1 :
日本@名無史さん:
2 :
木村鷹太郎:2000/10/28(土) 20:17
邪馬台国はエジプトにあったのだああああ!!
3 :
456:2000/10/28(土) 20:24
中国人のでっちあげでそんなものはなかった。海を渡るのがこわかった使節が適当に作ったデマだよ。
4 :
名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 22:16
こちらにも書いておこう。
伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社)と言う新刊書が出ていました。
纏向遺跡・箸墓古墳など、初期ヤマト王権に縁の深い地について、17人で分担して
最近の研究などを紹介しています。余りに多人数による分担のため、重複していたり、
中身の薄いものが目立つ弊害もあるけど、このスレッドに興味のある人は一見を。
5 :
日本@名無史さん:2000/10/29(日) 02:00
>邪馬台国はエジプトにあったのだああああ!!
激しく同意するわけねぇだろ!
初めまして。
九州説&畿内説を多少拝読しました。
個人的な感想を述べますと、
『魏志倭人伝(通称)』に記載は「邪馬壹(やまいち)国」では
ないでしょうか。
その邪馬壹国の女王卑弥呼の別名は「壹与(→伊予)」だと思います。
吉野ヶ里は邪馬壹国の対中国、魏・呉・蜀への軍事拠点だったのではないでしょうか。
二重の柵や望楼や濠、高床式の倉庫(食料備蓄)、墓などが目立ちます。
邪馬臺(やまだい・やまたい)国は、邪馬壹国とは別の国と考えます。
但し、邪馬臺国=邪馬台(やまたい・やまと)国、の可能性はあります。
その邪馬臺国もしくは邪馬台国の女王卑弥呼の別名は「台与(→豊)」だと思います。
邪馬臺国&邪馬台国に関しては『魏志倭人伝(通称)』からでは不明です。
また畿内説は行程の方角「南へ」を「東へ」に置き換えなければ成立しません。
それを成立させるのは詭弁だと思います。
里程に関しては一里を倭人単里の「約55m〜77m」程度と考えます。
繰り返しますが『魏志倭人伝(通称)』には邪馬台国は記載されてません。
あくまでも邪馬壹国の方が記載されています。
そして邪馬臺国=邪馬台国と見なせば(見なさないのでしたら邪馬台国を採ります)、
邪馬台国の女王卑弥呼{台与(→豊)}の都は豊国(とよくに)ではないでしょうか。
豊国とは豊前&豊後(いずれも九州)を指します。
その豊国でしたら、天の岩戸伝説が『万葉集』に記載されていますし、
西暦248年に日蝕が通過しているようです。
邪馬台国の時代と『万葉集』の時代を比べますと、約五世紀くらいの差がありますが、
現代よりは遙かに近いと言えますし、何よりも日蝕&天の岩戸伝説は重要と考えます。
『万葉集』には次の歌が載っています。
河内王を豊前の国の鏡の山に葬る時に、手持女王が作る歌三首
大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻三・四二○)
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻三・四二一)
岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻三・四二二)
抜気大首、筑紫に任けらゆる時に、豊前の国の娘子紐児を娶りて作る歌
豊国の香春は我家紐児にいつがり居れば香春は我家 (巻九・一七七一)
さて、これらより邪馬台国の女王卑弥呼、別名台与(→豊)の都を、
「福岡県田川郡(京都郡の西)香春町」と考え、天の岩戸伝説の鏡の山を
「香春岳(三峯)」と考えます。
その後、邪馬壹国(北上東行)と邪馬台国(東行)は四国松山で合併建国し、
大倭国になっています。【『万葉集』(巻一・六)の左注】
九州・邪馬台国→奈良・大倭国(だいわ・やまと)→京都・大和朝廷へと連なっていると
思います。
なお、い蘇国=伊都(いと)国→「親魏倭王」印の邪馬壹国は物部系、
「漢委奴国王」印は奴国→邪馬台国は蘇我大王家、だと思います。
俗(通説?)に言う「九州王朝」=蘇我大王家、と考えています。
いかがでしょうか。 長文失礼。 秋山 彩香(あやか)
7 :
木村蛸太郎:2000/10/29(日) 10:56
これは728年に亡くなった大宰帥の河内王を豊前鏡山に葬ったときに手持女王がうたった哀悼の歌で、べつに邪馬台国になにか関係があるとは思えません。
彼の死と埋葬を岩戸隠れにたとえただけではないですか?
8 :
名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 17:12
邪馬台国=ハワイだよ。
っつーか、どうでもいいんだけどね。
9 :
日本@名無史さん:2000/10/29(日) 17:25
どうでもいいに一票。
大和王権を含めて、ウヨやサヨが何をむきになって吼えているのかわけわからん。
10 :
カズ:2000/10/29(日) 17:39
ヤマモトさん がくわしいんでは??山のネモト 山麓付近では??
何処のヤマかって?? 九州にも奈良にもあるからねー??
日本中 やまばかし ヤマかけたんだけど!!ダメだった!!
11 :
おやくそく:2000/10/30(月) 00:24
>っつーか、どうでもいいんだけどね。
>どうでもいいに一票。
だったら、出てくんなよ(怒
12 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 01:03
>>6 面白い!
なんだか凄く核心を突いているのではないかとさえ思います。
13 :
>秋山 彩香(あやか)さん:2000/10/30(月) 01:31
お説、拝読しました。
いろいろ疑問があるけど二つだけあげます。
1)豊が邪馬台国だとすると、倭人伝の記述から逸脱するのでは?
倭人伝の記述では、邪馬台国むへの路は、南へと繋がっています。
畿内説が方角を書き換えるのは詭弁でも、豊説ならOKなの?
2)豊説の根拠は、トヨ=台与の、発音が似ているというだけのようですが、
「トヨ」という名のつく土地は、日本ではよくあります。豊前や豊後にする
根拠はないようです。また、邪馬台国問題に、なんでいきなり天の岩戸がでて
くるのですか?
14 :
>9:2000/10/30(月) 01:33
ノンポリ(死語?)もかなりムキになってるよ。
15 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 01:37
新スレになったら、レベルがた落ちしたね。
前スレだって大したことなかったけど・・・
16 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 01:39
秋山 彩香(あやか) さんへ
あなたのお説、たいへん興味深かったです。
あやかさんのHPなどありました、教えてください。
あそびにいきますんで。
17 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 01:41
魏志倭人伝が大したことないからね
18 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 09:45
邪馬台国を豊前、宇佐説を取っている学者や論客ってどの位いるの?
著書なんかの情報も知りたい。
19 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 10:03
>>6 >さて、これらより邪馬台国の女王卑弥呼、別名台与(→豊)の都を、
>「福岡県田川郡(京都郡の西)香春町」と考え、天の岩戸伝説の鏡の山を
>「香春岳(三峯)」と考えます。
おおぉ!これぞ我がまち、筑豊再生の切り札です!!
今や日本一のおまぬけ地域としてバカにされ続けているがの、
皆の衆、今の戦後日本の繁栄があるのは筑豊の石炭のおかげなのです。
感謝の念を忘れないように。
というわけで、ものは相談じゃが、
ここはひとつ、筑豊に邪馬台国を譲ってはくれまいかのぅ・・・
20 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 10:52
>ここはひとつ、筑豊に邪馬台国を譲ってはくれまいかのぅ・・・
村おこしのために邪馬台国を欲しがる地域は、日本中に沢山あるから、ちょっと難しいのぅ。
邪馬台(ヤマト)国への順路で、瀬戸内海に出るには、この近くを通っているから、
倭人伝に記された30国の1つには該当するんじゃないかのぅ。
不弥(フミ)国は、順路から行っても、名前が宇美と似ていることからも、
この近くにあった可能性が大きいと思えるぞよ。
21 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 11:29
筑豊には、「田」「稲」「穂」「宮」等のつく地名が多いので
元々、物成りの良い所ではあったかもしれないね。
22 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 11:38
修学旅行が立ち寄るぐらいの名所にならなければ、村おこしは難しいよ。
23 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 11:39
24 :
誌上論:2000/10/30(月) 12:37
なんで邪馬台国をさがしているの?
卑弥呼が邪馬台国にいた事を論証した人っているんですか?
倭人伝を読むと、女王国って不弥国のことだから、
不弥国に卑弥呼は居たのは分かるし、邪馬壹国に壹与がいたのは想像できるけど。
25 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 12:45
>22
観光の目玉がなかった佐賀県は、吉野ヶ里を邪馬台国と結びつけることにより、
観光財源となっている。佐賀新聞HPで検索してみれば分かる。
26 :
日本@名無史さん:2000/10/30(月) 14:24
>25
>倭人伝を読むと、女王国って不弥国のことだから、
よく読めよ。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
って書いてあるだろ。
邪馬壹國に女王(卑弥呼)がいたと書いてあるのだよ。
27 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 23:16
卑弥呼あげ
28 :
名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 23:35
250年頃倭が新羅の王族を殺したっていう記述が
三国史記にあるねえ。
あれってヤマタイの仕業なんだろうか?
29 :
弁詭:2000/10/31(火) 00:04
>6
>方角「南へ」を「東へ」に置き換えなければ成立しません。
>それを成立させるのは詭弁だと思います。
対馬から奴国までの行程記事の方角がだい分ずれている。
ねえちゃん、自分の顔歪んでるのわかんねえ。
30 :
おやくそく その2:2000/10/31(火) 00:53
>新スレになったら、レベルがた落ちしたね。
レベルがどうのこうのと言い出した時点から、堕落が始まるのだな。
>前スレだって大したことなかったけど・・・
こんなことブツクサ言ってないで、レベルの高いお題とやらを自分から出せよ。
31 :
日本@名無史さん:2000/10/31(火) 16:39
秋山 彩香(あやか) さんへ
豊前あたりに倭人伝の記述に沿って無理なく邪馬台国を
持っていく方法があります。
前スレでも言いましたが「壱岐から一海を渡る千余里」と書いてありますが
ここで方向は指定されていません。
マツロ国は壱岐の近くの松浦郡に当て嵌めるのが定説になっていますが
壱岐から呼子では五百里がいいところです。
壱岐から1000+α里となると博多湾から宗像海岸までが候補になります。
そこで宗像をマツロ国とすれば方向距離とも無理なく中津、豊前市に着きます。
宇佐を邪馬台とする説もあります。
つまりマツロ国を何処に比定するかで邪馬台国の位置は変ってきます。
マツロ国=呼子と言う学会の定説は倭人伝の記述に合わないと言う所に
着目すれば道は開けます。
32 :
日本@名無史さん:2000/10/31(火) 16:47
じゃあ、福岡市東区あたりを、そのマツロ国ということで・・・
時代が違うけど、金印が出た志賀島はマツロ国の祭礼場所と思えばいいですか?
33 :
日本@名無史さん:2000/10/31(火) 17:16
「漢の委奴国」と書いてあるので名前は「いど」国でしょう。
伊都国の前身かもしれませんが違うかもしれません。
200年も後のことなので「委奴国」が存続していたかどうか
判りません。
祭礼場所と言うのは当たっていないでしょう。
多分「委奴国」が他国に攻められて滅ぼされる前に隠したと
考えるのが正しいと思います。
祭礼場所なら他にもいろんな物が一緒に発見されたでしょう。
志賀島は「委奴国」の支配下にある島だった事は疑えませんが。
34 :
名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 17:17
金印には「漢委奴国王」と書かれており、奴国をさしおいて、
マツロ国と解釈するんじゃマズイだろ。
35 :
日本@名無史さん:2000/10/31(火) 17:28
>34
でも時代が随分違うぜ〜?
金印の漢委奴国と邪馬台国時代に奴国が同じだとは限らないだろ。
36 :
誌上論:2000/10/31(火) 18:14
>26
その部分で邪馬壹國が女王の都とする所だとは言えますが、
女王=卑弥呼とは、その文からは言えませんよね。
受け売り(先入観)で済ませずに、論証してくれませんか?
37 :
日本@名無史さん:2000/10/31(火) 22:19
海の中道〜志賀島
デートコース&走り屋コース
あげ
38 :
早蝿:2000/10/31(火) 23:53
>36
だれかほかに女王とかかれた人がいるかい?
39 :
九州説に質問:2000/11/01(水) 00:40
九州説同士でバトルすることはないんですか。
たとえば、宇佐説と阿蘇説は絶対に互いに相容れない不倶戴天の敵だと思うんですが。
九州でありさえすれば、いや、極論すれば畿内説でなければ、なんでもいいってことですかね。
40 :
日本@名無史さん:2000/11/01(水) 01:31
ちゃうちゃう!
一村一品だよ。
41 :
>39:2000/11/01(水) 02:44
古田と安本なんて思いっきり戦ってるじゃん。
でも、九州説と畿内説くらいだとまだ争点がはっきりするものの、
九州内の説同士では、どうしても大筋は似たようなものになってしまうので
細部をつつきあうことしかできないから、どうせ決着はつかんわな。
やるだけ無駄だよ。
42 :
日本@名無史さん:2000/11/01(水) 07:27
>>31 >壱岐から呼子では五百里がいいところです。
>壱岐から1000+α里となると博多湾から宗像海岸までが候補になります。
距離を記録通りに照らし合わせようとすると、
かえって間違いの元になるのでは?
確か、当時の中国の地図上では、九州の位置は現在の台湾あたりで
かなり南にずれているんじゃなかったかな?
43 :
名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 07:58
九州説は、どこを邪馬台国に比定するにしても、物的証拠がないから、盛り上がらないのでしょう。
畿内説であれば、邪馬台(やまと)国として大和が、卑弥呼の墓として箸墓古墳が挙げられるし、
水行20日+10日は、古代〜近世の行程を見れば、瀬戸内海と考えるのが妥当であるなど、
方向の齟齬を除けば、非常にすっきりした見方であることは明らかでしょう。
考古学的には畿内説で決着しており、今やこれを踏まえて、古代史を復元すべき時期に来ている。
44 :
日本@名無史さん:2000/11/01(水) 08:37
邪馬台国は、宇佐・中津地方でしょう。古墳が出てきていないといわれますが、
一番凄いのが残っています。それは、宇佐神宮の下です。宇佐神宮は、亀山といわれる
山の上に作られていますが、その山こそ卑弥呼のお墓です。ただ、御神体を壊すわけには
いかないので、調査が出来ませんが、学会で許可を取り、調べてもらいたいものです。
北九州や大分は昔から、中国や朝鮮と深いかかわりがあります。沢山変わった名前の地名があります。
たとえは、「安心院」=「あじむ」って読みます。
また、宇佐神宮に祭られているのは、天皇・皇后・そして「ヒメ大神」という
女神です。天皇より上に祭られている、この女性こそ「卑弥呼」です。
もう少し、宇佐神宮の調査を、専門家の人たちにしてもらいです。
45 :
>44:2000/11/01(水) 09:45
あれま〜
元彦発の電波を受信しちゃったのね。
よしよし、チューニングはそのまま。
はじめまして。
ところで、女王国と邪馬台国の関係はみなさんどうみておられるでしょうか。私は女王国とは「卑弥呼を共立した諸国の連合体」とみて、邪馬台国とは別の概念をあらわしたものと思っています。
そして、一里は約80メートルとみて、帯方郡から女王国まで
一万ニ千里という記述は、女王国の境界に入るまで(山口東部
付近)とする水野正好氏の説が正しいのではないかと考えています。
47 :
名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 12:34
邪馬台国の議論が、相変わらず里程などに関する妄説ばかりで埋め尽くされるのは、
21世紀を目前にして寒すぎる。
38の人が「だれかほかに女王とかかれた人がいるかい?」と指摘するように、
邪馬台国を女王国と言い換えただけと見るべき。
魏志倭人伝は、トンデモの本を売るための餌食とされ、デタラメな話が横行しているので、
古代史理解を大いに損なっている。
考古学的には畿内説で決着しており、その先のもっと深い部分を議論すべき時期でしょう。
48 :
日本@名無史さん:2000/11/01(水) 13:25
>33
奴を「do」と読むのはかなり時代が下ってからでは?(唐の時代ぐらいからだったと思う)
ましてや「to」とは読めない。(こちらはもともと「イド」と発音していたのが近世になって
「イト」と澄んだ可能性もあるが。ex:古代の郡名が「怡土」であったため)
漢の時代であれば(特に上古音で読めば)「Nag」でしょう。
委は「い」に近い音「Iuar」なのでそのままでのよいかもしれないが、
委奴は「いと」「いど」に比定出来ないと思います。
49 :
日本@名無史さん:2000/11/01(水) 16:59
古代中国の発音についてはあまり詳しくないのでなんとも
答えようがありませんが、地名などは記録されない限り人の
移動とともに移っていくものと言うのが持論で、200年、
400年たった後世の地名が似ているからと言って同じ場所
だと断定するのは正しい姿勢とは言えません。
例えば宗像にいた委奴国の人が追われて怡土郡の辺りに移り住み
(濁音がとれ)「いと」と名乗る事は何の不思議もない事ですから。
魏の時代に邪馬壹国だったのが宋の時代に邪馬臺国に変わっていても
不思議ではない。しかし魏の時代には間違いなく邪馬壹国だった。
名前にとらわれすぎず、上陸ポイントをもっとフレキシブルに考えて
唐津から宗像海岸までの何処かと考えて邪馬台国を捜すのがいいのでは。
50 :
誌上論:2000/11/01(水) 19:06
>38
>だれかほかに女王とかかれた人がいるかい?
倭人伝を全部読んだ事がないのでしょうね。壹与がいます。
倭国の歴史記事の部分も読みましょう。
51 :
48:2000/11/01(水) 19:17
>49
何が言いたいのかさっぱりわからん。
あなたは33ですか?委奴=伊都国としたいのなら
>地名が似ているからと言って同じ場所
>だと断定するのは正しい姿勢とは言えません。
なんてせりふが出てくるとは思えないが。(もっとも考え方自体には
ある程度賛同する。しかしこんなことを言ってしまえば地名比定など
まったく意味がなくなるので、ある程度の蓋然性はあるものとして考えた方が
よいかと思う。)
しかも
>魏の時代には間違いなく邪馬壹国だった。
とはどんな根拠?魏志倭人伝は原本が残っていないのは知ってますか?
写本の校合から壹は臺の誤りである蓋然性が高いのは理解できますか?
(このあたりは前スレの終わりぐらいに詳しく書いている方がいる)
さらに
>上陸ポイントをもっとフレキシブルに考えて
>唐津から宗像海岸までの何処かと考えて邪馬台国を捜すのがいいのでは。
余計に邪馬台国の位置があやふやになると思うのだが。弥生末期〜古墳時代の
遺跡から見て、唐津付近もしくは糸島半島が朝鮮ルートの上陸地点としてもっとも
合理的であると思われる。
52 :
早蝿:2000/11/01(水) 20:11
>50
>>だれかほかに女王とかかれた人がいるかい?
>倭人伝を全部読んだ事がないのでしょうね。壹与がいます。
>倭国の歴史記事の部分も読みましょう。
おりょ?それじゃ倭人伝を全部読んだ事のあるアナタ
魏志の倭人伝に壹与が「女王とかかれた」部分を原文まま引用してちょ〜!
53 :
沈黙する九州説:2000/11/01(水) 20:19
オレの見るところ、九州説っていうのは畿内説を攻撃するときにはもの
すごく饒舌になるくせに、自説を論証しようって様子がさらさら見えない。
星の数ほど九州説はあるんだから、確とした論拠があるなら、もっと論争があってしかるべきなのだが。
実際、前スレを含めて、九州説の誰がどこに邪馬台を比定しているのかさっぱり分からん。
阿蘇説が一名いることだけは分かったけどね。
>41
>九州内の説同士では、どうしても大筋は似たようなものになってしまうので
宇佐と阿蘇では根本的に違うと思うがねぇ。
倭人伝の記事の解読も考古資料の解釈も異なってるはずだが。
おそらく時代認識も違うとおもうな。
>どうせ決着はつかんわな。やるだけ無駄だよ。
これは、九州説内で決着してないことは、
★★★畿内説との論争においても論点にしない★★★
という宣言と受け取っていいか?
54 :
九州倭王の墓:2000/11/02(木) 00:48
>一番凄いのが残っています。それは、宇佐神宮の下です。
宇佐じゃないがもっと凄いのを読んだことがある。
“海の正倉院”、沖ノ島こそ邪馬壹国にはじまる九州倭王の墓
なんだそうな。
畿内を含む全国の古墳の副葬品が沖ノ島で見つかった遺物とほぼ同じな
のは、沖ノ島に葬られた九州倭王が配布している証拠だとさ。
トンデモ度においてもそのスケールにおいても、こっちの勝ちだな。
55 :
日本@名無史さん:2000/11/02(木) 10:46
行方不明?
56 :
日本@名無史さん:2000/11/02(木) 16:07
唐津上陸なら佐賀市、柳川あたり。
博多上陸なら甘木あたり。
宗像上陸なら宇佐付近。
だけど倭人伝の記述見ると不弥国、邪馬台国は海に面していた可能性大
だから内陸部の甘木は除外だね。
不弥国の南に水行20日「ツマ」国ありだから佐賀、柳川が一番それらしい。
(不弥、邪馬台は隣接していたと見ている。)
57 :
日本@名無史さん:2000/11/02(木) 17:31
age
58 :
日本@名無史さん:2000/11/02(木) 17:33
>56
そのあたりに3世紀頃の大規模な遺跡ってありましたっけ。
ある程度散在してたかもしれないけれど、7万戸程度の人家と
巨大な宮殿、径百歩の古墳がなければいけないのだが。
少なくともその一部は発見されていないと。
59 :
名無しさん@1周年:2000/11/02(木) 19:23
>58
邪馬台国畿内説だと、径百歩の古墳は、巫女的な女性の伝説を持つ箸墓古墳があるし、
7万戸程度の人家は、畿内で考えれば埋められるし、5万戸の投馬国は吉備でOKだし、
両者の関係も、畿内発祥の前方後円墳と、吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)の融合で、
友好関係が伺える。前方後円墳体制が西日本に拡がっていることで、一大率を置いて
睨みを利かしているイメージともマッチする。
狗奴国と戦っているのは、東海発祥の前方後方墳体制が、東日本に拡がっているとマッチする。
今ほど土器編年が精緻でなかった時期は、古墳の形態の違いは、ランクを表すと考えらたりしたけど、
特定の時代と地域に限定して見られることが分かって、イメージが変わってきたことや、
年輪年代学の進歩で、かつての年代観はいい加減なものだったことが白日の下に晒され、
今や、畿内説で決まりと言って良く、その次の段階の議論をするべきでしょう。
60 :
名ありよん@新参:2000/11/02(木) 21:18
で、最終的に九州説には
考古学は信じないっていう頑固老人とか
倭人伝ちゃんとよめば卑弥呼は不弥国にいたと書いてあるという脳たりんさんとか
そういうカスばかり残ったわけだ。無残だな。
61 :
懐の深い九州説:2000/11/03(金) 00:06
この三つが共存できるってのは、賞賛に値するなぁ。
>唐津上陸なら佐賀市、柳川あたり。
>博多上陸なら甘木あたり。
>宗像上陸なら宇佐付近。
この三説に共通に含まれているはずの、
【九州でなければならないポイント】
って何?
>(不弥、邪馬台は隣接していたと見ている。)
ひょっとしてこれだけ?だとしたらあまりに寒い。
62 :
土御門:2000/11/03(金) 08:37
近畿に考古学的資料が豊富にあることが、近畿説支持の論拠に
なるとしたら、危険である。たとえばエクアドルの日本人移民は、
日本列島の日本人より、極めて日本的精神の特質を保存していますが、
だからといって、エクアドルが日本の故郷だ、という主張はナンセンスです。
この場合、列島の日本人の精神的特質は、敗戦により徹底的に
破壊されてしまった、というだけのことです。
同様に、九州の邪馬台国連合の都も徹底的に破壊された、と考えることも可能です。
どこの国が破壊したか。有力候補は熊襲です。
邪馬台国連合は近畿に逃れて、その一帯に元いたところの地名をつけ、
そして、過去の恥を消し去った…。
箸墓とて、気の毒な死に方をした女王を近畿で弔った、と考えることも可能です。
そして近畿政権が安定し出すと、次はリベンジ。
熊襲の徹底的殺戮は記紀にも一部記録されています。以上、仮説として。
学会が近畿説で収まったという事実はありません。
63 :
早蝿:2000/11/03(金) 09:03
>62
考古学は「日本的精神の特質」なんか研究してないけどな。
64 :
土御門:2000/11/03(金) 09:22
たとえばなし。
65 :
早蝿:2000/11/03(金) 09:33
たとえが変だって意味なんだがな。
都が徹底的に破壊されて、火をかけたあとの焼け棒杭なんかみんな掃除して、柱孔も埋めて、土器のかけらも回収したとかいうことかな。
66 :
日本@名無史さん:2000/11/03(金) 10:01
九州はの、地面に不自由しちょらんからの、
近畿みたいにやたら滅多開発っちゅうて、
掘りくり返さんでもいいとですたい。
本気で探検ごっこすりゃあ、なんでもかんでも出てくるわな。
67 :
早蝿:2000/11/03(金) 10:11
…と、夢を未来に託すわけだ。
この年末ジャンボは当るから俺は大金持ちだというわけだな。
まあ九州説のひとでも「ここだ」と言って自分で掘っちゃう根性のある人もいて、彼等には敬意を表するよ。
たとえ悲しい結果になってもな。
68 :
土御門:2000/11/03(金) 10:17
たとえばなしが変と言われても…考古学が「日本的精神の特質」を
研究するなどと言った馬鹿なことはありえないので、そういう
馬鹿なことに結びつけること自体を想定してたとえばなしを引用
したわけでは…。
ちょっとくどいか(^^ゞ
さて、このような場合、墳墓などの祭祈エリアを破壊するのが普通です。
銅鐸圏で銅鐸を埋めてしまった例などもあります。
火をかけたあとの焼け棒杭など、普通は今日まで残りません。土器は使えるものは侵略者側が使うのが普通です。リサイクルってなわけで。
69 :
名無しさん@1周年:2000/11/03(金) 11:41
九州説の苦し紛れの言い訳が寒すぎる。
考古学的には決着しており、学問的には邪馬台国論争は20世紀で終了。
70 :
土御門:2000/11/03(金) 11:42
まさか。
71 :
早蝿:2000/11/03(金) 12:00
>69
非学問的には、続く。
証拠がなくってもいい理由を捻り出しながらね。
72 :
早蝿:2000/11/03(金) 12:06
>68
>さて、このような場合、墳墓などの祭祈エリアを破壊するのが普通です。
銅鐸圏で銅鐸を埋めてしまった例などもあります。
征服者が壊して埋めたなんて説はトンデモだから例になんないけどな。
73 :
日本@名無史さん:2000/11/03(金) 12:12
>九州説の苦し紛れの言い訳が寒すぎる。
言い訳って言うかさぁ、これ九州説じゃないじゃん。
「畿内説攻撃」説だろ。九州じゃなきゃいけないって根拠何一つ書いてない。
74 :
日本@名無史さん:2000/11/03(金) 12:22
>>銅鐸圏で銅鐸を埋めてしまった例などもあります。
>征服者が壊して埋めたなんて説はトンデモだから例になんないけどな。
ほぼ同じ時期に、銅鉾圏では銅鉾が壊されてれるんだよね。
銅鐸が壊されたことを理由に畿内説を否定するなら、同じ理由で九州説も放棄しないとね。
75 :
名無しさん@1周年:2000/11/03(金) 12:27
>73
たしかに「畿内説攻撃」説に過ぎないものでした。
今となっては、九州説はトンデモとしてしか、生きながらえる術はなさそう。
76 :
日本@名無史さん:2000/11/03(金) 12:28
>火をかけたあとの焼け棒杭など、普通は今日まで残りません。
実際には出土してるんだが。知らんのかとぼけとるのか。
ネタだったったらごめんな。
77 :
土御門:2000/11/03(金) 12:53
普通は今日まで残りません。「普通は」。読み落とすなよ。
78 :
早蝿:2000/11/03(金) 17:48
じゃ、伊都国が燃えて滅んでるのがわかってるのは普通じゃないんだな。
普通と普通じゃないって、どう決めたんだ?
79 :
日本@名無史さん:2000/11/03(金) 21:22
焼けた木材がなくても、土が焼けるからわかるんだよね。
大土木工事やって、竪穴住居の痕跡を徹底的になくさない限りね。
80 :
土御門:2000/11/03(金) 22:30
腐
81 :
早蝿:2000/11/03(金) 23:14
フ?
82 :
68に問う:2000/11/03(金) 23:37
邪馬台を九州のどこに比定するんだい?
68=56なら、61に回答してくれ。
68=56でないなら、56に対して同じ九州説として何か意見があるだろう。
それを聞かせてくれ。
83 :
土御門:2000/11/04(土) 08:43
無礼者(^^ゞ
84 :
82に物申す:2000/11/04(土) 10:00
85 :
58を書いたものだが:2000/11/04(土) 11:57
しかし「考古学資料」と「精神」とごっちゃにして(たとえ話としても)論じるような人と
論争したくは無いなあ。
九州が開発が遅れていて、考古学資料があまり多くないと言うのも言い訳としてはつたない。
なぜなら縄文時代の資料は開発が一番遅れていてもおかしくない南九州からも豊富に
出土しているし、弥生時代の遺跡に至っては、そのころの日本の中心は北九州にあったと
言っても過言ではないほど規模・種類ともに充実している。
これらの時代の資料が出土していて、3世紀以降の大規模な遺跡は未開発のため出土しません
と言うのはいくらなんでもおかしいと思う。
86 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 12:14
縄文時代の遺跡って、今でも「ど田舎」に多いと思わない?
対して弥生時代って、そこそこ繁盛してるとこから出てくる。
87 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 13:32
繁盛しきっているところからは逆に出にくい。
大阪市内には数百の古墳があったはずだが、度重なる開発によって
ほとんどが行方不明。痕跡があってもたいした出土品が無い。
88 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 14:50
>87
「そこそこ」がポイントね。
都心部より郊外のバイパス建設予定地とか新興住宅街とか。
例)梨田監督のおうち
89 :
58=85:2000/11/04(土) 15:05
遺跡調査についての追加。
私は福岡市の南のはずれに長い間住んでいたのですが、ボランティアで何度か
遺跡の発掘調査に参加したことがあります。現在立派な考古学博物館になっている
遺跡だけでなく、山の中の本当に小さな古墳(直径が10mに満たない6〜7世紀ごろの
古墳)まで丹念に調べていました。
九州にはアマチュア史家が多く、ボランティアでもたくさんの方が参加していました。
さらに各地方自治体の教育委員会も専門の調査員を置いて、それぞれが協力し合って
遺跡の発掘・調査を行なっています。(そのときの知り合いは現在、中世の山城の調査を
やっているそうです)
例え開発が無くても、奈良や島根と同じぐらい遺跡調査に関しては熱心な土地柄だと思います。
前の方のレスにも「宇佐神宮の下は調査されていない。ここに卑弥呼の墓があるはずだ。」
と言うのがありましたが、宇佐神宮の下はともかく周辺地域の発掘状況を調べた上での
結論なのでしょうか?
90 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 15:16
うちの大学の考古の連中もしょっちゅう駆り出されてたよ。
91 :
58=85=89:2000/11/04(土) 15:52
92 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 17:58
こういうこともあるんだね。
******************************
春日市教委 須玖岡本遺跡の土地購入「奴国の王墓」解明へ
初の学術調査に期待(西日本新聞)
福岡県春日市教委は三日、中国の史書「魏志倭人伝」にも登場する
「奴国(なこく)」の王墓と推定されながら、
民有地にあるため発見以来一世紀にわたって学術調査が行われていない
「須玖岡本遺跡・王墓地点」(同市岡本)について、
本年度中に初めて土地の一部を購入する方針を明らかにした。
同市教委は今後、さらに土地を追加購入して本格的な発掘調査を行い、
奴国の最重要遺跡の全容解明を進める方針だ。
「王墓地点」は現在、民家の密集地の下にある。
一八九九年、民家を建築中に偶然、甕棺(かめかん)墓が見つかり、
古代中国の前漢鏡などが多数出土したが十分な調査も行われないまま埋め戻された。
春日市は長年、調査と保存を検討してきたが土地購入のめどがたたず、
学術調査は見送られていた。
ところが昨夏、王墓のほぼ上にある民家の地権者から引っ越しに伴う
敷地売却話が持ち上がり、市は本年度、半分の約二百平方メートルを
購入することを決めた。残り半分は今後、状況をみて購入し、
この地権者分の土地購入が終わった時点で発掘調査に入る予定。
同市教委は「調査と保存へ大きな一歩になる。
今後の調査でさらに重要な遺物が出土するかは分からないが、
まずは王墓や王墓周辺の全容解明が重要」と話している。
*******************************
93 :
ざれ歌:2000/11/04(土) 20:38
ちかごろ九州説に流行るもの
誤読、こじつけ、考古不信
書き逃げ、沈黙、言い逃れ
突っ込まれたら「わたし素人」
94 :
>86:2000/11/04(土) 22:06
・縄文時代は海面が高かったので、この時代の遺跡は現在の台地に多い。
・弥生時代も今よりは海面が高かった、というか平地が沼だったが、水稲はそういう湿地に植える物なので弥生時代の遺跡は現在平地になっているところに多い。
・現代、都会は平野に広がっている。しかし都心部は弥生時代にはまだ海だった。
というところでしょうか?
飛鳥〜奈良時代の遺跡は、当時沼地だった奈良盆地や大阪平野のうち、少し高台になったところにあります。
邪馬台国に関係ないレスでごめんなさい。
95 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 23:04
考古学派の人で、畿内説にほぼ決定みたいな事を言うけど、それで、何が分かったの?
畿内のどこですか。
魏志倭人伝なくても、邪馬台国を雄弁に語れるものがあるのかい?
沢山、遺跡があるのに、まだ決定的な証拠がみつからないのは何故だと思ってるの?
具体的な事を言わない考古学派の言うことが信用できるわけないでしょ。
96 :
早蝿:2000/11/04(土) 23:22
>畿内のどこですか。
畿内ぜんぶだろ?
で、九州説=非考古学派としては、胸はって言える具体的な事は何?
97 :
九州説壊滅宣言:2000/11/04(土) 23:43
結局回答なしか。誰も九州説を論じるヤツはいないのか。
ここに九州説壊滅を宣言しておこう。
もはや九州説は存在しない。
今あるのは、「畿内説は絶対に認めたくない」説だけだな。
だだっ子といっしょ。攻撃にすらなってない。
99 :
日本@名無史さん:2000/11/04(土) 23:59
橿考研の河上邦彦調査研究部長が
「10年後の教科書には、邪馬台国は大和(奈良県)にあったと書かれているだろう」
とシンポジウムで発言したらしいね。
100 :
ちんちん@名無史さん:2000/11/05(日) 00:00
最近の考古学の発展で九州説は壊滅したからねーーーー。
かくいう、私も畿内説に転向。
101 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 01:55
>100
同じく転向組です。
戦後の、根拠なく古墳時代の始まりを著しく遅らせる、非科学的な運動に騙されて、
弥生時代の畿内じゃ、お話にならないと思って、消極的に九州説を支持していました。
これは、例によっての戦後の歴史捏造工作の一つであり、年輪年代の進歩などで覆され、
卑弥呼の時代は古墳時代で、箸墓古墳が有力候補として再浮上しており、
古墳時代初期には、東国は前方後方墳体制が拡がっており、著名な考古学者の本でも、
狗奴国を東海に比定する見方が、一般化しつつあり、魏志倭人伝を統一的に理解でき
つつあります。20世紀の終わりまでに、ようやく古代史が正常化してきて良かった。
102 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 02:06
九州に邪馬台国の副都があるんだよ。
大陸と交渉を持つにはその方が便利。
103 :
活目:2000/11/05(日) 02:18
そういう政治がらみってもんでもないでしょう。
実態としては、巨大古墳と記紀の記述を結び付けることに拘って弥生の年代観まで狂わせてしまっていたというところではないでしょうか?
そういった幻想の上に
「邪馬台国=九州←考古学も支持」
っていう空中庭園が浮かんでいた。それが墜落して
「邪馬台国=九州→考古学はあてにならない→畿内派が洗脳」
っていうトンデモ本の陰謀史観になった。瞑目。
104 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 02:42
>102
魏志倭人伝には、邪馬台国が伊都国に置いた一大率を、諸国が畏れたとあるように、
後世の太宰府のような、出先としての役割を成していたのでしょう。
105 :
日本@名無史さん:2000/11/05(日) 04:03
畿内の全部というその根拠は考古学的にどう分かったんですか?
#九州説とかは、都の中心部はここだみたいなレベルでクニ境を主張
するものは少ないけど。畿内説にはまともそうな根拠はあるんでしょ。
答えもらえないと、畿内説も根拠ないのに言っているんだと理解しますよ。
106 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 04:27
今や確定的な畿内説だけど、中心は纏向で、領域としては、ほぼ畿内全域を考えているでしょう。
畿内発祥の前方後円墳体制が、広範囲に拡がりつつあったことから、推定するのが妥当だろう。
107 :
猫間中納言:2000/11/05(日) 04:57
>105
これはたぶん第V様式系文化圏の広がりと7万戸という戸数を刷り合わせた推定じゃのう。
いい線ではないかな?
108 :
電波:2000/11/05(日) 05:41
ここです
109 :
土御門:2000/11/05(日) 11:15
世界共通の権力正統性原理というものを、日本に限っては認めない、とすれば、近畿ヤマト説は成立する可能性があります。
しかし、およそこの権力正統性原理は普遍的なものであり、日本だけ例外ということはありえません。事実、記紀もすべてこの原理に則っています。
この原理に基づけば、邪馬台国(ヤマトであって、ヤマタイでも邪馬壹でもないことは、重母音を厳密に忌避する日本語にあっては明らかです)の名を正確に引き継いだ大和国は、卑弥呼の名(それが普通名詞であれなんであれ)を権力の正統性を記述した記紀に肯定的にせよ否定的にせよ、書き残さなければなりません。
事実、記紀は王統を記述していますが、卑弥呼は敵としても味方としても、一切出てきません。
また、邪馬台国の敵側の王である卑弥弓呼の名前も記録に残さなければなりません。
さらには、近畿に邪馬台国があるなら、天津神々は、近畿で長髄彦と戦う必要もありません。
また、倭国は航海するとき、持衰を置く風習がある(つまりそれが倭国の特徴であるわけです)と倭人条には記述されていますが、この持衰は安曇磯良と係わりがあります。しかし安曇磯良は九州北部で祭られてはいるものの、近畿では皆無です。
つまり、近畿でも航海は当然していたわけですが、この風習に関しては、何の痕跡もありません。磯良の名前ぐらい出てきてもよさそうですが…、なにせ航海安全の神様なのです。
さらには、近畿邪馬台国を簒奪して近畿大和国とし、新発足させた場合、権力正統性原理に基づき、近畿邪馬台国の記録をその官職名も含めて、引き継ぐか、あるいはそうまでしないとしても記録しておくのが普通です。
しかし、記紀の編纂者は、魏志倭人条で初めて邪馬台国や卑弥呼の名前を知ったごとくであり、卑弥呼を神功皇后に仮託するなどしています。
ということは、邪馬台国や卑弥呼など、かれらの「記憶」にはなかったと言うことですが、このことは、邪馬台国はかれらのいる場所とは別の島のことであることを傍証しています。
以上の疑問を超克して初めて、近畿優勝となるわけですが、近畿説論者はこれらのことにつき、なんら言及していません。
考古学的事実は、その遺跡に「卑弥呼」という文字が刻まれていて初めて担保されるのであり、そうでない場合は、単なる一般的資料に過ぎません。
110 :
早蝿:2000/11/05(日) 12:09
今どきの九州説レベル低下を象徴するようなカキコだな。
磯良神社なら大阪にたくさんあるだろう。
で、遺跡に卑弥呼と書いてなきゃ畿内と信じないくせに
何一つ出ないところに邪馬台国があるとか言って
またダブスタるのかな?
111 :
韃靼海峡:2000/11/05(日) 12:16
これもイカサマ。いいたい放題だもんな。邪馬台国。
だって、文字がないんだから。
112 :
名無しさん@おなかいっぱい:2000/11/05(日) 12:30
磯良って、大阪のどこにあるの?
113 :
名無しさん@おなかいっぱい:2000/11/05(日) 12:32
>だって、文字がないんだから。
まさかね。すでに漢字は知っていたぜ。
でなきゃ、中国とどうやって交渉するんだ。
114 :
御門:2000/11/05(日) 12:39
滋賀県高島郡高島町鵜川の白髭神社と京都府八幡市八幡高坊の
石清水八幡宮のたった二つ。いずれも九州から安曇氏が勧請したもの。
115 :
早蝿:2000/11/05(日) 13:48
>114
さっきは--近畿では皆無--って言ってなかったか?
茨木市三島丘に磯良神社
茨木市西河原の新屋坐天照御魂神社も磯良神を祭る
三重の須伎神社も磯羅神を合祀
安曇がいるんだから探せば出てくんじゃないの?
116 :
素人の ど素人:2000/11/05(日) 14:18
邪馬台国は近畿ではないのですか。夢ん中に時々出現され召されて9次元の世界で現在までのを見聞きしてるから大和と断言します。
内陸から追いやられた少数が島島を転々として、つかの間九州に落ち着いたが、なんせ火の国で災害も多く次々と似た者が押し寄せて争いが絶えなかったから。
生き延びる手談として少数に分散し新天地すなわち都の地を探す旅にを企画した。
九州を外敵対策基地にし瀬戸内海航路と黒潮航路を起立させ先ず日本海側に拠点を建設しながら旅を続け全国を制していった。
各地の情報を集め検討した結果、大和は山々に囲まれ特に海むから防守に向いていたし食料確保、建築材も豊富でしかも交通の中心に向いたから、平安な都創り最適な地であった。此処を基点に又分散を繰り返しながら。
年数回全国から同士が集まり祭典を行ったのが飛鳥で保養地の感になったので、権力者は神聖な地に文化芸術と一緒に祭られた祭典の時に皆に会えるように。
海に近い拠点は外敵の侵略によって幾度も苦難を繰り返した結果勢力が減少したから、文化面まで手がまわらなかったので記録も消されるにいたった。
なんせど素人の夢んの中の話ですので根拠資料文書はありません伏せしてご容赦のほどよろしくお願いします、後は専門化の分野ですから論議してお聞かせいただけたら嬉しいです。
参照資料として残された物、木の年輪 銅鐸品なんかはあまり参考にならないのでは、それよりDNC鑑定ですか、、詳しく知らないですがその方が興味深い気がします。
117 :
素人の ど素人:2000/11/05(日) 14:19
邪馬台国は近畿ではないのですか。夢ん中に時々出現され召されて9次元の世界で現在までのを見聞きしてるから大和と断言します。
内陸から追いやられた少数が島島を転々として、つかの間九州に落ち着いたが、なんせ火の国で災害も多く次々と似た者が押し寄せて争いが絶えなかったから。
生き延びる手談として少数に分散し新天地すなわち都の地を探す旅にを企画した。
九州を外敵対策基地にし瀬戸内海航路と黒潮航路を起立させ先ず日本海側に拠点を建設しながら旅を続け全国を制していった。
各地の情報を集め検討した結果、大和は山々に囲まれ特に海むから防守に向いていたし食料確保、建築材も豊富でしかも交通の中心に向いたから、平安な都創り最適な地であった。此処を基点に又分散を繰り返しながら。
年数回全国から同士が集まり祭典を行ったのが飛鳥で保養地の感になったので、権力者は神聖な地に文化芸術と一緒に祭られた祭典の時に皆に会えるように。
海に近い拠点は外敵の侵略によって幾度も苦難を繰り返した結果勢力が減少したから、文化面まで手がまわらなかったので記録も消されるにいたった。
なんせど素人の夢んの中の話ですので根拠資料文書はありません伏せしてご容赦のほどよろしくお願いします、後は専門化の分野ですから論議してお聞かせいただけたら嬉しいです。
参照資料として残された物、木の年輪 銅鐸品なんかはあまり参考にならないのでは、それよりDNC鑑定ですか、、詳しく知らないですがその方が興味深い気がします。
118 :
日本@名無史さん:2000/11/05(日) 16:41
あなたと私の心の中に。
119 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 18:14
>109
安全な瀬戸内海の旅と、命がけの外洋の航海を、同列に扱おうとするのが厨房。
120 :
御門:2000/11/05(日) 18:29
瀬戸内海は当時から水軍の根拠地。
安全どころではない。
121 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 19:20
120は時代考証をやり直した方がいいな(わら
122 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 19:22
それに、中世の水軍は、報酬さえやれば、その地域では用心棒になったわけ
123 :
御門:2000/11/05(日) 19:51
倭寇は漢代にもある。倭寇はなにも外国ばかりを攻めたわけではない。
列島内のほうが、より手っ取り早いのは当然。
121は己に(わら …だな。
124 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 20:00
>123
根拠となる出典は何だ?
125 :
御門:2000/11/05(日) 20:54
BC14 倭人、軍船約100艘で新羅の海岸周辺の民家を略奪。(三国史記1)
公平を期して言えば、この倭人が列島の倭人なのかどうかわからないが、倭人は倭人だ。
三国史記にはこういう例が沢山ある。通説は列島居住の倭人。
列島の倭人なら、当然瀬戸内海も跋扈しているはず。餌場にいないと考えるほうがおかしい。
126 :
早蝿:2000/11/05(日) 21:35
なんのために持衰がいるんだ?
風呂はいらないと海賊が襲ってこないのか?
病人が出たり暴風に遭ったりしたら持衰を殺すって書いてあるだろ。
ひいた例も変。神話伝説時代の記事を典拠とするのも眉唾なら
後世の海賊のイメージで解釈するのも安易。
だいたい海賊が瀬戸内の王たちだったりするんじゃねぇの、あのころは?
127 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 21:43
新羅は未開な国で、4世紀後半まで、頭角を現していない。
三国史記の古い記事は疑わしい。
128 :
御門:2000/11/05(日) 22:15
程度が低いぜ。2CHだから仕方ないか。やめた。
129 :
早蝿:2000/11/05(日) 22:26
↑と捨て台詞を言って逃亡。
あんたのレベルじゃどこ行っても通用しないよ。
何トンチンカン言っても社交辞令で軽くいなしてくれるとこ探しなよな。
130 :
御門:2000/11/05(日) 23:06
逃げたわけじゃない。2CHだから仕方ないから、程度が低いって言っても仕方ないから
言うのを止めた、と書いたのだ。
その程度の読解力かいな。←とまた言ってる。ま、2CHの乗り。
本気じゃないから真に受けないでくれ。
>なんのために持衰がいるんだ?
持衰の意味が分かっていない。ようはお呪(まじな)いだ。
しかし記紀には持衰など登場しない。これはおかしい。
使者ですら興味を持ったのだ。
>後世の海賊のイメージで解釈するのも安易。
後世の海賊のイメージ?
海賊は海賊だ。武器も似たようなもの。
船の大きさは、船数でカバーできる。安易とはさかしらな。
>新羅は未開な国で、4世紀後半まで、頭角を現していない
頭角を現わすのと、倭寇のような類に襲われるのとなぜ同列に置くんだい?
未開ならなおされ襲いやすいに決まっているだろうに。
近畿大和(明日香)に使者が行ったとしたら、どうやっていったか。
ヒントは万葉集に詠われている。
難波津から大和川を遡上し、さらに初瀬川を遡って、終点、泊瀬で
船から降り、そして飛鳥川で再び明日香まで行ったわけだ。
これも水行。
しかし、遡上ゆえ、両岸から綱で船を引っ張った。当然、徒歩より遅い。
休憩も多い。それを近畿では陸行とを笑わせる。
>あんたのレベルじゃどこ行っても通用しないよ
真摯に受け止めたい。(わら
131 :
早蝿:2000/11/05(日) 23:26
>持衰の意味が分かっていない。ようはお呪(まじな)いだ。
だ〜か〜ら、海賊よけのおまじないだって言うわけ?
強弁しないで勉強しろよな。
>真摯に受け止めたい。(わら
ひとつ真剣に頼むぜ
132 :
名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 23:29
>130
楽浪郡の旧領を押さえた百済でも、4世紀後半の近肖古王の時代から、
文書に記録を残すようになったと、三国史記に書かれており、
日本書紀引用の百済系史料は、ここからである。
未開な新羅の、古い時代の記録など当てにならないと言うこと。
日本書紀の記事を疑う癖に、非常に未開な新羅の記事を信じる神経はどうかと思う。
日本書紀によると、隋の使節は、瀬戸内海を渡り、難波で上陸し、その後は陸行している。
九州説の発言で、魏志倭人伝を、システマティックに説明できているものは見ない。
単に、畿内説に毒付いて自己満足しているに過ぎないものばかりで、寒い。
133 :
ストッキング:2000/11/05(日) 23:30
意味が分かっていない?
134 :
ストッキング:2000/11/05(日) 23:34
>日本書紀によると、隋の使節は、瀬戸内海を渡り、難波で上陸し、
その後は陸行している。
恐縮ですが、日本書紀のどこにそう書いてあるのかお教えください。
古代学会がひっくり返ります。
135 :
名無しさん@おなかいっぱい:2000/11/05(日) 23:39
書いてない。
136 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 09:41
畿内説によると邪馬台国が九州まで支配していたのに
対立する狗奴国がすぐ近くにあった。
畿内にあって九州を支配するほどの大国が魏のお墨付きまで
貰って何とかしようとした狗奴国って何処にあったの?
畿内説は出土する遺跡だけが頼りで倭人伝の記述に合うものは
一つもない。
137 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 10:45
出土品は全部白紙に戻さんといかんようだな。
138 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 11:10
>136
レス全部読んでる?
>>59あたり読んでから議論に加わって。
139 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 11:54
古墳から出てきた木片のC14が古い年代示したと言うのも
捏造じゃないか?
なんに使われたか判らない木片を測定して古かったと言っても
どうかなあ。
古代史学会は捏造がよくあるらしいから。
140 :
↑:2000/11/06(月) 12:01
これからこういうこと言うバカが増えるんだろうな
141 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 13:32
>138
畿内を中心に九州まで支配していた邪馬台国が東海地方のロクに遺跡も
ないちっぽけな国に苦労していたというのか?
北九州連合位なら南とか東にライバルがいても不思議はないが。
142 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 13:46
>141
もっと後世の大和朝廷は、アイヌのような統一国家の実体も無い民族に苦労していたように
思えるが。(アイヌ民族を馬鹿にする意図はないので念のため)
東海ではなくて出雲〜北陸系統の国だったかもしれない。(私はこちらの方が可能性が高いと思う。
記紀の記述にも出雲の扱いに独特なところがあるし。)
北九州連合では魏志倭人伝の扱いからすると小さすぎる。
「宮城県に所在した」に一票。
あると思って探せば見つかるものさ。
144 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 14:07
しっかし九州説ってほんと近畿説の攻撃しか興味ないんだね。
>>130 持衰の話も結局は「記紀に載ってない」ってだけだろ。
北部九州にその痕跡があるなら、それでいいじゃないか。近畿説にはなんの反証にもならない。
魏の使節が最初に訪れるのは北部九州だというのは近畿説でも否定していない。
単にそれが近畿の風習ではなかったと言うだけ。
145 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 14:17
なんだかんだいってもタイムマシンでも発明されない限り決着がつかないんだからごちゃごちゃいっても仕方ないでしょう
---------------------------------------完---------------------------------------
146 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 14:51
「漢委奴国王」の金印が18世紀の捏造でなかった証拠はいかに?
147 :
名無しさん@1周年:2000/11/06(月) 15:06
18世紀には捏造できるだけの知識はなかった
148 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 17:03
金といえば当時は今よりもっと価値のある物。
発見した百姓においそれと偽造出来ないよ。
石っころや腐った木片とは違うわな。
腐った木片発掘跡に放り込む事は簡単。
149 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 20:25
↑考古学に対する無知・無理解のほどを象徴する投稿だなあ。
もし有名なアマチュア歴史研究家がニセ古文書作って発表してたら
文献史学ぜんぶ信用しないって言うのかな。
150 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 20:43
そう言えば、東北は屋根裏から古文書が落ちてくる土地柄でしたね(w
151 :
名無しさん@某板難民:2000/11/06(月) 20:54
>>146-148
すみません、これって、ネタなんでしょうか?
ここって、日本史板ですよね。
いえ、ここは初めてなもんで、様子がわかんないんです。
マジレス付けるのは、野暮ってお約束があるんですか?
152 :
名無的発言者:2000/11/06(月) 21:01
>149
文献史学者は、考古学者より優秀だからニセ古文書に騙せる事は無い。
考古学者は、馬鹿だから騙されるんだよ。
153 :
日本@名無史さん:2000/11/06(月) 21:57
突然で申し訳ありませんが、九州説を取る場合、どうして東へ進んだのですか。
東に魅力的な土地や国でもあったのですか。
普通九州を統一した場合、当時でしたら、対岸の朝鮮半島や中国に興味がいく
と思いませんか。
東遷して後顧の憂いを除き、朝鮮半島に出兵するためと言ったような後世に
考えるようなことは説得力がないと思います。
何があって東遷したのでしょうか。
また、なぜ九州と言うのでしょうか。
九州とは中華と同じ意味でこの世界を意味すると聞いたことがありますが。
あと、どうして倭の場合だけ、倭人というのですか。伊都人とか狗奴人とか
言わないのですか。国家ではなく、部族レベルだったのですか。
154 :
名無しさん@1周年:2000/11/06(月) 23:40
>146
志賀島の金印と同じサイズの金印が、中国で出土した。
155 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 02:44
>151さん
九州説支持者で考古学に悪意を持っている人(たぶんあの人1名)が
例の旧石器遺跡捏造事件をネタに、あらしに入っているだけです。
ほっといて普通の議論をしましょう。
156 :
名無しさん@1周年:2000/11/07(火) 02:51
卑弥弓呼=景行天皇説を挙げとこうか・・・
157 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 09:15
三角縁神獣鏡も捏造だよね。
鏡の鋳型を御神体にしている神社があるのにそれを隠して卑弥呼の鏡説を
論じているやつらが畿内説を唱えている。
158 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 09:20
邪馬台国も捏造で存在しなかった!
空想の国だった!
159 :
名無しさん@おなかいっぱい:2000/11/07(火) 09:27
とにかく、邪馬台国は畿内にあるわけがない。
畿内教徒よ、目覚めよ。
160 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 09:33
まだまだ諸説あると思うが、発掘資料・文献などから総合的に定説となりつつある
近畿説を唱えている方に意見を求めたい。
近畿説を弱める根拠として挙げられている「権力正統性原理」
>>109だが、
確かに邪馬台国=大和朝廷とするには不明な点が多すぎると思う。
そこで各位もっとも合理的と思われるシナリオを開陳して欲しい。
私は魏志倭人伝の記述から、
1.卑弥呼の前後に男王が立ったが、騒乱が起こったこと。
2.卑弥呼の「宗女」台与が後継者として国を治めたこと。
3.ただしそれは「鬼道」をもって「衆を惑わす」と書かれたような神祭政治であったこと。
を抜き取り、ある程度初期の大和朝廷と同質の政治機構であったと結論付けたい。
a.天皇家(祭祀権を持つ家系)を中心とした、豪族連合であったこと。
b.祭祀権を持つ家系は複数あったと思われること。(直系に引き継がれるわけではないこと)
c.実際の政治を動かしていたのが「男弟」や「男王」であり、祭祀権を持つ人間ではなかったこと
そのため後世の歴史認識に比べ、次のような齟齬が生じた。
1.「卑弥呼」は「ひるめこ・ひめみこ」のような一般名詞であり、特定の人物をさすものではない。
「台与」も同じと思われる。彼女達は祭祀に欠かせない人間であったが、倭人には制度として
認識されていたために史書に個人名が残ることは無かった。
2.祭祀家系はほぼ一定していたと思われるが、部族連合の長は度々変わったため、
記紀の記述にいくつかの断絶(不連続性)があると思われる。
3.後世にまとめられた史書に書かれた人物は、部族の長または部族連合の長であり、
魏志倭人伝の大夫あるいは各官職にあった人間と同一と思われる。あるいは
官職名でなく、個人名(部族名)が記されたものであったかもしれない。
魏志倭人伝と記紀のほぼ4百年のブランクはこれで埋められると思うのだが、
部族社会から統一王朝への連続性はイギリスの例を見ても判るように、
それほど明確なわけではない。(もっともあそこは征服王朝なので、
だからこそ日本でも同じ事が起こったのではと考えられるのだが)
各位のお考えはいかがだろうか。
>136
狗奴国の問題は、ある意味では現時点における最大の問題かもしれません。
最近の考古学の世界では狗奴国は東海地方にあったという説が支配的なようですが。弥生時代終末期に近畿勢と東海勢が戦っていたという考古学的な証拠はないと思われます。考古学的にみて、この時期に近畿を中心とした勢力(女王国)に対抗していたのは出雲を中心とした四隅突出型墳丘墓圏と考えられますので、狗奴国は出雲とみるのが妥当と思われます。
なお、巷間、狗奴国は邪馬台国の南(方位を修正して東)にあったという見方がひろまっていますが、倭人伝にはそんなことは書かれていません。狗奴国は其の余の旁国の最後の奴国(北九州の奴国は違う)の南(東)にあったと解釈するのが妥当です。従って、狗奴国は邪馬台国に隣接していたとは必ずしもいえません。
162 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 10:23
>この時期に近畿を中心とした勢力(女王国)に対抗していたのは
>出雲を中心とした四隅突出型墳丘墓圏と考えられますので、
>狗奴国は出雲とみるのが妥当と思われます。
と言う事は畿内から北九州迄の大連合国と言う話はない訳ね。
ますます畿内説は矛盾に満ちたものになるよ。
>162
女王卑弥呼を共立した諸国は吉備から近畿、東海にかけての国々と思われ、女王国とはこの範囲の連合体をさしていると考えています。一方、北九州は伊都国王を中心にこの時期別のまとまりを示していたが、近畿勢の一大率による間接的な支配下にあったと考えています。従いまして、弥生時代後期の銅矛圏、特殊器台圏、近畿式銅鐸圏、三遠式銅鐸圏はほぼ一つのまとまりをしめしていたと思われます。
これにたいし、四隅突出型墳丘圏はこの連合に加わっていないので、狗奴国とみるのが妥当と主張しているわけです。
164 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 12:53
ヤマトの語源はヤマタイ?
165 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 13:24
桑名の語源は狗奴?
166 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 13:30
すべてはタイムマシンが発明されればわかること
==================================完==================================
167 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 14:30
>>164 どう考えても博多弁ですたい。
やま・たい=(標準語:山です)
168 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 15:31
日本は昔から地方色が豊かだったのはわかるが、どうしてこんなに
古代がわからないの。
他の国もそうなの。
いろんな所から何派にも渉って日本列島に来たという事なの?
どうして今天皇家が実在しているにも関わらず、その故地がわからないの?
まぁ、古代のおおきみ家と天皇家が一緒かどうかもわからないとなるとまた
問題だが。
169 :
ん:2000/11/07(火) 15:49
邪馬台国の場所は藤村新一に聞け!
170 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 15:57
邪馬台国は、頃合をみて東大の人が掘り当てるってことで
ちゃんと話ができてるらしいよ。
171 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 15:59
記録の無い物は判らなくなる。
例えば中南米にあったインカ文明の事もつい250年位前の事が
謎として語られる。人の記憶は三世代たてば消えてしまう。
日本には文字が導入された6世紀位からしかはっきりした事は
解らない。
文字導入後も時の政権によって捏造された歴史があり、本当の事
は判らなくなってしまっている事も多い。
172 :
名無しさん@1周年:2000/11/07(火) 16:19
倭国の語源は「我」が国だと思う。自称していたのが民族名になった例は多いからね。
ex:アイヌ、エスキモーなど。当初「倭人」と民族名にされていたのもそのせいだろう。
狗奴国は「彼」の国ではないだろうか。
173 :
まだ中央集権じゃないし:2000/11/07(火) 16:46
普通に考えて九州じゃないかな。だんだん東へ進出していく過程で
前線だった近畿にそのうち権力が集中して大和政権が成立したと考える
方が自然のような。継体天皇も北陸への前線指揮官が軍事力で王位に
ついたっぽいし。
174 :
名無しさん@1周年:2000/11/07(火) 18:20
>173
東遷説自体はある程度信憑性があると思う。古代の中心氏族大伴氏や物部氏は
本拠地が九州にあったと考えられるし。問題はその時期。
吉野ヶ里にしてもそうだが、弥生前期〜中期にかけて発展し、
末期には衰亡している。九州がその中心だったのは「分かれて百余国を成す」とされた
紀元前後の時期なのではないだろうか。その時期には瀬戸内海周辺の高地性集落の発展に
見られるように、各地で衝突を繰り返しながら東に向かったとも考えられる。
175 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 18:51
>172
ということは狗奴国は異民族?それともより後に来た倭人?別系統の倭人?
>174
根拠地の九州から東遷する理由はなんだったんでしょうか。
略奪したいなら朝鮮半島を目指すと思うのですが。
176 :
名無しさん@1周年:2000/11/07(火) 19:40
>175
魏志の記述からすると倭人である可能性が高い。邪馬台国の支配に抵抗していた
(=邪馬台国と別系統の神を祭っていた)と思われる。出雲が怪しい。
177 :
誌上論:2000/11/07(火) 20:36
>52
其八年太守王(斤頁)到官倭女王卑弥呼興
狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯鳥越等
詣郡説相攻撃状遣塞曹掾 史張政等因斉詔書
黄幢拝假 難升米為檄告喩之卑弥呼以死大作
冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中
不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑弥呼宗女
壹興年十三為王國中逐定政等以檄告喩壹興
壹興遣倭大夫卒善中郎将掖邪狗等二十人送
政等還因詣臺献上男女生口三十人貢白珠五
千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹
178 :
174:2000/11/07(火) 20:46
179 :
>176:2000/11/07(火) 21:11
狗奴国って邪馬台国より南にあるんだけど。
狗奴国が出雲って、邪馬台国は朝鮮にあるのか?(藁
180 :
早蝿:2000/11/07(火) 21:58
>177
お? 倭人伝読んだことあったんだな、あんた。
で、何か忘れてない?
36 名前:誌上論投稿日:2000/10/31(火) 18:14
>26
その部分で邪馬壹國が女王の都とする所だとは言えますが、
女王=卑弥呼とは、その文からは言えませんよね。
受け売り(先入観)で済ませずに、論証してくれませんか?
38 名前:早蝿投稿日:2000/10/31(火) 23:53
>36
だれかほかに女王とかかれた人がいるかい?
50 名前:誌上論投稿日:2000/11/01(水) 19:06
>38
倭人伝を全部読んだ事がないのでしょうね。壹与がいます。
倭国の歴史記事の部分も読みましょう。
52 名前:早蝿投稿日:2000/11/01(水) 20:11
>50
おりょ?それじゃ倭人伝を全部読んだ事のあるアナタ
魏志の倭人伝に壹与が「女王とかかれた」部分を原文まま引用してちょ〜
181 :
日本@名無史さん:2000/11/07(火) 23:09
>九州がその中心だったのは「分かれて百余国を成す」とされた紀元前後の時期なのではないだろうか。
金印が出てますからね、まあ、後一世紀中頃までは確実。
おそらくですが、後一世紀末ぐらいまでは大丈夫でしょう。
二世紀になると怪しくなり、二世紀の終わりには確実にポシャッてる。
畿内などとは別系統の魏晋代の遺物さえでれば、そのポシャッたヤツが
邪馬台国でもいいけどね。悲しいかな、遺物がでない。
182 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 09:48
畿内に遺跡が多い事は認めるよ。
だけど当時のろくに道もない。
船もくり船で畿内から潮の流れや偏西風をついて大陸まで行くのに
半年も掛かる不便な場所にあった。
魏とまともに交流していたとは思えない。
偏西風にのって大陸文明が流れて来る事はあっても自ら大陸まで
出て行く事はほどんとなかったのでは。
当時の邪馬台の風俗は倭人伝の記述によると大陸南部に良く似ている
から多分福建省辺りから偏西風や海流によって九州に流れ着いた人々
であると思われる。
埋葬のしかたも大陸南部に似ている。(甕棺)
所が畿内で発見される埋葬は朝鮮と同じである。(石郭)
つまり九州は中国南部、畿内は朝鮮から来た人びとによって
作られていた。
魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあり、畿内の大和国とは別のもの
と言うのが正しい。
古墳の年代を古くすればするほど畿内説は魏志倭人伝の記述と
離れて行くのだよ。
183 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 10:06
偏西風?
これって結構上空で吹いてるんですけど・・・
くり船?帆掛け舟?の航行に影響を及ぼさないと思うんですけどぉ・・・
184 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 10:32
日本近海では低気圧(台風も含む)の通過前以外は
殆ど西風が吹いているのだよ。これ偏西風の影響。
185 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 11:24
実は蝦夷にあったりして(ゲラゲラ
186 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 11:46
古代南太平洋諸島では風を切って進む航海法が既に存在している。
古代日本人がその人たちと交流をもっていた確たる証拠はないが
遺伝子・神話・習俗の分布などから大きなかかわりがあるのは
ほぼ間違いない。
従って、風に逆らう航海が可能だったとしても不思議ではない。
187 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 11:51
>186
そりゃあ、帆を上げずに頑張って漕ぎまくればいいだけじゃん。
ちゅーか、風より海流でしょ。
188 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 11:53
>>182 舞鶴から朝鮮半島を経て陸路で魏へ行ってもいいんじゃないの?
189 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 12:11
>182
畿内から貨泉はざくざく出るし対馬から畿内の土器も出る。
思いこみだけで適当なこと書くんじゃない。
190 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 12:14
182はホントに「てきとー」だね。
191 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 12:23
ってより無知まるだし
192 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 13:38
>187
確かに海流のほうが重要。
日本海側ならともかく、太平洋側は黒潮の流れが激しすぎて危ないので、瀬戸内海が主要な航路になったくらいだ。
193 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 13:49
>189
それを言うなら朝鮮の物品の方がはるかに多い。
朝鮮と北九州の物品の区別はつかないけど。
194 :
名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 13:53
実はそんな国はなかった。
195 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 14:04
<193
区別つかない人が何をいってもダメ
196 :
名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 14:16
197 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 14:26
ピッカァ〜!
198 :
名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 18:18
>182
九州説の低脳さを象徴するような発言だ(わら
199 :
誌上論:2000/11/08(水) 21:26
>180
ここで、さらに疑問を出すというのは、文脈を理解する能力が無いという事ですね。
200 :
早蝿:2000/11/08(水) 21:35
文脈を理解する能力が無いのはアナタ。お見事に無能。
壹興が「女王とかかれた」部分を書いてちょ〜と言ってるわけよ。
そんな部分ないでしょ?「女王」と書かれてるのはヒミコだけ。
「書かれている」という事実と「自分はそう解釈してる」ってことの区別がつかないアナタ。
そういうことだから「倭人伝を読むと、女王国って不弥国のことだから」なんてトンチンカン言っちゃうわけよ。
201 :
日本@名無史さん:2000/11/08(水) 23:15
202 :
早蝿:2000/11/08(水) 23:22
誌上論サマの書いた177から写したんだ。
皮肉だ。
203 :
早蝿:2000/11/08(水) 23:35
ちなみに177は
「與」がぜんぶ「興」になってるし
「烏越」は「トリ越」だし
「齎」は「斉」だし
間違いだらけなんで「おま〜本当に倭人伝読んだことあんのか」と
突っ込もうかと思ったんだけど
スキャナ読み取りだとこういう間違いは良くあるし
まあ「雑だ!」と難癖つけるのは読解の方だけにしとこうかと思った次第よ。
204 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 00:48
昔の日本列島の何処か
205 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 03:56
>>198 傍観者だが「低脳」を使うのはやめといたほうがいいな。
自分の低能ぶりをさらすだけだぞ・・・。
206 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 06:59
当事者が傍観者を装うな
207 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 10:08
>壹與が「女王とかかれた」
部分があるかどうかなんて邪馬壹国の所在と関係ないから
もう止めればぁ。
場外で乱闘してね。
208 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 11:15
だから、日本列島の何処かに遺跡が埋まっていることを希望!
捏造じゃなくてね、誰か発掘しろ!
209 :
藤村新一 :2000/11/09(木) 13:49
おぅ、オレにまかしとけぃ
210 :
208:2000/11/09(木) 16:30
211 :
藤村新一:2000/11/09(木) 16:33
>>210 バカなやつだ。オレが掘れば必ず出るのに...
212 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 16:36
>>211 自分で掘ったって必ず出るさ。
磁器で善ければ、1枚10円の皿が……
213 :
日本@名無史さん:2000/11/09(木) 18:50
>>207 あの談義が邪馬台国の所在と関係ないと思えちゃったら
邪馬台国論争参加は無理じゃん、レベル的に。
214 :
名無しさん@1周年:2000/11/09(木) 22:18
邪馬台国論争は、歴史学者や考古学者の歴史捏造体質が産み出した幻だったのだろう。
日本書紀の編者は、邪馬台国畿内説を採っており、その後も疑問にされることは
なかったが、江戸時代の国学者が、初期の朝廷が、中国に朝貢し冊封されたとするのが
気に入らないので、九州の女酋の僭称としたのが、九州説が拡がった理由。
戦後は、逆に反皇室サヨク学者が、皇室の起源を少しでも遅らせようと、九州説を
主張した。そのため、径百余歩(直径約150m)と記載されているのに、勝手に改竄して
もっと小さいと主張するために、出土漢鏡からすると、卑弥呼の時代は、弥生時代より
古墳時代と見るのが妥当だったのに、ムリヤリに弥生時代として、箸墓古墳=卑弥呼の
墓説は皇国史観であると、意味不明な攻撃を行い封殺して、歴史を捏造してきた。
歴史学者・考古学者の左右のイデオロギー的な体質が、捏造を産んだのであり、
ずっと昔に、邪馬台国=畿内説で決着していて良かったのである。
しかし、捏造勢力を黙らせるだけの、科学的な精緻な研究を進めたから、穴の少ない
議論が出来るようになったとも言え、その面では良かったかも知れない。
215 :
名無しさん@1周年:2000/11/09(木) 22:26
邪馬台国に関連づけた方が、遺跡の保存がし易いと言う、曲がった心で、
全然関係ない時代の遺跡を邪馬台国時代のものとする例も多い。
有名な吉野ヶ里遺跡は、弥生時代中期(紀元前1世紀)が全盛期で、
卑弥呼の頃には寂れていたことが、研究資料としては示しているのに、
一般向けにはあたかも卑弥呼時代の遺跡とするのは詐欺であり、重大な歴史捏造。
こう言う体質を、何とも思わないような体質が、今回の捏造事件の温床に
なっているのではないか?
216 :
YUNIX:2000/11/09(木) 22:38
今回の事件で何が本当か、解らなくなりそう。
>>215 邪馬台国のことも、怪しいことばかりだ。
217 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 00:15
結局壱与は女王でいいんだろ?
218 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 00:16
歴史学者・考古学者の左右のイデオロギー的な体質が、捏造を産んだのであり、
ずっと昔に、邪馬台国=畿内説で決着していて良かったのである。
219 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 00:48
捏造捏造いうオウムは逝ってよし
220 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 00:50
捏造捏造いうオウムは逝ってよし
221 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 01:06
九州説の亡霊は、今やバカにしか相手にされない
222 :
>214:2000/11/10(金) 01:06
おいおい、捏造って言うなら、近年の土器偏年の前倒しや年輪年代による
古墳時代の始まりの引き上げのほうを疑えよ。
だいたい、江戸時代まで九州説が論じられていなかったのは、室町時代までは
近畿が文化の中心だったから、自分達が一番だと信じて疑わない関西人達の中では
そんな考えは生まれなかったのが、江戸時代になって文化の中心が江戸に移って、
関西とは関係のない学者達が研究したら、畿内説はおかしいってことになったからだろ。
実際、現在でも、東大は九州説だしな。
223 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 01:09
この期に及んでも、九州説に騙される222は恥ずかしい
224 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 04:21
>222
「偏年」って字がヘンねん。
225 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 06:21
>217
そういう雑なセンスじゃ文献読解はムリムリ
226 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 06:59
>222さん
>実際、現在でも、東大は九州説だしな。
それ本当?
227 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 07:17
>226
ウソでしょう。それは戦前から戦後初期の話。(わら
228 :
誌上論:2000/11/10(金) 12:44
>200
[書かれている」という事実と「自分はそう解釈してる」ってことの区別がつかないアナタ。
そういうことだから「倭人伝を読むと、女王国って不弥国のことだから」なんてトンチンカン言っちゃうわけよ。
では、おたずねしますが、壱与は女王でないとしたら、何だと事実は書いてあると理解しているのですか?
あと、壱与についてどう解釈しているかも、教えてもらえませんか?
壱与が女なのは事実ですよね。壱与が王になったのも事実ですよね。
二つの事実から、壱与を女王と理解するのは解釈なのですね。
これを解釈と言うのなら、邪馬台国が女王国だと書いてある部分を原文まま引用して下さい。
229 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 14:20
> 自分達が一番だと信じて疑わない関西人達の中では
>そんな考えは生まれなかった
ほらほら、自分がこういった不純な理由で歴史を見ているから
周りも同じに見えてしまうと言う典型だね。
230 :
釜鼬:2000/11/10(金) 14:21
あら、基礎的なことがわかってないのねン。
壹與ちゃんが女王であるか/ないかっていう歴史上の事実と
壹與ちゃんが女王と書かれているか/いないかっていう史料事実と
壹與ちゃんが女王だと読めるか/よめないかっていう解釈の是非とは
み〜んな別だわよ。
壹與ちゃんは中国人から史料上で「女王」って呼ばれてないでしょ?
卑弥呼姐は「女王」ってはっきり呼ばれてる。
これは壹與ちゃんが女王かどうかとは別の話なの。
こういう神経使った読み方は、「魏志」倭人伝みたいな
寄せ集め系文献を読む上で必要不可欠なのよ。
あなたは、ズ・サ・ン。
231 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 14:26
>230
名前、何て読むの?
232 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 15:59
男王に代って壱与が立てられたんなら女王じゃないの?
素人は皆こう思ってるよ
233 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 17:15
魏志倭人伝を改竄して「邪馬壹国」を「邪馬臺国」に「南」を「東」に
「景初二年」を「景初二年」に「会稽東治」を「会稽東冶」にした。
正確が命の写本がこんなに沢山の間違いを犯す筈がない。
間違っている事を前提に畿内説を唱える奴は藤村新一を今でも信じている
馬鹿と同じ。
234 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 17:17
>>232 230が言うのは、
> 男王に代って壱与が立てられたんなら女王 → 資料の解釈
であって資料中に「壹與が女王」と書いてあるわけではない。
寄せ集め系文献を読む上では細心の注意を払うべき。ってことでしょ。
注意すべきってのはわかるんだが、些か枝葉末節に入り込み過ぎてる
気はするが.....
235 :
名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 17:37
>233
少なくとも、「邪馬臺国」「景初三年」は根拠がある。
それより、九州説が卑弥呼の墓の径百余歩を改竄するのを、無視するなよ。
それに、古墳時代の始まりを、根拠なく遅らせていたから、
九州説のような蜃気楼が長年に渡って存在できたってこと。
236 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 18:02
まあ、素人目には双方の言い分見る限り、
邪馬台国らしき物が大和と比定できたってのは決着と言うことで。
ところで記紀には東遷西遷東征西征(征韓も含めて)は何回あるの?
237 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 19:27
>>233 写本は結構間違いが多い。史記や春秋などの注釈書を一度読んでみて。
「○○は××の誤りか」などと言う記述がそこら中にある。
235が言っているように、「邪馬臺国」「景初三年」は他の資料との校合による
検証が可能であるし、「南」を「東」は「間違い」という主張ではなく、当時の地理感覚を
考え合わせた推定である。「会稽東治」は間違いでなかったらなんと解釈するのだろう?
これも当時の地理感覚からすれば合理的に解釈できる。
>間違っている事を前提に畿内説を唱える奴は藤村新一を今でも信じている
>馬鹿と同じ。
とまで言い切るなら、ご自分の説はどのようなもので、どれほど合理的なものか
御開陳願いたい。倭人伝の解釈だけでなく、考古学的資料とあわせてご説明いただきたい。
238 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 20:39
234>注意すべきってのはわかるんだが、些か枝葉末節に入り込み過ぎてる
気はするが.....
もともと「女王國に卑彌呼は居なかった。居たのは壹與だ。」という説がおかしいよという話なんだから、このくらい厳密にやっていいんじゃない?
倭人伝で女王と呼ばれているのは卑彌呼だけ、壹與はそう呼ばれていない。これ事実。
現に、倭王・倭女王・王はみんな綺麗に使い分けられているわけだし、壹與を女王と呼ばなかったには呼ばなかっただけの理由があるはず。
このスレをロムってただけの素人的には
邪馬台国は近畿にあったけど邪馬台国≠大和
という風に思えるんですけどどうでしょう?
240 :
日本@名無史さん:2000/11/10(金) 22:20
若手の考古学者の間では河内説ってのもあるよ。
241 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 00:11
233って、そんなに無学で恥ずかしくないの?
思いこみだけで何言ってんだろ。
原書読んだことないのバレバレ。
242 :
名無しさん@1周年:2000/11/11(土) 00:28
233は、古田じいさんの信者でしょ。
古田は津軽で致命傷を負い、安本も最近の年代観の捏造体質は酷い。
藤村と同じで、今やスタンドプレーの素人は、百害あって一利なし。
考古学が今ほど、もてはやされなかった頃は、相沢氏の旧石器の捜索や、
原田大六氏による莫大な私財を投げうっての平原弥生古墳の発掘など、
素人の研究にも見るべきものもあったが、今はお気楽単細胞なバカが
厚顔無恥に戯言を言うだけで、どうしようもない。
243 :
早蝿:2000/11/11(土) 01:04
>228
>二つの事実から、壱与を女王と理解するのは解釈なのですね。
そうだよ。そんなこと書いてねーもん。
>これを解釈と言うのなら、邪馬台国が女王国だと書いてある部分を原文まま引用して下さい。
やだよ。だって俺「邪馬台国が女王国だと書いてある」なんて言ってねーもん。
ただ、実際「女王」と書かれてるのは卑弥呼だけだって言ってんの。
で、女王の都や女王国にいたのは誰?女王だ。
244 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 07:15
233みたいな鵜呑み人間って自分じゃなんにも調べないのかな
245 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 11:26
>>239 >>109で九州説の人が近畿説を攻撃したときに持ち出した疑問と同じかな。
たしかに記紀の記述を見てみると、中国の史書を参考に書いている部分があり、
卑弥呼は神功皇后に擬せられ、魏に使いを送ったなどの事跡も書いてある。
しかし前後の記述や全体としての印象では、大和朝廷が邪馬臺国の後身である根拠が
薄いように思える。
日本書紀の編者もそこまで読んでいたのなら、もっと細かいところまで参考に
すればよいのに、なぜかそれをしていない。
やはり自分(大和朝廷・天皇家)に都合の悪い部分は書かなかったのだろうか。
たとえば疑問のひとつに狗奴国と邪馬臺国の対立に関する話題が書かれていないことがある。
狗奴国=東海地方の勢力とすれば、後に壬申の乱で大海人皇子が東国の兵士の力
(不破関=関ヶ原で兵を募っているので主力は東海地方の兵士だと思われる)
を借りて天下を取っているので、狗奴国に関する記述は削られた可能性がある。
246 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 12:57
魏に使いを送ったなどの事跡が書いてあるといっても注にですからね。
これがたぶん原注だろうとは言っても、
日本書紀の編集は何年にも渡って、お互い意思疎通を欠いた別のグループが
いぢりまくったということがほぼ明らかになっています。
中国に臣従したということ自体が都合の悪い部分としてバッサリ削ったのを
また何年か何十年かあとに別のグループが注をつけてしまったという線もあります。
247 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 14:08
>>238 なぜ壹與を女王と呼んでいないかっていうのは結構鋭い視点ですね。
たぶん、いちいち倭女王と呼ぶのは紀や起居注、鴻臚記録などの書き方で、これらが最初にベースになった資料でしょう。
だから何の説明もなく女王国という書き方が出てくるんです。
ところが壹與の即位と朝貢は、彼女を倭王とも倭女王とも呼ばずに壹與と呼んでいる。
しかも年次の記述がない。
つまりこの出所は中央の外交記録文書ではない、もっと現地よりの資料の可能性があると思います。
248 :
名無しさん@1周年:2000/11/11(土) 16:45
>246
森博達氏の中公新書本を読むべし。
日本書紀は、その文体などから、中国語に堪能な中国系帰化人と
中国語の文法の誤りが多い日本人が分担している部分に分かれると指摘しており、
極めて明瞭に分かれるので、信憑性が高いと思われる。
249 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 17:21
>248
それはα,βだけの区別で、その内部にさらに細かい紆余曲折がある模様。
いま主に問題になっているのは、雄略以前の、その日本人が分担している部分の中での話でしょう。
250 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 17:29
↑おバカな九州説信者はこういうことには全く無知なまま
日本書紀に卑弥呼が出てこないから畿内じゃないとか
言ってるんだろうな
>>250 そんなこというなら出てこない理由を合理的に説明すれば?
252 :
名無しさん@1周年 :2000/11/11(土) 20:30
>>251 出てこなければいけない理由を合理的に説明する方が先でしょう。
253 :
名無しさん@1周年:2000/11/11(土) 20:56
九州説のバカさを披露するだけのスレに成り下がっている
254 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 21:17
九州説でちゃんと筋道立った話のできる人もいるはずだ。
なんでここにはそういう人が来ないんだ?(2chだから―か)
255 :
日本@名無史さん:2000/11/11(土) 23:47
720年撰の本に239年のことが書いてない理由を
合理的に説明する必要なんてあるの?
256 :
日本@名無史さん:2000/11/12(日) 02:07
伝説としては、天照大神や箸墓のヤマトトトヒモモソヒメが、
卑弥呼のことを伝えていると思われます。
257 :
>254:2000/11/12(日) 03:08
258 :
世界@名無史さん:2000/11/12(日) 03:32
259 :
>257:2000/11/12(日) 03:58
あんた九州説のうえに人種差別主義者か
二重苦だな
260 :
日本@名無史さん:2000/11/12(日) 04:13
電波な朝鮮をバカにするのは、別にそいつに限った事じゃないだろ。
つーか、頭の悪さでは、九州説の連中は、電波な朝鮮といい勝負だと思うが。(わら
261 :
↑:2000/11/12(日) 04:19
今日も登場、精神病患者
262 :
>260:2000/11/12(日) 12:25
言うことは感心しないが、
確かに半島のナショナリストが言ってる
邪馬台国は韓族の植民地とかいういわゆる分国論なんかと、
九州説の中のおかしなやつは、
一脈通じるものがある。
263 :
邪馬台国2:2000/11/12(日) 13:17
たしか、うちの近所に三角縁神獣鏡あったぞ
264 :
解決黒頭巾:2000/11/12(日) 15:12
265 :
名無しさん@1周年:2000/11/12(日) 16:19
電波も電波
阿呆の金字塔だったぞ
もう九州説ってこんなのしか残ってないのか?
266 :
誌上論:2000/11/12(日) 16:35
事実と解釈の説明ありがとうございます。
>243
やだよ。だって俺「邪馬台国が女王国だと書いてある」なんて言ってねーもん。
そうですね。
>26 で
>25
>倭人伝を読むと、女王国って不弥国のことだから、
よく読めよ。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
って書いてあるだろ。
邪馬壹國に女王(卑弥呼)がいたと書いてあるのだよ。
と的外れな指摘されたものですから、「邪馬台国が女王国だと書いてある」と思ったのか聞いたわけです。
邪馬台国が女王国だと書かれている事実はないと言う事です。
267 :
早蝿:2000/11/12(日) 19:10
そのかわり、そこに「女王の都」があると書かれた事実があるんだ。
そこが女王国であるというのは解釈。その解釈をおれは支持するわけよ。
なぜって、「女王」と呼ばれた事実があるのは卑弥呼だけだからさ。
ちなみに26はおれじゃねーからな。
268 :
日本@名無史さん:2000/11/12(日) 21:11
九州説は、もはやバカしか残っていない、合掌。
269 :
日本@名無史さん:2000/11/12(日) 22:09
このスレ、いつの間にか、九州説もぐらたたきになってる。
前スレの前半ぐらいから見ると、隔世の感があるなぁ
>233みたいな鵜呑み人間って自分じゃなんにも調べないのかな
ガハハ!
教祖様の言うことに、間違いなどあるはずがないじゃないか!
271 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 00:28
272 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 00:49
268>九州説は、もはやバカしか
「バカしか」とまでは言わないけれど、なんか最近の九州説って
やたらトンデモに走る手合いとか
なんも知らん厨房以下の炊事場クラスなのに大言壮語するのとか
妙に増えてないか?
平均レベルがた落ち!
273 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 08:00
九州説が痛くなって、邪馬台国論争がつまらなくなった。
つーか、既に畿内説で決着し、その先が議論されているのに、時代遅れ。
274 :
↑:2000/11/13(月) 08:13
つーか、オマエが場違いなんだよ、氏ねや
275 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 09:08
畿内説の輩は魏志倭人伝を改竄せずに畿内に案内してみろ。
多少の解釈は許すが一字一句たりとも改竄は許さん。
捏造も許さん。
さあ、いかに。
276 :
名無しさん@1周年:2000/11/13(月) 10:07
アメリカにあった!
277 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 10:11
>>275 多少の解釈ねえ。
「南」→「東」であると解釈する。
当時の地理感覚では日本列島は九州を北に(朝鮮に最も近く)本州以下は
真南に伸びていると考えられていた。(14世紀にかかれた地図や
日本を揚子江下流域の東側にあったと理解できる文章によって裏付けられる)
つまり、当時の中国人が北九州から「南」と書けば現在の地図に当てはめると
「東」になるというだけ。
旅程は北九州からほぼ2ヶ月弱かかると解釈し、当時の交通網を合わせて
考えれば(8世紀頃の延喜式などを参考に)近畿に案内することは可能。
この程度の解釈ならばどんな説でもやっていると思うが、だからどうだと言うのだろう。
解釈なしに案内していけるところがあったとして、そこに遺跡が無ければ
まったく意味がないのだが。
んで275さんは多少の解釈だけでどこに連れてってくれるのかな?
278 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 11:05
>277
実際に邪馬台まで来ていた中国人が東西南北を間違えると思うか?
ひょっとしてあんた、魏使は邪馬台まで行っていない説?
279 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 11:11
魏の人をバカにし過ぎ!
毎日お日様は昇って沈むし、星も出る。
東と南を間違えると思う?
滞在中100%雨とかなら話は別だけど。
280 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 12:09
というか、魏志編纂者が地図を照らし合わせながら、
校正したって線もあるでしょ。どうせ又聞きの又聞きで書かれてるんだから。
281 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 13:35
魏志が間違いだらけという前提なら
アメリカにあっても良いって事になる。
282 :
雪男:2000/11/13(月) 13:49
邪馬台国は沖縄だと思います。
魏志の記述は政治的理由で日本が文明国であるかのように脚色されているようですが、
使者の風俗は誤魔化していないと推定されるからです(目撃者が多いはず)。
当時の日本で刺青の風俗のある地方(沖縄のみ)が一番可能性が高いと思います。
283 :
>281:2000/11/13(月) 13:58
飛躍しすぎ(笑)
284 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 15:02
沖縄なら台湾→福建省で呉の方と関係が強かったはず。
285 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 15:16
地図はこの倭人伝なんかを参考に書いただけじゃないかなあ。
倭人伝に「ヤマタイは南、南、ずっと南の方!」ってしつこく書いているから、
後の人が地図を書くときに参考にして、ヤマタイ=倭国の首都=京都近辺
と思い込んだ人が南に書いちゃったとか。
(思いつきなので参考資料無し!)
286 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 15:36
まあどっちにせよ、記述通りならば畿内にも九州にも邪馬台国はない。
解釈を変えない限りどちらの主張も通らないってのは皆さんご存じの通り。
だからムー帝国のことなんだよ!!!!!!!
287 :
277:2000/11/13(月) 16:05
>>278-279、おまけに
>>281もかな?
>>275と別人であって欲しいが。
やっぱりというかがっかりというか、結局近畿説の揚げ足取りしか興味ないみたい
ですね。「多少の解釈」で近畿地方に到達できる一例として挙げただけですが、
案の定の反応でした。
わたしは魏の使者は邪馬台国まで到達せずに、伝聞で報告したのに加えて、倭の風俗が
揚子江下流域に近いことにこだわった史官が南と校正したのではないかと考えています。
では275さん、貴殿のご高説をお願いします。邪馬臺国はどこに比定されるのでしょうか。
筑後川中流域?それとも上流域?宇佐?西都原?(←一発変換しないのね)阿蘇?
水俣?高千穂?鹿児島?それとも九州以外でしょうか。そしてそこには2〜3世紀頃の
大規模な集落、大型の建築物、巨大古墳が(例え一部でも)存在するんですよね。
>287
私も使者は邪馬台国へは行っていないと思います。
従って、方位の南は倭人からの伝聞ということになります。
その際に通訳上の誤解が生じたのではないでしょうか。
当時の倭人には東西南北の観念はなく、「日の経(たて)」を東西観念、「日の横」を南北観念としていた為、邪馬台国への方位である東を「経(たて)」という言葉で表現し、それを、通訳が中国語の「経」という漢字で訳したと思われます。一方、中国では「経」という言葉は東西ではなく、南北を指す言葉であったため、「経」を南と解釈し、その方位が倭人伝に記され、結果として九十度のズレが生じたと推理しています。
289 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 16:46
>287
揚子江下流域に近いことにこだわった史官が南と校正したのではないかと考えています。
っておまえが考えたからと歴史は変わるんかい?
おまえが歴史決めるんかい?
290 :
275=278:2000/11/13(月) 17:32
>287
やはり『魏の使者は邪馬台国まで到達せず』と言う意見ね。
伊都国までは何度も魏使は来ていたらしいのに邪馬台国迄は
いくら遠くても一度も行っていないとは思えないけど。
卑弥呼の様子、政事のありさまの記述など陳寿は見ていなくても
魏使は見たと思われるよ。
私は筑後川下流説を取っているけどね。宇佐説も少し興味がある。
291 :
277=287:2000/11/13(月) 19:54
>290
確かに記述からすると魏の使者は邪馬臺国に入っていたと考えてもおかしくないほど
その記述は広い。(東夷伝のほかの国と比べても)
ただ隋史の記述に比べると政治体系に関してはあまり詳しくはない。(もっともこのころは
もっと中央集権化が進み、国の形がはっきりしてきたと言う理由もあげられるが)
とくに「倭人」の風俗や北九州に比すべき国々の記述に比べると「女王の都するところ」
邪馬臺国の記述が少ない。
また邪馬臺国以南の「隔絶」した国々、邪馬臺国と敵対していたとされる狗奴国などの
記述が薄いことからも、魏の使者が倭の範囲内であるが、邪馬臺国ではない北九州でのみ
情報収集していた証左ではないでしょうか。
筑後川下流域ですか。最下流の柳川市・大川市・佐賀郡のあたりではないですよね。
弥生時代ぐらいまでは海のはずですから。久留米市あたりでしょうか、そのころの河口は。
倭人伝の行程からすると少し近すぎるような気もしますが、いかがでしょうか。
292 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 20:00
293 :
名無しさん@1周年:2000/11/13(月) 22:36
ところで鯨面文身って狗奴国の記述じゃないの?
294 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 23:24
それは亡き水野大先生の大ハズシ。
もう追従する人もあるまい。
295 :
日本@名無史さん:2000/11/13(月) 23:30
専門的過ぎてわからない初心者ですが……
で、今現在の最有力候補地はどっちですか?
296 :
名無しさん@1周年:2000/11/13(月) 23:33
九州スレと畿内スレに分けてそれぞれの派がお互いの
節を深〜く検証するのがベストだと思うね・・・
297 :
293>294:2000/11/13(月) 23:43
そうなんですか。。水野先生とかもよく知らない素人なもので。
何だか素人読みには邪馬台国のはるか南@沖縄の事書いてあるように
しか見えなくて・・。
どなたか何が駄目なのかご指摘いただけないでしょうか。
298 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 00:51
>297
素直に読めばそういうことだよ。
だから、どこか記述が間違っているのだ。
畿内説は、途中で方角だけが狂ったと言うのだけれど
一部の妙な九州説は、距離も日数も個々の方角も無視して
「南」だから博多湾岸だと言うんだ。
299 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 01:16
素直に読んで台湾あたりでは?
300 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 06:58
上陸してから最低「水行十日、陸行一月」の行程がありますからね。
せめてフィリピンくらいの大きさがないと苦しい。
本当に日本のことなんですか?
302 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 07:42
>301
たしかにそういう疑問を持った人はいて、台湾説・フィリピン説・インドネシア説
はてはハワイ説まであるよね。(おっとそういえばエジプト説も誰か提唱していたな・・・)
303 :
1です。:2000/11/14(火) 09:18
九州説で博多を邪馬壱国に比定するのは古田一派だろう。
わしも九州説だが博多とは思えんのう。
博多は奴国か伊都国に比定するのが自然。
304 :
清水義範:2000/11/14(火) 10:03
馬台国は日本中にいろんなとこにあったんです。
オリジナルの邪馬台国がブイブイ言わせた時に、
有象無象の小国が皆、これにあやかろうと
邪馬台国を名乗ったのです。
いろんな邪馬台国のことを一つの国と思って記録したので
文献資料が混乱しているのです。
(ネタ)
305 :
全くの初心者:2000/11/14(火) 14:58
沖縄・台湾・フィリピン・インドネシア辺りなら
何故わざわざ朝鮮半島を経由して洛陽まで行かねば
ならないか合理的説明が必要。
畿内の箸墓なんか伝説の通りなら男に騙されて「ほと」
を箸でついて死んだと言う。
年齢長大という卑弥呼の記述と一致しない。
北九州説で不利なのは戸数7万と言う大きな遺跡が
見つかっていない事だけ。
戸数7万の遺跡が見付かれば卑弥呼の墓も見付かる
だろう。
306 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 16:39
邪馬台国が北九州にあっても大和に在ってもどちらでもいいんじゃないの。
もっと考古学的にはっきりするまで掘りつづければいいじゃん。
そうしなさい。天皇陵もはっきりしている物だけ除いて、掘ればいいじゃん。
そうしてはっきりさせたほうが国民も今より天皇に親しみが沸くんじゃないの?
素晴らしい遺物や工芸品が出土して自分たちの祖先はこのようなものを作って
いたんだと誇りに思うだろうし、また観光資源にもなるし。
一々文献や憶測のみで話していないで、それらしい所掘れるようにしたら。
307 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/11/14(火) 17:16
でも天皇陵掘り返えす事になったら、畿内派が捏造した金印
出てきそうな気がする。
308 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 17:27
>307
あの金印が捏造されたものだと思ってしまった。
あぁ、新しく金印を作るのね。
もしかしてもっといいのを作っちゃったりして。
309 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 18:58
>305
中国古典で年齢が長大というのは
高齢じゃなくて成人という意味だそうです。
310 :
カズ:2000/11/14(火) 20:39
東京国立博物館で捏造された 金印みた 捏造したんです と書いて
ありましたけど 詳しい説明もなく 本物の所在とかの説明なく
ガッカリした!!
311 :
まちがいなく九州:2000/11/14(火) 20:41
陳寿が東夷伝をまとめるときに、距離関係のすべてを5倍にしてしまったのです。
もちろん、距離が5倍ですからかかった日数も当然に5倍してあります。つまり、
水行20日はもとは4日、陸行1月は6日がほんとなんです。(短里という説も
ありますが、伊都国から邪馬台国まで120km程度を60日かかるなんて、あり
えないですね)
と、いうわけで邪馬台国は九州(多分宇佐が中心)です。ちなみに、投馬国は飯塚付近
ですね。
312 :
名無し:2000/11/14(火) 20:53
ひまですね! 邪馬台国なんてヨタ話をいつまでやるんですか? 土人の女酋長がどうであろうと、今の日本になんの影響もありませんよ。もっと後の聖徳太子のヨタ話のほうがまだ影響有り。
313 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 20:54
九州説ってのがいかに原文を自在に書きかえることで成り立ってるかという典型だぞ、こりゃ。
314 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 20:58
>>310 捏造って、なんじゃ?それ?(縄文ショックか?)
模造だろ?
315 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 21:03
卑弥呼のみこは巫女さんと関係無いのですか。
鬼道ってシャーマニズムとは別モンなんですか?
316 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 21:59
皇子=みこ
皇女=ひめみこ
317 :
名無しさん@1周年:2000/11/14(火) 22:11
うちのネコは、ミー子です
318 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 22:27
卑弥呼はヒムカで日向では
菅原孝標の女は更級日記で上総国から京まで3か月かけている。
1か月に200kmほどの計算になるね
フミ国から2か月は、この速度なら400km。
宮崎あたりが邪馬台国ならピッタリの気がするけど。
319 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 22:33
大宰府から鹿児島まで1週間(延喜式)
320 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 00:32
マツラ国から邪馬台国までの道程記事の中に渡海すると書いてないのだから、
邪馬台国がマツラ国と同じ島、つまり九州島のどこかにあったのは確実では。
道案内するのに、別の島へ渡る必要があることを書きもらす人はまずいないと思う。
321 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 01:10
>>319 官道が整備され、駅に馬が置かれてからね。
今なら九州自動車道を車でなら3時間で、大宰府から鹿児島にいける。
一般道しかなかったときは、ずいぶんかかったんじゃないのかな。
322 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 01:32
>320
海岸に沿って響灘から周防灘に抜けることを渡海とは言わないでしょう。
関門海峡を渡るくらい水行の範囲内です。
323 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:10
中国の要人が、琵琶湖の南湖を見て、日本にも大河がありますねと言ったとか。
324 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:14
九州説のノータリンは、学習効果無しに、意味不明なことをわめいているだけ。
古代から近世まで、外国からの使節は、山陽道ではなく、瀬戸内海を利用している。
渡海と違って、瀬戸内海は安全だから、利用された。
今や、九州説なんて、朝鮮人の電波説と同類のトンデモだな。(わら
325 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:18
晋がごったごたになったのが痛いね。
永嘉の乱が無ければ、倭の朝貢も続いたと思う。
ヤマタイが東晋に使者を派遣しなかった理由を
考えてみよう。
326 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:48
倭国の場合は、困ると中国へ頻繁に使いを出す傾向にあると思う。
各時代を大雑把に振り返ってみると、
邪馬台国は、狗奴国との戦いを訴えている。土器の相対編年の進展により、
古墳時代の最初期には、西日本の前方後円墳体制と、東日本の前方後方墳体制に、
大きく分かれていたが(出雲は、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓の流れを汲む方墳と独自路線)
東日本も前方後円墳体制にさせて、日本を統一し、朝鮮半島にも勢力を伸ばしたが、
中国への朝貢の記録はない。
朝鮮半島での破竹の勢いが、高句麗に止められ、どうやら一時的に和解したのか、
東晋末期に高句麗と倭が一緒に朝貢しており、日本書紀にも高麗の案内で呉に使いを出した記事がある。
その後は宋に頻繁に使いを出し、朝鮮半島での諸軍事を認めて貰うことに躍起となっている。
雄略以降の国内の動乱で、全く途絶えてしまった。
聖徳太子以降は、一転して、中国に対して独立を誇示する路線が多くなった。
唐書にも、日本の使者は尊大だと書いている。
元に対する北条氏の対応、明に対する懐良親王の親書もそう。
ところが、国内での立場が不安定だった足利義満は、明の使節に平伏しまくりで、
多くの武将や公家から大顰蹙。次の将軍は朝貢を止めたが、
足利幕府の経済的基盤は弱く、朝貢する将軍も多かった。
日本を統一した豊臣秀吉は、唐入り計画を立てたが、朝鮮半島で明軍に止められ頓挫。
徳川幕府は、中国商人を長崎に住まわせたが、国としての正式な関係は結んでいない。
327 :
名無しさん@1周年:2000/11/15(水) 03:40
>324
お前の街宣車的カキコはうざいだけだよ。
朝鮮半島が無かったら日本の文化発展は無く
中国の属国になってただろ。
朝鮮は中国からのの壁役になってくれてたんだよ。
328 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 04:13
王仁を初めとする中国系帰化人は、日本の発展に大きく貢献した。
白村江の敗戦で、日本に帰化して官位を得た百済王の末裔も、
陸奥で金を発見し、日本に貢献した。
一方、辺境の地の新羅は、文化程度が低く、倭国の属国だったのに、
遅れて国力をつけ、倭国の直轄地だった任那を占領し、
ついには唐を呼び込んで、唐の力で高句麗と百済を滅ぼさせて、
自らは唐の属国となることで、生きながらえた。
不法入国したりして、反日工作を行う朝鮮人と同じで、新羅は癌だった。
329 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 04:27
>327
アホか、高麗はモンゴルの手先になって、攻めてきたじゃないか。
新羅は、唐の手先になって、百済・高句麗を滅ぼさせ、
白村江での百済再興計画をおじゃんにさせた。
その教訓で、ロシアに朝鮮を領有されると、日本にとって存亡の危機となるから、
朝鮮を死守したと言う近代史を理解するんだな。
朝鮮に都合の良い、歴史の捏造・歪曲をしても、バカしか騙せないぞ。
330 :
名無しさん@1周年:2000/11/15(水) 08:46
>329
馬鹿ってお前のことじゃん。
朝鮮が緩衝地帯になってた事実をねじ曲げてるくせに
よく人のことを捏造捏造言えるな・・・
お前って本当に一知半解(わら
331 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 10:49
朝鮮は、領土拡張意欲が少ない国がバックにいるときは、緩衝地帯と
見なせることもあるが、
鮮卑系の唐・モンゴル系の元・ロシアなど、北方系の民族が支配する国が
勢力を伸ばしてくると、朝鮮を手下にして、日本の大いなる脅威となったのも事実。
都合の良い解釈だけをする330が、一知半解の捏造バカ
332 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 12:16
333 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 12:18
334 :
雪男:2000/11/15(水) 12:24
朝鮮半島がなかったら、
大陸の軍勢は沖縄方面から島伝いに進軍するしかなく・・・
日清日露の両戦役も起きずに日本は平和。
335 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 12:30
>334
あるんだからしょうがねぇだろ。
336 :
名無しさん@1周年:2000/11/15(水) 13:12
>331
一知半解どころか全然分ってないね。
朝鮮が完全に中国の一部になってたら、
日本が中国の干渉に直接さらされることになるだろ。
日本が朝鮮の立場になっていたことも容易に
想像できる。
たまたま、高麗が元の手先になったくらいで
訳の分らない理屈を押し通そうとするお前の
理論はどこにも通用しない。
新羅の例なんて的外れも甚だしい。
半島勢力が侵入者・対立者を追い出そうとするのは当然。
お前がいくら論じても日本史板のレベルが上がる
こともなく、他人が参考にすることもないだろう。
一体どこでそんなねじ曲がった史観を学んだのかは
興味があるがね・・・
337 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 14:13
まあ、千年以上も他国のパシリやらされてるのは事実。
今はアメリカが親分かな?
338 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 14:24
アメリカを出すと日本も人のこといえないからねえ
339 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 14:36
もはや邪馬台国論争は終結したか・・・
少なくとも九州にはない、との結論を残して
340 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 14:39
日本はパシリ歴50年。
341 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 15:07
>336
>半島勢力が侵入者・対立者を追い出そうとするのは当然。
半島勢力って、扶余系の高句麗や百済もそうじゃないか。
新羅が唐の手先になって、これらを滅ぼしただけ。
倭国は、卑弥呼時代には狗邪韓国を橋頭堡に保有していたし、
その後は任那を直轄領にして、新羅も属国にした経緯がある。
それに、元々は漢人・衛満の朝鮮国が最初の国家で、続いて漢の武帝時代に
楽浪郡などを置いて、朝鮮半島を植民地にして、文化を広めたわけで、
中国にも半島領有の大義名分はある。
新羅は、西シベリアの黄金文化の関係が深そうで、よそ者の可能性もあるぞ。
各国に大義名分はあり、辺境で文化レベルの低かった新羅はone of themに過ぎない
342 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 15:37
>341
西シベリアよりスキタイとの関係が遺物から深いと言われています。
卑弥呼がどこに国があったか分からないのに狗邪韓国を橋頭堡にと
言うのはおかしいと思う。
卑弥呼と任那との関係なんかあるわけ無いじゃん。
343 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 16:14
邪馬台国は、大和であることは、考古学的には決着しています。
344 :
ID付き名無しさん:2000/11/15(水) 16:56
>>343 考古学的には、弥生時代後期から大和に大きな権力があったことはわかっていますが、
それが邪馬台国かどうかなんてわかりません。
そもそも、考古学的に邪馬台国の位置を特定するのは不可能に近いです。
例え魏の皇帝から送られた金印が見つかっても確定しないでしょう。
345 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 17:05
水行=瀬戸内海、投馬国=吉備、邪馬台国=畿内、狗奴国=東海
卑弥呼の墓=箸墓古墳 と見て、統一的に解釈できます。
346 :
320:2000/11/15(水) 21:28
<<322
自分の書いたことの訂正だが、魏志倭人伝を読み直して、
邪馬台国の本拠地が九州島に間違いなくあったとは、確かにいえないな。
ただし、魏の使いが卑弥呼と台与の二人と会ったのが九州のどこかという
ことだけは確か。「東渡海千余里復有国皆倭種」で卑弥呼が当時
いた場所は九州とわかる。
景行天皇が九州で都したように、クナ国と戦争するために
近畿に本拠地があった邪馬台国が九州にきていたとも考えられるけど、
それだと邪馬台国の戸数が70万戸はないとまずいんじゃないの。
347 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 21:52
でも邪馬台国なかにも漢文の文章を書ける人がいたんでしょう。
たとえば楽浪郡や帯方郡にいた漢族の人とか。
その人達が残した記録等が出れば一発で分かるのにね。
それにしても現在でも近畿、九州と分かれてわからないのに
江戸時代はもっと分からなかったろうね。
348 :
日本@名無史さん:2000/11/15(水) 22:33
たぶん、華僑商人とか楽浪系あたりのお雇い外国人書記官が、それなりの人数住みついていたんじゃないかな。
プリミティヴではあれ、文書行政が行なわれていた形跡あり。
349 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 07:37
伊都国は、帯方郡の使者が留まる場所に成っていたと言う記述から見て、
中国語を話し、中国流のもてなし方が出来る人達がいたことは確実。
隋書倭国伝によると、瀬戸内海沿岸に秦王国と言う中国人の国があるとの記載があり、
卑弥呼時代にも、華僑の集落が点在していたのでは。
350 :
名無しさん@:2000/11/16(木) 14:21
みんな倭人伝の記述を部分的に自分の説に都合の良い所だけ拾って
ああだこうだ言っているけど倭人伝って東夷伝の中の一部って事
判っている?
以前、「景初二年」か「三年」かが問題になったけど魏志全文読めば
原文通り「景初二年」が正しい事が判る。
魏志東夷伝の序文には
『雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信』
とあり、
倭人伝の
『男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫。
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤
文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾。諸國文身各異或左或右或大或小尊卑
有差。計其道里當在會稽東治之東。』
に続いているのだ。
「中央において信義禮が失われていても周辺の夷狄の国では守られている。」
「倭人は男子は大小となく体や顔に刺青をしている。昔から
中国に朝貢していてその際に自ら大夫と称していた。かって夏后少康
之子が會稽に封ぜられたおり自ら斷髮文身をして領民に蛟龍之害を
避ける方法を示したと言う故事がある。倭の漁師も良く海に潜って魚介
を取るに当たって刺青でサメなどの被害を防いでいる。その道理を計る
に会稽の東の治世が遠く東の倭の地まで及んでいる事を示している。」
夏后少康之子というのは王位を継ぐ立場にありながら弟に継承権を
譲る為、自らの顔、体に刺青をしてもはや王位を継ぐ事は出来ない事を
身を持って示したと言う美談の主としても語られている。
このように、邪馬壱国は信義に篤い国として語られる訳はさらに
当時の半島情勢を抜きには考えられない。
みんな知っているように景初二年といえば公孫氏が前年、呉と組んで
反乱を起こしている。そのため続いていた韓、倭からの朝貢が途絶えて
しまった。これが「中國失禮」なのだ。
そして公孫氏を撃つべく司馬炎を派遣し遼東半島を包囲している時に
倭の使いがやってきた。『中國失禮、求之四夷、猶信』となるのだ。
だから魏が喜んで生口10人というお粗末な貢物に対して異例の待遇
を卑弥呼やその使いに与えた事が理解できる。
「景初二年」だったからで「三年」では魏が邪馬壱国をこのように
遇する事はなかったであろう。
351 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 16:38
>>350 あのねー、ちゃんと読んでないでしょ。
朝貢が途絶えたのは公孫淵のおじいちゃんの代のこと。
中国失礼うんぬんは漢書地理志の孔子の話を受けたもの。
まず自分の言った通り、魏志をぜんぶちゃんと読むこと。ね!
352 :
名無しさん@:2000/11/16(木) 17:23
>孔子の話
はそのまま倭人の国に当て嵌められて「東夷の倭人は礼を
失していない。」と書かれているのだよ。
何処にも疑問を差し挟むところがないと思うが?
353 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 20:36
↑あ・そう。東夷伝読んでないわけね。孫引きさんか…
話にならんわ。
354 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 21:27
350>
それで3歳の司馬炎が遼東半島を包囲してどうしたんだ?
(遼東半島包囲するか!バカ)
355 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 22:06
>反乱を起こしている。そのため続いていた韓、倭からの朝貢が途絶えて
>しまった。これが「中國失禮」なのだ。
>そして公孫氏を撃つべく司馬炎を派遣し遼東半島を包囲している時に
>倭の使いがやってきた。『中國失禮、求之四夷、猶信』となるのだ。
ブハハハハハハハ!いや、おもろい。久しぶりに笑わしてもらった。
仲尼の霊も、うかばれまい。
で終わってもいいのだが、この面白さをわずかな人数で楽しむのはもったいない。
短いので、東夷伝序を知らない諸兄のために、東夷伝序を概観しておこう。
誰かさんのために一応断っておくが、これは東夷伝の序であり、倭人伝の序ではない。
夷蛮の国々は非常に遠くて昔は誰も詳しいことを知らなかったが、それでも、西戎や肅愼氏がやってきた。
漢の時には、張騫の遠征によって都護を置いたので西域のことがよく分かった。
魏になると、全部ではないが、漢の時と同じように西域の大国はやってきた。
一方、公孫氏が遼東にあり、東夷との交流は絶たれてしまったが、景初中に公孫淵を誅したので、東夷も屈服した。
その後、高句麗が叛いたのでこれを討ったが、(このとき句麗王宮が逃げ回ったので)軍が東夷諸国を廻る結果となり、東夷の詳しい情報を得ることが出来た。
(それによると東夷は)夷狄ではあるが礼節が保たれており、『国が乱れて中国に礼が行われないのを嘆いた孔子が、海を渡り夷と共に住もうとした』という(故事が本当である)ことが、今でもなお信じられる。
それゆえ、これらの国々のことを記述し、前史に欠けているところを補うのである。
都合が悪い其後高句麗背叛・・・と最後の故撰次其國・・・をすっとばして話をねじ曲げたってこったな。師匠のおハコだ。
>(それによると東夷は)夷狄ではあるが礼節が保たれており、『国が乱れて中
>国に礼が行われないのを嘆いた孔子が、海を渡り夷と共に住もうとした』と
>いう(故事が本当である)ことが、今でもなお信じられる。
あまりの面白さに記憶だけで書いてしまったが、念のためちくまを見ると次のようになっていた。
(それによると東夷は)夷狄ではあるが祭祀の儀礼が伝わっている。中国で礼
が失われた時、四夷にそれを求めることもあるだろう。
ちくまが正しいとも限らんが、訂正しておく。
357 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 23:18
>355@`356
原文はこれ
「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。」
358 :
日本@名無史さん:2000/11/16(木) 23:51
だから何?全部載せようか?
書稱東漸于海西被于流沙其九服之制可得而言也然荒域之外重譯而至
非足跡車軌所及未有知其國俗殊方者也自虞曁周西戎有白環之獻東夷
有肅愼之貢皆曠世而至其遐遠也如此及漢氏遣張騫使西域窮河源經歴
諸國遂置都護以總領之然後西域之事具存故史官得詳載焉魏興西域雖
不能盡至其大國龜茲于テン康居烏孫疎勒月氏ゼン善車師之屬無歳不
奉朝貢略如漢氏故事而公孫淵仍父祖三世有遼東天子爲其絶域委以海
外之事遂隔斷東夷不得通於諸夏景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海收樂
浪帶方之郡而後海表謐然東夷屈服其後高句麗背叛又遣偏師致討窮追
極遠踰烏丸骨都過沃沮踐肅愼之庭東臨大海長老説有異面之人近日之
所出遂周觀諸國采其法俗小大區別各有名號可得詳紀雖夷狄之邦而俎
豆之象存中國失禮求之四夷猶信故撰次其國列其同異以接前史之所未
備焉
だから何?
359 :
割り込んでスマソ:2000/11/17(金) 08:09
>>350 たぶん誰かが突っ込むと予想されていると思うが、
「計其道里當在會稽東治之東」を「その道理を計るに会稽の東の治世が
遠く東の倭の地まで及んでいる事を示している。」と読むのはいかがか。
「治」を「冶」の誤字ではなく、原文に忠実に読もうとする態度はご立派だが、
「東治之東」「(会稽の)東の治世が東に当る(及ぶ)はこなれた文章とは
言いがたい。道里=道理と読むことができるのも検証されているのだろうか。
地名を表すのに「會稽東冶」というセットになった言い方もあるのだから、
「(風俗が同じなので)その道里(倭への道筋)は揚子江下流の會稽・東冶の
東に当たると考えられる」と読むのが正しいのではないか。
360 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 08:57
>358
「だから何?」って
350は情けないほど間違いだらけだろ?
読めば明白
361 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 09:42
>道里=道理と読むことができるのも検証されているのだろうか。
邪馬壹國 を 邪馬臺國、二年を三年と読むよりはましだと思うが。
東夷伝の全体を流れる文脈から『道理』と読んだ方が正しいと
思われるよ。
362 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 10:01
補足
会稽東冶郡というのが存在したことは事実だが
夏后少康之子が会稽に封ぜられた場所はは会稽東冶郡ではなく
会稽山の東だった。
東冶郡は後に会稽と合併して会稽東冶郡となった。
後世の歴史家は会稽と東冶がかって別だった事を見落として
「冶」を「治」の誤りと思い込んだと考えられる。
>>355 =356
おー、序文ってそういう意味だったのか。
わたしも間違っておりました。
訳せたのはあの部分だけだったので。
全訳を載せてくれてどうもありがとう。
(もっと、自分で調べろよ<私)
364 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 12:57
>>361 検証はされてないのね。
>邪馬壹國 を 邪馬臺國、二年を三年と読むよりはましだと思うが。
こちらの方は、もう嫌と言うほど出てきてるので繰り返さないが、他の書物による
検証が可能ですが。
せっかく「原書に忠実、一言一句も替えずに○○(北九州?)が邪馬壹国であった
と証明する」というのがあなたの(師匠の?)学説の売りのようですのに。
365 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 16:28
>364
>せっかく「原書に忠実、一言一句も替えずに○○(北九州?)が邪馬壹国であった
>と証明する」というのがあなたの(師匠の?)学説の売りのようですのに。
それを言われるとチョトつらい。東夷伝読んでいたらそう読むのが自然に思えた。
師匠なんていないし、学説なんて言えるしろもんじゃないけど。
距離、道程の話なら別の部分で書いているし、風俗の話をしている時に又、地理を
持ち出し、さらに「其風俗不淫・・・」と続けているのはチョット??
絶対にないとは言えないがこれは流れから倭人を誉める為に書いているのだから
地理のことを言っているのではなく信義礼にすぐれた事を表わそうとしている。
「道理」と読む方法もあると考え付いたと言う訳。
検証は誰か玄人にやって貰いたいと思ってあえて発言した。よろしく。
366 :
359=364:2000/11/17(金) 18:12
>>365 独学で誰かの受け売りでもないのであれば、感心いたします。
惜しむらくは、文献学で邪馬台国を比定しようとしている割に文献に暗い
ところがあるようですね。
>距離、道程の話なら別の部分で書いているし、風俗の話をしている時に又、地理を
>持ち出し、さらに「其風俗不淫・・・」と続けているのはチョット??
これは陳寿が複数のテキストを使用していた証拠。いろんな本を継ぎ合わせて参考に
しているうちに重複する部分が出てきたためで、史記など他の史書にも数多く見られる。
ちょっとだけ文献学主体の九州説に味方すると、魏略など正史以外のテキストには
邪馬台国は九州(というか奴国の近く)にあったことがはっきり書いてある。
一度参考になさっては?(もっともどちらが正しいとか、写本の時系列がとか、
もっとややこしい話になりそうだが)
私はガチガチの近畿説ではないので
>>344(はあなたの意見かどうか知らないけれど)の
>考古学的には、弥生時代後期から大和に大きな権力があったことはわかっていますが、
>それが邪馬台国かどうかなんてわかりません。
には今のところ賛成する。もしかしたら近畿こそ狗奴国かも知れないしね。(おっとそれでも
南と東を「捏造」してると言われるか。)
ただ後半部分の
>そもそも、考古学的に邪馬台国の位置を特定するのは不可能に近いです。
>例え魏の皇帝から送られた金印が見つかっても確定しないでしょう。
は不賛成。考古学の研究結果も尊重するべき。文献とあわせて検証するのが正しいやり方のはず。
367 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 22:18
368 :
日本@名無史さん:2000/11/17(金) 23:27
>>距離、道程の話なら別の部分で書いているし、風俗の話をしている時に又、地理を
>>持ち出し、さらに「其風俗不淫・・・」と続けているのはチョット??
>これは陳寿が複数のテキストを使用していた証拠。いろんな本を継ぎ合わせて参考に
計其道里當在會稽東冶之東は、この文を書いた者が推量しているところ。この
推量は、倭の水人の入墨の起源として夏后少康之子の伝承と密接につながって
いるから、ここ以外には入る場所はなく、地理にも入らない。ここの主眼は、
地理的な位置の説明ではなく倭人の入墨の起源にあり、
(そういえば、倭は)その道のりから考えてみるとまさに会稽東冶の東にあたる。
(だから呉の風習が伝わったとしてもおかしくはない。)
のような感じで補って読むべきところだろう。
>ちょっとだけ文献学主体の九州説に味方すると、魏略など正史以外のテキストには
>邪馬台国は九州(というか奴国の近く)にあったことがはっきり書いてある。
魏略逸文には邪馬台の名はない
廣志逸文は悪名高い翰苑残巻からで、伊都の次に又南至邪馬嘉國とは書
いてあるが、距離はない。
御覧倭人伝は、投馬から南で、距離はない。
『奴国の近く)にあったことがはっきり書いてある』史料って何のこと?
369 :
日本@名無史さん:2000/11/18(土) 00:27
>>367 岡田説を持ち上げてるのは例の「国民の歴史」くらいでしょう。
根拠のある話でない単なる推理で、実際は支持者は少ないはずです。
むしろ暴論と評される気配が濃厚ではないでしょうか。
逆に、239年現在では司馬懿はホされていたので曹爽の手柄になってしまうという
強力な反論もあります。
370 :
日本@名無史さん:2000/11/18(土) 00:36
>『奴国の近く)にあったことがはっきり書いてある』史料って何のこと?
たぶん翰苑の廣志逸文のことですよ。
でも、あれ中抜きでしょう?
それを伊都国のすぐ南にあったと読む人がいるけれど、困ったものです。
話がちょっとずれますが…。
魏略逸文
>又有狗奴國、女男子爲王。其官曰拘右智卑狗。不屬女王也。
>自帯方至女國萬二千餘里。其俗男子皆點而文。【聞其舊語、自謂太伯之後】。
>昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之吾。今倭人亦文身、以厭水害也。
魏志倭人伝
>其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。
>自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。【自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫】
>夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。
2つを比べると、ほとんど同じなのに【】内だけが微妙に違う(わら。
同じ元ネタからの引用か、一方が他方を引用したとしか考えられない。
で、【】内だけが違うということは、どちらかが何らかの理由で書き換えたのか、
お互いが相手に記述のある部分を省略したのか。
>ここの主眼は地理的な位置の説明ではなく倭人の入墨の起源にあり、
なら、魏志倭人伝の【】の方は突飛な感じがするのは私だけでしょうか?
この部分は「男子無大小皆黥面文身。」の前にあったほうが収まりが良いと思う。
場所を固定するのなら、魏略逸文の【】に軍配が上がる。
どちらかに書き換えがあったとするなら、魏志倭人伝のような気がする。
373 :
366:2000/11/18(土) 07:59
皆さん野史には厳しいようで・・・(笑)
九州説が元気がないようなので少し応援したかったのですが、薮蛇でしたか。
お察しのとおり翰苑に残っている野史の文章のことです。
わざわざ魏略や廣志から倭人の条を抜き出して載せているので、時々読み返しています。
中身のほうも「邪馬嘉国」や「卑彌娥」が出てきて楽しい(?)内容になっています。
「邪馬臺国は山鹿市(熊本県北部)にあった!」なんてね。(既出かな?)山鹿の装飾古墳は
綺麗だけれど、小さくて新しすぎるのが残念なところです。
374 :
371:2000/11/18(土) 08:38
ふと思ったんだけど、
倭人在帶方東南大海之中(冒頭部分)、…計其道里、當在會稽、東冶之東。
って、呼応した表現だと思わない?
本当はここまでが地理の説明としての1区切りと考えるべきじゃないのかな?
其風俗不淫、男子皆露[糸介]…から、風俗説明の記述と考えたほうが正確みたい。
あくまで区切とすればの話だけど。
375 :
日本@名無史さん:2000/11/18(土) 10:58
ここは話題転換している部分で、地理|風俗と一線引きにくいんじゃないでしょうか?
376 :
日本@名無史さん:2000/11/18(土) 11:02
>>373 「『イ妾』国は倭国ではない説」なんて出てくると
もっと楽しいよね
377 :
371:2000/11/18(土) 11:26
>>375 読解力ないからわからないけど、明確に線引きした方がわかりやすいと思う。
「倭人在帶方東南大海之中…自郡至女王國萬二千餘里…
計其道里當在會稽東冶之東」と地理の説明としたらすっきりすると思う。
つまり、女王国の位置を「在會稽東冶之東」と筆者は結論付けたという風に
考えられないですか?
378 :
日本@名無史さん:2000/11/18(土) 11:43
筆者は、その風俗が地理の記述を裏付けるものだと理解して
「当在…」と結論付けたということだから、あなたの理解は正しいと思います。
でも、地理の話の結論であり、同時に風俗の話の枕だろうと思うんですね。
380 :
日本@名無史さん:2000/11/18(土) 18:34
さいきん九州説やってるやつは文献読んでねえなあ
そのくせ畿内説は考古学だけだと思ってる
ちゃんと中身の話できてるやつはむしろ畿内シンパっぽいけど、違う?
381 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 01:22
>なら、魏志倭人伝の【】の方は突飛な感じがするのは私だけでしょうか?
>この部分は「男子無大小皆黥面文身。」の前にあったほうが収まりが良いと思う。
>場所を固定するのなら、魏略逸文の【】に軍配が上がる。
>どちらかに書き換えがあったとするなら、魏志倭人伝のような気がする。
原形には両方あったと思う。
(倭人は)昔から大夫を自称してやって来た。その当時に彼らが言っていたところによると、
倭人は太白の後裔であるという。
という感じでは?それが、魏略、魏志に採用される段階で異なる省略のされ方をした、という解釈。
魏略の聞其舊語・・・もやや唐突な感じがし、その前に魏志の自古以來・・・があるとこの部分だけで完結することになる。
382 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 05:56
畿内シンパは多そうだけど。畿内説の内容を述べる人は少ない。
女王国の東に海があるけど、畿内にはないしね。
あきらかに畿内は問題あり。
述べるとボロがでるから静かなのかな。つまり頭はいいわけだ。
どうでもいいや派からすると、両派ともボロが出まくるわりに自信満々に相手を罵るわけだ。
まともな人間とは思えんな。
384 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 08:36
>>382 東なら伊勢湾があるよ。
若狭から北陸もある。
385 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 09:54
間違いなく「20世紀にやり残したこと」に入るね。
386 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 11:00
20世紀で終わってる
あとは敗残兵だけ
387 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 22:17
>あきらかに畿内は問題あり
問題がない説ってのは、どっかに必ずごまかしがある。
北部九州説は、問題があるない以前に根拠がない。
388 :
日本@名無史さん:2000/11/19(日) 23:00
てゆーか、問題が無いと自称する説は=問題にならない説。
389 :
日本@名無史さん:2000/11/20(月) 02:22
>384
まじボケありがとう。
畿内説の人は、こんな低いレベルじゃないと期待
390 :
日本@名無史さん:2000/11/20(月) 03:50
391 :
日本@名無史さん:2000/11/20(月) 06:55
>389
おれは伊勢湾でいいと思うな
北陸はちょっと疑問だけど
琵琶湖はどうだ?
邪馬台国=邪馬(北部九州)の(大)壹国=ヤマタイコク
九州北部が 邪馬
熊本が 狗馬(クナコク)
朝鮮半島南部が 任馬(任那)
鹿児島が 薩馬(薩摩)
地域名と国名のミックスであるため、混乱が生じた。
>>383 そのとおりだね。もっとも両派とも「どうでもいいや」派(何が目的なんだ?)には
何もいわれたくないだろうが。
タイムマシン厨房と言い、スレの主題にかかわる意見をまったく言わずに去っていく
厨房が多いのには辟易する。
395 :
日本@名無史さん:2000/11/20(月) 12:34
名も知らぬ倭種の国が東に千余里って変だろう。誰が測ったんだ?
名前のわかってる旁国も遠絶で道里不詳なんだぜ。
小人の国とか裸族の国とかと一緒に書いてあるんだから
この部分は作り話だろう。隣が急に小人じゃ変だからなあ。
396 :
ROM:2000/11/20(月) 13:09
>>394 自分は「どうでもいいや派」ではなく「どっちでもいい派」ですが
単純にどこにあったのか興味があってここは継続して覗いてます。
興味はあっても議論に参加するほどの知識もないので...
でわ、ROMに戻ります。
397 :
はかない日:2000/11/20(月) 20:58
398 :
日本@名無史さん:2000/11/20(月) 23:41
「卑弥呼以死大作冢徑百餘歩」には、箸墓古墳が時代も後円部のサイズもピッタリ
>>395 実はそれは北海道のことなんです。「小人の国」はそう「コロボックル」のことなんです。
400 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 09:15
畿内派からは邪馬台国のみすぼらしい貢に対して魏がどうして豪勢な
返礼をしたかの合理的な説明がない。
昔から倭人の国が何度も朝貢していたのにことさら景初二年の朝貢を
取り上げ記述しているかについても。
魏志東夷伝の中で倭人の項がどのような位置を占めているか。
中国が乱れても邪馬台国を礼節を重んじる立派な国として描く為に
東夷伝の枕があるのだ。
文脈を読めば邪馬台国の朝貢が景初二年が正しい事は疑いない。
戦いの最中の朝貢だったから魏が感激してみすぼらしい貢に対して
魏は豪勢な返礼をしたのだと言う意見に対して、後世の史書に三年と
かいてあるから三年だとしか言うことが出来ない。
後世の史書は、魏志倭人伝をパクリながら陳寿の心情をまったく
理解せずに書かれているということが判っていない。
間違いは後世の史書の方が多い事を知るべし。
401 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 09:56
>>399 ということは、南四千余里の小人国が北海道だから
南に水行十日陸行一月の邪馬台国は畿内でOKですね?
402 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 10:33
相変わらず、ワンパターンの古田信者が、三国志の遙か後世の南宋の刊本を、
何の書写の間違いもないものとする狂信振りには呆れる。
中国でも「魯魚の誤り」と言う諺があるように、似た文字の書写の間違いは茶飯事。
日本書紀では、魏志を引用して、景初三年に相当する年のこととしている。
梁書も、魏志を見てだろうけど、景初三年としている。
これだけでは、どちらが正しいとも言えない。
そもそも、二年でも三年でも、邪馬台国畿内説には関係ないこと。
403 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 11:04
景初二年だとして、その十二月の明帝が倒れる前に詔書がでたとしますよ。
そうすると、その翌々年の正始元年に
景初二年十二月にでた詔書を倭国にもたらして親魏倭王に任命するというのは
ちょっと変じゃないですか?
もう三年元日に明帝は死んでいて、次の皇帝の時代じゃないですか!
404 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 15:09
礼節を重んじた魏は明帝の遺言とも言うべき詔書を
忠実に守ったと言う事でいいんじゃない。
正始元年まで待ったのは喪が明けてからだよ。
年号だって喪中は改めなかった。
これも漢の正当な継承国としての儀礼だった。
何の不思議もない。
405 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 17:19
>402
>そもそも、二年でも三年でも、邪馬台国畿内説には関係ないこと。
畿内説は魏志倭人伝には間違いが多い、と言う事を論拠にしている。
>>400 は間違いはそれほど多くないと言う事を証明したいだけだよ。
406 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 17:28
>畿内説は魏志倭人伝には間違いが多い、と言う事を論拠にしている。
大間違い。元の資料はかなり正確なものだったと考えられるが、
書写につれて、誤記が増えていった筈だから、様々な文献を照合して、
校合を進める必要があるというだけのこと。
407 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 19:10
>>404 景初三年のうちに新帝は詔勅をいくつも出しているし百官も任命しています。
遺詔は、ふつう新帝が他のことに優先して履行を命令するもの。
喪中だからといって後回しにする理由はありません。
それに新帝が即位して1年以上たっているのだから
先代の皇帝が出した詔書を「遺詔である」と断らずに実行するのも不自然。
どう考えてもイレギュラーな事態です。
「何の不思議もない」というなら、実例を示さなければ。
408 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 19:38
>405
> 畿内説は魏志倭人伝には間違いが多い、と言う事を論拠にしている。
それは九州説も一緒でしょ?
違いは、畿内説は「ここは間違いであろう」という論拠を示す。
九州説は自分のカンで「実はこういう意味だ」って読解を発明する。
たとえば、どうして伊都国は末盧国の東南なの?
409 :
>408:2000/11/21(火) 20:33
>たとえば、どうして伊都国は末盧国の東南なの?
アホか?魏志倭人伝には、末盧国から東南に五百里陸を行くと伊都国に
着くって書いてあるだろが。
410 :
日本@名無史さん:2000/11/21(火) 20:43
じゃ、あなたの比定地はどこ?
411 :
409>410:2000/11/21(火) 22:41
412 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 00:07
>411
あ・そうじゃなくて
あなたの伊都国と末盧国の比定地はどこで、伊都国は末盧国の東南かってこと。
413 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 02:08
倭人の献上品は
男生口四人
女生口六人
班布二匹二丈
魏の答礼(答汝所獻貢直)は
絳地交龍錦五匹
絳地スウ粟ケイ十張
セン絳五十匹
紺青五十匹
はたして本当に倭の献上品がみすぼらしくて、答礼が豪勢じゃろうかのう?
その客観的な基準は那辺にあるんじゃろかい。あんたはんの主観だけと違うかのう。
それに続く(又特賜汝・・・)
紺地句文錦三匹
細班華ケイ五張
白絹五十匹
金八兩
五尺刀二口
銅鏡百枚
眞珠鉛丹各五十斤
には理由がちゃんと書いてあるでの。
悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
414 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 02:26
女王國東渡海千餘里復有國
に出てくる千里が、中国人による実測でないということはほぼいいだろう。
名前すら分からぬ国だし。
そうするとどこから千余里という数字が出てきたか。
一つは395のように作り話である可能性。これもあり得ないことではない。
しかしあえてそうでないとすれば、倭人からの伝聞情報。
この場合、移動にかかる日数を中国里に換算したものになる。
つまり、移動距離はおよそ400km、洛陽−長安間ぐらいの距離とこの文を書いたものは考えている。
畿内から海を越えた400km先といったらやはり関東しかないだろう。
関東には、庄内期に入るあたりから濃尾平野の土器が相当数入り込んでいる。
そして、それにやや遅れるように畿内の庄内式が関東に浸透し、
箸墓古墳が作られる頃には、会津あたりまで畿内の影響が及んでいることが確認されている。
このような考古学的な成果を見るかぎり、庄内期において畿内と関東の
間で何らかの交流があったことは間違いがなく、
海の向こうの倭種の国を関東と考えて何ら不都合はない。
ところで、九州説だったら、これはどうなるんだ?
阿蘇説とか、筑後川流域説(含む甘木)なんか、畿内以上に困るだろう?
この問題で突っ込まれて困らないのは、まあ、宇佐説ぐらいか?
阿蘇説、筑後川流域説の意見を求む!!!
って言っても絶対出てこないんだよな、九州説の御仁は。
何度も水を向けてるんだが。
415 :
高校時代の歴史の成績は悪かった人:2000/11/22(水) 07:13
初めてカキコするくせに突っ込んですみません。
>>400 >畿内派からは邪馬台国のみすぼらしい貢に対して魏がどうして豪勢な
>返礼をしたかの合理的な説明がない。
たしか高校の世界史の教科書に書いてあったと思うのですが、中国は周辺諸国と
「朝貢貿易」だったか「朝貢外交」だかをやっていて、みすぼらしい朝貢品に対し
それに数倍する下賜品を送って、大国の威信を周辺国に示していたのではありません
でしたっけ。それともそれはもっと後の時代のことでしょうか。
416 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 10:18
ところで大和が「yamato」と呼ばれるようになったのはいつ?
三世紀頃に「yamato」と呼ばれていた証拠は何処にあるの?
畿内に邪馬台国があったと言うならこれを証明しなくちゃならないのでは?
「yamatai」と「yamato」の語韻が似ているというのが畿内説の大きな柱
なのだから。
417 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 10:35
阿蘇説?
「阿蘇国際マラソン」だろ!
418 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 10:36
当時の中国の音だと、台はトと読むべき。それを大和と思わせたくない連中が、
ヤマタイと言う変な呼び方をさせているだけ。
飛鳥・奈良時代の日本語の研究によると、8母音で母音が続くことがなかったとされる。
それからしても、「ai」と母音が続くのは不自然。
419 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 11:46
>>416 別に大きな柱ってほどでもないでしょう。単なる傍証。
ただ、7世紀の中国史書群がしるすところが「今の倭国の都は邪摩堆で=邪馬台」だと読め、当時の都が実際ヤマトなんだから間違いないでしょう。
420 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 16:30
400年も後の話かぁ。
三世紀に「yamato」ないし「tamatai」と呼ばれていたという
証拠はない訳ね。
古事記、日本書紀にもそれらしい地名記述はないのね。
現大和は古代には「イワレ」と呼ばれていた証拠はあるのに。
と言う事は邪馬台であるか邪馬壱であるかと言う事は畿内説
にとっては意味をなさないと言う訳だ。
単に倭人伝の記載が誤植だらけであるから東が南と書いてあっても
当然の証拠にしたいだけ?
大和が遣随使を送ったころ「後漢書に書いてある邪馬台は我々の事だ。」
と遣随使が主張しただけの話。その頃じゃないか大和になったのは?
後漢書のいいかげんさは魏志をパクリながら全く噴飯もので「漢委奴国」
の金印の記載があるから注目されているだけ。
その後の史書は後漢書を参考にして書いてあるから同じくでたらめ。
421 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 18:17
>大和が遣随使を送ったころ「後漢書に書いてある邪馬台は我々の事だ。」
ウソをつくな。隋書倭国伝には「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と、
魏志を参照したことが明記されている。この時代に現存していた魏志には、
邪馬臺と書いてあったのが、南宋時代の刊本に至る間に、書写により
「魯魚の誤り」を犯した可能性が大きいと思う。
纏向遺跡や箸墓古墳がある地域は、「おおやまと」と呼ばれる地名。
422 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 18:23
カムヤマトイワレヒコは?あ、人名かこれ。
ちょっと420の論旨が判りにくい。(近畿説はでたらめだ!と言うことが言いたいのは判る。)
近畿が3世紀に「ヤマト」と言われていた直接的な証拠がない→近畿≠邪馬台である
→しかしそれでは全国津々浦々「邪馬台」という地名からは推理できないですね。
それに地名はあくまで傍証であって、本題ではないですね。(あくまでも補強です)
「史書は〜でたらめ」にいたってはさらに何が言いたいのかよくわからない。
史書は全部でたらめだから論拠に出来ないということを言いたいのでしょうか。
なら歴史の勉強なんかやめたら。
423 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 19:12
箸墓古墳は前方後円墳なのに、後円部だけを持ってきて、大作冢徑百餘歩に合うと言うのは変じゃない?
後円部だけを墓だと認識するとは思えない。
百餘歩の数値を信用するのは、はかった値だからだよね。前方後円墳の後円部だけ(墓の中に入って)はかる
事ができたのかな?立体的なものを後円部だけぐるっとまわってはかったとしたら、かなり不正確になりそう。
全体の大きさというのならわかるけど。
古墳を見れるくらい女王国に行っていたなら、箸墓古墳のまわり見回しても山ばかりだから、
女王國東渡海千餘里復有國 なんてホラ話なら、だまされないと思うけど。
九州につくまでに渡海千餘里は何度かしているのだから、山を幾つも越えた先の話ならこんな
書き方にはならないと思います。
古墳の大きさは何百年も前と今とで同じなのだろうか?
425 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 19:24
>箸墓古墳は前方後円墳なのに、後円部だけを持ってきて、大作冢徑百餘歩に合うと言うのは変じゃない?
竪穴式石室を有する前期古墳では、後世に比べて前方部は幅も狭く高さも低く、
祭壇的な要素が大きかったと考えられている。
>箸墓古墳のまわり見回しても山ばかりだから、
そうじゃないだろ、ここは奈良盆地で、四方が山に囲まれると言うほど、山は迫っていない。
>女王國東渡海千餘里復有
狗奴国は戸数も書かれていないし、行った様子はなく、単なる伝聞でしょう。
なお、江戸時代の東海道五十三次でも、伊勢湾は海を渡っている。
なお、不彌国から投馬国への水行20日、続いて邪馬台国への水行10日は、
古代から近世の外国使節の経路を考慮すると、瀬戸内海と考えるのが妥当。
426 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 19:30
>古墳の大きさは何百年も前と今とで同じなのだろうか?
墳丘の大きさは、後世に変化している場合があり、周辺部の発掘により、
周濠の位置を確認して、元の大きさを推定しています。
427 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 19:36
>414
>この場合、移動にかかる日数を中国里に換算したものになる。
>つまり、移動距離はおよそ400km、洛陽−長安間ぐらいの距離とこの文を書いたものは考えている。
ここまでは納得できるけど、
>畿内から海を越えた400km先といったらやはり関東しかないだろう。
中国人の想像の400kmを逆に地図にあてはめる行為はムチャでしょう。
千餘里なんて、九州までに何度か渡った距離ですから、同じくらいの距離という
話を聞いたのかもしれないし。
万二千余里に陸行一月と水行二十日だから、約10分の1くらいの日数だった
のでしょうね。でも陸行3日水行2日で、あの時代に400kmはきついと思いますよ。
428 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 19:45
>427
> 万二千余里に陸行一月と水行二十日だから
これは誤読。
読み方にもよりますから、陸行一月水行二十日は1@`500里〜2@`000里ぶんの所要日数です。
12@`000里ぶんではありません。これはちゃんと原文を読めばわかります。
429 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 19:51
>>420 >現大和は古代には「イワレ」と呼ばれていた証拠はあるのに。
どういう証拠があるの?
430 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 20:17
>三世紀に「yamato」ないし「tamatai」と呼ばれていたという
>証拠はない訳ね。
そんな証拠あるわけないでしょう。
日本中のどこだって三世紀に
「yamato」ないし「tamatai」と呼ばれていたなんて
証明できっこない。
でも「yamato」ないし「tamatai」と呼ばれた形跡のないところよりも
より古い時代からそう呼ばれた実績のある土地のほうが
候補としては優先でしょう?
431 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 20:47
箸墓古墳は前方部があとから付け足された形跡があるんじゃなかった?
432 :
名無しさん@1周年:2000/11/22(水) 20:49
>>431 偉大な卑弥呼の墓に、そんな真似するか?
433 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 21:20
>420
ぜんぶ空想ばっかじゃん!
ひとには証拠もとめるくせに
434 :
420じゃないけど>429&433:2000/11/22(水) 22:41
422も言ってるが、日本書紀に証拠はあるぞ。
イワレ(磐余)の範囲がどれくらいのものなのかはよくわからないが、現在の奈良近辺の
一帯であることは確実。日本書紀によると、神武東征で近畿地方を制圧した神武天皇は
それを記念して、その地をイワレ(磐余)と名付けたとあり、神武天皇は、日本書紀では、
神日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと)つまり、「日本のイワレ地方の天皇」
と記されている。
しかし、古事記では、神武天皇は、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)
と記されていて、本当は、かむ"わ"いわれびこのみこと だったのを、大和朝廷が、
「わ」の部分を「やまと」と読ませるようにして、漢字さえ「日本」に変えたのでは
ないかとも思える。420の考えは、あながち空想と言いきれるものではない。
http://www2.begin.or.jp/sakura/samuka05.htm#top
435 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 22:51
>「わ」の部分を「やまと」と読ませるようにして、
そうじゃなくて、訓で読むのが適切だと思うぞ。
日本書紀・続日本紀には、やまとを大倭国と記している。
その後、伝染病の撃退を願って大養徳国に変えて、再び大倭国に戻し、
大和国に変更して江戸時代まで続き、明治維新後は奈良県となった。
436 :
日本@名無史さん:2000/11/22(水) 23:12
>434
日本書紀に「現大和は古代には「イワレ」と呼ばれていた証拠」なんてないし
「神武東征で近畿地方を制圧した神武天皇は それを記念して、その地をイワレ(磐余)と名付けた」
なんて記述もないよ。日本書紀よんだ?
日本書紀には大和のごく狭い地域の名前として磐余邑の名が出てくるだけ
現大和は昔はヤマトじゃなくてイワレだったなんて全くの空想
それより
「三世紀頃に「yamato」と呼ばれていた証拠は何処にあるの? 」とか
「400年も後の話かぁ。 」とか
言ってる人が、もし8世紀成立の本を証拠に出してきたら噴飯もの
さぞかし2世紀とか3世紀の立派な証拠を出していただけるだろう
カツモクして待つ!
437 :
マゴビキマン:2000/11/22(水) 23:45
おれは素敵なマゴビキマン ♪
目にもとまらぬ早業で ♪
どんな資料もォ ひとォひねりィ ♪
たちまち歴史は俺のもの ♪
マゴビキマン ♪ マゴビキマン ♪
マゴビキだからトンチンカン
は・は・は・は・は・は・は・はひふへほ
438 :
せんせい、しつもん!:2000/11/23(木) 00:31
おともだちのなかにちゆうごくのしやほんにわまちがいわないっていいはる子がいるんだけど、
ぎしわじんでんのつしまのところが
紹熙本わ對海國、
紹興本わ對馬國
になってるんだけどこれわどうかんがえるの?
439 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 00:39
> 中国人の想像の400kmを逆に地図にあてはめる行為はムチャでしょう。
そうかな?
中国人の頭の中では、千里を移動するのに要する日数は、おおよそ一ヶ月程度でしょ。
陸行3日水行2日って聞いたら千里なんかにゃ換算しませんて。
440 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 08:55
九州説のバカ(←九州説のなかでバカなやつのこと)は
都合の悪い質問は一切無視する
都合の悪い資料も一切無視する
441 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 09:14
>>434 >しかし、古事記では、神武天皇は、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)
と記されていて、本当は、かむ"わ"いわれびこのみこと だったのを、大和朝廷が、
「わ」の部分を「やまと」と読ませるようにして、漢字さえ「日本」に変えたのでは
ないかとも思える。
かむ"わ"いわれびこのみこと って "わ" だけ音読みで変じゃありません?
442 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 09:58
バカ多すぎ(藁
邪馬台国は北海道だよ。あっはは
443 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 10:32
↑あんたが一番
444 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 10:36
>>442 地域振興のためにも、それがいいと思う。
予想外(マイナー説)のところにあった方が、誰も傷つかなくて済むからね。
445 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 10:40
町おこしに金印つくって埋めるやつが出て
いっぱい傷つく人がでたりして。
446 :
北海道@名無史さん:2000/11/23(木) 10:42
自然が多い、食べ物も旨い、しかも邪馬台国もあった(ことにする)。
北海道はいいところだー(w
447 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 10:48
それで記録保存して破壊される遺跡がひとつでも減るんだったら
邪馬台国三遷説でも全国巡回説でもいいよ。
448 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 11:15
魏志倭人伝と考古学的資料と最も調和する畿内説で事実上確定しているのに、
倭国が、早くから強大な勢力であったことを認めると都合の悪い連中が、必死で否定したいだけ。
449 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 12:07
九州にあった倭国が強大で半島南部も制圧していたって言うやつもいるから、一概には言えないけどね。
450 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 12:31
>447
藤村の捏造発覚で、考古学に信用がなくなっているなら、
そんなバカなことをしたら、さらに首を絞めるだけ。
ローカルな遺跡でも、郷土の人たちが大事と思ったら残すだろう。
451 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 12:36
九州人は喧嘩強いからなぁ・・・
452 :
シロート@古代史:2000/11/23(木) 12:53
三重の嬉野辺りに邪馬台国があったというのはどう。
東に海もあるし伊勢神宮も近い。陸行1ヶ月は、大阪から大和、名張を通った。
卑弥呼の墓は箸墓ということで。東海地方にもっと注目したほうが面白くない?
元々、大和は中継点に過ぎなかったとか。
453 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 12:54
>>450 なんか出たら公表する前に工事現場で施主がこっそり捨てちゃうんだって。工事遅れちゃうから。
奈○県あたりでは当たり前らしい。
だから結果として公共工事の現場からばっかり遺跡が見つかるんだって。
454 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 12:58
>>452 大和は墓中心で政治は近県のべつのところって説は結構あるし真実味もあると思うよ。
455 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 13:23
九州説のひとって何か質問されると蜘蛛の子を散らすように逃げるんだね
>>454 >大和は墓中心で政治は近県のべつのところって説は結構あるし
初めて聞きました。実はわたし、ニギハヤヒと言われる人は東海地方の王で
名古屋・長良川=「奴国」ではないかとか想像しているんです。
邪馬台国の頃の中心は、既にヤマトだと思っているんですが。
関が原を挟んで、古代の文物の流れは岐阜→滋賀と読んだことがあります。
457 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 20:11
お〜い 九州説のひと〜
ずっと前から質問してるんだけど
伊都国と末盧国の比定地はどこ?
ちゃんと伊都国は末盧国の東南になってる?
方位に間違いはありえないの?
458 :
九州説の最後:2000/11/23(木) 23:24
九州説、垓下に壁す。兵少なく、論拠尽く。畿内説、これを囲むこと数重なり。
九州の考古学者、ことごとく畿内説を唱えるを聞き、九州説、すなわち大いに驚きて曰く、
「畿内説、既に九州を得たるか。これなんぞ九州人(ひと)の多きや。」
【解説】
北部九州の土器編年は、大陸・半島の文物が多く出土し、かつ古くから
甕棺の形式編年が確立していることもあって、もっとも信頼できる。そ
の北部九州の編年はデータが増えるにしたがって、ますます精緻になり、
まず九州の考古学者が邪馬台国の時代は弥生終末であり、この時代に邪
馬台国が九州にあったはずはないといい出し、九州説は九州の研究者か
ら真っ先に見捨てられてしまった。これを見て九州説信者たちが、“畿
内説に立つ研究者の中に、なんと九州の研究者が多いことだろう”と敗
北を悟り嘆じたものである。
九州説、すなわち、夜起ちて張中に飲む。
ここにおいて、九州説、すなわち悲歌慷慨し、自ら詩をつくりて曰く、
力は山を抜き、気は世を蓋う。
時に利あらず、説立たず。
説立たざるを如何にすべき。
愚や愚や、なんじをいかんせん。
歌うこと数ケツ、九州説、涙数行下る。左右皆泣き、よく仰ぎ見るものなし。
【解説】
人口に膾炙した有名な一節。詩の意味はおおよそ次のようなものである。
力は十分あるし(と自分では思っている)、論争する気力も十分にある。
しかし、(邪馬台国の時代は弥生後期前半なんていう時期からまったく
進歩していない九州説はまるきっりの時代遅れになってしまい、)九州
説は今では利点が全くなく、説として成立しなくなってしまった。
説を立てることができないがどうしようか。(どうしようもない。)
九州説を捨てるに捨てられない私(愚)よ、いったいお前(自分のことを第三者的に見て
いる)をどうしたらいいだろうか。(どうすることもできない。)
この後、天運の尽きたことを悟った九州説は、九州説の看板を下ろして
ひたすら畿内説に言いがかりをつけることのみに専念し、わずか28騎を
以って畿内説100万の中に切り込み、自刎して果てた。最後はばらばら
に切り刻まれ、見る影もなかったということである。
太史公曰く、かつては考古学的には九州説有利と言われ、あと少しで天下に手
が届きかけたかつての栄光を持つ九州説としてはあまりにみじめな最後である。
これというのも、現状に満足し、九州説同士で論争して切磋琢磨するなど、説
をより強固で妥当なものにしていく努力を怠った結果であるといえよう。かく
て、九州なら宇佐でも佐賀でも甘木でもいいなどという意見まで飛び出し、そ
れに対し何ら反論がないというところまで堕落しきった九州説が、説として存
続し得ないところにまで立ち至ったのは当然といえば当然である。
(『史奇 九州説本奇』)
459 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 23:41
458は、茶化して書いているけど、実態をえぐったなかなかの秀作で面白い。
460 :
日本@名無史さん:2000/11/23(木) 23:44
458は、茶化して書いているけど、実態をえぐったなかなかの秀作で面白い。
461 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 09:59
九州説は終了
462 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 11:04
畿内説は天皇家が万世一系であってほしいと言う
右翼の願望が入っている。
倭人伝の記述によるとその風俗は九州と一致するが
畿内とは一致しない。
邪馬台国は南中国から渡来した北九州にあり、
大和は朝鮮半島から流れて来たフヨ族が作った
と考えるべし。
正確に言えば九州説の人は誹謗中傷に耐えかねていなくなった。
464 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 11:50
>大和は朝鮮半島から流れて来たフヨ族が作った
さすがは電波。何の根拠もない(わら
465 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 12:53
誤った日数を書いてました、すみません。
不弥国から邪馬台国までの日数で1@`500里〜2@`000里ぶんの所要日数なら、
現代の地図に当てはめると、不弥国までとそれ以降では、一里の尺度が大
きく異なるのは何故だと思っていますか?
ついでに、邪馬台国までは日数で記しているのに、女王国より東へは里数に
なおしているのは不自然な気がしますが、どう思います。
466 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 12:56
>>462 >畿内説は天皇家が万世一系であってほしいと言う
>右翼の願望が入っている
今はそんなバカは少ないんでないの?
そういう俺は、どうもそのバカの一人みたいなんだけどね(倭羅。
まともな畿内説の人たち、足を引っ張ってすみませんです。
でも、俺は邪馬台国が九州でも別に構わん。
逆に最近、九州説の根拠って結構説得力あったんだ、
今まで畿内説だから当たり前と思っていたことがそうじゃない
と感心してるところよ(遅すぎるが)。
俺は考古学のわからんシロウトだからか、九州説はまだまだ楽しめる。
九州説の人、もっと頑張ってくれ。
>邪馬台国は南中国から渡来した北九州にあり、
>大和は朝鮮半島から流れて来たフヨ族が作った
議論の精緻化でこういう単純な構図が崩れつつあるんだと思うのだが、
万世一系信者の私には目新しい考えなので(和良、有り難く聴かせていただく。
大枠の人の流れはそうだから、その考えはそれなり合理的だね。
ただ政治はそんなに単純ではないと思うからむずかしい。
ところであんたの考えにも願望が入っていない?(ワラ
467 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 14:36
素人には新聞記事だけで邪馬台国の情報を得ていると
畿内説が有利に思えるだろうが、
例えば畿内の古墳から三角縁神獣鏡なんかが大量に
出てくると新聞はすぐ卑弥呼の鏡として大騒ぎする。
本当は大量の三角縁神獣鏡発掘は三角縁神獣鏡が
卑弥呼の鏡では有り得ない事を証明する材料でしかない
のだが新聞記事を見た素人はやっぱり大和が邪馬台国
だと勘違いしてしまう。
かくて畿内説が素人の間では多くなってしまう。(ワラ
468 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 14:40
467は反畿内説の典型的なカキコで、自分が支持する説の根拠を示せずに、
畿内説にイチャモンをつけるしか出来ないと言う、いつものパターン。
なんか自作自演がいるような気がするな・・・
470 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 17:31
やっぱり邪馬台国は九州にあって後に畿内の大和に併合されたと
考えるのが正しいような・・・。
471 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 17:38
>470
で、その根拠は? 未だに九州説なのは、こんなのばっか。
吉野ヶ里遺跡(実は紀元前1世紀頃が全盛で、卑弥呼時代には寂れていた)
が話題になった頃は、九州説の鼻息が荒かったのに、昔日の感。
472 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 21:00
>463
>正確に言えば九州説の人は誹謗中傷に耐えかねていなくなった。
今いる九州説の人は誹謗中傷には耐えられるけど
「その根拠は?」という質問には耐えられないわけね
473 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 23:02
はじめてここをROMした者ですが、
九州説も近内説もどちらも一長一短があると思いました。
第三者から見ると、どちらも理屈の後付け、強引な解釈を
していると思いました。
よってリベラル的解決策として、歴史教科書にはよほどハッキリ
した証拠が出ない限り、両論併記の形で載せるべきです。
どっちの勝ちとか負けとかは、第三者的に見ると阿呆らしく見えます。
474 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 23:29
そういう結論出すまえに良く読むよろし
475 :
日本@名無史さん :2000/11/24(金) 23:39
>474
魏志倭人伝の位置解釈、箸塚古墳=卑弥呼の墓?
古墳時代の年代遡及、近内の銅鐸文化の消滅、他
どちらも恣意的解釈をしているようで、危なっかしい。
476 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 00:30
どういう点が恣意的?具体的に指摘するよろし
477 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 00:35
>475
「近内」「箸塚」って何だ? 日本語が不自由なようだな。
三国人は、日本語をちゃんと勉強してから出直し。
478 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 00:44
そいう言い方よくないある。
せっかくコテハンでなくても誰かわかる印ついてるね
ものごとプラス思考するよろし
で、どこがどう恣意的と思うか具体的な話きくね。
479 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 02:05
畿内説をとる人ってのはマジで日本の正史として、それを
歴史教科書で教えろとでも思っているのでしょうか?
あくまで推測の域を出てないことを100%間違い無しとして
正史として教えて良いの?
例えば、今から60数年前の南京大虐殺問題でさえカンカンガクガク
の論争をしていて決着してない問題です。それを否定派、肯定派
どちらかの意見を一方だけ載せるのは間違いだと思います。
60数年前の出来事のが日本の古代の出来事に比べたら遙かに
証拠が残っているでしょ。それでも南京論争は右派は証拠が無い
から載せるなと言い、左派は事実として載せろという。
おいおい、南京事件の証拠レベルを邪馬台国論争に適用したら
史実としては、とてもじゃないが耐えられないでしょ。
そんなものを確定的に載せちゃだめだよ。
480 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 02:21
>479
全く同じことが九州説にも言えるので、
なぜ畿内説だけ取り上げて話すのか全く謎(笑)。
481 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 02:25
>479
誰かそういうこと言ってるわけ?
畿内説って、そういう主張してるの?
具体的に言ってみて
482 :
日本@名無史さん :2000/11/25(土) 02:28
>480
そうでしょ!
だ・か・ら、そんなことをどちらか一方、
正史として確定的に載せるのはオカシイと言ってるの。
ようするに、右も左も政治的な思惑を内包して
歴史論争してるのよ。阿呆らしい。
483 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 02:40
畿内説は天皇礼賛だとか言い出して政治がらみにしたがってるのは
九州説の人だけなんじゃないの?
畿内説はただ考古資料、文献に沿って淡々と事実を言ってるだけ。
484 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 02:44
>482
だ・か・ら、誰が教科書で教えろとか確定的に載せるとか言ってるんだよ?
485 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 03:13
99 名前:日本@名無史さん投稿日:2000/11/04(土) 23:59
橿考研の河上邦彦調査研究部長が
「10年後の教科書には、邪馬台国は大和(奈良県)にあったと書かれているだろう」
とシンポジウムで発言したらしいね。
486 :
名無しさん@1周年:2000/11/25(土) 03:16
>484
なかなか面白いキチガイが現れましたな。
何か一途な思い込みがあるらしいが・・。
487 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 03:43
>485
10年後にはそうなるだろうって予想じゃないか。
状況的にはそんな感じだろう。
しかし、さあ日本の正史として畿内説を歴史教科書で教えろとかいう話は
別に誰もしてない。
なんか自分で仮想敵を作って孤軍奮闘してるのか?
488 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 03:54
>畿内説はただ考古資料、文献に沿って淡々と事実を言ってるだけ。
なら、まとめて言って下さい。
具体的な畿内説をまじで説明してほしい。
古墳の一部の大きさが合うだけで箸墓をもちだしたり、墓と政
治の中心は別だとか、方角は人によって好きな方向だし。伝聞と
したり。
畿内説でも一致した見解があるようにはスレを見ているだけでは
分からないのよ。
489 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 03:55
>>487 立証できないので不可知論に走った心情九州説の台所さんかな?
490 :
日本@名無史さん :2000/11/25(土) 04:11
マジな話、今出ている諸説だけでは、この先も
邪馬台国の位置確定は、なされないでしょうね。
(教育界がそれを採用するほどの説得力はない)
より明文化された遺物でも発見されないかぎりね。
491 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 04:32
>488
ばっかじゃ〜ん
いろんな人が自分の説を言ってるんだから
そんな一致した見解があるわけないじゃん。
一致してんのは
土器や漢鏡の編年など考古学の研究成果を踏まえてる点とか、
高校卒業程度の漢文読解力があるのでトンデモ系九州説みたいにアーパな読み方しない点とか、
そういうのが淡々とした事実になるわけ
492 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 04:38
>490
例によって根拠非表示の結論ポッキリ
個人的な感想つぶやいてもなんの意味も無いのよ
で、明文化した遺物って「ヒミコのはか」とか書いた立て札とか?
そういうもんが出ない限り認めないと言って事実に耳をふさぐ宣言かな?
>>492 別に490の人が九州説とは限らないと思うけど?
もう少し冷静になれば?
494 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 08:10
495 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 09:46
畿内説では不弥国は何処に比定しているのかな。
不弥国から陸行一月、水行30日の間、投馬国にしか立ち寄らず
ひたすら歩き、船で過ごしたのだろうか?
どうしてその間の小国についての記載がないのか見解を求む。
過去レス参照のこと
497 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 10:36
>465
>不弥国から邪馬台国までの日数で1@`500里〜2@`000里ぶんの所要日数なら、
>現代の地図に当てはめると、不弥国までとそれ以降では、一里の尺度が大
>きく異なるのは何故だと思っていますか?
> ついでに、邪馬台国までは日数で記しているのに、女王国より東へは里数に
>なおしているのは不自然な気がしますが、どう思います。
漢書西域伝などと比較すると、魏志倭人伝の道里の書き方は表現がじつに不統一です。これは雑多な資料から情報を寄せ集めた結果であろうと思います。
漢書地理志の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」に魏の如淳が註して「在帶方東南萬里」としていることも勘案すると、漢代に朝献した倭(北部九州)について距離1万里という情報が以前から別にあった可能性が否定できないと思います。
あきらかに中国人が言っていない倭種の国まで千余里という数字が入っていることからも「数字があれば魏使が通った所/日数のところは伝聞」というような単純化はできないでしょう。私は逆に、日数が魏使の「何月何日どこに到着、何月何日どこに到着」といった日誌等から推定した所要日数で、里数の出所は伊都国までのことを記した古い記録ではないかと考えています。
ほかの畿内説の人は違うかもしれませんが、私は文体から見て行程は伊都国からの放射説が妥当とみています。漢書西域伝などでは放射的な書き方をするときは、説明すべき国を中心にして周囲の国々の位置関係を記述します。つまり、伊都国から放射的であれば、その記事は元来は伊都国の説明をする為に書かれた文章だったではないかと考えたわけです。
不弥国については、宇美であるか宗像方面であるか迷っています。
まとまりが悪くてすいません。
498 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 10:39
>496
過去レス番号教えて。
499 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 11:01
>>496 >不弥国から陸行一月、水行30日の間、投馬国にしか立ち寄らず
>ひたすら歩き、船で過ごしたのだろうか?
>どうしてその間の小国についての記載がないのか見解を求む。
戸数を見れば明らか。
対海〜不彌6国の戸数を全部足しても投馬國や邪馬壹國の半分でしかない。
立ち寄ったところがみな投馬國(連合)や邪馬壹國の(連合)であるほうが自然。
とくに畿内説の場合、投馬國は瀬戸内海運連合と考える人が多いので、誰も疑問と感じてない。
500 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 11:36
>499
九州ではたった百里、500戸位でも記載しているのに
瀬戸内海沿岸には他に記載すべき国もなかったというの?
不弥国まで陸行一月、水行30日もかかる経路にろくな国もない
隔絶した辺鄙な所にあったのに九州を有効支配していたとは考え
にくいのだが。
501 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 11:42
やっぱり大和奈良でしょうね。
502 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 11:50
>>500 よくお読みくださいな。対海〜不彌6国は小さい。
瀬戸内海沿岸には他に記載すべき国もなかったのではなく
ぜんぶ投馬國や邪馬壹國(あるいはその構成員)だったと言っている。
ろくな国もないというのはあなたが499を誤読しただけ。
それだけ規模の差があったということは倭人伝に書いてある。
503 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 11:55
>500
500戸の国なんかあったか?
504 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 13:16
>500
499は壱岐対馬と北部九州計6ヶ国ぜんぶの2倍ちかい大きさの国が瀬戸内にあると書いてるのに、それを「隔絶した辺鄙な所」って言葉がどうして出てくるかね
まじめに読んでないのかな
505 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:07
そうそう、投馬国は吉備、邪馬台国は畿内と考えられており、
他の国が入るスペースは殆ど無い。
506 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:22
だから投馬国まで20日もかかるのにその間にどのような
集落があったか記載されていない。
投馬国から邪馬台国まで陸行1月水行十日のもの間に何も
ないと言うのは変と言いたいの。
507 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:26
>506
元の資料には色々と書いてあったかも知れず、魏志に纏めるときに、
省略した可能性とかもあるだろ。
隋書倭国伝でも、瀬戸内海には中国人の秦王国の記載しか見られない。
508 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:29
↑言うことよくコロコロ変えるね
509 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:30
あっと! 508は506へのレスね
510 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:39
>>506 倭人伝を読めば、一か国ごとに道里―官―戸数と整理して書いていることがわかるでしょう。
途中から集落単位の話が入るほうが変です。
511 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 15:05
ということは不弥国−邪馬台国間には投馬国しかなかったと?
水行二十日、陸行1月水行十日の間なにもないとは。
やはり辺ぴだ。
512 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 16:20
>>511 バカウヨの言うことはほっとくに限るよ。
世界史板でもたたかれにたたかれたバカウヨの説では、
不弥国=北九州、投馬国=岡山、邪馬台国=奈良(桜井市)ということだが、
北九州−岡山は約450kmなので、これを水行20日ということは、水行で行ける
距離は1日平均約20kmということになる。
しかし、岡山−大阪は150kmくらいしかなく、水行10日では50kmほど余って
しまう。まあ、これが誤差だとしても、大阪で上陸することはまちがいない
わけだが、当時の大阪平野は5000年前は海だった名残りで大きな湖になって
いて、箸墓古墳のある桜井市でも、海岸までは30kmくらいしかなかったことが
わかっている。
つまり、バカウヨの説では、この30kmの距離を1か月かけて陸行することに
なり、陸行で行ける距離は1日平均1kmしかなかったことになる。
しかも、例によって、陸行1月は陸行1日の間違いなのだと言いそうなもの
なのだが、過去にそのような発言はなく、当人はこのことに気づいていない
ようだ。思い込みだけで物を言ってるのがバレバレだ。
513 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 18:02
>>512 畿内説だっていうと右翼なわけ?決め付けが激しいね。
514 :
日本@名無史さん:2000/11/25(土) 19:30
>511
水行二十日、陸行1月水行十日の間何もないって投馬國があるでしょう。
末盧國の10倍以上の人口があると書かれた国が。
515 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 00:18
そのサヨクは、朝鮮の手先だから、朝鮮に都合の悪くなる話を言うと、ウヨクになるんだろ。
バカ丸出し。逆に言えば、こう言うバカが、反畿内説の残党の本質ってこと。
>>479 九州説論者って創造論者にそっくりなんですね。
さては最近まで生物板荒らしてた統一凶界信者と同一人物?
517 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 06:22
>九州説論者って創造論者にそっくりなんですね。
いまや、こう言う扱いに成り下がった九州説、いとあわれ。
518 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 09:59
私は詳しいことは解りませんが、第三者的として読むと
やっぱ魏志倭人伝の記述だけで結論を下すことは危険だと思いますねぇ。
519 :
>518:2000/11/26(日) 10:33
かと言って、現在までの発掘調査の結果などを含めて判断したら
畿内説に決まってしまうのが問題。
たんに現在までに遺跡が発見されていないだけなのだから、
まずは倭人伝の記述のみから公平に判断すべき。
520 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 10:36
そうですね。
考古学が明らかにした事実を見ることと
史料の信頼できる部分とそうでない部分を
論理的により分けて行く作業をすることと
並行に進めて行かないと、前には進めないと思います。
当然、魏志倭人伝だけでなく、あらゆる中国史書に目を通す必要もあるし
音韻学の力も借りなければ、まだ不足だと思います。
521 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 10:38
520は518へのレスです。
たんに現在までに遺跡が発見されていないだけというのは安易だと思います。
522 :
ふぅ:2000/11/26(日) 12:08
やっと読み終わった。
しかし、邪馬台国の議論がウヨサヨ論争になるとは思っても見なかった(藁
せっかく面白い議論なんだから、政治思想がらみの罵倒や決めつけは止めませんか?
523 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 13:55
ほんとにウヨサヨはやめてほしいですね。
九州説だって、最初は
「神聖なる天皇が中国なんかに臣下と名乗るはずがなーい」
みたいな動機で主張されたはずです。
今日はもう、そういうレベルの話はよしましょう。
524 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 19:34
私はどちらの説か一方をとる者ではないが、今力を持っている
畿内説でいえば、箸暮古墳は出土土器から(布留式土器)
4世紀の古墳だと思います。
卑弥呼の墓ではないと思う。
525 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 20:25
私も卑弥呼の墓ではないと思いますが
布留0が4世紀というのはちょっと非主流な考え方だと思います。
3世紀後半で壹與の墓の可能性があるのではないでしょうか?
526 :
日本@名無史さん:2000/11/26(日) 23:32
>525さん
布留式が3世紀に存在した説が主流とはいささか疑問ですね。
畿内説派の佐原真や橿原考古学研究所の石野博信氏でさえ
布留式は4世紀以降の纏向4式(細分案における)からという
説をとっていて、その前の庄内式(移行期の土器)でさえ300
年前後が始りとしています。
壹與の墓としても苦しいと思います。
527 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 00:15
>526さん
1点誤解があります。
布留0式というのは寺沢薫のちょっと個性的な分類で
布留傾向甕の出る時期のことをいい
ほかの考古学者は庄内の終末期に分類しています。
つまり、纒向3新で庄内式期なんです。
それから、庄内式が300年前後の始りというのは
情報として相当古いものでしょう。
庄内の2か3で3世紀中ごろの早い時期です。
528 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 00:37
今度は安本教の登場ですか、彼の独り善がりな編年は頭が痛い。
纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃で、箸墓は卑弥呼の没年に近いと
考えるのが常識。紀年鏡の年代を見ても、弥生時代の遺跡からは三国時代の鏡は
全く出土せず、古墳時代の遺跡でようやく出土することも、
古墳時代の始まりの時期は調和的。
529 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 00:58
>527さん
その寺沢氏の説は知りませんでしたが、ここ数年の内に
古墳時代の始りだけでなく、それに比例して土器の
様式までがおよそ100年も繰り上がってしまったと
いうことなのでしょうか。
だが庄内式をそんなに早めてしまうと、畿内から土器が
九州方面に伝搬したという説に無理が生じないでしょうか。
その当時の九州の遺跡からは土師器や西新式といわれる
土器しか発見されていないと思いましたが・・・
530 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 01:17
>528さん
え〜っ、箸墓の布留式土器が卑弥呼の頃のものなんですか?
納得出来ないなぁ。
531 :
世界@名無史さん:2000/11/27(月) 01:37
以前の、根拠なく古墳時代の始まりを下げていたのが異常だっただけで、
最近の年輪年代に基づく年代観は、紀年鏡の年代とも調和的。
昔でも、平原弥生古墳を発掘した在野の考古学者である原田大八氏は、
箸墓古墳=卑弥呼の墓説を支持していた。彼は、サヨク考古学者に
非常に迫害されたそうで、著書にその鬱憤を述べています。
考古学者の非科学的な年代観は、今に始まったことではなく、
ガチガチのマルクス主義者として知られた、土器編年の大家の山内清男氏は、
縄文土器が中国から伝わったという勝手な思い込みで、4500年以上前のものは
存在しないと主張した。開発者がノーベル化学賞に輝いている14C年代測定で、
縄文貝塚の貝や木片の年代を測った人がいて、西アジアを越え、世界最古の数字が出て、
驚いて、次々と測定したが、やはりその通りで、それから40年経っても日本が世界最古で、
土器に付着した焦げなどでも測定しており、石器のような捏造の心配は無い。
しかし、山内氏は、14C年代を言いふらすのは大政翼賛会だとサヨクらしい
バカ丸出しなことを言って、亡くなるまで14C年代を認めず、
徒弟制度が強い考古学においては、長い間悪影響を残した。
532 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 01:42
>529さん
西新と庄内が併行なんです。
庄内を早めたことで九州と近畿のギャップが埋まったのです。
佐原・田辺編年とか石野・岸川編年とかいう75〜80年代の考え方は
もう全く影響力はありません。本人も訂正しています。
それから「箸墓の布留式」というと誤解を生みます。
布留0とか庄内IVとか言わないと。
533 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 02:12
>532さん
箸墓の布留式土器とは「二重口緑壺」のことであって
なぜ布留傾向甕(布留0)と同じなのか解りません。
庄内2か3が3世紀中頃と仰りましたよね?
なら布留0は3世紀終り頃になり、箸墓は卑弥呼の
墓とはとても言えないんじゃないでしょうか・・・
534 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 02:55
>533
おいおい、土器型式で分かるのは相対年代のみだろ。
暦年代は、年輪年代・墓碑銘・紀年鏡などで押さえる必要がある。
それを無視していたのが、過去の悪しき習慣だった。
535 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 03:01
>531さん
まず、ちょっとウヨサヨ論争的なのが宜しくないです。
年輪年代測定はその遺構の木材が建造から何年前に生えた
樹であるか判るだけで、今現在から何年前に建造されたかが
特定されるわけではないのでは?またヒバ材の柱などは耐久性が
高いので、再利用されたかもしれず、年輪測定は100%
科学的とは言えないと思います。
536 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 03:03
>533さん
布留傾向甕と併行するのが布留0=庄内4です。
ただこの二重口緑壺が庄内式古相の複合口緑壺の特徴を残しているとして
庄内3とする見解もあります。
私は庄内2か3が世紀中ごろの早い時期と言いましたから
4は3世紀終わり頃というより後半ということになりましょう。
第3Qに収まり、終わり頃ではないと思います。
私は卑弥呼の墓ではないと思うと言いましたが
倭人伝の書きぶりからして寿陵ではないので
卑弥呼の墓の可能性は捨てきれないでしょう。
537 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 03:12
>535
>まず、ちょっとウヨサヨ論争的なのが宜しくないです。
いや、こう言う裏事情があったから、考古学の進歩が阻害されたことは
知っておくべき、その弊害で、科学的で無かったことは反省するべし。
>高いので、再利用されたかもしれず、
そんなことを考慮するのは当たり前。
538 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 03:14
>534
>土器式で分かるのは相対年代のみだろ。
畿内派の 大塚初重氏は「10〜15年の精度」だと言ってます。
>年輪年代・墓碑銘・紀年鏡などで押さえる必要がある。
墓碑名がはっきり判れば私も認めます。紀年鏡は「ふみ返し鏡」
「同型鏡」である可能性があるので、詳細に調べないと判断は
出来ないですね。
539 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 03:18
>私は庄内2か3が世紀中ごろの早い時期と言いましたから
その年代の根拠は? 考古学者は、根拠なしの年代を主張することが多いと感じる。
540 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 03:24
>535さん
出土した漢鏡の年代に漠然と100年を足して遺跡の年代とした杉原編年が
今日の水準では非科学的である事には変りありません。
年輪伝代に依拠するかどうかは畿内説の中でも意見が分かれますが
年輪年代で数字が出る前から、層位学的考察から
漢鏡の伝世期間はほとんど加算しない方向が固まっていました。
いずれにしても今、庄内の始まりが300年などと口に出したら
それ以外に正しいことを言っても信用してもらえなくなるでしょう。
541 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 03:26
>539
そういうあなたは根拠のある事を言っていますか?
542 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 03:41
あのさ、ここ数年でいきなりこれまでの定説を100年位
遡ぼらせた畿内派の最大の理由は
大阪の池上曽根遺跡の柱の年輪測定に始っているんですよね。
だけど年輪測定を錦の御旗のように信奉するのはオカシイよ
な。樹の伐採時の年齢が判るだけなのにね。
543 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 04:13
>あのさ、ここ数年でいきなりこれまでの定説を100年位
>遡ぼらせた畿内派の最大の理由は
そうじゃなくて、540の人が言っているように、以前の
「出土した漢鏡の年代に漠然と100年を足して遺跡の年代とした」
が異常だっただけでしょう。
昔から原田大六氏のように、伝世論について批判的で、箸墓古墳=卑弥呼の墓説を
支持していた人もいたわけ。これも、前期旧石器と同じで、不自然な仮説についての
批判は無視されていただけのこと。その矛盾がどうしようもなっていたところに、
年輪年代学が登場して、引き金を弾いたと言う感じ。
544 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 10:28
>543
考古学ってそんないいかげんなものだったの?
まあ、掘り返しても見ずに伝承だけで箸墓が女性の墓と
信じている方もいい加減だけどね。
魏志によると卑弥呼はかなりの老齢だった筈だが
伝承によれば箸墓の主は若かった様だし、墓の年代を
溯らせてもこれを卑弥呼と結びつけるのはこじ付け
としか感じられない。
545 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 10:40
>考古学ってそんないいかげんなものだったの?
考古学自体と言うより、発言力の強い人間がいい加減だったと言うこと。
原田大六氏のような、伝世論を疑問視する考えも、昔からあったわけで、
別に箸墓の年代を遡らせたわけではなく、昔の仮説がおかしかっただけ。
>>544 考古学じゃなくてあんたの信じてる九州説がいいかげんってこと
547 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 12:00
「東アジアからみた古代の日本」誌の最初の代表だった鈴木武樹氏は、
箸墓古墳を卑弥呼の墓と主張する、皇国史観の持ち主は、この会はお断りと
言っていたように、かつてはこの説を唱えるだけで、こう見られた。
本来は、江戸時代の国学者達が、古代の皇室が中国に朝貢し冊封されたとする、
中国正史の記事が気に入らず、と言って中国正史の記事の信頼性が高いことも
理解していたので、九州の女酋は僭称したものと主張したのが、九州説が広まる
発端だったのに、時代が変われば見方が変わるのが皮肉。
要するに、邪馬台国九州説は、江戸時代〜戦前は国粋派の、戦後はサヨクの
イデオロギーに基づく妄想によって支えられてきた、砂上の楼閣だったと言うこと。
548 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 12:43
>>544 根拠なし100年加算の編年に基づいて
邪馬台国は銅矛文化圏である
九州説は考古学に支持されている
と誇っていたのが少し前のこと
25年前の考古学を奉じて
ずっと新しい研究に目をそむけてきたのがこの結果
「最近急に編年が繰り上がった」とか錯覚するのがその証拠
今は考古学を罵倒するしか手がないの?
549 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 14:41
>548さん
私は前に書いた、第三者(学説に詳しくない)の者ですが
ここまで読んでみても、サッパリどちらの意見にも決め手と
言えるほどの根拠は感じとれません。
100年加算の話が具体的にどうだったのか解らないし、
ずっとあたらしい研究とは何を指すのかハッキリしないし
(年輪測定ってやつですか?)
最初から箸墓古墳=卑弥呼の墓説を唱えていた人の説という
のがナゼ絶対だと言い切れるのかもここの話からは解りません。
専門家だったら双方いくらでもやり合えるのだろうけど、
このスレッドでは一部(畿内説派)の方が幅をきかせてるようで
九州説派の詳しい方がここには来ていないように感じられ、
そのため第三者としては、畿内説にもイデオロギー闘争的臭いを
感じざるを得ないですね。
(現在の学会が「畿内説絶対主義」に染まっているとしたら、
それも怖いことですよ。それとも以前の仕返しなんですか?)
私は現在「畿内派」が優勢といわれている時だからこそ、その時点
の定説を徹底的に疑ってかかることが当然だと思うのです。
550 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 15:04
うわぁ、いっぱいカキコがあるなぁ。私が学生の頃教わった歴史のセンセイは
「魏志倭人伝って三国時代の話だぜ。邪馬台国なんてのは国が三つに分かれて
いたときも魏の権勢は遥か東方の島国にも及んでいたのである。どーだ、スゲ
ーだろ。って書きたいときに引きあいに出されていただけだよ。その記述を元
に邪馬台国はどこにあったとか言ったってしょうがねぇ」なんて言ってました。
まぁ、私はちゃんと文献に書いてあるんだから邪馬台国はどこかにはあったん
だと思います。(文献の記述に誇張がある可能性は否定できないですけど)
551 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 15:19
>邪馬台国なんてのは国が三つに分かれて
>いたときも魏の権勢は遥か東方の島国にも及んでいたのである。
もちろん、そう言う意味合いもあるだろうけど、呉との対決において
倭の状況を調べるのは重要だから、倭国に使いを出して報告させたのでしょう。
倭国の政治・経済・社会・風俗と、様々な記録があり、東夷伝の中でも
大きなスペースを割いて記されており、当時の日本を知るための第一級の史料で
あることは間違いないでしょう。
552 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 17:28
ふと思ったんだけどスサノオノミコトの「ヤマタの大蛇」
退治伝説って実は邪馬台国は出雲にあって、天孫族が
邪馬台国を征服した事を暗示しているんじゃないか?
「ヤマタイ」と「ヤマタ」って似ているし。
邪馬台 出雲学説というのは無いのかな。
情報求む。
553 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 17:38
畿内派は優勢でも、その中身の具体的な統一的な畿内説はというと、それ
を語ってくれる畿内派がいない状態ですね。
考古学だと少し語ってくれるようですが。
諸説ある九州説が砂上の楼閣なら、畿内派は中身を知ろうと近づくと、
何も返ってこない蜃気楼のようです。
決定とか言う人がいるわりには九州論者よりもお寒い状態にみえます。
554 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 18:05
>497
いくつかの資料から行程記事が成り立っているという考え方は賛同します。
日数記事の投馬国と邪馬台国の記事は、戸数も「可○万余戸」と、里数記事
の「有○○戸(家)」と異なる記され方ををしており、原資料の作成時期が
異なるのではと思っています。
コレを別の資料と考えると、不弥国までの里数記事と、それ以降で尺度が
異なるのもうなづけます。
ただ、異なる資料なら、女王国までの里数記事の中に邪馬台国の日数記事を
含めて考えるのが正しいのかがグラついてきます。
女王国より東へは里数に直しているのに、この箇所だけ日数で残した事に意
味があるような気がします。
555 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 18:09
畿内派はつい最近まで黒塚古墳の三角縁神獣鏡が
魏志倭人伝の魏鏡である、とか言ってて、小林よしのり
の新ゴー宣69章でも高森明勅の言葉を受ける形で肯定
していたけど、今ではどうなったの?
黒塚古墳はいったいだれの墓なんでしょう?
こういうところが畿内派の解らないところです。
556 :
名無しさん@1周年:2000/11/27(月) 19:04
>>552 ヤマタノオロチの「ヤマタ」が「ヤマタイ」か「ヤマト」かわから
ないが、オロチはオロ族と言われる越エリアにいた北方系の
オロチョン族のことという説を聞いたことがある。
オロ族は蛇信仰をもっており、奈良の三輪明神の化身も蛇と
されることから、かつて三輪山信仰をオロ族が行っていたの
かも知れない。
そう考えると「ヤマトのオロチ」という見方もできる。
出雲国は西の出雲と東の意宇(オウ)に勢力が2分されている。
この意宇を支配していたのもオロ族ではないかと考えられ、
勢力争いを象徴したものがこの神話という説もある。
しかし謎なのは出雲国風土記にこの神話は載っていない。
557 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 19:16
>>552 邪馬台 出雲学説じゃないけど、出雲神話の舞台が畿内という説はあるんじゃない?
つまり、出雲が先に日本を支配していたのを天孫族が国譲りを迫ったわけです。
大国主命の神話上の活動範囲も出雲地方に留まっていません。
彼の名前も単に出雲一国の主ではないことを示していると思います。
ただ、ヤマタの大蛇がヤマトの大蛇という考え方は一般的ではないし、
否定されるでしょうが、個人的には好きです。でも厨房呼ばわりされます(ワラ。
558 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 20:15
>あのさ、ここ数年でいきなりこれまでの定説を100年位
>遡ぼらせた畿内派の最大の理由は
あのさ、九州派を標榜するなら、九州の土器編年ぐらい勉強しなよ。
年代の指標は畿内じゃなくて九州なんだから。年輪年代が有効なら状況は変わってくるけど。
九州の考古学者はもう20年も前から畿内でいう庄内式にあたる時期は200年頃にはじまるって言ってるんだ。
これに畿内の研究者が反対して、いや、庄内のはじめは250年頃だって言ってたのが20年前の状況。
なぜ畿内が反対していたかっていうと、土器の神様・佐原真大明神による佐原編年があったから。
これは、畿内後期前半の土器と九州後期後半(後二世紀)の土器が形が似てるってところが根拠だった。
その結果、九州の年代をもとに考えると畿内後期の始めが後100年頃になり、
土器の量や形式変化から畿内後期が100年間におさまることはないから庄内の開始も3世紀半ばってことだった。
ところが、事例が増えるにつれて、佐原編年の根拠が誤りであったことがはっきりしてきた上に、
九州中期末(紀元前後)の土器と畿内後期初頭の土器が供伴するということや、
王莽の貨泉(後一世紀前半)が畿内後期初頭の土器と供伴するということも分かってきた。
結局、畿内後期のはじめを後二世紀初頭とする理由はもはや何もなくなり、
畿内後期が後一世紀の前半にはじまることは動かせなくなった。
それでついに畿内側も庄内の始めを200年頃とすることを受け入れた。
こういう状況のときに池上曽根の結果が出てきて大々的に報道されたから、
報道しか見てないヤツにはいきなり年代が上がったように見えるわけだ。
まあ、そういう報道だったからやむを得ない面もあるが。
だが、年代があがったのは池上曽根だけによるわけじゃない。地道な編年研究があってこそだ。
こういう地道な研究は報道されないからな、542みたいな誤解は後を絶たない。
さらに悪いことに、素人にはこのように見えることをいいことに、
報道だけを取り上げて年代がおかしいと吹聴して回るヤツがいる。
542なんかは、おそらくこれに踊らされてる被害者だろう。気の毒に。
559 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 20:16
>九州説派の詳しい方がここには来ていないように感じられ、
それにしちゃぁ、畿内説はアホだ、バカだ、宗教だとえらい言われようだ。
おらぁ、詳しいヤツばっかりかと思ったぜ。(ワラ
>私は現在「畿内派」が優勢といわれている時だからこそ、その時点
>の定説を徹底的に疑ってかかることが当然だと思うのです。
そりゃあ、結構だ。だがまともな議論をしてくれ。
いや、その前に、なぜ九州なのかさっぱり分からん。
九州のどこに比定するのかすら分からん。まず、説明してくれ。
決め手があるない以前に、九州説って何かがまったく分からないんだ。
ここには反畿内説はようけいるが、九州説は皆無だから。
560 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 20:18
>まあ、掘り返しても見ずに伝承だけで箸墓が女性の墓と
>信じている方もいい加減だけどね。
これは同意するけど、
>伝承によれば箸墓の主は若かった様だし、墓の年代を
こういうことを書く前に紀ぐらい読みなよ。岩波文庫買ってさ。
トトちゃんは崇神のじいさんと同世代だぞ。
まあ、オババのトトちゃんを主人公にした箸墓伝承など想像したくねぇけどな。
561 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 22:17
>549さん
548です。
>九州説派の詳しい方がここには来ていないように感じられ
そのへんが私も不満なところです。
長文の投稿をゆっくり読んでいただけるような環境ではなく
詳細な説明をすればするほど反応がないので
つい紋切り型になりがちです。
不明な点があれば、嘲るような口調でない限り真摯に回答します。
562 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 22:27
>>555 そうは言っても、須玖岡本D地点がダレの墓だと問うて答えてくれるような、まともな九州説の人もいない。
公平に見てね。
小林よしのり と一緒にされても困る。
563 :
解決黒頭巾:2000/11/27(月) 22:52
564 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 23:06
↑九州説の恥さらし
565 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 23:46
>>544 記紀の伝承を信じるのはおかしいといいつつ
記紀と合わないからおかしいともいう
あかみとり白雉?
566 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 23:49
>そうは言っても、須玖岡本D地点がダレの墓だと問うて答えてくれるような、まともな九州説の人もいない。
555の
>黒塚古墳はいったいだれの墓なんでしょう?
もそうだけど、これに答えるヤツの方がまともじゃない。
わかるわけないじゃん。
567 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 23:55
土器のはなしになんか感心。わたしも急にくり上がった
ように思ってた。
安本とかはいまだに庄内が邪馬台国の後だとか、
年代繰り上げ論は三角縁神獣鏡魏鏡説が根拠だとか、
いろいろいってるけど、ありゃなんなの?
話がはっきりしないのは、佐原を正面から学者が
批判できないから?こまったもんだね。
568 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 23:56
土器のはなしになんか感心。わたしも急にくり上がった
ように思ってた。
安本とかはいまだに庄内が邪馬台国の後だとか、
年代繰り上げ論は三角縁神獣鏡魏鏡説が根拠だとか、
いろいろいってるけど、ありゃなんなの?
話がはっきりしないのは、佐原を正面から学者が
批判できないから?こまったもんだね。
569 :
日本@名無史さん :2000/11/27(月) 23:57
土器のはなしになんか感心。わたしも急にくり上がった
ように思ってた。
安本とかはいまだに庄内が邪馬台国の後だとか、
年代繰り上げ論は三角縁神獣鏡魏鏡説が根拠だとか、
いろいろいってるけど、ありゃなんなの?
話がはっきりしないのは、佐原を正面から学者が
批判できないから?こまったもんだね。
570 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 00:04
私もたいして詳しい方ではありませんが、
私が畿内説で最も納得出来ないのが、
畿内の弥生銅鐸文化が古墳時代の到来と共に
一斉に姿を消してしまうことです。
祭祀のための道具をそんな簡単に鏡に変更するとは
どうしても思えません。
九州では弥生中期の墳墓から多くの鏡が出土している
ので、やはり九州勢力の東征によって畿内銅鐸文化が
駆逐されたと考えるほうが自然だと思ってます。
神武東征の話にもそれのほうがしっくりしますから。
571 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:05
ぼちぼち、畿内派による畿内説の検証がしたいんだけど。
さしあたって畿内説の課題は、三世紀畿内遺跡が
邪馬台国であるとのキメ手に乏しいことじゃない?
年代はいい。三世紀が古墳時代であり、古墳時代の中心
は畿内だから、邪馬台国も畿内という論法は、現状では
妥当だと思う。(結局、九州には邪馬台国の王都・王墓に
比定できる遺跡はないんだから)
だからあとは、魏晋朝系の遺物が三世紀畿内遺跡からでてくりゃ
いいんじゃないの?ホケノ山とかからも、まだでてないんでしょう?
邪馬台国は、魏晋朝と通交してたんだから、魏晋朝の遺物が
それなりにでてくれば、かなりはっきりするでしょ。
ちなみに、箸塚=卑弥呼の墓説は畿内論者でも必ずしも支持してないん
じゃないの?
572 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 00:10
>566さん
じゃあ、箸墓古墳も誰の墓だか判りませんよね?
少なくとも、全面発掘が認められるまでは・・・
573 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:12
>570
>畿内の弥生銅鐸文化が古墳時代の到来と共に
>一斉に姿を消してしまうことです。
銅鐸って、古墳文化の到来とともに消滅するの?
銅鐸の年代には諸説あって、はっきりしてないと思うけど。
あと、東征説の人にいいたいのは、文化の移動は必ずしも
王権の移動によるものとは限らないということ。インド起源
の仏教が日本にきたけど、別にインドの王が日本を支配したわけじゃない。
単に、副葬品の習俗が伝播したというなら、東征以外にもいろいろ
考えられるよ。
そもそも、神武は南九州からきたことになっている。
南九州の神武が、北九州の鏡の習俗を畿内にもってきたというのは、
妙な話だ。
ちなみに、570さんは、安本説支持派ですか?
574 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:15
>572
わたしは566じゃないけど、箸塚が誰の
墓かはいまのところわかりませんよ。卑弥呼の墓とか、
台与の墓とかいわれてるけど。
大した根拠はない。結局、箸塚の被葬者が女性
だったという記紀記述にひっかけてるだけかな?
575 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:17
>佐原を正面から学者が批判できないから?
事実ではないですね。
佐原自身は81年に自説を「はなはだ感覚的なとらえかた」と言っている。
森岡秀人らが批判も展開しているし、白石は79年には古墳の出現を3世紀後半と主張している。
杉原編年に全面的に依存していた九州説のひとたちがシカトしていただけで
畿内説のものたちはそう主張していたの。
つまり知らぬは九州説のアマチュアばかり。
576 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:17
このスレ、日本史板の一番人気?
今季パート2までいったの、他にある?
577 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:19
>575
なるほど。で、畿内説をおもいっきり簡単にいえば、
「邪馬台国時代は古墳時代。したがって畿内が日本の中心で、
邪馬台国も畿内」でいいのでしょうか?
578 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:21
>>574 おう あんた箸塚さんか。ひさしぶりだな。元気だったか?
579 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:25
>571さん
同向式の画文帯があるでしょう。まず建安年間のものですかね。
580 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:33
>>577 うんにゃ。畿内説をおもいっきり簡単にいえば、
「邪馬台国時代は大和時代。既に大和朝廷が成立していて西日本を統一していた。
邪馬台=大和であり、邪馬台国は畿内」です。
魏志倭人伝を素直に読むと、当時、西日本が統一されていたとは到底思えないんだけどね。
581 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 00:33
>573さん
私は大和の古墳から全く銅鐸が出てこないのが
やはり強制的に銅鐸が駆逐されたと考えるしかないのでは
ないかと言いたいだけです。
また王権の移動も九州の弥生中期の墳墓からは玉、剣、鏡
のいわゆる王権の象徴たる三宝がセットで出ていることが
東征によって大和における三種の神器になったのだと
思ってます。
神武東征が南九州からとしても、北九州を経由して山口県
側へ入ったと思いますから、北九州はどちらにしても
要所だったのではないかと思います。
582 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:36
>577さん
古墳時代設立準備委員会の活動期間ってとこですかね。
だから仮に、滅亡直前の邪馬台国が北部九州にあったという考え方をしてみると
しかし倭人伝を読めば、東にも倭種の国があるという程度の記述しかない。
当時はもう北部九州と畿内とで、人の行き来は相当あったはずだから
これはやはり無いだろうということです。
583 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:43
>>588 かってに自分で畿内説つくって
マッチポンプで畿内説批判するなよなー
584 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:45
いけねー 588じゃなくて580だった
p.s.
いけねー 588じゃなくて580だった
勝手な読みかたするやつってみんな「素直に読めば」っていうんだよなー
585 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:48
>581
銅鐸が強制的に駆逐された可能性はあると思います。
しかし、銅鐸消滅の時期は特定できるのですか?
>579
え?画文帯って、四世紀の古墳からけっこうでてるって議論
がなかったっけ?それに、南系の鏡だという話も。
画文帯の中国での出土状況はどうなのです?
586 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 00:52
>581
銅鐸が強制的に駆逐された可能性はあると思います。
しかし、銅鐸消滅の時期は特定できるのですか?
>579
え?画文帯って、四世紀の古墳からけっこうでてるって議論
がなかったっけ?それに、南系の鏡だという話も。
画文帯の中国での出土状況はどうなのです?
587 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:55
>582さん
そこまでいうのはどうか。
さしあたって、「現在は九州に邪馬台国王都・王墓遺跡がないから畿内
が有利」程度でよいのでは?
「もしこれこれの史実があるなら倭人伝に記載があるはず」式の
論理は、アマチュア電波の得意芸ですよ。
なにが記録され、されないかというのはなかなかわからないと思います。
588 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 00:58
>582さん
そこまでいうのはどうか。
さしあたって、「現在は九州に邪馬台国王都・王墓遺跡がないから畿内
が有利」程度でよいのでは?
「もしこれこれの史実があるなら倭人伝に記載があるはず」式の
論理は、アマチュア電波の得意芸ですよ。
なにが記録され、されないかというのはなかなかわからないと思います。
589 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:58
>581さん
九州でも破砕された銅矛が出て鏡祭祀に代わります。
ですから、九州の勢力が東に移ったと言うことでは説明できないでしょう。
また、どこか他所から来たものが九州も大和も席巻したと考えるより
新しい宗教が比較的短期間のうちに西日本一帯に広まったと考える方が
無理が無いと思います。
590 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 00:59
ごめんなさい、多重カキコばっかで・・・このスレ、重いですね。
500くらいで新スレにしません?
591 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:02
なんか平和がつづいてるなあ・・・
また、誤字否定厨房があらわれると・・・
彼の独特のズレかた、すきなんだけどね。
592 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:04
ええと、ほそくすると、画文帯については、高島忠平が
異議をとなえてたような。南の鏡だとかいって。
593 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:06
ようするに、卑弥呼なり台与なりのもらったものがでてくればいい。
親魏倭王金印はムリとしても。
594 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:09
ホケノ山の発掘って、いまもつづいてるの?
595 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 01:18
>589さん
銅矛の壊れた破片というのは福岡の辻畑遺跡のもの
一例だけのような気がしましたが、庄内式土器の後半期
の層だと思います。
私が九州説を押す単純な理由は「三種の神器」が弥生中期まで
遡れる強みにあります。
また弥生期の鉄器が豊富に出土していることも、武力に勝って
いたと思われるので、東征説をとるのです。
596 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:27
>585さん
> 銅鐸消滅の時期は特定できるのですか?
纒向で突線鈕3〜5の破片が出ています。
おおむね埋納は弥生V期まで、庄内期には破砕ということでよいのではないでしょうか。
>え?画文帯って、四世紀の古墳からけっこうでてるって議論がなかったっけ?それに、南系の鏡だという話も。
画文帯といってもいろいろあります。
ホケノ山の同向式は後漢代の特徴がはっきり出ています。建安の雪解けの時代のものでしょう。
597 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:28
>595さん
邪馬台国は弥生後期だから、中期は関係ないと思うよ。
鉄器については、南九州が豊富ですか?
東征説の人は、北九州と南九州をごっちゃに
してるようにおもいます。
598 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:34
>596さん
ありがとうございます。不勉強なもので・・・ただ゜、
最新の考古学の成果は、なかなか一般向けの本にならないような・・・
しかたないことだけど。
結果、九州説アマチュアがメディアで幅をきかせているのでは?
もちっと考古学にもとづく論拠を、学者が一般向けに説明してほしい。
画文帯が建安モノならほぼ決定的では?
ちなみに、高島が南の鏡といってるのは、ホケノの画文帯とは別物
ということで、よろしいのですか?
599 :
>597:2000/11/28(火) 01:36
>東征説の人は、北九州と南九州をごっちゃに
>してるようにおもいます。
神武東征は、日本書紀では1年、古事記では3年、筑紫に滞在しています。
当然、筑紫の兵も神武の兵にくわえられたことでしょう。
北九州と南九州の文化がごっちゃにならないほうが不自然ではないですか?
600 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:41
しつこく画文帯の話するけど、あんまし重要なことは報道されんですね。
そのへんのことまとめてある本とか論文とかHPあったらおしえてください。
なんせ、新聞とか安本のHPとかしか情報源ないので・・・
601 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:44
>599さん
筑紫滞在中に鉄器や三種の神器を導入したのですか?
それはちょっとどうかと。
602 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 01:54
昨日のNHK教育TVの国宝シリーズは、銅鐸の話で、そこでも言っていたように、
銅鐸はムラの祭りに使うもので、墓からは出土しない。
一方、弥生時代の近畿や東海の墓からは、勾玉などは出土する。
勾玉などと、銅鐸の性格の違いを理解する必要があるでしょう。
墓から出土しないので、年代的な議論は難しいけど、鉛同位対比の研究によれば、
古いものは朝鮮半島の鉛で、それ以降は華北の鉛であり、
古墳時代の遺跡から出土する後漢中期〜三国鏡の、華南の鉛は見られないことからも、
弥生時代で終わったと考えるのが妥当でしょう。
603 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 04:44
畿内説をとると神武東征話は架空の話、しいては神武天皇は
架空の天皇、ということになってしまうと思うが、
私はやはり神武天皇が東征して大和王権を造ったからこそ
それが脚色されて書記に載ったのだと思う。
604 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 07:03
>>603 それが3世紀以前のことなら畿内説でもいーじゃん
605 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 07:52
初期の天皇陵の比定地には、目立った古墳が見つからないことから、
この時代は未だ弥生墳丘墓の段階だったとする見方もある。
606 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 08:27
突然に、魏志の邪馬台国のような、強大な国は作れないから、
その前段階があるはずで、その始祖が神武天皇と見ればいいんじゃないの?
神宝として、剣・鏡・勾玉が挙げられ、剣は多くの種族に見られるものだけど、
漢鏡は中国の権威、ヒスイ製勾玉は日本古来の権威で、これが鍵になると思う。
607 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 13:50
記紀において天孫降臨伝説の舞台を南ないし中九州にしているのは
北九州に有り難そうな高い山がないからである。
畿内にもないね。
中国や半島にも降臨伝説があって自分たちもそうありたい。
自分たちの祖先を古く見せたいと言う願望は誰にでもある。
魏志の記述によると邪馬台国なる国が九州の方にあったらしいと
言う事を聞いて九州の高い山に降臨した事にしたと言うのが真相。
神武東征なんか空想上の出来事。
君たちは記紀を編纂した人たちの心理が判っていないね。
608 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 13:57
なんで真相がわかるの?
609 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 14:08
>607
妄想と史実を混同してはいけません。
仮設は最低限度の史料をもとに語りましょう。
>>607 8世紀の日本にも邪馬台国九州説はあったか。(ワラ
当時、中国では畿内説のようだけどね。
611 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 18:13
>610
だから単純に畿内の大和が我々が邪馬台国の子孫であると
中国側に主張しただけだと言う事。
中国側はその主張をそのまま記載しただけ。
612 :
日本@名無史さん :2000/11/28(火) 18:48
>604、606さん
では大和王権の始祖は九州の王権だった神武の一族だったというこ
とですね。神武が東征して大和の地に邪馬台国を造ったわけですね。
すると卑弥呼は誰か天皇の別名なのでしょうかね。
神武は=10代崇神天皇(2〜9代は架空)ともいわれてますが、
卑弥呼は崇神の後の天皇なんでしょうかね。
613 :
>612:2000/11/28(火) 20:04
だーかーらー、神武のひいじいちゃんの墓は4世紀前半のものなの。
それで、神武もこの頃の人物だと考えられていて、神武東征は、
西暦300年前後の出来事だというのが定説だよ。
614 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 20:12
>613
神武って実在の人物なの?いつの間に定説になっていたの?
615 :
>614:2000/11/28(火) 21:01
613が言ってるのは東遷説における定説。
そして、東遷説自体は、戦後否定され続けてきたが、近年、見直されてきている。
616 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 21:05
>そして、東遷説自体は、戦後否定され続けてきたが、近年、見直されてきている。
独り善がりで支離滅裂な編年を主張する、安本じいさんが言っているだけだろ。
どう説明するのが、具体的に述べてくれ。
617 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 21:36
とんでも本の中身きく価値なし
618 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 21:44
うわぁー、どっち信じていいんだか。
619 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 21:55
わかったところで何か役に立つの?
620 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 22:07
>36
無視しかないよ。相手はまともじゃないんだから。
621 :
日本@名無史さん:2000/11/28(火) 22:25
安本ってどうしてあんな嘲笑しか買わないこと書くのかね
622 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 00:14
どちらにしても、神武を祖とする天皇のルーツは
九州なわけだね。決り!
623 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 00:34
なんでこういうのは誰もウヨとかいわないんだ?
624 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 01:06
>623
畿内派内の葛藤はそこにあるんでしょうな。
畿内派には記紀神話を支持する右派が多いのは
まあその通りでしょう。が、しかし神武東征だけは
天皇家九州起源説に繋がるので、触れたくないんでしょう。
一方の左派は神武東征の部分だけは天皇が九州の一王権に
過ぎなかったことになるので、東遷説をあえてウヨ扱い
はしないのでしょう。
625 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:21
畿内派に記紀神話を支持する右派なんて滅多にいないよ
626 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:31
>>624 いかに畿内説というものを知らないで
想像上の仮想的を攻撃しているかが
よくわかる投稿ですね。
627 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:31
>>624 いかに畿内説というものを知らないで
想像上の仮想敵を攻撃しているかが
よくわかる投稿ですね。
628 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:35
字が違いました。
で、記紀神話を支持する右派の畿内説論者を具体的にあげてください。
多数あげられなければ、九州説の言うことはいつも根拠がないという例に
あなたの投稿を採用します。
629 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:41
今や、九州説はバカしか残ってないな。
630 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 01:44
高森明勅かな。畿内説で記紀神話を支持って。
631 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 01:46
どちらにしても天皇家は九州起源だったんだ。
632 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:51
>629
考古学ダメ、音韻学しらない、漢文読めないの3重苦で
もう神話しか頼るもんがないんだろ
畿内説は神話を信用しない採用しないの立場の者が多いから
同じ土俵で論駁されないとタカをくくってるのかな
>623
他人に頼るな。
634 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 01:53
631はバカだから同じ台詞ばっか反芻してら
壊れた?
635 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 01:57
記紀を信用しない畿内派って聖徳太子も架空の人物だと
思ってるのかしら?
636 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:06
>611
その根拠は?
って聞いても絶対答えないんだろうな。
637 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:08
>635
記紀神話の話をしているのに、記紀の歴史時代の記述にすり替えるところが
どうしようもないな。
638 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 02:11
>637
書記の聖徳太子は誕生からして超能力者みたいだけどね。
639 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:12
>635
推古紀はβ群だから、あながちあり得ない事ではないですね。
640 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:18
>637
すり替えってゆーか
そういう小手先のテクニックで知識不足の弱みを補うしかないあたりが
悲しすぎるよなー
俺はあきれるよりはちょっと同情しちゃった
641 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:23
「神話を信用しない(632)」という発言を
「記紀を信用しない(635)」にすり替えるあたりは
結構常習犯っぽい。
642 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 02:31
でも神話にはそれのモデルとなった史実があると思うぞ。
643 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:40
海外から伝わってきた神話もあるし
明かに別々の神話を組み合わせたものもあるね。
なかにはモデルがあるものもありでしょうけど
いつの時代のことかわかるカギなんかあるんでしょうか?
644 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:52
>>641 >結構常習犯っぽい
考えすぎでしょ。
>>635は単に神話と史実の部分をごっちゃにしただけでしょ。
シロウト相手に、袋叩きは間違ってるかもよ。
645 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 03:00
相手の言ってることを歪める習慣ってのはけっこう身に付いちゃうもんよ。
こういうのは品性の問題だから素人か否かは問わないんじゃないかなぁ!
>>645 2Chに投稿するならそれなりの覚悟は必要ですね。
ただ、
>>635さんは、歴史好きで普段はROMってる女性?のように思ったので
(最近の聖徳太子否定説にひどく心を痛めているような(わら)。
647 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 03:20
別人だな
聖徳太子が好きならあんな引けあいには持ち出さない
648 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 03:25
書記の神代の話を簡単にフィクションと決めつけるのも
教育上では、今の若者にはニヒリズム的に天皇家を
捉えかねられないような気もするが。
649 :
日本@名無史さん :2000/11/29(水) 03:40
安本のじいさんって、自分の刊行本で高森に
書かせていたり、「正論」にも書いたりと
かなりのウヨでっせ。
650 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 07:22
安本は学会に相手されないんで社会運動路線
にきりかえたのだろう。
ところで、神武東征がなにがしかの史実を背景にしてるにせよ、
邪馬台国位置論争とは関係ないんだから、
もうよそにおいておきませんか?
しかし、このスレで右だ左だといってる連中にはへきえき。
たぶん、それしか知識のない政治おたくが参加したがってるんだね。
よそでやればいいのに。
このスレ、パート2になってからレスのびるのはやくない?
この調子じゃ、年内に3いくね。
651 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 07:32
>648
はいはい。立派なお説ありがとう。
他スレでやってね。
せめて、「邪馬台国がどこにあるか?」「その根拠は?」くらい
かかないと相手にされないよ。
652 :
久しぶりにカキコ:2000/11/29(水) 07:52
基本的に近畿説だが、少し前に魏略逸文などの野史の話を持ち出して九州説を応援しようとして
失敗に終わった者です。
>>650さん後半部分同じ気持ちです。
九州説袋叩きっぽいので、レスがつくのが早いのではないでしょうか。
(また叩かれやすそうな投稿するのね、九州説の方が。
>>611なんか何回も同じこと
言ってるが、以前反論があったのに無視してるし。)
ウヨサヨの話や東大京大の学閥の話が入ると、私のような単なる歴史オタクには
どうも入りにくい。(基本的にどうでもいい)
土器編年の話はおもしろかったのにね。纏向遺跡で発見された土器の出身地や
編年を考えるだけでも、3世紀の倭人の交流の中心にこの遺跡があったことは
間違いないと思われるのですが・・・。もっともこれだけでは邪馬台国が
纒向周辺にあったと主張できないのがこの論争のおもしろいところです。
653 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 09:56
記紀の原文は持ち合わせていないが
天皇の祖神はの高天が原のクジフルの峰に降り立ったそうな。
一方朝鮮の新羅にはやはり王の祖神が久慈峰(クジフリ)に
降臨したという神話が残っていたそうな。
朝鮮には古くから白山(パクサン)信仰みたいな山岳信仰がある。
奈良県の橿原は「クジフル」が変化したものと言われている。
記紀を見ても畿内の天孫族が南から来た海洋種族である様子は
見て取れない。
天孫族の一人であるスサノオの尊が朝鮮からやってきたと言う
記述さえある。
一方、魏略によると倭人は「呉の太伯の子孫」と称していた。
魏志の記述内容も明らかに海洋種族である。
やはり畿内の大和は朝鮮半島からきた鮮族の子孫で、
邪馬台国は中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族
が住み着いた九州にあるというのが自然。
654 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 11:58
>>653 倭人に関する記述はおっしゃるとおりだろう。しかし、以前「持衰」の話が出たときにも
申し上げたと思うのだが、魏の使者の報告が北九州の風俗を表しているからといって、
それが「邪馬台国は近畿ではなく九州にあった」とするのは強引過ぎる。
彼らが書いているのが邪馬台国の風習であるとは明記していない。接触が深かった
北九州の倭人の風俗を書いていると理解すれば、特に矛盾は無い。
>中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族が住み着いた九州
は九州説では定説なのでしょうか。稲作や高床式倉庫の遺構などを考えるともっと
以前に(全国的に)中国南方系の影響があったように思われるのですが。
さらに弥生時代の九州(特に北九州)の遺跡から数多く見られる朝鮮由来と思われる
数多くの遺物は無視してもいいものでしょうか。
一方神話はかなり後世(渡来人が増えた後)にまとめられているので、こちらの方が朝鮮の
影響をあとから受けた(あるいは逆もありうる)と考える方が妥当だと思う。
655 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 14:44
>>654 もともとが海洋民族だったのに山岳信仰の国からの渡来人が
多少増えたからといって海洋民族の記憶がこうも奇麗に無く
なるものだろうか。
神話で残っているのは海彦山彦の話くらい。
北九州に朝鮮由来の物が沢山あるのは交易をしていたのだから
当然。
九州には中国の海の神様を祭った神社もある。
656 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 15:08
神話の部分は始祖のアイデンティーにか関わる所なので、いきなり他の族のを持って
来たりするか、普通は。
その民族に入ろうとする場合は有るかもしれないが。(例えば、中華に憧れた古代周
辺民族が起源を中華に求める場合)
関係ない民俗が神話を真似るまたは盗用する場合は憧憬とか有る場合じゃないの。
657 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 15:12
>彼らが書いているのが邪馬台国の風習であるとは明記していない。接触が深かった
>北九州の倭人の風俗を書いていると理解すれば、特に矛盾は無い。
と言う事は畿内と九州では全く違う民族だったと言う事を認めるの?
658 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 15:16
>657
全然解らなくなっちゃったよ。機内と九州は違う民族なの?
まぁ、その後同じ日本人なんだから。
659 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 15:46
>656 657
始祖伝承が違うと別の民族なのか?
考古学や漢学だけじゃなく
記紀研究の知識もないのか?
ほんっっっっっっっっっっっっっっっとに無知だな
660 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 16:02
>>613 >だーかーらー、神武のひいじいちゃんの墓は4世紀前半のものなの。
>それで、神武もこの頃の人物だと考えられていて、神武東征は、
>西暦300年前後の出来事だというのが定説だよ。
あのー、割りこんじゃってすいませんけど
曽祖父の墓が4世紀前半の人なのに、どうして神武が西暦300年前後に東征できるんですか?
661 :
654:2000/11/29(水) 16:04
>>655>>656>>657 なんか話がずれるなあ。故意なのか天然なのかはわからないけれど。
あなたが言いたいのは要するに魏志倭人伝の伝える倭人の風俗が、記紀や神話に残って
いないので、邪馬台国≠近畿(大和朝廷)だと言いたいわけですよね。
けれどもそれだけでは九州地方=邪馬台国とは言えませんし、
それに邪馬台国≠近畿を主張できるほどの根拠もありませんよ、
と言うのが私の主張です。
すくなくともあなたが前提としている論拠と
>やはり畿内の大和は朝鮮半島からきた鮮族の子孫で、
>邪馬台国は中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族
>が住み着いた九州にあるというのが自然。
と言う結論には論理の飛躍があります。(結論自体も飛躍がある。
「畿内の大和」が「鮮族の子孫」として、なぜ「≠邪馬台国」と捉えるのか、
「中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族が住み着いた九州」の論拠とか)
説明を増やして頂かないと納得しかねます。
海洋民族と山岳民族の神話の残り具合や民族の違いがあったかなかったかなんて
論拠に関係ない別の話なんですが。はぁ。
おれの勘違いだな。
すまん。>ALL
663 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 17:03
>「畿内の大和」が「鮮族の子孫」として、なぜ「≠邪馬台国」と捉えるのか、
>「中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族が住み着いた九州」の論拠とか)
>説明を増やして頂かないと納得しかねます。
論拠も充分示してあると思うけど。
>>656は私じゃないけどその通り。
>海洋民族と山岳民族の神話の残り具合や民族の違いがあったかなかったかなんて
>論拠に関係ない別の話なんですが。はぁ。
こちらはおおいに関係あると考えている。
関係ないという論拠を示して。
不利な話は関係ないの一言で済ませるの?
664 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 17:28
ついでに言うと海彦山彦っておおざっぱにいえば
海と山が争って山が勝という話だよね。
665 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 18:19
海幸山幸神話は広く東南アジア一帯に分布しています。
666 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 18:20
ポリネシアとかの島嶼にもね
667 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 18:27
いなばのしろうさぎもマレーシアかどっかに似たようなのがあるんでしょ?
668 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 18:52
せいぜい7世紀末か8世紀に採集された民話集(しかも政治的意図をこめて編集)のストーリーをそのままなぞっただけで3世紀の史実をどうこういおうという神経が不可解
669 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 19:27
>668
いきなり言わないで、どの部分を言っているのか教えてちょんまげ。
670 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 19:28
>653
邪馬台国は中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族が住み着いた九州
これって、関係するような遺跡からの出土品とかあるんですか?
663さん、論拠になっている番号を教えてください。私はわかりませんでした。
中国南部-九州は、稲作渡来仮定ルートの一つな気はするけど、稲作渡来っ
て縄文時代だから関係ないよね。
中国南部って秦の徐福の渡来伝承ぐらいしか思いつかないけど、
徐福伝説って、神武が畿内に入る時に遠回りした熊野のほうにもある伝説
ですな。
隋書の倭国が九州で、秦王国が畿内にあたるとしたら、天皇家って海洋
系ではないの。
海の向こうから国を引いてくる出雲の方が韓国系だわ。
671 :
654:2000/11/29(水) 19:48
>>663 まったく話が通じてませんね。困りましたね。
たとえば魏志倭人伝の記述に「邪馬台国」の風俗が書いてあって、それが大和朝廷に
伝承される神話や古代の風俗と違う、という話であれば近畿説の論拠は弱まります。
しかし「倭人」の風俗は書いてあっても、「邪馬台国」のそれは書いてありませんよね。
なおかつ、あなたが九州は「中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族が住み着いた」
と主張なさっている根拠は、私が読む限り
>九州には中国の海の神様を祭った神社もある。
の一文だけのようなのですが。
こういった論理の組み立ての脆弱さを問題にしているのであって、あなたがしきりに主張なさろうと
している神話や民族の話は、この点が改善されてからしていただきたいと言いたいのです。
しかも記紀には北方系と南方系の神話がモザイクのように交じり合っているということも
ご存知なさそうですし。
その他のツッコミ(めんどくさいが)
>朝鮮には古くから白山(パクサン)信仰みたいな山岳信仰がある。
中国にも泰山など山岳信仰がありますね。山岳信仰は日本各地に残っていて、
九州も例外ではありませんね。九重や阿蘇への信仰がいつ始まったかは寡聞にして
知りませんが、新しいものではなさそうですね。
>奈良県の橿原は「クジフル」が変化したものと言われている。
どなたがおっしゃっているのでしょう。初めてうかがいました。
まさか「奈良」は朝鮮語の「ナラ(国)」がなまったものなんて言い出さないでしょうね。
それから福岡と佐賀の県境にある「背振(セブリ)山」の語源が朝鮮語と考えられているのは
ご存知でしょうか。また、九州全般で「○○原」を「○○バル」と読むのも、朝鮮語の
「原(パル)」が語源と考えられているのも。
672 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 20:03
奈良がナラ(国)から来ているもんだと知識で入る前からナラって言葉の音に
違和感を感じていたのは私だけでしょうか。
韓国語ですとナラは(国、土地、都)などの意味があると本で読みました。
煽りではなく、日本語ですとどういう意味なのでしょうか?
誰か解る方教えてください。
673 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 20:14
>658
>記紀の原文は持ち合わせていないが
なるほど。それでちゃんと読んでないわけか。
>記紀を見ても畿内の天孫族が南から来た海洋種族である様子は
見て取れない。
神武の母ちゃん海神の娘。おくさん阿多の人。
674 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 20:19
675 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 20:27
>>672 古典では草を踏みならすとか、山地を開拓して普請したのでナラしたとか言います。
万葉では平山と書いてナラ山と読んでいます。
国とか都の意味だとすると、平城京建設以降の名前ってことですか?
676 :
奈良県民:2000/11/29(水) 20:33
平城山と書いて「ナラヤマ」と読みます
677 :
671:2000/11/29(水) 20:37
「なら」と言う地名が「国」をあらわす朝鮮語から来ているとなると、
全国各地に「なら」「ならやま」「ならおか」などの地名が数多く
存在することの説明がつかない。朝鮮由来であれば、それ以外の地名でも
朝鮮由来が残っていないとおかしい。「なら」だけなぜ特別扱いなのだろう。
「なら」は土地を「ならす」(平らにする)という言葉に残っているように、
もともと「平ら」と同じ意味の言葉である。「なら」は平らな土地、「ならやま」
は「稜線がおだやかで平らに見える山」と捉えるのが、実際にその地名がついている
場所の地形にあてはめると合理的である。
語感だけで言うと「ゴーラ(ゴーロ)」という地名が、日本各地の山岳地帯に
残っているのは外国の影響かと思ってしまいがちだが、これも岩場を表す
古い日本語の「ゴロ」が変化したものである。
678 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 20:48
ほおー、素直に感心。ナラはならすから来ているのですか。平城山をナラヤマ
なるほど。では、奈良は古代朝鮮語?ではないのですね。
679 :
解決黒頭巾:2000/11/29(水) 20:52
ナラ(奈良)時代とは、白村江の海戦の勝利者たる新羅占領軍が、
敗者たる倭国の九州太宰府への駐留軍期間が終わって、
正式に倭国の支配者として、半島の新羅からも独立した国家として
スタートした意味を表す。ナラ=国。
ただし、新羅は九州にあった狗邪韓国(金官加羅・東表国)の
半島にあった飛び地から誕生した倭人国家。
したがって、Uターン国家ともいえる。
680 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 21:03
新羅は海戦してまへん
681 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 21:24
>>677 残念ながら朝鮮語のナラにも
ならす=平らにするという意味があります。
よってナラは朝鮮語であるのは間違いありません。
682 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 21:52
678だが、またしても分からなくなってきた。
朝鮮語でもナラすという意味があるということは、ウーム。
>>681 だったら朝鮮語である必要ねーじゃん(w
684 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 22:27
>>681 >残念ながら朝鮮語のナラにも
>ならす=平らにするという意味があります。
いま手元に韓日辞典と韓国語の古語辞典があります。
確認したいので、動詞の終止形をアルファベットで書いてくれますか?
685 :
677:2000/11/29(水) 22:27
>>681 だから論旨をちゃんと読んでよ。
>朝鮮由来であれば、それ以外の地名でも朝鮮由来が残っていないとおかしい。
>「なら」だけなぜ特別扱いなのだろう。
それとも全国各地の「なら」がつく地名に朝鮮由来の伝承なり遺跡なりが残っている
根拠があるの?なんで音が同じなだけで「朝鮮語であるのは間違いありません。」
なんて自信満々なんだろう。
ついでに
>ナラにもならす=平らにするという意味があります。
のソースもお願いします。私では確認できなかったので。
さらに言えば
>>674で紹介されているHPにもあったけれど、朝鮮語ではnara-h
でさらにさかのぼればnara-kの可能性があるという説はどう考えるのか。
また、発音がさかのぼれる朝鮮語はせいぜい中世までというのはご存知か。
686 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 23:05
>>681はアメリカで話される言葉も「英語」と呼ぶことから、
もし古代倭語と古代朝鮮語が共通だったら、それを朝鮮語って呼んでもいい
といった論理による確信犯的煽り発言だろ。というか当人いたって本気か。
ただ、「英語」は英国で育った言葉だと思うが、古代倭語は朝鮮を通過しただけ
かもしれないし、同系統、別ルートも大きな流れで存在したかもしれないから、
その論理は通用しないんじゃないか。
>>686 言語の系統からすると、日本語と朝鮮語が分かれたのは5000年以上前だと
聞いたことがあるけど…
688 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 23:23
684ですが、辞書で「ならす=平らにする」という言葉は見当たらないんで
聞いたんです。
探し方が足りないのかもしれませんが、使用している辞書は民衆書林の韓日辞典です。
689 :
世界@名無史さん:2000/11/29(水) 23:54
>687
どうやってわからるんだ?激しく知りたい。
あらら、そうですか、すみません。
ご指摘、感謝。
691 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 00:22
>>689 言語間の基本語彙を比較することで
ある程度わかるらしい。
ちなみに日韓両国語の基本語彙は偶然の一致を除いては
一致しないらしい。
692 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 00:33
>>689 服部四郎が、共通残存語率から分離年代を4千年以下ではあり得ないとして、5〜6千年という数字を示しました。
大野晋は弥生文化の伝来とともに2千百年前といっています。
李基文は、文法的要素及び語彙における大きな差異を合理的に説明できないとして、大野の結論は信じられないと述べています。
693 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 00:46
>681
結局ガセか? 電波か?
694 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 01:13
653はしきりに神話をもちだして邪馬台国は畿内じゃないと言うが
なぜか記紀を読んでいないことも告白
意外に素直なやつ?
695 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 01:35
私は前に書いた詳しくない者ですが、ますます解らなくなりました。ハア。
一般人はこんなやり取り読んだら「どうでもいいや」って投げちゃいそう・・
むずかしい。
魏志倭人伝の信頼度は?
697 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 01:55
>>696 ほぼ、同時代に書かれ伝聞や固定観念に基づく記述も多いものの
極めて客観的で詳述な記録であり間違いなく第一級の史料。
698 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 03:10
>695
まぎらわしい嘘を書く確信犯がいるから益々ややこしんんだよなー
ひとめでホラとわかる痒尻青頭巾みたいなのは良心的。
699 :
【^▽^】:2000/11/30(木) 04:28
700 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 07:21
また混乱してるなあ。
古代朝鮮語の件は邪馬台国問題となんの関係もないんだからさ。
だいたい、あれこれいってるけど、全部ゴロあわせじやない。
この前も、飛鳥が朝鮮語で解読できるとか記事あったけど、
ゴロあわせすれば、日本の全地名が朝鮮語で解読できるんだぞ。
思いつき語りはやめよ。
あと、【^▽^】は失せろ。知能の低い奴は電波板で遊んでろ。
701 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 07:37
ちなみに、倭人伝の記述のどこが海洋民族なの?
漁してるだけじゃ海洋民族の根拠にならん。
漁は朝鮮半島でもヨーロッパでもやってるだろ?
702 :
685:2000/11/30(木) 07:54
>>700 まったくです。私もこんなに引っ張る話題とは思いませんでした。
「古代朝鮮語」なんて言っても資料は少ないし、残っている古い資料のほとんどが
漢文なので、中世以前の朝鮮語の発音なんて正確にはわかっていないはずなのに・・・。
ただ、倭人伝と記紀の記述に隔たりがあることは、印象として正しいと思う。
もちろん3世紀と8世紀の時間的隔たりや、記紀の(特に古い時代の)記述の信頼性
などの問題があるが、中国との交流が記紀本文に書かれていないのはなぜだろうか。
邪馬台国と大和朝廷の間にどのような断絶があったのだろうか。
703 :
日本@名無史さん :2000/11/30(木) 09:16
蘇我氏が滅んだ時、蘇我氏編纂の「天皇記」と「国記」が
消失している。ここに当時の謎の真実がたくさん書かれて
いたであろうことが悔まれる。
704 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 10:27
畿内と九州の民族の違いを決定的に示すのは埋葬の仕方である。
畿内の古墳を見ると石または木で槨を作ってその中に遺体を収めている。
九州は枠は作らず甕棺に入れて埋葬する。
東夷伝によると半島の国々は有槨無棺であると記されている。
そして倭人国では無槨有棺と記されている。
畿内の古墳は明らかに半島の埋葬方式の影響を受けている。
甕棺に納めて埋葬するのは南方のそれと同じである。
したがって畿内の古墳の年代を溯らせるとますます畿内は倭人国ではない
と言う話になってくるのに畿内派は気が付いていない。(ワラ
畿内に邪馬台があったとすれば100年位後に半島からやってきた
別民族によって征服された可能性がある事になる。
古墳時代はやはり4世紀の方が都合がいい。
いずれにしろ邪馬台国がそのまま大和になった可能性は非常に少ない
と言わざるを得ない。
705 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 12:24
>704
あんた、めっちゃ無知やな〜
甕棺は半島から北部九州にかけて分布してんの
それに後漢以降は九州は組合式箱型石棺の時代
これ、中国人が見ればどう見ても槨そのもんや
甕に入れてれば「オッ珍し!甕ェかんおけにしとるわ」とか書くやろなー
九州説もろやばやんけ
706 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 13:03
>>704 考古学に無知なくせに(ワラなんて書くと、恐いお兄さんたちに袋叩きにされるよ。
笑われるのはそっちだと思うけれど。
707 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 13:31
>あんた、めっちゃ無知やな〜
>甕棺は半島から北部九州にかけて分布してんの
半島南部は倭人の国だろ。畿内は倭人の国じゃないと言っているんじゃ?
708 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 13:42
>705
畿内派は畿内の古墳だけでなく九州の墓も溯らせるのか。
709 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 13:47
>708
そうだ。吉野ケ里なんか甕棺だった。
これ後漢以降だよね。
みょうな電波とばすなよ。
710 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 13:48
ここにある。
>>709 九州説派に向かって、電波飛ばすなとは殺生な。
犬ににゃあと鳴けと言ってるようなものです。
712 :
名無しさん@1周年:2000/11/30(木) 14:53
第一特集 ホケノ山古墳に関連して
・日本の常識=中国の非常識 中国の常識=日本の非常識
・原点にもどれ
ホケノ山古墳木棺材についての奇妙な炭素14年代推定記事
●ホケノ山古墳、八つの大疑問●
ホケノ山古墳の発掘は、本当に「邪馬台国=畿内説」にとって有効なのか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安本美典
三世紀中葉の土器と鏡石野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石野博信
三角縁神獣鏡研究の問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥野正男
◆◆◆短歌十集 梅は昔 佐佐木幸綱◆◆◆
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第二特集 高松塚古墳は、文武・元明・元正三代の廟堂の首班・石上朝臣麻呂の墓だ!
これでほぼキマリ
高松塚古墳の被葬者は、石山朝臣麻呂だ!―岡本健一氏の説を紹介するにあたって―
古代のロマンを追って―考古学報道と現代社会―・・・・・・・・・・・・・・・岡本健一
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡本健一
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第三特集 ◆日本人の起源と稲作の起源
ニュースフラッシュ 大論争に衝撃の新争点!!
人類の起源と日本人の起源
稲作本を紹介する(1)
佐藤洋一郎氏の『稲のきた道』―日本の稲作は、どこからきたか―
稲作本を紹介する(2)
佐藤洋一郎氏の『DNAが語る稲作文明』
日本民族の起源と稲作・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安本美典
琉球民族の起源と稲作―言語と神話伝承を考える―
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第四特集 ◆日本古代史混迷の元凶 津田左右吉説批判
特集を組むにあたって
古代の帝紀は後世の造作ではない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂本太郎
三浦半島の前方後円墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安本美典
同鐸の分布の北限と三角縁神獣鏡の分布の北限
『古事記』神話の表現形式が現代の「記憶の技術」で説明できるのはなぜか
津田史学を批判する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池田宏
●基本の基本を考える
古代を「知る」とはどういうことか―「情報」と構造」の世界―・・・安本美典
奈良ホケノ山古墳は邪馬台国の時代に築造されたのか?・・・・・・・金田弘之
713 :
↑:2000/11/30(木) 15:09
なに? これ。
715 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 17:05
>>705 >甕に入れてれば「オッ珍し!甕ェかんおけにしとるわ」とか書くやろなー
中国南部の埋葬方式で少しも珍しくないよ。
716 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 18:22
時代が違ぁよ。地方も違ぁよ。
717 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 20:19
>708、709
佐賀県教育委の出してる年代が全国レベルじゃドキュンなの
いまだに弥生の終末は卑弥呼が死んだあととか言ってるシーラカンス
どうしても吉野が里を邪馬台国にしたいわけよ
後漢鏡がでるのは大半が箱式で甕棺のものは少数なんだよ
718 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 22:36
>>653 >天皇の祖神はの高天が原のクジフルの峰に降り立ったそうな。
>一方朝鮮の新羅にはやはり王の祖神が久慈峰(クジフリ)に
>降臨したという神話が残っていたそうな。
ちょっと違いますね。伽耶の首露王が亀旨峰に降臨した話でしょう?
ところが、その伽耶は金海式甕棺墓が分布しているあたりですから
>>704 でいう
>畿内の古墳は明らかに半島の埋葬方式の影響を受けている。
>甕棺に納めて埋葬するのは南方のそれと同じである。これは矛盾してしまいますね。
ということで
>やはり畿内の大和は朝鮮半島からきた鮮族の子孫で、
>邪馬台国は中国大陸南部から渡ってきた大陸南部の種族
ということにはならないでしょう。
719 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 23:00
>>704 >畿内と九州の民族の違いを決定的に示すのは埋葬の仕方である。
ここまで言い切る根拠をお聞かせ願いたい。
北九州に限っても、弥生時代全般にわたって甕棺墓が隆盛だったことは確かだが、
土抗墓や支石墓、石棺や木棺が同時代に発見されている。これも民族が違うのか。
後世の日本でも、地方によって葬礼の仕方が大きく違っている。火葬の地方もあれば
土葬の地方もある。それは民族が違ったせいだろうか。
720 :
日本@名無史さん:2000/11/30(木) 23:49
大阪にも甕棺あるよ。
甕棺は南方って、南九州に甕棺あったっけ?
721 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 00:24
>>719 >北九州に限っても、弥生時代全般にわたって甕棺墓が隆盛だったことは確かだが
弥生後期は衰えているはずですが。
722 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 00:58
佐賀県教育委員会はともかくとして、九州の甕棺墓のほとんどは弥生後期中頃までのもの。
絶滅するわけじゃないけど、その後は箱式石棺になる。
甕棺自身は古墳時代のはじめごろまで残るようだけど、微々たるもの。
吉野ケ里も同じで、後期の中頃で甕棺はほとんどなくなる。
九州の後期中頃って言ったら、20年以上前から後100年前後。
しかしまあ、書けば書くほど墓穴を掘るヤツ。
もうちょっとだけでも調べてから書けばいいのに。
それにしても、ずいぶんいろいろなデマが巷には満ちあふれてる。
後漢代には甕棺はないとか、弥生時代全般にわたって甕棺墓が隆盛だったとか、邪馬台国の墓制が甕棺墓だとか。
全部、嘘。
箱式石棺が槨に見えるかどうかはおいらにゃよくわからないが、
倭人伝の有棺無槨は、こういう文脈で出てくる。
有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飮用ヘン豆手食
其死有棺無槨封土作冢・・・
これって、どう見ても一般人の風俗だろう?寝室までのぞいてるんだ。
卑弥呼が住んでる場所が
處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
であるのとはえらい違いだ。つまり、有棺無槨は一般人の話で
倭王の墓がどんなもんかはこれからはわからない。
有棺無槨が畿内説に不利だっていう考古学者までいるのは、困ったもんだ。
もっとちゃんと読んでから発言して欲しいね。
723 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 01:10
>>722 わし、後漢代には甕棺はないとか言ってへんでぇ。
後漢以降は箱型の時代って書いただけや。
724 :
719:2000/12/01(金) 08:11
まず
>>721ご指摘感謝だが、弥生末期に甕棺墓が絶滅しているわけではないので、
突っ込まれないためにこういう表現となった。
福岡近郊にある弥生時代の代表的な墓地遺跡、比恵、金隈、吉武、諸岡などは、
弥生前期〜中期が中心ということは理解している。が、いくら佐賀県教育委員会の
発表が信じられないからといって、吉野ヶ里やその他の弥生後期とされる
遺跡を無視することは出来ないと思う。(この辺は
>>722が詳しいようだが。)
もし
>>704が書く「有棺無槨」=「甕棺墓」が本当だとすると、逆にこの記述は
邪馬台国時代のものではなくて、弥生中期つまり倭人が分かれて百余国を成すと
された時代のものと理解するのが普通ではないだろうか。
さらに葬礼について言えば、その後「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、
他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」という記述があり、
記紀やその他の資料に残る葬礼の仕方と変わらないことに言及していないのは
フェアではない。
725 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 09:07
甕棺か石棺か知らないけど畿内の古墳ってみんな有槨じゃないの?
棺なら人間の体が納まるだけ。槨なら人間の体より何倍か大きい。
新聞に載った写真で記憶に残る限り大きい枠があったと思う。
>>722 >つまり、有棺無槨は一般人の話で倭王の墓がどんなもんかはこれからはわからない。
と言う事は庶民は南方系で支配層は朝鮮系と言う事かね?
726 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 11:43
>>725 おいおい
割竹が棺じゃなくて槨なら、平原もペケだから
伊都国も朝鮮か?
727 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 13:13
>と言う事は庶民は南方系で支配層は朝鮮系と言う事かね?
例によって、鮮人の妄想だな(藁
日本人は、GM遺伝子などから見て、東北から沖縄までことごとく北方系の要素が強い。
剣・鏡・勾玉と言う神宝は、地域的な特徴の乏しい剣はとておき、
漢鏡は中国の権威、勾玉は古来からの日本の権威である。
漢鏡や勾玉は、古墳時代以前の朝鮮土着の墓には殆ど見られず、お呼びでない。
魏略逸文には、呉の太伯の末裔と称していることは、支配層は南方系を示す。
728 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 13:19
>伊都国も朝鮮か?
ここも根拠も示さず朝鮮にしたがる、いつもの電波だな(藁
卑弥呼の頃は、伊都国は没落し、邪馬台国の勢力下に置かれていた記述があるが、
代々王がいて、楽浪郡の使者が常に留まるところで、昔から漢人との関わりが強いだろう。
弥生時代の北部九州には、漢鏡の埋葬例が多いことも、それを裏付ける。
膨大な数の鏡を出土した平原弥生古墳の頃(発掘者の原田大六氏によると2世紀前半)は
未だ権勢が強かったようだ。
729 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 13:30
>日本人は、GM遺伝子などから見て、東北から沖縄までことごとく北方系の要素が強い。
補足すると、アイヌ人も北方系の要素が強い。
730 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 14:29
>アイヌ人も北方系の要素が強い。
といってもエスキモー系だろ。
日本の語彙は南方系と聞くが?
文法はモンゴル系。
これをどう解釈する?
731 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 17:11
>>730 >文法はモンゴル系。
昔は、それがアジアの主流だったんじゃない?
732 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 17:32
沖縄、南九州、アイヌ、関東、東北の太平洋側は髭や眉毛が濃い。
これに対して日本海側や畿内は薄い。
アイヌは別にして濃い方が南方系で薄い方が朝鮮系。
体格も日本海側が大きく、太平洋側は小さいようだね。
日本人の平均より朝鮮人の平均体格が大きいから、朝鮮系の血の濃さが
関係しているような気がする。
733 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 17:54
>薄い方が朝鮮系。
モンゴルとか北方遊牧民族の多くも薄いだろ。
なぜ、短絡的に朝鮮になるのだ(藁
735 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 21:57
やりとりを聞いてると、邪馬台国九州説というのはもう完全に否定されたようですが、それでいいんでしょうか。
736 :
>735:2000/12/01(金) 22:07
このスレではね。
でも、世間(関西をのぞく)では、畿内説のほうがバカにされてます。
737 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 22:26
>>736 つーことは、世間一般では畿内説のほうが九州説より科学的根拠
が乏しいの?
じゃぁ、なんでこのスレの九州説者は世間一般で認識されてる根拠
を書き込まないの? 単にこのスレの九州説者がバカなだけなの?
738 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 22:33
>>736 その根拠は? …って、また回答ないんだろうな。
九州説者の持病 ヘントウセン
739 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 22:44
そろそろ九州説の組織的抵抗も止んだようだ。
後は残党をいびり出すだけだな。東大にでも火をつけてみるか。
740 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 22:51
ぼく東大だけど畿内説です。院で考古やってる友達もそうです。
741 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 23:29
742 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 23:34
>737
じゃ、九州説を擁護しようとして失笑しか買ってない人(誰の事かわかるよね)は
世間一般が認識できるほどあり余る根拠を
さっぱり文章表現できないレベルの知能の人ということ?
ここでは近畿説が勝ったんじゃなくて九州説の人がどっか行っちゃたんだけどね。
744 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 23:54
>ここでは近畿説が勝ったんじゃなくて九州説の人がどっか行っちゃたんだけどね。
論拠が何も示せなくなって消えたんだろう?
畿内説が勝ったってことじゃん。
だいたい九州説の人っていた?反畿内説しか見なかったけど。
745 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 00:24
>743
で、あんたは?
746 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 02:29
大分出身なので九州説が終了したのはちょっと残念だけど
まぁ、仕方ないですかね。
今後は九州の中にどういう国があったのか明らかになるといいなと
思ってます。宇佐は小国の都だったのかな。
ずっとロムってるだけです。
この話はパート1の前からそれこそ延々とやってるので
近畿説は新しい人が入ってきたけど九州説の人は出てっただけでしょう。
最初は九州説優位だったんですけどね。
748 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 06:39
ここの掲示板って誰が誰だかわからないのが困るけれど
「九州説で、かつ明かにへんなことを言う人」は増えたみたいね。
749 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 09:29
九州説のグランドデザインというか、時系列的・地理的に整合性の取れた仮説を聞いて見たいね。
ここ100レスぐらいの九州説の大まかな主張では
1.邪馬台国(倭人連合国)は北九州(含む韓国南部【狗耶韓国?】)に存在した。
2.彼らは中国南部から移住してきた(中国南部の風俗的影響を強く受けている)。
3.近畿地方(大和朝廷)は朝鮮から移動してきた征服者であり、邪馬台国とは関係ない。
と読み取れる。(誤解があったら指摘してください)
彼らが示した論拠の全てとは言わないまでも、主要な部分は反論があり、彼らからの
再反論は(今のところ)見られない。
九州説の主張するところを元にして考えると、
<仮説1>
近畿に存在する朝鮮民族は、弥生時代以前に近畿地方に進入し、独自の文化を築いていった。
縄文末期に中国南部から来た一団「倭人」が九州北部に新しい国々を作り、邪馬台国となった。
魏志倭人伝に記述されているのはこれらの国々のことである。
その後近畿の朝鮮民族が勢力を伸ばし、これに滅ぼされた。近畿の勢力が大和朝廷につながる。
<仮説2>
縄文末期に中国南部から移動し、九州北部に定着した一団が存在した。それが倭人。それ以前から
近畿地方にも人間が存在していたが、倭人ではない。倭人は邪馬台国を中心とした連合国を作った。
魏志倭人伝に記述されているのはこれらの国々のことである。
古墳時代直前に朝鮮から侵略を受け、邪馬台国は滅び去った。その後朝鮮民族は近畿に速やかに移動し、
古墳時代を経て、大和朝廷になった。
というかんじになり、考古学の研究成果から見ると支離滅裂に思われるのだが、もっと合理的な
デザインを持った仮説があるなら、ご紹介いただきたい。
もちろん近畿説の方もお願いいたします。
750 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 09:49
>>749 ここに来てる九州説の連中にゃ、しょせん無理じゃろ。
751 :
世界@名無史さん:2000/12/02(土) 10:05
>750
どこにいる九州説の方なら、説得力のある話を伺えるんですか?
752 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 10:56
>2.彼らは中国南部から移住してきた(中国南部の風俗的影響を強く受けている)。
>3.近畿地方(大和朝廷)は朝鮮から移動してきた征服者であり、邪馬台国とは関係ない。
この論拠(仮説?)はまるっきりお話にならない。事実の誤認というか歪曲ばかり。
これを九州説に含めたら、九州説が気の毒だよ。
これは九州説っていうよりも、あの御方独特の異次元世界。
753 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 11:11
>747
ここに限らず、741の「大論争」のような、メジャーな掲示板でも同じ傾向だし、
専門家が書いた最近の本に至っては、邪馬台国畿内説で決定した口振りが殆どじゃん。
754 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 11:17
>752
そうそう、それは電波な朝鮮の妄想で、九州説の主流とは全く違うと思う。
そもそも九州説は、国学者達が、古代の朝廷が中国に朝貢し冊封された記事が気に入らず、
九州の女酋が僭称したもの考えたのが始まり。
755 :
749:2000/12/02(土) 12:13
>>752、
>>754 749はちょっと煽り的な意味をこめて長文カキコしました。以前に2chはレベルが低いから
書き込む気にならないという九州説の方がいましたが、それよりもっとレベルが低い
九州説(というか古代朝鮮日本征服説なのかな?)が幅を利かせているので、何も反論が
無いのだろうかと不思議に思っています。(敵の敵は味方と思ってるのか?ROMる気にも
なれないのか?)
近畿説は次のようになるのでしょうか。
1.3世紀、邪馬台国は近畿(奈良盆地南部)にあり、九州北部まで含めた連合国家を築いていた。
2.伊都国に大宰府と同じような一大率を置き、そこを通じて外国との交流、北九州の統治を
行なっていた。
3.投馬国(吉備)と連合し、狗奴国(東海or出雲)と対抗していた。
このあたりまでは、考古学の研究成果や文献などとも適合する部分が多く、
妥当性が強いと思うのです。特に7万戸程度とされた邪馬台国(少なく見積もっても
30万人以上の人口)は、平城京と同規模の広がりをもつ纏向遺跡以外に持っていきようが無い。
なにせ魏の北方を脅かした公孫氏の勢力(4万戸)の倍近いのですから。
問題は1以前の動きと、その後の空白の4世紀です。
0.北九州に有力な国家(奴国)があり、中国と交流があった。
弥生前〜中期は北九州のほうが隆盛で、文化的にも進んでいたように思える。
何故弥生後期には北九州が衰え、近畿が中心になっていったのだろうか。
4.その後連合国家は中央集権に向かい、大和王権が成立する。
この過程において、卑弥呼の勢力は消えてしまったのか。
記紀に邪馬台国や中国との交流の記事が無いのは何故なのか。
奴国の時代から、大和王権の成立までを含めた近畿説のグランドデザインも
ぜひ聞かせて欲しい。
756 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 13:05
>755
>問題は1以前の動きと、その後の空白の4世紀です。
前者については、平原弥生古墳を発掘した原田大六氏は、
この墓を作った2世紀前半までは北部九州が中心で、
その後に東遷して、卑弥呼は箸墓古墳に葬られたと考えている。
後者については、ちょうど東国に覇を成していた、東海発祥の前方後方墳体制との
対決が続き、それが決着してから、朝鮮半島に大々的に勢力を伸ばしたと考えれば
良いのでは?
757 :
日本@名無史さん:2000/12/02(土) 18:08
>755
妥当性が強いと思うのです。特に7万戸程度とされた邪馬台国(少なく見積もっても
30万人以上の人口)は、平城京と同規模の広がりをもつ纏向遺跡以外に持っていきようが無い。
なにせ魏の北方を脅かした公孫氏の勢力(4万戸)の倍近いのですから。
公孫氏の勢力でさえ4万戸なんですか。7万戸というのは多すぎる気がします。
考古学的に、どの地域の範囲なら7万戸あったと推定できる根拠が見つかっているのか教えて下さい。
#魏志倭人伝の記述を信用するのもどうかと。
758 :
755:2000/12/02(土) 22:26
>>757 確かに魏志倭人伝には「可七萬戸」とあり、きちんとした報告ではなさそうです。
また、投馬国もほとんど記述がないにもかかわらず五万戸とされているのは大きすぎる
と思われます。研究者の中には、五や七のような吉数(中国では奇数は縁起が良いとされる)
は信用できないとする人もいます。
一方、もう少し確からしい奴国は2万戸と記されていて、10万人前後が住んでいたと
考えられますが、遺跡の数からはそれほどの人口があったとの推定は難しいようです。
しかし、数字は信用できないまでも、魏使が奴国の数倍の大きさがあったと考えていた
ことは間違いないと思われます。
纏向では数万人が生活していたとの推定もあるようですが、奈良盆地だけで30万人とは
私もちょっと考えられません。(平城京でも10万人程度と推定されている。)
弥生時代後半に比べて、古墳時代の初頭には奈良盆地の遺跡数は減少し、代わりにひとつあたり
の規模が大きくなりますが、それでも足りない。
墳墓や遺跡の集中具合から見ると、(奴国2万戸から類推して)大阪湾周辺まで含めると
七万戸に届くと思われますが、手元のいくつかの資料では、そこまで細かい人口推定は
ありませんでした。ただ、弥生末期〜古墳前期に存在する大規模で、権力の集中を如実に
示す遺跡がほかにないので、纏向遺跡以外に比定しようがないとしか言いようがありません。
759 :
日本@名無史さん:2000/12/03(日) 00:44
人口についていえば、
七万戸というのは、あくまで「邪馬台国」の戸数であって、その邪馬台国に女王の都があるのだから、つまり、王都とその周辺領域が邪馬台国ということになる。
決して、七万戸、三十万の王都があったわけではない。そもそも、邪馬台国は内乱の前後の王国なのだか、集権的王都があったかも疑問。後の記紀歴史時代でも、
でかい都なんてなかったでせしょう?平城京のイメージで女王の都を考えるのはちがうとおもう。
邪馬台国(王都+周辺領域)で七萬戸といえば、範囲が不明なぶん、畿内でも九州でもOK。
そもそも、三世紀人口の確たる史料などないのだから、推定のしかたではどっちにももっていける。
760 :
日本@名無史さん:2000/12/03(日) 16:30
九州派は畿内の大和を朝鮮人だといっている。
これに対して畿内派から有効な反論が聞こえてこない。
「九州も朝鮮人か?」なんて反応しかない。
畿内派も大和を朝鮮人と認めてしまっているのかな。
古事記や日本書紀の記載をもっと信用すべしなんて言っていたウヨも
だんまりを決め込んでいる。
この辺にも畿内説の弱点がありそう。反論すると返ってやばくなるから
無視しているようだね。
魏志も記紀も詳細に読めば畿内ではありえない証拠は沢山出てくる。
761 :
>758=755:2000/12/03(日) 19:10
762 :
758:2000/12/03(日) 22:24
>>761 いやそのぐらいの知識は教えていただかなくてもあります。(汗)
当時から陸地であった平野・藤井寺・貝塚・泉北・枚方・高槻・箕面などに
弥生末期の遺跡は数多くありますし、古墳時代に入るとそれこそ大型古墳が
目白押しになります。ある研究者は出土品などから、すでに縄文末期には大阪湾周辺の
集落でネットワークが形作られていたとしています。
763 :
日本@名無史さん:2000/12/03(日) 22:31
>>760 電波相手すんのは疲れんのよね。ぜんぜん人の話聞かないし、思い込みで人のレスを
読むもんだから真意理解してくれないし。
とりあえず
>>691、
>>700、
764 :
日本@名無史さん:2000/12/03(日) 22:37
>>759 >邪馬台国(王都+周辺領域)で七萬戸といえば、範囲が不明なぶん、畿内でも九州でもOK。
意味不明
765 :
日本@名無史さん:2000/12/03(日) 22:38
>>760 途中で発信した。失礼。
とりあえず
>>691、
>>700、
>>718あたりをよんでみて。
あの時代近畿の住民がが朝鮮人だったら、日本語にかなり朝鮮語の痕跡がないとおかしい。
遺伝子研究でも朝鮮の影響は中国の影響に比べて小さいぐらいだし。
記紀は南方系の神話も多く含んでいますよ。
766 :
日本@名無史さん:2000/12/03(日) 22:47
760は白痴
魏志よまない。記紀よまない。他人の話きかないの三重苦
水ひっかけてもウォーターっていわない
サリバン先生ごめんなさい
767 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 01:15
戸数については、邪馬台国は畿内で、投馬国は吉備で考えるのが普通。
768 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 02:58
>760
>これに対して畿内派から有効な反論が聞こえてこない。
いくら書かれても耳を塞いでるから「聞こえてこない」?
>反論すると返ってやばくなるから無視しているようだね。
これだけ反論されてるのにいっさい返答なしで事実無視できるのはもう才能だ!
>魏志も記紀も詳細に読めば畿内ではありえない証拠は沢山出てくる。
出てくると言うから「それを書いてちょ!」と言うと
また石のお地蔵さんになっちゃうんだね?
キミをMr.馬耳東風と呼ぼう。
コテハンにしたまえ。これは命令だ。
769 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 06:50
九州説がバカであることを帰納的に証明することはできないが
バカがひとりいることは九州説のひとも認めざるを得まい
770 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 07:47
>>760 答えは帰って来そうに無いけど、とりあえず質問。
あなたは近畿地方にあった大規模な集団(少なくとも古墳時代を創った集団)は
朝鮮由来の民族で、北部九州の「倭人」と民族的に違い、さらに邪馬台国でもないという
説なんですよね。
そしたらせめて
>>749の問いぐらいには答えてください。彼らはいつごろ日本にやってきて
どのような流れで日本を征服したのか。そしてどうやって朝鮮の痕跡を消していったのか。
そうでないと反論も出来ません。単に神話や墓制が似ているといっても・・・。
(しかも反論を受けてそれには再反論していないし・・・。このままだと「論破された」
と受け取られますよ。)
771 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 09:53
畿内朝鮮人説について補足
書紀の記述にある【高千穂の添(ソホリ)の峰】とは朝鮮語の都を意味する
「ソフリ(ソウル)」から来ている。
祖先神話として記述されているのは半島との関連を示唆するものが多い。
スサノオノミコトは高天原を追放されて朝鮮のソシモリに渡り、そこから
出雲に来たことになっているが「ソシモリ」は朝鮮語で「牛の頭」の事。
スサノオは日本でも「牛頭大王」として祭られている。
魏略によれば倭が中国に朝貢するとき皆「呉の太白の子孫」と称していた。
なのに記紀は「呉の太白の子孫」ではなく朝鮮から来たことを示唆している。
大和朝廷は朝鮮半島から来た民族の可能性は否定しきれない。
桓武天皇が大和が三韓の子孫であるという証拠を全部燃やしたと言う記述が
神皇正統記にある。
記紀にももっと朝鮮と大和の強い関わりを記述してあったのに改竄してしまった
可能性もある。
一方「因幡の白兎」に出てくる「ワニ」のように海洋民族を示唆する記述は
民話風土記のたぐいに沢山残っている。浦島太郎の話も南方の海洋種族に
共通する話だ。
繰返しになるが邪馬台国が海洋民族で大和は北方民族という考えに合理性
がある。
私は地理的条件から九州説を取っているのだが、畿内にあったと過程した時、
記紀の記述を少し信用して、北方民族が大和に入って邪馬台を征服したのは
大分時代の下がった応神天皇の頃だろう。
仲哀−神功−応神と長年大和に天皇がいなかった時期があり、この頃に交代
したと考える。
772 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 10:16
>771
これは、電波な朝鮮人の書き物によるある話だな。
朝鮮にこじつけて、数多い都合の悪い話には目を瞑り、
都合の良い話に作り上げているだけで、内容無し。
>北方民族が大和に入って邪馬台を征服したのは
>大分時代の下がった応神天皇の頃だろう。
ぷぷぷっ、未だに騎馬民族征服説を採っているのか。
好太王碑文には、倭国が海を渡って百済・新羅を臣民としたと記載し、
朝鮮正史の三国史記ですら、百済が皇太子を新羅が王子を倭国の人質に
出したと書いているぞ。話は全く逆。
神宝の剣・鏡・勾玉の内、地域特徴の薄い剣はさておき、
鏡は中国の権威、勾玉は古来から日本の権威であり、
いずれも弥生時代の朝鮮の土着の墓には、殆ど見られないもの。
>魏略によれば倭が中国に朝貢するとき皆「呉の太白の子孫」と称していた。
南九州に最初の拠点を置いたとすること、漢鏡を重要な権威としていること、
稲作の祭りなど南方系の祭祀が目立つことなど、この方がありそうな話だな。
古代日本が、征服したり勢力圏に置いた地域が、朝鮮ってことだ。
773 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 11:01
朝鮮正史の三国史記は記紀や他の外国の史料を参考にして
書いた物で朝鮮に伝わった話の記載ではない。
檀君伝説と同じ歴史資料として取り上げるべからず。
774 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 11:26
邪馬台の時代ではなさそうだが大和朝廷の成立とは関係しそうなので
九州や中国地方にある朝鮮式山城は何故誰によって築かれたのか。
朝鮮が侵攻してきた事を示してはいないかね。
所が、記紀には外国からの侵略を受けたと言う記載がない。
侵略してきた民族の長が自分の経歴を隠そうとしていた事は
神皇正統記でも明らかだから外国からの侵略を記載しないのは当然。
と言う考え方もできる。
775 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 11:51
>九州や中国地方にある朝鮮式山城は何故誰によって築かれたのか。
相変わらず、おバカなことを言っているな。
日本書紀には、白村江の後で、唐とその手下の新羅の侵攻に備えて、
九州や瀬戸内海に面した場所などに、山城を築いたとの記載があり、
これに対応するものと考えられ、百済からの亡命者などに作らせたのだろう。
>侵略してきた民族の長が自分の経歴を隠そうとしていた事は
日本だけでなく、中国や朝鮮の古代の正史にも無いぞ。
征服されてばかりの朝鮮とは違う。朝鮮の妄想は止まらないな(藁
776 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 13:50
『桓武天皇が大和が三韓の子孫であるという証拠を全部燃やしたと言う記述が
神皇正統記にある。
記紀にももっと朝鮮と大和の強い関わりを記述してあったのに改竄してしまった
可能性もある。 』
に対する見解を求む。
777 :
名無しさん@1周年:2000/12/04(月) 14:34
ってか、日本がここまで発展したのは渡来人たちのおかげでしょ。
桓武天皇の母は高野新笠だっけ。渡来系だよね?
778 :
名無しさん@1周年:2000/12/04(月) 14:39
はっきりいって邪馬台国って存在したのか?
伝聞の伝聞の伝聞。
「国民の歴史」という本を読んでからなんかバカバカしくなってきたよ。
779 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 14:51
780 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 16:51
>777
ここでも、故意に人種と民族を混同させようとしている奴がいるな。
日本人は、様々な人種から成るが、単一民族化した。これが正しい。
高野新笠は、百済系帰化人の末裔で、もちろん日本人。
不良三国人で溢れている在日連中とは全く違う。
781 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 17:36
>>780 人種、民族とも関西と九州、関東、東北が違っていた事は明白。
現在はどちらも日本人である事は認めるけど。
三世紀にも人種、民族的に違っていた可能性が高い。
問題は韓国に近い九州よりも畿内の方がより朝鮮の血が濃い事が
推測出来ると言う事だ。
ここから畿内は倭人の国ではない。北方民族説が導き出される。
782 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 17:42
神皇正統記ってだいぶ後だよね、書かれたのって
783 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 17:43
781の根拠のない妄想は痛い。朝鮮人の古代史話はこの程度だから救いようなし(藁
784 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 18:37
>>781 アイヌ琉球と違っていたってのはともかく
>関西と九州、関東、東北が違っていた事は明白。
なんて言い切れる根拠は?
その「朝鮮の血」なるものが確立したのはいつの話?
まさか、現在の韓民族のことじゃないよね。
上のレスにもあったが現在の遺伝子研究なんかでは、ある特定の遺伝子に
着目すると南方系が強く、別の遺伝子に着目すると大陸系が強く、また別の
遺伝子に着目すると南米と結びつきが強いなどと様々な結果がでるため
現状ではルーツを一つあるいは、少数に絞ることは不可能な状態のはずだが。
785 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 18:50
>781
適当なこと言いやがって・・・
でも東北は違ってただろうな。
それに日本人は単一民族化なんかしとらんよ。
その内そうなるだろうがな。
>778
>「国民の歴史」という本を読んでからなんかバカバカしくなってきたよ。
確かにあんな本読んでたらばかばかしくなるだろ、っていうか、あんな本読んで
歴史の勉強なんて言うな。
788 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 20:42
2チャンにゴッドハンド登場!!
>>766 『桓武天皇が大和が三韓の子孫であるという証拠を全部燃やしたと言う記述が
神皇正統記にある。
>>766 記紀にももっと朝鮮と大和の強い関わりを記述してあったのに改竄してしまった
可能性もある。 』
改竄してんのはこの文章かいた奴。
神皇正統記『むかし「日本は三韓と同種だ」と言うことがあったが、その本を桓武天皇の時代に焼き捨てた』
「日本」を「大和」に改竄。
「同種だ」を「子孫である」に改竄。
「本を焼き捨てた」を「証拠を全部燃やした」に改竄。
ぜんぜん意味の違う記述を改竄して ”記紀も改竄?”とか
自分にだけ都合のいいことを主張。
お〜い! 「破門してけろ」って言えよォ。
789 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 20:47
>788
朝鮮の改竄は日常茶飯事だな。
790 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 21:13
弥生時代に入ったきっかけとして、中国(おそらく南部)もしくは朝鮮からある程度まとまった数の
移住者があったのは事実であろう。中国では秦による全国統一が進んでいた時期で、
滅ぼされた六国から多数の亡命者が発生したことが原因と考えられる。
出土品や骨格などから明らかに縄文人とは違う。現在残る遺伝子の違いなどもそれで
説明できる。
しかしそれは邪馬台国の時代から五百年ほど前のことで、今回の論議とはあまり関係がない。
さらに時代が下って次に渡来人が多かったのは、古墳末期〜飛鳥時代。任那が消滅し、
百済も滅ぼされ、朝鮮半島で騒乱が続いたことが、多くの亡命者を出した。
彼らの影響は古墳石室内の彩色(高松塚やキトラなどを思い出して欲しい)や、
仏教の隆盛(巨大寺院の建立や仏像の製作)などに残っている。
だが、やはり言語学的影響、それからみなさんご存知のように新撰姓氏録では渡来系は3割
とされていることからも、主流派となりえたとは言いがたい。
このころの移住者の記録は、地名や伝承に残っていることが多い。大阪市内でも
駒川や猪飼野などの地名はこのころの渡来人の居住地跡とされていて、秘密めかして
隠されているわけではない。
>>771や
>>774のようにあやしい書物や
どうとでも解釈できる神話・地名論に頼らなくても、合理的説明は可能。
791 :
名無しさん@1周年:2000/12/04(月) 21:16
国民の歴史”は、まさに発想の転換だよね。
792 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 21:34
癲癇だろ
793 :
日本@名無史さん:2000/12/04(月) 21:39
796 :
日本@名無史さん :2000/12/05(火) 00:18
なんかまた荒れてますね。
私は一応畿内派だけど、人口についてかいたことが少し誤解されてるみたいですね。
私のいいたかったことは、倭人伝人口が正しかったとしても、畿内VS九州解決の根拠にはならんということです。
ここではよく、「七万戸は九州では無理」との議論があるので一応説明しときます。
理由は、
1)三世紀の正確な人口推計が不可能(論者によって、200〜600万と幅がある)
2)邪馬台国の七萬戸というのは、王都の人口ではない。卑弥呼の従える約30カ国のうちの中心国である「邪馬台国」の人口。その「邪馬台国」領域は、結局推測するしかなく、当然、かなり幅のある議論ができる。
ようするに、九州論でも、かなり「邪馬台国」領域を想定すればいいわけだ。
現に、九州論者は、倭国中心国である「邪馬台国」を、筑後川一円に想定している。
もう一度いっとくけど、私は畿内説だよ。ただ、倭人伝の人口は畿内の根拠にならないという話。
ところで、直接邪馬台国と関係のない朝鮮ネタ・政治ネタ・民族ネタは完全無視しましょう。
そっち系の議論好きな人は別スレ立ててね。
電波の目的は荒らすことであって、議論することではない。
797 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 00:21
返答はせんわ
嘘はつくわ
良心のかけらもないな
798 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 00:34
>>796 >ようするに、九州論でも、かなり「邪馬台国」領域を想定すればいいわけだ。
ちょっとその論理、よくわからないんですが?
「邪馬台国」を、筑後川一円におさめたとして
投馬国と奴国の計7万戸をどこに置くのでしょう?
また8か国で約15万戸というのは、馬韓@`弁韓@`辰韓の合計とほぼ同じですね。
それを九州のそれも北部だけに押し込むとすれば@`相当無理が出るのでは?
799 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 00:44
>787
「国民の歴史」の魏志倭人伝非難はかなりレベル低し。
記紀を持ち上げるために、ただひたすら難癖つけてるかんじ。
800 :
796:2000/12/05(火) 00:49
わかりにくかったら質問してね。
私は荒らし以外にはちゃんとこたえるよ。
801 :
796:2000/12/05(火) 00:52
わかりにくかったら質問してね。
私は荒らし以外にはちゃんとこたえるよ。
802 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 00:56
>>800 わからないのは2)です。
邪馬台国を広域に考えれば、そのぶん投馬国5万と奴国2万を想定できる地域が圧迫されるから
問題の解決にはならないのではないかということです。
>>795 遅くなったけど、
>日本人は単一民族化なんかしとらんよ
と考える根拠を聞きたかった。
>>803 アイヌと一応ウィルタ(だっけ?)は他民族だと思うけど?
彼らが日本人じゃないというならそうだろうけど。
805 :
800:2000/12/05(火) 01:56
>>802 丁寧な質問ありがとうございます。
ええと、1)でかいたとおり、三世紀の人口推計には確たる根拠はありません。
で、多く見積もる論者は、九州の人口だけで100万をこすとしています。
すると、約20〜25万戸ということになり、邪馬台国連合諸国全人口をいれてもおつりがきます。
むろん、この人口推計が絶対に正しいというのて゜はありません。しかし、確実な反証を挙げるのもまた困難です。
古代の人口推計は困難なのです。
>>803 他のスレでやって。邪馬台と関係ない話は。
806 :
日本@名無史さん:2000/12/05(火) 02:05