大和王権の成立っていつ?

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1名無しさん@1周年
卑弥呼以降が主流なの?
2名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 10:03
邪馬台国スレあるやんけ。
3名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 17:24
邪馬台国は邪馬台国の場所を重点的に論じる
こっちは派生した大和王権の話題を論じる為のスレ。

畿内最古の古墳はニギハヤヒ系豪族の墓なのか?
4名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 18:30
神武=崇神なら4世紀前半位だろう
5名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 20:58
畿内発祥の前方後円墳体制に注目すると、最古級の纏向石塚古墳は年輪年代によると200年頃で、
この頃には頭角を現していたと言えるでしょう。

近年、卑弥呼の墓説が有力視される箸墓古墳は、吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)を並べ、
畿内と吉備との連合を示唆し、250年頃にはかなり強大な王権になったと見られます。

この当時は、東海発祥の前方後方墳体制(狗奴国か)が、関東や東北南部にも広がっていたのが、
その後に一気に前方後円墳に代わっており、徹底的な抗争にまで至らず、畿内王権が
東日本にも勢力圏を広げたことが窺えます。

古墳時代中期〜後期(5〜6世紀)には、朝鮮半島南部にも、埴輪を並べた前方後円墳が
幾つも発見されており、倭国の勢力圏の拡大振りが、文献のみならず考古資料でも分かります。

大雑把に言って、こんな感じではないでしょうか?
6名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 23:07
纏向石塚古墳の主はズバリ誰でしょう?
7まじめな話 :2000/09/26(火) 23:10
最近よく思うのだけれど、大和王権なんて
本当にあったの??
8名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 01:16
>6
纏向石塚古墳は、戦時中に高射砲の台座とするため、墳頂部が削平され、
既に石室が破壊されており、副葬品が不明ですが、卑弥呼の墓説の箸墓古墳より
50年程前に作られた、至近距離に存在する古墳だから、その祖先と考えるのが
自然でしょう。神話として伝わっている誰かに相当するかも?
9名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 02:05
神武東征は2世紀前半とみたがどうだろう?
後漢書に登場した師升から卑弥呼までのブランクの間に
東征したんじゃないのかな?
10名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 07:17
纏向石塚古墳あげ
11大和王権の末路 :2000/09/27(水) 15:14
悲惨だな。800億円賠償だもんな
12名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 15:17
神功皇后の三韓征伐あげ
13名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 16:51
天皇陵発掘させろ。
大体勝手に付けた○○陵がほとんどだろ?
合ってるやつが逆に知りたいよ。
14名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 18:52
13は頭の悪いサヨク。程度の低いやつらが発掘したら、文化財を破壊するだけ。
天皇陵は、日本書紀・古事記・延喜式の記述などに基づき、推定されたもの。

文献では、初期の天皇陵は奈良県に分布し、その後大阪府に移り、再び奈良県に戻っている。
時代別に大型古墳の地域分布を見ると、やはり奈良→大阪→奈良となっており、調和している。
個々の認定に誤りはあるとしても、基本的には妥当なものでしょう。
15名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:28
もっぱら問題になっているのは、日本書紀・古事記・延喜式の記述と
宮内庁の指定に齟齬があると思われる例について、宮内庁に批判されているわけ。
明治時代頃は、古文書の盗掘の記述から、陵墓の認定を変更したりと、柔軟だったのが、
近年の宮内庁は硬直化しており、認定の変更に踏み切らないのは問題。

どちらにしろ、厨房サヨクの13が、わめいているような話とは、問題の次元が違う。
16名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:29
仁徳陵って誰の墓?
17名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:32
すこし話が変わりますが、尾張氏は尾張地方で勢力を張った豪族ですが、
尾張氏の姓は「連」ですよね。
有力な地方豪族に「連」を与えたのは極めて異例だと思うのですが、
大和王権の成立になんらかの寄与があったということなんでしょうか。
18名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:38
左翼じゃなくても発掘させろって思ってる。
過去ログ参照。
19名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:41
孝昭天皇の皇后が尾張氏
20名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:49
>16
延喜式には、百舌鳥の三陵については、位置関係も示して記載しており、
それに基づけば、現在の比定で問題はない。
低脳な学者は、年代が違うとか、わめいていたが、そもそも土器編年とか
相対編年しか出来ないものに基づいたトンデモで、年輪年代法の発展で破綻した。
年代推定の誤差を考えると、少なくとも矛盾はない。
21名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:52
>18
天皇陵指定以外に、発掘すべき古墳はたくさんあり、マンパワーを考えると、早急に発掘する必要はない。
むしろ、発掘技術の進歩などを待って、後世に発掘した方が、良い成果が得られる可能性が大きい。
22世界@名無史さん :2000/09/27(水) 20:20
(承21)…と当事者である、宮内庁は言ってるの?
それに、陵墓の保全(と、それに伴う調査)に、もうちっと力がそそがれてからでないと、
建前論としか聞こえないなあ…
23名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 20:52
頭の悪いサヨクが乱入して、タイトルと話がずれてるぞ。
「大和王権の成立っていつ?」の話をきぼーん。
24名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 22:31
ホケノヤマ出土の画文鏡は3世紀初頭らしい。
中国の文物が伝わっていた証とされる。

25名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 22:38
発掘させろって書いただけで左翼扱いも馬鹿っぽい。
後2みたいな反応も何かな〜・・・
26なに書いても・・ :2000/09/27(水) 22:56
朝鮮の陰謀とかいうレスをつける奴がいるのね、最近は。
27名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 23:06
このスレは古代史に関するもの。古代史に無知なサヨクの25,26はこのスレに用なし。
28世界@名無史さん :2000/09/27(水) 23:24
はい、そのとおり。
29世界@名無史さん :2000/09/27(水) 23:29
このスレは古代史に関するもの。古代史に無知なキティガイの27はこのスレに用なし。
30世界@名無史さん :2000/09/27(水) 23:34
はい、そのとおり。
31ほれ :2000/09/28(木) 00:29
>29
激しく同意。

>all
陵墓発掘の過去ログはここね。発掘問題の続きはここでどうぞ


http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=966514973&ls=50
32名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 00:41
>29,31
サヨクは、電波な北鮮の好太王碑文改竄説でも信じてなさい(わら
北鮮の電波連中は、中国の好太王碑文研究者に、思いっきりバカにされてやんの。
33ばかか? :2000/09/28(木) 00:44
31>32
なんでもかんでも左翼と北朝鮮か?
俺は國學院卒だ、プンプン。
34ちょっと別すれで失敗・・・ :2000/09/28(木) 01:14
いきなり無関係な「好太王碑文改竄説」などと言い出す32は
自分が電波だって気が付いてないのかねぇ・・・・。

35名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 01:38
程度の低いサヨク似非学者が、どれだけ北鮮の好太王碑文改竄説などの
妄説に誑かされたのか知らないのか>33,34
36名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 01:41
サヨクの似非学者は、朝鮮の電波な妄説を検証もなしに信じ、電波を増幅するバカ
37だ〜か〜ら〜>35 :2000/09/28(木) 01:54
だれも「好太王碑」の話なんか振ってないだろ?
なに一人でエキサイトしてんの?
だいじょぶ?
38名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 01:55
無関係な話にさらにレスですいません。
歴史の授業で、教師が、好太王碑改鼠説について、いかにこれが
馬鹿げたものかを語ってくれた。嘘の話なら、最初っから教えて
くれなくてもいいよ、とその時は思ったけど、今にして思えば、
何も知らずにいきなり好太王碑改鼠説に触れてたら、もしかしたら
信じ込んじゃってたかも知れない。馬鹿げた嘘説でも、一応
頭に入れておくってのは重要なことなんだなと思った。
39名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 02:19
ホケノヤマについて語ろうよ。
40そいで結局 :2000/09/28(木) 02:22
本題はどうなったん?
41名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 02:26
橿原から宮殿跡とか出てないの?
42名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 07:31
前方後円墳あげ
43日本@名無史さん :2000/09/28(木) 11:23
七支刀あげ
44日本@名無史さん :2000/09/28(木) 12:50
埴輪あげ
45>17いまさらですが :2000/09/28(木) 15:35
大和中央部に「高尾張」と言う有力豪族がいて、
その分派の開拓したのが「尾張」だとか聞いたことがあります。

さて、天皇陵が確実に一つ、発掘されております。茨木市今城の「本家継体天皇陵」です。
誰でものぼることが出来ます。
46日本@名無史さん :2000/09/28(木) 22:07
電波ウヨは史ね!
47名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 22:17
ホケノヤマが3C初頭と認められたなら
卑弥呼当時、大和に王権が存在していたことになるだろうね。
邪馬台国と対抗できる大国はクヌ国だけだったことから
二国のどちらかである可能性大。
48名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 00:45
>47
土器形式が古く、最古級の前方後円墳とされる纏向石塚古墳は、
年輪年代から、200年頃の建造と見積もられています。

古墳時代の初めの各地の状況は、以下のようなものです。
畿内発祥の前方後円墳が西日本に広がり、古墳が巨大化していきます。
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳は、吉備発祥の特殊器台を並べており、
畿内(邪馬台国)と吉備(投馬国)が連合したことを窺わせるとされます。
また、漢鏡の出土が非常に多いのも特徴です。

東海発祥の前方後方墳は、関東から東北南部まで広がり、別勢力と見られ、
東海を狗奴国に比定する説が有力になっています。

山陰では、弥生時代の四隅突出型墳丘墓から、方墳へとマイナーチェンジしつつ、
畿内とは異なる独自の墓制を取っています。

この時代には、九州はめっきり寂れています。
49名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 00:53
ホケノヤマは天皇で言うと崇神〜成務あたりかな?
その頃に中国と通じていたとは恐るべし・・・
古事記では垂仁天皇当りから埴輪を副葬しだしたらしいね
50中尉 :2000/09/29(金) 01:35
国としてまとめたのが10代崇神天皇からで、おそらくBC1世紀ぐらいだろう。
51名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 07:37
年輪年代法あげ
52名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 09:18
神武=崇神=イワレ彦=単なる大和地方の豪族
とういのが正解。
近畿から西日本を統一したのは応神天皇=渡来人
53名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 10:49
>52
騎馬民族説って、終戦直後に唱えられた説で、当時の社会状況から
サヨクなマスコミの脚光を浴びただけで、考古学の発展と共に見捨てられ、
完全にポシャってるじゃん。
今でもこれを信じているのは、朝鮮学校シンパくらいじゃないの?
54【^▽^】 :2000/09/29(金) 13:51
ボクは神武東征の神話というのは、
元々応神天皇のエピソードだったのだと思う…
それが神武神話形成の過程で、初代天皇の功績にスライドされたのだと思う…

ナゼなら、15代目の天皇が九州から来たとなどと本当のことを書くと、
大和地方の領主であった元々の大王家との断絶を感じさせてしまうからだ

記紀を編纂した天武朝の意図は歴代大王の家系を自己の家系に収斂することなのだから、
自分の家が「途中から九州から来た」、と書くことはできなかった。
その矛盾を解決するために、あたかも初代から九州出身であったと捏造したのだと思う

以上の仮説は、考古学的見地からの結論から帰納して推測したものである
55名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 14:25
>54
「考古学的見地からの結論から帰納して推測したものである」
と言うなら、具体的な考古学的証拠を列挙すべき。
そうでないと意味不明だぞ。
56日本@名無史さん :2000/09/29(金) 23:05
新唐書の記述が真実だと思う
57名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 00:43
何の問題について、新唐書のどの記述を指しているのか、サッパリ分からないぞ。
ちゃんとした日本語で書けよ>56
58日本@名無史さん :2000/09/30(土) 01:47
>57
このゴロツキ!
新唐書の中の大和王権成立過程についての記述はたった一つじゃい!
どの記述も何の問題もなかろうが!
スレッドの題名が読めんのか?

お前は他人をいびって楽しんでるだけのサディストだ!
神戸の児童殺人事件犯(当時14歳)と同類だ!
佐賀バスジャック事件のキャット・キラーと同類だ!
ユダヤ人殲滅を指揮したナチの人種政策指導者・ルドルフ=アイヒマンと同じだ!
否、それより悪質だ!
このサディスト!
お前は黄色い悪魔だ!
冷酷なガス室の万人だ!
59名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 01:53
58は朝鮮学校の電波でも受信しているのか?
60名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 01:57
58は低脳過ぎ。理路整然とした話はできないようだな。
61日本@名無史さん :2000/09/30(土) 02:00
>53,59
偽書である紀記をまともに信じているドキュンウヨ発見!
62名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 02:10
61は痛い朝鮮学校関係者(わら
63日本@名無史さん :2000/09/30(土) 05:20
キバ民族説信じてるやつっているの?
そーいや、俺たちはユダヤ人の子孫らしいな(嗤
64名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 07:24
今や電波化している騎馬民族説あげ
65日本@名無史さん :2000/09/30(土) 07:29
上のレスが全部デンパってるように見えるが。
66名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 18:22
卑弥呼の箸墓古墳あげ
67名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 00:59
畿内の前方後円墳+吉備の特殊器台で、最強コンビを結成し、日本統一。
68名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 01:18
超強力な大和王権あげ
69日本@名無史さん :2000/10/02(月) 03:09
3C初頭は中国との交易はなかったはずだからホケノヤマ画文鏡は
朝鮮経由かな・・・
呉経由ならもっと面白い。
朝鮮と通交してるなら邪馬台国だね。
70名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 04:02
朝鮮学校の69はいい加減に、朝鮮は中国の植民地だったと認識しろ。
魏が公孫氏を滅ぼす前は、倭国は公孫氏に従っていたと書かれており、
公孫氏支配下の帯方郡を通じて、中国文化と接していたことになる。
71日本@名無史さん :2000/10/02(月) 04:57
公孫氏に従っていた?
もう一度よく三国志読んでみよう
72名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 05:09
根拠も示さずに、意味不明な発言をする71が、読み直すべき。
魏志東夷伝の韓条に、建安中に公孫康が屯有縣以南の荒地を帯方郡に分け、
その後に、倭・韓が遂に帯方に属したと書いてある。
73日本@名無史さん :2000/10/02(月) 07:20
俺のじぃちゃんが蘇我イルカを殺した時
74日本@名無史さん :2000/10/02(月) 12:49
記紀に書かれている神話の多くは、日向と出雲が舞台になっている。
そして、この2国は同盟関係にあり、神武東征についても、出雲が支配していたと
思われる瀬戸内海域の道程は平穏無事なのに対して、近畿地方に入った途端、
強敵にはばまれ、1度は敗れ、兄まで殺されて退却を余儀なくされ、援軍を得て、
再度の進攻で大和地方を制圧したことになっている。

つまり、記紀には、西日本の日向・出雲連合軍が近畿の巨大勢力を倒して作ったのが
大和政権だと書かれているわけだが、記紀の記述は絶対だと考えているはずのウヨの
多くは、近畿の勢力が西日本を制圧して作ったのが大和政権だと、全く逆のことを
考えている。ウヨ達はこの矛盾をどう思ってるんだろうね?
75日本@名無史さん :2000/10/03(火) 00:53
朝鮮学校とか決めつけるからてっきり電波かと思ってたよ。
確かに書いてあったね。
冷静に議論したかったら差別発言はやめなさい。
電波も差別か?
76日本@名無史さん :2000/10/03(火) 01:10
大王陛下の御遺体を鑑定奉る必要是有り。
乃ち宮内庁の最も怖る所なり。
77名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 01:16
>75「確かに書いてあったね。」
だろ、ちゃんと読めよな。

>冷静に議論したかったら差別発言はやめなさい。
冷静に議論したかったら、口から出任せを言わず、ちゃんと調べてから反論しろ。
それも出来ない奴は、朝鮮学校レベルの低脳だとみなす。
朝鮮学校は、散々に電波を発しているから、軽蔑されて当然。
78日本@名無史さん :2000/10/03(火) 01:35
>77
君は歴史より人倫を学ぶ必要があるな・・・
79名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 03:31
>78
バカをつけ上がらせるような概念はナンセンス。
国家ぐるみの電波は、厳しく指摘するべきなのは当然。

君は、バカに迎合して、歴史をねじ曲げるのが良いと思うのか。
80名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 03:35
78は歴史を捏造したいから、話を逸らすカス決定。
81日本@名無史さん :2000/10/03(火) 07:58
「好太王碑文改竄説」、一時猛威を振るい、悪影響はなただしかったけど、
結果的には良かったかもしれない。

韓国・朝鮮・左翼には古代史を政治的理由で捏造する人間が大量にいること
を証明でき、彼らの説に対して慎重に対処するべきことを教えてくれたから。

それから、記紀よりも、考古学を優先するのは正しい態度だと思う。出土品
の背景がなければ、記紀がどれだけ真実かわかったものではないからね。出
土品は、最近は韓国よりも日本に有利になってきているね。これは当然だね。
思い込みが激しく、政治的に古代史を捏造する傾向にある国ほど出土品が不
利になり、その逆の国ほど出土品が有利になるのはあたりまえだね。
82>77 :2000/10/03(火) 08:51
目障りだ、うせろ。
83名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 10:04
82は朝鮮かその手先のサヨク決定
84日本@名無史さん :2000/10/03(火) 11:34
78が公正な史眼を持っているとは誰も思うまい。
右翼のパンフレットとか書いてそうだな。

公孫氏が支配してた倭は南朝鮮の倭というのが主流だぞ。
倭人伝に公孫氏への従属の記述が無いのがその証拠だ。
85>81 :2000/10/03(火) 12:11
86名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 12:17
朝鮮とその手先のサヨクは、好太王碑文改竄説の謀略が失敗したので、
その傷に触れられると、謀略活動に都合が悪いから、ことさらに避けたがる。

好太王碑文の改竄説を否定したのは、中国の研究者であり、その著書で
“歴史は客観的存在であり、歴史の研究は事実にもとづいてすすめなければならない。
中国に対して破壊活動を行なった酒匂景信や当時の日本陸軍参謀本部の犯した罪は
徹底的に暴露しなければならない。しかし同時に、事実を無視し、根拠のないことを
書き加えるようなことは、してはならないのである。”
と、朝鮮学校と北朝鮮による改竄説を、厳しく批判したのは頭が痛かったようだ。(わら
87名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 12:42
日本で、好太王碑文の改竄説の否定に活躍したのは、邪馬台国論争で有名な古田氏で、
史学雑誌にも論文が掲載されたりと、当時は活躍していたようです。
学者達が、自分は泥をかぶらないように、在野の古田氏に活動させた印象が強い。
88日本@名無史さん :2000/10/03(火) 12:52
右翼が長文書くと電波怪文書になる
その法則が目の前に・・・
89名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 13:04
反日サヨクは、どう言う点が電波なのか書けずに罵倒するのが、頭が悪すぎ。
サヨクは完全に終わってる。
90日本@名無史さん :2000/10/03(火) 14:34
はいはいここで好きなだけやってね。大和王権スレはもう荒らさないでね。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=970531246

91名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 14:56
好太王碑文は、4世紀末頃の大和王権の強大さを評価するのに重要だから、
別スレに追い出そうとするのは、明らかにおかしい。
92>91 :2000/10/03(火) 17:33
別におかしくはないだろ?
>>86のような奴は隔離しないといかん。
あれでは俺達右派がガイキチ集団に見られてしまうぞ。
93名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 19:23
86のどこがおかしいのか理解できない。92はサヨクだろ。
94>92 :2000/10/03(火) 19:30
激しく同意。
>>86,>>92
電波野郎、いい加減にしろ。
まともな議論ができんだろ〜。
95名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 20:08
電波は、北朝鮮と朝鮮学校と決まっているだろうが。
96>88 >92 >94 :2000/10/03(火) 21:38
86のどこが電波なのか、きちんと説明してください。説明できないでしょうね。

「好太王碑文改竄説」の失敗は、本当にあなた達にとって大きなダメー
ジだったのですね。それを持ち出すたびに「電波電波」という一つ覚え
の電波な反論しかできないところをみると、ね。
9796 :2000/10/03(火) 21:43
「好太王碑文改竄説」は、日本の古代史と近代史両方に対する侮
辱を目的として、政治的に本当にひどい使われ方をしていました
からね。何度でも追求するつもりだよ。
98日本@名無史さん :2000/10/03(火) 23:13
はいはいここで好きなだけやってね。大和王権スレはもう荒らさないでね。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=970531246
99名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 00:36
91が「好太王碑文は、4世紀末頃の大和王権の強大さを評価するのに重要だから、
別スレに追い出そうとするのは、明らかにおかしい。」と言うのは妥当なのに、
朝鮮の手先の反日サヨクは、好太王碑文の捏造工作に触れられたくないから、
必死でこの話題を言わせないで置こうとするのは不誠実の極み。
100名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 00:48
捏造連中は、同じ共産国である中国の研究者から批判されるとは、思わなかったのだろう。
中国の研究者は、北朝鮮や反日サヨクのようなデタラメな連中とは違って、
実証主義に基づいて誠実に研究を進めたのは、さすがは東洋の雄だけある。

輝かしい歴史を持つ中国と、ひがみ根性の朝鮮との違いが、浮き彫りに出た事件でしたな。
101>100 :2000/10/04(水) 07:14
考えてみればあたりまえだ。

中国から見れば、日本も朝鮮も同じだ。わざわざ事実を無視して
朝鮮に肩入れする必要は全然ない。
102名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 07:33
>100
結局、そう言うことでしょう。
好太王碑文が、北朝鮮領ではなく、中国領に存在したのが、幸いしました。
103日本@名無史さん :2000/10/04(水) 08:00
>91が「好太王碑文は、4世紀末頃の大和王権の強大さを評価するのに重要だから、
>別スレに追い出そうとするのは、明らかにおかしい。」と言うのは妥当なのに、
>朝鮮の手先の反日サヨクは、好太王碑文の捏造工作に触れられたくないから、
>必死でこの話題を言わせないで置こうとするのは不誠実の極み。

彼らが必死になるのはわかるよ。

今まで好太王碑文捏造をネタにして作ってきた、自己中心的な歴史(はっきり言って捏造古代史、フィクション)
がすべて崩れてしまうわけだからね。

自分達の妄想に都合の悪い、冷静な歴史の議論は「好太王碑文は捏造だ。皇国史観だ」と言って封じてこれたわけだが、これが不
可能になるわけだからね。
104名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 12:18
99 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/10/04(水) 00:36
91が「好太王碑文は、4世紀末頃の大和王権の強大さを評価するのに重要だから、
別スレに追い出そうとするのは、明らかにおかしい。」と言うのは妥当なのに、
朝鮮の手先の反日サヨクは、好太王碑文の捏造工作に触れられたくないから、
必死でこの話題を言わせないで置こうとするのは不誠実の極み。

100 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/10/04(水) 00:48
捏造連中は、同じ共産国である中国の研究者から批判されるとは、思わなかったのだろう。
中国の研究者は、北朝鮮や反日サヨクのようなデタラメな連中とは違って、
実証主義に基づいて誠実に研究を進めたのは、さすがは東洋の雄だけある。

輝かしい歴史を持つ中国と、ひがみ根性の朝鮮との違いが、浮き彫りに出た事件でしたな。

101 名前:>100 投稿日:2000/10/04(水) 07:14
考えてみればあたりまえだ。

中国から見れば、日本も朝鮮も同じだ。わざわざ事実を無視して
朝鮮に肩入れする必要は全然ない。

102 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/10/04(水) 07:33
>100
結局、そう言うことでしょう。
好太王碑文が、北朝鮮領ではなく、中国領に存在したのが、幸いしました。

103 名前:日本@名無史さん 投稿日:2000/10/04(水) 08:00
>91が「好太王碑文は、4世紀末頃の大和王権の強大さを評価するのに重要だから、
>別スレに追い出そうとするのは、明らかにおかしい。」と言うのは妥当なのに、
>朝鮮の手先の反日サヨクは、好太王碑文の捏造工作に触れられたくないから、
>必死でこの話題を言わせないで置こうとするのは不誠実の極み。

彼らが必死になるのはわかるよ。

今まで好太王碑文捏造をネタにして作ってきた、自己中心的な歴史(はっきり言って捏造古代史、フィクション)
がすべて崩れてしまうわけだからね。

自分達の妄想に都合の悪い、冷静な歴史の議論は「好太王碑文は捏造だ。皇国史観だ」と言って封じてこれたわけだが、これが不
可能になるわけだからね。
105日本@名無史さん :2000/10/04(水) 12:29
オレはこのスレ初めて書き込むけど、
86とかが電波って言われてるのはトンデモ説を唱えてるからじゃなくて
朝鮮とかサヨクとかこのスレに居もしない(もしくはほとんど居ない)
相手に延々シャドーボクシングを繰り返してるからだよ。

好太王碑文の捏造説騒動に関しては史学上の恥だから指摘するのも良いけどさ、
サヨクだなんだってのは、政治思想版か電波版で
北朝鮮とそれを真に受けたサヨクの恥ずかしい行為として糾弾してくれよ。


ささ、本来の話に戻りましょう。
106日本@名無史さん :2000/10/04(水) 13:32
では、素人の質問です。
四道将軍伝説の成立と実際の勢力拡大との関連性は?
四道将軍伝説は崇神期(4世紀前半?)に設定されているんで、
3世紀前半には大和の勢力が西日本を覆っていたとすると、
矛盾すると思うんですが。
107日本@名無史さん :2000/10/04(水) 13:34
>105
ペテンだった好太王碑文改竄説自体、このスレに重要な話題だと思うけど。

それと「朝鮮とかサヨクとかこのスレに居もしない(もしくはほとんど居ない)」
について、このスレには確かに余り見えないけど、古代史関連スレには、
北朝鮮あるいは韓国サイドから見た朝鮮史に詳しい人や、明らかにサヨク史観な人とかの
発言がたくさんあるから、「シャドーボクシング」は違うと思う。

>ささ、本来の話に戻りましょう。
何で、好太王碑文改竄説の話を避けたいの。キミ怪しいよ。
108日本@名無史さん :2000/10/04(水) 13:54
>106
200年頃に作られた最古級の前方後円墳である纏向石塚古墳には埴輪はなく、
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳には、吉備の特殊器台(埴輪の原型)が並べてあって、
この頃には畿内(邪馬台国)と吉備(投馬国)の連合関係が築かれたと解釈されます。
一方、東海(狗奴国)発祥の前方後方墳体制が、関東から東北南部にまで広がりつつあり、
四道将軍の派遣は、もう少し後と見る方が妥当かも?

埼玉の稲荷山古墳で、471年製造のワカタケル大王(雄略天皇)を記した銘文が見つかっており、
七代前の始祖の名前はオホヒコで、四道将軍の大彦命と一致する可能性が指摘され、
一代20年なら340年頃、30年なら260年頃となります。
これらを見ると、一致するかどうかは分からないけど、少なくとも矛盾はしないでしょう。
109名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 13:58
好太王碑文改竄説のペテン発覚で、全く信用を失った北朝鮮とその手先のサヨクあげ
110日本@名無史さん :2000/10/04(水) 17:10
とりあえず崇神が卑弥呼以後か以前かがはっきりしないと・・・
四世紀前半に四道将軍が派遣されたとしたなら吉備・九州が
叛乱を起した可能性もある。
111名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 01:21
纏向あげ
112名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 12:26
好太王碑文あげ
113名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 08:21
何かわからんけど、あげ
114名無しさん@1周年 :2000/10/07(土) 11:05
古代史あげ
115>110 :2000/10/07(土) 12:25
叛乱ってすでに日本が統一されてたような言い方だな。
吉備・九州が近畿を制圧して、ほぼ西日本が統一されたのが4世紀って見方が一般的だろ。
大和政権の成立は4世紀だよ。

だいたい、大和政権の成立が卑弥呼より前だなんて思ってるのは紀元2600年をマジで
信じてるウヨ坊だけだろ。
116名無しさん@1周年 :2000/10/08(日) 03:13
邪馬台国を大和王権と見ると卑弥呼より前でも不思議ではないよ。
ただ、その王権がどのくらいの勢力であったかは別。
117日本@名無史さん :2000/10/08(日) 10:48
ウヨ坊1名発見(藁
118:2000/10/08(日) 12:24
ブサヨクが必死っ!(爆笑)
119ウヨもサヨもうざいよ! :2000/10/08(日) 15:34
「邪馬台」は「やまと」と読める。それは、邪馬台国が大和朝廷につながっているからだ
とするのが畿内説。ところが、大和朝廷の正史である記紀には、近畿の勢力を滅ぼして
作ったのが大和朝廷だと書かれているので、邪馬台国がその滅ぼされた近畿の勢力なら、
邪馬台国と大和朝廷はつながらない。ところが、別につながらなくても、邪馬台国が近畿
だというなら、畿内説派はそれでよさそうな気がするが、彼らにとっては、何が何でも
偉大な大和朝廷は邪馬台国につながらなければいけないようで、大和朝廷の成立は卑弥呼の
時代より前、あるいは、記紀の記述がまちがっている。偉大な近畿の勢力が滅ぼされるはずは
ないと言う。

ところが、それなら、なぜ記紀に卑弥呼のことが書かれていないのかという疑問が生じ、
それは、何よりも偉大なはずの大和朝廷が、かつては支那の配下に甘んじていたことを
隠すため、わざと書かなかったのだと言う。しかし、本当にそうなら、大和朝廷は
邪馬台国につながっていたことを恥だと思っていたということなのだから、それなら、
偉大な大和朝廷の意思を尊重して、大和朝廷は邪馬台国とはつながっていないと主張して
あげればいいのに、畿内説派はそうはしない。畿内説派の心理というのは本当に笑える(笑)
120名無しさん@1周年 :2000/10/08(日) 16:38
>116
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳は、畿内発祥の前方後円墳を巨大化し、
吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)を並べており、
畿内(邪馬台国)と吉備(投馬国)連合の象徴と考えられる。
帯方郡との交流で重要な、九州の伊都国にも睨みを利かしている。
121名無しさん@1周年 :2000/10/08(日) 16:42
>119
日本書紀に卑弥呼のことは書いてあるじゃないか、ウソをつくな!
但し、編者達は、神功皇后に比定しようとしたために、百済関連史料を
2運(120年)繰り上げて、当てはめた。

卑弥呼+臺与は、天照大神や箸墓のヤマトトトヒモモソヒメの伝説として、
伝わっていると考えられる。
122>121 :2000/10/08(日) 18:35
日本書紀には、神功皇后についての注釈として、「倭女王」が魏に朝献したという
魏志倭人伝からの引用が記述されているものの、魏志の「倭女王」の名前が卑弥呼
だということも、神功皇后が「倭女王」なのだということも書かれていない。

また、もちろん、神功皇后が魏に使節を送ったということは書かれておらず、
結局、卑弥呼と神功皇后は同一人物だと思わせるような書き方がされていながら、
断定はできないようにあやふやに書かれている。

そして、魏志の引用は外交の記録のみで、邪馬台国や卑弥呼の記述の引用は
全くない。

また、一生独身で、ひきこもっていて、会える人物も限られていたという
卑弥呼に対して、神功皇后は結婚していて子供もいるし、自ら軍を率いて朝鮮
出兵したと書かれている。

これで、日本書紀に卑弥呼のことが書いてあると言えると思うのか?

日本書紀が中国や韓国の史書を詳細に研究して書かれていることはよく知られている。
日本書紀の編者達は魏志倭人伝を無視することができず、卑弥呼と混同するような
女帝を創作したというのが有力な説だ。
123名無しさん@1周年 :2000/10/08(日) 19:16
女帝の創作説は、朝鮮とその手先のサヨクの説。(わら
百済系史料などにも見られる神功皇后の話を、120年繰り上げたと見るのが自然。

本来の卑弥呼の話は、天照大神や箸墓のヤマトトトヒモモソヒメの伝説でしょう。
124>123 :2000/10/08(日) 21:23
百済系史料って好太王碑文のことを言ってるのか?
あの短い文章の中に女帝のことが書いてあったかな?
それとも、他にも当時の朝鮮の史料があるのかな?
日本にも4〜5世紀の史書は残ってないけどね。

だいたい、好太王碑によると倭が新羅に攻め込んだのは西暦391年。
120引いたら271。魏志倭人伝の卑弥呼も日本書紀の神功皇后も死んどるぞ。
計算もできんのか?(ワラ
125名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 00:38
124は日本書紀を読んだこともない厨房だったのか。
北朝鮮=朝鮮学校の電波本は、良く読んでいそうだけどな。(わら
古代史ファンなら、百済系三史書が、日本書紀に引用されているのを知っていて当然。
日本書紀では、中国史書の卑弥呼+臺与の両方の記事を、神功皇后と合わせるように
しており、そのために、百済王の年代も一緒に120年繰り上がっている。
126日本@名無史さん :2000/10/09(月) 01:21
○○右翼は罵倒なしで論じられないようで・・・
得意げに知識を振りかざすが、ネットで暴言を吐いて
嫌われるだけの真性○○。
世の中の役に立つわけでもなく、人と冷静に話し合うこと
もできない。
当然現実世界でもろくな人間性を発揮していないことは
間違いないね・・・
127名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 01:56
126は反論できなくなったので逆切れ(わら
古代史の議論をしたのなら、最低限の知識は必要。
それもない低脳が、厚顔無恥に滔々と話せば、罵倒されて当たり前。
朝鮮とその手先のサヨクの歴史捏造は、ジ・エンドに向かっている。
128名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 03:16
歴史捏造が破綻した朝鮮とその手先のサヨクの逆切れあげ
129日本@名無史さん :2000/10/09(月) 03:26
>>119
支那の配下だったことを隠すべき恥だと考えるなんて,
そりゃ近代的な発想だな(わ
130日本@名無史さん :2000/10/09(月) 03:34
独りよがりの朝鮮扱いで皆のスレに対する興味を
削ぎ放題の○○右翼に乾杯!
131名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 09:49
朝鮮とその手先の低脳サヨクの逆切れが笑える
132名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 10:12
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn00100804.html
出雲大社境内遺跡から心御柱出土 '00/10/8 (中国新聞)

 平安時代末の本殿の巨大柱根が四月に見つかった出雲大社(島根県簸川郡大社町)の
境内遺跡から、本殿の中心を支えた「心御柱(しんのみはしら)」と南東の側柱が
出土した。当時の建物規模や柱配置を知る上で貴重な発見となる。七日の発掘調査
指導委員会(委員長・渡辺貞幸島根大教授)で町教委が報告した。

 地表下一・六メートルでそれぞれの柱の上面を確認した。ともに三本の柱材が
一組になり、四月に発見した柱と同じ形態だった。神社で最も重要な柱とされる
心御柱は四月発見の柱の北にあり中心間の距離が七・三メートル。南東側柱は同じく
東へ六・七メートルの位置から出土した。

 出雲大社本殿は代々、田の字形に九つの柱が並ぶ大社造りとされる。平安の
本殿遺構はこれで九つのうち三つの柱を確認した。大社に伝わる本殿平面図
「金輪造営図」の配置とほぼ一致し、四月発見の柱が南側宇豆柱(うずばしら=
棟持ち柱)、今回のものが心御柱と南東側柱と判断した。

 サンプル調査の結果、樹種はスギで、三本組み柱を構成する柱材一本ごとの最大径は
見える範囲で、心御柱一・二メートル、側柱〇・八五メートル。心御柱全体の直径は
推定三メートル余りで宇豆柱よりやや大きい。

 三カ所の柱の位置から当時の本殿を復元すると、南北一一・六メートル、東西
一三・四メートルと横長の長方形となり、正方形の金輪造営図とは異なる。上層の
床面が正方形になるよう側柱が内傾していたとの見方もある。

 柱の上の土は焦げた部分があり、柱状高台付坏(つき)など土器片もあった。
建物廃絶後、火を使う祭祀(さいし)があったとみられる。柱からは赤い顔料も検出、
柱が朱色に塗られていたことも分かった。

 町教委は、二十日まで現場を公開し、説明資料を配る。

【写真説明】出雲大社境内遺跡で確認された、平安時代末の本殿の中心を支えた心御柱
133日本@名無史さん :2000/10/09(月) 11:41
結局大王は渡来系ってことでいいよね?
134>133 :2000/10/09(月) 14:25
ハア?
それなら日本人が渡来系という意味じゃん。
135日本@名無史さん :2000/10/09(月) 17:31
>134
えっ、何でそうなるの?
大王=日本人全体なの?
136日本@名無史さん :2000/10/09(月) 18:26
>133
渡来系とは何をさして言ってるの?
137名無史さん :2000/10/09(月) 18:27
渡来系でない日本人はいないね。
138球磨族 :2000/10/09(月) 18:31
いまだに騎馬民族征服説を支持してる学者なんて天然記念物もの。
139酔生夢死ジーモン :2000/10/09(月) 18:47
>138
それを担ぎ上げ、「大陸進出」の”夢”を青少年に
与えた(植え付けた?)のが日本の軍部。
ジンギスカンや(大半は華人だが)満州の馬賊への
憧れを煽ってね。
140名無し@1周年 :2000/10/09(月) 19:18
朝鮮半島も(特に南部)、日本列島も中国人の植民地として発達した。
大王は中国人です。大体、半島に住んでいた人を、今の観念で単一的に
朝鮮人と捉えたりしているのは、朝鮮サヨ扱いを受けてもしょうがない。
戦禍をを逃れたり、商業的利得を求めたり、支配層、官吏として
派遣されたであろう中国人が、地理的に有利な半島南部に面、線的でなく点として
拠点を築いていった考えるべき(香港やシンガポール、マカオのように)。
半島にいるのは朝鮮人、列島にいるのは日本人みたいな図式はナンセンス。
たとえば、在日朝鮮人は日本人なの?
141名無し@1周年 :2000/10/09(月) 19:30
渡来系のひと括りでは意味なし。
142日本@名無史さん :2000/10/09(月) 20:33
>140
トンデモ本ですか?
143名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 00:26
>139
騎馬民族説は、戦後間なしに発表されたトンデモ説
ジンギスカン=源義経が、戦前のトンデモ説
144140 :2000/10/10(火) 00:41
まあ、見ての通り、トンデモだけど、朝鮮か日本かの2者択一が
うざいので。
証拠はないけど、文献を参考にすれば、そんな世界が見えてこない?

それと、矛盾承知の使い方だけど、中国人とは漢民族じゃないよ。
もともと中国に住んでいた人達ということ。
145日本@名無史さん :2000/10/10(火) 02:08
応神天皇渡来(新羅)人説は結構よく聞くけど?
146:2000/10/10(火) 02:46
それはトンデモ説だね。
147日本@名無史さん :2000/10/10(火) 03:36
>146
大胆な仮説といってやって
148日本@名無史さん :2000/10/10(火) 06:04
応神天皇は九州人だっつーの(笑
新唐書にも天皇家は北九州筑紫の出身だと書いてある。

文化的な経路はともかく、
軍事的には半島から列島への流れはなかった。
反対に、軍事的には列島から半島への流れが圧倒的だよ。
むしろ、南朝鮮が倭人の植民地的存在だった。

応神天皇が朝鮮人であったとはまず考えられない。
軍事的後進地域の指導者が征服者となるとは考えづらい。

紀元4〜5世紀頃までは列島の方が地位が圧倒的に上だったんだ。
そこを勘違いしちゃいけないよ。。。
149日本@名無史さん :2000/10/10(火) 11:32
新唐書なんて天皇家の都合のいい情報をそのまま聞いて
写してるだけ。
何ら渡来説成立を妨げない。
でも何で筑紫なんだ?
大和か日向が理想的な出身地だろ?
150名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 11:57
>148
新唐書は、北宋時代にチョウ然が献上した書を引用したモノで、
神武以前は筑紫城に居たと書いてある。九州全体を筑紫島と称することがある。

>149
中国・朝鮮の正史にも、日本が半島から来たとする記述はなく、根拠ゼロ。
『翰苑』引用の「魏略」に、倭国からの使者が、呉の太伯の末裔と称したとある。
南方からのルートだと、日向に最初の拠点を置いたことは理解しやすい。
151名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 12:11
>147

大胆な仮説といっても、証拠らしい証拠がなさ過ぎでしょう。
記紀でもわかるとおり、かなり近い先祖に渡来人がいた可能性は
大きいかもしれないが、新羅人とまでいうのはトンデモです。
152名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 13:21
ここには、在日の人はどれくらい来ているの?

もし証拠のない仮説で煽っているのなら、止めてくれる?

歴史の改竄はあんたらのもっとも忌むべき事なのでしょう?

お互いの相互理解の為にも、良識をもって行動してね。

右翼的煽りも止めて下さいな。不毛な言い合いになるだけ。
153>152 :2000/10/10(火) 13:45
あ〜あ。
「わけのわからんのは在日」っていう差別思想がにじみ出てるよ、この人の言葉。
丁寧な字句を使いながら、「あんたら」ってな野蛮な言葉を使ったり。
村井章介あたりの著作を読んで、臨む姿勢ってものを問い直してみたいな。
154名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 13:53
153のような奴には、婉曲に書く人は舐められるようですな。
北朝鮮=朝鮮学校の歴史捏造とかハッキリ書くと、こいつらは引っ込む。
155名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 14:00
朝鮮とその手先の反日サヨクの歴史捏造は、正面から徹底的に叩く。
厚顔無恥な奴らに対する方策は、これしかない。
156日本@名無史さん :2000/10/10(火) 15:15
>149
渡来人説こそ、その筋の人の都合のいい妄想じゃん。
もちろん、文化的には大陸の影響があるのは当然だけどね。
あんただって漢字をつかってるわけだし。
157日本@名無史さん :2000/10/10(火) 15:24
渡来説を言ってる人は、その根拠をしめしてよ。トンデモな主張ではなくてね。
もちろん、日本列島に渡来人がたくさんわたってきている(東北にもね)
のは事実だし、天皇の先祖にも渡来人がいるかもしれないけど、
それは一般的な日本人とかわらないから、渡来系とはいえない。
結局、渡来系であってほしいという願望なんじゃないの?

158日本@名無史さん :2000/10/10(火) 15:42
応神天皇=渡来人説って古事記に神功皇后が仲哀天皇を暗殺したあと
半島に渡って戦争をし、その後、仲哀天皇の死後一年以上経ってから
帰ってきて九州で応神天皇を生んだと書かれている事から来ている。
{(暗殺)と言うのは俺の妄想だがそんな気がする。}
むしろ神功皇后は半島で高句麗人の子を身ごもり半島の戦に破れ逃げてきて
応神天皇を生んだのではないか。
応神天皇陵に馬の埴輪がある事などもその根拠となっている。
159名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 15:57
158は、戦後初期の騎馬民族説から進歩していない、根拠なしの朝鮮人の妄想の典型。
前方後円墳体制は、200年頃に作られた最初期の纏向石塚古墳以降、
漸移的な変化しかせずに続いており、応神陵古墳が特別なものではない。
160日本@名無史さん :2000/10/10(火) 16:04
>158
トンデモと願望・妄想だね。
161日本@名無史さん :2000/10/10(火) 17:35
というか、馬鹿ウヨがうざいから、大王が渡来系だったら
朝鮮学校とか言えなくなるだろうから、そう言っただけ。
実際渡来系の可能性もあるし、そう書いた書物もあったでしょ。
記紀以前の史書は残ってないし、三国史記は日本との交渉を省略。
古墳掘ろうとするとウヨが放置が一番とか言い出すし・・・
何か馬鹿ウヨが参加する古代史スレはウザ過ぎ。
162日本@名無史さん :2000/10/10(火) 17:43
というか馬鹿ウヨがうざいから、大王が渡来系だったら
朝鮮学校とか言えなくなるだろうから、そう言っただけ。
実際渡来系の可能性もあるし、そう書いた書物もあったでしょ。
記紀以前の史書は残ってないし、三国史記は日本との交渉を省略。
古墳掘ろうとするとウヨが放置が一番とか言い出すし・・・
何か馬鹿ウヨが参加する古代史スレはウザ過ぎ。
163名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 21:01
低脳サヨクの162はウソばかり書いているな。嘘八百が、サヨクの典型的な手口だけど(わら
古代の中国・日本・朝鮮の正史で、外から来たと述べているのは、
『翰苑』引用の「魏略」に、倭国からの使者が、呉の太伯の末裔と称したもの。

三国史記は、ちょうど好太王碑文に扱っている時代に、百済が皇太子を、新羅が王子を、
倭国へ人質に出した記事を載せており、当時の倭国の勢力の強大さが伺える。
このように、三国史記は決して日本との交渉を省略しているのではない。

低脳サヨクは、根拠のない嘘八百ばかり並べずに、原典を読め!
日本書紀で、手に入れやすいのは、原文・読み下し文と解説は岩波文庫、現代語訳は講談社学術文庫。
164名無しさん@1周年 :2000/10/10(火) 21:23
頭の悪いサヨクの162はトンデモ話が相手にされず逆切れ(わら
165日本@名無史さん :2000/10/10(火) 22:36
というか、馬鹿ウヨが来る前の平和が懐かしい。
三国史記は広開土王碑文の所以外にも作為的と思われる
省略が多々あるよ。
どうでもいいけど、どっかよそいって悪態ついてクレよ。
皆そう思ってるはず。
放置は古墳より馬鹿ウヨにこそふさわしいね。
166名無しさん@1周年 :2000/10/11(水) 00:49
朝鮮とその手先の低脳サヨクは、ちゃんと原典も読んでいないことがばれて、
北朝鮮=朝鮮学校の電波な捏造本のトンデモ話を垂れ流していたことが見破られた。
最近の考古学の進歩にも当然無知で、まともな古代史ファンなら良く知っている
好太王碑文改竄説の捏造に触れられることに過敏になり、恥の上塗り。

そのような、おバカなことを繰り返していては、サヨクの歴史捏造は失敗するのは当たり前。
お前らは、北朝鮮へ逝って暮らせ。
167名無しさん@1周年 :2000/10/11(水) 00:53
低脳サヨクは、古代史には全く無知で、反論できずに逆切れ、いとあわれ(わら
168日本@名無史さん :2000/10/11(水) 00:56
ウヨ電波の駄文はサーバーの負荷を増やすだけ。
自分で掲示板作ってやんな。
多分誰も来ないと思うよ。
169名無しさん@1周年 :2000/10/11(水) 01:08
朝鮮の手先の電波な反日サヨクが不要なのはハッキリしている。
反日サヨクの本なんて、サッパリ売れていない。
お前らの日本を破滅させようとする謀略は破綻している。とっとと北朝鮮へ逝け。
170名無しさん@1周年 :2000/10/11(水) 01:12
朝鮮とその手先の低脳サヨクは、反論できずに逆切れするだけの能なし。(わらわら
171日本@名無史さん :2000/10/11(水) 01:32
右翼とその手先の低脳厨房は、議論できずに罵倒するだけの能なし。(わらわら
172日本@名無史さん :2000/10/11(水) 02:18
化石は死んで>右翼・左翼
173日本@名無史さん :2000/10/11(水) 02:48
>171
これが有名な三国人の「鸚鵡返し」か。
174何度でも書く :2000/10/11(水) 02:49
 貴方や貴方の知り合いが信じている団体は大丈夫ですか?
◆実在のカリスマ的指導者が中心にいて、メンバーは無条件に心酔している。
◆新しいメンバーの獲得に余念がない。
◆金儲けにのめり込んでいる。
◆質問したり、疑問を持ったり、反対意見を唱えることは認められず、 罰せられるケースさえある。
◆瞑想や詠唱、体力を消耗させる労働など、精神を麻痺させるテクニックを用いて 疑いの心を持てないに仕組んでいる。
◆指導者がメンバーの考え方や行動、感情を細部に至るまで支配している。
◆エリート主義的な発想に立ち、集団とそのメンバーと指導者は特別な高い地位に あると主張している。
◆自分たちは善、外部者は悪という「二分法」的な考え方に立ち、一般社会との 軋轢を生み出している。
◆主流の宗教の聖職者などとは違って、指導者にはいかなる権威に対しても 従う意思がない。
◆倫理に反すると考えられるようなこと(不正な目的の募金活動など)でも、 目的のためなら正当化されと教える、または、ほのめかす。
◆メンバーの罪悪感をあおって、支配力を強めている。
◆メンバーは集団に従属させられ、家族や友人との絆は断たれ、それ以前の 個人的な関心事も忘れてしまう。
◆メンバーは当然の義務として、集団の活動に法外なまでの時間を費やすことを 求められる。
◆ 同じ集団のメンバーとの共同生活や、メンバーのみとの交流が奨励される、 あるいは、義務づけられている。
2つ以上当てはまる方は残念ながら創価学会です。 早急に脱会しましょう(薦めてください)!
どんなに話を反らしても創価学会の行ってきた犯罪が消える事はありません。
池田大作を頂点とする恐ろしいニセ宗教(カルト犯罪組織)です。
175日本@名無史さん :2000/10/11(水) 13:47
記紀は中国の史記や三国志、後漢書を意識しながら書いてあるし
朝鮮の三国史記は記紀を見ながら書いたふしがある。
後代になってかかれたものほど間違いが多い。
信用しちゃだめよ。
176秀@レイカ命 :2000/10/11(水) 14:28
これよりこのスレは以下の単語は禁止になりました

ウヨ。ウヨク。サヨ。サヨク
騎馬民族説。好太王碑文改竄説
177日本@名無史さん :2000/10/11(水) 15:10
貴方や貴方の知り合いが信じている団体は大丈夫ですか?
◆実在のカリスマ的指導者が中心にいて、メンバーは無条件に心酔している。
◆新しいメンバーの獲得に余念がない。
◆金儲けにのめり込んでいる。
◆質問したり、疑問を持ったり、反対意見を唱えることは認められず、 罰せられるケースさえある。
◆瞑想や詠唱、体力を消耗させる労働など、精神を麻痺させるテクニックを用いて 疑いの心を持てないに仕組んでいる。
◆指導者がメンバーの考え方や行動、感情を細部に至るまで支配している。
◆エリート主義的な発想に立ち、集団とそのメンバーと指導者は特別な高い地位に あると主張している。
◆自分たちは善、外部者は悪という「二分法」的な考え方に立ち、一般社会との 軋轢を生み出している。
◆主流の宗教の聖職者などとは違って、指導者にはいかなる権威に対しても 従う意思がない。
◆倫理に反すると考えられるようなこと(不正な目的の募金活動など)でも、 目的のためなら正当化されと教える、または、ほのめかす。
◆メンバーの罪悪感をあおって、支配力を強めている。
◆メンバーは集団に従属させられ、家族や友人との絆は断たれ、それ以前の 個人的な関心事も忘れてしまう。
◆メンバーは当然の義務として、集団の活動に法外なまでの時間を費やすことを 求められる。
◆ 同じ集団のメンバーとの共同生活や、メンバーのみとの交流が奨励される、 あるいは、義務づけられている。
2つ以上当てはまる方は残念ながら創価学会です。 早急に脱会しましょう(薦めてください)!
どんなに話を反らしても創価学会の行ってきた犯罪が消える事はありません。
池田大作を頂点とする恐ろしいニセ宗教(カルト犯罪組織)です。


178秀@レイカ命 :2000/10/12(木) 11:18
で、結局いつよ?大和朝廷の成立は?
179名無しさん@1周年 :2000/10/12(木) 11:28
何を持って、成立とするかにも依りますが、
土器型式から最初期の前方後円墳とされる纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃で、
一つの画期と言えるでしょう。
卑弥呼の墓説が有力な、最初の巨大古墳と言われる箸墓古墳も一つの画期と言えるでしょう。
ここら辺を実質的な始まりと考えれば良いのでは?
180秀@レイカ命 :2000/10/12(木) 11:45
なるほど。巨大な墓がある→明らかに強大な権力者の存在を示す
というわけですか。納得

つか、よく見たら、ここ>>5 に同じことが書いてあるな^^;
181日本@名無史さん :2000/10/12(木) 11:49
纏向石塚古墳は誰の墓なんですか?
大胆な意見求む
182日本@名無史さん :2000/10/12(木) 14:03
>纏向石塚古墳
もう被埋葬者の遺骸の一片も残ってないの?
183名無しさん@1周年 :2000/10/12(木) 14:09
>182
戦時中に高射砲の土台とするため、上部がならされたときに、石室が破壊されたらしいです。
近年の発掘では、土器に関する膨大なデータが得られ、最古級の前方後円墳であることは
確認されましたが、石室に関わる遺物は発見されませんでした。
184日本@名無史さん :2000/10/13(金) 00:50
石塚が3世紀初頭の古墳だとすると被葬者は倭国大乱で功を遂げ
大和と吉備の連合を成し遂げ 卑弥呼を擁立したキングメーカー的存在の人物で
この人物は銅鐸祭祀を取り止めた秘密もよく知っているに違いない。
纏向の他の古墳はこの王と血縁関係にあった王族で 箸墓に葬られている卑弥呼
とは血縁関係はなさそうだ。
185日本@名無史さん :2000/10/13(金) 20:57
石塚と楯築って同年代?
186名無しさん@1周年 :2000/10/14(土) 10:50
土器型式から、楯築は弥生Vの終わり、纏向石塚は庄内の初めとされているそうで、
これによると、楯築の方がやや古いことになります。
187日本@名無史さん :2000/10/14(土) 12:12
箸墓の後方部はいつ作ったの?
188名無しさん@1周年 :2000/10/15(日) 00:28
最近の周壕の調査によると、箸墓の後円部と前方部の年代差は特にないそうです。
箸墓など、初期の前方後円墳は、前方部の幅が狭くて、高さが低く、祭壇と考えられ、
当時は後円部が墓のメインでしょう。
その後、造りだしが祭壇とされて、前方部の幅も広がり、高さも後円部と変わらなくなります。
189日本@名無史さん :2000/10/15(日) 10:07
纏向の他の古墳はいつ発掘するの?
一番古いのはどれ?
三輪山ももっと調査するべきじゃないの?
馬口山とかあのへんの古墳もなんで発掘しないの?
予算がないの?
発掘予算っていくらぐらいかかるの?
考古ファン多いんだからカンパ集めるとか雑誌が先導して
金集めるとかやればいいのにね
190名無しさん@1周年 :2000/10/15(日) 23:29
纏向石塚・黒塚・ホケノ山古墳と、次々と着実な調査が続いている。
それに、きちんとした調査報告書を出す作業も当然ながら必要。
功をあせり乱発掘をして、取り返しの付かないことをするのは、愚の骨頂でしょう。
191日本@名無史さん :2000/10/15(日) 23:57
びびって何百年も放置する方が明らかにマイナス。
早めに修復できる物は修復しようよ。
それが遺産の為ってものさ。
感情論で語るのは馬鹿らしいよ。
192名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 00:11
191は遺跡発掘を知らない厨房決定
193日本@名無史さん :2000/10/16(月) 00:44
すぐ本性が出る右翼に微笑
194名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 00:48
発掘の問題点が分からない低脳サヨク登場(わら
195日本@名無史さん :2000/10/16(月) 01:16
天皇家の起源を明らかにされたくないウヨ発見!(ワラ
196日本@名無史さん :2000/10/16(月) 01:26
なんだ、まだ194はうろついていたのか、アレだけ恥かいてるのにな。
197日本@名無史さん :2000/10/16(月) 01:30
ていうか、この板の問題点はおめえだよ、194.
しっしっ
198日本@名無史さん :2000/10/16(月) 01:34
なんだ、まだ195はうろついていたのか、アレだけ恥かいてるのにな。
ていうか、この板の問題点はおめえだよ、195.
しっしっ

199日本@名無史さん :2000/10/16(月) 01:50
俺は天皇陵の発掘をして、お宝はすべて手にするつもりだ。
ただ、すでに盗掘にあっているのがほとんどだから、天皇家と渡来人の縁の深さを証明してやるよ。
銅矛一本50万で売れます。
200日本@名無史さん :2000/10/16(月) 02:08
へええ、かまかけてみたら、やっぱり194か。
大仙古墳スレで放置されてしまったのは。
あせってマネレスか。へっ
201日本@名無史さん :2000/10/16(月) 02:11
まあ、面白そうだから君を見守らせてもらうよ、194。
気にするなって、君みたいの周期的に湧いてくるからさ。
こっちは全然気にしてないぜ、フフ
202日本@名無史さん :2000/10/16(月) 02:14
じゃあ、そろそろ寝るぜ。
肝っ玉の小さいあんたは、起きたらすぐここをチェックして、おれにサヨだの朝鮮だのわけのわからんレスをつけるんだよな。
いいさ、気にしないよ。
お前を見てると楽しいからな、せいぜい頑張りな、194君よ。
203名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 08:13
ぷぷぷっ、低脳サヨクは、未だ電波な騎馬民族説に期待しているのか(わら
日本・中国・朝鮮の古代の正史には、全く書かれてもない妄想的な願望。
考古学の進歩と共に、日本書紀などの信憑性が再認識されているのに。
魏略逸文に、呉の太伯の末裔との記載があり、日本書紀でも南九州に最初の拠点を
置いたように記しているから、南方ルートはありそうだけど。
204日本@名無史さん :2000/10/16(月) 10:52
天皇家の源流が半島にあることを認められないキティウヨ発見!↑
205名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 11:26
呉→南九州→畿内と主張するなら根拠もあるけど、
朝鮮人の願望に過ぎない、何の根拠もない妄想を垂れ流す204は無知蒙昧(わら
206日本@名無史さん :2000/10/16(月) 11:30
てゆーか、騎馬民族征服説をまだ信じ込んでる人いるの?
204みたいに政治思想的な願望で言っても、意味無いよ。
207名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 11:46
北朝鮮=朝鮮学校が宣伝した、好太王碑文改竄説の欺瞞を明らかにした
王建群・吉林省文物考古研究所長(1984)『好太王碑研究』(吉林人民出版社)で、
“歴史は客観的存在であり、歴史の研究は事実にもとづいてすすめなければならない。
中国に対して破壊活動を行なった酒匂景信や当時の日本陸軍参謀本部の犯した罪は
徹底的に暴露しなければならない。しかし同時に、事実を無視し、根拠のないことを
書き加えるようなことは、してはならないのである。”
と、考証に基づくべきと指摘しているが、政治運動に都合の良い捏造ばかりの
低脳サヨクの電波な主張ではお話にならず、歴史を語る能力が無いことにいい加減気付け。
208名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 12:00
>203
「廣韻〜餘」風俗通義によると百済王夫餘氏は呉の人である。
大和の地にやって来た多くの百済人も呉国の人を名乗っている。
「呉>百済>大和」か「呉>大和>百済」か流れはわからないが、
百済の方が祖地を呉とする意識が強いのは明らかだ。
209名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 12:44
「廣韻〜餘」風俗通義って、百済滅亡後に編纂された本でしょ。

同時代史料に基づく中国正史は、百済を高句麗から出たもので、扶余系としており、
百済は4世紀から登場している。高句麗は、王葬時代から中国正史に登場している。
こちらの信憑性の方が高いでしょう。

また、平安時代初期に編纂された新撰姓氏録は、諸蕃の出自は、
漢・百済・高麗・新羅・任那に分けて記しており、漢と百済は区別している。
楽浪郡にいた漢人や、中国本土から渡ってきた漢人を、土着民と混同しないように。
例えば、日本に中国文化を伝えた王仁博士は、漢の霊帝の末裔としている。
210日本@名無史さん :2000/10/16(月) 20:29
>>207
また君かい、偶には違うネタ振ってよ。
いい加減あきたぜ?
211名無し@金も無し :2000/10/17(火) 04:24
百済って、元々「伯済」って記していたと思うけど、勝手な想像をすると伯済は、
済(わた)ってきた太伯の裔が築いた国という意味で付けられた名前のような気がする。
その後扶余系の人が王となって、音は変えずに伯→百にして新しい国名にしたんじゃないのかな。
ということで、王と少数派の人々が北方系で、被支配者層は南方の呉系の人が多かったとか。
これなら、同時代の中国正史が百済を北方扶余系とし、「廣韻〜餘」風俗通義が、
百済王夫餘氏を呉の人と記したかったことの説明がそれなりにつくと思う(つかないかな?)。

とにかく倭国もそうかもしれないけど、朝鮮半島はいろんな人が入り乱れていたんでしょう。
古代、人の移動はダイナミックで、奈良以降の固定的な国境かつ困難な航海という
ものさしで推し量っていると、誤った判断しか出来ないように思う。

日本も朝鮮も、中国文明圏の末端?にしっかり組みこまれていたと考えるべきでは?
何か、弥生時代から古墳時代の日本を、未開の地扱いし過ぎていて、大きな流れを
見誤っているような気がしてならない。
文献がない、文字が残っていないということで、やっぱり未開なんでしょうかね?
212名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 07:18
>211
と言うことは、朝鮮人は日本の室町時代まで国字を持たなかったから、
ずっと未開の状態が続いたとキミは解釈するわけですな。(わら

朝鮮民衆文字「訓民正音」を作らせた、李氏朝鮮世宗の前書きの言葉は以下の通り。
「国之語音、異乎中国、與文字不相流通、故愚民有所欲言、而終不得伸其情者多矣、
予為此憫然新制二八字、欲使人人易習、便於日用矣」

(訳:我が国の言語は中国と異なり、文字も上手く通じない。だから愚民は
言いたいことがあっても自分の意見を言うことができない。私はこれを可哀想に
思って二八字を新たに定めた。人々が簡単に勉強できて、日常生活に便利に
なることを願ってのことだ)

電波な朝鮮人が言う、「民族意識の高揚に呼応するように」作ったものではない。
あくまで「愚民」の「日用」の為のもので、両班の高級な生活の為のものではなく、
訓民正音(ハングル)を蔑視し、公文書や支配層の文書では、絶対に用いなかった
213名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 10:22
>212
あまり煽るような極解をするなよ。
214名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 18:06
漢人の植民地の朝鮮あげ
215日本@名無史さん :2000/10/17(火) 19:32
216名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 20:41
sage
217日本太郎 :2000/10/17(火) 22:01
桓檀古記 高句麗国本紀によると高句麗の政権争いに敗れた王子が
阿蘇山の麓にきて多婆羅国(多羅)を建国し、熊襲城を有すとある。
その兄弟国として安羅国が阿蘇山の南にあった。
この安羅が任那に入ったという。
多婆羅国が後に任那と併せて聯政として治められたと記載されている。

確証はないが現在有明海周辺に、玉名、多良岳、太良町、田原坂等の
地名が残っている。

和訓栞には「百済は旧多羅の養成るべし」とあるので、多羅が百済に
進化したということだろう。
百済のことを日本のみクダラと呼ぶのはこの「旧多羅」ということだろう。

高句麗国本紀に「倭人は百済の介なり」と書かれている。
これは「倭人が百済の味方である」ということか「百済は倭人を
助けている」という意味かはわからないが、関係が強いことを意味している。

海峡を挟んだ聯政の内、その九州側が東征し大和に、韓国側が百済になったの
ではないか。
ちなみに日本書記には百済について「安羅を以て父とす。日本府を以て本と
するなり」と記載されている。
218日本太郎 :2000/10/17(火) 22:14
「安羅を以て父とす。日本府を以て本とするなり」
これは任那についてだったかな?ごめん
219名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 01:21
桓檀古記は、20世紀になって出現した電波な偽書。
こんなものを使っていては、話にならないぞ。
220名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 12:43
偽書あげ
221名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 07:55
巨大古墳あげ
222日本@名無史さん :2000/10/19(木) 08:46
>>219

詳しく希望。
223名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 20:00
>222
別冊歴史読本 特別増刊(14)『「古史古伝」論争』の中に、
韓国学者が偽書について書いた翻訳文「韓国における古代史論争」に載っています。

朝鮮で古代史の議論に使える史書は、12世紀中頃(日本の平安末期)に編纂された
「三国史記」が主なもの。これと、三国遺事が比較的古いくらいで、他は偽書とか論外が多い。
224名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 03:10
朝鮮は偽書だらけ
225名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 15:47
電波な古史古伝は痛いぞ、あげ
226日本@名無史さん :2000/10/20(金) 20:32
227名無しさん@1周年 :2000/10/21(土) 00:05
強大な大和王権あげ
228名無しさん@1周年 :2000/10/21(土) 01:28
世界最大級の前方後円墳あげ
229日本@名無史さん :2000/10/21(土) 01:34
強大な戦艦大和あげ
世界最大級の戦艦大和あげ

変な自慢
230名無しさん@1周年 :2000/10/21(土) 18:31
極東の強国大和あげ
231日本@名無史さん :2000/10/21(土) 19:28
祟神天皇は大和盆地に居住していたのはまちがいのないところですか?
崇神天皇からが確実に実在した天皇(大和の大王)と
されている。
233日本@名無史さん :2000/10/22(日) 00:49
>232
いつの話をしてるんだか…
234名無しさん@1周年 :2000/10/23(月) 00:30
>231
古墳時代前期は、奈良県に大きな古墳が集中し、古墳時代中期は、大阪府に大きな古墳が集中します。
日本書紀には、神武〜成務天皇までは大倭国、仲哀天皇以降は河内国に陵墓を記しています。
両者は調和しており、祟神天皇は奈良盆地にいたと考えるのが妥当でしょう。
神武以降数代については、日本書紀・延喜式が示す比定地に目立った古墳が無く、
古墳時代以前の弥生墳丘墓の時代だった可能性もあるでしょう。
235日本@名無史さん :2000/10/23(月) 12:17
>233
今ではどう考えられているんですか
236名無しさん@1周年:2000/10/23(月) 12:35
>235
かなり後世の日本書紀・古事記・風土記などが根拠で、
同時代の文字史料が出土していないので、どうとも言えないでしょう。

戦後直ぐは、戦時中の反動で、多数の古代天皇を非実在と主張する意見が目立ちましたが、
さきたま古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘に、雄略天皇が書かれていたり、
祖先のオホヒコが四道将軍の大彦命に対応する可能性を指摘したり、
百済武寧王の墓碑の発見で、日本書紀引用の百済系史料の王名・薨去年月の正確さが確認されたり、
日本書紀の信憑性が再確認されるにつれ、次第に実在すると考える古代天皇が古くなりつつあります。

名前の合致の有無は別にして、3世紀以降、畿内には巨大古墳が次々と作られており、
前方後円墳体制が広がっていっており、強大な権力者が存在したことは事実でしょう。
237名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 07:39
神武天皇あげ
238名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 15:45
崇神天皇あげ
239名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 00:24
応神天皇あげ
240日本@名無史さん:2000/10/25(水) 01:10
神の国あげ
241おしえて:2000/10/25(水) 01:24
「邪馬台国は結局どこにあるの?」スレッドで、出雲・日向連合が畿内に侵入して大和朝廷になったと主張している人がいました。
神武東征神話で神武天皇が大阪に上陸するまでの行程がほとんど記述されていないことから、畿内に入る前の大和朝廷は九州から瀬戸内海にかけての一帯を既に支配下に置いていたというのです。

日向については邪馬台国東遷説などとの絡みもあり、とくに奇妙とは思いませんでしたが、出雲が日向と同盟関係にあって大和の祖となったというのには違和感を感じました。

また、その人によると当時の吉備は出雲に服従していたそうです。
大和朝廷成立初期に詳しい方から見て、この説はもっともでしょうか?
242名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 01:57
日本書紀の記述を見ると、神武天皇は東征ではなく、東遷と言う感じでしょう。
当初の版図は狭く、崇神天皇の時代以降に、勢力を大きく広げたと書いてあります。
弥生時代の近畿・東海では銅鐸祭祀が盛んだったのに、これが消滅した時期と、
関係あるのかが注目されます。暦年としては何時頃なのかな。
なお、神武以降数代の陵墓は、日本書紀・延喜式に示された場所に目立つ古墳はなく、
弥生墳丘墓の時代の可能性があると思う。

土器を見ると、吉備と出雲には強い関係があるようですが、弥生時代末の墓制は、
吉備は円墳の両側に突起がある弥生最大の楯築弥生墳丘墓、出雲は四隅突出型墳丘墓と、
異なっており、支配関係はないのでは。
243日本@名無史さん:2000/10/25(水) 02:13
ナガスネ彦などのニニギ系勢力はモデルがいたのかね?
3世紀の人物とは思えないが・・・
244名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 07:39
神功皇后あげ
245日本@名無史さん:2000/10/25(水) 09:39
崇神天皇以前の天皇が創作だって事は常識だが
神武、崇神、応神も同一人物で、応神天皇が九州から東征したのを
神武に、大和に入ってからの業績を崇神に振り当てた。
崇神〜応神の間も大和に国家があっても日本を統一するような大きな
ものではなかった。
応神は九州を発して西日本を統一した最初の王権と言えるのでは。
246名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 09:52
>崇神天皇以前の天皇が創作だって事は常識だが

常識じゃないでしょう。
かつては、応神以前は創作と言う人が多かったり、時代背景でコロコロ変わる。

>応神は九州を発して西日本を統一した最初の王権と言えるのでは。

何の根拠もない妄想。(わら
卑弥呼の墓説が有力な、最初期の巨大古墳である箸墓古墳の特殊器台を見ると、
畿内(邪馬台国)と吉備(投馬国)との連合が出来ていたようだし、
伊都国に一大率を置いて、北部九州の諸国を畏れさせ、睨みを利かせていたようだし、
この時点で、近畿以西は連合体として、統一されていたと見るべきでしょう。

一方、東海発祥の前方後方墳体制(狗奴国)が、関東・東北南部まで広がり、
東国では別の連合体が出来ていたようだったのが、その後、前方後円墳体制に変え、
日本の主要部を統一しています。
247日本@名無史さん:2000/10/25(水) 10:18
>>応神は九州を発して西日本を統一した最初の王権と言えるのでは。
>何の根拠もない妄想。(わら
記紀によれば応神天皇は九州で生まれ九州で育った。
仲哀天皇の死後20年近く大和に天皇がいなかった事になる。
このあたりをどのように説明するのかね。
単なる大和内部の政権交代か、外来の征服王朝かといえば
九州にいた応神が王位についたと言う事は外来の征服王朝と考える
のが自然と言うもの。
248名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 10:51
>247
母親の神功皇后は、畿内から三韓征伐のために遠征したと記されているのを、
意図的に触れないのが電波なところだな。
249名無しより愛をこめて:2000/10/25(水) 11:49
>248
おいおい、神功皇后こそ後から挿入された創作じゃん。三韓征伐が史実だと思ってるのか?
後から挿入されたからこそそういう矛盾が出てるんだよ。
250名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 13:19
>三韓征伐が史実だと思ってるのか?

任那スレッドを読め。倭国による朝鮮半島南部の支配は、
同時代碑文・文献・考古資料と調和する。歴然たる事実と見るべき。
251名無しより愛をこめて:2000/10/25(水) 14:11
>250
あほぅ。三韓征伐の内容と全然違うだろうが。
それに類する事実はあったとしても、時代や詳細が全然違うんだよ!
252名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 15:06
>それに類する事実はあったとしても、時代や詳細が全然違うんだよ!

神功皇后を、卑弥呼+台与に対応させるために、神功紀に引用した百済系史料の
百済王の年代を干支2運(120年)繰り上げていることは良く知られており、
それを補正すると時代的にも良く合う。
神功紀の七枝刀の話も、古代から続く石上神宮に実物が伝世されているのも有名。
253>252:2000/10/25(水) 18:32
また計算もできないバカが来てるな。
倭の朝鮮進出は、西暦391年。120年前の271年には魏志倭人伝の卑弥呼も日本書紀の
神功皇后もすでに死んでいる。干支で合わせるなら180年だろ。

120年繰り上げて年代が合うというのが定説になっているという時点でおかしいと気付よ。
254名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 18:43
253は一知半解の低脳
高句麗と全面対決するに至ったのが391年で、それ以前から半島での活動を行っている。
百済の皇太子から七支刀を贈られたのは372年なのを忘れるなよ、低脳君。
255日本@名無史さん:2000/10/25(水) 18:53
低脳いったらまた荒れる。
256筑紫@磐井の乱:2000/10/25(水) 19:43
今日はこんなところです
257>254:2000/10/25(水) 22:52
もちっと勉強せい。
日本書紀の記述によると、神功皇后は百済と新羅を征服し、南下して来た高句麗とも
戦ったとされている。
それに対して、朝鮮側の記録である好太王碑には、倭が海を渡って百済と新羅を征服
したのが391年。高句麗が南下して倭を追い返したのが400年とある。
この記述が同じ事柄を記しているのは明らか。

神功皇后が実在した場合、その生年は4世紀後半から5世紀にかけてだ。
258名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 01:12
>257
相変わらず一知半解だな。
石上神宮の七支刀には、369年に百済の皇太子からを贈られていると記され、
神功紀には、2運繰り下げて372年に七枝刀が見える。
三国史記には、369年に高句麗が百済を攻め、372年には百済が逆襲して
高句麗王が戦死したと記しており(これは、晋書の百済の上表文に見える)、
この争いに関連して、倭国軍が百済を支援したことと、七支刀を結びつける見方がある。
この時点で、倭国軍が高句麗軍と戦っている可能性は充分にあるだろう。

応神紀には、2運下げて417年に、高麗からの書が傲慢だと皇太子が怒ったとの記述があり、
新羅・百済と違って、高句麗は配下になっていないことを示している。
259>258:2000/10/26(木) 04:37
日本書紀によると、七枝刀は、神功皇后が百済に派遣した職麻那那加比跪(しくまななかひこ)が
近肖古王にもらったものだとされているが、これが、神功皇后の朝鮮出兵とどう関係があるのかな?
しかし、よく考えると、これは百済が倭に送った友好の印だが、なぜ、百済は自分の国を征服した
ような人物に友好の印を送ったのだろうね。変だとは思わないか?

だいたい、日本書紀によると、神功皇后は仲哀天皇の死後、すぐに朝鮮出兵し、新羅や百済を征服
したものの、1年くらいで兵を残して自分自身は帰国し、応神天皇を生んで摂政についたとされて
いて、それは、200年〜201年の出来事だとされている。

ということは、120年ずらせば実際の年になるというのなら、これは、320年の出来事だということに
なるが、三国史記には、新羅が倭に攻められたのは、346年、364年、393年の3回だとあり、
320年はないんだねぇ。残念だったねぇ。
260名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 08:11
晋書や三国史記を見ると、七支刀の贈った時期の百済にとっては、高句麗が最大の脅威でしょう。
次善の策として、倭国を選んだと考えれば、分かりやすいでしょう。
高句麗王を戦死させ、北方の脅威が薄くなった後は、倭国がどんどん強大となって、
渡海作戦を強化して、391年頃には完全に帰属関係に陥ったという段階を考えれば良いのでは?

ちなみに、三国史記には、百済に文字が伝わったのは、近肖古王の時と記されており、
年代のハッキリした記事はこれ以降となり、日本書紀が引用した百済系史料もそうでしょう。
旧楽浪郡の一部を領有した百済に比べて、新羅はずっと未開だっただろうから、古い時代の文字史料は
あまり無かった可能性が大きいでしょう。これだけ良く調和すれば充分でしょう。
261名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 08:27
日本書紀によると、応神16年(120年繰り下げて401年)に、百済王に依頼して、
中国人学者の王仁博士を得て、皇太子の家庭教師としたり、中国文化の本格的導入を
行ったとあり、ヤマト王権にはこれ以前の文字史料は殆ど無いでしょう。
その後の時期の出土史料も少なく、古事記に見えるような口伝が主だっただろうから、
日本書紀編纂で、年代史料などとして百済系史料を大量に引用しているのでしょう。
ちなみに、戦後は例によって、百済系史料の信憑性に疑義が出されたけど、
武寧王墓碑の発見で、王名と薨去年月が完全に合致していたことにより、
信憑性が高いことが確認されています。
262大和の向こう側:2000/10/26(木) 13:33
大和は幻想。すべては九州での出来事。
263名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 15:26
>262
今や、九州説信者は、その根拠すら書けない厨房が多いのが悲惨
264日本@名無史さん:2000/10/26(木) 19:00
各地に残る伝説から、神功皇后の実在はまずまちがいない。そして、その朝鮮出兵は
もちろん、391年である。しかし、日本書紀は、神武天皇の即位年を引き上げるため、
各天皇の在位年数を引き伸ばしており、神功皇后の摂政期間も、その例外ではない。

もともと摂政とは幼い天皇の補佐役。普通、摂政期間は10年前後である。しかし、
神功皇后は69年間摂政をしていたという。天皇に即位すべき人物が70歳になるまで
即位しなかったということ自体がありえず、そう、神功皇后の摂政期間は実は9年間で、
日本書紀はそれを60年引き伸ばしているのである。

そして、引き伸ばされた60年間に、神功皇后が摂政になる前の60年間の出来事を
あてはめ、神功皇后の摂政期間に起きた実際の出来事は、その60年間の前にあて
はめている。これは、90歳にもなろうかとする老女が応神天皇を生むという不自然
さを解消するため、あえて時間を逆転させるしかなかったのだ。

そのため、神功皇后にあてはめられた出来事は、実年代より120年ずらしたもの
なのだが、神功皇后が実際に行った朝鮮出兵などの出来事は、実年代より190年
ずらしたものになっているのである。
265ラーメン大好き@名無しさん:2000/10/26(木) 21:21
>264
電波野郎発見!
266名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 01:05
●揺れる弥生の年代観 年輪年代法の最新情報 朝日新聞・奈良版(10/8)より抜粋
http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?c=5&kiji=102

 弥生時代と古墳時代の過渡期の土器とされる庄内式土器が出土した纒向石塚
(桜井市)の場合、用途不明の板の年輪年代が推定で一九五年ごろだった。
庄内式土器の通説である三世紀中ごろより、約五十年古い。

 古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が
推定二五〇年ごろ。古墳時代前期の通説である四世紀初めより、やはり約五十年古い。
267日本@名無史さん:2000/10/27(金) 01:22
>264

少なくとも普通の古代史学者は、神功皇后は神話上の人物だと認識して
います。
まぁ、皇国史観の学者は別でしょうけどね。
268名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 01:42
「普通の古代史学者」が、古墳の年代を根拠なく遅らせていたから、
邪馬台国の解明にも支障を来していたわけで、連中は程度が低く、
考証精神に欠け、迎合する体質なので、信用できない。
纏向石塚古墳の年輪年代が200年頃と言う数字も、かなり前から出ていたのに、
久しく省みることがなかった。

縄文土器についても、根拠なく大陸から伝えられたものと思い込み、
放射性炭素年代測定法の開発者が、ノーベル賞を受賞し、確立した手法だったのに、
ちゃんとした試料を、アメリカの研究機関に測定を依頼したら、
世界最古の年代が次々と出たのに、日本が最古と言うのは大政翼賛会だとか、
訳の分からないことを言って、頑迷に年代を認めないなど、パー丸出しだった。

こう言うバカが牛耳っていたから、日本の古代史は歪曲されたものだった。
最近は、科学的な研究が必要なことを自覚しているようだし、良い傾向だな。
269名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 01:52
古代においても、日本から新羅への親書には、神功皇后の話を引き合いに出している。
例えば、孝謙天皇の752年がそう。相手側が、この話を納得していなければ話にならない。

倭国の朝鮮半島南部の支配は、日本・中国・朝鮮の古代の正史や、考古資料と調和的なのに、
これを隠蔽しようとする朝鮮に迎合した、腐れエセ学者にとっては、
神功皇后の存在は都合が悪いから、否定したいという邪念に過ぎないだろう。
270世界@名無史さん:2000/10/27(金) 03:47
>269
年代があわなきゃ実在してもしょうがないだろ?
それに朝鮮側の史料に神功皇后らしい人物は
見あたらないのでは?
271北朝派皇国史観者:2000/10/27(金) 07:23
>267

左翼イデオロギーの持ち主は、その反対派勢力に「皇国史観」のレッ
テルを貼ることによって、冷静な歴史の議論を封じたと言うのが実態
でしょう。それが、最近の考古学の発達は、いわゆる「皇国史観」に
有利で、思想で古代史を判断したものたちに不利な状況を作り出しつ
つあるけど、当然でしょう。
272271:2000/10/27(金) 07:32
「皇国史観」なるもの学会を牛耳り、他の歴史観の持ち主を思想
的に糾弾していたとしたら、考古学の発達は「皇国史観」に不利
になっていたでしょうね。そのことを思えば、左翼思想の持ち主
に学会を牛耳られてしまったのは、結果的に良かったかもしれな
いです。(遺物は、見事なまでに左翼史観に敵対している)
273名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 10:18
>年代があわなきゃ実在してもしょうがないだろ?

別スレで述べたように、日本書紀は神功皇后を卑弥呼+台与に比定するために、
神功紀に引用されている百済関係史料を2運(120年)繰り上げており、
それを補正すると、370年頃に、倭国が最初に朝鮮半島南部に勢力を伸ばした時期や、
七支刀の話とあう。

>それに朝鮮側の史料に神功皇后らしい人物は
>見あたらないのでは?

好太王碑文が記す時代に、百済が皇太子を新羅が王子を倭国へ人質に出した記事はあるが、
神功皇后に限らず、古代の天皇の名前は全く書いておらず、単に倭国とあるだけ。
魏志を引用した卑弥呼の名前が見える程度。
274日本@名無史さん:2000/10/27(金) 11:45
日本書紀に記されている神功皇后の時代は新羅や百済は戦うべき
相手とするほど大きな存在ではなかった。
それが日本書紀では新羅と戦った事になっている。
日本書紀の記述は眉つば。
百済、新羅が高句麗に圧迫されて日本に助けを求めてきたか、
日本に貢物を持ってこなくなるのを防ぐ為に予防的に出兵した
と言うなら納得出来るが。
記紀の書かれた時代は新羅と戦っていたので勘違いがあったかも。
275日本@名無史さん:2000/10/27(金) 14:11
276名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 15:09
http://www.nara-shimbun.com/flash/p_hn4434.html
奈良新聞 2000年10月27日
三輪の発掘成果一堂に
三輪山周辺の発掘調査の成果を展示している特別展(桜井市芝の市埋蔵文化財センターで)
秋季特別展「三輪山周辺の考古学」
桜井市立埋蔵文化財センター

 桜井市立埋蔵文化財センター(同市芝)で、秋季特別展「三輪山周辺の考古学」が開かれている。三輪山周辺の発掘調査の成果などが展示されている。

 神々の宿る山として、古くから信仰を集めてきた三輪山の周辺の遺跡を紹介することで、三輪山と人々とのかかわりや、はぐくんできた文化を浮き彫りにする展示。三輪山周辺では、「ホケノ山古墳」の発掘調査が行われるなど、邪馬台国の最有力地としても注目を集めている。
 展示では、三輪山北西の纒向遺跡、西側の芝遺跡や茅原遺跡、三輪遺跡、南側の城島遺跡や脇本遺跡などの発掘成果を写真や遺物で紹介。三輪遺跡では、三輪山祭祀に伴う遺物や縄文、弥生時代の土器などが展示されている。また、同市黒崎の市立朝倉小学校建設地で見つかった「泊瀬朝倉宮」と見られる遺跡の写真や遺物なども展示し、三輪山周辺の社会構造を紹介している。
 このほか、芝遺跡で見つかり、多産、豊じょう、繁栄を祈って祭祀用に作られたとされる「子持勾玉(まがたま)」(全長8.1センチ、厚み2.2センチ)も展示。滑石製で、親勾玉に子勾玉が飾り付けられている古墳時代中期のもので、凝ったデザインが珍しいという。
 28日午後1時30分から記念講演会も予定され、桜井市教委文化財係主幹の清水真一さんが話す。問い合わせは同センター(電0744−42−6005)へ。
277世界@名無史さん:2000/10/27(金) 21:20

神功皇后は卑弥呼に比定するために作られた
架空の人物の可能性が高いな。
息長足媛の名が刻まれた何かが出れば別だけど。

それよりも卑弥呼の半島への進出・半島との関わりの
実体が知りたい。
278名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 21:31
>神功皇后は卑弥呼に比定するために作られた
>架空の人物の可能性が高いな。

それだと、百済関係史料を2運(120年)繰り上げる理由が説明付かない。
卑弥呼は、実際は天照大神と箸墓のヤマトトトヒモモソヒメの伝説として
伝わっていたようだけど、日本書紀の編者は、そうとは思わずに、
該当する女王が見当たらなかったので、百済関係史料にも出ていた、
朝鮮半島への勢力を伸ばした神功皇后を、魏志に見える卑弥呼に比定しようと、
苦肉の策で120年繰り上げたと考える方が、遙かに自然。
279>278:2000/10/27(金) 23:10
>箸墓のヤマトトトヒモモソヒメの伝説 ←箸墓=卑弥呼の墓とする畿内説
>該当する女王が見当たらなかったので、←卑弥呼は大和朝廷とは無関係=畿内説以外

あれ、120年にこだわるのは、邪馬台国=大和朝廷なら、
卑弥呼の共立=大和による日本の統一=神武天皇の時代
台与の共立=大和朝廷の成立=崇神天皇の時代
(そのためこの2人はともにハツクニシラスミコトと記されている。)
と考えると、神功皇后の朝鮮出兵は4世紀初めくらいになるはず。という
畿内説派の論理だと思ってたんだけど、思いっきり畿内説を否定してますね。

あんた、畿内説派なの?そうじゃないの?(笑)
280名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 00:15
>あれ、120年にこだわるのは、邪馬台国=大和朝廷なら、

120年は、百済王の年代が、干支2運だけずれているからで、明確な根拠がある。
ここら辺の基本的なことは、ちゃんと勉強するべき。

>卑弥呼の共立=大和による日本の統一=神武天皇の時代

ではなくて、神武天皇は南九州から大和へ東遷したばかりで勢力も小さかっただろう。
神武以降、最初の数代は日本書紀・延喜式が示す地域に目立った古墳がなく、
まだ弥生墳丘墓の時代だったと思われる。

248年頃に没した卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳が作られた頃は、畿内と吉備の連合が
出来て、九州にも睨みを利かせているが、東日本では東海を拠点とする狗奴国が有力。

その後に、東国の前方後方墳体制を前方後円墳体制に組み込み、日本主要部の統一。
土器の年代が定かではないが、4世紀前半頃か?

>と考えると、神功皇后の朝鮮出兵は4世紀初めくらいになるはず。

その年代はどこかか出てきたのか? 論理性が感じられないぞ。
百済の皇太子が、倭王に七支刀を贈ったのが369年で、この頃でしょう。
281>280:2000/10/28(土) 03:24
同じこと何回も言わせるなよ。日本書紀によると、神功皇后は朝鮮出兵から帰ってきてから
摂政になっている。神功皇后の朝鮮出兵は200年。120たしたら320年だ。朝鮮の史料にも、
320年に倭が攻めてきたという記述はないだろが。いい加減、足し算くらいおぼえてくれよ。

だいたい、七支刀は百済からの日本に対する友好の証しだ。仲哀天皇までの天皇は親百済派
だったのに、仲哀天皇が死んだ(というか神功皇后が殺したって言われてるな)途端、
神功皇后は百済に攻め込んだと見るのが自然。

それに、神武天皇の東遷を実際にあったことと考えているようだが、東遷説では、
西都原古墳郡にある、神武天皇の曾祖父のニニギノミコトの墓が4世紀前半のもので
あることから、神武天皇の東遷もこれとほぼ同時期で、神武天皇と崇神天皇は同一人物か、
同時期の人物とするのが定説。

さらには、東遷は、簡単にまとめると「日向の神武天皇が吉備の兵を率いて大和の勢力を
倒した。」ということなのだから、これは、吉備の人々が大和に移り住んだことを示すので、
吉備と大和の文化が同化するのは当然。東遷を信じるなら、大和が吉備に飲み込まれたと
考えるべきで、大和と吉備が連合したなどという発想はナンセンス。

どうもあんたの話はあちこち矛盾してるよ。
282名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 11:24
>281
楽浪郡の故地を領有した百済は、4世紀中頃から文字記録が付けられるようになったそうだが、
辺境の新羅は未開な国で、その関連の年代を記した史料は、日本書紀編集時にはなかった
だろうから、その記事の年代は信用していない。
百済と交流を持ったのは、(近)肖古王の時代ということで、こちらを採用すべし。

>それに、神武天皇の東遷を実際にあったことと考えているようだが、

魏略逸文には、呉の太伯の末裔と称しており、江南ルートで南九州を最初の拠点と
したことは、充分考えられると思う。

>西都原古墳郡にある、神武天皇の曾祖父のニニギノミコトの墓が4世紀前半のもので

それらは時代が全く遅く、関係ないでしょう。
日本書紀・延喜式が示す神武天皇陵の地域には、目立った古墳はなく、
弥生墳丘墓の時代と考えている。
283名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 17:22
>281
>東遷を信じるなら、大和が吉備に飲み込まれたと考えるべきで、

どうしたら、そのような曲解になるのか。南九州にいた部族が、大和に移動して、
拠点を構えたと読むべきで、そう主張するなら、物的証拠を挙げたら?

土器型式から最初期の前方後円墳とされる200年頃に作られた纏向石塚古墳や、
やや遅れて作られたホケノ山古墳には、弥生時代後期の吉備に発祥した特殊器台
(埴輪の原型)は未だ並べられておらず、ホケノ山は二重口縁壷が並べられている。
もう少し遅れて、卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳には、特殊器台が並べられており、
一方の吉備は、弥生時代最大の楯築墳丘墓が円墳の両側に突起がある形態だったのが、
畿内発祥の前方後円墳を採用し、この時点で畿内(邪馬台国)・吉備(投馬国)の
連合を考えるのが妥当。
284名無しさん@1周年:2000/10/28(土) 22:15
伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社)と言う新刊書が出ていました。
纏向遺跡・箸墓古墳など、初期ヤマト王権に縁の深い地について、17人で分担して
最近の研究などを紹介しています。余りに多人数による分担のため、重複していたり、
中身の薄いものが目立つ弊害もあるけど、このスレッドに興味のある人は一見を。
285日本@名無史さん:2000/10/28(土) 23:09
石塚とかホケノ山の被葬者にあたる人は記紀に出ているの?
286名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 12:21
纏向石塚古墳あげ
287>283:2000/10/29(日) 13:00
>どうしたら、そのような曲解になるのか。南九州にいた部族が、大和に移動して、
>拠点を構えたと読むべきで、そう主張するなら、物的証拠を挙げたら?

あんた、記紀を読んでないのがバレバレだよ。
記紀によると、日向をたった神武の一行は少人数。
それが、宇佐−筑紫−安岐と滞在(滞在だよ。戦ったんじゃないよ)し、
吉備で兵力を増強して、3年かけて大和を攻め落としたことになっている。

そして、日本書紀では、吉備での滞在期間が3年であるだけで、他の滞在地
での滞在期間はわずかなのだが、古事記では、各地の滞在期間は、筑紫に
1年、安芸に7年、吉備に8年であり、どうも、こちらのほうが本当っぽい。
いづれにしても、神武東征の頃には、西日本の各国はすでに同盟関係にあり、
西日本の連合軍が大和の勢力を倒したのだと記紀には書かれているのである。
もちろん、その兵の大部分は吉備の人々である。

記紀を信じるなら、大和と吉備の連合などナンセンス。
日本書紀は、大和朝廷の正史であることもお忘れなく。

また、記紀は各地の伝承をもとに作られていて、神武東征に関する伝説は、
現在でも各地に残っている。伝承が意外と事実を伝えていることは、さんざん
馬鹿にされていた、「出雲大社は日本一の高層建築だった。」という伝承が、
近年証明されたことでも再確認されたばかり。

少なくとも、東征は、その可能性を考慮するべきで、頭から史実ではないと否定
するその態度には首をかしげる。まあ、畿内説派はそんな人ばかりなんだけどね。
288名無しさん@1周年:2000/10/29(日) 20:05
>西日本の連合軍が大和の勢力を倒したのだと記紀には書かれているのである。

そうじゃなくて、日向から大和へ東遷したと見るべきだろう。
そして、ここを本拠地として、勢力を拡大したのでしょう。
前方後円墳体制を見ても、そう解釈するのが妥当。
あんたの発言は、何ら物的証拠による裏付けのない空論。
289名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 10:07
284で紹介した、伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社)の、
「唐古・鍵遺跡周辺の趨勢」の項で、纏向周辺の弥生時代の集落と古墳時代との
繋がりについて、考察しています。
有名な唐古・鍵遺跡は、弥生時代には栄えていたのが、後期後半に大部分の環濠は埋没し、
衰退しており、纏向遺跡への移動、あるいは外部圧力による解体が考えられている。
ところが、筆者は、弥生から古墳時代への移行期である、庄内期の土器も見られ、
ムラは維持されているとの見方です。今後の発掘での解明を期待しましょう。
290名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 17:32
纏向遺跡あげ
291名無しさん@1周年:2000/10/31(火) 07:37
纏向石塚古墳あげ
292日本@名無史さん:2000/10/31(火) 08:38
定期クソアゲだな
293日本@名無史さん:2000/10/31(火) 12:23
石塚の被葬者ってだれよトンデモでもいいから ズバリ言ってちょ
294名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 01:10
ヤマトには未だ埴輪が普及しない時期のホケノ山古墳あげ
295名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 04:39
埴輪って垂仁天皇の時代かららしい。
よってホケノヤマは崇神あたりの陵と見たが・・・
296名無しさん@1周年:2000/11/01(水) 08:14
吉備発祥の巨大な特殊器台は、棺桶として使われている例があり、卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳に
並べられているのは、魏志倭人伝にある100人の殉死と関係するとの見方もあります。
ホケノ山は、特殊器台もなく、壺が並べられており、もう一段古い状況です。
垂仁天皇の時代に、殉死を止めたと言うのが日本書紀の記述は、巨大な円筒埴輪のことではなく、
人物埴輪を並べ始めたことの逸話でしょう。
297日本@名無史さん:2000/11/01(水) 15:04
マキムクの中でも三輪山に近い高台に卑弥呼の居館が埋まっていると思うのだが。
298名無しさん@1周年:2000/11/02(木) 08:05
纏向遺跡あげ
299getta@末広:2000/11/02(木) 19:04
300getta@末広:2000/11/02(木) 19:04
さんびゃっく♪
301名無しさん@1周年:2000/11/02(木) 20:01
殉死者の骨出土した古墳ってあるの?
302名無しさん@1周年:2000/11/02(木) 20:37
>301
日本は火山国で酸性土壌なので、人骨が残っている例は少なく、
鍾乳洞・貝塚のようなアルカリ性環境か、甕棺のように密封度が高い場合しか、
保存状態はよくなくて、殉死者が確認されている例は無いようです。

でも、魏志倭人伝・日本書紀共に殉死を記しており、これまでの調査技術に問題が
あるだけで、手法をちゃんと考えれば、人物埴輪を並べる以前の、初期古墳からは
検出されるのではないでしょうか。
どこかに書いてあった、土壌の脂肪酸の分析は、有効なのかな?
303日本@名無史さん:2000/11/03(金) 07:35
>269
すいません。特殊器台が棺桶になってたってどこのなんていう遺跡?
304名無しさん@1周年:2000/11/03(金) 19:47
>303
本屋で立ち読みした、古代の葬送について扱った本に載っていたものです。
具体的な遺跡名が分からず失礼。

原田大六氏によると、平原弥生古墳の土こうが、殉葬の可能性があるとしています。
305クエビコ:2000/11/04(土) 21:03
ヤマト政権の誕生時期については、わからないが、おそらく
卑弥呼の邪馬台国は、大和の巻向のあたりであろう。

そもそも中国の史書である「魏誌」が倭国に関する情報をすべて
正確に記していたと考える方がおかしい。
それよりも、当時の日本国内の各地の勢力、人口分布状況等を
客観的に考えて、それに中国の史書から得られる情報をあてはめ
ていくべきであろう。

例えば、邪馬台国は、7万戸、投馬国は、5万戸と記されているが、
これほどの大国がすべて九州に存在していたとは考えにくい。7万戸
であれば、当時の洛陽の都の人口より少し落ちる程度である。

現在の考古学の研究では、紀元3世紀に大規模な集落が存在しえたのは、
まず大和、出雲、吉備、筑紫などである。
従って、倭人伝に登場する国名は、これらの地域に当てはまると考えて
良いのではないか。

また、投馬国から邪馬台国まで、水行10日、陸行30日というのも、日本海
側を出雲から但馬あたりを経て、大和入りしたと考えればどうだろうか。
邪馬台国の発音も「ヤマト」に極めて近い。

さらに、隋書倭国伝では、大和のことを、昔の邪馬台国であると紹介して
いることも見逃せない。実際に、隋の使者は、日本を訪れており、おそらく
そういう知識を日本で得たのであろう。

「親魏倭王」の金印が、巻向当たりから出土する日も近いのではないだろうか。


306名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 00:33
当時卑弥呼は三韓進出のため九州にいたんじゃないかな?
大和はお留守にしていたと・・・
だから魏の使者も適当な伝聞をそのまま載せたんじゃないかな。
307名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 01:40
>305
>また、投馬国から邪馬台国まで、水行10日、陸行30日というのも、日本海
>側を出雲から但馬あたりを経て、大和入りしたと考えればどうだろうか。

出雲は弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓から古墳時代前期はそれから派生した方墳と、
畿内発祥の前方後円墳体制とは、歩調を異にしています。ヤマトタケルの征服の話が、
熊曾・出雲・東国なのも、遅くまで対立していたことを示すものでしょう。

古代から近世の航路を見ると、水行は安全性の高い瀬戸内海を考えるのが、常識的でしょう。
それよりは、お互いの墓制を融合させた畿内・吉備連合が、経路として妥当だと考えます。
308名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 02:13
出雲はとりあえず畿内と連合しておいて後に裏切って
対立した可能性もあるんじゃない?
309名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 02:50
>308
出雲が前方後円墳体制に入るのは、古墳時代中期だから、畿内と連合していないと思う。
古墳時代後期には、出雲東部で前方後方墳を次々と作り、また逆らっている。
310名無しさん@1周年:2000/11/05(日) 17:49
四隅突出型墳丘墓のルーツは、弥生時代中期とかなり古い時期の
中国地方の山間部にあるそうで、遺跡の保存問題の記事がありました。

陣山墳墓群の国史跡指定いつ?/三次市 - 中国新聞
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn00110408.html
311日本@名無史さん:2000/11/06(月) 04:27
新日本古代史日本国家の起源


BC5世紀ごろになると朝鮮半島から北方系民族、
江南地方から南方系民族が列島に移住ちてきて、縄文人と混血を繰り返ちながら
列島全土に広がっていったでちゅ。

なお、日本語と朝鮮語の語彙の違いなどからこの北方系民族は現在の朝鮮民族の
主要な祖先とはあまり共通ちないものとおもわれるでちゅ。
また、近年の遺伝子調査により、より江南系の影響が強いものとおもわれるでちゅ。
中国の歴史書に「倭人は呉の太伯の子孫と自称ちゅる」との記述があり、
文化面で倭と江南地方との共通性を指摘ちゅる史書が多く、目に付くが
周王朝下での春秋、戦国時代の避難民が弥生時代人の主力民族であった
可能性は高いでちゅ。ちょちて、稲作、鉄器文明をたずちゃえた彼らは各地で小部族国家を建てたでちゅ。

後漢書によるとBC1には100余の国にわかれていたと言うでちゅ。
これらの小国家は徐々に征服や連合により統合ちていったでちゅ。

AD57年には奴国の王が漢に使節を派遣ち「漢委奴国王」の印綬を受けているでちゅ。
また、2世紀初頭には帥升という王が倭の面土王とちて中国に朝貢ちているでちゅ。

新日本古代史日本国家の起源2

AD3Cは有名な邪馬台国の時代であり、日本国家の起源を
語るときに避けてはとおれないでちゅ。

魏志によるともともと邪馬台国には男王がいたが国が治まらなかったので
卑弥呼を女王に立てたというでちゅ。
卑弥呼の即位は2世紀末と推定ちゃれるでちゅ。
邪馬台国は伊都国、奴国ら30余国を従えていたというでちゅ。

この邪馬台国の所在地をを九州と見るか畿内と見るかによって
国家の起源がかなり変わってくるが、近年の考古学的成果
(初期前方後円墳の築造期が3C初頭にまでちゃかのぼること、
纏向遺跡の発掘)や魏志では邪馬台国は7万余戸の人口をもちゅ事
ちゃらにはちょもちょも邪馬台国は「ヤマト国」と発音ちゅること
などから畿内説のほうが有力とおもわれるでちゅ。


弥生時代に入り、建国ちゃれた各地の部族小国家は戦乱を経て
AD3世紀ごろにはヤマト国を中心に緩やかに統合ちゃれていったといえるだろうでちゅ。

3世紀以降、統一の企画性を持って全国で築造ちゃれた巨大前方後円墳は
ヤマト国連合=倭国の統合の証といえるでちゅ。

また、魏志に出てくる「大率」などの役職は後の大和王権の
職制の前進となったものであろうでちゅ。
312名無しさん@1周年:2000/11/07(火) 06:47
纏向遺跡あげ
313名無しさん@1周年:2000/11/07(火) 21:17
古墳時代の初期には、東日本を東海発祥の前方後方墳体制に染めたのに、
畿内発祥の前方後円墳体制に負けてしまった。
314名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 00:44
倭は東晋〜宋にかけて使いを送っているのに南中国を
呉と呼んでるのはなぜ?
まあ、周時代から呉なんだけど・・・
三国時代の呉とも通交があったような気がするな。
後、倭人が呉の太伯の末裔ってのは荒唐無稽過ぎて賛同
できない。
315名無しさん:2000/11/08(水) 01:23
>314
>倭人が呉の太伯の末裔ってのは荒唐無稽過ぎて賛同できない

確かに、自らの権威付けのために倭人が呉の太伯の末裔騙ったとも大いに考えられるが
(後世の源平の末裔ように)、では、戦争に敗れ、国を失ったけれど生き延びれた
呉の王侯たちはどうなったのだろうかと考えれば、どこかに亡命したとするのは
こちらも大いに考えられることだと思う。それなりの経済力もあるわけだし。
普通の漁民、農民だったら逃げる必要もない。今でも一緒ですよね?
そうだとすると、気候的にも少し寒いがよく似た日本に移住したと考えるのは、
個人的には全然荒唐無稽だとは思わないですね。
316日本@名無史さん:2000/11/08(水) 01:27
倭の五王や卑弥呼が呉王夫差の子孫とする「松野連系図」などはどう?
317名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 01:36
魏の紀年鏡以外に、呉の紀年鏡も2〜3枚出土しており、
呉との関係もあったのでしょう。

ちなみに、後世になるけど、唐が滅亡した後に、五大十国の呉越国と
正式な外交関係を築いており、関白署名の外交文書などが残っています。
318名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 02:31
>315
九州から甲骨文字とかが出てくれば話は別
呉とか太伯とかって漢字文化の無い倭で
伝えられるものなのだろうか?

>316
呉王夫差の子孫・・・
系図見てみたいです


>317
呉は東方に探索隊派遣してますね。
台湾あたりに上陸したといわれてるけど
九州にも来たのかも・・・
319名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 18:16
呉との関係はどうだったのだろう?
320名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 19:32
ヤマタイは公孫氏とも交易していたはずなのに全く具体的記録無し
おそらく呉も・・・
321天之御名無主:2000/11/08(水) 19:47
>316
もし倭の五王が呉王夫差の子孫であるなら、上表文にそのことを書いて
東夷ではないと明白にするのではないですか。
322名無しさん@1周年:2000/11/08(水) 21:10
呉の太伯の末裔というのは、魏略逸文に載っているだけで、魏志では採用されていません。
中国にとっては、それは承伏しがたいとする意見が多かったのでしょう。

琉球最古の史書には国王は源氏の末裔と書かれていますが、これは無視されることが
多いのと、似ています。
323天之御名無主:2000/11/08(水) 21:53
>322
それでも日本人のDNAを調べると江南地方から渡来してきた可能性は
高いのでしょう。
324>323:2000/11/08(水) 22:07
稲もね。
325日本@名無史さん:2000/11/08(水) 23:04
>322さん
そのかわり夏の帝の少康の子孫という話を載せている。
中華の周辺の異民族の王は
中国の昔の偉いさんの子孫と名乗るのがたくさんいるし、
ようするにヨタ話ってことでしょう。
問題は、南方の人々と共通性があるという話題の引け合いに
このエピソードを出している点で
それ以上のものではないんじゃないですか。
326名無しさん@1周年:2000/11/09(木) 02:04
魏志東夷伝の序文を知っていますか?(知っていますよね…。)

「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信」
東夷伝を記すにあたって東夷の国々から受けた好印象を
端的に記しているものと思います。呉に関する故事にも似たような
ものがあったと思いますが(そのもの?無知ですみません)、
みんな、ここはどうでもよくて読み流しているのでしょうか?

>そのかわり夏の帝の少康の子孫という話を載せている。
>中華の周辺の異民族の王は
>中国の昔の偉いさんの子孫と名乗るのがたくさんいるし、
>ようするにヨタ話ってことでしょう。

この部分は周辺の異民族の王は中国の昔の偉いさんの子孫と名乗るのが
たくさんいるというヨタを説明するために載せているのではないと思いますが。
逆にここで夏の帝の少康の子孫であるのは事実という前提で書かれていると思いますし、
夏の帝の少康の子孫のような中央出身の高貴な人間が、蛮習に従う事実はあるので、
入墨をしている倭人が呉の太伯の末裔でも何ら不思議ではないという説明の為の
一文のように思います。
そう考えると、「倭の支配層は呉の太伯の末裔である」という一文が
魏志倭人伝にもなければ意味が通じない。
「呉の太伯の末裔」というフレーズは、後世に魏志倭人伝から
省かれてしまったことはないでしょうかね?中華思想に邪魔ですから。
327326:2000/11/09(木) 02:11
>「倭の支配層は呉の太伯の末裔である」
         ↓
 「倭の支配層は呉の太伯の末裔を自称している」

 と、訂正します。
328日本@名無史さん:2000/11/09(木) 06:20
>318
松野連関係の系図は国会図書館蔵の「諸系譜」、静嘉堂文庫蔵の「百家系図稿」に所収されています。
329>326:2000/11/09(木) 07:28
そうなるといつの時期に省かれたか問題になるよ。かなり後になると
当然写本の内容が時代によって異なることになる。
330日本@名無史さん:2000/11/09(木) 09:27
>>625
おいおい、公害訴訟かよ(ワラ
331日本@名無史さん:2000/11/09(木) 09:51
男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫。
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾。
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差。
計其道里當在會稽東治之東。
どこに「夏の帝の少康の子孫」と書いてあるのか示してくれる?
332名無しさん@1周年:2000/11/09(木) 16:33
遅くなりましたが、以前読んだ本とは別に、季刊考古学別冊8「前方後円墳の出現」の
吉備の章に、長塚1号墳で、壺・箱式石棺・特殊器台が並んで、棺に使われている例が
載っていました
333326:2000/11/09(木) 20:50
>>329
専門的な知識はなく、又聞きの知識を元にしていて申し訳ないけど、
11世紀の宋の時代、散逸していた魏志を整理し纏めた、まさに
そのときに削除したのではと思います。
古文書の整理は、中華思想の教化と微妙に絡んだものと思っているのですが。
現在伝わる魏志倭人伝が、陳寿の書いたものとどれくらい違うのでしょう。
加筆はない?でしょうが、脱落や順序の入れ替えはあったのではないでしょうか?
たとえば、卑弥呼の名前が出る前に「女王国」という表記が
出てきたりします。編集ミスのように思います。解釈は色々出来ると思いますが…。

>>331
>どこに「夏の帝の少康の子孫」と書いてあるのか示してくれる?
書いてありません。「夏后少康之子」に訂正します。

「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害。」
これって「夏后少康之子」が「斷髮文身以避蛟龍之害」したことでいいですよね。

「夏后少康之子」の話が「計其道里當在會稽東治之東。」を導く前振り
とも取れるけど、「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」が唐突過ぎる。
魏略のようにこの部分に「聞其舊語、自謂太伯之後」があればスムーズで
わかりやすい。
334名無しさん@1周年:2000/11/09(木) 21:23
こちらにも書いておこう

近年まで、ペテンな考古学者と歴史学者がグルになって、古墳時代の始まりを
根拠なく遅らせるという捏造が行われていたので、邪馬台国や任那についての理解が
遅れていたが、土器の相対編年の進歩などにより、前方後方墳が特定の時期や場所に
集中することや、年輪年代により纏向石塚古墳が200年頃と明らかになったりして、
古代日本像がハッキリしてきた。

魏志に見えるように、朝鮮半島は中国の植民地の帯方郡が政治・経済・文化の中心で、
百済や新羅は未だ頭角を現していなかったが、日本では畿内の邪馬台国が吉備の投馬国
と同盟して、西日本諸国を畏れさせ支配しており、国家体制は遙かに進んでいた。
朝鮮半島でも狗耶韓国を橋頭堡として確保し、東日本の前方後方墳体制の狗奴国と
対峙していたと解釈される。

その後、前方後方墳体制を屈服させ、日本を統一して、朝鮮半島に勢力圏を広げて、
任那の鉄や、新羅の金など、付加価値の高い資源を確保し、朝鮮半島南部でも、
権力の象徴として、次々と前方後円墳を作ったというのが、概略でしょう。

戦後は、朝鮮の電波発言に迎合する、ダメ考古学者や歴史学者が多くいて、歴史を捏造
しようとするから、各国の文献・考古資料が共通して示す、倭国の朝鮮半島南部の
支配を認めようとしないのが癌。こいつらの歴史捏造体質は、糾弾すべき。
335名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 00:18
グルになって、古墳時代の始まりを根拠なく遅らせた、
捏造体質のペテンな考古学者と歴史学者は逝ってよし
336日本@名無史さん:2000/11/10(金) 02:18
はは、大事件から話を逸らそうと
あせってるあせってる
337名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 07:23
サヨク壊滅
338名無しさん@1周年:2000/11/10(金) 17:00
強大なヤマト王権あげ
339日本@名無史さん:2000/11/11(土) 03:50
↑精神病院入り
340名無しさん@1周年:2000/11/11(土) 16:41
卑弥呼の時代には、吉備と連合して西日本を統一していたヤマト王権は、
その後は東日本の前方後方墳体制も屈服させ、日本を統一し、朝鮮にも勢力を拡大した
341日本@名無史さん:2000/11/12(日) 02:13
ヤマト王権は強い
342コン:2000/11/12(日) 08:44
質問だが、「あげ」ってなんだあげ?
343日本@名無史さん:2000/11/12(日) 11:42
きつねの好物
344日本@名無史さん:2000/11/12(日) 13:58
ヤマト王権は強いあげ
345無名的発言者:2000/11/12(日) 17:29
ヤマト王権ね!
 王権という言葉は正確じゃないです。(皇権なんて言う気じゃないですよ)

東アジアで【王】は中国の皇帝から与えられた地位です
 活躍した部下とか親族、蛮夷の権力者で、朝貢したものとかね。

日本でもその時の天皇の子供はOO親皇・親皇の子(天皇にならなかった)はOO王
と呼ばれます。

正確にはヤマト政権が妥当か(ヤマト皇権は、歴史的には聖徳太子以降でしょうね)
346日本@名無史さん:2000/11/12(日) 17:52
5〜7世紀の銘文では「大王」が使われており、王権でよろしい。
347大王者:2000/11/12(日) 18:00
確かに使われてますね!
 じゃあヤマト大王権じゃないのはなんで!
348無名:2000/11/12(日) 18:15
大王も一時期使われていますが、それを言い出すと【皇帝】と
名乗っている天皇もいます。

その時々でヤマト王権(大王者さんはヤマト大王権ですか?)ヤマト皇帝権
なんてことにはならないでしょう!

統一してヤマト政権と呼ぶのが正しい!
349日本@名無史さん:2000/11/12(日) 19:29
東アジアにおける王権は、中国に冊封されたもので、
聖徳太子の日出づる国の天子が、中国との対等の発端で、
天武朝から天皇の木簡が出土しており、
大宝律令を制定して、国名を日本に変えたことを唐に通知して、
日本の中国から独立した天皇の権威が、最終的に固まったのでしょう。
350日本@名無史さん:2000/11/12(日) 19:29
だから、律令時代以前は、ヤマト王権と言う理解で良いでしょう。
351関根 聡:2000/11/12(日) 19:36
かなり過激な論争おもしろいですね。
私は、いま『古事記』を調べています。
『新唐書』の件など、関わりがあると思います。
また日本に律令制度を持ち込んだのは誰か?
通説には疑問があります。
特に、左大臣・石上朝臣麻呂に注目しています。
一度わがHP『古事記正解』をご覧下さい。
http://www.neonet.to/kojiki/
352日本@名無史さん:2000/11/12(日) 21:09
>351
「大論争」掲示板で、漢文に詳しい人から、呆れられていたのに、
厚顔無恥に主張していた、最近の古代史マニアに良くある恥知らずな人ですな。
本居宣長の研究を理解できず、否定しているようじゃ、古事記研究は全くムリ。
つーか、ちゃんと古事記伝を読んでないか、理解する能力がないか、
いずれにせよ、厨房決定。
353日本@名無史さん:2000/11/12(日) 21:45
最近は、ちゃんと古代史の勉強もせずに、独り善がりな珍説を
滔々と述べる恥知らずが多すぎる。厨房は逝ってよし。
354日本@名無史さん:2000/11/12(日) 22:08
355日本@名無史さん:2000/11/12(日) 22:39
いまだに「逝ってよし」かよ。
古くせえな。ノウミソ黴だらけかよ。
356名無しさん@1周年:2000/11/12(日) 23:05
蘇我氏・中臣氏が渡来系ってのは確かなのか?
357日本@名無史さん:2000/11/13(月) 01:22
>356
推論に過ぎない。確証はまだないよ。
358>:2000/11/13(月) 01:47
 神武天皇からで、なんの不都合があるん?
 
359或る国粋主義者:2000/11/13(月) 01:52
とりあえず時々湧いてくるウヨ坊を何とかしてくれ。
せっかく人が古代のロマンに思いをかきたてられてたのに、
突然入るノイズが酷くて耐え難かった……。

ごめんね>まともに議論してる人
360理系:2000/11/13(月) 03:42
 僕は、ゆうべ食卓に並んだおかずのことさえも証明できません
361日本@名無史さん:2000/11/13(月) 06:51
吐け。
362日本@名無史さん:2000/11/13(月) 18:35
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳
363名無しさん@1周年:2000/11/13(月) 18:42
日本人ってほとんど、中国大陸や、ミクロネシアとかから
渡来したらしいぞ。
364日本@名無史さん:2000/11/13(月) 19:38
ミトコンドリアDNAの研究などによると、現代人はアフリカで約20万年前に
成立したそうで、それが色々に分かれて、人種を形作ったらしい。
それと、日本人は人種ではなくて民族。人種と民族の違いを理解しろ。
中国・百済・高句麗などからの帰化人も同化して、日本民族を形成した。
日本人は、雑多な人種からなるが、単一民族である。これが正しい。
365日本@名無史さん:2000/11/13(月) 20:01
>364
民族と人種の違いを教えてください。
366日本@名無史さん:2000/11/13(月) 20:16
民族=ソフトウェア
人種=ハードウェア
367日本@名無史さん:2000/11/13(月) 20:19
>366
ありがとう。
ソフトウェアの最たるものは言語、文字等と考えても良いのですか。
368日本@名無史さん:2000/11/13(月) 21:19
ソフトウェアには、宗教・風俗も大きい。
日本は独特の宗教観で、天皇の権威がずっと大きかった点でも特殊。
369名無しさん@1周年:2000/11/13(月) 21:58
朝鮮を貶めても何の意味もないぞ。
むなしさだけが残るだろう。
それよりも武内宿禰の実在性でも検証しようじゃないか。
370日本@名無史さん:2000/11/13(月) 22:05
朝鮮の電波は、ちゃんと指摘しておかないと、次々と捏造するから、毅然とした態度でやるべし。
ところで、どうやって「武内宿禰の実在性でも検証」するのだ? お前がやってみせよ。
371日本@名無史さん:2000/11/13(月) 22:11
>370 今、それを言うと空しくなるからやめたほうがいいよ。
372日本@名無史さん:2000/11/13(月) 22:25
北朝鮮の捏造は酷い。5000年前の檀君陵なんてムチャクチャ。
中国正史にも登場する、漢人武将・冬寿の名が書かれていた墓も、
高句麗美川王の墓にしてしまった。バカ過ぎて頭が痛い。
373日本@名無史さん:2000/11/14(火) 01:42
世界最大級の古墳を作り続けたヤマト王権
374日本@名無史さん:2000/11/14(火) 10:08
『男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫。
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾。
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差。
計其道里當在會稽東治之東。』
を要約すると「男子は大小となく体や顔に刺青をしている。昔から
中国に朝貢していてその際に自ら大夫と称していた。かって夏后少康
之子が會稽に封ぜられたおり自ら斷髮文身をして領民に蛟龍之害を
避ける方法を示したと言う故事がある。倭の漁師も良く海に潜って魚介
を取るに当たって刺青でサメなどの被害を防いでいる。その道理を計る
に会稽の東の治世が遠く東の倭の地まで及んでいる事を示している。」
と言う事だ。
夏后少康之子というのは王位を継ぐ立場にありながら弟に継承権を
譲る為、自らの顔、体に刺青をしてもはや王位を継ぐ事は出来ない事を
身を持って示したと言う美談の主としても語られている。
倭人伝の作者は倭人に対してすごく好意的だった事が読み取れる。
375日本@名無史さん:2000/11/14(火) 12:31
馬鹿右翼いつの間にかえらくなったなあ
お前を日本史板住人に認めた覚えは無いと思うぞ
消えて欲しいってのが日本史板の総意だ
376日本@名無史さん:2000/11/14(火) 13:00
マキムク石塚の被葬者って誰ですか?
どなたか強引に推測してみてください。
377日本@名無史さん:2000/11/14(火) 22:33
世界最大級の前方後円墳を作り続けたヤマト王権は勢力が強大だった。
任那に直轄領を持ち、新羅を属国にした。
378日本@名無史さん:2000/11/14(火) 23:42
だ、大和証券?(ぷぷう
379日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:25
魏から金印を受けたのは、大月氏国(クシャナ朝)と邪馬台国(ヤマト)
卑弥呼の時代から、ヤマト王権は強大だった。
380日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:32
奴国王も受け取るのでは?
奴国って強大か?
381日本@名無史さん:2000/11/15(水) 02:53
漢の場合は、金印の重みがどうだったか知らないが、
魏から金印を受けたのは、大月氏国(クシャナ朝)と邪馬台国(ヤマト)のみ。
382名無しさん@1周年:2000/11/15(水) 03:35
印は大体金だったんじゃないか?
他の国の材質は何だよ?
383日本@名無史さん:2000/11/15(水) 04:18
皇帝の印は玉製で、その次が金製、その次が銀製と、グレードがあります。
384日本@名無史さん:2000/11/15(水) 06:52
その下が銅
385名無しさん脚:2000/11/15(水) 13:16
その下がアルミ
386名無しさん@1周年:2000/11/15(水) 14:50
その下が鉄
387日本@名無史さん:2000/11/15(水) 17:19
マキムク石塚の被葬者って誰ですか?
どなたか強引に推測してみてください。
388日本@名無史さん:2000/11/16(木) 00:33
漢では、玉印は天子、金印は諸侯王・丞相・将軍、銀印は郡の太守級、銅印はそれ以下で県令など
389名無しさん@1周年:2000/11/16(木) 01:11
>388
そりゃあどう見ても匈奴単于とかに与えたのは金印だな。
390日本@名無史さん:2000/11/16(木) 11:34
楽浪郡の太守は銀印ですな。
391日本@名無史さん:2000/11/16(木) 12:37
>387

イザナギとかそのへんじゃないの
392日本@名無史さん:2000/11/16(木) 19:37
魏から、大月氏国(クシャナ朝)と並んで金印を得た邪馬台国(ヤマト)
393日本@名無史さん:2000/11/17(金) 01:44
畿内発祥の前方後円墳に、吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)を並べた
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳は重要
394目のつけ所が名無しさん:2000/11/17(金) 07:20
象牙・・ のハンコは日本だけ?
395日本@名無史さん:2000/11/17(金) 17:12
大和王権の成立っていつ? 卑弥呼
396解決黒頭巾:2000/11/18(土) 05:10
大和王権なんぞ始めから無い。
新羅のでっちあげ。
あったのは「秦王国」。この「秦王国」と九州の倭国(邪馬台国と狗邪韓国)を併せて
できたのが「日本」。白村江のあと、新羅が日本を占領してつくった。
397日本@名無史さん:2000/11/18(土) 10:05
世界最大級の前方後円墳を量産し、任那を直轄領にし、新羅を属国にした、強大なヤマト。
398日本@名無史さん:2000/11/18(土) 19:48
東村幸二「三輪山の古代史」(白水社)に、全体の1/3に渡って殉葬を議論しています。
埴輪棺については、長野県の将軍塚古墳で12基、奈良県の新山古墳で7基など
発見されているそうです。古墳時代の殉葬に関心のある方は、この本をご覧下さい
399日本@名無史さん:2000/11/19(日) 01:20
平林章仁じゃない?
400日本@名無史さん:2000/11/19(日) 01:53
いつものバカ右翼は世界史板で叩かれまくってるな。
これだけ恥をかいてなお生きているなんて信じられない。
早く狂死しろ。
401日本@名無史さん:2000/11/19(日) 08:38
↑こういう手合いも無視ね。
402日本@名無史さん:2000/11/19(日) 23:32
箸墓古墳の特殊器台は殉葬なのか?
403日本@名無史さん:2000/11/20(月) 10:09
特殊器台や円筒埴輪に入れられ殉葬されていたのが、廃止されて人物埴輪になったのか?
404日本@名無史さん:2000/11/20(月) 23:44
任那を直轄領にし、新羅を属国にした、強大な倭国
405日本@名無史さん:2000/11/21(火) 08:01
纏向石塚古墳あげ
406日本@名無史さん:2000/11/21(火) 08:51
↑いつもの差別主義の基地外
407日本@名無史さん:2000/11/21(火) 08:55
いつもの狂人は狂死した
408日本@名無史さん:2000/11/21(火) 08:56
405は世界史板からも叩き出されて精神病院で狂死した
409日本@名無史さん:2000/11/21(火) 11:15
世界史板でバカにされているのは、電波な朝鮮だろ
410日本@名無史さん:2000/11/21(火) 19:49
世界最大級の陵墓である前方後円墳を作り続けた、強大なヤマト王権
411日本@名無史さん:2000/11/22(水) 02:06
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳は重要
412日本@名無史さん:2000/11/22(水) 02:14
定期あげの偏執京は一般市民にまぎれこんでもすぐわかる。
日本の恥は精神病院で狂死した。
413日本@名無史さん:2000/11/22(水) 02:17
いつもの日本の恥は世界史板で総スカンをくらって狂死した。
414日本@名無史さん:2000/11/22(水) 02:30
「強大なヤマト王権あげ」と言って絶命しました。
死因は脳病でした。
415日本@名無史さん:2000/11/22(水) 07:33
「強大なヤマト王権あげ」と絶叫して精神病で死んだ
416不思議だね:2000/11/22(水) 08:20
強大なのに文盲、国名でもない「倭」という卑しい名前を
7世紀まで使い続けたヤマト王権あっげ。
417日本@名無史さん:2000/11/22(水) 10:05
「強大なヤマト王権あげ」の言葉を残し、いつもの精神病は氏んだ
418日本@名無史さん:2000/11/22(水) 10:17
日本の植民地になるまで、庶民の大部分が文盲だった朝鮮が何を言うか。(藁
それに、倭は人偏だし、動物や虫を使った様な卑字ではないぞ。
日本と朝鮮の庶民の教養レベルの違いを思い知れ。
----
日本の識字率について、網野善彦『日本論の視座』(小学館ライブラリー)
「第五章 日本の文字社会の特質」に、以下のような記述があります。

国内資料については、網野さんは“平仮名交りの文書は鎌倉期まででも、
われわれの想像を大きく上回る量に達することは間違いないところであり、
文字の普及もさきにふれた通り、十三世紀後半には、侍の下層はもとより、
平民百姓の上層まで、すでに及びつつあったと見てよかろう。そして、
南北朝から室町期にかけて、それが爆発的といってもよいほどの増加、
普及を見せることは、前述した太良荘、新見荘の関係文書によっても、
おおよそ推測できる。”と述べています。

幕末維新の外国人の記述については、
“1874年(明治7)から翌年まで日本に滞在したレフ・イリイッチ・メーチニコフは、
その回想記で日本語の複雑さについて興味深いさまざまな指摘をしているが、
とくに識字率の高さに注目し、それが「ロシアや西欧のラテン系諸国」に比べて
きわめて高いと見ており、人力車の車夫、馬の口取りの別当、茶屋の召使いの娘などが、
「例外なく何冊もの手垢にまみれた本を持っており、暇さえあればそれをむさぼり
読んでいた」と驚異の目をみはっている。”と紹介しています。
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朝鮮民衆文字「訓民正音」を作らせた、李氏朝鮮世宗の前書きの言葉は以下の通り。
「国之語音、異乎中国、與文字不相流通、故愚民有所欲言、而終不得伸其情者多矣、
予為此憫然新制二八字、欲使人人易習、便於日用矣」

(訳:我が国の言語は中国と異なり、文字も上手く通じない。だから愚民は
言いたいことがあっても自分の意見を言うことができない。私はこれを可哀想に
思って二八字を新たに定めた。人々が簡単に勉強できて、日常生活に便利に
なることを願ってのことだ)

電波な朝鮮人が言う、「民族意識の高揚に呼応するように」作ったものではない。
あくまで「愚民」の「日用」の為のもので、両班の高級な生活の為のものではなく、
訓民正音(ハングル)を蔑視し、公文書や支配層の文書では、絶対に用いなかった
419日本@名無史さん:2000/11/22(水) 10:28
日本の凄いところは、中国が統一されて、久々に隋に使いを出して、
最初は原始的な政治作法を披露して失態を来したら、次までには猛勉強して、
「日出づる国の天子」の書を提出し、政治形態を一気に変えていること。

中国から本格的に文字を導入するや、それから万葉仮名→ひらかな・カタカナと
国字も産み出し、早期に庶民にまで広まった点も、世界的に特筆すべき事。

戦国時代でも、アッという間に鉄砲大国になり、スペイン・ポルトガルなどの
植民地政策を見破り、バテレンを追放して、事なきを得ている。
幕末維新でも、最初は欧米にボコボコにされたけど、アッという間に
近代化に成功し、世界を驚かせたり、
前の大戦でも、アメリカにボコボコにされたけど、戦後はアッという間に
経済大国になった。こう言う底力は愚民で溢れる朝鮮には存在しない。
420日本@名無史さん:2000/11/22(水) 18:37
強大なおちんちんあげ
・・と言いつつ差別主義者は大嫌いなのでサゲ。
421日本@名無史さん:2000/11/22(水) 20:21
話がずれるけど、聖武天皇時代の紫香楽宮の中枢部らしい建物跡発見のニュースがあった。
http://news.yahoo.co.jp/Full_Coverage/Archaeology/

紫香楽宮に関しては、信楽町役場HPに詳細な解説があります。
http://www.biwa.ne.jp/~sigaraki/book/index.html
422日本@名無史さん:2000/11/22(水) 20:24
>420
朝鮮の手先の反日サヨクは、表現が朝鮮並みに品性下劣だな。
423日本@名無史さん:2000/11/22(水) 20:35
どこに差別主義者がいるかワカラナイノデage
424日本@名無史さん:2000/11/23(木) 03:12
都を移しまくった武天皇あげ
425日本@名無史さん:2000/11/23(木) 03:12
都を移しまくった聖武天皇あげ
426世界@名無史さん:2000/11/23(木) 04:47
右翼の宣伝魔ぶりには本当に辟易
マジでこいつら狂ってる
金もらってやってるとしか思えない荒しっぷり
マジで古代史スレはどうなるんだ?
一度じっくり話し合いたいよ
427日本@名無史さん:2000/11/23(木) 06:41
「強大なヤマト王権あげ」は精神病de氏にました。
428日本@名無史さん:2000/11/23(木) 07:05
いつもの「強大なヤマト王権あげ」は、またも世界史板に乱入して吉外ぶりを発揮。
おかげで日本史板全体が、糞板扱いされつつある。
429日本@名無史さん:2000/11/23(木) 09:55
狂人のヤマト王権あげ
430日本@名無史さん:2000/11/24(金) 03:33
http://news.yahoo.co.jp/Full_Coverage/Archaeology/

2000年11月23日(木) 11時17分
紫香楽宮の「朝堂院」跡出土 信楽町 当時最大級の橋脚遺構も(京都新聞)

2000年11月23日(木) 11時17分
建物跡 平城京に匹敵 「幻の紫香楽宮」全容解明へ(京都新聞)
431日本@名無史さん:2000/11/24(金) 03:43
朝鮮の手先の反日サヨクに都合悪いだけだろ。
文句があるなら、正々堂々と反論しろ。
嘘八百を並べる朝鮮の手先の反日サヨクは天下の嫌われ者、逝ってよし。
432日本@名無史さん:2000/11/24(金) 05:30
意見の違う人間を狂人呼ばわりして議論しない差別主義者マンセーあげ
433日本@名無史さん:2000/11/24(金) 07:41
狂人のヤマト王権あげ
434日本@名無史さん:2000/11/24(金) 10:17
>429,433
あげと書いてsageるな。(藁
反日サヨクは、朝鮮の歴史捏造を次々と否定されて、逆上している。
正々堂々と反論できずに、こう言う手に出るのが、反日サヨクのレベルの低さ。
435日本@名無史さん:2000/11/24(金) 10:32
いつもの差別主義者は氏を迎えた
436日本@名無史さん:2000/11/24(金) 10:44
あれだけ言っても、ちゃんとした反論が出来ないバカ。>435
このバカは、反日サヨクと言うより、日本人を偽装している朝鮮か?
437日本@名無史さん:2000/11/24(金) 10:44
いつもの差別主義者は、自分の間違いを聊かも認められない点で狂人決定。
438日本@名無史さん:2000/11/24(金) 17:24
奈良県立橿原考古学研究所HPには、古墳時代前期の発掘に関する資料が多い。
http://www.naramed-u.ac.jp/~kashikok/
439日本@名無史さん:2000/11/25(土) 01:12
440解決黒頭巾:2000/11/25(土) 02:10
「大和」の文字は、白村江の海戦直前の新羅の真徳女王の元号「太和」
から来ている。
戦争に負けた側(倭)が勝った側(新羅)の元号を採用しているということは、
新羅が日本を占領して自国の元号をつけた、と考えるのが自然。

441日本@名無史さん:2000/11/25(土) 02:22
440はあほじゃ
大和の文字が使われるのは天平宝字年間から。
約100年の時代錯誤。
442日本@名無史さん:2000/11/25(土) 09:03
>440
朝鮮はバカだな。日本を含め、諸外国に征服されてばかりで、今後も発展しそうにもないから、
何の根拠もない妄想にふけるだけ。
443日本@名無史さん:2000/11/25(土) 14:03
>440
高句麗と百済が滅ぼされると、今度は新羅が直接に唐と接することになり、
唐の脅威を軽減するため、新羅は日本に朝貢しまくった。
マツカツ人と高句麗の遺民が渤海を建ててから、状況が変化して、
日本+渤海と唐+新羅の関係となったので、新羅は安心して、
次第に日本へ朝貢しなくなった。ってのが当時の情勢。
444日本@名無史さん:2000/11/25(土) 17:00
解決黒頭巾はトンデモバカ情報の源泉だね
445解決黒頭巾:2000/11/25(土) 21:28
>441
>440はあほじゃ
>大和の文字が使われるのは天平宝字年間から。
>約100年の時代錯誤。

なるほど、8世紀の半ば(天平宝字年間)まで大和朝廷は存在しなかったわけだ。(笑)
446>445:2000/11/25(土) 21:39
名前がないと存在しないことになるのか・・・・
そうか、李氏が名前を授かるまで朝鮮という国も民族も
存在しなかったのか。
納得、納得。

>>443の方への反論も是非とも御願いできますか、解決黒頭巾氏。
447日本@名無史さん:2000/11/25(土) 21:44
>445
じゃあ日本オオカミは8世紀よりまえは存在しなかったっていうのか(和良
448日本@名無史さん:2000/11/25(土) 21:51
>>446
無理をいってはダメ!
黒頭巾氏はカシマノボル氏が活字にした事しか喋れません
449日本@名無史さん:2000/11/25(土) 22:57
>440
>「大和」の文字は、白村江の海戦直前の新羅の真徳女王の元号「太和」
から来ている。

「大和」と「太和」
          …てんで違う
450日本@名無史さん:2000/11/26(日) 00:04
>「大和」と「太和」
>         …てんで違う
ずるっ。(わら
「太和」なら、東晋とか中国でそれ以前にも同じ年号があるぞ。
451日本@名無史さん:2000/11/26(日) 01:55
ところで、新羅が年号を使ったっていうのは、三国史記が主張しているだけで、
辺境で未開な新羅が本当に使っていたのか、実は潤色じゃないか?
出土品など、同時代資料で確認されていないと思ったがどうなんだ。

ちなみに、高句麗の年号は、三国史記には載っていないが、好太王碑文など
いくつかの出土品にも見られる。
日本では、大宝以降は金石文・木簡で確認されているが、
それ以前の大化などは確認されていない。
452解決黒頭巾:2000/11/26(日) 02:22
>443
ご希望に応えて、

>443 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2000/11/25(土) 14:03

>>440
>高句麗と百済が滅ぼされると、今度は新羅が直接に唐と接することになり、
>唐の脅威を軽減するため、新羅は日本に朝貢しまくった。
>マツカツ人と高句麗の遺民が渤海を建ててから、状況が変化して、
>日本+渤海と唐+新羅の関係となったので、新羅は安心して、
>次第に日本へ朝貢しなくなった。ってのが当時の情勢。

新羅は唐に秘密して日本を占拠した。
したがって669年以後、遣唐使を30余年間(1世代)派遣してない。
(ばれたらマズイので)

日本列島が新羅に占領され、秦の始皇帝の残党と馬韓人が畿内に建てていた
「秦王国」を併せて奈良時代が始まったが、もともと新羅は九州東北部にあった
「狗邪韓国」の、朝鮮半島側にあった飛び地から独立した倭人国家であるから、
本家(日本側)にもどった新羅と、分家(半島側)で強大になった新羅は
兄弟みたいなものであった。

しかし、いつしか独立して”親戚”の渤海が現れたというところか。

453日本@名無史さん:2000/11/26(日) 03:12
なんで隠すんじゃ?
(便利じゃのう。証拠がないことの理由に「秘密だった」と言う言い訳は。)
454日本@名無史さん:2000/11/26(日) 03:17
>新羅は唐に秘密して日本を占拠した。

鮮人の電波発生。新羅は、日本に朝貢していたのが現実だろ。
モンゴルでさえ、日本を征服できなかったのに、弱小新羅にはムリ、
つーか、朝鮮の三国史記にも何にもない妄想を並べるのが、ひがみ朝鮮らしい。
朝鮮は、日本を初めてとして、諸民族に征服されてばかりだから、
その屈折した感情が、このような電波を発生する要因だろう。
電波は、朝鮮国内だけで発信しておけよな、おバカな鮮人。
455解決黒頭巾:2000/11/26(日) 18:11
>453
>なんで隠すんじゃ?
(便利じゃのう。証拠がないことの理由に「秘密だった」と言う言い訳は。)

新羅と連合して白村江で戦勝した唐は、百済を再興して新羅を牽制しようとしたが、
熊津(ゆうしん)を新羅に占拠されて、もめていた。
その渦中に、またもや日本列島を占領して新羅の支配下においたことを
唐に知られてしまうと、唐と新羅の戦争になってしまう。

そこで、それを避けるために、現在日本列島に建設中の国家は
新羅が建てたものではなく、神代の昔から存在した国家である、と弁明書を捏造した。

それが『日本書紀』である。
右翼の諸君は、それを鵜呑みにしているのである。
456日本@名無史さん:2000/11/26(日) 18:27
>455
それとは別にどうしてあの当時に日本書紀は作られたのでしょうか。
前から不思議に思っていたのですが、明確に書かれているのが見つかりません。
457日本@名無史さん:2000/11/26(日) 18:44
おい黒頭巾はもう死んでいるんじゃないの?
そこまでいくと妄想だぞ。
458日本@名無史さん:2000/11/26(日) 19:01
その件で唐と新羅はもう戦争になってるの知らないのか
459honto?:2000/11/26(日) 21:38
出石神社

投稿者:後白河院  【11月25日(土) 19時31分02秒】 選択

但馬国一の宮・出石神社の御祭神は新羅国王子・天日槍命であり、神功皇后の祖であります。但馬地域の開拓者であり、日本国の大恩人であります。
出石出身者には、反軍演説の斉藤隆夫代議士、加藤東大初代総長がおられます。
460世界@名無史さん:2000/11/27(月) 01:45
剣・鏡・勾玉が三宝とされているのは興味深い。
461日本@名無史さん:2000/11/27(月) 01:47
糸魚川特産のヒスイ勾玉は、古墳時代には朝鮮半島南部にまで拡がり、
百済や新羅の王冠にも沢山付けられた。
462日本@名無史さん:2000/11/27(月) 02:51
463日本@名無史さん:2000/11/27(月) 14:04
山路愛山が李氏時代の朝鮮を旅行中に農村でひとりの韓人と会い
筆談を交わしたことを文章に書いています.
愛山は,韓人の無知蒙昧なくせに生意気なことを痛烈かつ批判的に述べているのだが
知識階級ともいえない一般人の韓人と会話するのに「筆談」という手段をとっている
ことについてはさも当たり前のように書いてるので,当時の朝鮮の庶民って字の読み
書きできたのかよ?って感じで意外な印象を受けた記憶があります.

江戸時代の日本の庶民の教育水準が従来考えられていたよりも
ずっと高く,庶民レベルでも読み書きはある程度できた…というのは今日ではむしろ常識
でしょう? 朝鮮についても(程度の差はあれ)似たようなことはある
んじゃないかな?
464日本@名無史さん:2000/11/27(月) 21:15
465解決黒頭巾:2000/11/27(月) 22:29
>459 名前:honto?投稿日:2000/11/26(日) 21:38
>出石神社

>投稿者:後白河院  【11月25日(土) 19時31分02秒】 選択

>但馬国一の宮・出石神社の御祭神は新羅国王子・天日槍命であり、神功皇后の祖であります。但馬地域の開拓者であり、日本国の大恩人であります。
>出石出身者には、反軍演説の斉藤隆夫代議士、加藤東大初代総長がおられます。

>459
なるほど良いデータだ。東大総長は新羅人の子孫かも。
新羅国王子・天日槍命=安日彦=天日矛=孝安天皇 で九州における新羅王家の先祖である。
神武とは別系。

>458 名前:日本@名無史さん投稿日:2000/11/26(日) 19:01
>その件で唐と新羅はもう戦争になってるの知らないのか

いやぁ、失礼した。たしかに戦争は始まっていた。
不正確な表現だったが、

唐と新羅の”新羅の大義のない”戦争になってしまう、ということだ。

また、『日本書紀』は、この件以外に新羅の
出自(滅亡した狗邪韓国[金官加羅]の領地から誕生したこと)を隠す事、
さらに金官加羅を滅亡に追い込んだ安羅国(日向の邪馬台国本国)の
歴史を抹殺する目的も持っていた。

>456 名前:日本@名無史さん投稿日:2000/11/26(日) 18:27
>>455
>それとは別にどうしてあの当時に日本書紀は作られたのでしょうか。
>前から不思議に思っていたのですが、明確に書かれているのが見つかりません。

>456
前文を参照されたし。

>451

>451 名前:日本@名無史さん投稿日:2000/11/26(日) 01:55
>ところで、新羅が年号を使ったっていうのは、三国史記が主張しているだけで、
>辺境で未開な新羅が本当に使っていたのか、実は潤色じゃないか?

『三国遺事』には、そのものズバリ「大和」とある。

>日本では、大宝以降は金石文・木簡で確認されているが、
>それ以前の大化などは確認されていない。

いいこと言うね。
捏造書だからだよ、『日本書紀』が。
入鹿殺しの「大化の改新」は、新羅の「ヒ曇の乱」の丸写し。

太和=大和=大化 なんだよ。

466日本@名無史さん:2000/11/27(月) 22:33
>465
また、電波な朝鮮=解決黒頭巾が、根拠のないことを言っているな。(藁
話の内容が、余りにも程度が低すぎるから、バカにされるだけなのに、
古代から征服されっぱなしの朝鮮の、屈折した情念には呆れる。(わらわら
467日本@名無史さん:2000/11/27(月) 22:40
解決黒頭巾は朝鮮ではない
日本の恥である
468解決黒頭巾:2000/11/27(月) 23:08
解決黒頭巾は、日本の誇りであり、命である。

469日本@名無史さん:2000/11/27(月) 23:11
すでにヨゴレの自覚があるんだ
470日本@名無史さん:2000/11/27(月) 23:13
解決黒頭巾は、日本の埃であり、意固地である。
471日本@名無史さん:2000/11/28(火) 07:46
電波ではない古代史像は、ほぼ固まってきたな。
纏向周辺の古墳や遺跡が最重要。
472日本@名無史さん:2000/11/28(火) 17:10
わが国において なぜか新羅は封印されているのは確かだな。
怪穴黒厨菌の付け入るとこか。

なにか有り? か。
473日本@名無史さん:2000/11/28(火) 17:17
>わが国において なぜか新羅は封印されているのは確かだな。

別に何も封印されてないと思いますが。
神功皇后の三韓征伐以来、新羅は日本(倭国)の属国だったが、
唐の手下となって、新羅が朝鮮半島を統一してから、次第に日本に朝貢しなくなった。
楽浪郡や百済や高句麗は滅亡したので、日本が多くの遺民を受け入れたが、
新羅は残ったので、日本に帰化するものは少なかった。ってところでしょう。
474日本@名無史さん:2000/11/28(火) 18:27
>>465

黒頭巾はアホ
「説」というからには最低限の根拠がないと話にならない。
妄想でしゃべるな。

よく天武天皇は新羅人だったなんて話を聞くが
いうまでもなく天武朝において外交政策が変化したのは
統一を果たした新羅と唐の関係が悪化したため。

このため倭、羅、唐三国は互いにけん制するため
倭=羅、倭=唐間の関係を改善する必要があっただけ。
唐羅連合による侵略を恐れていた倭にとってはまさに
渡りに船だったわけだ。

壬申の乱による政権交代はそのきっかけのひとつとなったが
無論、外交政策が壬申の乱の要因ではない。

たとえ、大友政権が続いても倭と唐、新羅との関係改善の流れは
必然的だった。

475日本@名無史さん:2000/11/29(水) 00:28
根拠に基づいて発言する人と、電波な妄想を垂れ流すのと、落差が激しいな。
476日本@名無史さん:2000/11/29(水) 00:37
世間はそんなもんだよキミ
477日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:52
問い:CIA頭巾は なにもんか?
答え:ソロもん である
478日本@名無史さん:2000/11/29(水) 03:05
何処の誰だか知らないけれど、

解決黒頭巾は正義の人だ。良い人だ。
479日本@名無史さん:2000/11/29(水) 03:17
何処の誰だか知らないけれど、
だれでも皆んなが嘲ってる
480日本@名無史さん:2000/11/29(水) 16:45
スイマセン。
あの 継体天皇のときは完全に大和朝なんですか。
481解決黒頭巾:2000/11/29(水) 21:49
継体天皇は九州の卑弥呼の邪馬台国(日向)の後継者、大伴談のこと。

何度も言うように、大和王朝は架空の王朝。
当時、畿内を制覇していたのは「秦王国」。箸墓その他も「秦王国」の王の墓。

その「秦王国」と邪馬台国を併せて支配下においたのが白村江海戦勝者の新羅。
しかし、その新羅も、実は九州の東北部にあった国の
朝鮮半島の飛び地から独立した倭人国家だった。
482日本@名無史さん:2000/11/29(水) 22:37
何度も言うようにって、あーた
理由も書かずに連呼してもダメ
483日本@名無史さん:2000/11/30(木) 00:59
>481
しつもーん
大伴談と継体天皇の別々の子孫がいて、それそれ姓が違うのはなーぜ?
また、卑弥呼の子孫を称するこれまた別の氏族が九州にいたのはなーぜ?
484解決黒頭巾:2000/11/30(木) 22:08
こたえ>483

継体天皇=男大迹王(オオドのおおきみ) は、オオトモ(大伴)のこと。

日本書紀の目的の一つに、”邪馬台国隠し”があるので
九州東北部に本拠地のあった金官加羅を、新羅と密通して倒した
日向の安羅国(邪馬台国)の、その支配下の”豊前”の地を、
”越前”と捏造した。

このことにより、九州側と越前側に子孫が系図上発生した。
捏造された越前側に合わせて子孫を名乗る人々が生じた。

>また、卑弥呼の子孫を称するこれまた別の氏族が九州にいたのはなーぜ?

邪馬台国は、神武の建てた北九州の伊都国と、その前身たる熊本の多婆羅国と、
本国たる日向の安羅国の連合国家であった。

それぞれの地域の該当者が卑弥呼の子孫を名乗ったのであろう。


485?:2000/11/30(木) 22:13
大伴氏はもともとは「伴」氏だったのでわ?
486日本@名無史さん:2000/12/01(金) 00:27
電波な鮮人=解決黒頭巾は、いくら指摘されても、妄想発言をするばかり。
朝鮮国内では、こんなおバカな連中で満ちているのだから、お話にならない。(藁
487日本@名無史さん:2000/12/01(金) 00:41
違います。
解決黒頭巾はフェニキア人です。
ヘタレの港からタルシシ船で日本に来たのです。
488日本@名無史さん:2000/12/01(金) 00:59
>>481
だから新羅は白村江海戦やってないって!
水軍は唐なの。
489日本@名無史さん:2000/12/01(金) 03:30
>485
逆だす
淳和天皇の諱をさけて大伴から伴に変えたのですよ
490日本@名無史さん:2000/12/01(金) 03:37
あの…大伴談の子孫って日奉連で在京の氏族なんですが…
491日本@名無史さん:2000/12/01(金) 13:29
古代の文献などに詳しい人と、電波の妄想と、ギャップが大きいな。
電波な連中は、デタラメを指摘されなければ儲けものと、ダメ元で言っているのか?
492解決黒頭巾:2000/12/02(土) 02:38
>490
>あの…大伴談の子孫って日奉連で在京の氏族なんですが…

うむ、日奉連に卑弥呼の子孫がいたのか。
ところで日奉連って、何じゃ?
493日本@名無史さん:2000/12/03(日) 19:10
解決黒頭巾は無知無能
494490だが…:2000/12/03(日) 21:31
返事書いても無駄だったか…
495日本@名無史さん:2000/12/03(日) 21:34
>>494

笑えた(藁藁藁

こりゃ史学の問題じゃなく医学の問題だな。
496日本@名無史さん:2000/12/04(月) 10:22
古代氏族の話をするなら、日本書紀・続日本紀・新撰姓氏録は必須。
497日本@名無史さん:2000/12/05(火) 01:16
発言者によるレベルの差が大きすぎる
498日本@名無史さん:2000/12/05(火) 10:45
椿井大塚山古墳や京都の古墳に関する詳細な情報
http://www1.mahoroba.ne.jp/~kidugawa/
499日本@名無史さん:2000/12/06(水) 01:48
500日本@名無史さん:2000/12/06(水) 14:21
501解決黒頭巾:2000/12/07(木) 01:43
>494 名前:490だが…投稿日:2000/12/03(日) 21:31
返事書いても無駄だったか…

まぁまぁ。
アキレスにも弱点があったように、黒頭巾でも知らない事もある。
ペダンティックに知識量をひけらかしたところで、歴史が解明できるわけでもない。

それより、「大和王権の成立」についてのスレッドなのに
「大和」の語句が新羅の年号から来ている事を問題にしない事の方が、レベルが低く的外れな議論を続けてきた証明であるよ。
502日本@名無史さん:2000/12/07(木) 02:07
朝鮮=解決黒頭巾は、いくら指摘されても、おバカなことを言うだけだな(藁

日本書紀では、大倭のみ、続日本紀では、大倭→大養徳→大倭→大和と言う過程で、
最終的に大和に落ち着いたもの。これは、ちゃんと文献を読んでいる人には常識な話。

辺境で未開な新羅は、日本の属国だったわけで、全く論外。(わらわら
503日本@名無史さん:2000/12/07(木) 16:34
中国から、倭国と呼ばれたから、その本拠地であるヤマトを、「大」と付けて、大倭と訓を当てた。
その後に、大和の表記で定着したと言うこと。
504日本@名無史さん:2000/12/08(金) 01:52
それにしても、電波な朝鮮は痛いな。
505日本@名無史さん:2000/12/08(金) 11:44
506日本@名無史さん:2000/12/09(土) 11:36
朝鮮=解決黒頭巾は消滅したか?
507名無しさん@1周年:2000/12/09(土) 11:39
つうか、ただの荒しもしくはカタリだと思うが。
508日本@名無史さん:2000/12/09(土) 12:11
いや。彼は筋金入りの電波です。
509解決黒頭巾:2000/12/09(土) 20:12
>508 名前:日本@名無史さん投稿日:2000/12/09(土) 12:11
>いや。彼は筋金入りの電波です。

大笑い

510日本@名無史さん:2000/12/10(日) 04:30
電波がいなくなったら、下がってしまった
511日本@名無史さん:2000/12/10(日) 23:52
ヤマトの中心は纏向
512日本@名無史さん:2000/12/11(月) 16:02
513日本@名無史さん:2000/12/12(火) 01:05
埼玉新聞HPの、稲荷山鉄剣銘とさきたま古墳群の話
http://www.saitama-np.co.jp/main/rensai/bunka/teken/tekenindex.htm
514日本@名無史さん:2000/12/12(火) 17:27
最北端の前方後円墳、岩手県胆沢町南都田の角塚古墳
http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan618.html

角塚古墳との関係が想定される、約2km北にある水沢市佐倉河の中半入遺跡
http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan642.html
515日本@名無史さん:2000/12/13(水) 07:19
纏向石塚古墳
516日本@名無史さん:2000/12/13(水) 20:54
箸墓古墳
517日本@名無史さん:2000/12/14(木) 01:01
1位:伝仁徳天皇陵、2位:伝応神天皇陵
518日本@名無史さん:2000/12/14(木) 07:11
三輪そうめん本舗
519解決黒頭巾:2000/12/15(金) 01:27
三輪氏は日向出身。
卑弥呼の古墳も日向西都原。
大和国造も九州出身(珍彦)。

つまり、大和は日向の邪馬台国の支配下にあった(白村江の敗戦まで)。
520日本@名無史さん:2000/12/16(土) 02:53
前方後円墳体制VS前方後方墳体制
521日本@名無史さん:2000/12/16(土) 11:08
前方後円墳体制の判定勝ち。
522日本@名無史さん:2000/12/16(土) 21:19
前方後方墳体制は、古墳時代後期に、出雲東部で細々と復活。
523解決:2000/12/17(日) 17:17
前方後円墳は秦族がつくった。
524日本@名無史さん:2000/12/17(日) 23:13
古墳時代前期に、前方後円墳体制と前方後方墳体制が対峙する中で、
出雲は、四隅突出型墳丘墓の流れを汲む方墳体制と独自路線。
525日本@名無史さん:2000/12/17(日) 23:34
>前方後円墳は秦族がつくった。

詳しいこと教えてケロ。

526日本@名無史さん:2000/12/18(月) 00:00
聞くだけ無駄
どうせまたまぬけな偽書から電波とばすだけだよ
527日本@名無史さん:2000/12/18(月) 20:03
528日本@名無史さん:2000/12/19(火) 01:59
529日本@名無史さん:2000/12/19(火) 18:57
青谷上寺地遺跡で共鳴箱付きの琴出土 - 山陰中央新報
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2000/12/19/01.html
鳥取県青谷町青谷、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から、弥生時代中期(紀元前後ごろ)の、共鳴箱を持つ琴がほぼ完全な形で出土した
このほか、祭祀用器物では、土笛などの楽器、鯨骨製の剣形製品(長さ二十八センチ、最大幅三・七センチ)や木製の剣形、刀形、戈(か)形など武器形が多数出土している。木製品では漆塗りのつぼ、鉢、おけ、腰掛け、履(くつ)など精巧な製品が多数出土。
530日本@名無史さん:2000/12/20(水) 07:19
纏向遺跡
531日本@名無史さん:2000/12/21(木) 04:41
箸墓古墳
532日本@名無史さん:2000/12/21(木) 16:19
1位:伝仁徳天皇陵、2位:伝応神天皇陵
533解決黒頭巾:2000/12/22(金) 00:19
だんとつ、西都原古墳群 男狭穂塚
534日本@名無史さん:2000/12/22(金) 11:32
3世紀中頃の卑弥呼の墓は径百余歩(直径約150m)
年代・規模・場所・伝承ともに、箸墓古墳が最有力候補。
535日本@名無史さん:2000/12/23(土) 00:35
最古級の前方後円墳:纏向石塚古墳(年輪年代で200年頃)
536解決黒頭巾:2000/12/23(土) 00:38
箸墓古墳は秦族の墓。
537日本@名無史さん:2000/12/23(土) 01:46
男狭穂塚って箸墓のはんぶんくらいのやつだろ
どこがだんとつなんだ?
538日本@名無史さん:2000/12/23(土) 18:37
539解決黒頭巾:2000/12/23(土) 21:15
540日本@名無史さん:2000/12/24(日) 06:12
ちいさいね
541日本@名無史さん:2000/12/25(月) 01:38
男狭穂塚は、新しいし、小さいし、お話にならない
542解決黒頭巾:2000/12/25(月) 21:35
男狭穂塚は、古いし、日本一の大きさだし、話題がつきない。
543日本@名無史さん:2000/12/25(月) 21:38
もしかして短メートルとかいう単位で測ってない?
544日本@名無史さん:2000/12/25(月) 21:41
話題にするのは黒頭巾だけ
545日本@名無史さん:2000/12/27(水) 00:46
箸墓古墳
546日本@名無史さん:2000/12/27(水) 00:48
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳
547日本@名無史さん :2000/12/27(水) 00:53
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳
548日本@名無史さん:2000/12/28(木) 01:43
なんか黒頭巾みてるともっかい思い知らせる必要あるな、って思うのは俺だけか?
549日本@名無史さん:2000/12/28(木) 15:04
纏向石塚古墳
550解決黒頭巾:2000/12/29(金) 00:17
西都原古墳群 男狭穂塚。
551解決黒頭巾:2000/12/29(金) 00:28
大和王権は、朝鮮半島を渡って九州に上陸した秦族、馬韓族が中国地方、畿内地方と東征し、引率した被差別部落民を酷使して箸墓等の前方後円墳を各地に築いた。

神武や、卑弥呼とは全く関係ない『別倭』である。
552日本@名無史さん:2000/12/29(金) 01:23
電波な鮮人=解決黒頭巾の発言は、根拠が全くないのが笑える。

日本書紀には、三韓征伐後の応神朝に、諸々の韓人らを使って溜め池を作ったので、
韓人池と名付けたとの記述がある。
553日本@名無史さん:2000/12/29(金) 01:23
電波な鮮人=解決黒頭巾の発言は、根拠が全くないのが笑える。

日本書紀には、三韓征伐後の応神朝に、諸々の韓人らを使って溜め池を作ったので、
韓人池と名付けたとの記述がある。
554解決黒頭巾:2000/12/29(金) 17:02
それがどうした?>553

応神は百済王久爾辛王で5世紀の話であるが。
555日本@名無史さん:2000/12/29(金) 17:29
陳寿の『三国志』魏志東夷伝倭人条に卑弥呼は鬼道に仕えたとあるが、
范曄の『後漢書』には、これを鬼神の道とはっきり書いてある。
ところで東夷伝の辰韓、弁韓、高句麗にも鬼神の祭は記されている。
これはなにを意味するのかというと、女王卑弥呼の鬼道とは、朝鮮半島
の鬼神の祭のことだったのである。
556日本@名無史さん:2000/12/29(金) 17:53
和氏というのは高野新笠の系譜にみられる百済系の和氏のこと。
日本の土着のやまと氏は、みな大和氏と書いて区別がはっきり
ある。高野新笠というのは桓武天皇の母親だねぇ。
557日本@名無史さん:2000/12/29(金) 18:05
>556
高野新笠の母親は土着の大江氏。
558日本@名無史さん:2000/12/29(金) 18:06
応神天皇は縄文系海人族出身。
559日本@名無史さん:2000/12/29(金) 18:58
>>557朝鮮蔑視観に洗脳されたバカ発見!
桓武帝の系譜である高野新笠の出自を書いた『続日本紀』
は明らかに朝鮮の神話伝承で述べられていることも知らないな?
560日本@名無史さん:2000/12/30(土) 02:38
ひがみ鮮人は、今日も電波を発信しまくり(わらわら
561日本@名無史さん:2000/12/30(土) 08:01
>>559
続日本記に一度でも目を通した事があれば
そんな気の狂ったようなことは言わんだろう
562日本@名無史さん:2000/12/30(土) 09:13
ところでさ、
「俺んちは先祖代々、律令制が始まった時に貰った口分田を今でも耕してるんだぜ!」
ってな名門百姓様はいないのけ?
563日本@名無史さん:2000/12/30(土) 10:11
貧窮問答歌のモデルはウチだ!!
564日本@名無史さん:2000/12/30(土) 18:37
>>561 太陽の光でみごもった子供だぜ。日光感精型だぞ。
これの系譜はどこなんだよ。

565日本@名無史さん:2000/12/30(土) 18:51
>559
あほか。高野新笠の母親は大江真妹。土着系だぜ。
菅原道真も毛利氏も大江氏出身。そんなことも知らんのか?
566日本@名無史さん:2000/12/30(土) 18:57
567日本@名無史さん:2000/12/30(土) 19:48
>>565 それは高野新笠の母方だな。おれは父方の話しをしているつ
もりだったからな。高野新笠の父は朝鮮半島南部の百済から渡来した
和乙継(わのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)だな。大江
なんて書くからなおさら間違えたんだぞ。大枝氏に改姓したんじゃな
かったか?
568日本@名無史さん:2000/12/30(土) 21:37
>>564
味噌が腐っているのか?
『続日本紀』の高野新笠の出自を書いた部分は
明らかに朝鮮の神話伝承をもとに述べられている
ってことと
>高野新笠の出自を書いた『続日本紀』は
>明らかに朝鮮の神話伝承で述べられている
じゃ、全然違うだろ?
わかってて書いてる?
569日本@名無史さん:2000/12/30(土) 22:13
>>568 おっとそれを言う前におれはうっかり見落としてしまったが、
おれは和氏の話をしたついでに、高野新笠の系譜にみられる百済系
の和氏の件にふれ、桓武天皇は渡来系の血を受け継いでいるという
話をしているのにもかかわらず、高野新笠の母親の系譜が土着だと
いうレスをあげてなんの意味があるんだ?父方も百済から渡来した
和乙継ではないという話をするならわかるがな。君の味噌も賞味期限
が切れているようだな。
570日本@名無史さん:2000/12/30(土) 22:30
結局、渡来系といってもはっきりわかっているのはそれだけ。
だから何だって感じ。百済人は何十万人も亡命してきたわけだろ。
天皇家だって100代以上も続けばいろんな血が入る。
571日本@名無史さん:2000/12/30(土) 22:35
>>569
それは別人だ
572日本@名無史さん:2000/12/30(土) 22:43
高野新笠が渡来系といっても、父方だけということ。
それでも桓武天皇(山部王)は4分の1渡来系の血が入っているというだけで
天皇の子であるのに「親王」になれなかった。
573日本@名無史さん:2000/12/31(日) 00:35
そうかな。天照大神。これは後に皇室の祖先神になるわけだ。
天照大神の前は高皇産霊だろ。高皇産霊というのはいったい何かと
いうと、タカミムスビ神社というのが延喜式でみると四つあるわけだ。
それは大和に二社、山城国に一社、もう一つは対馬にある。そして、
大和の二つのうち一つは、十市郡目原にます高御魂神社でこれはどこ
から来たかというと対馬から来たわけだ。次に山城の高御産日神社は、
これじたいはよくわからんが、これとちなんで月読神社というのがあっ
てこの神さんがどこから来たかというと、壱岐から来たわけ。もう一つ
はなかなか難しいのだが、宇奈太理にますタカミムスビの社っていう
のがある。宇奈太理というのはどこかというと法華寺のところなんだね。
法華寺のところにあった神社なわけ。いま楊梅天神というのがそれらしい
という。

ところで『日本書紀』に莬名足社つまりタカミムスビの社というのが出
てくる。おもしろいことに、新羅の使節が来たときにはじめて新羅の貢物
を献じた社が五社ある。持統六年に。五社のうち四社は、伊勢などの有名
な大社。ところが残る一つは莬名足社なんていう資料に全然でてこない
神社なわけ。それが新羅の貢物献上のおりに、わざわざこの社を祭るわけ。
こうなるとこれは全部対馬とか壱岐とか、新羅に関係ある神と考えたくな
らないか。
574解決黒頭巾:2000/12/31(日) 01:57
うーむ、詳しいのぉ。>573
卑弥呼の宗女、壱与も狗奴国に敗れた後、対馬に移っておるな。
575:2000/12/31(日) 02:01
強引なこじつけだな。(w
なんかノストラダムス本みたい。
576日本@名無史さん:2000/12/31(日) 02:03
>573
強引なこじつけだな。
なんかノストラダムス本みたい。(w
577日本@名無史さん:2000/12/31(日) 03:43
電波な鮮人=解決黒頭巾は、いつもいつも根拠のない妄想ばかりだな(わら
578日本@名無史さん:2000/12/31(日) 19:00
神宮と朝鮮についてもうひとつ忘れてならないことがある。知っているかな?
そもそも「神宮」という言葉は新羅がいちばん早いということだ。始祖廟がのち
に第二十二代智証王九年つまり紀元五〇八年に神宮というものになっている。
ところが『日本書紀』の記述は伊勢神宮の場合でも、古くは伊勢大神
の祠とか度会(わたらい)の宮とかで、「神宮」に統一されているわけではない
んだ。にもかかわらず、石上だけは記紀全部が一貫して「神宮」なんだな。
そしてこれが神宮呼称の最初になるわけだ。

その石上に百済の七支刀がある。そしてあそこは魂振りの社だ。言って見れば
中臣(なかとみ)神道のような、みそぎはらいの神道じゃなしに、内部の精神力
を充実する鎮魂の原型の形の国津神的社なんだな。そういう社が『古事記』や
『書記』の編者の意識でも大事な社として、神宮といわれているわけだ。
579:2000/12/31(日) 19:07
韮沢編集長?
580解決黒頭巾:2000/12/31(日) 20:04
いや、すばらしい。>578
新羅の神が日本に移動して来たという証明だな。<神宮
つまり新羅が日本列島の王になった証明。
581日本@名無史さん:2000/12/31(日) 20:14
>>578 始祖廟がのちに第二十二代智証王九年つまり紀元五〇八年に神宮というものになっている。

第二十一代照知麻立干九年、一説に第二十二代智証麻立干三年のことを
混同してるのかな?
いずれにしても、はるか後世に書かれた本に
「奈乙に神宮を創設した」と書かれているわけで
この記事は5世紀に「神宮」というもの(+言葉)を創設したということではなく
「奈乙」の地に、この伝説を文字にした時点で神宮と呼ばれるものを
創設したという意味だろう。
582日本@名無史さん:2000/12/31(日) 22:32
>>581 学問的にはまだいろいろ問題はあるだろうけれども、少なく
とも文字として出てくる段階からいっても、日本より古いということ
はいえると思うけれどね。

あと朝鮮との関係でおもしろいのは神楽だな。神楽といえば日本独特
のものみたいに思うだろうけれど、ところが宮中の御神楽にはやはり
朝鮮文化が入っているんだよね。宮内庁には韓神がまつられている。
から神は、韓の神であって唐ではない。これは、『延喜式』にも明記
されているんだ。御神楽だけど、そのなかにからかみという演目がある。
これは重要な演目で、宮中の神楽歌にも、からおぎせんと、いうのがある。
これは、韓の神をまねくという解釈をしているけれど、このからおぎの、
おぐというのはまねくということだね。からふうのおぎをするということで、
つまり朝鮮ふうの神むかえのわざをするという意味だといわれている。
宮廷の御神楽においてさえね、しかも平安の時代だよ。そういう宮廷の
もっとも重要な伝統的なまつりの歌舞のなかに朝鮮のまつり伝統みたいな
ものが生き残っているわけだ。
583日本@名無史さん:2000/12/31(日) 23:36
>>582
文字として出てくるものなら
祟神8年条で三輪神社を「神宮」と呼んでいるし
景行40年条では「伊勢神宮」と読んでいるわけで
史料の書かれた時期も(フィクションだろうと)設定された時代もずっと早いだろう?
いったい「新羅がいちばん早い」という根拠はなんだい?
584日本@名無史さん:2001/01/01(月) 00:35
>>583 古文献にみえる神宮の称は、石上神宮が一番最初だったはず。
その石上神宮はもともとの名はタマフリの社であり、それが五世紀ないし
六世紀はじめの新羅で用いられていた神宮の呼称が伝えられて、石上の
聖地に神宮の名がつけられたと言われていた思う。ただ残念ながらおれは
これ以上の知識は持ち合わせていない。上田正昭の「日本のなかの朝鮮文化」
あたりの論文を読んでみたらどうだ。
585日本@名無史さん:2001/01/01(月) 10:01
>>584 おいおい!じゃナニか?そんな聞きかじりの知識で今まで断定的な事を書いてきたのか?
急に「…だったはず」とか「…言われていた思う」になっちゃって
その理由も出典も説明できないのかい?
上に挙げた日本書紀の例を無視する理由は?
それと、単なる間違いだと思うけど「智証王九年」とした出典はなに?
ひょっとして、全部いいかげんな孫引きじゃないだろうな!
586日本@名無史さん:2001/01/01(月) 12:10
>>585 ちょっと待てよ。こんなアングラBBSで聞きかじり以上の
知識を書く意味なんてあるのかよ(w 本気でやりたきゃ別の場所でやる
べきなんじゃないの?それに神宮の出自について585のような素人くさい
レスをしているようじゃあ、古代朝鮮と日本に関して知識不足を露呈してい
るようなものだぞ。おれがカキコした一連の内容はすでに『座談会日本の
朝鮮文化』中央公論社のなかで上田正昭と金達寿が。『古代の日本と朝鮮』
学生社のなかで上田正昭が指摘していることだ。ただその二冊の書物では、
新羅の神宮呼称について第一代王赫居世を祭った始祖廟が第二代南解王二年
もしくは三年(紀元六年)につくられ、そしてこれがのち、第二十二代智証王
九年(紀元五〇八年)に神宮となったこと。『日本書紀』の記述では伊勢神宮
の場合でも古くは伊勢の大神の祠とか度会の宮とかで神宮には統一されてい
ないこと。石上が神宮呼称のいちばん最初であったことのみの記述になって
いる。これ以上の内容については『古代の日本と朝鮮』のなかで上田氏が、
神宮の呼称について「日本のなかの朝鮮文化」に小論しているといっている
から、詳細が知りたきゃそれを読んでみたらどうだと指摘したわけだ。その
調子だと、とても既読とは思えないからな。つべこべいうのは読んでから
でも遅くはないだろう。
587【^▽^】ジョーカー@21世紀:2001/01/01(月) 12:51
神武天皇@紀元前600年代。
588日本@名無史さん:2001/01/01(月) 17:35
>>586 つまりあんたは、自分の言っている事の根拠も説明できない孫引きサンなわけだな?
たんなるコピペのくせに、他人のことを素人くさいとか智識不足とかよくいえるな。

その本よんで納得してるなら、説明してみろよ。
説明できないのか?
タネ本の丸写しか?
その説が正しいって御神託でも貰ったのか?
ちゃんと説明してみろよ!
589日本@名無史さん:2001/01/01(月) 17:48
>>588 正月だからな。蔵書以外の調査は図書館も古本屋も休業中のおり、
いかんともしがたいからな。ということでネットでちょっと検索をしてみたが、
君の問いに対する明確な答えになるようなサイトはないようだ。上田正昭氏や
金達寿氏がいう五〇八年の神宮の根拠はなんだろうか。たしかに君が指摘する
とおり『三国史記』の神宮は照知麻立干九年(四八七年)二月のことだ。しかし
それが単なる作者の間違えとも思えない。ただ次の論文は参考になるか?

  更に「神社」は『墨子』に「神宮」は『詩経』などに見える。朝鮮の
  『三国史記』にも「神宮」の語が見える。もとよりこれら大陸の古典籍
  に見える語が、即ち日本の「神道」「神社」「神宮」と同義ではないこと
  は言うまでもない。だが神道成立過程にこれらの言葉が密接に関連して
  いることは否めない。(中略)

  祖先を崇拝する朝鮮人が日本に移ってきてもなお、その習慣を捨てず
  移り住んだ場所に建てた《宗廟》が神社となっているのではないだろ
  うか。それまで日本には、少なくとも民衆や地方豪族には宗廟の観念
  はなかった。人が死ぬと神になった。神は何処にいるのかは分からない。
  黄泉か常世か、だがそれはどうでも良かった、祀りの日に呼べば戻って
  きたからだ。日本人はそのように考えた。しかし朝鮮人は宗廟を建てた。
  それをどうして日本人が真似るようになったのかとの経緯は判然しないが、
  朝鮮人の宗廟が現在の神社であるとの可能性は捨てられない。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/4875/sinto.html より抜粋

『座談会日本の朝鮮文化』ならこのサイトから購入できるぞ。
http://www08.u-page.so-net.ne.jp/gj8/ouchi/otonari.html
590日本@名無史さん:2001/01/01(月) 18:53
お!真面目に答えてくれたのか。
挑発的なことを言ってスマソ。

五〇八年の件は、同じ『三国史記』でも
新羅本紀では照知麻立干九年、雑志祭祀の部では智証の代となっているので
「智証の九年」というのは座談会なんかでの
たんなる記憶違い発言の可能性が高いんではないだろうか?

「神宮」という名称を宗廟の意味に使うのは中国での用法だが
とくに唐のころはたんなる「神の宮殿」より「宗廟」の意味のほうが
一般的だったようだ。
そういう意味で、『三国史記』の「神宮」という語彙が
後代性のものではないかという疑念はぬぐえない。
逆に、日本で「神宮」という言葉はたんなる神の宮として使われているのではないか?
591日本@名無史さん:2001/01/02(火) 14:16
>日本で「神宮」という言葉はたんなる神の宮として使われているのではないか?

といってもさ、古代中国において社稷や宗廟には樹木が必要であり、その樹木には
「松柏」などが多用されて、また墓地に「松柏」を植えることはこれを鬼神の廷府
とみなし、祖先神のよりどころとすることだったんだろ?それは朝鮮でも同じだよな。

ところで前記したが、皇室の祖先神天照大神の前の神さんは高皇産霊(たかみむすび)だ。
高皇産霊神というのは別名高木神というね。高木神というのは神籬(ひもろぎ)の
ことといわれている。例えば伊勢神宮の祭神は天照大神だけれども、本来は心御柱
(しんのみはしら)が中心で、撞賢木いづの御魂の神ともいうから神籬だね。神籬
とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が
宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を
神聖な空間としたものだな。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種
の神籬だ。とすると単なる神の宮といいきれるかどうか。

そもそも大和の三輪神社において建物としての祠ができたのは徳川時代だね。
三輪神社にはいまでも本殿はなくて、山そのものがご神体だ。天理の石上神宮は
いまは本殿があるけれど、いまの本殿が完成したのは大正二年だからね。人麻が
石上神宮について”袖ふる山の瑞垣の”とうたっているけれど、これも瑞垣で
あって、聖域を示す囲いはあったけれども本殿はなかったということを示している
のではないかな。
592日本@名無史さん:2001/01/03(水) 15:25
そうすると、ますます日本の「神宮」が新羅起源とは考えづらくなるね。

ひとつには、中国の宗廟が「神宮」と呼ばれていた事実があり
樹木を依り代とする点には日本の神社と共通点がある。

また、半島における宗廟は、新羅より扶余や高句麗の東明廟のほうが起源が古いし
心御柱や高木信仰は韓のソッテと共通性があって、これらの起源も新羅本紀の記述より遥かに遡る。

祟神紀は大三輪神社を「神宮」と呼んおり、これはたんなる「神の宮」かと思ったが
よく考えると陶邑から誘致された大田田根子の立場からは確かに宗廟のようだ。
593日本@名無史さん:2001/01/04(木) 04:52
ともあれ、平安時代末期にようやく成立した、朝鮮正史の三国史記は、
先行する史料として扱えないことは確かで、ひがみ朝鮮人以外は議論にしない。
594日本@名無史さん:2001/01/04(木) 09:30
いや、先行する文字史料があったことは確かで、三国史記の史料価値は高い。

ただ、昔なら韓の固有語で表現されていたものの一部
(とくに固有性の薄いもの)が失われて、成立した時期(日本なら平安末)の
ボキャブラリーが使われている可能性はは高いだろう。
「神宮」はその一例ではないだろうか。
595日本@名無史さん:2001/01/05(金) 00:14
鮮人はバカだなぁ。神宮って漢語じゃないか(わら
596歴史@真実はひとつ:2001/01/05(金) 00:28
伊勢神宮の他に拍手を四回する所は、
北九州の宇佐神宮だけなんだそうだけど、
やはり大和王権は邪馬台国を継いだ形なのでは。
余談ですが、伊勢神宮よりも宇佐神宮のほうが格上らしいんですが、
どなたかそこらへんの史実を詳しい方いませんか?
597アジ:2001/01/05(金) 00:31
あげ
598日本@名無史さん:2001/01/05(金) 02:14
>>596
四拍する神社は伊勢神宮と宇佐神宮だけではありません。
出雲大社もそうですし、うちの近所の神社もそうです。

これは、本来、古代から伝わるお参りの作法は、「二礼四拍手二礼」だったのが、
明治4年に発布された「神社祭式」によって、最高の神社である伊勢神宮を除いて
全国の神社のお参りの作法が、「二礼二拍手一礼」に統一されたのに対して、
伝統を重んじる由緒正しい神社はこれを拒否して、「二礼四拍手二礼」を守った
ためです。

いわば、そういった出雲大社や宇佐神宮などは、伊勢神宮に逆らったわけで、
それが格上と考えられるようになった要因ではないでしょうか?
599正しい日本の歴史:2001/01/05(金) 09:52
宇佐神宮と伊勢神宮は天皇家の二所宗廟とされ、
769年の道鏡事件では伊勢神宮はまったく無視され、
宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけました。
また、天皇家は奈良時代以降1100年間も
近くの伊勢神宮に参拝すらしたことがないのに、
国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされました。

以上の説は本当でしょうか?
600日本@名無史さん:2001/01/05(金) 13:50
そうではない。皇室は有史以来後醍醐の時代まで、伊勢神宮には斎内親王を出していた。
三種の神宝のうち、伊勢神宮に八咫鏡が奉納されているなど最高の格だった。
601正しい日本の歴史:2001/01/05(金) 21:17
そうではない。皇室は有史以来後醍醐の時代まで


その後は?
602日本@名無史さん:2001/01/13(土) 03:52
伊勢神宮公式HP
http://www.isejingu.or.jp/
603日本@名無史さん:2001/01/13(土) 13:32
文字がないからなにもわからない
604日本@名無史さん:2001/01/13(土) 13:46
なんで中国のように記録しておかなかったんだよ!
605もぐもぐ名無しさん:2001/01/13(土) 17:24
史官を養成しなかったから。
606日本@名無史さん:2001/01/14(日) 16:39
age
607日本@名無史さん:2001/01/14(日) 16:39
ageyou
608日本@名無史さん:2001/01/15(月) 01:55
中国と対等関係を主張した聖徳太子の時代から、記録が多くなっており、
この時期には、長く続いた前方後円墳体制を全国的に廃止したり、仏教を奨励するなど、
大きく変化しており、この時代から、大きく中国に準拠するようになったと考えられる。
609日本@名無史さん:2001/01/16(火) 01:38
畿内発祥の前方後円墳体制あげ
610日本@名無史さん:2001/01/16(火) 02:55
この板ありがたいです
歴史学で「大和朝廷の成立」というテーマでレポート
出たので・・・あげげ
611日本@名無史さん:2001/01/17(水) 07:55
大和王権の成立っていつ?
612日本@名無史さん:2001/01/17(水) 08:41
609は最近では「強大なヤマト王権あげ」って言わないんだな。
キチガイでもさすがに恥ずかしくなったか。
それにしてもこいつ、一行レスのプロパガンダばっか。
613日本@名無史さん:2001/01/17(水) 10:11
強大なヤマト王権あげ
614日本@名無史さん:2001/01/17(水) 10:14
>613
かわいい
615名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 14:35
age
616日本@名無史さん:2001/01/19(金) 09:52
箸墓古墳
617解決黒頭巾:2001/01/20(土) 06:46
西都原古墳 男狭穂塚
618日本@名無史さん:2001/01/21(日) 05:07
最古級の前方後円墳として有名な纏向石塚古墳は、年輪年代で200年頃の建造と見積もられる
619日本@名無史さん:2001/01/22(月) 02:24
●「玉杖形石」が出土 天理の赤土山古墳
http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?c=5&kiji=181
620日本@名無史さん:2001/01/22(月) 07:13
http://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper34.html
この案がとっても妥当のように見えるのですが、
問題点や矛盾などがありましたら教えてくださいませ。
621日本@名無史さん:2001/01/22(月) 23:45
やっぱ神武東征は280〜310年くらいってことかねぇ。
622日本@名無史さん:2001/01/23(火) 00:12
>>620
その説での、東征の理由↓が弱い。
>このような閉塞した状況が続く280〜290年頃、
>神武東征に参加した九州の諸勢力は、「呪術支配」 から脱すべく
>九州に見切りをつけ、また統治組織が整備された強力な国家の確立を
>新天地に求めたのではなかろうか。

また、中国がわの歴史書と日本書紀の異同の理由が恣意的。

623日本@名無史さん:2001/01/23(火) 00:13
>>620
その説での、東征の理由↓が弱い。
>このような閉塞した状況が続く280〜290年頃、
>神武東征に参加した九州の諸勢力は、「呪術支配」 から脱すべく
>九州に見切りをつけ、また統治組織が整備された強力な国家の確立を
>新天地に求めたのではなかろうか。

また、中国がわの歴史書と日本書紀の異同の理由が恣意的。

624日本@名無史さん:2001/01/23(火) 00:21
>>620
その説での、東征の理由↓が弱い。
>このような閉塞した状況が続く280〜290年頃、
>神武東征に参加した九州の諸勢力は、「呪術支配」 から脱すべく
>九州に見切りをつけ、また統治組織が整備された強力な国家の確立を
>新天地に求めたのではなかろうか。

また、中国がわの歴史書と日本書紀の異同の理由が恣意的。

625日本@名無史さん:2001/01/23(火) 02:15
東遷があったかどうかに関わらず、
九州近畿を含む日本統一がなされたのは遅くとも4世紀前半まで、
というあたりには、もはや異議を唱える物はいないのではないか?
626日本@名無史さん:2001/01/23(火) 03:03
最古級の前方後円墳である纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃のもの。
巨大古墳の始まりで、卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳は、3世紀中頃〜後半のもの。
畿内発祥の前方後円墳に吉備発祥の埴輪を並べた古墳が、3世紀後半には西日本を席巻した。
その当時の東日本は、狗奴国説が有力な濃尾発祥の前方後方墳体制が拡がっていたが、
4世紀になって前方後円墳体制に取り込まれている。これが、妥当なところでしょう。
627日本@名無史さん:2001/01/23(火) 03:35
ようするに4世紀前半までに(東北北海道除く)日本列島統一で、
4世紀後半から朝鮮半島へ進出ってことっしょ。
628日本@名無史さん:2001/01/23(火) 06:48
>>625 それも根拠がない。
629日本@名無史さん:2001/01/23(火) 07:41
>>626は、狗奴国説が有力な、など、ひっかかるところは多いけど、
>>628のように、どこの部分がどのように根拠がないのかを指摘しない人は、
議論にも情報交換にも役に立たない。
630日本@名無史さん:2001/01/23(火) 11:55
九州に前方後円墳が沢山作られるようになったのは4世紀後半からだよね。
少なくとも4世紀前半は九州は大和の支配を受けていなかった。
とは言えないか。
631日本@名無史さん:2001/01/23(火) 12:14
>>630
そんなに遅くないぞ。唐津の久里双水古墳は、出土品から3世紀後半と見られている。
魏志倭人伝に、邪馬台(ヤマト)は、伊都国に一大率を置いて、諸国を畏れさせている
との記述があるように、卑弥呼の時代には、北部九州を配下に置いていると見るべき。
632日本@名無史さん:2001/01/24(水) 01:13
633日本@名無史さん:2001/01/24(水) 03:55
近畿の古墳から魏からもらった鏡は出てきたんですか?
まさかアレじゃないよねえ・・・
634日本@名無史さん:2001/01/24(水) 06:53
アレじゃだめ?
635日本@名無史さん:2001/01/24(水) 07:35
卑弥呼時代と見られる漢鏡の出土分布は、畿内や吉備に集中しており、
それ以前の時代は、九州に集中していたのと様相を異にしています。
どの鏡かはさておき、九州が落ちぶれ、畿内・吉備が移行しているのは確実でしょう。
636日本@名無史さん:2001/01/24(水) 12:41
本当?いつからそんな話しになったの。ここ10年くらいに後漢鏡が
近畿からいっぱい出土したなんて聞いたこと無いんだけど。
637日本@名無史さん:2001/01/24(水) 13:00
>>636
漢鏡の研究で有名な、岡村秀典氏の「三角縁神獣鏡の時代」(講談社)を読むべし。
638日本@名無史さん:2001/01/25(木) 07:36
三角縁神獣鏡
639日本@名無史さん:2001/01/25(木) 11:41
こんなふうに書くと、知らない人は
三角縁のことを漢鏡と主張してるように見えるだろうから説明。

ここでいう後漢鏡とは、三角縁とはべつの鏡のことです。
実際のところ、後漢後期以降の銅鏡は畿内中心に分布しています。

ちなみに平原遺跡出土の鏡は大半が日本製というのが最新調査の結果。
640日本@名無史さん:2001/01/25(木) 12:06
平原弥生古墳出土の鏡は、漢鏡と巨大な倭鏡からなり、
漢鏡の型式から、発掘者の原田大六氏は2世紀前半と見積もったが、
鉛同位対比から見ても、いずれも前漢〜後漢初めの鏡と同じ華北タイプで、
古墳時代の遺跡から見つかる鏡は、殆どが後漢中期以降の漢鏡と同じく
華中・華南タイプなのと、大きく違っている。
九州論者が、平原弥生古墳の年代を必死で下げようとするのは、ムリがある
641日本@名無史さん:2001/01/25(木) 14:00
九州北岸部が近畿文化一色になっているなら、近畿中心説を
信じられるんだけどねえ。
ていうか、倭の二人の女王は天皇家の誰に当たるんですか。
まさか、天皇家以外の人が関西を支配していたなんて言わないよね。
642日本@名無史さん:2001/01/25(木) 15:20
正始8年高句麗を魏が掃討した時に高句麗からの亡命者が畿内に
沢山の漢鏡をもたらした。
643日本@名無史さん:2001/01/25(木) 15:34
>>641
畿内発祥の前方後円墳が、北部九州にも拡がり始めていたのだから、
そう言えるでしょう。
卑弥呼については、ヤマトトトヒモモソヒメと天照大神と神話として、
伝承されたと見る人が多いのでは。
644日本@名無史さん:2001/01/25(木) 17:37
装飾古墳は関東にも朝鮮にもあります。発祥は九州です。近畿にはありません。
大和朝廷が全国を支配していたのに、変な分布をするもんですね。
つーかさー、中国史書と日本のを見比べて、本当に倭国は大和朝廷だと思える
わけ?全然違うと思うんだけど。
645日本@名無史さん:2001/01/25(木) 17:40
北九州=朝鮮半島南部
古代史の常識ですね。
646日本@名無史さん:2001/01/25(木) 17:52
装飾古墳なんて、古墳時代後期〜終末期のものじゃないか。
それに、その地域に軒並み存在するものでもない。
ローカルな差異を強調しているだけのナンセンスな議論。

畿内発祥の前方後円墳に、吉備発祥の埴輪を並べた古墳が、
古墳時代前期の終わりまでには、東北南部〜九州中部まで拡がったと言う
斉一性に注目するべきで、枝葉末節に走ってもダメ。
647日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:04
倭国=九州王朝だろ。
648日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:11
そこまでレベル落とすのか?
649日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:18
かつて、北九州と朝鮮半島南部が同一文化圏だったと言う
説はあの西尾幹二も認めるところ。
650日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:28
>>649
そんなこと、あらゆる証拠で明らか。
651日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:29

卑弥呼はブスだから、誰とも会わなかった

652解決黒頭巾:2001/01/25(木) 20:37
邪馬台国の本国は九州西都原。
伊都国と熊本の玉名がその連邦。

畿内にあったのは被差別部落民を従えた「秦王国」。
彼らは秦の始皇帝の子孫で、朝鮮半島から北九州に上陸後、「倭奴国」を建てたのち、
中国地方を経て畿内に侵入。「秦王国」を建てた。
吉備の埴輪が畿内の古墳にあるのは当然。もともと居た場所だから。

現在も畿内に被差別部落民が多のも、そのなごり。

九州の「邪馬台国」と畿内の「秦王国」を併せて「日本」としたのが白村江戦勝国の新羅。
新羅(シラギ)の読みは、ボルネオ語の「シラヒーズ」から来ており、「日の本、日の出」の意。
つまり、「新羅」と「日本」とは同義語。

「日本書紀」は邪馬台国の存在を隠すことを、その目的のひとつにして「新羅」の舎人親王が先ず書いた。


653日本@名無史さん:2001/01/25(木) 20:42
>>652
バカ、詞ね。
654日本@名無史さん:2001/01/26(金) 03:17
655亀井静香ちゃん:2001/01/26(金) 03:33
解決黒頭巾君の言ってることはただしい、これからの日本史は
彼によって覆るかもしれん。
656日本@名無史さん:2001/01/26(金) 11:28
岩手県にある日本最北端の前方後円墳
Vol.618 角塚古墳 (胆沢町南都田)
http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan618.html
Vol.619 角塚古墳 (胆沢町南都田)
http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan619.html
657日本@名無史さん:2001/01/26(金) 11:33
任那にまで拡がった古墳時代後期の前方後円墳
----
朱塗り石室が韓国にも、日本様式初の確認(10月2日15:34):読売ニュース

 韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、内部を赤色顔料で朱塗り
した横穴式石室(六世紀前半)が、同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに
確認された。日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認されたのは初めて。
日本の須恵器も出土していることから、日本の古墳祭祀(さいし)文化の影響と
みられる。大陸や朝鮮半島から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を
伝えていたことを示す重要な成果として注目される。
 石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二メートル、高さ
一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁がベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で
真っ赤に塗られていた。

 朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望を反映したものと
考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見されていなかった。

 松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と紹介し、日本独自と
されていた前方後円墳のルーツではないかと論争になった。

 一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜六世紀半ば)が
あったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな)」と呼ばれる。

 沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がかかわったとも
考えられる」と話している。
658日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:01
前方後円墳なら二世紀の物と言われる積石塚古墳が北朝鮮にあるぞ。
659日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:11
半万年前の檀君陵も北鮮にはあるそうだな(わら
どう見ても、高句麗様式の墓だそうだけど、電子スピン年代測定で
半万年前と出たそうだ。(わらわら
660日本@名無史さん:2001/01/26(金) 17:13
北朝鮮なら、二世紀なんて言わないで、紀元前3000年とでも言え(w
661日本@名無史さん:2001/01/26(金) 18:35
で、658の古墳についてはちゃんと否定できてるのか?
662日本@名無史さん:2001/01/26(金) 22:05
当然。だって積石じゃん!
663日本@名無史さん:2001/01/26(金) 22:14
20年ほど前に作られました。
664日本@名無史さん:2001/01/27(土) 12:09
最初の巨大古墳である箸墓古墳は、場所・規模・時代・伝承から見て、
卑弥呼の墓の最有力候補とされています
665世界@名無史さん:2001/01/27(土) 14:31
>662
積石と前方後円墳って違うの?
666日本@名無史さん:2001/01/27(土) 14:43
前方後円墳は石積んで作ってないでしょ?土盛ってる。
図書館とか出積石塚の写真や図面みてみ。方檀付円丘石槨積石塚タイプだよ。
見るからに全然違うものだよ。

もちろん日本語と高句麗語は似ていると言われる程度の
類似性はあるだろう。そういう意味では同系かもね。
667解決黒頭巾:2001/01/28(日) 22:41
>>655
さすが亀井君、見る眼がある。
668日本@名無史さん:2001/01/29(月) 00:44
ブサヨクは、解決黒頭巾や亀井とか鮮人史観のトンデモには何も言わないな(わら
669日本@名無史さん:2001/01/29(月) 15:07
ブサヨク=鮮人史観のトンデモ
670日本@名無史さん:2001/01/30(火) 02:55
椿井大塚山古墳と京都の古墳の資料集HP必見
http://www1.mahoroba.ne.jp/~kidugawa/
671日本@名無史さん:2001/01/30(火) 21:37
神武=崇神、その伝説は応神と混じり合い・・ということかと
思うんですが。
ところで崇神のミマキイリヒコって名前はどうなんでしょう。
「ミマナから来た男」って読めないこともない・・
672日本@名無史さん:2001/01/30(火) 22:00

卑弥呼は、”ひどいブス”だったので誰とも会わなかった。
ヒキコモリ厨房。
673日本@名無史さん:2001/01/30(火) 23:36
>>671 するとイホキイリヒコの「イホ」ってどこよ?
イクメイリヒコは何処イクメ?
674日本@名無史さん:2001/01/31(水) 07:46
『イリ』=『西』ってのはほとんどの人が認めてる事実と思ってたけど違うのかしら
675日本@名無史さん:2001/01/31(水) 17:00
ミマナのナは土地をあらわす意味だとか。
キは城を意味するとか。
イリはイルで男の名前でよくある「キム・イル」とかと同じだとか。
西って意味だったのは知らなかった。
ミマナの城のイルさんって感じなのかなあ。
676日本@名無史さん:2001/01/31(水) 17:31
>675
電波なこじつけを真に受けるな。
小林恵子か。
677日本@名無史さん:2001/01/31(水) 17:58
根拠なしの鮮人史観の電波は、もう相手にされない
678日本@名無史さん:2001/02/01(木) 21:21
最古の巨大古墳である箸墓古墳は、卑弥呼の墓説が有力
679日本@名無史さん:2001/02/01(木) 21:31
http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/010201/dom/20300000_maidomm080.html

2001年2月1日(木) 20時30分
<前方後方墳>最古級「神郷亀塚古墳」を確認 滋賀・能登川(毎日新聞)
 滋賀県能登川町埋蔵文化財センターは1日、同町神郷(じんごう)で、3世紀前半に造られた最古級の前方後方墳「神郷亀塚古墳」(全長35・5メートル)を確認した、と発表した。琵琶湖東岸に有力首長がおり、前方後方墳が広く分布している東海地方と連携し、前方後円墳を全国に広めたとされる初期ヤマト政権と対立していた可能性が出てきた。また、山の尾根を利用せず平地に盛り土した高塚の最も初期の形式で、弥生期の低墳丘墓からの変遷を知るうえで貴重な発見といえる。
 同古墳は、形にちなみ地元で「亀山」と呼ばれ、棺を埋葬した部分が円形の前方後円墳とみられていた。昨年12月から、町内遺跡分布調査として、縦横に溝を掘り、試掘調査した。
 北東側の調査で、濠(ほり)に囲まれた部分が台形状と分かり、長さ21メートル、幅25メートルの後方部と、長さ15・5メートル、幅18メートルの前方部を持つ前方後方墳と判明。後方部からはベンガラなどの赤色顔料のほか、弥生後期(約1800年前)の土器片が出土し、邪馬台国にいた倭国の女王・卑弥呼の時代と重なる3世紀前半の築造と判断した。
 前方後円墳が3世紀中ごろから近畿・瀬戸内を中心に築造され、全国に広がったのに対し、前方後方墳は主に東日本で古墳時代前半の3〜4世紀に築造された。前方後方墳研究の第一人者の赤塚次郎・愛知県埋蔵文化財センター主査は「東海と近江地域を、墳墓の形を共有する地域として再評価する必要がある」と話している。
 現地説明会は3日午後1時から。問い合わせは同センター(0748・42・5011)。 【斎藤 和夫】
 ▽石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話 高塚前方後方墳としては最古で、前方後方墳のルーツが湖東・湖北地域である可能性も出てきた。邪馬台国の時代のクニの動向を知るうえで極めて重要だ。
680日本@名無史さん:2001/02/01(木) 22:34
鮮人史観ってなんなの?
マジに。
681日本@名無史さん:2001/02/02(金) 16:03
>>680
朝鮮総連とかが垂れ流している、史料に基づかない電波な史観のことで、
デタラメを言って中国人学者に叱られた、好太王碑文捏造説など枚挙に暇がない。
韓国の歴史教科書は日本語訳があるから、それを読めば良く分かる。
日本植民地時代の歴史に関しては、台湾の歴史教科書の同時代の記述と比較すると、
反日的な歴史捏造体質が良く分かる。ともあれ、ちゃんと裏付けを示さない朝鮮人は、
相手にする必要はなく、そう言う輩は蔑視しておけばよろしい。

(比較)台湾の歴史教科書『認識台湾』の日本時代の記述

1) http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1890/110.html
2) http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1891/113.html
3) http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1892/113.html
4) http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1893/113.html
5) http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1894/113.html
6) http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1895/113.html
682日本@名無史さん:2001/02/03(土) 09:25
電波な鮮人史観は痛い
683日本@名無史さん:2001/02/04(日) 09:06
すくなくとも箸墓古墳の頃には大和政権が確立していたというのは
誰もが認めるところだと思います。

その年代測定はまだよく理解できていないのですが三世紀後半でしょうか?
684日本@名無史さん:2001/02/04(日) 09:46
保守的なほうの説でも西暦280年代
最近は260年代くらいに考える人が増えてきたようですね。
685日本@名無史さん:2001/02/04(日) 10:23
口はさんですいません。
箸墓=卑弥呼の墓だとしても、
なおかつ邪馬台国は大和朝廷ではない、という
意見もまだ生きているんですよね?
686日本@名無史さん:2001/02/04(日) 11:46
>>685
例えば、今の天皇家の血につながるかどうかはわからない。
しかしこの話において重要なことはそういうことではなく、
文化や構成メンバーにおいて同一のものであるかどうか。

考古学的には断絶がないことが認められているらしい。
構成メンバー内において取って代わることはあったかもしれない。

広い意味での大和政権は三世紀には成立していたとしてよいのだろう。
狭い意味での大和政権を考えると応神以降かもしれないが。
687日本@名無史さん:2001/02/04(日) 14:12
いまどき邪馬台国=大和朝廷って言い方は
九州説の人が逆説的に使うぐらいじゃないですか?
「神話に卑弥呼が出てこないから邪馬台国は大和朝廷じゃない」とかね(憫)

最近みんな「大和政権」って言い方ですよね。
688日本@名無史さん:2001/02/05(月) 00:29
>例えば、今の天皇家の血につながるかどうかはわからない。

初期の前方後円墳が集中するのは奈良県纏向地域であり、その後も奈良県には巨大古墳が築き続けられ、
飛鳥時代にもこの近くに都があったわけで、当時の人口の少なさから見ても、
同じ地域だから、血の繋がりがあるとみる方が、蓋然性は高い。
689日本@名無史さん:2001/02/05(月) 00:48
たとえ晩、
吸収にいた卑弥呼が擁立されて大和に迎え入れられた、というのはありかな
690689:2001/02/05(月) 00:49
継体みたいに。
691日本@名無史さん:2001/02/05(月) 01:42
「たとえ晩」「吸収」とか、誤変換が酷すぎる。日本人じゃないのか?
692日本@名無史さん:2001/02/06(火) 01:57
最古級の前方後円墳である纏向石塚古墳は、年輪年代で200年頃の築造と見られる。
693解決黒頭巾:2001/02/06(火) 20:27
>>691
>最古級の前方後円墳である纏向石塚古墳は、年輪年代で200年頃の築造と見られる。

九州の地に倭奴国を建てた「秦王国」が、吉備を経て畿内に地歩を築いた頃であろう。
694日本@名無史さん:2001/02/06(火) 20:30
電波な解決黒頭巾は、神出鬼没だな(藁
695日本@名無史さん:2001/02/08(木) 01:32
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳
696日本@名無史さん:2001/02/08(木) 16:38
魏では大きな墓を作ると盗掘にあう恐れがあるとして王族の墓も
皆小さかった。
法律で墓の最大値も決められていたらしい。
魏の時代の墓は小さい為、王の墓もあまり見付かっていない。
三角縁神獣鏡が中国で出土していないのは魏の墓が見つからない
為だと言う学者がいるくらいだから。
卑弥呼の墓もこれに準じて作られており、径150m超の巨大な
墓では有り得ない。
魏の時代、一歩は約25cmなので卑弥呼の墓は直径25〜30m
である。
697日本@名無史さん:2001/02/08(木) 16:44
>魏の時代、一歩は約25cmなので卑弥呼の墓は直径25〜30m

ぷぷぷっ、電波だな。古来より「一歩」とは、左右一回ずつ歩いた距離を基準にしたもので、
約140cmと見積もられている。則ち卑弥呼の墓の直径は140m余りとなる。
ちなみに、箸墓古墳の後円部の直径は約160mである。
698日本@名無史さん:2001/02/08(木) 16:56
馬鹿め
古来より一里3百歩と定められており、倭人伝からも
判るように魏の時代の一里は75m程度だ。
7500/300で25cmとなるのが自明の理。
漢の時代とは明らかに違うのだよ。
699日本@名無史さん:2001/02/08(木) 19:11
698は古田じいさんのシンパだな。今時、恥ずかしい奴。
中国では、各時代の物差しが出土しており、三国時代の1尺は23cm程度。
「尺」や「歩」は、人間のサイズから来ており、それを大きく逸脱できない概念ってこと。
余りにも頭の悪いことは、言わないように。
700世界@名無史さん:2001/02/08(木) 20:33
いまどきの九州説は698みたいな白雉ばかりか…
701日本@名無史さん:2001/02/08(木) 21:08
はく-ち [0][1] 【白雉】
 白色の雉(キジ)。瑞祥とする。
はくち 【白雉】
 年号(650.2.15-654.10.?)。大化の後。孝徳天皇の代。

大辞林より
702日本@名無史さん:2001/02/08(木) 21:38
おめでたいじゃん
703日本@名無史さん:2001/02/09(金) 08:08
爆笑
704日本@名無史さん:2001/02/10(土) 07:09
最古級の前方後円墳の纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃の築造とされる。
705日本@名無史さん:2001/02/10(土) 18:28
卑弥呼の墓説が有力な、最古の巨大古墳である箸墓古墳。
706解決黒頭巾:2001/02/10(土) 20:42
卑弥呼の墓説が有力な、最古の巨大古墳である九州西都原、男狭穂塚古墳。
707解決黒酢菌:2001/02/10(土) 21:25
卑弥呼の墓説が無力な、サイコの巨大古墳である九州西都原、男狭穂塚古墳。
708日本@名無史さん:2001/02/12(月) 05:31
まあ、実際の話としては、三世紀前半には大和に強大な政権があったとしても
よいのではないか。もちろん、それが卑弥呼の国なのかどうかにかかわらず。

とすると、それらと一貫して続く勢力が、一世紀や二世紀にも同じように大和に
あったかどうかということが焦点になるかと思う。
709日本@名無史さん:2001/02/12(月) 05:41
1世紀については、奴国の金印が出土しているように、北部九州中心でしょう。
当時の漢式鏡の出土も、北部九州が卓越しています。
弥生時代終末期になって、北部九州の遺跡の衰退が顕著になり、漢式鏡の分布も東に移行する。
吉備に弥生時代最大の墳墓である、楯築墳丘墓が築かれている。
畿内で、最古級の前方後円墳である纏向石塚古墳が築かれたのは、年輪年代で200年頃。
こう言った事象から、ある程度推定できるでしょう。
710日本@名無史さん:2001/02/12(月) 06:03
権力中枢としての大和が「受動的に」形成されるのが
2世紀末から3世紀初頭ってところでしょう。
これが3世紀半ばにむけて確立して行くけれど
個人的カリスマ依存から脱却して政治制度に転換する転機が
布留0ってあたりではないの?
711日本@名無史さん :2001/02/12(月) 10:34

教科書で教える大和時代は、実際には
朝鮮王族の末裔たちによる派遣争いだった。
蘇我氏が百済王族の末裔。
神事を司る天子(天皇)系は加羅王族の末裔。
加羅は南朝鮮の国で、後に任那となるところ。
任那日本府設立とは、大和に移住した加羅王族と親派
による南朝鮮奪還の抵抗。
大和を舞台にした朝鮮王族の末裔たちによる派遣争いは 最終的に、やはり朝鮮王族の末裔である物部氏に
勝った蘇我氏と、 神事を司るから争いをしない
天子系であり、6世紀に勝ち残った。
即ち、4〜6世紀の日本の歴史は朝鮮王族の歴史。
大化の改新、壬神の乱を経て登場する藤原不比等が
歴史を書き換えた。ここが重要。そして藤原氏が
その後の平安の世を治めることとなる。
結論:古代日本史は、実は古代朝鮮史!!

712日本@名無史さん:2001/02/12(月) 10:42
妄想屋さん。そうやって夢想を垂れ流していれば満足?
713日本@名無史さん:2001/02/12(月) 11:51
>>711 は「朝鮮王族」を「プレアデス星人」に換えても同じだな。
714日本@名無史さん:2001/02/12(月) 20:03
「朝鮮」はない。あれは日本と中国のあいだのバッファに偶々国の名前が
ついてるだけ。
715日本@名無史さん:2001/02/12(月) 21:13
応神の東征が神武東征の逸話に変わったと考えるがどうか
716日本@名無史さん:2001/02/12(月) 21:47
応神って東征してたっけ?
717715:2001/02/13(火) 03:08
>>716
めんご。書き方が悪かったな。東征というのは訂正。
神功と応神が九州から大和に戻る際、仲哀の息子達に待ち伏せされ戦った
というエピソードのことを指して言ったのです。

718日本@名無史さん:2001/02/13(火) 03:15
朝鮮人が日本に多くの先進技術を伝え
大和政権に大きな役割を果たしました
その技術は日本の伝統工芸として今でも受け継がれています。
719日本@名無史さん:2001/02/13(火) 03:40
その朝鮮人たちもいつしか日本人となり
朝鮮本国とは一線を画すようになりました
そのおかげで日本の繁栄は保たれてきたです。
よって韓国併合などという愚行を
我々は歴史の教訓として二度と繰り返してはならないのです。
720日本@名無史さん:2001/02/13(火) 04:42
やっぱり日本人は朝鮮に感謝しなきゃいけないよ。
721日本@名無史さん:2001/02/13(火) 05:07
>>720に同意。あんな反面教師は他にないからな(w
722日本@名無史さん:2001/02/13(火) 05:58
岡田英弘「倭国」(中公新書)
「南北共に新しい民族のアイデンティティを求めるあまり、中国に対しては半島が
受けた影響を無視し、日本に対しては半島が与えた影響を誇張する傾向が強く現れる。
これは心情的なバランスを回復しようとする無意識の努力なのだが、わが国では戦後に
朝鮮史研究が急速に衰微したために、こうした半島の人々の民族主義的な主張を
無批判に受け売りする事が流行した。」
723日本@名無史さん:2001/02/13(火) 06:04
また、朝鮮学校の電波な教科書の受け売り野郎が出てきたな。
主張をするだけでなく、その裏付けを示せよな。電波な鮮人くん。

古代朝鮮は中国の植民地で、中国人が日本や朝鮮に文化を伝えた。
王仁を初めとする中国人系帰化人や、遣隋使・遣唐使の中心を担った
中国系帰化人の貢献が大きい。
鮮人は、昔から中国に近いところにいたのに、その文化を吸収し、
発展させることが出来なかった、無知蒙昧な愚民で満ちていたってこと。
724日本@名無史さん:2001/02/13(火) 06:19
>>723
いっしょになるからもうやめなよ
725日本@名無史さん:2001/02/13(火) 06:19
愚民は言いすぎ。
朝鮮人の存在をごまかそうとするのは日韓友好の
妨げになるのでやめよう。
726日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:31
>>725
朝鮮では、中国系を含む一握りのエリートが、中国文化を吸収しただけで、
日本の室町時代まで国字すらなく、庶民は無知蒙昧なまま打ち捨てられていたのは事実。
幕末維新の頃に、東アジアを訪れた欧米人の記録を見ても、
日本人の文化的な評価の高さに比べて、鮮人は相手にされていない。
福沢諭吉など日本の知識人も、鮮人の愚かさには匙を投げていた。
727日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:35
古代において朝鮮人が日本に多くの先進技術を伝え
大和政権に大きな役割を果たしました
その技術は日本の伝統工芸として今でも受け継がれています。


728日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:36
>>725
任那の存在を無視するのは日韓友好の妨げになるのでやめよう。
729日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:51
727の鮮人は、論拠なしに主張せずに、723に反論して見ろ。
以下、723を再録。
----
また、朝鮮学校の電波な教科書の受け売り野郎が出てきたな。
主張をするだけでなく、その裏付けを示せよな。電波な鮮人くん。

古代朝鮮は中国の植民地で、中国人が日本や朝鮮に文化を伝えた。
王仁を初めとする中国人系帰化人や、遣隋使・遣唐使の中心を担った
中国系帰化人の貢献が大きい。
鮮人は、昔から中国に近いところにいたのに、その文化を吸収し、
発展させることが出来なかった、無知蒙昧な愚民で満ちていたってこと。
730日本@名無史さん:2001/02/13(火) 07:53
鮮人は、電波な主張をするだけで、論拠を示せないから、バカ丸出し。(藁
朝鮮学校では、それで通用するのかも知れないが、日本では通用しないぞ。
731日本@名無史さん:2001/02/13(火) 14:12
戦前の教科書でさえ文字や仏教などが朝鮮から伝えられた事を
書き記しているのに、最近の馬鹿ウヨクは朝鮮と聞くと狂ったように
否定する。
ゆとり教育とかで知能指数も悪くなったらしい。
こいつらが佐賀のバス乗っ取りとか、人殺す経験したいとかやるん
だろうな。
嘆かわしい。
732日本@名無史さん:2001/02/13(火) 14:30
朝鮮半島=鮮人じゃないぞ。これが、鮮人がよく使うレトリックだな。
古代の朝鮮半島は、中国の植民地だったことに目を瞑ろうとするな。
文字や漢籍を伝えたとされる王仁は、もちろん中国系帰化人。

仏教の公式伝来は、百済の聖明王からと記されている。しかし、内容は
中国の仏教書しか知られておらず、媒介しただけのこと。
昔の教科書も、朝鮮は媒介の役割とは書いていた。それ以上でも以下でもない。

それに、百済からは王族を初めとして、多くの難民の帰化を受け入れ、
日本人の要素となっており、彼らは鮮人の祖先ではないぞ。

織原城二=金聖鐘のように、悪質な人殺しは、鮮人が多いだろうが。
●夕刊フジHP・2000.10.19●
『捜査本部の調べに対し、震えながら、「今は何もいえない」と繰り返している同容疑者は、大阪市内でタクシー会社や不動産・ビル管理業などを営む資産家(在日コリアン)の二男、「金聖鐘」として誕生した。大阪市内でも指折りの高級住宅街にある豪邸は、高さ3メートルあまりの屏に囲まれ、周囲でもひと際目立つ。』
『今回の事件では、アングロサクソン系の金髪女性に対する異常な執着ぶりと変態的な性向が浮き彫りになっている織原容疑者。』
『事実、織原容疑者は卒業後に3年間、米国留学。この時期、帰化し、名を「織原城二」とし、慶応大法学部法律学科に入学。卒業後は、同学部政治学科に再入学した。』
733日本@名無史さん:2001/02/13(火) 16:37
おい、馬鹿!おめーら、選挙に行ったか?
選挙に行ったとしてもなんか貰って自民党に投票するんだろ。
そんなに日本が良いか?
いまや、日本の治安の悪さはフィリピン、中国についで悪い事を
知っているか?
韓国の方が数倍治安がよくて、夜の公園女が一人で歩けるんだぞ。
テメー等、がこんな日本にしたんだぞ。
少しは反省しろ。
734日本@名無史さん:2001/02/13(火) 17:10
日本における鮮人の犯罪率の大きさは深刻な問題だな。
735日本@名無史さん:2001/02/13(火) 17:29
↑朝鮮人の犯罪率より新井君の日本史板荒らしを何とかしてくれ(藁
736日本@名無史さん:2001/02/13(火) 17:40
735の鮮人は、反論できなくて、逆切れしているのが恥ずかしい。(藁
737解決黒頭巾:2001/02/14(水) 02:53
やけに中国人を持ち上げている輩がおられるが、
中国人は、オリエントから来た苗族と、メラネシアの人食い人種が混血して生まれた先祖から出発しており、「魏志」にでてくる”生口”も食用奴隷のことである。

古来より(食用のための)「赤ん坊」の奴隷市場が最近まで連綿と続いていた国柄であるよ。
738日本@名無史さん:2001/02/14(水) 03:41
とにかく日本としても朝鮮が存在してくれないと困る
対馬の向こうがすぐ中国はやでしょ。
大陸からの露骨な圧力は基本的にまずむこうにかかるわけだし。
あんまり圧力を受けすぎてねじれちゃった・・かわいそう

739日本@名無史さん:2001/02/14(水) 23:11
対馬があれば大丈夫だよ
740日本@名無史さん:2001/02/15(木) 00:44
朝鮮が弱すぎるからダメなだけだろ。
モンゴル・満州(女真)・トルコ(突厥)・ウイグル・チベット(吐蕃)などは、
中国にも果敢に立ち向かって、大きな打撃を与えたりしている。
日本も、聖徳太子以来、基本的に中国に対して冊封に入らないで交流している。

「明史日本伝」には、明使が日本に来て、属国になれと言ったので、例によって斬り捨てたが、
明の皇帝は激怒しながらも、元の弊があるので、日本遠征は中止したと載っているように、
相手が強ければ、中国も簡単には手を出さない。むしろ、明の反乱分子と倭寇が手を組んで
荒らしたので、明が海禁政策を出したと記しているように、明側が恐れをなしている。
741日本@名無史さん:2001/02/15(木) 07:25
朝鮮は連戦連敗で、周辺諸族の属国になってばかり。
742日本@名無史さん:2001/02/15(木) 09:37
隋は高句麗と戦って国力が疲弊し倒れた。
743日本@名無史さん:2001/02/15(木) 16:46
前方後円墳の起源は高句麗の積石塚古墳。
ホケノ山古墳見たか?石が積んであるだろ。
744日本@名無史さん:2001/02/15(木) 18:36
>>743
ぷぷぷっ、高句麗の積石塚古墳って、ゴミのような小さな墓じゃん。(藁
電波な鮮人のいつものパターンだな。(藁藁

石を積んだ巨大な墓と言えば、秦の始皇帝陵や漢の武帝陵と言った、中国の陵墓だな。
日本以外に、エジプト・中国・メキシコなど、巨大な墓を築いている地域もあるが、
いずれも、墓室は元の地平面より下に置かれているのに対して、日本の竪穴式石室は、
頂上付近に墓室が作られている点で、墓制が著しく異なり、形態のユニークさと言い、
日本の独自性が強い。

電波な743は、岡田英弘「倭国」(中公新書)が、指摘する通りの病理的な反応で、バカ丸出し。
「南北共に新しい民族のアイデンティティを求めるあまり、中国に対しては半島が
受けた影響を無視し、日本に対しては半島が与えた影響を誇張する傾向が強く現れる。
これは心情的なバランスを回復しようとする無意識の努力なのだが、わが国では戦後に
朝鮮史研究が急速に衰微したために、こうした半島の人々の民族主義的な主張を
無批判に受け売りする事が流行した。」
745日本@名無史さん:2001/02/16(金) 09:41
馬鹿だな。
三世紀末に全国各地にいっせいに前方後円墳や前方後方墳が現れるのを
なんと説明する。
三世紀に大和政権が東北会津まで支配下に置いていたとは考えられないだろう。
畿内に発生して次第に広がったと言うのは合理的な説明ではない。
巨大な墓と言う事に気を取られてはならない。

これらの積石塚古墳と前方後円墳、前方後方墳の最大の特徴は祭壇付きと言う事だ。
独自に発達したと考えるのは不合理である。
万世一系信仰に曇った目では見えないかもしれないが。
746日本@名無史さん:2001/02/16(金) 09:44
無知だねぇ
747日本@名無史さん:2001/02/16(金) 10:37
745のひがみ鮮人は、事実関係のウソが多すぎる。(藁
土器編年から見ると、全国各地にいっせいに発生したものではない。
最初期の前方後円墳は、纏向石塚古墳と言うのが、現在の研究で知られていること。

土器編年の研究が進んで、前方後方墳は濃尾地方に最初に現れること、
北関東・東北南部の初期の古墳は、前方後円墳ではなく前方後方墳であり、
墳丘に並べるのも埴輪ではなく東海様式の壺であることなど、
西日本の古墳とは様相を大きく異にする。
これらの常識も知らないなんて、ひがみ鮮人はダメだな。

古墳時代初期の東国は、濃尾を拠点とする狗奴国の勢力下にあったと見る人が多い。

巨大古墳を作るには、ピラミッドなどと同様に、荷重に耐える建築構造が重要であり、
それには高句麗の積石塚古墳のごときゴミは参考にならない。
秦の始皇帝陵・漢の武帝陵など中国の巨大陵墓の建築構造は、大いに参考になったであろう。

ひがみ鮮人は、電波を発生すればするほど、バカにされるのを理解できないようだな。(藁
748日本@名無史さん:2001/02/16(金) 12:00
丸だろうが四角だろうが祭壇付きと言う事では一致している。
高句麗の積石塚も四角いのやら瓢箪切った様なのまで色々ある。
749日本@名無史さん:2001/02/16(金) 13:19
748の電波な鮮人は、世界各地の墳墓を勉強した上で言えよな。(藁
世界各地の墓について、差異と類似性を検討することもせずに、
ひがみ鮮人としての、妄想を垂れ流すだけだから、世界の人にバカにされるだけ。
750日本@名無史さん:2001/02/16(金) 14:48
さるHPからのコピペだが

:天平時代の神亀4(西暦727)年12月20日、寧楽(なら)の都(平城京)に、
遙か彼方・満州から使節一行が入京しました。
当時、満州にあった渤海国からやって来た使節は宮中に参内し、渤海国王・大武芸(武王)
の国書を、時の帝・聖武天皇に奉呈しました(下記)。

<原文>

武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、
奕葉重光、本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。
但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。
謹遣寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、
并附貂皮三百張、奉送。土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、
披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好。


<読み下し文>

武藝(渤海国王・大武芸本人)啓す。山河域を異(こと)にして、国土同じからず。
延(ほの)かに風猷(ふうしゅう)を聴きて、但(ただ)、傾仰(けいぎょう)を増す。
伏して惟(おも)うに、大王の天朝、命を受け、日本の基(もとい)を開き、
奕葉(えきよう)光重く本枝百世なり。武藝忝(かたじけ)なくも列国に当たり、
濫(すべ)ての諸国を惣(す)べ、高麗(高句麗のこと)の旧居を復し、
夫余の遺俗を有(たも)てり。但、天涯路(みち)阻(へだ)たり、
海漢(ひろ)く悠々たるを以て、音耗(おんもう)未(いま)だ通ぜず、
吉凶問うことも絶ゆ。親仁を結び援(あわ)せん。
庶(ねが)わくば前経(ぜんけい)に叶(したが)い、使を通じて隣に聘(へい)すること
今日に始めん。謹みて、寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁ら
二十四人を遣(つか)わし、状(のり)を賚(たま)い、并(あわせ)て、
貂皮(てんがわ)三百張(はり)を附け、送り奉(たてまつ)らん・・・(以下略)
伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。「大王天朝」。
これは朝廷−聖武天皇の事で、言い換えれば、日本の皇室。「受命」。
これは天帝より命を受ける事で、地上の支配権(この場合は日本の統治権)を任されたと言う意味。
そして、第一のキーワード「本枝百世」。
これは、早い話、日本と渤海は「本枝」の関係−つまり「兄弟国」だと言っているのです。
日本と渤海も、かつては「一つの国」だったと「国書」は言っているのです。
では、そのかつてあった「一つの国」とは何だったのでしょうか?
その国の名も「国書」にはちゃんと書かれているのです。


751日本@名無史さん:2001/02/16(金) 14:49
↑続き
武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。
この文の中で、「国書」の主・大武芸王は、「復高麗之舊居」、
つまり、渤海の前身・高句麗の領土を回復し、「有扶餘之遺俗」、
夫余の伝統を継承したと言っているのです。ここに出てくる「夫余」こそ、
日本・渤海の原郷−かつてあった「一つの国」の名なのです。
752日本@名無史さん:2001/02/16(金) 14:54
↑続き
早い話が祖先を同じくする兄弟なのだから仲良くしようぜ。
と渤海が言ってきたのだ。
753日本@名無史さん:2001/02/16(金) 16:12
あちゃー。漢文読めないの?
兄弟なのだからとか、日本も夫余だとかなんて書いてないでしょ?

国名は違うけれども、日本でも昔馴染みの高句麗の後身で
夫余(高句麗+百済)の子孫だから宜しくねって言ってるだけよ。
754日本@名無史さん:2001/02/16(金) 17:08

天チャンが高句麗の子孫と決ったな。
前方後円墳が何よりの証拠。
755日本@名無史さん:2001/02/16(金) 18:16
頭の悪いひがみ鮮人には、論理性を期待するのは無理だな(藁
756日本@名無史さん:2001/02/16(金) 20:01
新井はまだ鮮人とか言ってるのか
しつこい
757日本@名無史さん:2001/02/16(金) 20:54
じゃ、痴呆人
758日本@名無史さん:2001/02/16(金) 21:37
電波朝鮮人しつこい・・・・
759ゆうこ:2001/02/16(金) 21:37
素敵な恋しませんか?

http://www.yuyu-2001.com/heels/
760日本@名無史さん:2001/02/18(日) 00:48
最古の巨大古墳である箸墓古墳は、卑弥呼の墓説が有力。
761日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:23
論点を変えてみましょう。
いわゆる大和政権の発祥の地は、大和なのか、あるいは、
大和へ攻め上ってきたのか、このあたりについてはいかがでしょう?
762日本@名無史さん:2001/02/18(日) 22:47
高句麗の王族の傍流が九州に上陸し周囲の氏族を従えて東征し天皇になった
これは古代史の定説ですよ。
763日本@名無史さん:2001/02/19(月) 01:34
ちょっと気楽な話題。
こないだたまたま北朝鮮製作の「高句麗女拳士」だかというカラテ映画を
見る機会がありまして。その主人公の父親の名が「ジンム」なんですわ。
とくに政治的意図はなかった風ですが。いや〜、なるほどと思ったなあ。

764日本@名無史さん:2001/02/19(月) 01:37

卑弥呼はあまりにもブスだったので
誰とも会わなかった。

765日本@名無史さん:2001/02/19(月) 01:51
>こないだたまたま北朝鮮製作の「高句麗女拳士」だかというカラテ映画を
朝鮮学校でやっていたのか?(藁
766日本@名無史さん:2001/02/19(月) 01:55
>756
新井君、いい加減にしないと警察に電話するわよ。
767日本@名無史さん:2001/02/19(月) 02:12
>>765
君、じぇんじぇん面白くない。
768日本@名無史さん:2001/02/19(月) 03:34
>762 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/02/18(日) 22:47
>高句麗の王族の傍流が九州に上陸し周囲の氏族を従えて東征し天皇になった
>これは古代史の定説ですよ。

んなアホな定説なんぞ無い。電波たれながすな。
(ってゆーかそれ桓檀古記じゃないの。トンデモだな)
769日本@名無史さん:2001/02/19(月) 04:27
新井も新羅は倭人が作ったとかデムパなこと言わんでくれ
世界史板の住人がまいっちゃってるぞ
770日本@名無史さん:2001/02/19(月) 06:51


  ミミミ /川川川\ミミミ
  ミミ〇川||/ ヽ|||||〇ミミ
     |川メ  卅川
    (||  ・ , ・ ||)    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       ゝ" D "ノ   <異イヒだピョン
     /| |  ̄| |ヽ     \______________
   ,. ヘ l><l l><l >
  ⊂c .l人人人l c⊃
      .|_||_.|
       | | |
       | | |
      .(__)_)


771日本@名無史さん:2001/02/19(月) 06:51

  ミミミ /川川川\ミミミ
  ミミ〇川||/ ヽ|||||〇ミミ
     |川メ  卅川
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772日本@名無史さん:2001/02/19(月) 14:29
土器型式から最古級の前方後円墳と見られる纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃の築造とされる
773日本@名無史さん:2001/02/20(火) 01:45
年輪年代によると200年頃とわかったのは出てきた木片ですよね
もちろん、3世紀に築造されたのは事実だろうけども、
3世紀頭かどうかまではわからないと思いますよ。
774日本@名無史さん:2001/02/20(火) 07:32
纏向石塚古墳の土器型式は、魏の紀年鏡が出てくる古墳よりも、かなり古いもので、
両者の年代推定は充分に調和的だと思われるが。
775日本@名無史さん:2001/02/20(火) 09:16
年輪年代計測の対象木片は古墳の周溝の部分から見つかった。
土留めに使われた可能性も指摘されているがはっきり解らない。

古墳築造時に周辺を掘り返した時に紛れ込んだ可能性も指摘
されている。
また、土留めに古い木材を使いまわした可能性もあるので
なんとも言えない。
古い形式の土器が見つかった件も、周溝部分からでは後から
投げ込まれたり、洪水などで流されてきて入り込んだ可能性も
否定出来ないのである。
776日本@名無史さん:2001/02/20(火) 10:15
以前は、古墳の年代を著しく遅らせる、非常識な編年がまかり通っていたので、
それに齟齬を来す、纏向石塚古墳の年輪年代に難癖を付けていただけでしょう。
中国鏡に不自然な伝世を仮定するのを止めれば、調和するようになったわけ。
試料としても妥当と思われる。
777日本@名無史さん:2001/02/20(火) 15:16
稲荷山金錯銘鉄剣HP
http://village.infoweb.ne.jp/~fwip2090/
鉄剣の系図はワカタケル大王以前の天皇の連続性(継続性)をも証明したといえます。
革命により前王朝が打倒されているなら、わざわざそれ以前の王朝への忠誠心を高らかに誇らしく宣言するメリットがありません。かえって、オワケの臣が8代にわたり大和朝廷に奉事したことを誇りにすることは非常に危険であります。したがって、天皇族王朝は連続、あるいは継続しているのです。
まず「世々」同じ朝廷に「泰事」してきたとある以上、少なくとも「崇神天皇」以降において断絶を伴う革命はありえない。もし革命があったのであれば、わざわざ倒された前王朝に「泰事」したことを宣言するのは危険極まりないことだ。
778日本@名無史さん:2001/02/21(水) 01:34
>777
稲荷山鉄剣銘から見て、河内王朝とか継体王朝とか、ナンセンスってことだな。
考古的にも、畿内中心の前方後円墳体制が続いているのだから、この見地でも同様で、
亡霊を追いかけていたのだろう。
779日本@名無史さん:2001/02/21(水) 02:06
>>778
稲荷山鉄剣銘から見て、河内王朝とか継体王朝とか、ナンセンスってことだな。

つまり王朝交代説がナンセンスって意味ね。
780日本@名無史さん:2001/02/21(水) 07:48
>779
そう言うことです。
781日本@名無史さん:2001/02/21(水) 07:55
稲荷山古墳鉄剣銘文は発見されるのが早すぎたかもね。
今、発見されていれば王統交代説なんか吹き飛んでいたような気がする。
782日本@名無史さん:2001/02/21(水) 23:02
王統交代説って、既に一部の派閥の人たちを除いて、ナンセンスだよ。
机上の空論で遊んでる感じでみっともない。
783日本@名無史さん:2001/02/22(木) 02:59
>>782
そうなんだけどさあ、
古代史業界の面白けりゃいい系のライター(関裕二ほか多数)が出してるような、
本屋に並んでる通俗古代史本なんか、
いまだに常識かのようにひきずってるじゃん。
それ読んでスゴイ知識を得た気分で舞い上がってるやつが
ニフティその他いろんなとこにいっぱいいるんだよな。
784日本@名無史さん:2001/02/22(木) 09:33
血のつながりにこだわる特性は高句麗朝鮮人特有の物だそうだ。
皇室の血のつながりを問題にしたり、万世一系に囚われている
日本人は高句麗朝鮮人の血を引いているのかもしれない。
朝鮮人を馬鹿にするウヨ程朝鮮人の血が濃かったりして。(藁
785日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:11
頭の悪い電波な784が煽っているな(藁 どうせ、典拠も提示できないだろう

魏志東夷伝には、邪馬台(ヤマト)国の卑弥呼が亡くなった後、
国が乱れて、宗女の台与を擁立して収まったとの記載があるように、
日本古来からの伝統ってことだな。
786日本@名無史さん:2001/02/22(木) 11:59
卑弥呼の死後国が乱れたのは血が変ったせいではない。
多分、卑弥呼の弟が引き継いでのだろうが、国をまとめるのに
シャーマンとしての能力が問われたのだ。
女性が必要だったのだ。
787日本@名無史さん:2001/02/22(木) 14:25
>784
それはまったく逆だろう。
788日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:25
問題は、2世紀にも大和政権の集団があったかどうか、に絞られてきたね。
789日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:34
2世紀のヤマト政権の都は唐子鍵だろ 唐子鍵の王の墓はどこにあるんだ?
790日本@名無史さん:2001/02/22(木) 22:54
平原弥生古墳を発掘した在野の考古学者・原田大六氏を紹介するHP
http://www.fcb.co.jp/cult/hakata/harada/1.htm
791日本@名無史さん:2001/02/23(金) 08:05
792日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:27
高句麗の積石塚が前方後円墳の前身。
巨大化して石が足りなくなった為、石の代わりに土を盛ってその上に
石を貼り付けたと言うのが真相。
793日本@名無史さん:2001/02/23(金) 16:30
>>792
何度も論破されているのに、電波なひがみ鮮人は何度でも湧いてくる(藁
794日本@名無史さん:2001/02/24(土) 07:50
世界最大級の陵墓の伝仁徳陵・伝応神陵
795日本@名無史さん:2001/02/24(土) 18:28
伝仁徳天皇陵の墳丘長は約485mと超巨大
796日本@名無史さん:2001/02/24(土) 21:10
ただの歴史歪曲マニアでしょ
797Henton:2001/02/24(土) 21:23
稲荷山古墳鉄剣銘文の獲加多支鹵大王をワカタケル大王と読むのは
おかしいと思います。
クァカタシロとでも読むべきであり、獲を「ワ」、支を「ケ」と
するのはコジツケです。
798Henton:2001/02/24(土) 21:27
このことを言うと某関係者筋から圧力がかかるらしい。
799Henton:2001/02/24(土) 21:29
だいたい、雄略天皇がシキノミヤに居たという事実もありません。
800日本@名無史さん:2001/02/24(土) 21:44
>クァカタシロとでも読むべきであり、獲を「ワ」、支を「ケ」と
>するのはコジツケです。

お。やっぱり出たぞ。(藁藁
とんでも説の信者になるのはドキュソだけ。
それともワザトラの煽りかな?
801Henton:2001/02/24(土) 21:52
なぜトンデモなの?
説明できないできないことは全部トンデモか?(藁
802Henton:2001/02/24(土) 21:54
古代特殊仮名遣いにも、獲を「ワ」、支を「ケ」と言う読みはありません。
803Henton:2001/02/24(土) 21:55
あと、古田説の関東大王云々で言っているのではありません。
あの読みがおかしいと言っているのです。
804日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:15
「支」は「キ」でしょう。まだ「シ」に近くないはず。
「獲」の子音はhの濁音で日本人には発音しにくい音だけれど
日本人の発音する「わ」の音写としては適切。なぜなら「和」と同じ子音だから。
805日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:17
>>799
雄略天皇の宮は、磯城の範囲だぞ。

>>802
万葉集4045番に、あがもふきみが(安我毛布支見我)と見えるように、
支は「キ」と読んでおり、音が近いことには変わりないな。
806Henton:2001/02/24(土) 22:24
>>804
その説明では納得できない。
そもそも、「獲」をワと読むのがなぜ、後にクヮクとなったのか?
最初から「ワカタケル」と言う読みが頭にあってこじつけたのは
明白。
百歩譲っても「ワカタキロ」と読むべき。それとシキノミヤについては説明不能。


807Henton:2001/02/24(土) 22:26
>>805
磯城の範囲ならばシキノミヤと呼ぶというのは成り立たない。
808日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:31
磯城にはいくつもの宮があるから、後世の史書では区別するために、
より小さな地名で記載したと考えれば、説明が付くことで、何ら問題にならない。
むしろ、磯城が合致していると見る方が妥当。
809日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:33
>百歩譲っても「ワカタキロ」と読むべき。

充分に音が近い。全く問題なし。
810日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:33
>>806
「獲」の子音は「和」と同じなのだから
「和」をワと読む以上「獲」がワなのも当然。
2番目の音節が「カ」なので
「ワカ」をhua-ka「和加」でなくhuak-ka「獲加」と綴っただけでしょう。
811日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:36
少なくとも、子音は全部合致しているぞ。
年代にしても、名前にしても、地名にしても、全て合致しており、
日本書紀・古事記の信憑性を示す証拠だってこそ。

7代前のオホヒコは、時代的にも四道将軍・大彦命との関連は、ある得るだろう。
812Henton:2001/02/24(土) 22:37
じゃあ「ワカタシロ」の方が音が近いだろ?
なぜ「ワカタケル」なの?
813Henton:2001/02/24(土) 22:40
>>811
オオヒコについては問題ない。


814日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:41
「シ」と「キ」が近くないので没
815Henton:2001/02/24(土) 22:47
>>808

違います。
磯城地方になったのは後の世で、古代では小長谷は別。
渋谷と青山が近いからといって、青山を当時の人は渋谷
と呼んだと言うぐらい珍妙な説。
816日本@名無史さん:2001/02/24(土) 22:59
その根拠は?
817Henton:2001/02/24(土) 23:01
別の地名は別の場所と言うのは常識。
818日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:01
>渋谷と青山が近いからといって、青山を当時の人は渋谷

ちがうぞ。磯城>小長谷と言う関係にあるってこと。
渋谷区と青山の関係だ
819日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:04
例えば、奈良県南部のオオヤマトの中に纏向と言う地名があって、
そこに箸墓古墳が存在するってことと同じ。
820Henton:2001/02/24(土) 23:04
>>818

根拠なし。
821日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:05
>>817
「磯城地方になったのは後の世で、古代では小長谷は別」
の根拠を求めているのだから
「別の地名は別の場所と言うのは常識。 」
は回答になっていない。
「磯城地方になったのは後の世で、古代では小長谷は別」
の根拠を求む。
822Henton:2001/02/24(土) 23:07
>>渋谷区と青山の関係だ

後世の行政単位とその当時の呼び名は関係無い。
823日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:08
古田じいさんの信者は、根拠無しの妄想に取り憑かれたやつばかり
824日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:09
おい、古田じいさんの信者よ、根拠はどうした?
825Henton:2001/02/24(土) 23:12
>>821

当時、小長谷の宮を磯城の宮と呼んだという根拠はない。
たとえば、磯城のマガキの宮を磯城の宮と呼ぶなら納得できるが
磯城の小長谷の宮と言う表記は記紀にない。
826Henton:2001/02/24(土) 23:14
>>824

私は関東大王云々は言っていない。
誰でも、おかしいと思った疑問を口にしているだけ。
827日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:14
815はおかしい。818が正しいはず。

それと「支」をシの音にとるのはてんで問題外。逝ってよし。
キだという主張はアリだけどケでもなんら問題無し。
万葉集だったか推古朝遺文だったか「ケ」に当てた例があったはず。
「鹵」をルと読むのも同じ、ゆえにワカタケルで可なんだよ。

ワカタキロにこだわってるやつは厨房、
カタシロとかほざいてるやつは最早逝ってよし。
828Henton:2001/02/24(土) 23:23
>>827

「はず」とか「思う」では根拠にならない。
829日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:27
>828
おい、古田じいさんの信者よ、根拠はどうした?
830Henton:2001/02/24(土) 23:29
>>829

825に書いてあるだろ?
読んでも分からない?
831Henton:2001/02/24(土) 23:30
俺は古田の本読む前から、おかしいって言っていたぜ。
832日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:31
小長谷は、磯城の中の小地名だぞ。古田じいさんの信者は電波を発生するな。
833Henton:2001/02/24(土) 23:34
>小長谷は、磯城の中の小地名だぞ。

記紀を否定するわけね。
834日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:35
記紀なんか所詮後代史料だろう。
835Henton:2001/02/24(土) 23:38
>>834

結局、そこに逃げるのね。
836日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:41
逃げるもなんも、後代史料より金石が優先は史学の基礎だろう。
837Henton:2001/02/24(土) 23:47
>逃げるもなんも、後代史料より金石が優先は史学の基礎だろう。

だから、金石の読みがおかしいっていってるだろ。
まだ分からないのか??
「カカタキロ」または「ワカタキロ」を「ワカタケル」と読み
「シキノミヤ」を「オハツセノミヤ」とこじつけて、無理やり
記紀の雄略天皇に当てはめるのはおかしい。
記紀を否定しながら、都合のいいときに限って記紀にこじつけるのは
おかしい。
838日本@名無史さん:2001/02/25(日) 00:00
>837
磯城のカテゴリーについてはきみのほうが詭弁っぽいよ。(古田ぶしだろうけど)
記紀に直接かかれてなくても明確に矛盾する解釈ではない。
839日本@名無史さん:2001/02/25(日) 00:07
あてにならない後代史料である記紀に出てくる「ワカタケル」という人物について
半島系の人物が書いたと思われる「シキ」の宮の「ワカタキロ」という金石が出た。
だから大長谷の幼武の実在性を認めようかって話じゃないか。
なにか問題があるのか?
840日本@名無史さん:2001/02/25(日) 14:04
ワカタケルの実在性までは認めることになった状況だと思ってた

稲荷山の鉄剣が別人物をさしている可能性あり?
841日本@名無史さん:2001/02/25(日) 14:21
伝説の人物に金石史料が出て、中国史料にも類似の人物がいるんだから
まず金石の言う「ワッカタキェル」がいて、中国の情報があって、記紀の順だろう。
842日本@名無史さん:2001/02/25(日) 22:07
本題にかえろう。
大和王権の成立時期でしょう?

4世紀=巨大古墳の時代=倭の五王の時代は“少なくとも”西日本を覆う勢力圏があって
これが大和朝廷だろう。
ここまでは、そんなに反対はないんじゃないかな。
電波は別として、学界的には。

問題は3世紀=邪馬台国の時代の倭国の勢力圏の範囲をどうみるか、
そして4世紀の勢力との継承関係をどうみるか、の2点だろう。
843日本@名無史さん:2001/02/26(月) 01:07
>稲荷山の鉄剣が別人物をさしている可能性あり?

九州では、以前から江田船山古墳で、獲□□□鹵大王の鉄剣銘文が出ていて、
須恵器などの型式でも、両者の年代は近く、同一の大王を示すと思われる。
関東と九州で銘文が出ている大王こそ、宋に上表文を出した倭王武その人で
あることは、確実でしょう。
844日本@名無史さん:2001/02/26(月) 01:12
>4世紀=巨大古墳の時代=倭の五王の時代は“少なくとも”西日本を覆う勢力圏があって

西日本に限りません。東日本の前方後方墳体制を圧倒して、前方後円墳体制に取り込んでおり、
この時期には、既に福島県までは傘下に入れていたと考えられる。

>そして4世紀の勢力との継承関係をどうみるか、の2点だろう。

地名・年代・規模から、卑弥呼の墓としては、箸墓古墳が最有力で、
古墳時代後期まで、近い範囲に巨大古墳が連続するのだから、
継承関係と見るのが妥当だろう。
845842:2001/02/26(月) 01:26
>>844
だいたいそのとおりでいいと思うんですけど、
「西日本を覆う勢力圏」といったのは“少なくとも”とつけたでしょ。
個人的には844さんに賛同する。

そろそろこのスレッド終了ってことで。
846日本@名無史さん:2001/02/27(火) 01:53
もう少し時期と勢力圏について議論したいのですが、
終了になっちゃうんでしょうか。どういう手続きを取ればよろしいですか。
847842=845:2001/02/27(火) 05:09
845での発言は撤回します。
表題は「大和王権の成立っていつ?」でしょ。
3世紀の倭国が西日本を覆う勢力でありかつ844さんの見解は定説とすると
すでに3世紀には大和王権は成立していたことになる。
次ぎの問題はどこまで遡れるかだね。

#ちなみに邪馬台国九州説でも、
中心である女王国が九州にあっただけで
その勢力圏は西日本全体に広がっていたという大和岩雄の説もある。
邪馬台国論争は別のスレッドでどうぞ。
848日本@名無史さん:2001/02/27(火) 21:47
纏向は大和政権だと見てもよろしいのでしょうか?
849日本@名無史さん:2001/02/27(火) 21:55
まだ若干のクリアすべき問題は残っているとは思う。
850日本@名無史さん:2001/02/28(水) 02:40
>>848
日本書紀にも、初期の天皇の宮が、纏向に置かれたと記載する例がいくつかあります。
可能性は極めて高いでしょう。
851日本@名無史さん:2001/02/28(水) 20:16
纏向の年代の幅ってどこまで確定されているの?
852日本@名無史さん:2001/03/01(木) 14:20
纏向遺跡は、土器型式などによると、2世紀後半〜4世紀前半に栄えたようです。
853日本@名無史さん:2001/03/02(金) 00:21
纏向遺跡=邪馬台国=大和政権で決着つきそうなのかな
854Henton:2001/03/02(金) 01:02
>>853

あんたもしつこいね。
纏向遺跡=邪馬台国は
根拠なし。
855日本@名無史さん:2001/03/02(金) 01:42
色々と根拠が挙げられているのに、根拠なしと言うHentonは痴呆、電波は逝ってよし
856日本@名無史さん:2001/03/02(金) 01:42
九州説はもっとないけどな。
ま、蓋然性の問題ですから。
857日本@名無史さん:2001/03/02(金) 06:59
Henton=ヘンなトンデモ
858日本@名無史さん:2001/03/02(金) 07:19
なんだ、確信犯のアオラーかい。
859日本@名無史さん:2001/03/03(土) 01:51
「獲」も「和」も『ふぁ』と発音??
860日本@名無史さん:2001/03/03(土) 07:02
なんで?
861日本@名無史さん:2001/03/03(土) 11:59
『ふぁ』? 当時の日本語の発音はハ行はF音かP音なんだろうけど、
そうすると859が言いたいのは「獲」は「ハ」だということか?

「和」の字はH音かU音だろうから、「カ」か「ワ」だろ。『ふぁ』は無い。
862日本@名無史さん:2001/03/03(土) 14:52
次の文字が「加」だから「獲」=「カ」は無し。
万葉で「和」=「ワ」だし、結論は「獲」=「ワ」で疑義はないだろう。
863日本@名無史さん:2001/03/03(土) 17:00
纏向が景行の宮伝承地に近いことも傍証にしていい?
864名無史さん@公演中:2001/03/03(土) 18:01
文献や発掘等で今現在明らかになっている材料だけでは
もうこれ以上のことは分からない。
あとはみんな推測や想像の世界だ。
邪馬台国の所在地も古代天皇のことにしても。
865日本@名無史さん:2001/03/03(土) 18:01
獲加多支鹵という文字を当てた人物は日本人ではないと推定されています。
多少なまってても、その方が自然でしょう。
866日本@名無史さん:2001/03/07(水) 17:36
>もうこれ以上のことは分からない。

「もうこれ」でかなりいろんなことが分かったと思うが。
867日本@名無史さん:2001/03/07(水) 18:37
866の発言が当たっていると思う
868【^▽^】クマソ:2001/03/07(水) 20:13
大和朝廷?そんなもん認めないね。
869ハングル板からきたよ:2001/03/08(木) 02:21
向こうでは返信無かったからこっちで聞きたい。

あのう朝鮮に有利な資料ってあるの?
宋書倭国伝や日本書紀などでは日本の影響は半島まであった事が明らかだけど
韓国の教える歴史は昔から日本より優れてていろいろ教えてやったとなってますよね。
歴史の古さ、文化、制度的先進度、国力、軍事力などのいずれかで
日本より優れていると記載された資料はどんな物があって信憑性などはどうなんですか?
有史〜高句麗に倭が追い出されるまでの話です。
870日本@名無史さん:2001/03/08(木) 03:27
>869
文化に関してはあちらのほうが中国とも近く、また楽浪郡系の
漢人もいたでしょうから、古代においては進んでいたと思います。
実際、渡来人が中国の先進文化を持って渡来してきて古代日本文化の
基礎を気づいたのは歴史的事実です。
ただし、これはあくまで文化の伝播のレベルとしてとらえるべき問題で
民族間の優劣の問題ではありません
また、新羅は高句麗、百済に比べるとはるかに文化レベルが低かったと思われます。
871日本@名無史さん:2001/03/08(木) 03:36
>869
歴史の古さですが文字資料で確認できる具体的な国家の歴史という意味では
朝鮮のほうが若干古いでしょう。これも、文字という文化の伝来が半島の
場合早かっただけで民族間の優劣の問題ではありません。
高句麗、百済、新羅ともBC1に建国されたことになっていますが
具体的な年は別にしてこの前後にそれらの国のもととなった小国家が
建国されたと見ても問題ないと思います。
日本の場合には、文字資料で確認できる大和国家は通説に従えば
2〜3世紀の邪馬台国ということになります。
しかし、当然、この邪馬台国の前身となる国家があったはずで
奴国がAD57年には漢に使節を派遣していることを考えると
邪馬台国の前身もこの時代まで遡れるかもしれません。
872日本@名無史さん:2001/03/08(木) 03:40
>869
軍事的には倭国は百済、新羅を圧倒していました。
このことはすべての史料から見てとれます。
国力というのが具体的にどのようなものかはわかりませんが
軍事力、財力、文化の度合いなどを総合して指すのであれば
私は隋の時代で
隋>>>>>>>>>>>高句麗>倭≧百済>新羅
くらいのイメージを持っています。
873日本@名無史さん:2001/03/08(木) 04:57
>隋>>>>>>>>>>>高句麗>倭≧百済>新羅

でも隋って高句麗を滅ぼそうとしてできなかったばかりか
そのせいで先にほろびちゃったよね。

>高句麗>倭≧百済>新羅

このへんも時期によってかなり動いているのでわ?
とくに高句麗と倭とか。いちばん変動が大きいのは新羅かな。
874869:2001/03/08(木) 05:02
ナルホド。くやちーーー。
古代においては高句麗の方が上なのね。
だから韓国人は昔話が好きなのか!

じゃ有史以来日本の国力は60年前と現代がMAXだね。
875世界@名無史さん:2001/03/08(木) 05:11
高句麗って朝鮮人の国って言えるかな?
876日本@名無史さん:2001/03/08(木) 05:14
>875

いえません。ツングース系の部族国家です。
877日本@名無史さん:2001/03/08(木) 05:27
>874

高句麗はそれなりに強国だったし、文化的にも楽浪郡を吸収し
中国と隣接していたので栄えていたと思いますよ。
4世紀に倭と高句麗は半島で覇権を競っていますが
結局、倭は高句麗におし戻されています。
百済と新羅は倭と高句麗に両属するような形になってますし。
高句麗を見ていると朝鮮人国家(新羅や高麗、李朝)というよりは後世の金や清などの
満州人国家(ツングース系)にイメージ的に近いと思います。


878日本@名無史さん:2001/03/08(木) 05:36
>>875,>>876
高句麗を現代人の感覚で朝鮮人の国というのはかなり無理があるだろう。
しかし無理矢理リクツをつけられないこともない。
楽浪郡の地をさして朝鮮とよんでいたことがあるから
旧楽浪郡の故地を領有していた高句麗を
「朝鮮の地に住んでいた人の国」ということはできなくもない。

ところで高句麗人は広義の夫余系種族とはいえるが、
そのことがツングース系であることを意味するとは必ずしもいえないよ。

>>874,>>873,>>872
高句麗と倭国の力関係は時代によって変動があるから簡単にはいいにくいけど
あんまりかわらんだろ。よって 高句麗=倭
879日本@名無史さん:2001/03/08(木) 05:44
高句麗は百済や新羅に比べ騎馬民族的な面が強い
倭が高句麗を屈服させる事が出来なかったのは騎馬の有無が
大きかったんじゃないかな。
880874:2001/03/08(木) 05:49
で結局朝鮮人の歴史は新羅、高麗、李朝って事になるの?
だったら倭の方が上なんでない?
881日本@名無史さん:2001/03/08(木) 06:42
ツングースは騎馬民族じゃないね。
騎馬民族って言葉は江上波夫の恣意的な用語で、やや曖昧なので使いにくいけど、
仮りにモンゴル人みたいな遊牧民のことをいうのならば、
高句麗は半牧半農か半猟半農かともかく
農業をやっているので騎馬民族じゃない。
ツングースは狩猟民でありもちろん騎馬民族じゃない。
後世に清を建てた満洲族は言語はツングース系(女真)だけど
純粋狩猟民にとどまった野人女直(金を建国)ではなく
農業を取り入れた半猟半農の建州女直。どっちにしても騎馬民族ではない。
882日本@名無史さん:2001/03/08(木) 06:48
ところで875の疑問は
高句麗の民族系統がどんなもんだったかということになると思うけど
生活文化でいえば、高句麗は半牧半農の民で、
純粋な遊牧民(騎馬民族)でもなければ
純粋な狩猟民(ツングース)でもないことがはっきりしている。

また言語から考えてみると、魏志東夷伝によると
1、高句麗、夫余、沃沮、穢の言語群(夫余系言語)
2、辰韓・弁韓の言語(現在の韓国朝鮮人の祖型)
3、邑婁の言語(邑婁はツングースの祖先)
4、言語系統について記載なし(倭と馬韓)
があり、1と2と3は互いにちがう別系統の言葉であった。
また「三国史記」に残る高句麗地名から、
高句麗語というのは実は新羅や百済より日本語に近かったとされる。
(この見解は戦前からあって戦後の韓国でも唱えられていたが、
民族主義の高まりの中でどうなってしまったか不明)
つまり高句麗はツングースでも朝鮮人でもない独自の民族だが
しいて近縁近親の民族といえば日本人ということになる。

>>874,>>880,>>869
>で結局朝鮮人の歴史は新羅、高麗、李朝って事になるの?

そのとおり。
高句麗の子孫は靺鞨人と混血して渤海人となったのであって
現在の韓国人朝鮮人になったのではない。
883874:2001/03/08(木) 07:06
>882
じゃあこれは間違った歴史ですか?
http://www.netomo.com/cgi-bin/transkj.cgi?http://www2.kr.sports.com/kbbs/bbsView.php3?cat=foo-bbs&seq=7220&ref=0&pg=1
http://www.netomo.com/cgi-bin/transkj.cgi?http://www2.kr.sports.com/kbbs/bbsView.php3?cat=foo-bbs&seq=7221&ref=0&pg=1
アメリカでの韓国歴史(駅舎)歪曲の実態[パオングル]歴史(駅舎)バラであること01/2840
**落着いた韓国人なら..きっと読んでください..****

外国でのわれわれの歴史(駅舎)が歪曲されてあります.

アメリカ人はわれわれの歴史(駅舎)をどのように習って理解しているだろうか.
ここにある韓国史を一度読んでみてください.アメリカ教科書でそのまま
移して来た文です

The Kingdom of Korea
Korea is another East Asian with a distinctive and rich culture.
For much of its long history, Korea has been dominated by stronger
powers. Most often, China or Japan controlled Korean politically and influenced
its culture. But the Koreans have managed to keep their
own identity.

韓国の王国
韓国はもう一つの独特で華麗な文化を持った東アジア国家(国歌)である.
長い歴史(駅舎)間(くらい, 童顔)韓国はさらに強い力を持った存在から支配を受けて来た.
往々にして、中国と日本は韓国を政治的に支配して韓国の文化に影響を
食すべて.けれども韓国は彼ら自分なりの独自的な文化を守った.

1. The Early Years. The first recorded effort at political
organization in Korea was made in 194 B.C. A military leader named
Wiman set up a tate that came to be known as Wiman Choson.
Choson lasted for approximately 80 years, until armies from China
destroyed it. The northern part of Korea then became part of the Chinese Empire.

1.初期.いちばん初めて韓国に政治的な組織体が作られたものは
B.C.194年である.軍隊の指導(地図)自認上だけが上(胃)だけ造船(朝鮮)これと言う国家(国歌)を
立てたものがそれである.造船(朝鮮)は中国の攻撃を受けて滅びる時まで80であるでしょう年間
続いた.描いてから韓国の北方領土は中国の領土になった.

*-べったり、あまりにもする.(古)朝鮮の歴史(駅舎)が80年になるとは...

From about A.D.1 to 900, Korea was divided into three kingdoms.
The Chinese culture strongly influenced the kingdom in the northern
part of the country. Buddhism, Confucianism, and the Chinese written
language
were brought to Korea during this period. Japanese culture had a greater effect
on the two kingdoms in the south, which were closer
to Japan.

大体A.D1年で900年まで韓国は三つの王国に分けられられてあった.
中国の文化は北方にある国(高句麗)に強い影響を及ぼした.仏教、
儒教、そして中国文字(漢字)がこの時期に韓国に入った.日本の
文化はさらにさらに強い影響を日本に近い南方の二つの国(百済と
新羅)切ってくれた.

*-ウム.イムナ日本付設の影響を受けたようでしょう?

From the 10th through the 14th centuries, a dynasty of Buddhist rulers
called the Koryo united all of Korea. (The name Korea comes from the
word Koryo.) Although these kings ruled independently, they paid tribute to the
Mongol Empire. During the Koryo period, in 1234, the
Koreans invented movable metal type using Chinese symbols to print books.

10世紀から14世紀まで、仏教王朝である考慮(高麗)が韓国全体を統一した.
(コリアと言う名前は考慮(高麗)であると増えた単語に立って由来されたものである.)はたしてこの
王国は自主的であったが、モンゴル帝国に年功を捧げなければならなかった.考慮(高麗)、
1234年に韓国人たちは中国の文字を刷って出すことができる金属活字を発明した.
884日本@名無史さん:2001/03/08(木) 07:20
要するにヒガミ鮮人がアメリカで誇大妄想な韓国古代史を主張したんだけど
相手にされず恥かいて悔しい、これも日帝の陰謀だって話でしょ。
なんでそんなもの相手にしてんの?
885883:2001/03/08(木) 07:38
>884

つまり彼らの誇大妄想の根拠がどの資料にあるのかを
知りたいなと思って出張してきたんです。
886日本@名無史さん:2001/03/08(木) 08:09
そんなの簡単にいえないよ、いろいろあって。
具体的にこの部分とかあの部分とかいってくれないと。
(まあそのうち何割かはほんとに無根拠なトンデモや電波もあるけど)
887883:2001/03/08(木) 09:37
>*-べったり、あまりにもする.(古)朝鮮の歴史(駅舎)が80年になるとは...

ではこの2点について資料的根拠をお願いします。かれらはもっと長く古朝鮮があったと信じています。

それから倭寇が海賊行為を止めた理由です。韓国人留学生は憤慨しているようですが・・・・
ま、大昔の事だから真の理由なんてわからないと思いますけど。
第二次大戦だって千年経ったら独立運動を拡大解釈して
「朝鮮民族が日本を内部から打ち破り独立を回復した」って書けない事も無いし・・・・

>倭寇の抑制を使節団を送って懇請する、、、、、と言う文章(窓かけ, 一門の長者)も同じ例(礼)です.
倭寇の本拠地であったスシマサムを征伐したと言う内容はないです.
ツェムサンがソンナラから火薬を持ち込んで画布を製作倭寇掃蕩に成果を
取り入れたと言う内容もないです.白人(百人)教授は'ある時点(視点)で突然
倭寇が引き始めたのに理由は分らない.'と言葉(馬)を終りました.
この位なれば問題が何でありますか.簡単です.
一言でゾッバブと変わりない韓国の王が当てて日本皇帝にどうぞ
日本海賊の自制(子弟)を頼んだ正道(程度)になります.倭寇を英語では
WAKOと表現するのに教授も誰も意味は分らなくてただ立つ
ボンヘ的を称する言葉だけで分っています.日本の犬(子)たちが正答ですよね.

そして一言果てに付け加えたです.
何年前した韓国学生が自分(自己, 自身)授業時間にした言葉によれば韓国
国定教科書で倭寇の侵略を250回が越えると学生に教えると
言葉(馬)でした.(私(あの)もざっと思い出されたです.)
888日本@名無史さん:2001/03/08(木) 11:00
あのね、「古朝鮮」というのは三種類あって
「檀君朝鮮」BC2368〜(中世に作られた神話上の存在)
「箕子朝鮮」BC1122〜(伝説上の存在、実在性は薄いが諸説あり)
「衛氏朝鮮」BC194〜 (実在。BC108に滅亡、楽浪郡になる)
古朝鮮が80年間だというのは、このうちの「衛氏朝鮮」をさしている。
でも「檀君朝鮮」を史実だと認める場合には韓国の歴史は「半万年」になります。

倭冦が終焉したのは勘合貿易の制度ができたから。
べつに朝鮮人が倭冦退治したからではない。
889日本@名無史さん:2001/03/08(木) 11:47
衛氏朝鮮は、燕国出身の漢人・衛満が建てた国で、現在の朝鮮人とは関係ない。
遙か後世に、高麗を滅ぼした李成桂が、明の皇帝から「朝鮮」の国号を下賜されてから、
朝鮮半島・朝鮮人と言う表現が次第に一般化してきたので、混同されただけのこと。
890887:2001/03/08(木) 12:05
>888,889

なるほど。じゃ今の朝鮮人が半万年を誇るのは全く根拠無いんじゃないですね。
仮に神話じゃなかったとしても古朝鮮と今の朝鮮人は違うんだもんね。
ハングル板が偏っているんじゃないんですね(藁)
891887:2001/03/08(木) 12:06
ミス。全く根拠無いんですね!
892日本@名無史さん:2001/03/08(木) 14:22
わざわざ相手の偏った主張を見つけてきて攻撃しているんなら、
それは偏った態度じゃないのか。
893>892:2001/03/08(木) 14:44
すみません。そういわれればたしかにそうです。

では逆に日本の古代史の中で同じ位ウサンクサイと言うか偏った教科書記述部分があれば
指摘していただけるとうれしいです。
894日本@名無史さん:2001/03/08(木) 15:20
もろヴァカサヨだな、それともウヨの自作自演か?
895887>894:2001/03/08(木) 15:49
ウヨでもサヨでもどっちだっていい。
つぅかどちらかだと意識した事も無い。
ただより客観的視点を持ちたいと思ってるだけ。
ちなみに892は俺じゃねぇ。
896日本@名無史さん:2001/03/09(金) 03:58
>ちなみに892は俺じゃねぇ。

あぁ? そんなこといったら俺だって、
800台だけでいうと(799以前は除く)
800=827=838=842=845=847=856=858=861=866=873=878=881=882=884=886=888
以外はぜんぶ俺じゃねぇぞ。
とりあえず869から後の話はひとくぎりついたってことにして本題にかえろうよ。
897日本@名無史さん:2001/03/10(土) 05:08
>1
遅くとも3世紀みたいだね。
898日本@名無史さん:2001/03/13(火) 20:19
そうすると朝鮮の成立よりも400-500年以上はやいってことなのでしょうか。
899日本@名無史さん:2001/03/18(日) 05:57
そうなるね。
900こんなの見つけた:2001/03/18(日) 12:44
http://www.people.or.jp/~nobumasa/kodaishi/index.html
鋭い考察でしょうか?それとも・・・?
901日本@名無史さん:2001/03/22(木) 03:49
>>898-899
naruhodo.
902日本@名無史さん:2001/03/27(火) 02:47
>>900
いろいろ問題ありそうなHPだね。
でも慕容燕と倭国が対高句麗で連係していたっていうとこは面白かった。
903日本@名無史さん:2001/03/30(金) 12:20
>>898-902あたりでようやくみんなの合意できる結論がでたみたい
904日本@名無史さん:2001/04/09(月) 21:18
日本の成立のほうがはやいってのは、もっと教育をしないから知られてなかったのでは
905日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:04
歴史教科書でも、そのへんをちゃんととりあげるべきだねえ。
906日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:44
>>900
そのHPは結構良い線行ってると思う。
考古学と史学を混同すべきじゃないとしてるところは好印象。
907日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:48
任那って倭国領だったんですか?パート2
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=974989450&ls=100

ここの議論は皆さんから見てどうなんですか?
ここの結論と結構違うみたいなんですけど。
908日本@名無史さん:2001/04/16(月) 22:32
>>907
倭国≠大和朝廷とするとつじつまが合う
909日本@名無史さん:2001/04/17(火) 01:19
>>907
たいして違ってねえじゃねえか、何いってんだ?

>>908
ばかか? 日本は7世紀末まで倭国だったんだぞ。古田電波は逝ってよし
910日本@名無史さん:2001/04/17(火) 03:17
>909
いや、あっちのスレの結論だと大和朝廷の成立は7世紀くらいまで遅れることにな
りかねないぞ。900のリンク先のページと論理構成は似てるからね。
911日本@名無史さん:2001/04/27(金) 20:55
大和朝廷の成立は比較的早い時期に行なわれたが、
その後もずっと統一を保てたわけではなかったと考える方がいいかもしれない。

例えば九州地区を途中から支配できなくなって、あとから再び統一とか。
912日本@名無史さん:2001/05/13(日) 19:50
磐井の時は少なくともそれより昔に支配できていたのが
あの時期に支配できなくなっていたわけですね。
913日本@名無史さん:2001/05/20(日) 17:53
磐井のあとでも九州王朝があったというのが
九州王朝説の中での主流派だろ
914日本@名無史さん:2001/05/27(日) 08:27
九州年号の実在が証明されたし‥
915日本@名無史さん:2001/05/27(日) 08:40
勝手に「九州」年号とか命名しちゃってるだけじゃん。でたらめ。
916日本@名無史さん:2001/05/28(月) 21:50
    
917名無しさん@1周年:2001/06/02(土) 15:54
agechauyo
918名無しさん@1周年:2001/06/02(土) 16:26
磐井の墓は前方後円墳で畿内製の須恵器も見つかっている
独立政権ではなく地方の反乱に過ぎない
919日本@名無史さん:2001/06/06(水) 14:57
九州年号の存在はどう解釈していますか
920日本@名無史さん:2001/06/06(水) 15:12
そんなもの存在しないでしょ?
921日本@名無史さん:2001/06/06(水) 15:37
裴世清が日本にきたとき、筑紫以東が倭の扶予国と書いてあった。
つまり壱岐あたりは独立国だった。九州全体はどうなんだろう?
922日本@名無史さん:2001/06/07(木) 00:52
900すぎてるのにクソスレで終わる予感・・・
923日本@名無史さん:2001/06/21(木) 00:07
なるほどこれが現状で残っている最古スレなのか…
924名無しさん@名無史さん:2001/06/22(金) 19:13
2600年前が神代の時代などという者が今いたならばたいていの人は笑うであろうとサヨ教授が歴史の時間に抗議してた。
925日本@名無史さん:2001/06/22(金) 19:20
九州年号は全国の金石文にあるよ。
特に山口県以西に多い。
大和では法隆寺釈迦三尊像光背銘の法興年号が有名。
文献では続日本紀に白鳳と朱雀が出てくる。
内容は平安時代に遡る「二中歴」(鎌倉末〜南北朝期成立)にもあるし、
お隣りの国で作られた「海東諸国記」にも出てくる。
926日本@名無史さん:2001/06/23(土) 00:56
紀元前3400年
927日本@名無史さん:2001/06/23(土) 01:10
>>925
それが「九州年号」だって証明してみせてよ
928Henton:2001/06/23(土) 01:22
>>それが「九州年号」だって証明してみせてよ

「九州年号」を定義しなさい。
929日本@名無史さん:2001/06/23(土) 01:29
「九州年号」と呼ぶ理由を述べよ。
930日本@名無史さん:2001/06/23(土) 01:29
すごく突然なんだけど、吉備国東遷てのはどうなの
931日本@名無史さん:2001/06/23(土) 01:30
スチャラカ年号と呼ぼう!
932日本@名無史さん:2001/06/23(土) 14:20
吉備国東遷はあり得る。
933名無しさん@1周年:2001/06/23(土) 16:22
出雲
934名無しさん@1周年:2001/06/23(土) 16:24
教のNHKスペシャルみろ。出雲大社の特集だ。

出雲大社を尊崇しろ。
935日本@名無史さん:2001/06/25(月) 04:08
CG期待してたのに、ちょっとしか出なかった・・・
936世界@名無史さん:2001/06/25(月) 04:42
927さん、考え方が逆ですよ。
山口県以西に例が多いから仮に「九州年号」と呼ぶわけです。
937日本@名無史さん:2001/06/28(木) 22:28
東大寺より高い建物を建てたというのは政治的意味もあるのかな
938日本@名無し:2001/06/29(金) 15:25
age
939日本@名無史さん:2001/06/29(金) 16:46
>山口県以西に例が多いから仮に「九州年号」と呼ぶわけです。

ハア? 電波もきわまれり、ってとこだな。くだらねェ
940日本@名無史さん:2001/06/29(金) 20:58
続日本紀は天皇家の正史でしょ。そこに「白鳳」と「朱雀」が
でてくるんだから調べる必要はあるよ。
941日本@名無史さん:2001/06/29(金) 21:02
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。
度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、
以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、
皆附庸於倭。
942日本@名無史さん:2001/06/29(金) 23:29
>>940
ヴァカかっ! 「白鳳」や「朱雀」を否定してる奴なんかいねえよ。
それのどこが九州年号だっつの。一回しねや。
943940:2001/06/30(土) 00:15
>>942
このスレに初めて書き込んだんだぞ。
ずいぶん口汚いな。どっかでイヤなおもいでもしたか?
944日本@名無史さん:2001/06/30(土) 20:32
>>915
「襲国偽僭考」に九州年号という字が出てくるのであって、
古田氏の命名ではありません。古田氏は「倭国年号」といってる。
945日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:07
このスレはめでたく終了しましたが続きはこちらでやってます。

結局大和朝廷の始祖は誰?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=984051752&ls
946日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:10
九州年号自体は既に同時代の例が多く見られるので疑う余地はない
しかし九州王朝の意味合いは単純ではないと思うのだが
947日本@名無史さん:2001/07/10(火) 09:34
倭国年号と表現しちゃうと、大和政権が倭国でないようにみえちゃう‥
948日本@名無史さん:2001/07/10(火) 09:50
>>946
あほか
なんで勝手に「九州年号」なんて命名したのか疑う余地おおあり
949日本@名無史さん:2001/07/11(水) 23:21
名称は、九州年号でもなんでもいいよ。
あの一連の年号は、一体なにかということが重要。
950日本@名無史さん:2001/07/12(木) 00:03
age
951日本@7資産:2001/07/12(木) 00:15
神武天皇=
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.                             チョン
952日本@7資産:2001/07/12(木) 00:19
神武天皇=
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.                             チョン
953日本@名無史さん:2001/07/26(木) 04:22
あげ
954日本@名無史さん:2001/07/27(金) 14:30
あげ
955日本@名無史さん
奈良板
http://kyoto1.ceo-jp.com/kinki/yamato/index.html#6
なんか書き込んでよ