今までの清和源氏は「陽成源氏」というのはもう通説(専門的には)
↑陽成天皇から
でも、清和源氏が・・・・・なんて人が多いと思います。
陽成、清和、どっちがいいか、ここで意見をぶっつけあいましょう!
私は、正しいと思われる、陽成源氏がいいと思います。
これからの歴史の学習のために・・・・
2 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 16:12
南朝板の過去ログにもあるが、陽成源氏説は年代的に不都合があるので、現在は否定的意見も多いよ。
3 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 16:17
>1
いいとかわるいとかの問題ではないと思うが…
4 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 16:20
>1
陽成源氏説の証拠ってひとつしかないんだよね。
数の問題ではないとはおもうけど…
概況が詳しく解るものはなにかありますか?
5 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 17:57
Santa・Esmeralda はもうこれ以上スレ立てるの禁止!!
6 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 19:16
>2
南朝の過去ログメニュー一通り見て
それっぽいスレッド開いてみたけど、見つからないんだよ〜。
うろ覚えでもいいからスレのタイトル教えれ。
7 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 20:04
>4
「姓氏と家紋」第56号の 陽成源氏の幻想 で概況が解る。
主旨だけ述べれば、元平親王と源経基は活躍年代がほぼおなじで、親子とするには無理があることです。
あと、陽成源氏説の根拠になっている岩清水文書の成立年代も写本なので、資料価値がそれほど高くないという点もあります。
8 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 20:32
>6
あったのはもっと昔…世界史板といっしょのころだったような…
9 :
4さんじゃないけど:2000/07/20(木) 22:20
>7
Thank You。探して読んでみたいと思います。
ただちょっと疑問。奥富敬之氏の書によると
元平親王の生年は890〜901年の間と思われ
経基の生年は諸説あるが尊卑分脈を信じると917年だから
親子として成立しない事もないと思うんですが。
その第56号の中では両者の生年の根拠は何に拠るものですか?
10 :
6:2000/07/20(木) 23:20
>8
ありがと。
11 :
名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 23:45
>9
尊卑分脈での清和源氏初期の記述は矛盾があって、
経基が貞純親王の死後に生まれていたり、
満中が経基より年上だったりしています。
で、源氏の各氏族が持っている比較的詳しく書かれている系図を元にしているようです。
主に使っているのは国会図書館蔵の「各家系譜」と「続華族系譜」の中にある
「子爵青木周蔵家譜略」、及「皇胤誌」を使っていますね。
で、経基は900年の生まれ。
元平親王は895年ごろの生まれと算定しています。
12 :
9:2000/07/21(金) 02:51
>11
ありがとうございます。
経基の生年の信憑性が鍵なんですね。
13 :
名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 06:59
大体、武士源氏が清和天皇(陽成天皇でもいい)の子孫というのは
おかしい。これは平氏も同じ。
たとえば、六孫王経基の嫡男の満仲は、摂津多田で初めて源氏武士団
を形成したが、彼は仕えていた藤原氏から「卑しき○○」と呼ばれていた。
確かに満仲は、当時は地下人だったが、父とされる経基は源姓を賜るまで
は皇族だった。もし満仲が経基の子なら、父が皇族だったという記憶は
リアルにあったはずだ。ところが、藤原氏から「卑しき○○満仲」と
呼ばれても、満仲はひれ伏しているだけだ。こいつはおかしいのでは。
それに満仲のしたことは、密告、暗殺、放火とかの闇の謀略ばかりでしょ。
つまり、満仲は、そうした行為の功労から官位を授与される際、当時の
形式に倣って、本姓を告知する必要があり、担当役所の公卿の指示に
従って、経基の子ということにして、清和天皇の子孫になったのでは
ないか。
14 :
名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 10:51
>13
うん。興味深い説ですね。
大体系図というのは、容易に作為も入る後世の編纂物ですから、たとえ尊卑文脈でも、そこの系統や譜書きに書かれたことを信ずるのはまずい。
まず同時代史料で、経基、満仲がどういう扱いをされていたかを追及するのが、歴史学の常道。
系図趣味の人は、その辺がちょっと甘いね。
15 :
名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 23:01
>13、14
経基は将門の乱がなければ、単なる地方官で終わっていた人物。
皇孫で、堂上の藤原一族より官位官職が低かったのは当時ざらにいたよ。
中には無位無官で生涯を終えるのも多かった。
それに藤原氏には王を名乗る人物を家令に使ってたのもいるくらいです。
16 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 06:35
朧谷寿『清和源氏』も、「なにがかれらに高貴な出自の意識を失わせたのか」
と書いている。いくら経基自身の官位は低くても、彼は清和天皇の孫だから、
れっきとした皇孫という意識は実感としてあったはず。
17 :
名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 07:12
源頼光の大江山絵詞に登場する酒呑童子の配下に
袴田某という豪傑がいる。当時、武士は家業で家伝だったから
袴田がいくら武勇に優れていても武士にはなれない。だから
袴田は酒呑童子の配下になるが、彼は、当時の、武士にはなれない
武勇に秀でた者の象徴だろう。
そして源氏や平氏も、実は、この袴田のような存在だったのでは
ないか。しかし律令制の戦士の制度が解体しつつある中で、袴田的
な武勇の者を取り立てる方向になり、官位を与えるため、皇孫にした
ともいえるのではないか。源氏は暴力団で、平氏は密輸団みたいな
ものでしょ。
皇孫とはいえ、退位後の生まれた皇子には厳しい時代だよな。
19 :
名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 08:26
>16
だから、「六孫王」をわざわざ名乗っていたんだよね。
20 :
名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 13:45
>19
六孫王も名乗っていないという説が・・・
21 :
名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 02:24
そうすると母親は誰になるのでしょう?高子ちゃんか佳珠子ちゃんかそのあたり?
どちらにしても藤原なのかな。
22 :
名無しさん@1周年:
高子の産んだ皇子は天皇になれたのに、
佳珠子の産んだ皇子は天皇になれなかったのはなんでだろう?