家康はなぜ「徳川」と名乗ったの?

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@1周年
家康は源氏を名乗る前から、徳川に名字を変えたと思うけど、
その「徳川」の由来って何処から来るの?
2確か:2000/06/26(月) 18:45
松平で「征夷大将軍にしておしいぎゃあ」と言ったら、朝廷が
「そないな卑しい身分のモンにはあげまへん」とつっぱねた。
なんか分家に「徳川」姓のある藤原末端の家計図を買ってきて、自分の家計にくっつけた
てな話を読んだことがある。
松平も15世紀以降でしょう。それ以前は半農半武の郷士かなにかでは?
3名無しさん@1周年:2000/06/26(月) 18:59
>2
そのことではありません。
源姓得川氏とそれまで名乗っていた徳川氏とを結び付けたということなので、
その元となった「徳川」をなぜ名乗ったかということを知りたいのです。
4月影:2000/06/26(月) 19:12
深い意味は無い。
新田源氏の家系の得川の家系を征夷大将軍になるために借りた。
それだけ。
もともとは、松平郷の庄屋に毛がはえた程度ね。
流浪の僧が松平の娘と通じ、一子を儲ける。
その僧が得川の血を引くとこじつけたらしい。
その僧は、同じような支配階級の水野氏にも入り込み
そこの娘と通じ入り婿になったそうな。

司馬説でした。
5名無しさん@1周年:2000/06/27(火) 05:17
>4
酒井じゃなくて、水野?
6>4:2000/06/27(火) 05:47
水野家じゃなくて酒井家です。

あと新田系の「徳川」を名乗ったのは、新田氏が南北朝のころに衰退して
後裔がどうなったのかはっきりしていないこともあった。
7名無しさん@1周年:2000/06/27(火) 09:27
得川でなく“徳”川にした理由は佳字を選んだためらしいよ。
実際の世良田郷の地名は得川だけど、音を通じて佳字で表現するのは当時ままあることでした。
新田氏族の得川氏も文書によっては徳川としているものもあるようです。

酒井も当初は坂井でした。
織田本家の家老坂井大膳もその一族。

得川が衰退した理由は、後南朝にかたいれしたためです。
得川一族は新田、脇屋や尹良親王などとも婚姻関係がありました。
最後の得川(世良田)姓で確認できる親季の母は吉良氏で、
その関係で系図を繋げたという説がありますね。
後南朝の子孫として代表的な大橋(氷室)や大河内(後に松平)などとも初期の松平氏は婚姻関係がありました。
他に「岡崎市史」で考証されてる畠山氏の一族の和田氏との関連も怪しい要素ですね。

>4
征夷大将軍になる前にすでに松平氏は世良田姓を仮冒してます。
家康の5代前の親忠から3代前の信忠までは世良田次郎三郎を
親忠の父の松平信光からもう源朝臣を名乗っていますね(萬松寺本尊の台座銘)。
8名無しさん@1周年:2000/06/27(火) 11:17
>7
たしか清康も世良田じろさぶろうを名乗っていますね。
9名無しさん@1周年:2000/06/27(火) 11:21
>7
>後南朝の子孫として代表的な

後南朝の皇孫ってこと?

>信光からもう源朝臣を名乗っています

なぜ家康は藤原を名乗っていたの?
10名無しさん@1周年:2000/06/28(水) 03:26
>9
>後南朝の皇孫ってこと?

大橋や大河内は宗良親王の王子尹重王が神職をつとめた尾張津島天王社の子孫です。
養子関係や婚姻関係が複雑ですが、南朝の血を受け継いでいます。
なお、津島天王社のもともとの神職の一族からは大名堀田家も出ています。
戦国末期には蜂須賀、青木などの大名家とも縁戚関係があったようです。

>なぜ家康は藤原を名乗っていたの?
家康の任官を斡旋した近衛家の猶子になっていたからのようです。
11竹田丹後守(私称):2000/06/29(木) 02:55

新田流源氏を名乗っておくと、当時の三河の親玉の吉良家と同族ということで
ハッタリがきいたのかな?
12竹田丹後守(私称):2000/06/29(木) 03:00

できれば足利流を名乗りたかったのだが、さすがにそれはできなかった
のかも知れんな
13名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 03:11
>新田流源氏を名乗っておくと、当時の三河の親玉の吉良家と同族ということで
ハッタリがきいたのかな?

吉良が実権を失ったあとに名乗ったんじゃないの?
名だけあって実のない旧家から金で買ったんだと思っていたが。
14世良田次郎三郎:2000/06/29(木) 06:35
わしは駿府で生まれて、5歳のときに銭5貫目で人買いに買われて
木食上人に連れられ全国を転々としたものじゃ……。
三河一向一揆の一揆側の陣で本多弥八郎(正信)とであって、
長島→吉崎御坊→大坂本願寺と戦い抜いたものよ。
正信が徳川家に帰参するとき、わしを家康公のまえにつれだしたとき、
すべてがわかったよ。
あやつつ、わしを影武者にしたておったのだ。
まあ、ここは弥八郎の顔を立てておくか。
15>14:2000/06/29(木) 07:03
そういうベタベタな事を・・・
16名無しさん@1周年:2000/06/29(木) 07:16
>11
っていうか三河の吉良家って松平から養子はいってるよ。
17>12:2000/06/29(木) 07:31
足利のライバルである新田の末裔を名乗ることで、
足利幕府に取って代わるという意味もあったかも…

18kotarou:2000/06/29(木) 10:09
日本は、幾つかの民族で、構成されていて、
上杉謙信と武田信玄は、違う種族だという。
同様に、石田三成と、小早川秀秋は、違う種族。
徳川家は、松平の姓を名乗る事で、民衆の
統治をし易くしたと言う。
19名無しさん@1周年:2000/07/03(月) 23:08
松平と吉良が親戚同士で系図が入手しやすかったから?
領地は近かったの?
20竹田丹後守:2000/07/03(月) 23:57
>吉良が実権を失ったあとに名乗ったんじゃないの?
吉良は戦国末期までそこそこ勢力を保ってたんじゃないですかね?
(往時の勢力はないにせよ)
家康のおやじの広忠は自立できないとき、いっとき、吉良家にかく
まわれていたようですし・・・
21名無しさん@1周年
>17@`19@`20
少なくとも、公式に源氏を名乗るのは、征夷大将軍に任官する際に
吉田兼右だかに頼んで、吉良の系図を借りたからじゃないの?