鉛資源の供給地が変わったことを示すもので、これが製作地を示すものではない。

日本の場合は、平原弥生古墳の巨大な銅鏡は、前漢〜後漢初めの銅鏡と同じく華北の鉛だけど、
極端な大きさなど独特な性質から、日本製と考えられていることからも分かる。
皇朝十二銭の鉛は、山口県の長登銅山の鉛インゴットと同位体比が一致するけど、
銭の製作地は山口ではなく、都周辺で作られたように、資源の供給地と製品の製作地は
区別して考えるのは当然でしょ。
254日本@名無史さん:2001/01/30(火) 10:59
直径約50cmの銅鏡が私が知る限り一つだけあります。三角縁神獣鏡
かどうかは知りませんが、場所は伊勢神宮です。三種の神器の一つであ
る鏡はその箱の大きさと昔からの伝えで50cm鏡です。
255日本@名無史さん:2001/01/30(火) 12:52
おば九(おばかな九州説者)の特徴

●平気で嘘をつく
(例)>>179
>例の鏡(注 三角縁のこと)は、すごくデカイんですよ。
>50センチとかね。

(例)>>56
>それから宮廷製の場合、マークがありますが、例の鏡にはありません。
>>74
(宮廷製の場合)>尚方作という刻印があります。
(そんなんねーよ)


●間違いを指摘されても訂正しない
(例)>>94
>つーか、中国の学者はどう言ってんだよ?
>>96
>中国から一枚も出土しない鏡を彼らが中国製というわけありませんね。
(いるだろーが)

●質問ははぐらかす
●根拠は絶対いわない.とにかく結論だけでごり押しする
(質問)>>むこうの専門家が言ってるって、あなたは何人名前を挙げられる?
(例)>>238
>王先生はじめ、むこうの学会は、高校生君が上げているような理由で国産説が主流ですぜ。
>当然のことながら、むこうの学会は「論破された」なんて毛ほども思ってません。

→続く(かも知れない)
256日本@名無史さん:2001/01/30(火) 20:17
●おば九の得意ワザ「死んだフリ」
●おば九の持病「なんも扁桃腺」
過去ログでおば九がどれだけ質問無視してるか拾うとおもしれーぞ!
257名無しさん@1周年:2001/01/31(水) 02:26
船形埴輪は伊勢の國にょ
258日本@名無史さん:2001/01/31(水) 06:20
>254
学者も見れない鏡は何の根拠にもならない。
今の天皇すら見れないんだから(苦笑

>257
だから?考古学的にわかるように説明してね。
259日本@名無史さん:2001/01/31(水) 07:01
>>254
直径約50cmの銅鏡は平原遺跡からたくさん出ています。
みんな同じ内行花文鏡です。
260日本@名無史さん:2001/02/01(木) 00:19
>>238 「ちなみに当時銅が出た「除州」は、王先生曰く呉の領土ね。 」

王仲殊の主張とは全く違うと思います。
出典を示してください
261日本@名無史さん:2001/02/01(木) 15:19
おば九が答えるわけないだろ!
ウソなんだから。
262蒼天己死、黄夫当立:2001/02/01(木) 22:54
電波で腐りきっていたPart3が、ついに腐界に沈んだ。
晴れて、ここが邪馬台スレの正統となったのだ!

ってことでage。
263日本@名無史さん:2001/02/01(木) 23:18
>>259
巨大な銅鏡では
 福岡の平原から46.5cmの八葉座内行花文鏡が5面
 山口の柳井茶臼山から45cm弱のダ龍鏡
 奈良の柳本大塚と下池山からそれぞれ40cm弱の内行花文鏡
というところでしょうか。

どれも最初から日本製とされている鏡です。
伊勢の鏡は内行花文鏡ではないかと考える人が多いようです。

三角縁神獣鏡と同じ20cm強の鏡は中国でも少なくなく
これらは9寸超の鏡が呪力を持つという道教信仰に基づくものでしょう。
264日本@名無史さん:2001/02/02(金) 00:07
湖東で、最古の前方後方墳発見。
やはり狗奴國は東海か。
265日本@名無史さん:2001/02/02(金) 00:55
>>262 おのれが引っ込んで天が飛び出すってのは洒落かな?
266日本@名無史さん:2001/02/02(金) 06:28
>264
愛知県の研究者はよく狗奴国=愛知説を言いたがるけど、
まともに文献批判もしないで、よく考古学に文献を持ち
込めるものだ。まぁそれは狗奴国だけでは無いのだが。
267日本@名無史さん:2001/02/02(金) 06:58
>>266
文献批判という意味では、狗奴国=南九州説の人が
文献批判しているのはあまり見たことはありませんね。
文献無批判はよく目にしますが。
268日本@名無史さん:2001/02/02(金) 12:40
>>264
狗奴國は邪馬台国の南にあるんだぜ。
畿内説の人はよく、「南」は「東」のまちがいだって言うけど、湖東って大和からは「北」だぜ。
今度は「南」は「北」のまちがいだって言い出すのかな?
269日本@名無史さん:2001/02/02(金) 14:55
滋賀で確認された古い時代の前方後方墳についての続報(中日新聞)。
古墳時代前期に東日本を席巻した、前方後方墳体制の本拠地である東海地方は、
狗奴国の最有力候補とされています。
http://news.yahoo.co.jp/headlines/cnc/010202/loc_news/11020000_cncnws004.html
『町埋蔵文化財センターに初めから大きな期待があったわけではない。「古墳」といわれながらも、単に畑を造成した後の土を盛り上げた所もあるからだ。しかし、周囲の溝の形状で前方後方墳であることが徐々に判明。しかも出土した土器片が新しいものでも三世紀前半の特徴をもつと分かり、発掘メンバーの興奮は高まった。』
『注目が集まる棺などが置かれた可能性のある本体部の調査は、国や県、地元と調整の上で検討するため、日程は未定。今回は試掘にとどめて埋め戻す。』
『同古墳の本体は神崎郡内でも古い由緒をもつ乎加(おか)神社の社地にあり、氏子が守ってきた。墳丘の残存状況も良く、考古学の専門家も「よくこれまで残っていた」と驚くほどだ。』
270日本@名無史さん:2001/02/02(金) 15:01
>>266
邪馬台(ヤマト)国が畿内にあったことは、考古学者の中では既に定説化し、
痴呆化したアマチュアが九州説にしがみついているのが現状でしょう。

畿内の前方後円墳体制に対抗する勢力としては、東海の前方後方墳体制を
強大な敵対勢力と考えるのは妥当で、卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳に至って、
畿内(邪馬台国)発祥の前方後円墳に、吉備(投馬国)発祥の埴輪を並べているように、
畿内=吉備連合を築いて、西日本を制圧すると共に、後に東国勢力も圧倒して、
全国を前方後円墳体制に組み込んだと見るのが、妥当なストーリーでしょう。
271日本@名無史さん:2001/02/02(金) 18:23
>270
 もちろん考古学的に見て3世紀前半期に、中国と交渉できる程度の勢力
が大和に存在して、それが魏志にいう「邪馬台国」だと仮定したら、その
とおりでしょうね(定説化は言い過ぎでは?)。つまり文献学者や研究者が
考古学のデータを用いるのは一向に構わない。それはほぼ事実だから。
でも実証主義でなければならない考古学者や研究者が、魏志を含む中国
の文献の資料批判をしないまま安易に文献の内容をもちこむのはどうか
な?と言ってるのです。どなたか中国の文献をきちんと研究し、批判した
上で、邪馬台国の話をしている考古学徒人ってご存知ですか?

ちなみに私は個人的には吉備が西日本を制圧したんだ。それは弥生中期末
から始まるんだと思っていますが・・。反論お断り(笑)
272日本@名無史さん:2001/02/02(金) 18:43
>>271
>ちなみに私は個人的には吉備が西日本を制圧したんだ。それは弥生中期末
>から始まるんだと思っていますが・・。反論お断り(笑)

古事記や日本書紀には、日向からやって来た神武天皇が吉備の兵を率いて
大和を制圧して西日本を統一したって書いてあるんだけどね。
273日本@名無史さん:2001/02/02(金) 19:24
>272
なんだかよくわからないResだけど・・。
古事記や日本書紀を君が資料批判して史実と信じてるなら
そう思えばいいよ。
274272>273=271:2001/02/02(金) 19:34
あ、よくわからなかったみたいね。別に反論してるわけじゃなくて、
記紀には、西日本を統一したのは、大和じゃなくて吉備の兵だって書いてある
よねって意味だったんだけど。

まあ、九州も吉備が攻め落としたと考えているのなら別だけどね。
275日本@名無史さん:2001/02/02(金) 19:48
>>271 どなたか中国の文献をきちんと研究し、批判した
上で、邪馬台国の話をしている考古学徒人ってご存知ですか?

しれない人を「ご存知」とでも言うの?

で、あなたは中国の文献をきちんと研究し、批判した上で
邪馬台国の話をしているの?
276日本@名無史さん:2001/02/02(金) 19:48
>>271
>>274
反論じゃないわけですよね。
出来れば271さんの吉備西日本制圧説をもちょっと
詳しくお聞かせ願えませんか。面白いと思ったので。
277日本@名無史さん:2001/02/02(金) 19:58
>>268
なるほど!こういうのを史料無批判っていうんだな。
うまいこと言うね。
都合の言い部分だけ盲信してほかは無視するとかね
これは、おば九の得意ワザだが。

で、あなたの伊都国はちゃんとマツロ国の東南にあるわけ?

さて、あなたがおば九なら上記の問いは無視するに決まってる。
ちゃんと答えれば、非おば九と認定する。めでたしめでたし。
278日本@名無史さん:2001/02/02(金) 20:25
>274
 ああ、なるほどそういう事ですか。変なふうにとってすみませんでした。それと、すみません、近畿と同時期ではないが九州もそう考えてます(^^;;・・

>276
う〜ん、どう言ったって猛烈な反論くらいそうので、その根拠も
貧弱ですが・・一応、円形墳丘墓の発生、分布、変遷。それから
弥生後期における西日本の土器の吉備化(在地の土器が無くなっ
ているおいう意味ではありません)を考えている程度です。

>275
 私がそうであるか、うんぬんの話ではなく、考古学の研究者
が「邪馬台国」を安易に使っていいものだろうか?また彼らが
マスコミにその名前を発表する以上、根拠とするものは何だろ
うか?と言うことでして、そういう意味で根拠となる論文の存
在の有無を問うているのですが?私は浅学のため、そんな論
文を見聞きした事が無いのです。
 おわかりいただけますか?
279日本@名無史さん:2001/02/02(金) 20:46
>>278
自分が中国の文献をきちんと研究し、史料批判してなきゃ
ほかの人が「してない」ことがわからんと思うのだが
ちゃうかね?
280268>277:2001/02/02(金) 20:52
私が考える末盧國は唐津で、伊都國はそこから東南に35kmほどの佐賀だが
それがどうかしたのかい?
281日本@名無史さん:2001/02/02(金) 21:18
>278
そうですか?私はそうは思いません。
282日本@名無史さん:2001/02/02(金) 21:43
>>280 おば九じゃなくてトンデモさんでしたか。
めでたしめでたし
283ワーイ\(^_^)/:2001/02/02(金) 23:07
>おのれが引っ込んで

MS明朝10ptでは、突き出てるように見えたんだ。

>天が飛び出すってのは

こっちは意味がわからん。

とか言ってるうちに、もう復活したようだ。
南朝と認定しよう。
284日本@名無史さん:2001/02/03(土) 00:43
>>280
>私が考える末盧國は唐津で、伊都國はそこから東南に35kmほどの佐賀だが
>それがどうかしたのかい?

それじゃ、あれだけ遺跡のある前原も、明らかに繁栄していた博多も素通りして
さっさと先に行っちゃうというのですか?
倭人伝の8国の中にはないと?
いったい奴国はどこです?
285日本@名無史さん:2001/02/03(土) 01:27
>>272
日本書紀の非常に古い時代の記述はさておき、雄略前後に吉備が再三反乱を起こし、
いずれも失敗に終わったと記されていますが、考古学的にも、それ以前は
規模で全国4位の造山古墳、全国9位の作山古墳と巨大古墳が作られていたのが、
古墳時代後期(6世紀頃)には、群集墳しかみられず、著しく衰退したことと
調和することが指摘されています。
286日本@名無史さん:2001/02/03(土) 12:01
>>280
>私が考える末盧國は唐津で、伊都國はそこから東南に35kmほどの佐賀だが

結局頑迷固陋な狂信的邪馬台国九州説論者は
”南”以外によりどころが無いから
これが絶対正しいとしなきゃいけない。
だから誰もが確定と思ってる伊都国=前原や奴国=春日を
否定しなきゃなんないワケだよね!カワイソウ
もうそれだけでマイナー説確定じゃん。
287Henton:2001/02/03(土) 12:45
>>286

狂信的邪馬台国大和論者はともかく、「至」「到」の使い方から
見て魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあるとしか読めませんね。
「”南”以外によりどころが無い」とか笑わされます。
288日本@名無史さん:2001/02/03(土) 13:01
どう読むわけ?
289Henton:2001/02/03(土) 13:12
榎説を知らないの?
結局、文献では圧倒的に大和説が不利なので、考古学とマスコミを使って
大和説(=新皇国史観)で国民を煽っているだけ。
290日本@名無史さん:2001/02/03(土) 13:26
>>286
>だから誰もが確定と思ってる伊都国=前原や奴国=春日を
>否定しなきゃなんないワケだよね!カワイソウ

あんた、古田一派の九州説派だね(ワラ
安本のじいさんでさえ、伊都国は吉野ケ里の付近だと考えてるよ。
九州説派の中でも伊都国=前原と考えてるやつはマイナーだぜ(ワラ
291Henton:2001/02/03(土) 13:26
日本の考古学ってさあ、いくらやってもそれだけじゃ邪馬台国はどこか決まらんよ。
だって、文献・墓誌が伴ってでてこないんだから。
海外でも文字の無かった地域ではそう。せいぜい、「かも知れない可能性がある」程度。
292>291:2001/02/03(土) 13:50
つうか、邪馬台国ってほんとにあったのかねぇ?
倭人伝の中にも一か所しか出てこないし、卑弥呼の墓もみつからない。
卑弥呼の実在性もあやしいよね。

よく、倭人伝の記述で、「至」または「到」の前に、「渡」「行」などの動詞がある場合は
実際に行ったことを示し、動詞がない場合は「行ける」という注釈にすぎないと言われていて、
これによると、魏の使いは伊都国及びそのとなりの不弥国までしか行っていないことになり、
実際、不弥国までの道程の記述は方位、距離とも詳細なのに、その先は大ざっぱなことでも
裏付けられる。

結局、卑弥呼や邪馬台国の話は伝聞にすぎないわけでしょ。あやしい話だよね。
293日本@名無史さん:2001/02/03(土) 14:05
>292
おお、ナイスな突込みだ。何故、陳寿さんは、邪馬台国ではなく、女王国と
統一したんだろうね?邪馬台国を女王の所都としたところに、混乱あるい
は作為が存在すると思えるのですが・・。それと狗邪韓国→対馬→一支→
末盧(ああ、EGBridgeは便利だ。全部ある)間を陸行を示す距離にした
のもよくわからない。伊都国までしか行ってない長政さんがきちんと
報告書を提出してると思うのだが・・・。
 まぁこんなこと言い出せばキリが無いかもしれないけどね。
 
294Henton:2001/02/03(土) 15:01
>>292

邪馬台国の存在まで疑うわけ?
じゃあ、このスレまで無意味ってことになるわけだね。
語るに落ちたね。(藁
文献については、こういう事いって誤魔化すくせに、
「考古学的に言って邪馬台国は大和に間違いなし。」
とかいうんだよなあ。(藁
結局、考古学ヲタってこの程度なのね。(激藁

295日本@名無史さん:2001/02/03(土) 16:17
>>294
たぶん292は考古学ヲタではないね。
行っていることからみて、ただの古田教徒だろう。
296日本@名無史さん:2001/02/03(土) 16:40
>>290
>あんた、古田一派の九州説派だね(ワラ
>安本のじいさんでさえ、伊都国は吉野ケ里の付近だと考えてるよ。
>九州説派の中でも伊都国=前原と考えてるやつはマイナーだぜ(ワラ

ちゅうことは、九州説のメジャーな部分は
ふつうの歴史研究者からはまったくの笑い者ということか。
297日本@名無史さん:2001/02/03(土) 17:01
根拠を示さずに、推測や思い込みを前提に批判するのは単なる
中傷だよ>294
298Henton:2001/02/03(土) 17:47
297>>根拠を示さずに、推測や思い込みを前提に批判するのは単なる
中傷だよ

根拠は魏志倭人伝です。
あなたの言っていることは、推測、思い込みです。
299日本@名無史さん:2001/02/03(土) 19:15
>298

292が考古オタであるという根拠は?

300日本@名無史さん:2001/02/03(土) 20:41
>>287
>狂信的邪馬台国大和論者はともかく、「至」「到」の使い方から
>見て魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあるとしか読めませんね。
>>289
>榎説を知らないの?

そんな大正時代の説がまだ通用すると思ってんの?
要は、あなたが「説明できる」程度に理解してるかどうか聞いてんのよ。
自分自身じゃ満足に説明できないのが「おば九」の特徴

どうせトンデモ系ジャーナリストのヨタ記事でも丸呑みして
「文献では圧倒的に大和説」とかダイホンエー発発表を盲信してるんでしょ。
くやしかったら
「魏志倭人伝の邪馬台国は九州にある」と読めるのか説明してみ。

「〜としか考えられない」とか「決まっている」とかでそれ以上の証明をしないのも
おば九の特徴だよ〜ん!
301Henton:2001/02/03(土) 21:02
おば九ってなんですか?
それと、「大正時代の説は通用しない」の根拠は?

>「魏志倭人伝の邪馬台国は九州にある」と読めるのか説明してみ。

相手に言う前に自分で説明するのが、礼儀でしょう。

302Henton:2001/02/03(土) 21:14
水行十日、陸行一月


303日本@名無史さん:2001/02/03(土) 21:14
>>301
「おば九」は「おばかな九州説モノ」の略だよ〜ん!
まとともな九州説と一緒にしちゃ悪いからこう呼ぶのだ。

>相手に言う前に自分で説明するのが、礼儀でしょう。

「魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあるとしか読めない」って言うから
どう読むんだって聞いてるだけじゃん。

>それと、「大正時代の説は通用しない」の根拠は?

どう読むか説明したらどう「通用しない」か示すよ。
ともかく、大正時代の説が完璧で「」って言う人が
その論点を示していただくのが先だな。

ってことで、どう読んだら「九州にあるとしか読めない」になっちゃうのかな?
説明無しで結論だけなら「おば九」
304日本@名無史さん:2001/02/03(土) 21:16
>>302
>水行十日、陸行一月

それがどうしたの?
書いてる途中で間違って送信しちゃったのかな?
305Henton:2001/02/03(土) 21:27
「南、水行十日、陸行一月 で邪馬台国に至る。」
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。常に伊都国に治す。」

306日本@名無史さん:2001/02/03(土) 21:30
それがどうしたの?
書いてる途中で間違って送信しちゃったのかな?
307Henton:2001/02/03(土) 21:37
>>305
いいえ。
「女王国は伊都国の南にある。」したがって、大和ではないと読めます。
文脈から言って、女王国と邪馬台国は同じ国を指していると思います。
308日本@名無史さん:2001/02/03(土) 21:44
それじゃ
>「至」「到」の使い方から見て魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあるとしか読めませんね。

の説明になってないし、やっぱり”南”しか拠り所がないわけじゃん。
309Henton:2001/02/03(土) 21:50
もっといえば、大和説を取ると陸行に一月もかかるのは
説明できません。水行十日は当時の船舶の技術を考慮す
れば九州内部でもこのくらいかかったと思います。
310Henton:2001/02/03(土) 21:52
>>308
伊都国を拠点に書いてあるとすれば、九州説は成り立ちます。
311日本@名無史さん:2001/02/03(土) 22:01
「とすれば」って、絶対そう読まなければいけない理由を聞いてるわけでしょ?
「九州にあるとしか読めません」という以上ね。
312日本@名無史さん:2001/02/03(土) 22:09
>「至」「到」の使い方から見て魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあるとしか読めませんね。

という理由を聞いてるんだけど、なんでその回答がないの?
313Henton:2001/02/03(土) 23:01
絶対なんていってませんよ。
「至」「到」の使い分けから見て、伊都国を拠点に書いてあると読むのは
自然でしょう。それならば、伊都から「水行十日、陸行一月」っていうのは、
「水行十日、陸行一月」を、「水行ならば十日、陸行ならば一月」と読んでも
「水行を十日して、陸行を一月すると」と読んでも大和へ行く行程の説明とし
てはおかしいと言っているんです。


314日本@名無史さん:2001/02/03(土) 23:52
だから
>「至」「到」の使い分けから見て、伊都国を拠点に書いてあると読むのは
自然
だという理由をきいているわけよ。
まさか大正時代に東大の先生がそう言ったからだというのが理由じゃないでしょ?

「邪馬台国は九州にあるとしか読めませんね」と書いたんだから
「絶対」といってるんじゃないの?
315日本@名無史さん:2001/02/04(日) 00:07
追伸 ところで、あなたの伊都国はどこ?
316日本@名無史さん:2001/02/04(日) 09:36
>Hentonさん
 何故大和説では説明できない or おかしいのか理由を述べて
いただけませんか?こうだから説明できない or おかしいと答
えていただければ幸いです。最近まともに答えようとしない
人が多くて・・・。
317Hentonさんに変わって:2001/02/04(日) 10:55
>>316
まず、「水行十日、陸行一月」が「水行ならば十日、陸行ならば一月」だった場合、
邪馬台国は船でも、歩いても行けるということで、つまりは海あるいは大河のほとりに
あったということになります。ところがこの時代の畿内の遺跡は内陸部に集中していて、
どう考えても上陸してから1日や2日は陸行が必要なはずなのに、その記述がありません。

次に、「水行十日、陸行一月」が「水行を十日して、陸行を一月すると」だった場合、
じゃあどこで上陸するんだ?という話になり、大阪湾で上陸するとなると、たとえば、
卑弥呼の墓の最有力候補と言われる箸墓までは、当時、30〜40kmしかありません。
この距離に1月もかかるというのはナンセンスですね。そのため、上陸地点は山口だとか
岡山だとかいう説になるのですが、陸を行くからには、そこは大和の支配下にあるか、
少なくとも友好国でなければ無理ですね。そこから、当時、大和はすでに西日本を統一
していたという説になるわけですが、それなら、瀬戸内海も支配下にあったはずで、
なぜ、わざわざ途中で船を降りて、苦労して陸を行かなければいけないのかという矛盾が
生じます。

というわけで、大和説では説明がつかないというほど決定的ではありませんが、
不自然ではあるわけです。
318日本@名無史さん:2001/02/04(日) 11:15
>>317
 まず、「水行十日、陸行一月」を「水行ならば十日、陸行ならば一月」と
読むよみかたは、実際にそのような用例が皆無で、無理でしょう。
「水行を十日して、陸行を一月すると」の用例はあります。

 次に「30〜40kmしかありません。この距離に1月もかかるというのはナンセンス」かというと
畿内説の多くの人は、史書を書いた人物が邪馬台国までの里数を入手できなかったので
魏使など実際に大和まで行った人間の日誌などから主要箇所の到着日を拾って所用日数を出したと
考えています。漢書西域伝の書き方からの類推です。
 こう考えた場合、日本書紀にみる隋使裴世清の日程から同じように作業すると
ほぼ近い数字が出るわけです。ゆえに不自然とは考えていないのです。
319日本@名無史さん:2001/02/04(日) 11:21
なお、この考え方は実際の旅程にもとづくという前提なので
「水行を十日して、陸行を一月すると」の場合にしか成り立ちません。
「水行ならば十日、陸行ならば一月」ならば普遍化された情報だからです。
320日本@名無史さん:2001/02/04(日) 12:59
>317>318
 郡使が邪馬台国まで行っていて、しかもその間の詳細な報告を残していた場合
・・・・の話ですね。
 それにもし仮にそうだとしても、当時は交通手段が著しく未発達な頃の話です
から、今の感覚で地図上をたどるようには行かないと思いますよ。
 仮に郡使が邪馬台国まで行っていたとして、詳細な報告を陳寿が見ていたとす
るなら、狗邪韓国から伊都国(周辺国も含め)までは詳細に里数で書いて、伊都
国から邪馬台国までは詳細を省き、日数としたのはおかしいと思いますよ。郡使
の目的は魏の賜物を女王に渡し(もちろん直接ではないでしょうけど)、倭国を
観察するためなのですから。ところが陳寿は一番重要な邪馬台国の様子とそこに
至る経過を書いていない。それは後の裴世清が残したような大和の比較的詳細な
記録のような記録が郡使の報告には無かったと考えたほうが自然だと思います。
陳寿自身も伊都国は常駐するところだ(一大率も設置している)、倭王は手紙で
礼をした(倭王に拝仮・・はうまく説明できませんが、実際にあっていないこと
を意味しているのでは無いかと思います)と書いているのでは無いでしょうか?
 ゆえにわたしは伊都国→投馬国(官名)、伊都国→邪馬台国(官名)も、倭人側
が説明したのを記録したに過ぎないのでは無いかと考えています。
321日本@名無史さん:2001/02/04(日) 13:24
>>320
郡使ではなく勅使として倭王を叙任に行ったのであって
本人に会わないで済ますことは職務上できないのです。
これは当時の制度としてそうなのです。
従って、「倭国を観察するため」という仮定のほうがおかしいことになります。

民間人である魚拳の魏略については
伊都国までの行程が書いてあったことしか確認できません。
ところが政府の公式記録を閲覧できる立場の陳寿は邪馬台国まで書いています。

より古い時代の記録として伊都国やその周辺までの情報があったところに
邪馬台国までの話をつけ加えたと考えた方が整合的ではありませんか?

ところで、あなたは伊都国を現在のどこだと考えますか?
322名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 19:43
山本正之の説に賛成
323日本@名無史さん:2001/02/04(日) 19:49
まぁまぁ
みんな邪馬台国ぐらいでそんなに熱くならなくても。
324世界@名無史さん:2001/02/04(日) 20:55
どんなつまんない事でも、嘘つく奴は許せないけどな。
嘘つくんだよ、おば九は!!
325世界@名無史さん:2001/02/04(日) 22:29
都合の悪いことには一切答えないんだぜ、おば九は!!
邪馬台国とか以前に人間としてどうかってことよ。
326日本@名無史さん:2001/02/04(日) 22:35
>>324-325
荒らさないで下さい。
327世界@名無史さん:2001/02/04(日) 23:38
だったらちゃんと返答しろよ!
こそこそ逃げんじゃねえって言えよ!
汚ねえんだよ!
328 :2001/02/04(日) 23:51
329日本@名無史さん:2001/02/04(日) 23:54
>>327
大変興味ある。ここ行って議論してみてくれないか。
新しいところだが。

http://www.d2.dion.ne.jp/~azusa_co/
330日本@名無史さん:2001/02/05(月) 00:10
日本書紀に記された、遣隋使が隋の裴世清を連れての帰途を見ると、
推古16年4月に筑紫に至り、6月15日に難波津に至り、都に入ったのは8月3日です。

今や、九州説のような亡霊に留まることなく、邪馬台(ヤマト)=畿内を元に、
議論を深めていく時期に来ている。
331日本@名無史さん:2001/02/05(月) 06:31
 あらら、なんか荒れちゃってますねぇ〜。
>321
 確かにその通りだと思いますが、制度としてそうなのと、実際
にあったかどうかは別問題だと思います。くりかえしますが、も
し梯雋らが倭王に会ったとしたなら、なぜ邪馬台国までの道程が
連続的かつ詳細に書かれないのか?また邪馬台国の様子が書かれ
ないのは疑問だと思います。極端な話、陳寿の見た報告書には
女王国の位置がきちんと書かれていなかった可能性もあるのでは
ないかと思います。
 また仮に伊都までの記録が前時代の公式記録に残されていたと
しても、何もそこに邪馬台国を付け加える必要はなく、陳寿は邪
馬台国までの詳細な記録があるのですから、それを最初から書け
ばよいだけの話ですよね?それに陳寿は、町の好事家に過ぎない
魚拳の魏略は見ていないだろうし、知っていたとしても見るその
必要も無かったと思いますしね(ただ公式記録である王沈の魏書は
二人とも見ている可能性は高いと思いますが)。
 それとどうでも良いことですけど、「倭国を観察するため」で
すが梯雋達が初めて中国の公的な使者・軍人として日本に来た場
合ならそう考えられると思いますよ。なにせそれ以前の公式記録
は無い訳ですから。
それと伊都国ですが私は現在の糸島あたりでよいと思っています。
332世界@名無史さん:2001/02/05(月) 07:02
>>331
>もし梯雋らが倭王に会ったとしたなら、なぜ邪馬台国までの道程が
>連続的かつ詳細に書かれないのか?また邪馬台国の様子が書かれないのは
>疑問だと思います。

それは梯雋らが道程を連続的かつ詳細に記録したと仮定した場合の話で
しょう?文体を見る限り、伊都国までさえも一人の人間の報告とは
考えられないほど不ぞろいではありませんか?
邪馬台国の様子は書かれています。宮室樓観のくだりです。
333世界@名無史さん:2001/02/05(月) 19:57
>>331
荒れもするわな。
文献では圧倒的に大和説が不利とか言っといて理由は”南”しか言えないのとか
都合が悪いとしらんフリするのとかばっかじゃん。
あなた真面目そうだから期待してるよ。
334解決黒頭巾:2001/02/05(月) 20:58
どれ、では、俺の出番かな。

『魏志』東夷傳 倭人の条には次のように書かれている。
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里。
  始度一海、千餘里至對馬國・・(略)・・東南陸行五百里、到伊都國

これは「郡から倭(九州)に到る」のに狗邪韓国へ行く方法と、伊都国へ行く方法の二つのルートがあったことを並記したのである。
中間地点に着く「至る」ではなく、終着地に着いたことを意味する「到る」を使用していることに注意しなければならない。

『桓檀古記』高句麗国本紀では
 「其れ、狗邪韓国に往かんと欲するものは、蓋し、津島、加羅山、志加島に由り、始めて末盧戸資の境に到るを得る。その東界は、則ちそれ狗邪韓国の地なり」
(末盧戸資は松浦、鳥栖のこと)

と述べているので、『魏志』の「歴韓國」は文字通り「朝鮮半島をへて」ということで、
「乍南乍東」というのは、朝鮮海峡を渡るため、はじめは南下し、九州に近づいてから東に行く事なのである。
だから到着地点の狗邪韓国は九州北東部にある。

「其北岸」を朝鮮海峡の北岸と理解する説もあるが、「其」は常に文章の中で具体的な文字を指す言葉であって、この場合は「從郡至倭」の倭である。

したがって「其北岸」は、倭→九州の北岸なのである。
これを、あやまって「朝鮮海峡の北側」ととらえると、

高句麗国本紀の「其れ、狗邪韓国に往かんと欲するものは、蓋し、津島、加羅山、志加島に由り、始めて末盧戸資の境に到るを得る。その東界は、則ちそれ狗邪韓国の地なり」

という文章と矛盾する。

一方、高句麗国本紀は韓半島南端の狗邪韓国をも記すから、狗邪韓国のテリトリーは朝鮮海峡の両側にあったのである。

さらに『桓檀古記』大震国本紀によると、
「時に倭人、分かれて山島に拠り、各々百有余国あり。そのうち狗邪韓国最大にして、
もと狗邪本国人の治むる所なり。」

とあり、狗邪韓国(金官加羅)が邪馬台国より大きかったことがわかる。

335世界@名無史さん:2001/02/05(月) 21:05
来ちゃったよ、桜鶯が!
336日本@名無史さん:2001/02/05(月) 21:14
『桓檀古記』が20世紀に入ってから登場した偽書であるのは、これまでも何度も指摘されている。
別冊歴史読本特別増刊14「古史古伝」論争(新人物往来社)1993年 が詳しい。
韓国の研究者による、偽書であることの指摘がある。

現存する朝鮮最古の史書は、日本の平安時代末期に当たる時期の「三国史記」。
その次の「三国遺事」は日本の鎌倉時代に成立したもの。
337世界@名無史さん:2001/02/05(月) 23:53
九州説の恥部、黒頭巾登場。
どうした!まともな九州説はいないのか!
ドキュンと電波しか残ってないのか?
338うんざり太郎:2001/02/06(火) 00:45
相手にするなよ
339世界@名無史さん:2001/02/06(火) 02:04
つーか桓檀古記にすらそんな記述があるか疑問。
340日本@名無史さん:2001/02/06(火) 03:53
>333
ありゃりゃあ、とうとうきちゃいましたね。
しばらく荒れそうなのでやめときます。ちなみに
私は邪馬台=大和説なんです。が陳寿に情報上の混乱または意図が
あって女王国を邪馬台国にあてちゃったんじゃないかなぁという
ドキュソと言われかねない考え持ってるのです・・。まぁご指摘
される通り根拠は書いてないことで推測ばかりなんですがねぇ(-◇-)

341名無しさん@1周年:2001/02/06(火) 04:23
伊勢
342世界@名無史さん:2001/02/06(火) 20:16
しかし、まっ結局は、文献で九州説の根拠っていうのは「南」だけで
あとは「九州でもおかしくはない」ための解釈だけってことで決着でしょ。
その「南」も頼りない限り。
っていうのは、中国史書の方位誤りってのは結構多いわけだ。
343名無しさん@1周年:2001/02/07(水) 02:43
伊勢
344日本@名無史さん:2001/02/07(水) 10:45
後漢書が狗奴国の方向を南から東に書き換えてる事実は厳然とあるわけで
方位を絶対視する解釈がいかに脆弱かわかろうというもの。
魏志じたいマツロ国とイト国の位置関係で方位が信頼できないのだから
言うに及ばずだ。
345日本@名無史さん:2001/02/08(木) 01:34
九州説は方向に固執するしか、畿内説を叩けないから、そこを押すしかないが、
肝心な九州説が、今やトンデモの一つに過ぎない扱いになってきて終了。
346日本@名無史さん:2001/02/08(木) 05:47
>344
 でも范曄は何故、書き換えたのでしょうね。奴国を倭国の極南界
としてますし、57&107年の交渉記事など新しい知見が5世紀の段
階であったのか、あるいは陳寿の魏志からそう読めたのか、あるい
は日本の昔の学者が自分の無知を棚に上げて差別意識まるだしで叩
いたように、范曄が間違ってるのか?
みなさんどう思います?
347世界@名無史さん:2001/02/08(木) 06:53
なぜでしょうね。
狗邪韓国を「北岸」から「西北界」に直していること
狗奴国を「南」から「東」に変えていること
奴国を倭国の「極南界」としていることの3点からみて
やはり奴国以降の進行方向を
意図的に90度強反時計回りに書き換えた
(しかもあまり露骨に目立たないように)
と考えて良いんじゃないでしょうか。
348世界@名無史さん:2001/02/08(木) 06:59
ひとつはっきりしているには
「57&107年の交渉記事など」は「新しい知見」ではなく
みんな先行史書にあった情報です。
魏代のことではないので、陳寿は
知っていたけれど詳しく述べなかっただけということでしょう。

となると、この修正も新しい情報ではなく
陳寿が採用しなかった「何か」のほうを正しいとした結果ではないか?
採用したのではないかと
349嘆息男:2001/02/08(木) 11:22
やっぱり邪馬台国九州説の文献解釈っていうのは
いろいろ工夫して”九州でも無理じゃない読み方”を発明してくるけれど
どうしても実例類例が見つからない。
頭の中で考えただけの理屈なんだよね。

それを「文献なら九州説が圧倒的に有利」とか
ローカルなマスコミとか使って実体のない大本営発を垂れ流してるから
だまされる人が出る。
自分たちがそういう作戦つかってるから
京大とかナントカ派がマスコミ使って畿内説を喧伝してるなんて公言しちゃう発想が出て来るわけだ。
この逆立ちぶりは、前にTV賑わしたそんな事件があったことを思い出すよ。
350日本@名無史さん:2001/02/08(木) 16:02
畿内派は「郡より女王国に至る。万2千余里。」で不弥国までの万5百里の残り
千5百里でどうやって畿内まで連れていってくれるのかな。
不弥国までは短里でそこから先は長里なんて変な事はやらないでね。
351日本@名無史さん:2001/02/08(木) 16:17
そんなあやふやな引き算じゃなく、
不弥国から、南へ水行20日で、5万余戸の投馬国に至る
投馬国から、南へ水行10日と陸行1ヶ月で、7万余戸の邪馬台国に至る
と言うのが、直接的な表現であることに着目するべきこと。

同じ、魏志東夷伝の中で、戸数を比較すると、夫餘は8万戸、高句麗は3万戸、東沃沮は5千戸、
馬韓50余国で計10万余戸、辰韓・弁辰24国で計4〜5万戸と記されている。
これらと比べると、投馬国や邪馬台国の規模の大きさが分かる。
投馬国を埴輪発祥の吉備、邪馬台国を前方後円墳発祥の畿内と、広域に考えて、
初めて理解できる規模である。
邪馬台国と対抗する狗奴国も、東国に拡がる前方後方墳発祥の東海程度の
規模を考える必要があるだろう。
352日本@名無史さん:2001/02/08(木) 17:15
あんた達のお得意な論法で答えてやろう。

郡使はちょっと見ただけでその国の人口なんて見分けられたか?
2万が7万と言われても数える訳にもいかないし、邪馬台国側から
あの山の向こうにも村があって何万人いて全体で7万人だ、と言わ
れてもその通り納得するしかないだろう。

韓国の方4000里と女王国の周遷5000里を照らし合わせれば
邪馬台国の範囲が畿内から北九州対馬まで含む巨大な地域ではあり
得ない事はサルでも判るだろう。
353日本@名無史さん:2001/02/08(木) 17:30
>>350
「京都から新幹線に乗って新大阪まで160km。乗り換えて4分でオオバカに着くまで、しめて164km」
って書いてあったら、160kmは40kmの間違いだ。これは確定。

じゃ、オオバカは何処だ?あと4分で4km先の大阪に着くって考えるのは
変な事か?
京都〜新大阪が4倍に間違ってるから、新大阪から1kmのとこ探すか?
4分も1分の間違いか?

オオバカは誰だ?160kmと書いたやつと、もう一人いるだろう。
354日本@名無史さん:2001/02/08(木) 17:32
>>352
おい、サル。周旋の意味知ってるか?
355日本@名無史さん:2001/02/08(木) 19:03
>>352
当時の魏は、呉と対峙しており、軍事的な理由からも、東夷諸国の現状は重要で、
その人口や経済状況を把握する必要があったわけだろう。
そもそも、必要がなければ戸数など書くわけ無いだろ。
ちょっと、考えれば分かること。
356世界@名無史さん:2001/02/08(木) 20:44
>>352
僕らの得意な論法でやってくれるって?
それはもうちょっと漢文の読解できないと無理よ。「周遷」さん!
357日本@名無史さん:2001/02/08(木) 20:45
大体1ヶ月も歩いたら弥次喜多どころか大名行列・獅子舞や寅さんや養蜂業者や離れゴゼおりん
でも九州から江戸まで到着してしまうぞ?
それに、畿内・吉備・出雲・南九州などに有力勢力が存在したのは事実であり、古くから
相互に交易も行われ、時に争ったりもしていた筈.
だったらやはりこういう性格の書物で、北九州の群小勢力の記述に終わっていて
そういった事について全然触れていないと考えなければならないとしたら、
それは妥当性を掻くと思われる..
358日本@名無史さん:2001/02/08(木) 21:35
>357
 南九州の勢力とは具体的にどのような遺跡・遺物(質・量・分布)
を根拠とされてるのですか?鹿児島生まれの私が言うのもなんで
すが、畿内・吉備・出雲・博多周辺・東海とは比較にもならない
と思いますが・・・。
359名無しさん@1周年:2001/02/09(金) 03:58
伊勢
360日本@名無史さん:2001/02/09(金) 06:32
>>359 よせ
361日本@名無史さん:2001/02/09(金) 06:51
>>357に同意!
362日本@名無史さん:2001/02/09(金) 07:15
伊都国が倭の盟主だった時代の情報がまざっていて
九州にある国のような印象を与える部分があるんでしょう。
363日本@名無史さん:2001/02/09(金) 07:47
邪馬台(ヤマト)国は、伊都国に一大率を置いて、諸国を監視させ畏れさせたと、
魏志倭人伝に書いてあるように、畿内=吉備連合で北部九州を圧倒していたのでしょう。
364日本@名無史さん:2001/02/09(金) 08:35
まあ少なくとも近所の王様が設置するもんじゃないね。
365日本@名無史さん:2001/02/09(金) 10:07
邪馬台国は倭人の国。
畿内は朝鮮人の国じゃん。
畿内に邪馬台国があった筈はない。
366日本@名無史さん:2001/02/09(金) 10:44
電波はあっち行きな。
367名無しさん@1周年:2001/02/10(土) 03:04
伊勢でしょう。本居も内心はそう思ってたって。
368日本@名無史さん:2001/02/10(土) 05:08
>348
 その記事のある先行する文献とはなんでしょうか?起居注ですか?
 それと陳寿が採用しなかった何かについてもそっと説明していた
だけません?面白そうです。

369日本@名無史さん:2001/02/10(土) 10:12
>>368
「57&107年の交渉記事など」については、4世紀に書かれた袁宏の後漢紀に
もっと詳しい記事があります。
つまり范曄が利用していたのは既に2次資料の段階のものであろうと思います。
陳寿の原資料については明かではありませんが
文体の微妙な違いを分類していくと情報ソースのグルーピングが出来ます。
その情報の出所が鍵になるでしょう。
370日本@名無史さん:2001/02/11(日) 09:50
邪馬台国九州説というのはトンデモ説として地下に潜伏したようだ。
本屋でももう自費出版に毛の生えたアマチュアの本しか見かけない。
371日本@名無史さん:2001/02/12(月) 00:41
邪馬台国九州説死亡、合掌。
372日本@名無史さん:2001/02/12(月) 01:31
武光誠の「邪馬台国が見えてきた」は近来まれに見るヒドイ本だった。
373日本@名無史さん:2001/02/12(月) 02:04
東遷ってなかったんですか?
374日本@名無史さん:2001/02/12(月) 02:33
ウヨって九州説なのか?
この前、産経新聞の書評で畿内説を論破するみたいな本を大きく
紹介してたぞ。
375日本@名無史さん:2001/02/12(月) 05:15
>>373
邪馬台(ヤマト)国=畿内は動かせないので、
東遷があったとしても、卑弥呼以前の話でしょう。
376日本@名無史さん:2001/02/12(月) 18:14
九州説滅亡
377日本@名無史さん:2001/02/12(月) 18:19
>>374
畿内説のあらさがししたって九州説の根拠が虚空から湧いて出るわけじゃなし
いいかげんに畿内じゃないから九州だーみたいな論法の詐術性に
読者がみんな気付いてるって気付いてほしいよね
378日本@名無史さん:2001/02/12(月) 21:31
右だから九州とか、左だからナントカということはもうないようだな、
しかし歴史は思想を語ることではあるからな、
いまや「邪馬台国はどこか」より「邪馬台国とはなんであったのか」を
語るときなのであろう。
しかし日本書紀の系譜を信じたとしても、その政権は少なくとも300年
過ぎには終わっていると思われる。
379日本@名無史さん:2001/02/12(月) 21:41
系譜そのものの虚構性がもう常識だってのに
「記紀に邪馬台国のことが書いてないから邪馬台国は九州だ」
って理屈を持ち出す連中の気が知れん
380日本@名無史さん:2001/02/12(月) 22:48
>>373
>>375
卑弥呼、台代以後に誰かが東遷してきて邪馬台国が滅びた
という可能性もある。
だがさっぱりわからんのじゃ。
381日本@名無史さん:2001/02/12(月) 23:47
前方後円墳体制は、200年頃の纏向石塚古墳から、聖徳太子の時代に廃止されるまで
400年ほど続いており、常に畿内が圧倒している点も共通している。
それを無視して、系譜が途絶えていると願望することはナンセンス。
382日本@名無史さん:2001/02/13(火) 06:07
九州説の末路は哀れ。もはや、トンデモでしかない。
383日本@名無史さん:2001/02/13(火) 11:56
郡より女王国に至る万2千余里を合理的に説明出来ない
畿内説は単なる妄想。
畿内説学者でちゃんと説明できる奴は一人もいない。
馬鹿ばっかりそろっている。
384安本美典:2001/02/13(火) 11:59
『「邪馬台国畿内説」を撃破する!』
捏造だけじゃない!古代史界の深い病根。


定価

本体750円+税
ISBN

4-7966-2068-0

古代史論争の代表たる邪馬台国問題の検証も、
もっと厳密であるべきだ!
喧伝される「邪馬台国畿内説」は、思い込みのためか、
基本的な事実についての誤りが多すぎる。
最近の趨勢に警鐘を鳴らす意味で、この本は書かれた!

□□□ 目次 □□□

-プロローグ-
間違いだらけの「邪馬台国畿内説」

ホケノ山古墳の発掘は「邪馬台国畿内説」を支持していない

大追跡!卑弥呼のもらった鏡

『古事記』『日本書紀』こそが、邪馬台国問題解明の鍵

-エピローグ-
日本神話の語る「八咫の鏡」は「卑弥呼の鏡」の伝承だ!
385産経新聞:2001/02/13(火) 12:04
2001.02.10

■書評 「邪馬台国畿内説」を撃破する!

鋭い舌鋒で矛盾点を突く
特集部 大野敏明

 学会では現在、邪馬台国は畿内にあったという説が有力だそう
だ。それに真っ向から挑んだのが本書である。著者は畿内説の根
拠となっている諸説を論理的に鋭く論破していく。

 たとえば、畿内の多くの古墳から出土する三角縁神獣鏡を、畿
内説派は邪馬台国の女王卑弥呼が魏からもらった鏡としている
が、著者は中国の学者の意見も紹介しながら、この鏡が中国から
全く出土していないこと、魏志倭人伝には百枚を贈ったとあるの
に、すでに国内で五百枚以上出土していること、魏志倭人伝の記
述と畿内の古墳の相違などを挙げて、邪馬台国と三角縁神獣鏡と
は何の関係もないと強調する。

 さらに邪馬台国時代である三世紀に作られたとされる畿内の古
墳について、さまざまな傍証から成立年代をさかのぼり過ぎと指
摘。畿内説派の一部の研究者の姿勢に疑問を投げかけ、マスコミ
についても「時代が異なり、邪馬台国問題の解答に、なんら結び
つかないものが、邪馬台国問題と結びつけられて、報じられてい
る。その報道内容は、しばしば、事実や論理的整合性や、学問的
検討の結果と無関係である」と厳しく断じる。

 圧巻なのは古事記、日本書紀を邪馬台国問題解明の鍵とし、五
八六年に在位していた三十一代用明天皇から一代十年でさかのぼ
って、初代の神武天皇を二八〇−二九〇年の在位とし、その五代
前の天照大御神を卑弥呼ではないかとしている点である。となれ
ば、北九州にいた卑弥呼の勢力が、その子孫の神武天皇の代にな
って畿内に移動、文字通り神武東遷が行われたことになる。

 “美典節”ともいえる鋭い舌鋒(ぜっぽう)で畿内説を“撃
破”する。

 (安本美典著/宝島社新書・七五〇円)
386日本@名無史さん:2001/02/13(火) 20:44
稲作のルーツに関する議論。
http://www.saga-s.co.jp/pubt/ShinDB/Data/2000/03/01/005%5f01%2ehtml

「中国・江蘇省の約五千年前の稲作遺跡から出土した炭化米の品種分布が、山陰や東海地方の弥生遺跡から出土する炭化米と酷似していることが二十九日、佐賀大学農学部の和佐野喜久生教授(育種学)の研究で分かった。」

「昨年末から今年一月にかけて、中国の二十遺跡と韓国の三遺跡、日本の約百十遺跡で出土した炭化米のデータを収集。長さ四・〇_前後の短粒種と長さ四・六_前後の長粒種に分けて、分布状況を分析した。
その結果、鳥取県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡や愛知県の朝日遺跡など、山陰や東海の弥生時代中期から後期にかけての遺跡から出土する炭化米の品種分布が、龍贅庄(りゅうきうしょう)遺跡をはじめとする中国・江蘇省の新石器時代(紀元前五〇〇〇―同二〇〇〇年)の遺跡の炭化米分布と同じ特徴を持っていた。」

「朝鮮半島の炭化米は短粒が主。縄文晩期以前の水田稲作の遺構や遺物も見つかっておらず、朝鮮半島に水田稲作の主源流を求めるのは無理がある」

「七千年前の稲作の痕跡を残す河姆渡(かぼと)遺跡などの発見で長江流域は近年、「稲作の源流」として脚光を浴びる。植物遺伝学者の佐藤洋一郎教授(静岡大)らも、ここを日本の稲作の源流とみる。」

「ただ、考古学者には異論を唱える人も多い。」
387日本@名無史さん:2001/02/13(火) 22:20
>>385 見るからにトンデモ本だが…
388日本@名無史さん:2001/02/13(火) 23:12
事実や論理的整合性や、学問的検討の結果と無関係のことを
よく書きちらしてる著者だけどねえ
389日本@名無史さん:2001/02/13(火) 23:58
安本たんの神武天皇から31代目だから×10年で310年前ってのはワラタ
コレどっか科学的か?町の自称古代史研究家オヤヂのレベルちゃうか?
390日本@名無史さん:2001/02/13(火) 23:59
安本たんの神武天皇から31代目だから×10年で310年前ってのはワラタ
コレどっか科学的か?町の自称古代史研究家オヤヂのレベルちゃうか?
391日本@名無史さん:2001/02/14(水) 00:15
安本たんの神武天皇から31代目だから×10年で310年前ってのはほんとにワラタ
コレ嵐ちゃうで。通信不調で二重投稿こいただけや。
ついでに、畿内説はみんな魏鏡説だみたいな書き方も誘導的レトリックちゅうのかな
なんかだーてぃーやなー
392>385:2001/02/14(水) 00:38
産経新聞の記者の中に、少なくとも一人はおバカがいることを証明しただけだな。
393日本@名無史さん:2001/02/14(水) 00:54
安本氏の日本語の起源は非常にまともだとおもうんだけどね〜
最近の遺伝学の研究成果とも一致するし
394日本@名無史さん:2001/02/14(水) 05:51
なるほど、神武天皇が実在で記紀の皇統譜もまるまる史実だなんて説だから
サンケイが喜んじゃったわけね!
395日本@名無史さん:2001/02/14(水) 07:33
安本氏は京大文学部出身で、元々の専門は文章心理学で、
言語学関係の著書は評価されているけど、考古学の解釈などは全くのトンデモ。
古墳の編年とか、土器編年とか全く無視して、妄想で突っ走っているし、
今時、九州説に凝り固まる連中は、電波ってばかり、合掌。
396日本@名無史さん:2001/02/14(水) 07:39
一代平均10.9年って数字を自分で出してたんじゃない?
そっちで計算すれば30年繰り上がるし、神功皇后と飯豊王女をそれぞれ一代とするともう20年繰り上がって、神武天皇が230年の在位…卑弥呼の時代は東征後…
おいおい、さじ加減でどうにでもなる計算じゃないか!
これが学問的検討かいな?
397日本@名無史さん:2001/02/14(水) 10:44
ろくな根拠もなく朝鮮語と日本語の分岐を5千年前なんて逝ってる。
現代で50のじじいとコギャルの話全く通じねえだろ。
マスメディアの発達した今でさえこうだ。
1000年2000年前なら100年位で全く違う言葉になっても
全く不思議がないと言う事は常識なのにでたらめ麦価理逝っている。
398日本@名無史さん:2001/02/14(水) 11:23
言語学の素養ゼロの電波なひがみ鮮人が、こじつけで万葉集を鮮人語で読めると
電波全開になったのに比べると、インド・ヨーロッパ語族に適用された言語年代学を
日本語とその周辺の言語に適用してみる方が、遙かにまともだろ。
電波なひがみ鮮人が、妄説を叩きのめされたから、やっかんでいるだけのこと。
399日本@名無史さん:2001/02/14(水) 11:29
ちなみに、日本語の方言の中では、京都方言と首里方言とは、
インド・ヨーロッパ語族に適用された言語年代学を当てはめると、
分離して1500年程度となるそうです。
もちろん、適用の上での問題点も多く、半定量に留まらざるを得ないでしょうが、
電波なひがみ鮮人が、こじつけで万葉集を鮮人語で読めるとわめいた、
恥ずかしい行動とは違って、学問のルールに基づいたもので、遙かにまとも。
400日本@名無史さん:2001/02/14(水) 12:28
>>391@`>>396
俗に「古代天皇在位10年説」と呼ばれる説だが、各天皇の在位年数は、16世紀以降
飛躍的に伸びているものの、6世紀から15世紀にかけての1000年間、平均在位は12年弱で、
この間、在位20年以上の天皇が2代続いたことは1度もない。

統計学的に見ても、100年、200年とおおまかな間を取ればその間の天皇の数がほぼ
一定になるのは当然のこと。

4世紀頃に新たな病気が生まれ、以後の人々は短命になったなどといった劇的な
要因がない限りこのペースは変わらないはずで、この説の信頼性は高い。

この説を真っ向から否定するのは数学を知らないバカと言える。

ただし、欠史八代の問題もあり、この説がそのまま卑弥呼=天照大神説を
裏付けるというのは言いすぎ。
401日本@名無史さん:2001/02/14(水) 12:48
>一代平均10.9年って数字を自分で出してたんじゃない?

在位年数は時代が遡るほど短くなるので、古墳時代はさらに短く10年ぐらいだろうというお話しでございます。

>おいおい、さじ加減でどうにでもなる計算じゃないか!

御意にございます。

何より恐ろしいのは、こんなものを信じてしまう輩が世の中にゴロゴロいるという事実でございます。

何より救われないのは、ご自身でなんとかという人が統計を駆使して計
算した結果を紹介して
優れた研究だとほめちぎっておきながら、その結果をさらりと無視して10年で突っ走ってしまうことでございます。

まあ、こんなことは安本本にはよくあることで、A説を批判するのにB説を引っ張り出して
B説はすばらしいとさんざんほめちぎった後で、B説に一切の批判を加えることなく
B説と全く矛盾する安本説を滔々と述べ立てるって手法は常套手段にございます。
読者はA説だけに注目しているのでB説と安本説が矛盾するかどうかなどにはあまり注意を払っていないので、
術中にはまってしまい、A説が信用ならないものであるだけでなく、安本説はB説によって裏付けられた、
という印象をもってしまうのでございます。

こんなものを信じて、『もっとも論理的である』とか『鋭い舌鋒』とか賞賛してしまう人間が後を絶たないとは、
しかも、それが新聞記者の中にいるとは、世も末でございます。
402日本@名無史さん:2001/02/14(水) 12:52
北魏の魏書東夷伝によると、5世紀において、好太王の後を継いだ長寿王は、
98歳まで生きたそうで、在位も70年近くに及んでいる。
当時の東夷諸国にも、こう言う例があるわけで、標準偏差を考慮しないで、
年代幅を絞るのは無理がありすぎる。
統計に無知な連中を騙すレトリックに過ぎないでしょう。
403日本@名無史さん:2001/02/14(水) 13:19
>>399
コギャル方言と標準語の関係をどう説明するんじゃ?
縄文期みたいに割と小さい集団で暮らしていた時期、
コギャル達みたいに勝手な言葉つかっていたのに統一
された何々語なんてなかった。
その時代に言語の起源求めるなんてナンセンスと言う
のだ。
朝鮮語と日本語の共通性に文法意外に語頭にRの付く
語が極端に少ない事があげられる。
これも五千年前の分岐というのか?
404日本@名無史さん:2001/02/14(水) 13:57
>コギャル方言と標準語の関係をどう説明するんじゃ?

会社では、まともな日本語を喋っているぞ。

>朝鮮語と日本語の共通性に文法意外に語頭にRの付く
>語が極端に少ない事があげられる。

他のスレでも書いたが、rが語頭に立たないのは、ウラル・アルタイ諸語の特徴であり、
日本語や朝鮮語が、これらとの近親性を示すものであり、日本語と朝鮮語のみに
共通するものではないぞ。
電波な連中の妄想で満ちた書ではなく、まともな言語学者達が書いた本を読め。

日本語の中でも、例えば京都方言と首里方言では差異が大きいが、
単語の音韻対応は歴然としている。それに比べて、朝鮮語は全く違う。
405日本@名無史さん:2001/02/14(水) 14:26
なるべく多くの人に通じるように喋っている言葉と、
なるべく狭い範囲にしか通じないように喋っている言葉を比べるな。
406日本@名無史さん:2001/02/14(水) 15:13
言葉なんか100年もたてば通じなくなるくらい変る
可能性があると言う意味だ。
実際に分かれたのは弥生時代だろう。
この頃南方から米と一緒に南方の言葉も伝わり、ウラル、アルタイ語
と混じった可能性が強い。
これ以後朝鮮語と日本語にはっきりした差が出来て来たに決っている。
これ以前には朝鮮語と日本語は方言程度の差しかなかった。
407考えが浅い人の用語例:2001/02/14(水) 15:18
>>406
・・・・・・に決っている。(根拠なし、もしくは「に決まっている」が根拠か)
408日本@名無史さん:2001/02/14(水) 15:46
朝鮮学校でトンデモ洗脳を受けた電波野郎は、論拠という用語を知らないらしい(藁
409日本@名無史さん:2001/02/14(水) 16:04
安本の5000年説は外的要因が全くないと仮定すればの話。

こんな奴が九州説だと畿内説に対抗できないね。
410世界@名無史さん:2001/02/14(水) 16:09
藤村由佳とか李御寧って、コギャル言葉を根拠に
弥生時代に日本語ができたとかいってるんですか?
スゴイデスネ。
R語頭ぐらいは覚悟してましたが……
411日本@名無史さん:2001/02/14(水) 16:35
去年出版された安本氏の日本語の起源ものは
この分野に興味がある人はよんでおくといいとおもうけどね
安本説の集大成という感じでまとまっている
一部今となってはイタイ部分があるのは笑えますが
412日本@名無史さん:2001/02/14(水) 20:46
>在位年数は時代が遡るほど短くなるので、古墳時代はさらに短く10年ぐらいだろうというお話しでございます

そのアバウトな「10年ぐらい」に神武天皇から31代目というアチョーな数字をかけて
西暦280〜290年というプリサイズな数字を出して卑弥呼よりあとに実在の神武天皇が東征したという…
あまつさえその5代前に天照皇太神が実在あそばされるという
もうウキャキャ〜な説をとなえる人が
どーして

「時代が異なり、邪馬台国問題の解答に、なんら結び
つかないものが、邪馬台国問題と結びつけられて、報じられてい
る」とか「しばしば、事実や論理的整合性や、学問的
検討の結果と無関係である」とかいって

他人を批判できるやら。 はぁ〜(溜息)
トンデモな人が他人を非難する言葉って、かなりの割合で本人に一番ぴったりあてはなるんだよね。
413日本@名無史さん:2001/02/14(水) 21:27
私は宇佐神宮が、卑弥呼の古墳だと思っています。
以前、大分合同新聞で読んだのですが、太平洋戦争時の混乱にまぎれてある兵士が宇佐神宮の社殿にもぐりこんだらしいのです。そこに、卑弥呼の墓なる記載を見かけたと。今は国宝なのでとてもじゃないが徹底調査はできないとのこと。その時代のかたがたは住まいから数十キロ離れたところに墓を作る風習があったということですし、宇佐神宮のコンモリ山は卑弥呼の古墳、邪馬台国は九州。どうですかね?
414日本@名無史さん:2001/02/14(水) 22:15
電波な畿内論者>俺は嵐の夜、箸墓で「ひみこのはか」と書かれている石碑を見たーという噂を確かに聞いた

電波な九州論者>それは「ひみこのばか」と書いた狗奴国王の石碑だ。だから邪馬台国は九州だ

教訓>どんな説にも電波はいる。問題はその人数が多いか少ないかである。
415日本@名無史さん:2001/02/14(水) 22:50
>>400
>この説の信頼性は高い。

ほーら、君! ころっと引っかかちゃってる。

平均10年を統計から出したというのに目を奪われて
神武〜用明31人をかけていることの是非の問題を忘れて
「この説を真っ向から否定するのは数学を知らないバカ」と
言っちゃったんじゃない?

この説は「事実や論理的整合性や、学問的検討の結果と無関係」な心理トリックなんだよ。
416日本@名無史さん:2001/02/15(木) 00:27
すごいぞッ、その評判の方たちがついにHPを作ったようだ
http://www.d2.dion.ne.jp/~azusa_co/
417日本@名無史さん:2001/02/15(木) 01:06
この前宣伝に来てたじゃん、327で。あんたも宣伝だろ。
それよりさ、オタクの大将にここにくるように伝えてケロ。
418日本@名無史さん:2001/02/15(木) 07:28
安本氏の著書で、読む価値があるのは、本来の専攻分野である言語学関係のみ。
九州説にこじつけるための、デタラメな古墳の編年とか、電波丸出し。
419416:2001/02/15(木) 11:10
>>417
違うってばさ、誰かからかいに行かないかなーとか思って。
420日本@名無史さん:2001/02/15(木) 16:40
>>418
言語学も怪しい。
421日本@名無史さん:2001/02/15(木) 18:41
論拠も提示できずに単に主張する420は、
頭の悪い鮮人やブサヨクの典型的なパターンだな。(藁
422日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:27
しかしあの古墳の編年はひどいねえ。
だれも検算しないと思ってるんだろうか。
423日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:36
誰か、しゃれでもいいから九州説を復活させてくれ
424日本@名無史さん:2001/02/16(金) 01:53
復活ってさ、脳死してるのを無理やり延命してるから痴呆状態なんだろ
425日本@名無史さん:2001/02/16(金) 03:04
日本語と朝鮮語は兄弟みたいなものです当然朝鮮語が母体となってます。
426日本@名無史さん:2001/02/16(金) 06:40
根拠なしの電波は無視
427日本@名無史さん:2001/02/16(金) 09:46
最近の九州説の人ってほんとに勉強してないね。
これ一冊ですべてわかる式のネタ本読んでそれで終わりってかんじ。
昔はこんなじゃなかったけどねー(哀)
428日本@名無史さん:2001/02/16(金) 10:23
>>427
と言うよりも、勉強する人なら、九州説を放棄して、
畿内説を採用するからじゃないの。
429日本@名無史さん:2001/02/16(金) 21:38
例の『「邪馬台国畿内説」を撃破する!』
本屋で見かけないなあ。
プロレス新聞の見出しみたいな題だね。

内容は特に新味がないみたいだし、わざわざ探すのも面倒だし、値段ぶんの価値ある?
まあ誰かが孫引きして書きこんできたら、その時に論破してあげましょ。
430日本@名無史さん:2001/02/17(土) 15:09
今どき九州説なんて電波かとんでも。

出版界では論争が終結すると商売ならんから
面白きゃなんでも出すけどな。おしまい。

--------------------<終了>----------------------------------------
431日本@名無史さん:2001/02/17(土) 16:13
あと九州説は、村おこし系ジモティーね。
心情先行で理屈なし。
結局「○○にきまってる!」しか言えない人たち。

突っ込まれると怒って誤魔化すし
「その証拠は?」って聞くと「おれは素人だから」と言って逃げる。
そして「でも○○にきまってる!」の繰り返し。

九州説なんてそんな連中ばっか。
432日本@名無史さん:2001/02/17(土) 16:22
畿内のわけないでしょ。バカの巣窟だね、ここは。
433日本@名無史さん:2001/02/17(土) 16:49
ほーら、また「きまってる」サンが出た。
どうせ理由なんか説明できないでしょ?脳たりんの九州説にはね。

せいぜい「倭人伝を素直に読めば九州だ」ていどでしょ。
だけど、どう素直かは決して説明できない。
説明を求めると、きまって逃げる。
九州説はみんな腰抜け!
434日本@名無史さん:2001/02/17(土) 16:53
倭人伝以外で邪馬台国を語ろうとするバカ出現。
435日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:01
九州説の連中でまともに倭人伝読んでる人なんて滅多にいないね。
てきとうな孫引きでおしまい。
岩波の文庫本もってりゃ優秀な方。
436日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:11
九州説でよく研究してる人もいますよ。
ただこの板では三角縁神獣鏡が直径50cmだと思いこんでる人とか
そんなのばかり登場しただけ。
437日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:13
畿内説の連中でまともな頭持ってる人なんて滅多にいないね。
てきとうな学者の引用でおしまい。
岩波の文庫本以外でももってりゃ優秀な方。
438日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:16
キミ持っとるかね?
絶対に具体的事実を例示しないのが九州説の特徴じゃが?
例にもれず回答せず逃亡かな?
439日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:22
引用できる学者がいないのが九州説の痛いところだな。
440日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:26
70歳以下(つまり現役)の人はほとんどいなくなりましたね。
441日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:32
>>437
畿内説の具体的事実って何?
442日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:40
えろう漠然とした質問ですな。

たとえば畿内説者と思われる>>436
この板に三角縁神獣鏡が直径50cmだと思いこんでた九州説者がいたという
具体的事実を言う。
九州説と思われる>>437 は具体的事実を言わない

そういうスタンスの差ってことじゃない?
443430:2001/02/17(土) 17:41
ありゃ? まだやってたのか。もうやめれ。
444日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:43
>>440 武光誠とかまだ50才位なんじゃないんかない?
445438:2001/02/17(土) 17:45
やっぱり逃亡したか!九州説は腰抜けばかりだな。
446日本@名無史さん:2001/02/17(土) 17:46
>>442
バカ現る。
畿内説の具体的事実をきいてるんだよ、ぼけ。
447日本@名無史さん:2001/02/17(土) 18:12
自分の言ってることの出典を示さない。伝聞孫引きばかりっていう意味で
「九州説は具体的事実を言わない」って馬鹿にされてるんだろ?
話の流れを読めよ。
448442:2001/02/17(土) 18:15
>>441
九州説の具体的事実とか畿内説の具体的事実とか、そんなもんあるんですか?

どこから何が出土したとか言うのは考古学上の具体的事実
どの文献に何が書いてあるとか言うのは文献上の具体的事実

あえて畿内説の具体的事実といったら
畿内説の○○さんは何月何日に○○○と言ったとかいうことじゃないですか。
449438:2001/02/17(土) 18:20
再度問うが、キミは魏志倭人伝を持っとるかね?
具体的事実としてキミの読んどるソレの出版社と書名を答えてくれたまえ。
450日本@名無史さん:2001/02/17(土) 18:30
>>444
「邪馬台国がみえてきた」って本、ひどくなかった?
間違いばかりだよ。
宇佐は北九州西部の中心地って何ヶ所も書いてあるよ。
451438:2001/02/17(土) 18:35
また九州説お得意の「だんまり」かね?
452日本@名無史さん:2001/02/17(土) 18:57
>>450
どう考えても東九州だと思いますけど?
何箇所もあるんだったら誤植じゃないですよね?
453日本@名無史さん:2001/02/17(土) 19:33
>>448 この板で発言した九州説のひとに共通して言えるのは
もってくる情報の出所が明確じゃないってことなんだ。
これは問題なんだよ。ひとつの病理と言っていいかも知れない。(安本氏っぽい言い方をすればね)
454日本@名無史さん:2001/02/17(土) 20:18
>>449
何種類ももってるけど?
多分、岩波だけで、2−3冊、他に中国正史からの抜粋とか。
それが何か(w
455日本@名無史さん :2001/02/17(土) 20:32
ちなみに印影つきだ(w
456日本@名無史さん:2001/02/17(土) 21:45
関の山レベルと認定しよう。
457日本@名無史さん:2001/02/17(土) 21:46
>>456
バカは逝け。
458日本@名無史さん:2001/02/17(土) 21:51
荒氏にはいってるだけだから、相手にするなよ。
そいつらをあおるようなこともやめてケロ。
459日本@名無史さん:2001/02/17(土) 21:51
バカと呼ぶ具体的根拠を200字以内で簡潔に述べたまえ。
460日本@名無史さん:2001/02/17(土) 21:55
自明だ。
461日本@名無史さん:2001/02/17(土) 22:00
九州説の特徴が出たな。つねに何事も説明できない人間たちよ。
462日本@名無史さん:2001/02/17(土) 22:12
なるほど!
不確かな根拠の上で確信に満ちた言動をとる人々
これがアマチュア古代史研究を蝕む病理ってことね
463日本@名無史さん:2001/02/17(土) 22:18
456がバカじゃないと思う奴はもっとバカ。
464日本@名無史さん:2001/02/17(土) 22:45
精神的に未熟な人は、返答に窮したとき論旨と関係ない罵倒をはじめる。
ある九州説信者が自力では何も論証できないことが帰納的に証明された。
465日本@名無史さん:2001/02/17(土) 22:52
九州説信奉者のレベル低下を例証してしまったわけだ
三角縁50cm説や「呉を滅ぼした魏」発言に次ぐ具体的証拠ってやつだな
466日本@名無史さん:2001/02/17(土) 23:12
理由をなにひとつ言わずに「邪馬台国は九州に決まってる」「畿内であるわけがない」なんて言ってばかりいるから、結論ばかり連呼してすます癖がついちゃったのかな
467日本@名無史さん:2001/02/17(土) 23:15
あんまりガキいぢめんなよ
泣いちゃうよ
468日本@名無史さん:2001/02/18(日) 00:30
今日は久々に発言数が多いから、内容のある発言はあるかと期待したけど、
電波な九州説信者が発作を起こして、叩かれただけか。
469日本@名無史さん:2001/02/18(日) 10:24
南朝の人の感覚として、楽浪が洛陽から5千里、会稽が4千里弱くらいでしょう。
南海郡が7千里で、東冶地方は会稽郡のなかでも南海寄りだから
帯方から倭まで1万2千里くらいで会稽東冶の東に相当っていうのは
当時の感覚としてはおかしくない。どれも実際の地理とは会いませんけどね。

倭人伝に出てくる距離を勝手にみんな1/4とか1/5とかに直してしまったら
倭は揚子江より北になっちゃいますよね。
九州説の理屈はおかしいです。
470日本@名無史さん:2001/02/18(日) 10:25
訂正
会いません→合いません
471日本@名無史さん:2001/02/18(日) 10:27
近畿説は古墳しか拠り所がありませんね。
472日本@名無史さん:2001/02/18(日) 11:48
近畿説はなにひとつ拠り所がありませんね。
473日本@名無史さん:2001/02/18(日) 11:59
またでた!けして理由を言わない九州説。
>>471>>469 に反論できるの?
474日本@名無史さん:2001/02/18(日) 12:22
畿内は古墳とか鏡とか倭人伝とか、そういうのばっかりで
生活臭がしないのよ。
475日本@名無史さん:2001/02/18(日) 12:36
お!論理じゃなくて感覚で来たね。
臭いで決めるわけ?
476日本@名無史さん:2001/02/18(日) 12:48
>>434 倭人伝以外で邪馬台国を語ろうとするバカ出現

不思議だなあ。九州説のひとの口から出る罵倒の言葉っていつも自分達に一番あてはまってる
477日本@名無史さん:2001/02/18(日) 15:57
453,462に納得
九州説っていうのは「学説」じゃなくて「脳病」だね
紋切り型で断定するくせに理由を聞くと黙っちゃう
478日本@名無史さん:2001/02/18(日) 17:36
脳病といふのは當ってゐるかも知れぬ。
三角縁神獣鏡を一度も見たことがない人間が、あンなもの中國製である筈が無いと断言する神経が解らぬ。
479名無しさん@1周年:2001/02/18(日) 18:23
>471.472
そんな反論じゃ、ヤバいって。
480日本@名無史さん:2001/02/18(日) 18:49
方角間違えるわけないだろ。ほんとアホばかり。
481日本@名無史さん:2001/02/18(日) 19:35
またでた!低水準の「はずがない」「決まってる」クン。
理由を言えよ!
伊都国は三雲遺跡や平原遺跡のある前原じゃないってトンデモ説かな?
482日本@名無史さん:2001/02/18(日) 19:38
うんうん。九州の遺跡は「クニ」って感じがするな。
畿内は「墓地」だったんじゃねぇーのかい?
483日本@名無史さん:2001/02/18(日) 19:42


畿内に決まりきってるのに、何でこんなにこのスレが続いてんの?
歴史ドキュン厨房ばっかなの?


484日本@名無史さん:2001/02/18(日) 19:57

ここは2ちゃんです。学会ではありません(キッパリ
485日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:24
九州の遺跡はまだ弥生の「クニ」で、畿内の遺跡は「国」なのよ。
邪馬台国は「国」!
486日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:28
>>484
だから「xxにきまってる」君や「臭いで決める」君が本来の住人なの?
ここはアリスの不思議の国?
いかれてる方が普通なの?
487日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:28
なんて読むんだよ。
北九州から突然畿内に飛ぶはずが無い。
488日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:29
また出たよ。「はずが無い」クンが!
489日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:32
ニオイとか霊感は重要だろ。
藤村センセを見習うべし。
490日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:32
畿内の遺跡って・・・
491日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:33
>>480
で、方角の話はどうなった?
末盧国から伊都国はどっちの方角?
492日本@名無史さん:2001/02/18(日) 20:42
>>489 せいぜい北部九州で卑弥呼の都候補を掘り出してくれ。埋めるなよ。
493日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:00
伊都国が今の糸島半島そのものだと信じているバカ出現。
494日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:06
だから筑豊だって!
495日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:06
女王国まで1万2千余里のうち、朝鮮半島で7千里、玄界灘で2千里なら、
のこり3千里は九州北半のどこかと解するしかない。
496日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:08
>>493
存在しない仮想的をでっち上げて批判したフリするバカ出現。
497日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:09
>>495
同じ比率だってどう証明すんの?
498日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:11
>>495 計算間違ってるぞ!倭人伝読んだことある?
499日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:13
>>497
「七千朝鮮半島陸里+二千玄海灘海里+三千女王国里」ということですか?
500日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:15
なんで玄海灘が二千なんだ?
501日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:20
>>496-500
バカの集団かおまえらは。
糸島半島は当時島。
>>497
違う比率で記載するのはおまえのようなバカだけ。
>>498
どう違うんだよ。
>>500
チョーチョーチョーバカ。
502日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:22
>>499
中国人が書いた記録なんだからみんな中国の里でしょう。
問題は正しいか正しくないかどけだと思うが。
503500:2001/02/18(日) 21:25
>>501 どう違うんだって?違うだろ?
どこからどこまで二千なんだ?
内訳を示せ。
504日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:27
497、498、500=503、は今後発言を禁止する。
505日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:29
>>500 「違う比率で記載するのはおまえのようなバカだけ。」

また脳病の発作かい?
質問は「同じ比率だってどう証明すんの?」
答えられないと罵倒して誤魔化す。
九州説はいつも証明抜きで「決まってる」の連発。
506500:2001/02/18(日) 21:32
>>504 その発言はずかしくないかい?
やっと自分が間違ってるのに気付いたんだね。
507499:2001/02/18(日) 21:33
俺はセーフか・・・ほっ
508日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:35
やれやれ。
九州説の人って、魏志倭人伝よんだことないんですね。
よくそれで邪馬台国がどうとか言いますね。
509日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:36
畿内だと当たり前過ぎて、つまんねーよ。
もっとダイナミックなとこに在って欲しいもんだね。
510日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:37
>>501
糸島半島が当時は島だったという旧説は地質学的に否定されています。
511日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:38
おっと勘違い、玄海灘3千里に九州内2千里だった、スマソスマソ。
いずれにしても、九州北半であることは確か。
512日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:39
>509
それは言える。畿内説にはロマンがない。
史実ってそんなもんだけど。
513日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:40
>>505
キミー、頭の中手入れしてもらいなさい。
一続きの文の中で、比率が違う方がおかしいでしょう。
514日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:41
>>511 なんで確かなの?2千里なら800km以上でしょ?
515日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:43
>>513
一続きの文ってどれかな?
同じ人間が書いたって証明できる?
516日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:52
>>515
倭人伝冒頭だけど?
それでは、君のばあい、倭と書いてあっても、一つ一つ違うものとか言う前提で
考えるわけね(w  魏とあっても証明するわけだ、全部同じって(w
一連の文の中で、同じ言葉は、同じ意味を持つと考えなければ、言語ってものは
役に立たないんですが。

私が書いた「一続きの文」ということばと君が書いた「一続きの文」という
ことばは同じ意味なんでしょうか(w
517日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:53
>>514
バカは発言禁止だって。
518日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:53
比率で考えること自体おかしいんじゃない?
「里」はあくまでも中国人が使っている度量衡でしょう。
明かに実際の地理と違う数字が書いてあれば
その部分が間違いだというだけでしょう。

同じ条件の元で記録された数字だと証明できなければ
同じ比率で他の部分も間違っていると推理するのはおかしい。
519日本@名無史さん:2001/02/18(日) 21:54
>>517 なんでキミが発言する?
520日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:01
>>516
どうやら史料批判というものが解かっていないようですね。
倭人伝が断片的データを机上で組み合わせたものであることは明らかなの。
あなたが書いた「一続きの文」ということばは同じ倭人伝に出てくるというだけ。
私が書いた「一続きの文」ということば「一つのフレーズ」の意味。
同じ意味なわけないよね
521日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:08
で、方角はどうしたんだ?
末盧国から伊都国はどっちの方角だい?

末盧国は今のどのへんで、伊都国はどこなんだい?
522日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:16
>>517
ところで、「玄界灘二千里」って間違いを書いた人間が
間違いを指摘した人間を「バカだから発言禁止」って筋が違ってないか?
さっきスマソと謝ってたろ?
523日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:20
>>518@`519
当時の郡使が直接女王国まで行って会っているし、また、倭国からも郡に使いを出している。
別の基準で書かれたなんて、全く根拠は無いし、文章を読む上でキチガイ沙汰。
原資料がバラバラであった、同じ条件で書かれてないという根拠は何?
それが無い以上はそのまま同一の意味で読むしかない。
そうしないなら、資料を無視しているのと同じ。つまり初めに畿内説ありき、てこと。

>>521
どこか、君が書いたら? 方角が違ってると言う根拠にしたいわけだろ?
524日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:22
| 498 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/18(日) 21:11
| >>495 計算間違ってるぞ!倭人伝読んだことある?
|
| 500 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/18(日) 21:15
| なんで玄海灘が二千なんだ?
|
| 501 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/18(日) 21:20
| >>498
| どう違うんだよ。
| >>500
| チョーチョーチョーバカ。

誰がバカだったのかは、すぐ明らかになってしまったのですが…
525日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:30
3千里だって、もし知ってたのなら、そう書けばいいんだよボケ。
526日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:31
>>523
>原資料がバラバラであった、同じ条件で書かれてないという根拠は何?

文体が不統一であること。
邪馬台国までの里数が書かれていないこと。
所用日数から考えて最後の約二千里は魏の正しい里で書かれていると考えられること。
同じ比率で考えたら会稽東冶の東はおろか長江より北であること。
などなど数え切れずです。
527日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:33
>>525 自分でまちがえたのに罵って誤魔化すこの幼児性!
528日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:37
>>523
末盧国から伊都国はどっちの方角だい?
末盧国は今のどのへんで、伊都国はどこなんだい?

都合が悪いので答えられないのかい?
529日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:40
>邪馬台国までの里数が書かれていないこと。
これって何? かいてあるけど。
文体の不統一とは?

>所用日数から考えて最後の約二千里は魏の正しい里で書かれていると考えられること。

それは君が自分の読み方を優先させてるからだろ?

そもそも、半島内や玄海灘の数値は何? それが信用できないと言っておきながら
倭国内のは信用できるなんて恣意的という以外にない。

530日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:41
>>525
>3千里だって、もし知ってたのなら、そう書けばいいんだよボケ。

知らない人はいないと思うんですが…
2千里だといわれて、どこが違っているんだと反論されたら
なんか新説だと思っちゃうじゃないですか。
531日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:41
>>528
だから、君に答える責任があるの。
532日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:48
>>529
>>邪馬台国までの里数が書かれていないこと。
>これって何? かいてあるけど。

郡からの総距離じゃなくて個々の方のことです。説明不足ですいません。

>文体の不統一とは?

これは原文を読んでいただくしかないですが。

>>所用日数から考えて最後の約二千里は魏の正しい里で書かれていると考えられること。
>それは君が自分の読み方を優先させてるからだろ?

いや、普通の読み方ですよ。それじゃあなたは日程との整合性をどう説明するんですか?

>そもそも、半島内や玄海灘の数値は何?
>それが信用できないと言っておきながら
>倭国内のは信用できるなんて恣意的という以外にない。

里数がおかしい例も方位がおかしい例も史書にはたくさんあります。
これは計測技術の問題です。
所用日数は日記を付けるだけで良いのだから信頼できます。
533日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:51
>>531
どんな責任だよ?最初から質問してるのは俺だよ?
534日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:52
>>532 おいおい!相手は倭人伝もろくに読んでない厨房だよ。
原文読めたぁ、そりゃないだろ!
535日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:55
>>529
すいませんけど私はもう寝ます。
 日程との整合性について
 会稽東冶に東にこないことの問題
の2点について答えを聞かせてください。
ゆっくり考えてからで良いですので。
536日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:01
>>532
>これは原文を読んでいただくしかないですが。
根拠にならんことをもっともらしく言うな、ボケ。

日記が信用できるとは? その日記があった根拠は?
また、日数でどうして距離や場所がわかる?
全天候型の定期船や鉄道でもはしってたのか?(w
伊都国で「郡使の駐まる」日数をあんたは電波でしったのか?(w
537日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:10
答えに詰まると罵って誤魔化す幼児九州説
的外れなことを怒鳴りまくって相手が食傷して
見捨てて去ってくれることを期待するわけね…恥かきながら…
538日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:15
古代中国で所用日数から距離を割り出す手法が使われてたのは常識。
それから梯儁や張政は勅使だから「郡使」とはいわない。これも常識。
539日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:17
「二千里」だもんなあ、こいつ…
540日本@名無史さん:2001/02/19(月) 02:07
こういう徹底的に基礎知識のない人だけなのかね、九州説って?
541sage:2001/02/19(月) 03:15
まだやってんのか いいかげんにしろ
542日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:16
しまった あげちゃた
543sage:2001/02/19(月) 07:01
邪馬台国は「邪魔たい、そこ邪魔たい」というのを聞いて、
こういう名称になったのです。   ∴九州
544日本@名無史さん:2001/02/19(月) 10:50
邪馬台国は当時の中国の発音で「やまと」と
読むそうだ。
545日本@名無史さん:2001/02/19(月) 11:07
544の言うとおりで、九州説の連中が、邪馬台=大和と思われたくないので、
「やまたい」と言う、変な読み方をさせるようになっただけでしょう。
上代特殊仮名遣いでは、二重母音は存在せず、それからしても「ai」は不自然で、
そろそろ、邪馬台(ヤマト)国で統一すべきでしょう。
546音速の名無しさん:2001/02/19(月) 11:11
おぃおぃ・・・
「やまと」って地名は九州にもあるよ。
というか畿内の地名はほとんどが九州のパクリだろ(さすが「血」だね)
547日本@名無史さん:2001/02/19(月) 11:35
>>546
安本じいさんの「畿内の地名はほとんどが九州のパクリだろ」と言う、電波説だな。
時系列的に証明する、根拠とか何もないだろ。
京都の地名や東京の地名が、全国に拡がっていった、その後の例を見て、
大和朝廷の地名が、全国に拡がっていったとする見方が主流です。
548日本@名無史さん:2001/02/19(月) 11:59
>>547
後半部分の文章の意味が分からないんですけど。
549日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:04
東京の地名が全国に広がったか?
550日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:05
>>547
安本じいさんよりオマエの電波の方が強烈だぞ
551日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:16
>>546 甲乙が違うあそこのことかい?
552日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:44
安本の新刊どこにも売ってないよ。みつけた人情報求む。
553日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:45
>>551
上代特殊仮名遣いでは、邪馬台と大和は同じ音だが、九州の山門は異なることは、
ずっと昔に研究者が指摘していることです。
554日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:46
今や、九州説信奉者は、余りにも知識の少なすぎる厨房ばかりしか、いないな。
555日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:51
>>482
これはどうだ?
556日本@名無史さん:2001/02/19(月) 12:54
大和と九州の山門って厳密には発音が違うんでは?
邪馬台と大和は同じらしいが・・・
557556:2001/02/19(月) 12:55
かぶった・・スマソ
558日本@名無史さん:2001/02/19(月) 13:03
>>549 「○○銀座」とかのことでしょ。
559日本@名無史さん:2001/02/19(月) 13:08
>>482 は厨房系ダメスレの見本。
560日本@名無史さん:2001/02/19(月) 13:10
それを言うならダメレスでしょ?
561日本@名無史さん:2001/02/19(月) 13:12
スマソ…あんなのばっかになるとダメスレになってまうということで諒解を!
562日本@名無史さん:2001/02/19(月) 13:17
似たような地名は各地にごろごろある。
でっちあげなら自由自在。
そういう九州説を組みたててる人本人がいうに
「地名と乞食は三日やったらやめられない」とさ!
563日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:05

倭国の発音が魏志に漢字で正確に正しく記載されたと思う方が
アホ。
漢の時代、高句麗を下句麗と表記した事がある。
「高」と「下」では似ても似付かぬ発音だが、漢の思い入れがあって
高句麗を下句麗とした。
564日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:16
>>563
違うぞ、それは王葬の時代のことだろ。
続日本紀に、和気清麻呂を穢麻呂と変えさせたと言うのは、同じ趣旨で、
当時の皇帝(女帝)に逆らったと言うのが理由である。

邪馬台国は魏に冊封され、西の大月氏(クシャナ朝)と並んで金印を授かるなど、
重要視されており、それは全く当たらない。
国際状況も分からない厨房の563はだめだな。九州説はこんなのばかりか。
565日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:27
日本側の発音が中国に正しく伝わって正しく表記された
と考える方が可笑しい。
外人の発音正しくカタカナで表記するのさえ難しいのに
ましてや漢字で正確に表記できるか?
566日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:30
563は古田じいさんの口真似だな。トンデモな外しかただ。
貶めるために「高」を反対語の「下」にしたのさ。
知識も思考能力もないんだな。
567日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:33
より似た発音の別の漢字があるのに
かけはなれた発音の漢字は当てないよ。
568日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:37
565の厨房は、具体例を挙げるとか、根拠を示せよな。
それが出来ないのが、今の九州説の惨状なのだろうが。

隋書日本伝の固有名詞は、日本人の名前や官職に、容易に同定できるように、
原音にかなり忠実な例が多いことが分かる。
569日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:39
結局おばかな九州説は不確かな「南」と空想的な「万二千余里×1/5」だけにしがみつきつつ
ひとびとの嘲笑を浴びながら消えて行ったのだよ。
20世紀の終わり頃ね。
570日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:47
糸島半島は島だった」と言ってた奴の話にも象徴的に現れてるが
九州説を言ってる現役の学者はもういないに等しい。
つまり九州説の本を書いてるアマチュアやトンデモ系ジャーナリストは
昔九州説にも現役の学者がいた頃の発見とか研究成果を使い続けてる。
味の無くなったガムをずっと噛んでるみたいに
決定的に陳腐化した情報のお題目を唱え続けてるのさ。
哀れなもんだ。
571日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:03
卑奴母離
彌彌那利
彌馬升
彌馬獲支
ってなんて読むの?
上古音で読んでみて。
ローマ字で書いて。
572日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:44
結局あれか?
「やまと」って地名は九州にもあるとか畿内の地名は九州のパクリ
とかいう主張が無理筋と自分で気付いて
こんどは「発音じゃなにもワカラン」で通す方向に切り替えたわけだ!

しかし大変だね。考古学もダメ、倭人伝もダメ、地名もダメダメで
一体どっから九州にこじつけるやら
573日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:53
>>571
国語学者が指摘するように、漢字の音から、日本語の音韻が変化していると
考えられており、単純にローマ字で書くと、奇異に感じることを知らないのかな。
例えば、ハ行の音については、p→F→hと変化したと考えられている。
それを考慮すれば、仮名表記にする方が妥当であろう。

万葉仮名の用例とも比較して、通説では、
ひぬ(な)もり、みみなり、みまし、みまかき、と読んでいるようである。
574日本@名無史さん:2001/02/19(月) 16:06
ワカタケルの用例からみて「みまわき」になるか?
575日本@名無史さん:2001/02/19(月) 16:17
「九州説」ってほんとは何て発音するんだ? …くず説か?
576日本@名無史さん:2001/02/19(月) 16:33
>>573
それ日本読みだろ。
日本式の読み方でなく、中国式でなければほんとのところ
何と中国人に伝わったか判らん。
577名無しさん@1周年:2001/02/19(月) 16:50
邪馬台国は畿内で決まりなんでしょ?
だったらもうこのスレッド終わりじゃないの。
578日本@名無史さん:2001/02/19(月) 17:18
邪馬台国の秘密
卑弥呼の墓は宇佐神宮の亀山である。
亀山の中にある石棺を見た人がいるそうだ。
まだ生きているのかな。この人。
579日本@名無史さん:2001/02/19(月) 19:22
>>536
>日記が信用できるとは? その日記があった根拠は?

距離を正しく測定するより所用日数を正しく記録するほうが簡単だと言っているだけです。
所用日数が正しくないというなら「何泊したか記録できない」という根拠を
示していただく必要があるわけで、所用日数を記録する事が可能だということをいうために
日記が存在する事を証明する必要はありません。

もし、どうしても必要だと仰るならば、距離が正確に把握されているという根拠を
測量機器が存在したと言う証拠などで示していただかなければダブスタです。
580日本@名無史さん:2001/02/19(月) 19:35
真面目に答えてもバカだボケだって怒号が帰ってくるだけだぞ、たぶん
581日本@名無史さん:2001/02/19(月) 20:14
>>579
随分前のスレのどこかにあったけど
日数と人間の歩行能力、当時の道路状況等からして
畿内まで行くのはかなりの強行軍だというのもあったぜ。
582日本@名無史さん:2001/02/19(月) 20:28
>>581
そうすると近畿説の人は

「実際は行っていない。日数や距離は伝聞だ」
「邪馬台国側の役人が九州まで下向したはず」

と反論します。
583食いだおれさん:2001/02/19(月) 21:10
日記があってかつそれを参考にしたとすると、なおさら里数の矛盾が明らかに
なる。半島内と九州で5倍もの開きがあるのを当時の人間はバカだから、
気づかずにそのまま載せてしまった。が、「自分は」利口だから、そのような
愚は犯さず、日数だけ採用する、ってことかい?

そもそも、倭国と郡の間は、何度も往復されている。倭人伝に記載があるものだけでも
5回ほどあるはず。郡の使いはその度に報告書などをだしてるだろう。
それで、方角の間違いや里数と日数の上記の矛盾などが看過されるとは考えがたい。
584日本@名無史さん:2001/02/19(月) 21:18
陸行一ヶ月で九州から近畿まで行くのは無理だって・・・
585日本@名無史さん :2001/02/19(月) 21:43
とりわけ問題なのは、北九州に3国(と思われる、マツラ、イト、ナ)
と固まっているのに対し、その後、フミ、ツマ?、からいきなり女王国
になっていること。当時の国の大きさ(九州内の)からして、瀬戸内海または山陰に
1−2国というのはありえないだろう。半島内も細かく分かれていた。
また当時倭国には馬は無く、例えば中国地方一帯を治めるのは、通信運搬
手段を考えて無理があるのでは。
586日本@名無史さん:2001/02/19(月) 21:58
>>583
では現実に方向の間違いがあるのをどう説明するのかな?
末盧国と伊都国の位置をどう説明するかと何度も聞いているが回答がない。

ご指摘の「日数の矛盾」とやらは、
現状では存在しない伊都国(もしくは不弥国)〜邪馬台国の距離と
半島内移動の日程の両方の記録が当時はあったという前提を想定して
なおかつその両方を同時に見た人間があるという場合だけに生じるもの。
都で史書を書いている人間は与り知らぬことである。

なぜなら伊都国(もしくは不弥国)〜邪馬台国の距離は
実際には倭人伝には書かれていないのである。
587日本@名無史さん:2001/02/19(月) 21:59
そこは考古学的成果と史料の解釈で都合をつけるのさ。
588日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:05
伊都国はマツラ国の東南にあったんだろうね。内陸国。
倭人伝読む限り、伊都国が海岸沿いにあったとは思えない。
郡使だって、マツラ国に上陸したんだし。
だから、別に問題無いでしょ?
589日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:07
>584
それは九州説独特の読み方では?
陸行一ヶ月で九州から近畿という読み方は漢文としておかしいでしょう。
内容的にもおかしい。同じ場所に行くのに船なら10日で陸路なら1ヶ月
というのはアンバランス。

畿内説では20日で投馬国まで行き、10日と1ヶ月で畿内に着くと読むひとと
10日と1ヶ月で九州から畿内に着くと読むひとがいます。

590日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:13
>>588 それじゃ「投馬国に至る水行20日」ってのはどこから出発するの?
591日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:24
水行なら川を利用した可能性もあるね。
592日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:25
>585
>当時の国の大きさ(九州内の)からして、瀬戸内海または山陰に
>1−2国というのはありえないだろう。

倭人伝に基づけば、当時の国の大きさ(九州内の)と
投馬国、邪馬台国の大きさは段違い。
当時の国の大きさ(九州内の)をすべてに適用するのは
史料無視では?
593日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:26
>>591 唐津から川を20日もさかのぼるの?
594日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:27
>>591 あ・まちがえた!勘違い。
質問変更。どこから川を20日南に進むの?
595日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:36
奴国が筑紫平野にあったなら、筑後川から有明海かな。
596日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:41
>>592
国の大きさが君にわかるのかい?(w
戸数だけではわからんよ。
対海国と一大国では面積は前者が2倍弱、個数では後者が3倍。
要は立地だよね。
597日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:47
ばかだなー
わからんなら「1−2国というのはありえない」も成立しないじゃないか。
598日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:51
>>597
ばかだなー、当時の周囲の状況や通信手段から判断してるんだよ。
巨大な国があったという根拠は無い、ってこと。バカだなー、ボケ。
599日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:51
それで結局「伊都国=前原の三雲や井原という定説を認めない」ということが
九州説の前提条件と考えて良いのね?
600日本@名無史さん:2001/02/19(月) 22:54
>>595 「奴国が筑紫平野にあったなら、筑後川から有明海かな。」

伊都国の東南にある奴国が筑紫平野ということは、伊都国はどこ?
601日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:00
ここに全ての九州説の代理人がいると考えているバカ出現。
602日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:02
>>600
奴国が筑紫平野なら、そこから東北100里(壱岐対馬間の10分の1)
の伊都国も筑紫平野では。
603日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:03
伊都国=前原を認めたら、伊都国は末盧国の東南にならないだろ?
「方角を間違うはずがない」が九州説の拠り所じゃないか?
否定できるの?
604日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:07
>>598
困った人ですね。
「巨大な国があったという根拠は無い」じゃだめなんですよ。
「1−2国というのはありえない」と言ってるんだから
「巨大な国はありえない」でないと。

ところで「当時の周囲の状況や通信手段」って何?
605日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:09
お、答えに詰まってきたからまたバカーボケーが出始めたぞ!幼児的な奴
606日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:13
立地を考えると、北部九州の2倍の戸数の国が瀬戸内沿いにあったら
相当東西に長い国でしょうね。海上通商国家群の連合ってとこかな。
607日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:23
結局思いこみで「ありえない」とか言ってるだけじゃん
倭人伝の都合のいいとこだけつまみ食いして成立してるのが九州説
つごうの悪い部分はみんな避けて逃げる。
608日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:24
キミ等ほんとにバカだね(w
そこにだけ巨大な国があったってことを証明しなきゃね。
前提は、あくまで周囲と同等な状況であった、ということだからね。
アタマガ逆立ちしてるよ(w
何ゆえ、西日本に桁違いの巨大な国があったのか。
その根拠は全く無い。
倭人伝にそのような記述はない。
吉備や出雲は後世まで独特であった。
またもしそうのような巨大国家があったなら、倭国大乱は起こらないだろう。
前提と結論とが直結しているバカ集団(w
609日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:34
倭人伝にそのような記述はない?
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸って書いてあるジャン
倭国大乱の時期ももっと前
「周囲と同等な状況であった」ってのはあなたが考えた仮定
結局自分の思いこみで考古学も文献も無視するのが九州説
610日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:37
結論しかないのが九州説
611日本@名無史さん:2001/02/19(月) 23:47
九州説の発言をまとめると
 伊都国が唐津の東南にあって内陸国で
 その東南の「筑紫平野」に奴国があって
 どこからだか川を20日南にさかのぼっていくと人口5戸の投馬国があって
 どこからだか川を(?)10日さかのぼるか1か月歩くかすると
 人口7万戸の邪馬台国があって
 それでも玄海灘から100km以内である
ってことになるが、むちゃくちゃでないかい?
しかもそれがちょうど会稽東冶の東にあるわけだ。
612日本@名無史さん:2001/02/20(火) 00:24
倭人伝は投馬国や邪馬台国が、北部九州の国とされる末盧国や伊都国を全部足したより
2倍くらいの人口があると記しているのに、同じ位の規模の国だと決めてかかる。

このへんは1万里と2千里を同じ比率と決めてかかるのと同じで
自分の頭の中で考えた仮定と史料上の事実の区別がつかないんだな。

だから、自分が「決めてる」だけなのに「決まってる」を連発するのだな。
613日本@名無史さん:2001/02/20(火) 00:38
レスを続けて読んでくると
九州説というのが都合の悪い事実をいかに無視して
無かったことにすることで
かろうじて存在してるんだってことがよくわかる。
614日本@名無史さん:2001/02/20(火) 00:39
>>601
どこの隔離病棟に行けば会えますか?
615日本@名無史さん:2001/02/20(火) 06:45
九州説の文献解釈って国の位置は矛盾してるし
発見されている遺跡の位置とも合わないですね。
616日本@名無史さん:2001/02/20(火) 07:01
九州説は誤情報垂れ流し/訂正せず/責任取らず/バカ!ボケ!連発
617日本@名無史さん:2001/02/20(火) 07:36
いつの間に、九州説はバカしかいなくなったんだ。
618日本@名無史さん:2001/02/20(火) 08:59
邪馬台国は倭人の国。畿内は朝鮮人の国。
遺伝子によって畿内が朝鮮人と同じである事は証明されている。
よって畿内に邪馬台国があった筈はない。

九州は倭人の国。九州に邪馬台国があった可能性が高い。
619日本@名無史さん:2001/02/20(火) 09:04
ひがみ鮮人の電波はもっとバカ(藁
620日本@名無史さん:2001/02/20(火) 10:29
>>618
ということは初期ヤマト政権もヤマト朝廷も
飛鳥の都も平城京もみーんな倭人じゃないの?

「古代日本史は、実は古代朝鮮史 」の人ですか?
ここはスレが違います。
621日本@名無史さん:2001/02/20(火) 15:43
九州説は考古学では全然通用せず
「文献なら九州説有利」などと見栄を張ってしまったが
これも実際は全然通用せず
ついにトンデモに走ってしまった>>618
哀れである。
しかし、これが九州説をとる者全般に見られる傾向でもある。
622日本@名無史さん:2001/02/20(火) 16:06
邪馬台国が畿内でない事を証明する為には
畿内が倭人の国でない事を証明するのが
手っ取り早い。
九州、東北にはほとんどない下戸遺伝子が
畿内や中国、中部に沢山ある。
そして、この遺伝子は朝鮮、モンゴル、と
中国北部特有のものだ。
世界中見渡しても他に下戸遺伝子は存在しない。
倭人伝にも倭人達が皆、酒をよく飲むと書いてある。
一方、東夷伝には夫余や高句麗が酒を飲むとは
書いてない。
したがって畿内は朝鮮人によって作られた国である事は
間違いない。
その他、倭人伝の倭人達の風俗は南アジアを思わせる
ものばかりだが、畿内の遺物にはこれらのものは
全くない。
このように倭人伝をよく読めば邪馬台国が畿内で
なかったと言う事が良く分かるのだ。
反論出来まい。
623日本@名無史さん:2001/02/20(火) 16:40
>>622
その遺伝子が流入した時期が不明なので
> 邪馬台国が畿内でなかった
と言う結論にはならない。
日本中でコカコーラ、マクドナルドなどアメリカ文化が
侵透しているから日本はアメリカ人が作った国であるってのと同程度
624日本@名無史さん:2001/02/20(火) 16:45
ちなみに、遺伝子などの科学的(生物学的?)調査方法をとる場合
着目する遺伝子によって、は南方系が強く出る場合、北方系が強く出る場合
はたまた、南米ともっとも結びつきが強い場合など、さまざまであり
ただ一つの遺伝子のみから得られた結果からただ一つの結論がさも
科学的結論のように騙るのはトンデモによく見られる性質である。
625日本@名無史さん:2001/02/20(火) 17:07
アセトアルデヒド分解酵素の話
http://www.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html
626日本@名無史さん :2001/02/20(火) 17:07
だから遺伝子論拠にするやつはそのソースデータちゃんと見せろよ
627日本@名無史さん:2001/02/20(火) 17:36
成人T細胞白血病の話
http://www.st.kufm.kagoshima-u.ac.jp/~1997st/Group/htlv-1/htlv.htm

>日本人と人種的に近いはずの韓国人、中国人から感染者は殆ど見つからない。 〜略〜
> 九州の鹿児島、長崎や、四国、それに紀伊半島に多い。 また、東北で
>は三陸地方、日本海の佐渡、飛島、それから北海道のアイヌにも感染者が多 い事が分かった。

>日本以外でHTLV感染者が多いのは、アフリカの黒人、カリブ海の原住民、南米のイン
>ディオ、それにパプアニューギニアやオーストラリアの原住民アボリジニなどである。

なるほど、日本を作ったのはアフリカの黒人か(藁
628日本@名無史さん:2001/02/20(火) 19:27
遺伝子の議論では、サンプル数が致命的に少ないのに、針小棒大な議論をしている例が目立つ。
人類学の議論に用いられる遺伝子で、世界的にサンプル数が豊富なのは、
ABO血液型で、次いでGm血液型でしょう。
母系遺伝するミトコンドリア遺伝子は、古人骨からも見出されており、
将来性は大きいと思われるが、未だデータが少なすぎて、解釈にゆらぎが大きすぎる。
とんでもにならないように、心掛ける必要がある。
629日本@名無史さん:2001/02/20(火) 19:51
九州説 墮ちゆく末は 擬似科学
630名無しさん@1周年:2001/02/20(火) 20:07
631日本@名無史さん:2001/02/20(火) 20:12
まったく困ったもんですね。また誤情報ですか?
畿内の古墳からたくさん出る車輪石、鍬形石とか巴形銅器とか、
みんな南海産の貝を象ったものです。
632日本@名無史さん:2001/02/20(火) 21:01
>>622
>東夷伝には夫余や高句麗が酒を飲むとは書いてない。
>したがって畿内は朝鮮人によって作られた国である事は間違いない。

夫余は祭天のまつりで国中あつまって連日飲食歌舞すると書いてある。
連日お茶でも飲みながら歌って踊るのかな?

高句麗は家々で酒をたくみに醸造すると書いてある。輸出専門なのかな?

烏丸は焼酎づくりがうまく、ワイ族は十月節の祭りに昼も夜も飮酒歌舞
韓でもお祭りの日は歌舞飮酒して昼夜無休

まあ夢想もたいがいにしときなさい。
633日本@名無史さん:2001/02/20(火) 21:29
さあ、きっと彼は反論でまたスゴく笑わせてくれるぞ。激しく期待!
634日本@名無史さん:2001/02/20(火) 22:11
>>612
文系バカの典型が。
戸数が2倍程度で、どうして一方が北部九州の一部、他方が瀬戸内海〜近畿
一帯とわかるんだよ(w 証明しろ(w
最初から結論を近畿に持ってきているだけだ。
仮に戸数と面積が比例するとしても、1辺はルート2倍だ(w
そんな巨大な国であるという根拠にはならない。
635日本@名無史さん:2001/02/20(火) 22:13
九州説の比定がおかしいというなら、近畿説の比定を示すべきだな。
636日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:00
>>634
おばかなきみ>戸数が2倍程度で、どうして一方が北部九州の一部、他方が
おばかなきみ>瀬戸内海〜近畿一帯とわかるんだよ(w 証明しろ(w

言ってないことなんか証明しないよ。

おばかなきみ>そこにだけ巨大な国があったってことを証明しなきゃね。
おばかなきみ>前提は、あくまで周囲と同等な状況であった、ということだからね。
おばかなきみ>倭人伝にそのような記述はない。

おれ>倭人伝は投馬国や邪馬台国が、北部九州の国とされる末盧国や伊都国を
おれ>全部足したより2倍くらいの人口があると記しているのに
おれ>同じ位の規模の国だと決めてかかる。

投馬国だけで約2倍。投馬国+邪馬台国では約5倍。
おばかなきみの勝手に考えた前提「あくまで周囲と同等な状況であった」が
史料事実によって否定されてるの。
「倭人伝にそのような記述はない」もウソ。

しっかしよくウソつく人だね〜
637日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:04
>>635
>九州説の比定がおかしいというなら、近畿説の比定を示すべきだな。

示そうが示すまいが
     おかしいもんが
          おかしくなくなる わけ ないじゃん
638日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:25
九州説の行きつく末は
偽文書作りか擬似科学
果てはどこまで墮ちるやら
639日本@名無史さん:2001/02/21(水) 01:27
九州説死亡、合掌
640日本@名無史さん:2001/02/21(水) 02:42
おれは耶馬台国がどこにあってもいいんだけど、
最近の畿内説のレスは感情的すぎない?

素人だからわかりやすいレス、きぼ〜ん。
641日本@名無史さん:2001/02/21(水) 06:32
「バカ」「ボケ」「(W」のほうが感情的じゃない?
642日本@名無史さん:2001/02/21(水) 07:10
>640
 興味があるのなら、邪馬台国関係の書物を読んで、造詣を深
くしてからここへくるべきでしょう。あなたのような初心者の
ために言葉や内容を易くする努力を全員がするのは意味の無い
ことです。何言ってんだか、意味のわからない人は結構います
が(w・・それに典拠も示せないで学術データを持ち込む奴もい
るし。そりゃ孫引きなら示んわなぁ。
643日本@名無史さん:2001/02/21(水) 07:47
>>622
どっかで見たような論調ですね。九州は「倭人」畿内は「朝鮮人」の国ですか。
しかしその説にはいくつか反証がありますね。これを論理的に説明できなければ
ただの「思いつき(口の悪い人は電波説と言うかも)」ですよ。
1.近畿地方には、古墳時代から奈良時代にかけて、いわゆる渡来人たちが
多数来日し、あなたの言う「下戸遺伝子」が日本人に入り込んだ可能性が高い。
この影響を無視しているのはなぜか。しかもこちらの方は遺物・記録がはっきりしており、
証明もできるが、あなたの説には証拠がない。(>>622で証拠を出した気でおられるかも
知れないが、後述の疑問点がある)
2.近畿地方の遺跡から酒器が多数発見されるのはなぜか。酒造用と思われる甕、杯、はそう
(瓦偏に泉)などが、なぜ近畿地方から発見されるのか。
3.日本の酒造業の中心が関西に集中しているのはなぜか。灘(兵庫県)・大和(奈良県)
伏見(京都府)など。下戸遺伝子が史書に載るほど強いものなら酒造業は発達しないのではないか。
4.>東夷伝には夫余や高句麗が酒を飲むとは書いてない。>>632が反論しているので略
5.「南アジアを思わせる風俗」について。歌垣、高床式倉庫、卵生神話、海彦山彦の神話、装飾品
言葉(日本語の基本語彙)、少なくとも九州と同じか、それ以上の証拠があります。
逆に「九州にしかない」風俗が倭人伝に書かれているでしょうか。そしてそれが
「九州が倭人の国である」と言う証明になりえても、「近畿が倭人の国でない」と言う
証明になりえないのは理解いただけるでしょうか。
「反論できまい」なんて虚勢を張ろうとは思いません。反論をお待ちしています。
644日本@名無史さん:2001/02/21(水) 08:04
>>622
「其地無牛馬虎豹羊鵲」はどう説明するんじゃ!
「虎豹羊鵲」はともかく「牛馬」はそのころから九州にも居ただろう。
「倭人伝をよく読めば」九州でもなくなるぞ!
645日本@名無史さん:2001/02/21(水) 09:22
>>632
夫余や高句麗人が酒を良く飲むとは書いていない。
酒を造っても日本の神道のように儀式として酒を使用したと推測出来る。
ワイや韓は夫余や高句麗とは違って倭人に近い。

屁理屈を言えば下戸遺伝子は後にやって来た渡来人がもたらした物という話が出てくるのは想定していた。
しかし、先の>>622でも解るようにこれだけ広い範囲に下戸遺伝子が分布しているのは、下戸遺伝子をもった部族が支配的地位にいて、その血を広めた事を表しているのであり、決して恩寵的に日本に住む事を許された渡来人によってもたらされた物では有り得ない。

畿内を支配した下戸達が何時日本に来たかが問題になるが、魏志倭人伝によれば倭人達は南方海洋民族の風俗を持って居て酒を皆良く飲むと書いてあるから、三世紀半ばの邪馬台国はまだ下戸遺伝子を持つ北方民族には支配されていなかった事が推定できる。

一方、畿内では卑弥呼の墓と云われる箸墓より古い纏向石塚古墳から綿々と前方後円墳が七世紀まで続いており、途中で異民族に支配されるようになったとは考えにくい。
となれば下戸遺伝子の畿内と邪馬台国はやはり別のものと言わざるを得ない。
図らずも畿内派が年輪年代法により古墳の築造始まり年代を三世紀初頭と主張する事が邪馬台国は畿内では有り得ない事を証明する事になってしまうと言う皮肉な結果をもたらすのだ。

古墳と言えば畿内派は卑弥呼の時代に既に近畿から九州までの広大な地域を有効支配していたと主張するが、九州に前方後円墳が増えだすのは五世紀になってからである。だから九州が大和の支配権下に入ったのはこのころと見るのが妥当な所。
畿内派の唯一の拠り所、前方後円墳さえも邪馬台国が畿内でないことを証明している。
646日本@名無史さん:2001/02/21(水) 09:57
俺も素人だけどよ、畿内派って古墳のことばっかり言うよな。
647どうでしょう:2001/02/21(水) 09:59
邪馬台国季節巡回説
と言うのは。サーカスみたいに。
各地の説をすべてクリアできます。
648日本@名無史さん:2001/02/21(水) 10:22
645も典型的な九州説の電波で、でたらめばかり書いている。

魏志倭人伝には、卑弥呼の墓は径百余歩(直径140m余り)と記述しており、
これと地域・時代・伝承が符合するのは、箸墓古墳(後円部は直径160m)である。

北部九州には、唐津の久里双水古墳など、古い前方後円墳が見られる。
この古墳は未盗掘であることが分かり、94年に石室が調査されて注目されたが、
後漢鏡の平縁盤龍鏡1枚、管玉2点、刀子1点と、副葬品はショボかった。
魏志倭人伝に、邪馬台(ヤマト)国が伊都国に一大率を置いて、諸国を畏れさせたと
あるように、当時からヤマトが北部九州を牛耳っていたことを示している。
649日本@名無史さん:2001/02/21(水) 10:48
後漢のときに皇帝の墓が暴かれ、それ以後、薄葬令がだされ魏の時代も墓は小さかった。
従って魏の皇帝の墓もまだ見付かっていないそうだ。

魏の庇護下にあった邪馬台国が魏の皇帝より大きい墓を作る筈がないと言う意見にはどう対応するのかな。
650643:2001/02/21(水) 10:54
>>645
疑問点に直接答えてもらえないようだから、ちょっと別の観点から質問する。
あなたの説では、当然現在でも「下戸遺伝子」が残っている、関西・中部・中国地方の
人々は飲酒をあまり好まないことになりますね。
さて関西には酒屋さんはないでしょうか。酒を出す店はないでしょうか。
みんな酒を飲まないと言うイメージはあるでしょうか。考えなくても判るでしょう?
それとも飲酒以外に九州と近畿の風俗の明らかな違い、近畿が朝鮮起源であると言う説の
補強となる証拠は挙げられますか?

それから何回も言いますが、あなたの主張では「九州は倭人の国」は証明できても
「畿内は朝鮮人の国」は証明できず、従って「畿内に邪馬台国はなかった」は
証明できませんよ。
651日本@名無史さん:2001/02/21(水) 10:56
>魏の庇護下にあった邪馬台国が魏の皇帝より大きい墓を作る筈がないと言う意見

その発想こそ、単なる妄想だろ。
魏志倭人伝に卑弥呼の墓が径百余歩と書いてあることが、論より証拠って事。
652日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:00
>>650
625で紹介されていた、アセトアルデヒド分解酵素の図を見ると、
中国人や日本人の方が、朝鮮人よりも下戸が多いことを示している。
電波な622=645は、以下の病理的な妄想に取り憑かれているだけだろう。

岡田英弘「倭国」(中公新書)
「南北共に新しい民族のアイデンティティを求めるあまり、中国に対しては半島が
受けた影響を無視し、日本に対しては半島が与えた影響を誇張する傾向が強く現れる。
これは心情的なバランスを回復しようとする無意識の努力なのだが、わが国では戦後に
朝鮮史研究が急速に衰微したために、こうした半島の人々の民族主義的な主張を
無批判に受け売りする事が流行した。」
653日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:06
>>648
>魏志倭人伝には、卑弥呼の墓は径百余歩(直径140m余り)と記述しており、
>これと地域・時代・伝承が符合するのは、箸墓古墳(後円部は直径160m)である。

おいおい・・・
こんな脆弱な根拠は無いだろう・・・
654日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:08
やっぱり近畿は墓頼りかよ。
655日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:26
鉄器、漢鏡、絹など、全ての面で九州説が有利です
656日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:27
里や日数は間違いがあって
墓の大きさの径百余歩は間違いないのか。
657日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:32
倭人伝には老いも若きも男女の別なく皆酒を良く飲むとかいてある。
飲めない奴はほどんといない事を表現しているのだ。

三世紀ころの畿内でももちろん被支配階級の倭人は酒を飲んだと思われるが、
支配階級は飲めなかった。
彼等は酒を単なる儀式用に用いたのだ。
畿内で酒が造られていたにしても、九州のように強い酒は造られていない。

658日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:38
俺は九州説が好きだけどさぁ
いくらなんでも酒の話は強弁過ぎるだろう。
飲むってったって、みんながあぶさんみたいな飲兵衛でもないだろうし
飲まないったって、付き合いでほろ酔い加減ぐらいは
支配者階級もクソもなく飲んでたんじゃないの?
659日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:40
「良く飲む」というのが晩酌みたいにチビリでも毎日飲むことなのか、
大量に飲むということなのか、わからんぜよ。
660日本@名無史さん:2001/02/21(水) 11:48
でもさ。
遺伝子の分布が地域における人種の違いを表わしている事は間違いない。
一理あると思うよ。
661日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:09
邪馬台国時代に本当に近畿から九州までを統治することが可能であろうか?
662日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:16
>倭人伝には老いも若きも男女の別なく皆酒を良く飲むとかいてある。

これは誤訳。
「老いも若きも男女の別なく」というのは席順の話です。
酒が好きと書いてあるだけで、よく飲むとは書いてない。
ましてや酒に強いなんて書いてないですよ。


663日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:22
>>655
漢鏡で九州説が有利というのは電波系ジャーナリストが垂れ流してる誤情報で、事実は反対。
鉄器は倭国王師升の時代からの出土品を合計してるので九州有利であたりまえ
いわゆる統計でウソをつく法ってやつだよ。
664日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:28
>>657
>三世紀ころの畿内でももちろん被支配階級の倭人は酒を飲んだと思われるが、

じゃ、倭人伝に書いてあるのは庶民の話ってことで、ちゃんちゃん!
665日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:31
絹については、卑弥呼が弥生時代の人物と思っていたから、誤解しただけのこと。
弥生時代の畿内には、絹織物は発達していないが、下池山古墳の巨大な倭鏡に
付着していた絹を分析して、古墳時代の初期には絹の技術が高かったと分かっている。
666日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:32
>>661 >邪馬台国時代に本当に近畿から九州までを統治することが可能であろうか?

統治したって書いてありました?
共立と書いてなかったでしょうか?
667日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:39
>666
なるほど・・・
668日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:45
>夫余や高句麗人が酒を良く飲むとは書いていない。
>酒を造っても日本の神道のように儀式として酒を使用したと推測出来る。

そら勝手な推測だわ。
連日飲んで食って歌っておどるんだろ?
どう見てもドンチャンやってたとしか読めんぞ。
669日本@名無史さん:2001/02/21(水) 12:59
>>660
その違いが縄文→弥生移行時に起こったものなのか、奈良時代前後の渡来人によって
もたらされたものなのか、それとも邪馬台国の時代の直前に起こったことなのか、
まったく別の時代に起こったものなのか、サンプル数も少ないことだし、今のところ
不明なことが多いから「断言」出来る根拠はないの。
それなのに断言する人がいるからみんな不思議がってんの。
670日本@名無史さん:2001/02/21(水) 13:11
>>668
モンゴルには「馬乳酒」と言う酸っぱいだけでアルコールの全く入っていない酒があるそうな。
これでドンチャン騒ぎしていたんとチャウか?
671日本@名無史さん:2001/02/21(水) 13:55
馬乳酒はアルコール入ってるよ。
だいたいアルコール入ってなかったら酒じゃないじゃん、
672日本@名無史さん:2001/02/21(水) 15:08
ライトな酒だから女子供も飲むよ。
酒だからしこたま飲めば当然酔っ払う。
映画マンドハイで武将たちが馬乳酒でベロベロに酔うシーンがあったっけ。
馬乳酒は老若男女みんな飲む。
これぞ「人性酒を好む」って感じかな。
673畿内説は電波説でR:2001/02/21(水) 20:02
畿内=下戸=朝鮮人≠邪馬台国説に便乗!!
ヤマタノオロチ伝説は朝鮮人=下戸が倭人=上戸を征服した過程を伝説化したものでR!
ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトは朝鮮出身の王子でR!
彼は酒を飲ませて当時の倭人=ヤマタノオロチの油断を誘い、頭=倭人の有力者を
切り落とすことで退治=征服したのでR!
これは彼ら倭人=ヤマタノオロチが酒を好んでいた証拠でR!
スサノオノミコト=朝鮮人は現地の女性と結婚し、近畿・中国・中部地方に下戸遺伝子が
ばら撒かれたのでR!
もちろんこれは象徴的な話で、実際には朝鮮人が出雲から近畿を征服した過程を
表したものなのでR!絶対間違いないのでR!
674日本@名無史さん:2001/02/21(水) 20:05
ネタか?
675畿内説は電波説でR:2001/02/21(水) 21:05
オキテいるのでR!
676日本@名無史さん:2001/02/21(水) 21:08
なんかくだらなくなってきたなぁ。まぁ匿名の、しかも各人の
スキルがごちゃまぜのスレで決着つく筈も無いし・・・それが
わかっているまともな人はここには来てないだろうし・・・。
677日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:14
投げちゃいかんよ相手がばかでも
678日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:18
>676
まぁ、2ch であるからこういうクソレスも風景として
楽しめればよいのであろうか(苦笑
679日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:25
さすがに下戸ばなしは九州組からもブーイングだったようだがな
680日本@名無史さん:2001/02/21(水) 22:46
「倭国大乱」は2世紀末〜3世紀初めにかけてのことだったとされていますが、
なにか遺跡にその痕跡らしいものはあるのでしょうか。
それは畿内と九州のどちらが多いのでしょうか。
多いほうが邪馬台国に近いように思われるのですが・・・。
私は埋葬者の損壊状況(首無、骨折、武器の破片が残っている)などから
九州であった可能性が高いと思っています。
鉄器(武具)も九州の方が多いですし。
681日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:10
当時、邪馬台国が瀬戸内海(または山陰北陸)の大部分(または半分以上)
を占めていた、なんて証拠は全く無い。畿内説派が勝手に妄想しているだけ。
そもそも、そんな面積を馬の無い時代に国として統治できるのか?
九州と見られる国の状況を考えても信じられない。
一体、畿内説派は国の比定をどう考えているのか。
またもしそうなら、瀬戸内海ー畿内には平野が多いから、九州北部(の一部)の
ナ国に比べて、戸数はケタ違いだったはずなのに。それほどの差は無い。
近畿説の成立するよちなんて全く無い。
682日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:22
きみが無知なだけ
683日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:24
馬鹿に無知といわれても(w
684日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:38
幼稚な君、余地を漢字で書いてから言いたまえ。
685日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:43
>>680
>それは畿内と九州のどちらが多いのでしょうか。
>多いほうが邪馬台国に近いように思われるのですが・・・。

第二次の高地性集落は畿内に集中しています。


>私は埋葬者の損壊状況(首無、骨折、武器の破片が残っている)など

それはずっと古い時代のものです。
686日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:47
漢字変換にしか文句をいえなくなった近畿説の馬鹿哀れ。
余地を「よち」と書く以上、漢字とその意味の知識はあったに決まってる。
ただ単に、変換ミスに過ぎない。
近畿説派のバカ代表哀れ。
687日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:48
第二次とか、「ずっと古い」っていつのことでしょう。
688日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:53
>>681
おっしゃるようなこと主張している畿内説のものはいないと思います。
「統治していた」という記述も倭人伝にありません。
当時の瀬戸内地方の平野部は少ないです。

魏志によれば、奴国の戸数は末盧国、伊都国、不弥国の合計の3倍以上です。
投馬国の戸数はその奴国の2.5倍です。
邪馬台国の戸数は3.5倍です。
689日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:55
>686 はい、よちよち
690日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:06
>>688
>「統治していた」という記述も倭人伝にありません。
これはどういう意味でしょうか? 少なくとも邪馬台国の中は
統治してたはずでしょうが。倭国全体ではありませんよ。
統治されてなければ国ともいえませんよ。

ナ国:邪馬台国=1:3.5
ということは、仮にこれが平野の面積に比例しているとすれば、
その大きさの比は、1辺が約1:2弱。
北九州の一部と見なされるナ国と比べれば、
邪馬台国は畿内、大阪平野で十分でしょう。
西日本一体を占有していたとは到底考えられません。
691日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:18
>>687
第二次の高地性集落は第五様式の新しい段階、つまり2世紀末〜3世紀初頭
九州で首無、骨折、武器の破片などの痕跡が多数あるのは紀元前です。
692日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:29
倭国大乱が第二次の高地性集落に対応しているとすると、
畿内方面は防備を主に考えていたということですね。
それなら尚更、邪馬台国の可能性は遠のきますね。
制覇した側なんだから。
大乱の余波に備えてのものでは?
693日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:37
>>690
倭人伝での表現はあくまでも共立です。ニュアンスの違いをご理解下さい。
また、遺跡・遺物の特徴からもむしろ受身の性格が感じられます。
各地の利益代表がひしめいていたような状況が想定されます。

邪馬台国の範囲としては、戸数と第五様式の分布域から推定して
おおむね情勢の五畿+播磨に重なる地域と思われます。
南河内を除く大阪平野の大部分は河内潟と湿原です。
瀬戸内は投馬国五万戸の領域でしょう。
694日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:41
>>692
倭人伝の記述を見る限り「制覇」という要素はありません。
宗教的権威を擁立して停戦に至ったと解するべきでしょう。
695日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:46
>>693
あのー、君ねえ。共立は卑弥呼と倭国全体の関係でしょ。
国としては、各国とも内部で統治してたはずでしょ。
国中に「刺史」のごときあり、とか、一大率に「諸国を検察せしむ」とか、
国としては統治されてたんでしょうが。
ほんとにアタマの悪い人だなあ。

>邪馬台国の範囲としては、戸数と第五様式の分布域から推定して
>おおむね情勢の五畿+播磨に重なる地域と思われます。

ってねえ、その根拠は? 勝手に広さから決め付けてるだけじゃん。
倭人伝からどうしてそうきまるのよ。
696日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:49
>>694
最大版図でかつ主体と為った国が防備主体で構えていたというのは
おかしいでしょう。それは弱小国の使う手でしょうが。
697日本@名無史さん:2001/02/22(木) 00:55
邪馬台国が倭人伝中で最大の国である以上、卑弥呼の「共立」にも
その勢力関係が反映したと考えるしかないでしょう。
当時ならどの国にも「鬼道」に使える巫女がいたはず。
(卑弥呼が直轄していたのは女王国=邪馬台国という前提)
698日本@名無史さん:2001/02/22(木) 01:05
>>696
発見されている石鏃の産地から、戦乱は地域内での抗争と考えられます。
停戦と統合の結果、最大版図になっていったものと思われます。
最初の「(戦乱の痕跡の)多いほうが邪馬台国に近い」という考えの方が素直だと思います。

北部九州のほうは、弥生中期から後期にかけて銅矛圏が次第に縮小しており
自壊的に求心力が低下していく過程が辿れます。
699日本@名無史さん:2001/02/22(木) 01:14
畿内説は、弥生終末期に奈良盆地に建設された纏向遺跡を
女王の都の中心施設と考えるのが主流です。
この遺跡は明らかに外来者主導で建設されており、それは
南河内を含む東瀬戸内周辺地域の首長たちであろうと思います。
畿内の在来勢力が邪馬台国になったと考えている畿内説論者は
少数派ではないかと思います。
700日本@名無史さん:2001/02/22(木) 02:08
中国の歴史書の中では、異民族(や内地の地方勢力)において
通常の王位継承が「立」、
通常の継承が行われなかった時「自立」か「共立」かで簡単に表現する。
一種の決まり文句にすぎない。
「共立」の2文字から小国家の同盟だの部族連合だのと
社会構造まで幻視するのは深読みのしすぎ。
魏志倭人伝の記述からはむしろ倭王の中央集権的な強力な支配がうかがわれる。
どんな記述か? 具体的にはいわない。たまにはちゃんと読んでみそ。
701日本@名無史さん:2001/02/22(木) 06:29
国家機構としての整備が進んでいたことを示す記述があるのはあきらかです。
市場の把握や通信体制の整備など、東夷の他の国家と比べて特異なくらいです。
しかし中央集権的は読みすぎでしょう。
あなたが九州説ならこれ以上いわないが、畿内説なら愚かだ。
702日本@名無史さん:2001/02/22(木) 06:39
>692
高地性集落の評価は研究者の間でもわかれています。防御(見張り)、連絡
網、魚の見張り台(内地の集落は説明できまん)、緊急避難場所等色々考え
られます。第四様式の末ぐらいに起った大洪水による。河内・摂津・大和
の拠点的集落の壊滅(=人口の激減)以降、第5様式期はとても不安定な時期
にあったのは間違いないでしょうけど。このへんがいわゆる倭国大乱の時
期なんでしょう。どの範囲の大乱なのか誰も断定できないでしょう。実例
が無いでしょうから。

>699
おお、とっても同意ですが、纏向の成立母体を東瀬戸内周辺地域として
いる研究者って誰がいるの?あおってるんじゃないですよ?真面目な質問
ですよ。私も5年ほど前から、備中を中心とした東瀬戸内だと考えるよう
になったけど、そんな研究みたこと無くて。無知ですいません。
703日本@名無史さん:2001/02/22(木) 06:48
局地的な偏りは見られますでしょう。
北陸方面など、他の地域が環濠埋没の時期に入っても高地性集落が残りますし。
しかし少なくとも、東西決戦があったような状況ではなさそうです。
なしくずしに日本人的な緊張緩和が進んだのでしょう。
704700:2001/02/22(木) 06:49
倭国大乱なんて無いよ。
「大乱」ってのは王位をめぐる乱であって
必ずしも大規模な(広域の)乱という意味ではない。
魏志の「…相攻伐すること歴年…」のあたりを後漢書が要約しただけ。

>>701
愚かとは?
九州説か畿内説かにかかわることとは思えないが?
705日本@名無史さん:2001/02/22(木) 06:59
九州説か? 畿内説か?
はっきり言え!
態度を明確にしないならお前とはもう会話しない。
706日本@名無史さん:2001/02/22(木) 07:23
>>700
>通常の継承が行われなかった時「自立」か「共立」かで簡単に表現する。
>一種の決まり文句にすぎない。
>「共立」の2文字から小国家の同盟だの部族連合だのと
>社会構造まで幻視するのは深読みのしすぎ。
「深読みのしすぎ」は同意するが、「共立」はやはりある一定の集団が「共」に「立」てた
とする方が字義としてあっていると思う。いくら慣用句でも。
それに倭人の国はたくさん(少なくとも30国)あった事が記されているし、
それぞれの国で官名が違うことから、そんなに強い集権体制ではなかったとも読み取れる。
「邪馬台国」「女王国」という記述はあっても、「倭国」ではありません。
後世(大化の改新以前)の状況を見ても、記紀というフィルターを通しながらも
有力部族の連合国家という印象は否めないでしょう。
707日本@名無史さん:2001/02/22(木) 07:36
邪馬台(ヤマト)国は、伊都国に一大率を置いて、諸国に畏れさせている
との記述があるように、この程度の締め付けはあったのでしょう。
708日本@名無史さん:2001/02/22(木) 07:40
それと、纏向石塚古墳のような最初期の前方後円墳には、埴輪は並べられていないけど、
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳になって、吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)が並べられるように、
畿内(邪馬台国)と吉備(投馬国)の連合体が確立するとの見方があります。
709日本@名無史さん:2001/02/22(木) 08:34
>>707
一大率については「特置」と明記されております。
これは、長く対外貿易の利を独占してきた湾岸の国々に対する
その他国々の感情を背景としていると考えた方が合理的だと思います。

武器型銅器の配分において、津屋崎方面、小郡方面や東九州は
湾岸国から2級の扱いを受けてきた歴史があります。
これらと半島の鉄資源を確保したい瀬戸内や畿内の利害とが
一致した結果ではないでしょうか。
710日本@名無史さん:2001/02/22(木) 08:42
考古学は遺物から、地域を越えた影響力の行使を確認することはできても
進調の木簡でも出てこない限り支配の事実を確認することはできない。
裏づけの取れない「統治」とか「中央集権」とか、安易に使うべき言葉ではない。
711日本@名無史さん:2001/02/22(木) 10:18
畿内の邪馬台国が北部九州にある国々を畏れさせることができるのか?
対馬とかどうやって締め上げるんだよー。
軍事的に無理だと思わん?
大兵力の移動、兵站・・・

秀吉さんの時代で、ようやく出来たぐらいなんだぜ。
712日本@名無史さん:2001/02/22(木) 10:52
日本武命の熊襲征伐伝説なんかもあるし、4世紀末位なら
九州を支配下に置いていた可能性もあるけど、三世紀初頭から
支配していたなんて無理だな。
伊都国は代々女王国に属していたんだろう?
と言う事は二世紀末頃には畿内から北九州まで勢力下にした
広大なクニがなければならない。
その頃の畿内の遺跡には鉄製の武器などがない。そもそも
銅製の武器すらあまりないのだ。
九州にはこれが沢山ある。
三世紀後半に畿内が力をつけてきたのは見とめるが
三世紀初めから伊都国が代々畿内の大和に属していた
なんてよほどのノータリンしか思いつかないぜ。
713日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:01
>畿内の邪馬台国が北部九州にある国々を畏れさせることができるのか?

当然、軍事力だろ。畿内と吉備が連合すれば、既に廃れていた北部九州など、
対抗すべきもなかったであろう。
当初は、カリスマを持った卑弥呼という祭祀女王の存在も、大きかったであろう。

卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳以降、畿内では次々と巨大古墳を作っている。
近傍だけの動員では、たちまち疲弊してしまうはずだが、そうではなく、
伝応神陵・伝仁徳陵のように更に巨大な古墳を作り続けている。
これらの建造に、他の地域からの動員があったことは確実であろう。

東日本の前方後方墳体制を打倒して、朝鮮半島に覇権を広げたってこと。
714日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:05
>>712
それは弥生時代のことだろ。編年が間違っているぞ。
715日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:35
二世紀末は弥生時代だろ?
716日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:47
征服とか支配とかいうのは遺物が物語る状況に合わない。
最近支持を集めているのは、各地の首長の積極的・能動的参加を前提とした
いわゆる求心的集約モデル。
博多湾岸は地政的特殊事情で、例外的に威圧が行われたとみる。

>>711 の言うことも当たらない。
恐れられているのは遠方のヤマトではなく
伊都に駐留している一大率だからである。
宗像や岡や赤塚の主の祖先のサポートを受けていたものと思われる。
717日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:48
>>711
秀吉まで飛ばなくても・・・。
伝説としても任那日本府や四道将軍が記紀に記載されてるし
白村江の戦いや岩井の乱もあるでしょう。
隋書にも得々と戦果を報告した大王が載ってますし。
718日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:58
北部九州が栄えていたのは、弥生時代前期〜中期であって、
後漢末の動乱と時を同じくするように廃れており、
楽浪郡との関係が重要であったと推測する見方がある。
弥生時代終末期の北部九州の遺跡はパッとしない。
719日本@名無史さん:2001/02/22(木) 12:16
>恐れられているのは遠方のヤマトではなく
>伊都に駐留している一大率だからである。

バックが無ければ、畏れるに足らないでしょう。
と言うよりも、バックの力が弱ければ、そもそも駐留することが出来ないじゃん。
単なる字面ではなく、背景とかちょっとは頭で考えるように。
720音速の名無しさん:2001/02/22(木) 12:39
>>711みたいな突っ込みに弱いな(ワラ >畿内派
721日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:15
>>720
全然弱くないぞ。711に対する反論を読んでないのか?
720=711の自作自演だろ(藁
722日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:40
>>719
空想でなく事実にもとづいて背景を考えることをお勧めします。
後世のヤマトの侵略はいつも分断・離間・介入です。

遺跡の状況で以下のようなことが分かります。
まず、湾岸の国々が栄えていた頃に冷遇されていた周辺国が
畿内と良好な関係を結びはじめます。
湾岸にも平和裏のうちに多数の瀬戸内・畿内系住民が移住していきます。
まるでゾーン・プレスのように伊都国を包囲する形ができ
一大率が駐留してすべて完成です。

兵站の問題もなく、バックは強力です。
すでに自壊・衰退の道をたどっていた北部九州はひとたまりもありません。
723日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:43
>>722
素晴らしい空想だな!

ネタ値=90(100点満点)
724日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:50
形勢逆転したな。
苦しい言い訳、畿内説。
725日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:51
勉強すればあなたにも理解できるようになりますよ。
望みは捨てないで下さい。
726日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:52
高地性集落とか、石鏃の分布なんて戦闘地域、あるいは周辺地域なんじゃないの?
それが中心だと思うのがおかしいんでは。
九州地方は政治的に安定していた、とも思えますね。
また九州の諸国にとって最大の関心は半島だったはずで、そちら方面に
力をいれていたのでは。

>>722
それじゃ倭人伝の記述と矛盾するでしょう。
伊都国には「世々王あるも皆女王国に統属す」ですよ。
最後に支配に屈したんじゃ、まるっきり逆。バカですね。
むしろ伊都国との関係が密接だったから一大率を置いたんでしょう。
727日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:53
畿内説は「人の心」というものが解っていない。
戦後、唯物史観が流行ったのとソックリだ。
728日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:56
>>721
名前が違うようですが・・・(笑ひ)
729日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:57
722の通りなら、九州地方が戦いの主戦場ということになって、
これも遺跡の状況と矛盾する。
730日本@名無史さん:2001/02/22(木) 14:44
伊都国は、常に帯方郡の使者が留まるところと記述されているように、
中国との窓口としての要衝だったのでしょう。国名も卑字を当てたのではなく、
華僑の関わりも大きかったように見えます。
ここを押さえることは、邪馬台(ヤマト)国にとっては重要だから、
一大率を置いたと思われます。
731日本@名無史さん:2001/02/22(木) 14:48
万葉集の頃でさえ、九州へ行くのはつらいつらいことだったのに・・・
当時の兵隊さんが可愛そうです。
732日本@名無史さん:2001/02/22(木) 14:53
730の続き。
だから、「最後に支配に屈した」とか「関係が密接だった」とか、
色々と仮想する必要はないと思います。
733日本@名無史さん:2001/02/22(木) 15:04
>>726
>伊都国には「世々王あるも皆女王国に統属す」ですよ。
>最後に支配に屈したんじゃ、まるっきり逆。バカですね。

ほかの国は王があるとは書かれていませんね?
最後まで独立していたのが伊都国ということで倭人伝と一致しています。
最後まで王墓があるのも前原ですから、考古学的事実とも合致します。
バカとかいう言葉は止めましょう。荒れますから。

>>722
実質的に戦闘は無かったのです。遺跡の状況と合致しています。
734日本@名無史さん:2001/02/22(木) 15:16
>万葉集の頃でさえ、九州へ行くのはつらいつらいことだったのに・・・

逆に、こう言う庶民の言葉が、昔から残されているのが、日本の特徴でしょう。
他の多くの国では、庶民は虫けら扱いされて、その感情を考慮することすらなかった。
これが、日本の美徳と言われるところだけど、極悪非道な鮮人や中共などは、
そこを突いて、嘘八百とダブスタで、日本から金をむしり取ろうとする、人間のクズ。
メンタリティの異なる異民族に対しては、日本人同士のつもりで対応するのは愚の骨頂だ。
余談になるが、ここで指摘しておく。
735日本@名無史さん:2001/02/22(木) 15:29
既知害警報発令!!
736日本@名無史さん:2001/02/22(木) 15:46
>>733
一体、この倭国をどうみてるんでしょうか。
伊都国以外は邪馬台国の下位の行政機関とみてるんでしょうか。
西日本一帯が一つの国だったんですか? それはないでしょう。
郡の側から見ても、邪馬台国は30国のなかのひとつですよ。
以前の「共立」がどうのと言ってた(別人?)のとは偉い変わり様だが。
郡吏がいつも留まってた、というんだから、よほどの安全地帯でこここそ、
邪馬台国の下部機関が置かれていた、と考えるべきでは。
他の国は邪馬台国に「統属」していたとは書いてないんだから、むしろ
独立性が強かったんでしょう。
737日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:00
ちなみに後漢書には
「使訳漢に通じるもの30許国なり、皆王を称し、世世統を伝う」と
あります。
738日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:21
>伊都国には「世々王あるも皆女王国に統属す」

これは伊都国や女王国が少なくともAC200年頃、ひょっとするとAC150年
頃には既に存在していた事を示している。

AC150年に畿内には何があったかな。
AC200年頃でも畿内には銅製の武器すらないのだ。
纏向石塚古墳築造が三世紀前半としても、これで九州にある伊都国が纏向の主に
支配されていたなんて信じるのは気違いだけだろう。
739日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:27
>>736
魏志東夷伝には、狗邪韓国が倭の北岸で、弁辰の涜廬国が倭と接すると書かれており、
ここから先が、倭と言う纏まりと理解されていたことが分かります。
朝鮮半島が、いくつもの地域に分かれていたのとは、状況を異にします。

考古的にも、その以前のばらばらな墓制から、前方後円墳体制へと統一されて行き、

>他の国は邪馬台国に「統属」していたとは書いてないんだから、むしろ
>独立性が強かったんでしょう。

そうではなく、女王に属さないと書かれているのは、狗奴国だけです。
740日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:40
>>736
共立を通じて求心的集約が行われたのです。
独立を維持した伊都国は、最後まで弥生的様相を残した前原であり
この地域に前方後円墳が営まれるのは周囲よりも1世代以上遅れています。

その他地域の首長は、共立のメンバーシップとして各自各様の発言力を持ち
彼らが死ぬ時には、前方後円墳を舞台とした標準化された葬儀と首長継承の儀式が
執行されたのです。

240年代に観察した中国人に眼にはメンバーたちは「官」と映り
独自性を維持した伊都の首長は「王」と映ったのです。

これが、考古学的事実と倭人伝の記述を最も整合的に説明する解釈でしょう。
741日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:43
>>739
>考古的にも、その以前のばらばらな墓制から、前方後円墳体制へと統一されて行き、

この時代は統一されてなかったんでしょう? だったらやはりある程度独立性のある
国の連合体でしょう。クナ国は「属さない」ではなく、「和せず」です。
邪馬台国に属してたのは伊都国でしょ。他の国は一大率を「畏憚」して従ってたんでしょう。
742日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:46
>>740
それでは、郡使が伊都国にとどまった理由が不明です。
743日本@名無史さん:2001/02/22(木) 16:49
>>741
伊都国にも「官」がいます。はい、畿内説は破綻しました。
744九州大史学科:2001/02/22(木) 16:54
直径140mの円墳って福岡ドームみたいなもんでしょ?
すごいよなぁ・・・
745日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:03
>744 ばかか? イト国王の官がいただけじゃねえか
746日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:07
>742 不明? 不明はお前だろう!不明を恥じろよ
    一大率の役所があるからに決まってんじゃねえか
747日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:10
>741 クナ国は「属さない」ではなく、「和せず」…だあ?
    倭人伝読んだことあんのか? いい加減にしろよ!
748日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:14
>クナ国は「属さない」ではなく、「和せず」です。

違います、ちゃんと原文を読んでください。
「狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王。」
749九州大史学科:2001/02/22(木) 18:30
>>745
旧帝大生に向かって、馬鹿は無いでしょう。
直ちにお詫びして訂正しなさい。
あなた福岡ドーム行ったことありますか?
屋根が動くんですよ。凄いんですよ!
750日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:36
>>740>>745
>240年代に観察した中国人に眼にはメンバーたちは「官」と映り
独自性を維持した伊都の首長は「王」と映ったのです。

メチャクチャなこと書くな。
邪馬台国に属していたものも、伊都国王に属していたのも、官と副かい?
伊都国王の官とはかいてないぞ。官の方が先に書いてある。他国と書式は同じ。
それにそれらが同じ「国」として列記してあるのもおかしい。
また、他の国の官が邪馬台国の役人なら、西日本が1国になっていたことになる。
論理的にも実態としてもありえない。もし中国がわにそう見えたのなら、30国とは
書かないだろう。ナンセンスだよ。
751745:2001/02/22(木) 18:49
>749 ごめん
752日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:58
伊都国のくだりは、邪馬台国と特に関係が強かったことの強調としか
思えないんだけど。だからこそ、郡使もそこにとどまったんだろう。
最後まで抵抗して独立性を保ってた国になんで常に駐まるのさ。
753日本@名無史さん:2001/02/22(木) 18:59
>750
あほか!
邪馬台国に属していたものも、伊都国王に属していたのも、官だよ
狗奴国に属してたって官じゃねえか
754日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:05
>>753
だから、そんな書き分けなんか倭人伝はしてないんだよ、ボケ。
一国の官が他国の役人だなんてあるわけないだろうが。
それだったら、30国の表記はなんなんだよ。
邪馬台国の役人が1国の代表として朝貢したのか(w
「と」説に認定します(w
755日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:05
>752 ちげーよ!昔から貿易の窓口だったんだよ
    いまは一大率の役所もある。
    それから、伊都国が抵抗したなんて誰か言ってたたか?
    昔の倭国王だから邪馬台国のほうがイト国王の顔たてたのかもしんねーぞ
756日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:07
それから断っとくけど751は学歴に頭下げたんじゃねーぞ
福岡ドームに敬意を表したんだ
757日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:12
>>756
まあ、倭人伝の表記にしても、これぐらい曖昧というか
書いた人の意と受け取る側でズレてるのかもね。
758日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:14
>754
まぬけだな
そんな書き分けなんか倭人伝はしてないから
邪馬台国に属していたものも、伊都国王に属していたのも、官と副なんじゃねーか
759日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:18
超素朴な疑問。
お詳しいみなさんには、アホらしくて疲れるかもしれませんが
邪馬台国って記紀にはそれらしい記述がありませんよね?
これはどうしてでしょうか?
760日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:22
>750
>754
まあまあメートルをあげなさんな。
他人を「と」呼ばわりするほどあなたがマトモなこと言ってるとは思えませんぜ。

「国」っつったって単なる城郭都市
(まあ倭国の場合は城郭ないからただの集落だが)
のことで、必ずしも政治的独立勢力をさすとは限らないよ。
国ごとに王がいるようには書いて無い。倭人地域を代表しうるような政権は
邪馬台国にいる倭王だけでしょう、素直に読めよ。
大官も副官もその国に任命する主体が存在しないのだから
(存在したら必ず「諸国皆王あり」くらいのことは書かれる)
少なくとも邪馬台国への経路にある諸国については
みな邪馬台国にいる倭王の役人なんだよ。
かなりふつうの理解であってこんなとこで問題になるとは思わなかったなあ。
761日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:34
>>755
>伊都国が抵抗したなんて誰か言ってたたか?

ちゃんとスレ読め。

>昔から貿易の窓口だったんだよ

どこにそんなこと書いてある?
海べにあったかどうかもわからんぞ。

762日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:46
貴様「と」だな  (760ごめん)
763日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:54
>761 ところで誰が抵抗したって言ってるんだ?読んだけどわからん
    番号いってくれ
764日本@名無史さん:2001/02/22(木) 19:59
>>760
>大官も副官もその国に任命する主体が存在しないのだから

そんな国が朝貢してるのがおかしいでしょう。
漢のとき、分かれて100余国、で今30国だから、
国が分立していたというのが素直な読み方。
下部機関であるもおが朝貢の主体になれるわけがない。
765日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:01
>>763
>>722>>733 だよ。
766日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:02
ところで741よ! 訂正しないのか?

誰かが、九州説のやつはどんな露骨なまちがいでも絶対に認めないで誤魔化すって
書いてたけど、ほんとか?
767日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:07
>765 どっちも、抵抗したなんて書いてないじゃねえか!
>764 そこも、朝貢したなんて書いてねえぞ
768日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:17
>>767
そうとしか読めんよ。
抵抗しないで征服される無抵抗主義者だったのか(w

漢の時朝見するものあり、今使訳通じるところ30国、ってのはそういう意味だよ。
769日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:20
な〜んだ馬鹿馬鹿しい
どっちもあんた独特の超読じゃねえか
まじめに聞いて損した
770日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:21
>>764
???
言ってることが意味不明。
なにか重大なかんちがいをなさっておいででは?
771日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:25
ところで768よ、あんた741と別人か?
772日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:31
各国に王はいた。倭人伝では実務官の名称が国によって
異なるから、特に書いた。伊都国で、特に「世々王あるも」、
と明記したのは、王がいても邪馬台国との間に特別な従属関係が
あったからそう書いた。実際そのようになっている。一大率、郡使駐留で。
そうでなければ、伊都国内の最大権力者を後回しにする書き方の説明が
つかない。他国と違って伊都国に特に王がいるなら、
官よりさきに、それをかいたはず。
773日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:32
>>769
バカか。
774日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:33
>>770
何か言いたい事があったらはっきり書くように。
775日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:40
邪馬台国、クナ国では王を先にかいてそのあと官名。
特に必要なときだけ王のことを書いたんだろう。
しかも、クナ国、伊都国では王名はなし。
王については、特に関心をもたれなかったんだろうね。
776日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:52
じぶんの説を証明する証拠がまたじぶんの説 ってか
あんた気楽でいいな
777日本@名無史さん:2001/02/22(木) 20:58
>>759
この辺はね・・・
778日本@名無史さん:2001/02/22(木) 21:03
>>776
全部倭人伝にのっとってかいてるけど?
伊都国が最後に邪馬台国の支配下に入ったとか、伊都国が貿易の窓口
だったとか、邪馬台国が畿内にあったとか、弥生時代に西日本一帯が
一つの国家だったとか、全く根拠の無い妄想を批判しろよ。
779日本@名無史さん:2001/02/22(木) 21:05
>>759
それこそ、邪馬台国が畿内になかった証拠。
780日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:02
>778 ところで伊都国が征服されたっていったい誰か書いた?
    またおまえの空想読みか?
    現代人の書いた文章でもかってに読んじゃうんだから
    倭人伝なんかもうやりたい放題だろう?

ところでおまえ741か? 答えろよ
781日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:09
>>780
はあ? バカ? 倭人伝にも統属してうたってかいてあるし、722も
そういうことでしょうが。重箱の隅つつくしかできなくなった畿内派哀れ。
782日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:11
畿内派はキチガイを装って喚きながら逃走中。
783日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:22
かいてあろうがなかろうが
なんでも好きなように読めるわけだな
器用なやっちゃ

722に聞いてみようぜ イトコクは抵抗したのか 征服されたのか
倭人伝と違って本人に聞けるからな

追伸:あんたは装う必要がなくて結構なことだ
784日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:23
ところでおまえ741か? yesかnoで答えろよ
785名無し不動さん:2001/02/22(木) 22:27
>>783
妙なキチが迷いこんでるな。
言葉使いに絡むしか能の無いバカ。
786日本@名無史さん :2001/02/22(木) 22:28
畿内派の反論は途絶えた。結果は明らか。終わり。
787日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:30
もうやめなよ。
彼は九州説と言う宗教にハマッちゃってるんだよ。何も見えない。
788日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:31
 類推の応酬には根拠も無ければ謙虚さも無し。三国志(演義じゃねぇぞ)
もまともに読んだこともない奴、考古学もまともに学んだことも無い奴同
士の罵りあい。
やっぱり匿名でんな事議論する事自体が誤りだなぁ〜。ハンドルつけた
らどう?邪馬台の比定場所もつけて。
789日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:33
>>788
何も言う知識も無く罵倒しかできないバカ出現。
790日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:34
九州説ってのは偶然で虚言癖とかそういうやつか
791日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:35
畿内説は妄想だけに頼る説なんだね。
792日本@名無史さん:2001/02/22(木) 23:06
>>788
ここにはもうまともな人は居ません。
789のような既知外ばっかりです。
793名無し不動さん:2001/02/22(木) 23:09
>>792
こいつが逃走中の畿内派(藁藁藁藁藁藁藁藁藁
794日本@名無史さん:2001/02/22(木) 23:17
電波な九州説の野郎が、ヤケになっているだけのことです。(藁
過去の発言を読んでいけば、多くの証拠を出す畿内説が妥当で、
九州説は証拠が出せず、ウソが多く、都合が悪い話は沈黙するという、
醜態をさらしているのが良く分かります。
795日本@名無史さん :2001/02/22(木) 23:22
具体的な論点で反論できなかったバカ畿内派の遠吠え(藁藁藁藁藁藁
796日本@名無史さん:2001/02/22(木) 23:31
九州説はなんか一人しかいないような気がするんだが
こいつのほかの人いたら手を挙げて!
797:2001/02/22(木) 23:35
1。
798日本@名無史さん :2001/02/22(木) 23:44
血迷うバカ畿内派(wwwwwwwwwwwwwwwwww
799日本@名無史さん :2001/02/22(木) 23:48
800日本@名無史さん:2001/02/22(木) 23:56
いまの二人、どの発言の人?
801日本@名無史さん :2001/02/23(金) 00:03
>>800
血迷い続けるバカ。どうにでも答えられるじゃん。
よほど悔しいのね(wwwwwwwwwwwww
802日本@名無史さん:2001/02/23(金) 00:07
きみ、気が狂ってる?
803日本@名無史さん:2001/02/23(金) 00:17
ちょっと信じられないですね。
自分が話してる相手の言葉まで捏造。
「そうとしか読めない」の横車。
史料の読み方はとんちんかん。
考古学の知識はなし。
人間としておかしいんじゃない?
804判定者:2001/02/23(金) 00:18
近畿説は「と」と認定します。
今後日本史板で、邪馬台国畿内説に基づく判定は禁止します。
805日本@名無史さん :2001/02/23(金) 00:23
論点に関係のない僅かなニュアンスの違いしか問題にできなくなった
哀れな畿内派。そのニュアンスの違いがどう論点に関係あるかを言おうとも
しない。こういうバカしか畿内派にはいない。哀れじゃ。
806日本@名無史さん:2001/02/23(金) 00:33
その発言はどれか具体的に示せ
807722:2001/02/23(金) 06:28
わたしは「伊都国は最後まで独立していた」と書きました。
征服されたなどと書いてはいません。
「実質的に戦闘は無かった」とも書きました。
伊都国が抵抗したなどとも書いてはいません。
808788:2001/02/23(金) 06:32
>792
 そのとおりだね。根拠を提示した上での議論になってないもんね。
ただの感情的なあら捜しの罵りあい(789・793〜795・798・801
〜802・804・805のようにね)。それで勝ったと喜んでいる。己の
無知さとスキルの低さと小ささにまるで気づいていない。
 まぁここはこんな罵りあうスレなんだと思えばいいか。やっぱま
ともに議論できる奴はもういないんだなぁ。そりゃそうか。
809日本@名無史さん:2001/02/23(金) 06:56
いまどき九州説なんてそんなもんだろ
810日本@名無史さん:2001/02/23(金) 07:00
ちょっと歪曲が度を過ぎてます。
ちょっとしたニュアンスの違いに過ぎないと居直られても困ります。
文献もそんな扱いをしてるようですし。
811日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:31
>>808
そういう諦め方がいけないよ。
きちんと証拠を示して論を組み立てていけば、読んでる人は読んでるんだから。
ののしり魔(たった1名)のペースに巻き込まれて言い返しちゃうからいけない。
ぐっとこらえて冷静にいかないと!

彼は無知さとスキルの低さは自覚してる。だからごまかすんでしょ?
だからののしり合いに巻き込んでうやむやにするんでしょ。
冷静に対応すれば彼が恥かくだけなんだから
抑えていけんばいいんだよ。即レスは避けるとかね。
812日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:49
九州説が圧勝のようだが
具体的に九州の何処に邪馬台国があったのか論証して欲しいな。

一体九州の何処?
813日本@名無史さん:2001/02/23(金) 09:24
また自作自演で実体のない勝利宣言?
ログみられたら、ただバカアホって怒鳴ってただけだってばれちゃうのに。

せいぜい九州の何処か書いてみてよ。
書けるもんなら、いつものように結論だけじゃなくて理由もね!
814日本@名無史さん:2001/02/23(金) 10:49
畿内説の場合は、齟齬があるのは方角の問題くらいで、それ以外は非常に調和的で、
総合的に見て、動かすことは出来ません。ちょっと、まとめてみました。

水行については、日本書紀の遣隋使、万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使節、
江戸時代のオランダ商館員の江戸参勤など、様々な時代の紀行文を見ても、
九州〜畿内を移動する内で、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
外洋は難破など危険が大きいが、瀬戸内海は波も穏やかで、多島海であり避難も容易であり、
陸路よりも遙かに便利だから、多用しています。

これらからしても、不彌国→投馬国の水行20日は、九州東岸→吉備、
投馬国→邪馬台国の水行10日・陸行1ヶ月は、吉備→摂津→大倭と考えるのが
極めて自然でしょう。

卑弥呼の墓は、径百余歩(直径140m余り)であり、箸墓古墳(後円部の直径160m)は、
オオヤマトに位置し、年代は調和的であり、巫女の墓の伝承を持つなど、
非常に調和的です。
九州は、弥生時代後期以降はさびれています。

伊都国に一大率を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示唆します。

投馬国が5万戸、邪馬台国が7万戸と、魏志東夷伝の朝鮮半島諸国と比べると、
規模が大きい。

魏から金印を賜ったのは、大月氏(クシャナ朝)と邪馬台(ヤマト)だけで、
重要視していることが分かる。

古墳時代に入って、銅鏡の出土は畿内・吉備に移っていいます。

これら、いずれも北部九州のショボイ国では説明が付かず、畿内説で初めて理解できる。
815日本@名無史さん:2001/02/23(金) 11:27
>>814
もっと新しい事言えよ。
そんなかびの生えた話はすでにみんな否定されている。
二世紀から伊都国が畿内政権に支配されていたと言う
合理的証拠がなければ話にならない。
古墳時代に勢力のばしても弥生時代(200年)頃
にショボクては伊都国が代々女王国に属していた
と言う倭人伝の記載に該当しないのだよ。
816日本@名無史さん:2001/02/23(金) 13:14
>そんなかびの生えた話はすでにみんな否定されている。

具体的に否定する根拠を言え。それが出来ないのが、九州説の電波だが。

>二世紀から伊都国が畿内政権に支配されていたと言う

そんな前である必要は全くない。魏志倭人伝の記載を満たすには、
公孫氏が滅ぼされた時点で、伊都国が邪馬台国の配下にあれば良いことである。
817日本@名無史さん:2001/02/23(金) 13:42
世々王有り皆女王国に属す。
はどう解釈するの?
818日本@名無史さん:2001/02/23(金) 14:06
一つの解釈は、以前は北部九州にいて伊都国を傘下にしていた勢力が、
東遷して邪馬台国が成立したとする考えでしょう。
例えば、原田大六氏は、2世紀前半に平原弥生古墳を作った国が、そのすぐ後に
東遷して邪馬台国を築き、卑弥呼は箸墓に葬られたとしています。
819名無しさん@1周年:2001/02/23(金) 14:26
邪馬台国=ハワイ
っつーかどこでもいいんだけどね。
歴史(history)としての面白みに欠ける話だ。
820日本@名無史さん:2001/02/23(金) 14:41
女王を倭国王に任命しに中国の役人が来たのだから
途中で女王以外にも王らしいのがいれば
「ほかにも王がいるの?女王とどういう関係なの?」と聞くでしょう。
案内役の倭人は「いちおう独立国ですけれど代々女王に従っています」と答える。
それだけのことでしょう。
裏を返せば、王がいると書いてない国には王はいないということ。
821日本@名無史さん:2001/02/23(金) 14:50
>>そんなかびの生えた話はすでにみんな否定されている。
>
>具体的に否定する根拠を言え。それが出来ないのが、九州説の電波だが。

結局、この答えも帰ってきそうにないな。
822名無し不動さん:2001/02/23(金) 14:55
畿内説って、古事記等の東遷神話との整合性はどういう風に
解釈されているのでしょうか?

畿内に存在したのなら、わざわざ日向の事なんか出さないと
思うのですが・・・。もちろん本当に神武が東征したと思っ
ているのではないのですが、日向等の地名が出てくる必然性
が納得いかないんですが。

邪馬台国はヤマトだけど、その元は九州という事でしょうか?
823日本@名無史さん:2001/02/23(金) 15:19
三種の神宝の内、東アジアでは糸魚川特産のヒスイで作られた勾玉は
縄文時代から続く日本伝統のもの。剣は世界各地にあるもの。
銅鏡は、中国の祭祀を流用したもので、中国の影響が強く見られる。
但し、弥生時代の銅鐸同様に、銅鏡も日本で著しく巨大化している特徴がある。
銅鏡は、日本での出土が非常に多く、朝鮮半島では楽浪郡の漢人の墓では出るが、
土着の墓には殆ど見られず、日本との大きな違いを見せている。

文献では、魏略逸文に、邪馬台国の使者が、呉の太伯の末裔と自称した話がある。
日本書紀では、天孫降臨は南九州であり、黒潮ルートが考えられる。
魏志倭人伝に記された倭人は、南方系の特徴が強い。
これらは、中国南東部の民族との関連を示唆するもの。
824日本@名無史さん:2001/02/23(金) 15:35
>>816>>821(同一人物だとは思うが)
あんたは、マジで、大阪湾から箸墓までのたいして険しくもない40kmほどの
道のりの陸行に、1か月もかかったと思っているのかい?(笑)

真面目に反論するのがばかばかしいぞ。
825日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:03
実例あり
826日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:15
昔はもっと海だったろうしな・・・
10kmぐらいかもよ(ワラ
827日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:17
実例あり
828日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:18
だから、畿内説というのは仮説に合うように史料を解釈し
遺跡や、その出土品を当てはめてるだけなんだよな。
だから「学術的には・・・」とかなんとかいう屁理屈だけは立派に整っている。

あたりまえの常識で考えるとアホらしくて疲れるだけ。
829日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:19
>>821
方向、距離ともあってねえだろ。
なんで船にのったり陸行したり何度も面倒な事やるんだよ。
船が便利なら伊都国あたりから真っ直ぐ難波までいくだろう。
陸行したら途中のクニの記載も一個や二個ある筈だ。
畿内説の奴が無理にこじ付けただけの説だ。
箸墓なんて主が女というだけ。

>九州は、弥生時代後期以降はさびれています。

腐っても鯛ということもある。倭国大乱の後衰退に向かって
いた可能性はあるが、三世紀始め畿内は未だメダカ。
遺跡からろくな武器もでてこない畿内が徒手空拳で武器の
いっぱいある伊都国を支配していたと言うのか。

悔しかったら箸墓暴いて金印でも出してみろ。
830日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:20
>>824
まあ、そんなペースで進んでたら
魏から畿内の邪馬台国までは、10年ぐらいかかるわな(プッ
831日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:28
>あんたは、マジで、大阪湾から箸墓までのたいして険しくもない40kmほどの
>道のりの陸行に、1か月もかかったと思っているのかい?(笑)

日本書紀には、隋の使者が難波津に着いたのが4月、都に入ったのが6月16日と書かれています。
防衛上か何らかの理由で、時間を掛けて都に入れています。
後世にも、こう言う事例があるから、問題なし。妄想だけの九州説とは違うぞ。

で、九州説による説明がないが、これはどうなっているのだ。
どうせ、電波だから無理なのは分かっているけど。(藁
832日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:32
もしそうだったら、ただ「陸行一ヶ月」とは書かないと思わない?
そこらへんの事情というか、日々のエピソードみたいなのを
もうちょっと書くんじゃない?
833日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:42
邪馬台国は狗奴国との争いがあって魏の庇護を求めていたのだ。
何故、魏に対して防衛上の理由で時間をかける必要があるのだ。
隋に対して対等の付き合いをしようとしていた聖徳太子の時代とは
訳が違う。
畿内説の方が妄想だよ。
834日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:58
狭い九州なら、1ヶ月は余計に説明が付かないぞ。頭悪すぎ。

そもそも、後世の様々な紀行文を見ても、水行は瀬戸内海と考えるのが常識で、
九州説ではこれすら破綻しているぞ。

そうそう、戸数の問題も、吉備や畿内と言った大きな規模でないと、全く説明できない。

卑弥呼の墓も、場所・年代・伝承ともにぴったりな箸墓古墳を置いてない。
835日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:59
ところで、九州説でのまとまった説明をしろ。>833
836日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:12
>>834
なんで?
宇佐まで一ヶ月でピッタリだべさ。
837日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:16
水行10日陸行一月は帯方郡からの日程とすれば
疑問は氷解する。
838日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:24
>水行10日陸行一月は帯方郡からの日程とすれば

中文として不可。電波は逝ってよし。
839日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:25
>宇佐まで一ヶ月でピッタリだべさ。

電波は例によって主張だけで根拠の提示がないな。逝ってよし。
840日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:40
>>831
マジで1か月かかったと思ってるよ(笑)

831であげられているのは、小野妹子が裴世清らを連れて帰って来た時のことだが、
まず、彼らが摂津に入ったのは、わざわざそこに迎賓館を新設したためで、当時、
こういう客人は数日に渡ってもてなすのが慣習だったので、当然、そこに滞在した。

しかし、小野妹子は、隋からの親書を百済で盗まれたことを報告したため、朝廷では
小野妹子を死刑にすべきだという声が高まり議論となったが、結局、推古天皇の
鶴の一声で小野妹子の罪は問われないことになった。
(しかし、この処置はあまりにも甘すぎるため、実際には、親書をもらえなかったか、
あまりにもひどい内容だったので、推古天皇や小野妹子が協議して「盗まれた」ことに
したのではないかと言われている)

とにかく、この議論にも数日を費やしていると考えられる。

そして、裴世清は6月になってから都入りしているが、この際、朝廷は箸墓と同じ
桜井市内にある、大和川の船着き場に迎えを出している。当時、大和川は幹線交通路
だったと言われていて、詳細な記述はないものの、裴世清らもそこまでは船でやって
来たものと考えられる。

そして、もちろん船着き場から朝廷までは当日移動である。

実例にはならんよ。
841日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:54
議論してようが宴会やってようが日程は日程。実例は実例。
到着日の記録だけであれば、洛陽で史書を書いている人間にはわからないので
倭人伝のような結果になる。
842日本@名無史さん:2001/02/23(金) 17:59
彌馬升をミマキと読んで崇神とするのはトンデモですか?
843日本@名無史さん:2001/02/23(金) 18:00
升はキじゃねえぞキちがい
844日本@名無史さん:2001/02/23(金) 18:04
どうせ九州説では全く説明不能だろう?
845日本@名無史さん:2001/02/23(金) 18:41
方角は途中で明かに間違っているんだから「南」が「東」の間違いでもなんの不思議もない。
846日本@名無史さん:2001/02/23(金) 19:16
梓書院>今までの季刊・邪馬台国では読者は減る一方だと提案し、根本的な改革をやっております。

ナンマンダブ、ナンマンダブ
847日本@名無史さん:2001/02/23(金) 20:07
今のままじゃセクト機関誌だもんね。
848名無し:2001/02/23(金) 23:53
しばらく来なかった間にずいぶんレベル落ちましたね... >このスレ
849日本@名無史さん:2001/02/24(土) 00:44
最近は畿内派が理路整然と説を展開して優勢なんだけど
ここの畿内派は力不足だね。
850日本@名無史さん:2001/02/24(土) 00:52
ちゃんと説明できる人間達は議論の堂々巡りに
愛想つかしてどっかいっちゃったよ。
まあ、日本史板全体に言えることだけど
851814=816=821=831=841 かな?:2001/02/24(土) 02:12
>>841
831であげられているのは、「陸行1月」の実例のつもりなのではないのかな?

日本書紀によると、裴世清は6月15日に摂津に着いて、新築の位迎賓館に泊まったとあるが、
と同時に、この際、小野妹子は隋からの親書を盗まれたことを奏上(天皇に直接言うこと)したとある。
これはかなりの事件だが、それが何月何日のことなのかあらためて記述されていないことから、
6月15日当日か、「泊まった」ということで一夜明けたのだと解釈すれば、翌日の出来事だということになる。
そして、もちろん、この時、推古天皇は飛鳥にいる。つまり、小野妹子は、摂津に着いたあと、
そこでの接待は他の者にまかせて、自分は先に飛鳥に向かい、一両日のうちに帰り着いたのである。
よって、摂津から飛鳥までの行程は「1日ないし2日」である。「1月」ではない。

また、小野妹子も裴世清も摂津から海石榴市(つばいち)までは船を使っているが、
海石榴市から飛鳥までは数kmしかないので、無視できるものと考えると、これは、
まぎれもなく「水行」である。「陸行」ではない。

結局、831にあげられているのは、「陸行」でも「1月」でもない。
全く「陸行1月」の実例にはなっていないのである。
852814=816=821=831=841:2001/02/24(土) 02:20
ごめん、>>831 しとくわ。
853日本@名無史さん:2001/02/24(土) 03:23
>>851
どんな説明をつけて例外視しようとしても実例があると言う事実は消せないのである。
隋書の「達於海岸」や「既至彼都」に日付がついておれば
洛陽の史官は「陸行1月」と書くであろう。
史料の読解とは、事実がどうこうより、どうしてそういう記述が為されたのかを
読み取る事なのである。
854日本@名無史さん:2001/02/24(土) 07:56
そうそう、報告者と史書を編纂した人は、別人であることをちゃんと認識しないとダメだな。
と言うよりも、それは分かっているけど、単にいいがかりを付けたいだけかも知れないが。
855日本@名無史さん:2001/02/24(土) 08:44
畿内説では「水行十日、陸行一月」は「水行十日したあと陸行一月」と読んで
たった一度だけ言った人間の残した断片的な情報に基づいていると考える。

「水行ならば十日、陸行ならば一月」と読みたい九州説は
たまたま一行が女王の都に向かった時それだけ日数がかかったとは説明できない。
つまり普通に行って「水行ならば十日、陸行ならば一月」の場所なのである。

同じ出発点から同じ目的地に行くのに水行か陸行かで所用日数が3倍も違うのは
どんな場所であろうか?
856日本@名無史さん:2001/02/24(土) 08:46
訂正:たった一度だけ言った→たった一度だけ行った
857日本@名無史さん:2001/02/24(土) 14:41
>>413
「宇佐説」も根強いね。私もずいぶん迷った。
けどあそこはもっとずっとあと(邪馬台時代より)の、新王朝発祥の
地なんじゃないかという気がする。
858日本@名無史さん:2001/02/24(土) 15:04
>>822
東に攻めて行った人の話もあれば、西に行った人もいる。

纒向の大王やその息子が九州を攻めたり
纒向の大王の孫に、その嫁の遠縁に当るイト国王が忠誠を誓う話もある。

でも伝説は伝説。
何時の時代のモノか、手がかりがなければ史実に結び付けたりはしない。
859日本@名無史さん:2001/02/24(土) 18:32
>>855
中文として、成り立つ読み方でなければ意味がない。
860Henton:2001/02/24(土) 18:37
>>855

結局、畿内説では「陸行一月」は説明不能ですね。
861日本@名無史さん:2001/02/24(土) 18:42
>結局、畿内説では「陸行一月」は説明不能ですね。

遣隋使の例があることで、充分に説明できると言っているだろ。
それより、電波な九州説なんて、その前に水行で躓いていている、トンデモ説だし。
862814=816=821=831=841=853=861だろ?:2001/02/24(土) 19:03
>>831@`>>861
まだ、馬鹿言ってるな。
831にあげられているのは、1日で着くところに1か月後に出かけたという話だ。
これが実例になるわけないだろ。

この話には続きがあって、裴世清は8月3日に都入りしているが、推古天皇に
会ったのは8月12日だと記されている。ならば、中国の史書を書く者は、
飛鳥の街は、入口から天皇の御所までは9日かかると判断するだろうと
言うのかな?当時の飛鳥の街なんて5km四方くらいしかないんだけどね。
だいたい、まだ着くまで何日もかかるのに「都入り」って表現するもんかね?

中国人を馬鹿にしすぎだよ。

そうそう、831を読むと、マジに難波津−飛鳥間を1か月かけて行ったと
思っていたようだね。みんな、このことこそ笑ってあげようよ(笑)
863日本@名無史さん:2001/02/24(土) 19:26
>中国人を馬鹿にしすぎだよ。

バカなのはお前。報告者と史書の編纂者は全く違うのだぞ。
864814=816=821=831=841=853=861=863だろ?:2001/02/24(土) 19:39
>>863
ほう、報告者は確実に中国人だと思うから、史書の編纂者は中国人ではないと
いうのだな?一体、中国の史書はどこの国の人間が書いたと言うんだろうね?(笑)

865864>863:2001/02/24(土) 19:49
だいたい、大阪湾から飛鳥まで1か月かけて行っていたとマジに考えてたバカに
バカよばわりされるのは心外だな(笑)
866日本@名無史さん:2001/02/24(土) 20:26
>>864 また狂ったようだな
867日本@名無史さん:2001/02/24(土) 20:30
そういうこと言っちゃだめだよ。
>>855 に答えられないんで罵り合いに持ちこんで誤魔化そうとしてるだけなんだから。
彼のいつもの手だろ。
868日本@名無史さん:2001/02/24(土) 20:36
>>864 は世界に中国人が一人しかいない場合足か成り立たない論理

相手の言っていることを歪めて、誰も言っていないことを批判しはじめるのは
果たしてわざとなのか?それとも○○○○なのか?
869日本@名無史さん:2001/02/24(土) 20:44
裴世清が難波津に上陸してから都に入るまで
1ヶ月以上経過しているのは歴史的事実。

彼は再三にわたって
我々がその距離を1ヶ月かかってずっと進んでいたと言っていると
第三者に思いこませるように歪曲を重ねているが
徒労でしかない。
870日本@名無史さん:2001/02/24(土) 20:52
>>864
>ほう、報告者は確実に中国人だと思うから、史書の編纂者は中国人ではないと
>いうのだな?一体、中国の史書はどこの国の人間が書いたと言うんだろうね?(笑)

なぜ「報告者が中国人」だと、「史書の編纂者は中国人ではない」ことになるの?
871Henton:2001/02/24(土) 21:36
>>869

あのさあ、裴世清が難波津に上陸してから都に入るまで1ヶ月
以上経過していることと、「陸行一月」とどう関係があるの?
872日本@名無史さん:2001/02/24(土) 21:57
隋書の記事のような報告書に、海岸に達した日付と都に至った日付が入っていれば
洛陽で史書の形にまとめた人物が「陸行一月」と解釈してもおかしくないってこと。

だから「陸行一月だから大和ではあり得ない」は成立しないわけ。
ところで「水行十日陸行一月」は九州説ではどう説明する?
873Henton:2001/02/24(土) 22:00
>>872
あるかどうかも分からない報告書を仮定しての説は根拠なし。

>ところで「水行十日陸行一月」は九州説ではどう説明する?

昔のレスを読め。
874日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:10
>昔のレスを読め。

満足な説明はなかったぞ。返答を逃げようとしているのが、みえみえだな。
どこかのHPにでも、いいのがあればリンクを張って引用しろ。それなら簡単だろ。
875日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:20
畿内説としては
 難波→桜井のコースを辿った人間の記録が最終的に「陸行一月」と記述されうるか
というシミュレーションをしているだけなのだよ。
そして、答えは「ありうる」だ。
876日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:28
>>875
ただのこじつけだね。
877日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:37
>>876
「ありえない」と言いたかったのに証明できず、だだをこねるしか出来ない九州説。
「水行十日陸行一月」も全く説明不能で醜く敗退。
878日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:39
>>877
ただの一ケースが何故この場合にも当てはまるのか証明してみろよ。
879日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:41
電波な九州説は、畿内説に因縁を付けるだけで、
肝心な九州説による説明が出来ないように、バカしか残っていない、合掌。
880日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:42
一ケースでもあれば「あり得ない」が否定される。証明おわり。
881日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:43
ところで「水行十日陸行一月」は九州説ではどう説明する?
882日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:43
>>879
馬鹿はお前だろ。
突っ込まれると説明すら出来ないのもお前だ。
883日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:44
>>880
馬鹿だろお前。
そんな事言ったらその辺ふらふらしてたんだと言えば
どこでも行けるじゃねぇか。
884864>870:2001/02/24(土) 22:45
>>831 他同一人物の理論では、中国の史書の編纂者は、報告の内容をろくに読まず、
冒頭に記された日時だけで行程を把握するといういい加減な仕事をした。あるいは、
行程を報告した中国の官位がいい加減な報告をしたということになる。
もちろん可能性がないわけではないが、普通に考えれば、史書の編纂者は様々な資料を
吟味した上で史書を書くはずだし、報告者もきちんとした報告書を書くはず。
これは、この報告者や史書の編纂者を馬鹿にしているに等しい。

そこで、そういう意味で、「中国人を馬鹿にしすぎだよ」と書いているのに、
わざわざ、この「中国人を馬鹿にしすぎだよ」の部分を引用して反論している
からには、831には、「中国人を馬鹿にしている」つもりはないようだ。

そして、831は「報告者と編纂者は違うんだぞ」と返している。しかし、
どう考えても報告者は中国人だ。となると、彼の理論と反論を成立させるには

「報告者は、編纂者と違ってちゃんと仕事をしている。馬鹿にはしない。」
「編纂者はいい加減な仕事をしているから馬鹿にするが、彼は中国人では
ないから中国人を馬鹿にしているわけではない。」

という帰結しか導けない。

まあ、単に831の矛盾を笑ってるだけだからそんなに深く考えなくていいよ。
885日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:46
「水行十日陸行一月」を説明しようとしないのはあなた。
それとも罵り合いに持ちこんで誤魔化すつもり?
886日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:51
>>885
俺別人だもん。
あまりに馬鹿な事言ってるから突っ込んでるだけ。
で、あんたはきちんと説明できるの?
それが成り立つならその時間で行ける距離までなら
どこでも良いことになるけど。
887日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:53
>>884

> >>831 他同一人物の理論では、中国の史書の編纂者は、報告の内容をろくに読まず、
>冒頭に記された日時だけで行程を把握するといういい加減な仕事をした。
>あるいは、行程を報告した中国の官位がいい加減な報告をしたということになる。

以上は「史書の編纂者が、断片的な限られた史料しか入手できない」ことが
ありえないという前提に基づいている。
しかし行程に関する他の部分の記事を見ても、この前提は成り立たない。
ゆえに831はとくに矛盾したことは言っていない。
888日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:55
>>886
じゃ、あらためて「水行十日陸行一月」を九州説で説明してよ。
889日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:58
電波な九州説は、バカばかりだから、これまでも説明を要求されると黙ってしまう。
これが、定説の畿内説とは大きく違うところだな。
890Henton:2001/02/24(土) 23:00
「水行ならば十日、陸行ならば一月」と読む。
または、敵勢力がいたので回り道して「水行十日して陸行一月した」と言う
説明もあり。畿内説では両方ともなりたたない。

891日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:00
>>888
俺はあんたの理論が聞きたいんだよ。
それだけ絶対みたいに言ってるんだから
それなりに明確な根拠があるんだろ?
教えてくれよ。
892日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:02
電波な九州説信者は、説明できないバカばかり。(藁
893日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:04
>>887
あんた史書がどうやって書かれてるかわかってないね。
中国は書の国。使節の報告書が断片的な記述で許されるわけないじゃん。
そんな膨大な報告書をまとめあげるのが編纂者の仕事。
だから、書くのに何年もかかる。
894日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:06
>893
おい、早く電波な九州説で説明しろ
895日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:09
使節の報告書が断片的な記述などと誰も言っていない。
歪曲と決め付けだけでは何も証明できないよ。
896日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:12
>>890
それでどこの比定地にどこから行くの?
ありうる日程なの?
897いい加減にしろよ:2001/02/24(土) 23:22
どうせ889とか892、894も831だな。
俺も幾内説だがお前のアホさかげんにはあきれる。
お前は幾内説派の恥だ。氏ね。
898日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:28
>>897 ちょっと分断工作っぽいぞ。ほんとに畿内説?
899日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:29
説明を求めると、九州説信者が沈黙したな。いつものことだけど、馬鹿馬鹿しい限り。
900日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:32
>898
口調から見て、897は例の電波な九州の罵倒野郎でしょ
901日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:33
>>899
俺が聞いてるんだよ。
答えてくれれば答えるよ。
902日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:33
主張だけで根拠がない点では、九州説信者と電波な鮮人とは、共通するものがあるな。
903日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:39
>>901
何を聞いてるんだ?質問を明確にしてくれ。
それはこっちが質問してる「水行十日陸行一月」の解釈を聞く前に
こっちが先に答えなきゃいかんものなのか?
904日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:39
いやいや。
共通するものがあるのは関西人ですよ。
905Henton:2001/02/24(土) 23:41
比定地というのは根拠がない。
主張だけで根拠がないのは畿内説。
906日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:42
>>902
新井君は氏んでてくれ。邪魔だから。
俺は純粋に根拠を知りたいだけなんだ。
907日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:42
いやいや、ナニモノも九州説には匹敵しない。だからその話題はやめてくれ。
908日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:44
900番目の人は新スレを立てれる権利があるんだよ。
909日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:44
>>905
ののしりは結構だから、聞いてることに答えてくれよ。
910日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:44
>>903
875 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/24(土) 22:20
畿内説としては
 難波→桜井のコースを辿った人間の記録が最終的に「陸行一月」と記述されうるか
というシミュレーションをしているだけなのだよ。
そして、答えは「ありうる」だ。

これ。
911903:2001/02/24(土) 23:47
どういう意味だ?それはぼくの書き込みだが?
912日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:50
とりあえず2に行こう!
913日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:51
>>911
俺が聞きたいのはそれがこじつけじゃない理由だよ
914日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:57
邪馬台国はうちだよ
915日本@名無史さん:2001/02/25(日) 00:10
北鮮との国境付近で満州にあった。
916名無しウナギは鼻が象だ!:2001/02/28(水) 00:10
邪馬台国は論者の地元にあるものである。
九州の人は九州にあったとするし、
アメリカ人はアメリカにあったと主張するだろう。
917日本@名無史さん:2001/02/28(水) 17:14
だけどさ、九州説の人だと、裸国はどこになるのよ?
918日本@名無史さん:2001/02/28(水) 18:24
>>917
南米だろ。九州説の古田大センセイによれば(藁
919名無しウナギは鼻が象だ!:2001/03/01(木) 00:42
あのう、古田は・・・、九州説論者から除外してもらえませんでしょうか。
古田ってのはUFO研究でいえば韮沢みたいなもんだしい。
920日本@名無史さん:2001/03/01(木) 14:17
>レス数が 900 を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。

このメッセージが表示されているように、もうこのスレでの書き込みは終了してください。

かなり前にパート2が作られていますので、こちらに移行してください。↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=983026206&ls=50

**スレ数制限に引っかかり、パート2に移行していますので、このスレは終了です**
921  ん:2001/03/02(金) 02:39
まだ79あるじゃん。
922日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:26
>>919
UFOを観測したとか、色々な古文書があるよ。
923日本@名無史さん:2001/03/09(金) 04:43
そんな古文書はねえよ。あるってんなら最初から書名をだしてみろ。
924日本@名無史さん:2001/03/21(水) 12:23
上記
925日本@名無史さん:2001/03/21(水) 13:44
応神です。
926日本@名無史さん:2001/03/21(水) 13:53
邪馬台国は畿内にあり、応神天皇に征服された被征服王朝です。
927日本@名無史さん:2001/03/22(木) 01:32
>>926
あ、おれもそれに近い。
928パート2いこうぜ:2001/03/22(木) 01:54
なんでそんなにここにこだわるの?
やるならせめてsageてくれい
929日本@名無史さん:2001/03/22(木) 06:31
>>924
上記にはそんなこと書いてないよ。
もしかしてホニツルのこといってんのかな?
930日本@名無史さん:2001/03/22(木) 11:05
「魏志倭人伝」読み下し文 (朝日新聞文芸部著「邪馬台国」新読み下し文より) <作成中>--------------------------------------------------------------------------------

@倭人は帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時に朝見する者あり、今、使訳通ずる所、三十国。

A郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を経て、乍は南し乍は東し、其の北岸狗邪韓国に到るまで、七千余里。始めて一海を度り、千余里にして対馬国に至る。其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。居る所は絶島にして、方は四百余里可り。土地は山険しくして、深林多く、道路は禽と鹿の径の如し。千余戸あるも、良田なく、海物を食らいて自活し、船に乗りて南北に市糴す。

B又た南のかた一海を渡ること千余里、名づけて瀚海と曰い、一大国に至る。官亦た卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方は三千里可り、竹林叢林多く、三千許りの家あり。差田地あるも、田を耕すに猶お蔵宇に足りず、亦た南北に市糴す。

C又た一海を渡り、千余里にして末盧国に至る。四千余戸あり、山海に浜うて居り、草木茂盛し、行くに前の人を見ず。好んで魚鰒を捕らえ、水の深浅となく、皆沈没してこれを取る。

D東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。千余戸あり。世よ王あるも、皆女王国に統属し、郡の往来に常に駐まる所なり。

E東西して奴国に至るまで百里。官を★馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸あり。

F東行して不弥国に至るまで百里。官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰う。千余家あり。

G南のかた投馬国に至る、水行二十日。官を弥弥と曰い、副を弥弥那利と曰う。五万余戸可り。

931日本@名無史さん:2001/03/30(金) 12:17
裸国についておしえてください
932日本@名無史さん:2001/04/08(日) 23:12
ハワイじゃないかな?
933日本@名無史さん:2001/04/15(日) 21:39
トンガ王国ではないかと‥
934日本@名無史さん:2001/04/27(金) 20:39
歯が黒い方はどうなるのでしょう
935日本@名無史さん:2001/04/28(土) 00:22
>>934
ぜんぜんおもしろくないんですけど
936日本@名無史さん:2001/05/04(金) 16:44
おはぐろしてたんだから日本の一部ではないかと‥
937日本@名無史さん:2001/05/18(金) 03:23
>>931
グアムとかそういう可能性はないの??
938日本@名無史さん:2001/05/18(金) 06:20
ぐゎむゎ台国
939日本@名無史さん:2001/05/26(土) 11:09
伊豆諸島って可能性は?
940日本@名無史さん:2001/05/26(土) 13:11
myヤkejマ台国
941日本@名無史さん:2001/05/28(月) 18:44
>>940
詳細お願いします
942日本@名無史さん:2001/06/02(土) 05:14
古代日本文字でしか表わせないってこと??
943日本@名無史さん
母音八種の発音がこまったところ