1 :
名無しにゃーん:
備前中納言に萌えてみよう。
八丈島逝きてーーーーー。
2 :
日本@名無史さん:2000/12/28(木) 23:56
宇喜田秀家ほど秀吉に忠実で豊臣家と運命を共にする覚悟を持った大名はいない。
3 :
【^▽^】ジョーカー:2000/12/29(金) 00:12
>2
そりゃ馬鹿に過ぎん。
「忠義」よりも「領地」が大事。
主君・天下人が豊臣でも徳川でもドーデモ良いのだ。
4 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 00:26
父親は極悪人?
母親は秀吉の愛人?
5 :
秀隆:2000/12/29(金) 00:40
俺よか長生きすなー
6 :
イロジジイ:2000/12/29(金) 00:53
>4
やっちゃいました、テヘ
7 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 01:02
岡山って「浮田」がいまだに多いね。郷土の英雄なんかな。
8 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 03:13
秀次亡き後、宇喜多を関白にしときゃ良かったのに。
9 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 03:39
家臣が宗教で対立。
日蓮信者の岡・戸川・花房vsキリシタンの長船・明石。
これに家康が介入して日蓮側の懐柔に成功。
戸川・花房・坂崎(秀家の従兄弟)は東軍に参加。
宇喜多が一致団結してりゃあ勝てたかもねぇ>関が原。
10 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 03:50
この人、関が原で一番やる気あった人の一人だよね。
坊ちゃん育ちで純情だったんだろうな
11 :
>>10:2000/12/29(金) 04:02
親父はワルだったんだけどね。
12 :
名無しさん@1周年:2000/12/29(金) 05:07
坂崎出羽守は秀家のイトコ?
13 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 05:35
>>12 そうらしいけど、何かすっかり醜かいな悪者のイメージがついちゃって、可哀想だな。
14 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 05:46
東京の北葛西に「宇喜多」という地名があるけれど
関係あるの?
15 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 08:13
オヤジの悪事が子に報い
16 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 11:04
それがないように、直家は秀吉に必死に息子の行く末を頼んだのにね。かえって、それが仇になったかな。
家康に頼んでおけば・・・って、そんなのありえないか。
17 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 22:08
17
18 :
現キーオペに問う!:2000/12/29(金) 22:11
宇喜多秀○というひとが外交官でいる。創価大卒。
19 :
名無しにゃーん:2000/12/29(金) 22:50
目がパッチリしている。
宇喜田家は渡来系だからね。
21 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 23:29
なんか家康に立場が似ていなくもない。
人質だが、ほとんど親代わりで立派な武将に育ててもらったわけでしょ。
宇喜田は秀吉死後豊臣に忠誠つくしたが、家康は逆だな。
22 :
実習生さん:2000/12/30(土) 23:33
>なんか家康に立場が似ていなくもない
あのー、全然違うと思うんですけど。
今川家での元康は、あんなに優遇されてないっしょ。領地の岡崎だって実質的に召し上げられた状態だし。
23 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 10:26
主君広忠を失った松平家が存続できたのも義元の庇護あったればこそ。義元は自分の
名前の一文字を譲ってやり養女まで娶わせてやったのだからかなり優遇されてた筈だ。
酷い目にあってたら老年駿府に住みたがるわけがない
24 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 10:32
>宇喜田は秀吉死後豊臣に忠誠つくしたが、家康は逆だな
秀家が小物だから
25 :
光源氏@京都:2000/12/31(日) 16:57
五奉行の一人だっけ。
26 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 22:04
>自分の名前の一文字を譲ってやり養女まで娶わせてやったのだから
秀家もそうだっけ?
たしか前田利家の娘かなんか・・
27 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 23:22
>26
豪姫だったっけ。
28 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 23:54
29 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 00:04
豊臣秀吉が五大老の刀を見て誰が誰のもので
あるのかを当てる話しがあるが彼のものは
華奢で細身で華やかなことで当てる。
その時に秀吉が一言、一番彼を信頼している
が、1つ心配がある。このような刀を持ってる
ということは家の家来のことや領民のことを把握して
いない。それが気がかりだと言ったという話しが
ある。
30 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 00:11
前どこかで出たよね、福島正則の酒を分けてもらった話。
31 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 00:59
>>30 流刑地での話ですね。「酒飲みは酒飲みの心を知る」って奴でしたっけ。
32 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 03:46
>23
その通りです。三河物語に苦労話が載ってますが、その内容は鷹狩りが
好きでよくやっていたが鷹が今川家の家臣の家に迷い込むことがよくあって
そのたびにその屋敷にはいって鷹を追い回して庭を荒らしたため家人が文句
を言ったらしい。三河者は好きに鷹狩りもできないとはと悔しがったそうな。
しかし、よく考えれば鷹狩りは所謂大名遊びですから人質どころか金持ちの
どら息子で放蕩三昧のうえ周りの人間に文句を言われたことを粘着質に覚えて
いるイヤな奴。としかいえないですね。
ちなみにこの家臣は今川滅亡後に有無を言わさず家康に殺されています。
33 :
名無しさん@1周年:2001/01/01(月) 04:45
秀家を小物と煽る奴がいるが、きっとそいつは本物の小物だろう。
34 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 05:58
>33
好きな気持ちは分かるが・・・・・。
家臣の統率も拙いし、独自に外交を行った
形跡がないところは痛い。
忠臣ではあるが、名将には及びも付かない
のが客観的な評価ではないだろうか?
婚姻関係からすれば、本人がその気であるなら
かなりの影響力を持っていたはず。
35 :
光源氏@京都:2001/01/01(月) 18:53
佐渡に流された後100まで生きた。
36 :
24:2001/01/01(月) 19:57
別に煽ったつもりはないけど、「小物」は言いすぎだったかな。
家康と比べちゃったからねえ。
気を悪くしたら、ごめん。
37 :
実習生さん:2001/01/01(月) 20:00
良く言えば、一本気、義理堅い、純粋無垢
悪く言えば、直情径行の猪武者
如何せん「若造」というイメージが拭い難い。
実際、まだ若かったから仕方ないと思うけどね。
38 :
>35:2001/01/01(月) 20:02
佐渡?八丈島じゃなかったっけ?
100?83じゃなかった?
39 :
光源氏@京都:2001/01/01(月) 22:25
いいえ佐渡です。
島流し=佐渡。
学校の山崎先生がおっしゃられていました。
40 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 22:42
光源氏@京都は熱い
41 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 23:24
うきうき♪
宇喜多
42 :
名無しさん@1周年:2001/01/02(火) 00:15
秀家は家中を統率するために豊臣家に埋没しすぎた。
裏切り続出の関が原でも勝つために全力だった。
秀家萌え。
佐渡でいいの?>ALL
43 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 03:06
>42
八丈だよ。
あきれ果てて、書き込む気にもなれんかった。
秀家の内政については、在坂していることが多く
家中の派閥融和に無関心だった。
これは、大名として痛い失態。
44 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 03:15
八丈島の中心部にある大賀郷東里には秀家及びその子孫の墓があるし、
明治2年には宇喜多一族に赦免の布令が発せられ、3年には島を離れ
東京に住んだけど島が懐かしく7家のうち5家が八丈島に帰ったため
まだ八丈島に宇喜多秀家の子孫が住んでるじゃないのですか。
45 :
名無しさん@1周年:2001/01/02(火) 04:22
>44
ほう初耳。
明治になるまで島流しとは幕府は徹底してますな。
コテハンいじめたくないけど厨房?>35,39
46 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 05:05
八丈島での秀家と福島正則の酒の逸話で。
秀家が正則の家臣に、「福島どのの領地からなら、故郷の酒を
積んでいるはず。」と言っていたように記憶してるが。
安芸・備後と備中・美作では、当時どちらの酒が主に
流通していたのだろうか。
秀家の言葉通りなら、後者の方だが。
現在は、安芸・備後の方が酒どころ。
正則は備中・美作の酒を買っていた?
47 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 19:14
>>43 御神輿としては理想的な人材なんだけどねぇ。
ほんと秀吉本気で跡継ぎ・秀頼の後見にすればよかったのに。
そういや司馬では叔父の忠家が奸物扱いだったけど真実は如何?
48 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 20:54
>>47 なってるよ。秀頼の
第一の後見人は前田利家。
第二の後見人は宇喜田秀家。
何にしても、利家がさっさと死んじゃったのが痛恨だったね。
>>48 いややっぱり関白という名分はあったほうが良かったってこと。
結局西軍の烏合の衆度もそこに由縁があったんじゃないの。
制度的に根拠も権威も何もない。
例えば関白が追討令出すだけでもも少し違ったのでは。
50 :
日本@名無史さん:2001/01/04(木) 08:23
家中騒動なんだけど、
奥底には秀家自身と家臣との豊臣家に対する
感情の温度差があったのでは。
常に秀吉の傍にいて、
豊臣家の御威光と恩義を否が応にも意識せざるを得ないとはいえ、
それこそ首までどっぷり豊臣家に漬かってしまった秀家を、
そもそも毛利と織田に挟まれて、
which is better で織田家(秀吉)を選んだに過ぎない
直家の頃からの家臣団は苦々しく見ていたのではないだろうか。
それが秀吉の死後も一向に変わる気配が無い秀家
(豊臣第一の忠臣との世評にくわえて天下の五大老にまでなってしまって
今更どうにもならなかったろうけど)
に対して財政宗教その他の問題と一緒に吹き出たと。
まあ秀家本人は幼少の頃、母親(お福)の寝所に夜な夜な秀吉が
入っていくのを目撃してる上、それを後年奥方に語っているところを
見ると、内心かなり複雑なものがあったのかも知れないが。
51 :
うひょひょ@岡山:2001/01/04(木) 22:28
>まあ秀家本人は幼少の頃、母親(お福)の寝所に夜な夜な秀吉が
>入っていくのを目撃してる上、それを後年奥方に語っているところを
>見ると、内心かなり複雑なものがあったのかも知れないが。
ええっ!そんな史料があるんですか?。初耳です。
よろしければ出典を教えてください。お願いします。
あと、家中騒動は、宇喜多家領国で豊臣政権の施策を
そのまま推進しようとした点に集約されると思います。
52 :
日本@名無史さん:2001/01/07(日) 02:43
>>51 すみません、昔読んだ歴史読本(新人物往来社)の
「宇喜多秀家」の項で読んだだけです・・・・。
たしか、補安(?)太閤記or仮名本太閤記辺りだったと思う。
家中騒動については花房助兵衛が小田原の陣で秀吉に楯突いて見せた
所などからそういう面もあったのでは、ということで。
厨房やってしまった・・・・・。はずかち〜
53 :
日本@名無史さん:2001/01/07(日) 03:58
最近の歴史群像シリーズなんかだと、三成ではなく、秀家が
西軍の首謀者、という説が増えてるけど、真偽はどうなんだろう。
>>49 でも、あの頃の家康の横暴振り見てると、実績のない若武者の
秀家が関白でも関係無いのでは…。
なにしろ五大老の内、自分自身以外の四人に難癖付けたり、対立
してるでしょ、あの頃の家康って。五奉行も西軍にほとんど付いて
いるのだし。
現在の目で見れば、どー見ても家康の行動ってお家乗っ取りの
クーデターにしか見えないんだけど… 当時の武将はそう思わな
かったのかな。
54 :
世界@名無史さん:2001/01/07(日) 04:02
>>53 若武者っていっても28@`9になってたんだけどね。
55 :
うひょひょ@岡山:2001/01/07(日) 18:02
>>52 >厨房やってしまった・・・・・。はずかち〜
そんなことないですよ〜。だって、53さんの言われている
>最近の歴史群像シリーズなんかだと、三成ではなく、秀家が
>西軍の首謀者、という説が増えてるけど、真偽はどうなんだろう。
という説なぞ、大学勤めの研究者が堂々とお説を開陳してますが、
原史料の「舜旧記」の読み方を間違っているだけ:。
こっちこそ恥ずかしい(笑い)。他の史料を熟読すれば、
秀家が当初上杉征伐に参陣するために上洛したことは明白なのになあ…。
坂崎出羽も秀家の名代として家康に随行してたんですからねえ。
この辺の事情は学研M文庫「真説関ヶ原合戦」で桐野作人氏が
詳述していますので、ぜひご一読を。
うむむ。では。
加賀から来た姫の付き人家臣vs旧来の家臣、だろ?<御家騒動
姫への寵愛をいいことに、加賀からの家臣が傲慢に。
それを秀家は、中央の仕事(大阪・伏見)が忙しく、加賀から
来た姫への遠慮(愛情)もあって、加賀から来た家臣を処分で
きなかった。
でも明治に、加賀藩はちゃんと責任果たしてるんだよね。
数百年を経て・・・
57 :
うひょひょ@岡山:2001/01/07(日) 22:33
>>加賀から来た姫の付き人家臣vs旧来の家臣、だろ?<御家騒動
ことはそう簡単ではない…。
付き人とされている中村次郎兵衛、実は播磨出身であり、かつまた
信頼できる史料上付き人であったとの文言は確かないはず。
後にお豪付きの家臣として加賀藩へ仕官したのは事実ですけどね。
58 :
日本@名無史さん:2001/01/08(月) 01:18
>現在の目で見れば、どー見ても家康の行動ってお家乗っ取りの
>クーデターにしか見えないんだけど… 当時の武将はそう思わな
>かったのかな。
そう思って行動した武将もいっぱいいたと思うよ。
戦国大名が一番大事にするのは忠義よりも自分の領土。
大名たちにしてみれば、豊臣家よりも自分の家の存続の方が大事なわけで、
それだけ家康の影響力が大きかったってことだろうな。
59 :
日本@名無史さん:2001/01/08(月) 02:15
豊臣政権も織田を乗っ取ったようなもんだからね。
滅ぼされたのはともかく天下人の座を取られたのはしょうがないよ。
60 :
日本@名無史さん:2001/01/08(月) 02:37
>乗っ取ったような
ようなじゃなくて乗っ取ったんだろ
61 :
日本@名無史さん:2001/01/12(金) 03:36
武士の「忠」なんて概念は江戸期のお飾り武士道からです。
62 :
日本@名無史さん:2001/01/13(土) 21:23
>>44そのとーり。
オレのおふくろの田舎が八丈でさ、んで、うちのばあちゃんと
宇喜多さんとこのばあちゃんが仲良くて、うちにしょっちゅう遊びに
来てたよ。
で、帰りには必ず庭でしょんべんたれてくんだわ(藁
今はもうどっちも死んじゃったけどね。
墓は、はっきりいってショボイかな。
63 :
日本@名無史さん:2001/02/05(月) 22:12
age
64 :
毒掃丸:2001/02/06(火) 03:24
宇喜多が、関ヶ原で西軍についたのは、明石掃部が反家康だったからと聞い
たけどね。十万石(他説では四万石)持っていて、鉱山も握っていたらしい。
実は宇喜多の金庫じゃないの。それにキリシタンで武器に興味があったらし
い。家康にとってはとても危険。小西行長とかとのつながりも感じるが。
65 :
名無しさん: