上杉謙信について教えて

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1日本@名無史さん
学校(中学)の授業であまり習わないので
詳しくは知らないのですが一番興味のある武将です。

上杉謙信についてもっと知りたいので
上杉情報をお願いします。
2名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 01:38
戦国時代最強です。
多分、島津も真田も上杉軍にはかなわないでしょう。

一度も負けたことがありません。
謙信は自分を毘沙門天の化身だと思っていて、
上杉軍はほとんどカルト教団の様相を呈しています。
(戦に関しては)そのため、自分たちが負ける分けない
と思っていたらしいです。(それが強さの秘密)

あと、上杉謙信は私利私欲とかが大嫌いで、あの下克上の
何でもあり戦国時代に侵略戦争をやっていません。(ここ
ら辺は異論ある人もいるかな?)

正義の人です。
3武田信玄について教えて:2000/12/24(日) 01:45
学校(中学)の授業であまり習わないので
詳しくは知らないのですが一番興味のある武将です。

武田信玄についてもっと知りたいので
武田情報をお願いします。
4名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 02:14
第一義をモットーにしていた謙信、確かに魅力はあるね。

敵に塩を送るという言葉も
敵将信玄の領土が塩不足に苦しんでいたときに
「武士が戦うのは刀弓矢であり魚や塩ではない」と
謙信が言ったところから来ていると言われているからね。

まあこの件には確証はないんだけど
こういう話が伝説として残るほど
戦国時代には珍しい聖将だったのではないかと思う。

何はともあれ現在日本にも
謙信のような政治家がいて欲しいものだね。
5名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 02:45
上杉謙信は生涯不犯だったらしい。
別にホモではないと思う。
謙信が政治家だったらいいね。
6ななっしー:2000/12/24(日) 02:49
謙信は厠で死んだ?
7名無しさん@1そうだ選挙にいこう:2000/12/24(日) 03:08
ホモか、あるいは「実は女性だった」説もあるよね。
8名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 03:19
>7女があんなに戦闘に強いわけが無い。
>6脳卒中。
9日本@名無史さん:2000/12/24(日) 04:41
上杉軍は関東で人狩りをやって
奴隷として売り飛ばしていたそうです。
最後には南蛮人の手に渡り
遠く異国に連れて行かれたそうな。

憐れなり。憎むべし、越後の戎夷。

という話、朝日新聞の何かの書評で
大昔読んだ事あるんだけど、知ってる人いない?
10ヒロヒト(海原雄山):2000/12/24(日) 04:42
>女があんなに戦闘に強いわけが無い。

こいつヴァカか、

侵略戦争をやっていないなんて誰でもすぐにわかる嘘。
部下達もなんとなくイヤイヤつれまわされていた。
そのおかげで本庄繁長、新発田重家、北条高広など
謀反にはしった家臣が多い。
あんまり信用できないが軍記物を見ると戦争の仕方なんか無茶苦茶。
取り敢えずムカツクから殴る、といった感じ。
11与六:2000/12/24(日) 04:49
川中島合戦なら、毎年五月三日米沢でやっているので興味のある方は来てください。
12日本@名無史さん:2000/12/24(日) 06:52
>>10
関東出兵は結局北條氏の基盤を固めただけで終わっちゃったし、
武田との抗争も大して得る物無し(まあ防御戦だから仕方ないが
北信濃取られるのは喉元に刃突きつけられるみたいなもんだし)。
越中も結局平定までに何十年もかけている、椎名に裏切られたため。

理想的なのは能登攻略くらいなもんね。しかもアレは典型的な侵略戦争。
13日本@名無史さん:2000/12/24(日) 11:45
謙信は確かに強かったとは思うが
戦国武将としての手腕は領土欲がなかったと言うことで
決して旨くは無かったと思う。

部下としても手柄を立てたのなら
領土の一つも欲しかったところだろう。
だから反旗を翻した奴が出てきたわけだ。

しかし、謙信は反旗を翻した部下と戦いそれに勝っても
その部下を殺すようなことはせずに逃がしてやったという。

そう言う意味ではやはりただ者ではないな。
14名無し@そうだ皇居に行こう:2000/12/24(日) 12:45
>10 激しく同意
何回も家臣に謀反されるということはそれに対する配慮が足りないということ

童貞で戦が強かったとかそこらへんで後々作られた話しもたくさんあるのでは?
15日本@名無史さん:2000/12/24(日) 12:52
>>4
> 敵将信玄の領土が塩不足に苦しんでいたときに
> 「武士が戦うのは刀弓矢であり魚や塩ではない」と
> 謙信が言ったところから来ていると言われているからね。
これは単に、塩の通商で大儲けしようとしただけ、という話もあるけど。

>>9
> 上杉軍は関東で人狩りをやって
> 奴隷として売り飛ばしていたそうです。
事実です。つうか、年中行事の関東出兵は奴隷狩りが最大の目的。
関東管領になったのは、その大義名分のため。

上杉謙信もただの戦国武将だよ。
16日本@名無史さん:2000/12/24(日) 15:57
謙信に限らず、歴史上の人物のイメージは、ほとんどが脚色されているでしょう。
確実な根拠はないですが、謙信は戦に強いというよりは、本気で戦に挑む回数が
多かったということではないでしょうか?当時は合戦といっても、実際のぶつか
りあいよりは、にらみ合いで終始し、政治的駆け引きで決着をつけるというパターン
が基本で、よっぽどの場合のみ激しい戦闘になったのでは。謙信の相手が、
実際の戦闘では、負けたように見えても、領土的には確保しているのはその辺では
ないでしょうか?

17日本@名無史さん:2000/12/24(日) 18:36
 まとめると謙信は騎馬民族のようにただ荒らしまわるだけだった。
北条もそれを知っていて(雪のせいもあるが)決戦は避け、やり過ごすことを念頭に置いて守勢に徹した。
かろうじて正面からぶつかったのは信玄だがこれもいわば言いがかりに近い。
 結局誰からも相手にされずに空回りして、得るもののない不毛な戦争に嫌気がさした部下の謀反を招いた。
仕方なく方向転換をはかり西に伸びるが成果は芳しくなかった。
 こんな所でゲームの話するのもなんだが、火事場泥棒みたいなプレーに走る、初心者にありがちな一貫しない戦略方針。
とても戦上手とは思えん。
 「陣頭に立って」とか逸話もあるがはっきり言って匹夫の勇。
何でも自分でしないと気がすまない、自己中心的な性格丸出し。
こんなの会社にいたらやだぜ、特に上司。
18日本@名無史さん:2000/12/24(日) 21:34
上杉謙信は学歴板に生息しているよ
19日本@名無史さん:2000/12/24(日) 21:43
北条にとっては台風みたいなもんでしょう。
20日本@名無史さん:2000/12/24(日) 22:10
なんで柿崎景家だけは殺されたの?
21名無しより愛をこめて:2000/12/24(日) 22:19
あなたは人を殺したいと思ったことはありませんか?
誰にもバレない殺人術をお教えいたします…。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~kongen/
22北条三郎:2000/12/24(日) 22:40
ワタシも狩られました。人身御供として。
オヤジのあほー!!
23日本@名無史さん:2000/12/24(日) 23:13
ただ名誉欲は凄かったみたいね。
関東管領になりたくて意味もなく小田原に攻め込んだり(謙信の戦略上は小田
原に攻め込む必然性はないはず、領土を増やしたいなら北陸道を制覇する方が
簡単だろうし、これを脅しに北条と同盟するのが目的なら相越同盟の時にもっ
と北条を助けた筈)、将軍義輝から一時貰って「輝虎」なんて名乗ったりして
るし。
まあ、人間は皆、欲があるんだし、彼の場合は名誉欲になっただけだろうね。
24名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 23:30
謙信は織田信長とも一度戦っています。
上杉軍のあまりの強さに信長は
飛んで逃げ帰りました。

その模様を伝える狂歌が今でも残っています。
25名無しさん@1周年:2000/12/25(月) 01:31
>24その狂歌教えて
26日本@名無史さん:2000/12/25(月) 07:35
正確には信長本人じゃなくて信長の家来の柴田勝家と戦ったんだけどね。
織田軍は2000の死者を出す大敗。
大勝利に喜んだ謙信は祝い酒のみまくってそのままぶっ倒れて越後へ帰郷。
そして死。
27日本@名無史さん:2000/12/25(月) 10:36
>織田軍は2000の死者を出す大敗。
実際はそんなに死んでません。
28にゃお〜ん:2000/12/25(月) 10:48
秀吉に「所詮は田舎大名」って言われたとか言われないとか

>大勝利に喜んだ謙信は祝い酒のみまくってそのままぶっ倒れて越後へ帰郷。
>そして死。

そんで後をついだ連中は逆に柴田に押されまくり、越後まで攻め込まれそう
になる。すんでのところでその窮地を救ったのは明智の反乱。本能寺の変で
一番得したのは実は上杉か.....?

でも上杉といい武田といい、有名な割にはあまり領地は広げられなかった
ねぇ
29日本@名無史さん:2000/12/25(月) 13:03
>>22
同盟を破棄したのも、御館の乱で援軍を足踏みさせてたのも、氏政です。
父上の氏康ではありません。最低限の勉強はしましょう。
30日本@名無史さん:2000/12/25(月) 16:18
上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長
31日本@名無史さん:2000/12/25(月) 22:10
対北条でも、対信長でも、謙信が来たら一斉に白旗を挙げていたらしい。
つまり、一戦場の戦闘には無類の強さを誇る武将だった、と言われている。

>>17
騎馬民族。言い得て妙。当時の北陸は今の新潟と違って
米なんて採れないから略奪で生活するしかなかった。まさに騎馬民族。

>>23
北陸を獲ってもしょうがないよ。米採れないし。やはり豊かなのは関東。

>>28
謙信の領土、越後・39万石。
信玄の領土、甲斐・22万7千石、信濃・48万8千石。合計71万5千石。
信長の領土、尾張・57万1千石、美濃・54万石。合計・111万1千石。
そもそも、経済基盤が違いすぎる。
謙信の勢力から対北条、対信長で連戦連勝したり、
信玄の本領・甲斐から、倍以上もある信濃を切り取ったり、
至難の業だと思うがな。やはり、相当な名将だよ。

確か、信長が信秀から受け継いだのは、尾張半国で、20万石ちょっと。
尾張を切り取るのに、10年以上掛かっている。美濃を制するのは
それから、数年を要している。尾張と美濃を併せて、100万石以上。
1568年の時点で日本最大の大名。天下を取って当たり前か。
32名無しは無慈悲な夜の女王:2000/12/25(月) 23:01
対信長で比較するならば
謙信よりも直接傷を負わせた鈴木重秀が最強と思ったけど、
その理論では明智光秀が最強なのに気付きました。
3324:2000/12/25(月) 23:40
>30
代弁してくれてありがとう。

>25
わかったかな?
34日本@名無史さん:2000/12/25(月) 23:46
>30
上杉に逢うては織田も名取川 はねる謙信逃げるとぶ長
         (手取川)       (信長)

じゃなかったっけ?
間違ってたらすまぬ。
35日本@名無史さん:2000/12/25(月) 23:48
謙信っていつ外征してたのかな?春と夏は農繁期だし、
冬は雪で進軍できないはず。
36日本@名無史さん:2000/12/25(月) 23:51
34だが上の文章の2行目が
思いっきりずれてしまった、すまぬ。
37日本@名無史さん:2000/12/25(月) 23:54
>>31
毛利って1568年時点で何万石?
38日本@名無史さん:2000/12/25(月) 23:57
「御恩と奉公」が色濃く残る戦国の武家で、せっかくお家のために戦っても
全く領土が増えず褒美が紙切れ一枚(感状)じゃあ嫌気が差すだろう。
土地が無いと武家はやっていけないのだ。
39長澤道寿斎:2000/12/26(火) 00:14
や、スレッドの上の方読んでどーなることやらと
思いましたが、皆さん謙信神話に対して冷静でいらっしゃる。
安心しました。
40日本@名無史さん:2000/12/26(火) 00:26
>>31
北陸は米がとれないなんてことあるか?
慶長検地の段階で越後39万石、越中37万石、能登21万石、
加賀35万石、越中50万石だぞ。
上野50万石すら満足に切り取れない状況を鑑みれば北陸を取った方が
早いに決まってる。
さらに北陸を海岸線沿いに進めば良港が次々と手中にでき、経済力は
飛躍的に上昇する。
あと、信濃は当時は40万8000石だよ。さらに飯山城周辺は
上杉領だから、その辺も考慮するべき。

>>35
出征は夏と冬。農繁期ってのは梅雨時の田植えと秋の稲刈りだけ。
謙信は雪の中でも関東まで行ってみせた。
41訂正屋本舗:2000/12/26(火) 00:28
>>40
越中50万石→越前50万石
42日本@名無史さん:2000/12/26(火) 01:02
ついでに言えば謙信には佐渡金山、信玄には黒川金山と言う巨大な収入源があ
ったから石高の倍以上の兵を動員できたはず。
43日本@名無史さん:2000/12/26(火) 01:07
>42
実は佐渡は上杉氏の所領じゃなかったんですよ。
謙信が金を得ていたのは西三川金山。
ちなみに御館の乱で景勝が勝ったのはいち早く謙信の遺産を
押さえたのが大きい。
44:2000/12/26(火) 02:40
足利将軍三代はどう?
尊氏@`義詮、義満又は、義輝、義栄、義昭はどう?
毛利元就はおもしろかった

45名無しさん@1周年:2000/12/26(火) 06:58
新潟県が米の大生産地になったのは戦後なんだよね。
46与六:2000/12/26(火) 07:04
みんな石高にこだわり過ぎ。金山、銀山の他、直江津湊、柏崎湊の船道前(入港税)だけでも相当の稼ぎがあったんですよ。 他にも越後丈布を流通させたり、彼の代で借金返して、春日山城の金蔵に膨大な量の金塊を貯蔵できるまでになったんです。でも感状の数で家臣の地位が決まるのは便利なシステムですね。 放火された北条方の都市はヘタレの憲政を恨んでね。
47日本@名無史さん:2000/12/26(火) 10:33
>>46
それじゃあ、そんだけ金持ってて戦争強くて大義名分あるのになんで上野一国押さえられなかったんだ
とゆーことで>>10のヒロヒトが当たりかという話になってくる。なんかそれじゃいけすかんので見ないフリ。
悲運の名将のままのほがカッコイイじゃん。ましてや人狩りなんて。

まあ重家は謙信の代では謀反起こしてないけどね。新発田ですらない(当時は五十公野を名乗ってる)。
48日本@名無史さん:2000/12/26(火) 12:31
 冬になると雪で退路が塞がるので、それを嫌がって中々関東に滞陣できませんでした。
しかも防御側(特に信玄など)は越後武将や一向宗に内応を促して後方攪乱も積極的に行ったので、常に後顧に愁いを残したままの出陣です。
 北関東の諸侯は夏は謙信に白旗を上げ、秋が終われば北条に白旗を上げ、といったことを繰り返し、中々定着できなかったようです。
陸路が無理なら海路で行き来可能な北陸路を狙う方が維持しやすいのは自明の理。
49日本@名無史さん:2000/12/26(火) 12:33
 関東を攻めれば信玄が横槍を出すこともあった。
油断も隙もない。
50与六:2000/12/26(火) 17:45
なんで北条高広に上野の運営をまかせたのかな。不思議なのは高広を唆した武田、後北条がとりなしてくれて、謙信公もあっさり許すとは…。松永久秀と信長の関係とも似ているね。 あっそれと国内外安定していない状況なのに、よく二、三度上洛したもんだ。 三好勢との畿内での激突を想像することもありました。
51日本@名無史さん:2000/12/26(火) 17:57
>50
色んな意味ですごい人ですね
52与六:2000/12/26(火) 18:23
まだまだあるよ、大名やぁーめたって言って高野山に行こうとして、家臣団に引き留められたなんて理解できません。
53日本@名無史さん:2000/12/26(火) 19:13
敵に完全に包囲されて、今は落ちるばかりになった味方の城に、
単騎で、駆けもせず敵のど真ん中を悠々と抜いて入城したって
逸話があるね。あまりのことに敵も恐れて退散したそうだ。
54日本@名無史さん:2000/12/26(火) 19:55
>53 唐沢山城だっけ??氏政に囲まれてたときだっけ??
55与六:2000/12/26(火) 20:27
>54さん、下野の栃木城と言う説もありますね。三万五千の北条勢の中を、謙信公と四十五人の巨漢の力士衆が悠然と入城するなんて、やっぱカッコイイよ。
56日本@名無史さん:2000/12/26(火) 23:08
>>37
えっと、1568年時点での毛利の領土は、宿敵・尼子との抗争の真っ最中で、
長門・13万石、周防・16万7千石、石見・11万1千石、安芸・19万4千石、備後・18万6千石
合計・78万8千石。

>>40
関東管領就任直後は、関東の200万石以上の領土が目の前に広がっていた。
こっちの方が魅力的だろう。信玄が北上すると、それを食い止めるために
必死で、とても北陸に手を出す暇がない?川中島を獲られると、対武田戦の舞台は
上野に移って、やはり、手を出す暇無し。ってところかぁ?>>49さんの意見と同じ議論。

>>46
40さんの指摘の通り、上杉軍は農民兵で構成されています。
石高分の動員しか出来ないでしょう。
商業価値と動員力を結びつけたのは、兵農分離を行った信長。
これで、石高以上の実力が出せるようになった。
それに商業価値で言えば、越後より美濃・尾張の方が圧倒的。

あっ、それからこの石高は慶長年間の石高。だから、どの国と、どの国で較べて
より豊かかと言う指標にはなりますが、あくまで参考程度にとどめておいてください。
57日本@名無史さん:2000/12/26(火) 23:22
>55
45人の力士衆の中には鬼小島弥太郎は入っていたのですか?
個人的には鬼小島が好きなので気になってしまいます。

しかし、かっこいいなぁ。
いや、まじで。

58日本@名無史さん:2000/12/27(水) 00:44
武田信玄が死ぬときに遺言で息子に

「上杉とは喧嘩をしてはいけない。
 上杉は頼めば嫌とは言わない男だから
 これからは上杉を頼って甲斐の国を
 保つようにしなさい。」

みたいな事を言ったらしいが
詳細を知っている人がいたら教えて。
59日本@名無史さん:2000/12/27(水) 01:03
>>58
北条氏康が死ぬときに遺言で息子に
謙信は頼りにならない。一方信玄は信頼できるから
これからは信玄を頼って相模の国を保つようにしなさい。

と言ったらしい。

結論:この手の話はにたよーなのがどこにでもあって一概にアテにならない
60日本@名無史さん:2000/12/27(水) 02:22
戦国無精の逸話なんて殆ど後世の創作だろ
61日本@名無史さん:2000/12/27(水) 03:40
>敵に塩を送るという言葉も
>敵将信玄の領土が塩不足に苦しんでいたときに
>「武士が戦うのは刀弓矢であり魚や塩ではない」と
>謙信が言ったところから来ていると言われているからね。
美談としては、それで終わりだけど、上に立つ者だから出来ることだよね。
上杉軍の一番底辺で命かけて戦う人たちにすれば、少しでも敵が減れば・・・
と思うからね。

62日本@名無史さん:2000/12/27(水) 07:42
鬼小島弥太郎は架空の人物
63ほにゃら。:2000/12/27(水) 08:01
ここに限らず、なんかみんな、戦国大名に幻想抱いてるねー。なんでヒーローにしたいのかな。
「…に学べ、経営戦略」なんてのもあるし。ここでも指摘あるけど、戦国大名絡みの逸話、美談
ってのは、江戸期以降の軍記物で形成されたものばっか、ひどいのになると戦前、国威発揚目的
からあえて誇張されたものまである。さらに小説やPCゲームなんかでチャンバラ劇で妄想が
拡大して、そんなんでイメージ作った学生が最近大学でも増えててホント困る。
64与六:2000/12/27(水) 08:11
弥太郎には人間離した逸話があるので、架空の人物だとしても不思議ではありませんが、それでは夢がないのでここはいたとして>>57さん、彼は力士衆ではないのですが、信頼された側近なので四十五人の中にいたとしても納得できます。 信玄に使いに行った際、襲ってきた猛犬を表情を変えずに握りつぶしたとか、川中島で山県昌景と激戦を演じたなども、上杉家の家臣らしい話ですね。
65日本@名無史さん:2000/12/27(水) 08:55
不思議も何も、鬼小島弥太郎は講談上の架空の人物だろ
66日本@名無史さん:2000/12/27(水) 09:26
 戦国時代の美談・逸話も元を正せば中国の逸話が元になってるものも多いのではないかな?
自分はそっちの方詳しくないけど。
67日本@名無史さん:2000/12/27(水) 09:55
>>61
越後の主要産業の1つである塩商人の利権を守ったというのが真相。
684444:2000/12/27(水) 10:05
test
69山師さん:2000/12/27(水) 10:19
謙信の神格化は存命当時からみたいだね。
ヒステリー体質の人でそれが一種のカリスマ性に転化したっつー
のは、もう常識かな。
70日本@名無史さん:2000/12/27(水) 10:22
関東管領の就任式で、自分の前で作法どおり下馬しなかった侍に
怒り狂い、殴る蹴るしたあげく関東の諸勢力の信望を完全に失っ
たドキュソ。
71日本@名無史さん:2000/12/27(水) 10:25
謙信と信長が、1578年5月にif近江で、決戦していたら、どちらが勝利したとおもいますか?
当時の状況より、推論願います。


72日本@名無史さん:2000/12/27(水) 10:46
信長に決まってんだろ!
73日本@名無史さん:2000/12/27(水) 11:27
>>71

局地戦では有利に進むかも知れないが、結局謙信の負けでしょう。
謙信は戦争の目的意識が希薄なところがあるように思えます。
目先の切った張ったに気を取られて、どうすれば勝ちか、が分か
らなくなるのでしょう。
74日本@名無史さん:2000/12/27(水) 12:39
>>70
それねー。絵まで残ってるから否定はできないよな。
まあ、ヤツも普通の殿様ってことだわな。
結局、上の奴等は勝手気ままでわがまま生物なんだ。
だいたい、自分で自分のこと、毘沙門天の化身とか言って・・・。頭おかしいだろ。
75日本@名無史さん:2000/12/27(水) 13:20
人格者、正義の人、戦国最強
といううたい文句の割に家臣に離反者が多いのは何故だろう?
76街宣者:2000/12/27(水) 13:28
謙信公には7割8割ほど、人格者として優れた部分があり、
ここのところは日本のみならず、
異国の偉人にもまずひけを取らないが、
残りの2割かそこらに「短気」だの「激情的」だのと言う問題がある・・・
と言うのが当時の家臣であった、直江氏の謙信評。
77街宣者:2000/12/27(水) 13:30
>>75
つまり、謙信公は神がかった武将だという一面はあった。
しかしそうでない一面も持っていた。
それだけの話やと思うよ。
78日本@名無史さん:2000/12/27(水) 13:51
>>75
それは謙信の父為景から遡らなければならない
長尾為景が守護上杉房能を討った後、越後は混乱し
為景は越後統一どころか反対勢力に敗れ、自身が一時越中に逃れてる
謙信が春日山城に入城後、ようやく統制が取れてきたものの
国人衆を改易・転封することはできなかった
それに国人衆は大きく3つに分けられ、揚北・上郡・中郡があり
特に中条・本庄・色部などの鎌倉御家人の子孫が有力国人として
数多く存在した揚北衆は独立意識が強かった

要は長尾氏は国人衆の代表として存在していただけで
確たる主従関係が結ばれていたわけではなかった
7957:2000/12/27(水) 14:23
>与六さん
なるほど、了解しました。
レスどうもです。
80日本@名無史さん:2000/12/27(水) 14:49
>>78
譜代の大熊に愛想尽かされたのは?
81日本@名無史さん:2000/12/27(水) 15:04
>>75
うちのカリスマ社長、確かに商才はあるが理想ばかり追いかけて現実を見ない。
どんどん成長してシェアを伸ばすライバル他社に比べシェアは伸び悩み。
ライバルの武田工業や織田産業の社員は結構いい給料を貰っている。
うちの会社は含み資産は日本一といわれているが、カリスマ社長が質素倹約型で
社員の給料は安く抑えられている。仕事は他社より厳しいのに . . . . . .
そりゃ、武田工業から高い報酬をちらつかされてヘッドハントされればフラッと
くるよ。
82与六:2000/12/27(水) 16:29
>81さん、面白いたとえですね。 でもその流れからすると、織田、武田両会社とも二代目で倒産の浮き目にあうことになりますね。 あっ織田はほそぼそと天童で孫請け会社として営業していました。藁
83日本@名無史さん:2000/12/27(水) 16:42
>>82
武田も徳川物産に高家として4000石で抱えられ代々従四位を給わっています。
徳川物産の社内では、中堅納入業者である上杉の社長より大きな顔をして歩いています。
84与六:2000/12/27(水) 17:32
>>83さん、上杉には鷹山と言う異国の地にも知れわたる、名社長が登場するけど、武田は社長にはなれないからね。でも不満がなけりゃそれでもいいか。天童織田社の社長は文句ばかり言って、社員はウンザリしていたからな。
85日本@名無史さん:2000/12/27(水) 17:44
>>83
中小企業の社長と中央官庁の高級官僚の差ですね。
中央官庁のキャリアともなれば課長クラスでも、中小企業の社長は頭は上がらない。
もちろん収入は圧倒的に社長が多いのだが、中小企業の社長ごときが中央官庁の
キャリア官僚を吊し上げるのは難しいが、キャリア官僚が中小企業を干すことは
簡単にできる。
鶏口と牛後。どちらが偉いかは一概には言えない。難しいところだ。
86与六:2000/12/27(水) 17:57
私、肝心なことを忘れていました。武田の初代社長の御子息は上杉社に拾われて、代々重役として扱われていました。現在は高校の教師をなされているとか。
87日本@名無史さん:2000/12/27(水) 20:28
 ただ酒のみ過ぎてティムポ勃たなかっただけだろ??
88日本@名無史さん:2000/12/27(水) 23:21
何だかんだ言っても景虎くんはかっちょいい。
89名無しさん:2000/12/28(木) 00:27
肖像画はイメージと違うけどね。
なんか宮沢大蔵大臣っぽい顔してるよ
90長尾為景:2000/12/28(木) 01:53
小田原城下で鉄砲玉飛び交う中、飯食って、茶飲んで、悠然とする。
戦国バカ武将の鏡だよ。
もちろんエピソードは揶揄だけど、謙信の人柄をよく表している。
91与六:2000/12/28(木) 07:25
上杉と織田の関係に興味のある方は、信長が謙信公に贈ったとされる、洛中洛外図屏風と緋羅紗陣羽織を米沢まで見に来てください。
92与六:2000/12/28(木) 16:53
関東公方になりたいって越後まで付いてくるなよ、近衛前嗣。謙信公は関白とか管領とか将軍には弱いんだから。
93名無しさん@1周年:2000/12/28(木) 17:00
権威に弱いのね。
そこが最終的信長に勝てなかった理由かな。
94与六:2000/12/28(木) 17:07
義昭、手紙だけで金よこせってずうずうしいぞ。
95日本@名無史さん:2000/12/28(木) 18:02
権威に弱い、というより義理堅いというべき。
将軍がどんなにボロ雑巾のようになっても彼は足利幕府を盛りたてる
つもりだったんだから。
なんにせよ手取川の戦いで織田軍をこてんぱんにやっつけた上杉謙信
には燃えるさ。

96名無しさん@1周年:2000/12/28(木) 18:08
いや、やっぱ保守的で権威的だと思う。
97日本@名無史さん:2000/12/28(木) 19:08
領国の繁栄、家臣や民草の幸福。
そんな普遍的な価値観よりも自分一個の美意識を優先するだけのヒト。

キャメロットの円卓でも囲んどくのがお似合い。
98与六:2000/12/28(木) 21:30
>97さん、ステレオタイプの批判しかできないあなたも、古い価値感にとらわれ過ぎているのではないですか。現実はそんなに甘いもんじゃないですよ。彼の人心掌握術がある程度成功していなければ、何度も出兵できるはずないし、まともな領国経営をしなければ軍事費を賄うことなど不可能です。
99名無しさん:2000/12/28(木) 21:39
>>98

「ある程度」は成功していただろうが、全面的に成功は
していないな。家臣どもが武田の調略にひっかかって
ぽろぽろ叛乱起こしたのはなんでや?

軍事費なら佐渡の金山から出てくるさ。ありがたいことにな。

何らかのカリスマを持っていたことは確かだろう。でなければ
あっさり暗殺されていただろうな。だが、彼の手腕は多くの
家臣たちを抱える戦国大名として必ずしも責任あるものであった
とは言いがたいのではないかな。

#「現実はそんなに甘いもんじゃない」だって?(藁 あなたは
 どれほどの現実とやらをご存知なんだい? 戦国大名として
 天下を狙った経験でもおありかのう?
100名無しさん@1周年:2000/12/28(木) 21:49
領国経営ていういみでは武田信玄の方が一枚上手だな。
治水治山、新田開墾、金精錬術の中国からの導入など
越後と比べ平野の少なく農業生産の不利な甲斐信濃で
あれだけの国力を維持したのは戦術のみの謙信とは
比べ物にならない。
101街宣者:2000/12/28(木) 21:56
>>98
>軍事費なら佐渡の金山から出てくるさ。ありがたいことにな。

お前さん、ここのスレをちゃんと読んでから書けよ。

あんたが「現実は甘くない」と叱られたのは、
そういう人を見下したような挑発的な物言いに
世間知らずな厨房の匂いを嗅ぎ取られたからに過ぎんのやで。

そりゃ謙信公が信玄公や信長公並の政治手腕がなかったって
言いたいのはわかるけれどよ。
10299:2000/12/28(木) 22:06
>101

俺、97じゃないよ。あんたも98じゃないだろうが。まあいい。

俺は98の断定的な言い方にこそ世間知らずな厨房の独り善がりを
感じたから煽ってみたんだけど。大昔の戦国大名のことを
話し合っているのに「現実は甘いもんじゃないですよ」なんて
まるで見てきたようなセリフが出てきたことに失笑してしまった
からでもあるがね。
103与六:2000/12/28(木) 22:17
私の現実は甘いもんじゃないを誤解している方がいますね。美意識を優先したと言うカキコに対してですよ。 >>97さんのことを何も知らないのに、批判めいたカキコしたことをお詫します。
104日本@名無史さん:2000/12/28(木) 23:23
つまらん質問で申し訳ないけど
謙信自体が強かったのか
上杉軍が強かったのかどっちなの?

「信長の野望」では謙信の戦闘値は
100で最強だったからずっと気になっていた。
105日本@名無史さん:2000/12/28(木) 23:29
>>104

武将を家臣団と切り離して、強さを論じられないのじゃないかなっと思う。
武将自身の軍を指揮する能力、家臣団を育てる能力などが武将の強さだろう思う。
だから、こういう質問の答えは、どちらも強いと答えるしかないのでは?
106名無しさん@1周年:2000/12/28(木) 23:31
つーか「謙信+騎馬=戦闘200」つーのは反則だよな。
107僕が97ですよん:2000/12/28(木) 23:44
はい、正真正銘97以来これが初な。
自分で調理した鶏の香草焼きとスパゲティぺペロンチーノで
夕餉にありついております。

僕としては、謙信が巷間好まれる所以である『一人の男としての
義侠心をどこまでも貫いた』という点が、大国を治める大名としての
評価とはイコールじゃないってことが言いたかったんですがね。
君主たるものが一個人の正義を行動原理とすることには疑問です。
謙信の遺風をして、景勝が豊臣・徳川の世を迎えるに当たっての
現実的な対応を縛ってしまったのではとも思っています。

んで、なんでその書き込みが山城さんの『現実は甘いもんじゃない』
っつうツッコミに繋がるのかは、未だに理解できておりませんが。
108日本@名無史さん:2000/12/28(木) 23:47
>>105

そうだよねぇ、愚問で失礼。

話は変わるが
昨日初めて川中島の古戦場公園の
謙信vs信玄像を見たけど
なかなか格好良かった。
109日本@名無史さん:2000/12/28(木) 23:53
>僕としては、謙信が巷間好まれる所以である『一人の男としての
>義侠心をどこまでも貫いた』という点が、大国を治める大名としての
>評価とはイコールじゃないってことが言いたかったんですがね。

私もそう思う。

しかし、そこがまた上杉謙信の魅力的なところでもある。
部下にしたらたまったものではないと思うが
仮に上杉謙信が領土欲旺盛で侵略ばかりしていたら
それほど魅力はなかっただろう。
110日本@名無史さん:2000/12/28(木) 23:57
謙信は侠客で、信玄は経済ヤクザに喩えてもよろしいでしょうか?
111日本@名無史さん:2000/12/29(金) 00:00
利害関係のない第三者から見ると謙信は魅力的に見えるってことかな。
判官びいきと似たようなもんですかね。
義経も味方からは嫌われてたみたいだし。
112僕が97ですよん:2000/12/29(金) 00:02
>110
んでノブはチャイニーズマフィアってことでどうよ?
113日本@名無史さん:2000/12/29(金) 00:04
ぐあ
クッキーがのこっていたのねん
はじかちいのねん
114与六:2000/12/29(金) 00:11
>>107さん、謙信公が政務をほったらかしにして、自分勝手な行動ばかりしていたと思われているように感じたので、つい過敏な反応を示してしまいました。連日の除雪作業でイライラしていました、スマソ。
115日本@名無史さん:2000/12/29(金) 00:20
景虎 蒼龍窟 という銘柄の日本酒は非常に旨い。
116日本@名無史さん:2000/12/29(金) 00:55
>>62
鬼小島弥太郎
鬼小島弥太郎のモデルは小島貞興。1522〜1588。
勝手に架空にされても・・・
117どきどき名無しさん:2000/12/29(金) 06:04
1530 越後国守護代、長尾為景の末っ子として生まれる。幼名は虎千代。
    
118日本@名無史さん:2000/12/29(金) 06:17
1548 兄、晴景の家督を継いで、春日山城主となる。
1553 信濃国川中島で甲斐国の武田信玄と戦う。
上京して後奈良天皇や将軍足利義輝に拝謁する。
119与六:2000/12/29(金) 06:44
今朝の除雪作業がやっと終わりました。謙信公冬の三国峠越えたのかな?
120日本@名無史さん:2000/12/29(金) 08:09
>>110
人狩りが事実なら謙信は香港マフィア、ゆーのが正しい。
達磨作って輸出してたりして...
121日本@名無史さん:2000/12/29(金) 13:02
死中生あり
生中生なし

これって謙信語録だっけ?
122日本@名無史さん:2000/12/29(金) 13:16
>59

ネタだとは思うが一応補足しておくと北条氏康は遺言で
信玄と信長は表裏常なく頼むに足りぬ。
謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。
それ故その肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい。
と、言ったそうだ。(名将言行録)

もちろん信憑性は無いんだけどね。


123日本@名無史さん:2000/12/29(金) 13:58
親が上越の出身なので嫌いではないけど、時代の空気を読めなかった
田舎大名だな結局。
越後兵や甲州兵は進軍の際、略奪・強姦やり放題だったらしい。
当時としては普通のこと。
信長だけ兵士のモラルにうるさかった。それが大衆の支持を得て天下取りの
一因となった。秀吉、家康も基本的に信長のやり方を踏襲した。
124与六:2000/12/29(金) 16:48
手取川合戦の際、秀吉と勝家の間で対立があり秀吉は勝手に帰国してしまい、後で信長から大目玉をくらい播磨行きを命じられた。 もし信長が北陸方面司令官を秀吉にしていたら、謙信公相手にどんな戦術を見せてくれたかな?
125日本@名無史さん:2000/12/29(金) 17:30
>>124
それって左遷になんの?
与力から総大将にって普通出世じゃん。

上杉かんけーないからsage
126日本@名無史さん:2000/12/29(金) 22:45
>>122
> (名将言行録)
怪しさ爆発。
127日本@名無史さん:2000/12/29(金) 23:46
>>122
もしほんとの話だったら滅茶苦茶かっこええね。
128>122:2000/12/30(土) 00:14
かなり嘘臭いね。
相越同盟で北条が上杉に助けを求めた時に謙信が助けてくれたのなんてほとん
どない。
結果、北条氏康は氏政に指示して同盟破棄と武田との同盟回復をさせてる。
その煮え湯を飲まされた氏康がそんなこと言うとは思えない。
129日本@名無史さん:2000/12/30(土) 00:37
>>123
>信長だけ兵士のモラルにうるさかった。それが大衆の支持を得て天下取りの
>一因となった。秀吉、家康も基本的に信長のやり方を踏襲した。
兵士に対する禁制だけなら織田家以外でも出ている。
『信長公記』など読めば山に篭った避難民を信長が襲わせた話なども
ある。
130光源氏@京都:2000/12/31(日) 17:16
毘沙門天の人だね。僕の大好きな豊臣秀吉のライバル。
大阪城も危なかったという。
131日本@名無史さん:2000/12/31(日) 22:17
オーイ、秀吉が大阪城築くずっと前に謙信は死んでるよ?
それに謙信のライバルは武田信玄、秀吉のライバルは信長の家来時代は明智
光秀と柴田勝家、織田政権乗っ取り後は徳川家康じゃない?
132日本@名無史さん:2000/12/31(日) 22:30
>>130@`131
大坂城では?大阪城は昭和6年製だ。
133光源氏@京都 :2000/12/31(日) 22:34
>>131
全く学生さんの冗談には呆れたものです。
上杉のライバルはやっぱり秀吉です。
文句ある。
134日本@名無史さん:2001/01/01(月) 00:45
光源氏@京都はバカ。21世紀最初の2ちゃんねるアイドルを
目指しているつもりかな。
135日本@名無史さん:2001/01/01(月) 00:47
@の後ろに京都ってつけるのやめてください。
136日本@名無史さん:2001/01/01(月) 01:05
>>135

京都の方ですか?
お気の毒に、、、。
137日本@名無史さん:2001/01/01(月) 07:54
>133
てっきり小学生が時代交渉めちゃくちゃな空想歴史小説読んで書いてるんだと
思ったのに。学生じゃないの?
となると、祝!二十一世紀初のドキュン誕生。
138日本@名無史さん:2001/01/01(月) 08:02
>>136
ぶら、、、、いあうぐっあぁああああ
139与六:2001/01/01(月) 09:31
まったく正月からこんなことになるとは…。謙信公と政宗公はほっといてくれよ、光。
140日本@名無史さん:2001/01/01(月) 11:18
>>137
光源氏@京都はいろんなスレでめちゃくちゃ言ってるよ。電波だろう。
141日本@名無史さん:2001/01/01(月) 12:27
>>128
同盟締結時から約束破っとる氏康が悪いよ。
自分が何もしないのに相手にだけ求めるのは
ダメ、ダメ。
142光源氏@京都:2001/01/01(月) 13:04
やぁやぁ皆さん、威勢だけはよろしいようで、知識はいまいちだと言えます。
僕のようなインテリジェンスの意見は素直に受け入れ給え。馬鹿どもが。
謙信は頭巾をかぶって馬に乗って信玄に斬りつけた。ナウイね。
143名無しさん@1周年:2001/01/01(月) 13:07
光源氏@京都 って寂しいんだろうな。
だからアラシでもなんでもして注目して欲しいんだよ。
ガキがお母さんに構ってもらいたくて悪戯をするのと同じ。
ヤツの書き込みはないものと思って進めましょう。
144与六:2001/01/01(月) 17:27
しまった、上杉神社に初詣でに行くの忘れた。今大雪だし明日にしよう。俺って軟弱者だ。
145光源氏@京都:2001/01/01(月) 18:45
与六さんは典型的なダメ人間です。
146光源氏@京都:2001/01/01(月) 18:52
さてさて学生さんの冗談には困ったものです。僕のことが悪く言われているよ。僕より馬鹿はいくらでもいるのにな。
僕のファッションの何処が悪いのかな?ロン毛はオシャレの基本でしょ。それを赤いゴムで縛るのはオシャレの証拠でしょ。
ブレザーは茶色(泣かすね)で、シャツは黄色のチェックってすごくナウイでしょ。エレッセのサングラスって完璧でしょ、グラサンとしては追随を許さない。
ホストとしても完璧だね。とにかく女にもてる。万歩計もつけている。
鞄はシルビアの鞄。パパは薬局の社長だから、セドリックに乗っているスーパーエリート。僕も
バイクを乗り回し、不良どもを蹴散らす熱血漢。
クラシックなら何でも知っている。
僕は口が軽いと言われるが、そうかもしれない。
僕の言葉で全てが浄められる。


147光源氏@京都:2001/01/01(月) 22:32
僕はラコステとポロとラルフローレンが好き。そしてよく似合う。
少し派手すぎるかな。
148日本@名無史さん:2001/01/01(月) 23:54
あらしがコピペを使うとは知らなかった。
149日本@名無史さん:2001/01/01(月) 23:57
あらしがコピペを使うとは知らなかった。
つーか、ここまでキティならもう仕方ない。
ヤフオクでタイムマシン買って戦国時代に行って謙信に殺されて来い。
150光源氏@京都:2001/01/01(月) 23:58
さてさて学生さんの冗談には困ったものです。僕のことが悪く言われているよ。僕より馬鹿はいくらでもいるのにな。
僕のファッションの何処が悪いのかな?ロン毛はオシャレの基本でしょ。それを赤いゴムで縛るのはオシャレの証拠でしょ。
ブレザーは茶色(泣かすね)で、シャツは黄色のチェックってすごくナウイでしょ。エレッセのサングラスって完璧でしょ、グラサンとしては追随を許さない。
ホストとしても完璧だね。とにかく女にもてる。万歩計もつけている。
鞄はシルビアの鞄。パパは薬局の社長だから、セドリックに乗っているスーパーエリート。僕も
バイクを乗り回し、不良どもを蹴散らす熱血漢。
クラシックなら何でも知っている。
僕は口が軽いと言われるが、そうかもしれない。
僕の言葉で全てが浄められる。
151日本@名無史さん:2001/01/01(月) 23:58
無視しろっての
152sage:2001/01/02(火) 04:17
鶴ヶ丘八幡宮に行ったのが そもそもの間違えなんだな!!
クソ田舎大名はのさばってろ!!
153日本@名無史さん:2001/01/02(火) 05:10
>152
のさばりついでに参拝した。
でいいんじゃないの?
引っ込んでろ!!の間違い?
悲しいなあ・・・・君。(藁
154名無しさん@謹賀新年:2001/01/02(火) 11:49
>>150
逝け!
155日本@名無史さん:2001/01/02(火) 12:12
あらしはコピペが基本だと思ってたけど、違うの?
156与六:2001/01/02(火) 17:35
行ってきました上杉神社に、雪の中毘と龍の旗がなびいていました。 ただ旗の下に露店があるのはカッコ悪いな。
157日本@名無史さん:2001/01/02(火) 19:08
>>141
約束破りって人質すり替え?
謙信喜んどるやん(藁。
綿密なリサーチによる懐柔策だったに一票(藁々。
158与六:2001/01/02(火) 19:34
上杉景虎様は幼少の頃から人質のスペシャリストだからね(藁) 戦国時代とはいえ最期がアレだしやっぱりカワイソウ。
159与六:2001/01/02(火) 20:06
新潟で震度5の地震だって。心配だ。
160日本@名無史さん:2001/01/02(火) 21:39
>>158
武田の人質説は相当胡散臭い。
武田三郎(早世)が欠番だったコトからくる後世の創作だとおもう。
161戦国@名無したん:2001/01/03(水) 06:58
被害者の遺族を殺して閻魔大王に手紙を書いた以外はすばらしい。
なあ、与六たん。
162戦国@名無したん:2001/01/03(水) 07:00
関ヶ原での光成との関わり合いは本当か?
与六たん。
163日本@名無史さん:2001/01/03(水) 08:03
直江家って絶家したんだっけ?
なあ、与六たん。
164与六:2001/01/03(水) 11:11
山城守没後、墓が壊されました。 憎まれ役も引き受けたのでしょう。
165与六:2001/01/03(水) 11:22
ワンパラで確変引いたよ。資料が手元にないので、質問に返事できませんスマソ。
166名無しさん@1周年:2001/01/03(水) 19:06
奇形だったってほんと?
167与六:2001/01/03(水) 19:23
パチンコの後自宅の庭の除雪に手間取り、やっと一息つけました。>>163さん 兼続の先祖は巴御前の一族樋口庄司であると言う説もあります。直江家は山城守の長男平八景明が十八才で亡くなり、養子の大和守勝吉も、米沢を離前田家に仕えたので断絶しました。
168与六:2001/01/03(水) 20:11
>>162さん、関ヶ原関係のタラレバif、批判無しのスレでもあればカキコしたいけど、収拾がつかない気がします。
169上杉二十五将:2001/01/03(水) 21:15
長尾政景、宇佐美定行、新津義門、金津義マス、北条長国、本庄慶秀
本庄繁長、色部長実、甘糟清長、杉原親憲、斎藤朝信、安田順易、高梨頼包
柿崎景家、千坂清胤、直江実綱、竹股朝綱、岩井経俊、中条藤資、山本寺孝長
長尾景秋、吉江定仲、志田義分、大国頼久、加地春綱

なお、虚実は不明
170日本@名無史さん:2001/01/04(木) 15:32
で、最終的にみんなは上杉のことは好きなの?
171日本@名無史さん:2001/01/04(木) 18:34
越山あわせえたり能州の景
続きは知らないが謙信作?
172与六:2001/01/04(木) 19:26
鶴岡八幡宮での就任式の件だけど、謙信公が儀式にのっとり頭を下げなかった、忍城城主成田長康を、侮辱されたと勘違いして、扇で二度頭を叩いたのが真相らしいよ。殴る蹴は少し大げさかとおもいまして。 ついでに忍城は小田原の役で氏政が降伏しても、まだ抵抗していた堅城です(攻め手が三成だからなんて突っ込みは、大人なら言わないでね)。
173ぷ〜:2001/01/05(金) 00:13
 上杉謙信は出家していた為、女性とHができない。だから、若くて
美形の家臣(男)(=色子?)を夜伽の相手にしていた。古典の現代
語訳本に載っていた(出展名は忘れた)。その本の内容はその家臣が
浮気したので、嫉妬に狂って謙信が殺してしまうという愛憎どろどろ
の内容だった。
 上杉謙信は好きでしたが、このレスを見てきてだんだん嫌な奴に
思えてきた。なかなか完璧な聖人君子って居ないもんですね。
174日本@名無史さん:2001/01/05(金) 15:22
親戚に政景の直系がいるなあ…。いや、それだけ。
175日本@名無史さん:2001/01/25(木) 03:25
川中島も信玄の勝ち。
それでも私は謙信が好き。
176日本@名無史さん:2001/01/26(金) 05:39
酒の飲み過ぎかなんかで足が悪かったらしい。
「肖像画を描きたいんですが」
と言われ、
「ではこれを描け。これがわしじゃ」
と持っている盃を示したらしい。

それでも私は謙信が好き。
177日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:50
上杉謙信が女だったって説をとなえてるひとがいるときいたけど
ほんとにそんなひといるんでしょうか?
178日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:53
さもあればあれ我が故郷
179日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:54
既出でしょうがホモなんですか?
180日本@名無史さん:2001/01/26(金) 20:00
昔の武将は男とやるのもそんなにめずらしいことじゃ
ないんだよ
181【^▽^】ジョーカー:2001/01/26(金) 20:05
上杉謙信は男色者ではなく不能者です。
182与六:2001/01/27(土) 00:57
10月に米沢新博物館がオープン予定です。鷹山公生誕250年記念の行事もありますので、興味のある方は是非いらしてください。
183にゃう♪:2001/01/29(月) 18:20
上杉祭りって「炎のミラージュ」のおかげなのか大にぎわいと
よく聞きます。米沢のほうには遺品も多いそうで
シーズンをねらって一度は行ってみたいんです。>上杉神社とか
上越市も素直に角川から城一式もらっておけばよかったのに。

スレ題と関係ないうえに支離滅裂だけどage。
184与六:2001/01/29(月) 18:41
>>183さん。毎年五月三日、松川河川敷はミラージュヲタのメッカと化します(一部はコスプレ)。柿崎和泉守、高坂弾正、そして直江大和守の回には女性が群がります。 春樹さん舞台挨拶で米沢に来たんだよな。
185日本@名無史さん:2001/01/29(月) 19:13
ミラージュってなーに??
186日本@名無史さん:2001/01/29(月) 21:52
>177
八切止夫
187上杉道満丸:2001/02/01(木) 19:05
馬鹿爺憲政と外道景勝は逝ってよし
188天下統一:2001/02/27(火) 01:06
この人は何だかんだで戦国時代勝ち抜いた人でしょう。
確かに離反者も出たし、天下も取れなかったけど上杉家を守り抜いたんだから
この時代は舐められたら最後でしょ、無意味な戦が多かったかも知れないが
だからこそ、生き残れたんじゃないの、違うかな?
189日本@名無史さん:2001/02/27(火) 01:09
中央で戦わずに田舎から出なかったからだろ。
190日本@名無史さん:2001/02/27(火) 01:10
自筆の文書を見ると、神経異質そうだね。でも便所では死にたくね〜な
191日本@名無史さん:2001/02/27(火) 02:02
足利将軍の為上京2回してるぞ。
関東の北条とやるため何回も出陣してるぞ
192日本@名無史さん:2001/02/27(火) 05:04
謙信が上洛したときに、松永久秀のことを指して、
「命があれば、かの者を誅殺いたしますが、いかがしますか」
と足利義輝に言ったという話はなんか格好良かったな。

非情になりきれない義輝は「いいよ」と遠慮してしまったらしいけど。
尤も記憶曖昧だが、司馬の小説にあった話だったような気がするが・・・
193日本@名無史さん:2001/02/27(火) 05:30
>>192
国盗り物語では?
194日本@名無史さん:2001/02/27(火) 06:57
んで、謙信の強さの秘密はなんなんだ。
狂信者集団だったのか?日本版ジャンヌ・ダルク?

柿崎景家を誅殺したエピソードなどはいかが考える>皆様
195日本@名無史さん:2001/02/28(水) 11:47
直江の前立の「愛」あれはどういう意味なのでしょう?
俺は愛に生きるぜ!とでも思っていたのでしょうか?
196日本@名無史さん :2001/02/28(水) 12:44
>195
愛染明王です。
197日本@名無史さん:2001/02/28(水) 12:58
毘沙門天に傾倒した過程は、どのようなものだったのでしょうか?
198日本@名無史さん:2001/02/28(水) 16:44
>>197
海音寺潮五郎の「天と地と」を読んでみるべし。
小説だけど参考になると思う。
199日本@名無史さん:2001/02/28(水) 17:49
上杉謙信は戦争は日本の歴史上でも異才だが
、こと政治、戦略面にかけては凡庸であった
200与六:2001/02/28(水) 19:16
父親の長尾為景は守護と管領を殺して傀儡政権を越後に誕生させた、ある意味戦国武将にふさわし行いをした男だったけど、謙信公は足利将軍のもと日本が一つにまとまらなければならないと、本気で思っていたんだろうな。
201日本@名無史さん:2001/02/28(水) 19:21
戦国自衛隊は参考にした方がいいですか?
202日本@名無史さん:2001/02/28(水) 19:47
とりあえずアナクロ男。

だが、困ったことにヤツは天災だった!
……周辺の領主にとっては。
203日本@名無史さん:2001/03/03(土) 20:45
現在、発売中の『歴史読本』4月号に以下の記事があります。

竹田和夫「長尾景虎の越後は多様な仏神の信仰世界だった!」
204酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/03(土) 20:54
そう言えば、越後の『景虎』って酒は美味い。
205与六:2001/03/03(土) 21:39
歴史群像シリーズ戦国セレクション疾風上杉謙信【破竹の懸り乱れ龍】買っちゃいました。1@`600円は高いのか安いのか…。
206日本@名無史さん:2001/03/29(木) 01:56
領土拡張の時代に
領土を考えない戦をいろいろやった方。

たしかに強かったみたいんだけどね。
報われないんだよな。
207花咲か名無しさん:2001/03/29(木) 11:44
>204
どこかのアンケートで1位になってたな。
208花咲か名無しさん
謙信のような理想主義をアナクロと言い切ってしまうのはどうかな?
まあ、後世の価値観で言われてしまうのが世の常だが。
それから、領土拡張を考えなかったのではなくて、直接的な領土経営に興味が無かったのだろう。
権威主義とも言われる謙信だが、実質を伴う権威が有れば、
直轄地にしなくてもそこから収入は得られるはず。
謙信の戦いは、実質的な権威を得るための戦いであったとも言える。(成功していたかどうかは別)
実際、謙信は越後国内にも直轄地はほとんど持たず、その代わり
都市、港湾、鉱山などの掌握と経営に力を入れたりして、
父為景の代には赤字だったのが、謙信没時には莫大な財産を残している。
しかも、あれだけの遠征を繰り返しながらだ。
景勝に代の資料だが、越後国公称石高39万石に対し、実収入300万石以上有ったと言う。
ちなみに春日山城下は、謙信の商業奨励策により、京都に次ぐ都市であったらしい。
信長より前だ。
とかく戦以外は凡庸と言われがちな謙信だが、経済的にはある意味天才だったのでは。