もし秀頼が服従したら・・・

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1日本@名無史さん
家康は豊臣家を滅ぼさずに残したでしょうか?
2名無しさん:2000/10/27(金) 20:53
===========終了=============
3:2000/10/27(金) 20:58
 元関白太政大臣家として徳川氏が有力農民出身公家として豊臣氏を祭り上げる。豊臣氏は徳川親藩の在京公家としてのみ、生き残る。または河内の一封建領主としての生き残る可能性だが真田の反江戸派に担ぎ出されすぐに大坂城奪還の恐れもあるからそれはやらない。
 また、服従しなくても、秀頼が大坂を放棄して父親供養と称した出家の逃げ道もある。

 いずれも淀君が亡かったらの話。
4日本@名無史さん:2000/10/27(金) 22:06
>>3
そんなに御都合よくいくかしらん?

家康のことだから秀頼を毒殺したりして。
5日本@名無史さん:2000/10/27(金) 22:39
>>3
出家して程なく死亡。よくあるケースね。
6:2000/10/27(金) 23:09
 要は家康は秀頼を反幕府勢力の傀儡にされるのを避け損ねて秀忠ら幕府中枢の謀略にのっかって大坂の陣に参加せざるをえなかったことである。
 家康は秀頼を自家薬籠中におきたがっていたが、見栄っ張りの淀君の妨害にあってなせなかった。秀忠は反幕府浪人勢力の巨魁に秀頼を仕立て、彼らと大坂城もろともふっとばし、またキリシタン討伐のさきがけにも仕立てようとした。家康は南蛮駿府貿易の権益強化のために、豊臣秀頼松平忠輝大久保長安伊達政宗キリシタンラインを自己の権勢下におきたがっていたが、江戸の秀忠正信ライン(一極統制貿易派)に切り崩された。
 大坂の陣は南蛮貿易進展派の一極統制貿易派に対する敗北の一段階である。で、豊臣滅亡のいくさを強いられた家康は、禁中並公家諸法度の署名を強いられ、二年後、病死を称して殺され、正信は口封じに病死の名の下に、消された。江戸の一極統制貿易派は着々と鎖国という名の一極統制貿易を固めた。
7日本@名無史さん:2000/10/27(金) 23:36
(注)Mは妄想のMです。
8隆慶一郎:2000/10/28(土) 00:04
いや、M氏は正しい。
9:2000/10/28(土) 00:16
 >7
 レスに妄想としかいえないスレッド外れの7

 南蛮貿易推進派の相次ぐ敗北失脚「病死」貿易断念などは一極統制管理派の鎖国政策推進の一環なのである。
 家康が本当に陰謀家ならば、秀忠将軍就任前後に「病死」に消している。なぜ関ヶ原後16年も豊臣がもったかを注視しない者は家康を主殺しと決め付ける。
 結果論として徳川氏総体は主殺しだが、家康は二条城家康秀頼会見にもあらわれている通り、秀頼をみずからの権力人望強化に利用し続けていたが、大坂城にキリシタン系浪士の入城が激しくなった時点で、駿府南蛮貿易推進派の劣勢が始まり、大久保長安は怪死、松平忠輝は大坂の陣サボりに遠流され、豊臣秀頼は大坂城に自刃、伊達政宗は貿易断念を余儀なくされ、家康は「病死」の名の毒殺を強いられる。あとは秀忠と江戸家臣若手はうるさい老臣本多正信を病死の名で消した。この「結果論」に反論する方はどうぞして下さい。
10名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 00:23
6=8の自作自演だろ(わら

源平を見れば分かるように、幼い頼朝を生かしておいたのが失敗で、
東国では貴種の源頼朝は、平家討伐の神輿として最適だった。

新たに天皇から豊臣の姓を賜り、官位もかなり高い秀頼がいれば、
担ぎ出す大名が出てくる可能性がある。
11日本@名無史さん:2000/10/28(土) 00:25
Mって日清戦争スレのMだろ。今度は大阪の役かよ。
12日本@名無史さん:2000/10/28(土) 00:27
IFはやめようぜ・・・
13名無しより愛をこめて:2000/10/28(土) 00:29
家康は 悪名を残しても
完全な統一を成し遂げる為に
秀頼を殺したと思う。
もし どんな形でも 生き残れば
戦乱を呼ぶ恐れが あることを
家康が 洞察できない訳がない。
しゃにむに なんくせをつけてまで
秀頼を滅亡させた家康は嫌いだが、偉大である。
14名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 00:35
>なぜ関ヶ原後16年も豊臣がもったか
加藤清正の存在はどうよ?
また、「南蛮駿府貿易の権益強化のために、豊臣秀頼」を生かしておく事のメリットは?
あと、暗殺が好きだけど証拠はあるの?
15名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 01:53
M氏の意見って先に自分の望む回答を作っておいて、
その回答の辻褄を合わせるために歴史の部分部分を切り貼りしているだけのような気が・・・。
小説でも書くならともかくまともな歴史考察とは言えんのう。
16:2000/10/28(土) 02:17
 8とMは全くの別人です。
 >14
 例の二条城会見後、加藤清正は江戸一極管理統制貿易派の謀略集団、柳生に消される。

 難癖?では大坂城に集まったキリシタン浪士はなんて説明するの?あれを江戸秀忠が懸念して、老人家康を見限り若い秀忠に寝返った金地院崇伝にデッチあげさせたもの。家康は豊臣に対してひどく気を使っており、冬の陣も江戸側が真田攻めに躍起になって敗北し、家康は鉄盾を使った防戦にお茶を濁そうとしており、和平工作を朝廷の介入すら吹っ飛ばした上に何が何でも成し遂げようとしていた。冬の陣に淀君を砲発に脅しつけて強引に和平を獲得したが、駿府内一極統制管理貿易派の本多正純によって戦争挑発が行われ、南蛮貿易推進派頭目の家康は政策的に敗北を余儀なくされた。
 大坂落城後すぐにサッサと大坂をあとにしていかにも嫌々ながら参加したという態度を崩さなかった。それに対して江戸秀忠は豊臣残党殲滅そして後のキリシタン殲滅と一極恐怖支配に躍起になっていた。
17:2000/10/28(土) 02:29
 大坂冬の陣における家康と忠輝のイヤイヤぶりは、目立っている。江戸の圧力により、大坂への諸大名召集を逆用して諸大名の厭戦気分を煽動し、家康は極秘(口が滑りやすい朝廷の介入の断固拒否)和平工作を何が何でも仕立てた。本多正信と秀忠は和平工作に反対したことは有名である。
 忠輝はサボって、家康は鉄盾防戦と淀君のみを狙った砲弾のみ。積極的なのは真田幸村に翻弄された秀忠だけ。
18:2000/10/28(土) 02:52
 >14
 もともと豊臣氏は親父秀吉時代から朱印船貿易積極主義者でキリシタンは追放処分にしたが通商積極派だった。息子秀頼を利用するのは、南蛮貿易推進諸侯の多数派工作の象徴で、また豊臣恩顧系諸侯をひきつけて南蛮貿易推進を伊達政宗すらひきつけようとした。
 それが大久保長安を中心とする南蛮貿易推進ラインであり、それに連なる有力者が伊達政宗、松平忠輝、豊臣秀頼らであり、その頭目が家康であり、江戸に対抗する多数派工作をしていた。江戸はこれに対抗していろいろ切り崩した。大久保長安、忠輝家臣各スキャンダルにつけ込み、家康がそのつけ込みに妨害し、と家康と江戸幕府の権力抗争は激しさを増していた。キリシタン大坂入城は江戸幕府の南蛮貿易推進ラインへのダメ押しの一環である。これ以降、駿府の勢力は衰弱し、家康は江戸幕府に「病死」として消されるのである。

 鎌倉幕府も源氏は将軍家といえど、安泰ではなかったのと、同じである。幕府開設当初からの権力闘争で開設者は実態としては権力の象徴にすぎなかったのである。
19日本@名無史さん:2000/10/28(土) 04:05
>>15に同意ですな
ほとんど想像で史料がまったく登場してきてないぞ
20:2000/10/28(土) 15:03
 どうでもいいが、徳川実記とか、伊達政宗松平忠輝の家族関係とか、松平忠輝と大久保長安の関係とか、秀頼ー千姫ー忠輝関係(秀頼忠輝は親友関係は忠輝の冬の陣サボりでも明らか)とかをあらいなおしたら、16-18のような全体像がみえるでしょう。
 家康のあの冬の陣における鉄盾防戦一方と豊臣への和平の催促の執拗性、在駿府唯一の江戸幕府の利害代表本多正純の戦争挑発における駿河南蛮貿易推進派頭目家康の敗北決定、まさに真田幸村に討って下さいといわんばかりのシラケ切った家康の夏の陣における臨戦態度など、少しは大坂冬の陣の実際の戦況を以てこちらに反論したらどうなの?妄想とか想像とかいっていないでさ。
 キリシタン弾圧開始と豊臣討伐が時期的に重なっていることから江戸幕府の一極統制貿易主義がみえないの?江戸と駿府はツーカーのようでいて秀忠将軍就任以来、利害対立がしばしばあったことくらい、徳川実記に気付かないの?
21日本@名無史さん:2000/10/28(土) 15:57
>>Mサン
それを論文としてどこぞの雑誌に投稿してみては
載ったらオセーテクレ
22日本@名無史さん:2000/10/28(土) 16:07
>>21に激しく同意。
23日本@名無史さん:2000/10/28(土) 18:02
M氏は隆慶一郎が好きそう…
もし未読なら「影武者・徳川家康」読んでみたら…楽しめると思うよ。
24ジーモン:2000/10/28(土) 19:18
私が家康ならば秀頼を掘る!
25日本@名無史さん:2000/10/28(土) 22:18
Mさん
もしかすると元ネタは横山光輝の漫画ですか?
26>25:2000/10/28(土) 22:27
横山光輝の徳川家康の秀頼に対する思い入れはものすごいものがあったな。
ありゃ、あんまりだよ。
豊臣家を潰したという家康の汚点をごまかそうとしたんだろうが、あれじゃただのわがままジジイだ
27日本@名無史さん:2000/10/28(土) 22:31
>25・26
秀頼=家康の息子 説
にはさすがに笑ったなあ
28名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 00:49
いや、これ結構面白いんだけど、史料とかはあるの?

とりあえず想像にのるとして
>まさに真田幸村に討って下さいといわんばかりのシラケ切った
>家康の夏の陣における臨戦態度など、少しは大坂冬の陣の実際の
>戦況を以てこちらに反論したらどうなの?妄想とか想像とかいっていないでさ。
君の言う駿河南蛮貿易推進派と一極統制管理派とがそれほどまで敵対していたのなら
何故家康は大坂の陣に嫌々参加しながらも何もしなかったの?
片腕たる秀頼が討たれたら駿河南蛮貿易推進派が弱体化して
自分の失脚(あるいは死)につながることぐらい家康にも判るでしょ。
それならば「真田幸村に討って下さい」どころか大坂方、政宗、忠輝と協力して
秀忠を討ち取った方がはるかにいいと思うんだけど。(徳川家が弱体化するにしてもね)

>例の二条城会見後、加藤清正は江戸一極管理統制貿易派の謀略集団、柳生に消される。
柳生が家康派ではなく秀忠派であったという証拠は?映画とかは無しね。
29名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 00:56
Mは、どのスレッドでも、電波を発生しまくり
30飛蝗:2000/10/29(日) 01:05
うんうん、俺も面白いと思う。
Mさんの云うとおり、キリシタン関連を発端とした有力諸大名の思惑もあるとは
思うし、駿府と江戸の新旧軋轢もあるとは思う。
(というよりか、余りその辺に詳しくなくて申し訳ない)
でも、如何に考えにズレがあったとしても、大阪から秀頼一派を出さなくては
ならない方向性では一致していたとは思う。
もしくは、減封とか。
何れにしても、どっかで豊臣政権に終止符を打たなければならない意味では、
心で泣こうが、関ヶ原以降のダメ押し打を打たなければならなかったハズ。
如何に秀頼が可愛くとも、徳川の地盤を揺るがしかねない一族を、そのままおいそれ
と現状維持でほっとく程、家康も甘くは無いと思う。
秀頼の自刃は、淀殿や一家の長としての手前、秀頼が自刃したのか、それとも現場が
「ほっとけない褒美首」として金に目がくらんで討ち取ったかは、知らないけど。
31>30:2000/10/29(日) 01:13
とりあえず「影武者・徳川家康」隆慶一郎をお勧めします。
…ところで「墨攻」が御好きなんでしょうか?
32飛蝗:2000/10/29(日) 01:29
>31さん
す、すみぜめ?
済みません、学が無いモンで。。。(汗

伊達政宗(山岡荘八)とかを読むと、Mさんのいわんとするところも
何となく解る様な気もするんだけど、家康も戦国末期を飾った人間だし
血の恐ろしさを考えたら、秀頼をただでは済まさないとは思うんですけど。
まぁ、自分の理想とはかけ離れたところで、家の安泰第一な時代な訳だし。
現代みたいに、とりあえず倒産して借金かかえてしまいました〜とは
いきませんからね。
33日本@名無史さん:2000/10/29(日) 02:07
お前ら馬鹿か?小説や漫画を資料にしてどうすんだこの白痴が!
34日本@名無史さん:2000/10/29(日) 02:20
おれが家康なら自分の生きてるうちに秀頼と淀を殺すね。
それが徳川家の安全を保証することになるんだから。
大坂の陣は幕府保全のためにはどんな禍根も潰す、
という単なる家康のリスクマネージメント政策から出ただけだ。
南蛮貿易とか貿易統制だの
なんだかわけのわからねぇ御託を並べる必要はない。

>どうでもいいが、徳川実記とか、伊達政宗松平忠輝の家族関係とか、松平忠輝と大久保長安の関係とか、秀頼ー千姫ー忠輝関係(秀頼忠輝は親友関係は忠輝の冬の陣サボりでも明らか)とかをあらいなおしたら、16-18のような全体像がみえるでしょう。

これほどイタイ文章を見たことがない。
この人は現代の科学では造れそうにないピラミッドや
ナスカの地上絵とか、なんかそんなもんを見て、
宇宙人が存在している、といっているのと同じだ。
35飛蝗:2000/10/29(日) 02:37
>33
そんならお前が、家財をなげうって調べてこい。
逝ってよし。
36>35:2000/10/29(日) 02:42
もうやってきた。
37飛蝗:2000/10/29(日) 02:43
34さん
いやいや、キリシタンや南蛮貿易は、当時においての覇権を握る上では
重要な要素であったらしいですよ。
大久保長安関係は金山関係と、徳川家における駿府派と江戸派・・・・
本田一族と大久保一族の熾烈な政権争いがあった様ですし。

とは言え、おっしゃる通り、それらを圧して豊臣擁護に走って内部分裂
する程、家康ももうろくしていないと思いますけど。(笑
38:2000/10/29(日) 02:58
 >28
 冬の陣後の本多正純の内堀埋めのあとに家康は豊臣に大坂退去を勧めることしかできなかった。で、夏の陣において、家康は大した作戦行動にでなかった。決死の浪人勢に生き残りたがる自軍(巧妙も保身もしたい諸大名連合軍)を温存する術を知らなかった。秀頼側が軍門投降でなしに千姫返却に城内自刃を意志表示した時点に救済を家康が諦めざるをえなくしている。
 大坂冬の陣においては作戦家や采配家こそ、家康に幕府はやらせているが、その背後は将軍家の秀忠がいる。秀忠は冬の陣を企画したが作戦はできなかった。
 家康は直接豊臣方につくのではなく、諸大名の厭戦気分を煽動して和平機運を作った。家康にできることはそのくらいだった。大坂の陣の時点に、一大資金源の大久保長安処分を余儀なくされ、戦力はガタ落ちしていたから、当時の家康に江戸幕府の豊臣討伐方針にあらがう力はなかった。というより、大坂城キリシタン浪士入城に反対する諸侯は皆幕府に対する謀反とみなされ、個々の諸侯に幕府にあらがう気力もない状況のなかでの家康の実力急落時の大坂の陣である。江戸一極統制貿易派の切り崩しに負けかけていた時点だから、駿府南蛮貿易推進派弱体化が進行していた背景に家康自身が積極的に秀頼を救う力に欠けていたのである。

 秀忠を討てないのは秀忠のあとの家光が幼弱段階で、また、忠輝擁立は忠輝家臣がスキャンダル続きで幕閣の支持が得難く、西国諸侯は関ヶ原敗戦諸侯も多く、幕閣に嫌がられないように、また江戸駿府の対立を東国諸侯ほど知っていたわけでもないので、必ずしも家康方につくとは限らず、日和見あるいは老い先短い家康を見限る可能性も高かった。そもそも江戸幕府は忠輝家臣のアラ探しするほど、忠輝が好かない。藤堂は江戸幕府支持、老いた家康より若い秀忠を取る。柳生宗矩も関ヶ原時点にポスト家康を見越した。江戸柳生というのは、聞いたことはありますが駿府柳生というのは聞いたことがありません。家康が江戸柳生に対抗して尾張柳生を柳生利巌に作らせた話を読んでいます。これに反論されるなら、駿府柳生がなければなりませんがそれはありませんでした。よって柳生は江戸幕府の密偵です。
39名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 03:04
豊臣が素直に頭を下げてれば徳川も命までは
取らなかったと思うよ。一応は主筋だったんだし。
下手すると外様連中が対徳川で一致団結しかねないし。
もちろん大阪城を出るのは絶対条件だが。
いくら秀吉の子だとはいえ反抗する力が無いのが誰の目にも
明らかなら却って潰しにくいでしょ。

>34
多分このMって人は歴史漫画や小説を読みすぎたんでしょうきっと。

40:2000/10/29(日) 03:06
 大坂夏の陣における幕府軍=諸大名連合軍は、功名上げも保身もしたいも集団でとれる首だけ取って荒そうな浪人の首は疲れさせて取ろうという者の集まりでしたから、真田幸村に苦戦を強いられたのは事実です。それに何もしようとはしていませんでした。自分の敗北に半ばあきらめかけていたのでしょう。人一倍あきらめが早い秀頼が城内抵抗に殉じる態度を、大坂退去を勧めた冬の陣後に、示しましたから、なおさらそうなのです。
41:2000/10/29(日) 03:11
 38訂正
 大坂城キリシタン浪士入城に反対する諸侯は幕府に謀反するものとみなされ、
 以上を以下に
 大坂城キリシタン浪士入城に賛成する諸侯は幕府に謀反するものとみなされ、

 失礼しました。
42日本@名無史さん:2000/10/29(日) 10:50
21は「ボツにされて身の程を知れ」
って言いたいのだろうな多分
43憂国の士ジーモン:2000/10/29(日) 14:13
家康の子ではないが(笑、
秀頼は秀吉の実子ではない。
何故なら、秀吉は種無しだったから。
早世した長男もおそらく”間男”の子。
44日本@名無史さん:2000/10/29(日) 15:25
秀吉が織田家を潰してしまわなかったように、豊臣家が幕藩体制に組み
込まれることを承認すれば家康も潰そうとはしなかったのではないかな?
もし何が何でも潰そうと関ヶ原の時点で考えていたのなら、当時の寿命
からすれば、家康は自分がそれから15年後に生きていられるれるという
確証などなかったろうから、もっとことを急いだ筈。
45飛蝗:2000/10/29(日) 15:39
ここで、考えられるのが、Mさんの云っている事。
駿府の考え方と江戸の考え方。
これは家康と秀忠の考え方の違いとは云えない。
駿府っとしては家康の意向に沿って、減封・移転とかの処置を考え
やのだろうけど、江戸の考え方としては、家康亡き後に雲行きが
怪しくなる芽は早めに潰しておけ!!という考え方があったのでは
ないだろうか?
また、その考え方は、岡崎以来とか浜松以来と呼ばれる松平家命の
集団にとっては、そういう考え方を支持する方が多かったのでは?
46:2000/10/29(日) 16:23
 駿府はキリシタン寛大派。伊達政宗はそれにすがりついて貿易利権を獲得しようとした。松平忠輝もその系列。
 江戸はキリシタン厳格派。この派が豊臣滅亡後に、権力を拡大したのはキリシタン弾圧激化からでも明らかです。秀忠にとっての家康の生存価値はただ一つ。大坂城攻略だけです。秀忠正純らが家康の仕立てた冬の陣講和をぶちこわした時点で、大坂城の命運も家康の生存価値も消えた。だから家康防備に兵を割かず、あわや真田勢にやられるかという瀬戸際までいかされた。家康自身にとっても、江戸幕府にとっても夏の陣は江戸幕府覇権がみえていた戦いだったのです。真田が家康の首をとろうがとるまいが、秀忠の権勢はびくともしません。秀忠は大坂の陣にかこつけ、じゃまな家康と秀頼両者を刺し違わせようとしたのは事実です。
47飛蝗:2000/10/29(日) 16:49
そりゃ、ちょっと行き過ぎですわ。(笑
48日本@名無史さん:2000/10/29(日) 19:52
秀頼が服従する事はおそらく無いだろうから無理。
なぜなら、人はしがらみから逃れられないのだし、
高位になればなるほどそれは強くなる。
秀頼の事は秀頼自身ではなく、豊臣家の家臣たちが決める事。
彼自身が何を言おうと、「豊臣家当主として誇りを示せ」と
押し切られるはず。
そんな中に豊臣家への忠義、と言う口実で単に暴れに来た浪人達
も混ざっては降服なんて無理。
秀頼は忠義を騙る「マスターベーション軍人」真田幸村、後藤又兵衛らの
哀れな犠牲者。
49:2000/10/29(日) 20:28
 いずれにしろ、大坂の陣は、江戸幕府にとって浪人、キリシタン武士討伐の一環で秀頼はその巨魁にされたというわけです。幕府軍と対決したい、浪人、キリシタン武士、淀君と大坂城がじゃまな江戸幕府によってその幕府への謀反の巨魁に秀頼がされました。秀頼にとって否も応もなく大坂城と心中を決意したというわけです。父親が築いた城を手放すのは、父親に申し訳が立たないしかし負け戦とわかっているいくさの采配をふるうのはばかばかしいという心理の葛藤の結果が大坂城との心中の秀頼大坂城内自刃です。
50名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 20:50
Mが大阪の役をキリシタンと関連づけようとするのはお笑いであるが、それはさておき、
スペイン・ポルトガルは、宗教を使って、精神面でも植民地にしようと図っていたことは、
秀吉にも気付かれていて、警戒されてキリシタン禁令が出され、厳しく取り締まられた。
キリスト教を伝道しないことを条件に、オランダ商館を長崎に置いた。これで良かったと見るべき。
51:2000/10/29(日) 20:57
 >50
 「大坂の役をキリシタンと関連づけようとするのはお笑いである」
 大坂の陣に大坂方に参戦した浪人の多くがキリシタンであった事実をどうみるの?
52飛蝗:2000/10/29(日) 21:18
悪いが、M氏論は当時の日本においては、覇権を巡っては非常に重要な
位置づけである事が解る。
それが噴出して決着を見たのが、島原の乱だと思う。

とりあえず、非常に焦点がずれてきているので、秀頼が服従したら。。。
の仮想を立てなければならないのですが。。。

秀頼が服従をするというのであれば、とりあえず淀殿の性格が非常に
温厚かつ政治的でなければなし得ない事である(笑
これをクリアしないと服従があり得ない訳なんですけど、もし服従を
したとしたら、とりあえず大阪城(摂津)から大和あたりに大幅な
移転・減封ってところで如何ですか?
あと、加藤・福島・浅野家と時期を同じくして更に減封、ってところで
如何でしょう?
53美輪(丸山)明宏:2000/10/29(日) 21:24
そ〜よ、私は天草四郎(益田四郎)の生まれ変り♪
そして、天草四郎の父親は秀頼の息子。
54名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 22:04
>家康が江戸柳生に対抗して尾張柳生を柳生利巌に作らせた話を読んでいます。
出典は?
>これに反論されるなら、駿府柳生がなければなりませんがそれはありませんでした。
>よって柳生は江戸幕府の密偵です。
逆に駿府柳生が在ったならば江戸柳生が幕府側の密偵であるという証拠になると思うんだけど。
あと、「柳生宗矩も関ヶ原時点にポスト家康を見越した」というけど関ケ原当時家康の傍にいて
彼から2000石を与えられたという事実はどう解釈するの?

>秀忠を討てないのは秀忠のあとの家光が幼弱段階で、また、
>忠輝擁立は忠輝家臣がスキャンダル続きで幕閣の支持が得難く、
>西国諸侯は関ヶ原敗戦諸侯も多く、幕閣に嫌がられないように、
>また江戸駿府の対立を東国諸侯ほど知っていたわけでもないので、
>必ずしも家康方につくとは限らず、日和見あるいは老い先短い家康を
>見限る可能性も高かった。そもそも江戸幕府は忠輝家臣のアラ探しするほど、
>忠輝が好かない。
そうは言っても君の説では秀忠は家康の最大の「敵」であるのだからどうしても
討たない事には話にならないでしょう。あらかじめ通謀しておいて大坂の陣にて
家康麾下の軍勢、政宗軍、忠輝軍と大坂方で秀忠軍を壊滅するしかないと思う。
「幕閣の支持」というけど所詮幕府は家康の敵なんだから支持など得られるわけがない。
秀忠を討った後に粛清すればよい。そうすれば西国諸侯も問題ない。
(内紛に付け込まれる虞はあるが、それくらいのリスクは仕方がない)
55名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 22:08
不満分子が、外来勢力と結託するのは、古今東西良くある話で、
キリシタン浪人は、その視点で見る必要があるでしょう。
それを考えると、島原の乱で、キリシタン浪人を壊滅させたのは、
植民地化される危機を脱し、その後の日本の発展に大きかったと思う。

余談になるが、有史以来の日本のバランス感覚を失い、戦時体制での国粋主義の破綻の反動が大きく、
戦後の不満分子は、サヨク思想を有する外国勢力と結託して、害悪を流してきたが、
最近は排除の気運が高まっており、島原の乱のように壊滅されるか注目しよう。
56:2000/10/29(日) 22:49
 >54
 秀忠が死ねば、家光と忠長と忠輝の天下を三分する争いになって決着が付かないということになる。忠輝は才子ではあるが、一人では天下は治まらない。秀忠は政敵だがかといって、お家騒動に天下を割る泥沼の戦争にはできない、だから大坂の冬の陣には秀忠の意向の妨害というべき鉄盾防戦と淀君への大砲砲弾に和平を強要する作戦に徹した。幕府の意向に添った大坂攻略は行わないでただただ「今回のいくさは、ゆるりとやる。焦りは禁物、強いて攻めれば死傷者は増える。」と称した焦らし戦法を大坂冬の陣に鉄盾防戦と淀君砲弾脅迫に表現した。この戦法は逼迫する諸大名に共感をよび、秀忠の大坂城強攻は失敗した。

 柳生宗矩は関ヶ原参戦が西軍首脳の石田三成や島勝猛と親しい父親石舟斎に反対されて秀忠同様遅参を余儀なくされ、同じ関ヶ原遅参組が手を組んだという解釈もできる。
57:2000/10/29(日) 23:05
 柳生で思い出したが、尾張柳生の祖柳生利巌は祖父石舟斎同様、島勝猛と親しかったばかりかその娘が柳生利巌の側室にあるとある本に読んだ。伯父柳生宗矩と違って反江戸寄りなのだろう。
58日本@名無史さん:2000/10/30(月) 03:56
┌────────────────────────┐
│    ( ̄ ̄)                                |
│     )  (     電 波 ス レ 認 定 証          |
│   /    \                               |
│    | Λ Λ |/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ .  認定番号 第105号   |
│    | ( ゚Д゚)< 電波クサッ! |                 |
│   \__/.\_____/                    |
│                                    |
│   このスレが2ch電波レス審査委員会の定める認定   |
│  基準(第6項)を満たしていることをここに証する。    |
│                                    |
│平成12年10月       2ch 電波スレ審査委員会      |
│                   理 事 長  ひろゆ子@管直人    |
│                  認定委員 名無しさん        |
└────────────────────────┘
 ■ 電波スレ認定を受けたスレッドではsageで発言及び放置、あるいは
   該当者に病院逝きをすすめてください。  、、、ひろゆ子@管直人より
59名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 04:11
>秀忠が死ねば、家光と忠長と忠輝の天下を三分する争いになって決着が付かないということになる。
>忠輝は才子ではあるが、一人では天下は治まらない。秀忠は政敵だがかといって、
>お家騒動に天下を割る泥沼の戦争にはできない
秀忠を討ち、本多父子(笑)、江戸幕閣を粛清したならばそれほどの問題は無いんじゃないの?
徳川家内部においては駿府に逆らい得る勢力は無く、また逆徒秀忠の子家光ら
を世子となす必要性もない。忠輝(彼が不適格ならば義直でも可)を据えたとしても
さほどの内紛は起こらないと思う。
徳川家そのものの勢力は関ケ原勝利後のそれよりも縮小するかもしれないが、家康=豊臣連合があれば
たとえ外様が家光なり忠長なりを担ぎ出したとしても家康の天下統一は十分に可能。
少なくとも、大坂の陣で家康麾下が消極的態度を取ったとしても遅かれ早かれ
大坂城が落ちるのは確実であったのだからそれよりマシなのは明白。
60:2000/10/31(火) 12:54
 >59
 大坂の陣は江戸幕府にとって、財政的には、諸大名と豊臣の相討ちみたいなものなほど、諸大名は逼迫していた。諸大名はいままで徳川氏の諸城の改築工事などにも動員されて財政が逼迫状態であった。江戸幕府はそこまで考えて大坂の陣に諸大名を酷使動員している。家康の勢力も大久保長安の処分に急落している。伊達政宗も大久保長安処分事件や松平忠輝家臣醜聞事件や江戸幕府のキリシタン厳格処分方針に勢力が急落、伊達家存続のためなら、徳川のお家騒動にかかわる義理はなかった。当時江戸幕府に逆らえるほどの勢力は大坂における浪人の結集以外どこにもなかった。
 徳川宗家が消えたら庶子の将軍家争いになる。また、忠輝に将軍家になる気はなく、家康の庶子のお家騒動(福井、名古屋両藩など)に徳川家は消耗、人望もなくし、それでなお関ヶ原勝利時より小さかったら、覇権維持は困難である。
61飛蝗:2000/10/31(火) 15:14
あのぉ、完全に論争がずれているんですが?

家康と秀忠の確執、本田家・大久保家の確執は、とりあえず長く続いた
戦乱の世に幕を閉じるという大テーマの上では、大事の前の小事であり、
尚且つこの二人が反目しあう事で喜ぶのは誰であろうか?
淀殿と極少数の人間だけではなかったのではないか?
この時点で家康・秀忠が己の意固地で政治を執り行ったら、恐らく分裂、
それこそ、決め手となる手が無く、応仁の乱の再来となる事は誰しもが
想像でき、こればかりは絶対に避けなければならない大事である認識は
皆一緒だったのではないだろうか?
この時点で、大大名もしくは一世を風靡できる英雄は既に無く、力が均衡
している(豊臣・徳川がそうした)。

これを大前提とした場合に、例え家康といえども淀殿が折れない限りは
豊臣を完膚亡きまで叩き潰す以外に無いと、腹をくくっていたのではない
だろうか?
それが生かすか否かは、全く別として。
62ゲームセンター名無し:2000/10/31(火) 17:39
 なかなか面白いスレッドじゃのう ホホホ
それはともかくM氏は46にて
>秀忠にとっての家康の生存価値はただ一つ。大坂城攻略だけです。
>江戸幕府にとっても夏の陣は江戸幕府覇権がみえていた戦いだったのです。
>真田が家康の首をとろうがとるまいが、秀忠の権勢はびくともしません。
>秀忠は大坂の陣にかこつけ、じゃまな家康と秀頼両者を刺し違わせようとしたのは事実です。
と言っているが、まあ、文章で見たら一理はあるように見えるけど、ちと考えが
甘いのでは無いかな。確かに冬の陣はともかく夏の陣の段階でも総大将である家康が
敵軍に討たれたら徳川軍は総崩れになるよ。秀忠は家康を用済みだと思っていても
一部の大名以外は現実にはいまだ家康を総大将と見ているだろうし、とりあえず
M氏は合戦における総大将の価値を低く見過ぎです。日本史だけでも総大将が討たれた
ことによって大軍が破れた例はいくらでもありますよ。(桶狭間や厳島)
ましてや夏の陣では徳川方と言ってもしかたなく着いている連中も多いですから。
少なくとも合戦中に家康が討たれたら、上杉景勝、毛利輝元、島津義弘、福島正則
等はどう動くか分かりませんあ 伊達氏、浅野氏、森氏、佐竹氏あたりも怪しいし
 長々と脱線してすみませんでした。で、本題ですが豊臣氏が臣従していたらか...
結局は豊臣氏の政治力ですなあ....ハハ まあ、一番生き残りやすいのは公家に
成ることですか、大名としては.... 最低条件は大坂城を出ることと、人質(淀君がbest)
を出すことですか、そこまでしても良くて五分五分かなあ。
63日本@名無史さん:2000/10/31(火) 17:46
>57
側室でなくて正室ではなかったかな?
64:2000/10/31(火) 18:04
 >62
 ここで諸大名が徳川を討っても個々の諸大名がそのあとにくる混乱を収拾する地力が逼迫していた。諸大名が徳川の天下を認めたのはそれに起因している。もはや諸大名の誰もがグチャグチャの日本を好まず、自らの安泰だけがすべての諸藩が徳川を押し立てた因循の時代、これが江戸時代です。徳川なら全国を収拾する力があるそういう人望があったからこそ、二代将軍治世でも不服ながらも諸大名は従ったわけです。
 徳川方の形式的総大将は秀忠です。家康はその顧問にすぎません。また、諸大名動員は家康の役割でしたが、家康は大坂の陣前に相当勢力実力をキリシタン疑惑に落としていますから、征夷大将軍秀忠を総大将にせざるをえません。
 また家康が総大将なら夏の陣の際、もう少しで真田に討たれるかのような不手際な防備はしかれないでしょう。ご指摘の通り、総大将は要なのですから、そこの防備は堅いにもかかわらず、真田相手に撃退するのではなく、伊達・水野の援軍を待ってそこから逃げざるをえなかった家康らしからぬいくさぶり、これは総大将らしくありません。徳川の顧問格なら防備の手薄も理解しえます。
65:2000/10/31(火) 18:17
 >61
 淀君は江戸駿府の争闘を知らない。秀頼は知っている。駿府派の実力がキリシタン疑惑に落ちているのも知っている。だから大坂城を捨てる以外に生き残る道もないのも知っていた。ただそれを知っているだけで、やろうとはしない。父親が築いた城を放棄することは父親に申し訳が立たないし、放棄するくらいなら大坂城と心中する覚悟は大坂の陣前から決めていた。だから浪人勢力のやりたい放題に任せ、で、家康からの和議の催促には、大坂城を放棄しない条件ならのみ、大坂退去の条件があれば、これに抗拒し大坂城と心中する気だった。
秀頼自身に大坂を放棄してまで徳川に屈したり生き残るつもりがなかったことは、軍門投降をしないで千姫返却に家康への返礼を表現したのに、現れている。
66ゲームセンター名無し :2000/10/31(火) 18:18
 ふう 予想どおりの反応ナリ
さてこれに対してどうしようかなあ 反論すると
スレッドの本流からはどんどんはずれていくし...

 とりあえず一言、
真田幸村は総大将を間違えるほどの愚将だったのでしょうか?
67:2000/10/31(火) 18:35
 真田幸村はいくさ下手で雑魚の秀忠と差し違えても「冥土のみやげ」にならなく面白くない。かつての、「海道一の弓取り」の首が「冥土のみやげ」になると思った。それだけ。
68飛蝗:2000/10/31(火) 18:54
Mさん。
仰る事はよく判るのだが。。。

家康の護衛が薄いというところを非常に理由にされているが、僕の記憶
でいくと、本田忠勝の次男だ忠直だという三河勢で固めていなかった
でしたっけ?
それをことごとく打ち破った真田のにわか集団が、如何に凄まじかったか?
というところになるのでは?

姉川で織田勢が、片っ端から朝倉・浅井勢に打ち破られた事、関ヶ原で
島津勢が的中突破を果たした事などを考えると、単に家康護衛がやる気
がありませんでした。。。っていう理由だったら、真面目に家康は死んで
いておかしくないと思います。

っていうか、どうしてM氏と反M氏の話の焦点がずれたままの様な気がする。
M氏のいうところは、大阪の陣に関する重要な側面である事には間違い無い
のだが、それが最終的に秀忠およびその近習の陰謀説に繋がる点でけは
少々行き過ぎるのでは?というのが僕の意見なのだが。。。
69:2000/10/31(火) 19:11
 三河軍団といっても関ヶ原以来15年の年月は勇猛性をゆるめ、決死の真田兵にひとたまりもなかったのでは。この先長くない家康自身に身を厳重に固める意識がなかったのでは?家康も秀忠も真田の冬の陣における活躍ぶりは承知している。決死の真田が狙うのは、かつての「海道一の弓取り」の首であることくらい、夏の陣にわかっているはず。それでもなお、厳重にしなかったということは、放っておいても江戸幕府の治世はゆるがないという徳川の気のゆるみも、決死の真田にやられかけた要因でもあるでしょう。これは徳川方、大坂方そろっての共通の見方です。双方が一方の勝ちを前提に戦うそのようないくさも史上はじめてでありかつ最後のものが、大坂夏の陣なのです。
70ゲームセンター名無し:2000/10/31(火) 19:23
 M氏さん.... 雑魚の秀忠って、秀忠が総大将で家康は
その顧問にすぎないっていったのはあんただよ。
第一 あなたの論法の冥土のみやげとしては現役の征夷大将軍の
首の方がかつての「海道一の弓取り」の首よりはるかに意味が
あるように思えるのだが....
 もっとも私としては大坂方から見た総大将はあくまでも家康で
真田の突撃は関東方の総大将を討つことで勝利を得ようという、
あの状況で取りうる唯一の勝算のある作戦だと思うのだが。
71:2000/10/31(火) 19:43
 大坂方は勝つために戦っているのではなく、大坂城と心中する決心を固めている城主とともに、死に花を咲かせるために戦っている。冬の陣における秀忠のぶざまな采配ぶりからいって首としての「冥土のみやげ」としてはつまらない。形式的総大将秀忠は決死の真田の眼中になく、「海道一の弓取り」との刺し違いは歴史に名を残すと判断して家康の首を狙った。どうせ勝てないいくさに身一つを秀忠攻撃のためではなく、家康攻撃のために挺することは真田の美学でしょう。家康を討ててもあとは将軍家の大軍勢にやられて終わりというくらい、真田幸村もよめていたのでは?
少々、視点がずれて来ているのでは?
だいたい飛蝗様のご意見であっていると思うのだが、
あの時点では勝算云々よりも戦術云々よりも私怨をはたすためというのが重要だったのではと思うがiその私怨、
家康にとっては豊臣方のいいがかり見たいなものだったと思うが)。
それに、あの次点で2代目でありとくに戦功もない秀忠を倒すよりも、幕府体制を戦国時代から力でのしあがって
作った家康を倒すほうが名誉あることじゃないかな。

73飛蝗:2000/10/31(火) 20:13
>4:72] もし秀頼が服従したら・・・ ■▲▼
>1 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2000/10/27(金) 20:47
>家康は豊臣家を滅ぼさずに残したでしょうか?

テーマはこれだから、ここで家康と秀忠ひいては江戸と駿府の争いに
ついて、Mさんと言い争っても、イマイチ不毛なのよね。
っていうか、どこでずれたのか?
家康が本気だったか否かの理由付けについて語りだしてから、微妙に
ズレはじめたのよね。(笑

再び、僕の結論に戻すと。。。
家康は潰さなかったでしょう。
豊臣恩顧の猛者が未だ残る時代では、不可能ではないでしょうか?
但し、減封・移転の後、秀忠の時代もしくは家光の時代に、とどめを
さされて、御家取り潰しとか。。。
74飛蝗:2000/10/31(火) 20:15
っていうか、この論争を、魚の骨的な枝葉付けもしくはYES・NO方式で
問い詰めていくと、結構、皆さん同じ結論に達する様な気がする。(笑
75:2000/10/31(火) 20:28
 秀頼に服従の意志は徳川の大坂城保証ならありえたし徳川が大坂城保証しないならなかった。秀頼は大坂城に固執し、大坂城だけは放さない。相手は執拗な将軍家である。どのみち大御所の死後謀反をでっちあげられてつぶされる。冬の陣後は大坂城は風前の灯だった。
 だから冬の陣講和とその大坂方に不利な変質によって城の防備が解体されると、防備は戦意ある浪人衆だけ。だから徳川の大坂退去要求も浪人衆解散要求ものまなかった。
76名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 21:58
>徳川家そのものの勢力は関ケ原勝利後のそれよりも縮小するかもしれないが、
の「関ケ原勝利後」は論功行賞による領地再配分完了時の意味。
より正確には「大坂の陣直前」と書くべきだった。失礼。
>60
秀忠討滅後も徳川家の勢力は256万石時代よりは強力でしょう。覇権維持は十分可能と思う。
M氏の説によると家康は大坂の陣直前は江戸秀忠派に対して劣勢という事だったが、
秀忠の死を境に家康の徳川家内部における権力は圧倒的なものとなるのは事実でしょう。
家康と駿府派譜代で適格者を後継に選べばよい。他の庶子に不満があっても
家康に逆らう事は難しい。また疲弊した他の諸侯が付け入る事も困難であるといえる。
これにて南蛮貿易推進派(家康=秀頼ライン)の勝利、となるんじゃないの?
座して死を待ち一極統制管理派の勝利を招くよりもよいことは家康にも判る。

個人的には飛蝗氏の、
>家康と秀忠の確執、本田家・大久保家の確執は、とりあえず長く続いた
>戦乱の世に幕を閉じるという大テーマの上では、大事の前の小事であり、
>尚且つこの二人が反目しあう事で喜ぶのは誰であろうか?
>淀殿と極少数の人間だけではなかったのではないか?
に賛成。今までのレスは「家康と秀忠が完全に敵対している」という
M氏の仮定のもとでの話です。
77ゲームセンター名無し:2000/10/31(火) 22:17
 まあ、確かにちと脱線してしまった。反省せねば
 本題の豊臣氏の生存方法だが....なかなか面白いなこれは...
たしかに大坂の陣の直前にまで来てしまえば生き残るのは難しいだろう。
しかし、これが二条城での会見の直後ならどうだろうか。その時点では
未だ加藤清正を初めとした豊臣恩顧の大名も多く残っており、会見に
合わせて一気に徳川への臣従を誓っていれば、少なくとも家康の代では
豊臣に手をだせなかっただろうし、豊臣家が残ったまま(たとえ大阪城を
手放していても)秀忠の代になれば徳川の天下は揺るがないにしても
どう転ぶかは正直分かりませんな。
78名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 22:24
>家康は潰さなかったでしょう。
>豊臣恩顧の猛者が未だ残る時代では、不可能ではないでしょうか?
>但し、減封・移転の後、秀忠の時代もしくは家光の時代に、とどめを
>さされて、御家取り潰しとか。。。
豊臣改易を断行したとしても果たして豊臣恩顧の諸侯が団結して
決戦の覚悟で家康に反対したでしょうか?不可能とは言えないと思います。
でもリスクを考慮すると家康の段階では減封移転にとどめておく方が
ベターでしょうね。
79名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 22:32
>飛蝗さん
>テーマはこれだから、ここで家康と秀忠ひいては江戸と駿府の争いに
>ついて、Mさんと言い争っても、イマイチ不毛なのよね。
>っていうか、どこでずれたのか?
Mさんの6での
>豊臣滅亡のいくさを強いられた家康は、禁中並公家諸法度の署名を強いられ、
>二年後、病死を称して殺され、
に反応してずれてしまいました。(笑
すみません。
80ゲームセンター名無し:2000/10/31(火) 22:33
 いえいえ、いかに徳川幕府が強大でも大名の取りつぶしには
何らかの理由が必要でしたよ。跡継ぎがいないとか。
少なくとも二条城での会見時に臣従を表明されたら取りつぶす
理由は無くなります。嫌がらせの転封ぐらいは出来るでしょうが、
それでも表向きには増封でしょう。はっきり言って旧主筋を完全に
取りつぶすのは大変なことです。
81名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 22:36
78の「不可能とは言えない」のは改易の事です。
あと清正の存在は小さくないでしょうね。
82名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 22:42
二条城会見の時点で臣従したならば改易できなかったと僕も思います。
78のレスでは大坂の陣直前を想定していました。
(よそ見しながらレスが76までしかない窓に書きこんでいたいました)
83名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 22:46
いたいました→しまいました
84:2000/10/31(火) 23:04
 >76
 江戸と駿府の戦いは、江戸有利に家康と秀忠の刺し違いになる。徳川宗家が消えれば、というのはこれを想定していた。
 伊達政宗は大久保長安の処分事件でもはや貿易利権はこれまでと悟って江戸に降る。伊達すら見切ったのだから、家康も江戸優位を見切りながらも、大坂冬の陣の家康の執拗な脅迫的な和平作戦はイタチの最後っ屁となる。

 >80,82
 というか、加藤清正が自分の城は太閤殿下の意志を継いだものだといって秀頼をなだめむかえて、熊本に秀頼を迎えれば、秀頼は助かったかもしれない。しかし加藤家も徳川の築城普請に動員され財政も逼迫した。そんななかで秀頼を迎える余裕があるのかどうかは不明。
 
85ゲームセンター名無し:2000/10/31(火) 23:19
 お、おいM氏ィ 君は80,82をどう解釈したんだ??
86:2000/10/31(火) 23:36
 二条城会見は徳川豊臣が名目主従実質対等だとした、家康の演出だ。豊臣があの時点で大坂城を提供すれば助かったかもしれない。その大坂放棄のあとで加藤清正を頼れば助かったかもしれないし、加藤家にその余力がなければ、他の諸大名同様、普請に動員されるかもしれない。それがいやなら秀頼は織田有楽斎みたいになるほかはない。
87名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 23:52
>84
なんかもう無茶苦茶だな。
何でいきなり熊本城が出てくるんだ?
あんた現代人の感覚で当時の状況を考えてるだろ。
なんか変にずれてると思ったら。
8812:2000/11/01(水) 00:05
>1
こんなとこでウダウダ書いてないで、さっさと小説にでもして学研に応募しろよ。
このスレ、1のマスターベーションになってるじゃん。
89名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 15:56
>84
秀忠は江戸派の中心人物じゃなかったの?彼が死ぬと江戸派は一気に劣勢になると思うんだけど。
江戸派の幕閣は自分たちの改易後果たしてどれほどの抵抗が出来るだろうかね?
90日本@名無史さん:2000/11/01(水) 16:48
>>87
今頃気付いたの?
同じことバッカお題目のように繰返し断言する
有名人だよ
91:2000/11/01(水) 20:24
 78や89は秀忠のみがやられるという前提。こっちは大久保長安処分時・大坂の陣時に家康秀忠の相討ち刺し違いまたは秀忠優勢が前提。もはや前提が異なれば議論などは意味がない。
 将軍家を殺した側やその家族には将軍の地位が転がり込まないのは朝廷の原則。だから駿府側は秀忠を殺せない。だから殺し藍ではなく、相手の家臣の醜聞攻め以外に抗争手段がない。
92:2000/11/01(水) 20:26
 訂正
 殺し藍→殺し合い
93ゲームセンター名無し:2000/11/01(水) 21:40
>91
 おひおひ 「もはや前提が異なれば議論などは意味がない。」って
掲示板で言う言葉か.... 議論する気が無いなら初めから意見を出すなよ...
 あと、89はともかく78は全然関係ないぞ。
さらに朝廷の原則?? そんな原則聞いたこと無いし、その原則がある
とすれば足利14代将軍義栄はいったいなんなのでしょうか??
彼は朝廷に認められた征夷大将軍じゃなかったのですか。
94:2000/11/01(水) 22:19
 足利義栄本人は将軍家殺しを要請した側でも将軍家を殺した側でもその将軍家を殺した側の家族でもなく、殺した側に擁立された人間です。
 「将軍家を殺した側やその家族に将軍の地位は転がり込まない」のは事実でしょう。松永久秀も三好3人衆
には将軍の地位は転がり込まなかったでしょう?
 将軍を殺した側の将軍擁立なら鎌倉執権北条氏以来いくらでもあるでしょう。
 だけど、徳川氏が内紛に身内の将軍家を殺したら、徳川氏そのものに内紛を抑える能力なしということで将軍宣下も朝廷は拒否する可能性もあります。
95名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 23:57
しかしよくもまあこんなに無茶苦茶な歴史考察を思いつくもんだ。
いくら匿名掲示板とはいえここまで堂々と穴だらけの意見を言う勇気は俺には無い。
もっともネット以外だったら誰も目もくれんだろうが。
しかし・・・暇な人だね。
96日本@名無史さん:2000/11/02(木) 21:17
Mさん、第一企画出版あたりから本を出したらどうかな?
小石泉や武田了円の後継者になれる。
9714,89その他いろいろ:2000/11/02(木) 22:40
>94
>将軍家を殺した側やその家族に将軍の地位は転がり込まない
そのような原則があるのか、結果的にそうなっただけなのかは知らないが、
とりあえずその内規があると仮定して、家康の作戦の選択肢として
以下のものを考える事が出来る。

1 摂家などに働きかけて秀忠追討の勅命を出させる。
豊臣勢、政宗勢と協力すれば、家康は自身は討たれることなく
「いくさ下手で雑魚の秀忠」を討ち取る事が出来るだろう。
2 あらかじめ、例えば本多忠朝あたりに家康勢の一部(精兵)の指揮を取らせておく。
この部隊と豊臣勢らとで秀忠軍を挟撃。家康は中立を装う。
この場合も秀忠が討ち取られる可能性は十分にある。
3 秀忠を討ち取った後、後継者はとりあえず上級公卿の官職と追捕使くらいで満足しておく。
それでも疲弊した諸大名は約400万石を領する後継者を事実上の天下人と認めるであろう。
9814,89その他いろいろ:2000/11/02(木) 22:49
「3」の場合、出来れば鎮守府将軍。
99:2000/11/02(木) 23:33
 >97
 江戸派は一極管理貿易派であると同時に譜代派、駿府派は南蛮貿易推進派であると同時に人材派でもある。朝廷工作による勅命引き出しは譜代派の得意とするところであり、かつ人材派の嫌いなところである。かつて駿府派が何かの討伐勅命など出したことはなく、家中の争いに朝廷を引きずり出すのを忌み嫌っていた。聖なる朝廷を俗的な争いに引きずり出すのを恐れ多いと嫌っていた側が駿府派である。そうするくらいなら負けを選ぶ潔癖派でもある。逆に家康、秀忠の将軍就任を画策してきたのは江戸派譜代派の面々である。譜代派と人材派の争いは数で譜代派の方が圧倒的優位(本多忠朝は江戸譜代派につく)、人材派は経済力でのみ優位を誇ってきたわけで、その優位が大久保長安処分事件で駿府人材派は勢力が急落している。三河軍団も譜代派につく。三河軍団は、旗本出身なのだから、当然である。因循で保身を事とする諸大名は伊達政宗(あわよくば貿易利権を獲得しようとしたが大勢が江戸譜代派になれば信念より伊達家保全に走る経歴がある)も含めて、三河軍団がついた江戸派につく可能性が高い。経済力が大久保長安処分事件に削がれるのであるから、朝廷諸大名買収もうまくいかなくなる。
 家康を頭目とする駿府派の劣勢は免れない。
100飛蝗:2000/11/03(金) 04:36
とりあえず、折角だから3桁突入しますか。(笑
Mさんが全く秀頼が服従した場合の話しに戻る気が無さそうなので、折角だから、
江戸幕府初期における政権争いについて続けますか。
っていう程、詳しくないんだけどね〜。(笑

とりあえず、ここまで来ると駿府と江戸の溝がものすごく深く、ハッキリ言って
一発触発と云いかねないレベルと感じ取れます。
私はそこまでのレベルには達していないと思う。
とりあえず、三河集団の根本に流れる思想(大層な云いっぷりだが)を思い起こして
みると。。。
松平竹千代が今川の人質であった頃からの三河集団の思想は無くなったのであろうか?
竹千代君が丈夫でおわす限りは、例え火の中水の中を厭わず!!という思想がそうも
簡単になくなってしまうものだろうか?
数十年にわたって守ってきたものが、いとも簡単に「殺るか!?」という思想になる
だろうか?
家康を亡き者にするという考えは徳川政権にあっては「思いよぎる事すら許されない」
事だと思いますが?
101:2000/11/03(金) 10:28
 家康を亡き者にするのは、大坂城を攻略した後の話。総大将と三河軍団どちらが欠けてもいくさにならない。秀忠は関ヶ原遅参にわかるとおり総大将の器ではないし、家康は総大将の器ではあるが、関ヶ原に勝利して江戸を秀忠に任せた後は人材登用を自らの財産増殖に重視するようになって何のために三河軍団が働いたのかわからなくなるから、人材重視では三河軍団は家康にはつかない。従って江戸駿府の抗争はいくさにできずに家臣醜聞暴露闘争の形態に終始する。
 家康より前の松平氏は権力闘争が多く、領主が家臣に殺られるパターンが繰り返された。それが再燃してもおかしくないし、家臣にとって領主が都合が悪ければ領主制の維持を前提に病死として消えてもらうのは領主制の論理としては当然である。
102:2000/11/03(金) 12:14
 秀頼が服従するのは大坂城主であり続けられる条件下のみ。大坂退去を余儀なくされるのであれば、それに抗拒して大坂城と心中する。
 しかし徳川氏にとって大坂城と秀頼の組み合わせは一極支配に都合が悪く二極体制になってしまう。大久保長安処分事件以降、徳川一極派が勝って以来家康二極構想も崩れ、秀頼も大坂居座りができるような情勢にないことは理解していた。淀君が亡ければ、大坂はあるいは捨てた可能性もある。親藩格として一般諸大名と同じ扱いに秀頼本人は絶えうるが、母親は権力者の家族として権勢を維持したい。母親の意向そしてその側近の意向を無視できないし、もとの為政者にもどらなくても、大坂を維持できれば、豊臣家家中内部の争いも途絶える。だから秀頼にとって現状大坂城維持は前提条件だった。それを崩されるくらいなら、豊臣家は大坂城と心中するしかない。そう秀頼が豊臣家中の現状を把握して豊臣家が屈辱を受けない範囲内にのみ、生き残り、それ以外は外見上の一体性の面目を維持したまま自滅を選ぶのが秀頼の豊臣家当主としての方針だった。
103日本@名無史さん:2000/11/03(金) 12:17
家康をはじめ駿府のひとびとが『南蛮貿易』を『推進』する政策を掲げていた
としても、各地の大名それぞれに貿易をさせるなんて考えにくい。
推進するにしてもしないにしても徳川氏の幕府が貿易を『一極管理』
する路線に変わりはないという理解が妥当だと思うのですけれども。
一極管理貿易という貿易政策の『手法』と、南蛮貿易を推進するか否か
という貿易政策の『内容』とが対立軸を形成するとは思えないのですが。
すいません、揚げ足取りかもしれないですけど、素朴な疑問を持って
議論を見守ってます。
104:2000/11/03(金) 15:47
 >103
 辺境領有の大名は徳川氏に長崎一極管理時代以降も非キリシタン系交易相手との細々貿易特権をもらって貿易をしています。松前氏はアイヌ人との交易、宗氏は李氏朝鮮との交易、島津氏は尚氏琉球の仲介貿易の利益吸収などです。伊達政宗は西欧諸国との交易をしたがっていましたが、大久保長安処分事件以来の駿府派衰退以降貿易深入りを止めました。慶長13年に支倉常長を西欧に派遣したほどですが。
10514,89その他いろいろ:2000/11/03(金) 17:05
>99
>本多忠朝は江戸譜代派につく
やはりそう来ましたか。
いや、別に97の「2」は忠朝である必要は無いんだけどね。
ここで質問。
忠勝の次男で武断派の忠朝と吏僚派の本多父子が譜代大名であるという理由で
同じ江戸秀忠派に属するとし、
>三河軍団も譜代派につく。三河軍団は、旗本出身なのだから、当然である。
とも判断していることから見るとあなたはほとんど全ての譜代大名、直参旗本を
江戸秀忠派と考えているわけね?

>朝廷工作による勅命引き出しは譜代派の得意とするところであり、かつ人材派の嫌いなところである。
根拠は?
>聖なる朝廷を俗的な争いに引きずり出すのを恐れ多いと嫌っていた側が駿府派である。
>そうするくらいなら負けを選ぶ潔癖派でもある。
家康、長安の人生を見る限り「負けを選ぶ」くらいなら「聖なる朝廷を俗的な争いに引きずり出す」
と思うんだけど。

もう一つ。
これまで誰も突っ込んでこなかったけど、本多父子が反家康の江戸秀忠派というのはすごいね。
『徳川将軍列伝』(北島正元編)の「将軍継嗣と二元政治」の章で本多正信が秀康を世子に推し、
また、本多父子が駿府派であることが記述されている。日本史の辞典の「本多正信」の項でも
正信は家康の信頼厚く君臣の間は水魚のごとくであったとある。(参考文献は村上直『本多正信』大名列伝6)
彼らが秀忠派であるという証拠・根拠は?
10614,89その他いろいろ:2000/11/03(金) 17:14
辞典→事典
107:2000/11/03(金) 17:36
 本多正信正純親子は譜代派で年貢収奪主要財源派、家康は人材派で貿易鉱山主要財源派で、考えが異なる上に、家康の、大坂冬の陣講和の秀頼大坂留まり和平を、正信正純親子が、講和条件の塀と柵埋めとどまり以外の堀を和平講和ごとぶちこわしている。
 正信実権下の幕府行政が家康の貿易鉱山財源稼ぎと利害衝突しない限り、駿府派は江戸幕府や譜代派の行政と争うつもりは毛頭ない。利害が衝突すれば争うのは当然だが、共通利害は「水魚のごとく」衝突はないのでしょう。
 駿府派は幕府滅亡を画策しているのではなく、自らの資産形成を邪魔されない限り、江戸幕府に楯突くつもりは毛頭なかった。これは秀頼が、自分の大坂城保持を江戸幕府が認める限り、江戸幕府に楯突くつもりは毛頭なかったのと同様である。
108豊臣 秀家:2000/11/03(金) 20:09
秀頼が大和郡山への移封を、どうみても納得する訳がない
よって大阪城と心中
家康は初めから生かすつもりはなかったと思われるが
109:2000/11/03(金) 21:02
 >108
 「初めから生かすつもりはなかった」のなら、秀忠将軍就任時に秀頼を消しているはず。また譜代派に講和と堀をつぶされた大坂冬の陣講和は秀頼大坂城保持をゆるやかな条件付きに認めている。老いた家康を見限って譜代派走狗に成り下がった金地院崇伝のでっちあげた大坂討伐に、家康の大坂の陣出陣目的やホンネはただただこれにあり、譜代派にこれをつぶされた後は、ただただ決死の豊臣家の大坂城心中の見届け人になっているだけ。
110103:2000/11/03(金) 22:37
>>104
いわゆる一極管理を大前提とするなかで、例外的にいくつかの藩に
特権として貿易が認められることもあったということですね。その
一極管理という前提に関しては、徳川内部に異論はなかったのでは?
まあ、だれにその例外を認めるかという個別的な詳細に関しては、
幕府が徐々に統治制度を確立していくにつれて、いくつかのエピソ
ードも生まれるんでしょうけれども。でもそれを、江戸と駿府との
軍事的にも一触即発的なまでの対立の原因または結果だと理解するに
は私には少し努力が必要なようです。
ともかく本筋とは関係のない質問に丁寧に答えていただき、ありがと
うございました。
111:2000/11/04(土) 00:22
 一極管理は長崎一極に管理することでもあるのです。しかし家康の生きた時代は開港地が長崎以外にもありました。清水港は南蛮貿易に栄えた港です。だから他の譜代派はどうあれ、家康自身は貿易推進に積極的だったということでは秀吉と変わりありません。ただ秀吉と違って武力に相手に貿易を強要するところまではゆきませんが平和的な貿易推進積極派でありました。したがって家康に一極管理貿易志向があったというのは史実にはありません。むしろ清水港を自由貿易港にしようとした企みもありましたが、挫折を余儀なくされました。一極管理貿易思想は将軍家秀忠以下江戸幕府譜代派の発想です。現に家康の死後はそのように動きます。家康の生きていた時代と死後の時代では貿易規模の次元が違います。
112飛蝗:2000/11/04(土) 12:41
う〜ん、私ももうレスが付けられるレベルでは無くなってるので、アレなんですが(笑
(いや、俺にとって秀頼云々は、もう終わってるんだけどね)

確かに、家康時代に日本に留まるどころか積極的に外へ出て貿易の富を求めようと
していたんですよね。
山田何某さんとか誰だとかが、ルソンやらどこやらで活躍をしていた。。。という
話に繋がっていく記憶があります。
しかしながら、やはり鎖国制度により、外に出ていた人達は日本に帰る事も出来ず
に外で死んでいったという話になっていくわけですが、ここいら辺に家康亡き後の
貿易に対しての方向性の違いが顕著に現れている、とは理解してます。

とりあえず、私も秀頼に関しては、すでに決着を見ていると思うので、レスは
やめときます。(笑
他のスレで会いましょう。
11314,89その他いろいろ:2000/11/04(土) 16:36
>本多正信正純親子は譜代派で年貢収奪主要財源派、家康は人材派で貿易鉱山主要財源派
家康も年貢収奪を軽んじていたわけではない。
大久保長安は金山奉行と代官頭を兼任しており、石見検地を行った。
この検地で用いられた検地竿は従来のものより短く、領主側の増収を図るものだった。
あと、本多父子は行政一般(と、家康の補佐的役割)を担当した事になっているけど、
彼らが年貢収奪主要財源派であるという根拠はあるの?
(年貢収奪が行政の重要な部分を占める事は確かだが)
>家康の、大坂冬の陣講和の秀頼大坂留まり和平を、正信正純親子が、
>講和条件の塀と柵埋めとどまり以外の堀を和平講和ごとぶちこわしている。
これも、証拠が欲しい。家康と本多父子の意見が対立していたという証拠が。
>駿府派は幕府滅亡を画策しているのではなく、自らの資産形成を邪魔されない限り、
>江戸幕府に楯突くつもりは毛頭なかった。
でも駿府派は江戸派に攻めたてられていたわけでしょ?

あと、「水魚のごとく」という言葉はそういう用い方をするものではないよ。
114:2000/11/04(土) 16:58
 主要財源といっているのは他の財源を切り捨てるのではなく、財源の占める割合を言う。軽視重視ではなく。貿易によって得る利益が財源の多くを占めていた。

 以下が本気に話し合いたいところです。
 本多親子は将軍家秀忠と共に、家康の目指す秀頼大坂留まり冬の陣講和に反対していた。これはスレッドタイトルと関係するが家康はホンネは大坂の秀頼をたてたがっていて、側近金地院崇伝の暴走とそれを操る本多正純の動きを牽制する機会を冬の陣内に見出そうとした。そして諸大名の支持を得て、秀頼大坂留まり講和に至らしめることに成功した。これが冬の陣講和である。堀を冬の陣講和ごと埋めつぶしたのは本多正純であることは周知の事実でしょう。
11514,89その他いろいろ:2000/11/05(日) 01:37
>主要財源といっているのは他の財源を切り捨てるのではなく、財源の占める割合を言う。
正信が家康の意に反して貿易鉱山からの収入の割合を小さくして年貢収奪による収入を
大きくしようとしたという根拠はあるの?彼が関東総奉行的地位を務めていたという事実や
『本佐録』における記述からのイメージなのでは?
>以下が本気に話し合いたいところです。
家康の謀略の多くに正信が関わっていたという。
講和→埋め立て→夏の陣の流れもその一つ。(正純も)
違うというのなら、ソースきぼんぬ。
そもそも幕府、本多父子を含む譜代大名、旗本のほぼ全てが秀忠派であるのなら、
たとえ疲弊していたとしても家康に協力する大名はいまい。
裸の王様家康が反対を押し切って講和を結ぶ事は不可能。
116:2000/11/05(日) 02:53
 別に江戸が駿府の財源稼ぎを妨げなければ、駿府が江戸の方針に楯突くわけではないことは何度もいっていることです。

 講和を結ぶことが不可能などといっても実際論として講和は成立しています。江戸と駿府の対立を外様のほとんどが知らない(江戸派に食い込んだ藤堂高虎は除く)ことだから講和しようと家康が提案すれば飛びつくはず。実際飛びついた。大御所のいうことばは外様諸侯にとっては大義名分になる。形式的に将軍家を形の上の徳川の総大将にいただいてはいても。その飛びついた勢いは江戸派は止められなかった。
 関ヶ原以来15年も足って江戸譜代派は世代交代もあり、いくさ経験に乏しくなってきているから、家康が、秀頼と交友関係にあり道化師の母の血を引く武道に器用な松平忠輝やその舅伊達政宗や元西軍上杉景勝(心底では秀頼を討つのは嫌がっているがゆえに大坂の陣には君側の浪人憎しに逆に獰猛に戦った猛将)ら外様諸侯(藤堂高虎を除く)を率いて江戸譜代派をつぶすのは、大坂のいくさ経験の豊かな浪人相手より、たやすかった。それを承知しているから、江戸譜代派は講和に面従腹背した。
 大坂冬の陣参戦に家康が妥協したのは、東西の面倒ないくさを避けてなおかつ、江戸譜代派恫喝にこのいくさを逆用しようとしたからである。
117名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 03:01
本多父子が、どちらの派だったかとか、基本的なことも押さえていない。
あちこちのスレで駄文を垂れ流すMは、異常性格か三流工作員(わら
118:2000/11/05(日) 03:16
 117よ。116だけ見て判断しないでよ!116にたまたま省かれているからといって、・・・・を押さえていないとはどういうつもり?114以前にそれが書いてあるでしょう。まったく愚弄のための愚弄は迷惑もいいところよ。
 >117
 本多親子は江戸譜代重視起用派。これは一貫している。秀忠や秀忠側近を好き好かぬにかかわらず。
119日本@名無史さん:2000/11/05(日) 04:35
14,89その他いろいろ氏は『徳川将軍列伝』(北島正元編)@`村上直『本多正信』
大名列伝6をソースとしてMの議論の前提を疑っているわけでしょ。
だからMは「本多親子は江戸譜代重視起用派。これは一貫している。秀忠や秀忠側近
を好き好かぬにかかわらず」。となぜ言い切れるのか、根拠となる文献を示すべき
なんだよ。どこからそのような結論が出てきたのか、ソースを全く程度明らかにせ
ず、耳慣れない説を自明のことのように垂れ流すから独善的と捉えられるんだよ。
俺はこの分野はまるで詳しくないし、単なる傍観者だけど、107の疑問に答えられ
ていない以上、117は「愚弄のための愚弄」ではなく、正当な判断といわざるを得
ないと思うよ。
120名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 04:40
根拠もなく主張を続けるMは狂ってる。どのスレッドでもMの論調は根拠なし
12114,89その他いろいろ:2000/11/05(日) 18:47
「本多父子が家康派ではなく秀忠派である」というソースが示されない以上、
下の文章は意味がなくなってしまいましたが、一応載せておきます。
――――――――――――
>別に江戸が駿府の財源稼ぎを妨げなければ、
>駿府が江戸の方針に楯突くわけではないことは何度もいっていることです。
でも、それでは家康と正信が別派閥に属することの証明にはならない。
>江戸と駿府の対立を外様のほとんどが知らない
>(江戸派に食い込んだ藤堂高虎は除く)ことだから講和しようと
>家康が提案すれば飛びつくはず。
譜代大名、旗本を掌握し謀略を得意とする本多父子や江戸幕閣、金地院崇伝が
同一派閥に属していると仮定したならば外様にリークするでしょ。
知らないなんてことはあり得ない。
>関ヶ原以来15年も足って江戸譜代派は世代交代もあり、
>いくさ経験に乏しくなってきているから、家康が、秀頼と交友関係にあり
>道化師の母の血を引く武道に器用な松平忠輝やその舅伊達政宗や
>元西軍上杉景勝(心底では秀頼を討つのは嫌がっているがゆえに大坂の陣には
>君側の浪人憎しに逆に獰猛に戦った猛将)ら外様諸侯(藤堂高虎を除く)を
>率いて江戸譜代派をつぶすのは、大坂のいくさ経験の豊かな浪人相手より、
>たやすかった。それを承知しているから、江戸譜代派は講和に面従腹背した。
それが出来れば背水の陣の覚悟で家康は実行しただろう。ある程度の譜代大名を
味方につけていれば実行に移せると思う。しかしあなたの説を推し進めていくと
譜代大名、旗本は江戸派に属する事になる。
1 江戸派と組み秀頼を攻め滅ぼすのに参加して自身は本領安堵
2 「裸の王様」家康、忠輝、他の外様大名と組み
江戸派(約400万石、譜代大名を加えると600万石を超える)と交戦

二者択一を迫られた外様大名のうち「2」を選ぶものがどのくらいいるだろうか。
厭戦気分の強いものから江戸派に切り崩されていき、
家康が文字通り孤立無援になるのは目に見えている。
122:2000/11/05(日) 19:11
 身内の争いという恥を外様にさらして徳川家全体を外様の草刈り場にする譜代がどこにいるの?
 現実として、歴史資料に徳川内部の争いを江戸初期は限定したものにしているのが何よりの証拠。これだけ家康と秀忠という性格の違った勢力が両立しているにもかかわらず、史料では対立を押し隠している。
 秀頼を攻め滅ぼすというより、冬の陣に老獪な真田幸村以下の浪人にてこずっていた江戸譜代派をみれば、弱々しい石高だけが高くて取り柄の江戸譜代派を浪人衆とともにつぶした方が楽かもしれないという思いに駆られる可能性もある。
 実際問題、秀頼大坂留め冬の陣講和に異論を唱えた諸大名がいなかったことが、徳川内部の紛争を知らなかった間接証拠になる。
123名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 20:07
♪Mの妄想は続くよ、どこまでも♪
124:2000/11/05(日) 21:12
 参考まで以下の史料をご覧下さい。
 史料『台徳院殿御日記』巻三十四慶長二十年正月十五日

 「十五日、岡崎御滞留、御放鷹昨日の如し」
 の註
 『世に伝ふるところは、此日秀頼より使者として、伊東丹後守長次、青木民部少輔一重来り、本多上野介正純につきて申けるは、既に和睦の時つかはされたる御盟書にも惣構の堀のみ埋むべきよししるされしに、東国勢惣人数をもて城中の堀悉く埋めたり。御盟書と相違せるは、如何なる仔細にての事や。そのむね承りたしとの事なり。大御所聞しめし、惣堀を埋んとは外郭の堀のみの事と令したるを、其奉行等あやまりて、麁忽に城中の堀を悉く埋めたりと見えたり。やがて関東より旧のごとく修治してつかはさるべしと御答ありて、両使をば帰されたりとなり。此事坂上池院日記、元寛日記等に見ゆるといへども、駿府記・政事録等に、この日大坂の使来りたる事は見えず。いぶかしきに似たり。よて本文にはしるさず。』

 『駿府記』『政事録』作者は本多正信の手中の人間の林羅山と推量されます。つまり、大御所の大坂への誠意を本多正信手中のものが隠したことがわかります。
125:2000/11/05(日) 21:19
 訂正
 『台徳院殿御日記』→『台徳院殿御実紀』
 失礼しました。
126日本@名無史さん:2000/11/05(日) 21:21
コピペなのか元ネタがあるのか知らないが
そのエネルギーだけには素直に敬服する>M

でもいくらネットの議論でもたまには人の言うことも聞こうね
他人の意見を聞ず自分だけべらべら喋るヤツが嫌われるってのは
学校や会社と一緒だよ。
127119:2000/11/05(日) 23:32
>>124
もしかしたらMさんは、この史料から「本多親子は江戸譜代重視起用派。これは一貫
している。秀忠や秀忠側近を好き好かぬにかかわらず」とし、家康、秀忠が深刻な
対立関係にあると読み取ったのでしょうか。だとしたら、随分大胆な解釈ですね。
また「史料では対立を押し隠している」としていますが、それにもかかわらず対立
関係を見出せるのは何故でしょうか。
>>126
同じくMには敬服します。あの史料を堂々と出してきたのを見て、「こいつには何言
っても無駄」と悟りました。(日本史板常連の方々にとっては周知の事柄でしょう
が)でも「M」だけに放置プレイするとかえって喜んであちこち書きまくるから
近現代史スレが機能しなくなるんだよね。困ったものだ。
128:2000/11/05(日) 23:48
 もともとこのスレッドは大御所家康が秀頼をたてたがっているか否かが主流かつこちらが本気で話し合おうとしているところで、徳川家中内部の争いは、また傍流とする。
 正純が史料に書いてある「あやま」った「其奉行」本人であることは周知の事実だ。ということはさきの史料は家康と正純の意見が違っていることを示すものだ。
129119:2000/11/06(月) 00:55
なに言っても無駄だけど、もう少し相手してみよう。
他に何も出てこないってことは、前掲の史料のみに基づいたものという
ことですね。
「主流かつこちらが本気で話し合おうとしているところで」なくても、
研究書の2冊や3冊、指摘することはできる。
(これが最後です)
成程、読書量はあるようだから、歴史方法論や史料批判についても学ば
れてみては如何でしょうか。いや、それ以前に常識を…。
そもそも「話し合おう」って、遊んでやるくらいはしてもいいけど、
相手する気にはなれないよ、少なくとも、俺は。
でもMさんの書き込み、面白いですよ。「謀略集団、柳生に消される」
なんて、こんな格好良い台詞、滅多にお目にかかれない。
13014,89その他いろいろ:2000/11/06(月) 02:48
>身内の争いという恥を外様にさらして徳川家全体を外様の草刈り場にする譜代がどこにいるの?
秀忠=本多父子ラインが幕府、譜代大名全体を掌握しているならば「真実」をもらしたところで
別に草刈り場にはならない。家康=秀忠政権と江戸秀忠政権の勢力の差はほとんどないからである。
>現実として、歴史資料に徳川内部の争いを江戸初期は限定したものにしているのが何よりの証拠。
>これだけ家康と秀忠という性格の違った勢力が両立しているにもかかわらず、
>史料では対立を押し隠している。
119氏に同じ。中途半端に押し隠しているのはおかしいし、そのように考える根拠もない。
>秀頼を攻め滅ぼすというより、冬の陣に老獪な真田幸村以下の浪人に
>てこずっていた江戸譜代派をみれば、弱々しい石高だけが高くて取り柄の江戸譜代派を
>浪人衆とともにつぶした方が楽かもしれないという思いに駆られる可能性もある。
譜代大名が浪人や外様に比べて弱々しいというのは思い込みである。
大坂の陣で木村重成を討ち取った井伊直孝、息子の忠相らとともに戦功を挙げた本多康俊、
さらには岡部長盛、阿部正次、酒井家次といった諸将が居る。外様も世代交代は起こっている。また、
福島正則と黒田長政は江戸に留め置かれていたという事実も忘れてはならない。
1万石あたり300人の軍役を課せば徳川幕府は18万人以上の兵力を動員できる事になる。
日和見的中小外様大名や厭戦派の大名を一本釣りする事は江戸派にとって造作もないことであろう。
こうなっては政宗や忠輝は手も足も出ないことになる。
さらに、万が一外様が総結集して幕府を打ち破る事に成功してもその後には再統一作業が待ちうけている。
天下を再統一する大名以外は121中の「1」でも「2」でもリターンはほとんど変わらない。
しかしリスクや労力の負担は家康と組んだときの方がはるかに大きい。そのような選択をするものがいるかどうか。
>実際問題、秀頼大坂留め冬の陣講和に異論を唱えた諸大名がいなかったことが、
>徳川内部の紛争を知らなかった間接証拠になる。
そもそも激烈な内部抗争が無いと考えれば諸大名は異議など唱えないのは当たり前。論点の先取りはいけない。
>『台徳院殿御実紀』
あなたの解釈で行くとおかしい点。
1 『徳川実記』(『台徳院殿御実紀』もその一部)は幕府の公式の歴史書である。神君家康公が幕府の利益に反し豊臣方に
誠意を示している言動など載せようはずがない。家康が使者に対してうそを言ったと解釈するのが妥当。
2 そもそも、正純が家康の意に反し、謀略の一環として埋め立てたのなら
「あやまりて、麁忽に」というのは真実ではない。誠意があるなどとはとても言えない。
131:2000/11/06(月) 11:32
 >130
 木村重成は浪人衆ではなく、豊臣譜代では?

註にそれを載せていることは、まったく「載せようはずがな」かったとはいえない。駿府記政事録には註にさえない。編者が坂上池院日記や元寛日記にはあるのに、駿府記政事録にはない「いぶかしき」と思って註に載せている。
 「あやまりて」といっているのはこちらが「あやまり」だったという謝罪の意味もこめられているとこちらは、解釈する。だから誠意がある態度といえる。謀略だったということが誠意と謝罪をすることになるとは思えず、「はかりて」と告白すると、豊臣方に敵意のある者を温存させるのかということになり、駿府派劣勢の時分、その者は排除し難いなどとはいえない、排除するといってできなければ、豊臣方を信用させなくなる。
132:2000/11/06(月) 11:38
 秀忠、正信、正純が家康発案の秀頼大坂留まり冬の陣講和に反対で、他の諸大名に異論はなかったという史実に対して130は大して答えていない。
133ゲームセンター名無し:2000/11/06(月) 19:16
>132
M氏..... 君が言うか........
そういうことは君への意見のせめて半分は答えてから言ってください。
134日本@名無史さん:2000/11/06(月) 22:30
図書館に飛び込んだMはわき目も振らずに世界史の書架へと向かった。
ネット上の議論に打ち勝つべく、揺るがぬ証拠を探すために。
「えーと、『ロシア史』『ロシア史』はと・・・」
その瞬間、Mは誰かにぶつかった。
「す、すいません」
謝ったのはぶつかった相手の女性であった。清楚で可憐な女の子。Mに微笑みながらそう言うと
女性は閲覧コーナーへと向かった。
しばらくぼーっとしていたMであったが、お目当ての一冊を探し出し閲覧コーナーへ向かい、
座席に座る。ふと目を上げると向かいに座っているのは先ほどの女性であった。Mはどきどきしながらも丹念に
文字を目で追う。しかし一向に証拠となるような記述は見つからない。
ふう、とため息をついたMはまた目を上げた。一瞬、女性と目が合う。彼女はすぐに視線をそらしたが、
Mの中にある確信が生まれた。
「この子は自分に一目ぼれした」

「この子は俺のことを好きであるに違いない。そうでなければぶつかったときに微笑むはずがない。
さらに今俺が目を上げたときに視線が合った。じっと俺のことを見つめてでもいなければ視線が合う事は無く、
俺に惚れた事がよくわかる」
Mの目に文字は映っていたがその意味はもはや頭の中には入ってこなかった。
M、22歳秋。彼の心にはじめて春が訪れた。
13514,89その他いろいろ:2000/11/06(月) 23:44
>木村重成は浪人衆ではなく、豊臣譜代では?
別に浪人衆>豊臣譜代という訳ではないでしょ。それに重成は勇将だよ。
「弱々しい」者には討つ事が出来ないと思う。あなたの想像している譜代大名って
徳川中期以降の文弱で享楽的な殿様なのでは?
>註にそれを載せていることは、まったく「載せようはずがな」かったとはいえない。
>駿府記政事録には註にさえない。編者が坂上池院日記や元寛日記にはあるのに、
>駿府記政事録にはない「いぶかしき」と思って註に載せている。
『徳川実記』に記載されている以上家康の不穏当な言動を意味するものでは
あり得ないと言う事。で、問題の個所。
>此事坂上池院日記、元寛日記等に見ゆるといへども、駿府記・政事録等に、
>この日大坂の使来りたる事は見えず。いぶかしきに似たり。よて本文にはしるさず。
この事は坂上池院日記、元寛日記等では見うけられるにもかかわらず、
駿府記・政事録等にはこの日に大坂の使者が来たということは見当たらない。
疑わしいようである。そういうわけで本文には記載しない。(註に記載)
「いぶかしき」の意味は駿府記政事録にないのが「不審である」と言うことではない。
事実かどうか「疑わしい」と言うことである。「よて本文にはしるさず」という
一文に続いている事がその証拠である。
>あやまりて
「其奉行等あやまりて、麁忽に城中の堀を悉く埋めたりと見えたり。」
その奉行(正純)らが間違って、軽率に城中の堀を全て埋めてしまったと思われる。
その奉行らが謝罪して、などと訳すると意味不明の文になってしまう。
>謀略だったということが誠意と謝罪をすることになるとは思えず、
>「はかりて」と告白すると、豊臣方に敵意のある者を温存させるのかと
>いうことになり、駿府派劣勢の時分、その者は排除し難いなどとはいえない、
>排除するといってできなければ、豊臣方を信用させなくなる。
嘘を言って豊臣方を安心させるのが誠意?真実を打ち明けるのが誠意である。
豊臣方はぬか喜びせずに早いうちに善後策を考える事が出来るからである。
>秀忠、正信、正純が家康発案の秀頼大坂留まり冬の陣講和に反対で、
>他の諸大名に異論はなかったという史実に対して130は大して答えていない。
…それあなたの結論でしょう。こちらは本多父子と家康の対立を疑っているのに
それを史実といわれても。
136:2000/11/07(火) 00:12
 >135
 話の整理上、真実と135が思うものに○、真実と信じられないと思うものに×をお願いします。
 1.さきの大坂方使者と家康の対話の内容は家康が奉行の「間違い」を認めて、関東方に城の修復の意向を示したものである。
 2.冬の陣講和は秀頼を大坂に留めて堀も外堀のみと、家康が発案したもので、またさきの大坂方使者との対話のときもそれを家康が認めたものである。
 3.冬の陣講和内容に将軍家秀忠と本多正信正純親子は反対した。これは出陣地の大坂に突如として家康から諸大名に発案されたものである。
 4.家康は冬の陣のっけから極秘和平工作をはじめて、正信正純親子をだますために朝廷介入すら拒んだほどである。
 5.突如として発案された家康の秀頼大坂留まり外堀埋めのみ和平案に疲弊した諸大名は飛び付き同意した。
 6.その諸大名の飛び付き同意の勢いに押されて本多親子は和平条件に面従腹背を余儀なくされた。しかし家康は本多親子がそれに屈服したものとのみ思い、講和履行には吏僚派の本多正純を責任者とした。
 7.本多親子に勝ち誇った家康は、さっさと駿府に返るために、履行を早めた。
 8.帰りを急ぎたがる家康の講和早急履行を利用して本多正純は、内堀まで埋めてしまった。本多正純は、冬の陣への面従腹背の態度を露わにした。
137:2000/11/07(火) 00:18
 136の訂正、136の○×選択肢の1を以下に訂正します。失礼しました。
 1.さきの大坂方使者と家康の対話の内容は家康が責任奉行の「間違い」を認めて、関東方に城の修復をさせる意向を示したものである。
13814,89その他いろいろ:2000/11/07(火) 09:26
家康が大坂方使者に嘘をついた。(この面会が実際にあったかどうかは分からない)
本多父子は家康の腹心。敵対などしていない。
疲弊した諸大名が積極的に講和に応じたのは事実だろう。
13914,89その他いろいろ:2000/11/08(水) 18:33
家康と正純の協力関係を示す証拠として、
「家康は当初から和平工作を行なっており、冬の陣が始まったばかりの十一月二十日、
本多正純と京都の政商後藤光次に命じて、大坂城中の織田有楽、大野治長らに
対して和議の交渉をさせてい」て、その後も和平交渉に従事させ、
正純が和平会談に出席した事(二木謙一『大坂の陣』)、
「堀の埋め様は、三歳の子の上り下り致し候程にと御意にて御笑ひ成され候」
という家康の言動(『大坂御陣覚書』)を挙げておく。
14014,89その他いろいろ:2000/11/08(水) 18:38
138は>136。当てはめていけば○×が分かると思う。
141:2000/11/09(木) 11:59
 >139
 正純は和平会談に臨んでいても家康の和平交渉ルートはそれだけではなしに、大野家の家臣の辞退人も使っていたが、双方効果なく、淀君威嚇砲撃に秀頼大坂留まり和平に持っていきました。
 『大坂御陣覚書』の筆者はどなたさまですか?

 議論が、史料の内容の真偽を信じる信じないの次元になりますので、議論はこの辺にお開きにしましょう。
142鬼作左:2000/11/10(金) 10:43
家康と秀忠&本多親子の確執を主張しつづけるMは
家康死後の正純失脚をどのように説明するの?

本多親子が秀忠派(というか格からいって秀忠のブレーンだろう)だったら
正純が土井利勝あたりに付けこまれることは想像しにくいね。
143:2000/11/10(金) 11:17
 家康と本多親子の確執はキリシタン問題(穏健派が家康、強硬派が本多親子)と秀頼問題であとは本多親子は家康派です。キリシタン問題に家康に与しない本多親子も秀忠とは意見が異なり、弾圧強化(秀忠)か強硬追放(本多親子)かにわかれます。
 よって秀忠にはこの問題のメドが立てば本多正純は不要で気に入らないから追い落とすだけです。
14414,89その他いろいろ:2000/11/10(金) 19:48
>正純は和平会談に臨んでいても家康の和平交渉ルートはそれだけではなしに、
正純が和平工作に従事していたということは、秀頼問題でも家康と正純が
対立していなかったということになるんじゃないの?それとも143で言う
「秀頼問題」は秀頼個人の生命に関する問題などに限定しているの?
145日本@名無史さん:2000/11/21(火) 21:06
「秀頼が服従」する前段階の仮定の話として、三成が関ヶ原を起こさなかったとしたらどうなってたかな?所詮三成は家康の敵じゃないんだし、三成もそのことを自覚して家康にたてつくようなマネをせず、関ヶ原もなかったとしたら…?豊臣と徳川の力関係の急な逆転もなく、緩やかに天下が徳川に移り、豊臣も少なくとも根絶やしまでは免れたんじゃないだろうか…?
146日本@名無史さん:2000/11/22(水) 22:05
>145
その場合「有力大名の連合政府」のような形になったのでは?
147名無しさん@1周年:2000/11/24(金) 17:26
あげ
148名無しさん@1周年:2000/11/26(日) 16:17
>145
いずれにしても石田三成的な存在が登場するかあるいは
生み出され、戦争になったのでは。
149ホルニッセ
非科学的な前提をもとに推論を続ける君たちは、
みんなドキュンだよ。