継体天皇の皇位正当性の実証について

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1SIコンサル担当者
記紀に名前の出てくる「継体天皇」の皇位継承の正当性についての
学術論文がありましたら 教えて下さい
2名無しさん@1周年:2000/06/28(水) 20:12
スレ立てた人の希望とは違うが、「新撰姓氏録」とか読んでも仁徳〜武烈まで見事に皇胤氏族っていないよね。
結局武烈が死んだ時点じゃさかのぼっても継体が限度だったんだろうな。
わからないのは最初、応神より1代前の天皇の子孫が最初に候補だったのと、継体には兄がいたのにさしおいて即位してることかな。
3ベンゼン中尉:2000/06/29(木) 01:23
1>
以前、NHKで、歴史への招待という番組がありましたよね。あの中で継体天皇について、
詳しく語られています。
4名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 08:10
奥さんが仁賢天皇の皇女だったから
5名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 10:12
>3,4

論文を教えてくれよ。
6名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 10:36
自分で検索すればいくらでも出てくるんじゃない
7名無しさん@1周年:2000/07/01(土) 06:36
なかなか大和へ入れなかったよね
8名無しさん@1周年:2000/07/02(日) 09:20
というわけで私も天皇になります
9名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 00:36
大和に入る前にとどまっていた枚方のあたりも首都だったといえるのかなあ
10名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 08:40
>1
古墳時代に論文あるわけないだろー
11名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 16:50
>4
少なくとも女系ではつなっがっているわけだしね
12名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 16:55
俺は継体天皇の父系の先祖をたどれば皇室だったって思ってるんだけど、
そういう可能性はまったくないのかね?
13名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 17:11
>12
系図上ではね。
ただ、従来「日本書紀」についていた系図1巻は今は失われている。
現在最も当時に近いもので確認できるのは「上宮聖徳法王帝説」の系図。
だが、これは先祖がなぜかその祖とされる応神天皇の本名が大王になっていなくて、
名前も微妙にちがうのだ。
ホムタワケ大王ではなくてホムツワケ王になってる。
その名前だと垂仁天皇の皇子におんなじのがいるというわけ。
ただ、このホムツワケってのは垂仁天皇の皇子か実に微妙な存在。
記紀にかかれている通りなら、サホビコ(いちおー皇胤。でも、地方の実力者っぽい)の
子かも知れない存在なのだ。
で、うたがわれてるんだないろいろ…
でも継体天皇の父系は数代前に皇后をだしていたりと中央とはつながりは密接にあったみたいだよ。
14名無しさん@1周年:2000/07/08(土) 07:25
継体王朝と、その前の王朝との間は、どの程度の期間の重なりがあったのでしょう?
15名無しさん@1周年:2000/07/08(土) 08:48
「三王朝交替説」の論文は結構あるでしょ。早稲田系に。
16名無しさん@:2000/07/08(土) 16:58
>9

樟葉宮ね。今は交野天神社という神社になってます。
中くらいの神社ですが、雰囲気はありますよ。
17名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 01:18

邪馬台国は、みんなの心の中にある・・・・・・・・・・・
18名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 01:26
ジャンプの10週打ちきりじゃないんだから
きれいにまとめるない
19名無しさん@1周年:2000/07/09(日) 19:01
その樟葉宮とかに留まらざるを得なかった理由を
征服説と受け入れに時間がかかった説など色々あるけど
もう少し説得力ある説明の仕方できる方いませんか?
20名無しさん@1周年:2000/07/15(土) 04:29
樟葉にとどまった時期は、他の豪族が他の皇孫をたてようとした時期よりは、
だいぶあとですか?
21名無しさん@1周年:2000/07/16(日) 22:35
継体って前の天皇とは何親等はなれていたの?
22名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 07:50
応神から両者を数えて足せばOK?
23名無しさん@1周年:2000/07/18(火) 12:04
継体の傍伯母が皇后になってるからそこを考えなくてはいけないかな?
24やまとひもそめみこと:2000/07/18(火) 18:11
>1
今読んでいます。盛りだくさんで愉快な本です。
古代を考える 継体・欽明朝と仏教伝来  吉村武彦編
吉川弘文館 1999 ISBN4-642-02191-4
25名無しさん@1周年:2000/07/20(木) 02:45
527年に磐井の乱が起きてますよね。
あれは編集者による色付けがあったかもしれないことを考慮して読むと、
継体擁立に対する反対勢力という捉え方ができるようですが、
そのあたりの視点から考えてみるとどうですか?
26名無しさん@1周年:2000/07/21(金) 04:14
九州王朝か熊襲かはわからないけど、磐井の乱までは独自性をもっていたんじゃない?
ただし、武烈までの大和政権に対しては完全服従とはいかなくても一歩下にて
友好関係を保っていたということではないかな?そしてそれが継体の時に崩れたと。
27名無しさん@1周年:2000/07/22(土) 09:17
記紀ではあのような記述に歪められたと解釈するのが正しそうですね
28名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 11:05
継体の時に磐井の乱(大和政権の視点)が起きたのはそういうことなのか。
29名無しさん@1周年:2000/07/24(月) 11:44
継体天皇は、越の国の王。大和王朝からは、応神天皇が、大和征服時からの協力
国。代々血縁関係もあり、出雲系豪族の物部・蘇我氏らが権力を持つため、
手引きしたもの。
30【^▽^】:2000/07/25(火) 09:41
>継体天皇は、それ以前の天皇氏の血脈を引いているのか?

南朝の同様スレッドにもレスをさせてもらった者だが、
忘れられたようなので再び同じ内容のレスをさせてもらう。

「継体」という称号は、後世大和王権の官製編纂者による諡号である。
その当時の諡号決定は、中国から輸入された「諡号法」に基づいていたと思われる。
(天平以前の大和王権では、自国文化に対して権威が確立されていないため、
(諡号法についても中国式を最高権威として、これに従っていたと思われる…。
徹底した血統主義を採る中国の諡号法では、その物理的血縁の有無によって、
使用する漢字に「厳格にして決定的な基準」を設けていた。

★前皇帝との物理的血縁保持者が王朝を相続した場合、「嗣」を用いる。
★ 前皇帝との物理的血縁関係を保持しない者が王朝を後継した場合、「継」を用いる。

(この諡号法の厳密な意味は、中国の元号を観察するとハッキリ理解できる。
(中国では「嗣徳」「嗣聖」など、「嗣」を用いた元号は散見されるが、
(「継」を用いた元号など、まず見当たらない。
(何故なら、中国では相続において「継」を用いなければならないようなケース、つまり、
(「血縁関係を持たない相続」などというものは、
(そのまま、即、「新王朝の樹立」を意味してきたからである。
(また、中国王朝の場合、往々にして血縁とはイコール「姓(苗字)」のことである。
(例外も数例あるが、一般的には、後継者が物理的血縁関係を有していても、
(前王朝と苗字が異なる場合、同じ王朝とは認めない。
(日本の皇室の場合、姓を保有しないので、「血縁が唯一の後継条件」となる。
(以下、別欄。
31【^▽^】:2000/07/25(火) 09:41
>継体天皇は、それ以前の天皇氏の血脈を引いているのか?

以前、南朝の同様スレッドにもレスをさせてもらった者だが、
忘れられたようなので再び同じ内容のレスをさせてもらう。

「継体」という称号は、後世大和王権の官製編纂者による諡号である。
その当時の諡号決定は、中国から輸入された「諡号法」に基づいていたと思われる。
(天平以前の大和王権では、自国文化に対して権威が確立されていないため、
(諡号法についても中国式を最高権威として、これに従っていたと推測される…。
徹底した血統主義を採る中国の諡号法では、その物理的血縁の有無によって、
使用する漢字に「厳格にして決定的な基準」を設けていた。

★前皇帝との物理的血縁保持者が王朝を相続した場合、「嗣」を用いる。
★ 前皇帝との物理的血縁関係を保持しない者が王朝を後継した場合、「継」を用いる。

(この諡号法の厳密な意味は、中国の元号を観察するとハッキリ理解できる。
(中国では「嗣徳」「嗣聖」など、「嗣」を用いた元号は散見されるが、
(「継」を用いた元号など、まず見当たらない。
(何故なら、中国では相続において「継」を用いなければならないようなケース、つまり、
(「血縁関係を持たない相続」などというものは、
(そのまま、即、「新王朝の樹立」を意味してきたからである。
(また、中国王朝の場合、往々にして血縁とはイコール「姓(苗字)」のことである。
(例外も数例あるが、一般的には、後継者が物理的血縁関係を有していても、
(前王朝と苗字が異なる場合、同じ王朝とは認めない。
(日本の皇室の場合、姓を保有しないので、「血縁が唯一の後継条件」となる。
(以下、別欄。
32【^▽^】:2000/07/25(火) 09:42
記紀を編纂した当時の大和王権が、
上記のような「中国式諡号法のルールを厳格に遵守していた」と仮定するならば、
「継体帝は応神王朝の血統保持者ではなかった」ということは、ほぼ確実と思われる。
そのことは取りも直さず、諡号に「継」の文字を充てられてしまったことが明瞭に物語っている。

もし、官製史書に記されている記述が真実であったなら、即ち、
「継体帝は応神帝の“五世の孫”」というような記述が真実なら、
継体帝は「継」ではなく、「嗣」の方を含んだ諡号を充てられたはずである。
(現在、天皇氏のルーツは神話の中に葬り去られてしまっているが、
(記紀編纂の頃までは、この事について朝廷内にかなり正確な伝承がなされていたと推察せざるを得ない。
(そうでなければ、継体帝の諡号問題は説明がつかない…。

「継」を含んだ諡号、即ち、血縁関係を有さない相続を示唆する諡号が発生してしまった背景には、
「万世一系=皇帝の家系は一つでなければならない。断絶を認めない」という
世界史的にも稀な天皇氏独特の帰納的血統主義があったことを見逃してはなるまい…。
そもそも、「血統を権力の最高基盤」とするはずの「封建権力の相続」において、
「血縁関係を持たない相続」などという定義自体が滑稽なのだが…。

そもそも「継体」などという漢字の組み方には、
「組織の後継者」というニュアンスが「意図的に強調されている」ように感じてしまうのは俺だけか?
その裏に、この人はあくまで「組織の後継者であり、血縁の後継者ではない」という
ニュアンスが隠されている感じてしまうのは、俺だけだろうか?

ある意味、「継体」という諡号採用は、
天武朝の「家系捏造」に対する、心ある官吏の内部告発とさえ取れなくもない…。
(天武天皇は、大和の歴代の大王たちを、すべて自分の家系に収斂しようとした。
(この「天武朝の家系の捏造」は、当時の朝廷内部においては、
(「クーデターによる大王位の簒奪」と並んで、天武帝の明らかな横暴と認識されたはずである。
33名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 12:23
継体天皇は応神王朝の血縁者である。
【^▽^】は皇室の権威失墜を狙う半島人である。
34名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 15:46
応神天皇は半島からきた。
35名無しさん@1周年:2000/07/25(火) 19:05
応神天皇って鮮人なのか?
そこのところをハッキリしてくれよ…。
俺はどっちとも断言できない。
九州人であってもらいたいが、朝鮮人でもOK。
36名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 09:11
継体天皇が応神の子孫であるかどうかにかかわらず、
当時、越の王であったという説についてはどうですか?
37名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 17:11
継体の親父が近江出身、おふくろが越の三國出身、嫁はんは尾張の出身、
というあたりに、妙にリアリティーを感じるのだけど。
近江から東海、北陸を纏めるリーダー的存在だったのでは。
近江は天皇家と縁があるので、日本書紀の系譜は以外と正しいのかも。
当時から血統を重視する思想があったのなら、なお繋がっていたと思う。

また血統だけだったら、継体と同レベルの人間は、たくさんいた
でしょうから、彼らが頑張れば継体天皇は大和に入れないでしょう。

まあ、敏腕の子会社社長を親会社に呼び戻して、
社長に据えるようなものじゃなかったのかな。

それとも、メインバンク出身だったのか。
そごうくらいだと、西武出身の和田さんなんでしょうがね。
38大阪府枚方市在住:2000/07/29(土) 19:23
樟葉宮の位置は、奈良盆地に攻め入る上で都合がよいのでしょうか?
当時の位置は現在の樟葉より多少離れているとしても、
京都側から攻め入るにしても大阪側から攻め入るにしても
中途半端な気がします。

あるいは、古代に奈良盆地や大阪平野は大部分が沼地だったことと考え合わせて
樟葉宮は大阪湾へ出るための港町だったのでしょうか?
39名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 10:50
樟葉の周辺地は大伴金村の拠点の一つだったからでは?
特に周辺地にたくさんの官用牧場が在ったそうだから、
軍の駐留地として都合が良かったはず。
さらに崇神天皇だったか、神功皇后だったか忘れましたが
樟葉周辺に拠点をおく在地豪族が反乱を起こしており、
そのときは木津川を南下するルートと大阪平野に出て
奈良入りするルートが二つがある。そういう意味では
軍を動かし易い地点であったかも。
40名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 11:15
http://www.mapion.co.jp/cgi/m?no=3091617500188000031
今は当時と違って巨椋池の消滅など地形も少し変化しているが、
樟葉の周りを見てみると、その地図の左方向には天王山があり、
さらに男山に加えて、右方向には現在は干拓で消滅した巨大な巨椋池がある。

そしてそれらを形成しているのは、桂川/宇治川/木津川といった
それぞれ京都/滋賀/奈良方向から流れてくる大きな川であり、
この樟葉のすぐ北のところでそれら3つが合流して淀川となり大阪へ流れる。

このような地形において、現代ではどのようになっているかというと、
京都〜大阪を結ぶ幹線である国道171号および国道1号についても
この地を通らざるを得ず、さらに21世紀に完成する第二京阪も同じく。

さらに名神高速道路もこの地を通り、さらに樟葉付近には第二名神高速が
計画されている。さらに加えて、樟葉の対岸の大山崎のところには
京都縦貫が丹波方面から伸びてくる工事中であり、名神との間に
ジャンクションを建設しようとしている。また、この京都縦貫は
地図上だと右真中へと貫く形となり、京滋バイパスで滋賀へとつながっている。

鉄道はどうかというと京都〜大阪間の鉄道も全てこの地を通らざるを得ず、
JR東海道本線に加えて阪急京都線や京阪本線についてもここに集中している。
そしてもちろん東海道新幹線についてもここを当然通る結果となっている。

このように河川/道路/鉄道などすべてが集中する度合は日本では一番であり、
また、継体天皇が首都をおいていた樟葉のとなりは、いわゆる源氏の神様として
男山に石清水八幡宮があるし、淀川をはさんで対岸は有名な天王山もあり、
これ以外にもこの地には日本史上さまざまな事件が起きているのは御存知の通り。
41長尾峠とか・・・:2000/08/01(火) 07:23
>>39 なるほどです。ありがとうございます

>>40
 つまり、継体は大和に攻め入るための仮の陣としてではなく、
新しい首都、樟葉宮の立地を交通の要所に選んだということ?
交通の要所だからたまたま継体が居留したということ?
42名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 13:21
交通の要所だったから、ここを押さえた物部氏が台頭した。
あるいは物部氏が基盤固めのために樟葉を押さえた。
そして物部氏が継体天皇を招聘、自分の領地に停留させた。
っていうのはいかがでしょう。
43名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 16:20
諡号の問題はどうなったんだよ?
44名無しさん@1周年:2000/08/02(水) 20:35
たしか、20年くらい大和に入れなかったんだよね?
想像するとすごい事だな。どうなってたんだ一体。
45竹田丹後守:2000/08/02(水) 23:18

『継体』という熟語はそのものずばり「天子の位を受け継ぐ、その人、皇太子」
という意味を表す 『継』の字の「血のつながらない」「肉親でない間柄」という
意味は国語の場合のみ用いられるものである ここで中国皇帝の諡号・年号の例を
出すのは誤りではないか? また、『継体』の諡号選定時、「血のつながらない
/肉親でない間柄」という意味が成立していたという確証はあるのか?
また、もし仮に成立していれば、『継体』の諡号に異論を唱える者もいたのでは
ないか?


ところで、ここでちょっと質問
「帰納的血統主義」とはどういう意味でしょうか?

あと、『承』『襲』の字も中国年号として使われていたようですが、これらはどう
いう意味づけがなされていたのでしょうか?
46竹田丹後守:2000/08/02(水) 23:41
『継嗣』という熟語があるがこれは何ぞや?
年号・諡号に『義』の字を入れた場合、常に「仮」のニュアンスを含ませていたのか?
47名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 12:14
>46
だから、継体という名前から、血のつながりがない政権だと(認識していたと)
いう説は、もはやさすがに、一部のドキュンしか唱えてないのではないですか?
48名無しさん@そうだ選挙にいこう
岡本泰明に仏罰を