泗川の戦いの明軍は本当に20万人もいたのか?

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1日本@名無史さん
家康スレッドから移しました

http://plaza20.mbn.or.jp/~junt_7/rekisi.htm#tyousen

http://www.pp.iij4u.or.jp/~butakai/sisenn.htm

実際のところどうなの?
島津軍は7000人で明・朝鮮連合軍20万人を打ち破ったのだろうか?
2日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:17
3日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:20
慶長の役の時、明が派遣した全兵力って14万人だろ
主力は加藤清正の立てこもる蔚山城攻略にまわったから、
泗川方面の明軍の兵数はもっと少ないはずでは?
4日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:24
>>3

参考のHPにはこうある

>長3年晋州城(慶尚道の城塞都市)を占領し、船舶の運航を確保するため、そこに新城を築き、泗川新城と名付けた。同年明は大軍を朝鮮に派遣し、加藤清正の守る蔚山城を約7万の軍勢で攻め、落城寸前に援軍が到着、9死に1生を得たほどであった。

 正規軍を派遣した明軍は強く、あなどりがたかった。また、帯同する朝鮮義軍は志気が高く、兵站も自国であるため日本軍よりはるかに潤沢であったろう。加藤軍は土壁をすすり、死肉を食い、飲み水さえなくなるという極限状態の籠城戦を強いられたのである。

 志気高まる明軍は、南下を開始。ついに時機到来とばかりに日本軍壊滅をめざし、20万と号する大軍をもって島津義弘の守る泗川古城、泗川新城に迫った。港を守るここを攻め落とされれば、朝鮮にいる日本軍は1兵たりとも日本の土を踏むことはできないのであった。

5日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:26
>>5
それで?
6日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:30
>>5

何が?
7日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:34
>>6
何がって。。
蔚山城を攻略した明軍と、泗川方面の明軍は、
進撃経路の異なる全く別の部隊だろ
一体、明軍は全部で何万人いると思ってるの?
8日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:39
>>7

>志気高まる明軍は、南下を開始。ついに時機到来とばかりに日本軍壊滅をめざし、20万と号する大軍をもって島津義弘の守る泗川古城、泗川新城に迫った。港を守るここを攻め落とされれば、朝鮮にいる日本軍は1兵たりとも日本の土を踏むことはできないのであった。

だから泗川古城、泗川新城に迫った軍勢は20万人って書いてあるだろ?

>蔚山城を攻略した明軍と、泗川方面の明軍は、
進撃経路の異なる全く別の部隊だろ

蔚山城を攻略した明軍が7万人がそのまま軍勢を増やして南下したのか
別部隊が20万人いたのかしらないが、とにかくHPには20万人が
泗川方面に進出したと記述してある。
9日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:43
>>8
まあ、たしかに、島津万歳主義のドキュソHPに書いてあるわな。。。

10日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:45
>>9

だから、否定するなら君もソース出しなさいよ。
11日本@名無史さん:2001/01/01(月) 14:51
明もかなりの軍勢を繰り出してきてるわけだから
20万かそれに近い軍勢はいたでしょう。
日本と比較したらいけません。
あの国は平気で50万ぐらいの軍勢を繰り出してきますから。
人口が桁外れに多いわけだから。
12日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:13
敵に与える心理的効果を狙って、大げさに宣伝するのは当たり前のこと。
赤壁の戦いだって、曹操軍は百万と号していたけど実数は二十万位
だったわけだし。
13日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:36
>>12

まあ、そういうのは否定できないが、だからって実際の軍勢が20万人いなかった証明にはならないよね?

個人的にはこの人数はどこから出てきたのかが知りたいです

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=977189382&st=108&to=108&nofirst=true
14日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:39
>>11
そんな大部隊を派遣する金は、国庫が窮乏してた当時の明にはないんじゃない?
明軍の給与は、当時、1人当り毎月3両ほどだったらしい
とすれば、泗川方面の明軍だけで、年間720万両(20万人分)かかることになる
これについて、どう思ってるの?
15日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:45
>>14

11じゃないですが、1です。

>そんな大部隊を派遣する金は、国庫が窮乏してた当時の明にはないんじゃない?

当時の明の国家の歳入、歳出状況がわかるHPか何かありませんか?
ディティールを知らないので、とても判断できないです。


16日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:48
なんで、HPがソースになるの?
17日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:50
>>16

別に印刷物でもいいですが、HPの場合手軽ですからね。
18日本@名無史さん:2001/01/01(月) 15:59
1582年に、明の国庫には、10年分の食料と400万両の余剰金が備蓄されてただけ。
19日本@名無史さん:2001/01/01(月) 16:06
>>18

そのデータはどこから見つけましたか?
やっぱり印刷物ですか?
兵士の給料3両というのと合わせて出来れば題名を教えて欲しいです。


しかし10年分の食料と400万両の余剰金といえば、現在の日本の感覚からは
ずいぶん余裕があるように感じますが、当時としては逼迫していたのでしょうか?
20日本@名無史さん:2001/01/01(月) 16:17
してた。万暦帝の定陵建設費と後宮の化粧代だけで年間40万両だった

印刷物。中央大学教授 川越泰博『北慮南倭に苦慮した明軍事体制』の文から
21日本@名無史さん:2001/01/01(月) 16:21
>>20

レスありがとう。
出典の中央大学教授 川越泰博『北慮南倭に苦慮した明軍事体制』
には慶長の役に派遣した明軍総数には記述が無いのですか?
22日本@名無史さん:2001/01/01(月) 16:21
ない。
23日本@名無史さん:2001/01/01(月) 17:13
>>20

当時の平常時の兵力は何万人くらいいたのですか?
24日本@名無史さん:2001/01/01(月) 17:28
衛所軍は、永楽時代じ270万いたが、
正統時代に、120万が苦役のため逃走
弘治時代に、その逃走軍は6、7割に達した。
これを補うため募兵策がとられたが、
募兵に応じる者はほとんどが遊徒で質が悪かったらしい。
25日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:46
>>24

う〜ん。とすると国庫が逼迫しているからって20万人くらいの兵士を派遣できなかった
とは推測しづらいんじゃないですか?
悪くても明軍は190万人は常備していたってことになるんだから。
26光源氏@京都:2001/01/01(月) 18:46
マニヤックだな・このレスッド。
2725:2001/01/01(月) 18:47
間違い

190万=90万人
28日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:48
>>25
おいおい、逃げた方が190万人。
2925:2001/01/01(月) 18:51
>>28

だからすぐに訂正してるでしょ。
30日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:53
ああ、訂正したわけね。スマソ

だから、朝鮮に派遣された、全明軍が泗川の戦いに参加したわけじゃないだろ?
今順天城と蔚山城の明軍とは別ルートで進撃した明軍なわけだし。
311:2001/01/01(月) 18:56
>>30

だから何度も書いてるように、参考のHPでは20万人が泗川の戦いに参加していると記述されている。
実際に明の派遣軍の総数が何十万人だったのかは不明なんですよ。
(少なくてもこのスレッド上では)
32日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:56
明としても、朝鮮半島が完全に日本の支配下に置かれた場合
自分のところに攻め込んでくることはわかっていたはずだから
生半可な兵力を送ったとは考えられないね。
それに日本勢が後退したのは明による人海戦術によるところが大きいし
かなりの兵力を送ったことは否定できないと思う。
33日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:58
>>31
だから、あのHPがなんなんだよ。
あんまり面白いことゆーなよ。笑えるだろ。

341:2001/01/01(月) 19:01
>>33

だから否定するなら、何か証拠を出してくれって書いてるだろ。
少なくても2つの別のHPで20万人って記述があるんだから、何かの根拠があるということじゃないか?
否定する君のほうにはどんな根拠があるっていうの?
35日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:01
>それに日本勢が後退したのは明による人海戦術によるところが大きいし
詳細きぼん
36日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:11
>>35
なんだネタじゃねーの。
きみ、ひょっとして高校生ぐらい?

>>14 >>20 >>24
であげてるだろ。
37日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:12

>>34
381:2001/01/01(月) 19:14
>>36

これは35に対するレスですか?
つまり人海戦術で日本軍が後退したという根拠ということですか?

39日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:15
懐疑派は、どのくらいの兵力が投入されたと考えているのかな?
それを提示してくれないと議論が前に進まないと思うがね。
40日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:16
>>38
お前へのレスだよ
411:2001/01/01(月) 19:16
>>36

だから常備軍が少なくても80〜90万人も持っている国が
財政の逼迫が原因で少なくても20万人の派遣軍を送れない理由にはならないと思いますけど?
42日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:22
>>39
約15万人が現実的な数だろ。

蔚山城へ 7万
泗川新城へ 3万4千
今順天城へ 4万

>>41
蔚山城の7万と今順天城の明軍の数は頭にあるのか?


431:2001/01/01(月) 19:25
>>42

その数はどこから出したもの?

441:2001/01/01(月) 19:32
>>42

何の根拠も無いんだね。。。
45日本@名無史さん :2001/01/01(月) 19:46
>>42

なぜ何の根拠も無いのに42は、島津軍が20万の明・朝鮮連合軍を打ち破った
ことを否定したがるのだろうか?

可能性その1:

この論争は「家康は本当に野戦の達人か」というスレで始まったので
42は熱狂的家康びいきのドキュソであるため。

可能性その2

42は薩長嫌い東北人である。

可能性その3

42は中国あるいは朝鮮の血をひいているものであるため。

可能性その4

42はヒキコモリで元日からイラついている。


どれかに当てはまりますか?
    
46日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:57
>>1
貫井の本から
>>42
いいから、これに反論しろよ。スレが氏ぬ前によ。ドキュソ厨房。
47日本@名無史さん:2001/01/01(月) 20:04
>>1
HPうましか
48日本@名無史さん:2001/01/01(月) 20:08
>>1
どうした?検索エンジンがこわれたか?が・ん・ば・れ・厨・房(はあと
491:2001/01/01(月) 20:24
>>46

手元にその本(資料)が無いから、反論しようにも反論できないよ。
その個所をデジカメに撮るか、スキャナーで取って画像アップしてくれない?
って、そこまでしてくれるわけ無いよね?

今度、図書館で調べてみるから、本の題名と著者名を教えてよ。
501:2001/01/01(月) 20:26
追伸
ちゃんとレスしてくれなきゃ、やっぱり根拠なしって判断するよ
51日本@名無史さん:2001/01/01(月) 20:30
>>50
その前にお前が反論しろ。
なぜ、加藤清正に7万で
島津義弘には、20万なんだよ。
521:2001/01/01(月) 20:35
>>51

あのHPの記述だと加藤清正に7万で攻めた後、士気が高まり
軍勢が20万に膨れ上がったと読める。
つまり清正を攻めた軍勢に他の部隊が合流あるいは現地で徴発して日本軍の退路を絶つために
大軍を南下させていった為ではないか?
531:2001/01/01(月) 20:37
>>51

で、資料(本)の話はつくり話なのかい?
54日本@名無史さん:2001/01/01(月) 20:37
加藤清正を攻めた楊の部隊と
島津を攻めた董の部隊は全く別の部隊。

貫井正之著『豊臣政権の海外侵略と朝鮮義兵研究』でも読めば?
551:2001/01/01(月) 20:39
>>54

OK読んでみるよ。
その中には、明軍の総数が出ているかい?
56日本@名無史さん:2001/01/02(火) 16:20
57日本@名無史さん:2001/01/03(水) 11:29
明軍の編成はここが詳しい


http://www.tokyochina.com/5Cwmh/Hekitei/Hekitei.htm
58日本@名無史さん:2001/01/03(水) 12:13
>>57
文禄の役の碧蹄館の戦いのものか
日本軍23000に対し5400投入したわけだ
慶長の役の泗川の戦いの時の明軍数が無いが
島津7000に対し200000はやはり不自然だな
59日本@名無史さん:2001/01/03(水) 12:13
>>58
失礼。54000だね
60日本@名無史さん:2001/01/04(木) 11:49
age
61日本@名無史さん:2001/01/04(木) 15:51
確か清正を包囲した軍勢も35000〜38000人ぐらいじゃなかった?
62日本@名無史さん:2001/01/04(木) 16:11
島津系はドキュソってことですか
63日本@名無史さん:2001/01/04(木) 16:52
荒唐無稽な逸話が子供ウケするんだろな
64ありなっち:2001/01/04(木) 17:01
>63

戦国・幕末ともに荒唐無稽な話が多すぎる。
しかも小説家(司馬・津本 その他大勢)が
とんでもないホラふくのが最悪。
65日本@名無史さん:2001/01/04(木) 17:12
たぶん、1が根拠として提示するHPは司馬の小説とかから
引用したんじゃないの?
みてもないし無責任だけど
66三国志・戦国板より転載:2001/01/04(木) 21:15
25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:2001/01/02(火) 16:19
韓国側によれば明軍の死傷者は1万人を超えない
とのこと。

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:2001/01/04(木) 20:47
泗川の戦いで島津を攻撃した董一元の軍勢(約37000人)
は寄せ集めの兵がかなり多かった。
董一元が強攻を行ったのも、これまで日本軍と戦った経験が
なかったから。
------------------------------------------------------------------

まあそんなモンだろ。真相は。
67黒田官兵衛    :2001/01/04(木) 22:32
俺が読んだ本には後方に輸送隊がいて、そこに奇襲を掛けて、奇襲を掛けられた輸送隊が前方に押し出されたため前方の兵士が巻き添えを食って、多くの兵士が討ち取られたと書いてあった。
68日本@名無史さん:2001/01/04(木) 23:38
蔚山で清正が苦戦したのは、慶長2年冬。築城途中だった。
明鮮軍の兵力は約6万といわれる。
果敢に攻撃したが結果は2万近い死者を出して敗退。
「明側の士気が上がって泗川を攻めた」
というのは間違い。
士気があがったどころか、主力の大打撃で当分、攻勢に出られなかった。

泗川を攻めたのは翌年の9月。
このときは、秀吉が死んで日本軍の撤収が予測された時期であり、
秀吉の死で日本軍の士気が衰えたと読んで明鮮軍は総攻撃を仕掛けた。
つまり、ようやくかき集めた14万ほどの軍を蔚山、泗川、順天に三手に分けた。
しかし、これらはことごとく失敗。
まず蔚山は築城完成後だったので、びくともせず、清正軍はほとんど無傷。
泗川は4万ほどで攻めたが、島津家文書によると3万6000の首級を挙げた
といわれるほどの壊滅(この数字はやはりオーバーだろうね)。
残る順天も攻めきれず、海から封鎖しようとしたが、島津の救援で順天の行長
は最後尾となって日本本土に撤収。

以上が史実の概略だが、
泗川20万という明の兵力は虚構。
日本側の文書(これも大げさ)を真に受けたものだろう。


69日本@名無史さん:2001/01/05(金) 00:13
>>61 のは慶長2年冬ではなく翌年9月のことだね。
これだと37000x3=111000で
明の総兵力11万〜12万だな。
70「日本合戦全集 5」より抜粋:2001/01/05(金) 00:33
明・朝鮮軍10万をもって、三窟(蔚山、泗川、順天)を同時に攻撃し日本側を朝鮮から
一気に追い落とそうとしたとある。
蔚山に向かう東路軍:明軍二万四千、朝鮮軍五千五百
泗川に向かう中路軍:明軍一万三千五百、朝鮮軍二千三百
順天に向かう西路軍:明軍一万三千六百、朝鮮軍一万余
他に全羅・慶尚の沿岸沿いを進む水路軍:明軍一万三千二百、朝鮮軍七千三百
とある

中路軍は、九月二十八日に泗川の旧城を奪い、十月十日新城の方を攻撃し大敗。
島津側はその戦いで斬首三万八千七百余を挙げて中路軍に壊滅的打撃を与えたとある。
攻めた明・朝鮮軍より斬首された数が多いのは、明・朝鮮軍側には義勇軍が加わってたから

東路軍は九月二十日に蔚山城に迫るが、篭る加藤清正を高評価しており、積極的に攻めず
西路軍は九月十九日から順天城に攻撃を仕掛けるも、攻略に手間取り
そのうち泗川の大敗の報が入り東・西路軍は北へ撤兵した。

その直後に八月十八日に秀吉が死去したとの報が日本軍に入り撤兵を開始、
秀吉の死を知り、日本軍の撤兵を見た明・朝鮮軍は順天城を出た小西行長軍に追撃を
仕掛けたが、それを見た島津・宗等の水軍とが迎撃。十一月十八日に露梁海峡で激突し、
日本軍が辛勝した。
71日本@名無史さん:2001/01/05(金) 14:23
>70
その本以前見たよ。中路軍の明軍は13500?
72日本@名無史さん:2001/01/05(金) 16:51
>65
司馬遼太郎「関ヶ原」に20万という記述あり
73>72:2001/01/06(土) 01:37
司馬の関が原の人数は間違いないよ。
「東西20万の大軍」という形容は正しい。
最近は16万とかいう数字をきちんと出しているようだが、これは当日
戦場に集まった人数。
到着の遅れた秀忠の軍勢3万余や支城の守備兵などを加えると20万になる。

司馬が言いたかったのは、これだけの大軍を一時的に集結する
動員力を持った軍隊は当時、世界東西を見渡しても日本しかなかったということ。

そこがポイント。

司馬<>荒唐無稽

を確認。
74日本@名無史さん:2001/01/06(土) 11:19
>>72
サンクス。発見した。

司馬遼太郎 『関が原(上)』 新潮文庫 P204

泗川の戦いでは小人数をもって二十万の敵軍をやぶり
斬首三万余というすさまじい戦果をあげ

とある。司馬遼太郎って・・・(絶句
75日本@名無史さん:2001/01/06(土) 11:54
74は小説というものがわかっていない厨房
76日本@名無史さん:2001/01/06(土) 12:08
>>75
スレを最初から読めドキュソ
77日本@名無史さん:2001/01/06(土) 12:09
>>75
安易にレス付けると恥ずかしいね(はあと
78日本@名無史さん:2001/01/06(土) 12:09
>>75
司馬オタ逝ってよし
79日本@名無史さん:2001/01/06(土) 12:17
>>75
これ
>>65 >>72 >>74
80日本@名無史さん:2001/01/07(日) 01:02
75は絶句に対していったんだと思うが
81日本@名無史さん:2001/01/07(日) 01:04
この時間の間隔から見ると
74=76=77=78
一気にレスつけるとバレバレだよ
82日本@名無史さん:2001/01/07(日) 11:57
age
83日本@名無史さん:2001/01/07(日) 17:37
司馬はドキュン。
やつの愛読者がさえないおっさんといのも納得。
84日本@名無史さん:2001/01/08(月) 14:38
age
85日本@名無史さん:2001/01/12(金) 16:07
中国はほっとくと数字が増えます。

万里の長城だって、黙っとくと「百万里の長城」って言い出すでしょう

まぁこれは文化的な御国自慢の暴走だから。

86日本@名無史さん:2001/01/21(日) 21:16
age
87日本@名無史さん:2001/01/21(日) 23:24
私も興味を持って文献を調べてみましたが、とりあえず3冊からこの戦いの
記事を説明させていただきます。
金奉鉉著「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争」(彩流社)
韓国人はこの役による朝鮮軍の敗北をどうとらえているのか期待しました。
韓国人らしく、秀吉の悪口ばかりで「禿げねずみ」「無知蒙昧」ととにかく
罵っています。また、この役が「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の先駆けと
断定し、「有名な三光政策の原形がそでにここにあったことが知らされる」と
書いています。
しかし、朝鮮内部の動揺や支配者層の無策無能ぶり、民衆からの搾取などは
詳しく、参考になりました。
泗川(サチヨン)の闘いについて
・朝・明連合軍は3万6000名
・泗川旧城を守っていた川上忠実は門を開いて出撃してみたが、とても勝ち目のない
 ことを悟り、敵は新城に逃げ込むのがやっとであった。
・10月1日の早朝、3万6700人の連合軍は総攻撃を敢行。
・これに対し、島津義弘はただちに強力な反撃を命じた。
・連合軍は戦況が不利と知るや、南江を渡って星州まで退いた。
・この戦闘で島津勢は3万8717の鼻を削いだが約半数は付近一帯の老若男女の
 非戦闘員が無残にも殺されたのである。絶望的な戦争を強いられた再侵略時の
 日本軍の残虐行為はあまりにも際立っていた。
以上の様に、朝鮮方に都合良く書かれた記述が目立ちました。

北島万次著「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(吉川弘文館)
前著があまりにも感情剥き出しでしたので、対になる資料として選びました。
とはいってもどの程度客観的かは不明ですが、それなりに読めます。
泗川(サチヨン)の闘いについて
・島津勢は周辺の兵を本城に引き上げ、わざと弱弱しく振舞ったがこれは島津氏の策略だった。
・9月30日、川上忠実は旧城を脱出。翌日には連合軍が新城に迫ったが鉄砲で撃退した。
・蔚山倭城は普請なかばだったが、泗川倭城は鉄砲隊の戦術に見合った城郭普請が完了して
 いたのである。
こちらにはあまり詳しく書かれておらず、明軍の編成などは分かりませんでした。

『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)
大正十年七月十五日に脱稿された本であり、旧仮名遣いで書かれているためちょっと読みづらいです。
様々な資料から原文をそのまま載せ、解説を加えているのでかなり信頼できると思います。
泗川(サチヨン)の闘いについて
此の一戦の為に、日本軍の威力は、数百年の後迄も轟いた。
此の一戦の敵にあたへたる打撃は洵に痛快であった。徹底的であった。明人が石曼子の名に恐怖した影響は、恐らくは
明治二十七八年役迄も、計上せねばなるまい。
・島津側に於いては、恒に明軍の来襲に備へ、がうも油断なかった。
・然も敵は大勢也、味方は小勢也。さればその勢力を、泗川新城に集合するに若かずとは義弘の軍略であった。
・明軍は幾許あった乎。あるいは十萬騎といひ(島津家記)、あるいは二十萬騎といひ(征韓録)、又た朝鮮側では
 一萬三千五百人(燃(略)室記述)といふ。なほ宣祖實緑には、中路の天兵二萬六千八百、我が(朝鮮)兵二千二百十五名とある。
・流石の文飾的明将も、此の大敗走を誤魔化す訳にはならなかった。
 宣祖實緑によれば「國を辱め威を損ず、深く痛恨すべし。、菫一元は級を降して功を立てしめよ」と重々しく書かれています。

蛇足になりますが、島津勢の泗川城撤退後に入った菫一元は朝鮮王宮より奪われた宝物を目にするが
彼はそれを城ごと焼いたらしいです(文章の解釈が間違ってたら申し訳ありませんが、城を焼いたの
は確実)。また、城に入ると残っていた兵糧二千五百石、馬三百、倭器刀塀を奪い、32顆の首を斬首
したらしいですが、それは朝鮮人捕虜か傷病者との説があります。

結論から言えば、明・朝鮮連合軍が島津よりも多かったのは確実でしょうが、
20萬はやはり誇張気味で、多く見積もって10萬に届くかどうかというのが
私の印象でした。
でも、大軍相手に勝利をおさめた島津はやはり凄いと思います。
88日本@名無史さん:2001/01/22(月) 12:49
>>87

兵糧については、義弘側から明側に交渉したためといわれている。
朝鮮から撤退する日本軍を追撃しないかわりに残った兵糧は明軍に提供する。
明側では島津の強さに心底恐怖していたので、二も無く了承したそうです
89日本@名無史さん:2001/01/22(月) 16:52
当時の満州はどうなってたの?
満州が力をつけて脅威になっていたなら、
90万ほどの兵のうちの20万以上も朝鮮救済のために
派遣するというのはあり得ないと思うんですが。
90日本@名無史さん:2001/01/22(月) 17:22
>>1は薩摩びいきのウヨ厨房。
91日本@名無史さん:2001/01/22(月) 17:25
>>89

仮に20万の大軍だとしても、その全てを明が派遣したものと断定する
のはおかしいのでは無いだろうか?
朝鮮との連合軍だったわけだし、しかも随所の書き込みにも「義勇兵」が
この戦に参加しているとあるので、民間人が義勇兵となりこれだけ膨れ上がった
人数ではないだろうか?
92日本@名無史さん:2001/01/22(月) 21:09
明にとって日本以上の難敵である後金にたいしてさえ
10万の出兵(40万と号した)しかしてないので
一度に10万以上の出兵はあり得ない。

>>89
満州を監視していた遼東軍は文禄の役で壊滅。
満州が強くなるのはそれ以降。
最精鋭の軍は対モンゴル用。
93日本@名無史さん:2001/01/22(月) 22:04
これ戦国板で話したほうがいいよ。ウヨサヨ地獄のここよりも
レスがつくよ。
94日本@名無史さん:2001/01/22(月) 23:49
教養文庫「教養人の東洋史 下」によりますと、
朝鮮救援にきた「宗主軍」明軍は15万とあります。これに朝鮮義兵を加えれば20万に届くかもしれません。
また、当時の満州ですが、文庫の記事を抜粋しますと、
北辺防衛が消極策に変わった明中期以降、明朝は彼等を違いに反目させ、夷をもって夷を
制しようと計ったのだが、これはまた弱肉強食を招く。かくして建州左衛にヌルハチが挙兵したのは1583年、
秀吉の朝鮮侵略のほぼ10年前であった。ヌルハチは明が朝鮮の役に没頭している間に、これと直接衝突するのを
避けながら南は長白山から北は松花江にいたる建州・野人・海西の全女直の住地を手中にいれ、1616年後金国を
称してて汗位に即いた。明もようやく事の重大性を梧り、一九年、朝鮮軍一万を含む数十万の犬軍を傾けて後金の本拠を
衝いた。だがサルフ山の戦に、朝鮮の役の構将をはじめ将士の過半を失って大敗し、ヌルハチは21年、
破竹の勢いで藩陽・遼陽を陥れ、二五年には溶陽に都した。
とあります。ちょっと大まかですので、当時の明が朝鮮と満州をどのように認識していたのかまでは分かりませんでした。
また、この役が明に与えた影響ですが、少なくなかった様です。
日本軍は慶長3年12月には釜山を引き上げたが、明兵は萬暦27年(慶長4年4月)に一部が撤退を始め、
最後まで残った二万四千の兵が引き上げたのは萬暦28年(慶長5年)でした。
当時明は万暦帝の治世でしたが、1582年の寧夏ボバイの乱に始まり、朝鮮の役、97年の播州の楊応竜の乱は
万暦の三大征と呼ばれ、それぞれ二百余万両、七百余万両、二、三百万両を費やし明の財政に大打撃を与えました。
くわえて1597年に宮中の三殿が焼けると、用材を遠く貴州からも運ばせて造営工事を始め、材木一本9000両、
総工費は朝鮮の役を上回ったそうです。そのため銀がますます必要となり盛んになった商品流通を目当てに商税を
取りたてる事が決まり、宦官が全国に派遣されて税金の取り立てが行われました。これが悪名高い『礦税の禍』です。
明人の詩人は「倭奴朝鮮に逼る。虚費百億萬。竭盡す中國の膏。聞かず隻箭に蹶すを」と詠じ、慶長3年に朝鮮の李恒
福が北京に赴いた時、彼は「東征事起、府庫虚耗」(朝天記聞)と記しています。
慶長の朝鮮再役は日本では不人気でしたが、明にとっても不人気であったと思われます。
日本軍も明と戦う気は無かったのですが、朝鮮の強い要請で両者は再び激突しました。
役が終わって後に明の~宗は朝鮮国王宣祖に向かって、「王、舊物を還すと雖も、實は新造に同じ。凋を振ひ敝を起し、
爲に力倍ゝ艱まむ。宜しく薪に臥し膽を嘗め、前恥を忘るる無かるぺし。」と諭した(明史)。
国力の疲弊した明は1644年に滅亡します。朝鮮の役はその原因とは言わないまでも、様々な要因の一つであるのは
確かなこととおもわれます。
以上のことから、明の国力を疲弊させる程の財と兵力が注がれていたのは確実でしょう。
95ありなっち:2001/01/23(火) 00:10
>朝鮮救援にきた「宗主軍」明軍は15万とあります。

明の主張がそうなら、実数は7〜8万でしょう。
96日本@名無史さん:2001/01/23(火) 06:20
>95

いえ、その数が明の主張なのかは不明です。そこまでは載ってませんでしたので。
97日本@名無史さん:2001/01/24(水) 15:03
明軍弱すぎ ププッ
98日本@名無史さん:2001/01/24(水) 15:04
「島津奔る」を読めば?本当のことが書いてあるよ。
99日本@名無史さん:2001/01/24(水) 15:08
じゃあなんで戦闘するたびに敗退してるんだよ?>98
100日本@名無史さん:2001/01/24(水) 15:12
98>99
マジになられても困るんだが・・・
101日本@名無史さん:2001/01/24(水) 15:27
ヌルッ8
102日本@名無史さん:2001/01/24(水) 16:34
>>98
ドキュソ司馬と同レベルの怪書を出すとは凄いにょ。
103日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:06
号20万と実数20万の違いがわからないドキュンがいるとは…
痛すぎ
104日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:29
>>103

まあね。でも、指摘しないとそれが実数だと思う人って
多いと思うんだよね。まあ、それを誇らしげに語るやつも
痛いが。
105日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:41
103>号20万って実数はどれくらいになるの?
106名無しさん@1周年:2001/01/26(金) 21:49
20倍以上の敵に勝ったなんて信じられないな・・・
107日本@名無史さん:2001/01/26(金) 22:34
ホラズムの王子は、十倍以上のモンゴル兵と戦って
勝利を収めている。
他にも、完顔陳和尚とか有名。ま、半分お話だけどね。
108日本@名無史さん:2001/01/26(金) 23:12
日本のいかなる武将でも20倍の明軍を撃破するのは不可能。
109日本@名無史さん:2001/01/26(金) 23:13
中国では二三万集めたら、5万、10万って号するのは常識です。
大軍の方が軍の士気も上がるし威圧効果も高い。

曹操だって14・5万の南征軍を号して100万とか言ってました。

>号20万って実数はどれくらいになるの?
多くて10万。実数20万も集めたら100万と号してます。

110ありなっち:2001/01/26(金) 23:28
立花宗茂も碧蹄館の戦いで3000 VS 7000(?)
で勝ったのを「40万の明兵を破った」って
宣伝したくらいだしね。
111日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:10
『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)より、
朝鮮に入った明軍の編成に関する部分を抜粋させていただきますと。

明軍の南下

萬暦二十五年十一月、経略&#37026;&#29600;は、其の調徴の兵員の大いに集るを見、其の三日に鴨麹]を
渡つた。明帝は帑金を發して軍を犒ひ、&#29600;に尚方の劍を賜うて、&#38315;外の事を一任した。此に
於て&#29600;は、經理楊鎬・提督麻貴等を曾し、南下の作戰方略を定めた。
彼等は思へらく、行長の營は順天にあり、C正の營は西生浦にあり、先づC正を攻め、以て
敵の左臂を斷つ可しと。此に於て全軍を分ちて三協とした。左協は、副總兵李如梅馬歩兵一
萬二千六人を統領し、部將盧得功・董正誼・茅國器・陳寅・陳大綱等之に屬した。中協は、
副總兵高策馬歩兵一萬一千六百九十人を統領し、部將祖承訓・頗貴・李寧・李化龍・柴登科・
苑進忠・呉惟忠等之に屬した。右協は、副總兵李芳春・解生共に馬歩兵一萬一千六亘二十人
を統領し、部將牛伯英・方時新・鄭印・王戡・盧繼忠・楊萬金・陳愚聞等之に屬した。其の
他楊鎬標下の參將彭友徳・楊登山・大同遊&#25802;擺賽・座營維城等、皆其の約束を聽き、期に臨
み調遣し、東西策應することゝした。而して其の監軍は、監察御史陳效であつた。
經略−總督−&#37026;&#29600;は、楊鎬と麻貴とをして、左右二協の兵を率ゐ、忠州鳥嶺より安東に向ひ、
慶州に趨き、專らC正を攻めしめんとし、然も行長か西より來り援けんことを虞れ、中協の
兵馬を、宜寧一帯の地に屯せしめ、東は左右協を援け、西は全羅救援の敵を扼し、叉た三協
中から馬兵一千五百人を割き、朝鮮兵と同じく營を合して、天安・全州・南原より下り、大いに旗鼓を張りて、順天方面に向ふの状を爲し、以て行長を牽掣せんとした。斯くて平壤一
帯をして、豫め行粮十二萬を備へしめ、續調の陸兵二十萬至ると聲言した。
朝鮮兵は、忠C道節度使李時言の兵二千、並に平安道の兵二千は、左協に加はり、慶尚右道
節度使成允門兵二千、防禦使權應銖兵二百、慶州府尹朴毅長兵一千、咸鏡江原二道兵二千は、
中協に加はり、慶尚左道節度使鄭起龍兵一千、黄海道兵二千、防禦使高彦伯兵三百は、右協
に加はつた。
112日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:12
其の火器には、大將軍砲一千二百四十四位、火箭十一萬八千支、火薬六萬九千七百四十五斤、
大小鉛子一百七十九萬六千九百六十七斤、其の他三眼銃、鐵鬚&#31588;、鐵悶棍、火砲、火筒、團
牌、佛郎機等、凡そ日本軍の畏るゝ武器は、悉く充實し、而して其の粮餉は、以て一個月を支ふるに足るの準備をした。
但だ此の際意の如くならなかつたのは、水軍であつた。日本軍は最も海戦に短であつた。然
るに明の水兵は、唯だ三千三百兵に止つた。此に於て&#37026;&#29600;は已むを得ず、水兵遊撃季金をし
て、之を率ゐ、朝鮮の水軍節度使李舜臣と營を合せしめた。然も李舜臣の兵も、只だ二千人
であつた、又走C正が據りたる機張方面にも、朝鮮水軍の將李應龍が、水兵五百饒名を領し
て居たが、島中に潜伏して、敢て出でなかつた。&#37026;&#29600;は朝鮮國王に諮り、銃手二百名と、保
定の長箭手一百名をして、之に應援せしめた。
此の如く分布已に定まつた。此に於て十二月四日(日本暦三日)に、勢揃をした。

大聚菅兵、登壇祭告天地、誓戒官兵。因宴賞諸將、犒賞三軍。祭旗時、萬砲齊發、
聲震天地。朝鮮臣民、擧手加額曰、自生長來、所遇兵革、未嘗見此威儀也。(兩朝平攘録)

〔上講文〕
大に官兵を聚め、登壇天地に祭告し、官兵を誓戒す。因つて諸將を宴賞し、三軍を犒賞す。
旗を祭る時、萬砲齊しく發し、聲天地に震ふ。朝鮮の臣民、手を擧げて額に加へて日く、
生長してより來、兵革に遇ふ所、未だ嘗て此の威儀を見ざるなり。

&#37026;&#29600;は大本營を構へて、京城に駐在し、一切の總轄に任じた。楊鎬は大軍を領して、鱗次に
進發せしめ、自から手下の勇兵數百を率ゐて、十二月八日(日本暦七日)經装鳥嶺を過ぎた。提督麻貴以下、諸將領する兵、合して四萬四千八百人であつた。麻貴は聞慶に至りて、三路
將と軍務を密議し、朝鮮都元帥權&#24991;に向ひ、明軍の蔚山に到るに際しては、宜しく戰船を整備し、多く砲手を載せ、兵を前洋に耀かし、其の馨勢を助く可く命じた。而して十二月二十日(日本暦十九目) 經理・提督・三協將士と、皆な慶州に曾した。

と、あります。この記事に続くのが蔚山城の攻防戦と順天戦役ですがそれは省き、このスレの目的である泗川の戦いの記事を今後載せるつもりです。その戦いまでの間、明軍も兵の再
編を行ったらしいので上の記事が直ちにこの議論の決着になるものではないことも付け加えておきます。
113日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:25
そもそも古代、中世の人間に正確な数字を言わなければ傲慢な人間
だと決め付けるのも酷だと思う。そのころは科学的実証主義の考えも
無かったんだから。
まあ、ここの板の人達はそれぐらいわきまえてると思うけど。
114日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:36
とりあえず泗川の戦いに明軍は何万投入したか?ってのが問題なのだから、
112が文献出すまでお預けだな。
115日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:37
109>ありがとう。そうですよね、それぐらいが妥当だと思う
   当時、の明軍の実態を考えてもそんなに戦力動員できる
   はずもありませんし。
116日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:37
とりあえず泗川の戦いに明軍は何万投入したか?ってのが問題なのだから、
112が文献出すまでお預けだな。
117日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:38
109>ありがとう。そうですよね、それぐらいが妥当だと思う
   当時、の明軍の実態を考えてもそんなに戦力動員できる
   はずもありませんし。
118日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:39
二重かきこになってしまった・・・鬱だ、死のう
119日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:40
>>114-117

なんだよ、これ?
自作自演バレまくり、恥ずかしい〜〜ね、キミ
120日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:45
>>118
自作自演恥さらしは逝ってよし!
121日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:49
ただ、「号」ってのはみかけだけでも数そろえればそれらしく見えるから、
現地徴発の人夫まで数にいれることもある。
とにかく数が大きければいいのだ。

大体戦争には非戦闘員を大量に動員するのが普通で、
10万の軍隊と行ってもその半分ぐらいしか実際には戦わないんだ。
122121:2001/01/27(土) 00:50
コラ(笑)

114は俺だ(笑)
二重カキコはすまない。
123日本@名無史さん:2001/01/27(土) 00:53
119>あの、自作自演なんてするつもり無かったんですけど。
124日本@名無史さん:2001/01/27(土) 02:00
自作自演決め付け厨房は逝け>119-120
125日本@名無史さん:2001/01/27(土) 04:06
プラッシーの戦いでは英軍は3000人で50000のインドの太守の軍隊を破ってるよ。

指揮官がびびってにげだしたので、兵隊も一緒について逃げた。
126世界@名無史さん:2001/01/27(土) 04:35
125>軍事装備の落差が激しすげるよ。
  それを言ったら日中戦争だってあげれるよ。
127日本@名無史さん:2001/01/27(土) 15:51
125が正しい。126もそこそこ正しい。
128日本@名無史さん:2001/01/27(土) 17:19
しかし資料もいっぱいあるんだろうなあ。
112さんのだけで決めていいのか・・・
129日本@名無史さん:2001/01/27(土) 19:04
つーか小部隊で大軍を破った例なら山下将軍のマレー攻略作戦を何故挙げない。
130日本@名無史さん:2001/01/27(土) 22:41
>>126
銃火器の数と質なら、日本のがはるかに上だったと思うけど。
131日本@名無史さん:2001/01/28(日) 04:17
てゆうか同じぐらいの装備の質で大軍を破らなきゃ意味が無いって事だろ?
132日本@名無史さん:2001/01/28(日) 04:23
山下将軍はチャリンコにのせた歩兵3万で戦車と機関銃を装備した英軍10万を降したぞ。
133日本@名無史さん:2001/01/28(日) 19:32
>>132

すごい!どうして勝てたんだろ?
134日本@名無史さん:2001/01/28(日) 20:08
チャリンコにファンネルがついてた
135ガブガリオン!!“!!”!!:2001/01/28(日) 20:30
>132
山下将軍って呼称はおかしくないか?
山下陸軍中将だろ?
136日本@名無史さん:2001/01/28(日) 20:36
全然おかしくない
137日本@名無史さん:2001/01/28(日) 20:54
山下の話は他所でやれ。基地外旧日本軍オタクどもが!
138日本@名無史さん:2001/01/28(日) 20:58
10万の兵力を100万とかぬかす中国人てかなり厨房入ってるね
139日本@名無史さん:2001/01/28(日) 21:15
項羽の虐殺話からだろ?
実数の10倍もしくは10乗して報告する癖は。
140日本@名無史さん:2001/01/28(日) 21:29
怒髪、天を突く!!
141日本@名無史さん:2001/01/28(日) 23:10
>10万の兵力を100万とかぬかす中国人てかなり厨房入ってるね

お前が厨房だ。

桶狭間の時の今川軍だって号して10万とか5万とか言ってたが、
実数は25000ぐらいだぞ。
142ありなっち:2001/01/28(日) 23:15
>>141
あのスレ読んでてウンザリしてきた。
わしも25000以下に一票。
143日本@名無史さん:2001/01/28(日) 23:32
87、94、111、112ですが、
記事の入力は現在半分程度までしかできておらず、明軍が攻めて来たあたりまでです。
なんとか今週中にはアップしたいです。
144日本@名無史さん:2001/01/28(日) 23:37
87、94、111、112ですが、
記事の入力は現在半分程度までしかできておらず、明軍が攻めて来たあたりまでです。
なんとか今週中にはアップしたいです。
145日本@名無史さん:2001/01/28(日) 23:40
2重に書きこんでしまいました…。申し訳ありません。
146日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:16
『近世日本国民史 第九巻 朝鮮役下巻』(時事通信社 昭和三十九年二月十日発行)より、
泗川の闘いに関係する部分を抜粋いたします。
信頼できる資料と思われますので、この議論の参考になればと思いました。
なるべく原文に忠実にしようとしましたが、一部の漢字は略字にせざるを得ませんでした。
また、本来は縦書きの文を横書きに直したため、[右譯文]を[上譯文]に変更しています。
誤字等の誤りがあった場合は申し訳ありません。

明軍の部署と順天城

明軍は從來の經驗にて、水路の上に、兵の缺乏を感じたから、愈ゝ江南の水兵を徴募した。
蔚山役後、陳&#29848;は廣兵を以て、劉&#32150;は川兵を以て、張榜・ケ子龍・藍芳威は、浙直の兵を以
て、陳蠶は水兵を領して、倶に先後して朝鮮に入つた。而して總督&#37026;&#29600;は、左中右三協を以
て、水陸四路に分ち、中路の大將に李如梅を任じ、東路の大將に麻貴を任じ、西路の大將に劉
&#32150;を任じ、水路の大將に陳&#29848;を任じた。其の兵十萬(兩朝平攘録)。或は日く十四萬二干七百餘
(燃黎室記述)。互ひに氣脈相通じ、緩急相應ずることゝした。其の三路の外、水兵の一路を設
けたのは、蔚山の役に懲りたが爲めであつた。但だ中路大將李如梅は、其の兄李如松が、北虜
と戰うて死した爲め、代りて遼東の總兵となり、董一元を以て之を襲はしめた。而して明帝
は、朝鮮國王に向つて、

總督&#37026;&#29600;奏、分兵三路、刻期攻勦。爾國、亦當振飭艀將士、整備兵糧、協助共期蕩平。
毋得專恃天朝、自&#35529;積弱。(皇明實録)

〔上譯文〕總督&#37026;&#29600;奏して、兵を三路に分ち、期を刻して攻勦せしむ。爾の國、亦た當に將
士を振飭し、兵糧を整備し、協助共に蕩平を期すべし。専ら天朝を恃み、自ら積弱に&#35529;する
を得る毋れ。

と訓令した。
147日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:20
東路の大將麻貴は、再び蔚山に向うたか、前失に懲りて、經擧しなかつた。若干の小ぜり合
はあつたが、此の方面には、さまでの活動は見出さなかつた。但だ記す可きは、中路、及び西
路であつた。中路の相手は、泗川の島津で、西路の相手は、順天の小西た。先づ順天から叙す
るであらう。
抑ゝ順天城の普請は、蔚山城と殆んど同時に、否な少し以前に、出來上つた。

赤國の内、順天之御城、御普請悉槻濟、請取申候。恐惶謹言。
十二月二日(慶長二年)
                          小西攝津守行長(判)
備前中納言様
藤堂佐渡守殿
       人々御中
(淺野文書)
斯くして小西行長は、其の主將として、此の城を受持つた。尚ほ此の城に關しては下掲に
て、其の概略の見當がつく。

一 今順天と申城は、四國中國衆、秀吉公御意を以て、取立たる城故、天守有、矢倉等も
敷多有之、如何にも能平地山城也。小西攝津守殿、家來本丸におかれ、攝州は船入に出丸
を拵え、不斷佳宅被成候。
一 今順天之城は、南向也。大手の門南に有之、西の方は陸に續石垣の高貳間計有、堀口
も五間計有之候。深さは壹間半計のから堀也。
東北の方は海也。三十問計の巖石の高岸にて、海深き也。此所を本丸に拵え候。北の方は
既記の如く、加藤C正は蔚山に、小西行長は順天に、而して其の中問の泗川に島津義弘・忠
恒父子は駐屯した。島津父子は、慶長二年八月、南原城の攻圍に参加し、之を陥れ、次で全州
を下したが、八月二十七目、全州を出立し、泗川故城に入りたるは、十月二十八目であつた。

十月廿八日○晴風は北○昆陽を巳の刻御打立被成候て、泗川へ酉の刻に御著候。中途に
て歴々衆餘多御迎に被參候。○武庫様(兵庫頭義弘)も唐人城の外まで御出候。直に御本陣の
様に、若殿様(忠垣)御參候。勿論諸侍衆の事も御供にて、鎧著ながら百二三十人程、武庫様
御陣屋へ被參、庭上に&#34937;候候。叉かち立の御人衆不殘被參候。(面高長坊高麗日記)

此れにて見れば、義弘は忠恒に先ちて、既に泗川に到著して居たものと思はる。

十月廿九日○晴天風は北○泗川大城へ被成御座候。○同新城御普請也。諸大將垣見和
泉守殿、長曾我部土佐守殿、毛利豐前守殿、伊東民部大輔殿、中川伊豫守駿、高橋九郎殿、秋月三
郎殿、叉七殿、右の御人衆、咋日無事に赤國より御帰陣、御祝として追ゝに御出候。(同上)

此の如く泗川新城は、即今築造最中であった。斯くて其の功訖りて、島津父子が新城に移轉
し始めたのは、同十二月二十一日であつた。

十二月廿一日O晴風は北○新城に御移初にて候。御帰鞍の刻、於二中途一御
鷹野にて候、鶉十五留申候。御帰鞍酉の刻。(同上)

斯くて十二月二十七日、愈ゝ移轉を了つた。

十二月廿七日○曉雪も晴申候風は北○泗川新城江殿様奉初、武庫様(義弘)、圖書頭其外大
名衆諸侍衆被成御移候。就は於御城、武庫様、圖書頭へ御祝ひ之御寄合にて候。○於蔚山
加藤主計頭殿居城へ從漢南表、大明人數數百萬騎押寄、加藤主計頭殿折角なる體に候よ
し注進候。就其泗川表へ御座候陣衆諸大名へ、本田新介御使者に被遣候。○蔚川表之儀に
付、固川(固城?)へ野村市右衛門殿御使に被遣候。又七殿、毛利豐前守殿、伊東民部大輔殿、
秋月三郎殿、高橋九郎殿へ御書參候。(同上)

小西攝津守、御無事仕候由にて、九月十九日に、大明人に爲對面罷出候處、返り公事被
申越、敵追掛申候。其身の居城江取入、急軍兵をも數多被討捕、剰對面所に付罷在雜兵以
下をも捨ごろし、沙汰之限成仕合に而篭城仕候。(朝鮮陣古文)

と評してゐる。併し此れは事實は事實としても、卿か酷評たるを免かれぬ、小西は其の立場に
於て最善を竭したに相違ないのだ。
148日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:21
泗川新寨

慶長元年九月、朝鮮再役の始より、慶長三年八月、秀吉の長逝に至る迄、日本内地の事で、
記す可きもの少くない。併しそは他の場合に譲りて、本篇には專ら朝鮮役に就て、叙事の順序
を趁ふ。乃ち是からは、氾川新寨の戰争だ。
此の戰争は、前役の碧蹄館戰争に比す可きものであるが、其の数果は、更らに大なるもので
あつた。此の一戰の爲めに、兎も角も日本軍が、無事に朝鮮から引き上ぐるを得たのみでなく、
此の一戰の爲めに、日本軍の威力は、數百年の後迄も轟いた。山鹿素行は、朝鮮役の爲めに、
日本は外敵の野望より冤かれたと云うたが、彼が所謂る朝鮮役の眼目は、固より此の泗川新寨
の一戦だ。此の一戰の敵に與へたる打撃は、洵に痛快であつた。徹底的であつた。明人が石曼
子(島津)の名に恐怖した影響は、恐らくは明治二十七八年役迄も、計上せねばなるまい、
乃ち島津父子の泗川新城移轉終了の日が、蔚山の危急の報に接した日であつたのだ。故に島
津は之を附近の友軍に報じたのだ。
抑ゝ泗川新寨は、三面海にて、一面陸に接す。海水は自然濠の姿を爲し、運輸の便を占む。
望津・永春・泗川故館の三城は、其の前に聳え、鎭海・固城は、其の右に在り、昆陽一城は、
江を隔てゝ、其の左に在り。而して所謂る新寨は、外圍より見れば、四層となり、日本流の天
守を建て、外は石垣を築き、其の外圍には、嚴重なる木柵を取り捲かしめ、忠恒は牙城に、義
弘は二の丸に居た。

中路倭將薩摩州義弘、素號狡悍。而望津之寨、尤爲天險。北倚晋江(晋州江也)東築永春、
西築昆陽。三寨鼎立、爲掎角。皆峙新于寨之前、新寨三面環海、一面通陸。石曼子義弘居之。
外有石城木柵數重、引海爲濠、海艘泊於寨下者常數千。叉築金海固城爲左右翼。而中造東陽倉、
積粮萬計。屯重兵於舊泗川城、以守之。自望津至新寨、四十餘里、聯築八寨、歩々爲營。
勢甚猖獗、毎迭出、槍掠干陜川、宜寧、咸陽、高靈之聞。(兩朝平攘録)

〔上譯文〕中路の倭將薩摩州義弘、素と狡悍と號す。而して望津の寨、尤も天險と爲す。
北は晋江(晋州江也)に倚り、東は永春に築き、西は昆陽に築く。三寨鼎立、掎角を爲す。皆新
寨の前に峙ち、新寨の三面は海を環らし、一面は陸に通ず。石曼子義弘之に居る、外に石城
・木柵數重あり、海を引きて濠と爲し、海艘の寨下に泊するもの常に藪千、叉た金海固城を築
き、左右翼となす。而して中に東陽倉を造る、積粮萬計。重兵を舊泗川城に屯し、以て之を
守る。望津より新寨に至る、四十餘里、八寨を聯築し、歩々營を爲る、勢甚だ猖獗にして、
毎に迭に出て、陜川、宜寧、咸陽、高靈の間に槍掠す。

大髄に於て、此の記事は確實だ。。此の如くして島津父子は、慶長二年の暮より、慶長三年の
秋迄、此の新寨に在りて、明軍の來襲に備へた。
149日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:23
明軍、漸く新寨に薄る

扨も島津父子は、泗川新寨に在り。其の掩護部除として、永春に川上久右衛門尉久智以下三
百餘人、晋州に三原諸右衛門尉重種以下三百餘人、望津に寺山四郎左衛門尉久棄以下三百餘人、
昆陽に一小部隊を派遣したが、晋州の守兵は、其の對津望津寨の成る後、明の大軍到るとの諜
報を得たから、之を撤して泗川に復帰せしめた。
秀吉は亦た慶長三年正月二十七日附にて、島津父子に向つて、左の警告書を與へた。

態被仰遣候。
一 先手五里三里の問、日々に物見を遣、様子見計、其機遣肝要候。今度蔚山へ取懸の刻も、
敵の様子不知に付ての(一字不明)事の様に仕成由候。毎事機遣不可有油斷候。
(泗川新寨戦捷之偉蹟)

此れは蔚山の籠城が、全く味方の不覺から來た事の経験から、特に敵情偵察を、緊密になす
可く訓示したのだ。秀吉としては、實に左もある可き筈である。されば島津側に於ては、恒に
明軍の來襲に備へ、毫も油斷なかつた。
當時中路の守將は、董一元であつた。彼は宣府前衞の人で、其の父兄何れも武官出身だ。彼
は其の勇は元一奎の如く、智略は之に過ぎ、而して嘉靖・隆慶以來、各所に轉戰した老功の將
だ。(明史)。而して彼の部將遊撃將軍茅國器は、最初全州の守備に任じたが、自から敵魁義弘に
身を以て當らんことを請ひ、更らに兵を揩オて、改めて星州に赴いた。時に董一元は、宣府に
囘り、家丁を募集して、未だ至らず、星州は三面敵を受けて、危殆であつたが、茅國器は浙の
歩兵三千を率ゐ、溝撃將軍盧得功の馬兵三千と與に之を守つた。其の間彼は姪茅明時をして、
諭倭の檄文を作らしめ、叉た謀士史世用をして、秀吉の十惡大罪を數へしめ、專ら言語により
て、日本將卒の心を離反せしめんと企てた。併し此のプロバガンダは、何等の效用もなかつた。
然るに同年八月、董一元は宣府より復りて尚州に至つた。此に於て始めて大與を議し、進ん
で高靈・晋州に駐つた。晋州の前に晋江がある、江の南か即ち望津寨だ。此に於て明兵と、島
津軍とは、始めて接觸し初めた。
當時晋州城は、島津軍撤退の後にて、茅國器は、一萬の大兵を率ゐ、明軍の先鋒として、此
の城に屯した。向岸の望津寨には、寺山久兼の兵僅かに三百餘であつたが、或は紙旗を山谷中
に連立し、或は柴を燒き、烟を騰げ、或は守兵を裏門より陣地前を廻りて、表門に入れ、幾度
となく之を繰り返し、或は銃を放ちて攻勢を示し、敵をして其の虚實を覗ふ能はざらしめた。
されば茅國器は之を見て、董一元に向つて日く、

細看倭營、自望津以至薪寨、勢若長蛇。望津其首也。碎其首、餘如破竹矣。
但晋江不能飛渡、當以計取之。(兩朝平攘録)

〔上譯文〕細かに倭營を看るに、望津より以て新寨に至る、勢長蛇の若し。望津は其の首な
り。其の首を碎けば、餘は竹を破るが如けん。但だ晋江飛び渡る能はず、當に計を以て之
を取るべし。

寺山は能く防禦した。
150日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:25
或時明兵酷暑耐難くや有けん、馬騎歩兵數十卒、番江の畔りに來て、河水に臨み、或は手
足を水に差しひたし、馬の足を冷し、或は遊泳して炎熱を避くる處に、久兼其有様を見すま
して、鐵炮の者二三十人をすぐつて、又た夜をこめ、木の下岩の隱より河畔に下り立せ、隱
し置けるに、件の明兵等、早晩の如く來て遊泳する時、相圖の貝を吹て、一皮に鐵炮を放た
せければ、過半打倒されて、晋江の河流となれり。(征韓録)

然も敵は大勢也、味方は小勢也。されば寧ろ其の勢力を、泗川新寨に集合するに若かずとは
義弘の軍略であつた。亦た勢ひ實に然せざる可からざる場合に迫った。されば義弘は寺山久兼
をして、望津寨を燒き撤退せしめ、叉た川上久智をして、永春より撤退せしめた。久兼が泗川
新寨に還つたのは、九月二十日であった。而して昆陽も亦た敵有となつた。
但だ川上忠實は、筒ほ泗川故に在つたか、彼は九月二十八日の曉を以て、義弘の召還に應
ぜんとするの際、其の前夜、即ち九月二十七日、敵將夜に乘じて、之を圍んだ。此に於て川上
忠實は三百餘人を率ゐて突撃し、明の驍將李寧・盧得功を斬つたが、衆寡敵せず、城を捨て圍
を突破して、忠實自から殿し、三十六の矢を被り、新寨に入つた。島津軍の死者實に百五十人、
餘は皆負傷せぬ着はなかつた。
 忠恒は頻りに忠實を救援せんと請うたが、義弘は之を許さず、伊勢貞昌をして徃しめ、忠
實の殘兵を迎へて、之を收容せしめた。島津忠長・伊集院抱節の徒、明軍の晋江を渡り、望津
三里の間に露營するを、忠恒に告げた。忠恒は明軍を不意打に襲ひ、之を鏖にせんことを請う
たが、義弘は復た之を許さなかった。蓋し義弘の胸中には、既に敵を泗川新寨の脚下に引き
付け、之を殱滅するの成竹が、在つたに相違ない。
151日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:26
 明國側から見たる泗川新寨の戰争

抑ゝ泗川新寨に寄せ來りたる明軍は、幾許あった乎。或は十萬騎と云ひ(島津家記)、
或は二十萬騎と云ひ(淵邊眞元覺書、征韓録)、又た朝鮮側では一萬三千百人(燃黎室記述)と云ふ。
&#29574;に二十萬と云ふは、明軍の總數五十六萬、その十八萬は順天に、他の十八萬は蔚山に、而して
殘餘の二十萬を以て、泗川に當つたと云ふ勘定だ(茜藩野史)。併し朝鮮側では、明の來援の總
軍數を十四萬三千としてゐる。果して此の數が當てになるならば、其の最極度を計上するも、
其の三分一強が、泗川に來たものとせねぱならぬ。然も朝鮮側では、泗川攻撃軍を僅かに一萬
三千五百人と計上してゐる。二十萬は固より過大であるが、一萬三千五百人も、過小に失する
檬た。更らに敵軍の數を分類して、左の如く記する者がある。


      歩兵三千    遊撃  茅國器
先 鋒   同 千五百   同   葉邦榮
      同 三千    同   彭信古
      計七千五百人


      馬兵一千    遊撃  &#37085;三聘
兩翼隊   歩兵三千    同   師道立
      馬兵一千    同   馬呈文
      歩兵三千    同   藍芳威
      計八千人

      歩兵四千五百  副總  兵張榜
      歩兵五百    遊撃  塗寛
本 隊   歩馬兵二千二百 韓將  鄭起&#40850;
      馬兵一千    遊撃  故盧得功の兵
      歩馬兵約五千  提督  董一元
      計一萬三千二百餘人
     合計二萬八千七百餘人          (伴三千雄君の意見)

尚ほ宣租實録には、中路の天兵二萬六千八百、我が(朝鮮)兵二千二百十五名とある。
以上種々の説があるが、常識判斷を以て見れば、先づ最多に積りて四五萬人とすれば、差支
なからう。而して之に對抗したる薩摩勢は、或は一千と云ひ(西藩野史)、或は三千に滿たずと
云ひ(淵邊眞元覺書)、或は五千と云ふ(泗川新寨戦捷之偉蹟)。何れにしても其の間であつたらう。
元來島津氏の朝鮮軍役は、一萬の兵であるが、遂ひに其の數に上つた事がなかつた。されば極
めて多數に見積るも、多く五千を出でなかつたであらう。兎も角も彼は我に比して、十倍以上
の多數であつたに相違あるまい。
吾人は此の戰争に就ては、先づ明軍側の記事から、吟味せねばならぬ。
152日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:26
二十八日夜半、發兵襲泗川。李寧以大同驍將、恃勇背衆先入。失道、反爲倭乘之、
被倭亂斫死。及明、我兵大衆至。倭方四散、槍刈禾稻。見我兵、皆棄禾奔散城内。
尚有數千倭、倉皇出戰。我兵衝撃、斬級幾百。慮得功以騎兵衝陣、被鳥銃陣亡。
ョ歩兵力戰、倭始棄城、敗奔新寨。官兵遂燒東陽倉之粮、二日二夜、烟&#28976;不息。倭不敢出救。
(兩朝平攘録)

〔上譯文〕二十八日夜半、兵を發して泗川を襲ふ。李寧大同の驍將を以て、勇を恃み衆に背
き先ず入る。道を失ひ、反て倭の爲に之に乘ぜられ、倭に亂斫せられて死す。明るに及びて
我が兵大衆至る。倭方に四散し、禾稻を槍刈す。我が兵を見て、皆禾を棄てて城内に奔散す。
尚ほ數千の倭あり、倉皇出でて戰ふ。我が兵衝撃。級を斬る幾百。慮得功騎兵以て陣を衝き、
鳥銃を被むりて陣亡す。歩兵の力戰にョて、倭始めて城を棄て、新寨に敗奔す。官兵遂に
東陽倉の粮を燒く、二日二夜、烟&#28976;息まず。倭敢て出でて救はず。

此れで見れば、泗川舊館の戰争にて、李寧は斫殺され、盧得功は鳥銃にて射殺せられたのだ。
然も明軍の前景氣は、蓮戰蓮勝と云ふ姿にて、頗る良好であつた。

我兵不旬日、&#23650;戰、&#23650;克、軍威大振。至二十九日共議、進兵取新寨。即義弘所居、
沿海之大營也。茅國器日、我雖連破數寨、而擒斬不多、倭盡併歸大營。守必竭力、
攻之未必能下、而各寨救且至。非全策也。不若先攻固城。新寨之倭、鋭氣方挫、
未敢來救、而固城城小倭寡易破。固城一下、新寨援絶。然後相機而進。似爲全策(同上)

〔上譯文〕我が兵旬日ならずして、&#23650;ば戰ひ、&#23650;ば克ち、軍威大に振ふ。二十九日に至りて
共に議し、兵を進めて新寨を取らんと。即ち義弘の居る所、沿海の大營なり。茅國器日く、
我れ連りに數寨を破ると雖も、而かも擒斬多からず、倭盡く併せて大營に歸る。守りは必
ず力を竭し、之を攻むるも未だ必ずしも下す能はず、而して各寨の救ひ且に至らんとす。全
策に非ざるなり。若かず先づ固城を攻めんには。新寨の倭、鋭氣方に挫け、未だ敢て來り救
はず、而かも固城は城小に倭寡なく破れ易し。固城一たび下れば、新寨援ひ絶えん。然る後
ち機を相て進む。全策たるに似たりと。

茅園器の此の論は、確かに一隻眼を有する見解た。特に皇明從信録にも「薩摩州兵、剽悍稱
勁敵」と特筆せられてゐる通り、彼等を孤城の下に攻圍するは、窮嵐猫を噛むの惧あるは、
勿論の事だ。
153日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:27
董師(董一元)狃望津等寨之易破、便以輕敵。乃云、本鎭看新寨、倭亦無幾何。固城易與耳。
今先攻新寨、如疾雷不及掩耳。此寨破、固城不戰自潰矣。遊&#25802;彭信古、素輕敵寡謀。乃言、
某親至彼探視、城中烟火不多、可取。遂決意發兵。(同上)


〔上譯文〕董師(董一元)望津等の寨の破れ易きに狃れ、便ち以て敵を輕んず。乃ち云ふ、本
鎭新寨を看るに、倭も亦た幾何く無し。固城與し易きのみ。今ま先づ新寨を攻めば、疾雷の
耳を掩ふに及ばざるが如し。此の寨破れば、固城戰はずして自ら潰えんと。遊&#25802;彭信古、素
より敵を輕んじ、謀寡なし。乃ち言く、某親ら彼に至りて探視するに、城中の烟火多からず、
取るべしと。遂に意を決して兵を發す。

以上が新寨進攻の徑路だ。彼等は新寨の寧ろ望津・永春・泗川舊館等の如く、輒く潰ゆるも
のと輕信した。

十月初一日、茅園器、葉邦營、彭信古、歩兵三營直抵寨下攻打。其&#37085;三聘、師道立、
馬呈文、藍芳威四營馬兵、分作左右堵兵、止留歩兵一枝、守老營。(同上)

〔上譯文〕十月初一日、茅園器、葉邦營、彭信古、歩兵三營直に寨下に抵りて攻打す。
其の&#37085;三聘、師道立、馬呈文、藍芳威四營の馬兵、分ちて左右の堵兵を作り、止だ歩兵一枝を
留めて、老營を守る。

此の如く董一元の中路軍は、全力を傾けて新寨に殺到した。

於是茅葉二將、自卯力攻至巳。用大將軍木槓、己打破大門扇、城&#22428;數處。而彭兵皆
京城亡頼、素不習戰、亦不善火器、忽木槓破、藥發衝起、半天倶K。各兵一時自驚亂。
倭因無隙、從前小門殺出、直冲彭兵。皆潰走。&#37085;師馬騎兵、方環而射。一見兵潰、
各望風遁走。茅葉兩營殊死鬪。然已在重圍中、衆寡不敵、殺傷甚衆。藍芳威駐兵十里外、
斷後亦走。董師不能約止、各兵遂大潰。堕崖落穽、不可勝記。彭兵三千、止存五六十、
茅兵亦損六七百。茅營中軍徐世卿被捉去、不屈而死。(同上)

〔上譯文〕是に於て茅葉二將、卯より力攻し巳に至る。大將軍の木槓を用ひ、已に大門一
扇、城&#22428;數處を打破す。而して彭兵は皆京城の亡頼、素より戰に習はず、亦た火器を善くせ
ず、忽ち木槓破れ、藥發衝いて起り、半天倶にKし。各兵一時に自ら驚亂す。倭隙無きに因
り、前の小門より殺出し、直に彭兵に冲る。皆潰走す。&#37085;師の馬騎兵、方に城を環りて射る。
一たび兵の潰ゆるを見、各ゝ風を望みて遁走す。茅葉の兩營殊死して鬪ふ。然かれども已に
重圍の中に在り、衆寡敵せず、殺傷甚だ衆し。藍芳威兵を十里の外に駐め、後を斷たれて亦
た走る。董師約止する能はず、各兵遂に大に潰ゆ。崖に堕ち穽に落つるもの、勝げて記す可
からず。彭兵三千、止だ五六十を存し、茅兵も亦た六七百を損ず。茅營の中軍徐世卿捉へ去
られ、屈せずして死す。

此れが明軍側より見たる敗戦の梗概だ。而して其の始末は如何。
154日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:28
及抵望津、茅遊&#25802;謂、望津天險、得之不易。若棄去、復爲倭據、前功盡棄矣。因會集諸將、
收散兵、欲復守望津、請命董師。董師曰、此地亦孤立、&#20504;固城倭併力來攻、何以禦之。
惟應暫還星州、圖再擧耳。各將遂不敢留、盡日奔囘。此時、忍餒扶傷、天寒日暮、
晝伏夜行、盤桓萬山中、奔走一二百里。哭聲震野、接殞道路者、叉數百人。直抵陜川、
方得少息。倭以粮餉被燒、亦不敢遠追(同上)

〔上譯文〕望津に抵るに及び、茅遊&#25802;謂らく、望津の天險、之を得る易からず。若し棄て去
らば、復た倭の據と爲り、前功盡く棄たらんと。因つて諸將を會集し、散兵を收め、復た
望津を守らんと欲し、命を董師に請ふ。董師日く、此の地亦た孤立す、&#20504;し固城の倭力を併
せて來り攻めば、何を以て之を禦がん。惟だ應に暫らく星州に還り、再擧を圖るべきのみと。
各將遂に敢て留らず、盡日奔囘す。此の時、餒を忍び傷を扶け、天寒く日暮れ、晝伏し夜行き、
萬山の中に盤桓し、一二百里を奔走す。哭聲野に震ひ、道路に接殞するもの、叉た數百人。
直に陜川に低り、方に少しく息むを得たり。倭粮餉饒かるるを以て、亦た敢て遠く追はず。

如何にも慘めな始末た。小西の平攘落と、殆んど譯ぶ所がない。然も小西は大敵に破れ、董
一元等は小敵に破らる、固より同一の論ではない。明軍は此の大打撃を受けて以來、終に再び
振はなかつた。
155日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:29
泗川新寨の勝利

 飜つて日本側の記事を見れば、諸書の記する所、大同小異であるが、先づ西藩野史に據りて
記すれば、次の通りである。

九月二十九日、明の騎將十餘人、鉦を鳴らし、泗川新寨を去る十四五町の所に來り、榜木を
立てゝ去つた。白濱七助・頴娃主水、命を承けて取り還つた。それには、

明日、十月朔日、可攻新寨。豫諭其故於寨將。勿&#24492;徨。

〔上譯文〕明日、十月朔日、新寨を攻むべし。豫じめ其の故を寨將に諭す。&#24492;徨する勿れ。

と大書して在つた。仍りて義弘・忠恒は、自から大手東を守り、圖書頭忠長は、潮入口−北方
−を守つた。敵は果して十月朔日の黎明より攻め寄せ來つた。義弘は二囘城中を巡視して、其
の出づるを許さず、且つ鳥銃を發つを禁じ、飽迄味方の銑氣を養ひ、敵に弱きを示し、自から
門左の櫓に上り、忠恒は右の櫓に在りて、指揮をした。
 敵將茅國器・葉邦榮・彭信古等は、大手より向らた。&#37085;三聘・師道立・馬呈文・藍芳威等は
左右に備へ、董一元は、自から中軍に將となり、巳の刻に、&#22573;に詰め寄せた。薩摩軍は逸りに
逸りて、矢炮を發せんとしたが、敵兵が間近く來り、已に城壁に附かんとするに際して、漸く
之を許した。忠恒は左の櫓に上りて、義弘に面した。折りしも白赤の二狐走りて、城中より敵
陣に入つた。此れは稻荷大明神の捷軍の奇瑞を示し給ふのであると、士氣大いに振うた。忠恒
は叉た右の櫓に還り、自から鳥銃を取りて、敵兵數人を斃し、又た弓を取りて射た。敵兵は發
槓にて櫓を打つた。櫓上にある身隱れの板、日光に映じて、敵の照星となつた。有馬衣布衛門、
筵を掛けて、之を掩うた。忠恒の弦斷るゝや、次右衛門兩度弦を掛けて獻じた。何れも息斷
るゝが故に、桶に水を盛りて、櫓に上げ、椀を浮べて之を飲んた。
 彭信古は城北を攻めた、木槓にて門を破らんとした。忠長は鳥銃を連發した。銃臺熱して手
に取れず、故に手巾を水に濕し、拭うて叉た發した。然る所敵の木槓破れ、火移りてK&#28976;天に
瀰つた。今は頃合好しとて、城門を開き、城中の兵は、寄手に向つて進&#25802;した。年少氣銚の忠
恒は、靼鹿毛の馬に乘りて、眞先に駈け出した。本田與兵衛・鎌田次右衛門・木脇三左衛門等
銜を取つて、急奔するなからしめ、野に至つて之を放つた。當時薩軍は頻りに斫出を迫り、
義弘は之を容さなかつたから、何れも奮怒激昂して居た。されば其の一たび許可を得るや、全
く城門を開く遑あらず、僅かに半扉を開きて、競ひ出でた。所謂る口碑に殘る朝鮮の半扉とは
此の事だ。
156日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:31
 勢ひ此の如くなれば、敵兵乍ち潰走した。忠恒は衆に先ち敵を斬り、馬を丘に立てゝ休んだ。
本田次右衛門・野崎十兵衛走り來り、輕しく進んで士卒と功を爭ふは、良將でないと諌めた。
偶ゝ伊勢貞昌は、血刀を振うて來た。忠恒は本田・野崎を振り除け、更らに突進した。明軍百
餘人列を成して退くに會した。三人馬を還し、鑓を取りて忠恒の馬を突いた。忠恒は馬より飛
び下つた。叉た彼の肩を突いた。彼は屈せず、刀を抜き、一人を斬り殺した。二人叉た進み來
つた。平田新左衛門尉・床並佐助來りて、之を追うた。平田は忠恒の斬つた敵の首を取り、靼
鹿毛の馬を引き來つて乘らしめた。忠恒は叉た進んで敵を追うた。北郷三久、敵と組み打ちす。
忠恒共の首を斬つて、三久の臣束野叉兵衛に持たしめた。追&#25802;叉た追&#25802;、彭信古の兵は、殆ん
ど鏖にせられた。
 圖書頭忠長は、北門より出でゝ、敵兵を殺し、勝に乘じて進んだ。茅國器・葉邦榮の兵は、
旌旗・甲冑皆な赤色であつた。西北の丘に在り、薩軍の盡く城を出づるを望み、列を正しく
伍を整へ、鼓噪して城に向うた。忠長此を見て、俄かに軍を返し、川流に臨んで敵に傭へた。
敵進み戰ひ、忠長の先隊は既に敗れんとしたが、出水勝左衛門等指揮して、衆に必死を示した。
忠長亦た眞先に進み敵に當ったが、衆寡敵せず、頗る危殆に陷つた。時に樺山左衛門久高・
島津新八郎忠在・寺山四郎左衛門久兼・川上源三郎久國・新納彌太右衛門忠掾E新納勘解由久
宣・川上久右衛門久智・二渡次兵衛重利等、遥に之を望み、北嶺に登りて矢炮を發ち、敵の後
軍を射&#25802;した。此に於て明軍驚駭し、自ら相躁踐した。忠長の軍、機に乘じて其の前を&#25802;つ
た。伊集院抱節一軍を率ゐ來つて、亦た之に當った。敵兵終に泗川故に向つて潰走した。忠
長・抱節・久高・久棄等北ぐるを追ひ、敵を殺す無數であつた。
 初め義弘は、茅國器が軍を望み、菱刈源兵衛を召して曰く、丘上の敵兵は、横入するではあ
るまい乎と。源兵衛曰く、或は然らむ、但だ弱兵である、虞るゝに足らずと。故に義弘は軍を
班さず、斯くて忠長は遂ひに其の勝を奏した。
 永春と泗川故との問に、細流ある。水深くして渡る可らず、石矼ありて、僅かに往來
を通じた。董一元の兵五百人之を守つた。頴娃主水走つて石矼に登つた。肩を射られて斃れた
が、白阪惣兵衛之を扶けて退いた。赤衣の敵に善く射る者があつた。上川久智、白阪に指揮し
て、之を&#25802;たしめた。白阪鐵砲を發ちて之を斃した。久智衆に先ちて矼を越えた。吉田大藏・
伊集院抱節・諸軍之に續いた。敵兵彌潰奔した。忠恒は奔馬に鞭を加へたが、馬倒れ&#32366;絶つ
た。忠長の臣和泉勝左衛門馬を起こし、&#32366;を斷いだ。忠恒は又た之に乗つて追&#25802;し、晋江の邊に
至つた。敵兵江に溺るゝもの亦た無數であつた。
 此の日義弘親ら敵四人斬つた。衆之を稱した。義弘曰く、頽齡輕忽、深く慙づる所、汝等
堅く云ふ勿れと。忠恒は七人を斬つた。義弘は川上四郎衛忠見を召して曰く、忠恒壯年血氣未
だ定まらず、輕卒の動作、我甚だ之を危む、汝其の側に在って、何故に諌めなかつた乎と。忠見曰
く戰場に際しては、大將と雖も、此程の振舞なくてはならぬと。一堂其の辭氣の壯烈に感じた
157日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:32
漢南勢、泗川に押寄す

慶長三年戊戌十月朔日、漢南人泗川を攻べく由、前々日大札に書て城の門前に立たり。如其辰の刻に
寄來、其勢雲霞のごとし。鐵炮を以って打てどもゝ、持楯を荷寄、死人を乘越へゝ押寄、ほいちと云物
を以って城に火を付、或は鋒火矢を打、鐘太鼓を鳴て攻寄、燒草を以て城を燒かんとする。味方よりは鐵
炮を以て防戰。餘り繁く打故に、鐵炮あたゝまり手にとられざる故に、手拭を水にひたし、鐵炮を拭ども
不冷終多打たり。かくて敵より城を燒かんとする&#30444;&#28935;壺を鐵炮にて打破る。夫に火入て燃揚たるに敵
驚き騒ぐ、其虚に乘て城門を開て切て出る。敵敗軍して四面八方に逃散る。忠恒公諸卒に下知して追給ふ。
義弘公は跡に備給ふ。久國は下野守久元、寺山四郎左衡門久兼杯一手に成て敵を追ひ、左の岡に赤備の
敵數萬餘にて備を堅ふして在る脇に見て追行に、赤備の敵一萬許取て返て城に赴く、其勢い當るべからず。
味方は城を拂て出ぬれば、危く思ふ所に、小川の端に昧方手一備敵を受留め戰ふ。誰ならんと見るに、
久元の云、父圖書頭の馬印なりと云。是も小勢にて危く思ひけるに、寺山下知して跡に殘たる敵に鐵炮
打掛よと、夫に依て跡に殘たる歩卒の類に鐵炮打掛たり。其敵逃る先口をあけてよしと寺山久兼悦び、
先に進み走る敵と其間續たる故に、先の勢もともに敗軍す。敵を追ふ事五里、首を取事三萬八千七百餘、
其外切捨は數を不知。其後通辭孫四郎語る、赤傭の大將は、孟郎爺國器なり。總大軍敗死するは八萬也
と云々。孫四郎は元來大明人なるが、故有つて薩州穎娃民百姓の下人と成て居たるを、穎娃殿乞取て、
太守様九州退治被遊候時、方々の陣に召列られし者なる故に、能く御家の武功を知て、泗川を責は利有
るまじと度ゝ諸將を諌めけると。孫四郎は此方にての名なり。大明に歸て後通事に來るなり。(川上久
國泗川御在陣記)

泗川新寨戦捷の収穫

薩軍は泗川新寨大勝利の夜−慶長三年十月朔日−泗川の原野に、馬印を建て兵を集め、勝鬨
式を擧行した。

 義弘公K絲縅の鎧を著け、南面にして、床机に居す。川上忠見冑を持て左にあり、川上久
智長刀を持て右にあり。忠恒公紫縅の大實の龍を畫ける鎧を著け、床机に踞し、東面して蓋傘
す。樺山久高雄刀を取て、左にあり、川上久首團扇を取て右にあり。衆軍大將の後にあり。
忠恒公親から撃つ處の首二つ、義弘公討つ處の首一つを實檢す。平田宗位、忠恒公の肩を傷
け、公に討たれたる敵の首を携へ來り、義弘公の左三歩許りの所に置く。義弘公太刀を抜き、
逆手に取り、鋒を下げて、右の脇に持ち、太刀を後にして、六足反倍す。太刀先を首に向
て印す。首引導終り、右に廻り床机に踞す。初て秀吉賜ふ處の小泉の兜を取りて、六具備へ
て南面し、合掌して、呪を唱ふ。久智太刀を奉じ、身繕し、七足反倍す。叉呪を誦して、角
商宮の三ゝ九聲を發す。衆軍三たび和して終る。(西藩野史)

如何にも痛快の事であつた。而して、彼等の所謂る首帳なるものは、左記の通りである。

慶長三年十月一日於朝鮮國泗川表、討捕首注進之事。

一 首壹萬百八        鹿兒島衆討捕也。
一 首九千五百二十      帖佐方衆討捕也。
一 首八千三百八十三     富隈方衆討捕也。
一 首六千五百六十      伊集院源次郎手討捕也。
一 首四千百四十六      北郷作左衛門手討捕也。

 合三萬八千七百十七。
 此外切捨者不知其數。                    (征韓録)

 此の數果して精確である乎、否乎は疑問だ。然も石田三成の伊達正宗に與へたる書状中に
も、「於島津城際、遂一戰、味方得勝利切崩、三萬五千餘首討捕、晋州川端迄追詰、討捨不
知其數」(伊達文書)とある。慶長四年六月、義弘・忠恒父子の名によりて、高野山に建立し
たる供養塔には「慶長三年十月朔日、於慶尚道泗川表、大明人八萬餘兵&#25802;亡畢」とある。
三萬八千七百十七さへ、過大と思はるゝ、八萬とは如何る計數に出でたの乎。此れは明國
通事張昂して、明人史龍添に其の歿陣者の數を問はしめたるに、八萬と答へた。其の故を内
藤飛騨守−所謂る小西如安−が問うたらば、軍糧八萬人を剩したが故に、之を知ると答へたと
云ふことだ。
158日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:33
 三萬にせよ、八萬にせよ、其數は問題でない。但だ其の大打撃の、如何に猛烈にして、徹底
的であつたかは、石蔓子の名が、明人を恐怖せしめたことにて判知る。
 元來董一元は、薩軍の威力に辟易して、容易に進み得なかつた。此れは少年の時に薩摩に流
寓し、後に南京に還り、今同通事として、明軍に随伴したる張昂の言によりて、脅かされたの
であらう。されば朝鮮の諸將は、主將の腑甲斐なきに怺へ兼ねて、九月二十七日、決戰せんこ
とを乞うたとある。然るに一たび舊を取るや、彼は脱兎の如く、前後の考へなく突進して、
却つて逆&#25802;せられ、恢復し難き大敗を招いた。
尚ほ此の原因に就て、茅國器の説によれば、

 今度於此新寨失勝利根元五つあり。第一には、寺山四郎左衛門久兼小勢にて、望津に
在て、種々奇計を運すに依て、大勢ありと見誤て、六月廿日より九月下旬まで、晋州にあり
ながら、終に河を不渡して、新寨の普請、堅固に調へさせし事。第二には、國器は先づ固
城を攻べしといへども、一元國器の言を不用、泗川の大營を攻て、角く敗北せし事、是無
慮故なり。第三には、合戰の時に當て、番船を廻し、城兵出たる虚に乘じ、火兵を以て城
を燒拂ふ可き旨、陳&#29848;が方に申し遣すと雖も、陳&#29848;船を廻されず。第四には、楯を突き並べ
仕寄るの處に、大鐵砲にて打通し、剩さへ藥器等に至る迄、打破るの故、味方進む事を得ず。
是程大鐵砲あることは思慮の外なり。第五には、國器城の虚を見て、入れ違はんと欲する
所に島津圖書頭に相支られて、術を失へり。(征韓録)

惟ふに以上の所説は、中らずと雖も、遠からざる可し。

 去月二日、龍伯へ御注進状、昨日到來、令披見候。然而其表大明人九月十九日に罷出、
晋州に陣取、去月朔日其城へ取懸處、大鐵砲にて被打立、其上被及一戰、即時に伐崩、
晋州河際迄追詰、悉被討果之由候。殘黨等晋州大河へ被追入、無殘所御働、誠以御手
柄無比類次第候。
 殊に江南大將九人、合人數二十萬騎有之處、如此之儀無申計候。並御父子自身被碎
手、數多被討捕之由、無是非儀に候。因&#29574;御家申衆手柄之由令察候。
 然者蔚山表、順天へ罷出候敵、右之仕合候間、定可爲敗北候。雖然先度小西寺澤依
注進、此方御人數舟手以下、追々可令渡海之旨、被迎出候。隨而徳永法印、宮木長次を
以、如申遣候。敵於引退者、各被遂相談、諸城釜山浦へ被引取、其より可有御歸朝候。
恐々謹言。
十一月三日
                        輝   元(在判)
                        景   勝(在判)
                        秀   家(在判)
                        利   家(在判)
                        家   康(在判)
羽柴兵庫頭殿
島津叉八郎殿                       (征韓録)

159日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:34
此の一戦が、如何なる影響を明廷に及ぼしたかは、左の記事にて判知る。

上以、中路失利、因驕將輕、懦將畏敵、主師不能折驕鼓懦、分布無法、申令
不嚴、致一軍少却、衆軍皆奔。辱國損威、深可痛恨。倶當斬&#29413;。着&#37085;三聘、馬呈文、即
軍前斬首梟示。彭信古等擬死、著立功贖罪。仍究其軍中起火漉R。董一元降級立功。
仍諭&#37026;&#29600;等、卒屬用心行事、不得由畏阻。宜安重如山、撼搖不動。緩急進止、
各有定算、相度機宜、以全取勝。(神宗實録)

〔上譯文〕上以らく、中路利を失せるは、驕將敵を輕んじ、懦將敵を畏れ、主帥驕を折き
懦を鼓する能はざるに因り、分布法無く、申令嚴ならず、一軍少しく却き、衆軍皆奔るを致
す。國を辱しめ威を損ず、深く痛恨すべし。倶に當に斬&#29413;すべし。&#37085;三聘、馬呈文を着して、
軍前に即いて首を斬り梟示せよ。彭信古等に死を擬し、功を立てて罪を贖はしめよ。仍ほ其
の軍中火起るの漉Rを究めよ。董一元は級を降して功を立てしめよ。仍ほ&#37026;&#29600;等に諭し、屬
を卒ゐ心を用ひ事を行ひ、畏阻するを得ざれ。宜しく安重なること山の如く、撼搖するも動
かざるべし。緩急進止、各ゝ定算あり、機宜を相度し、全きを以て勝を取れ。

 流石の文飾的明將も、此の大敗走を胡魔化す譯には參らなかつた。そは餘りに其の事實が、
昭著であつたからだ。
160日本@名無史さん:2001/02/01(木) 01:39
すみません、いくつか漢字のまちがいがあったみたいです…。
161日本@名無史さん:2001/02/05(月) 19:01
全く反応が無い…
162日本@名無史さん:2001/02/05(月) 19:52
適当にかいつまんで訳してくれよ。
163ありなっち:2001/02/05(月) 20:23
せっかく転載してくれた人に無反応とは俺達は鬼か?
ざっと見た限りでは昭和39年にしては、ノリがモロに
昭和初期ってかんじだな。
「我が日本は尚武の国」ってオーラをかもし出してる。
164日本@名無史さん:2001/02/05(月) 20:45
別にそうとは思わんぞ。
165日本@名無史さん:2001/02/05(月) 20:50
>162
申し訳ありません、私も細かい所がよく理解できないので
訳は難しいです。

>163
この本は元々大正十年七月十五日に脱稿された本ですので…
166日本@名無史さん:2001/02/05(月) 23:41
162さんの要望により、とりあえず自分の可能な範囲で現代語に直して見ました。
誤訳があったらごめんなさい。

泗川新寨

慶長元年九月、朝鮮再役の始めより、慶長三年八月、秀吉の長逝(ちょうせい、遠くへ去って
永久に帰らない意から、死ぬこと)に至るまで、日本内地の事で、書くべきことは少なくない。
ただしそれは他の場合に譲ることにして、本篇にはもっぱら朝鮮役において、起こったことを
追う。すなわちここからは、泗川新寨の戦争だ。
この戦争は、前役の碧蹄館戦争に比べられるものであるが、その効果は、さらに大きなもので
あった。この一戦のために、ともかくも日本軍が、無事に朝鮮から引き上げることを得ただけ
ではなく、この一戦のために、日本軍の威力は、数百年の後までもとどろいた。山鹿素行は、
朝鮮役のために、日本は外敵の野望より免れたと言ったが、彼がいわゆる朝鮮役の眼目(人の
顔の中で最も大事なものである目の意から[ある物事の中心となる最も重要なところ、最も重
要な目的])は、もとよりこの泗川新寨の一戦だ。此の一戦の敵に与えたる打撃は、まことに
痛快だった。徹底的だった。明人が石曼子(島津)の名に恐怖した影響は、恐らくは明治二十七
八年ごろまでも、計上しなければならないだろう。
すなわち島津父子の泗川新城移転終了の日が、蔚山の危急の報に接した日であったのだ。その
ために島津はその事実を付近の友軍に報告したのだ。
泗川新寨は、その三面が海で、一面のみを陸に接する。海水は自然の濠となし、運輸は極めて
便利である。望津・永春・泗川旧城の三城は、其の前にそびえ、鎭海・固城は、その右にあり、
昆陽一城は、河を隔てて、その左にあり。いわゆる新寨は、外より見れば、四層となり、日本流の
天守を建て、外は石垣を築き、其の外には、厳重なる木柵が取り巻いている、忠恒は牙城(大将などが
いる城の中心、本丸)に、義弘は二の丸に居た。

中路倭將薩摩州義弘、素號狡悍。而望津之寨、尤爲天險。北倚晋江(晋州江也)東築永春、
西築昆陽。三寨鼎立、爲掎角。皆峙新于寨之前、新寨三面環海、一面通陸。石曼子義弘居之。
外有石城木柵數重、引海爲濠、海艘泊於寨下者常數千。叉築金海固城爲左右翼。而中造東陽倉、
積粮萬計。屯重兵於舊泗川城、以守之。自望津至新寨、四十餘里、聯築八寨、歩々爲營。
勢甚猖獗、毎迭出、槍掠干陜川、宜寧、咸陽、高靈之聞。(兩朝平攘録)

〔上譯文〕中路の倭将薩摩の義弘、狡悍(ずるくて強いの意)と号す。望津の寨、もっとも天険である。
北は晋江(晋州江也)に寄り、東は永春に築き、西は昆陽に築く。三寨鼎立(ていりつ、鼎の足のように
三つのもの(勢力)が互いに対立すること)、掎角(きかく、敵の前と後ろの両方から敵にあたること。
掎は鹿を捕らえるとき、後ろからその足をひっぱること。角は、前から鹿の角を捕まえること)をなす。
皆新寨の前にそばだち、新寨の三面は海をめぐらし、一面は陸に通ず。石曼子義弘そこに居る、外に石城
・木柵幾重とあり、海を引きて濠と為し、海艇の寨下に泊するもの常に数千、叉た金海固城を築
き、左右翼となす。中に東陽倉を造る、積まれた食料は万とあり。重兵を旧泗川城にたむろし、もって旧
泗川城を守る。望津より新寨に至る、四十余里、八寨を築き、営をつくる、勢甚だ猖獗(しょうけつ、
わるいものがはこびり、勢いが盛んになること。猛威をふるうこと)にして、つねにたがいに出て、陜川、
宜寧、咸陽、高靈の間に略奪す。

大体において、この記事は確実だ。このごとくして島津父子は、慶長二年の暮れより、慶長三年の
秋まで、この新寨に在りて、明軍の来襲に備えた。

167日本@名無史さん:2001/02/07(水) 23:43
補足:「三寨鼎立、掎角を為す」、
これは「三つの城が相互に援護し合い、兵は前後からの脅威を受ける」との意か。

明軍、漸(ようや)く新寨に薄(せま)る

さても島津父子は、泗川新寨に在り。その援護部隊として永春に川上久右衛門尉久智以下三
百余人、晋州に三原諸右衛門尉重種以下三百余人、望津に寺山四郎左衛門尉久棄以下三百余人、
昆陽に一小部隊を派遣したが、晋州の守兵は、その対岸望津寨普請の後、明の大軍到るとの諜
報を得たから、それらを撤兵して泗川に復帰させた。
秀吉は慶長三年正月二十七日付けにて、島津父子に向つて、左の警告書を與へた。

態被仰遣候。
一 先手五里三里の問、日々に物見を遣、様子見計、其機遣肝要候。今度蔚山へ取懸の刻も、
敵の様子不知に付ての(一字不明)事の様に仕成由候。毎事機遣不可有油斷候。
(泗川新寨戦捷之偉蹟)
168日本@名無史さん:2001/02/07(水) 23:48
これは蔚山の籠城が、全く味方の不覚から来たた事の経験から、特に敵情偵察を、緊密になす
よう訓示したのだ。秀吉としては、実に左もある可き筈である。されば島津側においては、常に
明軍の来襲に備え、毛程の油断もなかつた。
当時中路の守将は、董一元であった。彼は宣府前衞の人で、その父兄いずれも武官出身だ。彼
のその勇は元一奎の如く、智略は之に過ぎ、嘉靖・隆慶以来、各所に転戦した老功の将だ。(明史)
彼の部将遊撃將軍茅國器は、最初全州の守備に任じたが、自から敵魁義弘に身をもって当たらん
ことを請い、さらに兵を増やして、改めて星州に赴いた。時に董一元は、宣府に帰り、家丁を募
集して、未だ至らず、星州は三面敵を受けて、危殆(きたい、非常に危ないこと)であつたが、茅
國器は浙(せつ、地名か)の歩兵三千を率い、遊撃将軍盧得功の馬兵三千とこれを守った。
その間彼は姪茅明時をして、諭倭の檄文を作らせて、また謀士史世用をして、秀吉の十悪大罪を
数えさせ、もっぱら言語によって、日本将卒の心を離反させようと企てた。ただしこのプロバガ
ンダは、何の效用もなかった。
さて同年八月、董一元は宣府より戻り尚州に至った。ここにおいて始めて大軍を動かし、進ん
で高靈・晋州に駐屯した。晋州の前に晋江がある、江の南にあるのが望津寨だ。ここにおいて
明兵と、島津軍とは、始めて接触しはじめたのである。
当時晋州城は、島津軍撤退の後であり、茅國器は、一万の大兵を率い、明軍の先鋒として、こ
の城にたむろした。向こう岸の望津寨には、寺山久兼の兵僅か三百余のみであったが、あるいは
紙の旗を山谷中にずらりと立て、あるいは柴を焼き、煙をあげ、あるいは守兵を裏門より出して
陣地前へ回して表門に入れる事を幾度となく繰り返し、あるいは銃を放って攻勢を示し、明軍に
その実体を悟られないように偽装した。
茅國器はこれを見て、董一元に向っていわく、

細看倭營、自望津以至薪寨、勢若長蛇。望津其首也。碎其首、餘如破竹矣。
但晋江不能飛渡、當以計取之。(兩朝平攘録)

〔上譯文〕細かく日本軍の城を見ると、望津より泗川新寨に至るまで兵の列は長蛇のごとし。
望津はその蛇の首であり、首を砕けば、後は竹を破るがごとし。だが晋江を渡ることができず、
はかりごとをもってこれを取るべきである。

寺山は良く防御した。
169日本@名無史さん:2001/02/07(水) 23:48
ある時明兵があまりの酷暑にまいったらしく、馬騎歩兵およそ数十が番江のほとりに来て、河
水に臨み、手足を水にひたしたり、馬の足を冷し、または遊泳して炎熱を避けていた。そこを
久兼其有が見すまして、鉄砲兵二、三十人を選りすぐって、夜のうちに木の下岩の影より河畔
に下り立たせ、息を殺していた所、明兵等、昨日と同様遊泳する時、合図の貝を吹き、鉄砲が
一斉に放たれた。明兵はその過半が打倒され、晋江の流れと消えた。(征韓録)

しかし敵は大勢、味方は小勢。となればその勢力を、泗川新寨に集めるしかないとさせたのは
義弘の軍略だった。明兵の勢いには抗し難く次第に迫ってくる。義弘は寺山久兼に望津寨を焼
かせて撤退させ、また川上久智も永春より撤退させた。久兼が泗川新寨に返ったのは、九月二十
日である。そして昆陽もまた敵の手に落ちた。
ただ川上忠實は、尚泗川旧城にあったが、彼は九月二十八日の暁をもって、義弘の撤退命令に
応じる前夜、つまり九月二十七日、敵将夜に乗じて彼等を囲んだ。川上忠實は三百余人を率いて
突撃し、明の驍將(ぎょうしょう、勇ましくて強い将)李寧・盧得功を斬ったが、衆寡敵せず、城を
捨て囲みを突破して、忠實自から殿(しんがり、部隊の最後尾)となり、三十六の矢を受けて新寨に
入った。島津軍の死者実に百五十人、生き残った者も負傷しない者はなかつた。
 忠恒はしきりに忠實を救援したいと請うたが、義弘はそれを許さず、伊勢貞昌を行かせた、彼は
忠實の殘兵を迎えて收容する事に成功した。島津忠長・伊集院抱節の兵は、明軍が晋江を渡り、望津
三里の間に露営している事を忠恒に告げた。忠恒は明軍に不意打ちを仕掛け、皆殺しにすべきだと
請うが、義弘はまたそれを許さなかった。しかし義弘の胸中には、既に敵を泗川新寨の足元に引き
付け、それを殱滅する考えが在ったに違いないだろう。
170日本@名無史さん:2001/02/08(木) 00:05
読んでないけど(読む気なし)ご苦労さま。
171日本@名無史さん :2001/02/08(木) 00:08
すごい!面白いです。
引き続き期待してますのでアップしてください
172日本@名無史さん:2001/02/08(木) 01:22
読む気ないならカキコしてんじゃねーよヴォケ>170
173日本@名無史さん:2001/02/13(火) 23:38
>170
ちょっと傷つくなぁ…
>171
ありがとうございます。明国側から見た泗川新寨の戦争

果たして泗川新寨に攻めて来た明軍は幾らだったのだろうか。十万騎と云う説、(島津家記)、
二十万騎と云う説(淵邊眞元覺書、征韓録)、また朝鮮側では1万3100人(燃黎室記述)と
云っている。
ここに二十万と云うのは、明軍の総数が五十六万、その内十八万は順天に、他の十八万は蔚山に、
そして残余の二十万をもって、泗川に当たったと云う勘定だ(茜藩野史)。ただし朝鮮側では、
明の来援の総軍数を十四万三千としている。この数が当てになるならば、最も多く見積もっても、
その三分一強が泗川に来たと考えるべきだろう。もっとも朝鮮側では、泗川攻撃軍を僅かに一万
3500人と計上している。二十万はいくらなんでも過大であるが、一万3500人も少な過ぎる。
さらに敵軍の数を分類して、左の様な説がある。


      歩兵 3000    遊撃  茅國器
先 鋒   同  1500    同   葉邦榮
      同  3000    同   彭信古
      計  7500人


       馬兵 1000    遊撃  &#37085;三聘
兩翼隊   歩兵 3000    同   師道立
       馬兵 1000    同   馬呈文
       歩兵 3000    同   藍芳威
       計  8000人

       歩兵 4500   副總  兵張榜
       歩兵  500   遊撃  塗寛
本 隊   歩馬兵2000   韓将  鄭起&#40850;
       馬兵 1000   遊撃  故盧得功の兵
       歩馬兵約500   提督  董一元
       計  13200人余り
      合計  28700人余り          (伴三千雄君の意見)


174日本@名無史さん:2001/02/13(火) 23:39
尚、宣租實録には中路の天兵2万6800、我が(朝鮮)兵2215名とある。
以上様々な説があるが、常識判断をもって見れば、まず最大限に考えて四、五万人とすれば、
差支えないだろう。そしてそれに対抗する薩摩勢は、一千と云う説(西藩野史)、三千に満たな
いと云う説(淵邊眞元覺書)、または五千と云う説(泗川新寨戦捷之偉蹟)。いずれにしてもその
間であっただろう。
元来島津氏の朝鮮軍役は、一万の兵が割り当てられたのであるが、ついにその数に達しなかった。
ならば極めて多数に見積っても、多くて五千を出なかっただろう。ともかく敵は我に比べて、十倍
以上の多数だったに違いない。
我々はこの戦争においては、まず明軍側の記事から吟味しなければならない。

二十八日夜半、發兵襲泗川。李寧以大同驍將、恃勇背衆先入。失道、反爲倭乘之、
被倭亂斫死。及明、我兵大衆至。倭方四散、槍刈禾稻。見我兵、皆棄禾奔散城内。
尚有數千倭、倉皇出戰。我兵衝撃、斬級幾百。慮得功以騎兵衝陣、被鳥銃陣亡。
ョ歩兵力戰、倭始棄城、敗奔新寨。官兵遂燒東陽倉之粮、二日二夜、烟&#28976;不息。倭不敢出救。
(兩朝平攘録)

〔上譯文〕二十八日夜半、兵を発して泗川を襲う。李寧多くの勇将を率いて、勇を頼み衆に背
きまず入る。道を失い、かえって倭の為にそこに付けこまれ、倭に斬られて死す。やがて夜が
明け、我が兵大半泗川に至る。倭は一面に散り、粟の苗を刈る。我が兵を見て、皆クワを棄てて
城内に奔散す。
尚、数千の倭あり、倉皇(そうこう、ひどく慌てて落ち着かないさま)出て戦う。我が兵衝撃。
首を斬ること数百。慮得功騎兵にて陣を衝くが、銃弾を浴びて死す。歩兵の力戦に頼り、倭始めて
城を棄て、新寨に落ち延びる。官兵遂に東陽倉の食料を焼く、二日二夜、火焔止まず。倭は新寨を
出ず彼等を救わず動かない。

これを見ると、泗川旧城の戦争では、李寧は切り殺され、盧得功は鳥銃にて射殺させられたのが分かる。
もっとも明軍の士気は、連戦連勝だったことでかなり良好だった。
175日本@名無史さん:2001/02/13(火) 23:40
我兵不旬日、&#23650;戰、&#23650;克、軍威大振。至二十九日共議、進兵取新寨。即義弘所居、
沿海之大營也。茅國器日、我雖連破數寨、而擒斬不多、倭盡併歸大營。守必竭力、
攻之未必能下、而各寨救且至。非全策也。不若先攻固城。新寨之倭、鋭氣方挫、
未敢來救、而固城城小倭寡易破。固城一下、新寨援絶。然後相機而進。似爲全策(同上)

〔上譯文〕我が兵十日の間に、しばしば戦い、しばしば勝ち、軍威大いに振う。二十九日に
至って共に軍議を開き、兵を進めて新寨を取る事を決定す。即ち義弘の居る所、沿海の大営
だ。茅國器曰く、我れしきりに幾つか城を陥したものの、斬った数は多くなかった。倭はこ
とごとく大営に帰っている。守りは必ず力を尽くし、それを攻めても必ずしも陥せるとは限
らないだろう。その間に他の城から援軍が来るかもしれず、最上の策とは言えず。急がずに
まず固城を攻めたらどうか。新寨の倭、鋭気まさに挫け、未だ周囲の味方を救おうとせず、
しかも固城は城小さく倭少なく破れ易い。固城が落城すれば、新寨への援軍は絶える。
その後に状況を見て進むのが最上の策だろう、と。

茅園器のこの論は、確かに一隻眼(せきがん、本来は片目という意だがこの場合、人と違った
優れた見識の意)を有する見解だ。特に皇明從信録にも「薩摩の兵、すばしこくて強敵である」
と特筆されている通り、彼等を孤城の下に包囲することは、窮嵐猫を噛む恐れがあるのだ。

董師(董一元)狃望津等寨之易破、便以輕敵。乃云、本鎭看新寨、倭亦無幾何。固城易與耳。
今先攻新寨、如疾雷不及掩耳。此寨破、固城不戰自潰矣。遊&#25802;彭信古、素輕敵寡謀。乃言、
某親至彼探視、城中烟火不多、可取。遂決意發兵。(同上)


〔上譯文〕董師(董一元)望津等の寨の破れ易きに慣れ、次第に敵を軽んじる。董師云う、目
標の新寨を見れば、倭の運命もあと僅か。残る固城はくみし易い。今まず新寨を攻めれば、疾
雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。この寨破れば、固城は戦わず自ら潰れると。遊撃彭信古、素
より敵を軽んじ、作戦を立てず。彼が言うには、自ら新寨にを偵察したが、城中の煙少なく、
活発には見えず、取るしか無いと。遂に意を決して兵を発する。

以上が新寨進攻の経路である。彼等は新寨が望津・永春・泗川旧城等の様に、容易く落城する
ものと考えた。
176世界@名無史さん:2001/02/13(火) 23:59
す、すごい。すごいが・・・読む時間ない。
177日本@名無史さん:2001/02/14(水) 00:06
う〜ん、これは島津義弘の戦略だったのかな?
178名無しさん@1周年:2001/02/14(水) 01:44
期待あげ
179日本@名無史さん:2001/02/14(水) 22:56
補足 人名の読み方

日本・朝鮮両方での呼び方

董一元(とういちげん・トンイユアン)、茅國器(ほうこくき・マオクオチイ)、
彭信古(ほうしんこ・ポエンシングウ)、李寧(りねい・リニン)、盧得功(ろとくこう・ルウドオゴオン)

日本語のみ判明(わからなくてスミマセン)

藍芳威(らんほうい)、&#37085;三聘(かくさんへい)、葉邦營(ようほうえい) 、師道立(しどうりつ)

十月初一日、茅國器、葉邦營、彭信古、歩兵三營直抵寨下攻打。其&#37085;三聘、師道立、
馬呈文、藍芳威四營馬兵、分作左右堵兵、止留歩兵一枝、守老營。(同上)

〔上譯文〕十月一日、茅國器、葉邦營、彭信古、三将の歩兵は直ちに寨下へと突入し攻撃を行う。
&#37085;三聘、師道立、馬呈文、藍芳威四将の馬兵は、分かれて左右に兵の壁を作り、僅かに歩兵一隊を
留めて、本営を守る。

この様に董一元の中路軍は、全力を傾けて新寨に殺到した。
180日本@名無史さん:2001/02/14(水) 22:59
於是茅葉二將、自卯力攻至巳。用大將軍木槓、己打破大門扇、城&#22428;數處。而彭兵皆
京城亡頼、素不習戰、亦不善火器、忽木槓破、藥發衝起、半天倶K。各兵一時自驚亂。
倭因無隙、從前小門殺出、直冲彭兵。皆潰走。&#37085;師馬騎兵、方環而射。一見兵潰、
各望風遁走。茅葉兩營殊死鬪。然已在重圍中、衆寡不敵、殺傷甚衆。藍芳威駐兵十里外、
斷後亦走。董師不能約止、各兵遂大潰。堕崖落穽、不可勝記。彭兵三千、止存五六十、
茅兵亦損六七百。茅營中軍徐世卿被捉去、不屈而死。(同上)

〔上譯文〕茅國器、葉邦營の二将、卯(午前六時)から巳(午前十時頃)まで攻撃す。大将軍の
木槓(もっこう、恐らく大砲だが漢字の意は攻城用のてこ)を用い、既に大門を一、城の盛り
土数カ所を打ち破る。しかし彭信古の兵は皆京城のならず者なり、元より戦いを知らず、
また火器も良く扱えず。そのため木槓破れ(大砲が暴発)、薬発衝いて起り(弾薬が誘爆す)、
黒煙は天の半分を覆い、兵は一時的に大混乱に陥った。倭、その隙を突き、前の小門より
出て、直ちに彭信古の兵に突撃。皆潰走す。&#37085;師の騎兵は城の周囲を環りつつ矢を射って
いたが、一たび兵が潰滅するのを見ると、彼等もたちまち遁走す。茅國器、葉邦營の部隊、
死に物狂いで戦うも、既に敵に包囲され衆寡敵せず、死傷者は甚だ多し。
藍芳威兵を新寨より十里の外に留め、後を断たれて走る。董師も兵を抑えることはできず、
各兵遂に大潰走。崖より転落、落とし穴へと落ちる者はあげてもあげても書ききれない。
彭信古の兵三千、ただ五六十を残すのみ、茅國器もまた六、七百の兵を失う。茅國器の隊に
居た中軍徐世卿は捕らえられたが、降伏せず死ぬ。

これが明軍側より見た敗戦の概要だ。はたしてその始末はどうだったのか。
181日本@名無史さん:2001/02/14(水) 23:00
及抵望津、茅遊&#25802;謂、望津天險、得之不易。若棄去、復爲倭據、前功盡棄矣。因會集諸將、
收散兵、欲復守望津、請命董師。董師曰、此地亦孤立、&#20504;固城倭併力來攻、何以禦之。
惟應暫還星州、圖再擧耳。各將遂不敢留、盡日奔囘。此時、忍餒扶傷、天寒日暮、
晝伏夜行、盤桓萬山中、奔走一二百里。哭聲震野、接殞道路者、叉數百人。直抵陜川、
方得少息。倭以粮餉被燒、亦不敢遠追(同上)

〔上譯文〕ようやく望津にまで撤退すると、茅國器が言った。望津は天険の地、ここを取る
のは難しく。ここを放棄すればまた倭の拠点となり、今まで功績をことごとく棄てることに
なる、と。ここは諸将を集め、散兵を収め、また望津を守りたいとの願い、董師に請う。董師
曰く、この地はまた孤立することになる、もし新寨の島津が固城の兵を併せて攻めて来たなら
ば、何を以てここを防ぐのか。ここは暫らく星州に戻り、再興を図るしか無いと言う。
各将結局望津には留らず、一日中遁走す。この時、飢えに悩み傷は痛む、天は寒く日は暮れ、
日中は隠れ夜に行動す、山中を難儀し、一二百里を潰走す。泣き声は野を震わせ、道路で倒れ
死ぬ者、また数百人。
陜川に到着し、ようやく僅かばかりを休む。倭は食料を焼かれた為に、あえて追撃をせず。

如何にも慘めな始末た。小西が平攘から落ちのびた時と、殆んど変わる所がない。もっとも
小西は大敵に破れ、董一元等は小敵に破れたのだ、元より同一には扱えない。明軍はこの大
打撃を受けて以来、ついに再び攻める事は無かった。
182日本@名無史さん:2001/02/15(木) 02:31
当時の明側の記録はバランスが取れてるね、判官びいきもしてないし
しかし、大砲の誘爆が原因だったとは知らなかった
一概に島津が強かったとは言いきれないねえ。
183日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:15
泗川新寨の勝利

 ここからは日本側の記事を見てみよう。諸資料の記述は、大同小異だが、まず西藩野史を
参考にして記載するなら次の通りとなる。

九月二十九日、明の騎兵十数人、鉦を鳴らし、泗川新寨を1.5キロ離れた所に来て、立て札を
立てて去った。白濱七助・頴娃主水、命令を受けてこれを取って戻る。それには、

明日、十月朔日、可攻新寨。豫諭其故於寨將。勿&#24492;徨。

〔上譯文〕明日、十月一日、新寨を攻める。あらかじめその事を新寨の将に宣言する。
     ウロウロせずそこに居ろ。

と大書してあった。義弘・忠恒はそれを知って自ら大手東を守り、圖書頭忠長は、潮入口(船着場)
−北方−を守った。敵は予告通りに十月一日の黎明より来襲せり。義弘は二度城中を巡視して、外
へ討って出ることを許さず、さらに銃を撃つ事も禁じ、あくまで味方の鋭気を養い、敵には弱い
様に見せかけろ、と命じた。そして自ら、門の左にあった櫓へと上り、忠恒も右の櫓に上がって
指揮を取った。
184日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:25
 敵将茅國器・葉邦榮・彭信古等は、正面より攻め来た。&#37085;三聘・師道立・馬呈文・藍芳威等は
左右に備え、董一元は、自ら中軍の将となり、巳の刻(午前十時頃)に、堀に詰め寄せた。薩摩
軍、皆興奮し、はやって矢や鉄砲を撃とうとしたが義弘はまだ許さず、やがて敵兵が間近に迫り、
まさに城壁に到達する瞬間、彼はようやく発砲を許可した。まさに反撃を開始せんとするこの時、
忠恒は左の櫓に上って、義弘に対面す。この時、白赤の狐が二匹走って、城中より敵陣の方へ入る。
これは稲荷大明神がこの戦に勝つ事を示したと、士気大いに振う。忠恒再び右の櫓に戻り、自ら
鳥銃を持って敵兵数人を倒し、また弓を取って射る。敵兵は大砲、大弓を使って櫓を盛んに打って
くる。櫓上の防楯、日光に映えて輝き、敵の目当てとなった。そのために有馬衣布衛門、ムシロを
掛けて楯を覆う。
櫓上、弓を引く忠恒の弦が切れた。傍らの次右衛門、弦を掛けて弓を献じる。あまりの激戦に忠恒
も息が切れてきた。そのために桶に水を盛り櫓に上げ、椀を浮べてそれを飲む。
 彭信古は城北を攻め、大砲を撃って城門を破ろうとした。忠長は鳥銃を連発したが、銃身が過熱
して手に取れず、手巾を水に浸し、銃身を拭って再び撃つ。見ればいたる所で敵の大砲が爆発し、
燃え広がった火によって黒焔は天にみなぎった。まさしく絶好の好機、城門が開かれ、城中の兵、
敵軍に向って進撃した。年少気鋭の忠恒は、靼鹿毛(たっかげ)の馬にまたがり、まっ先に駆け出す。
本田與兵衛・鎌田次右衛門・木脇三左衛門等銜(くつばみ、たずなを付ける為、馬に噛ませる金具)を
取り、馬を急ぎ走らせ野戦を挑む。
185日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:27
当時薩摩軍はしきりに打って出る事を願ったが義弘はそれを許さなかったから、誰もが奮怒激昂し
ていた。その為許可を得た時は城門が開ききるまで待たず、僅か半分が開いたところを競って出た。
いわゆる口碑(伝説・伝承)に残る朝鮮の半扉とはこの事である。
 この様に凄まじい勢いの為に敵兵たちまち潰走した。忠恒は軍の先頭を行って敵を斬り、馬を
丘に立てて休んだ。
そこに本田次右衛門・野崎十兵衛が走って来て、軽々しく進んで士卒と功を争うのは、良将で
ないと忠恒を諌めた。
だが偶然、伊勢貞昌が血刀を振るって来たために興奮した忠恒は本田・野崎を振りきり、さらに
突進した。そして撤退する明軍百人余りの列に遭遇する。明兵のうち三人馬を返し、槍を持って忠
恒の馬を突いた。忠恒は馬より飛び降りたが、再び襲いかかった槍は肩に刺さった。彼は屈せず、
刀を抜き、一人を斬り殺した。残りの二人が迫ったが、そこに平田新左衛門尉・床並佐助が来て
追撃する。平田は忠恒の斬った敵の首を取り、靼鹿毛の馬に首を乗せた。忠恒は再び進んで敵を
追った。北郷三久、敵と組み打ちし、忠恒がその首を斬って、三久の臣束野叉兵衛に首を持たせた。
追撃また追撃、彭信古の兵は殆んど皆殺しにさせられた。
186日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:29
 圖書頭忠長は北門より出て、敵兵を殺し、勝ちに乗って進んだ。茅國器・葉邦榮の兵は、旗・甲冑
全て赤色で西北の丘に在り、薩摩軍ことごとく城を出るのを見て、列を整え、声を上げて新寨に
向かう。忠長これを見て、にわかに軍を返し、川岸に布陣して敵に備える。
敵進み戦い、忠長の先隊はまさに敗北の危機、出水勝左衛門等の指揮官は必死の抵抗を呼びかけた。
忠長また先頭で敵と戦ったが衆寡敵せず、全滅の危機に陥った。だがこの時、樺山左衛門久高・島津
新八郎忠在・寺山四郎左衛門久兼・川上源三郎久國・新納彌太右衛門忠掾E新納勘解由久宣・川上久
右衛門久智・二渡次兵衛重利等、この危機を知り、北の高台に登って矢砲を撃ち、敵の後軍を射撃した。
そのため明軍は驚愕し隊列が乱れた。忠長の軍、機に乗じてその前を撃ち、伊集院抱節が一軍を率い
来て戦う。敵兵遂にに泗川旧城に向かって潰走した。忠長・抱節・久高・久棄等は逃げる明兵を追い、
無数の敵兵を殺したのであった。
 初め義弘は、茅國器の軍を見て、菱刈源兵衛を呼んで聞く、丘上の敵兵は、横入するではあ
るまいかと。源兵衛曰く、それはありませぬ、ただの弱兵である、恐れるに足らずと。これを聞き
義弘は軍を返さず攻め続け、かくして忠長は遂に勝ちを上げることができた。
187日本@名無史さん:2001/02/15(木) 23:30
 永春と泗川旧城との問に、細い河がある。水深が深いため渡ることができなかったが、石矼
(いしばし、水面に露出した岩石が並んでいるさま)があって、狭いながらもここだけは渡る事が
出来た。董一元の兵五百人ここを守った。頴娃主水(えいもんど)走って石矼に登ったが、肩を射
られて死に、白阪惣兵衛が彼の遺体を収めて退いた。赤衣の敵に弓の名手在り。上川久智、白阪
を指揮して撃てと命令。白阪鉄砲を撃って彼を射殺した。久智が軍で最初に矼を越え、吉田大藏・
伊集院抱節・諸軍が彼に続き、敵兵いよいよ潰奔した。忠恒は走る馬に鞭を打ったが、馬が倒れ、
手綱が切れてしまった。忠長の臣和泉勝左衛門馬を起こし、手綱を継いだ。忠恒はまたその馬に
乗って追撃し、晋江のほとりに至った。見れば敵兵江に溺れる者また無数。
 この日義弘自ら敵四人を斬った。皆それを褒めたが義弘曰く、いい年して軽々しい事をしてし
まった。深く恥じている、この事は誰にも言うなと。忠恒は七人を斬った。義弘は川上四郎衛忠
見を呼んで曰く、忠恒は壮年で血気まだ定まらず、軽率な行動、私は実に危ないと思う、おまえは
忠恒の側にいて、なぜ諌めなかったかと。忠見曰く、戦場では大将といえども、このぐらい振舞わ
なくてはいけないと。一堂、その壮烈な乱気を感じた。
188ありなっち:2001/02/16(金) 00:02
あと少し・・・
189日本@名無史さん:2001/02/16(金) 00:08
漢南勢、泗川に押し寄せる

慶長三年戊戌十月一日、漢南人泗川を攻める為、前々日に大札を書いて城の門前に立てる。辰の刻(午前
七時から九時)に押し寄せ、その勢いは雲霞のごとし。鉄砲を打っても打っても、楯を持ち、死人を乗り越
え乗り越え押し寄せる、ほいちと云う物(詳細は不明、攻城用の火器か?)を使って城に火を付け、火矢を打
ちかけ、鐘太鼓を鳴らして攻め寄せ、焼き草で城を焼こうとした。味方は鉄砲で防戦したがあまりにも頻繁
に打った為、鉄砲が過熱して手に取る事ができなかった、手拭を水にひたし、鉄砲を拭ったが多く打つので
結局最後まで銃身が冷えることはなかった。弾丸は敵の&#30444;&#28935;壺(えんしょうつぼ、火薬を詰めた壷、大砲の
装薬か攻城用の爆弾かは不明)を打破り、火薬が爆発して燃え広がると敵驚き騒ぐ、その虚に乗じて城門を開
き打って出る。敵、敗軍して四面八方に逃げ散る。忠恒公諸卒(しょそつ、将兵)に下知(げち、命令の意)して
追撃す。義弘公は後方に備え、久國は下野守久元、寺山四郎左衡門久兼など一手になって敵を追い、左の丘
に赤備の敵数万余りが守りを固めているのを横目に見つつ逃げ散る敵を追撃す。赤備の敵、一万ばかりとって
返し城に向かう、その勢いはまさに津波のごとし。
味方は城を出ており、危険だった所に、小川の端に味方の一隊敵を受け止めて戦う。あれは誰かと見ると、
久元の云、父圖書頭の馬印だと云う。だが彼等は小勢であり状況は危うい、その時寺山が下知し残った敵に
鉄砲を打ち掛けろと、命が下ると残った敵兵に鉄砲を打つ。その敵逃る先口をあけてよしと寺山久兼悦び、
先に進み走る敵と其間續たる故に、先の勢いそのままに敗軍す。敵を追う事五里、首を取る事3万8700余、
その他に切り捨てた数は数え切れず。後に諜報員の孫四郎語る、赤傭の大将は、孟郎爺(猛将)國器なり。敗軍
の死者は八万なりと云った。孫四郎は元々明人だったが、訳有って薩州穎娃(えい)民百姓の下人となっていた
のを、穎娃殿が目を付けて、太守様(秀吉又は義弘か)が九州退治と遊候の時、あちこちの陣に行った者のため、
島津の武功を良く知り、泗川を攻めても得にならないと度々諸将を諌めた。孫四郎は日本で名である。明国に
帰国後は通訳として来る。
(川上久國泗川御在陣記)
190日本@名無史さん:2001/02/16(金) 02:34
この戦いで大砲の誘爆については見方が色々ありますね
やはり鉄砲の流れ弾が当たったと見るのが妥当ですかね。
191日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:26
泗川新寨戦勝の収穫

薩摩軍は泗川新寨大勝利の夜(慶長三年十月一日)、泗川の原野に、馬印を立てて兵を集め、
勝鬨式を挙行した。

 義弘公黒糸縅(おど)しの鎧を付け、南に面して、床机に座る。川上忠見、冑を持ってその左に、川上久智は
長刀を持って右に在る。忠恒公紫縅(おど)しの大實(おおざね)の龍を描いた鎧を付け、床机に座り、東に面して
傘で蓋う。樺山久高雄刀を取って、左にあり、川上久首(ひさもと)うちわを取って右にあり。衆軍大将の後にあり。
忠恒公自ら討った首二つ、義弘公討った首一つを実験する。平田宗位、忠恒公の肩を傷け、公に討たれた敵の
首を携え、義弘公の左三歩ばかりの所に置く。義弘公太刀を抜き、逆手に取り、切っ先を下げて、右の脇に持ち、
太刀を後にして、六足下がってまた戻る。太刀先を首に向けて印す。首引導終り、右に廻り床机に座る。初めて
秀吉より賜った小泉の兜を取って、六具備えて南に面し、合掌して、呪を唱える。久智太刀を奉じ、身繕いし、
七足下がって戻る。また呪を誦して、角商宮の三三九声を発す。衆軍三たび合して終る。(西藩野史)

補足 「縅(おど)し」:鎧を組みたてる為、綴り合せる事。「黒糸縅(おど)し」の場合、黒い糸で鎧を組んでいると
    いう意。
   「床机」:しょうぎ、陣中や狩場などで使った折り畳み式の椅子。
   「勝鬨」:かちどき、戦いや勝負に勝った時軍勢が一斉にあげる喜びの声。
192日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:28
これは実に痛快な出来事だった。そして、彼等のいわゆる首帳には、左記の通り記されている。

慶長三年十月一日、朝鮮国泗川において、討ち取った首の報告は以上です。

一 首 10108   鹿児島衆が討つ。
一 首 9520    帖佐方衆が討つ。
一 首 8383    富隈方衆が討つ。
一 首 6560    伊集院源次郎の兵が討つ。
一 首 4146    北郷作左衛門の兵が討つ。

 合計 3万8717。
 この他に切り捨てた者は数知れず。                (征韓録)

 この数が果して正しいのか、そうでないのかは不明である。ただし、石田三成が伊達正宗
に送った書状の中にも、「島津の城において、一戦があり、味方は敵を切崩して勝利を得た。
三万五千余りの首を討ち取り、晋州川の岸まで追い詰め、討ち捨てた者は数知れず」(伊達文書)
とある。慶長四年六月、義弘・忠恒父子の名によって、高野山に建立された供養塔には「慶長
三年十月一日、慶尚道泗川において、大明人八万余りの兵を討ち亡き者にする」とある。
三万8717という数自体が過大と思われるのに、八万とはどんな計算によって出たのだろうか。
これは明国通訳張昂が、明人史龍添にこの戦いで戦死者数を質問したら、八万と答えた。その
事を内藤飛騨守(小西如安)が詳しく聞けば、軍糧八万人分が余ったため、その数を知ると答えたと
云うことだ。
193日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:29
 三万にせよ、八万にせよ、その数は問題でない。ただ、この大打撃が、どんなに猛烈で、徹底
的だったのかは、石蔓子の名が明人を恐怖させた事で分かる。
 元々董一元は、薩軍の戦力を恐れて、なかなか進めなかった。これは少年の時に薩摩に住んで
いたが後に南京に還り、今同通訳として、明軍に随伴した張昂の言葉によって、脅かされたの
だろう。この様な状態で朝鮮の諸将は、主将の不甲斐無いのに堪えかねて、九月二十七日に決戦
しようとを主張したとある。この為、一旦泗川旧城を取ると、董一元は安心しきって脱兎の様に
前後の考え無く突進して、却って迎撃されて回復し難い大敗を招いた。
尚、敗因について、茅國器の説によれば、

 今回新寨で勝利を得られなかった原因は五つ有る。第一に、寺山四郎左衛門久兼小数で望津に
駐留していたが、数々の奇計によって大軍有りと見誤り、六月二十日より九月下旬まで晋州まで
進みながら、遂に河を渡らず、新寨の普請を堅固に整えさせた事。第二に、國器はまず固城を攻
めようと言ったが、董一元は國器の進言を受け入れず、泗川の新寨を攻め、結果敗けた事は思慮
が足りなかったと言う他無い。第三に、合戦の時には軍船を動かし、城兵が出てる間に、火兵を
使って城を焼き払う作戦を陳&#29848;(ちんりん・チエンリン、明の水将)に申し入れたが、陳&#29848;は船を
動かさなかった。第四に、楯を並べて攻撃を仕掛けた所、大鉄砲で撃破された。砲弾は火薬置き場
にまで届き、これを破壊したために、味方は進む事ができなかった。
これ程の大鉄砲があるとは全く思っていなかった。第五に、國器城が空いたのを見て、攻め入ろう
としたが、島津圖書頭に支えられ、為す術がなかった。(征韓録)

思うにこれらの説は、事実とあまりかけ離れていないだろう。
194日本@名無史さん:2001/02/18(日) 23:31
それにしても反応が全然ないなぁ…
最初の方で議論していた方達は何処に行っちゃったんでしょうか?
195日本@名無史さん:2001/02/19(月) 02:35
あの、ここで議論するより三国志・戦国板で新スレ立ててそこに転載した方が
有意義な議論が出来ると思うんですが、、、ここは日本史板というより
思想板と化してますし、、、それと、大鉄砲って何かわかります?
196日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:47
>>195

賛成です。この板使い物にならない。
せっかくの転載なんだから、あの板の猛者達に判定してもらいましょう。
197ありなっち@桔梗:2001/02/19(月) 17:22
転載が全部終わってから書こうと思っていたのだが・・・
198ありなっち@桔梗:2001/02/19(月) 17:25
戦国板への転載はかまわんよ。
向こうはかなり知識ある人多いから。
199日本@名無史さん:2001/02/19(月) 17:40
でもあそこの住人中国史ファンが沢山いるからな・・・
根拠も無く明軍持ち上げて島津をこき下ろしそうだ。。。
200日本@名無史さん:2001/02/19(月) 17:43
そこまでは腐ってないだろ。
ファンと信者は別物だし、連中の好きな中国史は漢末と北宋で9割だ。
明末期を持ち上げる人間なぞ存在しないさ。

…ここからホーミングされれば別だが。
201ありなっち@桔梗:2001/02/19(月) 17:44
んなことない。あっちは三国志だけ好きで
他の時代の中国ネタ振ると怒る人多い。
202ありなっち@桔梗:2001/02/19(月) 17:46
をー。先越された。
俺の201の発言は >>199 に向けてだ。
203日本@名無史さん:2001/02/19(月) 17:57
あそこは日本史板の良質な住人が避難してるからね
少し前まではアレだったんだけど今はレベルが高くなってるのかも。
204日本@名無史さん:2001/02/20(火) 15:25
どないなっとんねん
205日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:04
補足 『島津家記』によれば、城外に20間(36メートル)の大穴を掘って死体を埋めたとの事。

 先月二日、龍伯から送られた報告書が昨日到来し、それを見た。それによれば、大明人九月十九
日に進軍し、晋州に陣取り、先月一日新寨に攻めて来た所、大鉄砲で撃ち倒し、その上一戦を交え、
即時に伐崩し、晋州河際まで追詰め、ことごとく討ち果たした。残党を晋州大河へ入って追い、余
すところ無く働き、比類無き手柄を立てた次第との事。
 特に江南の大将は九人、敵の数二十万騎も有った所、その数を報告する事。島津父子自身もその
手で敵と戦い、討ちとった首は数多く、非常な激戦だったとの事。これにより島津家の手柄を知る。
 蔚山と順天方面にも敵軍が押し寄せている間、右の戦闘があり、敗北させた事は確かである。
とはいえ、先日小西行長、寺澤を遣わして注進する。当方は全ての人員を帰国させていただきたい。
命令を仰ぎます、との事。そのため徳永法印、宮木長次を派遣し、命令を伝える。
朝鮮の諸将はおのおの相談し、釜山浦まで後退、その後に帰国せよ。
恐々謹言。

11月3日
                        輝   元(在判)
                        景   勝(在判)
                        秀   家(在判)
                        利   家(在判)
                        家   康(在判)
羽 柴 兵 庫 頭 殿
島 津 叉 八 郎 殿                    (征韓録)

ちょっとこの部分は解らない所が多く、推測がかなり混じっています。
内容が間違っていたら申し訳ありません。
206日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:05
この一戦が、どのような影響を明廷に及ぼしたかは左の記事で推定できる。

上以、中路失利、因驕將輕、懦將畏敵、主師不能折驕鼓懦、分布無法、申令
不嚴、致一軍少却、衆軍皆奔。辱國損威、深可痛恨。倶當斬&#29413;。着&#37085;三聘、馬呈文、即
軍前斬首梟示。彭信古等擬死、著立功贖罪。仍究其軍中起火漉R。董一元降級立功。
仍諭&#37026;&#29600;等、卒屬用心行事、不得由畏阻。宜安重如山、撼搖不動。緩急進止、
各有定算、相度機宜、以全取勝。(神宗實録)

〔上譯文〕考えるに、中路軍の失敗は、驕った将は敵を軽んじ、臆病な将は敵を恐れ、総大
将の董一元は彼等を引き締め、奮い立たせる事ができなかった。秩序は無く、命令は守られず、
一部隊が僅かに退却したところ、全軍を浮き足立たせてしまった。
国を辱しめ国威を損じた、深く痛恨せよ。共に速やかに処罰させよ。&#37085;三聘、馬呈文を捕らえて
軍前で首を斬り晒し首にせよ。彭信古等は死んだ事にし、戦功を立てて罪を償わせよ。また、
軍中で起こった爆発の原因を調査せよ。董一元は降格させ、戦功を挙げさせよ。尚、&#37026;&#29600;等に命じ、
兵を率い思慮深く行動し、怯える事など無いようにせよ。軍勢の様子は山の如く、活発であるが、
むやみに動いてはならぬ。緩急停止、作戦を立て、機会を逃さず、完璧な状態にて勝ちを挙げよ。

 さすがに何事も文章で飾る明将も、この大敗走は誤魔化せなかった。それは余りにもその事実が
明らかだったからだ。
207日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:08
…やっと終わりました。国語辞典、漢和辞典、古語辞典を引き、何日も夜更かししてしまいました。
原文をそのまま読むと本当に文章が美しいですが、解りやすくすると文章が崩れるのでとことん自分の
力量不足を思い知らされました。
この板には頭の良い方が大勢おられますので、私の方が教えてもらおうと思っていたのですけど。
正直、意味がはっきりしない単語等は漢字の意味から推定していますので間違いがあるかもしれません。
また、三国志・戦国板への転載の意見ありがとうございました。とりあえず、このスレの様子を見てから
決めたいと思います。
208【^▽^】酔鯨ジョーカー:2001/02/20(火) 23:12
元軍(蒙古人)、明軍(漢人)、清軍(満洲人)、
全部 糞。
209日本@名無史さん:2001/02/20(火) 23:47
>195

大鉄砲についてですが、手元に資料が無いのでうろ覚えながら答えさせていただきます。
まず、大砲と大鉄砲の違いですが、当時南蛮や明で使われていた大砲は鋳造で製造されたのに対し、
大鉄砲は火縄銃の製法(鉄板を叩き延ばして円筒を作る)をそのまま使って大型の鉄砲として作ら
れた物だと思います。
蛇足ですが、当時、大砲は石火矢と呼ばれ、1576(天正4)年、大友義鎮(宗麟)によって初めて
導入されたとの事で、数百匁から数貫目(1.5〜20kg)の石や鉛、鉄製砲弾を発射したと日本史
辞典にありました。
210ありなっち@アスカ:2001/02/20(火) 23:53
転載するなら訳したのだけでいいと思うよ。
211日本@名無史さん:2001/02/24(土) 16:55
age
212日本@名無史さん:2001/02/24(土) 17:14
>209お疲れ様です。
  大鉄砲は要するに抱え大筒の事ですね、ありがとうございます
213日本@名無史さん:2001/02/24(土) 18:57
ご苦労様でした!
なんだか掲示板の一スレにしておくのが、もったいないですね。
是非、貴重な情報を残しておくためにもHPを立ち上げてください。
214日本@名無史さん:2001/03/03(土) 15:59
■世界史板に転載するつもりです■
215日本@名無史さん:2001/03/05(月) 13:56
1ハ イタスギ デシタ
216日本@名無史さん:2001/03/17(土) 03:08
age
217日本@名無史さん
age