【移配】蝦夷と佐伯部と俘囚の歴史18【別所】 [転載禁止]©2ch.net

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94日本@名無史さん
高麗(コマ)氏の居住

高句麗使節が滞在した地は、以前から高句麗系の渡来人と密接なかかわりを持つ地域であったことが推定される。
それを傍証するのは、南山城地域における高句麗系渡来人の広範な居住である。
現在も南山城には上狛(木津川市山城町)・下狛(精華町)・狛田(同。ただし下狛村・菱田村合併による地名)などの地名が残っているし、
また近時まで高麗村(木津川市山城町。ただし明治22年(1889)町村制施行による合併村名)も存在した。
また『万葉集』の歌枕を検出すると、コマに関わるそれとして「狛山」が見えていて(巻6・1058)、
これは「恭邇新京を讃る歌」への反歌として詠まれているから、この「狛山」はおそらくは木津川右岸、
古北陸道の川を渡ってすぐの地、現在の上狛あたりをいうものであろう。
また「泉狛村」(天平宝字6年「造金堂所解案」、『大日本古文書』編年文書 16)、
さらに「狛野」( 『 続日本紀』天平神護元年8月庚申朔条)も見え、こちらは和気王の謀反に関連する記事中の登場で、
和気王が紀益女とともに逮捕されて伊豆国への流罪となる途中、「山背国相楽郡」で処刑されて、「狛野」に埋められ、
益女は古山陰山陽併用道分岐後の(藤岡謙二郎氏編・足利健亮氏執筆『古代日本の交通路』1)、
古山陽道ぞいの「綴喜郡松井村」(京田辺市松井)で絞首に処されたというから、この場合の「狛野」は木津川左岸になるのであろう。
いずれにせよ、南山城の地には多くの高句麗系渡来人の足跡が刻まれていたことをここでは確認しておきたいのである。
95日本@名無史さん:2015/02/21(土) 22:04:32.26
高麗寺跡(木津川市)
http://everkyoto.web.fc2.com/report674.html

木津川流れる山城町上狛(かみこま)の台地、棚田の中に、府内最古の古代寺院であり、
国内最大級の寺院だった高麗寺(こまでら)跡(飛鳥時代創鷺国史跡)がある。

◆歴史年表 創建の詳細は不明。
飛鳥時代、6世紀末、渡来僧(高麗僧)の恵弁(恵使)により創建されたとの伝承がある。
570年、高句麗の使者を「山背の高麗館」「相楽の館」(場所は特定されていない)に入れたと記されている。(『日本書紀』同年条)
飛鳥時代、7世紀初頭に創建されたとみられている。

◆高麗寺 高麗寺の名は、奈良時代の『日本書紀』、平安時代初期の説話集『日本霊異記』、
平安時代後期の説話集『今昔物語集」などにも登場するという。
これらには、「高麗寺の渡来僧栄常」にまつわる記述がある。
高句麗からの渡来系氏族狛(こま、高麗)氏の氏寺だったとみられている。
当時の日本は、すでに朝鮮半島の扶余系民族国家・高句麗(B.C.37頃 - 668)との国交があった。
高句麗からの渡来系氏族狛氏も南山城(相楽七郷中の大狛郷)周辺に居住していたとみられ、現在も上狛の地名が残っている。
96日本@名無史さん:2015/02/21(土) 22:04:37.15
蝦夷=高句麗の残党
97日本@名無史さん:2015/02/21(土) 22:05:18.11
高句麗の支配下にあった京都
98日本@名無史さん:2015/02/21(土) 22:10:29.63
西日本人さん捏造やめてください
99日本@名無史さん:2015/02/21(土) 22:28:15.90
京都の貴族、下級官人の1/3は朝鮮系帰化族。
京師の狛氏は京都在住の下級官人、高麗氏と同族。
京都でも上層部の天皇家(九州系)はもちろん、藤原氏(常陸系)も渡来系に分類される氏族ではないから、
身分が下へ下がるほど渡来系の血が濃くなるだろう。
たとえば河内平野などは朝鮮から集団移住した連中によって開発されたような土地であり、
朝鮮系の血の濃い畿内各地の民は新興都市の京都にも流れたろ。
京都盆地の始まりからして朝鮮系秦氏の開発によるものだからな。
京都府民自慢の神社も朝鮮由来だらけ。
京都大学名誉教授の上田正昭大先生じゃないが、京都=朝鮮だよ。