徳川慶喜の大坂放棄は英断か愚劣か

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 徳川慶喜は、軽装上洛して過激討幕派に暗殺されたくないために、おのれは風邪を称して城にこもって、いくさになったときの言い訳としての討薩表を軽装先鋒に掲げさせた行軍型大名行列における上洛を強行して、軽装先鋒に対する討幕派の態度を伺ったところ、案の定、鳥羽伏見に撃退されたのちに大坂を放棄して、明治政府の中部以西統一を助けた。
 この慶喜の大坂放棄を日本疲弊を避けた英断とみるか、自滅した愚行とみるか、それをききたい。
2勝海舟 :2000/10/12(木) 21:43
おれは苦労したぜ
3:2000/10/12(木) 22:05
 >2
 勝先生は、上野彰義隊を煽りながら、大総督府に江戸居座りの圧力をかけながら、上野彰義隊を抑制したりと、よくもまあ綱渡りされたもんだ。

 それにしてもその前の甲斐勝沼の戦を誘発したのは、甲府城とりを近藤勇にそそのかした勝義邦なのに、よくも生き残れたものだ。そのおかげで覚王院義観は西郷隆盛になぶられて、恨み心髄で上野戦争まで起こしているのだから、勝先生の公議政体構築も失敗しましたね。
4やる気無し :2000/10/12(木) 23:29
豊臣滅亡の地で包囲されて徳川の最後なんてなったらシャレにならんから、
さっさと逃げたんだろう。
5日本@名無史さん :2000/10/15(日) 20:32
もうちょっと盛り上げようage。
大政奉還の解釈もいろいろ出されているようだけど、仮に「大君政権」をつくる準備だったのなら、なんで途中で投げ出すのよと思ってしまう。
6名無し :2000/10/15(日) 20:59
所詮苦労知らずのボンボンで臆病な慶喜さんだから逃げただけ。家康だったら絶対抗戦していた。幕臣もふぬけ・慶喜もふぬけで田舎薩長にまけただけですよ、作戦などありはしない。
7日本@名無史さん :2000/10/15(日) 21:03
>1
スレッド乱立させるなよ・・・。ラーメン喰ってじっくり考え直してみな・・・。
8美児童@慶応義塾幼稚舎 :2000/10/15(日) 22:01
自己中+腰抜け 慶喜キラ〜イ!
野蛮+ペテン師 薩摩キラ〜イ!
9慶喜 :2000/10/16(月) 00:27
殺されると思ったからだよ。
誰が篭城なんかするかい。
10名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 04:06
大河慶喜の時、興味があっていろいろ本をあさってみたが、本によって解釈がまるでちがう
ので、困ってしまいました。とりあえず説得力のあるのが、「臆病なエリート、作戦崩壊につき
戦意喪失、逃げた」というもの。だけれど、べたすぎ。そもそも、慶喜にどこまで
戦意があったのかもわからないので、その後の解釈もぜんぜん違うのはしかたないが。
ただ、「昔夢会筆記」「徳川慶喜公伝」の記述をうのみにしているのは、危険だとおもう。
慶喜って今で言うなら、アニメの庵野秀明みたいなひとと思うんだけど。どうすか。
11日本@名無史さん :2000/10/17(火) 04:23
>>10
司馬遼太郎の著作にもあったな。徳川慶喜もの。
読んでみたら、また慶喜観が変わるかも。
12ヨシノブ :2000/10/17(火) 05:42
悪者あつかいされるのやだし〜
13名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 10:03
逃げの小五郎、とは言うが、逃げの慶喜、とは言わないね。

実は逃げてばかりの人生だったと思うが<慶喜

14…笑った :2000/10/17(火) 10:58
結果的に良かったんじゃないかな
気持ちの良い引き際でした
15逃げ出して :2000/10/17(火) 11:19
あとはお寺にひっきーだもんな。
16日本@名無史さん :2000/10/17(火) 11:36
Mにしては、まともなスレじゃん。
17日本@名無史さん :2000/10/17(火) 11:50
明治維新が評価されるのは、大規模な内乱が長期間続かなかったことがあるから、
結果的には、よかった。
けど、「英断」というのは語弊があるな。
内乱を抑え列強の介入を防いだと言う事なら「慶喜」以外にも人がいそうだけど。
また、将来への展望をもって行動した人とかを評価すべきじゃないかな?
18食いだおれさん :2000/10/17(火) 11:52
最低の将軍。家来どもが哀れ。
19名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 11:59
慶喜が軟弱だったので、内乱が最小限に留まり、混乱に乗じた欧米列強に、
食い物にされて植民地に成らなかったのだから、結果的にはその行動は正解。
明治政府に積極的に協力して彰義隊や列藩同盟等に対し帰順の働きかけを行って
戊辰戦争の早期終結に寄与とかいうのならともかく

なにもしないで引篭もっていただけでは駄目駄目君でしょう。

中途半端に投げ出したお陰で不満分子が爆発して戊辰戦争が長引いたんでしょう。

 
21日本@名無史さん :2000/10/17(火) 12:06
>>19
鳥羽伏見や彰義隊あたりで終結したのであればそれも正しいかもしれんが
五稜郭まで戦争が長引いてしまったのでは彼にも責任の一端はあるでしょう。
鳥羽伏見から五稜郭では最小限とはいわんぞ。

所で榎本政府がプロシアかどこかに北海道の一部を租借してしまったって話は知ってる?
22日本@名無史さん :2000/10/17(火) 12:11
慶喜が新政府に喧嘩売ったら今の朝鮮半島状態になった可能性もある。
現在、日本がこうしてあるのだから良かったんじゃないの?
23名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 12:34
>20
旧勢力が諦めるには、必要悪として、一度は全面的な戦いが欠かせないだろう。
それが会津での戦いだったわけでしょう。
結果的に見て、慶喜が自己の権力維持に走らなかったのは正解。
24前スレで>23 :2000/10/17(火) 12:40
奴はヘタレって事で決着済だろ?
蒸し返すな、ぼけ!
25名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 13:01
勝海舟が慶喜の助命嘆願に奔走し、薩長側に認めさせたことは、
慶喜が窮鼠猫を噛む状態で、江戸を戦禍に巻き込ませることなく、功績大でしょう。
敵味方に分かれても、話し合って内乱を最小限に収めようと、決死の働きをする人物が
多数出たことが、幕末維新の混乱収拾に成功し、輝かしい日本の歴史を作った要因でしょう。
敵味方で妥協せず、泥沼の内戦に突入するような国は、欧米列強の餌食とされた。
26名無し三等兵 :2000/10/17(火) 13:05
>25

 ここは勝スレではない。
27日本@名無史さん :2000/10/17(火) 13:11
ヘタレかどうかはしらんが日和見でご都合主義者であったらしい。
28日本@名無史さん :2000/10/17(火) 13:13
>>23
それは鳥羽伏見もしくは彰義隊であるべきであったと思うがね?
どうよ?
29名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 13:27
>26
慶喜の決断に、勝海舟が大きく関わったことは事実だから、関連する人物として、
勝の名前が挙がることは、別に問題ないだろ。
慶喜の家臣に、日本の将来を考えて行動する人物がいたことは良かった。
30:2000/10/17(火) 14:07
 慶喜の大坂放棄は、近畿以西を無血に新政府に明け渡していることになり、江戸開城に匹敵するでしょう。確かに大坂城は有炎だけど有炎無血開城を大坂城はされた。その開城媒介を名古屋藩にやらせていることで、中部以西の諸藩が政府に屈服を余儀なくされたし、江戸開城の媒介を新政府が名古屋藩にやらせていることで、名古屋藩媒介の大坂開城は新政府の江戸開城の参考ともなる。
 江戸開城も抗戦派のクーデター未遂を未然に防いだのも慶喜。保身か勤皇切腹にこだわる慶喜の執念はすさまじい。
31日本@名無史さん :2000/10/17(火) 14:43
>>29
どちらかというと 慶喜よりは徳川家の家臣という意識がつよかったんでないの?
32名無し :2000/10/17(火) 18:46
慶喜の「決断」などという言葉を使って欲しくない。「決断」などと立派なことをする人間が、多数の部下や負傷者を棄てて自分だけ逃げますか。たんなる坊ちゃん・臆病者のおびえにすぎません。
その後の人生で、でしゃばることがなかった点だけが彼を評価できる点です。
33西川@慶応義塾幼稚舎 :2000/10/17(火) 21:30
第一、王政復古のクーデターの際に、
二条城一帯と大坂城一帯などに洋式精鋭部隊を含め2万人以上の
旧幕府軍や佐幕諸藩軍が集結していたのに(確か、”榎本艦隊も
大坂か神戸に入港していた)、二条城に居た慶喜は
討薩に動かなかった。
大君(タイクーン)独裁など不可能だが、
薩摩・長州・岩倉一味を打ち破り、徳川主導の公議政体に
もっていく機会は
この時に逆クーデターを行うしかなかった。
この時点で戦わなかった事で、―誤算からか
臆病からかは判らんが―慶喜及び旧幕府は御終い。
34勝海舟 :2000/10/17(火) 21:41
慶喜は将軍にならなけりゃよかったのよ
逃げるならそん時だったね
家茂萌えー
35横山ノック :2000/10/17(火) 22:00
君たち君!いつまで征夷大将軍をいじめたら気が済むんだ!
36つーわけで :2000/10/17(火) 22:32
ヘタレ確定ね。
37:2000/10/17(火) 23:00
 慶喜の評価ではなしに、慶喜の大坂放棄が中部以西安定につながったか否かそれだけでもお答えいただきたい。慶喜の目指した政体やその後の家臣の動きはどうでもいいのです。
 慶喜の江戸放棄、これは必ずしも東日本の安定につながっていないどころか和平派が抗戦派を散らしたために混乱状態になっていますが、大坂放棄は中部以西の安定につながったのではないですか。
38【^▽^】 :2000/10/17(火) 23:02
慶喜は勤皇を宗旨とする水戸家の出身だし、
お母さんは皇族・有栖川宮家の皇女(登美宮)。
つまり、慶喜にとって朝廷は母方の実家にあたる。

これらは彼の政策に大きな影響を与えたと推察される。
血縁が何よりも価値を持つとされた当時においてはね…
39日本@名無史さん :2000/10/17(火) 23:05
>>37
結果としてそうなっただけで彼が意図してやった訳ではないでしょう
>>1に対する回答としては愚劣な行為という事になるでせう。
40日本@名無史さん :2000/10/17(火) 23:10
>>39
そうそう佐幕派からみれば「利敵行為」だもんな。
41日本@名無史さん :2000/10/17(火) 23:36
>中部以西の安定
それを安定と表現するのか?
戦場が東へ移っただけでしょ。
42:2000/10/17(火) 23:38
 一般に好評の?勝義邦の江戸開城が東日本混乱を結果していて、悪評多く好評少ない?の慶喜大坂放棄は中部以西は安定結果していて皮肉なもんです。
 慶喜が京都包囲を鳥羽伏見前に決断したら、全国の討幕派志士の決起に、内戦は現実の北関東奥羽越戦争どころではなく、日本中が疲弊しますね。
43坂本竜馬 :2000/10/17(火) 23:57
何を言うちゅう。
慶喜公こそ維新回転の英雄じゃ。よくぞあの時に将軍でいてくださった。
44名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 01:10
佐幕派とか悠長なことを言っていられる時代ではなく、欧米列強が虎視眈々と、
日本の植民地化を狙っていたことを忘れると、全体が見えなくなる。
45慶喜 :2000/10/18(水) 01:58
俺、女装癖なんだ〜。
46日本@名無史さん :2000/10/18(水) 04:29
知り合いの祖父が彰義隊だった。彼の話だと祖父の自慢話は決まって上野の決戦の事。見栄が大切な江戸っ子がここ一番の大勝負に履いていったものが「鉄下駄」。しかも祖父以外にもいたらしい。
結果として彰義隊は負けた。しかし祖父は生きながらえた。歴史はロマンだ。
47日本@名無史さん :2000/10/18(水) 04:47
もし出してもいいようでしたら、その隊士のお名前を・・・
4846は :2000/10/18(水) 05:56
「知り合い」と同世代だとしたらいま何歳なんだ…?
49日本@名無史さん :2000/10/18(水) 06:45
>47
聞いてどうするの?
50名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 07:21
慶喜評がなぜにここまで割れるのかというと、彼の行った、「英傑」ともとれる行為
のほぼ全てが「結果論」でしか計れないというところでしょう。また、日本史上唯一といって
いいくらい、「公」のためにではなく、「自分の自尊心のため」戦った人である点が
歴史マニアの目を曇らせている原因だ。(歴史マニアって、例え逆賊でも自分の信念とともに
玉砕した人物を好む傾向があるでしょう。楠正成や真田幸村とか。日本を大混乱に
させた張本人ったら、後醍醐天皇がいるけれど、決して悪くは言われないし)
結果論でかんがえたら、騒乱を最小限にとどめたのでよかった。でもあの行動は許せない
ってのが最大公約数じゃないのか。
51>46 :2000/10/18(水) 09:55
 江戸っ子にとって、薩摩の慶應3年後半の江戸荒らしの復讐戦が上野戦争ですかね。ある意味きれいな戦いですね。戦場が寛永寺にしぼられているという点で。
 江戸武士の戦いが美しい戦争でもありますね。「江戸を戦禍にさらしたくないがかといって薩摩の江戸荒らしには我慢ならねぇー」という暗黙の合意が江戸市民の間にあったのでしょうね。徳川氏の最有力大名性を保持したがっていた利害の人間にとってはほぞをかむ事件でしょうけど、新政府と江戸市民は寛永寺を戦場に事態収拾で暗黙に合意してしまったって感じですね。江戸は市民のものであって徳川のものではないという、江戸市民と新政府の意識の結晶が上野戦争ですね。
52名無しサンシティ :2000/10/18(水) 10:26
慶喜ちゃんが弱虫だっただけでしょ。
53名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 12:21
>>51
評価は割れてなんかいないだろ?
一般通念上は「只のヘタレ」で一部の電波な思い込み君が英傑説を主張しているだけですね。
54例えばこういうのは英断といってもよいが :2000/10/18(水) 12:38
スターリングラードで独軍のパウルス元帥がヒトラーの玉砕命令に反してソ連軍に降伏して
全軍玉砕を回避したというのは降伏時期については異論があるかもしれないが将兵の為に
下した英断だったと思う。(ヒトラーから見れば利敵行為かもしれんが)

がしかし慶喜の場合はそういう種類のものとは全く違うだろ?
部下を置き去りにし、かつ何ら具体的な指示/善後策等も残さずに
自分だけさっさと逃げ出しただけです。

こういうのは英断とはいいません。
55好事家 :2000/10/18(水) 13:29
>M
このスレたてたのは、自説への賛成を聞きたいため?説へ対しどうこう言うより、
君に対し「反対」だよ。
56:2000/10/18(水) 13:38
 >54
 大坂に集まった同志に解散を指示しています。善後策?名古屋藩に大坂城を託して新政府に明け渡しました。その責任者が妻木頼矩です。名古屋藩や福井藩を介在に徳川と明治政府が講和することを模索しています。大坂放棄大坂開城のやり方がそれを示しています。
 大坂城を盾に籠城するとみせかけて、新政府軍に攻城戦の準備のために新政府軍の進軍を止めさせて、大坂に集まった同志を四散させて死にかけてほとんど死んでいる戦傷者以外ほとんど無事に江戸または領国に返したことは、敵をだますには味方から、を実践しています。自軍を大坂から無事に退却させるのに、これ以上巧妙な戦術はありますか?自軍を維持するのに、籠城では維持できないし。まあこれを結果論と受け取るのは自由ですけど、無理ないくさだけはしていない、これだけはいえます。
57無法浪人 :2000/10/18(水) 14:27
>56
大坂開城がその後の流血の引き金になりました。
そもそも、血を求める薩長が「徳川恐るるに足らず。」
と思い始めその後の増長を招き東北を血の海に変えてしまった。
徳川の首にかえて「会津」の首があげられた。
どこかで血が流れなければ収まらないことだが、
流血の現場を変えただけの(結果的に意図せずに)人物の行動を
「英断」だの「決断」だの増してや「巧妙な戦術」などと評価する
のは幕末維新期の歴史を誤解させるだけのことです。
58あほらしい :2000/10/18(水) 14:36
>>56
君さぁ〜結局最初結論があって それに無理やりこじつけてるだけでしょ?
宗教にちかい思い込みだね(慶喜教みたいよ)。
59名無しさん :2000/10/18(水) 15:07
>58

 彰義隊の残党だと思う。

60日本@名無史さん :2000/10/18(水) 17:44
敗者は評価が低くなるのは仕方がない。最終的勝者である劉邦も蒋介石も織田信長
も部下を見捨てて逃げています。
大坂城からの逃走は政治的にはアウトだが軍事的には当然。結局、巻き返すことが
できなかっただけの話
61日本@名無史さん :2000/10/18(水) 18:24
戦って勝ってもそのあとどうしようもないって事が
わかってたからでしょ。
1.朝敵。
2.金がない(復興できない)。
3.焼け野原の後では諸外国に対抗できない。
62>60です :2000/10/18(水) 18:32
>61
それもそう。
63西川@慶応義塾幼稚舎 :2000/10/18(水) 20:34
薩摩の贋金が関西一帯を蝕んでいた!
薩賊討伐決行!・・・だが、その為の軍事資金が無く、
ますます外債とその為に蝦夷地までフランスかプロイセンに
租借させる事になる・・・

それはともかく、慶喜の大坂城放棄は無責任過ぎ、
そして、それが東日本ことに奥州での惨劇を招いた。
64風車の理論 :2000/10/18(水) 21:12
>63
無責任ウンヌンは結果論であって最後に勝っていたら別の評価をうけてるにきまっとる>60
でも同じ事ゆうとるやんけ
65日本@名無史さん :2000/10/18(水) 21:49
>61
徳川には金はある。家康公の埋蔵金があるのだ。古文書にも書いてある。
ありかをしめす石仏もある。20年捜してるからあるはずだああああ、、、、
66風車の理論 :2000/10/18(水) 22:18
>65
そないなモンあったら薩摩や長州よりも軍の近代化ができてましゃっろ
糸井の見過ぎ
67考える名無しさん :2000/10/18(水) 23:31
開陽丸は艦長(榎本)なしで江戸に向かったらしい。
榎本が北海道の土地を99年契約で租借したのはホンマ。
68:2000/10/19(木) 01:15
 スレットと少しずれたことを聞きます。会津藩が奥羽越の斡旋に耳を貸して会津若松鶴ヶ城を無血に開城していたらどうなりますか。いかに奥羽総督といえども藩主父子助命の削封寛典にせざるをえません。万石以上は朝裁を以て処分すると、天皇政府の慶喜処分内容にありました。流血などありえようはずはないじゃないですか。抗拒後すら藩主父子は助命されているのです。桑名にやれていることを会津藩がやれないはずはないのに、なぜか抗拒して死傷者を増やす決断を会津藩がしたということです。会津藩は会津藩の判断で開城をいったんは抗拒しただけです。
69西郷 :2000/10/19(木) 01:17
おいどんが「慶喜の首で血祭りを」などと物騒な事
言っても慶喜どんはビクともせんかったでごわす。
むしろ後世で『逆賊』と呼ばれるのに対して、
チキンになっとったでごわす。あの当時ですから。
しっかし随分と長生きしもはったー。
70食いだおれさん :2000/10/19(木) 02:03
慶喜の大阪城放棄は、将軍職の放棄。その時点で、この国の将来のことなど頭にあるはずも無く、
ひたすら、自己の保身にのみ奔走していたのは明らか。
たとえどんなに優秀な将軍でも、慶応年間の時勢を迎えてなお、打つ手など、ありはしないと
思うが。将軍よりも、幕府、幕臣の上層部が、どうにもならん。江戸の旗本は大身であるほど、
無知無教養。薩長のような人事登用をしていたら、自分の身分、立場が危うくなり、
本末転倒。
だいたい、慶喜なんてこの時代のメインストリームからは外れた存在なので、英断とか自滅愚行
などと評価するに値しない。幕府には薩長の的になるものが必要だっただけ。
7110&50名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 02:52
>70
わかりやすく切ってしまいたいのは仕方がないけど、やっぱりそう単純でもないから
盛り上がる♪だって将軍職は大政奉還とほぼ同時に返上しているんだから。
この時代、調べるほど通説があやうくなってくるからこまるのだ。
まず鳥羽伏見の戦いで薩長が勝てたのは運がよかつただけで、開戦時当の西郷ですら
勝てるとは全く思っていなかった。
慶喜の戦意は全く不明。江戸に帰ってからも1ヶ月近く悩んだところがあるので(もしかして
勝の日記のほうが信憑性がないのか?)ますます大阪放棄の意味がわからない。
なにより、たとえば慶喜は幕末史上最も頭が良く先見の明かあったとされていて、勝てないことが
わかっていたので逃げたとする説を良く聞くが、これは慶喜が跡付けの理由をあれこれ述べた昔夢会筆記
をもとにした歴史観で、これがそもそもへん。幕末のあの時点で、次がどうなるかを
読めた奴なんて、だれもいなかった。歴史マニア(慶喜もそうだよね)は、起こった歴史
を後からみてるので、どんなエピソードも起こるべくして起こったと思いがちだけれど、
どの歴史をみても、次の瞬間何がどうなるかを正確に予想するなんて、断じて無理だからだ。
それを踏まえないと、慶喜評価は出来ない。と思うのですが。
72日本@名無史さん :2000/10/19(木) 09:39
Mって、無条件降伏大好き人間?

73:2000/10/19(木) 21:29
 >71
 「1カ月近く悩んだ」のではなく、なかなか来ない、頼みの名古屋藩、福井藩の返事を待つのに1カ月もかかったということです。介在藩の意向次第にコトを決める気だった慶喜はしょうがないから、ロッシュの相手をして時間を稼いでいました。以上続く・・・・・。
74:2000/10/19(木) 22:56
 ロッシュの相手をしてフランスに現存関東徳川領を安堵してもらおうとして、かつ内戦を嫌がる在日欧米業者にパークスを突き上げてもらおうとして、「忍耐には限度がある」と内戦をほのめかしました。だが外国がどうあろうと、名古屋藩、福井藩が『城外謹慎』と『言い訳抜きの悔悟謝罪』を周旋条件にあげると大慈院屏居を慶喜は決断しました。あとは皆さんのご周知の事実です。
75:2000/10/21(土) 01:27
 慶喜の大坂放棄が示していることは、命懸けに泥沼の戦争を起こさせる指導者より、内外の政界から保身に走る指導者の方が、戦争が全面化、激化しなくて庶民にとって安全で済むということです。
 ペテン集票屋野中広務センセイはアジア反共集票屋石原シンタロウ・センセイよりは庶民にとって安全な集票屋です。
76日本@名無史さん :2000/10/21(土) 01:32
>内外の政界から保身に走る指導者の方が、
>戦争が全面化、激化しなくて庶民にとって安全
…先の大戦の指導者は?
77:2000/10/21(土) 01:59
 日本の戦中陸軍中央指導者の大半は命懸けで泥沼の戦争を続行した人です。命懸けでなければ、東京裁判に天皇をかばったり、自決したりしません。
78世界@名無史さん :2000/10/22(日) 15:36
>徳川慶喜の大坂放棄は英断か愚劣か
大英断だ
実はあのまま幕府がまともに戦えば9割がた幕府の勝ちだった
でも勝ったからといってどうなる、確かに幕府の余命は伸びるだろう
しかしここから日本全土を覆う泥沼の戦いになる
しかも外からは英仏が虎視眈々と日本を狙っている
この戦いは、どちらが勝っても結局外国勢力に漬け込まれ
日本の植民地化を許してしまうのだ
慶喜はそこまで見切っていた
だからこそ勝てる戦もあえて行わず、かといって幕臣をなだめようにも
高揚しきった兵士は既に統率を失っており暴走し始めており
このままでは戦争になると読んだ慶喜は大阪城脱出という
英断を行ったのだ。
事実この英断がなければ今の日本はずいぶん違ったものになっているはずだ
79勝海舟 :2000/10/22(日) 16:41
小学生でも出来る判断じゃないの
80日本@名無史さん :2000/10/22(日) 19:16
いっそそのまま大内乱になって半植民地化していたら、あるいはあの時
ちゃんと本土決戦をやっていたら、もう少しましな日本になっていたんじゃ
ないの? いわゆる自立した市民とやらの国になっていたかもしれない。
81日本@名無史さん :2000/10/22(日) 19:54
>80
フィリピン並に自立した国民性を持つようになっていたろうね。
日本女のメイドは従順で几帳面で使いやすいと大評判だったろう。
徳川慶喜の判断は正に王たるにふさわしい大局を見た判断だったと言える。
西郷とか薩摩出身の明治の元勲って、実はかなり頭悪いんだよね。
82:2000/10/23(月) 00:05
 >79
 その小学生でもできる判断で江戸開城してその功績にメシをくいそれにアグラをかかれた元長崎海軍教習所の大先生がおられましたね。
 幕末明治を通して終始ハト派でおられたその大先生の偉大なるトコロは日清戦争に反対され日中朝提携論を唱えられました。慶喜を除く明治元勲連中のなかではまさに群を抜く洞察力ですね。なにせあの日清戦争は清朝を弱体化せしめてロシアに満州を占領せしめる契機になっているのですから。
83名無しさん@OSR2.1 :2000/10/23(月) 07:40
当時の欧米に日本植民地化という明確な政策は存在してないよ。
イギリスの議会では、むしろ否定的であった。
幕末日本は東南アジアの先進国であり、清朝、朝鮮など問題外。
武士や町民のレベルは高く評価され、徳川幕府や将軍を軽んじる風潮はなかった。
欧米の経済圏に取り込めれば良かっただけ。
唯一の例外はロシア。
84日本@名無史さん :2000/10/23(月) 08:31
>83
清朝の植民地化ってのも、どうなの?
85:2000/10/23(月) 13:40
 >83
 幕末のロシア軍の対馬租借騒動は極東ロシア海軍の暴走。ペテルブルグはその事実を承知していないで驚愕していたし、ペテルブルグはただ極東ロシア人が日本人との平穏な交易に用を足しうればそれでいいと思っていただけよ。幕末維新時代はロシア政府は公式には日本への野心はなかった。明治が始まって以来沿海州に日本人移民が頻繁になったのも日清戦争までは日露関係は良好だったことを示すわ。
 寧ろ日本が日清戦争以来強化され、仏独がロシアに西の奥州ではなく極東に向けさせようとして日露の衝突になったのです。ロシアの極東進出の資金源はフランス資本なのですから。
86:2000/10/23(月) 13:42
 訂正
 >85
 奥州→欧州
 極東→満州
87名無しさん@OSR2.1:2000/10/23(月) 14:57
83です。
アヘン戦争に関しては、通り一遍のことしか、知識がありません。
ただ、それによる世論が、日本に対する強引な交渉を牽制していたのは
事実。
>85
なるほど。言われてみれば、イギリス、フランスも、現場にいる連中は、
少々暴走気味なところがありましたね。

>84
このような軍事的パフォーマンスを見せるだけでも、効果は十分っだたし、
自国兵士を危険にさらしてまで日本に固執しても意味が無い。南方の未開の
地域、土人たちを相手にするのとは、ワケが違うということですね。
個人的な意見ですが、清朝や日本の植民地化は不可能であるという認識が、
すでに欧米にはあったと思う。香港、マカオが自由に使えるだけでも大成果
だし、それ以上は望めないし、意味も無い。日本に対しても、同様。
植民地ではなく、市場が欲しかっただけ。
幕末日本、特に徳川幕府のうろたえ方は、滑稽すぎる。
官僚化した武士は、未開の土人レベルでした。
88:2000/10/26(木) 02:37
 慶喜の大坂放棄なかりせば、三田における勝、西郷の両雄会見もなし。
89ahoroshi4413:2000/10/26(木) 08:59
yahoo
90ahoroshi4413:2000/10/26(木) 09:10
yahooの戊辰戦争勃発のトビ主=慶喜
敵前逃亡をするな。トビ主なら最後まで責任をとって暗黒性団の変態と戦え。
だからおまえは慶喜なんだよ。(トビ主の地元の会津では敵前逃亡をかました慶喜は最低な人物。ゆえにpolpotoや暗黒性団などの
変態荒氏に荒らされされまくりです。)
91:2000/10/26(木) 12:53
 >90
 会津藩が会津藩内に「西軍」と戦ったのは、会津藩の決断でしょう。慶喜の決断ではありません。さっさと鶴ヶ城を開城すれば削封だけで済んだのに、なおも開城を抗拒したのは、会津藩でしょう?
 戊辰戦争を始めたくなければ、何が何でも強引に下坂時点(十二月十二日)に帰国すればよかったのに。そうすれば、慶喜や徳川氏は大坂維持や中部以西の徳川宗家領維持も、中央政界への未練をも諦めざるをえなくなり、東帰を余儀なくされたのに。そして徳川氏は横浜で欧米に従属(=貿易依存)して細々と生き残る封建領主に収斂してゆくでしょうに。
92日本@名無史さん:2000/10/26(木) 13:11
>90
はやいちチャン、色々な所に書き込んでるね!
ご苦労さん!!

93:2000/10/26(木) 14:27
 それから、鳥羽伏見の戦を誘発した慶喜の重装上洛も松平容保と松平定敬の進言によるものですよ。これを採用した慶喜が鳥羽伏見のA級戦犯だけどね。これは会津藩出身の北原雅長氏が『七年史』丁卯年記に書いてあるものです。これを大坂開城(あるいは炎上したので大坂落城)後に薩長が城内にあった資料に確認して鳥羽伏見のA級戦犯を慶喜、B級戦犯を会桑の両藩主に仕立てました。
 少なくとも鳥羽伏見の戦の誘発要因たる大坂方の重装上洛の主謀者は慶喜、容保、定敬の三者と言うことは、会津系史料も認めていることなのよ。会津が鳥羽伏見のB級戦犯であることは会津自体が認めているの。いくら雪冤の史料を残してもそれ(=重装上洛助言)自体はくっきりと残っているの。
 まあそれでも「強テ支ユルニ於イテハ打破リテモ通行苦シカラス」(会津藩出身の藤澤正啓氏の『会津藩大砲隊戊辰戦記』にあります)とほざいた慶喜が鳥羽伏見のA級戦犯であることには変わりはないんだけどね。その意味で「行軍型大名行列における上洛を強行して」と最初に書いたのはそのことを指しているの。
 だけど、まったく会津桑名両藩主に責任がないというのも史実ではありません。
94名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 14:58
無条件降伏主義者は黙ってろ。

さっさと軍事板に帰ってマントラ唱えてろ。
それともここでも唱えるのか?

「慶喜の大坂退去は英断です」
95:2000/10/26(木) 15:18
 >94
 流血賛美者は黙ってろ。
 あんたが大将なら死傷者も増えるでしょう。会津藩のように。そして松平容保のように会津戦争にたくさんの死傷者を出して鬱ぎ込むのよ。
96つまんねぇ:2000/10/26(木) 17:05
ぜーんぶ結果論。
if で自分の思想にあうように我田引水してるだけ。
思想板か電波板に逝ったらどう? こりゃ「歴史」じゃないよ
97:2000/10/26(木) 18:42
 >96
 >ぜーんぶ結果論。
 >こりゃ「歴史」じゃないよ。
 「歴史」って結果とその環境を読み取ることじゃないの?

 歴史(旺文社『国語辞典』改訂新版)
 @人間社会における過去の時代の興亡・移り変わり。また、
  その記録。
 A事物や人の現在までの経歴。
 B「歴史学」の略。
   →歴史上の諸問題を研究する学問。

 以上、これから外れたことを 1 がしたとでもいうの?
98日本@名無史さん:2000/10/26(木) 21:59
我々が「歴史」と言うときはBの意味で言うんでね。

君のしてることは@であってBではない。「研究」が
抜けているんだよ。時の流れをただなぞっているだけ。
99>98:2000/10/27(金) 04:31
われわれって誰?
ニャントロ星人???
100名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 09:09
>99

 君以外の全人類。
101軍事板:2000/10/27(金) 14:25
>94
さっさと軍事板に帰ってマントラ唱えてろ。
それともここでも唱えるのか?

元々「M」は、日本史板の住人でしょ。誤解されたら「軍事板」に傷がつく。
102名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 14:46
>101
ああ失礼。あのときちょうどMは例のスレでマントラを
唱えていたのだ。それが途切れてたからさ(w
103日本@名無史さん:2000/10/27(金) 14:57
>101
軍事板でマントラまで48時間。
日本史板は記録更新を狙います。
104:2000/10/27(金) 16:02
 スレッドタイトルと無関係な書き込みが続くようならsageてもらった方がいい。
105>99:2000/10/27(金) 18:41
ニャントロ星人発見!!
106>100:2000/10/29(日) 13:32
旺文社内には「人類」はおらんかったわけやね(笑)。

他社もにたよーなもんやし。あいにくおれ漏れも手元に旺文社のしか無い。
実家に帰れば岩波のんがあるけど。

>104
とゆーてるあんたがageてどーすんの。
107:2000/10/29(日) 15:19
 旺文社がどうだとか岩波がどうだとか訳が分からないことをのたまってもらっても困る。
 100は(104=1)ではない。100は1ではない。
 このスレッドに用がなければageなくて結構。104の
sageは「スレッドタイトルと無関係な書き込みが続くようなら」と条件付けているのです。
108とはずがたり@かなり素人:2000/11/02(木) 02:14
慶喜の列侯会議構想の詳細希望。
あと33氏が言っているように王政復古のクーデターを実力で潰さなかったのは何故だ?
この辺の慶喜の行動の一貫性が見えてこない。ひいたりおしたりの駆け引き以前の混乱ぶりだ。


109:2000/11/02(木) 03:42
 列侯会議の議長になるつもりだった。
 だから武断にでれば、土佐や広島などが敵に回って列侯会議も破産する。
 鳥羽伏見の戦については1に述べたとおり、慶喜自身の討幕過激派への恐怖保身からでたもの。江戸城が過激派浪士に火を放たれたとの報が慶應三年晦日に飛脚にきた。京都では討幕過激派参与が何をしでかすかわからない。だから先鋒を軽装にして、後方を重装に上洛を強行して、討幕派の出方を試した。名古屋福井の軽装上洛論と会津桑名の重装上洛論の折衷です。しかし上洛強行は失敗撃退された、というのが鳥羽伏見敗退でもあるのです。慶喜にとっては鳥羽伏見は武断や暴力ではなく上洛強行にすぎないのです。で、その敗戦収拾策として名古屋福井藩を介在に徳川宗家と新政府の講和を模索したのが、慶喜による大坂城の名古屋藩預託と大坂放棄です。
110大島渚:2000/11/04(土) 10:47
>90
慶喜と一緒に逃げ帰った会津・桑名の両侯にも責任あり。
なぜ慶喜を止められなかったのか?
それができずに、慶喜を卑怯者呼ばわりしても説得力が減殺される。
#もちろん、慶喜がヘタレであることに異論はない。
111:2000/11/04(土) 12:51
 慶喜から、「肥後殿や越中殿には私の警護役を直接お頼み申す。」とか「江戸で再起を検討しましょう。」とか「肥後殿や会津藩にはこの徳川宗家と心中する責任がある。」とかいってこねられた理屈をはねかえすだけの気力を容保はもたなかった。もともと重装上洛を慶喜に進言はしたものの、会津軍の死傷者増大と敗北に衝撃を受けており、「すでに全隊に解散を命じております。江戸で英気を養いましょう。」などと屁理屈をこねられたら、折れざるを得なかった。
 しかし江戸に帰ると慶喜は大坂開城に行った名古屋福井両藩介在型の講和を進めて追求し、その介在藩から言い訳抜きの悔悟謝罪と城外謹慎を介在講和斡旋取り成しの条件として要求されると、慶喜や容保や定敬は城外謹慎をのまざるを得ず、二月十日に容保・定敬は登城禁止、二月十二日に慶喜は大慈院屏居に追い込まれた。容保は江戸の和平姿勢から追われるように、隠居して、新藩主喜徳とともに会津軍を率いて会津に帰国し、城外謹慎をして講和を追求するも、征東軍の攻撃を受けて抗戦を余儀なくされ、敗北開城そして無条件降伏に追い込まれる。
 定敬は兄容保次第に動く男だから兄が動くならついてゆくくらいにしか考えていない。越後柏崎明け渡しの抗拒も、会津藩が帰順するなら帰順する、それをしないのなら、越後柏崎の明け渡しを抗拒するといったものだったから。
112食いだおれさん:2000/11/04(土) 19:48
>110
もちろん、責任はあります。が、どんなヘタレ将軍にでも忠義を尽くすのが武家社会
の掟でしょう。幕末の会津藩などは、最後まで武士の面目を保ち、徳川の家来としての
覚悟があればこそ、どこまでも随従し、警護していたのです。
会津の侍はさぞかし無念だったでしょう。せめて思う存分、慶喜を卑怯者と罵って下さい。
113:2000/11/04(土) 20:09
 重装上洛を慶喜に進めた会津桑名に鳥羽伏見の戦の責任は慶喜同然に重大です。
 だから責任をとって開城した桑名藩みたいに鶴ヶ城を戦わずして開城すれば、会津は無傷のはずです。無抵抗な桑名現地は流血事件はありませんでした。サムライなどというのなら、桑名みたいなさわやかな開城を会津藩は決断して欲しかったですね。削封と城外謹慎だけの講和など目指さずに慶喜と桑名世子定教(=万之助)のあっさりとした開城こそが人材の無益な流血を避け得たのです。神保長輝ほどの人材を中傷し殺した会津藩に何のさわやかさがあるものですか。
114食いだおれさん:2000/11/05(日) 03:36
さわやか?って何。
113のコメントは、ぜんぜん理解できません。
115:2000/11/05(日) 03:42
 あっさりと、という意味です。
116:2000/11/05(日) 03:55
 要するに食いだおれさん、何で桑名現地のようなあっさりとした開城が会津にできなかったの?桑名現地は流血は起きなかったのよ。
117食いだおれさん:2000/11/05(日) 12:42
んー、つまり、無血開城が正しい選択で、会津や、その他の徳川武士の戦争行為は
間違っているという事?
現在の価値観で見ればそうとも言えるけど、その当時の侍にして見れば、戦もせず
城を明け渡すという事のほうが、「何で?」という大事件ではないでしょうか?
118日本@名無史さん:2000/11/05(日) 12:56
Mさん。
未だでしたら、ベネディクトの「菊と刀」でも読んで見てください。
価値基準は時代と共に変化しています。
また、個人によっても多様です。
思想や理想で死ぬことが出来るのは人間だけなのですから。
あまり不器用に生きた人を非難してはいけません。
その人達は、人間らしすぎただけなのです。
あっさり死ぬのも日本人らしいじゃないですか。
119:2000/11/05(日) 13:32
 だからそのときに、生き残るのも死ぬのもそれを判断したそれぞれの人々の勝手、薩長に負けじと薩長体制に背を向けて(慶喜が貴族院議員になったとき、天皇が議会の開会宣言したときだけ出席し、あとは欠席した態度)生き残ろうとした人を卑怯だと非難するのはいかがなものか。
 薩長体制に対する抵抗の仕方にはいろいろあるということだ。
120日本@名無史さん:2000/11/05(日) 13:58
生き残った人を非難した?
そんなことを書いた覚えはないですが。
別に貴方自身を非難するつもりもないし。
結論ありきの書き込み方では会話が
成立しがたいので、もう少し間口を広げてみては。
会津開城が会戦後に成ってしまったと言うことを
疑問に思うならばこそですが・・・。
121:2000/11/05(日) 14:09
 120さん、119は118さんに向けたものではなく、慶喜の大坂放棄を卑怯だとした評価に向けているものです。あなたに向けているなら、>118とあらかじめ、たてます。
 とにかく薩長体制に対する抵抗の仕方は自由です。華々しく戦って散るもよし。薩長体制に背を向けて天皇皇族方だけを崇めるのもよし。
122日本@名無史さん:2000/11/05(日) 14:34
なるほど、これは失礼。


123ゲームセンター名無し:2000/11/05(日) 14:50
しかし、慶喜がもし本気で内戦を回避したければ高松城での清水宗治のように
部下の命と引き替えに腹を切るべきでしたな、そもそも総大将が部下にも黙って
戦場を離脱したりするから会津藩等も武士の意地を張らざるを得なくなったんだし、
和戦いずれにせよ大坂城で慶喜が直接交渉すべきでは無かったのだろうか??
そもそも総大将に「生き残るのも死ぬのもそれを判断したそれぞれの人々の勝手」なんて
理論を振り回されちゃあ部下はたまらんし(ちゅうかそれって俺には従わなくても良いって
言っているも同然だし)、極論すれば、大坂城を捨てて豊臣秀頼も生き残れただろうに
それとも何、慶喜は部下にかまわず好きにして良いけど、秀頼は必ず部下と心中しなくちゃ
いけなかったの??
124日本@名無史さん:2000/11/05(日) 15:42
殿様が臣下の命と引き替えに腹を切るのは戦国時代のこと。
幕末には責任を取って腹を切るのは家老に変化していたはず。
それと征夷大将軍は軍人ではなく政治家と見るべきだから
戦線から離脱しても問題なし。薩長はわかっていて無理難題を
押しつけてきてるのは自明のことなんだから交渉なんてむりだよ。
125:2000/11/05(日) 16:05
 史実をいうことと、・・・してよいだの・・・しなくちゃいけなかっただのということは別。秀頼は大坂城との心中を選んだし慶喜は大坂放棄を誠意に新政府との講和を目指しただけ。
 「朕は国家なり」気取りで保身=保国方針だった慶喜にそれをやれたなら、鳥羽伏見の戦は起こっていない。先鋒に討薩表を持たせて上洛を先にゆかせたのも保身のため。大坂放棄はすなわち重装上洛強行の断念でもある。上洛ができなくなった以上、また討伐の対象になってしまった以上、大坂にいる意味はなく、かといって総大将以下全軍の陸路江戸引き上げでは衝突必至、123がいうように、大坂に講和と引き替えに自刃したら、江戸はその報復を考えるだろう。勝ですら「黎首に害有る」ようなときは、上国に兵を進めるべきであると説いている。(『海舟日記』)
 城外謹慎をしたときでさえ、屈辱を晴らすと彰義隊は激昂したものであるから、京都のために江戸の主は死を余儀なくされたとあっては江戸は総じて報復を考えてもおかしくはない。江戸の抵抗を上野彰義隊のみに収斂しえたのは、やはり慶喜の和平指導である。
126名無しさん:2000/11/05(日) 16:47

生きてる以上は死にたくねえ。
これに尽きる。

■■■終了■■■■■■■■終了■■■
127日本@名無史さん:2000/11/05(日) 17:33
武士が逃げるな!
これに尽きる。
逃げた理由が、朝敵の汚名を着たくないから、だと〜
ざけんな!一回だけ鳥羽伏見に出ていきゃよかったんだよ
128食いだおれさん:2000/11/07(火) 16:50
新政府との講和は慶喜の姿勢だとはおもうが、大坂放棄が誠意とは思えない。
慶喜の自刃で江戸が報復とありますが、それこそ、彰義隊くらいのものでしょう。
幕府や旗本など、将軍に忠義を尽くそうなどという連中のほうが、かなりの少数派
です。%でいえば、1ケタ程度という話も聞いたことがあります。
慶喜の和平指導とはおそらく、
「皆の者。後生である。家臣動かば余の首がとぶのじゃ。おとなしくしてたもれ。」
程度ではないでしょうか?
129:2000/11/07(火) 21:50
 大坂に旧幕府軍を集めて即解散という慶喜がとった大坂放棄が、一番、沸騰した戦意を萎えさせ、かつ、大坂に集まった諸将に退却を決断するいい機会を与えたと思います。また大坂を集めたことにより、相手方に籠城するとみせかけて、散らすのも、自軍を温存させ、自軍の抗戦派に再起を思わせるのに格好な作戦であるばかりか、名古屋藩らを介在した開城もうまくいったことで、慶喜の意を体する大坂方は、誠意を成り立たせているつもりでしょう。のちの江戸開城作戦にやったばらまき方式に次ぐ諸兵集合即解散方式の開城で、大坂城は火事に遭いながらも鎮静され平穏開城されています。
 慶喜の意を体して円満江戸開城をはかろうとした勢力が江戸城内の不満分子をなだめすかすのに、全神経を消耗させたことは、それこそ、円満江戸開城がいかに困難であったかを示しており、主人が大坂に自刃を余儀なくされたとあっては、家を守るための和平すら名分として消えてしまい、あとは戦って散る以外に何を江戸が決断しましょうか。慶喜の大政奉還表明を聞いて、江戸幕吏は江戸に戻ってきて関東を鎮撫し江戸に身構えるか、すぐにでも反対諸大名と決戦するか二者択一すべしと京都の慶喜に圧力をかけているほどに西国の動向に背を向ける勢力が高いのです。慶喜を自刃させたら、江戸でくすぶる主戦派をとめるものがいなくなります。開城もままなりません。江戸を枕に討ち死にと意気盛んな主戦派をすんでのところでなだめたのも、ほかならぬ慶喜です。慶喜容認の下でこそ、勝ら和平派は開城を成功しえたのであり、慶喜亡き後でも、やはり江戸そして会津現地も抵抗するでしょう。主のあとを、城を枕に討ち死にして追うとばかりに散るでしょう。
130勝海舟:2000/11/07(火) 22:19
勢いだもの
南洲には勝てねえよ
131山岡鉄舟:2000/11/07(火) 22:27
>127
武士が逃げちゃいけねえなんて誰が決めた
信長公だってジャンジャン逃げてるじゃねえか
ガキは黙ってろ
132名無しさんZ80:2000/11/15(水) 22:38
薩摩が悪い。
133Be名無しさん:2000/11/15(水) 23:11
慶喜なんてつまらん。
舞台でいえばただの通行人A程度。
134日本@名無史さん:2000/11/16(木) 15:21
Mスレッドだ、今話題のチンカス厨房の立てた。
135M(神奈川大学中退):2000/11/16(木) 15:27
僕のソースは
 司馬遼太郎の本
 山川の日本史用語集
 広辞苑
136考える名無しさん:2000/11/16(木) 15:36
M(神奈川大学中退)をふった女
http://www.bekkoame.ne.jp/~ymasaki/kanso.htm
137日本@名無史さん:2000/11/16(木) 20:14
慶喜は自転車が好きでした。
138日本@名無史さん:2000/11/21(火) 23:02
加藤紘一上げ
139:2000/11/21(火) 23:17
 135さん,136さん、根拠のないその「神奈川大学中退」をやめなさい。それから、ソースはそれだけではありません。

 138さん、徳川家臣を捨て散らせた慶喜と仲間を自民党組織に依存させた加藤紘一氏との関連づけはできません。派閥単位の逃亡と主戦派多数派藩の藩主さらい大坂放棄は関連づけできません。
140日本@名無史さん:2000/11/22(水) 15:49
名誉ある撤退ってか
141名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/12/01(金) 15:25
なんすれぞ大樹 連枝をなげうつ
断腸す 三顧身を持するの日
涙をふるう 南柯夢に入るとき
万死報国の志 いまだとげず
半途にして逆行 恨みなんぞ果てん
暗に知る 地運の推移し去るを
目黒橋頭 杜鵑啼く
142日本@名無史さん:2000/12/01(金) 16:21
 はじめは トウジョウ 「それは天皇のミココロです」と言おうと
したが 弁護人にとめられ 弁護人「ソレジャー天皇絞首刑だぜ」って
いったら ジャオレ がやったことにするか って証言したそうです
143日本@名無史さん:2000/12/01(金) 16:23
オヤ スレ間違ったぜ スマン
144日本@名無史さん:2000/12/24(日) 09:14
「徳川慶喜Q&A」
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/rekishi/QandA/QandA.htm
参考までに
個人的には、慶喜自身の心象風景を考慮すべきだと思います。
幕末において、彼の出身母体である水戸藩の動向は暴走気味であり、
その抑制に苦慮し、彼の行動に感情との矛盾を生じさせ、
選択肢を限定させています。特に天狗党事件に際しての武田耕雲斎の処刑は、
強硬路線の限界を示す一例となり慶喜のその後の方針が厭戦に傾く所以に
なっていると思います。
単に心理的な面だけでなく、慶喜個人の体験から武力衝突の結末が
彼個人の中で考慮・判断されていたといえる点がミソです。
この点から、彼の大阪開城が単に保身のためというより
もう少し積極的な「反戦・厭戦」の政治判断によるものであったといえます。
鳥羽・伏見に関しては前程として執拗な薩長側の衝突誘因があり、
旧幕府軍の多数派が強硬路線になっていたことを考えると、「保身」を動機と
すると軍事力の後ろ盾が見込める分、徹底抗戦の方がむしろ慶喜個人には安全策と
なります。いかがでしょうか?

145日本@名無史さんオー:2000/12/24(日) 15:23
で、英断?愚劣?
146144:2000/12/24(日) 16:26
特定の政治判断(「反戦・厭戦」)を
「保身」によるものではなくおこなっている事。(動機)
大政奉還後の緊張状態と、多数派・強硬派の突き上げの状況の中で
一貫性を保って、衝突回避の手段をとろうとしていた事。(過程)
少なくとも結果的には達成できたという事。(結果)
いずれの点においても高く評価しております。

むしろMさんがやや強引に、「保身」であると慶喜を貶める事によって
自分の政治論「内外の政界から保身に走る指導者の方が、戦争が
全面化、激化しなくて庶民にとって安全で済むということです。」
>>75)を成立させようとしている事への疑念が144の主旨です。

このMさんの論だとチェンバレン>チャーチルになり、
その分ヒトラーは免罪され。同じく慶喜を貶める分、
薩長の強硬路線が見落とされる事となります
147名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 16:30
ヤツは豚公方にすぎん   彰義隊士
148日本@名無史さん:2000/12/24(日) 16:58
幕府側ではじめて諸隊の真似して自分たちに隊ってつけた時点で相当ドキュンでは
149日本@名無史さん:2000/12/26(火) 04:15
はい、じゃあ「愚劣」で決定ね?
150日本@名無史さん
>149
どのレスに対応してるの
まさか、根拠無しに
ここまでの意見を結論づけてるの?