1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん :2000/12/05(火) 02:10
とりあえず新スレおめでとう。
邪馬台と関係ない朝鮮・民族・政治ネタは完全無視でスレをまもろう!!
3 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 02:12
part2の796
>1)三世紀の正確な人口推計が不可能(論者によって、200〜600万と幅がある)
ちがうぞ。大正時代に数学者で歴史学も修めた人により、文献に基づく、
奈良時代〜平安時代初期が、500〜600万枚と推定されている。
常陸国府の漆紙文書に常陸の人口が記してあり、その数字と良く合っていたことから、
この人口推定は妥当と考えられている。
遺跡の密度から言って、古墳時代当初は、ずっと少なかったと考えられている。
4 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 02:25
沢田説ですね。
ベースになる郷名に脱漏が考えられるので
もう少し上方修正してよいという見解にも説得力があります。
しかし九州だけで100万人は過大ではないでしょうか。
国立民族学博物館の小山修三は弥生末期の西日本全体で
100万人超という数字を出しています。
三韓合計で約15万戸、遼東と楽浪の計が隆盛期で約13万戸となれば
九州の、それも北部だけで倭30国を考えることは
ちょっとリアリティがないのではないでしょうか。
5 :
名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 02:38
ヨコレスごめんなさい
ここでは、東北八幡平=邪馬台国説は、どのような扱いになって
いるんでしょうか。それなりにありそうな話かなと想いますので。
6 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 02:38
前スレで人口ネタふったものです。
はいはい。私も畿内説なので、九州100万説については別に
支持しているわけではありません。実際、明確な根拠があるわけでなく、
「そういう推計も可能ではないか」というにとどまると思います。
>3さん
私の参照した九州論者は、「奈良時代と弥生の人口はあまり変わらん。むしろ多かった(!!)」
と主張していました。それ自体に根拠はありませんが、その反証も
なかなか難しいというだけの話です。遺跡からの推計はかなり困難です。
>4さん
そうですね。ただ、日本の方が温暖だし(すくなくとも遼東よりは)水稲も発展したので、
朝鮮半島南部地域と九州北半が同人口とみるのも、推測のうちには入るということだとおもいます。
まあ、私自身九州100万説を支持しているわけではないので
このへんでひっこめます。
「ここにはまともな九州説がこない」とかいわれているので、
畿内論者の私がいろいろ九州主要説を紹介してみようかと思っています。
あんまりいい説なくて苦労してますが・・・
>5さん
たぶん、あなた以外にはありそうな話だとは思われていないとあまいます。
>4さん
なるほど!!
地図をみなおしてみると、三韓のほうがかなり九州北半より大きい
ですね。ううむ。私の参照した論者がこの件についてどういってるか、
確認してみます。
8 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 02:50
日本の過去の人口推定に関しては、次の本が入手しやすいです。
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史」(講談社学術文庫)
9 :
日本@名無史さん :2000/12/05(火) 02:55
ええと、そろそろ畿内説内部での検証をおこなって
レベルを上げようよ。
たとえば、このスレで箸塚=卑弥呼の墓といってる人がいるけど、
それは畿内論者でも少数では?
古墳年代を繰り上げても、箸塚と卑弥呼の年代はズレる。
台与の墓が箸塚としたほうが、年代的には妥当じゃない?
10 :
名無しは無慈悲な夜の女王:2000/12/05(火) 03:26
「隋書」に大和朝廷が邪馬台国から続いている話がなかったか?
11 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 04:05
>>10 それは中国側が、自分の手許の史料つぎあわせていってるだけでしょう。
当時の日本の朝廷すら、邪馬台の記憶ないのに、隋が自分で歴史調査するの
無理。
12 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 06:40
藤村だけが知っている。
>13
当時の東北は今より3−4度cほど、温暖だったらしいです。
15 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 09:58
>>7 さん
30国のうちの8国だけで15万戸ですから、のこりがみな小国で
平均2千戸としても全体で20万戸弱になります。
また、狗奴国は女王に対抗できる勢力であることを考えて
投馬国程度の人口を見積もると、全体で約25万戸程度となります。
これが三韓約15万戸の1.7倍ですので
マクロ的に見ていきますと
すべてを九州島のうちにおさめて考えるのは
ちょっと妥当性を欠いた想定ではないでしょうか。
(宣言:「チョンは野蛮で人口密度が低い」等の発言は完全無視)
16 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 10:38
>9
そもそも、箸墓古墳を台与の時代まで下げる根拠はない。
最近は、著名な考古学者も卑弥呼の墓説を想定している発言が多い。
17 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 10:52
どうも人口的に見ると九州説派がPart1からPart3とだんだん少なく
なってきてPart2の後半から九州説は一人しかいないような?
実は畿内派だが九州を応援しているようにみせてやはり畿内応援とか?
この人も決定的に畿内に都合の悪い話は他の人と同様集団で無視を
決め込んでいる。
新しいスレに代わる毎に『邪馬台と関係ない朝鮮・民族は完全無視』
では畿内派だけのオナスレになってしまう。
朝鮮・民族こそが畿内の弱点なのだから。
まあ都合の悪い所は無視してオナッていればよろし。
18 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 11:14
すみません。魏誌に記述のある倭の小国でほぼ完全に場所が
比定されているのってどこでしょう。
19 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 11:32
>18
対馬と壱岐だけは誰も異議を唱えない。
20 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 11:43
>>9 弥生第V様式が220年ころまでで布留0は3世紀第4四半期
というのが、やや保守的な石野の98年現在の年代観だけれど
ホケノ山や萩原1号の後漢系遺物が第1四半期ということであれば
この年代観は1世代溯らせてよいのではないか。
そうすると、倭人伝の記述を読む限り卑弥呼の墓は寿陵ではないので
くしくも丁度間に合ってしまう。
前方後円墳を舞台にした継承の儀式の誕生を想定するのには
格好の画期ということになる。
21 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 11:57
>19
たまにいるよ。
邪馬台国は対馬だとか一大国は板付だとかいう人。
でも、末盧−唐津、伊都−前原も、異説はあるけれど
もう確定でいいんじゃない?
22 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 12:59
>20
纏向石塚古墳では、出土した木板から200年頃との年輪年代が出ていたのに、
ずっと無視されていたけど、これとも調和的でしょう。
23 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 17:26
>16 最近は、著名な考古学者も卑弥呼の墓説を想定している発言が多い。
年代が同じだけで想定するのは根拠がとぼしすぎ。
人口問題もそうだけどね。
想像は楽しいけど、決定打にはならないよね。
24 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 17:30
>年代が同じだけで想定するのは根拠がとぼしすぎ。
おいおい「だけ」じゃないだろ。古墳のサイズも合うし、
祭祀を司る女性の墓という伝説も符合するのを、意図的に無視するな。
サイズが合うのはなんか胡散臭いような気がするのは俺だけ?
27 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 20:05
箸墓がヒミコの墓かどうかなんてむしろ小さな問題ですよ。
前方後円墳の定式化がヒミコの時代に追いついたということが決定打になるんです。
つまり九州単独で「倭国」であることが無理になるということですから。
28 :
ナイツ:2000/12/05(火) 20:23
下関にありました。
岡田英弘を読みましょう。
29 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 01:13
>27
なるほど、それは大きいですね。
西日本は、畿内発祥の前方後円墳体制(出雲は方墳)で、吉備発祥の特殊器台(埴輪)を並べ、
東日本は、東海発祥の前方後方墳体制で、東海様式の壺を並べています。
これは、邪馬台国(+投馬国)VS狗奴国の対立関係を窺わせます。
30 :
9:2000/12/06(水) 07:25
なるほど。箸塚=卑弥呼説も意外と有望なのですか。
考古学に不案内のまま発言して失礼。
31 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 11:25
>27
前から言われているが古墳から出てきたという木片の年代が古いと言っても
その古墳が古い証明にはならん。
そもそもこの木片は捏造じゃないけ?藤原捏造事件に便乗するようで気色悪い
から黙っていたが。
木槨とか木棺とか用途がはっきりしていない物なんか後からでも入れられる。
例え用途がはっきりしても古い木の使いまわしと言う事も有り得る。
それにしても第一報の「古墳造成が100年繰り上がる!!」からその後の
発表がないね。ますます疑わしい。
32 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 11:45
>31
単に自分が、そう言う情報に無知なだけでしょ。
例えば、10/9付け朝日新聞HPの以下の記事に、研究状況が纏められている
●揺れる弥生の年代観 年輪年代法の最新情報
「埋文ニュース」にまとめ 奈文研
『奈良国立文化財研究所(奈文研)は、年輪年代法の最新情報をまとめた「埋蔵文化財ニュース」99号をこのほど、発行した。弥生時代から飛鳥時代までの十三遺跡を取り上げ、木製品の実年代(原木の伐採年代)を年輪年代法で調べた結果と、一緒に出土した土器の様式を並列して記している。この結果、弥生時代に関しては、年輪年代法による実年代が、土器様式による年代より約百―二百年も古く出る傾向がわかった。これまでの弥生時代の年代観が大きく揺れている。』
『 弥生時代と古墳時代の過渡期の土器とされる庄内式土器が出土した纒向石塚(桜井市)の場合、用途不明の板の年輪年代が推定で一九五年ごろだった。庄内式土器の通説である三世紀中ごろより、約五十年古い。
古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が推定二五〇年ごろ。古墳時代前期の通説である四世紀初めより、やはり約五十年古い。
この結果、年輪年代法では、弥生前期と中期では土器様式年代より約百―二百年、古墳時代初期では約五十年、それぞれ古く出る傾向がわかった。
研究者の間では「年輪年代が古く出るのは、調査対象の木製品が再利用されているためではないか」とみる意見が多い。光谷室長は「再利用かどうかは、慎重に判断して調べている」と言う。』
古墳時代より新しい話だけど、「埋蔵文化財ニュース」100号には、
室生寺五重塔や長野県八ヶ岳崩落の年代を測定した話がPDFで読めます。
http://www.nabunken.go.jp/Nabunken-Doc/oshirase.html
33 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 12:58
>24
たしかに「だけ」じゃないけど、他のも卑弥呼の墓とする根拠にはならないの。
現在一番可能性がある。それはあくまで現在の状況での話。可能性だけで確実じゃい。
箸塚=卑弥呼説なんてのは、現在では願望か宗教な畿内説。
それを、著名な考古学者も卑弥呼の墓説を想定している発言が多いなどと
言ってばらまくから、一般の人は、決定なんだと思いこみ、ハッキリした遺物は
出てないと言われたら、畿内説どころか考古学まで疑わしいものに思ってしまう。
畿内説は南なのに東にしたりとか、以前から一般の人には分かりにくかったから
余計不信感を持つのかな。
いいかげん、宗教な畿内説は切り離して考える時代でしょう。
30さん、古墳の一部の数値が一致するから、サイズが合うとかいうレベル
ですから誤解なきように。
邪馬台国が畿内という考えが先にあるから、想定できるモノです。
34 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 13:22
>畿内説は南なのに東にしたりとか、
重大な齟齬があるのは、これくらいだろ。
畿内以外を想定すると、遙かに多くの矛盾点があることは明らか。
邪馬台(ヤマト)、
水行二十日+十日(瀬戸内海)、
卑弥呼の墓の直径は百余歩(箸墓古墳)、
邪馬台国と狗奴国との敵対関係(前方後円墳体制VS前方後方墳体制)
数多くの漢鏡の入手(畿内や吉備の前期古墳)
35 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 17:43
>34
それだけわかっているのに、どうして今まで畿内で発掘できないのかな
36 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 19:24
なにが?
37 :
日本@名無史さん:2000/12/06(水) 19:32
>>31 箸墓から木片なんて出てませんよ。
>木槨とか木棺とか用途がはっきりしていない物なんか後からでも入れられる
木棺って、用途がはっきりしないんですか?
竪穴式の古墳にあとから木棺を入れる方法ってあるんですか?
38 :
三輪山麓猫軍団:2000/12/07(木) 00:18
ホケノ山や萩原1号といった遺跡から後漢末期の遺物が出る。
その1世代あとの箸墓で前方後円墳の定式化が始まり
そのごく近い時期に奴国のどまんなかとも言える那珂八幡に
定式化された前方後円墳が築かれる。
初期の前方後円墳で行われた儀式は吉備のもの、阿波のもの、九州起源のものなど総花的に取り入れられていて、「共立」という形でひとつの政治的まとまりが広域で存在していたことを示唆している。
纒向は巨大な宗教的施設と見られる。宗教的施設の近くには大市が立つ。魏志倭人伝によれば、邪馬台国は各地の市を支配した政権である。
しかし瀬戸内海を囲む地域ばかりでなく、纒向の建設には、東海出身者が相当積極的に関与していることがわかっている。
纒向に広域ネットの流通網が誕生した暁に、東海の支配者がその権益の分けまえを要求する権利は十分あったろう。
魏志倭人伝では「南」にあったはずの狗奴国を
後漢書は「東」に書き直している。
そもそも魏志倭人伝は偽書の疑いが強いんだよ。
そもそも魏志倭人伝は偽書の疑いが強いんだよ
41 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 00:54
>つまり九州単独で「倭国」であることが無理になるということですから。
箸墓が3世紀末としても、邪馬台国の時代は福岡平野はすでに瀬戸内から東海に及ぶ大連合に組み込まれてるからなぁ。
福岡平野抜きの九州説は、まあ、だめとは言わんけど、そうまでして九州にしがみついてどうするのかねぇ。
42 :
三輪山麓猫軍団:2000/12/07(木) 01:12
43 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 01:16
夜も更けたので、もうネタ。
45 :
三輪山麓猫軍団:2000/12/07(木) 01:21
魏志倭人伝は「魏書」なのは確かだが
「偽書」という根拠は何か?
「疑いが強い」と客観めかして言う以上、論理的に展開してもらわないと困る。明確に示せなければ撤回されたい。
46 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 01:34
ネタ相手に熱くなるなって!
あ、ギショって、あんたもネタか
さあもう夜も更けた!
みんなネタネタ
魏志は偽書について。
魏志倭人伝には「邪馬台国に匹敵する国は無い」と、記述されている。現代の日本では邪馬台国は九州説と機内説が論議されている。どちらが邪馬台国にせよ、邪馬台国では無かった方の勢力はいったいなんなのか?
48 :
:2000/12/07(木) 03:42
>>47 邪馬台国の支配下にある北部九州の国が、いったいなんの努力をするんだ?女王の機嫌でもとる努力か?
それと「魏志は偽書」という話とどういう関係があるんだ?
>>49 朝っぱらからネタですか?
それとも寝ぼけてるのですか?
51 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 15:02
ここは詳しい人が多いので見ていて面白いです。
現在の邪馬台国論争を概観できる良い本を御紹介くださると
助かります>識者の方
なるべく電波度の低い(^^;)ものをお願いします。
52 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 15:37
>51
岡本健一「邪馬台国論争」(講談社ブックス)辺りが、論争が分かりやすく、
比較的安価で入手しやすいし、いいかも?
岡本氏は、京大で古代史を専攻して、毎日新聞社に入社後も、古代史に関わり、
ワカタケル大王の銘文をスクープして話題になりました。
専門教育を受けた上で、素人向けに記事を書いている人なので、読みやすいと思います。
53 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 18:29
>52 ありがとうございます
54 :
日本@名無史さん:2000/12/07(木) 21:50
>>50 ひょっとして、偽書って言葉の意味、知らないのか…
オレ、絶句
55 :
日本@名無史さん:2000/12/08(金) 00:07
49だけど、確かに寝ぼけてたぞ。勢力を努力と読んじまった。わけがわからんはずだ。
だけど、畿内説にすれば北部九州に大きな勢力なんて無いし
倭人伝が言う邪馬台国は畿内のことなんだから
なんの矛盾も無いぞ。
いったいどういう理屈で「魏志は偽書」って話になるんだ?
56 :
日本@名無史さん:2000/12/08(金) 20:13
強力な大和政権揚げは柳本駅前商店街の総菜屋の名物
57 :
日本@名無史さん:2000/12/08(金) 21:23
卑弥呼の古墳は九州西都原にある。
魏志倭人伝の「径百余歩」を満たす円墳は日本中探してもここしかない。
よって、ここが邪馬台国であった。
畿内の箸墓は被差別部落民を酷使してつくった「別倭」の墓。
築造年月はどうにでもでっちあげられる。
58 :
日本@名無史さん:2000/12/08(金) 22:48
57に賛同するわけではないけれど(とくに後半は電波系だね。)
西都原古墳群の詳細を知りたい。ネット上でわかるのは観光案内程度のことだし。
かなり大型の前方後円墳もあるし、少なくとも吉備と匹敵する勢力があったのでは?
と思われる。築年は4〜5世紀とされているみたいだけれど、繰り上がる可能性は
ないの?(形から見る限りは無理そうだけど)それに朝鮮南部の古墳群と雰囲気が似ている。
記紀に記されている日向の高千穂伝説とやはり関係があるのだろうか。
59 :
日本@名無史さん:2000/12/08(金) 23:54
日向は邪馬台国にとって、なんだったんですか?教えてください。
60 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 01:04
61 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 02:44
62 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 03:01
日本史板では有名な“解決黒頭巾”さんのホームページです。(笑わず)
63 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 03:23
64 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 03:34
かなりまじめな考察だと思いますよ。よく研究されてます。
ただし前提条件にいくつか明かな間違いがあるのが難点です。
推論が厳密なほどこういうのが痛いでしょう。
考古学の知識も古いですね。
65 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 05:35
後の中国史書『隋書』中で、大和を「邪靡堆」と表記しています。末尾の「i」音が読まれていません。ここから「邪馬台」が「大和」である可能性も考えられます。私はこれを支持します。従って、邪馬台国はズバリ初期大和朝廷そのものであるということです。
66 :
58:2000/12/09(土) 09:42
60さんありがとうといいたいのですが、サーバーエラーとかで読むことが出来ませぬ。
なので
>>61さんの「胡散臭い」も確認できません。
ところで近畿説の皆さん日本書紀にかかれている「神武東遷」はどのようにお考えですか。
A.実際に起こったこと
B.実際にはなかった
Aの方は、それがいつ起こったことだと思いますか。
Bの方はでは何故それが日本書紀に記載されたと思いますか。
わたしは神武東遷は実際にあったと考えています。弥生時代中期ぐらいまでの遺跡の
広がりやその後の文物の移動から考えて、初期〜中期には北九州が文化的に進んでいて
それが中期以降、瀬戸内海から近畿にかけての高地性集落が増えることから、この時期に
北九州から(戦いながら?)移動したのではないでしょうか。これが伝説となった。
しかしこれでは邪馬台国論争では矛盾点が出てくるように思います。この後邪馬台国が
近畿に発生するのなら、その前の東遷が記録に残っているのに、邪馬台国の伝承が記紀に
まったくでてこないのはおかしい。
私の推論が間違っていて、神武東遷が邪馬台国以降の事だとしたら、つまり邪馬台国が
九州勢力の神武(=後の大和朝廷につながる勢力)に滅ぼされたのだとすれば、
記紀に邪馬台国の記載がない点は解決できるが、考古学資料と合わなくなる。
邪馬台国九州説でも、東遷が事実であるとすれば、伝承がまったくなくなる点で矛盾が
出てきます。
いかがでしょうか。反論・反証をお待ちしてます。
67 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 10:10
きわめておおまかな意味で西から東への移動という歴史的事実があり
これを踏まえて、神武東征という神話への反映があるというのでしたら
個々の具体的事実や個人名が記紀に残っているというレベルではありません。
纒向日代に宮があったという伝承程度で十分邪馬台国の痕跡と見なしてよいと思います。
68 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 14:52
考古学的に見て、列島の中核的な王権が、九州から近畿に移ったのは、いつごろ?
69 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 18:39
膨大な鏡を出土した平原弥生古墳を発掘した原田大六氏は、この古墳が作られた後で、
箸墓古墳に葬られた卑弥呼の頃は、既に畿内だったと、30年以上前から見ていました。
漢鏡から、平原弥生古墳の年代を2世紀前半と見積もっています。
70 :
日本@名無史さん:2000/12/09(土) 21:35
柳田康雄が、平成11年度の調査報告書で平原の方格規矩四神鏡32面すべてを倭鏡としており、制作時期を紀元200年頃と結論しています。
71 :
>67:2000/12/10(日) 00:32
九州と畿内の間に、吉備・瀬戸内とか山陰・丹後を入れてもいいんじゃない。
邪馬台国論争は、すでにパターン化されたものからどうしても抜けられないようだけど、
庄内に入る直前の吉備や丹後は侮れない。
畿内と九州の争いは、もう古い!
72 :
71:2000/12/10(日) 00:34
ごめん、間違えた。67は68の間違い。
73 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 02:46
北部九州の銅矛分布域も後期にかけて縮小して行きますね。
畿内と九州の争いではなく、北部九州の自壊なのではないでしょうか?
74 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 02:54
>73
弥生時代の出土品を見ると、漢への依存が大きかったと思われる北部九州は、
漢の衰退の道連れになったのかも?
75 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:03
>柳田康雄が、平成11年度の調査報告書で平原の方格規矩四神鏡32面すべてを倭鏡としており、制作時期を紀元200年頃と結論しています。
このオッサンの主張は、根拠が怪しいんじゃないのか?
平原の銅鏡の鉛同位体比でも、全て華北タイプで、銅鐸と同じ。
後漢中期以降の漢鏡や、倭鏡は華中・華南タイプなのとは異なっている。
弥生時代終末期〜古墳時代最初期には、北部九州は寂れまくっていたのを、
根拠なく時代を遅らせて、ごまかしたいのでしょう。
76 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:25
柳田康雄は当然のことながら畿内説です。
そういう動機は考えられません。
文様や鋳造状態、彩色など多角的に且つ細かく分析しています。
77 :
東京kitty:2000/12/10(日) 03:26
当時は現在と気候変動や地殻変動によって水位が違い、
地理も多少変わっていたことを考慮にいれれば、
自ずと答えは出るかも。
今陸地だったところは海だったかもしれないし、
今海だったところは陸だったかもしれない。
殆どの邪馬台国に関する議論は、地学的地理の変遷を考慮に入れていないため、
憶測と誤りに満ちたものになっている。
78 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:37
当時の海岸線のことは当然研究されていますし
それ以前に遺跡の分布で見当もつきます。
地理の変遷を考慮に入れずに憶測と誤りに満ちた議論をしているのは
一部のアマチュアだけですよ。
79 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:42
追伸
糸島半島の古地形、博多那ノ津や難波津周辺の古代の海岸線の図などは
一般向けの書籍でもけこう流布しています。
80 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:45
ていうか・・・宇佐でしょ?邪馬台国って。
81 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:50
う? …さぁー?
82 :
東京kitty:2000/12/10(日) 03:52
宇佐八幡宮は確かにξな。
83 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 03:56
絶望的な筑後川流域説や博多湾岸説に比べたら、遥かにましかな。
84 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 04:28
不弥国を宇美に比定する説がありますよね。瀬戸内海の水運の拠点だったと思う。
85 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 09:38
>>83 >絶望的な筑後川流域説や博多湾岸説に比べたら、遥かにましかな。
>>78じゃないけれど、弥生時代には久留米市あたりまで海あるいは干潟だったと
されているのに、その下流の大川市や柳川周辺に邪馬台国あるいは投馬国があった
とする説があるのには驚くね。
宇佐は神秘的な雰囲気がいいのだけれど、周辺で弥生末期の遺跡が少なすぎる。現状では
纒向はおろか、吉備や、下手したら和歌山・高知にも負けてるのでは?
86 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 10:00
海抜は10mほど下がっただけでなく、あがっている時期もあります
つまり10m前後上がり下がりしているわけで、当時はどうだったんでしょうね
87 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 10:25
海岸線が変化する要素は、縄文海進と弥生海退、それに
沖積平野の形成と人為的埋めたてといったところ。
弥生終末〜古墳初期と現在で変化が大きいのは後者のほうではないかなあ。
88 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 14:40
海水準は、100m以上変化します。約2万年前の氷河時代には、今より100m以上低下していました。
約6千年程前の縄文海進では数m上昇していました。ここ2千年ほどは殆ど変化無しです。
それよりも、河川の堆積作用、海流による浸食作用などの方が、効果がずっと大きい。
89 :
日本@名無史さん:2000/12/10(日) 15:30
ということでですなあ〜
唐津から前原はやっぱり今の海岸線沿いは歩けなくて
山越えになったんでしょうか?
90 :
名無しさん@1周年:2000/12/10(日) 18:35
狗奴国は肥後の七城あたり(菊池平野)だったとして、熊本県の七城町ではお城まで
たてていますが、この信憑性はいかがですか。
91 :
日本@名無史さん:2000/12/11(月) 00:02
邪馬台国と対立関係と言えば、東海の前方後方墳体制を考えるのが妥当でしょう。
92 :
日本@名無史さん:2000/12/11(月) 01:04
宇佐はだめだよ。宇佐はもともと玄海灘沿岸よりも瀬戸内との関係が強いところだから、
福岡平野もろとも、東の広域連合に飲み込まれてる。九州で最も早く畿内型の古墳が出現するのも宇佐付近。
絶望的とはいっても九州説が存続できるとしたら、築後川流域ぐらいしかない。
他は遺跡が眠ってると信じて阿蘇とか、沖縄の海底遺跡とか・・(バキ
93 :
名無しさん@しろうと:2000/12/11(月) 11:14
東遷説はどうなのでしょう?
>>66さんのような意見は勉強にになったのですが
個人的に子供の頃見た、手塚治虫の「火の鳥」の
インパクトが強く、洗脳されてしまっているので、
みなさんの批判をお願いします。
94 :
日本@名無史さん:2000/12/11(月) 20:05
纒向の建設が弥生V期終末に始まっていることが確定なので、ふつうの東遷説は成立の余地がありません。
九州から畿内まで女王の勢力圏ができていて、卑弥呼の時代の首都は九州、壹與の時代は大和というのが
考古資料と矛盾しないニュー東遷説として一部で唱えられています。
95 :
日本@名無史さん:2000/12/11(月) 21:21
東遷説が成立しないことは理解できるけど、
なぜ記紀が東遷なんてことを記しているのかには関心がある。
何か学説はあるのかな?
96 :
日本@名無史さん:2000/12/11(月) 21:56
神武東征ばかりが口の端に登るけれど
岐美神の国生み神話は大阪湾周辺から拡大していきます。
西から東の動きもあれば
東から西の動きもあります。
そのうちのどれかをとらえて「これが邪馬台国の時代」と言う
根拠は一切無いわけで、根拠にならないものは
この際除外しておくのがいいと、私は思いますね。
97 :
日本@名無史さん:2000/12/11(月) 22:38
纒向の建設には、吉備、阿波や播磨、河内といった東瀬戸内を囲む国々が強く関与しています。
記紀が大和の国造を海導者の末裔と伝えるのも、やはり背後にそれなりの史実を踏まえていると見てよいのではないでしょうか。
むろん、神武東征のような話は後世の合成だと思います。
98 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 20:17
おれも
>>94の意見に大体賛成かな。
東征に関しては、その国が元々は九州にあって、そこから東へ勢力を
伸ばした、と考えれば有り得る線じゃない?
個人的には卑弥呼の墓は西都原の男狭穂塚じゃないかなぁって気がする
んだけど。
99 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 20:19
■■■■■■■■■■■■■■■ここまで読んだ■■■■■■■■■■■■■■
わたし専用
100 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 20:42
日本の場合王朝が断絶した訳ではないのに、どうして王墓がどこにあるとか分からないのでしょうか?
中国とかですと王朝が断絶しているので分かるのですが。
101 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 20:50
>100
文字使用が盛んになった以降は、ちゃんと分かっているぞ。
古代の天皇についても、陵墓の位置は日本書紀・古事記・延喜式などに
記されているが、当時は文字の使用が限られ、これまでの古墳の発掘例からは、
墓碑銘などが出る可能性は少なく、証明できないってだけのこと。
それと、王朝が断絶したら、分からないなんてことはない。
秦の始皇帝陵・漢の武帝陵など判明しているものも多い。
伝達手段がものを言うのは明らかなこと。
102 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 21:06
それなら九州も大和説も論争する必要無いじゃん。
掘ればいいんじゃん。
藤村どこ行った。
103 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 21:21
102はバカ丸出し。
「墓碑銘などが出る可能性は少なく、証明できない」と言っているだろうが。
蓋然性を追求すると言う姿勢でやるってことだ。
104 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 21:24
掘るもんがねえ>九州
105 :
日本@名無史さん:2000/12/12(火) 23:11
>>100 漢代の皇帝陵をはじめ、多くの陵墓がリアルタイムの克明な記録があるので
誰の墓か判明しています。
薄葬時代の魏晋南北朝は発掘されることを嫌って墓所を隠したので
多くが不明のままです。
結局、情報が劣化しないうちに文字に書きとめられたか否かの差でしょう。
106 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 06:59
邪馬台国九州説は終わった
107 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 08:17
早くから文字使用が普及したエジプトや中国の墓は、墓に記載があったりして、
記録が散逸しても、発掘で判明することが多い。
楽浪郡の故地で、中国史書にも出てくる東晋の武将・冬寿の名を記した
壁画古墳が見つかったが、北朝鮮はいつの間にか、高句麗美川王の墓と捏造して、
呆れられた。(藁 昔の韓国の高名な学者が指摘していたように、
高句麗壁画文化と言う表現もでっち上げで、楽浪壁画文化が妥当である。
ちゃんとした記載があるから、こう言うウソは通用しない。
108 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 09:17
邪馬台国の在処が分かったところで
日本の景気が好くなったり国際関係が好転するもんでもない。
109 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 10:35
>108
伊能忠敬の測量も、元はと言えば彼が地球の大きさを正確に求めたかったから
始めたもの。学問とはそんなもので、お前のような下賤な発想は論外。
110 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 12:28
最近の畿内説の根拠になるような論文ってあるんですか?
邪馬台国畿内説のまともな本があるなら教えて下さい。
111 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 13:51
>110
いくらでもあるだろ。まともな学者の書いた本を読め。
つーか、九州説など、素人のバカ話ばかりで、まともな論文は皆無。
112 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 14:12
>>110 代わりに九州説のまともな本教えてくれたらおしえてあげる。
113 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 19:14
ようは、まともな本をあげる事ができる人は、ここにはいないって事だね。
自分たちの根拠を上げることもできない方ばかりですか。
なに言われても、反畿内説と受け取るような人しかいないのね。
というより反九州説の人しかここにはいないのでしょう。
114 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 19:43
>113
つべこべ言わずに、九州説のまともな本があれば、挙げて見ろよ。
115 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 20:27
安本美典は九州説だよね。
この人の本はアプローチが他のと違ってて、
どれもロジカルで好きなんだが・・・
116 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 21:22
>>113 110みたいな不勉強まるだしの煽りにまともに答えてもらえると思ってるの?
あなたは馬鹿にされてるの。
無知ぶりをあきれられてるの。ワカル?
117 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 21:33
50年代の杉原宗介の年代観は現代の通説に近く、紀元前1世紀から紀元前後までを弥生中期(III期まで)とするものだった。これではとうてい弥生末期が3世紀末には届かない。
ところが60年代に杉原はこれを約100年繰り下げている。その背景にあるのは、弥生中期の遺跡から出てくる前漢時代の中国製の遺物が日本列島にもたらされたのは後漢の光武帝や安帝に朝貢して以降のことであり日本に来て埋められるまでに約100年の時間が経過しているという仮説である。
実は、この年代の引き下げは、古墳の登場が4世紀であるという当時の文献史学者の見解を尊重した結果でもあった。結果的に、この年代観を精緻化したのが80年代の佐原・田辺編年ということになる。
つまり、80年代の邪馬台国九州説論者がこの編年を利用して「考古学的にみて3世紀は弥生時代だから卑弥呼の時代にはまだ古墳はない」と言うのは堂々巡りの論法だったのである。「古墳の登場が4世紀とすれば弥生末は3世紀だから…」というふうに立てられた仮説の根本を理解せずに結論だけ借りてきたために生まれた空中楼閣である。
118 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 21:34
この編年は、弥生末の指標となる遺物が乏しいため、当時としては確かに説得力のあるものだった。しかし当然の事ながら根拠のない100年加算には反論も多かった。
ところが、邪馬台国九州説はそれら異論の存在を一向に気にとめずに吉野ヶ里ブームの追い風に乗って「卑弥呼=弥生時代、邪馬台国=銅矛文化圏」という図式を作って「考古学は九州説を支持している」というスタイルを確立してしまった。そればかりか「邪馬台国=銅矛文化圏」というスローガンが一人歩きして、後期には銅矛圏が博多湾岸中心へと後退して筑後川流域は薄くなっていることも知らずに銅矛圏を拠り所にする九州説筑後川流域論者まで現れる始末だった。
そして考古学者の間で誰も支持者がいなくなった以降も、久しく邪馬台国九州説はこの古い仮説に依存してきた。さすがに現役の学者は表現を改めたが、一線を退いた老人やいわゆる古代史研究家たちは相変わらず陳腐化した情報を一般読者に流しつづけた。
その結果が、最近あらたな発掘があって現役の考古学者のコメントが新聞報道されると「若手の学者が妙な新説を言っている」とか「考古学者は急に年代観を改めるので信用できない」とか、果ては「考古学者は畿内説に洗脳された」とかいう反応になってしまった。
実は、九州説支持者の間で時間が止まっていただけなのである。
119 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 21:35
考古学に見切りを付けた一部の九州説論者は、あわてて岩波文庫で拾い読みした倭人伝に珍解釈を加えてみたり、7世紀に書かれた神話の本にべったり頼ってみたり、トンデモ説に走ったりと、すっかり痛ましいことになってしまった。
今はかつての好敵手が、一人暮らしのアパートで誰にも看取られずに逝く独居老人のように消え去っていくさまが哀れでならない。
さようなら二十世紀。さようなら九州説。
120 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 22:22
>>115 安本がロジカル? まとも?
(ぷっ…)
121 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 06:54
>113
>ようは、まともな本をあげる事ができる人は、ここにはいないって事だね。
>自分たちの根拠を上げることもできない方ばかりですか。
こういう発想が出てくること自体
自分自身は1冊や2冊のネタ本で九州説してるんだと
告白してるようなもんだね
122 :
日本@名無史さん :2000/12/14(木) 10:53
私は110じゃないけど、117、118さんのようなフォローは助かります。
実際、一般素人邪馬台愛好家が最新の議論を知るというのは難しいんですね。最近は邪馬台関係の発見が定期的にあるので、吉野ヶ里の本が書店に並ぶころには黒塚の発見があり、黒塚の本が出回るころにはホケノ山の報道といった具合。なかなか追いかけていくのも大変です。
報道から、一般書出版まではかなりタイムラグがあるので、素人にはついていきにくい。私の情報源は、なにせ、一般書と、「東アジアの古代文化」くらいなものなので(汗)
最近の、畿内説が考古学的に確定という議論については、まだ説を網羅・検討した本というのはないんじゃないかな。
ちなみに、誤解している人がいるみたいだけど、本が出版されていないというのは、その説に根拠がないということにはならない。あたりまえだけど。
実際、考古学史料は文献とちがって膨大な数・論点があり、話も専門的になるので、一般書にするのは難しいと思う。
一冊や二冊の本では邪馬台はわかりませんね。110さんも、いろいろ読んで検討した上でここで質問するとよいでしょう。
ここでの畿内説を思いっきり簡略化すれば、「邪馬台の時代は古墳時代だった。古墳時代の日本(倭)の中心は畿内だから、邪馬台も畿内。当時の九州には、大した遺跡がない」というものだと思います(ちがってたら、訂正して)
ちなみに、安本のHPに、考古学者でも年代繰り上げに反対している論者がいる(関川)と掲載されてたけど、あれはどうなのでしょう?
私は、安本がロジカルとはおもえませんね。厳密にいえば、ロジカルっぽくみえるだけでしょう。
安本の議論は、どうとでも解釈できる記紀神話を自己流に解釈しているだけ。
123 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 20:59
本がないんじゃなくて
聞き方が失敬だったから適当にからかわれたんじゃない?
124 :
解決黒頭巾:2000/12/15(金) 02:23
不滅の九州説の本:「邪馬壱国興亡史」鹿島f著(新国民社刊)
日本にただ一つある直径150余mの円墳「男狭穂塚」を、卑弥呼の古墳とする
日向西都原 邪馬台国説。
西都原周辺には、大小千数百の古墳群があるが、そのほとんどが未調査のまま現在に至る。
魏志倭人伝の”径百余歩”の条件を満たす円墳は日本中でここしかない。
築造年月はどうにでもでっちあげれる。
125 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 02:37
で、でっち上げたのが男狭穂塚、と(ワラ
126 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 20:37
>>124さん
わたしも以前西都原についてのカキコをしたものです。
男狭穂塚って円墳なんですか?普通帆立貝型とか前方後円墳が女狭穂塚に削られたとか
言われてますよね。
それから、いくつかの古墳の調査では円筒埴輪などの出土品から5世紀前後とされていますけれど、
あれもでっち上げなんですかね。
いずれにしても、何で調査しないんだろうか。(宮内庁管理の墓は除いても)
127 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 20:58
西都市HPの「西都原古墳群」ページ
http://www.miyazaki-nw.or.jp/saito/kanko/sight/kofun.html この台地中央部には、明治28(1869)年に陵墓参考地として史跡指定を受けた男狭穂塚と女狭穂塚の2基の巨大古墳がその偉容を誇っています。
男狭穂塚は、二重の周溝を有する墳長約148mの特殊な帆立貝式古墳です。女狭穂塚は、墳長176mの楯型の周溝を有する前方後円墳で、九州随一の規模を誇っています。
この男狭穂塚と女狭穂塚の西側には、陪塚である169号〜171号が所在していますが、なかでも、169号からは、大正時代の発掘調査によって、国の重要文化財に指定されている舟形埴輪や子持家形埴輪などが出土しています。時期的には5世紀前半と推定されています。
128 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 21:16
>>122 土器の編年は車のモデルチェンジの歴史に似て、日産が箱スカだった時代にはトヨタの車は何型でその後継モデルは何というふうに併行関係を組み立てていきます。そうやって出来た相対的な縦横関係の体系に西暦のランドマークを付けてくれるのが、同じ遺跡から発掘された中国製遺物の制作年代などです。
弥生の年代観について極めておおまかな言い方をすれば、かつては、九州の研究者は中国製の遺物との併行関係をもとに弥生中期の終わりを紀元前後か1世紀初頭ととらえ、畿内の研究者は文献史学に基づいて想定された古墳時代の始期を基点にして弥生後期の終わりを3世紀末ととらえていたので、両者の認識ギャップが約100年ありました。そこで、最初は九州側の年代にプラスの修正を加えて、畿内に引き付けて統合した年代観が作られていました。
その結果、紀元前の中国製品しか見つからない遺跡を1世紀後半のものと見なすような無理な年代設定が行われていたわけですが、80年代ごろから徐々に見直されはじめ、逆に畿内側が歩み寄るかたちへと転換していったわけです。
なにごとも物証が基本の考古学者たちの感覚なら「正しい方向性を取り戻した」というところでしょう。今は漢鏡7期の編年もほぼ確立して弥生終末期にもランドマークを置ける環境が着々と整いつつあり、弥生土器編年は新たな知見を加えて年々精度が高まっていると言えます。
129 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 21:17
80年代に関川尚功が唱えていた年代観は、文献上の根拠を用いる代わりに、稲荷山鉄剣の年代と出現期の須恵器の関係を基点として布留式の終末年代を5世紀半ばとし、また布留式の使われていたであろう期間を100年以下と想定して布留式の成立を4世紀半ば過ぎとし、順次溯って庄内式の時期を3世紀末に求めたものです。しかし、この100年以下という数字からして本人みずから「非常に感覚的」と言うような精度であったせいか、支持者がいません。
また、九州側の定点(=九州の遺跡で前漢〜後漢初期の遺物が出る遺跡の土器様式)との関係ではギャップが更にひろがり、異常に弥生後期が長くなってしまう問題も説明がつきませんでした。土師器(布留式)の時代が長すぎるからといって感覚的にエイヤと短くしたら今度は弥生後期が長くなりすぎてしまった―では困るわけで、学説として生き残れないのは当然です。単純化して言えば、複数のランドマークを定めてその間を割っていくのではなく、一つの定点だけから押していったという方法論に問題があったのでしょう。
80年代の段階で既に、専門の工人が工房でつくる土師器のモデルチェンジ期間は家内で作られる弥生式土器のそれよりずっと長く見積もるべきだという趣旨の批判をうけていますが、のみならずまた関川が基礎としていた“庄内式は2期、布留式は3ないし4期の長さ。須恵器の発生は5世紀半ば”という情報も古くなっており、いずれにせよ関川編年は現時点で全く影響力の無い説であることには違いないでしょう。
本人がその後どういう見解を述べているか寡聞にして知りませんが、巻向の共同研究者である石野はのちに巻向4(=布留1)の終わり(始まりではなく)が340年、巻向2(=庄内1)の始まりが220年としていますので80年代の関川と認識が100年以上違います。
畿内説の間でも、卑弥呼の時代がまさに古墳時代だという人もいれば、個人的なカリスマを失なった邪馬台国が求心力をカバーしようと墳丘を舞台にした祭祀を編み出し制度化したのが古墳時代の始まりだとする見方もあり、私はこちらの支持者です。
そして、九州に遺跡が無いからではなく、上記のように制度化・規格化された首長葬送=継承儀式が邪馬台国(壹與)の時代のうちに既に九州に及んでいると考えるから、私は邪馬台国が畿内であるとするのであります。
130 :
122:2000/12/15(金) 23:21
>128、129さん
ありがとうございます。助かります。そういう専門的な議論は、なかな素人が調べることはできないものなので(汗)
結果、安本氏のHPを参考にしてしまったりするわけです。もちっと最新情報・論議について専門家の人が一般向けにフォローしてくれればいろいろな混迷も避けられるのでは?
ちなみに、関川氏は最近でも、季刊邪馬台国誌上で時代繰り上げ説の批判をしているようです。
安本氏の本に紹介されてる議論をみるかぎり、その論拠は129さんが述べているのと同じ、須恵器を起点としたものでした。
私も「おしえてくん」してるのもなんなので、いろいろ調べてみようとは思うのですが、結局、最新情報・論議というのはどういうところで探せばよいのでしょうか?
もし、オススメの本なり論文・雑誌なりHPなりあったら教えてください。
131 :
日本@名無史さん:2000/12/16(土) 03:17
なんだか難しくてさっぱり判らんです。
私には邪馬台国が何処にあったかよりも
今後の皇室が女系(王朝交代)になること
の方がよっぽど深刻な問題だと思いますわ。
いくら邪馬台国と大和王権との連続性が証明
されたとしても、今後王朝交代がなされたら
連続性を誇ることさえ出来なくなってしまうから。・・・
132 :
解決黒頭巾:2000/12/16(土) 05:10
>126
>わたしも以前西都原についてのカキコをしたものです。
>男狭穂塚って円墳なんですか?普通帆立貝型とか前方後円墳が女狭穂塚に削られたとか
>言われてますよね。
>それから、いくつかの古墳の調査では円筒埴輪などの出土品から5世紀前後とされていますけれど、
>あれもでっち上げなんですかね。
男狭穂塚は「
133 :
解決黒頭巾:2000/12/16(土) 05:24
>126
>わたしも以前西都原についてのカキコをしたものです。
>男狭穂塚って円墳なんですか?普通帆立貝型とか前方後円墳が女狭穂塚に削られたとか
>言われてますよね。
>それから、いくつかの古墳の調査では円筒埴輪などの出土品から5世紀前後とされていますけれど、
>あれもでっち上げなんですかね。
男狭穂塚は「帆立貝形古墳」とされている。ようするに円墳の一種。
「陵墓参考地」で明治時代から立ち入り禁止。ただ近年、1年1回開催される古墳祭りに合わせて1日だけ立入が許可されるようになった。
しかし、場内での撮影は禁止である。
「男狭穂塚」5世紀築造説は、近隣にある古墳が5世紀の築造だから「男狭穂塚」も5世紀築造だろう、という論法をとっている。
つまり「男狭穂塚」そのものを科学的に調査して年代を算出しているわけではないのである。
134 :
解決黒頭巾:2000/12/16(土) 05:28
135 :
日本@名無史さん:2000/12/18(月) 04:11
鮮人=解決黒頭巾は、あちこちのスレで電波を発生しまくり。
137 :
日本@名無史さん:2000/12/19(火) 06:54
>>130 大和弥生文化の会「みずほ」と庄内式土器研究会「庄内式土器研究」は
チェックを入れておいて損はないと思います。
専門店かミュージアムショップなどで探してみてください。
漢鏡編年の定番は歴博報告55集の岡村論文です。
大きい図書館であたってみてください。
138 :
130:2000/12/19(火) 11:31
>>137さん
ありがとうございます。
がんばってみます。
139 :
日本@名無史さん:2000/12/19(火) 17:11
遺跡の下に遺跡。
現在五世紀の墓であっても、良く調べれば三世紀の墓の使いまわしと言う事もありうる。
太宰府の下に邪馬台国の遺跡が埋まっていないとも限らないよ。
140 :
名無しさん@1周年:2000/12/19(火) 20:57
姫路城の城壁は古代墳墓の再利用したもです。なんて説明板ありました
けど、結構そこらへんの墓石の相当古いのかき集めて、造ったらしい
しねーーー
141 :
日本@名無史さん:2000/12/19(火) 22:06
>遺跡の下に遺跡
トレンチ切って層位的に調べてるんだから見逃さないだろ。
一発ポコンと遺跡があってそれが邪馬台国なんてことは無いさ。
周辺の広い地域にちらばる他の遺跡たちに
流通の中心、文化の中心として影響を与えてるはずなんだから
一定の「傾向」をもつ遺跡群に囲まれて
「それ」は在るはずなんだ。
142 :
日本@名無史さん:2000/12/19(火) 23:37
>>138 もう一つ、よいものがありました。
橋口達也『弥生文化論』所載の「甕棺の編年と弥生時代年代論」が明快かつ精緻です。
高価なぶあつい本の中のほんの数ページですので
WEBCATなどで所蔵しているもよりの図書館を調べて
コピーをとってはいかがでしょうか。
143 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 07:31
纒向遺跡からはいろんな地方の土器が出土していて、北は北陸、南は和歌山、東は東海
西は山口までわかっているらしいけれど、何故九州や朝鮮のものは出土していないのだろう。
そこまで支配が及んでいなかったんだろうか。
144 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 11:10
船を使えなかったからです。
145 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 11:21
>141
遺跡が一つ出てくりゃあその遺跡壊してその下まで探すか?
城郭の跡なんか石組みだから多少余分に掘り返しても復元できるが
土の穴なんかさらに掘ったら復元不可能だ。
146 :
日本@名無史さん:2000/12/20(水) 18:50
>>145 「トレンチ」って知ってる?勉強してね。
そう熱くならずに。
要するにないものねだりをするしかしょうがないって白状したわけじゃん。
事実上の敗北宣言なんだから、大目に見てやらなきゃ。
148 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 06:36
>>143 纒向からは、韓式土器も九州の土器も出ているようです。
149 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 06:39
80年代の関川氏の説を概観すると、以下のようになると思います。
前提1:5世紀半ばには須恵器生産が始まるので、布留式土師器の終末はそのころ
前提2:布留式の時代は3〜4世代で、期間は100年以下
前提3:庄内式の時代はどう見ても2世代以上にはならず、短い。
以上から、1世代30年で (3+2)世代×30年=150年
布留式の終わり西暦450年から溯って−150年で庄内の始まり
ゆえに、庄内式の始まりは西暦300年ごろ。
ゆえに、その前の世代(纏向1式)の纏向石塚も3世紀半ばまで届かない。
ところが、その後の研究では
前提1:須恵器生産開始は5世紀はじめという説のほうがむしろ有力
前提2:布留式の時代は4〜5世代あることはほぼ確定
前提3:庄内式の時代は3世代以上あることは確定
ということで、これを
1世代30年で (4+3)世代×30年=210年
布留式の終わり西暦430年(第2四半期はじめ)から溯って−210年で
庄内式の始まりは西暦220年ごろ。
と修正すると、石野博信の考える年代と一致します。
また、この年代は、弥生後期(V期)の始まり1世紀第3四半期末として
V期5世代を、5世代×30年=150年
西暦70年+150年=西暦220年
として試算したV期の終わり(=庄内期の始まり)と一致します。
150 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 06:39
弥生後期の始まりはそのころの遺跡から出る遺物からみて、到底100年ちかくもあとには動かせません。弥生後期を引き伸ばすというなら「3〜4世代だから100年以下である」と言っておきながら5世代で200年以上と言うのかという矛盾が出てきます。
結局こうして「古墳の発生は4世紀」という結論ありきで弥生時代の実年代を繰り下げようとする考え方は消えていくことになったわけです。
そうして今、庄内式の最終世代(=布留0式)が3世紀の第4四半期なのか、それとも第3四半期に食い込むのかという議論がおこっているのですが、布留0の遺跡は北部九州にもありますから、これが3世紀第3四半期なら変形東遷説以外アウト。
第4四半期ならば九州邪馬台国は壹與が晋に使いを送ってから間もなく滅亡、後漢後期の遺物が圧倒的に九州以外から出るのはこの時ヤマトに略奪されたのだというお話になります。それ以前に作られたホケノ山や萩原1号から出るものはどう説明するのかというと、ヤマトは公孫氏と親しくていつまでも義理立てし、ヒミコはさっさと魏に乗り換えたのだという説明になります。
「略奪されたから遺物はないのだ」では「隠滅されたから証拠はないのだ」のトンデモ説まであと一歩です。
こういうアドホックな議論を積み重ねて九州説は21世紀の春を迎えることになるわけですが、やはり大勢は決したというべきでしょう。
151 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 06:48
>>145 極端な言い方をすれば、遺跡というのは壊して調べるものでしょう。
イメージ的には、縦に二つ切りして切り口を調べるような方法です。
古墳なら、土が盛り上げられる前の地表より下を掘って遺物を探すことで
墳丘が築かれたのはその遺物の年代より後であることがわかるわけです。
遺構が層をなしていれば発見される可能性が高いと思います。
152 :
143:2000/12/21(木) 08:05
>>148 えっ、ホントですか。1996年発行の本(といっても学研のムックで、井沢元彦なんかも
対談で出てるような本ですが)に
>>143のように書いてあったので。
その後の発見なんでしょうか。
153 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 15:49
>151
古墳の発掘写真みるとそんなことやっているように見えないね。
棺のした掘った話も聞いたことがない。
周囲をちょっと試し掘りするくらいじゃ見つからない可能性の方が高い。
イタリア辺りじゃ三層になって遺跡が見付かる事がよくある。
勉強してね。
155 :
>149、150さん:2000/12/21(木) 18:48
ありがとうございます。
すこ゛ーく、ためになりまーす。がんばって参考資料も読んでみたいと思います。
やっぱり、専門家の方ですか?(若手の?)
なんか、2ちゃんにゃもったいないくらい、レベルあがってきましたねー。
むしろ、HPおつくりなったほうがいいのでは?
2ちゃんじゃすぐロク流れちゃうから、せっかくの専門的議論なのに。
「大論争」というHPだと、やっぱり、ログ流れるし、話題に
移り変わりあって・・・
いろいろある邪馬台国サイトも、畿内説でも、むしろ電波っぽい人
がやってるから、本格的なの、ほしいです。
勝手なことばっかいってて恐縮ですが(汗)、
いろいろと、研究・発掘のほう、がんばってくださーい!
なんか勝手な注文
156 :
日本@名無史さん:2000/12/21(木) 20:26
期待させてすいません。私は若手の研究者を友人に持った只のアマです。言っていることはいちおう裏を取ってください。
さて、纒向から南九州の土器が出ていることはかなり前から発表されています。
また、石野の著書(『古代近畿と東西交流』91年)に纒向から土器が出ている地方に印を付けた地図があるのですが、99年11月の論文でこれに加筆して北部九州と伊予讃岐に印した図を発表しています。
出典の一次資料を図書館で調べたいところですが、纒向の報告書は膨大にあるのでいつ初出の情報か未確認です。
また、巻野内地区の導水施設付近から韓式系土器が出ています。楽浪系ではないかと言われているものもあり、胎土分析の結果待ちのようです。
と言っても纒向の土器全体の中ではほんの僅かのことですし、確かにあまり知られていない話でもあります。
157 :
日本@名無史さん:2000/12/22(金) 10:58
ここで散々叩かれていた、民族学的見地からの九州論者が、
大論争
ttp://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a001.html にあらわれました。
コピペ転載します。
>投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [12月5日(火)14時35分56秒]
>元の発言 [ 大論争12月号を開始します ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 12月1日(金)00時12分10秒 ]
>初めて投稿します。
>2CHで九州説を張っていたのですが最近2CHは畿内派に占領されてしまってレベルが低い?ので、
>こちらで自説を述べさせて評価を下さい。よろしくおねがいします。
>
http://www.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html >で明らかになるように九州と畿内では人種、民族的にはっきりとした差があります。
>倭人伝では邪馬台国の風俗を南方海洋民族として描いていますが、畿内は明らかに北方モンゴルの血を曳いています。
>従って畿内は倭人の国ではなく、邪馬台でもないと思うのです。
>皆さんはどのように思われますか?
だ、そうです。
この人の主張が正しいかどうかは別として、一応、マジだった模様。
私は、ネタだと思っていた・・・
あの頃は、ハングル厨騒動で荒れてたからなあ・・・
ちなみにもここにカキコして、大論争てせも活躍してる人、多いのかな?
158 :
日本@名無史さん:2000/12/22(金) 13:42
結局 酒飲みは下戸の大和にやられちゃったのかぁ。
159 :
解決黒頭巾:2000/12/22(金) 21:07
大和にあったのは、『別倭』であり、『倭国』ではない。
『倭国』は九州。そして「邪馬台国」の本国は西都原。
白村江後に新羅が進駐して来て、『倭国』と『別倭』を合わせて「日本」とした。
また、新羅は朝鮮人の国家ではなく、九州の植民地から独立した「倭人国」。
160 :
日本@名無史さん:2000/12/24(日) 07:33
21世紀は
変形東遷説vs畿内説になるのでは?
変形東遷説っていいとこどりでつかみ所がない
イメージあるけどさ
>>66 >>94 のように史料に反しない説を立てる(トンデモになりづらい)
柔軟さがあるしさ。
畿内説支持の方はどう批判してんの?
161 :
日本@名無史さん:2000/12/24(日) 11:56
融通無碍なものは批判しようがありません。
梯儁を迎えた時だけヒミコは香椎の行宮にいたという変形畿内説だって
批判のしようもないでしょう?
162 :
日本@名無史さん:2000/12/24(日) 17:05
さあ、それはどうかな。もっと詳細な研究が進まないと、分からないぞ。
決定的な事実が明らかになるまでは皆それぞれ言いたい放題だな。
163 :
日本@名無史さん:2000/12/24(日) 19:02
純九州説が終わったのはもう決まりだろう
164 :
解決黒頭巾:2000/12/24(日) 19:11
九州西都説は永遠である。
大和に栄えたのは、秦族、馬韓族が被差別部落民を酷使して建てた「秦王国」。
もうこんなのしか残ってない
166 :
日本@名無史さん :2000/12/24(日) 20:20
ぼちぼち、大論争に引っ越しませんか?
大論争
ttp://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a001.html ちゃんと主張したいことのある人なら、あっちのBBSのほうがいいですよ。
詳しい人多いし(バックグラウンドすごくでも、結論が電波な人もいるけど・・・)
罵倒・暴言・揶揄・中傷・嘲弄・放言をしたくなく、邪馬台国を論じたい人は、2ちゃんにいる意味、ないです。
ここでも、レベル高い議論あるけど、むしろ、レベル高いものほど、「大論争」でやったほうがいいと思う。
私も引っ越そうかと思ってます。
2ちゃんで紹介されたせいか?「大論争」も初心者が参入しやすい空気になってきたしね。
167 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 07:42
大論争でも、九州説は悲惨な状況。他に場所を移しても、まともな人がいる所では結果は同じ。
最近寂しいなぁ。高野山の方が上に行ってる。
おのれ、高野山。
169 :
日本@名無史さん:2000/12/28(木) 09:20
狂信的畿内派と狂信的九州派では狂信的畿内派の人数が多いが
どちらにも属さない冷静な史学者が書いた本を見ると
双方を批判しながらも、それとなく九州に軍配あげている
ように感じられるけど。
170 :
日本@名無史さん:2000/12/28(木) 14:57
171 :
日本@名無史さん:2000/12/28(木) 19:45
具体的な名前は言わない―それが九州説 ♪
具体的な地名は言わない―それが九州説 ♪
具体的な理由は言わない―それが九州説 ♪
具体的な出典は言わない―それが九州説 ♪
♪
♪
♪
♪
172 :
解決黒頭巾:2000/12/29(金) 01:23
具体的な理由:
その1−『魏志』の「径百余歩」の条件を満たす円墳は九州西都原の「男狭穂塚」以外、日本中どこにもない。
その2−『魏志』『桓檀古記』『北倭記』『檀奇古史』『晋書』『日本書紀』を総合すれば、日本最古の王朝は九州東北部の「東表国」であり、その後、畿内に進出した「秦王国」が朝鮮半島を経由して九州吉野ヶ里に上陸して、被差別部落民を従えながら大和の地に向かったのが解る。
その後、熊本地方に、半島経由でニギハヤヒがやって来て「多婆羅国」を建て、さらにその後、神武と卑弥呼が半島経由で九州に上陸して「倭の大乱」が起きたことが解る。
そして福岡地方に神武が「伊都国」を建て、日向に卑弥呼が「安羅国」を建て、日向の「安羅国」が”邪馬台国”の本国で「伊都国」「多婆羅国」がその連合であったことが解明される。
神武と卑弥呼は畿内には行っておらず、『日本書紀』が、九州と朝鮮半島に起きた歴史を、畿内にあったように見せかけたことが解明される。
173 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 01:30
↑九州説のつらよごし
174 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 06:59
名前は言わない九州説 ― 言えば恥かくだけだから ♪
地名は言わない九州説 ― 言えば恥かくだけだから ♪
理由は言わない九州説 ― 言えば恥かくだけだから ♪
出典は言わない九州説 ― 言えば恥かくだけだから ♪
♪
♪
♪
♪
175 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 11:05
ヤマタイ=ヤマトという単なる語感の親近性から、畿内説をとるのはダメですか?
176 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 11:25
>>175 過去ログみれば分かるけど、「ヤマタイ」って無理矢理発音させるのは
九州説の連中が押しつけてるだけみたいよ。
177 :
名無しさん@1周年:2000/12/29(金) 12:42
畿内説の人はどうしてそんなに九州説の人をいぢめるのですか?
九州島って・・・本州だって島だと思うのですが・・・
ってか畿内説をとる方は右翼の方が多いって聞きましたが本当ですか?
私もどっちかといわれると畿内説なんですが・・・
178 :
名無しさん@1周年:2000/12/29(金) 12:53
九州って畿内に比べたら圧倒的に不利だよ。
まず九州説の研究者が激減してる。
あと、宅地開発が進んでないということは遺跡もまだいっぱい埋まってるかも。
179 :
解決黒頭巾:2000/12/29(金) 16:32
日豊本線を敷設するときに相当多くの古墳が破壊されたと聞く。<九州
西都原古墳群の多くがまだ未調査。<九州
畿内勢力は、卑弥呼以前の部族(秦族、馬韓族)が半島から九州、中国地方を経て東進したもの。
『晋書』には、畿内には「別倭」があったと記す。
畿内勢力が増大したことをもって、畿内に邪馬台国があったという理由にはならない。
180 :
解決黒頭巾:2000/12/29(金) 16:38
訂正。
『晋書』→『旧唐書』あるいは『桓檀古記』
181 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 19:03
>畿内説をとる方は右翼の方が多いって聞きましたが本当ですか?
一部の九州説のおばかさんが広めている中傷です。
れっきとした九州説の右翼活動家もたくさんいます。
なんたって
「神聖なる天皇家は中国の臣下になんかなっていない」
っていうのが、江戸時代の九州説のはじまりですしね。
182 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 22:19
>>177 畿内説の人はどうしてそんなに九州説の人をいぢめるのですか?
ばかだから えらそうだから 無知だから
うそをつくから 逃げまわるから
183 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 02:42
>>181 そうそう、九州説は、江戸時代の国学者たちが、古代には中国に朝貢し冊封された記事が
気に入らないから、苦し紛れに作った妄想に過ぎない。
184 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 02:45
以前から、『桓檀古記』は20世紀に現れた偽書だと、韓国研究者による指摘を示しているのに、
180の電波な鮮人=解決黒頭巾は、いつまでも出してくるのが痛い。
185 :
解決黒頭巾:2000/12/30(土) 13:02
『日本書紀』こそ捏造書。
九州と半島の歴史を畿内の歴史であるかのごとく捏造したもの。
それに見事にひっかかっている機内説派は、無能力集団。
186 :
解決黒頭巾:2000/12/30(土) 13:05
訂正。
機内説派→畿内説派
187 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 15:29
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
=========================
みなさん、妄想は無視しましょう
188 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 20:01
>畿内説の人はどうしてそんなに九州説の人をいぢめるのですか?
自分は畿内説だと言うと、九州説の(ある)人から、
アホ、バカ、マヌケ、宗教だ、ウヨだ、サヨだ
と言われるから。
189 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 21:29
そいつが宗教家なんだがね
190 :
人を呪わば穴二つ:2000/12/31(日) 01:29
ようするに、(ここに出入りしてる)九州説論者の日頃の行いが悪いってことだな。
心を入れ替えて精進召されよ。
191 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 01:53
よそじゃ真面目な九州説の論者はたくさんいる。
少なくとも、(ここに出入りしてる)九州説論者みたいに
旗色が悪くなると狸寝入りするような腰抜けは珍しい。
もちろんネットでは有名な「お笑い九州説3馬鹿トリオ」は別格だが。
192 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 20:18
だれだ?それは。<「お笑い九州説3馬鹿トリオ」
193 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 20:34
きっと一人は黒頭巾だろう
194 :
ちょこエッグ:2000/12/31(日) 22:17
邪馬台国は何処に在ったかだって? そんなもの決まって居るだろう
四国徳島山中 剣山あたりに在ったのだよ そんな事すら識らないのかね
最近のドキュソ大生は莫迦が多いね 何にも物を識らん
195 :
日本@名無史さん:2000/12/31(日) 23:15
↑今世紀の最後をネタで締めんでくれ!
196 :
解決黒頭巾:2000/12/31(日) 23:57
やっぱり邪馬台国は、九州西都原。
卑弥呼の古墳は「男狭穂塚」だった。
197 :
解決黒頭巾:2001/01/01(月) 18:02
21世紀だ!西都原だ!男狭穂塚だ!
198 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:35
5世紀の古墳が卑弥呼の墓なわけないだろ!
199 :
光源氏@京都:2001/01/01(月) 18:35
奈良じゃないの。
200 :
解決黒頭巾:2001/01/01(月) 19:48
5世紀説は根拠の無い捏造。正しくは3世紀。>198<男狭穂塚
201 :
日本@名無史さん:2001/01/01(月) 19:58
5世紀の埴輪が出てるんだよ。
3世紀こそ根拠なしドキュ〜ン!
202 :
解決黒頭巾:2001/01/02(火) 05:53
>201
>5世紀の埴輪が出てるんだよ。
>3世紀こそ根拠なしドキュ〜ン!
男狭穂塚が立ち入り禁止になったのは、明治時代になってから。
100歩譲ってその埴輪が5世紀のものとしても、卑弥呼の時代より200年後に男狭穂塚が利用されたことも十分考えられる。
藤村氏の事件を思い出せ。
203 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 09:05
間に合わせの言い訳ばかりで
3世紀だって理由はなしのドキュ〜ン!
204 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 09:23
思い出した。
藤村は古くしたぞ。
205 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 13:06
黒頭巾! 立ち入り禁止になってるうちに男狭穂塚になんか埋めに行くか?
206 :
解決黒頭巾:2001/01/02(火) 20:01
>203
>間に合わせの言い訳ばかりで
3世紀だって理由はなしのドキュ〜ン!
男狭穂塚の存在そのものが3世紀に築造された証明になる。
卑弥呼が死去したのが3世紀半ば。
そして、『魏志』には「卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩」とある。
これは直径100余歩の円墳を造ったということだが、
100余歩とは、145mプラスアルファのことである。
一方、男狭穂塚の直径は154.6mの円墳(詳しくは帆立貝形古墳)である。
まさに、そのものズバリのサイズなのである。
また、このサイズの円墳は「男狭穂塚」以外、日本中どこからも発見されていない。
これは、「男狭穂塚」が3世紀に作られた「卑弥呼の古墳」であることの必要にして十分な条件である。
207 :
おっぱい大好き:2001/01/02(火) 22:02
九州?奈良?ネタもいい加減にしろや 毒素が
208 :
日本@名無史さん:2001/01/02(火) 22:12
>206 歴史をなめるな
フィリピンにあったと確信してる
210 :
解決黒頭巾:2001/01/03(水) 17:21
「烏合の衆」無能集団たる畿内説支持のスズメたちの命が尽きる日は近い。
合掌。
211 :
日本@名無史さん:2001/01/03(水) 17:48
↑邪馬台国九州説の皆さん。
本当にもう、こんなのしかいないの?
いるんでしょ、まともな人。
212 :
解決黒頭巾:2001/01/04(木) 15:45
>211
どの部分がまともでないと言えるのかね?
具体的に論理的に反証しなさい。(できないだろ)
213 :
日本@名無史さん:2001/01/04(木) 17:13
(例)
「サイズが100余歩に近い」
が
「3世紀に作られた「卑弥呼の古墳」であることの必要にして十分な条件」
というのがまともでない。
214 :
解決黒頭巾:2001/01/04(木) 17:25
>213
>このサイズの円墳は「男狭穂塚」以外、日本中どこからも発見されていない。
と、言ってるだろ。
だから必要十分条件なんだよ。
もし誰かが意図的に破壊した同じサイズの古墳が、過去にあったとしたら記録にあるはずだが、それもない。
215 :
日本@名無史さん:2001/01/04(木) 17:30
ahoka!
意図的に破壊したら記録なんかあるかい!
216 :
解決黒頭巾:2001/01/04(木) 19:51
>215
アホはおまえさんだよ。
直径150m前後もある遺跡を誰にも知られずに破壊する事など不可能。
情報がどこからか必ず漏れるものだよ。
現実経験が不足しているね。
217 :
日本@名無史さん:2001/01/04(木) 20:44
記録の抹殺、焚書は黒頭巾の得意技だろう。
>214
>216
九州の宇佐神社の近くにある、亀山では?
769年の道鏡事件では伊勢神宮はまったく無視され、
宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけました。
また、天皇家は奈良時代以降1100年間も近くの伊勢神宮に参拝すらしたことがないのに、
国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされました。
以上のような記述を見つけましたが、これは事実なのでしょうか?
>213
どうしてその古墳が三世紀に作られたと解るのでしょう。
中から何が出てきたのでしょうか。
ほんとに古墳なんですか?それって。
221 :
日本@名無史さん:2001/01/04(木) 22:03
天皇家は血が濃いからね。
222 :
邪馬台国@北九州:2001/01/05(金) 00:34
>219
どうしても北九州じゃないという人達が、
騒ぎ出す予感がする。
邪馬台国って言葉自体が大和に似てるよなあ。
223 :
解決黒頭巾:2001/01/05(金) 00:49
>218
>219
宇佐の地は、日本最古の国「東表国」があったところ。
じつは新羅はこの国の朝鮮半島にあった飛び地から独立して強大になり、白村江後に日本にUターンして奈良王朝を建てている。
東表→豊 と変化した。
日本発祥の地と知っているから挨拶に来るんだよ。<勅使
また神武建国をBC7世紀にした神話も、「東表国」の建国の歴史を拝借しているんだな。
ほんとは神武は卑弥呼と夫婦でAD3世紀の人物。
>220
毎年11月の第1週の日曜日の日だけ、男狭穂塚への立入が許可されるから見に行けば。
224 :
解決黒頭巾:2001/01/05(金) 00:52
>218
>219
宇佐の地は、日本最古の国「東表国」があったところ。
じつは新羅はこの国の朝鮮半島にあった飛び地から独立して強大になり、白村江後に日本にUターンして奈良王朝を建てている。
東表→豊 と変化した。
日本発祥の地と知っているから挨拶に来るんだよ。<勅使
また神武建国をBC7世紀にした神話も、「東表国」の建国の歴史を拝借しているんだな。
ほんとは神武は卑弥呼と夫婦でAD3世紀の人物。
>220
毎年11月の第1週の日曜日の日だけ、男狭穂塚への立入が許可されるから見に行けば。
>223
なるほど、だから白村江の戦のあと進駐してきたのか。
飛び地とは知りませんでした。
どうもありがとうございます。
んなわけねえだろ!
↑
えっ!そうなんですか?
224サンの意見は説得力あるけど。
228 :
飛び地:2001/01/07(日) 00:26
どちらから見ての飛び地なのか?
疑問ですな。
229 :
偽語源学:2001/01/07(日) 00:39
「から(韓)」とは和語で「カ(向こう側や遠くにあるものを指す
接頭辞)+ラ(土地、国)」の意味。
「加羅」とはだから「向こう側の土地」を意味する和語であり、倭
人の当時の根拠地であった日本から見て、飛び地である半島南部を
指して呼んだ呼称が国名になったものである。
230 :
日本@名無史さん:2001/01/07(日) 00:52
鮮人=解決黒頭巾は、相変わらず怪電波が絶好調だな(わら
>>227 当然のことながら単なる現代人の空想で根拠なし。
一体どこに説得力を感じるのか絶句。
ぎゃふん!
なーんちゃって、
>229
そうかも知れない。
>230
朝鮮人だろうが日本人だろうがアイヌ人琉球の人だろうが
関係ありません。
怪しい考古学(怪しくないものは認めます)抜きにして、
本当の事を知りたい人は沢山いるはずです。
何故、電波なのか、どうして空想なのでしょう。
以上。
233 :
日本@名無史さん:2001/01/07(日) 08:37
なぜって、そんな記録はないよ。だから空想。
現代に突然出現した謎の「古文書」に書いてあるという主張が電波のあかし。
234 :
日本@名無史さん:2001/01/07(日) 10:19
>>206 >一方、男狭穂塚の直径は154.6mの円墳(詳しくは帆立貝形古墳)である。
>まさに、そのものズバリのサイズなのである。
>また、このサイズの円墳は「男狭穂塚」以外、日本中どこからも発見されていない。
>これは、「男狭穂塚」が3世紀に作られた「卑弥呼の古墳」であることの必要にして十分な条件である。
まず「帆立貝型」は確かに珍しいが,絶無ではない。東国(群馬県など、毛野君の勢力範囲とされていた地域)
では数例発見されている。こちらも5世紀中ごろの古墳。小さいものであれば、近畿や北九州にもある。
(もちろん5〜6世紀のものがほとんど)
「箸墓」古墳も後円部は150m。しかもこちらは周辺の埴輪や円筒器台から、3世紀築造であることは
確実視されている。女性埋葬の伝承もある。周囲にはやはり2〜3世紀に栄えた纏向遺跡や、最初期の古墳、
弥生時代末期の墳丘墓などがあり、状況証拠もそろっている。
235 :
日本@名無史さん:2001/01/07(日) 10:56
なんか自作自演ぽいけど一応マジレス
>>227さん232さん
まず「古文書」しかも学術的に疑問の多い(はっきり言ってしまえば「偽書」)書物の記述を
中心に論拠を立て、その他の確度の高い史書や考古学資料は無視するか自説に都合の良いところだけ
を取り上げるところが「電波」「空想」と言われる所以だと思いますよ。
彼は『魏志』『桓檀古記』『北倭記』『檀奇古史』『晋書』『日本書紀』と参考史書を挙げていますが、
(正史とまぜこぜに書いているのがやらしいね)『桓檀古記』『北倭記』『檀奇古史』は
20世紀になって(戦後だったと思う)突然現れた「古書」で、他の正史と整合性が少ないとされている。
もちろん考古学資料とも合わない。
宇佐に日本最古の「東表国」があったとすれば、この地に少なくとも紀元前後(弥生中期)以前の
大規模な遺跡・王族の墓が無いとおかしい。この頃には福岡平野の奴国・伊都国で既に
王権が発生し、漢の光武帝から金印を授かっている。「最古」とするならそれ以前の遺跡が有るはず。
しかしそんな遺跡は全く無い。たとえ宇佐神宮の下に埋まっているので調査できないとしても、周辺からは
集落や墓地、田畑などが見つかるのが普通だが、それも無い。
『新羅が白村江の戦いの後に日本に進駐して「奈良王朝」を建てた』なんて説を「説得力が有る」なんて言う人
がいるなんて思いもつかなかったけれど、この戦いの後大宰府を現在の内陸部に移し、
水城を作って東国から防人を連れてきたのも全部でっち上げなんでしょうか。
新羅と奈良王朝が同族ならそんな必要ありませんものね。
その時代の古墳や寺院も新羅からの影響より高句麗や百済の影響のほうが強いのに。
新羅人が「日本書紀」を書いたのならもっとましな漢文になっていたと思いますよ。
>235
丁寧なレス有難うございます。
日本の歴史に関して、本気で知りたいと思ったのが最近のことなので、
いろいろな説が(どれも読んだ時は頷いてしまう)頭の中を交錯してます。
これからもいろいろ勉強して、どの説が一番信憑性が高いのか見極める目を
養っていこうと思います。初心者的な質問がこれからもあると思いますが宜しくお願いします。
以上
237 :
解決黒頭巾:2001/01/08(月) 01:40
>228
「飛び地」とは倭国(九州)から見ての「飛び地」に決まっている。
よく文章を読むように。
>234
>「箸墓」古墳も後円部は150m。
箸墓は、もともと「ひょうたん型」の山を削って「前方後円墳」にしたことが明らかになっている。
その一部分である「後円部」だけとりだして「徑百餘歩」である、というのは屁理屈の極み。
>235
朝鮮の歴史書は、政権が替わる度に都合のよいように書き換えられてきたから、ウソが多い。
従って、書き換えを逃れて長期間在野に隠されていた歴史書ほど、信頼性が高い。
近年発見されたことをもって、偽書であるというのはナンセンス。
「東表国」のものと思われる紀元前7世紀の鉄剣が大分県の「重藤遺跡」から発見されている。
また、この国東半島には数万トンの鉄滓があると推定されている。
当時、「東表国」では世界一の規模で製鉄が行われた。
このことを調べた当時の九州大学工学部坂田研究室では、関係者全員の承諾がなければ発表しない、として現在に至っている。
文部省から、予算が来なくなることを恐れたものと思われる。
太宰府近辺や山口県、大和などに築かれた城は、「朝鮮式山城」であり、外敵の侵入に備えるというより、現地の倭人の反乱に備えた「逃げ城」。水城も同じ。
「日本書紀」は新羅の舎人親王が新羅側の立場から書いた後、百済王朝である平安時代に、道鏡が百済側の立場から改竄した。
238 :
日本@名無史さん:2001/01/08(月) 01:44
鮮人=解決黒頭巾は今日も電波を発信しまくっているな(わら
発京男糞頭巾
紀元前7世紀の鉄剣だもんなー
お得意のフェニキア人は出さないの?
240 :
234:2001/01/09(火) 07:47
>237
>もともと「ひょうたん型」の山を削って「前方後円墳」にしたことが明らかになっている。
そんなことは「明らかになって」いません。たとえ尾根筋の一部を削ったり盛り土をして
成型したとしても、最初の山が「ひょうたん型」なんてなぜ判るのですか。
「記紀」にも大勢の人が手渡しで石を運んで積んだとの記述もありますよ。
さらにそれでなぜ「屁理屈の極み」なんでしょうか。自然地形を利用したにせよ
径百余歩に近い古墳であることは間違いないのですから。
箸墓よりも男狭穂の方が根拠(径のみ)が薄弱のように思えるのですが、いかがでしょうか。
241 :
日本@名無史さん:2001/01/09(火) 11:12
>>240 最近の土器編年の暦年換算から見ると、布留0式の箸墓古墳は、3世紀中頃から後半。
男狭穂・女狭穂古墳の陪塚とされる西都原169号墳は、出土埴輪から5世紀前半と見られており、
男狭穂・女狭穂も、年代的にそれほど差がないと考えられている。
古墳の規模、年代に加えて、箸墓はオオヤマトにあり、邪馬台(ヤマト)と地名も合致する。
最近の著名な考古学者の発言を見ると、箸墓古墳を卑弥呼の墓の最有力候補とする傾向が強い。
242 :
日本@名無史さん:2001/01/09(火) 12:25
面白い人がいるね
自分に都合のいい資料は「正しい資料」都合の悪い資料は「改竄された資料」
典型的な「予め決まった結論から導く論理」だ。
邪馬台国論争と関係ないのでsageますが、あんまりウザイと思われたら「他所でやれ」と
言ってください。消えますので。
>>273(解決黒頭巾)さん
>朝鮮の歴史書は、政権が替わる度に都合のよいように書き換えられてきたから、ウソが多い。
>従って、書き換えを逃れて長期間在野に隠されていた歴史書ほど、信頼性が高い。
逆に公表されたものを書き換えるほうが難しいと思いますが。
>近年発見されたことをもって、偽書であるというのはナンセンス。
新しく発見されたから「疑わしい」と言っている訳ではなく、その場合でも従来の史書や
考古資料との整合性が重要だと申し上げている。たとえば「武功夜話」は昭和34年に
発見されたが、信長と同時代の人物が書き残した資料として非常に価値が高いと
評価されている。それは従来の「信長公記」やその他の資料と整合性が高く、さらに従来
仮説として立てられていたものの裏づけとなる記述があったからである。
原著者及び写書者も経歴が明らかで信頼できる。
>また、この国東半島には数万トンの鉄滓があると推定されている。
>当時、「東表国」では世界一の規模で製鉄が行われた。
数万トンの鉄滓ねえ。それには数十万トン単位の鉄鉱石なり砂鉄なりが必要と思われますが、
どこにそんな採掘跡があるのでしょうか。さらにそのとき製作された鉄製品はどこに消えて
しまったのでしょうか。その鉄製品で何をしたんでしょうかねえ。戦艦でも作って海に
沈めてしまったんでしょうか。
>このことを調べた当時の九州大学工学部坂田研究室では、関係者全員の承諾がなければ発表しない、
>として現在に至っている。
一般に公表されていない、従って何らの批判も受けていない研究結果を持って論拠とするのは
アンフェアな態度ですね。こちらも反論しようがない。反論できないから正しいとするのは
卑怯ですよ。
>太宰府近辺や山口県、大和などに築かれた城は、「朝鮮式山城」であり、外敵の侵入に備える
>というより、現地の倭人の反乱に備えた「逃げ城」。水城も同じ。
現地の倭人の反乱に備えたのであれば、他の地域(中部以東、四国、南九州)にも存在するはず
でしょう。水城は博多湾からの侵攻に対して大宰府を防御する以外、存在価値がないと思われますが。
>「日本書紀」は新羅の舎人親王が新羅側の立場から書いた後、百済王朝である平安時代に、
>道鏡が百済側の立場から改竄した。
・・・根拠は何でしょうか。またどっかから珍奇な書物を引っ張り出してくるんでしょうか。
再度関係ない話題ですみません。
>>236さん
こちらこそご丁寧に。疑ってすみませんでした。
私も「異説」「新説」などと聞くとすぐに飛びついてしまう性質なのですが、
昔はチャーチワードや古田武彦などにころっと騙されていました。
(「学研」「大陸書房」の本や雑誌などを愛読したりして。)
けれども、素人でも地道に勉強を続けていけば、怪しい説に対していくらか反論できる
ようになるもんです。基本はどんなことにも疑問をもつことだと思います。
(疑問をもちすぎると却っておかしなことになるみたいなので(笑)、その辺はバランス良く)
「定説」に疑問を投げかけて成功している説もありますが、たいていは「トンデモ」
ですね。「偽書」「偽史」に関しては最近盛んに解説書が出ているので、
一度お読みになってはいかがでしょうか。
>初心者的な質問がこれからもあると思いますが宜しくお願いします。
こちらこそ初心者に毛が生えた程度の若輩者です。専門的な質問でなければ
逆にお答えしやすい。よろしくお願いします。「トンデモ」説は話のネタ
にはなるけれども、本気になったら「信者」扱いですからね。
245 :
日本@名無史さん:2001/01/09(火) 20:11
森浩一という同志社大学の教授の本を読んだ。(1990年刊)
古墳時代の一般向けの解説書だが、結構近畿説に対して批判的だ。
弥生末期の遺跡としてはまだまだ北九州のほうが隆盛だとか、
纏向遺跡の住居跡としての規模はそれほど大きなものでないとか、
この時代のほかの遺跡に比べて、特に土器の地域性が多様なものでない
(つまり他地域の遺跡でも、土器は様々な地域から流入していることが認められる)
とか主張している。弥生末期〜古墳初期にかけて、大和地方が他地方に比べて
特に突出しているとは言えない(近畿説論者が主張するほど神秘的な土地ではない)
と述べている。
近畿説を批判するならこのくらいの主張の方が良いのでは?
それから、この人の邪馬台国に関する書物をご存知の方がおられたら教えてください。
246 :
日本@名無史さん:2001/01/09(火) 21:14
モリコーさんも今年で73歳。だいぶ前から停止しているようです。
はっきり言って、いま読んでも全く意味がないでしょう。
(編、監修のものは除きます)
お読みになった10年以上前の古墳時代の一般向けの解説書も
学説の歴史を研究したいのでなければ意味はないと思います。
247 :
247:2001/01/10(水) 07:21
>>246さん
レスどうも。
ということは森浩一氏はすでに過去の研究者という感じですか。
248 :
名無し@日本人:2001/01/11(木) 01:16
オレは日本人だが、日本人は朝鮮人の子孫。それでいいじゃん。
きっとヤマタイ国は九州にあって大和朝廷はそれ滅ぼして
攻め登って奈良にいついたんだよ。
沖縄経由の濃い人の国ヤマタイ国。
原日本人は朝鮮人と混血してショウユ顔にうすまった。
あ〜ジレッタイ!天皇陵あけてみてくれ〜。
きっと"証拠"がざっくざく?
>>249 「九州説」というより「無知」なだけでしょう。
縄文−弥生混血とその後の大陸からの影響を混同しているだけなのでは?
古い時代ほど朝鮮というより中国の影響の方が強いように、私には思えるのだが。
251 :
日本@名無史さん:2001/01/12(金) 14:26
邪馬台国は中国江南地方からきた。
大和人は大陸北部から来た。
宇佐神宮と伊勢神宮は天皇家の二所宗廟とされ、769年の道鏡事件では伊勢神宮はまったく無視され、宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけました。また、天皇家は奈良時代以降1100年間も近くの伊勢神宮に参拝すらしたことがないのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされました。
253 :
日本@名無史さん:2001/01/12(金) 18:11
箸墓は前方後円墳。その一部の大きさを持ち出して、卑弥呼の墓と連想するのは充分トンデモだと思う。
前方後円墳をみて、径で大きさを表現するものか?円形のものを表現するときでしょ。
前方後円墳の一部(後円部)のみの大きさを取り上げる感覚が理解できないです。
#大きく見せるのならともかく、一部分の大きさをを上げるのは卑弥呼への冒涜では。
円墳なら、回り(ほぼ平坦なところ)を一周すれば大きさを知るのは簡単だが、前方後
円墳の後円部だけを計ることは、立体的なものを計ることになり難しい。前方後円墳の
接合部を通って墓を計る事が、許される行為とは思いがたい。設計図があってそれを計
るのなら簡単だけど無いですからね。
ところで、箸墓って築造にどのくらいの年月がかかったのでしょうか?
卑弥呼なき後の争いの跡、考古学的にみつからないものかなあ。
254 :
解決黒頭巾:2001/01/12(金) 22:37
>253
全くその通り!
代わりに発言してくれてありがとう。久しぶりにまともな頭脳に出会った気分(笑)
>>240 >そんなことは「明らかになって」いません。たとえ尾根筋の一部を削ったり盛り土をして
成型したとしても、最初の山が「ひょうたん型」なんてなぜ判るのですか。
伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』学生社刊を読みたまえ。
この中で、橋本輝彦は「纏向遺跡の初期古墳」について、
「盛土については箸墓古墳やホケノ山古墳が墳丘の第一段のテラス付近までを地山の核を利用して盛土をおこなっている」
と述べている。
>>243 「水城」は敵を防ぐために造ったのではなく、御笠川(博多湾へ)と宝満川(筑後川を通じて有明海へ)を接続するために造った「古代版パナマ運河」。
つまり、進駐した新羅軍が自由に交通できるように建設したもの。
頭が固いよ。>243
ま、素直に『魏志』を読めば邪馬台国が九州南部にあるのは明らか。
それを、「畿内」にあると主張する輩は、”馬鹿”か”腹黒い”かどちらか。
255 :
日本@名無史さん:2001/01/12(金) 23:07
前スレから読んでも近畿説有力ですね。まぁ九州説も完全に否定は出来ないようだけど
ただ一つ間違いないのは解決黒頭巾はバカかデムパかその両方かってことだな
256 :
日本@名無史さん:2001/01/12(金) 23:22
「地山の核を利用して盛土をおこなっている」ことが
どうして最初の山が「ひょうたん型」だったことになるんだ。
馬鹿じゃないのか! …あ、馬鹿だっけ。
257 :
日本@名無史さん:2001/01/13(土) 07:42
>>253 それじゃあ「男狭穂」も同じだね。前方部があるから。(誰かさんは「円墳」と
しきりに主張されているが。)
場所も時代もぜんぜん違うのだが、前方後円墳の岩戸山古墳(福岡県)の大きさを
「径○○」と表現している古文書もある。(ソースは失念。申し訳ない)
古代には前方部を「祭壇」と解して墳墓に含めない考え方も有ったのでは。
>設計図があってそれを計るのなら簡単だけど無いですからね。
と片付けられているが、簡単な測量や地割はしたはず。大阪府堺市の小学校で
縄や棒など、古墳時代にも簡単に手に入る道具を使って地割を再現していたが、
そこまでの知識があれば墳墓の径を算出するのは簡単。
>>254 それを読んだ上で反論している。「ひょうたん型」の論拠は?それにあなたは
「削って」と表現しているが研究者は「盛土」。意図的に表現を捻じ曲げている
としか受け取られない。
>さらにそれでなぜ「屁理屈の極み」なんでしょうか。自然地形を利用したにせよ
>径百余歩に近い古墳であることは間違いないのですから。
>箸墓よりも男狭穂の方が根拠(径のみ)が薄弱のように思えるのですが、いかがでしょうか。
こちらが主旨。
258 :
日本@名無史さん:2001/01/13(土) 10:44
>>254 は水城ってまったく見たことなくて言ってるんですかね。
狂ってるとしかいいようがない。
>>254(解決黒頭巾)さん
>「水城」は敵を防ぐために造ったのではなく、御笠川(博多湾へ)と宝満川(筑後川を通じて有明海へ)を接続するために造った「古代版パナマ運河」。
>つまり、進駐した新羅軍が自由に交通できるように建設したもの。
>頭が固いよ。>243
なるほど。あなたのようにやわらかい頭だからこそこんな発想が生まれるのですね。
まず「水城」を通って御笠川から宝満川には行けません。地図でご確認なさっていないのでしょうか。
分水嶺はもっと南にあり、宝満川は大宰府の南を流れています。どうしても博多湾から
有明海に抜ける運河を掘りたかったのなら、御笠川支流の高尾川から宝満川支流の山口川へ掘るでしょう。
大宰府の南側です。ただどちらも浅くて狭い川なので、水運に便利かどうかは疑問ですが。
それから「水城」がこれ一つではないことはご存知でしょうか。大野城市大字上大利に上大利土塁、
春日市大字下白水に大土居土塁、同上白水に天神山土塁があり、堀も存在したことが
確認されています。「運河」でないこれらの「水城」はどう説明されるのでしょうか。
さらにあなたの言う「運河」では太宰府側にしかない「土塁」は意味がないと思われるのですが。
>>243のほかの反論はいかがでしょうか。別スレでやりましょうか?
260 :
日本@名無史さん:2001/01/13(土) 12:51
>>259 「やわらかい頭」って脳軟化症のこと?(藁
彼も相手してもらって、うれしいと思うよ。
261 :
日本@名無史さん:2001/01/13(土) 19:45
水城は、大野城の水城口城門方面から牛頚山をむしろ東西に結んで
博多湾から大宰府にいたる福岡平野の最狭部を遮断しています。
運河だなどというのは、現地を見たことのない人の妄想です。
262 :
解決黒頭巾:2001/01/14(日) 03:26
「パナマ運河」を知っているな?
水を堰き止めて、山の下にいる船を段階的に山の上まで引き上げるってやつだね。
現在の御笠川と宝満川は、もちろん離れてはいるが川の水を堰き止めて水位を数メートル上昇させることによって、現在は陸上であっても当時は水没させて自由に船が航行できたはず。
博多側は水城の大堤で御笠川を堰き止めダム湖を造って、筑後側は針摺峠の自然堤防で両河川は繋がるだろう。
263 :
日本@名無史さん:2001/01/14(日) 03:53
ばかか…
264 :
ウンコ:2001/01/14(日) 05:29
ヤマタイコクは海の底に沈んでますよ
ええ、見たんです、だって僕は海まで流される
運命にあるんだもの、何回も見ましたよ。
>>262(解決黒頭巾)さん
壮大な仮説ですね。非常に魅力的。本気で信じているなら「電波」扱いしますが、
仮説を楽しんでいるのであれば、あなた才能ありますよ。小説でもお書きになればいかがでしょうか。
しかし論としておかしい点は指摘させていただきます。
まず御笠川を「堰き止めて水位を数メートル上昇させる」と、宝満川とつながる。
まあこれは良しとしましょう。(よほど注意深く工事しないと、宝満川方面(有明海側)に
どっと水が流れ出しそうな気がしますが)
一方御笠川方面(博多湾側)に行くときは、数メートルの水位差がありますね。そのままでは当然船は
通れない。「パナマ式」とおっしゃるからには閘門式のことを意味していると思われるのですが、
当然それには水門やそれに付随する給排水設備がなければなりませんね。しかしそんな遺構は
まったく残っていません。内陸部に船着場などの遺構もない。
水城の博多湾側に残る濠も、あなたの論では説明できないばかりか、かえって堤防能力を
低下させる不要のものです。この濠に水を供給するための樋などの遺構も出てきているので、
濠がこの水城に必要不可欠であったことは疑いようがありません。
また
>>259で提示した他の水城も説明しきれていません。
なにより、ここまでする必要性が認められない。新羅から来た大型船の航行が可能になるなら
ともかく、御笠川をあの地点までさかのぼるのであれば、喫水の浅い船でないと無理。
水門がないので、船はその先にはいけない。荷物や人員の積み下ろしだけ使用するのであれば
あの大工事の意味がない。おまけに(現在の)大宰府市や筑紫野市周辺の田畑が沈んで
食糧生産も打撃を蒙る。
>>260さん
いやいや、私が相手してもらってるようなものです。彼の説を「説得力がある」などと
本気で信じるような方がいたので、少しムキになっていますが、小説としてはおもしろい
と思います。
266 :
日本@名無史さん:2001/01/14(日) 11:12
なんだか一つウソをつくと、次々にウソを重ねなければならない、
ウソ地獄にはまっているようだな。
水城も朝鮮式山城も、唐・新羅からの侵略を恐れて作った。終わり。
ではツマラナイといえばツマラナイな。
267 :
日本@名無史さん:2001/01/14(日) 17:13
あげ
268 :
解決黒頭巾:2001/01/14(日) 23:21
最近の水城に関する新しい情報によると、
水城は二重構造になっているそうだ。
先行する水城があり、その上に積み増しして現存の水城があるとか。
これこそ、「水城」が「古代版パナマ運河」であった証明であろう。
>>259 他の水城も同じ原理であっただろう。
いずれにしても、新羅が侵攻して来る以前は、すべて「安曇水軍」の支配下にあったものと思われる。
白村江の戦いで敗れた邪馬台国のトップ水軍であった「安曇水軍」の施設は、すべて新羅に接収され、新羅の水軍基地となった。
269 :
アホばっか:2001/01/15(月) 02:43
まあだ近畿説なんて存在してたのか?
そのうちに恥ずかしくなるぜ。
近畿説なんてなんの根拠もないんだよ。
↑誤植
正:九州
誤:近畿
>>268(解決黒頭巾)さん
>最近の水城に関する新しい情報によると、
>水城は二重構造になっているそうだ。
>先行する水城があり、その上に積み増しして現存の水城があるとか。
>これこそ、「水城」が「古代版パナマ運河」であった証明であろう。
だんだん苦しくなってきましたね。
「二重構造」は「古代版パナマ運河」の証明にはなり得ません。ちっとも論理的でない。
>他の水城も同じ原理であっただろう。
よしんば他の水城が同じ原理であったとしても、那珂川の上流がダムのように堰き止められる
だけでどこにもつながりません。
私の疑問に一つも答えていただけないまま「安曇水軍」など持ち出して次の話題に
(いつものように)去っていかれるのですね。
アホばっかと言いつつ書き間違えてちゃな(藁
余裕の無い証拠。
273 :
日本@名無史さん:2001/01/15(月) 14:12
>>273 いやいや、私の推理では九州説の人が
>>269を書き、
それに反発した近畿説の人が
>>270でうまく切り返した。
と思いきや
>>272で九州説の人がその切り返しを逆手にとって、
全部近畿説の仕業としてあざ笑おうとしている。
いかがかな。
おおあたりだ。九州説の難癖上手には素直に脱帽だ。
その技だけで九州説が地上に存在しているだけのことはある。
276 :
解決黒頭巾:2001/01/15(月) 21:55
277 :
日本@名無史さん:2001/01/15(月) 23:03
パナマ運河に掘立柱の門なんかないことがよくわかるよ。
「舟入」なら御陀仏だろ。
278 :
正しい歴史:2001/01/15(月) 23:12
>274
あなたなかなか鋭いね。
279 :
日本@名無史さん:2001/01/16(火) 01:39
鮮人=解決黒頭巾は今日も電波を発生しまくりだな(わら
こっちのスレに残ってる常連はみんなデンパだろう。
つーか、あの時点でパナマ運河と同じ技術なんて、
オーバーテクノロジーじゃないの?
>>276(解決黒頭巾)さん
見ましたよ。パナマ運河のURL。壮大ですね。非常な難工事だったことが想像されます。
つまりあのくらいの大掛かりな設備がないと、運河として機能しないわけです。
繰り返しますが、あんな設備の遺構が、水城のどこに存在するのでしょうか。
>そういえば、宝満川と御笠川のあいだには、「舟入」という地名があるようだ。
二日市の近くに「入船町」という地名はありますが、「舟入」とはどのあたりでしょうか。
私の資料では確認できません。
ちなみに「入船町」は御笠川(の支流)から二日市温泉に入るための船着場が
地名化したものと考えられます。二日市温泉は孝徳天皇(645〜655年)の
時代に開発されたとされていますが、あなたの説では運河の底になるのですね。
大伴旅人が「湯の原に 鳴く葦田鶴は わがごとく妹に恋ふれや 時わかず鳴く」
と詠んだのも何かのでっち上げ?
しかしこの話題のためにいろいろと検索をかけてみて、あなたと同じような考えをする方々が
いることに気づきました。↓
http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/html/history/honbun/hakusuki.html これはあなたの説と若干違う(唐が主役)のですが、日本が近隣諸国に占領されて成立したという
結論は同じです。末尾でいきなり現代の話に飛ぶあたり、歴史の研究というより
政治的主張の意味合いが強いと思われますが・・・。
>>275さん
>>278さん
ドモドモ。ちょっとおもしろい幕間でした。
>>280さん
Part1から見ている人間として、つらいものがあります。新しいスレのほうが
議論が活発で面白そうだし。あちらの九州説の方は至極まともそうですね。
黒頭巾さんにかかわりあっているうちに邪馬台国関係の議論はどっか行っちゃうし。
かなり自己嫌悪です。ただ福岡に長く住まわせてもらった(水城跡の近くでした)
人間として、なんとなくですが郷土愛(出生地ではないですが)から反論したくなるのです。
284 :
日本@名無史さん:2001/01/17(水) 20:09
んで、邪馬台国は結局どこにあるの?
このスレは電波説専用かい?
285 :
解決黒頭巾:2001/01/18(木) 00:15
もちろん西都原!<邪馬台国
286 :
神:2001/01/19(金) 05:07
>284
九州にあったことだけは間違いありません。(宮崎はのぞく)
287 :
日本@名無史さん:2001/01/19(金) 08:05
一句
九州説 ついに最後は 神だのみ
288 :
日本@名無史さん:2001/01/20(土) 07:55
289 :
神々の中の大神:2001/01/20(土) 18:00
邪馬台国は九州、西都原であーる。
畿内にあったのは、被差別部落民を従えて中国、朝鮮半島からやって来た「別倭」である。
御託宣
291 :
日本@名無史さん:2001/01/21(日) 09:32
>289
そんなに自信あるなら考古学系の雑誌に載ってみろよ。
そしたら信じてやるよ(藁
292 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 03:51
電波のオンパレードだな
オンパレードなんかじゃない。
やってるのは黒頭巾ひとり。
しかも電波の自覚がないから始末におえない。
295 :
282:2001/01/22(月) 07:20
結局解決黒頭巾氏は、ご自分の説を曲げることはなかった、と・・・。
私の疑問にひとつも明確にお答えいただけなかったが、結局今でも
白村江の海戦の後、日本を新羅軍が占領して、「逃げ城」のために朝鮮式山城を作り、
水城は「パナマ式運河」だと信じているんだろうな。(単純に仮想歴史を楽しんでいる
可能性もないわけではないが)
できれば学術系の歴史板ではなく、小説系の板で活躍していただきたい。
>>293さんのスレにあるように「*翼」「電波」は罵り言葉としては簡単だけれど、
現実的に活躍の場を与えないためには、徹底的に議論するのが一番だと思いますね。
296 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 07:30
文藝春秋の小林恵子担当の編集者を紹介してあげよう
297 :
日本@名無史さん:2001/01/22(月) 08:26
九州王朝がなんでわざわざ近畿に東征に出かけ、
そこに本拠を移す必要があったのかよく解んない.
既に九州地方より豊かで大きな勢力がそこにあったとしか考えようが無いけど、
だったらそいつらは中国に対してもそれまで何をしていたのか
全然認知もしてもらえてなかったとは思えない
298 :
日本@名無史さん:2001/01/23(火) 17:12
>>297 私は「東征」というのではなく、各国の合議によって
九州の卑弥呼が時の代表者に選ばれ、畿内に迎えられ
たのかも、と考えたりしてます。
299 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 12:29
結局、邪馬台国はどこにあるの?>畿内
300 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:22
なぁ、女王国と邪馬台国ってほんとに同じかなぁ・・・。
なんで陳寿さんは邪馬台国は一度しか使わず、女王国で
統一したのかなぁ。<やっぱ電波かな。
301 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:45
てゆうか九州発祥の国なんてのは朝鮮系が作ったに決まってるじゃん
だいたい古代に限って九州ばかりに国が出来てるなんて不自然だよ。
302 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:49
電波な鮮人が歴史捏造に必死だな。主張するなら根拠を言えよな(わら
303 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:51
じゃあ何で九州ばかりに国が出来てるの?
304 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:52
日本列島や朝鮮半島の状況についての、まとまった見聞録としては最古の、
魏志東夷伝くらいは読んでから書け。
それと、遺跡・遺物についても、少しは調べろよな。
日本史板には、頭の悪い電波な鮮人は用はない。
305 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:55
大陸文化を吸収しやすかったからかな?>じゃあ何で九州ばかりに国が出来てるの?
306 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 18:56
>>303 今やトンデモ化している、邪馬台国九州説で、九州にばかり国があることに
しているだけだろ。
5万戸の投馬国は吉備、7万戸の邪馬台国は畿内、
邪馬台国と対立する狗奴国は東海と見るのが、最近の主流で、
大きな国は、九州よりずっと東方にある。
307 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:03
天皇家は邪馬台国の王族の末裔。
つまり朝鮮系。
308 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:10
頭の悪い鮮人とサヨクは、歴史捏造に必死だな(わら
根拠もなにも言わないから、バカ丸出し(わらわら
309 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:13
つまり東の方にもにもかなりの数で朝鮮人が浸透してたって事
かな?(w
310 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:22
おまえら出けよ!
鮮人だぁサヨクぁだは最初から不毛なスレでやってくれ。
311 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:27
310>ウ在
312 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:28
いつまでたっても「朝鮮人」が終わらないので一言。
昔から、ある土地を支配した男は、その土地の女性と結婚するのです。
そうして血は交わっていくのです。
あなたはだれの子か。母の子です。
さて話を進めよう。
313 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:32
314 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:35
312>てことは日本人には朝鮮人の血が入っていると言う事で
結論が出たね。
315 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:43
>>314 それだと、日本人に朝鮮人の血が入っているんじゃなくて、
現日本人と現朝鮮人の先祖が同じ古朝鮮人ってだけのことだろう?
もとの土地に住んでいるのが本家で父にあたるとか、
変な儒教もどき思想を持ち出してくるからわけがわからないんだよ。
それこそ、日本人の祖先は新天地を求めた勇気ある開拓民で、
朝鮮に残ったのは、気が弱くて頭の固い守旧派だってことでもいいわけだ。
316 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:47
結論、日本人=朝鮮人これで決まり。
317 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 19:50
そもそも、日本人と言う括りは文化共同体と言う意味合いが強い。
318 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:18
「鮮人」とか「(w 」とかいう書き込みに誰もレスつけるな!
無視しろ!無視!
スレが死ぬぞ!
319 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:22
318>古代史系議論で荒れるのは今や常識となっている。
320 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:26
無視しきれないだけ大量のレスをつけるのよ、新井君は。
321 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 23:24
電波な鮮人は根拠も提示せずに、口から出任せを言う癖に、
正当な指摘にはエキセントリックな反応をするのがバカ丸出し。
鮮人は、古代から無知蒙昧な属国根性は変わっていないな。
だから、発展しなかったのも当たり前。
322 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 23:34
電波な鮮人は根拠も提示せずに、口から出任せを言う癖に、
正当な指摘にはエキセントリックな反応をするのがバカ丸出し。
鮮人は、古代から無知蒙昧な属国根性は変わっていないな。
だから、発展しなかったのも当たり前。
323 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 23:36
電波な鮮人は根拠も提示せずに、口から出任せを言う癖に、
正当な指摘にはエキセントリックな反応をするのがバカ丸出し。
鮮人は、古代から無知蒙昧な属国根性は変わっていないな。
だから、発展しなかったのも当たり前だな。
324 :
日本@名無史さん:2001/01/25(木) 23:46
なるほど、こりゃ大量だ(和良
325 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 00:04
324の鮮人は何らの有効な発言の出来ない痴呆だな、北鮮へ逝ってよし
古墳やヒスイ勾玉・漢式鏡などの考古資料、中国や日本などの文献とか、
ちょっとは勉強して発言しろよ。
まあ、マジメに勉強したら、鮮人には都合の悪いものばかりだから、
がっかりするだろうけどな。(わら
326 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 00:15
くれぐれも相手にするな。
327 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 00:21
新井は物量で押してくる。
まさに街宣ウヨクと一緒だな。
328 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 00:28
街宣ウヨクは、お前ら鮮人ヤクザばかりじゃないか。
オウムの村井を殺したのも、右翼団体構成員の鮮人だっただろ。
鮮人が日本の愛国主義者を悪く見せようと画策しているのはバレている。
お前らのような人間のクズは、いつまでも悪巧みの工作をせずに、
諦めて北鮮へ帰りなさい。
329 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 00:32
A君は世界史板でたたかれまくって、日本史板に逃げ帰ってきたわけだからねぇ。
新たにまともな邪馬台国スレも立ってることだし、事実上、ここは隔離スレでしょ。
A君、ずっとここにいていいから、他のスレに迷惑かけるのはよしなさい。
330 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 00:42
鮮人とその手先のブサヨクは、何ら意味のある発言をしないな。
邪馬台国の話をしたければ、魏志東夷伝はちゃんと読んでおくこと、
弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての、遺跡や出土品についての
勉強もしておくように。
鮮人とその手先のブサヨクは、無知でデタラメを垂れ流して、
こっぴどく叩かれて、逆上するだけの能なし。(わら
331 :
日本@名無史さん:2001/01/26(金) 22:19
332 :
クルッテル:2001/01/27(土) 10:12
北九州説だと思っています。
卑弥呼の墓も北九州のどこかに必ずあると思います。
宇佐神社やその近辺など未発掘の史跡が怪しいです。
大宰府も今とは違う考えの基にあったのではないかと、推測しています。
私が思っているだけで、ソースや歴史的証拠は完全ではありません。
333 :
日本@名無史さん:2001/01/27(土) 12:15
最初の巨大古墳である箸墓古墳は、場所・規模・時代・伝承から見て、
卑弥呼の墓の最有力候補
334 :
日本@名無史さん:2001/01/27(土) 13:49
332みたいな一応まじめな心情的シンパを
えーからかんな「歴史的証拠」で騙そうとするトンデモライター層が
支えてるんだよな。
いまや九州説は。
335 :
日本@名無史さん:2001/01/27(土) 21:31
九州説は完全に沈黙した。
336 :
日本@名無史さん :2001/01/27(土) 23:36
で、畿内なら、具体的にどこか特定するのにまた
紆余曲折があるんだろうな。
箸墓古墳も完全発掘調査せんとならんだろうし・・
337 :
解決黒頭巾:2001/01/28(日) 22:32
九州、西都原説こそ真実である。
畿内説はただのイミテーション。
338 :
名無し:2001/01/28(日) 22:59
このテーマで日本史のレポート書いたら成績下がった・・・。先生と考えが違ったのかな?
339 :
日本@名無史さん:2001/01/28(日) 23:31
>で、畿内なら、具体的にどこか特定するのにまた
>紆余曲折があるんだろうな。
そんなことはない。
土器編年から見て、最古期の前方後円墳は、奈良県の纏向地域に集中しており、
その中でも最古とされる纏向石塚古墳は、年輪年代で200年頃となる。
場所・規模・時代・伝承から見て、卑弥呼の墓の最有力候補は箸墓古墳ってこと。
>箸墓古墳も完全発掘調査せんとならんだろうし・・
現時点でも、墳丘や周濠出土の土器型式で、時代は絞られている。
また、墳丘の規模や形状も判明している。
340 :
解決黒頭巾:2001/01/29(月) 02:54
前方後円墳は、被差別部落民を従えた「秦王国」の築造。
畿内に発生したゲットーは、今もそのなごりを見せる。
ゲットーの住民が前方後円墳の築造に駆り出された。
前方後円墳の多さをもって、邪馬台国の存在地の証明にはならない。
341 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 03:05
ブサヨクは、解決黒頭巾の電波発言には何も言わないのが象徴的
342 :
名無史さん:2001/01/29(月) 03:53
>>333 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/01/27(土) 12:15
最初の巨大古墳である箸墓古墳は、場所・規模・時代・伝承から見て、
卑弥呼の墓の最有力候補
私もそう思うが、箸墓古墳も含めて天皇陵墓の学術調査が一向に実現しない現状では、邪馬台国論争に決着をつけることも出来ないのでは?
343 :
日本@名無史さん :2001/01/29(月) 06:05
箸墓古墳は卑弥呼の娘の墓だろ。
344 :
日本@名無史さん :2001/01/29(月) 06:32
>339
年輪年代ってなんで200年頃って判るの?
だって切られて柱になってしまったら、それ以後の
年輪は増えないだろ?
伐採時点の樹齢なら判るが・・・
345 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 06:49
>344
知らないことに首を突っ込んでるひまがあったら
検索でも何でも自分で調べてみたら?
あまりに悲しい質問だぞ。
346 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 06:52
>344
うろ覚えだが・・・
ひのきやこうやまき、杉などは年輪のパターンがあって、日本
全国で出土し各時代の板や丸木などを比較すると、パターンがか
さなる部分(同じ時期)があるので、それをつなげて行き、現代か
らたどって行くと、ある遺跡の実年代がわかると言うわけ。もち
ろん木材の再利用と言う場合もあるので決定では無いがかなりの
目安になる。
347 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 11:18
>>344、
>>346 今はもっと進んだ方法を取っている。
C14といって炭素の放射性同位元素は植物の生きている間は
地中から取り続けるが切り倒された時点からは減る一方だ。
この減っていく割合は半減期で決っている。
そこで木の細胞内のC14の含有量を調べれば、いつその木が
死んだかが推定出来ると言う訳だ。
ただし木の細胞は皮のすぐ内側だけが生きており、年輪の内部は
既に死んでいるから、木の皮の部分が残っていないと切り倒された
年は分からない。
今古墳の内部から発見されて3世紀初頭の木片として話題になった
物が木のどの部分なのかもはっきりしていない。
木の寿命は100年や200年はあるから、内側の方と一番外では
100年位違っている可能性がある。
この辺の詳細がはっきりしないと安易に古墳の年代を定める事は
出来ない。
348 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 17:44
>>347 それは、放射性炭素年代測定法じゃんか。上で話題になっているのは、年輪年代法のこと。
年々の気象の違いで、年輪幅が増減することを利用して、年代を決める方法のこと。
針葉樹が適しているようで、スギ・ヒノキ・コウヤマキが主な対象となっている。
一方、放射性炭素年代測定法も昔に比べて格段に進歩しており、加速器法が開発され、
mgオーダーの微量で測定できるようになり、埋没後の汚染の影響を除去できるように、
樹木の壊死後は生成されない、セルロースを抽出して測定するのが一般的になった。
人骨ではコラーゲンを抽出して行っている。
年輪年代と同じように、過去の14Cの変動パターンをマッチングさせて、精度を高める試みも進み、
出雲大社遺跡では、この方法が適用され、年代推定幅を大きく絞っている。
349 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 17:50
>>年輪年代と同じように、過去の14Cの変動パターンをマッチングさせて、精度を高める試みも進み、
>>出雲大社遺跡では、この方法が適用され、年代推定幅を大きく絞っている。
'00/12/9
出雲大社の巨大柱根伐採は鎌倉時代(中国新聞)
「町教委が依頼した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の今村峰雄教授を通じ、名古屋大の年代測定資料研究センターの中村俊夫教授らが鑑定した。
放射性炭素年代測定法は、年数とともに木の中の放射性炭素濃度が減少する原理を応用して判定する。五月に宇豆柱(うずばしら)から採取したうち、表皮部分を含む五カ所六点のサンプルを、採取位置の年輪などの条件を加味して総合的に解析。伐採で成長が止まった年代は一二三〇年で、誤差は前後十五年という結果が出た。」
350 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 20:59
>347
C14は液体シチュレーション法(うろおぼえ)では20年くらい
前から京産大理学部の山田治先生が有名だったよ。年輪が著名
になったのは奈文研の光谷さんが計測を始めてからで、割と最
近のことよ。だからカーボンの方が進んでるとは言えないと思
うよ。カーボンの精度も上がってるのは事実だけど。でもこう
やって精度があがっていくのはいいことだなぁ。
351 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 21:43
おいおい! だいたいC14のキャリブレーションはデンドロでやってるんだろ?
話が逆だよ。347はなんにも解ってないんじゃないか?
352 :
日本@名無史さん:2001/02/02(金) 16:24
>C14は液体シチュレーション法
最初は、木や骨を燃やして、気体の形で14Cがβ崩壊する放射線をカウントするのが主流で、
それでは感度が低いので、大量のサンプルからベンゼンを合成して、液体の形で測定する
方法が開発されたが、多量のサンプルを使うので、貴重なサンプルには不向きなことから、
廃れてきて、微量のサンプルで済む、加速器法が主流になっています。
353 :
名無しさん@1周年:2001/02/02(金) 20:02
伊勢の國
354 :
日本@名無史さん:2001/02/02(金) 21:30
>C14は液体シチュレーション法
正しくは「液体シンチレーション法」
液体シンチレーターという蛍光するどろどろしたのに検体を溶かしこんで、真っ暗なところに置いて、C14が自然崩壊して発生する放射線がシンチレーターにあたって蛍光する光の明るさを1週間ぐらいかけて計測する。
7年前のアルバイトで東海村の松の木(樹齢47年)の年輪1枚1枚はがしてやったなぁ。
木を測る場合はセルロースだけ抽出して、真空中でプラズマ燃焼し発生した気体を水素、二酸化炭素、窒素などに分離して水に二酸化炭素を溶かし込む。
屋久島の古代杉やらない?って言われたときはさすがに引いた。
縄文杉は特別天然記念物なのでたぶんサンプル切り出しは無理だろうけど。
これが実現していたら、発掘された古木の年代推定の精度が上がるんだろうな。
毎年世界のアルコール無添加加糖なしのワインを取り寄せて、アルコールだけを抽出しその年の産地の放射線量も測った。
あと、南極の氷という話もあった。年毎に層になってるから水に含まれる三重水素(トリチウム)の比率で空気中のトリチウムの変遷を求めておくことで、水素を含む生物や樹脂の年代を性格に推定する方法。
太陽活動や火山活動で大気中の放射性物質の量は変遷するから、こういった地道な測定で補正をし、より精度をあげる。
加速中性子当てて強制的に崩壊させるのが加速器法だっけ?
355 :
日本@名無史さん:2001/02/03(土) 01:40
>加速中性子当てて強制的に崩壊させるのが加速器法だっけ?
そうじゃなくて、質量分析法の質量分離の分解能を極限まで高めたもので、
14Cイオンと極めて質量数/電荷が近いイオンを、精度良く分離させるために用います。
356 :
日本@名無史さん:2001/02/04(日) 18:58
私は畿内と思ってるんですが、
宇佐神宮がやっかいですね。無視できない・・
>356
そうでしょ!
私も去年ぐらいから畿内説に自信がなくなりました.
>宇佐神宮がやっかいですね。無視できない・・
アホーーーーー
359 :
日本@名無史さん:2001/02/16(金) 23:45
age
360 :
日本@名無史さん:2001/02/16(金) 23:47
361 :
日本@名無史さん:2001/02/16(金) 23:52
岡山
362 :
日本@名無史さん:2001/02/17(土) 19:04
>360
もう統一されてもた。根拠や理由も提示できない「邪馬台国はxxに決まっ
てる」君が大量が移って来てもう大変。彼らは議論とののしり合いを同
じだと思ってるから始末が悪い。
>361
岡山は可能性が高いね。前方後円墳はその祖形を備中・備前に発し→西
播磨→摂津・和泉→纏向と移って究極を迎える。纏向を作ったのは吉備
の王権。庄内式土器は吉備の土器作りの究極化だし、前方後円墳の初期
祭祀はまさしく吉備のもの。もう近畿的な伝統はほぼ無くなってるし。
ただし魏志にある邪馬台国はおそらく地名なので奈良で良いと思うが、
大和王権を作ったのは吉備の勢力の可能性が高い。
363 :
日本@名無史さん:2001/02/17(土) 19:09
徳島の影響も指摘されてますね。播磨も。
環瀬戸内地域(とくに東部)の連立政権で吉備が最大派閥といったところでは?
364 :
日本@名無史さん:2001/02/18(日) 00:54
吉備団子
365 :
日本@名無史さん:2001/02/18(日) 12:54
徳島阿波をどり
366 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 05:34
岡山はねーだろ、岡山は
367 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 10:20
邪馬台国は畿内説が定説化した。
決定打は古墳の絶対編年が繰り上がったこと。
邪馬台国=初期の大和王権で卑弥呼の墓は同時代の前方後円墳箸墓
卑弥呼=倭迹々百襲姫、台与=豊鍬入姫
倭迹々百襲姫は崇神天皇の大叔母なので3世紀前半に在位した卑弥呼と時代的に
一致する。
368 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 10:24
>>367 普通に考えればそうでしょ。
確かに畿内とは言い切れないけど、どう贔屓目に見ても畿内である可能性が一番強い。
だけど、こじ付けの根拠で絶対に九州だ!とか言い張る人がいる。
ハァーッ・・・不毛だな。
369 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 20:48
>363
徳島は荻原1号墓を庄内にするのか、布留にとるのかで大きく異なると思う
けど、いずれにしても播磨も含め吉備の勢力圏でしょうね。徳島の特殊な
小型丸底壺を、のちの布留で完成し広く分布する小型丸底壺の祖形のよう
にとる人もいるけど、私は萩原もそれも布留以降だと思うなぁ。
>366
岡山で無いという根拠または理由は?
>367
考古学のことわかってないねぇ。考古データと日本書紀の記述が
合致する実例なんて無いでしょ?
370 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 13:39
九州王朝とは直系でつながっているんでしょうか??
371 :
邪馬台国?クダラネ-。:2001/02/22(木) 23:31
邪馬台国?そんなのないでしょ。卑弥呼?そんなのいないでしょ。
多分、女性の統治者を頭にしてた国はあったのでしょうが・・・。
大体、もとネタの魏志倭人伝が当てにならない。当時の中国は自分が中心で、
まわりは蛮族という考え方だから、国の名前に邪なんて字を当てるし、
女王に卑しいなんて字を当てる。しかも場所の記述なんて、更に当てにならない。
いまだに、日本は中国と地続きだと思ってたり、チョンマゲ結って刀差してると
思ってる、外国人と同じよな感覚で書かれたものだと思うので当てにならない。
これが私の考えです。
372 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 23:36
鳥島
373 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 23:36
>>371 はいはい、電波を発生せずにお休みなさい。
374 :
邪馬台国?クダラネ-。:2001/02/23(金) 00:12
サイコで電波なお前に言われたくねーよ!大体やたら書きこみ多いよな。
ネット犯罪とかやってそう・・・日本@名無史さん。
375 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 06:37
>371
あるかないかも含めて学術的に検証するのが学問です。
あなたのは想像と思い込みにすぎません。過去の学説を
あたり、そして実例を上げてから論理的に説明してくだ
さい。
376 :
375:2001/02/23(金) 06:41
>374
「日本@名無史さん」は名前のところを空白にして書き込むと
自動的つけられる名前です。同じ人の場合もあるでしょうけど
違う人間であることがほとんどです。
377 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:10
>>374=371
「日本@名無史さん」は一人だと思っている厨房発見。(藁
378 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:14
>まわりは蛮族という考え方だから、国の名前に邪なんて字を当てるし、
そりゃ韻書の文字列の頭の文字だから機械的に表音・音写に使われるだけで
侮蔑の意志を表してるわけじゃない。卑弥呼の「卑」も同じ。
だいたい古事記だって「伊邪那岐命」なんて書いてるでしょう。
379 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 00:47
当時、表音/音写でもちいる漢字の一覧とかあったのでしょうか?
380 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 03:30
かなりの確率で後世の韻書の小韻筆頭と一致するので
発音別漢字一覧表の存在が推定されています。
そうかもしれないけど、やっぱり悪意があったと思う。
現代でも中国はアメリカは美国だしフランスは法国だけど
発展途上国には良くない名前をつけてたと思う。
(中国語わかるひといない?)
日本も昔は一等国は米国や仏国で、それ以外は吐耳古とかだったし。
それにしても「蒙古」はないよな。
日本ぐらいはやめたいね、こういうの。
382 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 05:06
台湾人の在日研究家だったか、卑弥呼の「卑」は酒坏の意味も
あるのでけっして差別文字では無いとたった一文字ですべてを
否定してるけど、新の王莽だったか「高句麗を下句麗と呼べ」
と命令したり、中国自体が外国を「四夷」とするなど、当時の
中国人の上層部に差別意識が無いと言えば嘘になると思います
よ。やはり。なにせいまだに中華思想の強い国ですからね(苦笑)
>380
そのソースとなる研究があるのですか?論文等教えていただける
と幸いです。
383 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 07:32
>>381,
>>382 いろんな時代の話をごっちゃにしても…
まず新の王莽の場合は例外で、だから文字の改正も一代で終わり伝統的表記にもどった。
それから意図的に悪い字を当てるようになったのは明清か、
どんなに早くても宋代でしょう。
卑弥呼の「卑」は神事で使う呪具の酒坏の意味もあり適切な当て字だ
という説は勘ぐり過ぎ。ただし意図的な侮蔑ではないことは確か。
384 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 10:38
>>382 尾崎雄次郎の論文(「人文」16所収)です。
385 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 20:01
>383
ありがとうございます。確か京大のかたでしたね。
入手できるかなぁ・・。
それと確かとか断定されておられますけど、それほど
この研究は学会に認められているのですか?一覧表の事
もここに書かれているのですね?
386 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 00:11
邪馬台国は房総半島にあった
387 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:03
暴走するなよ!
388 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:07
邪馬台国は新潟県栃尾市にあった
389 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:11
(に)いーが(た)げんにしてくれ!
390 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:11
邪馬台国はグアム島にあった
391 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 02:17
そんなハズ あンめりが!
392 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 09:42
>386〜391
このような愚劣で面白くもなんともない低レベルな親父ネタは真摯
に検証・議論しようとする人たちにとって邪魔でしかありません。よ
く恥ずかしくないですね。私なら書き終わった後、顔を真っ赤にして
手足をジタバタさせますよ。こんな昭和40年代までの駄洒落ネタはも
うひとつの邪馬台スレで好きなだけやってください。そこにはもうあ
なたのお仲間しか残っていませんから。
393 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 10:03
冗談はやめてくぁんさい説!
394 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 23:48
>>392 おめーえらそうなこと逝ってるけどよー、
最初っから2ちゃんでマトモな議論しようって方もどうかしてねえ?
395 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 02:37
苦肉の「偽僭説」というのがあったけど、
なんだか馬鹿に出来ない気もするこの頃。
396 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 04:21
>>395 そお? もしや九州説のおかた?
邪馬台国=大和朝廷でいいような気がするけど(当方、畿内説)
397 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 16:20
>>394 成人式でクラッカ−鳴らしてたドキュンだろ。
「成人式でマトモに市長の話なんか聞くと思ってんのかよ」とか言って。
394のIQ<90にクニ一つ
398 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 19:33
>394
2ちゃんだからまともな議論するのはおかしいと誰か決めたのです
か?まともかまともで無いかはスレの内容によると思いますけどね。
第一多くのスレでまともじゃ無くしているのはあなたのようなIQの
も人間的なレベルも低い人間が子供じみた下劣な書き込みをするか
らでしょ?
399 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 02:43
物部の子孫に伝わってる文書には、このあたりのことどう書いてあるの?
400 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 03:53
古田武彦先生がすべてご存じです
401 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 04:54
402 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 18:24
石上さんでしたっけ?が持っている文書かな。
あと秋田の方にも文書を持っている方おられませんでした?
403 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 18:56
みんなニセモノだよ。
404 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 13:36
まるっきりの偽物というわけでもあるまい
なんらかの古文書があってそれに後世手を入れたため偽書とされてる部分がある
405 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 13:48
↑典型的「と」じるしの常套文句
具体的にどの部分が本物でどの部分が偽物なのかいってみろ。
406 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 18:39
>>405 う〜ん。もし偽書だというならば、どの部分が偽物で、
しかもどうして偽物なのかを、正しい資料を示していただけませんか。
407 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 19:38
本物だって前提で話を進める人に立証義務があるんだよ。
408 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 21:11
偽物だと主張する人はちゃんと指摘して理由を示す義務があるんだよ。
409 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 21:17
本物という根拠も示さず引用するトンデモさんが責任転嫁する常套句
410 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 01:41
とりあえず
>>407が古事記が本物であるという立証をしてくれ
411 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 01:45
本物なのか?誰が本物だって言った?
ん? 古事記の話なんかしてたか?
ξξξξξξξξξξξξξξξξξξξξξ
ξξξξξξξ煽り警報発令!ξξξξξξξ
ξξξξξξξξξξξξξξξξξξξξξ
413 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 13:37
本日,邪馬台国の真実が学会に発表されました
邪馬台国とは、池袋西口周辺に存在してたそうです
ちょうどあのあたりには乞食もいることだし、だから古事記か・・・
おもしろくない。
たまにゃギャグもいいけど、ちゃんと笑えるのを頼むゼ
つまんねーんだよ
415 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 01:46
さるべーじ!
416 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 05:15
卑弥呼って魏に書を奉ったの?
それを起草したとしたらどの辺の人間かな・・・
417 :
日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:52
卑弥呼の手紙なら卑弥呼の部下じゃないの?
418 :
バカボンのパパ:2001/03/09(金) 04:13
416の質問に対する答えが417。これでいいのだ
419 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 06:53
「どの辺」って、なに国人かって聞きたい問いなんじゃないの?
楽浪系韓人の雇われ書記さんとか、そういうことでしょ?
420 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 23:17
中国系だとおもいますよ
421 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 05:18
だいぶ後でも下っ端役人は帰化人系の氏族と決まってましたね。
大陸系か半島系かというと、新羅征伐の伝説に早くも秦氏が登場するからなあ。
半島系が重用されるのは白村江の戦い以降かもね。
422 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 20:45
半島系のほとんどは百済系だと思いますよ
423 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 20:52
くだらないね。
424 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:29
高句麗系もあるでよ
425 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:31
こっくりさん。
426 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 21:56
427 :
日本@名無史さん:2001/03/13(火) 22:40
海に沈んだ
428 :
日本@名無史さん:2001/03/14(水) 00:04
4271はダメだ。話の流が見えてない!
正しい答えは おら、知らんぎゃ! だ。
429 :
日本@名無史さん:2001/03/14(水) 00:05
カンコック
430 :
日本@名無史さん:2001/03/15(木) 13:33
>>421 白村江のときにやってきたのは百済系だと思いますが、
そのあとで新羅系が来た可能性があるとしたらそのわずかあとの短い間しか、
政治情勢的にはあり得ないと思います。
431 :
421?:2001/03/15(木) 21:30
421は俺が自分で書いたのか、他人のだけれど意見が近いだけなのか
うろ覚えだけど、仮に俺だとしいぇいう。
421がいっている半島系というのは百済系を念頭においたもので
新羅系のことは意識してなかった。
432 :
日本@名無史さん:2001/03/19(月) 19:36
半島といっても百済と新羅は成立の家庭も民族も言語も異なる
百済系は日本が吸収した
新羅は朝鮮になった
433 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 13:25
日本書紀を書いた人達は邪馬台国のことを知っていたんでしょうか
434 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 13:27
400年以上も前のこと、知ってるわけないじゃん。
435 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 11:42
知ってたからこそ「魏志に曰く」って注がついてる。
奈良時代の人間だって三国志くらい読んでたろ。
436 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 11:55
邪馬台国が畿内か九州か決着ついたら
自民党はどうなりますか?
437 :
日本@名無史さん:2001/03/21(水) 15:32
>>436 畿内(大和周辺説)が勝利すれば自民党は滅びます。
九州説が勝利しても自民党は滅びます(萎
438 :
日本@名無史さん:2001/03/22(木) 01:17
>>435 そりゃ読んでたけど、自分達の記憶としてあったかということなの。
439 :
日本@名無史さん:2001/03/23(金) 12:37
440 :
とおりがかり:2001/03/23(金) 13:22
畿内説 vs 九州説
どっちもはずれか、両方ともあたっていれば
自民党はどうなるの?
441 :
日本@名無史さん:2001/03/23(金) 13:35
>440
自民党は人民党と改称します。
442 :
名無しさん@1周年:2001/03/23(金) 13:36
畿内だったら日本書紀の筆者もそう書いてるよ。
443 :
日本@名無史さん:2001/03/23(金) 23:35
だから400年以上も前のこと覚えてるわけない。
って、どうどうめぐり。
おぼえてないんだと思いますよ。
だからって邪馬台国が畿内ってわけじゃないですけど。
444 :
日本@名無史さん:2001/03/24(土) 13:46
自分達の記憶を再編集したのがつまり古事記日本書紀なわけで、
魏志倭人伝の記述はあくまで他者の視線なわけだから。
中国人からみて特筆するに値すると思った部分と、
自分らとして記憶に残るべき重要な部分とが、
一致するとは限らない。
445 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 14:15
この頃は九州も畿内も同一政権だったんじゃないかな
ただしその後で分裂した可能性が高い
446 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 21:31
>ただしその後で分裂した可能性が高い
ハァ?
具体的にいつの時代まで同一政権で、いつごろ分裂したと見てるわけ?
そのへん言わないと、賛同も反対ででけまへん。
ハァ。としか言えないね。
てst
448 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 19:14
九州王朝を否定する奴って感情的な奴が多いね
449 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 21:00
九州王朝を主張する奴って白痴的な奴が多いね
450 :
日本@名無史さん:2001/04/02(月) 11:05
451 :
名無しさん@一周年:2001/04/02(月) 13:57
452 :
日本@名無史さん:2001/04/02(月) 19:38
453 :
日本@名無史さん:2001/04/11(水) 21:13
九州王朝を否定したいけど、当時の記録は、九州王朝に味方するものばかり‥
454 :
日本@名無史さん:2001/04/11(水) 22:35
ウソウソ。そんな記録なにひとつないよ
なに幻視してるやら
455 :
日本@名無史さん:2001/04/12(木) 19:31
邪馬台国論争は個人的にはどうでもいい
456 :
日本@名無史さん:2001/04/12(木) 19:51
魏志倭人伝なんてマルコポーロの東方見聞録みたいな物だろ
あまりマジで受け止めない方がいいよ
今だってなんちゃって日本が海外にオモシロおかしく紹介されたり
するんだし・・しかも中国だよ
457 :
日本@名無史さん:2001/04/13(金) 02:47
邪馬台国は奈良を中心とした関西圏の国にきまっとる。
それを神武天皇率いる九州軍団が攻撃して、
邪馬台国は滅んだのじゃ。
かんたん、かんたん。
458 :
日本@名無史さん:2001/04/13(金) 02:57
459 :
日本@名無史さん:2001/04/13(金) 13:23
460 :
457:2001/04/13(金) 18:24
んーにゃ。神武ばい。
461 :
日本@名無史さん:2001/04/14(土) 20:11
邪馬台国が奈良は謎が残るだけだ。
462 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 08:35
>魏志倭人伝なんてマルコポーロの東方見聞録みたいな物だろ
違います。
国家の威信を懸けて出来るだけ正しく記載した国書のようなものです。
463 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 09:27
邪馬台国が九州は夢が残るだけだ。
464 :
九州@名無史さん:2001/04/20(金) 18:32
ここは一つ、夢を求めて九州島内で候補地を探してみよう。
オレが候補として上げるなら、次の二つ。
福岡
魏志倭人伝の記事は当てにならないとばっさり切り捨て、
考古学的に見て九州で最も栄えていたと思われる福岡をとる。
卑弥呼の墓は、平原墓。(苦しいかもしれんが、無理でもないだろ。)
宮崎
唐津から南下して有明海を南に水行10日、熊本南部に上陸して一月。
考古学データを全て忘れてしまえば、全体として南に移動してるし、
九州島内にしては水行10日陸行一月がなんとなくおさまる。投馬国は傍線行程。
後になって、国内有数の古墳密集地となる理由にもなる。
465 :
日本@名無史さん:2001/04/20(金) 20:47
なんか、ぜんぜん生産的な議論に展開してかないな。みんなネタ切れかな?
>>464 学問的な追究を棚上げして夢の話するなら、九州説なんかほっとんて
>>386邪馬台国は房総半島にあった
>>388邪馬台国は新潟県栃尾市にあった
とか「朝鮮満州国境の通溝桓仁付近説」とか「ジャワ・スマトラ説」とかの方が断然おもしろいだろう。
466 :
日本@名無史さん:2001/04/20(金) 22:02
>>464 倭人伝をばっさり切り捨てないと福岡にならなくて
考古学データを全て忘れないと宮崎にならないという
九州説に未来はなさそうだ。
467 :
九州@名無史さん:2001/04/21(土) 00:20
まあ、そういわずに。どのみち九州説側からはいくら待っても何も出てこないんだから。
そこで、こっちから候補ぐらいは立ててやってせめて2ヶ所か3ヶ所に絞りたい。
そうでもしないと、禅問答みたいで議論にならない。
>>465 ごもっとも。でも、不幸なことに、九州説の連中が少なくない数実在するのも現実。
で、この人たちを議論にひき出さないことには、始まらない。
468 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 00:53
耶馬台国が九州にあったとしたら、その邪馬台国を攻めた
狗奴国はどこよ。
どこよ。どこ?マジどこ?沖縄かい?
469 :
解決黒頭巾:2001/04/21(土) 01:51
>狗奴国
沖縄を本拠地に、「国分」をその分国の首都とした。
もちろん「邪馬台国」の首都は西都原であり、卑弥呼の古墳は「男狭穂塚」である(5世紀築造はでっちあげ)。
卑弥呼と狗奴国の紛争は、このように国境を接していたが故に、その宗女「壱与」の時代にも続いたが、ついに彼女は対馬に拠を移した。
470 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 02:32
狗奴国についてもいろんな説あるけど、
九州説の中では熊本県内で球磨郡=狗奴、
キクチヒコ=菊池郡の前線指揮官(?)
とするのがメジャーでしょうか?
この説と邪馬台国畿内説とのカップリング
もあった気がするんだけど?
471 :
Henton:2001/04/21(土) 13:08
考古学的に言えば、庄内式土器は九州から大和に伝播したものであり、
九州説が正しいと思います。
472 :
Henton:2001/04/21(土) 13:30
池上曽根遺跡のIV-3が紀元前56年ごろのものだとしても、古墳時代の開始が
直ちに3世紀半ばと言うことにはなりません。一部の学者がそう言っているに
過ぎず、すぐにそれを信じて「畿内説」を信じるべきではない。
473 :
Henton:2001/04/21(土) 13:31
結局、今までの考古学の年代推定がいかにあてにならないか、
示しているに過ぎない。騙されてはいけません。
474 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 14:01
471〜473はうそばっかり。九州説のインチキさを象徴するカキコだ。
475 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 14:11
突然結論一本槍で、根拠を言わない九州説の典型だな
476 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 14:29
>>471 では「考古学的にいって」などとハクをつけようとして、
>>472 では畿内説の根拠は考古学者の間で少数意見だと言って、
>>473 では考古学はアテにならないと言ってるよ。
分裂症かな?
477 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 15:03
469や471みたいな電波は無視して次いこう!
まともな九州説支持者もいるはず。
478 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 15:38
479 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 19:34
なんですくばれる嘘ついちゃうんでしょう?
480 :
法師:2001/04/21(土) 20:00
陳寿先生の三国志に見える「邪馬台国」は、九州の割とローカルな
政権ということでよろしいんではないかと。
畿内だとしたら、その当時に少なくとも西日本の相当部分を席巻す
るような政権があったということになっちゃいそうな。それって、
ちょっと難しいんではないかと思いますが。
481 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 20:17
難しいって理由は?
482 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 22:04
みんな素直じゃないね。
大和=耶馬台
こんな一致する、図星に一致する地名が他にあるかい?
銅鐸文化圏が耶馬台国でそれを攻撃した狗奴国が鉄器文明をもった
九州地域にあった。
こう考えるのが、まともな思考じゃないの?
483 :
法師:2001/04/21(土) 23:18
「難しい」って理由
ちょっと遠すぎると思いますが。その時点の段階では。
航路が瀬戸内なら、大部分を席巻してないと途中でや
られるわけですし。
484 :
法師:2001/04/21(土) 23:23
邪馬台国の読み
「ヤマタイ」じゃないから、必ずしもそっくりとは
いえないと思いますが。
あと、当時の時点でヤマト地方のことを「ヤマト」
と自称していたという傍証ってありましたっけ?
仮にあったとしても、九州のほうになかったとい
うことにはならないですけど。
485 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 23:26
九州人は昔からけんかが強いのだ!
鉄器数も関西よりダントツで多いのだ!
そんな九州に耶馬台国という女酋長の戦の弱い国があったと
するのは、九州人に対する冒涜だ!
断じて告訴する。
486 :
法師:2001/04/21(土) 23:43
「戦の弱い」?
九州説に立つなら九州の大半を席巻したわけですから、
邪馬台国が特に弱いということはないんじゃないかと
思いますが。女王といっても、いわゆる象徴みたいな
感じではないかと。
487 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 23:52
もし耶馬台国が九州にあったとすれば、戦争の救援を求めに
なぜ、外国の魏に行くのか?
山口県や、広島県、四国あたりの人間に救援を求めるのが普通だろ?
九州以外に武装度が高い地域があるかい?
戦争は武装度で決まるのが常識だろ?
あんたたち、本当に歴史の授業時間寝てるんじゃない?
耶馬台国が関西にあって九州から攻撃受けていたからこそ
はさみうちしてくれるように、魏に救援を求めるという発想が
すごく理にかなってるんだよ。
わかんないかなあ・・・。
488 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 23:55
もし耶馬台国が九州にあったとすれば、戦争の救援を求めに
なぜ、外国の魏に行くのか?
山口県や、広島県、四国あたりの人間に救援を求めるのが普通だろ?
九州以外に武装度が高い地域があるかい?
戦争は武装度で決まるのが常識だろ?
あんたたち、本当に歴史の授業時間寝てるんじゃない?
耶馬台国が関西にあって九州から攻撃受けていたからこそ
はさみうちしてくれるように、魏に救援を求めるという発想が
すごく理にかなってるんだよ。
わかんないかなあ・・・。
489 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 23:57
>>483 畿内説だと邪馬台国は播磨あたりから東瀬戸内を含むし
残りの瀬戸内は投馬国というような広域を考える人が多いから
ぜんぜん難しい話じゃないわけですが?
遠いから一大率みたいな出先機関を置いたということで首尾一貫してるでしょ?
490 :
Henton:2001/04/22(日) 11:23
>>478 根拠は?
庄内式土器も須恵器も九州の方が古いものが出てるでしょ?
>>476 >考古学はアテにならないと言ってるよ。
年代推定についてはあてにならないといっているのであって、
考古学自体あてにならないといっているのではない。
日本語分かる?
491 :
Henton:2001/04/22(日) 11:25
>>488 外交って言うのは外国に救援を求めるためだけにやるのではない。
小学生でも分かりそうなことだが。
492 :
Henton:2001/04/22(日) 11:34
>池上曽根遺跡のIV-3が紀元前56年ごろのものだとしても、古墳時代の開始が
直ちに3世紀半ばと言うことにはなりません。
池上曽根遺跡の件については、3回改修した際に、古材使いまわしたということで
落着したみたいですね。
493 :
Henton:2001/04/22(日) 11:37
結局まともな反論が返ってこないということは、この板の住人って
一部考古学者の言うこと鵜呑みにしてたっていうことね。
494 :
Henton:2001/04/22(日) 11:58
考古学の土器の編年や年代推定があてにならないというのは、C14の測定
に頼っているからというのも、一つの理由ですね。場合によっては
50〜100年近くも誤差が出てくる可能性もあるのでは?
495 :
法師:2001/04/22(日) 12:36
「なぜ魏に行ったか?」
それ、重要ですね。畿内だったら、なおさら理由が分からないと
思いますが。
496 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 12:36
>>490 また嘘でしょ?嘘がすくだね。実例をあげられるの?
>>494 これも嘘でしょ。ほんとに嘘が好きだね。
考古学のことなんか何も知らないんでしょ?ただ否定したいだけ。
「一部考古学者」とか言って矮小化するのもまた嘘。
証拠あげてごらんよ。
どうしてそんなに嘘つきなの?
病気?
497 :
法師:2001/04/22(日) 12:44
「一大卒」
これは、日本語漢文式ではない中国語式に読めば「一大の
卒」で、「卒」というのは「(軍事関係の)指導者」のこ
となので、「一大」が「壱岐」であることはまず動かない
としたら、瀬戸内を、はるか先の壱岐のスタッフに管理さ
せたことになっちゃいますが。
九州の範囲の話だったら、まだ分かりますね。そのばあい、
一大の卒が率いるところの軍は、壱岐に駐在の海軍(海兵
隊かな?)ということになりそうですね。
498 :
Henton:2001/04/22(日) 12:45
やっぱり、決め付けだけですね。
洗脳された人間によくいるタイプ。
嘘だと思うなら自分で調べなさい。
499 :
法師:2001/04/22(日) 12:47
「外交」
「外交って言うのは外国に救援を求めるためだけにやるのではない。」
とおっしゃるのは、一般論としてはその通りなものの、陳寿先生によ
るなら、救援を求めたけど断られて、鏡をくれてお茶を濁されたそう
ですが。
500 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 12:48
>>493 ぷぷっ 「まともな反論」だって!」
証拠も示さず嘘垂れ流しのあなたには『証拠をあげろ』の一言でいいじゃん。
501 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 12:50
>>498 ほーら!結局ごまかしに出た。
証拠が示せないんでしょ?嘘だから。
502 :
法師:2001/04/22(日) 12:54
「C14の測定」
温度によって変動するので、結果として古ければ古いほど、
その間の気候の変動で誤差が出るから、ウノミにできない
とかいう話ですね。
503 :
Henton:2001/04/22(日) 12:57
はあ証拠?
どう示せばいいの?
URLでは示せないよ。
で、資料引き写したら、あなたは信じるのか?
504 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 12:57
C14は結局あまりアテにされてないだよ。
土器編年がC14に頼ってるから不確かだなんていうのは大ウソ。
505 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 12:59
506 :
Henton:2001/04/22(日) 12:59
結局、信じられない奴の情報だから信じないとか言い出すんでしょ?
じゃあ、証拠示そうが示すまいが同じじゃん。
507 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:02
>>506 と言って逃げるわけね。証拠示さずに。
つまり嘘だったって告白したということだね。
508 :
Henton:2001/04/22(日) 13:02
>C14は結局あまりアテにされてないだよ。
ならば、もっとあてに出来ないですね。
池上曽根遺跡の年輪測定で揺らぐようなものなのでしょ?
509 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:06
池上曽根遺跡の年輪測定で揺らいだって証拠は?
510 :
Henton:2001/04/22(日) 13:09
511 :
Henton:2001/04/22(日) 13:11
結局何も知らない奴とは議論にならないと言うことか。
はいはい、勝手にやっててください。
512 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:14
捨て台詞かな?
証拠示さずに逃げるばかり。
証拠なんかないんでしょ?
嘘だったんでしょ?
正直に告白しろよ!
513 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:22
結論書き捨て九州説。
証拠は絶対示さない。
なぜ? なぜって、それは嘘だから!
514 :
Henton:2001/04/22(日) 13:29
じゃあ証拠がないという証拠を示せよ!!
お前が信じられないと言うのが唯一の証拠でしょ?
どーせ。
515 :
Henton:2001/04/22(日) 13:32
池上曽根遺跡の年輪測定について何も知らない奴になんか
言われたくないなあ。
516 :
法師:2001/04/22(日) 13:33
517 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:35
でたらめな誤情報を垂れ流して
証拠を示せと言われると言を左右して示さない。
あまつさえ「証拠がないという証拠を示せ」と言い出す。
このでたらめぶり!
自分の書いたことの責任くらいとれないの?
518 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:37
>>515 なんか知ってるなら書けば?
嘘だから書けないんでしょ?
519 :
法師:2001/04/22(日) 13:40
520 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:43
あっちの方にはうそつきはいないんじゃない?
521 :
法師:2001/04/22(日) 13:44
続きは、この「結局、邪馬台国はどこにあるの?part3」
でかまわない…というか、こちらでないといけないわけ
ですね?
522 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:49
あなたはまともっぽいから、今までの問題提起をあっちに転載したら?
523 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 13:59
読んでて不思議です。
Henton氏はどうしてそう徹底して自分の主張してることの根拠を隠しとおさにゃいかんのか?出典を頑として公表することを拒むのか?
好意的に考えるなら、書いちゃったあとで調べたら記憶違いだったことがわかっちゃったのか?正直かいたほうがいいと思うけど…
524 :
板東三津痔郎:2001/04/22(日) 14:09
西成
525 :
Henton:2001/04/22(日) 14:13
>>523 別に隠していませんよ。
今手元に資料がないので、後日調査して書き込んでも良いですけど。
526 :
Henton:2001/04/22(日) 14:23
簡単にいってしまえば、近畿だけでなく北九州からも大和型の
庄内式土器が出土しており、河内型より大和型のほうが形式的
にみて古い。では、大和型庄内式土器の発生は大和か北九州か
と言うことが問題になっているわけですね。
527 :
Henton:2001/04/22(日) 14:27
C14測定については考古学者の言っていることより、
まだ信用できると思うのですが、やはり誤差も多い。
そう思います。
528 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 14:35
興味あります。出典を詳しくおねがいします。
529 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 14:52
>>494 考古学の土器の編年や年代推定があてにならないというのは、C14の測定
に頼っているから
>>527 C14測定については考古学者の言っていることより、まだ信用できる
おい! 言ってることが矛盾してるだろ!また分裂症か?
>>525 別に隠していませんよ。 今手元に資料がないので、後日調査して書き込んでも良いですけど。
やましいことがないんならチャンと発表しろよ。
でないとずっと嘘つきと呼び続けるからな。
どんな少数説をほじくりだして来るか俺も楽しみだよ。
九州説の特徴は
証拠を示さない > 示せと言われると悪態をついて消える
だからな。
530 :
Henton:2001/04/22(日) 14:59
さらにいえば、河内型は九州からほとんど出土していないんですよ。
ということは河内型庄内式土器が畿内で発展していた頃、4世紀初頭
になっても畿内勢力が九州に勢力が及んでいなかったことを示して
いるように思うんですけど。つまり、畿内説はほとんど成り立たな
いのでは?
531 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 17:23
だから嘘ばっかり書いてないで出典を示せよ!
「今手元に資料がないので、後日調査して」なんだろ?
なんで内容は書けるんだ?
532 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 21:47
激論になっていますね。
でも、九州で布留0以前の庄内甕が発見されているのは比恵・那珂遺跡群など極めて限られた地域だけで、畿内からの搬入と考えられています。
様式的にも庄内U〜Vですから、庄内式土器が九州起源などということはありえませんし、当然認められてもいません。
いったい誰がどんな発掘事実に基づいてそんな説を唱えているのでしょうか?
533 :
Henton:2001/04/22(日) 23:13
>でも、九州で布留0以前の庄内甕が発見されているのは
>比恵・那珂遺跡群など極めて限られた地域だけで、畿内
>からの搬入と考えられています。
それは明確に嘘ですね。
私の記憶している限り、北九州の広範囲、確か17箇所から
発掘されていますよ。
534 :
Henton:2001/04/22(日) 23:28
あと河内型庄内式土器が、九州から出土していない理由は畿内説から
どう説明するおつもりですか?
535 :
Henton:2001/04/22(日) 23:28
あと河内型庄内式土器が、九州から出土していない理由は畿内説から
どう説明するおつもりですか?
536 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 23:29
嘘とおっしゃるなら実例を挙げていただけますか?
537 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 23:44
河内系式の庄内甕は津古遺跡周辺でTB期ごろから出ています。
もちろん全体としては庄内大和甕のほうが多いですが、どちらも九州外からの搬入から始まって、やがて九州内で作られるようになっていくことは確認されています。
だから九州で1番大きな古墳が宮崎にあるだろう。そこが卑弥呼の墓だ。
だから邪馬台国は西都原。
539 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 00:47
九州説の恥部、黒酢菌登場!
539へ
同和の朝鮮人
黙れ!
九州説>暴論>やっぱり最後は荒氏に移行
542 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 16:46
Henton氏へ
>考古学的に言えば、庄内式土器は九州から大和に伝播したものであり、
証拠とか根拠とかということはおいといて、
いつ、どこで、誰が逝っていたのか非常に、非常に興味がある。
出典を教えてくれ。
少なくとも考古学者じゃないことは確かだろうね。
自称古代史研究家かトンデモ系ジャーナリストってとこじゃない?
544 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 20:27
銅鐸文化はどうして無くなったのか説明出来る?
九州勢力による進出以外考えられない。
545 :
:2001/04/23(月) 20:31
ここにもアズマいるの?
うざいやつ
546 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 20:51
>>544 じゃ銅矛文化はどうして無くなったのか説明出来る?
ありゃ。ひさしぶりにきてみたらHentonさんまだいたの?
屁理屈こねてつっかっかってないで早く病院に帰った方がいいよ。
まじめな議論よみたい人には迷惑なんだよ。わかる?
548 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 22:10
>546
あれま−、鉄器文化にかわった以外に理由があるの?教えて。
549 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 22:24
○○以外が考えられないって、知恵の不自由なひとだこと。
銅矛文化が無くなったのは畿内勢力による進出で
銅鐸文化が無くなったのが鉄器文化にかわったからだとか言っても
同じジャン。
550 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 09:23
またまた、変な論理。
「鐸」という文明の継続性と、銅と鉄の変遷と一緒にするかね。
551 :
549:2001/04/24(火) 10:35
な? 変な論理だろ?
銅鐸文化が無くなったのは九州勢力による進出で
銅矛文化が無くなったのが鉄器文化にかわったからだ
というのと同様に変だ。
552 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 15:25
>551
全く変だね!「銅鐸」は後世「鉄鐸」に変わってもいいんだよ。文明が
無くなったんでしょう。
553 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 16:28
畿内説の奴等、矢鱈証拠証拠と羽剤が、畿内だってなんの証拠もない。
畿内説の奴等は魏志倭人伝ちゃんとよんでいるのか?
倭人伝には畿内に邪馬台国がなかったという証拠はいっぱい書いてある。
九州説にも多少の疑問点が有るがそれは解釈で何とかなる。
畿内説は解釈ではどうにもならず「魏志倭人伝はでたらめが書いてある」
とか「陳寿が間違って書いた」とか云わざるを得ない。
「魏志倭人伝はでたらめが書いてある」とか「陳寿が間違って書いた」とか
云わずに畿内まで案内してみろ。
出来ないだろう。
554 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 17:14
>倭人伝には畿内に邪馬台国がなかったという証拠はいっぱい書いてある。
それを書いてごらん。 「南」以外にいくつ書ける?
いっぱい書いてあるんだろ?
九州説は分が悪そうですね。
どっちでもいいけど罵りあいにならないようにね。
喧嘩口論を楽しむために読んでるギャラリーもいるだろうけど(そっちへのサービスもだいじだろうけど)
興味津々でみてる素人系の古代史マニアの知的好奇心を裏切らないようにお願いします。
556 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 18:52
それで、銅鐸文明はどうなったの、九州勢力に滅ぼされたんでしょう。
557 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 19:16
そういう根拠は?
558 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 20:19
559 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 21:06
理解力の無い人ですね、銅剣銅矛は鉄に変わったの!
銅鐸は鉄鐸にはなってないでしょう。銅から鉄への変遷と銅鐸の無く
なった事とを一緒にして、誤魔化し理論は展開しない事。
銅鐸の無くなった理由は文明の変化以外にない。
560 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 21:15
あのね〜
銅剣銅矛は武器型祭祀用青銅器なの。
鉄器化して消滅したんじゃないの。文明の変化なのよ。
基礎を勉強してね。
561 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 21:25
変トン氏の「考古学的に言えば、庄内式土器は九州から大和に伝播したもの」の情報源を発見!
斎藤忠「庄内式土器は北九州で生まれた」だ!
もちろん斎藤忠氏は同姓同名の考古学者(故人)じゃなくって
フリー・ジャーナリスト斎藤忠氏で、著書に「イエス・キリストの謎と正体」など。
>>506 の「結局、信じられない奴の情報だから信じないとか言い出すんでしょ? 」
という発言の真意を納得。
562 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 22:23
九州説は不勉強さんかトンデモさんってことね。い・ま・ど・き・・
>>523 Henton氏はどうしてそう徹底して自分の主張してることの根拠を隠しとおさにゃいかんのか?出典を頑として公表することを拒むのか?
>>525 名前:Henton投稿日:2001/04/22(日) 14:13 別に隠していませんよ。今手元に資料がないので、後日調査して書き込んでも良いですけど。
やっぱりその場逃れの嘘だったか…
564 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 23:55
銅から鉄への変遷って…
日本じゃ青銅器時代と鉄器時代は同時に始まったから
青銅器は最初から実用じゃなく祭祀用だった、って高校で習ったよ。
なんか、論争以前に勉強しろっていいたくなる奴が混じってるな。
565 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 01:34
ウゲゲ、そうだったのか。斎藤忠ね。
まさかあれを真に受けてるヤツがいようとは。
566 :
553:2001/04/25(水) 14:34
畿内説では狗奴国はどこに有る事になっているのかな。
邪馬台国は狗奴国に負けそうだからと魏に助けを求めているが、
北九州まで支配下に置くほどの大国を苦しめた国がどこに有ったと云うのだ。
邪馬台国は北九州の一地域の支配者だったからこそ熊襲あたりの攻撃に
苦しんだと見るのが妥当。
567 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 15:36
>狗奴国に負けそうだからと魏に助けを求めているが
九州説は創作が好きだね。
そんなこと倭人伝のどこに書いてあるのかな?
568 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 20:20
>>567 倭女王卑彌呼、狗奴國男王卑彌弓呼と素より不和にして、『倭の載斯烏越等を遣し、郡に詣り相ひ攻撃の状を説かしめたれば』、
塞曹掾史張政等を遣し、因りて詔書、黄幢を齎して難升米に拜假し、檄を爲して之を告喩せしむ。
『』内の文章は助けを求めたと解するべきだろう。
日本語が読めないのかな?
569 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 21:44
ダーメダーメ
「狗奴国に負けそうだからと魏に助けを求めている」と
どこに書いてあるのかな?
570 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 21:49
569は日本語読めない、理解が出来ない。
571 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 22:06
「互いに攻撃しあっている状況を説明した」と書いてあるだけなのに
「狗奴国に負けそうだからと魏に助けを求めている」と 読めちゃうわけかな?
書いてないことが幻視できちゃうのかな?
ああ、幻想の九州説!
572 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 22:26
よくいるんだよね。
「自分の解釈」と「事実」の区別がつかなくなっちゃうタイプって。
で、「決まってる」とか「そうとしか読めない」の連呼しかできないの。
573 :
553:2001/04/26(木) 15:36
いずれにしろ邪馬台国は狗奴国と戦っていて
魏は邪馬台国を応援するため、檄文を持ってやって来たわけだ。
邪馬台国は狗奴国とかなり切羽詰まった状態に有った。
畿内から北九州まで支配した大国の邪馬台国をおびやかした狗奴国は
いったいどこに有ったんだね。
574 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 15:52
「おびやかした」ってどこに書いてある?
575 :
法師:2001/04/26(木) 19:04
>>571>?さん
そうすると、「精一杯のお土産を整えた上で、はるばる外国までグ
チを聞いてもらいに行った」ということですね。
t(倭) 隣の悪い国が攻めてきて大変なんです。グチグチグチ。
(魏) やあ それは大変ですね。
「(倭) そうなんですよ。
t(魏) まあ お土産のお移りでも。
「(倭) あ 恐縮です。
…とマアこういう風に解釈しておられるということになりますね。
のどかで結構です。
576 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 19:18
倭国内部は邪馬台国を中心とする勢力と狗奴国を中心とする勢力に分かれてたわけだけど、
どっちが優勢だったかということは魏志倭人伝のは直接は明記されてない、ってことでいいですか?
魏としては邪馬台国を中心とする勢力を「正統の倭国」と認めて交通していたので
狗奴国を中心とする勢力については情報も少なかった、とか?
これでどうでしょう、賛成、反対いろいろ批評してください。
それから中国への朝貢については、必ずしも倭国側の都合ではなくて
中国側の内部事情=中国側からの要請もあってのことでしょう。(これは蛇足なのでレス不要)
577 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 19:24
倭の政権をおびやかしたのか?
中国への交通路をおびやかしたのか?
その解釈によっても、結論は全然違うぞ。
578 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 19:27
>畿内から北九州まで支配した大国の邪馬台国をおびやかした狗奴国は
>いったいどこに有ったんだね。
昔からある南九州説でも最近の東海地方説でもいいんじゃない?
さらにいえば四国伊予説でも、熊野説、毛野説でもいいような気がする。
対立勢力があったというだけなら、ね。
579 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 19:32
>>575 それはあなたの想像。
>>573 も想像。
九州説のひとは、史料でも他人の書いた文章でも、自分の想像で勝手にふくらませる傾向があるね。
580 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 19:46
>>575 韓国の反乱で帯方太守劉夏が戦死したときに援軍を送らなかったことを
後任の太守が赴任してきたのですぐに使者をやって弁明したって説もあるよ
どっちにしても、狗奴国に負けそうだったとか脅かされていたとかいうことは
文献には全く書かれていない
581 :
妄想:2001/04/26(木) 19:56
魏と呉の2大国の代理戦争状態とも考えられるぞ。
海上に強い呉なら日本=狗奴と交渉があったとも考えられるだろ。
582 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 20:04
どっちにせよ、こんなことを邪馬台国は畿内じゃなかった証拠だなんて言い出すのは
ちゅ ・ う ・ ぼ ・ う!
583 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 20:09
573=553氏と575=法師さんのおふたりは、
倭国が狗奴国問題を解決するために魏と通じたと思ってるようだが、
そういう理解でよろしいか?
もしそうなら、もういちど三国志をしっかり読みなおした方がいいのでは。
景初三年の朝貢は狗奴国問題と直接の関係はなく、
たんに公孫淵征伐で二郡のあるじが魏にかわったための挨拶だろう。
そもそも魏にとって倭国内の狗奴国問題が認識されるのは正始八年以降のこと。
魏にとっての当座の関心は諸韓国の安定であって、
正始六年の倭国への黄ドウ[巾童]下賜も、韓に対する役割を期待したもので
狗奴国にかかわるものではなかった。
しかしその後、正始七年には韓国問題は解決してしまったから
黄ドウ[巾童]は郡にとどめられたまま、倭国に渡る機会を逸していたのである。
ところが正始八年になって倭国の側が狗奴国の件を言い出して使者を出したので、
この始めて黄ドウ[巾童]が倭国に渡った。
倭国(邪馬台国)がはたしてこの段階で狗奴国問題で「切羽詰まって」
黄ドウ[巾童]の権威をたよろうとしたのか、
黄ドウ[巾童]を授かる機会を永遠に失うことを恐れて
狗奴国問題を言い訳に使ったのか、
魏志倭人伝の記載からはなんともいえないが、少なくとも
>>575で法師さんが書いてるようなくだらない話ではないだろう。
584 :
日本@名無史さん:2001/04/26(木) 20:20
なんちゅうか、九州説の人は「じぶんの解釈以外はありえない」って思い込む傾向があるね。
どこにも書いてないことでも平気で「○○は○○だ!」って言い切る。
585 :
553:2001/04/26(木) 21:25
じゃあ何でわざわざ
「倭の載斯烏越等を遣し、郡に詣り相ひ攻撃の状を説かしめたれば塞曹掾史張政等
を遣し、因りて詔書、黄幢を齎して難升米に拜假し、檄を爲して之を告喩せしむ。」
倭国中に「中国の大国魏が邪馬台国の味方だ。」と言うことを知らせなければなら
なかったのだ?
畿内説では合理的な回答は出きない事が解っている。
もう一つ畿内説に疑問を。
「東に千里余り海を渡るとまた国あり。みな倭種なり。」
はどう解釈するのかな?
畿内から東で渡海する必要のある所ってどこ?
>>584 は畿内説にそのまま当てはまることだ。
距離の単位が魏志の中で二種類あるとか、一部だけ大げさに書いてあるとか。
畿内に都合のいいように捻じ曲げて解釈している。
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国を探すのに魏志倭人伝を蔑ろにしている。
586 :
法師:2001/04/26(木) 21:40
>>576>?さん
>「魏としては邪馬台国を中心とする勢力を正統の倭国と認めて交
>通していたので 狗奴国を中心とする勢力については情報も少なか
>った、とか?
そういうことになると思います。
かつ、半島の少なくとも西側については、絶対安全かどうかは別
として、少なくとも、全力を挙げて通せんぼしようとする敵対勢
力の範囲ではなかったことになりますね。
同じく、邪馬台国の敵対勢力は、その時点においては、魏との交
渉はなかったことになりますね。邪馬台国に遮断されたと考える
のがシンプルですが、他の可能性もありますね。
587 :
法師:2001/04/26(木) 21:53
>>583>?さん
>573=553氏と575=法師さんのおふたりは、
>倭国が狗奴国問題を解決するために魏と通じたと思ってるようだが、
>そういう理解でよろしいか?
>もしそうなら、もういちど三国志をしっかり読みなおした方がいいのでは。
ご指摘有り難うございます。そうですね。文字通りにせっぱ詰ま
っていたなら、往復の安全が絶対確実とはいえない当時に、戦闘
員としても屈指であろう人材を海外に派遣するほど悠長なことは
していられないはずですね。ある程度の余裕があったということ
になりますね。
>魏志倭人伝の記載からはなんともいえないが、少なくとも
>575で法師さんが書いてるようなくだらない話ではないだろう。
そう思います。真相は、それらの間にあるということになりそう
ですね。
>景初三年の朝貢は狗奴国問題と直接の関係はなく、
>たんに公孫淵征伐で二郡のあるじが魏にかわったための挨拶だろう。
細かいようですが、その点に関しては、疑義があります。挨拶は
挨拶としても、国内に置ける地位に密接に関連した、下世話にい
うなら「箔を付ける」という「実利的な意味」もあるはずですね。
588 :
法師:2001/04/26(木) 22:07
>>581>妄想さん
「魏と呉の代理戦争」
ありえますね〜。直接的に代理したとはいわなくても、系統の点で、
何か「臭い」といえますね。
ただ、海軍力では、邪馬台国連合も生やさしいものではなかったは
ずで、そうでなければ半島との海峡を抑えることなどできなかった
はずですね。
589 :
法師:2001/04/26(木) 22:17
>>580>?さん
>どっちにしても、狗奴国に負けそうだったとか脅かされていたとか
>いうことは 文献には全く書かれていない
とすると、「何となくグチを垂れてみただけ」ですか? ホント
にそうお考えと受け取っちゃっていいんですか?
>魏志倭人伝に書いてある邪馬台国を探すのに魏志倭人伝を蔑ろにしている。
またこれかい。ヤレヤレ。誰かなんかいってやって。俺は疲れた。
591 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 01:30
>>589 >どっちにしても、狗奴国に負けそうだったとか脅かされていたとか
>いうことは 文献には全く書かれていない
という事実から、どうして「何となくグチを垂れてみただけ」が導き出せるのかな?
説明して!
話をもどすと、狗奴国について
>>566が
>畿内説では狗奴国はどこに有る事になっているのかな。
>邪馬台国は狗奴国に負けそうだからと魏に助けを求めているが、
>北九州まで支配下に置くほどの大国を苦しめた国がどこに有ったと云うのだ。
>邪馬台国は北九州の一地域の支配者だったからこそ熊襲あたりの攻撃に 苦しんだと見るのが妥当。
とかいたことに対し、畿内説の支持者ならば下の2行に反応することもできたのに、
>>567が
>>狗奴国に負けそうだからと魏に助けを求めているが
>九州説は創作が好きだね。 そんなこと倭人伝のどこに書いてあるのかな?
とウッカリ上の2行の部分に反応してしまったことから九州説がつけあがったようですね。
593 :
>590:2001/04/27(金) 01:33
>「東に千里余り海を渡るとまた国あり。みな倭種なり。」
>はどう解釈するのかな? 畿内から東で渡海する必要のある所ってどこ?
さあ。琵琶湖を渡ったのかも知れないし、日本は島国なんだから
北陸沿いでも東海沿いでも海路で東にいくことはできるでしょう。
>距離の単位が魏志の中で二種類あるとか、一部だけ大げさに書いてあるとか。
>畿内に都合のいいように捻じ曲げて解釈している。
少なくても「里」の単位については明らかにおかしな記述なわけだから
単位が二種あるか、なにかの理由で大げさにかかれたか、どちらかである。
これがどうしてねじ曲げなんだ?
倭人伝の里程を通常の「里」で解釈できると言い張る方がへんでしょう。
594 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 01:42
>>586 >同じく、邪馬台国の敵対勢力は、その時点においては、魏との交
>渉はなかったことになりますね。邪馬台国に遮断されたと考える
>のがシンプルですが、他の可能性もありますね。
狗奴国が九州にあったのなら、
魏より先に呉と関係を結んだという可能性も高いでしょう。
もっとも証明できる話でもないので、推測可能性程度にとどめておくべきですが。
>>585=553
>じゃあ何でわざわざ
>倭国中に「中国の大国魏が邪馬台国の味方だ。」と言うことを知らせなければなら
>なかったのだ?
それは邪馬台国側の都合としてはその方が有利だからでしょう。
それと魏としても建て前としては、邪馬台国側が正統だと認めているので
結果的に狗奴国は魏からみても反乱軍。邪馬台国側が勝ってもらわないと困る。
>畿内説では合理的な回答は出きない事が解っている。
え? 意味がわかりません。
邪馬台国が畿内だろうと九州だろうと、ぼくのいっていることの主旨には問題ないと思うが?
なんのことでしょう???
595 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 04:08
>>593 三国時代の中国では、湖のことを海と表現することがあったの
でしょうか。
淡水と海水の違いで海と湖を区別していなかったことを示す
文献を示してください
邪馬台国は新松戸駅前のあった!!
>>595 593ではないが、593本人は、べつに琵琶湖じゃなくたっていいっていってるでしょ。
つまんないツッコミでログ流すな、馬鹿垂れが。
598 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 06:42
>どっちにしても、狗奴国に負けそうだったとか脅かされていたとか
>いうことは 文献には全く書かれていない
この事実を認めないのか?
九州説は文献なんてどうでもいいと思ってるのか?
599 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 07:14
>>598 揚げ足とりばっかりしていないで大国邪馬台国と争った強い狗奴国を
どこか比定してからにしな。
九州には古代に戦争のあった痕跡が沢山あるが、畿内からはろくな武器すら
見つかっていない。
銅鐸で戦争したと言うのか。
600 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 07:15
>>594 SFの世界の住人になってることに気付こう…
仮想史前提に話しているだけじゃん。
どっちもどっちだと思うけどね。
結論「わかんない」が正しい。
601 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 09:01
>>599 >九州には古代に戦争のあった痕跡が沢山あるが
紀元前のもんだろ?
>畿内からはろくな武器すら見つかっていない。銅鐸で戦争したと言うのか。
貧弱な知識だね。基礎的な勉強してね。
602 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 16:30
>>593 陸路いけるのにどうしてわざわざ海路を取るのかちゃんと説明してね。
>>598 『倭の載斯烏越等を遣し、郡に詣り相ひ攻撃の状を説かしめたれば』
は邪馬台国が狗奴國との戦いに困って相談しにいった事を表現している。
この辺の読解力は普通の日本人として持っていなくちゃ恥ずかしいよ。
狗奴國は邪馬台国の南にあった筈だけど、畿内では熊野あたりに狗奴國
があったと言うのかね。九州まで支配する邪馬台が熊野あたりに困って
いたと云うのかね。
603 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 16:39
>>602 海路じゃ具合が悪い理由でもあるのかな?
邪馬台国が畿内にあったとしても、
邪馬台国は倭国の首都であって倭国の勢力圏は北九州もふくむわけだから
それに隣接して南九州に手強い敵がいて手こずってたら十分脅威でしょう。
なんか問題あるの?
604 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 18:16
>九州まで支配する邪馬台が熊野あたりに困って いたと云うのかね。
それでもいいけどね。熊野といっても吉野あたりまでふくんでいれば。
605 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 19:13
>>602 「この辺の読解力」とかいい加減なこと言ってないで
「狗奴國との戦いに困って相談しにいった」と証明して見せろよ。
それから「強い狗奴国」ってどこに書いてあるかも示せ。
また「決まってる」「あたりまえだ」しか言えないのか?
606 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 21:25
まーしかし、九州説の徒ってのは倭人伝のどこにも書いてないことを言い張るわ言い張るわ
論証も傍証もまるでなし
それで他人のことを「魏志倭人伝を蔑ろにしている」だからあきれるよ
自分の解釈だけが絶対ってジコチュー坊なわけね
607 :
法師:2001/04/27(金) 21:33
608 :
法師:2001/04/27(金) 21:34
>>593>?さん
>さあ。琵琶湖を渡ったのかも知れないし・・・・・・・・・・・
琵琶湖より西から東へ進むときに、必ず琵琶湖を渡らなければ行
けないという地理関係は存在しませんね。その仮定は無理がある
と思います。また、琵琶湖を渡ることを「海を渡る」と表現した
というのも、無理があると思います。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本は島国なんだから
>北陸沿いでも東海沿いでも海路で東にいくことはできるでしょう。
半島西岸を南下するときなども含めて、海岸沿いに航行すること
を「海を渡る」とは表現していないと思います。
結果として…
倭人伝の記述が事実を伝えているとするなら、「邪馬台国のある島
は、さらに東に海を渡ることが可能で、かつ、先に倭人が住んでい
る」のでないと矛盾しますね。
>倭人伝の里程を通常の「里」で解釈できると言い張る方がへんでしょう。
そうですね。妥当なご意見だと思います。「数値自体」に拘りす
ぎるべきではないと思います。
ただ、「言い張る方がへん」とまでは行かないと思います。
609 :
法師:2001/04/27(金) 21:36
>>594>?さん
>狗奴国が九州にあったのなら、
>魏より先に呉と関係を結んだという可能性も高いでしょう。
おっしゃるとおり、日本列島において「呉」と関係を結ぶのなら、
九州が一番可能性が高いですね。ただ、少なくとも九州北部は、
半島と密接な関係を持ち、その経由で中国の北部と関係を持つこ
とも、ありえないではないと。
邪馬台国が九州にあって、かつ、九州内に敵対勢力があったとする
なら、どこで何ゆえに分かれていたのか? が問題になりますね。
>もっとも証明できる話でもないので、推測可能性程度にとどめておくべきですが。
はい、至極妥当な立場だと思います。
610 :
法師:2001/04/27(金) 21:38
>>594>?さん:別メッセージに移させていただきます
「何でわざわざ中国の大国魏が邪馬台国の味方だと知らせたか?」
>それは邪馬台国側の都合としてはその方が有利だからでしょう。
そう解釈するのが自然ですね。ただし、全く純粋に「お墨付きを
いただくだけ」が目的であったかどうかは不透明ですが。
>それと魏としても建て前としては、邪馬台国側が正統だと認めているので
>結果的に狗奴国は魏からみても反乱軍。邪馬台国側が勝ってもらわないと困る。
そう解釈するのが自然ですね。ただ、明確に「反乱軍」と規定し
ていたなら、単に、お墨付きを与えただけでは、「お茶を濁した」
としか考えられないですね。
「畿内説では合理的な回答は出きない」
>え? 意味がわかりません。
>邪馬台国が畿内だろうと九州だろうと、ぼくのいっていることの主旨
>には問題ないと思うが? なんのことでしょう???
はい、ご主旨は、邪馬台国がどこにあったとしても、成り立つと
思います。
ただ、邪馬台国が畿内だったとするなら、当時において、畿内か
ら半島までを確保していて、かつ、魏と密接な関連があった巨大
政権…ということになるはずですね。
611 :
法師:2001/04/27(金) 21:38
>>597>?さん
>593ではないが、593本人は、べつに琵琶湖じゃなくたって
>いいっていってるでしょ。
それならば、何がありえますか? 明確にどうぞ。九州説なら、
地理的に矛盾がない説明は簡単ですが、畿内説だと不可能に近い
んじゃないかと思いますが。
612 :
法師:2001/04/27(金) 21:39
>>598>?さん
>>どっちにしても、狗奴国に負けそうだったとか脅かされていたとか
>>いうことは 文献には全く書かれていない
>
>この事実を認めないのか?
そうすると「グチをたれに行った」わけですか? もうちょっと
説得力のある説明はないですか?
>九州説は文献なんてどうでもいいと思ってるのか?
別にそういった事実はないと思いますが。
613 :
早蝿:2001/04/27(金) 21:41
>>608 > 半島西岸を南下するときなども含めて、海岸沿いに航行すること
を「海を渡る」とは表現していないと思います。
それを証明できますか?
できなければ水掛け論ですよ。
614 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 21:49
>>612 おーい!
>>591 読んだか?
> >どっちにしても、狗奴国に負けそうだったとか脅かされていたとか
> >いうことは 文献には全く書かれていない
> という事実から、どうして「何となくグチを垂れてみただけ」が導き出せるのかな?
> 説明して!
回答が無いから
>九州説は文献なんてどうでもいいと思ってるのか?
なわけ
説得力のある説明はないですか?
615 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 21:54
>>611 東海だって北陸だっていいだろう?どうして不可能に近いの?
616 :
法師:2001/04/27(金) 22:00
>>600>?さん
>仮想史前提に話しているだけじゃん。
論じられているのが、証明可能の自然科学の分野の事柄ではない、
というだけのことですね。
>どっちもどっちだと思うけどね。
そうですね。ただし、残されている文献などから見て、どちらが
より事実に近いかという違いはありえますけど。
>結論「わかんない」が正しい。
そうです。今のところは「わかんない」から問題になっているわ
けで、誰がどう見ても異論がないような事柄なら、最初から問題
617 :
法師:2001/04/27(金) 22:02
ap616
末尾が切れちゃいました。
けで、誰がどう見ても異論がないような事柄なら、最初から問題
にならないです。
…です。
618 :
法師:2001/04/27(金) 22:03
>>603>?さん
>海路じゃ具合が悪い理由でもあるのかな?
当時の人は、畿内方面から琵琶湖の辺りを経て東に進むときに、
船を使うのが常套であり、「海を渡る」と称したわけですか?
変わった説ですね。
>邪馬台国が畿内にあったとしても、
>邪馬台国は倭国の首都であって倭国の勢力圏は北九州もふくむわけだから
そのばあいには、そういうことになりますね。
>それに隣接して南九州に手強い敵がいて手こずってたら十分脅威でしょう。
>なんか問題あるの?
南九州の勢力が、畿内にまで脅威を及ぼしたということですね。
可能性はないではないでしょうね。
619 :
Henton:2001/04/27(金) 22:11
>あと河内型庄内式土器が、九州からほとんど出土していない理由は畿内説から
>どう説明するおつもりですか?
結局、まともな答を返さず罵るだけの畿内論者が多いですね。
畿内説だと、3世紀半ばには畿内勢力はすでに北九州に及ん
でいると言うことになるので、「河内型庄内式土器が、九州
からほとんど出土していない。」はまったく説明できないわ
けです。
620 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 22:14
ばかじゃないのか?
河内型が確立する前に九州で大和型が普及したってだけじゃないか。
621 :
法師:2001/04/27(金) 22:15
>>613>早蝿さん
あ 早蝿さん ハンドル間違えて失礼を。
>それを証明できますか?
>できなければ水掛け論ですよ。
はい、そうですね。反証をどうぞ。
622 :
Henton:2001/04/27(金) 22:16
はっきり言ってしまえば、大和地方の勢力と北九州勢力だけが特別に
結びついていた。河内はそれにまったくといって良いほど関係なかっ
たわけです。
これだけでも、畿内説が考古学的に成り立たないことは明らかですね。
623 :
Henton:2001/04/27(金) 22:18
>河内型が確立する前に九州で大和型が普及したってだけじゃないか。
じゃあ、河内型が確立した後で、何故九州にほとんど、
持ち込まれなかったんですか?
624 :
法師:2001/04/27(金) 22:20
>>615>?さん
>東海だって北陸だっていいだろう?どうして不可能に近いの?
え? そうすると、「海を渡る」という件どうなるんですか?
625 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 22:26
わかってないね。大和の庄内甕を持ち込んだ移住者の子孫や
それと友好的な九州の人々が大和系統の筑紫庄内甕を作って暮らしてるだけだよ。
河内の庄内甕が確立したころにはもう北部九州の併合は終わっていたから
河内から北部九州に集落単位で集団移動するようなシチュエーションじゃないの。
だから、河内型は転勤族程度の分量でぼちぼち出るだけ。
だいたい、九州で出る庄内式土器がU〜V期なんだから、庄内式土器は九州で発生したなんて
理屈が通るわけないでしょ?
626 :
早蝿:2001/04/27(金) 22:35
>>621 >法師さん
「半島西岸を南下するときなども含めて、海岸沿いに航行すること
を「海を渡る」とは表現していない」
から
「畿内説だと不可能に近い」
と主張しているのは法師さんでしょう?
だから、「半島西岸を南下するときなども含めて、海岸沿いに航行すること
を「海を渡る」とは表現していない」
を証明する必要があるのは法師さんでしょう?
証明できないということですか?
じゃ「畿内説だと不可能に近い」という結論も不成立ですね?
627 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 22:55
九州説モノは証拠とか証明とか求められると必ずチンモクよ。
あとはコソコソほとぼりさますだけ。
あほくさ! 俺は寝る。
628 :
早蝿:2001/04/27(金) 23:04
結論から言うと、地続きのところを海路で行く場合を「渡海」とは言わないなんてことは証明不能です。
よって、「畿内説だと不可能に近い」 も不成立。
それ以前にこの一文について「倭人伝の記述が事実を伝えているとするなら」という前提も証明不能。
無理筋の攻めでしたね。
629 :
早蝿:2001/04/27(金) 23:20
もともと、中国人は行ったことがないであろう東の倭種の国まで
千余里という数字が出ていることがおかしいというのは某掲示板でも言われていた。
倭人は里数を知らないはずなのに、伝聞であろうこの情報に何で千余里という数字があるのか?
名前もわからない倭種の国は「遠絶ゆえ道里不詳」といわれた国々よりも更に遠いはず。
いっぽう、伝説のこびとの国や裸族の国までは何千里と数字が明らかになっている。
つまりこの記事、話のシメにおとぎ話の国をくっつけるための
ツナギとして作文された部分だという解釈が妥当なところだろう。
ご苦労様でした。
630 :
法師:2001/04/27(金) 23:25
>>626>早蝿さん
ですから、倭人伝中のどの部分に、そういう記述がありますか?
存在していないと思いますが。
631 :
法師:2001/04/27(金) 23:36
>>628>早蝿さん
>結論から言うと、地続きのところを海路で行く場合を「渡海」とは
>言わないなんてことは証明不能です。
>よって、「畿内説だと不可能に近い」 も不成立。
>それ以前にこの一文について「倭人伝の記述が事実を伝えていると
>するなら」という前提も証明不能。
あ なんだ、そういう意味でしたか。そうですね。どちらも、証
明不能の問題ですね。
>無理筋の攻めでしたね。
そうですね。
632 :
早蝿:2001/04/27(金) 23:36
倭人伝の中に無くても、旧唐書で新羅−高句麗や高句麗−百済の海路を「渡海」と表現していますから、ありえないとは証明不能なわけです。
同じ三国志なら山東半島から遼東経由で楽浪に行くコースを「越海」と書いています。
陸続きだから必ず水行だなどとは言えません。
ましてや、中国人はその「渡海」を目撃していないことは間違いないのだから
そんなことが、畿内説が不可能である根拠にならないことは言うまでも無いでしょう。
633 :
法師:2001/04/27(金) 23:42
>>629>早蝿さん
>つまりこの記事、話のシメにおとぎ話の国をくっつけるための
>ツナギとして作文された部分だという解釈が妥当なところだろう。
ご自身で指摘された「証明の可否」の意味が本当にお分かりの上
でのご発言とは思われないですが。
634 :
早蝿:2001/04/27(金) 23:47
だから「だろう」って言ってるでしょ?
証明の可否と妥当性の是非は別次元です。プルーフとプローシビリティですよ。
では、なんで「千余里」という数字が求められたと思います?
635 :
日本@名無史さん:2001/04/28(土) 00:40
「東一千余里」ってのは単に裸国とかシュジュ国とかのヨタ話のまくら(接続部)だろ。
国名もないし。
636 :
法師:2001/04/28(土) 00:41
>>634>早蝿さん
>だから「だろう」って言ってるでしょ?
ワシもご同様ですが。
>証明の可否と妥当性の是非は別次元です。
そうですね。
>プルーフとプローシビリティですよ。
そういった英語系の用語は、ちょっと存じないですが、プルーフ
は「証明」として、プローシビリティとは、原語は何ですか?
蓋然性の問題という用語と同じような意味合いでしょうか。だと
したら、そういうことになると思います。
※用語って、学校とか世代とかによってけっこう違うんですよね。
>では、なんで「千余里」という数字が求められたと思います?
あれ? こちらは、その数字自体は、殊更に問題にしない立場な
んですが、そのことを書くの忘れてましたっけ? 別のスレッド
だったかな?
637 :
早蝿:2001/04/28(土) 00:43
国名すら不詳なのに道里が明らかなことのアンバランスをどう考えるか?
これを聞いているわけです。
638 :
早蝿:2001/04/28(土) 00:50
>その数字自体は、殊更に問題にしない立場なんですが
なぜ問題にしないんですか?理由はありますか?
639 :
法師:2001/04/28(土) 01:04
>>632>早蝿さん
著者が異なれば、使う語彙は同じとは限らないという考え方も成り
立ちますね。陳寿先生の語彙としては如何ですか?
>中国人はその「渡海」を目撃していないことは間違いないのだから
>そんなことが、畿内説が不可能である根拠にならないことは言うま
>でも無いでしょう。
あ 分かりました。当方が「断定した」と誤読しておられるわけ
ですね。正確にお読み返しください。
640 :
法師:2001/04/28(土) 01:12
>>637>早蝿さん
>国名すら不詳なのに道里が明らかなことのアンバランスをどう考えるか?
ご主旨がちょっと良く分かりません。倭人伝全体については、別
にそういう事実はないと思いますが。
※「そういう部分がある」ということに対する評価の話ですか?
641 :
早蝿:2001/04/28(土) 01:16
>九州説なら、地理的に矛盾がない説明は簡単ですが、畿内説だと不可能に近い
んじゃないかと思いますが。
これは断定に近いですね。証明不能の推測というレベルを不当に超えています。
陳寿の語彙としては陸続きのところで「越海」を使っています。
いずれにしても、伊勢湾横断や愛発−越中などの航路をを渡海と呼べない理由は見出せないでしょう。
ましてや、中国人が同行した形跡の無いルートなら語彙の厳密な使い分けは期待できません。
極端な例でいえば倭人の言う「あはうみの向こう」を「渡海」と記録したとしてもおかしくはないでしょう。
642 :
早蝿:2001/04/28(土) 01:21
>>640 「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は国名すら不詳なのに道里が明らかです。
いっぽう
「其餘旁國」は克明が明らかなのに道里は「遠絶不可得詳」です。
つまり「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の記事が不自然なのです。
643 :
Henton:2001/04/30(月) 12:36
>河内の庄内甕が確立したころにはもう北部九州の併合は終わっていたから
>河内から北部九州に集落単位で集団移動するようなシチュエーションじゃないの。
>だから、河内型は転勤族程度の分量でぼちぼち出るだけ。
ずいぶん無理な説明ですね。普通、ある国が他の国に支配されたら、その支配国の
文物の出土が多くなるのが通常だと思うのですが。
>だいたい、九州で出る庄内式土器がU〜V期なんだから、庄内式土器は九州で
>発生したなんて理屈が通るわけないでしょ?
百歩譲って、庄内式土器が畿内(播磨?)で発生したとしても、河内型が
北九州でほとんど出土されないという事実を邪馬台国畿内説では説明でき
ないでしょ?
たとえば、大和型庄内式土器を作った工人の所属する国が、北九州諸国に
生口として北九州諸国に献上したとも考えられる。河内型庄内式土器を作
った工人の所属する国が北九州諸国と余り関係なかったので現在の発掘状
況となったと考えられます。
このように考えれば、むしろ庄内式土器が畿内で発生したというのは九州説に有利
ですね。
644 :
Henton:2001/04/30(月) 12:38
訂正
>生口として
>工人を生口として
645 :
日本@名無史さん:2001/04/30(月) 14:21
>ある国が他の国に支配されたら、その支配国の文物の出土が多くなるのが通常だと思う
のなら、大和型庄内式土器の出土が多くなる北部九州は大和の支配下でしょ?
646 :
日本@名無史さん:2001/05/01(火) 11:36
>>642 「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は
海なら千里(75km〜100km)くらいは対岸が見通せる。
一方山の中では数キロだって見通せない事もありうる。
「其餘旁國」は克明が明らかなのに道里は「遠絶不可得詳」と
言うのも少しも不自然ではない。
647 :
日本@名無史さん:2001/05/01(火) 14:04
ほほーう、それじゃ中国人が東海岸から対岸を見たんだから
筑後川流域説は不自然につき却下ということでいいですな?
九州説って、終わってるね
649 :
日本@名無史さん:2001/05/02(水) 06:25
っていうか、九州説の人が終わってる。
>>643 の人こんな短い文なのに、自分で言ってることが矛盾してる。
650 :
日本@名無史さん:2001/05/02(水) 08:57
邪馬台国は有明海から豊前海岸まで含む。
畿内派だって7万戸の人口が纏向だけでなく畿内全域を含んでいる
わけだろう?
中心は筑後川流域にあっても国の範囲は広いのだよ。
豊前海岸または国東半島から四国や宇部あたりが見える。
したがって矛盾はないのだ。
651 :
日本@名無史さん:2001/05/02(水) 10:05
じゃ、その余の旁国はどこだ? 投馬国はどこだ?
だいたい、女王の都に行ったはずの中国人が大分まで何しに行くのだ?
温泉旅行か?
また墓穴掘りだな!
652 :
Henton:2001/05/02(水) 12:21
653 :
Henton:2001/05/02(水) 12:27
>のなら、大和型庄内式土器の出土が多くなる北部九州は大和の支配下でしょ?
なぜ、そのように単純に決め付けられるんです?
畿内における大和型庄内式土器はむしろ傍流ですよ。
主流は河内型ですよ。その他古墳等の分布を見ても
3〜5世紀にかけて河内勢力が主流になっているの
ではないでしょうか?
単純にって
>ある国が他の国に支配されたら、その支配国の文物の出土が多くなるのが通常だと思う
と、あなたが言ったんじゃない。
基礎的なことが解ってないみたいだけど
あなたが北部九州の大和型庄内式土器、北部九州の大和型庄内式土器といってるのは
じつは博多は那珂・比恵地域で大和型を模倣してあるいは畿内人の指導をうけて
九州人が作ったものなの。時期も西新II式a段階以降。
畿内と関係を結んだ九州の有力者が、畿内の祭祀や生活様式を受け入れたのさ。
大和型は河内型より早いからI式b段階にはもう畿内人移住者が持ち込んでたの。
河内型が本格的に拡散するのは庄内III式以降で、北部九州にも小郡など筑後方面に広まってる。
大和型とか河内型とかいうのも微妙な技法の違いで、土器職人の流派の違い程度のもの。
大和勢力とか河内勢力とかいう次元じゃないんだよ。みんなすぐ布留式になるんだから。
655 :
日本@名無史さん:2001/05/03(木) 08:17
土器なんて移動が簡単なものはどちらにどのように分布しようが
たいして意味はない。
つまり支配とか従属関係を表すものではない。
単純に交流があった事を証明しているだけ。
656 :
日本@名無史さん:2001/05/03(木) 08:21
日用雑器がどうこうじゃないの。
その地域で祭祀の儀式に使われる土器の種類が突然変わるってことは
政治がらみなのさ。
657 :
法師:2001/05/03(木) 23:19
>>641>早蝿さん
「九州説なら、地理的に矛盾がない説明は簡単ですが、畿内説だと不可能に近い
んじゃないかと思いますが」
>これは断定に近いですね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「断定」ではないということは、改めて読み返して、お分かりに
なったわけですね。
>証明不能の推測というレベルを不当に超えています。
「証明不能の推測というレベル」という言葉は、そのまま読むと、
「証明することが不能であるところの推測…」となりますが、それ、
何ですか? 「推測というレベルを超えている」というだけのこ
となら、証明の可能不可能は関係ないはずですが。「証明不能の
事柄に関する推測…」の意図かな?
いずれにせよ、「早蝿さんは、自身が正当の範囲を超えていると
判断するなら、断定ではない趣旨も断定とみなす」ということに
なりますね。よろしいのですね?
また、「証明の可能と不能」という概念を持ち出されることがあ
りますが、どういった意味なのか、ときとして変動しているよう
にしか思われません。たとえば「魏の首都が地球上のどの位置に
あったか」を証明できますか?
658 :
早蝿:2001/05/03(木) 23:46
> 「断定」ではないということは、改めて読み返して、お分かりになったわけですね。
とんでもない。最初から「断定」であるなどと言っていません。読み返してお分かりになりませんか?
ですから当然「断定ではない趣旨も断定とみなす」などという事実もありません。
ところで私はどこで「証明の可能と不能」という概念を変動させていますか?
具体的にお示しください。
659 :
Henton:2001/05/04(金) 00:20
>654
では、なぜ河内型は北九州全体に広まらなかったのですか?
それが問題だと思います。
それと、私の解釈が成り立たない理由も不明ですね。
660 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 08:23
広まってるよ。ただ分量が九州で作られてる「大和型」のほうが多いだけ。
あたりまえだよね、地元九州製のほうが多いのは。なんの問題もなし。
大和型庄内式土器を作った工人の所属する国が、北九州諸国に生口として北九州諸国に献上したって解釈なら
九州人が作ったものだってわかってるんだから、成り立たない理由も明白。
661 :
Henton:2001/05/04(金) 12:15
はあ?
大和からきた工人が九州で作ったって言っているのに?
>九州人が作ったものだってわかってるんだから、成り立たない理由も明白。
なぜそうなる?
西都原が邪馬台国です。
663 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 13:12
>>661 あたりまえだろ?
はえぬきの九州人が作ったものだってわかってるんだから、大和からきた工人が作ったわけないじゃん。
畿内・箸墓が有力な候補地だというのはわかるが
倭人伝の文中から考えると畿内よりは
九州・西都原の方が合致しているカンジがする
ただ、築造年数がネックだけど…
西都原の被葬者が未詳というところに期待したい
665 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 21:05
>畿内・箸墓が有力な候補地だというのはわかるが
判るわけないよ。
箸墓は四世紀初めに築造とするのがこれまでの主流の見方。
畿内派は築造年代を繰り上げようと躍起だが纏向の古墳から
出てきたと言われる木片なんか墓の周溝部から出てきた物。
木郭、木棺だったら確かに築造年代を変更する材料になりうるが、
墓の周溝部では後から流れ込んだり、投げ込まれたりした可能性
が強い。
よしんば周溝部の土留め用だったとしても、古い木材の使い回し
である可能性がある。
冷静に考えれば西都原の古墳の築造年代も無理だね。
666 :
日本@名無史さん:2001/05/04(金) 22:10
これまでの主流って、ずいぶん古い情報じゃない?
いまどき4世紀初頭だなんて言ってる人いないよ。
667 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 10:14
古墳の築造年代を繰り上げる合理的理由が纏向の古墳出てきた木片以外に
何があるのかな?
668 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 12:46
なんにも知らないの?
基礎的な勉強してね。
669 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 19:05
こじつけ論、面白そう。
話してみて、本当に基礎的な話?
670 :
Henton:2001/05/05(土) 19:23
>>663 だから、なんで生え抜きの九州人が作ったってわかるの?
デンパ?
671 :
Henton:2001/05/05(土) 19:33
どうせ、なんとか先生が言っていたとかいうトホホな理由でしょうけど。
>>670 デンパでトホホはあんた。
あんたのネタ本はなんとか先生ですらない、「イエス・キリストの謎と正体」の著者の雑文でしょ。
スレの主旨を考慮すると
考古学的には、大和が有力らしい
ただ、その当時に対馬、九州から畿内までを含む
連合国家が成立していたかどうかは疑問
築造年数以外、例えば被葬者の伝承等で言うと
箸墓の被葬者が必ずしも卑弥呼に比定できるとは思えないが…
674 :
日本@名無史さん:2001/05/05(土) 22:37
でも、その時代に中国人が九州までやってきて見聞きしたとして
畿内にある国について何も知らないで帰ったと考えるのは無理そうですね。
九州説の人って知識ないね。
通俗読み物読んだ程度かな。
676 :
九州@名無史さん :2001/05/06(日) 10:35
庄内式がどうのこうのということを力説すると、邪馬台国は九州のどこになるのかな?
どこにもなるまいて
678 :
名無しさん@10・8:2001/05/06(日) 13:45
考古学的に大和が有力というのは京大派の刷り込みに過ぎないね。
卑弥呼が魏の天子から貰った鏡が三角縁神獣鏡だというなら
1.それほど大事な鏡がなぜ棺の中ではなく外から出てくるのか。
2.卑弥呼が貰ったのは100枚なのになぜ何倍も出てくるのか。
3.卑弥呼の時代は弥生時代なのになぜ弥生遺跡から出てこないのか。
4.中国製のはずなのになぜ中国から1枚も出てこないのか。
少なくともこの4つの疑問に明確な回答が必要だ。
いわゆる舶載鏡と倣製鏡の区別は存在しないというのが最新の説だし、
そもそもいわゆる舶載鏡の出土がもう100枚を超えてるからね。
中国産の銅で作られてるという研究が発表されたことあるけど、
あれはナシだよ。舶載鏡と倣製鏡の材質が同じってだけだから。
679 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 13:53
またまた無知まるだし
680 :
日本@名無史さん:2001/05/06(日) 15:25
>>678 ほんと、かわいそうなくらい無知ですね。
まず魏鏡説をとってるのは畿内説のほんの一部だってことも知らないみたい。
舶載鏡と倣製鏡の区別は存在しないなんて誤情報をどこて聞きかじったやら。
倣製鏡も中国製だって説を変に聞き間違えてるのでしょうか?
「卑弥呼の時代は弥生時代」っていう粗雑なくくりがイタい
682 :
法師:2001/05/06(日) 21:08
>>658>早蝿さん
>ところで私はどこで「証明の可能と不能」という概念を変動させていますか?
>具体的にお示しください。
あれ? そうすると…
>>628 で…
>結論から言うと、地続きのところを海路で行く場合を「渡海」とは
>言わないなんてことは証明不能です。
…ここで使っておられる「証明不能」は、二重の意味をかねてい
るのに対して…
>>632 で…
>倭人伝の中に無くても、旧唐書で新羅−高句麗や高句麗−百済の海路を
>「渡海」と表現していますから、ありえないとは証明不能なわけです。
…ここでは、一方の意味でしかありえないはずですが。
683 :
早蝿:2001/05/06(日) 21:55
「二重の意味」と「一方の意味」とは何ですか?
684 :
法師:2001/05/08(火) 18:31
>>683>早蝿さん
>「二重の意味」と「一方の意味」とは何ですか?
う〜〜〜ん、ここで意味を問い返されるということは、少なくと
も、意図して、一方に自然科学上の意味を含ませたわけではない
わけですね。う〜〜〜ん。
685 :
早蝿:2001/05/08(火) 20:19
筋道立てて説明してください。
686 :
Henton:2001/05/08(火) 21:20
>>680 三角縁神獣鏡は邪馬台国の所在地の決め手にならない
と考えて良いですね。
687 :
Henton:2001/05/08(火) 21:22
>>677 土器じゃ決まらないでしょう。
邪馬台国は東遷したと思っていますし。
688 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 21:40
689 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 21:41
690 :
日本史:2001/05/08(火) 21:41
邪馬台国は日本列島にはなかった。
691 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 21:48
九州以外のどこかであることは確実だが
692 :
九州@名無史さん :2001/05/18(金) 01:23
何度も聞くけど、九州説の人って、九州のどこにあると思ってるの?
693 :
さすらいの妄想癖殿:2001/05/18(金) 01:29
天竺だよ。
694 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 03:23
>688,689
ゴラ、理由を入れろ。
695 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 03:30
自分は三国時代の日本を群雄割拠の時代想像。
ソノホウガモエル。
自尊史観(ワラ
696 :
日本@名無史さん:2001/05/18(金) 21:33
>>695 あ、案外私もそうかもです。
北九州、南九州、吉備、出雲、畿内の勢力。和歌山、北陸、そして関東にも
ぼちぼちと。一番でかかったのが邪馬台国とは限らないのでは。
697 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 01:16
しかし当時からヤマト国が一番知名度があったというのも事実かも
698 :
名無しさん@1周年:2001/05/27(日) 02:03
>>696 魏志倭人伝に戸数が書かれているじゃん
八万戸の邪馬台国(畿内が有力)が最大で、五万戸の投馬国(吉備が有力)が続く
弥生時代終末期から古墳時代初期に畿内と吉備が強盛だからこれでよいでしょ
699 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 07:07
>687
東遷したという具体的な証拠は?まさか日本書紀だけじゃないよね?生活様式の変化、
文化の変化なども織り交ぜて答えてね。
700 :
墓:2001/05/27(日) 17:11
結局九州で一番大きな墓が宮崎にあるだろ。そこが卑弥呼の墓
つまり邪馬台国は西都ばら!
701 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 19:24
またでた西都ばか!
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
あまぎ
甘木
703 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 21:17
馬鹿に出来ることは連呼だけ
704 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 21:28
四国は高知県、浦戸の西原。
705 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 00:39
どちらにしても未開の地であるアズマでなさそうだ
706 :
日本@名無史さん:2001/06/01(金) 01:31
>>704 そりゃ、西原理恵子のことか?たしかにある意味で「女王卑弥呼」と呼ばれてるが。
707 :
日本@名無史さん:2001/06/05(火) 10:05
はなしがちょっとずれてきたような‥
708 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 18:27
四国説の連中は電波みたいな行動が多いのは何故だろう
709 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 18:30
四国説は電波ではなく阿波です!
710 :
あなねらい。:2001/06/09(土) 19:22
日向は・・発掘が進んでないと思うんですが。田舎だからね。
神話・・口伝からはどうなのでしょう・・。
天孫降臨とか神話では宮崎説になりますよね。
とうま国・・・妻という地名があります。古墳もあります。高官のミミとか・・
みみ川があります。
神武天皇が東征した港もあるようで今でも地元の漁船はそこを通らない。
帰ってこなかったから・・
天の岩戸・・とか、何故からくに岳なのでしょう。あんなに田舎なのに・・。
711 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 20:10
四国説は電波ではなく阿呆です!
712 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 20:29
魏志倭人伝で邪馬台国よりも東国にある国で
ある程度特定ないし推定されている場所あるんですか?
スレッド違いだったら ゴメンナサイ
ああ 畿内説を前提としてですね
713 :
日本@名無史さん:2001/06/09(土) 20:34
かしわ手 ってどこに起源あるんでしょう?
魏志倭人伝に中に手を打って拝すみたいな記述
があったような気がするけど(不確か)それとは関係ないですか?
ちょっと気になったので知っている方教えてください。
714 :
:2001/06/13(水) 16:45
715 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2001/06/13(水) 17:35
近畿に女王が居たとは思えん
投馬国から邪馬台国まで南水行十日・・
沖縄論を言う人いないの?女王の国だし刺青もしてたし
狗奴国を宮古島とか
716 :
日本@名無史さん:2001/06/13(水) 17:36
近畿に女王が居たとは思えん
投馬国から邪馬台国まで南水行十日・・
沖縄論を言う人いないの?女王の国だし刺青もしてたし
狗奴国を宮古島とか
717 :
日本@名無史さん:2001/06/13(水) 17:53
学者は当時の中国の地理観が
おかしいって言ってるけど
南も北も分からん奴が、
航海なんか出来るわけ無い!
太陽は東から昇るんだよ
718 :
日本@名無史さん:2001/06/13(水) 17:57
航海したのは船頭さんだろ?
719 :
日本@名無史さん:2001/06/13(水) 19:43
業務連絡。
秋山彩香さん、秋山彩香さん。
いらっしゃいましたら
720 :
日本@名無史さん:2001/06/13(水) 21:18
ここに来ないで下さい。
繰り返します。
ここに来ないで下さい。
721 :
日本@名無史さん:2001/06/14(木) 00:22
井沢スレにお戻り下さい。いやらしい事になってます。
722 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 11:32
だけど、魏志倭人伝には邪馬壱国とあるのに
なんでヤマタイと読むのかな。
問題はここじゃないですか。
どう見てもヤマタイじゃないじゃないですか。
陳寿に失礼ですよ。
今の大和に結びつけたい人がヤマタイと
勝手に読み方を変えたのでしよう。
ヤマタイ国のお話はここが原点だとおもいますが
723 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 11:41
「今の大和と切り離したい某人がヤマタイではないと言い出した」が正しい。
724 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 14:11
もっと魏志倭人伝に忠実に考えるべきです
方角を変えたり、日数を勝手に変えたり
読み方を変えたりするな!と言いたい
725 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 14:18
西都原です
726 :
Henton:2001/06/17(日) 14:31
>>722 古田説ですね。
「壱」と「台」古代中国では同音だったという説もあります。
投馬国からの
「水行」が「渡海」とは違うイミである
つまり「水行」は海岸に沿って九州沿岸を移動する
というイミなのだとしたら
南なんだから今の大分〜宮崎あたりにあったってことに
なるんじゃないの?
対馬に渡る前、郡から朝鮮半島沿岸に来る時も
水行を似たような意味で使ってるからこれで正解でしょ?
729 :
日本@名無史さん:2001/06/17(日) 18:39
沖縄が邪馬台国に決定
しました。
沖縄を徹底的に発掘せよ
ひよっとして親魏倭王の印が
でてくるか
731 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 01:44
Hentonに告ぐ。
そんな説はない。あったらそれ出した奴はものがわかってない。
それから、台(星座の一種)と難しい方のタイ(土盛り)は全然
別の字だからね。
732 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 04:51
>>722 ヤマタイであっても今(?)の大和には結びつかんと思うです。
それはまたその後の王朝交代劇をいろいろ語らにゃいかんわけで。
でもそのうち直結されてしまうのかな〜、
と思ってたけど、作る会の教科書なんかはかなり邪馬台国の存在
自体に否定的だったような気がするな。やっぱ朝魏したのが気に
くわないのか、それともほかに理由があるのか。あんがいこれに
関してはまともなんだったりして。
733 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 04:55
邪馬壱証券
734 :
か:2001/06/19(火) 05:59
文章どうりに進んだら今の大阪、奈良にあたるらしいよ。文章どうりっていうのがネックらしい。正しい距離がその当時解ったかってことで。
735 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 06:20
736 :
日本@名無史さん:2001/06/19(火) 06:40
737 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 00:39
>>736 東沃沮には、棺がないだろ、再葬だから。
738 :
解決黒頭巾:2001/06/23(土) 05:18
邪馬台国ではなく、邪馬壱国が正しい名前である。
畿内にあったのは、「別倭」と呼ばれた「秦王国」。邪馬壱国ではない。
彼らは中国の「秦」の残党と朝鮮半島の「馬韓人」が吉野ヶ里に上陸して「倭奴国」を建てたあと、中国地方を経て畿内に侵入した。
吉備と畿内が関係が深いのは、このような事情による。
そのあと卑弥呼たちがやって来て、西都原に邪馬壱国を建てた。
狗奴国はその南に居た「熊襲」のこと。本国は沖縄。
邪馬壱国も、もとはジャワ(邪馬)出身であり、邪馬提国(ヤーヴァードヴィーヴァ)と呼ばれた。
法顕が訪れている。本国はボルネオ。沖縄の南部に基地を造った後、華北に上陸して公孫燕となる。
その後、九州日向を中心に邪馬壱国連合をつくった。
739 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 05:29
西都原なら魏志倭人伝の読み方示せよ!
水行=大陸の海岸沿いを船で移動すること
渡海とは異なる意味で使われている
方位の読み替えは不要
7万戸は眉唾っぽい
まさか当時の洛陽に迫るほどの巨大都市があるはずもない
741 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 10:48
邪馬台国は大和です
神武に乗っ取られたけど
742 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 12:29
レベル低いこのスレッド
743 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 12:31
以後「なんちゃってヤマタイコク」スレに改名
744 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 12:37
>>742 テメェが、れべるのたかいお題をだせよ。どうせ出せねぇくせに!
厨房は引っ込んでな。
745 :
解決黒頭巾:2001/06/24(日) 17:39
>>739 >西都原なら魏志倭人伝の読み方示せよ!
「隋書」の方が分かりやすいのでそれを例にリクエストにお応えしよう。
朝鮮半島から邪馬台(壱)国への道のりとは、具体的にどのようなコースを歩んだのであろうか。推理してみよう。
7世紀成立の『隋書』倭国条では、隋の裴清世が608年に倭国の都(邪馬台国)へ実際に使いとして来て、阿毎多利思北孤と会見したときのコースを次のように記している。
「・・・其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東・・・
・・・度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。既至彼都。・・・ 」
都斯麻國=対馬国 一支國=壱岐国 竹斯國=筑紫国 と読めるから、簡略に記すと
百済→竹島→対馬→壱岐→筑紫→秦王国→十余国→海岸→彼都(邪馬台国)のコースである。
ところで問題は、「秦王国」「十余国」「海岸」である。
「秦王国」とは、のちに大和地方に移動した”倭奴国”のことであり、吉野ヶ里を含む鳥栖から背振山脈の地に、東表国(狗邪韓国)から国土を割譲してもらって建てた馬韓の領地だったのである。(『契丹集史』)
馬韓人と、のちの秦氏となる秦韓の秦人とが、この地に”倭奴国”を建てたあと、九州に上陸した神武天皇(扶余王仇台)に、この国を譲り中国地方を経て大和地方へ移動して”別倭”または”伊倭”といわれたのである。
したがって「秦王国」とは「竹斯國」の東の”倭奴国”のことであり、中国の秦の戦乱を避けて亡命してきた人々の子孫が多かったので、
”其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也”と、中国にそっくりだという印象を持たれたのである。
おそらく、鳥栖市の北部にある”柚比本村遺跡”の地にやってきたのであろう。
その後、鳥栖市の南を流れる筑後川から船で下り、柳川市に面した有明海に入り、海岸沿いに南に下り、菊池川のある「玉名市」の地に上陸したであろう。
これが『魏志』の「南に水行十日、陸行一月にして邪馬台国に至る」の”南に水行十日”の部分である。
なぜ「玉名市」の地かというと、ここには2000年の歴史を持つ古社”疋野神社”があり、邪馬台国連邦のひとつである”多婆羅国”(田原坂を中心とする熊本県地方)があるからである。
有力な神社があれば、そこ行くための”古道”もあるはずであり、安羅国(日向)と多婆羅国(熊本)が”同隣して同姓”(『桓檀古記』)であるから、同じ邪馬台国連邦内の領土を進むことができるからである。
また、多婆羅国は多婆那国(タバナコク)ともいい、玉名(タマナ)はタバナが訛ったものだろうか。
余談だが”ヒキノ(疋野)”とは卑弥呼の遠い先祖、”フェニキア”の意味ではなかろうか。
玉名から先は、多婆羅国領土内の「豊後街道」を竹田市の地に向かって進んだことであろう。
途中、古社である阿蘇神社のそばから阿蘇山を眺めて、”有阿蘇山、其石無故火起接天者・・夜則有光、云魚眼精也”などと思ったかもしれない。
竹田から先は、「延喜式」官道に沿って三重駅(大野郡三重町)→小野駅(326号線)→長井駅(10号線)と進み、最後に日向灘海岸(延岡港)へ達した。
「延喜式」官道は、後の太宰府を中心にした官道であるが、それ以前からあった古道である。
こうして、一行は「十余国」を”陸行”した後、やっと”達於海岸”のである。
そこでは出迎えてくれた”小徳阿輩臺”が、大歓迎”従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎”してくれたのだが、延岡の地から東方海上を眺めて、”自竹斯國以東、皆附庸於倭”と教えてもらったのである。
次に、さらに十日ほどかけて「西都原」の郊外に達し”又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞”の大歓迎を再び受け、遂に”邪馬台国(西都原)”へ到着したのであった。
以上のようにして、隋の裴清世は西都原の邪馬台国へたどり着き、待ち受けた阿毎多利思北孤と会見したのである。
746 :
日本@名無史さん:2001/06/24(日) 17:43
以上「なんちゃってヤマタイコク」でした。ちゃんちゃん♪
747 :
日本@名無史さん:2001/06/26(火) 02:48
いろいろ手を広げてるね
748 :
常識人:2001/06/26(火) 21:50
2世紀から3世紀にかけて東アジアは「小氷期」になっていたそうですよ。
そうすると大和なんか雪とか降ったりしたんじゃないかな。
そうすると、「魏志」にある倭国の説明で、”温暖”とか”裸足で歩いている”とか言う表現と矛盾するんじゃないかな。畿内説は。
冬でも暖かい地域とくれば、南九州しかないよね。さらに「径百余歩」(直径140m)の古墳とくれば、「西都原の男狭穂塚」しかないよね。
それに倭人伝には”邪馬台国”とは書いてないし、”邪馬壹(いち)”と書いてあるのだから、”やまいち”あるいは”やまい””やばい”が正しい発音だよね。
どうころんでも「やまと」にはならんよ。
749 :
日本@名無史さん:2001/06/26(火) 21:51
こぴぺ
750 :
kajima:2001/06/27(水) 04:33
chonn
751 :
日本@名無史さん:2001/07/04(水) 01:25
なんで800にもいってないのにpart4ができてんだ?
age
753 :
日本@名無史さん:2001/07/04(水) 01:49
>>751 寝ぼけてんじゃねぇ。
むこうは、“邪馬台国はどこですか?”のパート4だ。
もっともすっとぼけた奴がパート3すっとばしたんで、本来はパート3だが。
邪馬台国は奈良だ。
ならじゃないという根拠は何だ。
魏誌倭人伝だけでしょう。
756 :
日本@名無史さん:2001/07/04(水) 03:29
奈良は”別倭”。
邪馬壱国ではない。
邪馬壱国の名前の名残もない<奈良
九州には”耶馬渓”の名で邪馬壱国の領土の名残が部分的に残っている。
757 :
日本@名無史さん:2001/07/04(水) 03:32
西都薔薇
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767 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 18:15
おいおい、荒らすなよ!!
九州説のやつらは、旗色悪くなると、すぐこれだからな。
768 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 20:07
まあまあ、元の議論に戻りましょう。
2世紀から3世紀にかけて東アジアは「小氷期」になっていたそうですよ。
769 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 20:11
じゃ、やっぱり沖縄か?
770 :
大木:2001/07/05(木) 21:19
>九州説のやつらは、旗色悪くなると、すぐこれだからな。
そんなアホはほとんどいないよ。
771 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 21:32
1人いるんだよ、極度にひどいのが。
772 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 21:45
妄想のたぐいですよ。九州説に入れないで欲しい。
773 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 22:04
>>768 おいおい、小氷期って言っても、ここ2000年くらいの平均気温の推移は
現在の±0.5℃くらいにおさまってるってのが定説で、たまたま3世紀頃は
その下限だったっていう程度。19世紀の平均気温もこの頃と同じくらい。
100年前、アジアは氷河に覆われてたなんてわけないだろ?気にする必要なし。
774 :
日本@名無史さん:2001/07/05(木) 22:05
九州説=アズマ新井
もういいかげん、八幡平ってことで手打ちにしよう。
鹿島説で苦しいのは最後 陸行一月の所・・・陸行17日くらいだけど
反論は?
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788 :
日本@名無史さん:2001/07/08(日) 19:46
九州説の人はどうして荒らすことしか出来ないのでしょうか?
話を戻しますと、小氷期の影響はほとんどないと考えてよい?
789 :
日本@名無史さん:2001/07/08(日) 21:01
>>776 熊本(玉名)から阿蘇山の北側を通る「豊後街道」は”其地勢東高西下”が著しく、
自動車のない古代には、この上り坂だけで2週間程度はかかると思われる。
790 :
日本@名無史さん:2001/07/08(日) 21:02
小氷河期だったという証拠は?
北九州の三世紀頃の地勢を見ると陸がかなり後退していて、
糸島半島も陸続きじゃなかったらしい。
かえって温暖期だった可能性の方が強いのでは?
791 :
日本@名無史さん:2001/07/08(日) 21:22
>>789 律令時代にはまだ自動車はないが大宰府から一週間で鹿児島まで着いた。
792 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 12:45
道路が整備されてないから時間がかかるはずとの推測するひとが多い中、
記録上では古代の移動はわりと速いですね。
道路がないとだめだと思うのは現代人だけなのかもしれない。