1 :
塾長:
松平長七郎は駿河大納言忠長の子ということになってますが
本当に実在した人ですかね?
2 :
名無し:2000/03/22(水) 04:06
実在したそうです。
どっかのサイトに家系図がありました。
3 :
松田一次:2000/03/22(水) 09:51
実在の人物です。正式の名を松平長七郎長頼といって、島原の乱に出陣、その戦功で一万石貰い、晩年は紀州藩の庇護を受け、寛文6年(1666)和歌山で亡くなったそうです。幕末、浪士隊の結成に尽力した松平上総介は、その子孫です。
4 :
掬郎:2000/03/24(金) 22:20
巷説での長七郎の伝記は「大日本人名辭書」の記述を丸うつしが多いです。
ただ、これによると長七郎長頼は忠長8歳(一説には12歳)の時の子供になってしまうので誤伝ではないかという説があります。
その子孫とされる鷹司松平家の祖は、実際は鷹司信平といって系図上は家光正室本理院の弟です。
江戸に出て松平姓を名乗り子孫が親藩扱いを受けたことから忠長の遺児とうわさされましたが、この人物の享年を換算すると忠長死後3年たってから生まれたことになりこれも計算があいません。
で、今は信平が長頼と町家の材木商の娘との間の子であるという説もあります。
ただ、巷説の長頼が一万石をもらった件は、実際には信平の孫信清の代になってからのことでこれも史実とかけはなれています。
5 :
まったく:2000/03/25(土) 01:58
関係無いけど根岸求馬も実在の人物らしいね。
6 :
名無しさん:2000/05/14(日) 03:44
隠し目付けは嘘
松平右近はどうなんでしょうか?
8 :
名無しさん:2000/05/14(日) 07:32
>7
6代将軍家宣の弟(双子説あり)の松平清武とその家督をついだ老中の松平右近将監武元がモデル。
松平右近もモデルがいたのですか
では、松平残九郎はどうなんでしょうか?
(余談だが、松平残九郎は将軍家とそっくりの三つ葉葵の
紋を使っていたが、こんなことが許されるのだろうか?)