結局、邪馬台国はどこにあるの?

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1名無しさん@1周年
最近は畿内説のほうが有力になってきたみたいだけど
2古代すすむ:2000/06/30(金) 21:58
邪馬台国は,君の心の中に,いつまでも生き続けているよ。
3ギギズ スプリングス:2000/06/30(金) 22:40
邪馬台国は、もとは今の福岡県甘木市あたりを中心として
存在。その後、今の宮崎県の延岡市へ移り、瀬戸内海を渡って畿内
大和に落ち着いた。らしい・・・。
4名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 00:21
帯方の東南の大海の中。
5名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 01:05
イスカンダルにはもう着いたか?
6古代すすむ:2000/07/01(土) 01:38
間違ってムー大陸についちゃった。
7ウミンチュー:2000/07/01(土) 01:57
邪馬台国はヤマトンチューのいる国のことだったらしい
8名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 08:45
まともにこたえろ!!!!!!!!!!!!!!
ぷぅ!!!!!!!!
9名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 11:41
大和政権=邪馬台国である。
以外の説は妄説。自分の出身地を邪馬台国に比定したいおろかな人間がゴチャゴチャ言っているだけ。
邪馬台国があったとされる3世紀前半の遺跡の量と質を見れば一目瞭然。
魏志倭人伝が唯一の文献だが、魏国の使者は奴国どまりで邪馬台国までは行っていないのだから
記述が誤っていても当然であろう。
10名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 19:49
南朝板だったか、過去ログがなくなる前の北朝板だったか、忘れたけれど邪馬台国は北九州から畿内へ東遷したという説が有力だと紹介されていたよね・・・
11ひろいち:2000/07/01(土) 22:01
歴史が潜在意識に蓄積されて神話になる。ムーの龍人の子孫(蒙古斑
のある)ヒのミコが、トカラ列島あたりに沈んで、龍宮の乙姫として
みんなの、心に残ったとさ。九州に逃れた一族は次の巫女と共に
耶馬台国(やまと@`と読む)と名のって大陸外交したり、イヌイ国という
犬を神(祖、上)とするアイヌ族(熊や虎を祖とする朝鮮族とは別)と
戦う。次の巫女、台与(豊)の代になって近畿の大和連合国に進出し
スメラミコ(統括する巫女)まで出す流れを作り豊臣の王子による
日の本の国の誕生となった。昔々のはなしでさアー。自分はそう思う。
12古代すすむ:2000/07/01(土) 23:33
邪馬台国の手がかりを探すため,いま青森にあるキリストの墓を
調査中です。
13名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 00:01
まともな意見を求む。
14名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 00:25
おトボけしながら11さんは良いこと言ってるね。
俺もそれに近いかな?「〜倭人条」の邪馬台国の件と「日本書記」
の神功皇后の件(神武東征もこれが元か?)がこれで結ばれるしね。
問題は邪馬台国そのものが東征したのか、それとも乗っ取った連中
(半島からの侵略云々という意見じゃないよ)が東征したのか、こ
れに関する決定的なものがないから俺はあえて断定できないんだ。
日和見みたいな意見でゴメンね。
15名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 08:04
現状の考古学的な成果を考えると、九州説は無理でしょう。不可能です。
今後の考古学的発展に期待したいところですが、現状、出てくるものは、
ほとんど全部、大和説に有利なものばかりといって良い。

三角縁神獣鏡について、これが卑弥呼が貰った鏡であるかどうかは、
なんとも言えません.明確にそうであるという証拠はないからです。

ただ、卑弥呼女王を盟主とする倭と、中国の魏との交流は、238年
ないし、239年(景初二年か三年)から始まり、最終的には、西晋代
の泰初二年(266年)だかに、倭王が朝貢した旨が記録に残るのでおよそ、
四半世紀に渡る交流がありますが、現在、日本から出土している銅鏡で
年号の入ったものは、基本的にその範囲に収まります。とくに、卑弥呼
が朝貢団を最初に送った景初三年(魏志倭人伝には景初二年とあるが、
一般には、他の書籍から考えて三年とする)と、翌年の正始元年の
年号をもつ鏡が計4面、また、本来あり得ない景初四年の銘をもつ鏡が
2面出ています。ちょうど朝貢の年に一致する年号というのは、これらの
鏡と、卑弥呼の朝貢との間になんらかの関係があることを示唆するでしょう。
16名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 08:08
現在、庄内新式の古墳からは、三角縁神獣鏡がある程度出ています。
また、三角縁神獣鏡ではないけれど、青龍三年の銘の方格規矩鏡も
でていて、これもやはり、庄内新式の古墳から出ています。

庄内新式よりも前の、庄内併行期の古墳からは、いまのところ三角縁神獣鏡
や、年号鏡が出ていませんので、そこで、庄内新式が始まった時代が、
大方、三角縁神獣鏡の初期の時代に対応し、形式論的に、もっとも
初期型とされる三角縁神獣鏡は、景初三年、正始元年の年号をもつので、
このことから、考えると、庄内新式の始まる時代が、240年から
墓に副葬されるまでの期間を考えた時代、ということで、250年前後
になるというわけです。

卑弥呼の死んだのは、魏志倭人伝により、247年ないし248年とされて
いるので、卑弥呼の墓は250年前後には作られていたと考えられます。
したがって、この時代は、庄内新式の時代に対応すると考えられる。
で、箸墓は、庄内新式です。前方部も後円部もともに、同時築造という見かた
が強いです。ただし、後円部の直径は150メートル程度で、魏志倭人伝
記載の「径百余歩」から計算される150メートル程度と完全に一致します。
年代として、庄内新式の時代は、250年から280年ぐらいまでと考えられ、
また、径が大方一致となると、現在残っている古墳、墳丘墓では、箸墓以上に
よくマッチするものはありません。

なお、日本全国を探した場合に、庄内併行期においては、十分に王陵と考えられる
ものは、九州の平原墓と、出雲(四突墓)、吉備、大和(纏向型前方後円墳)しか
なく、平原墓は、墓のできたのは庄内併行期ですが、入っている中国の銅鏡と
いうべきものは、後漢中期くらいまでのものです。これが卑弥呼の貰った鏡と
するならば、卑弥呼は、中国の魏から、わざわざ魏代に漢代の墓を盗掘してえた
ような怪しいものを100枚もらってきたことになるでしょう。

庄内併行期の墓からは、画文帯神獣鏡が出てくる場合が多いですが、九州からは
ほとんどみつからず、おもに、3世紀末から4世紀代の古墳からみつかり、また、
ホケノ山古墳のように、3世紀前半とかんがえられる墓からも見つかりました。
よって、中国の鏡は、3世紀前半代は、おもに画文帯神獣鏡、3世紀中葉から
後半は、三角縁神獣鏡となりますが、三角縁神獣鏡は中国から類似の鏡が
ほとんど出てこない(日本の三角縁神獣鏡のような大きな三角縁の神獣鏡は
出てこない)ので、中国製かどうかが怪しいところです。
17名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 08:11
基本的に、考古学的にみれば、九州説は不可能です。考古学的に分かるのは、
3世紀前半からますます発展する大和の政権というものが見えるわけで、この
時代に、大和以外で、これほどの規模になるものはありません。また、
九州においては、平原墓を除いて、王墓が発見できていないし、またその平原墓
ですら、中国鏡としてはそうとうに古いものだけを入れているわけです。

ここから分かることは、3世紀前半から後半にかけて、中国と交流を示すものは、
大和を中心とした古墳勢力の遺跡(古墳など)からしか発見できていません。
よって、邪馬台国連合というものが、古墳勢力と密接な関係があると考えるしか
なく、古墳勢力は、その後の大和政権に、かなりダイレクトに繋がるというのが
一応の解釈です。

大和説にそって魏志倭人伝を解釈すると、それほど無理はありません。
距離表記も、人口の表記も、大和説ではそれほどの問題もなく、記載内容
を受け入れることができますが、九州説ですと、距離については、
中国の古文献にわずかに残る仮説上の「短里」を想定しないといけないし、
また、人口も、魏志倭人伝記載の内容が「大幅な誇張」と考えないと
いけません。

残る方向については、たしかに、南に邪馬台国とあるわけですが、魏志倭人伝
に記載された方向は、現在比定がかなり確実とされる、狗邪韓国(韓国金海地方)、
対馬(対馬)、一大(壱岐)、末盧(唐津)、伊都(前原)をベースに考えると、
大方、魏志倭人伝の南は、東南から東方向で、東西南北が60度から70度東に
ずれています。そうすると、北部九州から水行10日、陸行1月の「南」というの
は、およそ650キロ程度東南東の地となるので、大和の場所にぴったり合うと
いうことになります。

九州説の場合、この、系統的なずれを考慮すると、豊前宇佐に邪馬台国があったと
する説以外は、かなり苦しい。もちろん、宇佐説でも、距離は合いません.
魏志倭人伝記載から一番外れているのは、筑後川流域説です。

結局、1990年代に入るまでは、考古学的に考えて、邪馬台国が大和にあったと
するのは、ほとんど不可能なほどに大和にはなにもなかったわけで、当時の
マトモな研究者であれば、考古学的にさまざまな資料の出てくる九州に邪馬台国
をみつけるしかなかったということになります。その結果、魏志倭人伝の曲解を
してでも、邪馬台国を九州にもっていくようにしたのだと思います。
18名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 08:14
1996年の年輪年代による大幅な年代観の補正に伴い、九州の3世紀代の遺跡から、
中国との交流を示すものが皆無といって良い状況になり、一方、庄内併行期が
3世紀前半(従来は3世紀末から4世紀といわれていた)となったことで、古墳時代の
始まりが3世紀中葉から後半になり、およそ100年から150年時代が繰り上がった
ことで、大和説がますます根拠をもつようになったということです。
一方の九州説は根拠がほとんどなくなり、従来の3世紀の遺跡とされていたものは、
その多くが、2世紀初頭までの遺跡になってしまいました。つまり、九州では、
弥生時代後期を最後に中国との交流の痕跡が消えてしまうわけです。庄内併行期の
墓である伊都国王墓とされる平原墓でも、入っているものは後漢中期の鏡です。

私が思うに、九州は、3世紀前半代は、大和の勢力により「干されていた」という
状況です。伊都国は、中国や半島との交流の窓口であったはずですが、ここからも
3世紀代の中国との交流を積極的に示す根拠となる発見はありません。

これらの1996年以降のパラダイムシフトともいうべきものは、1998年以降に
出版された書籍にしか反映されていませんので、書店で邪馬台国関係の本を買うとき
には、1998年以降に出版のものだけをチェックしてみてください。九州説の
本は、専門家の書いたものでは、私の知るかぎり、1冊もありません。すべて大和説
を原則としています。
19名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 08:22
太宰府。俺んちの近くに卑弥呼の墓がある。
20名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 00:23
結局、いままでは遺跡などの年代測定を大幅に間違えていたのが大きかったね。
やっぱ年輪を地道につなげていった作業をした多くの人達に感謝ですね。

もはや考古学的に見て九州説を唱える人はいなくなったと思うけども、
あとは何を根拠に頑張っている人達が残っているのでしたっけ?
21ベンゼン中尉:2000/07/03(月) 01:43
邪馬台国の北九州説がただしい。畿内説は、根拠的に卑弥呼と天皇を結び付けたい輩の仕業である。
そもそも九州と大和に同じ地名が多い。それは九州の地名を大和にあてたとの説が大きい。
また反論説で、倭国伝の通り歩けば、海中に達するとあるが、当時は現在と距離の感覚がちがうのである。
卑弥呼の100枚鏡にしても、国内で、コピーを当時作っていた訳だし当てにならない。
当時、記紀では天皇家が九州から大和へ、昇った話があるが、それは真実だと思う。当時出雲には、巨大な国家があったわけだし、
記紀を編纂した者も、それを無視できなかったらしい。国譲りなどと奇妙な表現を使用している。
また、畿内には出雲系の神を祭る神社が多いのも、国譲りが実際は天皇に征服されたことを物語っている。
22名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 02:15
>21
遺跡発掘を初め考古学的見地からの結果をまるで無視してると
妄想系と間違われるよ

想像での話なら誰でも何通りでも話を作れる
少なくとも卑弥呼の時代には九州には遺跡も痕跡もなにも出てないでしょ

一方、それより前の時代には九州で栄えていたというのは事実
卑弥呼よりも前の時代に東征があった可能性はある
23名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 02:43
>21
詳細もとむ。大丈夫、オレは頭から否定しようなんて思ってないから。
とくに「九州と大和の同じ地名」「当時の距離の感覚(単位?)」が
知りたい。
24>23:2000/07/03(月) 03:15
同じ地名(あるいは似た地名)がいくつかあって、さらにおおざっぱにみると、
それらの方角や位置関係についても似ているという点があるようです。これが、
ある程度のレベルの偶然なのか、畿内から九州へいつの時代か移動したのか、
あるいは逆に九州から畿内へいつの時代かに移動したのかが難しい所です。

18にも書かれているようですが、2世紀の初めの頃までは九州と大陸との
盛んな交流の跡が見られるのに対して、それ以降は畿内と大陸との関係が
強く残っているようなので、九州から畿内へと移動したと見るのが自然かな。

つまり、倭奴国が金印をもらった頃から2世紀の初めまでは九州に中心勢力があり、
その後、なんらかの理由で畿内へと中心が移り(=大移動?東征?)、
卑弥呼が朝貢した3世紀半ばには邪馬台国は畿内にあったであろう、と。
25古代すすむ:2000/07/03(月) 05:09
キリストの墓を調査していたら,三角縁神獣鏡が
200枚ほど出てきました。

これはどういうことなんだ…?
26名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 14:19
太宰府
27名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 14:33
あすかあきおは西日本が東西じゃなくて南北に向いてたって言ってたぞ(笑)
28名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 18:12
すごく初歩的な質問で悪いんですが、近畿に相当な遺跡が出ているのは確かだと思うんですが、それが中国史書にある所の邪馬台国だと断定できる根拠ってあるんですか?
29名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 20:24
>畿内説は、根拠的に卑弥呼と天皇を結び付けたい輩の仕業である。
前代の王とそれに続く国の王がなんらかの関係を持っていた
と考えルのは自然じゃないの? それが連続しているのか
征服されたのかという違いはあるだろうけど。

> 邪馬台国だと断定できる根拠
ないでしょう。あったら、「邪馬台国問題決着!!」とか
でかでかと新聞に載ってるはず。
3028:2000/07/04(火) 09:50
じゃあ結局、断定は出来ないんですね。

いくつか質問があります。
ホケノ山古墳と同様なものが既に九州から出ているって本当?
マスコミが近畿説に偏向しているって言う人がいるけど?
31七篠権兵衛:2000/07/04(火) 10:27
吉野ヶ里が「カナサナ国=神崎国」と言うのは納得出来る。
やっばり大規模遺跡が出てこないかなあ。
32名無しさん@1周年:2000/07/04(火) 19:51
15〜18 は fj.rec.history からのコピペ
33名無しさん@1周年:2000/07/04(火) 20:15
何の本だったか忘れたけども、律令時代の旅費(食料のこと)の計算で、
大和から筑紫までの船旅の分は20日分だったらしい。
船の推進力は人力か風力で邪馬台国時代とほとんど一緒なので、
この記述が邪馬台国の水行20日(だったっけ?)にはまってしまう。
ということが書いてあった。
船旅は、律令時代でも1回停泊するかどうかという状況なので、停泊数を
考慮するのは意味がないらしい。
3433:2000/07/04(火) 20:36
33は、単に当てはまるというだけで確たる証明ではないが、
20日もあれば相当遠くまで行くことが可能という傍証にはなるかな。
35名無しさん@1周年:2000/07/04(火) 22:49
>33
「水行10日陸行1月」でしたね。

江戸時代に阿蘭陀商館長の江戸参府があったんですが、
江戸までの日程がそれくらいでした。

というわけで、少なくとも東京以東ではあり得ません
といえない?
36ザ・グルこと:2000/07/04(火) 23:30
チベットで今日邪馬台国のピラミッド発見!
37>36:2000/07/05(水) 06:56
ロシア人のいうことだから話半分できいとけ。
3833:2000/07/05(水) 10:56
>37
あっちのあれが作ったのかもね。
普通の人が立ち入れないような断崖絶壁にあるらしいから、
張りぼてなんてのも考えられる。
>35
サンキュー。
39名無しさん@1周年:2000/07/05(水) 20:34
岡山県

40名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:37
決め手になる証拠って無いの?
高校の先生は「金印が出たらはっきりする」と言ってたが。
41名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 01:44
必ずしも金印の出土地=邪馬台国とはいえないけど
同時代の遺跡から出土したらほぼ間違い無いでしょうね。
たとえば、箸墓から発見されるとか。
42名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 03:23
だからさー。
しつこいようだが、岩手県の八幡平が最有力なんだっつーの。
わたしは、卑弥呼の生まれ変わりだから、間違いないわ。
43名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 15:56
邪馬台国はなかった。

邪馬台国と大和も全く関係ない。

倭もヤマトと読むのは間違い。「イ」と読む。

三角縁神獣鏡も絶対卑弥呼の鏡ではない。

この辺の事を理解した上で論じないと間違った結論になるよ。
44なんだか最近:2000/07/06(木) 18:01
ネタばっかし
45名無しさん@1周年:2000/07/06(木) 19:07
>41
今回の年代測定の精密化により、箸墓がぴったりと卑弥呼の墓と同時期であることが
判明したのは大きいですね。卑弥呼の墓であるかどうかは別としても、
あの時代に既にあのようなものが作られていたこと、および、
卑弥呼と同時代から大和政権の時代への墓の連続性が確認されたことが、大きい。

卑弥呼が仮に別のところにいたとしても、それとおそらく拮抗する大きな勢力が
同じ時代に既に大和付近に存在していたことは、これで誰もが認めざるを得ない
わけですが、もしそれが邪馬台国ではないと、いったいなにであろうか。
46>45:2000/07/06(木) 21:59
>もしそれが邪馬台国ではないと、いったいなにであろうか。

日本だろ。

旧唐書には、8世紀くらいまで、日本は、倭国、日本国、毛人国(=蝦夷=アイヌ)の
3国に別れていたが、日本国が倭国を吸収合併したのだとある。

もちろん、邪馬台国があったのは倭国。大和朝廷があったのは日本国。

これは、魏志倭人伝の、「卑弥呼の国の東には、同じ倭人の別の国がある」
という記述とも一致している。
47卑弥呼:2000/07/06(木) 23:40
だからさー。
しつこいようだが、岩手県の八幡平が最有力なんだっつーの。
わたしは、卑弥呼の生まれ変わりだから、間違いないわ。

48名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 03:05
>47
村西監督と楽しくやってなさい
49名無しさん@1周年:2000/07/07(金) 03:17
>47
生まれかわりなら卑弥呼って名乗るはずないとおもうけど…
50こういち改めハリマオ:2000/07/07(金) 04:46
>46 は、天武天皇(おおあま)の壬申の乱前後の事で、唐から見たおおざっぱな
解釈であろう。倭の各国から朝貢を受けたシナ側からみて、倭国が統一したのは
卑弥呼の次宗、台与(豊<=北九州?)13年。
日本書紀編集者は、倭が和して大和となる意味で、ヤマトの当て字にしたのだろう。

43> 朝鮮系渡来人は、倭をイと読んでたかもしれないが。方向性が不明です。

政権を、にぎった天智天皇、鎌足は白村江の戦いでの敗戦後、百済の人達を
受け入れ、唐に支配された、だろうけれど、天武天皇によって、日本(国号)
として国を立て直した。と見るのが現代の流れに合うはず。
51卑弥呼:2000/07/07(金) 05:09
あなたたち、八幡平はヤマタイが語源なのよ。
そんなこともわからないの?
これだから、現代人はだめなのよ。
52名無しさん:2000/07/07(金) 06:10
51>すげー
53名無しさん@1周年:2000/07/08(土) 11:21
邪馬台国はなかった 聖徳太子も存在しなかった
54名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/08(土) 17:52
53>
なかったと、すると、どうなるの?
55名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 01:36
邪馬台国は、みんなの心の中にある・・・・・・・・・・
56名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 01:40

邪馬台国
つちのこ
徳川埋蔵金

日本三大無いモノねだりでございます
57名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 01:43
ぎゃはは
闇に葬るなよ(笑)
58名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 03:30
東京で良いんじゃない?
外人にも覚えやすいでしょ
59>58:2000/07/09(日) 06:08
歴史学に対する態度が韓国人並だな
60>59:2000/07/09(日) 14:53
韓国人並なのは関西人でしょ。
どんなに邪馬台国畿内説の否定材料が出てきても、絶対認めないと思うよ。
61名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 18:57
畿内説に否定的証拠が出てくればおもしろいけど
いまのところ出てない上に有利な状況がここ数年で増えたよね

北九州説を唱えていた人も基礎にしていたデータが変わったため転向しちゃったし
あとは可能性がある地は中国四国南九州あたりでなにか発見があれば…
62ぽち:2000/07/10(月) 00:22
>61
 そりゃー畿内の方が道路工事やってる量が多いからでし
ょう。>有利な状況
 北九州やその他の土地も畿内と同じくらいどんどん掘っ
て欲しいですね!どんどん出てくるんじゃないでしょうか
63名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 00:40
これからは、九州から移ってきたか、
元々大和にあったかが論点になるんでしょうね。
64名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 02:04
金印が見つかるまで頑張るしかなかろう。
65名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 03:29
徳川埋蔵金と一緒に出てきたりしたらもう大パニック!
66名無しさん:2000/07/10(月) 04:59
魏志倭人伝は信用できない。
67名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 05:19
徳川埋蔵金とM資金と一緒に出てきたりしたらもう大パニック!
68名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 09:45
2000年後の2ちゃんのお題目
「1860年代後半の日本国はどこよ?」
江戸?・・・京都?・・・東京?・・・・

※ 注!
 
江戸=東京は史料上の成約から2000年後の人は知らないとする

69名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 12:23
>魏志倭人伝は信用できない。

こういうことを言うことがまさに、畿内説の否定材料を認めないということなんだけどね。
まあ、外人の言うことがあてになるかって外国人を見下してるウヨの発言だという可能性も
あるけど。

魏志倭人伝には、邪馬台国は帯方郡から12000里の距離にあることが明記されている。
そして、帯方郡から九州に上陸するまでが10000里。また、200kmしかない対馬海峡を渡るのに
3000里を要することから、邪馬台国は、唐津あたりと考えられる上陸地から、百数十kmの
ところにあったと考えられ、普通に考えれば、それは、福岡県か熊本県になる。

しかし、これを認めたくない畿内説派は、「魏志倭人伝が間違っているのだ。」「魏志倭人伝
なんかあてになるか!」となる。しかも、そんなに魏志倭人伝が信用できないなら、まずは、
邪馬台国という国の存在そのものを疑ってほしいところだが、彼らは、「邪馬台=ヤマト」
だから、確かに、それも間違いなく近畿にあったのだと主張するのだからあきれてしまう。
ヤマトという国自体が九州から近畿に移ったのだという説だってあるのにね。

そもそも、魏史をはじめとする中国の史書には、日本書紀をはじめとする日本の歴史書と
食い違う点が多々あるのだが、それらは、一貫して、中国の史書のほうが間違っているの
だとする学者が多い。しかし、ちょっと考えれば、当時の中国は、世界有数の文明国。
しかも、何よりも記録を重んじる書の国。どの史書も、大量の記録をまとめて書かれた
ものであることがはっきりしている。単に著者が見聞きしたことを書いたエッセイとは
わけが違う。もちろん、誤解などもあるので、書かれていることがすべて正しいとは
到底思えないが、少なくとも、初期の天皇は200歳くらいまで生きたと平気で書かれて
いる日本書紀なんかよりは、よほど信用できると思うけどね。
70七篠権兵衛:2000/07/10(月) 14:26
私は弥生時代の近畿に「銅鐸部族連合」
出雲に「出雲王国」。吉備に「吉備王国」があったと考えている。
邪馬台国の記事には銅鐸が出てこんのですよ。これが。

71>69:2000/07/10(月) 17:33
魏志倭人伝をそのまま信用して読めば
海ぽちゃだった気がするが?
72>71:2000/07/10(月) 17:55
漢文の読み方を間違えるとね。
73>72:2000/07/10(月) 19:13
じゃ、正しくはどうなの?
つーか江戸時代当たりからの論争だったとおもうが
づーーーと間違いを主張して来ってこと?
74名無しさん:2000/07/10(月) 20:38
魏にとっては倭のことなんてどうでもよかったから、
適当に書いておいたんじゃないかな。
75大杉 博:2000/07/10(月) 20:55
おいらは、四国山上説。
76名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 21:13
そりゃまぁ、魏志の方が信憑性有るだろうがよ。
でも全面的に信じるのもどうかと思うぜ。
「書の国」であると同時に「歴史捏造の国」でもあるんだからよ。
77名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 21:15
>74
厨房じゃないんだから中国各王朝が他の周辺諸国をどう記述してきて
そのうえでどうなんだときちんと述べよ

>75
いろいろ説が出るのは楽しいけど根拠をきちんと述べようよ
78名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 22:16
邪馬台国と同時代に、邪馬台国クラスの大国が畿内にも北九州にもあったことは確実なんでしょ?
そのことが判明した時点で、「自分の所に邪馬台国があって欲しい」という理論は捨てればいいのに。
「自分の所に邪馬台国があって欲しいから言っているだけだ」という批判の仕方もまた然り。

東遷説の真偽はいかがですか?
魏志倭人伝当時は北九州にあり、のちに畿内に移転したという・・・陵墓の形式などの視点から有力視されているとの話でしたが。
確か南朝板で初めて聞いたときは、北九州vs畿内論争はすでに決着していたのだと思ったのですがこのスレッドではほとんど論じられませんね。
79名無しさん@1周年:2000/07/10(月) 23:10
>78
いや、最近の遺跡に関する年代測定技術発達による見直しにより、
九州北地区にある卑弥呼と同時代と思われていたものは、
1〜2世紀初頭のものであることが確認されています。

そのため、現在見つかっている状況だけから判断すると、
中国と交流があった邪馬台国クラスの大国が九州北部にあったのは、
すくなくとも卑弥呼よりも1世紀以上前の頃であろうと推定されています。

したがって、最近の東遷説は、卑弥呼時代以前に東遷があったと考えるほうが
主流になってきているようにみえますが、いかがでしょうか。
80名無しさん@1周年:2000/07/11(火) 01:16
北九州にあったなら陸路一ヶ月ってことはないだろ・・・
中国・畿内と考えるのが妥当。
81>79:2000/07/11(火) 02:07
何か勘違いしてないか?

遺跡の年代を決める最大の決め手は土器で、それは、土器は時代とともに
進化するし、流行などもあるので、どの種類の土器が同時に存在するか、
また、いつの時代のものかわかっている中国の土器などを参考にして、
どの土器がいつごろの時代のものかを示した目安が作られている。
これを「土器の編年」という。

ところが、九州の土器の編年と近畿の土器の編年では、弥生時代の
同じ土器を比べると、近畿のほうが100年くらい新しいことになって
いて、そのずれが疑問となっていた。

そして、近畿の土器の編年で得られる年と、年輪年代で得られる年を
比べても、土器の編年で得られる年のほうが100年くらい新しくなる
ため、結局、この土器の編年のほうが間違っているのだという考えが
広まり、100年前倒しされた土器の編年が一般化しつつある。

そして、このおかげで、九州の土器と近畿の土器の編年のずれが解消された。

よって、近畿の遺跡がこれまで考えられてきた年代より100年前のもので
あることになったが、九州の遺跡の年代は変わっていない。
82名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 12:09
結局、邪馬台国は北九州にあったと考えていいんですか?
83名無しさん@1周年:2000/07/12(水) 13:16
いや、年輪年代測定によって畿内である可能性がますます高まった。(未確定)
3世紀の時点では中心地は畿内にあったと見てもいいと思うが、
それが邪馬台国であるかどうかという点が不明。
84>83:2000/07/12(水) 14:52
どうも世間じゃ、当時、すでに、日本は邪馬台国によって統一されていたというのが
定説のようだけど、出雲王国があったのは間違いなさそうだし、吉備王国もこの時代に
あったっぽい。

だいたい、魏志倭人を読んでも、邪馬台国は、その南の狗奴国と対立しているし、
海を千里渡ったところには別の国があり、さらにその南には侏儒國があるというのだから、
これだけでも4つの勢力があることがわかり、「ちっとも統一されてないじゃん。」
と思ってしまう。

結局、当時はまだまだ群雄割拠の時代で、「畿内が中心になっていた」という考え
自体が成り立たないんじゃないかな?
ある
8583と違いますが。:2000/07/12(水) 15:43
>84
中心地というより、最も力があり栄えた地域と考えてやってくれ。
例えば、魏呉蜀と別れていたけど、魏が最も力があったという風に。
86てんさいくん:2000/07/13(木) 20:22
>鳥取県青谷町青谷にある青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の弥生時代後期後半(2世紀ごろ)の溝から、戦闘による殺傷痕がある骨が89点見つかった。12日発表した県
>埋蔵文化財センターによると、魏志倭人伝などで「倭国大乱」(2世紀後半)とされた時期と重なる時代の殺傷痕人骨の出土は国内初。邪馬台国の卑弥呼が2世紀末に倭国
>の女王となる直前に、激しい戦闘があったことを直接的に示す画期的な資料として注目されそうだ。

http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/000712/dom/21450000_maidomm109.html

だそうです。これで、卑弥呼が死んだ頃に、出雲王国があったことは確実になったわけですね。
そのうち、吉備王国の実在を示す証拠も出てくるでしょうか?
87名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 20:30
邪馬台国が畿内なら狗奴国は中部関東?
そんなに強力な勢力はなさそうだな・・・

日本武尊って邪馬台国より前の人と思う?
(実在したらの話)
88名無しさん@1周年:2000/07/13(木) 20:32

日本武尊って邪馬台国より前の人と思う?  ×
日本武尊って卑弥呼より前の人と思う?   ○
89熊襲組:2000/07/13(木) 21:07
邪馬台国は断定出来ないが、狗奴国は肥後で決まりだ。
クナ=クマソである。
菊池一族の本拠地、隈府(ワイフ)は以前、(クマフ)と呼ばれていたが、
加藤清正が隈本(熊本)の城下町を整備した時に、紛らわしいために、
ワイフと呼び名を変えたのである<史実
狗奴国の官・菊池彦と関連のある地名、菊池・隈府(クマフ)、
すなわち肥後こそ狗奴国である。
90名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 02:06
熊襲は日本武尊に滅ぼされてる。
それが卑弥呼以前か以後かで話が変わってくる。
あくまでも実際に熊襲が征服されていたらの話だけど・・・
91野波正済:2000/07/14(金) 05:05
邪馬台国の女王卑弥呼は関西の海賊たちの女王です。
近畿地方はは伊勢神宮にも近いので高確率です。
海賊と言う性質から瀬戸内海を中心に治めていたと思われます。
領土は出雲王国吉備王国のあった島根県岡山県を避けて
四国および東は名古屋西は下関までです。
不思議なことにこの流れで行くと天皇が出てこないんです。
吉野ヶ里遺跡のような弥生系の遺跡があることから
北部九州地方は韓人の領土であったような気がします。
又これは本当に飛躍した考えですが、
高天原とは四国のことではないかと思われます。
言霊では四国のシはシラシのシで四国は支配する国と言う意味です。
もし朝鮮人が天孫族であるとすれば宮崎県に降臨するというのは、
地理的にみておかしい。なぜならば何万もの大軍が
海上要塞である関門海峡を通過するか熊本鹿児島を大きく迂回して
宮崎県に上陸せねばならなくなるからです。
むしろ私の言う邪馬台国が高知県から宮崎に渡って南九州を占領し、
四国から南九州を支配した状態のことではないかと思うわけです。
そしてその余力を駆って北部九州・南韓も領土にし、
百済の韓人と文化的に混血し大和朝廷を作った。
というほうが自然な流れだと思います。
不思議なことにこの流れで行くと天皇が出てこないんです(゚Д゚)
天皇が朝鮮人と言うなら話は早いのですが。
92名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 13:55
唐突ですが、倭人の民族的ルーツをたどることと邪馬台国はじめ古代王朝の研究はコインの裏表のような気がしますが。
揚子江文明亡き後、漢族に圧迫されて逃げてきた南方系中国人が九州・半島南部に住みついて、そのまま倭人の先祖となったという気がしますが。
93>91:2000/07/14(金) 14:28
伊勢神宮が皇祖神を祭る様になったのはかなり後代
になってからだったはずだが...
94熊襲組:2000/07/14(金) 15:16
>90
卑弥呼が死んだ後、狗奴国の行方については諸説ある。
狗奴国が和平派と好戦派の2つに分裂し、
和平派と邪馬台国が合同し、大和朝廷のもとを作ったという説もある。
また、狗奴国が邪馬台国を滅ぼし、大和朝廷を作ったという説もある。
ただ、言えるのは、
大和朝廷のクマソ征伐とは、狗奴国の九州残留派に対する征伐であり、
西南戦争(西郷vs大久保)の構図と同じである。
朝廷内にも狗奴国の人間はいたのだ。
その後、クマソは歴史から姿を消すが、滅亡したわけではないのだ。

95名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 15:52
クマというか、KMで何らかの子音がつく言葉というのは、
結構なんか意味があってどうの...という話、何かで読みましたね。
クメールかなんかに飛んで行く系統の話だったかも知れないですが、
くまという音にされてしまった何かというものが、あったような
気がしますが...。
96名無しさん@1周年:2000/07/14(金) 20:24
・ヒミコ=火の巫女
・九州=火の国(阿蘇山)
・神武東征説
を考えると、九州かなぁと思うね。
97れれ@1周年:2000/07/14(金) 21:11
鯨統一郎『邪馬台国はどこですか』(創元社文庫)はおもしろい。
98>86:2000/07/15(土) 00:07
出典を忘れたので自信はないですが、
大和で王権が確立された時期頃から
出雲では砦などが数を増やしていることから
大和の勢力拡大によって出雲と緊張関係になったのではないか
といった話を聞いたことがあります。
99名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 00:15
そうよ。
八幡平にあるのよ。
まちがいないわ。
ね〜、れれ@1周年さん。
100名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 03:15
素人の素朴な疑問。
邪馬台国東遷説についてなんですが、移動の理由がわからん。
西日本一帯を治めちゃう大帝国だったんだろ。インフラも整ってたんだろうな〜。
それを捨てて何で?誰かおせーて!
101邪馬台国スキー場@埋没1700周年:2000/07/15(土) 03:22
八幡平って1500b級の火山じゃん、主食は雪と霞かよ(わら
102卑弥呼:2000/07/15(土) 07:42
きー。
笑われたわ。くやしー。
なんてことでしょ。
掘ってみなさい。そうよ、掘ってみなさいよ。
そしたら、私の遺骨が出てくるわよ。

103名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 19:25
>87
 ぼくは別に畿内説にこだわる者ではありませんが、その線に沿って
 仮に、中部関東に狗奴国に比定される大きな勢力を探すとすれば、
 上野国・下野国の毛野でしょうか。(・・・遠すぎる?)

たしかに、邪馬台国にばかりこだわるのではなくて、
魏志倭人伝に登場する他の国々の所在も、
同時に解明されるのが良いですね。
104名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 00:45
とりあえず卑弥呼は朝鮮半島経由で魏に使いを送った
んだろうね。
だから神功皇后が新羅を征服したついでに使者を
出したとも思える。
三国志の三韓の記述には倭に征服されたって話は
無いけれど・・・
狗邪韓国ってのがすでに倭の領土だったかも。
コメのことも考えてみると、九州。畿内よりも海も近そう
106名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 18:49
タイの山岳地方にあったのかもしれない。
107名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 19:45
当時の中国人は日本の南北を逆に勘違いしてたようだし、
そういった地図もある。よって近畿。
108名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 19:49
邪馬台をなんとよむ?
大和朝廷と区別するため「ヤマタイ」と読むけど、
「ヤマト」だろ。
109名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 20:43
邪馬台国の台は台湾の台。
邪馬台国は邪馬地方の台国(台湾)の植民地ってことですよ。
で、あとは邪馬地方とはどこなのかわかればよしと。
110ずん:2000/07/16(日) 23:23
あいどのあいどのわづずどぅーいんね
111名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 00:19
台湾に色んな小国家が有ったの?
台湾史って以外に知らないな・・・
112名無しさん@1周年:2000/07/17(月) 00:52
台湾本省人には日本の統治まで文字がなかった。
中国の役人も「化外の地」と呼んで実際には赴任していない。
伝聞と推測でつづった記録があるのみ。

邪馬台国記述も実態はこんな感じ?
113インドネシア:2000/07/17(月) 15:05
ジャワ島説ってどーよ
114:2000/07/17(月) 22:44
珍説奇説の邪馬台国って本で読んだが
以外といけてる説のような気がした
115名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 00:05
台湾説を考察・・・

台湾説の納得できる点。
いくら又聞きでも南北は間違えるはずはない。
魏書に邪馬台国は会稽の東辺りだろうかという
記述がある。
倭人に南方系の特徴があるという記述がある。

台湾説の納得できない点。
台湾から倭を支配するのは無理がある。
遺跡などが発見されたという話を聞かない。
邪馬台国の後裔らしい国家が見あたらない。

116名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 02:29
高砂族はどうよ?
117マヨネーズライス:2000/07/18(火) 02:29
邪馬台(ヤマトと発音できんこともない)
倭(ヤマトと読む)
大和(ヤマトです)
おそらくこの三つは一緒です。
あと、任那とは倭国の朝鮮半島植民地のことですので。
天皇ってそのときに朝鮮からさらってきたんじゃないかと。
違いますかね。違うか?はっははは。
118名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 05:07
>108
>大和朝廷と区別するため「ヤマタイ」と読むけど、
>ありゃ「ヤマト」だろ。

貴様の見解に全面的に賛成する。
自然に考察して、大和王権は邪馬台国の発展型としか考えようがない。
天皇氏を“大陸産”にしようとしている社会主義者のパーティが、
邪馬台国=ヤマトという呼称を拒んでいる。

大体、卑弥呼の姪で邪馬台国の指導者とされる「台与」は、「とよ」と発音されている。
つまり、「台」を「と」と発音している。
何で邪馬台国の「台」を「と」と認めない?

朝鮮半島と社会主義者の圧力に屈している日本学会。

この連中をクズと認定する…!
119名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 10:25
>118
>大体、卑弥呼の姪で邪馬台国の指導者とされる「台与」は、「とよ」と発音されている。
目から鱗。そういえばそうだな。
120名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 10:29
読み仮名って誰が決めてんの?
121名無しさん:2000/07/18(火) 12:11
中国人では?
122名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 14:30
ということは、「邪馬台」と書いて、中国人に発音させれば
>118の答えが出るのだな。
、、、まあ、さすがに今まで学会でやった人はいると思うが。
123名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 14:39
天誅帝国じゃないの?
124名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 14:51
先週、邪馬台国は群馬県だったという新説が発表されたよね。
ここの人は知ってると思うけどね。
125>124:2000/07/19(水) 18:23
知らない。教えてちょ
126邪馬台国は大和朝廷のルーツではない?:2000/07/20(木) 00:43
邪馬台国は九州にあったが何らかの理由で滅び、
畿内の勢力が大和朝廷のルーツになったと思う。
127名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 13:12
倭が百余国に分かれていたってのはどういうことなんだろうねえ。
国というより部族毎に分かれていたのとは違うの?
大まかに4つくらいの系統があって細かいのは同族国家で無かったんじゃないだろうか?
128名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 13:20
>122
安本美典がやってたと思うよ。

現代の発音は当時と変化しているので、当時の発音でやらないと意味がないそうだ。
129名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 04:31
まとめると、ほぼ畿内説で固まったと見ていいのかな。
130>129:2000/07/22(土) 05:28
どうまとめるとそうなるの?
このスレッド全体では畿内説、劣勢だよ(笑)

学会では、邪馬台国は北九州。その後東遷で大和朝廷樹立で固まってます。
131名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 06:15
>130

どの学会?
132名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 06:40
130はここ最近の発掘状況と年代測定について知らない素人
133130:2000/07/22(土) 06:45
最近、2chに来た人は知らないんだろうね。南朝の下に沈んでるよ。

邪馬台国って
1 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 13:35
邪馬台国って結局のところ、どこにあったんですか?
何かの本で「ある教授が死ぬまでは誰にも言えない(その教授の
説は間違っているのは解っているのだが、力関係があるので)」と
書いてあったのですが・・・。2 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 13:40
邪馬台国は知らんが、力関係云々の話は、日本の歴史学会すべてにあてはまるだろう。


3 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 17:34
>「ある教授が死ぬまでは誰にも言えない(その教授の
説は間違っているのは解っているのだが、力関係があるので)」

近畿説全般だね。
:
:
http://www.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=952922104
134名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 07:12
130が素人だってことが露呈したね。
135130じゃないけど:2000/07/22(土) 09:35
専門家限定板なの?
だったら専門家がもっとがんばってよね
136名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 09:51
南朝の板の方が立派じゃねぇか。。。
駄目だな、貴様らは。
まぁ、ロム専の俺がとやかくは言えないが。

しかし、やじ馬は一応期待してここに来てるんだぞ。
そのことを忘れるなよ。
それから、俺らには知識はない。
だからといって馬鹿にしないでくれ。
俺たちは他人の話を読むのを楽しみにしてここに来てるんだよ。

別に参加できなくてもいいだろ?
137名無しさん:2000/07/23(日) 16:33
邪馬台国が大和朝廷のルーツでないのならば、
どうでもよい。
138名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 17:30
色々と話を聞いていると、大和説がほぼ確定で、
現在出版されている書籍は、すべて大和説とのこと。
(素人の本は除く。)
とすると邪馬台国が大和朝廷のルーツであることは
確実でありましょう。
139そうすると:2000/07/23(日) 19:00
なぜ記紀に書かれてないのだろう?
140名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 19:04
というか、記紀自体が邪馬台(大和)の話だから、
すべて書かれているとも言えるのでは?
141名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 19:21
142名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 20:00
南朝板幻想はいい加減やめれ。
死んだ子の歳を数えてもしょーがないっしょ。
143139 >140:2000/07/23(日) 20:51
でも、一部中国の歴史書が引用されてたりするのにもかかわらず
卑弥呼の記述はないでしょう。
やはり、別系統と考えるべきなのでは?
144名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 21:10
>143
では、これについてはどう?中国側は同じだといっている。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=963326995&st=42&to=42

あと141のリンク先についても参考になるのかも。
145名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/23(日) 22:03
ゆるやかな宗教連合国で天照や神功皇后の話からいっても九州と近畿で
つながっていたのでは。
大規模な東征はなく、日本式になし崩しに九州が近畿を飲み込んだので
しょう。

146名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 22:14
>145
もうちょっと日本各地域の神社で奉っている神々の分布とかの現状を見てみましょう。
天照や神功皇后などの系統以外のものが数多く残ってることを認識できます。
大和政権が奉っている(いた)神々(=記紀にでてくる神々)以外にも、
いかに多くの神が日本に存在しているかがすぐにわかります。また、
記紀系の神々に途中から宗旨変えした神社の記録もありますし、
元々違う系統の神を天照などに同一視することで一体化していったものは多いです。
147名無しさん@1周年:2000/07/23(日) 22:51
キーワードは饒速日かな?
148名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/23(日) 22:56
>146
だからそういうことも含めてゆるやかな宗教連合で核として九州と近畿
があって九州が近畿を飲みこみ残りは国津神になったのでは。
149名無しさん:2000/07/23(日) 23:45
邪馬台国が九州にあったとしたら人口はどれぐらいいたの?
同時代の畿内の人口のほうが多かったと思うが・・・

当時の日本列島の人口分布も重要だ。
150>149:2000/07/24(月) 00:29
人口の多い少ないだけで優劣を決めるのは考えものじゃ?

あ、俺はズルいようだが邪馬台国論争では傍観者です。あまりにも
不毛だからね。価値を認める認めないじゃなく、それこそ断定でき
る決定的なものが見つからないから(資料も発掘物も含めて)。
なんか過去の法隆寺再建、非再建論争とオーバーラップされるよう
にも思えるし…。どちらも手前味噌にも見える時もあるから…。

あ、でも論争を止めろってことじゃないから。ちょっと「ウン?」
って思っただけだからね。
151名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 07:42
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比
危其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居
其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居
其児名半弖比

其児名加差披余其児名平獲居臣世々為
杖刀人首奉事来至今獲加多支歯大王寺
在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀
記吾奉事根原也
152143 > 144:2000/07/24(月) 16:37
ええ、それは知ってます。だからなおさら不思議なんです。
隋書の成立は636年、記紀の成立はそれより100年近くも後代
のことなのだから、記紀編纂者は当然それらの記述を知っていた
はずなのに、その記述がない。
知っていたがあえて書かなかったか、あるいは知らなかったか。
どちらにしても、少なくとも支配者のつながりに限れば大和朝廷とは
直接のつながりがないような気がします。
153>139=143氏:2000/07/24(月) 18:50
ハズした答えなら申し訳ない。

「記紀」に卑弥呼の記述がない、とおっしゃるが、「紀」の神功皇后のとこに
魏志よりの引用として、今日「魏志倭人伝」として伝わる話の一部が記述され
てるのは御存知か?(難升米や親魏倭王の印綬と思われるもの等)だからといっ
て神功皇后=卑弥呼って考えるのは短絡的だが、少なくとも「記紀」の編纂者は
(「紀」の編纂者が魏書を読んでるなら当然「記」の編纂者も読んでたと考え
られるし)卑弥呼を神功皇后のモデル(全ての意味とは言わないが…)にした
のは確かと思えないだろうか?

神憑り的な存在、天皇(大王)になってないものの倭の実質的トップである彼
女の姿も、なんだか卑弥呼に確かに重なって見える。ちなみに神功皇后は息長
足帯日売命(記)、気長足姫尊(紀)が和名の諡でオキナガタラシヒメノミコト
とどちらも読む。この辺やっぱり卑弥呼=姫皇子って読んだからかな? 
154名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/24(月) 21:15
九州か近畿かもお互いに主導権の移動はニ転三転あったろうし、邪馬台
国の場所自体には意味がないことも確か。
155名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 00:23
>153
難升米や親魏倭王の印綬って具体的にどの辺に
どう書いてあるの?
古事記は元より聖徳太子の編纂した国記とかに
も記録されていた可能性の有無を検討した方が・・・
とりあえず卑弥呼と神功皇后は重なる部分が
あると思うけど台与の存在にあたる女王が見あたらないのが難点でしょう。

ところで日本書紀って古事記より出回ってる数が圧倒的に少ないよね。
156名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 10:49
卑弥呼の神殿は不弥国にあった。
不弥国までの道程は詳しく書いてあるのに突然、陸行一月水行10日女王の
都する所と出てくる。方向も指定していない。
陸行一月水行10日は帯方郡から卑弥呼の神殿に到達するまでの全部の必要
日数である。不弥国に卑弥呼の神殿があった。邪馬台国は連合国全体の名前
であると考えれば全てのなぞは解明する。
157男爵:2000/07/25(火) 11:19
結局、邪馬台国はどこにあってもいんです
こんだけ、邪馬台国の起源について諸説があるのなら、
「複数あった」と考えてもいいんじゃないかな
独立やら分家やらで、藤原さんみたいに各地に散らばってたとか
卑弥呼も、本家の主流の始祖ではる必要もないしに

ちみずよちのり(だったと思う)の
「邪馬台国、銀座説」もいいぞ
温泉街、繁華街の一番繁盛しているところは「銀座」、
と名前がついているように、
四国の「邪馬台国」、畿内の「邪馬台国」とかが
あったってのもありだと思う
卑弥呼もどこの王様、でなくて、織田信長みたいに、
本拠地を状況ごとに変えてたのだ

だから邪馬台国はどこにあってもいいんです


158名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 12:32
>邪馬台国は連合国全体の名前であると考えれば全てのなぞは解明する。

賛成だな。
九州は当時、多くの女王国が存在しており、北九州にあったとされる例の国も
その中の一国に過ぎなかった、する説を読んだことがある。

又、「邪馬台国は女王の都」という倭人伝の記述についても、文法的見地からすると、
「邪馬台国は女王の(支配する国の)都」と解釈する必然性は乏しく、
「邪馬台国は女王の(所属・加盟する国の)都」解釈しても何ら問題はないとか。

俺個人の見解としては、絶対にそn
159143=152:2000/07/25(火) 15:57
153氏レスどもです
神功皇后記の「魏志に曰く・・・」の文ですね。
しかし、あれは神功皇后の活躍した年代と卑弥呼
が朝校したとされる年代がかなりずれていること
卑弥呼には子がない(魏志)のに神功皇后には実子
がいること(記紀)。
さらに、魏志の引用が出ているのに卑弥呼の名前が
登場しないこと。書紀に「倭女王」と書かれている
ところから、神功=卑弥呼と推測できるにすぎない
などいろいろ謎があるとされています。
160>153:2000/07/25(火) 16:12
記紀の時代から邪馬台国論争があったらしいです。
神功皇后は持統天皇の業績などを参考にして作られた。
卑弥呼の時代に新羅なんかなかったからね。
半島に渡って戦争なんかありえない。
記紀の編者は倭人伝を読んで(聞いて?)神功皇后を
卑弥呼にはめようとしたが自信がなかったのかあいまい
な書き方をした。
161名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 22:14
邪馬台国は俺んちの裏にアルヨ
162名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 04:34
邪馬台国の首都は下関市彦島。
163>:2000/07/26(水) 15:44
高木彬光の「邪馬台国の秘密」によると宇佐が邪馬台国となっている。
小説仕立てで書いてあるが検証方法など変わっていて面白い。
164153:2000/07/26(水) 18:57
レスが送れて失礼です。
143=152=159氏や160氏が指摘する時代のこと等ですが、「記紀」を西暦や
中国の暦と厳密に一致させる作業をしていたら、変な部分は他にも多くあるのでは? と思います。妙な部分で矛盾が多い歴史書ですし(笑)。

そもそも「記紀」の編纂理由はそれまで伝説として口伝されていた天皇や氏族
の歴史を成文化しながら天皇を神格化し、万世一系のイデオロギー(=非革命
のイデオロギー)を植え付けることが目的の史書でしたから、ちょっといい加
減な意見かもしれませんが、天皇が納得する内容なら時間的な矛盾の歴史があっ
てもそれでよかった、と思います(もちろん大きな流れとして、いい加減に大
王の歴史が並べられてるとは思ってませんが)。この辺160氏が言う曖昧っ
て言葉に私も賛成です。
確かに今日の歴史書の観念からすると、神功皇后と卑弥呼をダブらすのはおかしいでしょう。でも誰が読むことを第一に考えたかといえば、一般の人間がで
なく天皇がです。「記紀」編纂当時の天皇や上皇を考えると女帝や女性権力者の活躍は特に喜ばれます。他の氏族はむしろ「記紀」を読み、それを信用し、天皇をあがめてくれればそれでいい。だから時代的に矛盾があっても神功皇后
の役(?)の中に卑弥呼を投影させる、もしくは伝説としてすでに存在してた
神功皇后に卑弥呼の功績の一部を担わせる、もしくは卑弥呼から作り出した神
功皇后を活躍させる歴史を記す作業の方が重要だった、と私は考えてます。

で、ここからはちょっとスレッドの趣旨にハズれるのでおおまかにしか言えませんが、個人的には神功皇后は応神〜武烈までの王朝と崇神〜仲哀までの王朝
の接着剤だったと思えます(ひょっとしたら応神の前や仲哀の後に何代か大王はいたかもしれません)。恐らく王朝の入れ替わりがある時、2つの王朝で並
列してた部分もあったでしょう。でも万世一系のイデオロギーを貫くためには
それが描けない。そうなると仲哀天皇には古い時代にズレてもらって応神天皇
を入れる。でも性格が違う2つの王朝をダイレクトにくっつけるのには無理
があるから神功皇后の話を入れたんじゃないか、と思ってます。
継体天皇はその出自が知れ渡ったことだからバレバレながらも書くしかなかっ
たものの(市辺皇子や飯豊皇女も同様)、応神あたりの伝説は古すぎてかなり曖昧になっていたからできたんじゃないか、と考えてます。

「天皇記」「国記」が「紀」の記す通り実在し、どちらも現存していたら比較
できて面白かったんでしょうがね。全然違う内容とは思わないものの、編纂し
た時代背景が違うから、もっと考える材料を提示してくれたんじゃないか、と
思っていますがね…。
165>:2000/07/27(木) 11:16
投馬国も帯方郡から船行で20日と考えれば納得がいく。
その以北の国については重要でないのでつまびらかにせず。
と言うのも船で直行したとすればそうだろうと思うが
どうだろうか。
166名無しさん@1周年:2000/07/27(木) 12:25
>164
「紀」にある“一書”に「天皇記」「国記」が含まれているという説もある。
167名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/27(木) 22:00
専門家に伺いたい。

1.「三国志」では邪馬台国という表記はありえない。
  なぜならば、同書では魏台という語句で、魏の天子の宮殿や
  魏の天子そのものを表しているからである。
  だから、邪馬台国という表記は、邪馬の天子の国という意味になるが
  そんなことは、「三国志」のイデオロギーからは、
  ありえないことではないか?
   (ここで、「台」としている字は原文では違う文字であるが
    表記できないので「台」としている。)
  つまり、結果的にそうなる、ならないは別として、
  最初から邪馬台=ヤマトと比定するのは、おかしいと思うが?
2.三角縁神獣鏡について
  同鏡は、大陸側では出土していない。
  また、中国側が倭国のために、特別に作ったという史料もない。
  また、そこに記されている漢文には、文章として不完全なものもある。
  以上の事実をふまえて、
  「同鏡は、中国製に違いない」という信念のほかに
  中国製であることを示す、客観的な証拠はあるのか?
3.年代について
  81で、すでに指摘されているが、
  近畿の年代が100年ほど繰り上がったからといって
  九州の年代も、同じように繰り上げるのは
  おかしいのじゃないか?
168名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 07:01
どちらにしても当時大和地区に九州地区を上回る強大な勢力があったのは事実。
(最近の発掘や測定法により、さすがにこのことはみんなの合意でよいよね?)

そうすると九州地区にあった勢力が当時まだ大和地区勢力に服していないとしても、
その後のいずれかの時点で征服あるいは滅亡させられたということになる。
169名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 09:01
三角縁神獣鏡を中国側が倭国のために、特別に作ったのであれば
400枚も出てくる筈がない。という意見はもっともだが。
中国から来た鏡を複製した可能性もある。現に発掘された鏡の
出来栄えはまちまちらしいから。
三角縁神獣鏡の鋳型を御神体にしている神社がどこかにあった筈
だが話題にならないのはどうして?
170167:2000/07/28(金) 09:43
>168
>そうすると九州地区にあった勢力が当時まだ大和地区勢力に
 服していないとしても

すると、考古学的な勢力分野からは、邪馬台国がどちらにあっかは
決定できないわけだろ?

>169
>中国側から来た鏡を複製した可能性もある。

だから、それが「信念」だと言ってるんだ。
信念を持つのは結構だけど、それを裏付けるものを
提示しなければ、だめなんじゃないの?

171>164:2000/07/28(金) 12:22
倭王武の上表文はどのように解釈されますか?

あの文章からは、自分の祖先は、自ら武器をとり国々を治めたことに
なっています。倭王武が雄略天皇だと考えると応神天皇より後には
そのような王は見当たりません。(記述がない大王なのでしょうか?)
むしろ、その直前の数代の王たちが、自ら戦争をしながら諸国を
回って国を治めたとされています。偶然の一致でしょうか?
記紀を解釈する場合、歴史の流れの面で、他の部分の辻褄を
合わすために、海外資料と国内資料が一致する部分を変更ことは
慎重であるべきだと私は考えますが。
172七篠権兵衛:2000/07/28(金) 13:23
ヤマタイ帝國は一万年前、太平洋上にあって世界を支配していた。
それが地殻変動で大洋に没し、巨大な龍神をあがめつつ地上の奴隷どもへの復讐を誓っていた。


どうも女王って言うとこう言うイメージしか浮かばなくて。
173名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 15:08
邪馬台国が近畿で、そのまま大和朝廷になったとしたら、なぜ記紀の編者は皇室の起源を南九州にしたんでしょう?どなたか納得の行く説明をご存知ないですか
174名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 15:35
>173
素人考えですが、近畿にあった邪馬台国を、九州からやってきた皇室の先祖が乗っ取って出来たのが大和朝廷であり、そこらへんの事情が曖昧ながらも記紀の記述に反映している…
というようなところではないのでしょうか?
175名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 16:20
>173@`174
九州(といっても広い)から大和地方へ出てきたのは、
邪馬台国時代よりもさらにもっと前ではないかという説もありますね。
176>167:2000/07/29(土) 00:15
専門家じゃないが、

>3.年代について

年輪年代の成果が出る以前に九州が主導する形で年代が100年ほど繰り上がっ
てしまっていて、10年以上前(20年近いか?)に(考古学的には)邪馬台国九州説
はかなり厳しい情況になってしまっている。79の言っている内容は、この頃
のはなし。だから、81は的を外している。まあ、79の書き方も悪い、ある
いは間違ってるんだけど。

その後、年輪年代の成果により畿内の紀元前の年代がさらに100年程度繰り上
がりそうだが、これに伴う九州の年代繰上げはない。

したがって、年輪年代によって“不利だった畿内説が有利になった”というの
は、幻想。有利だった畿内説がより楽になったとは言えるかもしれない。
177名無しさん@1周年:2000/07/30(日) 02:59
漢式鏡もだけど、弥生墓から中国絹や鉄が多く出てくるのは北九州だから、
北九州にあったと思う。金印の存在も大きいし。
178>177:2000/07/31(月) 00:32
その年代が古すぎる。
邪馬台国より200年ぐらい前。

漢式鏡じゃなくて、魏晋鏡がどこから出ているかが問題。
179名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 09:54
対海国や一支国のの地域比定を疑う者はいない。
末盧国や伊都国が九州にあった事を疑う者もいない。
とすれば畿内に邪馬台国を持ってくるには魏志倭人伝の
南と言う字を無理に東と読み替えなければならない。
魏志倭人伝に書いてある国を捜すのにその本が間違って
いると言う事を前提に方向や距離を組み立てると言うのは
馬鹿のやる事。
邪馬台国は九州にあった事は間違いない。
少なくとも畿内である事はありえない。
180名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 10:55
>179
このスレッドだけでもいいから、一度全部きちんと読んでみたら?
夏休みで新人が増えてるのかな
181名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 15:42
畿内説の論拠は北九州から水行10日陸行一月にあるらしいが
九州説は半島の帯方郡からの陸行を含んで一月と言っている。
魏使は莫大な土産を持って邪馬台国へ向かったのだから出来れば
船で行きたい筈。
九州から畿内に向かうのに一月も歩くには何処に上陸するの?
瀬戸内海なら安全だし大阪堺位まで船で行けば陸行は一日だよ。
182名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 16:17
九州説の最大の弱点は帯方群から出発していることなんだよ。
日数で距離を表現するのは漢人にとってはかなり奇異なことで
あることを知っておく必要がある。
なぜ帯方群から句邪馬韓国までの距離が解っているのに、
これを含めた距離を日数という魏にはない尺度で
距離を表す必要があったのか。
つまり陸行一月は近畿説の最大の弱点であると同時に、九州説も補強していない。

>魏使は莫大な土産を持って邪馬台国へ向かったのだから出来れば
>船で行きたい筈。
こういう論法だと九州説でも最寄りの港まで廻るはずなので
九州のどこに在ろうが1月掛からない。
183名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 16:44
帯方群から出発してたちまち南し、たちまち東し、と道なき道を
苦労しながら歩いた様子が見て取れるではないか。
魏使にとって奴隷に持たせたとはいえ鏡百枚は相当なもんだった?
一月も掛かった。大変だった。と言う思いがここに現れている。

魏にとって南が東と言うなら、半島での道程が別の表現にならなければ
ならない。
184名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 17:57
ん?
家から学校まで、どれくらいかかるかって?

クルマなら10分
歩いたら1時間ぐらいかな〜♪

ってことじゃないの?

それとも

家からバス停まで歩いて5分でしょ〜
で〜バスに10分乗ってぇ〜
降りてから3分くらいかな?

って言ってるのかね〜?
185名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 17:57
なぜ対馬海峡は船で行くのに帯方群から句耶韓国までは歩きなの?
186名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 19:03
>181さん
瀬戸内海は潮の流れが速く、意外と難所である。律令制度とともに整えられた駅伝制では、
馬を主体にした陸上交通が中心で、船についてはあまり記録が無い。ちなみに、租庸調の運搬記録によると、
大宰府から平安京までは上り27日、下り14日(荷物の有り無しで違う)、船で12日程度が目安
だったとのこと。
187>185:2000/07/31(月) 21:27
魏志倭人伝には、帯方群から句耶韓国までは海伝いに船で行くことが明記されています。
結局、たくさんの重い貢ぎ物や、手足の自由が拘束されていたと思われる奴隷を連れて
陸を歩いて行くのは、かなり大変だからでしょう。そんな状態では、1日に数キロしか
進めなかったのではないかと思います。

ですから、陸を行くのは、船が使えない内陸部に行く時か、陸を横切ったほうが次の港に
早く着く場合だと思います。
188名無しさん:2000/07/31(月) 22:01
当時の技術で、東西南北を正確に測定できたのかな?
正確な地図も無かった。
189名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 23:21
水行十日陸行一月を「帯方軍からの行程」と読むのも「水行なら10
日、陸行なら一月」といわゆるORで読むのも漢文としては誤読。

日本人の邪馬台国論争以外では通用しない。
190名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 23:38
日本人が南と東を間違えてたんだろうね。
中国人はどう考えても間違えないと思う・・・
陳寿の誤記と思える部分って他にも結構あるの?
191>188:2000/08/01(火) 03:28
太陽を見ればわかるだろ、方角ぐらい。
192名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 04:32
>1
どこにもない。お前の妄想。
世の全てのこともお前の妄想。
さぁ、夢からお醒め…
193名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 09:15
魏使は魏の勢力下に置かれるべき邪馬台国迄の道程と国情を調査報告する
使命を持っていた。
狗耶韓国まで徒歩で行ったのはそのため。一方、重い荷物を運ぶ為には船
を利用したいから船で半島の西岸を迂回して金海まで荷物を運んだ別の隊
がいた。
194名無しさん@1周年:2000/08/01(火) 11:08
http://www.yomiuri.co.jp/00/20000801i501.htm

これってどういうこと?
195>1:2000/08/01(火) 19:42
ここのスレッド、東遷論と邪馬台国所在論が混乱しているからわかりにくいんじゃないの。

誰かちゃんと区別して論じてくれないかな。
特に近畿説の方。
196名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 10:05
大陸の方々はのんびりしてらっしゃるので、
歩く速度は極めて遅いのであーる。
とってものんびりしてらっしゃるので、
ちょっと歩いては大休止、ちょっと歩いては大休止。
宴会好きなので、行く先々で接待大宴会。
翌日は二日酔いでは休み。
その翌日は返礼宴会。
その翌日も二日酔いで休み。
その翌日は市内観光。
その翌日は休養。
その翌日にやっと出発するも
ちょっと歩いては大休止、ちょっと歩いては大休止。

=========以下同文==========

ということで、近畿まではとても行きつきません。
よって九州です。
197>196:2000/08/02(水) 10:58


   .             -‐ ‐-
   .          @` ´   ´  ゛丶
   .   .     γ          ヽ
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   .         | l ´l;T   T;lヽ| |  <   遊牧民はスピードが命よ
   .         | |. ┴     ┴  | |    |   とろいのは倭奴!
   .          | . l ""  ´  "" /| |    \__________
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             |          | |_  
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              |         |.   \
              |         |_. 〃 ヽ
              |         | =| ̄ ̄
              |         | \|
              |~ ~~~~|.~|~~ ~~~|
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.  |.    | |    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  
          ⊂   l    .l l    l  ⊃     
             ニ二 二二 二二ニ   
198>195:2000/08/02(水) 20:57
発掘調査や文献の記述の考察が一段落した時点で
北九州派と畿内派が感情的に批判し合い、議論が空転し始めたから
そこまでで話に区切りをつけることにして
以後、東遷説の話題に入ったのでしょう。

それとも、その口調から察するに
分の悪い畿内派が邪馬台国と畿内をこじつけるために
むりやり東遷説を唱えているとでも?
199名無しさん:2000/08/02(水) 21:43
邪馬台国が畿内にあったならば大和朝廷のルーツである可能性が高いが、
九州にあったならば大和朝廷のルーツである可能性は低い。
200名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 23:30
ほとんど九州説が無理になったてきたから、九州説から東遷説に流れてるんじゃないの
畿内説で東遷説って聞いたことないなぁ
201魏志:2000/08/03(木) 01:16
すいません、本当は日本行くのめんどくさかったので途中で金印と銅鏡
売り払ったかねで40日間豪遊してました。邪馬台国とかはなんとなく
想像で書いてみました、我ながら結構よいできだったとは思いますが
どうも混乱を招いてしまったようですね。謝罪します
202>199、200:2000/08/03(木) 01:42
テレビの見過ぎですな。
畿内の発掘はちょっとしたことでもマスコミが騒ぎますからね。

しかし、あなたが少しでも考古学をかじったことがあるなら、少なくとも
弥生時代に関して言えば、質量ともに畿内の遺跡は九州にはるかに及ばな
いことくらい知っているでしょ(なぜか表には出ませんがね。)。
また、古墳文化のほとんどが北九州の流れを受け継いでいることも知っているはず。

しかし、邪馬台国が250頃に畿内に存在したかどうかは微妙な問題
ではあるのでしょうな。よって、その意味で畿内説を全く否定してい
るわけではありません。

そうはいっても大和政権が畿内から発生したなどということはありえな
いでしょうな(皆さん本当はうすうすそう思っているはず。)。

反論お待ちしています。
203名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 03:10
東国への文化・技術等の伝播の様相などからみるとどうでしょう?
九州→東国と考えてすんなり納得いきますか?
204名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 10:14
朝日新聞(大阪)は畿内論じゃないと出世街道から阻害される
という話を聞いたことがあるが・・・
205名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 10:23
テレビの報道なんかだと、すごく近畿説ばかり流れてますよね。
それと学会での考え方がかなり違っていると言う事ですか。
京大学派とかの関係ですか?
206>202:2000/08/03(木) 16:13
> 大和政権が畿内から発生したなどということはありえない
その根拠を教えて下さい。
207名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 16:27
佐渡。
208名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 16:32
209>206:2000/08/03(木) 19:45
たくさんありすぎて困りますが、
代表的なところでは、
・古墳文化は、弥生時代の畿内文化とはつながらない
(古墳の埋葬方法、銅鏡などは、弥生時代の畿内文化に存在せず)
・最初期の古墳(いわゆる帆立貝型)古墳は、北九州と畿内にのみ存在
・集落の規模
・3世紀の既存の大和盆地の集落の消滅
・文献(古事記、日本書紀)


210名無しさん:2000/08/03(木) 21:18
九州でも近畿でも、邪馬台国のルーツは渡来系だな。
211名無しさん@1周年:2000/08/03(木) 21:26
ここに書き込みしてる中で、渡来系でないやつ、いないんでないの?
212>211:2000/08/03(木) 22:26
また、厨房だな。
証拠を挙げろ。
213名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 02:05
>最初期の古墳(いわゆる帆立貝型)古墳は、北九州と畿内にのみ存在

こういうのが巷ではまかり通っているのか。

纏向型を帆立貝式といえなくもないが、普通帆立貝式といえば、前期後葉以後に出てくる前方部に極めて短いもの。
仮に、纏向式だとしても、千葉のものを知らないらしい。

それに、最初期の古墳とよんでいい墳墓は西日本の至る所に現れているし、前方後円墳のルーツは瀬戸内にもとめられるということでコンセンサスが出来つつある。
214>211:2000/08/04(金) 12:54
普通渡来系というばあい、そういうニュアンスでは用いません
215>123:2000/08/04(金) 13:49
>前方後円墳のルーツは瀬戸内にもとめられるということでコンセンサスが出来つつある。

そんなコンセンサスができているとは思えないな。
具体的に言ってくれ。
216名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 20:28
福岡の光正寺古墳から、同古墳が邪馬台国時代の築造であることを示す
副葬品が出土していたそうですね。
不弥国王の墓の可能性が高いなどと新聞には書かれていますが・・・
217名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 21:40
え?それ何時の報道ですか?
218>215:2000/08/04(金) 22:21
近畿説は宗教ですからね。
教祖が言ったことと違うことは言えないの。
(特に京大系)
219>213:2000/08/04(金) 22:26
マキムク式(漢字がでない)の古墳は、ほとんどが奈良の桜井のあたりと北九州しか無いんじゃないの。
他、あったとしても少数でしょ。

瀬戸内云々ってどういうこと?
220>217:2000/08/04(金) 23:05
えーと、判明したのは31日、新聞報道は・・・
切り抜いちゃったんでいつかわかんないな。
8月に入ってからじゃない?ちなみに読売新聞。
221名無しさん@1周年:2000/08/04(金) 23:31
博多湾岸。
222名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 01:08
久留米市

福岡市と長期間戦争してたんだから
地勢的に久留米市しかない

久留米城が卑弥呼の墓
223>215、219:2000/08/05(土) 01:15
>具体的に言ってくれ。

具体的じゃないけど、このへんじゃだめ?

http://www.wnn.or.jp/wnn-history/anguru/13.html

>他、あったとしても少数でしょ。

少数ったって、もともと、纏向に5基しかないんだから。
それに形も、ホケノ山と東田大塚が似てるくらいであとはまるで違うし。
224名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 01:21
217>220
ありがとうございます。
225名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 01:39
>218

九州説は、似非科学(文献こねくり回し学)?
京大系云々は知らないけれど、最近の近畿説は宗教の域を
脱してきているんじゃないかな?
また日本を牛耳っているのは、やはり東大系っしょ?
で、東大は九州説って聞いたことあるけれど…。
226名無しさん@1周年:2000/08/05(土) 03:42
>225
概していえばそのとーり。>東大は九州説
227>220:2000/08/07(月) 00:04
考古学のおやつ、見たほうがいいよ
228>225:2000/08/07(月) 00:13
それか、学閥陰謀説に頼るしかないのが九州説の現状
229名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/07(月) 08:53
東大でも京大でも、九州説でも大和説でも
どちらでもかまわないから
「三国志」では、邪馬「タイ」国という
表記はありえないとする古田学説に
だれか反論しろよ。
230>223:2000/08/07(月) 10:54
>もともと、纏向に5基しかないんだから。

違うだろ、ごまかすなよ。北九州にもあるだろ。
それに庄内期の土器がでているのは、北九州とマキムクだけだ。
両者が関係ないとは到底思えないな。
231225>229:2000/08/07(月) 11:47
答えになってないかもしれないが、わたしは今、
古田氏の指摘どうり、邪馬「タイ」国ではなく、邪馬「イチ」国が
大和にあったのかもと考えてます。「市」のつく地名が多いので。
「市場」ではなく「伊都」が語源ということで。イト勢力東遷説。

古田氏はやっぱりすごいかも。うざい意見も多いと思うが。
232名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 11:58
いちは後世の転写間違いということで決着したのではなかった?
違うの?
233>231:2000/08/07(月) 13:14
古田って東北のインチキ本養護してなかった。
234231>233:2000/08/07(月) 18:12
誰も疑わなかった?「邪馬台国」を疑ったのは、やはりえらいと思う。
あと九州年号の指摘とか(オリジナルではないか)。

>古田って東北のインチキ本養護してなかった

たくさんある、うざい意見のひとつかな(笑)。
235229:2000/08/07(月) 21:23
>233

知らないだろうから、教えてやるが
アインシュタインの晩年の仕事が
間違った方向に進んでいたからといって
初期の「特殊および一般相対論」までもが
間違っていることの証明にはならないんだよ。

236>234:2000/08/07(月) 22:38
古田なんて学会からは全く相手にされてないぜ。
日本史板は厨房が多くて困るね。
237名無しさん@234 :2000/08/08(火) 00:56
「邪馬臺国」があり得ないという古田説はこの際おいといて(笑)。
「邪馬壹国」ではあり得ないという証明が聞きたいです。

固有名詞「壹与」→「臺与」の変化も同時に存在しているから
写し間違えだ、という説明は名前の由来が双方とも「伊都」と考える
ので、私は納得致しません。どちらの名詞も同時に「イ」が脱落した
と考えるからです。

「ヤマイト(チ)」→「ヤマト」、「イト(チ)ヨ」→「トヨ」
の変化があり、5世紀、倭の5王の時には既に定着していた。
それ以降の中国文献は、5世紀の情報によって歪められた。
こんな考え方、妄説のたぐいかもしれませんが、
全くあり得ないでしょうか?
238森浩一曰く:2000/08/08(火) 01:06
私は考古学者だから邪馬台国が畿内か九州かはしらないが、
倭人伝によると、倭人は魏に錦を献上しているので、邪馬台国では
絹を作っていたってことだ。
そして、2世紀の養蚕の遺跡が出ているのは、北九州の福岡・佐賀あたり
だけなんだ。
わたしが言いたいのは、ただそれだけ。

…って、つまり「畿内政権の邪馬台国が、佐賀あたりで作った錦を
魏に献上していた」ってことなんですね?!
239>237:2000/08/08(火) 01:27
>こんな考え方、妄説のたぐいかもしれませんが、
>全くあり得ないでしょうか?

少なくとも学会では妄想と見なされてますね。
240>238:2000/08/08(火) 01:39
卑弥呼の時代(250年頃)には、邪馬台国が畿内にあったのか、
北九州にあったのかは、微妙ではないでしょうか。
マキムク遺跡の研究がさらに進まないとはっきりしないと思います
がね。

もっとも、大和朝廷が畿内のネイティブだとする多くの畿内説の学者
に比べれば森氏は、はるかにまともではあるでしょう。
241>236:2000/08/08(火) 08:29
だからさあ、学会を代表してるつもりなら
古田説に、まともに反論しなよ。
古田説が発表されてから、もうそろそろ30年だぜ。
その間、邪馬「イチ」国論ひとつ、
満足に論破できていないじゃないか。

まあ、学会には、いまだに徒弟制度が残ってるから
親方に逆らうようなことを発表できない
事情はわかるよ。
だけど、個人の内なる良識・常識まで
学会に売り渡してどうするんだ?

こういうことを書けば、古田の東北「古代文書」
については常識があるのか、という反論がある
と思うので、あらかじめ
「あれは間違っている」と書いておくよ。
おいらは、別に古田教の信者ではないのでね。

君の方が、よっぽど、学会教の信者ではないのか?

242>241:2000/08/08(火) 10:14
古田みたいな厨房を相手にするわけないだろ。
議論するだけで格が下がるぜ。
243>242:2000/08/08(火) 11:41
 やれやれ、せっかくまともな討論が
続いていると思っていたのに
「厨房」なんていう厨房語を使う奴が出てくるとはね。
 しかも、それがどうやら、日本史板をリードしなければ
ならない学会側の人間らしいのだから
情けないよな。

 人の格を言う前に、242の発言をした時点で
君には、下がる価値のある格さえなくなっているんだぜ。

 それにしても、学会人というのは242のような
バカばっかりなのか。
まともな人はいないのかね?


244>230:2000/08/08(火) 23:12
>違うだろ、ごまかすなよ。北九州にもあるだろ。

やれやれ。

>>他、あったとしても少数でしょ。
>少数ったって、もともと、纏向に5基しかないんだから。

っていう文脈。キーワードは「少数」。

>それに庄内期の土器がでているのは、北九州とマキムクだけだ。

だから、神門4号墳。詳しいことはご自分でどうぞ。
あっ、そうそう、九州のヤツの年代と大きさも再確認しといてネ。

>両者が関係ないとは到底思えないな。

何がしかの関係はあるでしょ。矢印の向きは畿内から九州だけど。
245名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 01:21
241 名前: >236 投稿日: 2000/08/08(火) 08:29

だからさあ、学会を代表してるつもりなら
古田説に、まともに反論しなよ。
>241
>その間、邪馬「イチ」国論ひとつ、
>満足に論破できていないじゃないか。

まさか、本気で言っているんじゃないよな?
古田氏以外の本も読もう!
246キチガイ:2000/08/10(木) 03:13
ヤマイチにヤマト・・・・・・証券会社??
247>245:2000/08/10(木) 07:24
昔はずいぶん古代史に熱中したけど
今は古田のを含めて、あまり読んでいないよ。
正直言って、現在の状況にはうといだろうね。

だからせめて、おいらの長年の疑問だった
「邪馬イチ国」論についてだけでも
最近の成果を踏まえた、専門家の反論を伺いたいと
思っているわけよ。

だけど、いろんなところでお願いしてるのに
いっこうに、反論は聞かせてもらえないんだな。

だからさあ、「格が下がる」だの、
      「本気で言ってるんじゃないよな?」だのと
逃げていないで、言葉で、論理で「邪馬イチ国」論を
論破してよ。
素人を、「なるほどな、さすがだね」と思わせてよ。
お願いだから。
248名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 12:38

みんなさー、学会とか考古学的成果とかもいいけどさー
陸行一月でしょ?
ぜぇーーーーーーーーーーーったい!近畿まで行きつかないって

駅すぱーとで見てみたけど、佐賀とか博多辺りの
どこに上陸したとしても、近畿まで600〜700kmもあるんだよ
鉄道路線って、高地は切り開き、山はトンネル、川は橋で
かなり直線的に造られててこれだよ
邪馬台国の時代の道の道程ってもっと長いでしょ
それに山あり谷あり川ありで大変だべさ
ほんで雨が降るとやっぱ休むんじゃないかな?

手ぶらでサクサク歩いても時速4kmぐらいだろ?
ほんで一日5〜6時間歩行が精々じゃないかな?
一月28日休まず歩いても、24km×28日=672kmだ

そもそも、大陸から来た人って人夫とか伝令みたいな
パシリじゃないだろ?一応役人だろ?

道路事情、天候、歩く人のやる気・・・
ぜぇーーーーーーーったいに近畿までは行きつかないな

249>244:2000/08/10(木) 13:11
>>もともと、纏向に5基しかないんだから。
>っていう文脈。キーワードは「少数」。

近畿説らしいうまい言い逃れだね。
まあ、どうでもいいが、オレが知っている限りで、
那珂八幡、原口、妙法寺、神蔵はマキムク式だわな。
前方後方墳を含めれば、宮の前もそうだよな。
近畿説の学者が目を皿にしてはいずり回っている近畿
地方と違って北九州は発掘が少ないにも関わらず、こ
れだけあるわけだ。

これが少数かね。

>九州のヤツの年代と大きさも再確認しといてネ。
言うまでもなく、那珂八幡と原口からは、庄内期だね。
宮ノ前に至っては、西新式土器が出てるね。
君が勉強したらどうかね。

>矢印の向きは畿内から九州だけど。
おもしろいことを言うね。
畿内の弥生文化と古墳文化がどうつながるのか教えてもらおう
じゃないか。
(それからオレは、「邪馬台国」近畿説を全く否定しているわけじゃな
 いよ)
250名無しさん@近畿説:2000/08/10(木) 13:26
>248

北九州→投馬→邪馬台国の道行き法で、水行1ヶ月、陸行1ヶ月。
ちょっとゆっくり過ぎにも思うけど、丹後半島経由でまずまずだと思う。
251名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 16:41
邪馬台国側の滅茶苦茶な接待攻勢で、移動にやたら時間がかかったとか・・・・>距離
252>244:2000/08/10(木) 16:57
関東には、神門4号だけでしょ。
なんでそんなの強調するの。

だいたい、近畿説の人ってすぐ話をそらそうとする。

253名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 17:03
>250
私は邪馬台国への上陸地は京都府宮津市の天ノ橋立、籠神社付近
だと思っています。
254>244:2000/08/10(木) 17:07
近畿説は宗教と言われているようですが、本当ですか。
255>254:2000/08/10(木) 17:51
本当です。いまだに敬虔なクリスチャンが天動説を信じているように、
記紀のホラ話を信じている人達の説です。
256名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 18:23
最近は畿内説のほうが有力になってきたみたいだけど


257>249:2000/08/11(金) 00:03
>那珂八幡、原口、妙法寺、神蔵はマキムク式だわな。

那珂八幡は最近の調査で纏向式ではなく定型化していることがわかってまっせ。
それに、那珂八幡も他のも全部箸墓とほぼ同時期だから、ちゃんと確認しといてや。
あっ、そうか!それが分かっているから、無理して宮の前なんか持ち出さはったんかぁ。

>前方後方墳を含めれば、宮の前もそうだよな。

含めちゃだめよ、纏向式ってのは前方後円形なんだから。
それにしてもこんなものまで持ち出さなきゃならないなんて、苦しそうだねぇ。

>>矢印の向きは畿内から九州だけど。
>おもしろいことを言うね。

だって、畿内の方が古いんだも〜ん。
石塚なんか庄内期のはじめまでいく。90m級ダじょ。
258248:2000/08/11(金) 10:57
だれか〜
ボクの考えについて「アホ厨房め!」って馬鹿にしないで、
シロートにも解るように説明してくれませんか〜?
あと、ボクの時速と時間と距離の計算からすると、
20〜30km毎に宿泊しなければいけません。
まさか野営ではないでしょ?
邪馬台国の国賓を迎えるということは、
そこも邪馬台国の支配化か友好関係にあったってことですよね?
そうするとですよ、近畿の邪馬台国って西日本一帯を支配化に置く
大国家ってことになりませんか?
ここらへんも合わせて教えて頂きたいのですが・・・・・
259>257:2000/08/11(金) 11:30
>それに、那珂八幡も他のも全部箸墓とほぼ同時期だから、ちゃんと確認しといてや。
箸墓は布留期で那珂八幡は庄内期だわな。
同時期とは思えないがね。

>含めちゃだめよ、纏向式ってのは前方後円形なんだから。
宮ノ前は副葬品や葺石から見て、後の古墳文化につながるのはまちがいないわな。
しかし、この時期に近畿にこの手の古墳はないわけだ。

>だって、畿内の方が古いんだも〜ん。
全く答えになってないね。
弥生時代の畿内文化がどう古墳文化とつながるのかと聞いているんだよ。
つまり、銅鏡すらほとんど出てこない弥生時代の畿内文化がどう古墳文化に発展するのか
ということだよ。
それからオレは、この時期に北九州が日本の中心だったといっているんじゃないぜ。
当然畿内中心の政権ができていたんだろうが、北九州文化と畿内文化の対称性があると言
っているだけだ。
そして古墳文化の源流は、弥生時代の九州文化じゃないのということだよ。
260>257:2000/08/11(金) 11:35
>それに、那珂八幡も他のも全部箸墓とほぼ同時期だから、ちゃんと確認しといてや。
箸墓は布留期で那珂八幡は庄内期だわな。
同時期とは思えないがね。
>含めちゃだめよ、纏向式ってのは前方後円形なんだから。
宮ノ前は副葬品や葺石から見て、後の古墳文化につながるのはまちがいないわな。
しかし、この時期に近畿にこの手の古墳はないわけだ。

>だって、畿内の方が古いんだも〜ん。
全く答えになってないね。
弥生時代の畿内文化がどう古墳文化とつながるのかと聞いているんだよ。
つまり、銅鏡すらほとんど出てこない弥生時代の畿内文化がどう古墳文化に発展するのか
ということだよ。
当然畿内中心の政権ができていたんだろうが、北九州文化と畿内文化の対称性があると言
っているだけだ。その上で古墳文化の源流は、弥生時代の九州文化じゃないのということだよ。
261>258:2000/08/11(金) 11:36
あなたのいうとおりだと思いますが、魏志倭人伝は情報量が少なすぎ。
よって倭人伝のみで判断することは不可能です。
262名無しさん@1周年:2000/08/11(金) 12:42
サヨが古事記や日本書紀が信用できないって言い出してから、何十もの
候補地が出てきてしまった。

どう考えても倭人伝の方が信用できないし、情報量がほとんどない。
263>248=258:2000/08/11(金) 13:33
>そうするとですよ、近畿の邪馬台国って西日本一帯を支配化に置く
>大国家ってことになりませんか?

素直に魏志倭人伝をお読みください。
倭国に国々はたくさんあれど、その長は、伊都、狗奴以外は
「官」というお役人であり、断じて王では有りません。
(卑弥呼は倭国の王)

「到伊都國・・・・郡使往來常所駐」(魏志倭人伝)

魏の使節は邪馬台国に行ったか行ってないか議論になるけど、
「常所駐」ていつも立寄る場所くらいの意味なんでしょうか?
私には文字通り、使節は伊都国に常駐していたように思うんですが。
つまり邪馬台国には出かけて行ったりしていないということ。
邪馬台国の様子の描写は伝聞でもできるでしょう。
よって、悪路の心配は要りません。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
常治伊都國、於國中有如

畿内説の場合、率=帥(小学館漢和辞典参照)と考えると、
西日本全体を支配するために、九州(伊都)に太宰帥のような官職を
設置し、諸国に睨みを利かし畏れられていた。また西日本国中には、
中国の地方官である刺史のような官職も配置されていた。ということで
極めて先進的に、西日本を支配下においていたことになると思う。
264名無しさん@1周年:2000/08/11(金) 14:36
議論が空転していると思ってしばらく見ないでいたけど、まだまともな議論が続いていたんですね
やっぱり専門板はすごいや
265248:2000/08/11(金) 15:29

>261
ありがとうございます
やっぱり発掘しかないのでしょうか

>263
ありがとうございます

>倭国に国々は・・・王ではありません。

の部分の意は「王ではなく官というお役人を置いてるのだから
明らかに支配化(邪馬台国領)である」という意味でしょうか?

>魏の使節は邪馬台国に行ったか行ってないか?

そうですよね。ボクは使節が実際に行ったものだとばかり
思い込んでいました。逆に邪馬台国の高官が伊都国まで
出かけて応対してもいいわけですよね。

>畿内説の場合・・西日本を支配化においていたことになると思う。

九州説だと、その配下は九州一円ぐらいのイメージなんですが
畿内説だと、かなりダイナミックな感じになりますね
266263>248:2000/08/11(金) 19:12
>自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
>常治伊都國、於國中有如「刺史」

最後に「刺史」が抜けていました。申し訳ないです。

>王ではなく官というお役人を置いてるのだから
>明らかに支配化(邪馬台国領)であるという意味でしょうか?

「官」がトップと記されている国々が女王国の支配下にある
というのは、制度的にいって当然だと私は思います。
267>263:2000/08/11(金) 19:41
>畿内説の場合、率=帥(小学館漢和辞典参照)と考えると、
>西日本全体を支配するために、九州(伊都)に太宰帥のような官職を
>設置し、諸国に睨みを利かし畏れられていた。また西日本国中には、
>中国の地方官である刺史のような官職も配置されていた。ということで
>極めて先進的に、西日本を支配下においていたことになると思う。

こういう状態の国って大国って言えないんですか?
現在の日本が都道府県や市町村から構成されているのと少しも変わらないような気がしますが..。

それに、西日本を支配下に置いていたならなぜ「大乱」が起きるんでしょうね?
そういうことが起きない状態を、支配下にある状態というのではないですか?

また、西日本が支配下にあるなら、「これからこの国の王は卑弥呼だ!」と
宣言するだけでいいはずですよね。では、なぜ卑弥呼は「共立」されたのでしょうか?
「共立」って、各国が話し合いか何かして決めたということじゃないんですか?

矛盾だらけではないですか?
268>267:2000/08/11(金) 23:22
だから〜、近畿説は宗教なの。
269267>268:2000/08/11(金) 23:24
私もそう思ってるよ(ワラ
270>257の畿内説オヤジ:2000/08/11(金) 23:30
早く反論せい。
271263:2000/08/11(金) 23:33
私の投稿読み返してみると、かなり物知り風ですね。
すぐボロが出ると思うけど、ホントは知識少ないです。
なんで、こんなコトまで知らねーんだとか思ったら、申し訳ない。

>こういう状態の国って大国って言えないんですか?

近畿説に立つと、265さんもおっしゃる様に、
当時の日本は、かなりダイナミックな感じになると思います。
近畿説では、あるいは大国と呼べるくらいなのかもしれない。

4世紀末以降の倭国の朝鮮半島に対する優位を示す資料が
いろいろありますが、この頃からすでにそうだったことを
示している様にも思います。魏志東夷伝で比較すると、
倭は三韓より制度的にかなり進んでいる様に思う。

>現在の日本が都道府県や市町村から構成されているのと
少しも変わらないような気がしますが..。

現在というか、律令時代近いように、私は思いました。
でも、実態は「官」はその国の王だったりするのでしょうか?
とにかく魏志倭人伝に書いてあることを行ったまでなのです。

>そういうことが起きない状態を、支配下にある状態
というのではないですか?

支配下にあるといっても、制度的にきちんとしてても、
反乱も起きれば、激烈な権力闘争も起きると思います。
おっしゃる大乱とは、卑弥呼共立の原因となった倭国大乱
のことでしょうか?倭国大乱の前に卑弥呼の時代のような
制度があったかどうかは解からないです。
其の大乱を経て出来上がったのかも知れません。

>では、なぜ卑弥呼は「共立」されたのでしょうか?

王になりたい人、なれる立場の人がたくさんいて、戦争して実力で
雌雄を決しようとしたが決着がつかず、みんながそれなりに
納得できる人物だった巫女的な「卑弥呼」を共立するということで
合意ができたからでしょう。

>「共立」って、各国が話し合いか何かして
>決めたということじゃないんですか?

其國本亦以男子爲王。住七八十年、
倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。

本文から推測するに、卑弥呼を共立した主語は、
【其國】。倭人伝にでてくる国々の代表者とは限りません。

>矛盾だらけではないですか?

矛盾だらけというか、わからないことも多いですが、
魏志倭人伝に書いてある文章を私なりに解釈しました。
272>260:2000/08/11(金) 23:35
>箸墓は布留期で那珂八幡は庄内期だわな。 同時期とは思えないがね。

だからサ、ちゃんと確認してと言っとるのヨ。
この二つの時期って結構微妙なんヨ。人によって前に行ったり後ろに行ったり
するのだな。考古学的な誤差の範囲に入ってしまふ。

だけど、これらよりは、ホケノ山とか、勝山、石塚なんかははっきり古いのヨ。
だからネ、纏向式が九州で成立して畿内に影響を与えた何てことはありえんノ。

>宮ノ前は副葬品や葺石から見て、後の古墳文化につながるのはまちがいないわな。

纏向の5つの纏向式のうち、葺石があるのはホケノ山だけヨ。
それに、石で墳丘を保護するというのは早くから山陰で発達してる。
後の古墳につながるのは、葺石という点では九州じゃなくて山陰。

ちなみに、その他では、竪穴式石室は吉備・瀬戸内に、前方後円形の墳丘は瀬
戸内に、それぞれ起源が求められる。ちょっと遅れるけど、埴輪の起源は吉備
の特殊器台。これらは九州文化じゃない。こういうものを全部いっしょくたに
して畿内で成立したのが、前方後円墳。また、出土土器の量からすると、東海
がかかわっていることも間違いないと思ふ。

確かに、古墳の副葬品は九州の系譜をひいているように見えるけど、それは、
もっと前から日本中に広がってるからね、直接九州にたどり着くとは言えない。
可能性は否定しないけども。また、農工具や漁具などが副葬されているのは、
九州にはない特徴。古墳には、玉類はないことがあっても、農工具なんかは必
ず入っているそうな。これなんかは畿内文化の血を引いている。

何よりも、宮の前墳丘墓は前方後方形だから、纏向式には絶対につながらない。

>そして古墳文化の源流は、弥生時代の九州文化じゃないのということだよ。

これが言いたいなら、纏向式を出したのは大チョンボ。
273>272:2000/08/12(土) 00:32
>だけど、これらよりは、ホケノ山とか、勝山、石塚なんかははっきり古いのヨ。
おい、説明が矛盾してるぞ。
「この二つの時期って結構微妙」というならはっきり分からないだろ。

>だからネ、纏向式が九州で成立して畿内に影響を与えた何てことはありえんノ。
そんなこといってねえだろ。この当時畿内が日本の中心だってことはオレも言っているぜ。

>確かに、古墳の副葬品は九州の系譜をひいているように見えるけど、それは、
>もっと前から日本中に広がってるからね、
ほお〜、じゃあ
・弥生時代の畿内の墓に銅鏡1つ出ないのは何故かな(一枚出たっけ?)?
・鉄器も北九州とは、桁が違うわな。
・弥生時代の銅鐸がどうして消えてしまうのか?
(まさか「宗教革命」なんて言うなよ。)
・畿内の弥生時代の集落が突然消滅するのは何故かな。

>石で墳丘を保護するというのは早くから山陰で発達してる。
またまた、ごまかす。
山陰だけじゃないだろ。北九州もだよ。

>何よりも、宮の前墳丘墓は前方後方形だから、纏向式には絶対につながらない。
別にマキムク式が北九州で発明されたとは思わんよ。対称性があるといっているだけだよ。
それにあんたの言うとおり、古墳が吉備等の文化と統合してできたのは確かだよ。
しかし、畿内のネイティブな政権が日本を統一したというのは上に書いた疑問からありえんだろ。
考古学上だけでなく、古事記、日本書紀とも全く合わないわな。
274>272:2000/08/12(土) 00:36
>だけど、これらよりは、ホケノ山とか、勝山、石塚なんかははっきり古いのヨ。
おい、説明が矛盾してるぞ。
「この二つの時期って結構微妙」というならはっきり分からないだろ。

>だからネ、纏向式が九州で成立して畿内に影響を与えた何てことはありえんノ。
そんなこといってねえだろ。この当時畿内が日本の中心だってことはオレも言っているぜ。

>確かに、古墳の副葬品は九州の系譜をひいているように見えるけど、それは、
>もっと前から日本中に広がってるからね、
ほお〜、じゃあ
・弥生時代の畿内の墓に銅鏡1つ出ないのは何故かな(一枚出たっけ?)?
・鉄器も北九州とは、桁が違うわな。
・弥生時代の銅鐸がどうして消えてしまうのか?
(まさか「宗教革命」なんて言うなよ。)
・畿内の弥生時代の集落が突然消滅するのは何故かな。

>石で墳丘を保護するというのは早くから山陰で発達してる。
またまた、ごまかす。
山陰だけじゃないだろ。北九州もだよ。

>何よりも、宮の前墳丘墓は前方後方形だから、纏向式には絶対につながらない。
別にマキムク式が北九州で発明されたとは思わんよ。対称性があるといっているだけだよ。
それにあんたの言うとおり、古墳が吉備等の文化と統合してできたのは確かだよ。
しかし、畿内のネイティブな政権が日本を統一したというのは上に書いた疑問からありえんだろ。
考古学上だけでなく、古事記、日本書紀とも全く合わないわな。
275>272:2000/08/12(土) 00:44
>ホケノ山とか、勝山、石塚なんかははっきり古いのヨ。

ホケノ山は、箸墓とほぼ同時期でしょ。
庄内期ではなく布留期ですよね。

何か新発見があったのですか?
276267>263:2000/08/12(土) 01:45
>でも、実態は「官」はその国の王だったりするのでしょうか?

>其國本亦以男子爲王。住七八十年、
>倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。

>本文から推測するに、卑弥呼を共立した主語は、
>【其國】。倭人伝にでてくる国々の代表者とは限りません。

倭は30数国(あるいはそれ以上)から成っているという冒頭の記述を忘れていませんか?
それぞれの国に王(とは言っても酋長程度のものか?)がいるのは当然でしょ。

ご指摘の引用についても、素直に読めば、「その国の前の王は男で、70〜80年生きていたが、
その死後、何年も戦争が続き、各国が協議した上で、卑弥呼という女王を立てた。」と取れ、
何年も戦争が続いた状態だからこそ、後漢書では「倭国大乱」と記しているのだと考えられる。

ところが、畿内説は、卑弥呼の時代より前に大和政権が西日本を支配していないと成り立たない
というのは納得できますね?畿内説では「倭国大乱」はありえません。

実際、これまで、この「倭国大乱」が本当にあったことを証明できる、戦争のあとと見られる
遺物が全く発見されていなかったことから、畿内説派は「大乱」というのは誤りで、これは、
お家騒動のようなもので、戦争というほどのものではなく、「共立」というのも、朝廷内での
閣僚会議みたいなもので決まったことを指しているのだというのが定説でした。

ところが、先日、鳥取県で、まさにこの「倭国大乱」の頃のものと考えられる、戦争で滅ぼされ
てしまったとしか見えない遺跡と多数の遺体が発見され、これが「倭国大乱」が現実のもので
あった証拠になるのではないかと見られています。

もちろん、この遺跡1つだけでは確実性に乏しいので、まだ、それほど騒がれていませんが、
さらに発掘が進み、他の地方でも「倭国大乱」の証拠が出てくれば畿内説は崩壊します。
それは、まだまだ先のことでしょうが。
277名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 13:00
278名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 13:02
>他の地方でも「倭国大乱」の証拠が出てくれば畿内説は崩壊します。

おいおい、高地性集落は、九州説では、「倭国大乱」の証拠だと言われているぜ。
勉強しろよ。
279名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 14:05
真面目な議論が続いていて、面白く読ませていただいています。
邪馬台国畿内説だと、邪馬台国が西日本を支配していると倭国大乱がなかったことになるというのはどういう理屈か分からないので教えてください。
南北朝時代のように、朝廷や室町幕府が存在しても諸国が戦争に明け暮れた時代もあると思うので・・・
とくに邪馬台国は、諸国が「卑弥呼を共立した」ことから伺えるような、諸国の同盟による政権だったのでしょう。
280>274:2000/08/12(土) 14:36
>「この二つの時期って結構微妙」というならはっきり分からないだろ。

「この二つ」っていうのは、箸墓と那珂八幡。
庄内期は、人によって箸墓と同時期を含むことがあるから、要注意。

>そんなこといってねえだろ。この当時畿内が日本の中心だってことはオレも言っているぜ。

で、それは九州の流れを汲んでいるというわけだ。
ってこたぁ、九州から東海までの大連合がこの時期に出来てたってことだ。
これが3世紀前半だから、立派な畿内説でないの?

>しかし、畿内のネイティブな政権が日本を統一したというのは上に書いた疑問からありえんだろ。

わしゃそんなこと言っておらんがのう。
確かに畿内だけでは無理だ。ボスは畿内出身ではないかもしれん。
ボスは、九州かもしれんし、吉備かもしれんし、渡来人かもしれん。
が、3世紀前半以後、大和東南部が倭の中心となったことはおそらく間違いない。
こりゃあ、畿内説でっセ、だんな。

>考古学上だけでなく、古事記、日本書紀とも全く合わないわな。

あわないね。わしゃ、古事記も日本書紀も信じとらん。
281>275:2000/08/12(土) 14:37
もともと、箸墓と同時期の土器が周溝の底から浮いた状態で見つかっている。
で、まえから箸墓より前であることは分かっていた。

そして、昨年から今年にかけて後円部中心の発掘調査がなされ、埋葬施設から
庄内期の半ば(3世紀中頃)の土器が出てきた。
人によっては、もっと古いと見るようだ。
282名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 19:45
> 畿内説は、卑弥呼の時代より前に大和政権が西日本を支配していないと成り立たない
なんで?
283>280:2000/08/13(日) 18:59
>3世紀前半以後、大和東南部が倭の中心となったことはおそらく間違いない。
>こりゃあ、畿内説でっセ、だんな。

オレも別に250年当時に邪馬台国が畿内に「あったかも知れない」ということは
否定しているわけではない。このころはちょうど微妙な時期だからな。
これは、マキムク遺跡の年代次第で決まる事だ。

もっとも関学系の学者が、無理やり土器の編年を早めようとしているのは怪しい。
マスコミに出て自分らが定説のように言っとる(みんなおかしいと言ってる)。

>わしゃ、古事記も日本書紀も信じとらん。

まだ、化石サヨオヤジって生存してたのね。
あんたみたいな化石オヤジがたまにいるが、若い人は陰で馬鹿にしてるぜ。
考古学だけで歴史の謎がとけるわけねえだろ。
284>280:2000/08/13(日) 19:15
>古事記も日本書紀も信じとらん。

畿内説とは、文献資料を無視して成立つ妄想なのですか。
それが学者の態度といえるのですか。

285>284:2000/08/13(日) 19:20
サヨなんて無視しろよ。
どうせ、騎馬民族説とか言い出すぜ。
286名無しさん@1周年 :2000/08/13(日) 19:29
>283、284、285

280は別にサヨじゃないと思うよ。
信じてるなんていったら、畿内説は、やはり宗教って言うんだろうな(笑)。
資料として扱うが、信心はしてない、それでいいんじゃない?
287名無しさん@1周年:2000/08/13(日) 22:09
卑弥呼の即位は170年頃らしいね・・・
288>287:2000/08/14(月) 10:59
証拠は?
289>280:2000/08/14(月) 11:19
初期古墳にお詳しいようなので、お聞きしたいのですが、

・那珂八幡古墳を始め、九州のマキムク式古墳から三角縁神獣鏡が出土しているという
 のは本当ですか。
・これらの築造時期は、庄内期で間違いないのでしょうか。
・庄内期の時期についての学会の定説

を教えて下さい。
290名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/14(月) 12:02
このスレでは八幡平説はトンデモになってるの?
古代の東北地方って温暖で住み易い所だったそうだし
私は八幡平が一番納得できるんだけどな。

新人ミステリ作家の鯨統一郎が
その名もズバリ「邪馬台国はどこですか?」って 本出してるけど
私は結構面白く読めたよ。
専門家の方の意見はどうですか?
291名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 12:46
>290
 今まで何度もそのネタが振られているけれども、相手にされていませんね。
 南朝板では、ヤマタイその他地名の比定がどんなにもっともらしくても、九州説や畿内説の根拠となる資料に対する否定を全然していないから議論するに足りないと・・・
292>283:2000/08/14(月) 16:18
あんたどっかの教授?
それとも橿原研の人?
293名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 11:15
古田氏の博多湾岸説
294>293:2000/08/15(火) 12:30
厨房発見
295畿内説オヤジは逃亡:2000/08/15(火) 18:00
したの?
296名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 21:08
馬口山古墳をなぜ掘らないんだ?
あれは2世紀後半まで遡る上に石塚やホケノ山よりも古いんだぞ。
297>294:2000/08/15(火) 21:21
まともに反論もできないで
逃げてる奴だな。(229から247を参照)
まだ、いたのか?
298>297:2000/08/15(火) 21:23
古田なんて学会では相手にしている奴はいない。

あんなの反論するだけで、品格が下がる。
299>298:2000/08/15(火) 21:56
このやりとりは、すでに229〜247で
しているって。
もっと新しいネタを出してきなさい。
芸のない奴だね。
300>299:2000/08/15(火) 22:04
厨房は早く寝ろよ。
相手するだけ無駄。

それより283は早く出てきて反論せんかい。
301名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 10:57
あげ
302名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 11:57
馬口山! おまえら本当に知らないの?
スーパー写真塾ばっか読んでるんじゃねーぞ
303名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 15:22
あ〜あ、せっかくまともな議論になったのに、
厨房が来てしまった。
304名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 21:29
話は変わるけれど、古墳の副葬品として、いわゆる「三種の神器」の
セットは九州の古墳からしか出ていなくて、近畿の古墳からは出ていない
と言うのは本当?
また、そういう古墳の年代は?


305>304:2000/08/16(水) 22:15
出てないです。
306名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 23:00
ねえねえねえきみたち馬口山古墳のこと本当に知らないんじゃ無いの?
307厨房:2000/08/16(水) 23:05
>306
ホントに知らんので、説明して見てちょ。
308>306:2000/08/16(水) 23:09
うぜーぞ、てめえ。
それがどうした。
309名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 01:08
古代にも各地に栄えた集落は数多くあっただろうし
西日本のはそういうやつなんじゃないかなー。
○○が出たから(鏡?)ここはヤマタイ!って言ってるのはなんか無理ない?
310>306:2000/08/17(木) 02:08
坊や、お前さんがもっとキチントした説明しないとここではダメなんだ。
論議の場に立ってないってことだな。307氏が言うようにちゃんと説明して
からひとつの意見として認められるんだろうな。
とりあえず、まず坊やの意見の論理的説明からしてくれよ。
311名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 09:15
うんうん。
312名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 17:43

306は馬口山古墳で村興しを企画している
役場の職員さんです!!

313>312:2000/08/17(木) 19:14
それにしたって、もうちょっと説明してくれんとなあ…
314畿内説オヤジは、:2000/08/18(金) 00:52
しっぽをまいて逃げましたね。
315卑弥呼:2000/08/18(金) 01:44
だ・か・ら。
邪馬台国は八幡平にあるんだってばさ〜。
316名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 09:18
おっ?!
315も八幡平役場の職員さん?
317>皆様:2000/08/19(土) 15:31
畿内説は宗教ってことでいいですか?
318卑弥呼:2000/08/19(土) 16:13
畿内説も九州説も宗教っていうことでいいわ。
だって、本当は八幡平にあるんだもの。
319名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 17:15
どうして「畿内説は宗教」って何度も繰り返すの?
なんだか逆に追い込まれてるんだなって思えちゃう。
320名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 17:57
>卑弥呼さん
まじめに突っ込むけどさ、八幡平じゃ魏志倭人伝に記載されている行程とまるっきり合わないんだけど。
例の水行十日、陸行一月ってところだけど。鯨統一郎の説を取って、基準が伊都国(福岡県糸島郡)だとし、
水行十日、陸行一月も並列記載ではなく、直列記載だと解釈しよう。ここからその当時の交通網で
どこまで行けたか。少し時代が下るけれど、駅伝制が整えられた奈良時代の資料に租庸調の輸送記録が残っている。
それによると、大宰府から難波の津まで船で14日間。難波の津から奈良まで陸行1日。奈良から一月
(28日として計算する)なら茨城県ぐらいまでしか行かない。
もちろん馬に乗るなど条件によっては1ヶ月で岩手まで到達するのは可能だが、倭人伝の記述を見ると、
徒歩を前提にしていることは間違いなさそうだ。さらに、奈良時代より道の整備が進んでいない
「草木茂盛、行不見前人」と記された当時の道では、「水行十日、陸行一月」で九州北部から岩手に着くのは
不可能だと思われる。
321名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 18:27
>320
前にも出てたけど、畿内までも無理っぽいよ
もし朝から雨が降れば休みだろうし・・・
川ひとつ渡るにしても、直前に雨で増水なんてしてたら
水が引くのを待たなければならないだろうし・・・
最短コースに非友好国があったなら、
遠回りして友好国のルートを通らなけばならないだろうし・・・
「上陸地が九州北部じゃない」とか
「実際は行ってなくて伝聞で行程を書いた」
となれば話は別だけど・・・
322320:2000/08/19(土) 18:55
>321さん
ただ、私が参考にしている資料では、大宰府から奈良まで陸行なら27日とされている。
もっともあなたが言うような条件が重なればこの限りではない。
私は「水行十日、陸行一月」の基点を帯方郡に求め、水行十日で伊都国(福岡県糸島郡)
あるいは那国(福岡市博多区)に到達し、陸行一月で近畿まで到達すると読んで、
行程的には近畿説で矛盾は無いと考えております。
あなたはどのようにお考えですか。
323卑弥呼:2000/08/20(日) 18:58
掘ってみれば分かるわ。
八幡平にあることが・・・。
324名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/20(日) 19:31
「卑弥呼」じゃないけど私も八幡平支持なので。

上であげてた小説読んでみて。
本屋さんでも立ち読みで読めるくらいだし、文庫にもなってる。
私は細かい説明が巧くないからそのほうが良さそう。
私はこれで長年「どっちやねん!」と思ってたのが
「あ、なるほどー」に替わったんだけど…な。
325名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 22:34
>320=322さん
321さんではないけど、248=258さんを読んでみました?
一見乱暴なようですが、速度、時間、距離の感覚は
結構いけてるような気がします
太宰府→奈良の27日ってのも駅伝制が整ってるとはいえ
かなりの強行軍では?

326???:2000/08/21(月) 00:26
>323

「掘ってみれば分かる」って?
掘ってみて何が出れば分かるの〜?
教えて、教えて。
掘ってみなけりゃ分からないって返事はなしよ。
327名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/21(月) 01:08
誰に何を言われても俺は義経が好き。
328名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/21(月) 02:07
魏の側の事情からすると、
当時魏は、遼東の公孫淵(中原からの避難民により馬鹿にならない勢力
・呉と同盟中)に対する作戦行動を取ろうとしていて
遼東に周辺諸国(朝鮮諸国/倭諸国)が支援を行うことを阻止する必要
がありました。

従って、魏が交渉を持ったのは、北九州の独立勢力と考えるのが妥当で
は、ないでしょうか?(かならずしも邪馬台国は、後のニホンにつながら
なくても良い)

#すでに、大和政権が北九州や出雲を含む西日本全域をある程度勢力下
#に収めていて北九州に出先機関(の原型)が既に有ったとするなら別
#の話ですが・・・
329名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 03:16
>#すでに、大和政権が北九州や出雲を含む西日本全域をある程度勢力下
>#に収めていて北九州に出先機関(の原型)が既に有ったとするなら別
>#の話ですが・・・

考古学的にはどうなんでしょうか?
この時期に西日本に連合(又は統一)政権が存在した証拠とな
るような出土物は発掘されているんでしょうか?
330名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 03:52
このスレレベルが低下したような・・・
ヤマタイは魏書によれば結構支配地域が広い
九州を中心に畿内までを治めていたというより
畿内を中心に九州まで治めていたという方が
より妥当っぽい
非支配地域も相当広い
これらが九州以東なのか、畿内以東なのかは
よく分からないけど・・・
331320=322:2000/08/21(月) 20:35
>325さん
租庸調の荷物を持っての行程ですし、目安なので、ある程度余裕はあったと思われます。
248=258さんの意見も読みましたが、この方は魏の使節が実際に邪馬台国に到着した
という前提で書かれていますね。私は倭人伝に書かれた日数・里数の内、伊都国より向こうについては
伊都国の人間からの伝聞であると考えています。つまり倭人が普通に行き来していた日数が
書かれていると推定しています。
>324さん
もちろん、読んでます。おもしろかった。残念ながら「なるほどー」とは思わなかっただけです。
彼が邪馬台国を八幡平に比定する論拠は単純に要約すると
1.倭人伝に記載されている行程の解釈によっては、八幡平にたどり着く。
2.ヤマタイと八幡平の類似
しかありません。私はこのうち1を攻撃したまで。
国名をいろいろとこじつけて、最後は「掘ってみれば判る」では静香嬢ならずとも
文句のつけたくなるところです。
332名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 23:11
駅スパートで見てみると
博多から奈良まで約680km
27日なら1日約25kmですね
荷物を持ってとなると、ちょっとハードな旅ですが
頑張ればなんとか行けそうですね
邪馬台国時代の普通の倭国人の場合
道路事情等の条件が悪いでしょうから
やっぱり、ぎりぎりというとこでしょうか

330さんの言われるように、当時すでに邪馬台国が
畿内を中心に九州まで支配していたとすると
我々が教科書で習った大和朝廷の成立による
国内統一は、邪馬台国時代まで
ずーっと時代が下がることになりますね
333>330&332:2000/08/22(火) 02:08
魏志倭人伝をよく読もうね。

魏志に曰く、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
これは、「倭は島国で、一周5000里余りである。」という意味。

ところで、200kmしかない対馬海峡を渡るのに3000余里かかるのは覚えてるかな?
つまり、倭の一周は400kmもないということ。
九州一周でさえ1000km近くある。

結局、倭の領域は北九州だけだということだね。
334通行人:2000/08/22(火) 06:12
>倭の領域

ちょっと気になったので333さんに質問します。
なぜか省略されていましたので前文から以下に抜粋します。

「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。又有侏儒國在其南。
人長三四尺。去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

ここで言う「周旋可五千餘里」は、女王の國から四千餘里離れた「侏儒國」や、
その東南にある「裸國、黒齒國」のことを述べてると取れますが、いかがでしょう?
その方が全文の流れからしてごく自然な感じがするのですが。
335>333:2000/08/22(火) 07:17
まるで共同通信状態(爆)
336330=322=331:2000/08/22(火) 08:41
恥ずかしながら訂正。
「邪馬台国はどこですか」気になって読み返したら、著者は投馬国を富山に比定し、
そこから水行十日、陸行一月で邪馬台国=八幡平に着くと論じていました。
ただ、上陸地点(陸行の基点)を明示していません。
不弥国(北九州)から富山まで水行二十日で到着するのであれば、富山から水行十日
では秋田北部か青森ぐらいまでたどり着くはず。そこから八幡平まで一月かかるとは
思えない。というわけで、やはり行程的に見て?の付く説かと思います。
>333さん
倭人伝には帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓国(釜山近辺)まで7000里とありますよね。
実際は直線距離で300kmあまりしかなく、海岸伝いに船で向かったとしても500〜600km
ぐらいなのに。彼らは船で向かった場合、里数を大きく見る傾向があったみたいですね。
実際は200kmも無い対馬海峡を、この時代の1里(430m)に当てはめると、1290kmと
取っていたわけですから。後世朝鮮通信使が釜山から堺までを約2000km(実際は1000km程度)
と考えていたことも、船による里数推定が実際よりも大きくなることが裏付けられます。つまり
「周旋可五千餘里」は2000km以上と解釈できます。
だいたい邪馬台国の周囲が400km足らずであれば「其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」
との記述はおかしいと思いませんか。さらに卑弥呼は「親魏倭王」の金印をもらっています。
当時これと同じ格の柵封を受けた国はガンジス川一帯を支配したクシャーナ朝の「親魏大月氏王」です。
もしあなたが言うほど邪馬台国が小国であれば、その支配者にこれほどの位を授けるでしょうか。
337名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 14:01
対馬海峡や玄界灘は別として、船での旅は出来るだけ陸伝いに遭難時に泳いで
陸に帰れる距離で航行するから長めの表記になっても当然。
陸路も直線距離ではないだろうが。
魏は中国内が乱れても東方に礼節を重んじる立派な国ありと言う言い伝えに
邪馬壱国を当て嵌めて興味を抱き調査をする為にやってきたのだ。
距離日程についても記録係りをつけてかなり正確に計ったに違いない。
まだ遼東半島で戦いをしている最中に貢ぎ物をもってやってきた邪馬壱国を
異常ともいえる歓待をしたのは余程嬉しかったのだろう。
国の大小なんか関係なかったと思うよ。
33836:2000/08/22(火) 17:25
>337さん
これは私への反論ですよね。もう少し的を得た反論をお願いします。
>対馬海峡や玄界灘は別として、船での旅は出来るだけ陸伝いに遭難時に泳いで
>陸に帰れる距離で航行するから長めの表記になっても当然。

>距離日程についても記録係りをつけてかなり正確に計ったに違いない。
は矛盾していませんか。矛盾していないのであれば里数計算に「短里」を持ち出さなければ
ならなくなりますね。「短里」は仮定の話なので論拠が弱くなります。少なくとも
こちらが納得できる論拠をご提示ください。
>まだ遼東半島で戦いをしている最中に貢ぎ物をもってやってきた邪馬壱国を
>異常ともいえる歓待をしたのは余程嬉しかったのだろう。
>国の大小なんか関係なかったと思うよ。
こちらはクシャーナ朝という実例を挙げましたが、337さんは小国でも高い位や
厚遇を受けた例を他に挙げることが出来ますか。

それにしても「邪馬壱国」が小国であれば、334さんの示した読み方、私が示した
「其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」の記述、あるいは投馬国まで
水行二十日、「邪馬壱国」まで水行十日、陸行一月という記述、いずれにも矛盾が
生じてきます。このあたりの整合性はどのように取りますか。
339:2000/08/22(火) 17:26
338=336です。失礼。
340333>330:2000/08/22(火) 20:08
もともと、私は330さんの
>ヤマタイは魏書によれば結構支配地域が広い
>九州を中心に畿内までを治めていたというより
>畿内を中心に九州まで治めていたという方が
>より妥当っぽい
>非支配地域も相当広い

という記述に対して、倭人伝を素直に読めば倭が大国なんて思えないじゃんと、
反論しているわけですが、それはあくまでも上陸地点を唐津あたりと考えた
場合なので、上陸地点が異なるなら、確かにそう思えるのかもしれません。

しかし、よく考えてみましょうね。

中国人にとって、漢字は「1文字1音節1義(意味)」が基本です。
もし、地上と海上とで「里」の長さが違うなら字を変えるでしょう。
海上の「里」には、さんずいでもつければいいのです。

そして、上陸地を唐津あたりだと仮定した場合ですが、200kmしかない対馬
海峡が3000余里なので、1里は約70mと計算できます。これが短里説ですが、
これだと、海沿いに航海して来て7000里だとされている帯方郡から狗邪韓国
までは約500km。そして、実際に釜山から海沿いに500kmほど行くとちょうど
ソウルあたりに着きます。実は、帯方郡もどこなのかはっきりしていないの
ですが、330さんはソウルあたりだと書いていますね。意外と、330さんは、
短里説を支持しているのではないですか?(笑)
341333>334:2000/08/22(火) 20:09
ところで、倭人伝には、帯方郡から邪馬台国までは12000里であると明記されて
います。しかし、帯方郡から狗邪韓国までが7000里、狗邪韓国から対馬までが
1000里ですから対馬から邪馬台国までは4000里。もし、壱岐・対馬が倭の領域に
含まれているなら、邪馬台国から対馬まで、残り1000里で帰り着けなければ、
1周5000里の記述に合いません。まず、無理ですね。

また、「女王国」=「倭」だという考えが一般的ですが、「自女王國以北..
此女王境界所盡。」の記述の中に書かれた国々が、女王が支配している領域で
あり、侏儒國や有裸國などはその領域外ですから、倭には含まれていないと考え
るのが自然ではないですか?だいたい、侏儒國は女王国から4000里です。1周
5000里の記述には合いません。船で1年かかる有裸國や黒齒國などは論外です。

以上のことから、倭が1周5000里だというのは、離島を無視して、本土の1周が
5000里=約400kmだと考えるのが妥当でしょう。唐津あたりを起点にして九州の
周囲400kmを考えると、長崎、佐賀、福岡の3県に熊本県の北部と大分県の大部分
といった範囲になると考えられます。

これは、熊本県が倭の敵対する、狗奴國。宮崎県や鹿児島県が倭の友好国である、
投馬國だと考えるとぴったりきますし、大分から東に1000里=約70km海を渡った
所にある四国のうち、瀬戸内海に面している愛媛県は、瀬戸内を支配していて、
倭と敵対している、出雲か吉備の領地なので詳しいことがわからないが、その南、
高知県にある侏儒國は、倭の友好国であり、大分から高知までは、足摺岬経由で
約600km=約4000里。さらには黒潮に乗って太平洋を横断したところにあるのが、
有裸國や黒齒だと考えるときれいにあてはまります。そして、倭の友好国が倭の
属国だと認識されたなら、魏が倭に一目置くのは当然ですね。
342名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 21:38
うむむむ・・・・・
周囲400kmということは
2πr=400km ∴ r≒60〜70km
支配面積は結構狭いような・・・

距離日程を正確に記録したとすれば
一里が現在の何kmに相当しようが
人間が一月で歩ける距離に邪馬台国があるハズ!
上陸地点はやっぱり唐津とか博多あたりが妥当では?
遣唐使(何通りかありましたっけ?)
元寇、秀吉、みんな同じようなルートですね
やっぱり水行はなるべく手堅く安全に行きたいのが
人間の心理ですよ
343333:2000/08/22(火) 22:25
あ、ミスタイプしてました。大分(佐伯あたり)−足摺岬−高知は約600km
ではなく、約300kmです。だから、300km=約4000里です。すみません。
344334の通行人:2000/08/22(火) 23:40
>341
私の意が伝わらなかったか・・・
でも333さんの考えがわかったのでこれでいいです。
では、さよなら。
345名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 00:10
330だけど
336で330=322=331と書いているのは
320とかの間違いだろう

魏書からの引用が多いけど晋書の記述から何か
重要なヒントは得られないのかね?
346名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 05:29
三角縁神獣鏡は年号を間違ってる。
高校の教科書などでは、その間違った年号に合わせて、文献の年号の方をを間違いだとしている。
やっぱり景初二年は景初二年でしょう。
邪馬台国とはもともと邪馬壱国と書かれていたのに、
新井白石が大和に合わせるために邪馬台国の間違いだとした。
いずれも近畿説に近づけるための辻褄合わせでしかない。
やっぱり近畿説の人というか、多くの関西人は関西が古代の中心地でなければプライドが
許さないのだろう。真に見苦しいことだ。
347名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 05:37
↑新井白石でなく姚思廉のまちがいです。
348名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 07:11
「12000里というのは、現実の距離ではない」という説もあります。
この時代の中国史書においては、例えば、
距離の異なる西域の諸国の長安までの距離が、
すべて「12000里」となっているそうです。

つまり、日本の「八百万(やおよろず)」同様、
12000里というのは、「とても遠い」という意味の
代名詞なんだそうです。
349336=331=322=320:2000/08/23(水) 07:47
330さんごめんなさい。タイプミスでした。
333で「魏志倭人伝をよく読もうね。」という煽り文句があったので魏書に基づいて
反論を行っています。
「短里」説は確かに魅力的で、邪馬台国を北九州に比定する論者にとっては里数計算が
すんなり合うと思います。しかし里数だけ合ってもほかの記述と合わないところが
出てくるのは納得がいかないので、短里をそのまま信じ込んで良いのかどうか疑問に
感じているところです。「短里」自身についても明確な記述が無く、状況証拠に頼っている
証明方法ですし。

>341さん
334の通行人さんは「さよなら」しちゃったけど、私は納得できていないことがあるので、
もう少し教えてください。341さんは「倭」の領域が周旋5000里であることを前提に、
侏儒國、有裸國、黒齒國を「倭種」から外していますね。しかし、その説にのっとって文章を
誤解無く記述するなら「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の文章は
侏儒國云々の記述の前に持ってくるのが普通ではないでしょうか。わざわざその後に記述しているのは、
そこまで倭の範囲だと示すためではないでしょうか。
350名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 08:13
>346
臺(台)は魏の朝廷を意味する文字なので、辺境の国にそのような字を当てるわけにはいかず、
よく似た字形の「壹」の字を当てたとする説があります。
魏志倭人伝にもラストの方に「因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。 」
つまり朝廷に詣でて奴隷やその他の品々を献上したとの記述があります。
また、「隋書」東夷傳倭国条には「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」との記述があり、
魏志倭人伝の「邪馬臺」はその当時の大和政権と同じものであるとの説明がなされています。
ここでは壹が臺に直されています。
351名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 09:30
>350
「よく似た字形」の字を当てるのはナンセンス。
「ヤマダイ」に近い音を、「ヤマイ」に近い音に変える
必然性はない。
当てるなら、よく似た音の字でしょう。

>346
「邪馬台国の間違いだとした」新井白石は江戸の人だよ。

352名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 09:31
>350
>臺(台)は魏の朝廷を意味する文字なので、辺境の国にそのような字を当てるわけにはいかず、
>よく似た字形の「壹」の字を当てたとする説があります。
「たい」とか「と」とか発音する文字は他にいくらでもあった筈。
わざわざ違う発音の文字をはめる事は考えられない。
邪馬臺は「後漢書」に初めて記載されたもので、「隋書」は「後漢書」に基ずいて書かれたのであろう。
「後漢書」は「魏志倭人」を参考にして書かれたが著者が写し違えたのだ。
「臺」の意味が魏以外では通用しなかった為だろうね。
三国志や後漢書は大和朝廷にも伝わっていて、遣随使などが「我々は後漢書に書いてある邪馬臺国の
後裔である。」などと伝えた可能性もある。
353名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/23(水) 17:35
>「臺」の意味が魏以外では通用しなかった為だろうね。
臺という漢字自体に「朝廷」とか言う意味があるよ。
六朝時代には宮中のことを臺所(ダイショ)といったらしいし。
だから魏以外で通用しなかった、っていう説はちょっと無理では?
354350:2000/08/23(水) 20:58
>351さん、352さん
レスどうもありがとう。納得。この問題に詳しい人のHPもこの後発見できました。
ただ2点疑問があります。
ひとつは、壹の読み方です。とうぜん「邪馬壹国」と続けた場合の。「やまいち」?
「やまい」?残念ながら私の漢和辞典には載っていなかった!
そしてこの読み方で比定しうる古代の地名はどこになるのでしょうか。
もうひとつはなぜこの「壹」という漢字を選んだのか。他の似た発音の漢字で表記しなかったのは
なぜでしょうか。それとも漢字に何か意味があり、それが倭人にぴったりだったのでしょうか。
355333=341>329=349:2000/08/23(水) 21:13
まず、私も320さんと330さんを混同していました。すみません。

さて、「參問倭地、」ですが、これは、「実際に倭を調べてみると..」といった
意味です。つまりこの文は、「倭人はこう言っているが、私の調べではこうだ。」
という文の流れになっているわけで、要約すると「倭の属国は船で1年もかかる
ような広範囲に拡がっているそうだが、それは確認できない。はっきりしている
のは、倭は島国で、その本土は一周5000里である。」という意味だと取れます。
結局、立ち会った役人も、有裸國や黒齒國の話は半信半疑で、倭人がホラをふい
ているだけかもしれないと注釈を入れているのでしょう。

しかし、「調べた」と言っても、邪馬壹國から先は国名をあげているだけです。
到底、ちゃんと自分で行って確かめているとは思えません。「遠い」と思って
行く気がしなかったのでしょう。そのため「自女王國以北、其戸數道里可得略載、
其餘旁國遠絶、不可得詳。」の記述についても別に不自然だとは思いません。

ただ、「水行10日、陸行1月」については、やはり歩みが遅かったのだろうと
しか言えません。実は、248さんの説には、結構、共感するものがあります(笑)
356名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 21:34
>350
「壱」(この字しか出ないので了解を)の意味について
これは「二心のない」と言う意味だそうです。
つまり、倭のような辺境の国が、魏王を天子と認めて
朝貢してきた。
まことに倭国というのは、魏に忠実な国である。
ということを内外に示すための文字です。

読み(国名の発音)については
ヤマイ あるいは
ヤマヰ
でしょう。
357名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/23(水) 21:39
>354
常用漢字の壱で載ってるんじゃないでしょうか。
部首は士です。
漢語林(改訂版)なら、226ページ(笑)
358>356:2000/08/23(水) 21:50
古田信者は消えな。
359>358:2000/08/23(水) 22:15
せっかく真面目に議論しているのに
「信者」の一言で済ませるのは止めようよ
360351=356:2000/08/23(水) 22:36
>353
 魏・晋朝までは、「ダイ」に天子の宮殿という意味があったのだが
それ以降、「後漢書」が作成された時代には、そういう意味は
なくなっていた。
 だから同書では、国境の軍事施設がある地域にも、「○○ダイ」
という地名が出ています。
 よって、後漢書に「ヤマダイ国」という国名がででいるのは、
(それが原史料を正しく写しているかどうかは別にして)
そういう意味で、不思議でもなんでもないんです。
361>360:2000/08/24(木) 00:03
三国志の魏書にもね。
362名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 00:08
現存の倭人伝の解釈はもう限界でしょ。
意外と、中国側の史料を
しらみつぶしに調べまくるのが早道かもよ。
大学の書庫とかに、まだ未整理のままの
史料とかあるかもしれないでしょ。
直接の記述が無くても、漢字の用法とか距離の表わし方とか
何かしらヒントが得られるんじゃないでしょうか。

私の友人(史学科考古学コース専攻)によると
発掘による証明は、まず不可能であろうとのこと。
吉野ヶ里でもかなりの規模なのに、あれ以上の規模の
集落跡が見つかることは奇跡ですって。
卑弥呼の墓に至っては、女性の遺骨があって、
そこに”卑弥呼”を連想させる文字でもないと証明できない
・・・・・・らしいですけど・・・・・・・・・
詳しい方、どうでしょうか?
363名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/24(木) 04:37
吉野ヶ里はただの田舎集落
364350=354:2000/08/24(木) 08:05
>356さん、357さん
ありがとうございました。壹=壱でよかったんですね。さっそく調べてみました。
残念ながら「二心のない」と言う意味は載っていませんでしたが、「誠」や「熟」と
同義であると載っていました。
漢音での発音は邪=ヤ、馬=バ、壹=イッとあったので、邪馬壹=ヤバイッと読むのでしょうか。
(まるでいたずらが見つかった子供みたい)

それから359さんに賛同するけれど、特定の説を「信者」や「宗教」呼ばわりするのは
議論する態度ではないので不快ですね。すくなくとも論拠を示して間違っている点を
はっきり指摘するべき。どうせ数百年もかかってまだ結論が出ていない議論なんだから、
この場から倭人伝の解釈で新たな発見が出るわけではないと思います。お互いが「自分が正しい」
と思いながら議論をしているわけで。邪馬台国論争はそこがおもしろいんだと思います。
365名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 09:38
>361
>三国志の魏書にもね。

 今までの議論をよく読んでもらえないだろうか。
 「三国志」の時代には、まだ「ダイ」には
天子の宮殿という意味があった。
 だから、「三国志」で東夷の国の名前に
「ダイ」の字を使うことは考えられないんだ。
366名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 09:50
日本にあります。
367>364:2000/08/24(木) 11:03
>どうせ数百年もかかってまだ結論が出ていない議論なんだから、

なことは、ねえよ。
つまらん学者の意地のはりあいがなきゃ、決着する問題だ。
具体的には、マキムク遺跡の年代が分かれば決着する話。

もっとも古田みたいな詐欺師を担ぐオヤジは、学会では誰も
相手にしていない。
368名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 13:27
>367さん
えっ、そうなんですか。
纏向遺跡の年代は3世紀前半から4世紀初頭にかけてとされていますよね。
この時代最大の遺跡でもありますし、祭祀が大規模に行われていた痕跡からも、
邪馬台国の最有力候補であることは私も承知しています。
しかし、これがどのようにはっきりすれば決着に結びつくのですか?
たとえば卑弥呼の時代(3世紀半ば)に最盛期であったという証拠が出てきたとしたら
はっきりするのですか。(文字資料の出土は条件に含めないとして。)
367さんに決着が見えているのであれば、素人の私にも説明していただけませんか。
369名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 14:16
倭人伝なんか無視して新しい歴史観を作りましょう。
プレ大和王権→初期ヤマト王権
370名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 15:11
古田を学会が極力無視しようとするのは古田が学会に属していない
考古学では素人だからだ。
素人に自分たちの間違いを指摘されて赤っ恥かかされたから。

古田はそれまでの学説をことごとく論破してしまったから、学会に
味方がいない。
371>370:2000/08/24(木) 17:55
「論破」だってよ。ププ・・
372>370:2000/08/24(木) 19:31
アカデミズム外の人材だから古田が相手にされないわけではない。

例えば、安本はアカデミズム外の人材だが、学会でも評価されている。
いっていることがドキュソで、詐欺師を担ぐから相手にされないだけ。
373名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 21:16
ププ・・
安本はアカデミズムの飼い犬だから重宝されているだけ。
安本がアカデミズムに噛み付いているように見えるのは、
アカデミズムの痛くないところにじゃれているだけなのさ。

って、こんなことを言い合って楽しいか?

人格攻撃しかできない奴は放置しておこうよ。
374>370:2000/08/24(木) 21:25
「素人」の思いこみは恐いね。
375>368:2000/08/24(木) 21:35
まあ、そうだろう。

しかし畿内説オヤジどもは、庄内期を無理矢理下げて、3世紀中頃にしている。
しかし、北九州で庄内期のマキムク式古墳から三角縁神獣鏡が出土している。

三角縁神獣鏡は、どうみても4世紀のものだ。
よって、マキムク式が三世紀まで下がることはありえないわな。

よって九州で決まり。
376>373:2000/08/24(木) 21:41
>安本はアカデミズムの飼い犬だから重宝されているだけ。

アカデミズムの自民党は、ヨヨサヨと畿内説化石考古学オヤジなの。
彼らの意見と真っ向から違うこと言っている安本が重宝されるわけねえだろ。
彼に近いのは森くらいだよ。
377あ〜あ:2000/08/24(木) 21:50
せっかくレベルが上がっていたのに、
古田信者が乱入してしまった。
378>365:2000/08/24(木) 23:35
> 今までの議論をよく読んでもらえないだろうか。
> 「三国志」の時代には、まだ「ダイ」には
>天子の宮殿という意味があった。

一応読んでるつもりですが。

宮殿とは言わず、中央政府という意味なら漢和辞典にものってる事なんで、単
に“意味がある”だけだと問題にはならない。だから、ちょっとニュアンスが
違うと思うんで、勝手に変えますが、

「三国志」の時代には、「ダイ」には 天子の宮殿という意味“だけ”があった。
(だからこそ“臺”は神聖な文字であり、ゆえに、夷蛮の国に“臺”を使っちゃ
いけないっていう論旨ですよね。)

どこかで誰かが、これが正しいことを立証してましたっけ?
はじめに結論ありきで進んでるように見えるんですが。

全部とはいわないまでも、古田のA類8例ぐらい全部宮殿かどうか吟味してもら
えないだろうか?
379368 :2000/08/25(金) 08:20
>375さん
>三角縁神獣鏡は、どうみても4世紀のものだ。
これは初めて聞く説です。根拠をお願いします。従来は銘文から青始・景初(3世紀半ば)
鋳造とされてきたものですよね。銘文が後世作られたものだとしても、「4世紀」に作られたとする
証拠が必要だと思います。また、景初4年の銘は後世作られたとしたら、おかしくはありませんか。
それに
>三角縁神獣鏡は、どうみても4世紀のものだ。
>よって、マキムク式が三世紀まで下がることはありえないわな。

>よって九州で決まり。
の繋がりがよくわかりません。この論法では「纏向遺跡は4世紀の遺跡であるため邪馬台国ではない」
は証明できますが、「九州で決まり」とする論拠が示されていません。
380名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 09:07
景初と言う年号は2年迄しかなかった。
三角縁神獣鏡には景初3年とか景初4年と言うある筈の内銘がある事自体が
日本で作られた贋作である事を示している。
4百枚も出て来た事も変だと思うのが普通。

邪馬台国論争で三角縁神獣鏡なんか持ち出す奴はキテイガイ。
381名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 09:37
>378
>全部とはいわないまでも、古田のA類8例ぐらい全部宮殿かどうか
 吟味してもらえないだろうか。

吟味しているんだけれど、反証できないところに、
つまり古田の誤りを指摘できないところに、学会の苦悩
(自業自得だけどね)があるんじゃないですか。

>373
アカデミズムは、京大系機内説だけじゃないですよ。
東大系九州説も、立派なアカデミズムです。

前から思っていたんだけど、なぜ東大系は「邪馬台国」に
固執しているんだろう。
九州説なんだから、ヤマトに当てはめる必要はないでしょう。
機内説に引っ張られるなよ。
382>379 :2000/08/25(金) 11:36
>これは初めて聞く説です。根拠をお願いします。

380の言うとおり。
それから、この鏡は華南のおそらく一つの鉱山の銅を使っている。
当時、華南を支配していない魏で作れるわけがない。
だいたい日本が華南の銅が手に入るようになったのは、魏の
後継の晋が華南に逃亡してからだよ。
よって、あれは320年以降のもの。

>東大系九州説も、立派なアカデミズムです。
>前から思っていたんだけど、なぜ東大系は「邪馬台国」に
>固執しているんだろう。

ヨヨサヨも自民党。
ヨヨサヨは、古事記等は信用できないから、無理矢理あの短い倭人伝の
訓古学に頼ろうとする。
よって、邪馬台国の話ばっかになる。
383379 :2000/08/25(金) 14:20
>380さん、382さん、どちらにレスして良いかわからないので、失礼ながらいっしょにします。
レスありがとうございます。お二方の説を総合すると
「三角縁神獣鏡は日本で4世紀中ごろに製作された」
理由1:現実には存在しない年号が使われている。
理由2:4百枚以上出土しているため、倭人伝に出てくる百枚の鏡ではない。
理由3:三角縁神獣鏡の銘文に「同出徐州」とあり、当時呉に所属していた徐州から産出した銅が
魏の国を経由して日本に入ってくるはずが無い。もし入ってくるとすれば、晋が南遷した
320年(東晋成立は317年ですよね?)以降である。
従って「三角縁神獣鏡が出土する場所は邪馬台国ではない」との結論ですね。

論理はおかしくないと思います。ただ少し疑問が残る点があるので、これがクリアされれば
受け入れます。
1.後世作られたものだとすれば、存在しない年号(景初4年【景初3年は存在する】)の年号があるのは
かえっておかしい。直後であればタイムラグや混乱といった理由がつけられる。
2.なぜ嘘をつかなければならなかったのか。それがなぜ景初あるいは正始の年号であったのか。
3.画文帯神獣鏡や方格規矩鏡など三角縁以外の鏡は日本製なのか?どれが魏鏡で、卑弥呼が賜った
鏡と考えればよいか。
4.魏以外のルートから銅が輸入された可能性は無いのか?
呉から直接手に入れる。呉と同盟していた公孫氏から手に入れる。など。
魏と呉が交易していた可能性も否定できない。(時には同盟したこともあったし)
そもそも鏡自体が後世の偽作であるなら「同出徐州」の銘文も信用できないのではないか。
よろしくお願いします。
384名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 16:46
魏に明帝は239年(景初3年)の1月に死亡したんじゃなかったっけ?
1月が西暦か陰暦か知らないけど西暦だとすれば景初3年は存在しない。
陰暦でも景初3年が一月足らずではなかったに等しい。
中国から一つも出土していないのも変。
卑弥呼に送る為に特注で作った物なら全部が同じ銘である筈だ。
四世紀?大和朝廷がほぼ覇権を確立したころには日本でも倭人伝の存在
が伝わっており、大和朝廷が邪馬台国の後裔である事を主張する為に
卑弥呼の鏡として贋作した。と推測。
当時の日本人のギャグだったかも。(ワラ)

日本での出土状況を見ると貴重なものとして扱われていなかった事
が判るよね。
頭には漢鏡で足元とか周辺には三角縁神獣鏡を置くなど。
当時の朝廷が卑弥呼の鏡と認識していたらこんな扱いしないだろう。

三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ならば大和朝廷は邪馬台国の後裔ではないね。
大和政権は邪馬台国を征服した証として卑弥呼の鏡を踏んづけている事
になる。
385>383 :2000/08/25(金) 16:55
1 理由は分からない。
2 さあね。
3 日本製もあり中国製もある。それから魏の宮廷が作成したものは
  マーク付き。これは、北九州の平原墓から出土。
  マークのない例の鏡は、そもそも宮廷製ではない。
4 ない。
  3世紀頃までの銅器は、朝鮮のもの。
  3世紀頃の銅器は、すべて華北おそらく一つの銅山の銅。
  例の鏡など4世紀の銅器はすべて華南のおそれく1つの銅。
  このようにある時期ごとに一斉に切り替わるわけだ。
 
  民間で勝手に取引してたんじゃこんなことが起きるわけないわな。
  (だいたい1つの銅山限定になるわけないしな。)

  よって、外交関係のあった公孫氏?→魏(晋)→東晋という流れ
  で手に入れたに決まっているわけだ。

  これは鉛の同位体の分析で分かったことなんで大学の図書館かなんか
  で調べてみな。
   

386畿内説オヤジ逃亡 :2000/08/25(金) 17:29
したの。

反論しろよ。
387383 :2000/08/25(金) 20:25
>384さん、385さん、再びそれぞれありがとうございます。
私なりに解釈しなおしますと、
回答1:よくわからない。単なるミス?
回答2:大和朝廷が邪馬台国の後裔であることを主張したかったから。
卑弥呼は「親魏倭王」の称号を得ているので、国内統治に箔がついた。
→しかし、もしそこまで詐称する必要があったなら、記紀にそれらしい記録
(魏との交流について)が無いのは疑問。もっとも単純に近畿説でも同じ疑問が発生する。
384さんが言うように、大和朝廷が征服してしまったのが本当かも。
そう考えると、三角縁神獣鏡は戦利品もしくは戦勝記念で作成したものではないだろうか。
回答3:漢鏡=卑弥呼の鏡である。(385さんは平原墓の鏡を「魏の宮廷製」とされていますね。
ここで出土した方格規矩鏡は後漢末(後漢初期という研究者もいる)に作られたというのが定説になって
いますが、なぜでしょうか?
またマークというのはどういったものでしょうか?(WEB上では「裏字」という記述がありましたが、これですか?)
回答4:鏡に含まれている鉛の同位体分析により、素材の産地がほぼ特定される。それによると
外交関係から輸入された期日がほぼわかり、鏡の鋳造年代も推定できる。それによると三角縁神獣鏡は
4世紀に鋳造されたとしか考えられない。
関係の書籍を検索すると平尾良光・山岸良二編「青銅鏡・銅鐸・鉄剣を探る」(国土社)という本がありました。
早速借りてみようと思います。
以上のようなまとめでよろしいでしょうか?

すると三角縁神獣鏡が多く出土している畿内やその周辺の遺跡・古墳は意外と新しく、卑弥呼の時代には合わない。
漢鏡が多く出土している九州説が有利ということですね。

数が多すぎて検証に時間がかかるのでしょうが、他の遺物や年代測定法との整合性が取れれば、
きわめて強固な論になりそうですね。
388名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 00:30
足利尊氏像もそうだけど年代って100年単位くらいで
測定できるものではないの?
もどかしいねえ・・・
後から作っても明帝がそれを作らせたように見せかける為に景初三年って入れさせた可能性もあるわな。
389畿内説おやじ早く出て来い :2000/08/27(日) 19:09
九州説が定説になっちまうぞ。
390名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 19:14
うるせえ、氏ね!
391>387 :2000/08/27(日) 19:26
鋳造年代は分からない。
原料が分かるだけ。
当時魏の領土でない銅を使っていることが分かっただけだ。
392近畿キッズ :2000/08/27(日) 19:30
やっぱりここでも近畿説が優勢になってきたね〜
393>392 :2000/08/27(日) 19:32
ぜんぜんなってないと思うが。
1人だけ畿内説を主張していた奴がいたが、消えてしまった。
他は九州説。
394太安麻呂 :2000/08/27(日) 22:34
邪馬台国・・・初め北九州にあった。
卑弥呼・・・これは陳寿が、音に漢字を当てはめただけ。
395387 :2000/08/28(月) 07:39
>391さん
確かに。原材料が直接呉から輸入されて鋳造されたり、呉で鋳造された鏡が輸入されたと考えると、
三角縁神獣鏡の年代が下がる可能性がありますね。鏡のデザインからも呉の影響が強いとされて
ますし。
ただ呉と倭の関係を示す文献や他の遺物があまり多くない。呉からも当時の日本との交流を示す遺物は
少ないようです。
当時の国際情勢を考えると「三角縁神獣鏡は4世紀に日本で鋳造された」との説は
なかなか説得力があると思います。もちろん「仮説」ですので、同時に出土した遺物との
整合性が合うのが条件です。今、関係書籍を調べて反証が出てこないか、調査しています。
396太安麻呂 :2000/08/28(月) 10:22
卑弥呼の本名は、撞賢木厳御魂天疎向津比売命(ツキサカキイツノミタマアマ
サカルムカツヒメノミコト)と言われます。
別名大日霊女貴命(オオヒミコムチノミコト)大日孁尊(オオヒルメノミコト)
と言われます。

397オイオイ・・・ :2000/08/28(月) 20:00
>景初と言う年号は2年迄しかなかった。(380)
>380の言うとおり。
>陰暦でも景初3年が一月足らずではなかったに等しい。

まあ、何も言わずにこれ読んでみなよ、自分のバカさ加減に気付くから。

(景初三年)十二月詔曰烈祖明皇帝以正月棄背天下臣子永惟忌日之哀其復用夏正
雖違先帝通三統之義斯亦禮制所由變改也又夏正於數爲得天正其以建寅之月爲正
始元年正月以建丑月爲後十二月【魏志三少帝紀】
398>397 :2000/08/28(月) 23:00
12月という言葉があるのは分かるけど・・・
素人に解説してください。
返り点も何もない漢文なんて読めないよぉ
399名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 23:17
>398
(景初三年)
ここだけ読めば十分かと・・・
400397>399 :2000/08/28(月) 23:36
>(景初三年)
>ここだけ読めば十分かと・・・

これは397の補足だからね。でも、中読めばわかるよ。
これは、景初三年十二月に出された、改元の詔だ。
401名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 09:51
つまり景初2年6月に卑弥呼の使いが魏に行った。
その時は未だ公孫との戦いの最中だったので使者には何も渡せなかった。
返礼の目録だけが12月になって送られた。
明帝は景初三年正月に死去。
景初三年十二月に改元の詔。

となると正始元年に魏から遣わされたと言う使者は2年も経ってから邪馬台国に
来たの?
それとも景初三年と正始元年は同じなの?

402>401 :2000/08/29(火) 19:31
西暦239年が景初三年で、西暦240年が正始元年。
よって、景初三年は存在するが、景初四年と銘打たれた三角縁神獣鏡が発見されているのも事実。
少なくともこの鏡は中国製じゃないね。
403>402 :2000/08/29(火) 20:51
つーか、4世紀の鏡
404名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 21:37
>となると正始元年に魏から遣わされたと言う使者は2年も経ってから邪馬台国に
>来たの?

これが普通の感覚でしょうね。
だから、卑弥呼の遣使を景初3年とした方がこれは楽になる。

>つまり景初2年6月に卑弥呼の使いが魏に行った。

さて、これだけども、当時の情況は、

青龍二年、諸葛亮陣没。魏、蜀に備える必要がなくなる。
景初元年、魏は公孫淵を追い詰め反旗を翻させる。
景初元年七月、公孫氏の軍と魏軍が遼隧にて戦うも、天候に恵まれず決着つかず。
景初二年正月、公孫淵征伐の詔。大将は司馬懿。
景初二年二月、4万の軍が洛陽を出発。
景初二年?〜六月、公孫淵は塹壕を掘るなどして戦いの準備を着々と調える。
景初二年六月、司馬懿軍遼隧に到着、戦闘開始。略をもって襄平(公孫淵の本拠地)に向かい、ついに襄平城を囲む。
景初二年七月ごろ、30日の長雨。遼水氾濫。
景初二年七月か八月初旬、雨上がり戦闘再開。公孫淵、窮地に立つ。
景初二年八月、襄平城落つ。淵首洛陽に伝い、遼東・帯方・楽浪・玄菟ことごとく平らぐ。

倭使が景初二年六月に帯方につくということは、五月には倭を出発していた可能性が高い。準備はさらに前からしているはず。五月の段階では、戦いがおこることだけが確実で、前年の例もあるから、どちらが勝つとも知れない。戦闘があることが一月の段階から確実なこの情勢で、まだ公孫氏が遼東を支配しているこの段階で、魏への遣使を考えるだろうか?

このような魏・遼東の情勢を考えれば、卑弥呼の遣使は景初3年であるとした
方が無理が少ない。相手は当然のことながら明帝ではなく、斉王芳。
405名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 21:50
遼東の情勢が剣呑になってきたから卑弥呼は
急いで魏に通じようとしたんじゃないの?
公孫氏と卑弥呼がそれまでどういう関係だったのか
知らないけど・・・
どうして歴史の教科書は239年に卑弥呼遣使に
してるのかねえ?
406名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 23:23
>遼東の情勢が剣呑になってきたから卑弥呼は
>急いで魏に通じようとしたんじゃないの?

公孫氏が勝ってしまったら、えらいことになるのでは?
407名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 00:00
>406
勝てません。
408>404 :2000/08/30(水) 10:19
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
十二月、詔書報倭女王曰

戦いの最中だったからわざわざ護衛を付けて「將送詣京都」したのでは?
その年の十二月に倭女王に返礼の目録だけ送ったのはようやく遼東を平定して安心した
からでは?
正始元年に明帝の遺言によって目録に沿った物品が邪馬台に送られたと考えるのが
正しい。
409>404 :2000/08/30(水) 15:54
卑弥呼の使いが生口10人、倭錦少々とお粗末だったのも
戦いの最中だったからという説もある。

卑弥呼は公孫と魏の戦いで魏に方が有利と見ると急いで使者を
仕立てた。お粗末だったのもうなづける。
410名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 22:51
例の鏡に何と書いてあろうが、景初が何年であろうが、
原料が華南である以上、意味なし。

畿内説オヤジはこれに反論できるかな。
411名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 23:13
>戦いの最中だったからわざわざ護衛を付けて「將送詣京都」したのでは?

太守劉夏、吏(文官)を遣わし、將って送りて京都(洛陽)に詣らしむ。

どこに護衛を付けたと書いてあるの?

>その年の十二月に倭女王に返礼の目録だけ送ったのはようやく遼東を平定して安心した

十二月、詔書して倭女王に報じて曰く『…』

どこに、“12月に目録だけが送られた”って書いてあるの?

具体的に教えて。
412名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 23:14
>勝てません。

現実には、前年に毋丘儉を追い返してるんだけど。

景初二年のときは司馬懿が機転をきかせたからいいようなものの、
遼隧で足留めされて持久戦になっていたら危なかった。
413名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 23:15
ついでにもう一つ。魏志韓伝に

景初中明帝密遣帶方太守劉キ樂浪太守鮮于嗣越海定二郡

とある。景初中とあるが、単独作戦では海を越えての攻撃はリスクが大
き過ぎる。仮に成功したしたとしても維持が困難であるし、韓・ワイな
どを押さえないといけないのでこれまた難しい。

単独作戦ではなかったということは、明帝紀、公孫度伝に二郡平定の記
事がないことからも傍証される。二郡平定にかかわる記事は、遼東攻略
後に初めて出てくる。

したがって、これは西側の本隊の作戦行動と連動したものであるはず。

遼東攻めは、景初元年七月と景初二年六月だが、景初元年に毋丘儉が軍
を引いた後に海船建造の命令が出されているので、これはないはず。仮
にこのとき攻撃していたとしても、毋丘儉が引いた際に一緒に退却した
であろう。したがって、この選択肢は消える。

残るのは、景初二年六月から八月の間。

七月、八月であれば、六月に卑弥呼は朝貢できない。

六月であれば朝貢は可能だが、このときの帯方太守は劉キであり、倭人
伝にいう劉夏ではない。したがってこれも違う。

結局結論として、卑弥呼の景初二年六月の朝貢は成立しない。
414名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 01:30
>劉キであり、倭人伝にいう劉夏ではない。

よく似た名前だけど別人なの?

公孫淵の燕王への即位祝いの朝貢を魏への朝貢に仕立てたっていう説はどうなの?
司馬懿なら考えそうだと思うけど。遠方の大国に見せかけ東国支配に手腕を発揮
みたいな。
415名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 02:44
>412
魏が本気で滅ぼそうと司馬懿の大軍を派遣
したんだから勝てるわけないです。
曹叡が死んだら撤兵したかも知れないけれど
どの道滅びる運命だったと思うよ。

>410
呉の軍事物資を奪った可能性だってあるでしょう。
景初四年の銘は意味不明だけど・・・

416名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 11:43
>どこに、“12月に目録だけが送られた”って書いてあるの?
其年十二月詔書報倭女王曰 『制詔親魏倭王卑彌呼・・・』
が目録を送ったと言う事かなと。「卑弥呼を親魏倭王に任ずる・・・」

明帝が家来に命令をしたと言う意味だったの?伝えたと言う意味かと
思ってた。
417名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 20:54
>よく似た名前だけど別人なの?

これって自己矛盾してませんか?
中国史書に間違いはない、倭人伝に二年とあるから三年のはずがないっ
てところからスタートしてるはずでしょ?なのに人名の場合は書き間違
いを認めるの?

劉キのキ(キンかもしれないけど)は、日偏に斤(日+斤)。
日+斤と夏の書き間違いよりは、二と三の間違いの方がありそうだと思
いません?

それに、これがよく似てるから同一人物だというなら、劉姓の人間は全
て同一人物になっちゃう。
418名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 20:54
>魏が本気で滅ぼそうと司馬懿の大軍を派遣
>したんだから勝てるわけないです。

公孫淵だけならね。
問題は、公孫淵じゃなくて魏朝内部の司馬懿に敵対する勢力。

そもそも、この四千里征伐と呼ばれる大遠征は、はじめから強い反対意
見があった。それを明帝が押し切って実行にこぎつけたわけで、その裏
には、当然司馬懿がいる。こんな情況だから、魏朝内には早々に撤兵す
べきだという意見が根強く存在したはず。

実際、襄平を囲んだ後、雨で戦線が膠着しているときにも、撤兵すべし
という意見が出されている。このときは明帝がそれをなんとか押さえ込
むわけだけど、これが遼隧で足留めされたままなんの戦果もないという
情況だったらどうなっていたか。

司馬懿もこんな情況がわかっていたから、諸将の反対を押さえて遼隧を
捨てて襄平に向かったんだと思うよ。

それに、前後の情況を見れば、毋丘儉の時も本気で滅ぼそうとしていた
ことがわかります。

>どの道滅びる運命だったと思うよ。

であったとして、戦闘状態にも入っていない五月、あるいはそれ以前に
倭が博打を打てるかっていうところが問題。自分が倭王だったらやりま
す?裏目に出たら、朝鮮半島から締め出されることが確実ですよ。鉄器
や青銅器の素材、鏡などの宝器も入ってこなくなる。それに、多少あい
さつが遅れたぐらいで、魏が臍を曲げるってこともないでしょう。
両方比べてみれば、リスクが違い過ぎます。
419名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 20:56
>が目録を送ったと言う事かなと。「卑弥呼を親魏倭王に任ずる・・・」

ん?詔書=目録ってこと?

この詔書は卑弥呼を親魏倭王にするということが主な内容だから、目録じゃなくて辞令に近いものだと思うよ。
目録って言ったら、この場合は賜物の一覧と思うのが普通じゃない?

以下、“目録”は詔書のことだと思うことにして、

十二月には『…』と書かれた詔書は出されたけれども倭に送られてはいない。
群臣の前で難升米・牛利に対して読み上げられたとは思うけれども。

その後、詔書は金印紫綬とともに正始元年に倭に送られる。

十二月が景初二年なら、この間、一年以上のブランク。
420名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 22:17
>418
公孫氏が王を称して呉と結んだ以上必ず誰かが
滅ぼします。大雨などはそう何回も祟らないだろう
しね。

公孫氏が魏に対抗できるかどうかは卑弥呼にも
察しがついてたはず。
公孫氏が滅びたとたん魏に貢ぎ物を献じたら
ポイント高いかも、と計算して貢ぎ物を贈った
としてもおかしくないでしょう。
421名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:27
>公孫氏が王を称して呉と結んだ以上必ず誰かが滅ぼします。

それが景初二年の六月だっていう博打を打つ?

それから司馬懿が引いた後の状況って結構厳しいと思うよ。
間違いなく高句麗は離反するし、公孫淵とつるんでる鮮卑は勢いづくだろうしね。
遼東・高句麗・鮮卑と謀って呉が攻勢をかけたら、やばいかもよ。
司馬懿は失脚してるだろうしねぇ。
422名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:05
>それが景初二年の六月だっていう博打を打つ?

「博打を打った」から魏にお粗末な貢ぎ物だったにもかかわらず
沢山の返礼を授けたと考えるのが自然。

帶方郡に来た卑弥呼の使者を「護衛」か単なる道案内か知らないが
付けて都まで連れていったのだから公孫氏は既に包囲されて大勢は
決まっていた可能性大。
まことに期を観るに敏。たいした役者だったね卑弥呼は。
423名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 18:08
後漢書を見ると倭をかなり南方と勘違いしてる節がある。
会稽東冶の東、朱崖・タン耳と相近しとか・・・
やっぱり東を南と間違ってたんじゃないの?
424名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 22:34
新潟県民なんですが、地元の人間が出していた
「邪馬台国は新潟県であった!」
(…だったかな。今手元にないので。家に帰ればあるんですが)

はじめは「新潟からもトンデモ本が!」と思ったんですが、
読んでみると意外としっかりした本でした。

主な主張は
1,新潟地方では「イ」と「エ」の発音の区別があまりないため
「ヤマイチコク」のイチはエツ=越である。また、○越という地名が中国(?)に多い。
2,古代新潟県には古志族という大きな勢力があった。
3,翡翠の産地がある。
4,化粧に用いられた赤土が多い。
5,遺跡や土器が大量に出土している(報告されない場合が多いが)
6,資料に記された道程とほぼ一致する(陸路etc…)
7,高度な縄文土器が出土する。
8,卑弥呼の生前に日食の発生する地域に新潟が当てはまる

というもので、特に7の縄文土器については
「古代日本では南と北で縄文文明・弥生文明がそれぞれ独自に発達していたのでは?」
との考えが述べられていました。弥生文明が縄文文明より優れていたとは限らないと。

また、1については、出雲を例に取るならその語源は「いつくも」=越雲であり、
ヤマイチコクの支配が浸透した後、越の字が後ろへまわされ越雲→出雲になったのではとのことです。

日本史には全く興味が無かったのですが、非常に興味がそそられました。
どなたか読んだことのある方はいらっしゃいますか?

土日は家に帰ってその本とってくる予定です。
425424 :2000/09/01(金) 22:46
あ、ちなみに南で弥生式土器などを使用する一大勢力があって
邪馬台国と均衡を保っていたとするならば、北九州に一大勢力が
あったとしてもおかしくないと思います。
卑弥呼の墓は古墳ではなく土饅頭に近い物ではないかとの説もあるそうですが、
古墳や土器の出土を考えた場合、南北で二つの分化があったと考えるのは不自然なのでしょうか?

…歴史に疎くてスマンです。そのへん詳しい方、フォローしていただけると助かります。
426名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:25
>帶方郡に来た卑弥呼の使者を「護衛」か単なる道案内か知らないが
>付けて都まで連れていったのだから公孫氏は既に包囲されて大勢は
>決まっていた可能性大。

論証になってませんよ、完全な循環論法。

朝貢は景初二年六月(*)

このときはまだ戦闘中

戦闘中にもかかわらず、倭使を都まで送って行けた

したがって、六月の時点で大勢は決してる

だから、景初二年六月の朝貢は成立する(*)

結論(*)が前提になってます。
427424 :2000/09/01(金) 23:54
むぅ。425の分化は文化の間違いでした。
それと翡翠の産地とは正確には福島の糸魚川のことですが、
新潟県でも翡翠がみつかるとか。
翡翠に似て非なる石もあるそうですが、きちんと調べてもらったようです。
ただし糸魚川のものよりはだいぶ質が落ちるとのこと。

12時以降はネットに接続できなくなるのでこれでおちます。
また現れることがあったなら議論するなりぼてくりまわすなりして
いただけると嬉しいです。それでは。
428名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 01:00
後漢書によると倭はかなり暖かいらしいよ。
新潟とは思えない・・・
しかもクヌ国は海を渡ったところにあるらしい。
ヤマタイ=南九州
クヌ=畿内
なのかも知れんな・・・
429太安麻呂 :2000/09/02(土) 01:43
卑弥呼=天照大御神では?
430名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 09:27
史料の解釈をつべこべと難しく言い出すと、このスレは下がる。
やっぱ、こういうのはロマンなんだから、夢のある話をしようじゃないか。

まずはオレから

邪馬台国は九州!

431名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 13:44
判ったぞ!
難升米、牛利は景初二年12月まで魏に留まっていた。
そして卑弥呼に親魏倭王の称号を与え、難升米、牛利にも称号を与え
後日これこれの物品を送るであろうと伝えて帰国させたのだ。

景初三年正月に明帝が死んだので一年喪に服して、正始元年になって
魏の使者が邪馬台国に行った。と言う事だな。
432名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 14:40
>430
九州説には反対だが、君の潔さには心を動かされるものがあるな
433名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/04(月) 17:19

じゃあ、みなさまに質問させて頂きたいと思います。

現在の材料では邪馬台国の位置は確定できません。
今後、どのような材料が発見されれば確定できると、お考えですか?

※ なるべく具体的にお願いいたします

例 3世紀中ごろの古墳から
  大量の鏡を抱いた老婆の遺骨が発見される
434名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 01:31
>史料の解釈をつべこべと難しく言い出すと、このスレは下がる。
>やっぱ、こういうのはロマンなんだから、夢のある話をしようじゃないか。

まあ、それもいいけど、倭人伝に下賜品は難升米と牛利にわたすと
書いてあるのに、知らん顔して、彼らは手ぶらで帰ったなどと得意
げになってるのはどうする?

これがロマン?
435名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 08:10
>433
付け加えるに、周囲からは殉葬者の遺体。
近くには大規模な集落と、神殿と政庁が組み合わされた巨大な建物跡。
「親魏倭王」の金印と、錦などの魏からの下賜品と判る大量の文物。

ここまで出土しないと、細かい点で納得しない人がでてくると思う。
436433 :2000/09/05(火) 08:47
>434
すんません
俺、アホなので、なんの話だか、さっぱり分からんです。
ただ、「史料に書いてあるから」ってんで
頭から信じこむのはどうかな?と
これは裏を返せば、「史料に書いてないから無い!」に
通じるものがあるのでは?と思ったりします。
437名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 10:22
三世紀頃は地球全体が暖かかったのだ。
海面も現在よりも2m以上高かったらしい。
新潟だって今みたいに雪降らなかっただろう。
438名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/05(火) 10:40
うんうん
こういうのを地質学者とか、そういう異業種の方にやってもらって
証明していただきたいです
そうすると、新潟説もおもろくなる
439名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/05(火) 10:41
もう歴史の学者さんでは頭が固陋になり過ぎて無理かもね
トロイの木馬のシュリーマンを見習おう!
440名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 12:52
釜山に一票
441名無しさんMe :2000/09/05(火) 15:05
新潟説の本の話題出した者ですが、今週は家に帰りそびれました。無念。
なので、気候についての記述のみ、私の記憶から少々。

437さんがおっしゃっているように地球全体が暖かいと言うこともあったでしょうが、
新潟の夏ははっきり言って暑いです。日本海からの海風のせいで湿気が高く、不快度はかなり高いです。
気温でも日によっては日本で一番高くなります。
で、例の本の著者の方は
「三世紀頃は現在のような温度計は無かったであろう。よって、「暖かい、寒い」という記述などは
人間の体感温度に基づいたものではないのか。だとすれば、不快指数の高い地域がより「暖かい」と
されていたのでは」
といった趣旨の推論を展開されています。
また、冬に青菜を食べる習慣があったということに基づいて新潟説を否定する人間には、
「新潟の人間にとっては冬の雪の下でよりおいしい青菜が育つのは常識だ」
としています。
実際青菜などの野菜は雪の下でも育ちます。

参考までに。
442名無しさんMe :2000/09/05(火) 15:15
あ、でも地球自体が暖かく、雪が降っていなかったのならば雪の下云々の話にはあまり意味がないでしょうか。
海面が2m以上高かったのならば今の新潟平野は海の底ですが、当時海に近かったであろう内陸側には盆地がいくつかあります。
ヤマイチコク=山越国であり、盆地にあったのなら湿気はよけい高かったでしょうね。
443441=442 :2000/09/05(火) 15:22
「湿気は高かった」って日本語として変でしたね。「湿気が多い」または「湿度が高い」か…。
…ってそんな訂正だけではなんなので。

ご存じかも知れませんが火焔式土器は新潟県内陸部での出土です。一応。
高度な縄文土器の代表でしょうか。新潟の物で教科書登場率No1。多分。
444フランシスコ宗麟 :2000/09/05(火) 16:45
気候はともかく明らかに風俗は南方系だよ。
入れ墨とか、海に潜ったりするのってやっぱり
裏日本のイメージじゃないよね・・・
445名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 19:08
>>444
おろ、ある意味、キリ番ゲットだね

だから、もし本当に暖かかったのなら、その土地の風土は
今、我々がイメージする南方系の風俗になったんじゃないかな〜?
446名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:12
ふなしりのはず
447名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:58
>>433
へのレスが無いところをみると
みんな分かってるようなこと言ってるけど
本当は問題の本質が分かってないんだな
448名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 18:04
北九州説以外は全て魏志倭人伝が間違っている事を前提に、
話を進めようとする傾向があるけど、魏志倭人伝が間違っているなら
なんでもありで邪馬台国は北極にあっても構わない事になる。
>後漢書を見ると倭をかなり南方と勘違いしてる節がある。
会稽東冶の東、朱崖・タン耳と相近しとか・・・
やっぱり東を南と間違ってたんじゃないの?
倭人伝では「会稽東冶」ではなく「会稽東治」になっている事を
忘れてはならない。
「会稽東冶」は会稽山のかなり南だが「冶」を「治」と書いてあるままに
正しく読めば其の意味は違ってくる筈。
449名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 21:28
北九州まで水行10日というのはちょっと・・・
450ウヨもサヨも :2000/09/06(水) 22:14
消えろ
451名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 07:41
>449

「水行十日陸行一月」というのは、
帯方郡から女王の国までの全日程と考えれば
矛盾はなくなるよ。
452名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 14:44
邪馬台国は僕様の勘では広島市だおもう
453>>448 :2000/09/08(金) 20:38
>>後漢書を見ると倭をかなり南方と勘違いしてる節がある。
>会稽東冶の東、朱崖・タン耳と相近しとか・・・
>やっぱり東を南と間違ってたんじゃないの

これは勘違いとか間違っていたということではないと思います。

現在の日本人の風俗習慣を大陸や半島のそれと比較すると、南方
の海洋民族の色彩がかなり色濃く見受けられます。隼人、今来の
人、海部族、とかいった後の日本人を構成する部族の人達のテリ
トリー(活動領域)がずっと南方まで広がっていたということで
はないでしょうか?
454名無しさん :2000/09/08(金) 21:04
>453
単に東南アジアと貿易していたからじゃないの?
455海人 :2000/09/08(金) 21:39
>75
うん、学者は小説読んだりバラエティーも見たりした方がいい、
もっと。あまりにも「学者バカ」って多いから。専門がなかったら
彼らは、ぜ〜んぶ社会の落伍者にすぎないもんね。
456男爵=453 :2000/09/09(土) 23:57
>454
>単に東南アジアと貿易していたからじゃないの?

「活動領域」というのには当然その意味も含まれるでしょうが・・・・

「今来の隼人」(いまぎのはやと)と書くべきところを「今来の人」と書い
てしまいました。
これは、(前からすんでいる)隼人に対して、(新たに移住してきた)隼人
の意味に解釈できます。

いずれにしても、南方まで直接支配していたということはないで
しょうが、邪馬台国には南方についてのそれなりの地理的知識は
あった。魏の使者に対するそのような地理的状況についての説明
を元に書かれたと考えられる「魏志倭人伝」以降の書に”明確な
国境線により区分された近代主権国家としての日本”からは遙か
にかけ離れた東南アジアについての記述が見られることはそれほ
ど奇異なことではないでしょう。
457>455 :2000/09/10(日) 00:13
学者が小説も読まなけりゃバラエティーも見てないと思ってるバカ発見。
ヲレ、さっき阿川弘之読み終えて、今2ちゃしながら「一人ごっつ」見てるぞ。
458名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 02:54
>456
じゃあ魏書の方位の記述は合ってるってこと?
クヌ国は海を渡った所にあるって言うから
琉球か台湾なのかねえ?
459>学生 :2000/09/10(日) 03:32
ほお、あんた学者かい。
じゃあ、自説を言ってくれる。
460441 :2000/09/10(日) 20:32
に帰って本をとってきました。
これからレポートが忙しくなりますが、合間を縫って至らないながらも新潟県説の説明ができたらと思います。

とりあえず方位に関してですが、著者の方はまず当時は日本列島が時計回りに90℃回転してとらえられていたとして
南行20日で投馬(出雲あたり)にいたり、次ぎに南水行10日で金沢に至る。能登半島は船で回らず、金沢か小松あたりで上陸し、
陸行1月して新潟県に入ると考えるとちょうどよいと書いています。


東と南が取り違えられていたことについての根拠は

私は中国の明の時代の「混一彊理歴代国之図」説を採用しており、
(中略)この説をとる一番大きな理由として、中国の三国時代は
現在の日本の輪郭を正しくとらえていたが、明の時代になると、
東日本が南にあるとむしろまちがえて解釈したとはとうてい
考えられないと思うからである。
すなわち紀元3世紀の中国や朝鮮において、現代通り正しい日本の輪郭を
とらえていたものが14・5世紀になって間違ってとらえられるようになったとは
考えられないのだ、少なくとも地理地勢については正確さが時代によって逆転する事は少ない。
この点季刊「邪馬台国」15号を参考にしていただきたい。

としています。
461>460 :2000/09/10(日) 23:11
>南行20日で投馬(出雲あたり)にいたり、次ぎに南水行10日で金沢に至る。能登半島は船で回らず、金沢か小松あたりで上陸し、
>陸行1月して新潟県に入ると考えるとちょうどよいと書いています。

なぜ金沢か小松で船を降りなければいけないのですか?
2〜3日余計に航海するだけで新潟まで行けるでしょ?
奴隷やたくさんの荷物をかかえての陸行は船による水行と違って大変ですよ。
なぜそんな無駄なことをしなければいけないのか説明が欲しいですね。
462名無しさん@1周年 :2000/09/11(月) 12:04
>461さん
横レスで申し訳ないが・・・。
この「水行十日、陸行一月」に関して、魏志倭人伝では上陸地が明記されていないのは
謎のひとつですよね。
1.上陸地が取るに足りない場所であった。
2.すでに明記している国のひとつ。
3.いずれかの時点で記述から抜け落ちた。
4.帯方郡からの旅程のトータルを示している。(上陸地は伊都国あたり)
などの推理が挙げられていますね。
皆さんはいかがお考えでしょうか?
463441 :2000/09/11(月) 16:44
遅くなりました。
何故能登半島を船でまわらないとしたかというと、以下の図をご覧ください。

http://www.asahi-net.or.jp/~ep2t-kmt/author/cjpn0m.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~ep2t-kmt/author/cjpn20m.jpg

現在の地形と、海面を20m上昇させた図です。(20m上昇のものしか見つかりませんでした…)
海面が上昇すると新潟県に半島ができ、内海になっているのがおわかりでしょうか。
実際は2mほど海面が高かったということですが、それでも新潟平野は海中に
没することになりますので、およそ邪馬台国の時代と大差ない地形だと思います。
ただ、この図では現在の信濃川は表現されていないようなので
当時は信濃川にそってまた少し内海が広がっていたようです。

邪馬台国が新潟県の中央、山間部に位置していたとすれば、水行を続けるならば
魏からの使者は能登半島をまわり、さらにもう一つ半島をまわって南へと入らなければいけません。
この二つの半島が船旅をやめさせたのではないかということです。

ただし私自身も金沢あたりよりもっと適当な上陸点がないものかとも思います。
当時の航海技術で能登半島をまわるのと、陸路に切り替え進むのとではどちらが安全なのでしょうか?
もしかすると潮流や海の荒れ易さなども関係しているのかも知れません。
航海技術についてのフォローをいただけると嬉しいです。

また、427での
>それと翡翠の産地とは正確には福島の糸魚川のことですが、
>新潟県でも翡翠がみつかるとか。



>それと翡翠の産地とは正確には新潟県南西部の糸魚川のことですが、
>新潟県内陸部でも翡翠がみつかるとか。

に訂正させていただきます。

翡翠についてはフォッサマグナミュージアムが参考になるかと。
http://www.city.itoigawa.niigata.jp/fmm/
464461>441 :2000/09/11(月) 23:19
>海面が上昇すると新潟県に半島ができ、内海になっているのがおわかりでしょうか。

>当時の航海技術で能登半島をまわるのと、陸路に切り替え進むのとではどちらが安全なのでしょうか?

内海なら波がやわらぐでしょうから、さらに船を使ったほうよくなりますね。
普通に考えれば、能登半島−佐渡島−新潟 という行路を取るでしょう。

しかし、そもそも、3世紀の頃、海面が2m高かったという確証はあるのでしょうか?

1万年前に氷河期があけた後、5000〜6000年前に現在の平均気温より+2〜3℃となり、
海面が2〜3m上昇した(そのため、関東の、縄文時代のものと思われる貝塚はかなりの
内陸部でも発見される)のをピークにスローダウンし、ここ2000年の海面は現在の
ものより±1mくらいをうろうろしているというデータしか見たことがありません。

海水準変動の研究の権威のシェパードさんのデータ(といっても発表されたのは1960年
くらいですが)だと、1700年前は-1mですね。

ちなみに、本当に新潟の海面が現在より2m高かったとしても、平均気温は現在と2℃くらい
しか違わないでしょう。雪はぼろぼろ降ると思いますよ。
465461>462 :2000/09/11(月) 23:24
申し訳ないのですが、私は、462さんのあげられた1〜4のどれでもないと思います。

というのは、記述があいまいなのは、この旅につきそった役人さんが邪馬台国には行って
いないからだと思うからです。

その理由は、まずは、不弥国までは、方位、距離など詳細に書かれているのに、急にいい
加減な記述になっていて非常に不自然である上、「卑弥呼に会った」という記述がないこと。

そして、もう1つ、実は、魏志には、「至○×」といった記述がある場合、「至」の直前に、
「行」などの動詞がある場合が本当に行ったことを意味し、動詞がない場合は「行ける」と
いう注釈にすぎないという説があり、この説に従うと、「水行10日、陸行1月で邪馬台国に
行ける」と読め、「行った」とは取れないのです。

これだと、つきそいの役人さんは不弥国までしか行っていないことになり、それでは、
「なぜ、そんな中途半端なところで帰ってしまうんだ?」という疑問が生じるのですが、
よく考えると、その手前の伊都国は大きな街です。海外からの客人の接待施設もあるようです。
となると、この役人の真の目的地は、邪馬台国ではなく、この伊都国なのではないでしょうか?
つまり、首都はワシントンだけど、歓迎レセプションはニューヨークでやるというのと同じ
なのではないかと思うのです。

そして、この伊都国が内陸部にあり、その最寄りの港町が不弥国だとすれば、この役人は
律義だったので、邪馬台国に贈った品物を船で送り出すところまでは立ち会ったと考えられ、
きれいに疑問が解決します。

「水行10日、陸行1月」は、倭人の言いなりだからあいまいなのです。
466ベンゼン中尉 :2000/09/11(月) 23:45
邪馬台国は北九州て決まっている。
467名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 00:36
>465
紛争仲裁のために張政とかは行った気もするな・・・
案内されるがままだったから正確なこと分らなかったんじゃないの?
468名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 10:12
糸島半島はかって陸続きではなかった。
と言っても引き潮の時には繋がってしまう位の浅い海で分断される島だった。
糸島半島の付け根に周船寺という地名がある。
これは博多湾と唐津湾を満ち潮の時に糸島水道を通って船が行き来していた
事を示している。
469441 :2000/09/12(火) 19:20
http://www.kishou.go.jp/field_offices/tokyo/niigata/niigata.htm
http://www.takachiho88.net/nakakyushu/

気温については、以上のように九州地方と新潟県ではそれほど差はありません。
新潟県新津市では2000年の最低気温は2月の-2.0℃でした。
新潟はそれほど気温が下がらない土地なのです。
冬季などはむしろ九州地方の方が低い気温を示す場合もあるようです。
新潟はフェーン現象のため春先は暖かく、また冬は豪雪地帯ということでみなさん寒い
という印象をお持ちでしょうが、実際はそうでもないのです。
雪というものはかまくらに代表されるように風をしのぐものともなりますので、
縄文時代の住居については、雪が積もることによって逆にすきま風が無くなることもあるでしょう。

雪が降るということは定住性の高い古代人にとってそれほど暮らしにくい要素ではなかったのではないでしょうか。
古代人にとって雪が与えてくれる最大の恩恵は常に安定した水の供給です。
古代、ダムもない時代では水の確保は死活問題だったのではないでしょうか。
山麓に積もった雪は雪解け水となって川に流れ込み、大量の水を供給してくれます。
また、雪解け直後は藪などがすっかりとなくなるため、山に分け入りやすくもなります。
安定した水の供給は定住に最も必要な条件の一つと思うのですが、どうでしょう。

残念ながら魏からの使者の道程および海面の高さについては
前回の書き込み以上の根拠を示すことができません。
今後なにかよい資料などが見つかればお話する事もあるでしょうが、現状では461さん
を満足させるに足る証拠は出せません。
2mという海面の高さについては手元の本と>>437さんの書き込みから書かせてもらった
ものですが、たしか明確な根拠とはいいがたいです。
ただ、今でも新潟平野は海抜0m地帯が広く広がっているのは確かです。

うーん、論破されそうな勢いだ。
470>441 :2000/09/13(水) 01:39
>気温については、以上のように九州地方と新潟県ではそれほど差はありません。

すごいこと言いますね。

私の手元にある1999年版(すみません、2000年版は買ってません)の理科年表を見てみると

気温℃ 通年 2月 2月最低
    平均 平均 気温平均
新 潟 13.2  2.2 -0.6
------------------------
浜 田 15.1  5.5  2.1
------------------------
福 岡 16.2  6.4  2.9
宮 崎 17.0  8.0  3.1
鹿児島 17.6  8.3  3.7

です。それほど差がありませんか?
九州と新潟では、通年の平均で3〜4℃、冬だと4〜6℃も違うんですけどね。

新潟の平均気温が2℃上がった場合、現在の浜田とほぼ同じ気候になると思われますが、
山陰地方は、豪雪とはいかないまでも、かなり雪が降るような気がするのですが、
私の気のせいでしょうか?
471名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 09:21
1℃で1mと言う訳でもなかろう。
2m海面が上昇するには4〜5℃気温が高かったのでは?
又、海面の昇降は気温の変化より50年位遅れて出てくる。
472470>471 :2000/09/13(水) 12:48
いえいえ、平均気温というのはそう大きく変わるものではないのですよ。

1万年前の氷河期でさえ、平均気温は現在より4.5℃低かっただけだと言われています。

そして、5000年前くらいに平均気温が現在より2〜3℃高かったのが一番暖かい時期だったのですが、
この頃の海面は、現在より2〜3m、多く見積もる学者さんだと、5mくらい高かっただろうと言う人も
いて、それだと平均気温が1℃上がっただけで海面が2m上がることになります。

ちなみに、氷河期の終わりの1万年前の海水面は、現在より100mくらい低かったらしく、現在の
大陸棚は、この頃の地表の名残りだと言われているのですが、海水準変動の研究により、1万年前
から5000年前までの5000年くらいにかけて海面は急上昇し、最近5000年間では数mしか変わって
いないらしいことがわかっています。そのため、1万年前〜5000年前までの海面の急上昇については
地殻変動による大陸自体の隆起が原因ではないかとも言われています。
473名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 13:10
1℃で2mも上がるならベニスなんかとっくに海の底じゃないかね。
474名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 13:26
>468
そう言えば周船寺の反対側の方に船越湾と言うのもあるね。
唐津湾と博多湾は繋がっていた。
当時の地形がかなり違っていたとなると改めて上陸地点も考え直す
必要が出てくる。
この辺の事を論じた学説はあるのかな?
475441 :2000/09/13(水) 18:36
>>470
うーん、私の示した資料がまずかったでしょうか。
理科年表からお調べくださったのならそちらのデータの方が信用がおけますね。
ありがとうございました。
同じ鹿児島でも計測地点によってずいぶんと差があると言うことでしょうか。

私が示したデータでも平均気温を見れば確かに鹿児島の方がずいぶん高いですね。
「差がない」という私の書き方が悪かったです。
要は新潟が文化の発達を妨げるほど寒い地方では無いということを知っていただきたかったんです。
(新潟は最低気温がそれほど低くならない特徴があるんです)
これは積雪についても同様です。

また、倭人伝には「倭地温暖冬夏食菜」とありますが、
「冬夏食菜」については前述の通り雪の降る地方でも可能なのは以前ご説明したとおりですが、
「倭地温暖」という記述が、通年についての記述なのか疑問なのですが。
魏に比べて温暖なのか、それとも日本のほかの地に対して温暖なのかという疑問もあります。


海面上昇について調べてみましたが、「浅海地質学」(1971出版)では
Shepardらは海面は緩やかに上昇して現在の位置に至り、現在の海面より高かったことはないとし、
Fairbridgeらは過去6000年の間に現在の海面より+3m@`+1.5m@`+0.5mに海面が存在した時期があるとし、
それにShepardが再反論しています。
この後の結論は記述されていませんが、

>しかし日本ではこの海進はその極大期に広く現在の陸地内にひろがったことが関東平野の貝塚から
>推定され、その時期はC14年代から約6000年前とされ、このときの産物とされる房総半島の沼サンゴ層が
>示すように、現在より温暖であったといわれている。日本の場合、局地的な地盤変動をさしひいても、
>海進の極大は現海上6m前後(Daly 汀線)まで達したと考えられるが、今後再検討すべき問題を含んでいる。

とされています。なにぶん古い本なので今は何かしら結論が出ているのかも知れませんが…。
参考までに。
476「全日本邪馬台国の会」新潟支部の方々へ :2000/09/13(水) 23:26
大変話が盛り上がっているところへ水を差すようですが、
何でも金沢あたりから”歩いて”新潟の方まで行かれるそうで、
それならば、いったい富山県と新潟県の国境にある「親不知子不知」
のあたりをどのような方法で通過したのか是非教えていただきたい物です。

もちろん、北陸自動車道も8号線もJRも使わずにです。
このような2CHとかいう不健全なところでウダウダごろを巻いているよりも
一度現場を見てから論議をつづけてみては・・・
477476追伸 :2000/09/13(水) 23:32

猟師とか、地元の山歩きになれた人間でないと
とてもではないが通行できるようなところではない
    ・・・ということが言いたい
478>474 :2000/09/14(木) 00:38
>この辺の事を論じた学説はあるのかな?

『幻の邪馬台国』に既に出てますね。
もっとも、最近では邪馬台国のころにはほとんど陸続きになっていたという方が有力みたいですが。
まあ、このへん微妙みたいなんで、どちらとも言いかねるっていうのが本当かも。
479>473 :2000/09/14(木) 01:12
あらあら、近年の地球温暖化でベニスの沈降が深刻化しているのを知らないのでしょうか?
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shohei/gondora.htm

ちなみに、地球温暖化を扱ったサイトなどでは、よく、「二酸化炭素濃度がこのまま
増え続ければ、21世紀の終わりには気温が2℃上昇し、海面が50cm上昇する。」
と書かれていることから、気温が1℃上がっても海面は25cmしか上昇しないと思って
いる人が多いようですが、実は、この50cmという数字は、地表(例えば南極)の氷河が
解けることによる海水の増加を無視したものなので、実際にはもっと上昇します。

何と言っても、1万年前から5000年前にかけて、平均気温が8℃上がっただけで、
海面は100mも高くなった(地殻変動の影響もあると思いますが)のですから。

とは言え、めぼしい氷河はすでに解けているので、5000年前の平均気温が、+3℃で
海面上昇3mというデータから、平均気温が1℃上がると海面が1m上がるというのが
いい線だと思いますよ。
480>473 :2000/09/14(木) 01:21
あらあら、近年の地球温暖化でベニスの沈降が深刻化しているのを知らないのでしょうか?
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shohei/gondora.htm

ちなみに、地球温暖化を扱ったサイトなどでは、よく、「二酸化炭素濃度がこのまま
増え続ければ、21世紀の終わりには気温が2℃上昇し、海面が50cm上昇する。」
と書かれていることから、気温が1℃上がっても海面は25cmしか上昇しないと思って
いる人が多いようですが、実は、この50cmという数字は、地表(例えば南極)の氷河が
解けることによる海水の増加を無視したものなので、実際にはもっと上昇します。

何と言っても、1万年前から5000年前にかけて、平均気温が8℃上がっただけで、
海面は100mも高くなった(地殻変動の影響もあると思いますが)のですから。

とは言え、めぼしい氷河はすでに解けているので、5000年前の平均気温が、+3℃で
海面上昇3mというデータから、平均気温が1℃上がると海面が1m上がるというのが
いい線だと思いますよ。
481>441 :2000/09/14(木) 01:27
あ、二重投稿になってしまった。すみません。

>Fairbridgeらは過去6000年の間に現在の海面より+3m@`+1.5m@`+0.5mに海面が存在した時期があるとし、

そのデータは私も知っています。+3m=5000年前、+1.5m=3500年前、+0.5m=2000年前 ではないですか?
Fairbridgeのデータでも、ここ2000年の海面は、現在とほとんど同じですね。
そして、5000年前の海面が現在よりも高かったのは、縄文海進などからも実証されているので、
Fairbridgeのデータはかなり信頼できると思います。

http://www.sfc.keio.ac.jp/~skubo/emt-class/emt-class.html
に、縄文海進や、ここ1万年の平均気温の推移が載っていますが、気温もここ3000年ほどはほとんど
変わっていません。

そのため、3世紀頃は世界的に暖かったという説に疑問があるのですが、平均気温の変化や海水準変動は、
世界中で均一に起きるわけではありませんから、3世紀頃の新潟の海面が2mも高かったという可能性が
全くないわけではありません。だからこそ、確証はあるのですか?と聞いているのです。

しかし、くりかえしになりますが、本当に新潟の海面が現在より2m高かったとしても、雪は降りますし、
それほど暖かくはならないと思いますよ。
482名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 13:18
>>476
わたくし、北九州支部の大幹部です
当時の道って、どこもそんなもんじゃないの?
みんなの体力や心持ちは、今の我々からすると
「猟師や山歩きになれた人」並みだったかもよ
483>478 :2000/09/14(木) 15:08
>最近では邪馬台国のころにはほとんど陸続きになっていたという方が有力みたいですが。

だったらどうして地名にかって島だった痕跡があるの?
漢字が伝わってきた5世紀位まで実際にここを船が通っていたという事実があるからじゃ
ないのかな。糸島、周船寺と船越湾と言う地名はまさに4、5世紀まで糸島半島が地続きで
なく船が通れた事を示していると思う。
484441 :2000/09/14(木) 16:21
>>476
「方々」ということは、新潟説について複数の方が書き込んでいると思われているのでしょうか?
単なる皮肉かも知れませんが、誤解の無いように私のレス番号を列挙しておきますね。
424@`425@`427@`441@`442@`443@`460@`463@`469@`475
です。…全日本邪馬台国の会って新潟支部があるんでしょうか…。

それと、手元の本で考えられている金沢からの道程についても書いておきます。

金沢>宮野>東原>高窯>砂子谷>福光>福野>庄川>山田>八屋>大沢野>
大山>立山>上市>中塚>吉野>魚津>黒部>宇奈月>越道峠>蓮華温泉>
姫川温泉>笹倉温泉>西野谷>新井>板倉>清里>牧>松之山>松代>十日町>
西川>小千谷>山古志>栃尾

と著者の方は考えています。
この道中に親不知子不知が含まれるか、また当時から親不知子不知は今の地形だったのかは
まだ調べてみないとなんとも…。
482さんがおっしゃっているような可能性もありますね。
485441 :2000/09/14(木) 16:30
>>481
>しかし、くりかえしになりますが、本当に新潟の海面が現在より2m高かったとしても、雪は降りますし、
>それほど暖かくはならないと思いますよ。

475で述べたように、雪が降ることについてそれがそのまま「邪馬台国が無かった」
という理由になるほど不利な要素では無いのではといいたかったんです。
勿論、有利になる要素とも言い難いですが。
「暖かい」と言う表現も、豪雪地帯ということによる極寒のイメージを払拭したかったためです。
そう言うとほかの地域も夏は暖かいじゃないかといわれてしまうかも知れませんが…。
春先からフェーン現象により気温は上昇しますし、「倭地温暖」という記述をもって
新潟が即候補からはずされることが多いようなので。
「草木茂盛行不見前人」という表現から魏の使が来たのは夏でしょうし。
海面位置については、今までの議論のおかげで私自身今よりも海面が高かったとは
言い難いようだと思い始めています。
もしよろしければそろそろ別の視点から考えてみたいのですが、どうでしょうか。
この道程と海面の位置の問題を解決しない限り先へ進ませるわけにはいかないというのなら、それも仕方ないですが…。
まだ鉱物の産出や土器の出土、新潟県に残るシャーマニズムなど、語ってみたい点はあるんです。
特に、縄文文化と弥生文化が東日本と西日本でそれぞれ同時期に存在していたという仮説はそれなりに
意義があるとおもうのですが…。
486=476 :2000/09/15(金) 00:23
イヨイヨ凄まじいことになってきましたねぇ〜

484>・・・・>黒部>宇奈月>越道峠>蓮華温泉>・・・・

親不知子不知だけは船で迂回したとか言う逃げを打つかと思いきや、
日本でもっとも急峻な地形である北アルプスの2000m級の峠を正
面から死の強行突破大作戦とは恐れ入りました。

482>当時の道って、どこもそんなもんじゃないの?

英彦山や久住山へチョロチョロッとハイキングに行くのとは話がチャイまっせ。
ゼンゼン状況を理解しとらんがねバッテンでごわすたい。

仮に、当時の日本人がすべて超人的な体力と驚異的なクライミング技
術を持っていたとしても、ここを通過する必要があるのは「平地にす
んでいるはずの魏の使者」ということをお忘れなく。

484>また当時から親不知子不知は今の地形だったのかは ・・・

海面がわずか2〜3m上下しただけで数十キロにわたって続く高さ数百メートル
の断崖絶壁が容易に通行可能になったり、たった2000年弱の間に北アルプス
の山々が突如形成されたりと言うことですか・・・
そうすると、やっぱり来年あたりはノストラダムスの恐怖の大王が降ってきたり
するのでしょうか?

484>…全日本邪馬台国の会って新潟支部があるんでしょうか…。

正式には「全日本オラがクニサの邪馬台国友の会」といいます。その総本部はも
ちろん、あの日本最高の権威である東京大学文学部歴史学科にあります。ココの
場合はさすがに武蔵野まで邪馬台国を引っ張ってくるのは無理と見えて、「畿内
説」の東征をなんとしてでも食い止めんがためか、むりやり「九州説」を持ち出
して幕末の彰義隊のごとく散発的なゲリラ戦をいまだに続けているようです。そ
の他、古田某とか言う人が会長を務める「八幡平支部」なんかもあるようです。
487>483 :2000/09/15(金) 01:37
>だったらどうして地名にかって島だった痕跡があるの?

そんなこと言われてもねぇ。地質調査の結果そうなったみたいですが。
まあ、信じる信じないはそちらの勝手。よそで恥かくの、オレじゃないもん。
488名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 02:33
邪馬台国の九州説と畿内説は両方成り立つ。
神宮皇后は大和から出征して九州に本拠地を置いて
朝鮮半島に進出した。
卑弥呼の遣使当時、本拠地は九州にあってそこで
魏とのやりとりが行われたと考えられる。
本来の本拠地である大和は場所だけが魏使に伝えられた
から不正確な記述でも当然である。
489名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 02:37
訂正 →神功皇后
490名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 02:39
訂正 →神功皇后
491>485=441 :2000/09/15(金) 03:10
>「暖かい」と言う表現も、豪雪地帯ということによる極寒のイメージを払拭したかったためです。

でいうか、新潟の冬は、本当に寒さが厳しいんですよ。
どうも、そこに住んでいる人にとっては、それが普通だと錯覚してしまえるのでしょうね。

前にも示しましたが、新潟と九州では、通年の平均気温の違いは3℃〜4℃ですが、冬の平均気温は
4℃〜6℃違います。さらに言うと、夏の平均気温の違いは1℃〜2℃しかありません。つまり、
九州と新潟では、夏の暑さは大して変わらないのに、冬は新潟のほうがやたら寒いのです。
だからこそ豪雪地帯になるわけです。

これは、新潟が日本海に面しているので、冬は大陸からの冷たい風をまともに受けるという、
地形的な要因であるため、なかば仕方のないことです。この「冬の寒さが厳しい」ということは、
平均気温が少々上がったって変わるものではありませんし、もともと私は、2000年前の気候も現在と
ほとんど同じだろうと思っていますので、卑弥呼の時代も、新潟は豪雪地帯だったと思っています。
「温暖」という表現には、かなり無理があると思いますよ。
492>487 :2000/09/15(金) 03:12
おお、福岡の海面は、高さが変わっていないことが地質調査で実証されているん
ですね。世界的規模で見ても、この2000年、気温や海面が変わっていないらしい
のですから、卑弥呼の時代の地形や気候は、現在と同じと考えていいようですね。

ところで483さん、地名は漢字が伝わったからつけられたわけではないでしょう。
昔から呼ばれていた地名に当て字したものもあれば、もっと後世になって、何ら
かの理由で新たに命名されたものも多いと思います。

前者なら、2000年以上前は、現在より海面が高かったようですから、昔は本当に
島だったので、「志摩」や「糸島」と呼ばれたとも考えられますし、後者なら、
津波や、大雨による洪水によって、半島が島のようになった→「志摩」や「糸島」
その際、船が隣の湾から陸を越えて隣の湾まで流された→「船越湾」
同じように流された船が、高台にあった寺の周りに集まった→「周船寺」
なんてことが想像できますね。

とにかく、1つの考えに凝り固まらずに、色々な可能性をさぐってみることです。
493名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 14:22
「周」と言う字の意味は廻らす、つまり、船を迂回させるといった意味と取るのが正しい。
「船越」は読んで字のごとく船が越えてくる。
本島と志摩の間に糸島水道のような水路があって船を通す事が出来たと考える事は
極て自然な事。
昔の船は風や潮流に弱かったので壱岐から博多付近にいく時は直に、
博多から壱岐に行く時は糸島水道を通って呼子から壱岐に渡るみたいな事をやって
いたのではと考える。
問題はこれが紀元前の事で昔の記憶によって名付けられた事か、字が伝わった頃まで
あった事かと言う事である。
「船越」はともかく「周船」は漢字の読みしか嵌めようもないし、中国人か、漢文を理解する
人間の命名であろう。
人間の記憶なんか字による記録がない状態では300年も400年も留め置く事は出来ない。
アステカ、インカの文明も文字によって記録されていないので、たった2、300年前の事が
謎のままである。
日本では文字が伝わった4、5世紀には3世紀にあった邪馬台国の記憶が既に失われていた
と言う事を思い出してほしい。。
それやこれや考えると少なくとも卑弥呼の時代は糸島半島は島だったと考えても良いと思う。

志賀の島だって陸続きになったのは最近のことでしょ。
494名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/15(金) 17:06
「台」を「ト」と読むのは良いとして、「邪馬」は「ヤマ」
と発音するの?中国で。
495名無しさん@1周年 :2000/09/15(金) 17:24
>494

いい加減「台」と言う文字は倭人伝には書いてなかったと言う事を見とめて話を進めなさいよ。

「邪馬」は「じゃま」と読んだかもね。
496名無しさん@無知 :2000/09/15(金) 18:01
畿内って何県のあたりでしゅか?
497名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 10:01

糸島半島の付け根の所には波多江と言う地名もあるね。

それから万葉集に「・・・・・に いとの島みゆ」と言った歌が残されているから
六、七世紀までも完全な陸続きではなかったと証明できるだろう。
498>230 :2000/09/18(月) 17:50
結局、色々考えると邪馬台は北九州にあったと考えるのが自然。
大和政権は畿内に存在していたが、朝鮮から来た征服者によって征服され
この征服王朝が後に邪馬台国を征服した。

古事記や日本書紀に邪馬台国の記憶が無いのもうなづける。
499>498 :2000/09/18(月) 18:11
>朝鮮から来た征服者によって征服され
これは断定しない方がいいんでは?論争が白熱するとスレの趣旨か
らハズれそうに思うからね。俺自身書こうか、と思ったけど、その
辺考えてこういう書き込みに替えさせてもらったようなもんだから。
500名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/18(月) 22:55
沖縄説ってあるの?
501>500 :2000/09/19(火) 14:39

「会稽東治」を「会稽東冶」と置き換えるのがドキュン学会では主流なので
「東冶」の東は沖縄か台湾しか候補が無くなる。
502名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 15:18
邪馬台国の話だけど、このHPの掲示板は若手プロも参加しており、レベルが高い
畿内説以外は、ほとんどお話にならないことが良く分かるぞ
九州人や朝鮮人の妄説などは、今や噴飯モノ
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a001.html
503名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 15:20
502の補足だけど、浅薄な知識で、その掲示板で発言すると、袋叩きになるのが落ちだから、
先ずは、今月分の掲示板の記事だけでも全部読破して、自分のレベルを認識してから、
発言するかROMに徹するかを、決めるのが無難でしょう。
504中尉 :2000/09/19(火) 17:32
邪馬台国は九州にあった
これは譲れない、卑弥呼を天皇家と結びつけたがる夢想家には神武東征からも、邪馬台国の畿内説を支持したい所。
だが、邪馬台国の九州説は譲れない。
吉野ヶ里でほぼ決着がついているのに、畿内説を支持する奴等て、大馬鹿じゃん。
505名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 17:50
 なんかさぁ、毎回こうやって戻す奴いるよな。
中尉さん、最初から読んだ?
506名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 19:11
504の中尉は厨房
吉野ヶ里が全盛だったのは、西暦紀元前後で、卑弥呼の時代には衰退していた。

最古の前方後円墳と言われる纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃のもの。
卑弥呼の時代は弥生時代ではなく、古墳時代の最初期と見るべき。
魏志倭人伝に記された、卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩(140m余り)」と
後円部のサイズが調和的な箸墓古墳は、卑弥呼の没年と調和する可能性も大きい。
507名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 19:15
おー、畿内説オヤジ達が帰って来たぞ!
歓迎。歓迎。そうでないとこのスレッド盛り上がらん(ワラ
508名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 02:51
結局盛り上がってないじゃんか>>607
つーか、今や学問的には畿内説で決着が付いたと見て良いだろ
509名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 02:52
だからなんで話を戻すんだよ
510名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 12:04
邪馬台国の七万戸も、畿内で間に合うし、
卑弥呼の墓も、箸墓古墳で説明がつくし、
大和の纏向を中心とする畿内説で邪馬台国論争は終了
511名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 14:05
それで三角縁神獣鏡は魏鏡だったってか? (ワラ
512名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 15:02
511は意味不明、ちゃんと説明しろ

別に三角縁神獣鏡が魏鏡でも倭鏡でも、大勢に影響ないだろ
後漢末から三国時代の鏡の出土は、中心が九州から畿内へ移っており
魏や呉の紀年鏡が出土したのは、全て古墳時代の遺跡であり、弥生時代は皆無
鏡の分布から言っても、九州ではなく畿内が中心

ちなみに、朝鮮半島では楽浪郡の漢人の墓からは鏡の少数枚の出土はあるが、
それ以外の地域の墓には殆ど見られない。
一方で日本の弥生・古墳時代の墓には大量の出土が見られたりと、
魏志倭人伝に書かれた、倭人特有の好みであることは、遺物からも明らか。
513511 :2000/09/20(水) 15:41
>512
もう一例
それで魏使は九州内にとどまっていて
南も東もわからない愚かな倭人の言うことを鵜呑みにして
九州→大和を南と記録したってか?

つまり、議論の各要素の細かい部分を「大勢に影響ないだろ」と
切り捨てていけば、どんな結論に達することも簡単だろと言ってるんだよ。

それに、三角縁神獣鏡が魏鏡であり、それが各地の古墳から出土していることが
邪馬台国=大和説の根拠のひとつになっているんだろ。
そんな重要なことを「倭鏡でも、大勢に影響ないだろ」と否定してしまって
大丈夫なのかい?
ま、余計なお世話だけど。
514名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:10
九州説のよりどころは、行程は長すぎるし、「南」のただ一点のみ(藁
三角縁神獣鏡に拘らなくても、中国で出土している漢鏡の分布を見ても、
畿内説にマッチするわけで、大勢に影響ないと述べたわけ

魏志東夷伝を読めば分かるように、、倭国に関する既述が他の諸国よりもずっと多い。
魏から金印を受けたのは、大月氏国(クシャナ朝)と邪馬台国(ヤマト)のみと、
重要視された国家を形成し、卑弥呼は、古墳時代最初期の人で、巨大な古墳に葬られた
515名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:23
その巨大古墳はどこじゃ?
そこまで言い切るなら、ハッキリ教えてくれ
516名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:32
これらの議論には、このリンク先が参考になる

余りにも有名な「大論争」HP。プロも参加する掲示板の議論は高度で、
素人が口を挟むと恥ずかしいので、ROMに徹している
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a001.html
掲示板の過去の主なトピックとして、以下のものが載っているから、読むべし
「三角縁神獣鏡をめぐって」「銅矛から銅鏡へ」「方位と日数表記について」
「卑弥呼の鏡はどれ?」「中国出土の魏の紀年鏡」「狗奴國はどこ?」

古代の東夷に関する漢籍の原文集
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/menu01.html
517名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:33
箸墓古墳>>515
518511 :2000/09/20(水) 16:33
>巨大な古墳に葬られた。
倭人伝の、「大いに塚を作る。径百歩。」という記述は忘れちゃったの?
塚というのはどういうものであり、径百歩とはどれくらいの長さであるを
調べたら?

もう一例
それで「邪馬壱国」は「邪馬台国」の間違いってか?

519名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:36
>517
えぇ〜〜〜〜〜〜っ〜〜〜〜〜〜〜〜?!?!?!?!?!?!?

520名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:41
初期の巨大古墳として有名な箸墓古墳は、
畿内の特徴である前方後円墳に、
吉備の特徴である特殊器台(埴輪の原型)を並べており、
邪馬台国(畿内)と投馬国(吉備)の協調を示すものとする見方もある。
521名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:46
対抗勢力である狗奴国の拠点は、東海地方とする説が有力になっている。
こちらは前方後方墳と言う、別の形式の墳墓が特徴的で、
古墳時代初期には、関東から東北南部までこの形式の古墳が広がった。
しかし、突然にこの形式は途絶え、前方後円墳に移行しており、
東海勢力から畿内勢力へと東国の影響力が移行した結果と考えられている。
522名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 16:59
koujiの部屋HP(http://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/)に、
「邪馬臺國畿内大和説が不可解ではなくなる一週間のプログラム」
と言う一連の解説があるので、これもシーラカンスな九州説の呪縛から
解放されるための、参考になるでしょう。
523名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 17:28
個人の趣味で作ったホームページ論拠にしてどうするよ。ワラ
524名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 18:18
内容を見てから言え>厨房の523
525名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 09:40
先ず、先のHPには「邪馬壹國 」について全く無視している。
あくまで「邪馬台」→「大和」が前提で論証しようとしている。
「里」についての見解も半島内の距離は435mであるといいながら何処にどのように
記載されているか示していない。一方、海の距離は当時の辺境地の船乗りの換算値
としているがこれも証拠を示していない。

畿内派の言い分が良くまとめられているとは思うが
思い付きをまとめてHPにしただけ。
証拠を提示せずに論じている事は2CHと同レベルと言う事。
526名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 10:31
ぷぷぷっ、津軽の偽書に誑かされた古田爺さんのシンパは未だいたのか。(わら

古代の東夷に関する漢籍の原文集
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/menu01.html
を見ればわかるように、三国志の刊本が「邪馬壹國」の表記をしているくらいで、
それ以外の多くは、「邪馬臺国」としている。
三国志は、原本ではなく、北宋時代の刊本までしか遡らず、
書写の内に誤記はいくらでもあり、隋書で「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と、
今の邪靡堆と昔の邪馬臺の音が似ていると示し、校合で「邪馬臺国」と訂正する蓋然性が高い。
江戸時代の学者でも、多くの写本を照合して、校合に努めていたのに、
21世紀を目前にした人間が、照合の概念が欠如しているような低レベルだと恥ずかしいぞ。

卑弥呼の時代は、古墳時代に入っており、畿内説では前方後円墳体制の広がりと箸墓古墳、
漢鏡の大量出土など、魏志倭人伝の記述に即した考古学的な裏付けも多い。
九州説は、考古資料の裏付けに欠けているのでアウト。
527> :2000/09/21(木) 14:28
魏の皇帝の住む所である「臺」を蛮族の国名に付ける筈がない。
他の国名を見てみよ。卑字だらけ
三国志が原本でないのは知っているよ。いくつかの写本があって其の中
でも信頼性の高い照興本だっけ、が原本に近いものとして認知されている。
他の写本でも「臺」と書いてあるものはない。
古田の「邪馬台国はなかった」をまともに取り上げて論駁した学者は一人も
いないぞ。
かなわないから無視しているだけ。
他の事はともかく「臺」はないと言うのが主流になっている。
528名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 14:29
>502
行ってきたよ、そのHP。
たしかに議論の中身は濃いようだね。
でもね、
 「私も、舶載とされているされている三角縁神獣鏡の大部分が、
 中国からの渡来工人によって倭国内で生産された物である可能性は
 あると思います。・・・しかし、日本で出土した三角縁神獣鏡と同じ工人
 ないし工房が作成したと考えられる、三角縁神獣鏡ではない鏡が
 中国から出ているそうですから、三角縁神獣鏡が倭国向け仕様の魏鏡
 であるという説を一概に否定することもできないと思います。」
と、言ってるようじゃ、ダメだと思うよ。

三角縁神獣鏡の銘文には、不完全な漢文が多いというのは知ってるよね。
ということは、(同鏡の製作地がどこであっても)中国の工人は、不完全な
銘文の鏡を大量に製作して平気なほど、技術、教養、製作者としての使命感
という点でレベルが低かったということなの?

遺物的にも史料的にも、三角縁神獣鏡は中国にはないのだから
普通に考えれば、同鏡は倭国製だとしか考えられないでしょう。
それを、魏国(魏の工人)製だというからには、それなりのちゃんとした
根拠が必要だと思うよ。
それをしないままの議論につきあっていても仕様がないでしょう。

529名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 14:55
未だそんなカビの生えた話を言っているのか>527
多くの中国史書では「臺」になっている。帯方郡の使節が駐在する伊都国は卑字ではない。
隋書には、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」とあるし、
音が近似する「堆」「臺」の両方が、書写で別の音が近似する語から変わったとは考えがたく、
隋書が書かれた唐初の三国志の写本には、「臺」と書いてあったとする蓋然性が高い、
古田爺さんの一派は、江戸時代の学者にも当たり前な、校合の概念すらないのは、イタイ。
狂信的なシンパを抱える古田爺さんと争うのは、学問的に不毛だから相手にしないんだろ。

どんどん考古資料の蓄積が進んだ今、何十年も前の段階で留まった議論をしているのは、
九州説の展望がないことを如実に示しているだけ。
530名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 15:02
>528
以前にも述べたように、三角縁神獣鏡が倭鏡であっても、畿内説を覆すものではないだろ。
中国で出土している、後漢末〜三国時代の漢鏡の分布も、近畿が卓越している。

学問的には今やお話にならない九州説の連中は、九州説を補強する考古資料が提示できずに、
そんなことばかり言っているようじゃ、本当に終わりだな。
卑弥呼は古墳時代最初期の人物だと判明してきて、勝負あり。論争は終了。
531名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 15:36
水準の低い質問で申し訳ないのだけど、近畿説に従った場合卑弥呼は
記紀の誰に比定されるの?厨房のおいらは九州説で卑弥呼=天照大神
ってのが魅力的なんだけど。
532名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 16:14
天照大神は、卑弥呼+臺与の伝説化したものと考えるのは妥当だと思う。
卑弥呼の没年の頃に、関東〜近畿〜九州に皆既日食が起きており、大和でも深食となった。
太陽神である天照大神が天の岩戸に隠れた後、世の中が騒いだのは、卑弥呼没後の争乱と似ているし、
天照大神の復活は、宗女の臺与の擁立と似ていると、指摘されています。

そうそう、多くの民族では地下に埋葬する例が多く、
日本以外に、エジプト・中国・メキシコでも、巨大な墳墓が作られていますが、
いずれも埋葬する位置は、元の地表より下です。
日本の古墳の竪穴式石室だけが、地表高い位置に葬られたのは極めてユニークだと指摘されます。
この位置関係も、天の岩戸にふさわしいものだと思います。

一方、日本書紀に、箸墓古墳の埋葬者とする、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の伝説も、そうでしょう。

日本書紀編纂時からは、遙かに古い時代の話だから、
複数の伝説として伝えられたとしても、不思議ではないと思う。
533名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 16:56
卑弥呼の時代に畿内に沢山古墳があったからって畿内に卑弥呼がいた
証拠にならないよ。
古墳から出てきた木の同位元素から年代を割り出して古墳が古い物だ
と言う議論も納得がいかない。
”大論争”の中でも論じられたが木の年輪の皮の部分で測定したのか
どうか?はっきりしない。
埋葬物も古いものを持ってきて新しい墓に埋めるのは可能だからで
ある。いささか詭弁のような気もするが、新しい物が入っていれば
新しい事が確認できても古い物が入っていれば古い墓だという事には
必ずしもならない。古いものをわざわざ入れるのが畿内の昔の習慣
であった可能性もある。
畿内にある遺跡といってもほどんとが古墳時代以降のもので紀元前後
に畿内でどのように人々の営みがなされていたか解らない。
比べて九州は古くから半島や中国と交流していた様子が遺跡からも解る
534名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 17:31
>伊都国は卑字ではない。

邪馬壹だって卑字じゃないよ。
「臺」の文字が三国志の中で他に魏の「皇帝の宮殿」以外の意味で
使用されている例があるのなら「壹」ではなく「臺」である可能性
を認めてもいいけどね。
この辺は古田が論証済み。
誰もこれを論駁出来ない。
535新潟のアイツ。 :2000/09/21(木) 17:40
久しぶりに戻ってきました。
流れからそれて悪いんですが、倭人伝以外の文献でヒミコの名前に当たることは珍しいのでしょうか。
縁起書に「イテテのヒミコ」が建てさせたと記されている神社があるらしいんですが…。
ヒミコの名前は全国に点在しているものですか?

神社の記録というのも確実に信用できるものではありませんが、この辺り興味があります。
ほかにヒミコの名前が出てくる言い伝えを知っている方はいませんでしょうか。
536名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 21:12
>535
卑弥呼を「ヒミカ」と読めば、筑後国風土記にある
甕依姫(ミカヨリ姫)が卑弥呼のことを伝えているのかも
しれないね。
537:2000/09/21(木) 21:54
> 魏の皇帝の住む所である「臺」を蛮族の国名に付ける筈がない。

(胡質)遷征東将軍假節都督青徐諸軍事廣農積穀有兼年之儲置東征臺且佃且守(魏志)

東征臺は、文脈から言って胡質が置いた地方の役所のようなもの。
そうかぁ、魏の皇帝ってのは部下の作った役所に住んでたのかぁ

明帝幸許昌召觀為治書侍御史典行臺獄(魏志)

臺獄は牢獄のこと。
そうか!魏の皇帝というのは牢獄に住んでいたのか!

使於緜竹築臺以為京觀用彰戰功(魏志)

臺=京観。
京観とは敵の屍を累々と積みあげてその上に土を盛った塚のこと。
そうか!!魏の皇帝というのは、敵の屍の上に住んでたのか!!!

>「臺」の文字が三国志の中で他に魏の「皇帝の宮殿」以外の意味で
>使用されている例があるのなら「壹」ではなく「臺」である可能性
>を認めてもいいけどね。

・・・・・・・・?
538名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 22:45
>537
自分で探したんなら偉い。

卑弥呼が天照なら月読が卑弥呼の弟か・・・
スサノオは新羅王?

ファンタジックだな
539:2000/09/22(金) 01:36
スマン。『三木太郎 倭人伝の用語の研究』からのパクリだ。

誰かさんは知らないらしいが、こんな話はるか昔に決着している。古田は認めないけどね。
だから、誰かのカビのはえた話ってのは当たってる。
540>臺 :2000/09/22(金) 15:32
Alexの書斎に行って三国志の記載されている文、全部検索したがそんな文章はなかった。
もちろんあそこにあるのは三国志の全文ではない事は承知だが。

>遷征東将軍假節都督青徐諸軍事廣農積穀有兼年之儲置東征臺且佃且守
>明帝幸許昌召觀為治書侍御史典行臺獄

などは明帝紀か公孫度傳あたりに載っていそうだがなかった。

何処に書いてあるのか詳しく教えてくれ。
541名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 19:01
Alexの書斎には1/10もないんじゃないの?
542名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 20:28
台湾中央研究院のデータベースで検索したら「三国志」に「臺」が85件見つかった。

>(胡質)遷征東将軍假節都督青徐諸軍事廣農積穀有兼年之儲置東征臺且佃且守(魏志)
は、「魏書二十七/胡質」

>明帝幸許昌召觀為治書侍御史典行臺獄(魏志)
は、「魏書二十四/王觀」

>使於緜竹築臺以為京觀用彰戰功(魏志)
は、「魏書二十八/ケ艾」

と、アッという間に検索できる、便利な世の中ですぞ。
台湾の中央研究院に大感謝!
543名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 20:40
>542
昔なら、全文の検索なんて、やってられなかったから、騙しやすかっただろうけど、
便利な世の中になった今では、騙すことは出来ませんな。(藁
かくして、「臺」の話はアウトで終了。
544名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 22:33
九州説壊滅age
545名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 00:21
日本でも、大日本古文書・勅撰和歌集・木簡など、WEB検索できるデータベースが
完備してきて、昔のように力任せで用例を調べなくても、システマティックに
検索できるのは、大きいでしょう。
古代史では、それ以上に考古学の進歩が目覚ましい。
安本・古田氏などに呪縛されて、時代に取り残されたシーラカンスにならないように。
546名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 07:41
九州説は考古学的な証拠を提示できないので、カビの生えた文献のこねくりまわししか出来ず、
それも虚偽であると指摘され撃沈、合掌。
547名無し :2000/09/23(土) 14:15
最近、皆既日食が卑弥呼の没年の時代と重なる、との議論があります。
また、これにもとずいて、アマテラスの神話と卑弥呼を重ねる主張があります。
しかし、天文学的には日食でも、曇りや雨、台風だったらどうなのでしょう?
当時の天候がわからない以上、卑弥呼の没年に日食があったかどうかは
わからない、というべきでは?
548名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 14:23
>547
凄まじい見解だ
549名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 14:56
547は、論理的な思考の出来ない厨房。
そうではなくて、卑弥呼の没年頃に、皆既に近い日食が無ければ否定される。
卑弥呼の没年頃に、関東〜畿内〜九州に皆既帯が通る日食があったことは、傍証とできる。
こう言う論理なわけ。分かった?厨房くん。
550>547&549 :2000/09/23(土) 17:05
卑弥呼の没年は、西暦247年〜250年の間とされ、248年説が最有力だが、
247年3月24日に九州北部で、248年9月4日に、石川−富山−新潟−福島
あたりで、天気がよければ皆既日食が観測できたことがわかっている。

また、天照大神の天の岩戸伝説は、皆既日食がもとになっているという
考えが一般的だが、皆既日食でも、ほんの数分で太陽は明るさをとり戻して
しまうので、長い間夜が続いたという天の岩戸伝説とはイマイチ合致しない。

ところが、247年の日食は、天の岩戸伝説の舞台である高千穂では、日食が
まさに皆既を向かえたその瞬間に日没してしまい、当時の人々は翌朝まで
太陽がどうなったのか不安な一夜を過ごしたと思われ、それが長い夜が
続いたという伝説につながったと考えると納得できる。

さらには、天照大神の孫であるニニギノミコトの墓だとされる、西都原
古墳群のなかにある男狭穂塚は、4世紀前半のものだとされていて、
計算も合うので、247年の日食が天の岩戸伝説の日食である可能性が高く、
この日食を機会に天照大神が権力を握ったのではないかと思われる。

そのため、これだと、一部に根強い、卑弥呼=天照大神説は否定される
ことになり、実際、高千穂神楽では、天照大神が男神として舞われている
ことからも、卑弥呼=天照大神説は誤りだと思われる。

ただし、後世の人々がこの2人を同一人物として混同した可能性はあると思う。

ちなみに、この247年の日食では、近畿地方では太陽が80%かけたくらいで
日が沈んでしまう。逆に、248年の日食は、太陽が欠けた状態で日が上がって
くる日食だった。
551>547 :2000/09/23(土) 17:24
そうそう、皆既日食の場合、天気が悪くても、昼間なのに急に夜が訪れたように
なるのだから、異変が起きていることはわかる。
天気を気にする必要はないぞ。
552名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 17:34
きっと>>547のおうち方面では、曇りや雨、台風だったら
闇夜のように真っ暗になるんですよ
553名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 18:19
>550
247年の日食ですが、精度が高いとされる天文データに基づく計算では、
皆既帯が東シナ海で沈んでしまい、九州では皆既日食は起こりません。
精度が劣っている素人向けの天文ソフトが産み出した幻と見られています。
九州説は、このように捏造が多い。(藁
248年の方は、精度の高いものでも、日本で皆既日食が見える計算になります。
以下のHPで日食・月食の再現ソフトを入手できます。
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/
554550>553 :2000/09/23(土) 19:39
私もそのソフト使ってるんだけどね(ワラ

緯度、経度、高度に天岩戸神社の大体の値を入力して検索した結果は以下の通り。

Date(UT) : 247 3 24 : CENTRAL TOTAL ECLIPSE
Location : Selected City    Lon: 131.20°Lat: 32.40° Height: 500.0

            Universal Local        Sun  Mag.  Pm
            Time(UT)  STD Time  LMT   Alt
            ---------- -------- -------- ----- ------ -----
First Penumbra Contact 8:34:41.8 17:34:41 17:19:29  10.6    255.4
Max. Eclipse      9:32:23.1 18:32:23 18:17:11  -1.6 0.956 342.7

Magnitude at Sun Set  9:28:43.0 18:28:42 18:13:30  -0.8 0.927 342.7

結局、太陽は、食の最高となる直前に、93%欠けた状態で日没することがわかる。
93%というと、太陽は三日月よりも細くなっている。まさに皆既を向かようとして
いる状態だというのがわかると思う。空もすでに真っ暗なはずだ。

反論する前にちゃんと調べてみな。
555アマテラス、卑弥呼論争に飛び入り :2000/09/24(日) 00:12
天文ソフトのことはよく知らないので、今後の議論まちだけど(笑)
アマテラス=卑弥呼(台与)説の根拠がいまいちわからない。
単に、
1)女性の主権者だった。
2)2人の女王の王位継承が、アマテラスの再生に似ている。
というだけでは弱いな。
結局、「似ている」とどうかでは、水掛論だね
556名無し :2000/09/24(日) 00:33
>そうそう、皆既日食の場合、天気が悪くても、昼間なのに急に夜が訪れたように
>なるのだから、異変が起きていることはわかる。
>天気を気にする必要はないぞ。

本当か?古代人は台風でも外にでて天体観測したのか?やっぱり昔の
人はちがうね(笑)

そもそも、曇り空がさらに暗くなったからといって、
なぜ、太陽神の神話になるのか?

「三日月よりも細い太陽」なら、なおさら天気悪い
とみえないね。
いうまでもなく、当時晴天で、日食はみえたかもしれない。
あくまでも可能性にすぎない。


日食が起こる事を知っていて観測してるのではないのだ。
なにか、かんちがいしてるようだね。


557名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 01:22
何だか分らないけど卑弥呼を神格化するより古代の偉大な女帝
として扱った方が良かったんじゃない?
記紀編集者にとって。
時代もそんなに昔のことでなし・・・

ちなみに記紀に出てくる最古の中国王朝って
何ですか?
558名無し :2000/09/24(日) 11:44
>550

「日没寸前の日食」という論考は斬新でおもしろいのだが、
遺跡の話がよくわからない。
四世紀前半の古墳が、なんで247年の日食と計算があうことになるわけ?
そもそも、ニニギが四世紀前半の人だったら、つまり、大和王権成立以後
になるの?

559名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 16:11
h
560名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 20:25
そもそも邪馬台国は古墳の文化がないところにあったんじゃないだろうか。
西日本には古墳を築く弥生文化の人達、東日本には古墳を築かない縄文文化の人達。
縄文人が弥生人によって追いやられていったとか。
邪馬台国についての記述を見ると、縄文文化のほうがいろいろと共通点が多い気がするが。
561>556 :2000/09/24(日) 21:17
しかし、無知というのは恐いね。

皆既日食は、70%くらい欠けても空の明るさはたいして変わらず、普通の人は日食が
起きていることに気がつかない。

しかし、80%くらい欠けると、ようやく薄暗くなり始め、気づく人も出始める。
そして、食が90数%に達した頃、急激に暗くなり、まさに、一瞬にして夜になるので
誰でもその異変に気づく。特に人が多く住んでいる街なら、大騒ぎになるのは確実だ。

この、一瞬にして夜になるという事態は、空が曇っていて、直接太陽が見えない時の
ほうが、状況がわからない分、神秘性が増すと言われていて、3年前にテレ朝が
モンゴルから放送した皆既日食の中継がまさにこの状態だった。

しかし、空が真っ暗な状態というのは、長くても10分くらいしかなく、結局、騒いで
いるうちに、空は明るさを取り戻してしまう。
天の岩戸伝説の「長い夜」と合わないというのはそういうことだ。
562550>558 :2000/09/24(日) 21:21
>「日没寸前の日食」という論考は斬新でおもしろいのだが、
別に斬新ではないよ。説としては以前からあります。

>四世紀前半の古墳が、なんで247年の日食と計算があうことになるわけ?

ニニギは天照大神の孫。その孫が死んだのが西暦310〜340年くらいだと考えられるわけ。
もちろん、実際のニニギが何才で死んだのかは不明だが、西都に伝わるコノハナサクヤ
伝説から若死にしてはいなそうなので、40〜60才くらいで死んだと考えると、ニニギが
生まれたのは、250年〜300年くらいだということになる。

そして、天の岩戸伝説では、その時、まだ天照大神は結婚していなそうなので、この後に
結婚したとして、できた子供がさらに子供を作るには、早くて15年、遅くて30年かかると
思われるので、ニニギが生まれたのは、262〜277年くらい。また、実在の天照大神が既に
結婚していて子供がいたとしても、孫はいないだろうから、孫ができたのは250年以降と
考えられ、いづれにしても、男狭穂塚から想像できるニニギの生年に重なる。

計算が合うというのはそういうこと。

>ニニギが四世紀前半の人だったら、つまり、大和王権成立以後になるの?

大和政権を建てたのは、ニニギのひ孫の神武天皇。
大和政権ができたのが四世紀だと考えるのが自然。

神武天皇の東遷については、西日本各地にそれにまつわる伝説が残っていることからも
実際にあったことである可能性は高く、欠史8代から、10代天皇、崇神天皇が、実は
神武天皇その人なのではないかと言われている。

実際、16代天皇、仁徳天皇までは在位期間が異様に長く伝えられているが、その後の天皇の
在位は平均すると10年くらいなので、実際は10代〜16代の在位も10年づつだったと概算すると、
仁徳天皇が崩御したのは399年とされているので、崇神天皇=神武天皇の即位は、330年頃
だったということになる。

これも計算が合うね。
563名無し :2000/09/24(日) 23:39
>562

なるほど。
247の日食=アマテラス
四世紀前半の古墳=アマテラスの孫のニニギ
というのはわかる。

ただ、神武即位330年というのは、あまり聞かない説だと思う。
一般的には、畿内の古墳文化が大和政権の成立と関連するとみられている。
これは、邪馬台国問題では畿内、九州で対立する論者も同じ考えだ。
古墳文化の開始が330年こ゜ろというのは、
考古学的にはどうなのか?あまり一般的でないように思える。
それとも、畿内で古墳文化が成立した後に、神武東征があったということになるの?
また、伝ニニギの古墳と、330年以降の畿内の遺跡の連続性は、確認
されているのだろうか?
その辺の確認が必要だと思う。

ちなみに、「日没前の日食」説は、誰が唱えた説なの?
564名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 23:41
>554
九州北部で皆既日食が見られるとしたことは誤りで、
精度の高い天文データに基づく計算では、認めるでしょ?
それに、宮崎県のずっと新しい時代の古墳なんて論外でしょう。

天の岩戸を、巨大古墳の竪穴式石室に対応させることは、妥当だと思う。
日本以外にエジプト・中国・メキシコでも巨大は墳墓が作られているが、
日本の竪穴式石室以外は、遺体を地表面以下に埋葬する点が違い、ユニーク。
朝鮮半島の漢人の墓からは、少数の鏡が出土するが、土着民はほとんどなし。
一方、日本の弥生〜古墳時代の墓からは、膨大な数の鏡が出土することがある。
鏡を重用するのは、太陽信仰と関係ありそうに見える。

このように、古代の日本は祭祀面で、他の地域と大きな違いがあることが分かる。
箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が大きく、248年の日食が卑弥呼の死と近接しており、
天照大神の伝説が、卑弥呼とオーバーラップする可能性は充分に考えられると思う。
565名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 01:48
「臺」の一件で、古田信者が沈黙あげ
566>542 :2000/09/25(月) 10:45
もちろん邪馬「臺」も「臺」与もなかったんだろうね?
どうやって台湾のホームページ検索したの?
中国語のフォント持ってるの?
567名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 11:02
こんなことは、中国文学関連のHPを見れば、直ぐ分かること。
IEに付いているBIG5のフォントを入れればOK。
それすら知らずに三国志の用例を語っていた、古田爺さん信者の566は厨房。
568名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 14:50
 ど素人の質問で申し訳ないのですが、記紀に東遷の記述がある
ことから、大和朝廷のルーツは九州にあったというのは、九州派、
近畿派共に合意できることなのでしょうか?

 であるとすると、揉めているのは、卑弥呼の時代は、既に東遷
が行なわれていたのか(=近畿説)、それとも東遷以前なのか
(=九州説)、ということなのでしょうか?
569名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 15:13
人にも依るだろうけど、そう言うことじゃないの?>568

朝廷のルーツとは別に、倭国の体制の面で言えば、
神器の剣・鏡・曲玉の内、剣は中国から渡ってきたもの、
鏡もそうだけど、九州の弥生時代で異例に流行したもので、
曲玉は縄文時代前期から北陸で作られていたヒスイ製大珠が、
縄文時代晩期にヒスイ製曲玉へと発展したもの。

前方後円墳は畿内が発祥で、埴輪は吉備が発祥と、
色々な地域の祭祀が組み合わされており、
体制としては、日本各地の祭祀を融合したものと言えるでしょう。
570名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 21:54
考古学界の「野」の巨人・原田大六より
お話 地方文化研究家・深野治、聞き手 前原市長・春田整秀、福岡シティ銀行副頭取・中脩治郎

http://www.fcb.co.jp/cult/hakata/harada/1.htm
「それが、意外にも近畿説なんです。原田さんの本『卑弥呼の墓』『卑弥呼の鏡』をみると、
卑弥呼は『日本書紀』や『古事記』で第七代天皇と伝える孝霊天皇の娘ヤマトトトヒモモソヒメ
(倭迹迹日百襲姫)で、墓は奈良県桜井市の箸墓だと。笠井新也説に賛同しています。
原田さんは、九州人だから九州にこだわるということはないのですね。」
571名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 22:12
以前は、根拠無く古墳の年代を遅らせる説がまかり通っていたけど、
前原遺跡の調査で有名な、在野の考古学者・原田大六氏は、
出土した漢鏡などの年代と古墳の年代に、根拠無く大きなギャップを
考えることには反対で、早くから卑弥呼の時代は、古墳時代であると
していました。
572>563 :2000/09/25(月) 23:22
>ただ、神武即位330年というのは、あまり聞かない説だと思う。

そうかい?
・2代〜9代の天皇は実在しない
・10代崇神天皇は初代神武天皇と同一人物
・11代以降の天皇は実在するが、在位年数などはでたらめ
という説は、定説になっていると言っていいほど広く知られてるけどね。

この考えだと大和政権の成立は4世紀の始めから中頃と考えるのが普通。
もちろん、330年という具体的な数字は私の概算にすぎないが、それほど
おかしな数字ではないと思う。

在位年数がでたらめだという根拠は、記紀の記述を見れば一目瞭然で、

代 天皇 在位 享年 代 天皇 在位 享年
-------------------------------------
10 崇神 67年 119歳 17 履中 5年 不明
11 垂仁 99年 139歳 18 反正 4年 不明
12 景行 59年 143歳 19 允恭 41年 不明
13 成務 59年 107歳 20 安康 3年 56歳
14 仲哀 8年 不明 21 雄略 23年 62歳
-- 神功 68年 不明 22 清寧 4年 41歳
15 応神 40年 111歳 23 顕崇 2年 38歳
16 仁徳 86年 143歳 24 仁賢 10年 50歳
          25 武烈 8年 18歳
-------------------------------------
  平均 61年 127歳  平均 11年 44歳

となっていて、仁徳天皇以前は、あまりにもうそっぽいのがわかると思う。
そして、允恭天皇の在位41年というのもかなり怪しいので、これも改竄だと
すると、大和政権の成立はさらに20〜30年後だということになり、いづれに
してもそれは4世紀の出来事だとなる。

ちなみに、西都原古墳群でも、ニニギの墓より古いものは多数存在する。
神武東遷の頃にはすでに古墳文化が成立していたのは確実で、日本書紀でも
神武天皇は、大和地方の勢力を制圧して大和政権を築いたことになっている
ので、東遷以前にも元勢力により古墳が作られていた可能性は高い。

>ちなみに、「日没前の日食」説は、誰が唱えた説なの?

歴史ではなく天文学の本で読んだ記憶がある。著者は忘れた。
しかし、2〜4世紀に九州で90%以上欠けて空が暗くなる日食を調べると、
103/06/22@`127/08/25@`158/07/13@`168/12/17(金環食)@`
247/03/24@`
302/10/07@`308/11/30(金環食)@`328/05/25
といった程度に絞られるので、天文学的なアプローチでは、247年の日食が
有力な候補となるのは当然。なお、248年の日食は、九州では日が昇る前に
食のピークを過ぎてしまうため、空は暗くならない。
573名無し :2000/09/25(月) 23:32
東遷説について

まず、確認しておきたいのは、紀元前後の段階では、
「倭国王」は北九州にいた。
そして、倭の五王の五世紀までには、畿内に倭の王権が
移っている。

これについては、
1九州の王権が東遷した。
2畿内勢力が九州を征服した
で議論がわかれる。さらに、その時期をめぐっても、
邪馬台国の以前以後にわかれるわけ。

1の東遷の立場じたい、必ずしも支持されているわけではない。
畿内勢力の九州征服(または連合)説も根強い。

記紀で問題なのは、神武が南九州から出征したとなっていること。
そもそも、東遷説の根拠は、「北九州の文化が畿内に流入している」
という考古学史料によるものなのだから、記紀記述に反するわけだ。

したがって、東遷説論者でも、記紀のとおり、南九州勢力が
畿内を征服したと考えるのは、少数派であり、「北九州勢力の東遷」が
一般的。

しかし、北九州勢力東遷説では、なぜ、記紀が南九州勢力の東遷を
伝えているのか?という疑問が残る。

ここからさらに、論者によって議論がわかれる。
うまく、考古学と記紀が対応しないのだ。

いうまで゜もなく、「畿内勢力による九州併合派」も、
さまざまな論議をし、混迷は深まっている。

合意ができてる、とはまだまだいえないのが現状です。


574名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 00:12
>572
安本シンパのようだけど、10年とか言う平均値を、拡大解釈するのは非科学的。
紀元前13世紀でも、古代エジプトのラムセス2世は在位68年で、
100歳近くまで生きたと記録され、ミイラの調査でも確認されている。
5世紀の高句麗の長寿王も在位79年で、100歳近くまで生きたと、
中国正史に記されている。それぞれの在位はとてつもなく長い。

当時の日本に関しては、魏志倭人伝くらいしか文献資料がないのだから、
それより、畿内の前方後円墳体制が3世紀後半には、広範囲に分布すると言った、
考古学的証拠から、推定するべき。

同時代に、東海地方が発祥地の前方後方墳が、関東から東北北部まで分布し、
前方後円墳と対立するような分布を示し、東海地方が狗奴国の本拠地と考えられるとか、
考古学的裏付けを持った議論の方が、遙かに説得力があるでしょう。
575名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 07:34
昔でも、原田大六氏のような在野の考古学者が、まともな年代感を持っていたのに、
最近まで、主流の考古学者たちが、恣意的に古墳時代の始まりを著しく遅らせていたのは、
どういうことか? これが、邪馬台国の解明の足を引っ張っていたことは明らかでしょう。

平原墓についても、原田氏は漢鏡から2世紀前半と見ていたのに、九州説の人達は
根拠無く3世紀まで遅らせようとしているし、いい加減。
576名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 16:13
古い鏡が入っていればその墓が古い事を証明する訳ではない。
古い鏡を新しい墓に入れる事はありうるから。
これまで畿内派学者も年代にあまりいちゃもん付けなかったのは
他に何らかの理由があって年代を遅らせていたのでは?
ただC14の分析で3世紀前半まで可能性が出てきたと言う事。
577>557 :2000/09/26(火) 18:09
日本書紀の作者は三国志を読んでいた。
神功皇后を卑弥呼に模している記述がある。
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・」
のあたりの記述を神功皇后の事績として載せている。
578名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 21:38
卑弥呼あげ
579名無し :2000/09/27(水) 00:17
>572

>・2代〜9代の天皇は実在しない
>・10代崇神天皇は初代神武天皇と同一人物
>・11代以降の天皇は実在するが、在位年数などはでたらめ
>という説は、定説になっていると言っていいほど広く知られてるけどね。

確かに、よく知られている。
しかし、
>・11代以降の天皇は実在するが、在位年数などはでたらめ
以外は、あまり根拠のある説ではない。
(これについては、根拠挙げてくれれば、一つ一つ詳細反論する)
そもそも、「定説」というなら、「神武東征」じたいが虚構とされているわけだし。

また、単に古い遺跡があるとかいうことでは、話にならない。
日本全国、太古からの遺跡があるわけだから。

問題は、王権の南九州からの畿内侵入を示すものがあるかどうかじゃないかな。
南九州→畿内の、遺物の連続性を検証する必要があると思う。
580名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 01:29
>579
弥生時代の畿内〜東海の祭祀に特徴的な、銅鐸が蔑ろにされていることは、
古墳時代の畿内との断絶を感じさせるでしょう。
神器のうち、曲玉は縄文時代晩期から北陸で作られていたもので、
鏡は弥生時代の九州北部に特徴的。南九州に関係の強いものって、何かあるかな?
581名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 01:30
>579
弥生時代の畿内〜東海の祭祀に特徴的な、銅鐸が蔑ろにされていることは、
古墳時代の畿内との断絶を感じさせるでしょう。
神器のうち、曲玉は縄文時代晩期から北陸で作られていたもので、
鏡は弥生時代の九州北部に特徴的。南九州に関係の強いものって、何かあるかな?
582名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 01:31
>579
弥生時代の畿内〜東海の祭祀に特徴的な、銅鐸が蔑ろにされていることは、
古墳時代の畿内との断絶を感じさせるでしょう。
神器のうち、曲玉は縄文時代晩期から北陸で作られていたもので、
鏡は弥生時代の九州北部に特徴的。南九州に関係の強いものって、何かあるかな?
583名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 01:33
ミスで多重カキコして、すんまそん。
584名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 07:16
箸墓古墳あげ
585名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 09:34
なんで、わざわざ住みよい九州から
近畿へ行く必要があるのだろうか?
朝鮮半島から遠くなるっちゅうことは、防衛上の必要から?
586名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 09:54
隣りの芝は青く見えるもんなのよ
587名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 11:26
房総半島の安房国は、四国の阿波国から移り住んだ人が多いとの、言い伝えがあったりするし、
移動することは良くあるんじゃないの。
南九州は、桜島の火山灰で覆われたシラス台地からなり、農作物も余り育たないし、
弥生時代には余り住みやすいところではなかったのでは?
588しろうと :2000/09/27(水) 13:26
>585
近畿は当時から活火山がなかった。台風の被害が(九州より)
少ない。水運の便がいい。低湿地が多く稲作に適している。
あと、防衛上の理由かな敵が朝鮮半島かどうかはわからんけど
こんなとこちゃう?
589名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 13:28
>579
応神天皇だって北九州から畿内に移動している。
少なくとも応神天皇は実在だろうが、崇神天皇も神武天皇も架空で
応神天皇の業績を崇神天皇と神武天皇に振り分けて記載してある
可能性はないだろうか。
590名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 14:02
>589
神功皇后が、幼い応神天皇を抱えて、畿内への帰還したのは、
三韓征伐の後としており、4世紀後半の話となる。
それよりずっと以前に、畿内発祥の前方後円墳体制が日本列島に広がっており、
その話はムリがありすぎでしょう。
591名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 14:10
桜島って言っても、その影響を受けるのは、鹿児島だけよ。
台風か〜 これはマジで大変だからね〜
むむ?畿内って稲作地帯とは習わなかったな。
北部九州は「稲」とか「穂」のつく地名が多いから
物なりはよさそうな感じがする。
592世界@名無史さん :2000/09/27(水) 14:16
阿蘇・雲仙普賢岳
593名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 14:30
>592
嫌になるほど凄かったのだろうか?
阿蘇はともかく、普賢岳は無視しても、いいと思うけど・・・
594世界@名無史さん :2000/09/27(水) 15:01
まー 櫻島は年中吹いてるし、阿蘇も10年から数十年に一度くらいで
大きめの噴火あるから、普賢岳は知らんけど...
火山あるよりは無い方が暮らしやすいのは確かだしな。
火山ないけど近畿では温泉にも困らないし
大和政権は隼人族とモメてたみたいだからそれも大きいかもね
595前に書いた者です :2000/09/27(水) 15:07
やっぱりヤマダ国です。
ヤマダヒメコが女王の名前です。やすっぽいな。
596名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 17:15
>590
天皇(支配者)が20年位?畿内を離れていたなんて本当でしょうか。
ここは当然政権交代があったと考えるべきでしょう。
継体天皇のときも大和地方に長い間天皇がいなかった。
これも政権交代を暗示している。
崇神天皇以降の天皇が実在したとしても、応神天皇も大和にあった政権に
平和的にか軍事的に圧力掛けて政権を譲り受けたのではないかと推測して
います。
597横レスだが :2000/09/27(水) 18:01
天変地異(噴火・地震など)に関するHPを発見したので報告する。
ttp://www.netlaputa.ne.jp/%7Ehouse/nenpyo/ihen/ihen01.htm
ただし作者がどういう来歴の方かは今のとこ不明。参考文献は死ぬほど当たっているのが
判るから、ある程度信用していいと思う。
これによると、弥生後期に九州で大噴火・地震などが多発したようには書かれていない。
他に阿蘇や普賢岳関係のHPや地質研究所のHPもあさってみたが、
弥生後期に大噴火が起こった記述は発見できなかった。
598名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 18:19
>596
前方後円墳体制は、ずっと続いており、全く別の組織が取って代わったことは考えられない。
東海が発祥で、関東や東北南部にまで広がった前方後方墳や、
山陰が発祥で、北陸にまで広がった四隅突出型墳丘墓が衰退したのとは、様相を異にしている。
コップの中の嵐的な、権力闘争に過ぎない程度でしょう。
599名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 18:24
>597
ごく少数の考古資料に基づくもの以外は、文献資料に基づくもの。
だから、飛鳥時代以前のデータが少ないのは当たり前。

それと、その年に火山噴火がなくても、そもそも南九州はシラス台地で土地が痩せており、
元々農作物の収量が低いことを理解すべきでしょう。
600名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:08
シラス台地って、鹿児島の一部だけと思うんだけどな・・・
まあ俺達、九州の田舎モンが、埼玉に行くも横浜に行くも全部まとめて
「東京へ行ってくるね♪」って言うのと同じ感覚か・・・


601名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:10
そもそも
>>585
のような素朴な疑問って盛り上がるよね
こりゃ、最後は人間の行動心理とかを分析したほうがいいかもな
602名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 00:44
神武天皇の東遷あげ
603名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 07:32
神武天皇の東遷あげあげ
604名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 09:19
>598
本拠地を移した征服者にとって一番楽な統治の仕方は
その国の宗教やしきたりを踏襲することである。
本拠地が別にあって植民地であれば自分たちの文化を
押し付ける事も可能だろうが、例えば本国を追われて
来たものにとって
「自分は新しく征服した国の正当な後継者である。」
という体裁を取るのは余計な反発を招かない為の手段
として有効だろう。
神武、崇神、応神とこの三人だけが神と言う名前がある
というのも同一人物である事を示唆しているように思える。
605名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 10:18
>604
神功皇后(大日本史以前は天皇歴代に数えられている)にも「神」があるぞ。

つーか、この時代の天皇には、中国風の追号は元々は存在しないことは、
良く知られたことで、古代史を知らなさすぎる。日本書紀や古事記をちゃんと読め。
奈良時代になって、淡海御船が選定したものと伝えられている。
606名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 10:24
>605
はっはっはっはっ
604は、その淡海御船さんが、3人(4人?)に
「神」の字を付けたこと自体を
「どうよ?」って言ってるんだと思うぞ
607スバリお答えしよう。 :2000/09/28(木) 10:54
卑弥呼の居るところが邪馬台国だ!ゆえに
1川崎地下街アゼリア
2大阪なんばCITY
3下関ショッピングセンター

などが邪馬台国である。
608名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 11:35
606は苦し紛れの言い訳をするな
日本書紀・古事記に見られる和風名で議論すべきなのは、明らかだろ
609名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 13:40
三人ともハツクニスメラミコト?(うろ覚えだが)みたいな称号付いてなかった?
610日本@名無史さん :2000/09/28(木) 14:28
倭人伝の里程・日数・戸数って実数なんですか?
611名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 15:04
複素数
612名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 15:10
虚数でしょ
613名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 15:42
一行レスのチャチャしか書けない、古代史に無知な連中は逝ってよし
614名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 16:01
逝ってよし

2chでも久々に見たな〜
まさに古代史だ

(けっけっけ。1行じゃないよ〜〜〜〜ん)
615名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 07:45
九州説壊滅あげ
616名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 10:27
>598
>前方後円墳体制は、ずっと続いており、全く別の組織が取って代わったことは考えられない。

応神天皇陵には複葬品として周囲に埴輪が並べられて居る事が知られていますが
応神天皇陵以前の古墳に埴輪を並べたものがあるのでしょうか。
617名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 10:37
>616
土器の型式から、最古級の前方後円墳とされる纏向石塚古墳には、埴輪は見られません。
巨大古墳としては最古級で、卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳には、
埴輪の原型とされる吉備発祥の特殊器台が並べられており、
それが埴輪に移行して、続いていきます。
埴輪を並べるのは、吉備の影響と見られています。

と言うことで、応神陵の遙か以前から存在します。
618名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 17:00

なるほど箸墓古墳が出来た頃に大和地方に新しい征服者がやってきたんだね。

そういえば銅鐸が廃棄されたのもこの頃だね。
宗教上の祭器を打ち壊すなんて物すごく強力な異民族の浸入があった可能性が強い。
619名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 01:06
618は、思いつきの電波発言だな。(わら

銅鐸は、単独で出土する例が大部分で、土器など年代の指標となるものを
伴わないことが多いので、年代については不確定。
原料の鉛同位対比は、後漢中期以降の漢鏡とは全く異なり、それ以前の組成ばかり。
もし、中国と同じ鉛原料を使っているなら、2世紀まで続かなかったことになるけど、
どうだろうか?

箸墓古墳より前から、前方後円墳が作られているし、畿内の弥生時代には、
その原型と思われる墳丘墓が見られる。

一方、ヒスイ製勾玉のように、縄文時代晩期から日本で使われ続けたものもある。
邪馬台国から魏への献上品にも、「青大句珠」とヒスイ製勾玉と思われるものがある。
ちなみに、ヒスイ製勾玉は、その後は朝鮮半島南部の百済・新羅・任那の旧領でも
たくさん出土し、高句麗の旧領ではほとんど出ない。倭国の勢力圏でみられるようです。
620日本@名無史さん :2000/09/30(土) 09:46
>宗教上の祭器を打ち壊すなんて物すごく強力な異民族の浸入があった可能性が強い。

九州でもほぼ同時期に大型銅鉾が打ち壊されてるんだけど、
やっぱり強力な異民族の侵入があったのかな?
621>537 :2000/09/30(土) 10:02
537のタネ本は多分「虚妄の九州王朝」(安本美典)だと思うから
それに沿って反論していこう。

まず、「台」字の使用範囲を考えよう。
安本氏は、同書で白崎昭一郎氏の次の文章を引用している。
「台獄とは、御史台に所属する獄のことである。天子直属の
 官庁といえないことはない。」
この文に対しては、安本氏も異議を唱えていないから、結局
古田氏が主張している「台」字の使用範囲は次の3点であると、
安本氏も認めていることになる。
 1 天子本人
 2 天子の宮殿
 3 天子直属の官庁・機関・施設
この範囲を確認した上で個々の事例について反論しよう。

台獄について
 上にも書いたように台獄とは、御史台に所属する獄のことである。
 そして御史台とは官吏の監察・弾劾を司る官庁である。
 (ちくま書房文庫 正史三国志8)
 つまり台獄とは、普通の牢獄ではなく官吏の牢獄なのである。
 しかも、それは御史「台」に直属している。だからそういう牢獄が
 「台獄」と称されることはむしろ当然のことなのである。
                            続く 
622>537 :2000/09/30(土) 10:03
京観について
 「ここでの「台」は「京観」のことである。つまり、塚なのだ。」
  (虚妄の九州王朝)
 これも安本氏(及び537)の無知に基づく誤解である。
 京観は決して単なる塚ではない。
 「積シ封土して京観を作るという。これが京字の古義で京はつまり
 凱旋門に相当し」ているのだ。
 (「字統」 平凡社  シは戸のーがない字)

 では、京観が凱旋門であるならば、そこに凱旋するのは誰か?
 当然、天子である。
 だから、そういう京観を、台と称することは
 不思議でもなんでもない。
                          続く
 
623>537 :2000/09/30(土) 10:03
東征台について
 >537
 >東征台とは文脈から言って胡質が置いた地方の役所のようなもの

 ここにも537の無知が露呈している。胡質は征東将軍に任命
 されている。
 「征東将軍  寿春に駐屯し青・エン・徐・楊四州の吏史を
        統べる。」 (ちくま書房文庫 前掲書)
 このように、胡質は単なる地方豪族ではない。
 天子から征東将軍に任命されているのである。
 (胡質は、三国史では独立した人物伝を立てられているほどの
  重要人物である。)
 その征東将軍が駐屯している地を、東征台と称するのは
 これも当然のことである。

以上のように537が提示してきた問題は、いずれも安本氏や
537の無知によるもので、古田説が矛盾していることを証明する
ものではなかった。
むしろ古田説を補強するものであることがわかる。

624621  :2000/09/30(土) 10:22
かなり遅くなったけれど
537があまりにも無知なので
久しぶりに気合を入れて、まじレスしちゃったよ。

あ〜、はずかしい。
625素人の感想 :2000/09/30(土) 20:22
いやぁ、しばらく忙しくて見ていなかったんですけど
8月下旬には邪馬台国の周囲の長さの記述から九州説が有力だったのに
9月に入って新潟説がでてきて(笑)
9月下旬に壹・臺問題の議論から急に畿内説支持者が活発に
621-624が反論
これは目が離せません。
過去ログ読むの大変だったよ〜
626621  :2000/09/30(土) 21:43
訂正と追いうち

537は三木太郎氏の著作からの引用だったんだね。
まあ、どちらにしても同じだ。
かえって、安本美典の無知蒙昧さを再確認できてよかったよ

それにしても、537は自分で「征東将軍」を引用して
何も感じなかったのか?
倭の五王はわざわざ征東将軍の称号をもらいに、隋まで使者を派遣したんだぜ。
大陸の地方豪族や、ましてや天子(及び王)の臣下が勝手に征東将軍を
名乗れるはずがないだろう。

京観にしても同じだ。
「京」字がついてることから、天子や中央の政府に関係しているものだとは
思わなかったのか?
627名無しさん@1周年 :2000/09/30(土) 22:37
邪馬台国はあなたの心の中にあります。
ムー大陸と共に沈みました
628日本@名無史さん :2000/10/01(日) 00:43
>その征東将軍が駐屯している地を、東征台と称するのは
>これも当然のことである。

でも、天子の宮殿じゃない。
一将軍の役所でいいなら、親魏倭王の宮殿だっていいわけだ。

>では、京観が凱旋門であるならば、そこに凱旋するのは誰か?
>当然、天子である。

本気で言ってるなら、大馬鹿もんだ。
629名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 00:55
>628
同感、古田ヲタはバカ決定
630名無し :2000/10/01(日) 01:27
ちゃんと反論しないと、またぞろ、
「反論しないのはできないからだ」
とかいいだすよ。

まず、東征台について。

これが、派遣された将軍の駐屯所に「台」の字を使ってよく、
倭人の国名に使っていけないという根拠はなんなのだ?

また、台は人名にも使う。
人名に使ってよい字を、倭人の国名に使ってはいけないという根拠は
なんなのだ?

また、京観について。

三国志中の京観は、「凱旋門」の意味で使われているのか?
実際の文脈の中で意味を調べなければしようがないであろう。
そもそも、もともとの意味とかいうなら、「台」が三国志以前は
天子関連で使われていた事は、古田も認めているのだ。

さて、根本的な問題だが、
古田説に特徴なのが、
「古田が自分で論争の条件を設定し、他の論者に反論を求める」
というものである。

そもそも、たとえ、三国志中に、「台」の用例が天子関連で使って
いるだけだとしても、倭人の国名(明らかに、当て字)に使ったはずがない
などと、なぜいえるのだろう?

倭人の国名には、「華」も「都」も認められているのである。
貴字だ、卑字だ、という論議じたい、最初から無意味なのだ。
631名無し :2000/10/01(日) 01:54
>古田擁護者へ、

使於緜竹築臺以為京觀用彰戰功(魏志)
「魏書二十八/ケ艾」

のどこが凱旋門なんだ?
上の文章を、どう読んだわけ?

> 「京」字がついてることから、天子や中央の政府に関係しているものだとは
> 思わなかったのか?

やれやれ。漢字というのはいろいろな意味で使われるのだよ。
ちなみに、隋の遠征軍を破った高句麗が、
敵戦死者の骨灰で「京観」をつくったのは、有名。
これも、凱旋門ではなく、戦捷記念碑のようなもの。

とにかく、文章を読め。
632621  :2000/10/01(日) 10:22
>628
>一将軍の役所でいいなら、親魏倭王の宮殿でもいいわけだ。

まだ、わかっていないようだな。
(東征)台=征東将軍じゃないんだぜ。
台=天子だ。
その台に征東将軍が駐屯しているということは、「征東将軍といえども
天子の臣下である」ということだ。
そういうことを主張している用例なんだよ。

だから、朝貢はしているけれども、魏の臣下ではない倭国に「台」字を
使うことはないのだ。
親魏倭王であって、臣魏倭王じゃないんだぜ。

一方で、天子と臣下のけじめを厳しくして
他方で、臣下と独立国の違いををきっちり分けている
三国史・陳寿を、じっくり味わってほしいねえ。
633621  :2000/10/01(日) 10:23
>630

これが「ちゃんとした反論」なのか?
具体例を出しな。
そうすれば、今回のようにまた「ちゃんとした反論」を
してやるからな。

>631
>これも、凱旋門ではなく、戦捷記念碑のようなもの。

では「戦捷記念」するのは誰なんだ?

凱旋でも、「戦捷記念」でもどちらでもいいんだよ。
重要なのは、三国史の中の、京観=台で
それをする主体は誰か、ということだ。

京観というのは普通名詞に近いから、三国時代でも各国に京観が
作られたであろう。
しかし、陳寿の立場で京観=台となるのは、魏が作った京観しかないんだよ。
634日本@名無史さん :2000/10/01(日) 11:24
621=ドイエってる
635名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 21:04
邪馬台国巻向遺跡説の根拠は、年輪年代法による
年代の一致のほかに、どういうものがあるの?
特に遺跡の出土品について、教えてほしいのだけれど。
636名無し :2000/10/01(日) 23:33
>古田支持者へ

>その台に征東将軍が駐屯しているということは、「征東将軍といえども
天子の臣下である」ということだ。
そういうことを主張している用例なんだよ。

だから、朝貢はしているけれども、魏の臣下ではない倭国に「台」字を
使うことはないのだ。
親魏倭王であって、臣魏倭王じゃないんだぜ。

そもそも、三国志で、「台」が地名や人名に使われているのは
どういうこと?

また、

使於緜竹築臺以為京觀用彰戰功(魏志)
「魏書二十八/ケ艾」

がどういう意味かわかっているの?
「台」を築いて、戦功顕彰用の「京観」とした、ということである。
誰が造ったかが問題ではない。
ここの「台」とは、なにか、である。
安本の解釈の通り、「塚」ではないのか?
これは、「台」が「塚」を示す用例である。

>京観というのは普通名詞に近いから、三国時代でも各国に京観が
作られたであろう。
しかし、陳寿の立場で京観=台となるのは、魏が作った京観しかないんだよ。

トホホ・・・安本の反論だけ読んで、誤解してるようだね。
使於緜竹築臺以為京觀用彰戰功(魏志)
「魏書二十八/ケ艾」
をとにかく読め。「台」はなんの意味だ?



一方で、天子と臣下のけじめを厳しくして
他方で、臣下と独立国の違いををきっちり分けている
三国史・陳寿を、じっくり味わってほしいねえ。
637名無し :2000/10/01(日) 23:42
>古田支持者

ちなみに、「台」が人名でも使われていることは、
何度も指摘されてるけど、それに対する反論はないの?
「反論しないのはできないから」か?
638鰯の頭も信心から :2000/10/01(日) 23:43
バッカじゃないの

>「征東将軍といえども 天子の臣下である」ということだ。
>そういうことを主張している用例なんだよ。

そんなことあったりまえじゃん。なんでいちいち言わなきゃいかんのさ。

宗教にはまってしまった人間はどうしょもねぇな
639鰯の頭も信心から :2000/10/01(日) 23:47
バッカじゃないの

>「征東将軍といえども 天子の臣下である」ということだ。
>そういうことを主張している用例なんだよ。

そんなことあったりまえじゃん。なんでいちいち言わなきゃいかんのさ。

宗教にはまっちまったヤツは救いようがねぇな
640>古田支持者 :2000/10/01(日) 23:55
三国志倭人伝に、「華奴蘇奴国」がある。
「華」は卑字か?
641名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 01:00
>635
七万戸を有する邪馬台国の領域は畿内広域が考えられ、纏向はその都に目されます。
纏向の発掘は、未だ一部しかされていませんが、今のところは決定づけるものは
見つかっていないのが現状でしょう。
なお、飛鳥以前の都については、木簡とか文字資料が出ないので、考古的には
断定できないようです。

ちなみに日本書紀には、垂仁天皇が纏向珠城宮に、景行天皇が纏向日代宮に
都をつくったと記されています。
642名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 01:01
>635
七万戸を有する邪馬台国の領域は畿内広域が考えられ、纏向はその都に目されます。
纏向の発掘は、未だ一部しかされていませんが、今のところは決定づけるものは
見つかっていないのが現状でしょう。
なお、飛鳥以前の都については、木簡とか文字資料が出ないので、考古的には
断定できないようです。

ちなみに日本書紀には、垂仁天皇が纏向珠城宮に、景行天皇が纏向日代宮に
都をつくったと記されています。
643名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 04:04
箸墓古墳あげ
644名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 07:50
>642
ありがとう。
決定的なものじゃなくても、いろいろ出土品が出ていると
思うのですが、そのへんについてご存知ないですか?
銅鏡、銅矛、銅剣、絹なんかについては、どうですか。

645621 :2000/10/02(月) 09:59
>636
問題をわざとややこしくしているのか?
その文章に塚が使われてなくて、台が使われているのは
積シ封土して「以って為す」のが、天子が「戦功を彰す」
京観だからだろうが。
陳寿にとっては、その盛り土は単なる物理的なものじゃないんだぜ。
それ以上に、政治的なものだということがわからないのか?

>637
具体例を出してきな。

>638
>そんなことあたりまえじゃん。なんでいちいち言わなきゃいかん
 のさ。

あたりまえだと考えているなら、かなりオメデタイね。
どこの歴史でも、反乱は身内の軍人から起こっていることが
多いということを知らないのか?
バッカじゃないの。

>640
「ト」という音を表すのに適した漢字は多数ある。
その多数ある中から、台という貴字を使うはずがないというのが、
古田説の原点である。
つまり、台(貴字)に対しての卑字(他のトという音の文字)であり、
他の文字すべてに、貴卑の基準を適用するものではない。
批判する対象の、せめて基本的なことがらについては
把握しておこうな。

646名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 18:56
>644
邪馬台国は畿内全域と言った広大なものと考えられ、纏向遺跡だけでなく、
同時代の周辺の地域から出土したものも、一緒に扱って議論します。
銅鏡は、周辺の古墳で、大量に出土していることは良く知られていること。
絹は、下池山古墳で、巨大な倭鏡を包んでいた布が、倭錦と鑑定されています。
軍事的には鉄製品の優越が明らかだったので、銅矛・銅剣と言ったものは、
実用的な意味は持たなかったでしょう。
647日本@名無史さん :2000/10/02(月) 19:19
邪馬台は魏皇帝の任命による倭王の役所、という意味合いで
「台」という文字を使っているのはわざとって言うことはないでしょうか
そういう用法がないなら「ない」って言ってね
648647 :2000/10/02(月) 19:40
すでに議論済みでしたね。ごめんなさい
649畿内説オヤジに解説きぼーん :2000/10/02(月) 20:17
>74 名前:日本@名無史さん 投稿日:2000/10/02(月) 12:49
> 記紀に書かれている神話の多くは、日向と出雲が舞台になっている。
> そして、この2国は同盟関係にあり、神武東征についても、出雲が支配していたと
> 思われる瀬戸内海域の道程は平穏無事なのに対して、近畿地方に入った途端、
> 強敵にはばまれ、1度は敗れ、兄まで殺されて退却を余儀なくされ、援軍を得て、
> 再度の進攻で大和地方を制圧したことになっている。

> つまり、記紀には、西日本の日向・出雲連合軍が近畿の巨大勢力を倒して作ったのが
> 大和政権だと書かれているわけだが、記紀の記述は絶対だと考えているはずのウヨの
> 多くは、近畿の勢力が西日本を制圧して作ったのが大和政権だと、全く逆のことを
> 考えている。ウヨ達はこの矛盾をどう思ってるんだろうね?
650日本@名無史さん :2000/10/02(月) 21:24
わからん
651日本@名無史さん :2000/10/02(月) 21:37
神武東征を根拠に大和朝廷の祖先が日向出雲連合だったなんて、国譲り神話をどう考えているのだろう・・・
出雲は朝廷での扱いや系譜神話での位置から考えて、朝廷に帰属したのはかなり後になってからだと考えられる。神武天皇の東遷が瀬戸内海でスムーズに行ったと指摘するなら、重要なのは出雲ではなくて吉備でしょ。山陰と山陽の区別も付かないのか

九州説、というか北九州説な訳だから、日向の高千穂宮はちょっと南だし。
東遷説では記紀神話と畿内説は対立しないし。
あと、邪馬台国と大和朝廷が連続しているかどうかも議論のネタなのだから、畿内説と記紀神話を盲信する皇国史観とはべつじゃん。ウヨにとっては邪馬台国が九州にあっても全然かまわないと思う。

古代において異なる部族が統一した政権を維持するためには神話のレベルでも統一する必要があった。記紀神話は大和以外の地域の神話が様々に織り込まれている。その度に物語の舞台も移動したとも考えられる。

ぼくは畿内でも北九州でもどちらでも良いと思っているけれど、邪馬台国論争と神武東征とは別の問題なのじゃないかという意味で考えを述べさせていただきました。
652621 :2000/10/02(月) 22:04
645の補足

A 使於封土築台以為宮殿
こういうAのような状況を考えてくれ。
日本の南北朝時代での、南朝側と同様の状況だと考えてほしい。
いわば塚の中をくりぬいて、天子の住居としたような状況だ。
そんな事実はなかったとか、盛り土が宮殿として使われるはずはない
と言うのはナシだぜ。
あくまでもたとえだからな。それくらいの想像力はあるだろ。

古田説によれば、上の「台」は、塚ではダメで
まさしく台でなければならない、ということはわかるだろ?
これも古田説を信じろ、と言っているわけじゃないぜ。
古田説の立場に立てば、ということだ。

A 使於封土築台以為宮殿
B 使於○竹築台以為京観  (手許に辞書がないので、
               ○でしか書けなかった。了解してほしい。)

そしてAとBは、文章の構造が同じだろ。
ということは、古田説の正否とは関係なく、
古田説の立場に立ってAが成立すれば、
Bも成立する、ということなんだよ。
つまり、Bを持ち出してきても、Aの反証にはならない、
古田説の反証にはならない、ということだ。


653>古田支持者621 :2000/10/02(月) 23:21
>使於封土築台以為宮殿

上の文章は、三国志が出典なのか?
今は、三国志の中の「台」について論じているんだろう?
三国志以外では、「台」が天子関連以外でも使われることは、
古田も認めているのだ。
654>古田支持者621 :2000/10/02(月) 23:29

>「ト」という音を表すのに適した漢字は多数ある。
その多数ある中から、台という貴字を使うはずがないというのが、
古田説の原点である。
つまり、台(貴字)に対しての卑字(他のトという音の文字)であり、
他の文字すべてに、貴卑の基準を適用するものではない。
批判する対象の、せめて基本的なことがらについては
把握しておこうな。

「華」以外に、カの音の字がなかったというわけ?
他にカ音の文字があるのに、なぜ、「華」という
天子の宮殿の名前にも使われる字を、わざわざ蛮夷の、それも、
一小国の国名につけたのだ?


655>651 :2000/10/03(火) 03:12
>神武天皇の東遷が瀬戸内海でスムーズに行ったと指摘するなら、重要なのは出雲ではなくて吉備でしょ。山陰と山
>陽の区別も付かないのか

神武東遷は、日向・吉備連合軍だったとしても別に構わないのだが、
記紀によると、神武天皇は近畿に進攻するため、3年に渡って吉備に
留まり、兵力を増強したことになっている。つまり、神武の兵は大半が
中国地方の者だったということで、これが、「連合軍」とする所以である。

しかし、そんな拠点とするところを、何も頼るものがない所に置くもの
だろうか?しかも、3年もだ。もとより、日向と出雲は同盟関係にある。
普通なら、出雲を頼って出雲を拠点とするだろう。それをしなかったのは、
すでに吉備が出雲の支配下にあったため、吉備にいても出雲の援助を十分に
得られたからだと考えられる。これぞ、日向・出雲連合軍と称する所以である。

>九州説、というか北九州説な訳だから、日向の高千穂宮はちょっと南だし。
>東遷説では記紀神話と畿内説は対立しないし。

日向は、都のあった西都に「つま」という地名が残っていることから、
邪馬台国の同盟国であった投馬国こそが、日向のことなのだと考えるのが
一般的で、それだと、邪馬台国と大和政権はつながらないことになる。
東遷を認めるなら畿内説は成り立たないと考えたほうがいい。
656名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 10:43
三国志の筆法あげ
657621 :2000/10/03(火) 22:22
>653
誤解させてしまったようだね。
その文章は仮想の状況を現したものなんだ。

なぜ、そういう文章を作ったのか、ということも含めて
もう一度、補足しておくよ。
  A  使於封土築台以為宮殿
という文章の「台」字の部分は、古田説によればまさしく「台」で
なければならないよね。
一方、
  B  使於○竹築台以為京観
は、Aと同じ構造をしている。
だから、(古田説が正しいかどうかには関係なく)古田説の立場に立って
Aが正しいと仮定すれば、Bも正しいことになる。
つまり、Bの「台」字の部分も、「台」でなければならないことになるんだ。
いいかえればBを持ち出してきても、Aの反証にはならない
ということなんだ。

  C  2÷2=1
  D  4÷4=1
CとDは、使われている数字は違うけれど、構造は同じだよね。
だから、Cが本当に正しいかどうかに関係なく、Cが正しければ
Dも正しい。
いいかえれば、Dを持ち出してきても、Cの反証にはならない
ということなんだ。

658621 :2000/10/03(火) 22:24
>654
>他にカ音の文字があるのに、なぜ「華」という
 天子の宮殿にも使われる字を、蛮夷の、それも、
 一小国の国名につけたのだ。

まず第一に、「台」はその文字だけで天子の代名詞になっている。
そういう意味で「台」は特別である。
しかし、「華」は「台」ほどの重要な文字ではない。

第二に、君が考えているほど、陳寿は(台以外の)文字の貴卑の基準を
厳密に適用しているわけではない。
たしかに、三国史の蛮夷の国名・人命には「卑」字が多用されているが
その適用は100%ではない、というところだろうね。

659がんばろう :2000/10/03(火) 23:49
>A  使於封土築台以為宮殿
>という文章の「台」字の部分は、古田説によればまさしく「台」で
>なければならないよね。

古田の言う通り“台=宮殿”以外の意味がないのであれば“以為宮殿”は不要。

仮に、Aの用例が実在したとすれば、それは“使於封土築台”だけでは通意し
ないので“以為宮殿”という説明を加えていることになる。つまり、“台=宮
殿”とは限らないってこと。自己否定の作文だったね。

>そしてAとBは、文章の構造が同じだろ。

Bも“使於緜竹築台”だけじゃ通意しないから“以為京観”という説明がある。
だから文章構造が同じなんだな。
660621 :2000/10/04(水) 22:20
>659
>古田のいう通り”台=宮殿”以外の意味がないのであれば
 ”以為宮殿”は不要。
>つまり、”台=宮殿”とは限らないってこと。

古田も621も、「”台=宮殿”以外の意味がない」とは
言っていないよ。

621に書いたように、台は
  3 天子直属の官庁・機関・施設  (例 御史台)
の代名詞にもなっている、と言っているよ。
だから、台=宮殿とは限らないんだよね。

なにか勘違いしているのかな。
この反論は無効じゃない?
661日本@名無史さん :2000/10/05(木) 02:22
誰が誰だかわからないが、

>「臺」の文字が三国志の中で他に魏の「皇帝の宮殿」以外の意味で
>使用されている例があるのなら「壹」ではなく「臺」である可能性
>を認めてもいいけどね。
>この辺は古田が論証済み。

は誰が書いたんだ?

>1 天子本人
>2 天子の宮殿
>3 天子直属の官庁・機関・施設

のうち

>A  使於封土築台以為宮殿

の台は、1、3ではありえない。
1は論外。“築”だから建造物なので3でもない。だから2しか残らない。

それと、呉書の孫権の釣台はこれにあてはまらない。
孫権の宮殿の一部だろうが、“天子の”じゃない。

蜀書の平台事の台は、蜀の尚書のことだからこれは天子直属じゃない。
東征台も胡質の管理下にあるから、天子直属じゃない。

ところで、1の用例はあるのか?
662名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 13:22
2000年10月4日(水) 23時15分
<遺跡>弥生時代の大型高床建物を描いた土器片発見 奈良(毎日新聞)

 弥生時代の全国最大級の集落として知られる唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡
(奈良県田原本町)で、大型高床建物を描いた土器片が見つかった。4日発表した
同町教委などによると、8年前に同遺跡で見つかった豪華な楼閣(紀元前1世紀)を
描いた2個の土器片と同一のつぼの破片だった。楼閣とセットになった大型高床建物の
絵の発見で、同遺跡には、楼閣を中心に複数の建物から構成された宗教的なゾーンが
あった、との見方が強まってきた。

 土器片は縦7センチ、横4・5センチ、厚さ1センチで、通学路整備に伴う今年
1〜3月の事前調査中、楼閣が描かれた土器片から約20メートル離れた遺構で出土
した。柱、屋根、屋根飾りの各一部が描かれている。柱や屋根などのバランス、過去に
同遺跡で見つかった約30点の建物絵画土器の図柄などから、全体は渦巻き状の
飾り付き寄せ棟造りの大型高床建物と推定できるという。同様の建物を描いた
絵画土器が遺跡内で見つかっていることなどから、実在したことは確実とみられる。

 今回の土器片と、楼閣を描いた土器片2個は色、材質、はけの使い方などが一致し、
同一のつぼの破片と断定。楼閣と同一個体に描かれていたことは、楼閣が周辺に複数の
建物を従えていたことを示すという。

 楼閣の土器片が出土した際、仏教建築が伝わる以前に本格的な重層建物が奈良に
あったことを示すと言われた。一方、中国の建物を描いたとの説もあり、町教委など
は今回の土器片の出土で楼閣が実在したことが裏付けられたとしている。【花岡 洋二】

 ▽金関恕・大阪府立弥生文化博物館長の話 弥生時代の土器は宗教的儀礼を描いて
いることが多く、今回の高床建物は祭殿のような建物とみられる。建物集合体が
集落の主導的役割を果たし、政治的・軍事的センターも兼ね、一帯がやがて邪馬台国に
つながったと考えられる。
663日本@名無史さん :2000/10/05(木) 15:25
畿内説の最大の矛盾は魏志倭人伝に書いてある事に基づいて
邪馬壱国を捜しながら、魏志倭人伝は間違っていると言わざるを
得ない事である。
魏志倭人伝が間違っているなら邪馬台国を捜しても無理なのでは?
664日本@名無史さん :2000/10/05(木) 15:33
一方、九州説の弱点は人口かな?
7万戸もの人口があった遺跡は九州からは見付かっていない。
こちらはこれから見つかる可能性もあるが?
665名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 16:38
径百余歩と言う卑弥呼の墓は、畿内説なら箸墓古墳があるが、九州は無し。
漢鏡も、この時代は畿内の墓から数多く出土するが、九州は少ない。
戸数七万戸も、畿内で考えれば充分説明が付くし、投馬国の五万戸も吉備なら同じ。
九州だと全くムリでしょう。

そもそも、邪馬台国九州説は、古代の皇室が中国に朝貢し冊封されたとする
記述が気に入らない言う、江戸時代の国学者達の邪念から生まれた妄想が、
広まったモノに過ぎない。戦後は逆にサヨクが、大和王権の誕生を遅くし、
勢力を弱く見せたい邪念から、古墳時代の始まりをムリヤリ遅くすることにより、
許容された説に過ぎない。

戦後活躍した九州在住の在野考古学者で平原遺跡の発掘で有名な原田大六氏は、
古墳時代をムリに遅らせる動きに反対し、箸墓古墳=卑弥呼の墓説を支持していた。
国粋主義や反日サヨクが横行すると、北朝鮮を笑えない事態になると言う話。
666実家が唐古遺跡の近所 :2000/10/05(木) 18:13
九州は近畿地方ほど宅地造成が盛んでなく、
したがって遺跡の発見や発掘も進んでいません。
664さんのおっしゃるとおり、
「これから見つかるかも」というスタンスを
失っては行けません。
667>667 :2000/10/05(木) 18:21
そもそも、邪馬台国畿内説は、西日本の勢力に近畿の勢力が滅ぼされたとする記紀の
記述が気に入らない、古代永劫、日本の中心は近畿なのだと思っている、関西人の妄想が、
広まったモノに過ぎない。戦後は逆にウヨクが、大和王権の誕生を早くし、
勢力を強く見せたい邪念から、古墳時代の始まりをムリヤリ早くすることにより、
許容された説に過ぎない。
668日本@名無史さん :2000/10/05(木) 22:33
>古墳時代の始まりをムリヤリ早くすることにより、

と考える理由は?

669>日本@名無史さん 663 :2000/10/05(木) 23:56
>畿内説の最大の矛盾は魏志倭人伝に書いてある事に基づいて
>邪馬壱国を捜しながら、魏志倭人伝は間違っていると言わざるを
>得ない事である。
>魏志倭人伝が間違っているなら邪馬台国を捜しても無理なのでは?

そうかな?

畿内説が、魏志倭人伝を間違いとしている、というのは、方角のことだろうか?

三国志の行程記事では、マツラ→東南→イト→東南→ナとなっている。
ところで、マツラ、イト、ナ国については、九州論者も、九州北岸
に比定している。と、なれば、むしろ、マツラ→ナは、東北の方角になる。

つまり、倭人伝の方角記事については、九州・畿内論者ともにまちがいとしている
のだ。方角記事の一部はまちがいだが、他にはまちがいがない、とするなら、
単なる御都合主義であろう。

そもそも、九州論者では、フミ国からの、水行総計三十日はどうなるのだ?
行程記事についていえば、どちらが有利ともいえないのである。

ちなみに、他に、「畿内論者が倭人伝をまちがいとせざるをえない」
記述があれば、教えてくれ。
それと、663は、古田支持者?だからダメだというつもりはないのだが。
670日本@名無史さん :2000/10/06(金) 00:08
どうも全国の皆さんは、関西人は邪馬台国を近畿に持ってきたがっているように
思われているようですね。たぶん。
私は関西人なんですが、最近まで邪馬台国奈良説が有力になるなんて思っても
みませんでした。九州説というのがとても自然に思えていたからです。
でも箸墓古墳がそうかもしれないとなると、急にロマンが湧いてきて、
はしゃぎたくなってしまいます。これはあくまでミーハーな部分で。
まあ、今の関西素人はそういった状況です。
でも、邪馬台国が関西となると、少々がっかりする気持ちもあります。
大和朝廷の神秘のベールが上げられてしまうからです。
大和朝廷はあくまで謎の自出を持つ王朝であって欲しいなと思います。
だから、関西人は邪馬台国を関西に結びつけて欲しくない人が少なくないと
思うのだが、こんな考えは私だけか?・・・。
記紀を読む限りは九州説が説得力ありそうな。
671>古田支持者621 :2000/10/06(金) 00:18
文の構造と、字の用例とは関係ないよ。
京観は宮殿じゃないんだから、まったく無意味。

「台」が特別に天子関連で使う語だから、
他の字と違って蛮夷の国名に使うことはありえない、という
具体的文献的根拠は結局なんなの?

「台」が天子関連で使われている用例をいくら挙げても無意味。
三国志のどこにも、
1 天子本人
2 天子の宮殿
3 天子直属の官庁・機関・施設
で使う字を蛮夷の国名に使ってはいけないなどとは書いていない。
「古田や621の想像」ではない、具体的根拠を示してくれ。
672奈良出身 :2000/10/06(金) 02:13
どっちでもいいから事実を知りたい
673>669 :2000/10/06(金) 02:37
>三国志の行程記事では、マツラ→東南→イト→東南→ナとなっている。
>ところで、マツラ、イト、ナ国については、九州論者も、九州北岸
>に比定している。と、なれば、むしろ、マツラ→ナは、東北の方角になる。

それは古田一派の説に過ぎないでしょう。
一口に九州説と言っても、具体的な邪馬台国の位置は、有力な説だけでも、
福岡(古田派)、宇佐、阿蘇、高千穂など、ばらばらです。
そして、素直にマツラ→ナを東南の方向に取れば、ナは佐賀市あたりと
考えられ、福岡以外の有力な説では、有明海へ船出することになり、
魏志の記述に矛盾しません。(ただし、宇佐は福岡経由の北回りの説もあり)

それに対して、畿内説では「自郡至女王國萬二千餘里」「周旋可五千餘里」の
記述に対して、「長里と短里が混じっているのだ」などとするあやふやな説明
しかできず、方向だけでなく距離についても無理がある。

また、倭人伝の記述の元となった役人(かな)は、実際にはナ国及びフヤ国まで
しか行っておらず、ナ国は「有二萬餘戸」、フヤ国は「有千餘家」のように、
フヤ国までは「有○×戸(家)」と記述されているのに対して、投馬国は
「可五萬餘戸」、邪馬台国は「可七萬餘戸」と、「可○×戸」という
「5(7)万戸あるかもしれない」といった記述になっている。
そのため、5万や7万という数字はあてにならない。

畿内説は、具体的な距離は誤りだとし、あやふやな戸数はよりどころと
している説である。
674>669 :2000/10/06(金) 02:39
>三国志の行程記事では、マツラ→東南→イト→東南→ナとなっている。
>ところで、マツラ、イト、ナ国については、九州論者も、九州北岸
>に比定している。と、なれば、むしろ、マツラ→ナは、東北の方角になる。

それは古田一派の説に過ぎないでしょう。
一口に九州説と言っても、具体的な邪馬台国の位置は、有力な説だけでも、
福岡(古田派)、宇佐、阿蘇、高千穂など、ばらばらです。
そして、素直にマツラ→ナを東南の方向に取れば、ナは佐賀市あたりと
考えられ、福岡以外の有力な説では、有明海へ船出することになり、
魏志の記述に矛盾しません。(ただし、宇佐は福岡経由の北回りの説もあり)

それに対して、畿内説では「自郡至女王國萬二千餘里」「周旋可五千餘里」の
記述に対して、「長里と短里が混じっているのだ」などとするあやふやな説明
しかできず、方向だけでなく距離についても無理がある。

また、倭人伝の記述の元となった役人(かな)は、実際にはナ国及びフヤ国まで
しか行っておらず、ナ国は「有二萬餘戸」、フヤ国は「有千餘家」のように、
フヤ国までは「有○×戸(家)」と記述されているのに対して、投馬国は
「可五萬餘戸」、邪馬台国は「可七萬餘戸」と、「可○×戸」という
「5(7)万戸あるかもしれない」といった記述になっている。
そのため、5万や7万という数字はあてにならない。

畿内説は、具体的な距離は誤りだとし、あやふやな戸数はよりどころと
している説である。
675名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 08:31
>674
径百余歩の卑弥呼の墓は、九州説だと全くアウト。
畿内だと、日本書紀に巫女的な女性の伝説を伝える箸墓古墳がある。
漢鏡の分布を見ても、畿内>>九州。
戸数を考えても、九州のみに詰め込むのはムリで、畿内説が良い。
邪馬台国=畿内、投馬国=吉備、狗奴国=東海は、考古的な共通性を見ると妥当。
676名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 10:02
たしかに七万戸がネックだな〜
昔は一世帯がかなりの大人数だろうからね〜
でも、畿内で七万戸が食えるかな?
昔の畿内は、今ほど稲作に適しているようにも思えないんだがな〜
677名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 10:33
奈良時代の人口推計の古典的研究として有名な、数学者の沢田吾一氏によると、
近畿では947万人と見積もっています。なお、近年になって常陸国の人口を
記した漆紙文書が見つかり、見積もりの妥当さが確認されています。
また、竪穴式住居の規模などから、一戸当たり5人程度が多いとか、見積もられます。

500年ほどの時代のギャップを考慮し、領域がもうちょっと狭くても、
この1/10の人口密度でも充分で、畿内説なら全然楽勝でしょう。
678日本@名無史さん :2000/10/06(金) 13:52
7と言う数字は修辞的ないしは縁起のいい数字を選んだと言う説が有りますが・・・
679日本@名無史さん :2000/10/06(金) 14:14
マツロ国が東松浦半島だったと確定した訳ではないだろう。
伊都国が糸島半島と言うのもおかしい。
名前は後でいくらでも変る。マツロ国に住んでいた連中が誰かに
追われて移住した先をやはり同じ名で呼ぶ事もある。
「一海を渡る、1000余里」と言う記述によればもう少し遠く
迄行ける筈。
博多湾辺りが良いと思う。
そこから東南、南、東南、南と旅して行けば自然に甘木辺りに
なる。
当然短里計算だがね。
680名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 16:30
678は、苦し紛れな説を紹介する前に、三国志の東夷伝全体を読むべし。

夫餘:戸八萬、高句麗:戸三萬、東沃沮:戸五千、ワイ:戸二萬、
韓:總十萬餘戸(五十餘國、大國萬餘家、小國數千家)と、
東夷諸地域の戸数を列挙している。戸数調査は、軍事・経済的な理由で重要。
681621 :2000/10/06(金) 21:48
>671
>具体的・文献的根拠は結局なんなの?

「三国史」全体だよ。


「南」は「東」の誤りに違いない、
「千」は「十」の誤りに違いない、
三角縁神獣鏡は、魏鏡に違いない、
聖徳太子を天皇と勘違いしたに違いない、という主張の
具体的・文献的根拠は結局なんなの?
682名無しさん@1周年 :2000/10/07(土) 11:06
邪馬台国は畿内で決定あげ
683名無しさん@1周年 :2000/10/07(土) 11:08
このスレって、2ちゃんが無くなるかホンモノが見つかるまで続くのか?
684名無しさん@1周年 :2000/10/07(土) 12:05
考古学者の中では、すでに畿内説で決着しているけど、
古代史のトンデモ本を売るために、マスコミ界では未決着。
685>683 :2000/10/07(土) 12:14
関西人が粛正されたら解決します。
686日本@名無史さん :2000/10/07(土) 12:18
>676

肥前も水郷地帯じゃなかったか?
687名無しさん@1周年 :2000/10/07(土) 12:33
>686
北部九州、稲作なら任しといてよ!
688日本@名無史さん :2000/10/07(土) 17:32
俺も地理的な観点からだけ判断するなら近畿説だと思う。
しかし、「全身や顔にまで刺青をいれている」という、
このような南方的風俗はどう説明する?
まさか畿内の人間が顔に刺青はしてまい?(笑
689名無しさん@1周年 :2000/10/08(日) 04:47
揚げ上げ挙げ安芸
690日本@名無史さん :2000/10/08(日) 19:33
>まさか畿内の人間が顔に刺青はしてまい?(笑

しかし、なんでこういう根拠のない断定をするやからが後を絶たないのかね。
これが九州説の実態であり、原動力だからしょうがないか。
691名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 01:09
>690
そうそう、九州説は妄想でなっていることを如実に示していますね。
692名主さん :2000/10/09(月) 03:21
大阪の朝日新聞によると、先日大阪府内で行なわれたシンポジウムで、
学者(春成氏)が、邪馬台国論争は考古学的には決着済みと発言しています。
記事の上では、他の3人の研究者も反論をしていません(一人は福岡大の先生)。
これって、関西系研究者の思い込みに過ぎないのでしょうか?
プロの意見が聞きたいようーー。
693名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 17:04
邪馬台国論争は畿内説で決着あげ
694日本@名無史さん :2000/10/09(月) 21:43
>学者(春成氏)が、邪馬台国論争は考古学的には決着済みと発言しています。



>プロの意見が聞きたいようーー。

は矛盾してないか?春成氏はプロじゃないってこと?
これに反対するのは、九州説のアマチュアしかいないぞ。
695素人なので教えて :2000/10/10(火) 01:13
会稽・東治の当に東に有る鯨面してる狗奴国は沖縄に決まってるだろ!
地図みりゃわかるだろうが?ゴルァ!
遠方なので詳しくないけど遠く東にも倭種の国が朱儒国や黒歯国がある
っていってるんだから考古学的にみて本州に決まってるだろ!
女王の国と狗奴国との境界が尽きるしま国から奴国は奄美列島21の
ことに決まってるだろうが!
だから邪馬台国は南九州に決まってるだろ!ゴルァ!

という本を昔よんだのですが、何がいけないのですか?
696>j< :2000/10/11(水) 00:08
age
697>692 :2000/10/11(水) 01:57
心配しなくても、論理的な人からトンデモな人まで、畿内説じゃない学者さんはたくさんいます。
「邪馬台国論争は決着済み」と言う発言こそが、畿内説派の妄想です。

邪馬台国は東遷したか?http://www3.miyazaki-mu.ac.jp/html/PUB/MMU-NewsLetter/NL1/1-2.html
698名無しさん@1周年 :2000/10/11(水) 10:27
素人の情熱で妄想の中だけで生き続けている九州説あげ
699日本@名無史さん :2000/10/12(木) 10:42
大和の方から遺跡が沢山出ているから大和が邪馬台とする人が多いようだが
地理的にみて大和から朝鮮に行くのはかなり大変。
半島から大和へは潮流に任せて丹後半島辺りまで流れてくればいいから
半島の文化技術が大和にきて発展した可能性はあるが、大和から半島へは
ほとんど行けなくて一方通行だったのでは?
フヤ国から陸行一月、水行二十日と言う解釈では帯方郡まで往復七ケ月、
魏の都までの往復に一年近く掛かってしまう。
大和は一方的に大陸文化情報を受け入れるだけで大和から何かを発信する
事はなかったのではないか。
一方、九州は大陸と日常的に交流していた。
大陸の情勢にも敏感で、遼東半島で魏が優勢と見るや直ちに魏に朝見するなど
大和ではとてもやれない素早い行動をとった。
多分、公孫氏が滅ぼされる前に慌てて使者を出したのだろう。
邪馬台国が北九州でなければ絶対無理。
700名無しさん@1周年 :2000/10/12(木) 10:50
>699
畿内説だと邪馬台国は西日本をほぼ掌握し、
北部九州も勢力圏ってことだから、大丈夫だよ。
701名無しさん@1周年 :2000/10/12(木) 11:12
そうそう、魏志倭人伝には、帯方郡の使節が滞在地としている伊都国は、
女王国に属していると書かれています。

なお、九州では最初期の前方後円墳である唐津市の久里双水古墳の発掘が、
1994年に行われ、未盗掘であるとされましたが、出土品は少なく、
平縁盤龍鏡(後漢鏡)1枚、管玉2点、刀子1点のみが出土しています。
702日本@名無史さん :2000/10/13(金) 11:02
考古学的に、考古学的に、といいますそもそも邪馬台国なるものが有ったことが、純粋に考古学の立場から、いえるんですか?
703日本@名無史さん :2000/10/13(金) 11:16
>702
答えは、ここにある。
>>2
>>55-56
704名無しさん@1周年 :2000/10/13(金) 11:38
>702
木簡や金石文などが大量に見られる時代とは違って、当時の日本では、
文字資料が見つからないので、単独では勿論分かりません。

畿内発祥の前方後円墳体制が広がりつつあり、ヤマト王権らしいものが
存在したようだと見られる程度でしょう。
それと、最初の巨大古墳とされる箸墓古墳に吉備発祥の特殊器台(埴輪の原型)が
並べられ、畿内と吉備の連合体が形成されたように見えること。
また、東海発祥の前方後方墳体制が、東国へ広がりつつあり、その後には
関東から東北南部まで席巻したこと。

魏志倭人伝が無ければ、かなり無味乾燥としたもので、古代史ファンを
引き付けることは無かったと思います。
705>700 :2000/10/13(金) 15:46
>699
>畿内説だと邪馬台国は西日本をほぼ掌握し、
>北部九州も勢力圏ってことだから、大丈夫だよ。

伊都国から往復四ヶ月掛かるんだよ。
伊都国王が大和と連絡も取らずに自分の判断で勝手に使者を出したってか?
「西日本をほぼ掌握」していないじゃん。

706700 :2000/10/13(金) 15:53
>705
シャレだよ(笑
畿内説をちょっと皮肉ったんだよ。
707名無しさん@1周年 :2000/10/13(金) 17:35
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2000oct/13/06.html
Kyoto Shimbun 2000.10.13 News

 豪華な弥生の「頭飾り」
 峰山の赤坂今井墳丘墓で出土

第3次調査で見つかった頭飾りや耳飾り。頭の位置には埋葬の際に使われた赤い朱が残る(京都府中郡峰山町・赤坂今井墳丘墓)

 弥生時代の墳丘墓では国内最大級とされる赤坂今井墳丘墓(京都府中郡峰山町赤坂)
で第三次発掘調査を行っていた峰山町教委と府埋蔵文化財調査研究センターは十二日、
ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計二百十一個を使った豪華な「頭飾り」と
「耳飾り」が見つかった、と発表した。墳丘墓の上にある六基の埋葬施設のうち
二番目に大きい第四主体部から出土した。府埋文センターによると、このような
玉類を使った頭飾りの出土は国内や中国・朝鮮半島でも例がないといい、「独自の
文化を持った巨大勢力が、弥生時代から丹後に存在していたことを裏付けている」と
話している。

 今回の調査で第四主体部から、長さ四・四メートルの丸木舟型をした木棺と見られる
埋葬跡を発見。その底から、ガラス製の勾玉(まがたま)と、碧玉やガラス製の管玉
(くだたま)が大量に出土した。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた
人物の頭を取り巻くように並んでいることから、頭を飾る宝冠のようなものらしいという。

出土した頭飾りの復元模型。管玉の先端は胸まで届く

 また、両耳にあたる部分には、管玉をすだれのように組み合わせ、先端に小さな
勾玉を下げた「耳飾り」も確認された。頭飾りに付けられている勾玉は長さ一・五〜
四センチ、管玉は長さ二センチで、一部は青い輝きを残していた。

 棺の中からは鉄剣とヤリガンナも各一点出土。府埋文センターは「きらびやかな
頭飾りに加え、武器類が少ないことから、第四主体部には、女性が葬られていた
可能性が高い」と分析。女性は「第一主体部に埋葬されているとみられる王の配偶者
ではないか」としている。

 赤坂今井墳丘墓は昨年秋、道路工事計画に伴う発掘調査で見つかり、弥生時代後期末
(三世紀前半)に造られたことがわかった。弥生時代では国内最大級で、「丹後王国に
つながる王の墓ではないか」として注目された。

 今回の調査で、墳丘墓は東西三五メートル、南北三七・五メートル、高さ四メートル
で、昨年の調査よりさらに東西に二・五メートル大きいことがわかった。また、第一
主体部からは、葬送儀礼の施設跡とみられる柱穴の跡も確認された。

 現地説明会は十五日午後二時から行われる。
708日本@名無史さん :2000/10/13(金) 22:16
京都府中郡って京都府の北の端だね。
http://map.yahoo.co.jp/html/map/web/admi26.html

初期の大和政権の中心が奈良や大阪にあったことは誰もが認めることなので、
この遺物が卑弥呼と同時期のものだということで、その当時の大和の勢力範囲は、
西日本一帯どころか、近畿さえ制覇してはいなかったことが証明されたことに
なるのだが、畿内説派の人々はこれをどう見るのだろうね?

案外、丹波から大和へ移ったのが東遷の真相なのだとか言い出すのかな?
709日本@名無史さん :2000/10/14(土) 00:24
>近畿さえ制覇してはいなかったことが証明されたことになるのだが

西日本全体を制覇していたと主張する畿内説派がはたして何人いるか。
たいがいは広域連合だと思うが。

こういうないことをでっち上げて畿内説を攻撃するのが九州説の常套手段だね。
710世界@名無史さん :2000/10/14(土) 09:50
>709
それはお互い様じゃないか(笑
711> :2000/10/14(土) 10:12
だからぁー、魏に使節を送ったのは畿内勢力じゃ有り得ないと言っている。

地理的条件と半島情勢を考えると北九州しかない。
畿内派の一部には238年ではなく半島が平定された239年の間違いと言うドキュソ
も居るらしいが、明帝の喪中に貧弱な香典持って出かけて、莫大なお返し貰ったってか?
こんなにいっぱい書替えして畿内派は恥ずかしくないの。

709は畿内を中心とした連合国の一部の九州にあった国がが勝手に邪馬台を名乗って
使者を出したと言いたいのか?
畿内にそれなりに国家群が誕生していたのは認めるけどそれは邪馬台ではない。
712名無しさん@1周年 :2000/10/14(土) 10:57
>711
>畿内派の一部には238年ではなく半島が平定された239年の間違いと言う
日本書紀に引用された三国志の年代は、その年になるからで、ちゃんとした根拠がある。
最古の三国志の刊本は、北宋時代のもので、それまでに書写での書き間違いが
あり得るから、どちらが正しいとも言い難い。校合を理解できない古田じいさんの信者は痛い

魏から金印を賜ったのは、大月氏国(クシャナ朝)と邪馬台国(ヤマト)の二国だけ
713名無しさん@1周年 :2000/10/14(土) 11:34
魏王さん、気まぐれだね。
714名無しさん@1周年 :2000/10/14(土) 11:46
素直に見れば、クシャナ朝とヤマトの重要性が大きかったと言えるでしょう。
当時の世界史地図を見てみると、わかるんじゃないの?
715日本@名無史さん :2000/10/14(土) 11:59
>畿内派の一部には238年ではなく半島が平定された239年の間違いと言うドキュソ

238年6月が成立しないのは既にに論証済み。過去ログ見てね。
716>715 :2000/10/14(土) 14:04
論証されていないよ。
何故、生口10人と言うお粗末な貢ぎ物だったか考えてみ。
それに対する莫大な返礼はどうして?
238年の戦いの最中だったからに他ならない。
戦争が終わってからでは魏の皇帝にとって遠い所の蛮族がつまらない物
持ってきたと言うだけで記憶にも残らない話。
当時、公孫氏と戦っていたのは司馬○(変換出来ないスマソ)で後に
魏から禅譲されて晋の皇帝になった。(記憶があいまいだが間違って
いたらつっこんで)倭人伝はその晋の陳寿によって書かれた。
晋にとっても邪馬台の朝貢は素晴らしい出来事だったのだ。
だからこそ他の東夷に比べて飛び抜けて詳しく記述しているのだ。
遼東が平定されてからの朝貢では晋の陳寿が特別に記述する事はな
かったと考えられる。
717名無しさん@1周年 :2000/10/15(日) 00:06
>715@`716
学者の説でも意見が分かれているし、どちらも決め手に欠いているで、いいんじゃないか?
718日本@名無史さん :2000/10/15(日) 01:36
太守が別人だからどうにもならんね。

>学者の説でも意見が分かれているし、どちらも決め手に欠いているで、いいんじゃないか?

古田以外の誰が景初二年?
719名無しさん@1周年 :2000/10/15(日) 02:35
三国志の北宋時代の刊本には、景初二年と見える。
三国志を引用した、梁書の刊本や日本書紀の写本は、景初三年と見える。
これらのどちらが、書写する間に書き間違えなく写し取って、三国志の
原本の記述を正しく留めているかと言うことでしょう。
720日本@名無史さん :2000/10/15(日) 20:19
俺は三国志の中で何故倭人の項だけが飛びぬけて詳しい記載があるか
という事を問うている。
>719
三国志の写本はいくつもあって全て景初二年だったと思うが?

後代の史書は三国志を参考にしながら、晋の陳寿の心情を考慮せず
戦争の最中に使者が来れた筈はないと勝手な解釈を入れて記載した
んじゃないか。
721名無しさん@1周年 :2000/10/15(日) 23:18
刊本・写本が別系統でなければ、同じなのは当然。ここら辺は校合の概念を理解する必要あり。
三国志の最古の刊本は、北宋時代であって、これ以前の書写で誤った可能性がある。
例えば、梁書や日本書紀が引用した三国志は、それよりずっと前のもの。
江戸時代の学者の中でも、当たり前な概念を、21世紀を前に知らないと恥ずかしいぞ。
722名無しさん@1周年 :2000/10/15(日) 23:20
刊本・写本が別系統でなければ、同じなのは当然。ここら辺は校合の概念を理解する必要あり。
三国志の最古の刊本は、北宋時代であって、これ以前の書写で誤った可能性がある。
例えば、梁書や日本書紀が引用した三国志は、それよりずっと前のもの。
江戸時代の学者の中でも、当たり前な概念を、21世紀を前に知らないと恥ずかしいぞ。
723日本@名無史さん :2000/10/16(月) 11:36
写本は出来るだけ正確に一字一句間違わないように写すものだろう。
それに対して後世の史書は原本に勝手な解釈を加える。
三国志が日本に伝わっていたにしても、後世の勝手な解釈とともに
入ってきた筈である。
梁書や日本書紀が間違った解釈の上に立って書かれている可能性の
方が大きい。
724名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 12:17
写本が間違うのは、色々な写本を見比べれば直ぐ分かる。だから、校合を行う。
これは、江戸時代の学者も、古典に対して当たり前のように行っている手続き。
いつまで経っても、基本的なことを理解できないのでは恥ずかしいぞ。

何度も言っているように、現存する最古の三国志は、原本ではなく北宋時代の刊本。
金石文・木簡・漆紙文書などと違って、書写による誤りを考慮する必要がある。
梁書や日本書紀が、三国志を引用した時期の方が、北宋よりずっと早いのを忘れないように。
725日本@名無史さん :2000/10/16(月) 14:22
早い遅いの問題ではない。
写本は一字一句間違いなく写そうと言う精神で書かれている。
これは現代で言う著作権尊重精神みたいなもの。
写す人間も幾度も間違いないか確認をしながら写すものだ。
写本は正確こそが生命だから。
これに対して自分の著書となるものは自分の思い込みや解釈を
入れて書く事が許される。
どちらが正しい可能性が強いか。
写本の方が可能性としては強い。
726名無しさん@1周年 :2000/10/16(月) 15:39
725の発言は古田教を信仰する人達にしか通用しない。
思い込みの精神論で、遙か後世の何度も書写を繰り返した写本が正しいと主張するのは痛い。
そもそも、出典を明示して、文章の一部を引用したのも、全体の写本・刊本と同様に議論すべき。
本居宣長「古事記伝」を見れば、いくつもの古事記の写本、関連史書と照合しつつ、
慎重に校合を進めていることが分かる。江戸時代の学者に笑われるぞ。
727嘘もたいがいにせいよ :2000/10/16(月) 23:47
>三国志の北宋時代の刊本には、景初二年と見える。

北宋代の刊本なんか現存してねぇよ。
728名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 00:44
そうでした。北宋時代の咸平6年(1006)の国子監刊本は失われ、
現存する最古の紹興刊本(1131-1162)は、宋が南遷した1127年より後でした。
729>708 :2000/10/17(火) 01:33
丹後半島は、古事記にいう丹波大縣主、由碁理の本拠地であり、
彼の娘は、開化の嫁にまでなっている有力者。その後も、丹波美知能宇斯王
と縁の深い地域であり、古事記におけるこの時期が、卑弥呼の時代と考えれば
古事記の正しさが証明されこそすれ、別に畿内説が不利になるわけではないだろう。
どっかの学者でもそう言っているのか?

丹後王国ではなく天皇に嫁を出せるほど有力な大豪族の大縣主がいたということ。

写本関係の議論の腰を折るようですみません。続けてください。
730名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 07:35
古事記で大きく扱われている出雲も、次々と独自性を示す出土品が得られています。
弥生時代には、山陰発祥の四隅突出型墳丘墓が、全盛期には北陸まで広がり、
古墳時代前期には、日本各地が前方後円墳体制に取り込まれていく中でも、
出雲は四隅突出型墳丘墓から派生した形状の方墳が主流だったように、異端。
古墳時代後期に、ずっと前に廃れた東海発祥の前方後方墳が多数作られたり、
仏教文化の広まりで、他の地域が縄文時代晩期からの勾玉など伝統的な祭祀品を
作らなくなっても、出雲だけは作り続けるようにユニーク。出雲をどう解釈すべきか?
731名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 18:08
前方後方墳体制の狗奴国あげ
732名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 08:13
卑弥呼あげ
733日本@名無史さん :2000/10/18(水) 10:00
畿内派は相変わらず
「三国志が間違っている。遺跡は大和の方が多い。三国志の後から書かれた
史書には三国志と違う事が書いてある。」
としか言う事がないみたいだね。
いいかね。三国志の後から書かれた史書は三国志を真似ながら、倭人の項
についてはトンでもない噴飯物の記載が多い事を理解して物を言った方が
良いと思うよ。
734名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 10:30
古田信者は、いい加減に言葉のすり替えを止めたら。
現存する三国志の刊本は、南宋時代までしか遡らないわけで、それまでに書写ミスを
している可能性がある。それ以前に編纂された中国や日本の史書に、別の表記があれば、
そのどちらが原本の表記と正しいかは、直ちに分からない。
これは、江戸時代の学者も理解していたことで、だからいくつもの写本・刊本を照合して、
校合という手間の掛かる手順を経て、古典の元の形を復元しようと努力していたわけ。
そう言う誠実な学者の努力を理解せずに、古田教にはまっているようじゃ、余りにも痛い。
735名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 12:33
2000年10月17日(火) 16時0分
幾何鋸歯紋の漆器 唐津・千々賀遺跡国内初出土 末盧国の拠点か(西日本新聞)

 佐賀県唐津市教委は十七日、同市西南部の千々賀遺跡から弥生時代中期後半
(二世紀)のものとみられる幾何(きか)鋸歯(きよし)紋が施された漆器が出土
したと発表した。精密な技術で描かれた幾何鋸歯紋の漆器出土は国内で初めて。
また、周辺からは大型建物部材も出土し、同市教委では、同遺跡が魏志倭人伝に
記された末盧国の拠点的集落の一つだった可能性が高まったとしている。

 漆器は深さ五十センチの水田から発掘され、直径一〇・八センチ、厚さ一・四
センチ。木材の上に黒漆が塗られ、その上に赤漆で二重円と細い線で幾何鋸歯紋を
施されており、容器のフタとして使用されたとみられる。

 また、二重円だけを描いた漆器も二点出土した。

 同市教委は「醸成された漢文化が朝鮮半島を経由して、集落の拠点だったこの地域に
伝わったのではないか」と推論。唐津平野では、これまで末盧国前期(一世紀)の
遺跡の柏崎遺跡と、終盤の古墳時代(四世紀)の久里双水遺跡が発掘されているが、
同市教委では「末盧国の空白を埋める資料で、魏志倭人伝の記述を裏付ける発見」と
している。
736日本@名無史さん :2000/10/18(水) 17:30
末盧国が唐津付近なら邪馬台は吉野ケ里か。
有明海沿岸が一躍クローズアップ。
ま、畿内説は電波堕ね。
737名無しさん@1周年 :2000/10/18(水) 17:53
>736
江戸時代に、新井白石が末盧国を松浦付近に比定して以来、
畿内説・九州説とも、この説を支持する人が多い。

吉野ヶ里遺跡は、卑弥呼の時代には没落している。つーか、九州の遺跡全体が没落している。
発展しているのは、畿内(邪馬台国)、吉備(投馬国)、東海(狗奴国)と言った地域。
738しろーと :2000/10/18(水) 22:36
お聞きしたいんですが、魏志倭人伝には邪馬台国は合計21の国から成っていた
ように書いてありますよね?
その中に支惟国(きいこく)とか巴利国(はりこく)、斯馬国(しまこく)、
好古都国(はかとこく)、己百支国(いはきこく)、為吾国(いがこく)
等の、後世の国の呼び方を思わせる国名があります。
例えば最初の支惟国は紀伊、巴利→播磨、斯馬→志摩、好古都→博多、
己百支→磐城、為吾→伊賀、 といった具合にです。

こういう解釈が正しいのかどうか分かりませんが、もしこの解釈が正しい
と仮定すれば邪馬台国は日本列島の北から南までかなりの範囲を連合傘下
にしていたと考えられます。

ここにいらっしゃるみなさんには、これらの事は既知のでしょうが、個人
的には、邪馬台国を研究する過程でこれら一つ一つのクニについて、あま
り研究がされていないような気がします。邪馬台国の研究のみ重視されて、
他のクニについては軽視されているような気がしてなりません。
やはり、これら21のクニ一つ一つを解明していかなければ、この時代の
真の理解を得ることは困難だと思います。
特に、邪馬国に関しては、邪馬台国を解明していく上で欠かせない要素だと
考えます。

素人の取るに足らない考えでしょうが、何かご意見でもいただければうれし
いです。
739>733、736、738 :2000/10/19(木) 00:00
>733、736
>末盧国が唐津付近なら邪馬台は吉野ケ里か。
>有明海沿岸が一躍クローズアップ。
>ま、畿内説は電波堕ね。

いまどき、邪馬台国吉野ヶ里説とは。
そもそも、唐津から、吉野ヶ里まで、倭人伝通り「東」「東南」「南」の
ルートでいったら、いったいどこで「水行30日」するわけ?
西の有明海を迂回したとかというなら、結局、倭人伝の記載から
逸脱することになる。倭人伝の行程記事は、別に九州に有利ではない。
他に、なにか畿内説に不利な現行本三国志の記述があるわけ?

>737
>例えば最初の支惟国は紀伊、巴利→播磨、斯馬→志摩、好古都→博多、
>己百支→磐城、為吾→伊賀、 といった具合にです。

これらの音訳について、どれだけ確定的な議論ができるのだろうか?
結局、推定の域を出ないのでは?
単に、「解釈できる」というだけでは疑問です。


>これら21のクニ一つ一つを解明していかなければ、この時代の
>真の理解を得ることは困難だと思います。
>特に、邪馬国に関しては、邪馬台国を解明していく上で欠かせない要素だと
>考えます。

邪馬国が、特に邪馬台国において重要だったとは、倭人伝には書いていません。
音が似ているにせよ、邪馬=ヤマだとすると、むしろ、よくある日本の地名になるのでは?
21のクニについては、結局、国名以外の史料がないのです。
あまり、推測を積み重ねるだけの議論をしてもしょうがないでしょう?
740日本@名無史さん :2000/10/19(木) 00:50
>お聞きしたいんですが、魏志倭人伝には邪馬台国は合計21の国から成っていた
>ように書いてありますよね?

書いてありません。
741末路国 :2000/10/19(木) 00:57
>末盧国が唐津付近なら邪馬台は吉野ケ里か。
>有明海沿岸が一躍クローズアップ。

ここまで逝ってるヤツとは思わなかった。なんか憐れ。
末盧国が唐津付近じゃないって逝ってるのは、古田教団の他は極めて少数。
これを九州説一般に広げてしまうのは、他の九州説にとってははた迷惑ってもの。
742しろーと :2000/10/19(木) 01:17
>739
>結局、推定の域を出ないのでは?
>単に、「解釈できる」というだけでは疑問です。

おっしゃるとおりです。確かに推測の域を全く出ません。
しかし、大和政権以降の国の名前が一朝一夕で名付けられたものだとは
とても思えません。やはり前代からの国の名前が利用されたと考えるの
が妥当だと思います。その場で思いついた名を、国に付けるとは考えら
れませんので。例外はあるかもしれませんが。


>邪馬国が、特に邪馬台国において重要だったとは、倭人伝には書いていません。
>音が似ているにせよ、邪馬=ヤマだとすると、むしろ、よくある日本の地名になるのでは?

確かに、倭人伝にそのような記述は見あたりません。
ですが、「邪馬台国においての邪馬国」、全く重要性が無いと言える根拠
もまたありませんよね?
もちろん、おっしゃるように、よくある日本の地名なのかもしれません。


>21のクニについては、結局、国名以外の史料がないのです。

これは邪馬台国の属国ということで、ただでさえあざけられている東夷の
国のさらに下の国になるわけですから、なんの史料も無いことは無理から
ぬことでしょう。私は国名がハッキリしているだけでも大したものだと思
います。これが大いなるカギになるかもしれませんし。


>あまり、推測を積み重ねるだけの議論をしてもしょうがないでしょう?

しかし、こと邪馬台国に関しては、そのほとんど全てが推測からの研究
ではないでしょうか? 遠い昔の事ですから史料に乏しいのは当然です
し、推測を無しにして、この時代は解明できないのでは?
当然、史料や遺跡・遺物等が最も重視されるべきではありますが。
743日本@名無史さん :2000/10/19(木) 09:06
がいしゅつだが中国では日本の南北を間違えていたが
やっぱり正しいと思いまふ
744日本@名無史さん :2000/10/19(木) 09:07
末盧国を松浦半島とし魏使は呼子に上陸したなどという輩がいるが、
これは噴飯もの。船で湾の奥までまで楽に行けるのにどうして山道を
苦労して歩かなくちゃならないの。
伊都国を前原付近とする輩も多いがこれも変。
邪馬台が有明海近辺なら交通の要所として力を持っていたろうが
邪馬台が大和地方にあるなら今の北九州市あたりの方が交通の
要所として重要で前原、博多なんかどうでも良かった筈。
畿内説の人はこの辺をどう考えているのか聞きたい。
745畿内説論者ではないが :2000/10/19(木) 09:48
>744
じゃあどうして大宰府を北九州市に置かなかったのかな?
北九州市は今でこそ大都市だけれど、八幡製鉄所が出来るまえまでは、
後背地が無いため小さな漁村だったことも知らないの?
松浦半島も秀吉の朝鮮出兵の際は出航の拠点の一つとなっていた。
あなたが「どうでも良い」と言っているところからたくさんの遺跡が発見されてるのは
逆にどう考えているのかこっちが聞きたい。
746名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 09:59
釣師から一言。
北九州、関門海峡は今でも難所です。
常識のある船乗りなら、なるべく近づきたくないです。
大宰府から山越えで国東半島の方へ行くのは案外楽な道程です。
ちょっと道は違いますが、肥後細川藩の参勤交代も熊本から阿蘇を越えて、
豊前から船に乗って瀬戸内海を渡り大阪に上陸していました。
747日本@名無史さん :2000/10/19(木) 10:00
>745
744って煽りだろ。反応するなよ。
大体「輩」なんて言葉使って偉そうに電波説飛ばしてるの見ればすぐわかるじゃん。
748日本@名無史さん :2000/10/19(木) 10:13
744は昔から関門トンネルも関門橋もあったと思ってるんじゃない?
749名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 10:19
>747
厨房な煽りに対して的確に反論することが、電波な説を潰してスレの質を上げるために
有効だから、745@`746の対応は正しいでしょう。747はひねくれ者。

それと、2000年近い間には、河川からの堆積物、海流による浸食などで、地形が大きく
変化したことも考慮する必要がある。金印が見つかった志賀島も、今は半島になっているし。
750名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 10:30
大阪平野の地形変化については、郵便局長だったアマチュアの人が、
地元大学の先生の指導の元に、膨大な数のボーリングデータや工事現場を当たって、
詳細な変遷図を作られていて、しばしば引用されているので、見たことが
ある人も多いでしょう。
古墳時代には、神功皇后が祈った住吉大社は海岸に近いし、仁徳陵なども
ずっと海岸に近いことが分かります。古代の議論をするには、こう言う面も
配慮が必要です。
751744 :2000/10/19(木) 11:20
伊都国への行程で「草木茂盛、行不見前人」と言う表現はどう思う?
呼子から前原迄は船で行った方がいいに決っている。
関門海峡が難所なのは判るが1〜2km陸行すればいいのに
どうして前原から豊前まで150k以上歩かなきゃならないの?
不自然だと思わないの?
752日本@名無史さん :2000/10/19(木) 12:48
>751

 大昔の船旅が命がけ以上だったことに思い至らない
あなたが不自然。
753名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 12:50
>751
江戸時代に、オランダ商館員が毎年のように参勤をしており、著書からその経路を見ると、
長崎から九州内は陸路で、そこから先は兵庫付近まで海路を利用しています。
遙か後世でもこのパターンです。

瀬戸内海は内海で海が穏やかで、海運が有利なのに対して、玄界灘は海が荒れやすいので、
陸路を取ったと考えればよいのでは?
754744 :2000/10/19(木) 13:37
例えば唐津湾の中は玄界灘より静かだろう。どうして唐津に直行しない?
東にいかなければならないのならばむしろ博多湾の方がいい。
地理的にも博多から歩いた方が楽。
もっと言えば八幡あたりまで行ってしまえばずっと楽。
草木で覆われ前を行く人が見えないような路を行くより、沿岸を船で回って
行こうとするのが当たり前。
755日本@名無史さん :2000/10/19(木) 13:42
>754

 じゃ古代から江戸時代までの旅人に言ってやれよ。どうして
博多で下船しないんですか?って。

 下船しないにはしないなりの理由があったんだよ。
現代の知識と常識でしかものごとを測れない君は
歴史勉強は向いてないね。ほかに好きなこと探したら?
756744 :2000/10/19(木) 14:11
> 下船しないにはしないなりの理由があったんだよ。
>現代の知識と常識でしかものごとを測れない君は
>歴史勉強は向いてないね。ほかに好きなこと探したら?

計り知れない事を探るのも学問だろう。
君は歴史だけでなく全ての学問に向いてないね。

757名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 14:21
754は魏志倭人伝をちゃんと読むように。
帯方郡の使者は、伊都国(糸島付近に比定)に留まることになっており、
そこを飛び越えて、直ちに遠地へ行くと言う発想がそもそもナンセンス。

伊都国には代々王がいるが、現在は邪馬台国に属しており、一大率を伊都国に
置いて睨みを利かせ、諸国はそれを畏れていることなどが書かれています。

この地域には、平原弥生古墳があり、巨大な倭鏡を出土したことで有名で、
漢鏡から2世紀前半の頃と推定されています。昔は楽浪郡との繋がりなどで、
権勢を誇ったのが、この時期には没落していたのでしょう。
758名無しさん@1周年 :2000/10/19(木) 14:26
九州説の連中で、魏志倭人伝は国々の方角と里程くらいしか知らない、
勉強不足の厨房が目立つ。魏志倭人伝を載せた参考本やHPは幾らでもある。
このスレで議論するなら、最低限それくらいは読んでおけよな。
759釣師 :2000/10/19(木) 14:29
>744
潮とか風に逆らって海路を行くのは疲れますよ。
しかも動力は無いんだし・・・
日本と大陸の交流ルートが
自然と落ち着くとこに落ち着いているのには訳があるのですよ。

響灘でタンカーとか貨物船クラスの船(しかも外国航路便)が
よく座礁したりします。海岸から手が届きそうなところに横たわっています。
GPSや正確な航路があってもです。
博多湾から右舷に陸を見つつ北九(八幡?)に行くか?と言われれば
私は行きたくないですね。

やっぱり人間は地に足がついてた方が安心ですよね。
760日本@名無史さん :2000/10/19(木) 14:30
九州説は人情で勝負します!
761名無しさん@一周年 :2000/10/19(木) 14:55
>756=744

 誰も計り知れないなんて書いてないぞ(w ひらがなも
読めないのか?

 みんないろいろ書いてるだろ。当時の航海の危険性。
玄海灘や関門海峡が難所であること。陸路の順路上に
重要な地点があること。

 こういったもろもろの事情があるんだよ。お前
自分の思いこみだけで「海路がいいに決まってる!」と
言いつづけてるだけだろ。その姿勢が歴史に向いて
おらんと言ってるんだよ。

 帰れよ、ぼうづ。
762744 :2000/10/19(木) 15:28
私は九州説だから唐津でも博多でも構わないが、
畿内説では唐津だったら都合が悪いだろうと言いたいのだよ。
増してや呼子では壱岐から1000里にならないし倭人伝の記述と
合わない。
何百年も下がってからの地名の音が似ている事を頼りに地名比定
するのも怪しいね。
地名なんか人の移動共に移動する事はよくあるし、真実を探る為には
これまでの学会の定説を見直して倭人伝を正しく読むことからやり直し
たほうがいいと思うよ。畿内説派にとってもね。
763日本@名無史さん :2000/10/19(木) 15:30
いくらなんでも倭人伝の解釈は、もう限界では?
764744 :2000/10/19(木) 16:08
松浦に拘らなければ
壱岐から一海を渡る千里なら博多湾の東岸ずっと上の方まで
候補地になれる。応神天皇の生まれた宇美神宮などもあるし
この辺からなら畿内にも行き易い。
一番上(今地図がないので地名は分からないが)からなら
東南、南と陸行しても呼子からの1/3位の距離で瀬戸内海
海岸に着く事が出来る。
畿内派に取っても非常に魅力的じゃないか?
畿内派の人も考え直したら?
765>744、742 :2000/10/19(木) 17:18
>744

おおかたの人間が奴国なり伊都国を博多湾岸に否定しているのは、
金印の所在地=奴国(伊都国)と考えているからである。
別段、地名が決めてではない。
744こそ、なにも調べず発言している。
倭人伝の記載だけからなら、四国にだってもっていけるぞ。
それから、魏使が壱岐からどこかの海岸について、700里陸行したのちに
また水行したことは、倭人伝に書いてあるのである。別に、畿内派が主張
しているのではない。
「なぜ水行で直行しなかったのか?」は魏使にきいてくれ。

>742 しろーとさん

お説のとおりです。別に、あなたの推測が特別に論外だとかいってるわけでは
ありません。ただ、説得力のある主張にするためには、もっと裏付けが必要
だと思います。
単なる思いつきの段階で、「これが重要だと思う」といっても、相手に
されないでしょう。

766765 :2000/10/19(木) 23:14
失礼。
上の、「博多湾岸に否定」
は、
「博多湾岸に比定」の誤りです。
767名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 04:04
比定を否定する...ATOKは、ちゃんと変換した。
768日本@名無史さん :2000/10/20(金) 09:17
ひでぇー話だな〜
769744 :2000/10/20(金) 09:57
音が似ているからと言って簡単にそこに地名比定良いのだろうか。
北海道に伊達市と言うのがあるがこれはかっての伊達藩の人たち
か福島県の伊達郡の農民が移り住んだ事で付けられた。
記録に残されていればその由来は200年後も忘れられないだろうが
記録に残されていない何百年も前の地名は人の移動とともに移って
しまっても忘れられているだろう。
漢の委奴国が糸島(博多)付近にあった事はその通りかもしれないが
そうでないかもしれない。
邪馬台国の伊都国は委奴国の一部の人が八幡辺りに移り住んで作った
国かもしれない。
何れにしろ卑弥呼の時代より何百年も下がった時代の地名だけを頼りに
邪馬台を捜すのは無理というもの。
私は無理に魏志倭人伝を間違っていると言いながら都合のいい所だけ
つまみ食いして邪馬台を大和にもって行こうとする低能学者に、
このように倭人伝に従って無理な読み替えをしなくても大和に導く
方法もあると言う事を提示しているのだよ。
770日本@名無史さん :2000/10/20(金) 10:01
そげんこつ、どーでも、いぃーと。
771名無しさん@一周年 :2000/10/20(金) 10:39
>769

 つまり、資料を読まずに直感で考えました〜どうしてぼくの説に
誰も賛成してくれないの?って開き直ってるわけだね。
772名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 10:43
>771
はははっ、その通りでしょう。769は方角・里程以外の魏志倭人伝の内容をほとんど
知らずに発言しているようだし、考古的な資料については、更に無知に見える。
773744 :2000/10/20(金) 11:55
>771、772
低能考古学者の電波な学説を受け売りするしか脳がないね。
ここで議論しようと言うのなら受け売りせずに自分なりに
考えた事を提示しな!
受け売りなら学会で議論しつくされて居るから新しい事は
何も出てこないし、単なる好き嫌いのレベルにしかならない。
774名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 12:03
>773
ぷぷぷっ、史料も考古情報にも全く無知な厨房が、まともな説を立てられると思う
電波頭の痛い奴は、学校での成績も悪かっただろうなあ。
775日本@名無史さん :2000/10/20(金) 12:07
>>773
多分大概の考古学者は少なくとも
貴方よりは低能でも電波でもないだろう
776日本@名無史さん :2000/10/20(金) 12:08
>774=772=771が、みえみえですよ。
ここでは「日本@名無史さん」なんですけど・・・
777771 :2000/10/20(金) 12:21
別に774じゃないけど。俺のネスケはどこの板にいっても
最後にカキコした名前が出てくる。理由はわからん。
メモリをクリアしたら、それぞれの板のデフォルトに
戻るけど。

で、773さんよ。自分で考えた自分で考えたって
言うけどさ。1+1は誰がどう考えたって2なんだよ。
11とか「自分で考えて」答えを出してもただの馬鹿だ。

 なぜ歴史(に限らないけど)学問が体系的になってるか、
先人の業績を追った上で新説を発表するシステムになってるか、
わかるかね?

 先輩の研究者とまったく同じアイディアを研究して
しまわないため、そして同じ過ちを繰り返さないためだよ。

 あんたの仮説(と呼ぶなら、だが・・・)はおそらく
過去に何人も提唱して、退けられてる説だ。つっても
学部の卒論や院論レベルでな。邪馬台国の所在や中国から
日本への、そして国内での移動ルートなんてメジャーな
テーマだ。似たようなことをあんたの前に誰も思いつかなかった
とでも思うのか?

 たくさんの研究者が思いついて、しっかり考察してみると
ミスがあることに気づき、放棄していった仮説なんだよ、
あんたのご高説は。だから現在誰も提唱していないんだよ。
おわかりかな?
778日本@名無史さん :2000/10/20(金) 13:03
クッキー食べたいな〜
779日本@名無史さん :2000/10/20(金) 13:20
確か高木彬光が上陸地点を北の方にしていたと思うけど。
邪馬台国=宇佐説
780744 :2000/10/20(金) 13:41
>たくさんの研究者が思いついて、しっかり考察してみると
>ミスがあることに気づき、放棄していった仮説なんだよ、

誰が思い付いて、どのようなミスがある事に気づいたのか
いってみなよ。聞いたことがないね。

今、九州説も畿内説も決め手に欠いて行き詰まっているん
だから新しい視点で検証しなければならない。
こらまでの畿内説はともかく「倭人伝は間違っている」の一辺倒。
江戸時代から何も進歩していない。
781名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 13:47
780は方角・里程しか読まないから、息詰まっているように見えるだけの厨房。
それ以外の記述を見れば、卑弥呼の墓など、古墳時代最初期の畿内に良くマッチする。
考古学的には、畿内説で決着しているが、素人相手の電波本を売るために、
マスコミ的には決着していないだけのこと。
782>780 :2000/10/20(金) 13:49
聞いたことがない=叩き台としてすら話題に出てこない。
まともな研究なら雑誌に載って、賛成反対双方の批判に
さらされて、こなれていくんだよ。

つまり雑誌にも載らないガキの思いつき程度のネタだってこと。
783日本@名無史さん :2000/10/20(金) 14:00
権威主義に凝り固まって発想が乏しくなるとロクなことがないから
ガキの思いつきもバカにしたもんでもないと思うぞ。

意味なく粘る780はおおいにバカにするべきだが。
784日本@名無史さん :2000/10/20(金) 14:02
日本にはトロイの木馬は無いのかね?
785>783 :2000/10/20(金) 14:10
ガキの思いつきから大発見が生まれることもある。
それは否定しないよ。むしろ柔軟な発想は尊ぶべき。
だが、先行研究を踏まえて・・・ってのが大前提じゃ
ないかと思うね。

>意味なく粘る780はおおいにバカにするべきだが。

 同意。
786日本@名無史さん :2000/10/20(金) 14:24
>>785
ま、あれやね。
ヘタに先行研究を知っちまうと、発想がそこから抜けられなく
なりがちって面もあるけどな。

但し、考え付いたあとには必ず先行研究をしっかりと確かめるって
ことが大事やね。そして歴とした理由で否定されているにも
関わらずいつまでも粘着質に自説に凝り固まるとタダのガキンチョも
あっという間に堅物トンデモ研究者。
787744 :2000/10/20(金) 15:54
前にも言ったように私は九州説で「水行二十日、陸行一月」は帯方郡
からの旅程と解釈しているのだが、畿内説は不弥国からの距離とする
のであろう。であれば不弥国は海に面していなければならない。
宗像辺りに上陸し中津海岸から水行なら700里の距離もぴったりだし
何故畿内派がこの説を取らないのか不思議。
ま、遺跡の発掘状況が北九州市では不十分なせいかもしれないが。

同じく九州説も末盧国を呼子あたりにしていては理屈に合わない。
壱岐から呼子迄では対馬壱岐間の半分位しかない。
前原が伊都国なら普通呼子に上陸せずに前原直行だろう。
なにせ莫大な下賜品持っての旅なのだから。わざわざ「草木茂盛、
行不見前人」と言うような道を歩く筈がない。海が荒れれば一時
停泊して凪ぐのを待てばよい。と言う事を思い致すべきなのだ。
教訓・・・・定説は疑ってかかるべし。
788名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 16:09
もういいよ。自信があるならこんなところでダベってないで、
論文にまとめてどっかの雑誌に出しな。そこで白黒つけて
もらえよ。
789日本@名無史さん :2000/10/20(金) 16:32
>787
後世の秀吉クンは、どうして肥前名護屋(呼子)という
全く無名で無人の僻地に前線基地を築いたのでしょうね?
それこそ前原にでも造れば簡単だったでしょうにね。
造船用の木が豊富だとか水夫が豊富だったかもしれないけど
それぐらい運べばいいことだしね。
790744 :2000/10/20(金) 16:58
>789
九州から大陸に渡る為には都合がよかった。
例えば宗像からでは潮流も風向きも逆だから呼子まで陸路を取った。
だが壱岐から九州では潮流も風向きも東に行った方が行き易い。
魏使は九州に上陸してから東南、南、東南と東よりに南下している。
荷物を考えると出来るだけ東の方に上陸する筈だ。
だから呼子上陸はないだろうと言うのが私の意見。
大陸へ渡る港と大陸から来る港が違っていた可能性は否定しないけどね。
791日本@名無史さん :2000/10/20(金) 20:32
792名無し :2000/10/20(金) 23:18
なんでさがってんだ?
793名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 23:57
畿内の邪馬台国 VS 東海の狗奴国
  前方後円墳 VS 前方後方墳 あげ
794名無しさん@1周年 :2000/10/21(土) 00:44
卑弥呼の墓説が有力な箸墓古墳あげ
795名無しさん@1周年 :2000/10/21(土) 01:29
学問的には畿内説で決着しているけど、
マスコミ的には電波本を売るために未定な邪馬台国あげ
796日本@名無史さん :2000/10/21(土) 05:52
不弥国中津説あげ
797日本@名無史さん :2000/10/21(土) 09:57
へぇ〜、驚いた。
798ラーメン大好き@名無しさん :2000/10/21(土) 12:40
age
799ヤリタイボッキ・シャイン :2000/10/21(土) 13:44
中華(漢)の属国で「弥生人」と朝鮮人の邪馬台国なんぞ、
「縄文人」と蒙古人(及び漢化しなかった契丹人)の
混血たる私が打倒してやるわい!
800チンカスハーン・アテルイ :2000/10/21(土) 13:47
>799
よし!我等で倒そう!
801>799&800 :2000/10/21(土) 13:57
縄文ファンなのもモンゴル・ファンなのも勝手だけども、
話を逸らして荒らさないで下さい。
802名無し@縄文蒙古 :2000/10/21(土) 14:02
山岳の民と草原の民、カッちょえ〜!
両者共 不細工だけど。。。
803金印は志賀島だけど :2000/10/21(土) 14:11
 本当にあったのかなぁ。
804日本@名無史さん :2000/10/21(土) 15:52
金は軟らかいので印鑑には向かない。
805名無しさん@1周年 :2000/10/21(土) 18:32
実用ではなく権威としては、希少価値の高い金は絶大
806最新レス100のまとめ :2000/10/21(土) 21:33
景初二年・三年問題について
・・・三国志及び他の歴史書における書写の正確性について決定的な結論が出ない

邪馬台国周辺の国名の比定について
・・・推測は可能だが決定的な証拠はない

末盧国の比定について
・・・畿内説にとっても九州説にとっても同じ
>>744さんは末盧国が松浦だと畿内説にとっておかしくなる
|という意見を初め提案されていましたが
>>787「同じく九州説も末盧国を呼子あたりにしていては理屈に合わない。」
|より、畿内説か九州説の一方に比重を置いた意見ではないと判断しました。

という感じでよろしいでしょうか?
807日本@名無史さん :2000/10/22(日) 01:41
>景初二年・三年問題について

三年で決着。二年だとする研究者がいるならあげてくれ(古田以外)。

>末盧国の比定について

末廬国を呼子に比定するのは極めて少数だとは思うが、むしろ九州説に多いだろう。
方角を重視する九州説としては、末廬が唐津なら、唐津−前原は東北になってしまうからな。
もっとも、それでも東北が東に緩和されるだけだが。
808日本@名無史さん :2000/10/22(日) 01:45
>金は軟らかいので印鑑には向かない。

向こうが向くまいがそんなことはどうでもいい。
現実に出土してるもんはしょうがない、広陵王璽とかな。

それに、この様子じゃどんな使われ方をしたのかも知らないようだ。
809日本@名無史さん :2000/10/22(日) 10:14
>>803
2chでは、ネタにマジレスする奴が一番のアホなのです。
こころしときなさい。
810809 :2000/10/22(日) 10:15
ごめん!間違えた!!
803じゃなくて
  >>808  です。
申し訳ございません>803
811日本@名無史さん :2000/10/22(日) 23:24
>809

まともな議論に加われない厨房の僻みがよくでていますね。
812日本@名無史さん :2000/10/22(日) 23:34
ところで、アマチュア論客だと古田武彦と並んで安本美典が有名だよね。
ここには古田の支持者はきてるけど、安本支持者はいないのかな?
安本はやたら本だしてるけど、結局、大して支持者いないわけ?

しかしまあ冷静に考えると、古田と安本って、なにか邪馬台国論議に
貢献してるのかな?
結局、文献史料をいじくっても新発見なんてないし、考古学になれば、
アマチュアは入っていけないってことかな。
813日本@名無史さん :2000/10/22(日) 23:35
ところで、アマチュア論客だと古田武彦と並んで安本美典が有名だよね。
ここには古田の支持者はきてるけど、安本支持者はいないのかな?
安本はやたら本だしてるけど、結局、大して支持者いないわけ?

しかしまあ冷静に考えると、古田と安本って、なにか邪馬台国論議に
貢献してるのかな?
結局、文献史料をいじくっても新発見なんてないし、考古学になれば、
アマチュアは入っていけないってことかな。
814名無しさん@1周年 :2000/10/23(月) 00:38
安本は、京都大文学部卒で、文章心理学が専攻で、古代の言語に関する研究では、
一定の評価があるようです。
古田は、東北大文学部卒で、日本思想史が専攻で、好太王碑文改竄説を否定する論文は、
専門誌に載せられたりと、初期の一部の研究は、プロにも評価されたようです。
いずれも、歳を取るに連れて、頑迷さを増しているようで、今や目を覆う限りです。
815>814 :2000/10/23(月) 01:02
>814

安本が言語の本かいてるのはしってたけど、一定の評価って、
どんくらいなんだろう?
ま、邪馬台国関連だと、プロには認められてないしね。
一般層の支持者は多少いるのかな?
816>814 :2000/10/23(月) 01:03
>814

安本が言語の本かいてるのはしってたけど、一定の評価って、
どんくらいなんだろう?
ま、邪馬台国関連だと、プロには認められてないしね。
一般層の支持者は多少いるのかな?
817日本@名無史さん :2000/10/23(月) 11:49
倭人伝中の「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
と言う記載についてどのように解釈すべきか諸氏の意見がほしい。

邪馬台国が九州内陸部(吉野ケ里近辺)では北の方の沿岸部に魏と交流していた
国が30ケ国位あったのだから「其餘旁國遠絶、不可得詳」とはなり得ない。
畿内でも大和政権が九州まで制圧していたとするとこの様な表現は有り得ない
と思うのだが。
818名無しさん@1周年 :2000/10/23(月) 12:03
文面を見ると、邪馬台国までの経路で立ち寄った国々だけ、その実状視察ができ、
それ以外の国々は名前を聞きつけただけと言うことでしょう。
畿内の邪馬台国までの経路以外の、北部以外の九州・山陰・四国・北陸・東海など、
様々な地域の国々を考えればいいのじゃないの?
819日本@名無史さん:2000/10/23(月) 13:49
自分は邪馬台国九州説だったので畿内説に興味がなく知らない事が多い。
畿内説では不弥国を出た後、どのような経路(現代の地名)で大和に
到達したのか教えてくれない?
820名無しさん@1周年:2000/10/23(月) 14:22
万葉集に見える遣新羅使の経路、
室町時代における朝鮮からの使者の経路、
江戸時代におけるオランダ商館員の江戸参勤の経路などなど、
山陽沿いに瀬戸内海を渡っており、これと同様の経路が妥当でしょう。
隋書に見える隋からの使者も、恐らく同様の経路だと思う。

五万戸の投馬国は吉備広域、七万戸の邪馬台国は畿内広域を考えます。
821>817:2000/10/23(月) 15:58
勘違いしてないか?
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」 は
「邪馬台国より北の国のことはわかる(上陸してから南へ、南へと旅するのだから
あたり前)が、それ以外の方角(つまりは、東、西、南)の国のことはよく
わからない」という意味だよ。

だから、邪馬台国が九州の内陸部だとする説では問題ないが、九州の北部だと
する説ではちょっとつらい。畿内説では、わかってるのは、「北」じゃなくて
「西」の国だろとつっこまれて、例によって「北」は「西」のまちがいなのだ
と、苦しい言い訳をするしかないものだよ。
822日本@名無史さん:2000/10/23(月) 16:52
>>821
がいしゅつだけど明代の地図では日本は南西へ伸びてるんだよね。
それについてはどう思います?

「千数百年も後の地図なんて関係ないも同然。全く意味なし。」
と考える人がいるのは当たり前でしょうが、逆に言えば
「16世紀になっても中国人は日本が南西へ伸びていると考えている。
 昔から常識的にそう思われていたと考えても不思議ではない。」
という人もいるでしょう。(後者はちょっと井沢元彦的ですが)

いかがです?
823>821:2000/10/23(月) 16:54
なるほど、納得したよ。
有り難う。
畿内派からの反論はある?
824名無しさん@1周年:2000/10/23(月) 17:03
マンガネタでスマンが孔明とか他の軍師がよく
「天文を見るに・・・・」ってやってるよね?
あと古墳とかにも天空図を描いたりしてるでしょ?
そんな連中が東西南北を間違えるか?
825名無しさん@1周年:2000/10/23(月) 17:05
あ〜
でも中国人って航海術が優れてたって話はあまり聞かないから
やっぱり方向音痴なのかな〜?
826824=825:2000/10/23(月) 17:06
です。
827畿内派さんへ:2000/10/23(月) 17:09
倭国内を不弥国まで詳しく記述しながら、突然、水行30日陸行一月を
投馬国一国しか記載せずに飛ばしているのはなぜ?
どこかに停泊すれば記載するでしょう、普通。
陸行一月、記載すべき国が一つもなかったなんて信じられないが?
828日本@名無史さん:2000/10/23(月) 17:34
>>825
中国人が方向音痴であるとかそういう問題ではなく、
「中国人がどう思い込んでいたか?」が重要なのです。
使者が伊都国までしか行っていないとする説に立てば、の話ですが。

>>827
過去ログを読みませう。
829名無しさん@1周年:2000/10/23(月) 17:45
>827
隋書では、隋の使者の記録に基づき、以下のように経路を述べており、
→斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→経十余国→海岸→邪靡堆
ここでも、遠隔地は端折っています。
理由は不明ですが、似た例があることは確かです。
830お待ちしてました:2000/10/23(月) 20:45
>「西」の国だろとつっこまれて、例によって「北」は「西」のまちがいなのだ
>と、苦しい言い訳をするしかないものだよ。

>そんな連中が東西南北を間違えるか?

末盧と伊都の比定地を聞かせてくれ。
定説に従えば伊都は末盧の東北になってしまうぞ。

これを問うと九州説は必ず沈黙してしまう。
答えが返ってきたためしがないのだ。なんか言ってくれ。

答えられないなら、方角について畿内説にどうこういえる立場じゃねぇぞ。
831821>830:2000/10/23(月) 22:44
>末盧と伊都の比定地を聞かせてくれ。
>定説に従えば伊都は末盧の東北になってしまうぞ。

どこの定説なんだ?九州説は古田説だけじゃないんだよ?
821でも言っているが、魏志倭人伝の記述を素直に読めば、邪馬台国が福岡市
近郊だというのはかなり無理がある。

また、古田説では末盧を松浦半島に比定しているが、千余里とされている
壱岐から松浦半島までは30kmくらいしかなく、1里約70kmとする短里説でも
500里くらいにしかならない。さらには、貢ぎ物の量などから考慮して当時
でも、かなり大きな船が使われていたと考えられるが、当時の建築技術で
そんな大きな船が停泊できる港が作れたとは到底思えず、大航海の拠点と
なる港は、大きな河口にあっただろうと推測される。しかし、松浦半島には
そんな川はなく、最も近いのが唐津の松浦川になる。実際、唐津は古くから
朝鮮へ出航する船の拠点になっていたことが知られている。壱岐から唐津
までは松浦半島に沿って航海すると約60km。千余里の記述にもだいたい合う。
末盧は唐津だろう。
832821>830 続き:2000/10/23(月) 22:45
そして、末盧から東南に500里で伊都に着くが、唐津から東南に35km行くと
佐賀市の南部に着く。よって、伊都は佐賀。ここから東南に100里、7km先に
あるのが柳川市で、ここが奴国。また、水行の拠点となる不弥国は、伊都の
東100里にあるが、佐賀市南部から東に7km、柳川市の北には、早津江川との
分岐点でもある、筑後川の河口があり、港町とするにはもってこいの場所。
ここが不弥国。

そして、不弥国から南、有明海に出航して行った先に邪馬台国があるとすれば
魏志倭人伝の記述に、方位、距離ともぴったり合う。ちなみに、私は、魏の
役人は不弥国までしか来ていないため、不弥国から先の記述はあいまいに
なっているのだと考えている。

反論をどうぞ。
833821:2000/10/23(月) 23:02
ごめん。わかってるとは思うけど、831の1里約70kmは、1里約70mの誤りね。
白川博士の助手みたいなことをしてすまん(笑)
834お待ちしてました:2000/10/24(火) 00:38
>どこの定説なんだ?

末廬=唐津
伊都=前原周辺
奴=福岡平野のどこか(春日か博多)

>九州説は古田説だけじゃないんだよ?

古田が定説なわけないじゃん

>そして、不弥国から南、有明海に出航して行った先に邪馬台国があるとすれば
>魏志倭人伝の記述に、方位、距離ともぴったり合う。

唐津に上陸して方角を重視したらこれしかないな。それは認めるぞ。
行程記事に忠実に九州説を張るとしたら、オレもこれしかないと思ってる。
問題はその先だ。で、邪馬台はどこだ?

引き続き、他の九州説の意見を待つ。
835名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 02:13
九州島内は、陸路を行くのが普通でしょう。
一方、遣新羅使・オランダ商館員・朝鮮通信使などの経路を見ると、
いずれも瀬戸内海は海路を取っています。
「水行十日、陸行一月」の水行は、瀬戸内海と見るのが妥当。
836名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 07:37
海路は瀬戸内海あげ
837日本@名無史さん:2000/10/24(火) 09:20
九州説なら不弥国と邪馬台は隣接していてほどんと距離がなかった
と見るのが妥当では。
水行十日、陸行一月は帯方郡からの行程。
不弥国は有明海に面しそこから投馬国(薩摩国?)へ水行二十日。

838魏の使者:2000/10/24(火) 09:22
瀬戸内海は河でしょ?
839名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 10:48
>838
中国では大河は水運に重要で、隋の大運河など、その象徴的な動きでしょう。
日本では、内海で波も穏やかで避難しやすい瀬戸内海は、山陽道よりも多く利用された。
九州に上陸した後で、再び「水行十日」となるのは、九州内では不自然で、
後世の紀行文を見ても、瀬戸内海を指すと考えるのが妥当。
840日本@名無史さん:2000/10/24(火) 15:04
畿内説では最初の上陸地点は何処で、再び水行にでる
不弥国又は伊都国は何処なの?
倭人伝の方向、距離はでたらめなんて言わずに答えてね。
841名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 15:42
最初の上陸地点は、どの立場にしても、松浦付近と考える人が多いでしょう。
瀬戸内海で再び水行するのは、海運上から見て、北九州付近と考えるのが妥当。
水行二十日で投馬国(吉備)に到着し、更に水行十日で邪馬台国(畿内)の
領域内の海岸に到着すると考えれば良いと思う。
842日本@名無史さん:2000/10/24(火) 16:14
>瀬戸内海で再び水行するのは、海運上から見て、北九州付近と考えるのが妥当。

北九州の何処かを聞いているんだけど。
まさか博多から玄界灘に出て関門海峡を渡ったなんて言わないよね。
843日本@名無史さん:2000/10/24(火) 16:36
>842
その話は終わってるでしょ?
844日本@名無史さん:2000/10/24(火) 16:42
 月刊・歴史読本の今月号が、邪馬台国特集だったので、
買って読んでみた。特に目を引く記事は無かったと思うけど
個人的に気になったのは、邪馬台国の風俗に関する記述が
南方系風なことかな。これは九州説に有利じゃないの?

 気象学的には、3世紀は小氷期で畿内は寒かったとする
分析もあるようだが、コラム風な記事だったので信頼度は
高くないかもしれない。

 三角縁神獣鏡については、楽浪郡産と成分が一致すると
いう分析が載っていたけど、発見されている量が多すぎる
こと、出来が粗雑であることを考えると卑弥呼に与えられた
鏡とは別物と考えた方が妥当な気がする。素人考えだけど。
845名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 17:01
倭国産は技術的に劣ってないぞ。紀元前後にも、巨大な銅鐸を作っているし、
2世紀前半には、平原遺跡で巨大な銅鏡を作っている。
中国では、後漢末〜三国時代にかけて、戦乱で国内が荒廃し、
漢式鏡の出土も少ないし、銅銭の出土も少ない。
846名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 17:18
>843
終わってないよ。
北九州の何処から出発したの?
847名無しさん@1周年:2000/10/24(火) 17:30
>846
魏志倭人伝には詳しい経路が書いてないので、もちろん憶測になるけど、
水運上の便を考えれば、潮流や波浪が穏やかな、瀬戸内海に面した港を起点とするのが
妥当でしょう。
848821>834:2000/10/24(火) 22:35
>問題はその先だ。で、邪馬台はどこだ?

残念ながら、不弥国以降の道程の記述があいまいなので、邪馬台国の場所を
断定することはできない。しかし、いくつかの候補をあげることはできる。

まず、魏志に「至○×」という記述がある場合、「至」の直前に「行」などの
動詞がある場合は実際に行ったことを示し、ない場合は行けるという注釈に
すぎないとする説が有力なので、伊都国から奴国と、不弥国から投馬国への
記述については無視する。

次に、帯方郡から邪馬台国までは12000余里であると明記されているが、
帯方郡から不弥国までの道程をたしていくと10600余里となるため、不弥国
から1400里、誤差を考慮して100〜150kmに邪馬台国はあると考えられる。

そして、水行10日、陸行1月だが、これを帯方郡からの全日程とする説も
あるが、実は、古い朝鮮の記録などから、昔は、天候待ちなどの理由から
200kmしかない対馬海峡を渡るのにも、まるまる1か月かかったらしく、
これを全日程とすることはありえない。よって、水行10日、陸行1月で
行く距離が100〜150kmであると考えられる。
849821>834 続き:2000/10/24(火) 22:36
ところで、200kmの対馬海峡を渡るのに30日かかるということは、水行で
行ける距離は、1日平均約7km=約100里であるということになる。

そのため、誤差を考慮して、佐賀から60〜80km先が、水行10日で行ける
再上陸地点であり、残り40〜90kmが陸行1月で行ける距離だと考え、
再上陸地点も水行の拠点であるからには、大きな河口であろうと推測すると、
60km先の宇土市の緑川か、80km先の八代市の球磨川の河口である可能性が
高いと思われる。

再上陸地点が宇土市の場合は、宇土市から約50kmの阿蘇山周辺、約60kmの
高千穂、約80kmの大分県竹田市、約100kmの宮崎県延岡市あたりが候補に
なると考えられる。

また、再上陸地点を八代市とした場合は、50km先の人吉市が候補として
あげられる。ちなみに、100km先には、高千穂岳のある霧島があるのだが、
これほど九州南部までを倭の領域だとすると、倭は、一周5000里だとする
範囲を越えそうなので、霧島を候補に入れるのは厳しいと思う。

これらの候補地の中で、一番おもしろいのは、卑弥呼=天照大神説につながる、
天の岩戸伝説の地元、高千穂だが、高千穂は小さな町なので、とても7万戸を
抱えられるとは思えない。この点がクリアされれば、高千穂を最有力候補に
あげたいところだが、現時点では、阿蘇山周辺が最有力候補ではないかと思う。
850>848:2000/10/25(水) 00:07
ところで、200kmの対馬海峡を渡るのに30日かかるということは、水行で
行ける距離は、1日平均約7km=約100里であるということになる。
851名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 00:13
>849
だ・か・ら、水運の方が有利だから、日本国内で利用するのであって、
対馬へ渡ったりするような不利なところでは、陸行を使うのが妥当で、
幻の九州説の苦し紛れの言い訳はナンセンスだな。
考古学的には畿内説で決着しており、今や九州説は電波本を売るためのみ。
852>821:2000/10/25(水) 00:27
まず、奴国までのことだけど、

834がかいていたように、

末廬=唐津
伊都=前原周辺
奴=福岡平野のどこか(春日か博多)

が定説。
佐賀に伊都をもっていっているのは、821以外の論者で誰かいるの?

では、いったいなぜ、伊都や奴国の比定地が倭人伝の記述に反する九州北岸に
なっているかというと、

1)「漢委奴国王」の金印が志賀島で出土している。
2)九州北岸には同時期有力な遺跡が栄え、邪馬台国時代までつづいている。
3)「漢委奴国」は、「委奴(イト)国」、または「倭の奴国」と考えられる。
3)つまり、奴国なり委奴国は、九州北岸にあった。
4)倭人伝の国名にみえる伊都国なり奴国は、「漢委奴国王」の後身と考えられる。
5)したがって、奴国なり伊都国は、有明海ではなく、九州北岸にあった。

というわけ。
853>821(続き):2000/10/25(水) 00:41
別に、学者は倭人伝の行程記事だけみて比定しているのではない。
倭国に関する史料は文献・考古学史料ともに、いろいろある。
阿蘇山周辺て、有力な遺跡あるわけ?

他の821の説への疑問を挙げると、

1)821は短里説を前提にしている。しかし、短里説は、古田を除けば、
「一つの文献史料の中で、『里』は異なった距離を示すことがある」
という議論である。しからば、はっきり場所のわかる壱岐までの里数・距離
から逆算される「里」が、その後の「里」と同じであるかわわからない。

2)>ところで、200kmの対馬海峡を渡るのに30日かかるということは、水行で
>行ける距離は、1日平均約7km=約100里であるということになる。

対馬海峡を天候まちしながらわたるのと、有明海をいくのを、同一視してよいのだろうか?

3)>残り40〜90kmが陸行1月

一日の移動距離わずか1〜3kmってのは、いくらなんでもいかがなものか?

その他、いろいろあるけど、821から反論があるようなら、また詳論したい。
821がもうレスやめるなら、あれこれいってもしょうがないわけだし。

854まだ待ってるぞ:2000/10/25(水) 02:12
>残念ながら、不弥国以降の道程の記述があいまいなので、邪馬台国の場所を
>断定することはできない。しかし、いくつかの候補をあげることはできる。

そりゃあない。この末廬から南下説の最大の難点は有明海で行き詰まってしま
うことで、それゆえ誰からもかえりみられないのだ。考古資料や倭人伝の行程
記事以外の部分なども考慮して総合的に説明が付かないと、説得力ゼロだぞ。

ただし、方角についてだけはこの説はクリアしてる。回答してもらったことを
加味して罪一等を減じ、“畿内説は方角がおかしい”ということを認めるぞ。

ところで、その他の九州説諸賢はいかがかな?

『方角については九州説有利で畿内説には不利』(南九州説を除く)

がただの幻想(妄想といってもいいか)であることを了解したと思っていいかな?
855名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 07:39
瀬戸内海を水行あげ
856日本@名無史さん:2000/10/25(水) 09:14
>848
「余里」の考え方を違えているよ。
帯方郡からの12000「余里」は「前後、位」だが
行程での「余里」は「+α」だ。「前後、位」ではない。
「+α」をプラス5〜10%と考えれば不弥国から邪馬台国迄は
殆ど0と考えられる。
邪馬台国とは北九州連合国の総称で不弥国は卑弥呼の宮殿の門前町
であると考えるのが妥当。
だから不弥国から邪馬台迄の距離、方向が書いてないわけ。

>854
畿内説は九州に上陸した後、何処の港から出航したかさえも
解らないらしいね。
学問になっていないね。
宗教みたいなものと解釈すれば納得出来るけど。
857名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 10:05
>畿内説は九州に上陸した後、何処の港から出航したかさえも
>解らないらしいね。

水運上の便や、後世のオランダ商館員の行程などから、おおよその場所は
想定される。しかし、具体的には何も書いてないし、場所を断定する方が電波。
何を言っているやら。小学校から勉強をやり直した方が良いな。>856
今や、九州説は、論理的に考えられない連中に支えられているだけ。

隋書に、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」と、魏志のヤマト(邪馬台)が、
当時の都のヤマト(邪靡堆)と理解しているのが、当たっているな。
858名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 10:20
ホケノ山古墳、卑弥呼の時代に築造
掲載日2000年03月28日(共同通信=佐賀新聞)

最初期の前方後円墳として注目されていた奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長約八十b)が三世紀中ごろに造られたとみられ、埋葬施設が確認された最古の前方後円墳と分かった。卑弥呼の時代に前方後円墳が奈良盆地東南部で発生したことを示す重要な発見。大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会(委員長・樋口隆康県立橿原考古学研究所長)が二十七日、発表した。(4、31面に関連記事)

同古墳は邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡の一角にあり、棺を保護する木槨(もっかく)の周囲を石で囲った埋葬施設「石囲い木槨」や、中国製とみられる画文帯神獣鏡などが見つかった。卑弥呼が魏から与えられた「銅鏡百枚」のうちの一枚だった可能性もあり、邪馬台国畿内説を補強する有力な材料になりそうだ。
墳丘の規模は当時最大。後円部の埋葬施設は南北向きに築かれ、長さ約七b、幅約二・七b。河原石積みの壁の内側を針葉樹の木材を並べた木槨で囲っていた可能性が高い。前方後円墳で木槨が見つかったのは初めて。天井は木材を並べた上に石を積んでいたらしい。
内部にはコウヤマキ製の木棺が置かれていたとみられ、推定で長さ五b、幅一bのくりぬき式。頭をどちらに向けて葬られていたかは不明。
時期が近い木槨墓は朝鮮半島のほか、国内では弥生時代終末期の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)などの例がある。石積みの構造は黒田古墳(京都府園部町)など近畿や瀬戸内東部の弥生終末期―古墳時代初期の墳墓の竪穴式石室に似ている。
前方部は隣の箸墓(はしはか)古墳と同様三味線のばち形に開くと推定され、発生期の特徴を示す。
棺内には直径約十九aの画文帯神獣鏡一枚や鉄剣五本などがあり、大量の水銀朱もまかれていた。鏡は棺の南寄りで発見。文様の鋳あがりが非常に良く、後漢末―三国時代の中国製とみられるという。
埋葬施設内には墳丘上から落ち込んだとみられる祭祀(さいし)専用の二重口縁壷(つぼ)=三世紀中ごろ=が約二十個見つかった。埋葬施設上を縁取るように方形に並べられ、後の埴輪(はにわ)の配列との共通性がうかがえる。

〈銅鏡100枚の一つ〉
樋口隆康・県立橿原考古学研究所長(大和古墳群学術調査委員長)の話 画文帯神獣鏡のうち今回出土した同向式と呼ばれる形式は約五十面が残っている。文様から、後漢末から三国時代の中国での製作とみられ、同じタイプの鏡が畿内に集中して出土していることからも、卑弥呼が魏から二四○年にもらった「銅鏡百枚」の一つと考えて少しもおかしくない。邪馬台国畿内説の有力な証拠だ。
859日本@名無史さん:2000/10/25(水) 10:36
>おおよその場所は 想定される。しかし、具体的には何も書いてない
>し、場所を断定する方が電波。

それだったら邪馬台国の場所を断定するのも電波だろう。
あんたの言っているのは○○ライフの教祖が言った
「ミイラは生きている。それは定説だ。」みたいなもん。

隋書は大和政権が「魏志に書いてある邪馬臺は自分たちの
祖先だ。」と言う主張を鵜呑みにしただけ。
860名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 10:41
吉野ヶ里遺跡の地元である佐賀新聞の
「日曜討論 姉妹遺跡が語る邪馬台国への道」は興味深い。
長文でコピペしなかったから、リンク先を見て欲しい。
http://www.saga-s.co.jp/pubt/ShinDB/Data/2000/03/12/018_11.html
861名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 10:43
>それだったら邪馬台国の場所を断定するのも電波だろう。

頭悪いなあ。こちらは行程と邪馬台国と名称が明示されているし、
卑弥呼の墓が、径百余歩(約150m)とか、具体的な記述がある。
862名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 11:06
860の記事で、吉野ヶ里の地元の七田忠昭氏(佐賀県教委文化財課企画調整主査)が、
「恐らく考古学者の九割以上は畿内説だろうが、私は北部九州説。
中でも吉野ケ里遺跡を有力候補に挙げる。」
と、多勢に無勢だけど、地元びいき発言しているのは、自覚しているようだ。

富樫雅彦氏(東京都新宿区立新宿歴史博物館学芸員)の発言も紹介しておこう。
「魏志倭人伝にある「狗奴国」と邪馬台国が敵対しているという記述を起点に考えたい。
邪馬台国連合に入ることは宗教観や精神性なども同時に受け入れることになり、
それを拒んだ勢力は恐らく縄文的な社会を引き継いだ勢力だろう。
東海地方の天竜川から東は縄文的意識が弥生に入っても根強く残っていたことが
遺物などから確認できる。こうしたことから「狗奴国」を天竜川以東の東海地方とすると、
必然的に邪馬台国は畿内とした方が説明はつきやすいと考える。」
863日本@名無史さん:2000/10/25(水) 11:18
>861
倭人伝の何処に邪馬台国が畿内にあると書いてあるの。
不弥国が何処か判らずに次が何処かを断定するのが電波と言っている。
何処か判らない所から距離すら不明の所にいった所が邪馬台国で
そこが畿内だなんて断定出来ないだろう。ばか
864名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 11:25
魏志倭人伝には、膨大な記述があるのに、方角と里程しか見ないのが、九州説の厨房。
学問的には、畿内説で決着しているのだから、電波本の妄想の中で遊んでなさい。
865日本@名無史さん:2000/10/25(水) 11:35
http://www.saga-s.co.jp/pubt/ShinDB/Data/2000/03/12/018_11.html
によれば
最終結論は
西 大和朝廷と邪馬台国を連続してみるか、切り離してみるかで意見
が分かれるところだろう。ただ、本当の意味での全国統一は豊臣秀吉
までなかった。そうなると対立的な構図を考えた方が自然で、邪馬台
国は北部九州、中でも吉野ケ里か平塚川添あたりということにしてお
きますか。
川端 遺跡など地域状況を見渡した場合、北部九州は一つのまとまり
として考えやすく、今のところ邪馬台国としては納得できるところが
多いように思う。

となっているよ。
866名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 11:53
魏志倭人伝=インチキ。
歴史書としての価値は無し
867日本@名無史さん:2000/10/25(水) 12:03
ホケノ山古墳発掘について、安本先生のコメントを掲載します。

●『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあっていない。





 すこしきつい表現になるが、はっきりものをいおう。
最近の関西発 邪馬台国関連発掘ニュースは、なにやら、大本営発表に似て
きている。
発言権をにぎった発掘者が、しばしば、はじめから邪馬台国=大和説の前提で
発表を行う。新聞社や、テレビ局の関西本社などの担当者は、ご当地びいき
からか、あるいは、卒業した関西の大学で、邪馬台国=大和説をたたきこまれ
たためか、情報を得るのを有利にするためか、大和説の前提で、報道をおこ
なう。
さらによくみれば、邪馬台国と直接関連のない情報までも、ニュースヴァリ
ューを高めるために、邪馬台国と結びつけて報道する。
発掘の当地から発信されれば、他の地域は、その情報を、全国ネットで流さ
ざるをえない。ところが、もとの情報は、はじめからバイアスがかかってい
るのだ。

かくて、バイアスのかかった情報が、事情をよくしらない人たちに、大々的
にインプットされていく。
なにやら、マインドコントロールの図式に近い。客観的な事実があって、客
観的な検討が必要なのであるが、客観的な検討がぬけて、発掘が、特定の説
や立場のPRの具となっている。注意が必要である。

今回の発掘は、疑問点があまりにも多い。
まず、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その
中心に、木棺があった」という。

この事実じたいが、ホケノ山古墳の築造年代が、「邪馬台国時代に相当
する三世紀中頃」という判断を疑わせる。
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、「棺あって槨なし。」と、明記し
ているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述
に合っていない。

「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。たとえば、「韓伝」
「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、「高句麗伝」では、「石
を積みて封となす」、「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。
畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわな
い。

邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見き
きせずに記したのであろうか。
「木槨木棺墓」や「竪穴式石室墓」、さらには「横穴式石室」は、時代の下
った「隋書倭国伝」の、「死者を斂めるに棺槨をもってする」という記
事と、ぴたり一致する。
中国人の観察、弁別記述は鋭い。


868日本@名無史さん:2000/10/25(水) 12:05
いっぽう、九州の福岡県前原市の平原遺跡からは、39面の鏡が出土した
が、平原遺跡では、土壙(墓あな)のなかに、割竹形木棺があった。割
竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲
った部屋」などはない。「魏志倭人伝」の記述にあっている。

平原遺跡の時期は、1998年度の確認調査で、周溝から古式土師器が出土
し、また、出土した瑪瑙管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時
代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」「東アジアの古代文化」
1999年春・99号)
これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。
北九州で多量に発見される甕棺墓や箱式石棺墓なども、「棺あって槨な
し」の記述に合致するといえよう。

そもそも、ホケノ山古墳の築造年代が「邪馬台国時代に相当す
る」という判断は、どのような根拠にもとづくのか。

一つは、「庄内式土器」が出土したということによっているようである。
しかし、邪馬台国=畿内説をとる考古学者でも纒向遺跡を発掘した関川尚功氏
などは、庄内式土器を、「卑弥呼の活動していた時期よりものちの時代
の土器」とする(「庄内式時について」「季刊邪馬台国」43号)
庄内式土器の年代については、考古学者のあいだで、一致した見解がえられ
ているわけではないのだ。
ホケノ山古墳に近い箸墓古墳の築造年代なども、三世紀後半にくりあげる考
古学者が多い。しかし関川氏は、四世紀中ごろのものとしている。
869日本@名無史さん:2000/10/25(水) 12:06
「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した
倭迹迹日百襲姫とされている。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世
紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見である。とすれば、箸墓古
墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほ
うが、文献的事実ともあう。

私は、ホケノ山古墳を、西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳
を、西暦350年ごろ以降に築造されたものとみる。
西暦247か248年になくなった卑弥呼と結びつかない。
画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの
参考にもならない。
画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四
世紀代の古墳から出土している。
なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀
末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。
そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。中国北方
の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。平原古墳の
39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。

卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐
苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き
鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡
ははいらない、とみるべきである。

三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総
数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもら
った100面の鏡としては、数が多すぎる。

画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。
今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。
いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。

ホケノ山古墳の示す事実そのものは、「魏志倭人伝」の記述に合ってい
ない。
事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない。
870名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 13:14
平原弥生古墳を発掘した、在野の考古学者の原田大六氏は、漢鏡から2世紀前半と推定している。
学界の大勢が、根拠無く古墳時代の始まりを遅らせていたのを疑問視し、戦後早くから
箸墓古墳=卑弥呼の墓説を支持し、九州人ながら、それに囚われずに、邪馬台国畿内説でした。

安本氏は、土器型式による相対編年や、年輪年代法による実年代決定を全く無視し、
独り善がりな編年をしており、全く相手にされていないのが実状。
安本氏は、言語年代学関連以外には、古代史に見るべき貢献は無いでしょう。
871日本@名無史さん:2000/10/25(水) 13:26
>767、768、769
みごと畿内はの拠り所を木っ端微塵にしてくれた。
パチパチパチ!
872名無しさん@1周年:2000/10/25(水) 15:32
871は、支持する理由すら書いてない厨房、寒すぎる。
九州説は、こんな連中に支えられているのが実状で、今や悲惨な状況。
安本氏は、根拠なく年代を歪曲するのが酷すぎる。
873名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 01:18
平原弥生古墳を発掘した、在野の考古学者の原田大六氏あげ
874名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 01:42
芥川賞作家・高城修三氏(1998)『大和は邪馬台国である』(東方出版)の紹介ページ
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai07.htm
875安本説の諸問題:2000/10/26(木) 01:45
安本のHPから長い引用しているひとがいたのでレス

安本が引用している論文

『柳田康雄「平原王墓の性格」「東アジアの古代文化」
1999年春・99号)』

を読んだところ、ずいぶん安本のいってることとは違う。
柳田のいっているのは、平原が、弥生中期から、終末期までの、時代の異なる
埋葬品を含む王墓だということである。つまり、平原は、邪馬台国以前から
邪馬台国時代にかけて、長期にわたり栄えているわけだ。(柳田は、伊都の王墓としている)

そして、平原の鏡について、柳田は、「二世紀後半にかぎりなくちかづく」
といっている。ようするに、平原の鏡は、邪馬台国時代以前のものなのである。
安本の議論では、あたかも平原墓の鏡が邪馬台国時代のことであるかのように
書いてあるが、まったくのデタラメである。

867はきちんと自分で調べてから引用すべし。
876>871:2000/10/26(木) 01:58
>871 名前:日本@名無史さん投稿日:2000/10/25(水) 13:26
>767、768、769
みごと畿内はの拠り所を木っ端微塵にしてくれた。
パチパチパチ!

キミ、頭大丈夫?
これ↓のどこが畿内説を木っ端微塵にしてる?そもそも、畿内説の論拠にも全然ふれてない。


>767 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/10/20(金) 04:04
比定を否定する...ATOKは、ちゃんと変換した。


>768 名前:日本@名無史さん 投稿日:2000/10/20(金) 09:17
ひでぇー話だな〜


>769 名前:744 投稿日:2000/10/20(金) 09:57
音が似ているからと言って簡単にそこに地名比定良いのだろうか。
北海道に伊達市と言うのがあるがこれはかっての伊達藩の人たち
か福島県の伊達郡の農民が移り住んだ事で付けられた。
記録に残されていればその由来は200年後も忘れられないだろうが
記録に残されていない何百年も前の地名は人の移動とともに移って
しまっても忘れられているだろう。
漢の委奴国が糸島(博多)付近にあった事はその通りかもしれないが
そうでないかもしれない。
邪馬台国の伊都国は委奴国の一部の人が八幡辺りに移り住んで作った
国かもしれない。
何れにしろ卑弥呼の時代より何百年も下がった時代の地名だけを頼りに
邪馬台を捜すのは無理というもの。
私は無理に魏志倭人伝を間違っていると言いながら都合のいい所だけ
つまみ食いして邪馬台を大和にもって行こうとする低能学者に、
このように倭人伝に従って無理な読み替えをしなくても大和に導く
方法もあると言う事を提示しているのだよ。


前にもかいたけど、畿内説は別に地名を拠り所にしてるんじゃないんだよ。
744の自作自演ですか?
877畿内説とは:2000/10/26(木) 02:14
ロクに調べす゛いいかげんなこという人が多いには困るよね。
畿内説にもいろいろあるが、別に、倭人伝の行程記事だけが
邪馬台国の史料ではない。当時の考古学史料とか、総合的に
議論してるわけ。なかには、行程記事から畿内にもってく人
もいるけどね。

そもそも、行程記事は九州に有利ではない(なんどもいってるけど)
だいたい、「九州説」といっても、山門説、諫早説、宇佐説、博多説、
筑後川流域説、南九州説、阿蘇山周辺説と、てんでバラバラ。
どこをどういったかについても、論者によってわかれる始末だ。

九州論者の間でも本命が決まらないのは、結局、行程記事頼みでは
邪馬台国にはつけないということである。


878日本@名無史さん:2000/10/26(木) 04:47
ここのレスを読んで 非常に興味をもった素人です。
畿内説 九州説 双方とも もっとよく知りたいので
両方の 代表的な著作を おしえてもらえないでしょうか
よろしくお願いします。
879日本@名無史さん:2000/10/26(木) 10:05
>>876
何気に768のシャレがおもしろい・・・・
じゃあボクも一句、ヘタなシャレは止めなしゃれ。
880871:2000/10/26(木) 10:23
ごめん間違えた。
>767、768、769 は>867、868、869だった。

つまり畿内説の論拠の大きな所は大和には卑弥呼の時代に近いと思われる
古墳が沢山あると言う事だろう。
大和にある墳墓が倭人伝の記述と全く一致していない事が判明したら
畿内説の論拠はなくなると言う事だ。
881名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 11:10
土器型式から、最古級の前方後円墳とされる纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃で、
これを画期とすれば、卑弥呼の時代は古墳時代に最初期となる。
また、古墳からは、魏や呉の紀年鏡も幾つか見つかっており、上限を与える。
安本氏は、この年代では九州説に都合が悪いので、根拠のないデタラメな年代観で
強引に突っ走ろうとしているだけなので、相手にされていない。

>つまり畿内説の論拠の大きな所は大和には卑弥呼の時代に近いと思われる
>古墳が沢山あると言う事だろう。
魏志倭人伝が記述する卑弥呼の墓の直径と、日本書紀に巫女的な女性の墓の伝承がある
箸墓古墳の後円部の直径がドンピシャであり、年代的にも調和する可能性が高いので、
箸墓古墳を想定する学者が多い。
882日本@名無史さん:2000/10/26(木) 11:56
>881
一歩をどの位にするかで「箸墓古墳の後円部の直径がドンピシャ」
かどうかわからなくなるよ。
150cmとする説から、25cmと言う説まである。
883日本@名無史さん:2000/10/26(木) 12:37
実は関東だったって説もあるのしってる?
884名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 12:37
>882
そんなデタラメなことはない。
一歩は、左右一回ずつ歩いた距離で、当時は140cm程度とされている。
ショボイ墓なら、わざわざ大きさを記載するほどのこともなく、
薄葬だった三国時代の中国から見て、異例の大きさだったから記したはず。
885日本@名無史さん:2000/10/26(木) 15:52
http://www.mirai.ne.jp/~kat/gisi/index.html

ここは朝鮮通信使の行程にも触れていて面白かった
886名無しさん@1周年:2000/10/26(木) 19:51
●揺れる弥生の年代観 年輪年代法の最新情報 朝日新聞・奈良版(10/8)より抜粋
http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?c=5&kiji=102

 弥生時代と古墳時代の過渡期の土器とされる庄内式土器が出土した纒向石塚
(桜井市)の場合、用途不明の板の年輪年代が推定で一九五年ごろだった。
庄内式土器の通説である三世紀中ごろより、約五十年古い。

 古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が
推定二五〇年ごろ。古墳時代前期の通説である四世紀初めより、やはり約五十年古い。

 奈文研の金子裕之・研究指導部長は「土器様式で年代を考えてきた私たち考古学
研究者にはつらい結果だが、土器は基本的に相対年代しかわからない。実年代を
推定する根拠にしていた中国の青銅製品などに代わって、年輪年代による実年代から
年代観を再検討すべきだろう」と話している。
887神のものは神に、カイザルの物はカイザルに返しなさい:2000/10/26(木) 22:05
>かくて、バイアスのかかった情報が、事情をよくしらない人たちに、大々的
>にインプットされていく。
>なにやら、マインドコントロールの図式に近い。

これはそのまま安本に返したほうがいいな。
888邪馬台国が見えてきた:2000/10/26(木) 23:31
武光誠著、ちくま新書

という本を読んだ。
結論はともかくとして、いやはや、ひどい本だった。
錯綜する年代観、事実誤認、飛躍する論理。素人のモノローグ以下だ。

この男、前々から壊れかけてるとは思っていたが、ついに完全に壊れたようだ。
壊れかけと思ったオレが甘かったか。

最後まで読むのに耐えず、途中で捨てた。680円+税金、返せ!
889日本@名無史さん:2000/10/26(木) 23:42
>>884
>一歩は、左右一回ずつ歩いた距離

↑って普通は2歩って言わないか?
890名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 00:14
>↑って普通は2歩って言わないか?

現代日本では、もちろんその通り。
でも、本場中国での用法だと、それが一歩
891日本@名無史さん:2000/10/27(金) 10:57
魏の歩と里の関係について知りたい。
知っている人教えて。
892日本@名無史さん:2000/10/27(金) 15:56
年輪年代で古墳の年代を推測する事が正しいのか。
C14の半減期で木の年代の一部は測定できても測定に使用した
部分が木の皮のすぐ下でなければ意味がない。
木は年輪の内側の部分はどんどん死んでいくから、芯に近い所で
測定すると外側とでは50年や100年は狂って来るからである。

墓の中から見つかった何に使ったかも解らない木の破片から年代
を測定して墓の年代と同一とする事も可笑しい。
古い木を新しい墓にほうり込む事だって在りうるから。
893名無しさん@1周年:2000/10/27(金) 16:35
>892
その点については、当然ながら留意されており、類書を見られるのが宜しい。
年輪年代は、表皮まで残っていた場合には、伐採年代が決定できる。
表皮に近い活動的な部分が残っていた場合は、外挿しておおよその年代が分かる。
中心近くしか残っていないときは、上限値にしか分からない、と言うこと。

木材の再利用の有無についても、当然検討されている。
894日本@名無史さん:2000/10/27(金) 17:02
885の
http://www.mirai.ne.jp/~kat/gisi/index.html

って畿内に邪馬台国持っていきたいのに冷静に検証すると
否定的な材料が沢山でてきて戸惑っている所が面白いね。
895ドシロウト:2000/10/27(金) 18:29
狗奴=桑名とかいう説を見たことがあるのですが
どうでしょう。
896日本@名無史さん:2000/10/28(土) 00:27
自分でシロウトを名乗るヤツに限って、自分をシロウトとは思っていない。
一泡吹かせてやろうと虎視眈々と狙っている。

その手は桑名の焼き蛤。
897日本@名無史さん:2000/10/28(土) 02:34
>878

代表的な著作を上げるのは難しいです。
考古学については、最近の発見でかわってきている状況ですし。
いろいろ読んで、考えてみてください。
ただ、どの本を読むにせよ、あくまで一面的な議論しかないと思うべきです。
いろんな邪馬台国学説を集めて紹介した本というのもいろいろありますから、
初心者はそういうのを読むといいでしょう。
あまり、特定の説をうのみにしないことです。
このスレには、そういうイタイ人、いっぱいいますから。


898日本@名無史さん
900近くになりましたので、新スレッドを建てておきました。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=972725094&ls=50

今後はそちらで、議論をどうぞ、と言うことで、そのスレッドは
***** 終了 *****