1 :
日本@名無史さん:
主君京極氏を追放して下刻上の先駆的な役割をはたした経久。
戦国時代の火蓋をきった武将の一人として、もっと注目してほしい。
2 :
日本@名無史さん:2000/12/08(金) 22:37
尼子家自体が「負け組」だったのが痛いな
しかも子孫が負けた相手はよりによって地味な毛利。
せめて滅ぼした相手が信長だったらもうちょっと人気が出たんじゃないか?
少なくとも家臣筋の山中鹿之助よりマイナーということにはならなかったろう。
3 :
与六:2000/12/08(金) 22:50
私の母より聞いた話なのですが、戦前の小学校の授業では山中鹿之助を日本人の鑑として教えられたそうです。鹿之助同様負けちゃったけどね。
4 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 11:15
毛利氏の臣下になった尼子氏のその後はどうなったのですか?
5 :
へび:2000/12/09(土) 11:31
義久は幽閉されていましたが関が原後の
改易の際に1300石くらいの禄を与え
られ1610年に亡くなったはずです。
でも、うろ覚えです。
6 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 11:42
確か、姓を佐々木(京極・尼子の本姓)に戻して、
子孫は毛利家の家老になったと聞いたことがあるような。
7 :
名無しさん@1周年:2000/12/09(土) 12:13
山中鹿之助の子孫ていないのかね。
結局、尼子系統で生き残ったのは、亀井茲矩、立原久綱、多胡辰敬
くらいかな?亀井茲矩何気に好き。
8 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 13:52
下克上を最初にやったのは北条早雲ではなく尼子経久らしいですが実際はどうだったんで
しょう。
9 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 14:27
尼子の本家筋にあたる近江尼子氏って織田家と血縁あるんだよね。
10 :
名無しさん@1周年:2000/12/09(土) 14:35
>>7 どぶろくを清酒に鋳造する方法を発明し、
巨万の富を築いて現在の鴻池組を起こしました>鹿之助の子孫
11 :
名無しさん@1周年:2000/12/09(土) 14:37
鴻池組ではなく鴻池両替店→三和銀行だよ。
12 :
目のつけ所が名無しさん:2000/12/09(土) 14:45
>>10 鋳造???
鴻池組を興したというより三和銀行グループを興したというほうがいいよ。
三和銀行は旧鴻池銀行だからね。
鴻池組は別に鴻池財閥の宗主ではない。鴻池財閥の宗家筋はやはり三和銀行でしょう。
あるいは日本生命。
江戸時代の豪商、鴻池の宗主「鴻池新六」(後に善右衛門)山中鹿之助の子
ということになっています。
13 :
目のつけ所が名無しさん:2000/12/09(土) 15:01
そういう意味では、戦国時代に名をはせた人物、あるいは継承組織で、
現在最も栄えているのは中山鹿之助ってことかな?
世界屈指の銀行と企業グループとして繁栄しているわけだから。
現在まで永らえて繁栄している武将や豪商の一族や継承組織って他にある?
14 :
与六:2000/12/09(土) 15:43
経久は一度守護代の職を解かれ追放されるが、二年後の元旦、仲間と共に月山富田城に乗り込み、城中の反経久派を殺戮し城を奪回した。下克上と言うより、リベンジですね。
15 :
名無しさん@1周年:2000/12/09(土) 18:18
琉球守・亀井茲矩(笑)
16 :
世界@名無史さん :2000/12/09(土) 18:46
鴻池家は日本の経済発展に貢献したとの理由で明治になってから
男爵を授けられてる。先祖は、まあ不器用な生き方だったけど
子孫はうまくやったね。
17 :
日本@名無史さん:2000/12/16(土) 23:22
!===>
18 :
日本@名無史さん:2000/12/16(土) 23:37
θ
19 :
日本@名無史さん:2000/12/17(日) 00:46
この人が好くて、持ち物を人に誉められると、それをほいほいその人にやっちゃったりしたらしいね
で、みんな恐縮して、経久の持ち物を誉めなくなったとか
これ、本当?
20 :
日本@名無史さん:2000/12/17(日) 02:09
21 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 20:41
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ @`――――-ミ
/ / / \ |
| / @`(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < あるわけねぇだろ!
/| /\ \________
22 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 20:46
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ @`――――-ミ
/ / / \ |
| / @`(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < あるわけねぇだろ!
/| /\ \________
23 :
>19:2000/12/20(水) 21:52
で、庭園の松の大木なら運べないだろうと、誉めたところ
経久は、その大木をばらばらに切って、誉めた者のところ
に贈ったとか…
一方経久はかなりの吝嗇で、人が捨てた瓜の皮を拾って
食べたこともあったとか…
24 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 22:05
>>23 >松の大木
それってもはやイヤガラセでは^^;
25 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 01:51
26 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 01:57
>>23 >一方経久はかなりの吝嗇で、人が捨てた瓜の皮を拾って食べたこともあったとか…
ものを大切にするということと吝嗇とは別物じゃないかな。瓜の皮はアレだが。
北条早雲なんかもかなりの善政を敷いたが、
家訓だかなんだかに顔洗った水を捨てるなとか色々書きまくってる。
氏政もちゃんと見習ってれば生き残れたかもしれん。
27 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 19:34
経久は家族運が悪かったからな。
長男の政久は、花も実もある武将と褒め称えられたが、若くして討ち死に
三男の興久は、父に対し謀反を起こして破れて自害。
そして次男の国久は、甥であり総領の晴久と張り合ってるところを
毛利元就につけこまれて謀殺されるし…
ライバルの毛利一族の団結とは雲泥の差だね。
尼子とは悲しき名なり菫咲く
29 :
宇山飛騨守:2000/12/23(土) 09:15
後北条氏が貫高による軍役制を定めたり、武田氏が大規模な治水事業や
朝倉氏が法度を定めたりと、戦国大名が守護大名に比べ先進的な施策が
いくつもあったことに比べると、
尼子氏にはそういう面がほとんどみられない。
かつての守護代という権威と、経久の個人的魅力によって領国内の国人
を繋ぎとめていたのだろう。だから経久の死後尼子氏は衰退し、
後世に至っても注目されることが少ないのだろう。
30 :
日本@名無史さん:2000/12/25(月) 01:14
山陰唯一の名将だな。
31 :
日本@名無史さん:2000/12/25(月) 02:45
弟の久幸もなかなかの名将だったらしいよ。
嫡子詮久の死後、この人に家督を継がせようとしたんでしょ。
家臣も賛同したが、本人が辞退したそうな。
32 :
日本@名無史さん:2000/12/25(月) 10:32
33 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 01:58
34 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 02:07
35 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 02:24
>>1
戦国大名の先駆者は尼子経久ではなく
伊勢新九郎長氏(早雲)だと思うぞ
経久の死後も領地は広がている
36 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 02:26
>>30 そりゃひどい。山中鹿之助をはじめとして、
多胡辰敬とか赤穴光清とか絵になる武将はいっぱいいるぞ。
37 :
名無しさん@1周年:2000/12/26(火) 02:41
宇喜多とのからみはどうなってるの?
38 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 04:14
山陰は新宮党をはじめ本城常光とか鹿介幸盛とか、勇猛だけどオツムがどうも...というのが
多い気がする。智勇兼備というとやっぱり経久しか思い浮かばない。
かろうじて宇山久兼と時代がずれるが亀井茲矩・益田元祥くらいか。
39 :
名無しさん@1周年:2001/01/01(月) 14:59
____
Y/ニニ|>o<|\
/ //\___\
|/ / === |  ̄
| / ・ ・ |
\(6 (_λ_)\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ _ ||||||| _| < あっ
|(( \□ ̄□/| | 緒方拳なのだ!!
\  ̄ ̄ ̄ ノ \__________
/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|了
/ |: | ̄ ̄ ̄ ̄
| |______|
| | | | | | | |
40 :
名無しさん@1周年:
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
/ @`――――-ミ
/ / / \ |
| / @`(・) (・) |
(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < 御尊顔を拝し!
/| /\ 恐悦至極に存じたてまつりまする
\________