邪馬台国は九州にあった54 [転載禁止]©2ch.net
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 20:50:34.69
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山東に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里
津島国(方400里、千戸)
↓海渡1000里
一支国(方300里、三千家)
↓海渡1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】海渡1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国
◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里
奴国の南に、敵対する狗奴国。
奴国より東の不弥国の南に邪馬台国。
邪馬台国の東は海。
こんな感じか
奴国→不弥国
↓川
↓ ↓川
投馬国
↓ ↓川
↓ ↓陸
狗奴国 邪馬台国 →海→倭種
5 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 21:02:29.70
倭猿伝が頼みの綱のとんでも九州説
朝鮮人が邪馬台国を作ったニダー!って馬鹿な朝鮮人のほら話しに乗っかるアホ達
邪馬台国の場所について、前のスレでは貴重な意見が出た。
・邪馬台国が九州の沿岸部にある場合、陸行の必要はない。
・海岸水行と渡海・水行の区別。
・御笠川と宝満川が接続ないしは近いところで接していた可能性。
・太宰府が水行の中継地点であった可能性。
>>8 最後の方で噴出してきた幼稚な妄想説に比べたら
はるかに信憑性あるわ
10 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 21:24:36.26
二つ前のスレで出たこれを貼っとく
800 2 名前: 日本@名無史さん Mail: sage 投稿日: 2015/01/13(火) 22:24:07.77
壱岐から末盧国まで千余里というのを信用した場合、考えられるのは以下くらいかな。
@神湊で上陸
A松浦半島に寄ったあと海岸沿いを東に進んで博多で上陸
B松浦半島に寄ったあと海岸沿いを西に進んで伊万里で上陸
C末盧国の本拠地までは千余里だが、そこへは寄らずに唐津で上陸
九州説は妄想しかできないようだ
だれもかれもが論拠ゼロのままオレ様の結論を言いっぱなしという、物凄い状況
1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。
まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
と言うのである。
ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm
そしてまた荒らしが蔓延る。
全員言ってることがぐちゃぐちゃだもんなぁ
自分の主張する説が正しいと信じて妥協することがなく、
自分の生まれ育った県に邪馬台国を引っ張ってこようとし、
根拠を問われると適当にお茶を濁して逃げようとし、
そのくせ人が主張した説をこかそうと足を引っ張る。
畿内説が現れて議論に加わっても一致団結することはせず、
何の根拠も示さずに自分の主張をただひたすらに繰り返す。
何これ?ww
16 :
九州王:2015/01/25(日) 21:57:28.02 ID:7gYtmTSJ
>>6 >・御笠川と宝満川が接続ないしは近いところで接していた可能性。
分水嶺があるから御笠川と宝満川が接続ないしは近いところで接していた可能性はゼロ。
川の上流は水量が少なく浅くて舟は通れないの。
>筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
>
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg この場所は堰だな
堰に溜まった水を出して何のつもりだよ
俺はこの辺に住んでたから通常は水が殆ど流れてないの知ってんの
舟なんか通れない。
>>16 それは今の話だろ。
昔は水城とか築かれたこともあったから水量は今の話とじゃ
比較になんないの。しかも川幅も今とは違うし。
何度同じことを言わせるんだ
それ、証明してみ
どうでもいいけど、宝満川コースはほぼ確定だろ。
御笠川と宝満川の接続はともかくとして、
この説が成り立たないと九州説は破綻する
20 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:20:14.19
少なくとも今の川の様子から、当時も似たようなもんだったと
勝手に推測する方が危険思想じゃないかな。
太宰府接続コースがあるやろ
俺も中継地点は太宰府付近だと思うな。
そうでなければ、太宰府付近は太宰府のような重要拠点になってないよ。
24 :
九州王:2015/01/25(日) 22:29:44.63 ID:7gYtmTSJ
>>19 九州説は破綻しない
君の説が破綻するだけだよ
昔は今より水量が多かったとか
根拠もなく云ってもダメだよ
まず証明しないと。
現在の水量や川幅から、当時も同じようなかんじだったという奴も、
現在の川幅や水量は当時とは違うという奴も、
どっちも同類だわ。弥生時代の川の様子も分からんのに好き勝手ほざくな
現在と違う、自分に都合のいい状態を、根拠もなく前提にする方が、絶対どうかしてると思う
>>24 少なくとも太宰府が置かれていたということは、水上交通の要所だったということ。
少なくともそういう特殊な立地条件にあったからこそ太宰府は置かれている。
28 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:35:05.96
>>25 自分の説に都合のいいことは肯定して、それ以外は根拠を示せっていう態度はよくない
根拠を示せ、根拠を示せと言う奴は、いざ自分の説が同じ状況に置かれたら、
批判している奴を批判してくるから嫌なんだよな
30 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:40:12.12
>>25 弥生時代の話しだと決め付ける根拠はなんなの?
歴史的乾燥期が弥生時代にあったのは知ってるよな?
>>30 今は弥生時代の卑弥呼の時代の話をしているのではないのか
32 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:48:14.50
33 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:49:57.31
>>28 「自分の説に都合のいいことは肯定して、それ以外は根拠を示せっていう態度」
とってる人って、誰?
>>32 ごめん。何に対して怒っているのかよく分からん
弥生時代のことも分からんのに勝手にほざくな、がどうして
そんなにおかしな意見なのかが分からん。
36 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 22:56:33.18
>>29 いや、根拠を示さないほうがおかしいだろう
どうやって他人はあんたの主張が正しいと判断できるんだ?
たまたま俺の意見と同じだって奴だけが賛成するだろ
それじゃ永遠に発展はない
37 :
28:2015/01/25(日) 22:58:27.49
>>36 九州説に永遠に発展はないと思うがな。
自分の説は、自分の説は、ばかりで、都合が悪くなると
逃げ出して、他の説の揚げ足を取る
39 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 23:01:12.85
>>37 その人が
いざ自分の説が同じ状況に置かれたら、
批判している奴を批判してくる
って根拠は?
>>37 俺は根拠を示せなんて一言も言っていないんだが・・・。
おまいら会話が成り立ってねえよ
42 :
日本@名無史さん:2015/01/25(日) 23:03:19.41
大宰府も古代の政治の中心の太宰府政庁と、
菅原道真の墓標としての太宰府天満宮は
距離がある。
どちらの方を指しているのかを確かめよ。
東に海があるんだから、大分か宮崎なんだよ。
その上で、女王のいる場所は内陸なのかもしれないね。
また、関門海峡まで行っていないのは、そちらは本州の未知の部族がいて危険だった
のかもしれない。
44 :
28:2015/01/25(日) 23:04:54.72
それより上のレスでageてる人が複数入り乱れてるようなら勘違いかもしれん、スマソ。
>>43 何もかもが「かもしれない」じゃ話にならんわww
48 :
九州王:2015/01/25(日) 23:14:14.34 ID:7gYtmTSJ
>>43 東に海があり、その先には倭人の国が在る
宮崎ではない
豊前か豊後は女王に含まれるな。
女王の中心地は八女でしょうな。
八女てくれ
西都原はかなり怪しいと思う。
久留米から見て、東南までいかず南だし。
クズ男はどこ説なんだよ
結局我田引水なんだよな。
56 :
九州王:2015/01/25(日) 23:32:16.65 ID:7gYtmTSJ
使者は伊都国までしか来ていない
卑弥呼は引きこもり
なので伊都国で卑弥呼に謁見
伊都国が女王の都
女王国(邪馬壹國)の範囲は長崎、佐賀、福岡、大分、熊本だな。
宇佐いね
>>56 九州説から行程パズルをとったら何が残ると言うのだ
60 :
九州王:2015/01/25(日) 23:36:26.29 ID:7gYtmTSJ
>>58 >卑弥呼は俺と一緒だったんですねww
意味の分からんことを
気持ち悪い
>>60 申し訳ないが、あなたのコテハンの方がはるかに気持ち悪いぞww
邪馬台国というか倭国の風習に海人族っぽいものがあるが
宮崎に海はあるが海人族はいない
それよりもまず日数の問題を解決するのが先ではないのか。
九州王さんは結論的に、どこに邪馬台国があったとお考えなのですか
水行10日陸行一月の記述は一体なんのためにあったんだよ
魏の使者は、印を授ける時だけは卑弥呼のいる所に行ったと思うね。
邪馬台国から来た使者に預けるわけにはいかないから。
67 :
九州王:2015/01/26(月) 00:03:47.52 ID:l20SwHsW
女王国(邪馬壹國)は長崎県、佐賀県、福岡県、大分県、熊本県全部を含む国だ
卑弥呼は伊都国(糸島市)に居た。
まぁそうだとは思うが
隋書にしても魏書にしても九州からの道のりが不明すぎるのはなんでなのかね
>>67 九州王さんは太宰府の辺りとか通られたことがあると伺いましたが、
あの辺りで水運の要所を匂わせるような遺跡とかありましたか
70 :
九州王:2015/01/26(月) 00:07:40.63 ID:l20SwHsW
水行20日は帯方郡(郡治)から投馬國(狗邪韓國)まで
水行10日陸行一月(陸行一日)は投馬國(狗邪韓國)から邪馬壹國(伊都国)まで。
邪馬台国には、一回しか行ったことないので情報が少ないんだろ。
鏡を大量に運んでるから、歩きは大変そうだ。
72 :
九州王:2015/01/26(月) 00:09:38.68 ID:l20SwHsW
>>69 水運の要所を匂わせるような遺跡は気が付かなかった
水運ではないが水城ぐらいかな。
邪馬台国の北に20国以上あることを無視してる人がいるね。
九州説は日数と戸数の致命的な問題があるからこれを解決しなきゃどうにもならん
>>72 ありがとうございます。
最後に一つだけ。それは本名ですか。
畿内説は戸数も方角も何も合わないけどね。
77 :
九州王:2015/01/26(月) 00:14:03.11 ID:l20SwHsW
>>73 誤読だな
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」だから
「次有斯馬國」以下の国々は北ではなく自女王國の南だよ。
>>71 あんた同じこと何度も書き込んでるようだけど倭人伝もまともに読んだことない初心者か?
邪馬台国に行った人物は2回出てきてるぞ
79 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:14:49.36
荷物持って1月で徒歩移動できる距離なんて、たかが知れてる。
何しろ牛馬がいないので、道も整備されてないし、荷物も手持ちだ。
81 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:15:33.03
>>24 菊池川流域での実例だが
縄文の遺跡から弥生、前期・中期・後期と
集落が現在の川に近づいている
集落発掘の時期差を検証すれば川幅の推移は判明する
三笠川流域でもやってみる価値はあるね
筑後川は、久留米から吉野ヶ里の方に流れてたらしいね。
85 :
九州王:2015/01/26(月) 00:17:26.29
>>75 はい本名です
九州王と書いてくずおと読みまぁす
86 :
九州王:2015/01/26(月) 00:18:32.25 ID:l20SwHsW
>>75 九州王は元々ネット上の名クスオに九州王を当てただけ
当初は九州男のつもりだったが九州王朝説を短縮して九州王
87 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:19:36.63
※83
吉野ヶ里の目前は当時は海
>読みまぁす
ここにまだ嘘をついたことへの罪悪感が残ってるな
東遷厨ぐらいになると平気でなりすましてくる
>>85 >>86 すいません。本名とは知らずに、気持ち悪いとか
言ってしまったみたいで。てっきりきゅうしゅうおうさんだと。
90 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:23:20.50
二回しか記録無いなら九州説成立しないだろ
百済の物沢山見つかってんのに
>>68 隋書は明確だと思うが
竹斯国より東、十余国を経て邪靡堆
竹斯国より東はみな倭に属す
邪靡堆は畿内あたり
畿内説でよく出てくる日本列島が南向きの混一疆理歴代国都之図は
明時代に書かれているからまったく根拠にならない
なにしろ隋時代には日本列島は東に長いことが明白だった
>其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。
>都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
92 :
九州王:2015/01/26(月) 00:24:49.58 ID:l20SwHsW
>>84 陸行一月もしたら関東まで付いてしまうので
陸行一日の誤記と考える
船で目的地近くまで来て一日歩く
自然だと思うよ
折角船で来て一月も歩く意味が分からんからね。
93 :
九州王:2015/01/26(月) 00:26:03.13 ID:l20SwHsW
都合の悪いところは勝手に誤記だとさ
95 :
九州王:2015/01/26(月) 00:31:57.95 ID:l20SwHsW
でも陸行一月もしたら関東まで付いてしまう
陸行一月が誤記でないとすると
ナメクジなみに進まないと九州説も畿内説もなりたたない。
結局九州王さんのハンドルネームが本名なのか偽名なのか
分からなかったな
陸行1日という説も出ているらしいが・・・
98 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:41:20.93
>>94 誤記じゃないとすれば
距離で残るのは関東説だけなんだけどね
畿内説も消滅するんだよ
>>95>>98 師行1日30里
つまり1日13km
30日歩けば390km
これは道程だから直線距離にして200km程度だろう
水行十日、または陸行一月ってことはないの?
101 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:47:32.21
>>92 人間が歩けるのは精々一日40Kmくらいだぞ
102 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 00:48:56.13
>>99 うむどこで上陸するかで変わるだろうが
機内だと大和洲上陸がセオリーだろ
もし今の神戸あたりだと一旦もう一度現在の大阪の海を渡らないといけない
そうなると記述の整合性がとれない。
そして大和洲から200kmはやはり機内から外に出る
492 日本@名無史さん Mail:sage 2015/01/23(金) 14:30:25.88
>>491 何度も言ってることだが、倭人伝を一度読んで欲しい。
方角についての記述は二通りある。
一つは、「東行至不彌國」のように、進行方向まで書く場合。
もう一つは、「南至邪馬台国」のように、「行」がなく、国と国との
位置関係だけを書く方法。
>>99 1月は30日なのか?まるまる歩けるのか?
雨の日は歩けないぞ。
道無き道を、靴やリュックの装備なく1日13キロは無理だわ。
へえ、筑後川は吉野ヶ里で海に注いでいたのか。
>>102 投馬国=ヅモ国=イヅモ国=出雲国
つまり倭人伝の行程記事は日本海ルート
>>91 よくよんでみ、海岸に達するとあるだけでヤマタイにつくとは書かれていないよ
>>92 またその手の書き換えか
ま それにしても一日じゃ短いだろうな
>>104 1日13kmを批判する前に
九州説には1日500mやら1日2kmやら1日40kmがいるんだから
どのくらいが九州説同士で最も適切かまとめろよ
110 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 01:12:36.51
>>105 当時は久留米から大きく三角州があって
みやき町から佐賀平野の264号から南は海
大川市の向島ぐらいまで海だった
500m? 亀じゃないんだからww
>>110 ということは、久留米からの水行は筑後川から遡上しかないか。
113 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 01:45:48.34
114 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 01:46:01.89
>>109 文明が有るのに道さえ無い事にしてるヤツも居るよ
凄いよなあウリナラファンタジーだと日本は無人島なんだから
飛脚じゃないんだから、雨の日には歩かないので、1月に歩けるのは約20日。
1日5キロから、よほど歩いても10キロってとこ。1月で100キロ〜200キロ。
直線距離はその半分から3分の2ということで、50キロから130キロくらいだ。
116 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 02:07:06.55
>>112 宝満川をつかって筑紫野から筑紫平野にでて筑後川
神崎あたりから川幅が急に広くなって有明に出る
けっこう現実的
その通行は吉野ヶ里から丸見えという位置関係
東西五月行、南北三月行なんだから
北部九州から奈良まで2ヵ月は妥当なとこだろうな
最初から九州説に凝り固まっている人間以外には現実的と思えない不思議
119 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 02:17:47.08
>>115 小学生の通学距離みたいだな
田舎だと片道2`くらい当たり前だぞ
個人の偏見と先入観で1日何kmとか100万回主張しても無意味
自分のその主張を正当化するために
屁理屈こねくり回して先入観丸出しの計算根拠を提示してもまったく説得力ない
師行三十里、あるいは東西五月行、南北三月行をベースに推測するのが妥当
121 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 02:20:14.23
※117
だからどこで船を降りて
何処を歩いて1ヶ月なんだよ
奈良の近くまで海があったのに
船を降りたら1日で行ける距離だぞ
122 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 03:27:48.08
>>120 師行三十里吉行五十里の後半を無視した時点で
あんたもダメ
日数表記は広さだよ。
自分で、靴履かないで道路通らないで一月歩いてみろ。
125 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 08:19:04.04
>>124 道が無いって意味不明だな
邪馬台国の人は動かなかったのか?
有明海に出るのは久留米から東か。
それにしても2日もあれば出てしまうね。
そこから海なのに海と書いてない。
仮に海だとしても、どこで上陸して、1月も歩くんだろう?
反対の日田説だと、川なので海と書いてないし、久留米から南と言える方角
になるほど南下するのには、1月くらい掛かりそうだ。
すると、邪馬台国の東に海があることになる。
本当に年がら年中アホなパズルして何が楽しいの?
九州に有るわけないのにバカだねw
もう一生やってろよと言うレベルだな
130 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 09:37:03.24
九州人と朝鮮人はそっくり
起源主張するくらいしかする事の無い暇人
自分の妄想話の披露宴になってる感じだな。しかも根拠はなし
無限パズル地獄だね、もう一生かけるような話ではないよ。
考古学、文献解釈共九州にある要素は皆無だから。
133 :
九州王:2015/01/26(月) 09:44:15.21
>>120 >東西五月行、南北三月行
これも「東西五日行、南北三日行」の誤記の可能性が高い
1日=25q/日とすると北部九州のことだと考えられる。
「師行三十里吉行五十里」
師行三十里・・・重い荷物を担いで行く場合1日約13km
吉行五十里・・・普通に行く場合1日約22km
歩兵の行軍速度が25q前後だとされているから1日約22kmはまあ妥当かな
1日約13kmは砲兵なみだな
1時間に3q、8時間歩いて24q
大昔から変わらない人の歩く速度
頑張って歩いて1時間に4q、10時間歩いて40q
月は日の誤記だってw
九州は東西に長くて東にゆく程高い土地なのかよww
135 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 09:55:03.38
>>133 >
>>120 > >東西五月行、南北三月行
>
> これも「東西五日行、南北三日行」の誤記の可能性が高い
これ面積の話しだよな?どう考えてもさ
東⇔西、南⇔北
136 :
九州王:2015/01/26(月) 09:58:23.01
>>134 北部九州の話
西に福岡、筑紫、熊本平野が在り、東に九州山脈(英彦山、九重、阿蘇)
137 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 10:05:23.73
クズオは馬鹿だな〜
日本列島南北5000キロとかよく言うだろ
東西南北は面積を表現するときに使うに決まってるだろ
自分の都合に合わせて文献の改竄捏造なんでもありかよ
東西五月行、南北三月行は隋書倭国伝の記述であるから
奈良に都があるのは明らかで東は関東までであることは自明
>>136 根本的におかしい。さすがにご都合主義にもほどがある。
それでは小学生でも騙せないぞw
140 :
九州王:2015/01/26(月) 10:18:22.57
「東西五月行、南北三月行」
1日に15qとしても東西2250q南北1350q
面積としたら大陸級
当時既に樺太から九州、九州から日付変更線近くまで倭国!
141 :
孝霊厨:2015/01/26(月) 10:20:45.94
文章間違い説を主張するなら、少なくとも同様例を出すべきですね。
私は伊都一万戸説を主張してますが、これは巍略逸文にある文章です。
142 :
九州王:2015/01/26(月) 10:23:12.11
奈良時代に都に税金を納めるのに掛かった日数
東北30日、南九州30日
奈良時代でも東西南北二月だな
143 :
九州王:2015/01/26(月) 10:24:13.52
巍略逸文・・・魏略逸文だろ
文章間違い
145 :
九州王:2015/01/26(月) 10:31:12.77
146 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 10:32:42.59
クズオってイタい子なんです。ごめんなさい
姉の、百済姉より
九州王頑張れ
東西五月行は東海道と西海道の端から端まで
南北三月行は北陸道と南海道の端から端までだろう
当時はまだこういう名称はなかったが道はとっくに存在してたはず
149 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 10:57:07.43
>>148 日本列島じゃないのはなんか根拠あるの?
根拠なんかあるわけないじゃん
151 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 11:05:12.84
根拠の無い話しで盛り上がるスレだったな
152 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 11:17:04.10
小野妹子は近畿の豪族の生まれ
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある[8]。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。
この頃は倭国と日本の区別はしてるんだよね
豪族は中国から稲作を伝えて指導する立場だった者が多いのは常識
中国の言葉も教えられてるから派遣されたわけだしな
女王国の北に21国あるんだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろうな。
そして、女王国の東には海があり、そこには倭種が住むというんだから、
九州東部で決まり。
東の海の向こうが四国だ。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については書いてない。
これは、女王国が九州西南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
女王国の北に21国あるんだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国 → 不弥国
↓ ↓
↓ ↓
↓ 投馬国
狗奴国 ↓
女王国−(海)→四国
(海)
妄想ばっかりのスレだな
>>107 海岸から奈良まで陸行一月は絶対に無い
境あたりに上陸すれば数日で着く
女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国→不弥国
↓ ↓水行
↓ ↓水行
↓ 投馬国
↓ ↓水行
狗奴国 ↓陸行
女王国(海)→四国
(海)
ほとんど独り言だからな
ほとんど独り言で、なおかつ自分の妄想だけで完結している。
161 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 13:00:14.44
四国の南ってハワイ?
162 :
九州王:2015/01/26(月) 13:00:27.75
奈良時代に都に税金を納めるのに掛かった日数
東北30日、南九州30日
奈良時代でも東西南北二月だな
隋書俀國伝の時代は倭の範囲は関東まで
税金の荷物が無い状態なら二月は掛からん
>それじゃ自説の首絞めるだけだろw
何故?
神功摂政皇后の行宮が香椎や朝倉にあったんだから、結局、九州説でも間違いではないんだろ
165 :
九州王:2015/01/26(月) 13:05:16.43
>>158 「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國・・・」
斯馬國以下の国は「其餘旁國遠絶 不可得詳」の国々だから「自女王國以北」以外だろ
「自女王國以北」は不彌國までの国々
漢文が全然て読めないな。
本当に小学生の夏休み自由課題レベルのスレw
小学生は邪馬台国問題なんて知らんだろww
九州北部はなくなったな。
170 :
九州王:2015/01/26(月) 14:40:39.14
伊都国の説明で「世有王」と伊都国が倭王の都であると解説し、
倭王の都近郊の奴国、不弥国まで紹介し終え距離(里数)での説明は終了。
「南至投馬國水行二十日」から行程の説明が時間(日数)に替わり、
この文からは再度、帯方郡の郡治からの行程を時間で説明し直しているのである。
同じ行程(帯方郡郡治-奴国)を距離(里数)と所要時間(日数)と総距離(12,000里)とで3重に併記している。
郡治-狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国-伊都国-奴国(距離での説明)
七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里)[28]= 帯方郡-投馬国-邪馬壹国(日数での説明)
水行二十日 + 水行十日 + 陸行一月(陸行一日)
=自郡-自女王國(総距離での説明)萬二千餘里
そういう検証作業はこれまで専門家や学者が繰り返しやってきたこと。
その学者に解けない問題が素人に解けると思っているところが恐ろしいわww
172 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 14:47:45.72
>>171 世界地図拡げて誰も知らない無人島探してる子供みたいだよね
体は大人、頭脳は子供。その名は九州説ロマン
174 :
九州王:2015/01/26(月) 14:56:15.03
学者に解けない問題を素人が解いて何が悪い?
インターネットの発達で情報が得やすくなり
専門家や学者が繰り返しやってきたことの参照が簡単になった
多くの説が有るが一番矛盾が無くできてる
陸行一月が陸行一日誤記であり
短里が使われていることを認めれば
人口、方角、距離100%矛盾なし。
175 :
九州王:2015/01/26(月) 14:57:25.65
- - - - - - - - - - - 帶
自 郡 郡 治 方
-↓- - - - - - - - - 郡
- --水行7,000里---↓----------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10 邪
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日
末盧國
-↓- 陸行 500里- -↓- 陸行1日(1月) 王
自 到 伊都國(女王の都) 馬
女 100里 ↓
王 奴 國←烏奴國←支惟國 國
國 100里 ↓ ↑
不弥國 周 巴利國
- - - - - - - - -↓- 旋 ↑ 壹
斯馬國 可 躬臣國
↓ 五 ↑
已百支國 千 邪馬國
↓ 里 ↑
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 國
-------------------------------------------------------
狗 奴 國
矛盾だらけだわww そもそも短里制自体九州説の我田引水的な妄想なのに、
その上に1月が1日の誤りだったとかwww
そんなんだったらどこでも邪馬台国として成り立つじゃないかww
一番肝心な日数や距離を捏造しておいて
国民の納得を得ようとか
頭がおかしいとしか思えないんだがww
九州王の説明を聞いていると、御笠川と宝満川が結ばれていたという
話の方がまだあり得そうだわww
179 :
九州王:2015/01/26(月) 15:12:41.44
日本は島国なのでどんな山奥でも3〜4日陸行すれば海に付く
陸行一月が陸行一日の誤記である可能性は極めて高い。
180 :
九州王:2015/01/26(月) 15:16:02.95
>>178 御笠川と宝満川が結ばれていたなんて物理的に絶対無いな
誤記は十分に有り得る
東大の白鳥庫吉も誤記説だったな。
誤記、誤記って、それを突き詰めていくと
史料の信憑性自体が怪しくなるんだが?
誤りがある=魏志倭人伝自体がいい加減ということになるわw
182 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 15:23:04.73
179
富士
2週間も歩き回って白骨体
>>182 同じところに戻ったりすればそりゃ2週間たつだろうよ。
しかも2週間食料もなく歩き回るのは不可能
184 :
九州王:2015/01/26(月) 15:26:02.55
木簡や竹簡に墨で手書きだから見間違いは起こり得るな
日と月、支と大、珠と朱、程度の誤記は有っても可笑しくない
南を東は流石に無いだろうが。
行程パズルなんかで解けないことは100年以上もかけて明らかになってる
それを初心者が解こうとすると九州王のように捏造に走る
まぁ陸行1月が陸行1日ということは100年以上前から
指摘され続けてきていることなので、特段おかしな説では
ないんだがな。
189 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 16:47:19.44
捏造説を強弁すれば賛同者が出てくると思ってるんだろうか?
その考えがまったく理解できない
190 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 16:59:38.40
ばかだなあ
わざとへんに読んで解けないふりしているだけ
九州説各位
・誤記は一つまで。
・行程パズルは仲良く
九州説は妄想と我田引水しかできず、
畿内説は捏造しかできない。
熊本説
誤記0でおk
南は東の誤記
195 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 17:07:36.47
道里に道日のこと加算しちゃだめ
月間九州説ランキング
1位 熊本説
2位 宮崎説
3位 長崎説
4位 大分説
ランク外 糸島説
月間九州説ランキング
1位 福岡県 八女 糸島 博多湾岸
2位 佐賀県 吉野ヶ里
3位 熊本県 熊本市
4位 宮崎県 西都原
5位 長崎県 島原
6位 大分県 宇佐
7位 鹿児島県
九州説の学者はいないの? 畿内説にはいるのに…。
安本先生とか古田先生とかは違うのかね
糸島はない。絶対にない。
邪馬台国の北にたくさん国があるんだから、糸島はない。
そもそも卑弥呼の墓の径100余歩って何mなの?
202 :
九州王:2015/01/26(月) 19:08:17.21
>>200 「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國・・・」
自女王国(邪馬台国の中心地)から北の国々はその戸数や道里をおおよそ記載できたが、
その他の旁国は遠く離れている為に詳細な情報を得られなかった、次に斯馬国有り・・・
斯馬国は詳細な情報を得られなかった旁国で北にはない
以下の国々も旁国で北にはない
糸島とか言うと九州説はどんどんキチガイ認定されていくな
ここちよい ここちよい
卑弥呼の墓がどこかとかいう論争自体無意味だろ。
何もわからんのだから。
205 :
九州王:2015/01/26(月) 19:24:28.32
糸島に卑弥呼が居たのであって邪馬壹國は糸島ではない
邪馬壹國は北部九州全体を指す
妄想しかできない九州説の哀れな末路ww
208 :
九州王:2015/01/26(月) 19:29:45.04
「世有王 皆統屬女王國」「(伊都国には)魏の治世に王がいて、(倭の国々は)皆、女王国(邪馬壹国)に統屬していた」
と記された伊都国に居して倭の国々を支配していた。
魏の治世、伊都国に居た王が卑弥呼。
>>208 意味が分からないのかな。卑弥呼が伊都国にいたという根拠は?
210 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 19:42:50.22
卑弥呼がおったのは伊都國@魏志から東南100里のところで奴國@魏志のの一地方だし
211 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 19:44:47.69
魏志の分類では三雲地区あたりのは弐萬戸の内数の奴國の一部
根拠を言わず妄想ばかりをひたすら呟き続ける九州説。
213 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 19:48:37.46
1里77mくらいので緻密に刻んで比定してあげたら他の解とかは矛盾が大杉なんだよね
そして意味の分からない日本語で煙に巻く
215 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 19:52:15.62
漢文読んでもちんぷんかんぷんなくせして
まぁ日本語の意味も理解できないようなら、漢文が理解できるはずはないのだが…。
217 :
九州王:2015/01/26(月) 20:22:47.24
日本@名無史さんばかりで誰が誰に何を云ってるか分からんな。
218 :
九州王:2015/01/26(月) 20:53:15.69
「世有王 皆統屬女王國」「(伊都国には)魏の治世に王がいて、(倭の国々は)皆、女王国(邪馬壹国)に統屬していた」
と記された伊都国に居して倭の国々を支配していた。
魏書で「世有」の用例を調べると通常は「魏の治世」を指している
代々と訳せる場合でも「魏の治世」内の代々2〜3代の短い代々
代々と訳すより「魏の治世」と訳した方が一般的
代々と訳したのは「皆」が代々の伊都国の王達を指すと勘違いしたから
「皆」は倭の国々を指しており、伊都国の王達ではない。
いつもの九州スレで安心した
キチガイしかいない
ふむ。九州説スレ本日も異常なし
221 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 21:21:28.39
魏の治世におった伊都國王のお名前が2名記載されている
222 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 21:23:04.91
卑彌呼は伊都國にはおらなんだ
223 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 21:29:32.65
九州王も粗雑なところあるな
伊都國から東南に8キロ程度行ったところは伊都國ではなくって奴國だって書いてあるのにさ
だから奴国は八女
もう妄想合戦の繰り返しだな
226 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 22:44:34.16
>>179 >日本は島国なのでどんな山奥でも3〜4日陸行すれば海に付く
アンタ、登山したこと一度もないだろ。登山経験のあるヤツなら絶対に
言えない戯言だわ www
227 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 22:47:41.51
川を下れば3日で源流から河口に行けるとかマジでいいそうだなw
滝や断崖絶壁があったり、川の合流点ではどっちに行けばいいのか
わからなかったりするのが山なんだけどね。
228 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 22:51:39.01
林道を下っていけば3日で山頂から海まで行けるだろ。古代にもきっとスーパー
林道があったんだよなw
229 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:18:37.01
川の下りは荷を積んでも早いだろうけど、
上りは空荷で船だけにしないとつらい。
疑問に思ったんだけど、釜山ー対馬ー壱岐ー日本本土の
それぞれが千余里なんだよね。
この距離は公里と比べて明らかに縮小されていることは
間違いないんだから、その比率が日数にも反映されている
可能性はないの?
231 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:26:00.00
日数も1/5して、帥行30里の一日30里を適用すると、
矛盾なく数値は合う。
実際の地勢とも合っている。
とりあえず距離が誇張されていることは確かなんだから、
その倍率を日数に適合して縮小したら、それが
正しい日数になるんじゃないのかな。
233 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:37:51.33
234 :
九州王:2015/01/26(月) 23:41:39.17
235 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:46:24.42
>>233 里数も日数も1/5するなら、一里あたりは普通の里ですね。
普通の里を1/5した程度の長さが短里という位置づけですからね。
236 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:48:24.37
なんだかんだいっても、筑紫の勢力の密度と大きさは群を抜いている。
邪馬台国熊本説の自分も、筑紫の影響を無視することはできない。
237 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:49:01.81
改竄捏造はやめろ
>>237 改竄捏造ではなく、実際に距離は誇張されていることは確か。
だとすれば日数も誇張されている可能性は明らか。
これは改竄捏造とは言わない。解釈である
239 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 23:59:31.18
>>199 倭国(九州と下朝鮮)
桃太郎が鬼退治に行ったのは九州だったんだな
下品で野蛮な赤鬼は倭猿だった
240 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:03:01.19
>>239 桃太郎がやったのは強盗殺人
鬼って人だろ
241 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:15:23.80
>>240 大和に非ずは人に非ず
桃太郎「赤鬼のクビ!とったどー!」
242 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:18:03.79
改竄捏造して導いた説なんて誰も同意しないんだからほっとけばいい
ただの雑音とみなし無視すればいい
243 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:19:04.12
邪馬台国の起源を主張してたら鬼ケ島なのがバレたでござるの巻
244 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 00:23:22.67
まあ、南を東という捏造は無しで。
帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり
畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ!
荒らしてんのは東遷説の成りすましだろ?
247 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 07:38:45.83
いや、畿内説の奴らさ。例のキタナーイ荒らしだよ。
248 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 08:50:55.94
妄想癖から糖質
王道だな赤鬼さんw
249 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 08:53:35.71
捏造というより方角がよく分からなかったと正直にゲロれば楽になるぞ
250 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 09:30:18.41
精神的におかしいんだよ
パズルのピースを全然合わない所に無理矢理入れようとしてる
5才児にパズルやらせても合うところ探して埋めていく
精神的に幼稚なわけじゃない、精神的に異常なんだよ。
パズルが合わないから
無理やり合わせるために里を捏造したり、漢文の読み方を滅茶苦茶にしたり、誤字だと決めつけ改竄したり
どんどん不正に手を染めて行く
もう学問ではないな
目の前の古墳に無理やり当てはめようと押し込むゴッドハンドは畿内説の方だろ
しかも否定されると次から次に対象を変える悪質さ
古墳どころか目についた物なら何でも
根拠にしてしまうのが九州説だがw
254 :
九州王:2015/01/27(火) 09:59:43.96
>>251 現実と書かれていることを比較して里の長さを求め
現実の理屈に合わないから誤字であると判断し
漢文の用例を調べて意味を解読する
これが本当の学問だよ。
短里どころか陸行1日500mとかなw
距離は記述の元になった旅程に携わった者の感覚もあるだろう
海の上をロープ張りながら渡った訳でも無し
陸地のように歩幅を計りながら歩いたわけでも無し
三角測量したなんて記述もない
つまり倭人伝の里程において基準になるのは直線で見渡せる二点があるかないかだ
日本の場合倭人伝の記述にもあるように山に寄っているわけで見通しは海でないと厳しい
対岸の韓国から見える対馬の間の距離が基準になる
これを本に読み解かなければ比定地など出ようもない
また当事に現代のような俯瞰地図があったわけでもなく国々の距離が直線であったわけでもない
山を越えるには相当な九十九折りの山道
川に沿って蛇行する道
様々な里数の伸びる要因がある
日数もまた同じ
これらを勘案すれば倭人伝の倭国や邪馬台国が畿内であるなど有り得ようはずもないのだ
257 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 10:15:54.38
>>256 これがこのスレの典型だな
考察力が微塵も無い
258 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 10:25:49.15
女王国の敵対国である狗奴国の国王の名が菊池彦。
素直に菊池郡一帯が狗奴国と考えるのが正解だと思う。
さらに卑弥呼の死亡記事にある「卑弥呼以死」の以死は自然死では
使われてないんだよな三国志では。
狗奴国との戦争に負けて責任を取らされたんだろう。
狗奴国と直接戦える位置に女王国があると考えると香春辺りだと思うな。
九州説:「パズル王に、俺はなる!」だからな。
261 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 11:24:19.48
倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しているのです。『詣』とは、『臺』、つまり皇帝の居する都を訪れる時に使う表現でもあります。さらに、詔書や印綬を『奉』じるとしています。他には見られない献上するという視点がそこには見られます。
魏より格上の国は九州には無い
しょぼい村長が王を名乗るレベルの国ばかり
九州王というやつは無視でいきましょう。狂ってる。
陸行1日10Kmでも(無理だが)、一月で届くのは、直線距離で100〜150Kmくらいだよ。
九州の王様というハンドルネームでありながら九州説で全く支持されない九州王
1日10qって割と現実的なラインじゃないのか?
1日に5〜6時間ぐらい歩いたとして、
1時間に2kmぐらいだろ。
歩行の平均速度は時速5kmくらい。しかし、当時の舗装されていない道で荷物もあるともっと遅いかな
時速5kmだと?
かなりの早足だよ
舗装路でなきゃ無理
>>266 時速5kmwww
お前、それは今の不動産屋が言ってる奴じゃないのか。
1分=80m。1時間=4800m
うはww 舗装路ww
10キロは無理だろ。舗装されてない道を素足。リュックもなかったんだぞ。
文献解釈をいじくってああだこうだ、江戸時代と同じことやってて答えがでるわけない
そんなことさえ分からないってこいつらの知能を疑う
まあ知能が低いから同じ過ちを繰り返してるんだろうが
1日10qって別にありえないスピードじゃないだろ。
時速5kmはさすがにバカだが、その半分ぐらいの
速度なら可能だ。それを日が昇ってから日が落ちるまで、
せいぜい9時スタートの16時エンドとすれば、
食事の時間を入れても十分に可能だわ。
>>258 菊池が狗奴国なら邪馬台国の比定ができない
菊池は鬼國か鬼奴国だろ
鬼國=キコク=キクカ
韻からしたら鬼奴地=キヌチ=キクチだな
274 :
百済姉:2015/01/27(火) 16:05:44.09
>>262 クズオはイタい子だけど性根は良い子なんです。遊んであげて下さい。
百済姉
275 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 16:15:15.71
時速5Kmとか普通だよ不動産屋は直線距離で算出してるからで
歩行速度としては速いわけじゃない
くだらねえwww
卑弥呼の古墳の100歩って何m?
桃太郎に出てくる鬼が九州人とか初めて聞いたんだが・・・。
マジなの?
桃太郎が朝鮮人なんだろ。
鬼は縄文人。お婆さんは天照大御神。
281 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 18:21:13.70
私的に徒党を組んでお宝の乏しい地域から出かけていって海賊さんの泥棒さんやらかしたのが桃太郎かよ
桃太郎強盗団
283 :
九州王:2015/01/27(火) 20:49:48.07
日本陸軍の歩兵の行軍速度が1日24q、強行軍が1日40q
100年前に生まれてたら徴兵されて60sくらいの武器や荷物を担ぎ
何か月も1日24q〜40q歩かされてたんだよ。
陸軍は馬を使って街道を移動してた。
牛馬がいるかいないかで、決定的な違いが出る。
牛馬がいなければ、荷物を運ぶのが大変というだけではない。
いなければ、街道を整備する必要もないし、することもできない。
昭和時代の陸軍の時代と弥生時代の話とを一緒にしている時点で
論外という他ない。ただ、街道の整備に関して言えば、
仮にもこの当時の日本の首都だった場所への街道なので、
さすがに草木がぼうぼうで障害物がごろごろしていたとは
考えにくい。もしそんな道を魏使に歩かせたら、それだけで
野蛮国だというふうに判断されてしまったことだろう。
286 :
九州王:2015/01/27(火) 21:28:09.35
>陸軍は馬を使って街道を移動してた。
歩兵の行軍速度、騎兵や乗車兵じゃないんだが。
>昭和時代の陸軍の時代と弥生時代の話とを一緒にしている時点で
論外という他ない。
人間の歩く速度なんて昭和も弥生時代も変わらんけど。
>>286 弥生時代と昭和時代とでは道路の整備状況が全く違うんだが?
人が歩くとしても、貨物を牛馬が運べると、
だいぶちがうと思うよ。
>>288 荷物なんて倭人に持たせるだろう。
しかも何人連れて行ったかなんてわからんのに、
荷物の多い少ないで歩行速度は割り出せんだろ。
このスレ見てたら自衛隊時代の行軍思い出した
なつかしい
夜行するときちっちゃいケミカルをテッパチの後ろにつけて歩くんだけど
真っ暗でそれが頼りだからちょっと気を抜くと周りに誰もいない
って状況になりそうで怖かった
291 :
九州王:2015/01/27(火) 21:47:41.03
日本軍は主に亜細亜大陸で戦ってたんだよ
道なき道をも進むのが軍隊。
>>290 日本を守るという重要な任務につかれていたんですね。
尊敬します
九州脳では1日歩行が二キロだっけ?
本当に外へ出たことないんだろうなw
1日500mっていうの見たことあるけど
私は帥行30里、約13kmで計算してますね。
1日10キロでも、一月に移動できるのは、直線距離100キロ程度。
畿内説では、どこからどこまで歩いたと考えてるんだい?
畿内は九州より狭いように見えるが。
この日数は誇張だろ。
距離も誇張されてるんだから日数も同じ倍率で誇張で辻妻は合うんじゃないか。
帥行30里の里も短里だから1日2kmってのもあった
誇張説を捏造だというのは畿内説論者だけだろ。
301 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 22:51:12.99
吉行の とき日に五十里、師行のとき三十里なり。
吉行とは?
師行とは?
距離と日数が誇張だけでは足りないぞ
戸数も誇張にしないと九州説は成り立たんぞ
手ぶらと荷物あるときの違い
>>302 戸数は誇張じゃなくても十分容量は
あるけど、1/5だとだいぶ余裕ができるね。
九州説は根本的に捏造しないと成立しないんだなw
306 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 23:02:40.85
鸞旗在前、属車在後。吉行日五十里、師行三十里。
鸞旗(らんき)前に在り、属車後(しり)えに在り。吉行のとき日に五十里、師行のとき三十里なり。
―――皇帝の馬車が出かけるときは、羽毛を以て編んだ大旗を飾った車が一番前を行き、皇帝の車の後ろにはお付きの者や荷物を積んだ車が続いていくのである。その速度は、平和なときには一日五十里(25キロ)、軍事の際には装備が増えて三十里(15キロ)とされている。
鬼はアトランティス人
>>305 畿内説は魏志倭人伝の記述を全く無視して成り立ってる説なんですものね。
解釈とかそういう苦労がなくて羨ましいですわ。オホホホ(^O^)/
まあ九州説を支持してた学者たちが考古学と科学の前に惨敗して尻尾巻いて逃げていったんだから
ド素人九州爺がどれだけ吠えても無駄
まだ安本先生が残ってる
九州説の学者って誰がいるんですか? 少なくとも専門の学者さんって
知らないんですが…。
九州説がやってる解釈という名の史料変造には、手を染めないのが知的良心
畿内説は、歩きは1日約2キロだと考えてるらしいぞ。
>>312 資料解釈を丸投げして自称邪馬台国を名乗っている畿内説に言われたくない。
316 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 00:02:02.47
自称邪馬台国でも控え目ので邪馬壹國騙らないだけまだましか
畿内説の存在自体が捏造ではないの?
安本先生には長生きしてもらわないと
安本先生に高麗人参を送ろう
>>319 そんなことをしたらこれまでに出した本全部着払いでプレゼントされるんじゃないかw
安い本ならいいいが
>>321 安本とかけたわけですねw 分かりますww
安くても無価値だからゴミだよ
使いみちは、あるだろう
焚き付けとか鍋敷きとか
焚き付けと言われてもガスコンロしかないし、鍋しきと言われても既製品あるし
やっぱゴミだわな
ああ!もはや安本ですらねぇ、ただの生ゴミだよ 言わせんな恥ずかしい
は?本は生ゴミじゃないんだが。水分ないだろ
誇張ていうか、九州説が倭人伝を都合よく解釈しすぎだわな
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。
「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。
天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。
水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。
道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。
陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。
以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。
コピペにまったく説得力がないから無視してるのに
内容を読んでないとでも思ってるのか九州のバカは
他のコピペもこの河川キチガイの仕業だったことが濃厚になった
おいお前ら
畿内説ってのは九州北岸に畿内の港を持ってなければ潰れる説だぞ
証拠もないデタラメは正面から叩き潰せよw
交易ルートを確保するには対馬西側の海上ルートの確保が必要
これはカン海と記述もある対馬海流の影響上古代船の渡海には絶対的な必然性がある
対馬東側に行けば日本海に流されるからな
大和政権より数百年以前に畿内が九州を支配していたなどというデタラメを看過すべきではないだろう
唯一あるとすれば九州の支配勢力が畿内まで支配していたという可能性しかないが、東遷は眉唾だな
334 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 06:00:50.10
おいファンタジスタ朝だよ!!
今日も妄想頑張ってね!!
しっかし東遷厨って本当に馬鹿だよな
毎度毎度同じコピペを貼ってくるやつは、その内容を俺らが読んでると
本気で思っているんだろうか…。もはや何の説得力もない妄想であることは
自明なのだが。
コピペスルー出来ずにスレ汚ししてんのは畿内バカか?
自分たちのスレでやれよ
コピぺ馬鹿をちゃんと躾をしろよ。いい加減迷惑だ。
339 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 10:35:23.04
詩経
六月棲棲 六月は大忙し
・
・
比物四驪 競うように走る四頭の馬
閑之維則 これを制御するのは手綱
維此六月 六月には巡回裁判を開く
既成我服 私の領地は異常ありません
我服既成 私の領地は平定しました
于三十里 三十里四方まで
王于出征 王が巡回に出掛ける
以佐天子 領主たちよ天子様をお助けせよ
・
・
王は三十里を回ると言っています。
周代の里は500mですので、三十里は15kmにすぎません。
これは一つの邑が管轄する地域に当たりますので、
王は服の中にある邑をそれぞれ訪問し、領内をくまなく回ったのでしょう。
「古代の軍隊の行軍速度は1日に30里とされた『詩経』小雅・六月「于三十里」伝「師行三十里」は間違い。
340 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 10:42:02.34
ふーん、おもしろい詩経だね〜
341 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 10:53:29.38
小国の大きさは、日帰りで行けるくらいの範囲でないと、
支配、あるいは管理が難しくなるので、
自然に30里くらいの範囲に収まるのかなあ。
もはや荒らしと妄想しかできない九州説
343 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 12:01:57.56
邪馬台国は淡路島で決定だよ
これにて解散!
一個聞きたいんだが、九州島内に7万戸って不可能な数字なの?
345 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 12:19:57.50
>>344 旧国ならともかく、九州全体なら少なすぎるレベル。
346 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 12:23:38.31
>>344 馬韓10万戸、辰韓、弁韓4〜5万戸だから
九州全体なら10万戸以上は十分に入る。
またイミフな御託宣が
朝鮮半島と九州で当時の人口密度が同じだと仮定すると
九州の戸数は5〜6万戸程度となる
狗奴国も入るのだからな。
過大な期待をしない方がいいぞ。
戸数も5分の1〜6分の1にすればいいのでは?
捏造すれば何でも可能になるな
捏造だけではダメ
九州説は歪曲も必要としている
353 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 15:48:07.23
>>348 >朝鮮半島と九州で当時の人口密度が同じだと仮定すると
寒冷で稲作も難しい朝鮮半島と温暖で稲作の盛んな九州同じはずなかろう
北海道と関東が同じ人口密度だと仮定してるようなもの。
354 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 16:10:43.81
馬韓10万戸、辰韓、弁韓4〜5万戸なら
人口密度を考慮すると
九州全体で15万戸ぐらいかな。
もう〜、バカな話ばっかり。勘弁してほしいわ
ホントにパズルしかしないのかw
357 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 16:49:49.50
- - - - - - - - - - - 帶
自 郡 郡 治 方
-↓- - - - - - - - - 郡
- --水行7,000里---↓----------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10 邪
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日
末盧國
-↓- 陸行 500里- -↓- 陸行1日(1月) 王
自 到 伊都國(女王の都) 馬
女 100里 ↓
王 奴 國←烏奴國←支惟國 國
國 100里 ↓ ↑
不弥國 周 巴利國
- - - - - - - - -↓- 旋 ↑ 壹
斯馬國 可 躬臣國
↓ 五 ↑
已百支國 千 邪馬國
↓ 里 ↑
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 國
-------------------------------------------------------
狗 奴 國
パズル厨と妄想厨と荒らしww
ふむ。今日も荒らししかいないな。九州説異常なし
九州だって言ってたら、いつまでも遊べるからねw
船長!九州説の前途何も見えませーん
>>360 ・・って、九州説スレにまともな九州説がいないのは
九州説の異常なんだが
364 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 19:50:00.08
九州説スレはコピペとパズルでできてます
366 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 20:56:12.80
畿内説スレよりはまともなだけどね
畿内説スレは荒らしと狂人だらけで妄想と説の区別も付いていない。
魏志倭人伝読む限り、本州には行ってないよな。
いつもの「すなおに」が抜けてまつ
このように
理由がないのが九州説
>>367 この程度の意見で荒らしになるのなら、
コピペや長文貼り付けなんか、相当悪質な荒らしだな
あんたはいつも相当悪質な荒らしをしてるんだよ
畿内説が無意味なカキコで荒らすのは
反論できない負け宣言。
なにに反論?
>>373 誰に言ってるんだよ。頼むから荒らしをした本人にレス
付けてくれよ。荒らしを批判してる人間捕まえて、相当悪質な
荒らし呼ばわりもないだろう。アンタ。
マジでネットの世界でもひきこもりになっちまうぞ。いいのか。
377 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 22:30:58.61
918 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2015/01/28(水) 21:48:39.80
東遷厨はむしろ朝鮮人そのもの
・理性的な議論ができない知恵おくれ
・声さえでかけりゃ意見が通ると勘違いしているコピペキチガイ
・学説を検証せず偏見で陰謀とレッテル貼りをして逆恨み
畿内説さんは、こういうことを躊躇なく書ける人格だから、
そうはならないように注意しようぜ。
朝鮮人とか中国人とか自分の祖先を傷つける言動にしかならないと思うのだが…。
天皇家ですら朝鮮半島とつながりがあるというのに
ほら、こうして起源を捏造してくるだろ?チョンは
380 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 23:11:17.09
>>367 荒しはお前だ!自覚無いのかw
>>368 自郡から女王国までが12000里なんだから九州を出てないのは明白だよな。
畿内説とは言いながら内容は何も無いから九州説を荒らすことしか出来ん連中。
東遷厨はひどい差別者
382 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 23:16:04.95
まともな日本人の感性なら、
目の前で直接敵対してるという状況じゃなければ、
嫌いでも、朝鮮とか差別とかいう言葉そのものが、
普通は出ないからな。
特に理由もなく朝鮮という言葉を出した奴が、
煽り目的の工作員だろう。
>>383 あんなのつながりがあるうちに入らんだろw
現チョンと無関係だし
>>377 それが言いたくてナリスマシやってんだろ東遷厨くん
九州にあったのは間違いない
卑弥呼は英彦山にいて山伏と言う兵士に守られていた
また何の根拠もない話を延々と・・・
当時遡上なんかする訳ないだろう。
>>391 なんで?
海流に逆らって航行してるんだから、遡上もするだろ。
遡上出来る河川なんて限られるからな。
倭人伝の記述で川行の可能性があるなら
投馬から邪馬台国への陸、水行併記部分のみ。
ここは川下ったら早いと解釈できる。
でも水行20日の川行は有り得ない。
昔の交通は、陸より河川だぞ。だから、川沿いに街道ができてる。
395 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 10:35:56.53
>>394 川の氾濫が定期的にあるから木が育たない
歩き易いってだけだ
396 :
孝霊厨:2015/01/29(木) 11:48:41.34
川行で上下同日数なんて有り得ないという話だろ。
それに倭人は海人、集落は海岸沿いか河口部堆積地だ。
川は陸水併記しか可能性はない、諦める事だ。
平安時代、太宰府まで川を遡上していたんだから、そういう交通路だったんだろ。
>>390 むしろ、20日で行けたのかという疑問が。
>>396 それじゃ畿内説はありえないということだ。
御笠川とか宝満川の上流部っていうのはかなり狭くて水量も少ないからな。
川底を浚渫しながら移動すればそれぐらいの日数はかかるんじゃないの?
>>396 魏志倭人伝では渡海と海岸水行と水行が明確に区別されている。
つまり海を渡ったという可能性は皆無。畿内説は諦めるこった。
402 :
孝霊厨:2015/01/29(木) 12:40:00.16
>>399 心配しなくとも説明なら全然大丈夫ですよ。
>>402 畿内説の邪馬台国の範囲はどこからどこまでなのかな
>>400 >御笠川とか宝満川の上流部っていうのはかなり狭くて水量も少ないからな。
>川底を浚渫しながら移動すればそれぐらいの日数はかかるんじゃないの?
昔は、舟に鍬を持ち込んで、そうやって航行してたらしいね。
>>400 そんなことしながら水行を強行する意味なくね?
歩いたほうが早いのに
>>405 それ、実際にそうして移動していた人に聞いてみたら?
「あなたたち、何で歩かないんですか?」って。
大きな荷物を抱えてるんだったら極力歩きたくないだろ。
鏡とか布とか貴重品入ってるのに
407 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 13:24:46.82
御笠川、宝満川説は九州説の面汚し。
409 :
孝霊厨:2015/01/29(木) 13:43:17.25
>>403 百襲=卑弥呼説をとるなら、少なくとも女王国は香川辺りより東ですよ。
個人的には邪馬台国を淡路島辺りより東側と仮定します。
一国は一望出来なければいけないのでは?という推論ですが。
(2)舟運・海運
舟運は主に遠賀川や洞海湾・堀川,筑後川で行われていた。九州西部では陸路より
海路が近道の場合が多く海 上交通が発達していた。
大分-延岡間では,リアス式海 岸と山がちな地形により陸上交通が発達せず,海上交通
が多く用いられた。 舟運は大淀川・日田川・玖珠川・坪井川などでも発達
していた。明治時代以降は鉄道が発達し,さらに昭和20 年代以降は道路整備が進んだ
ことにより,舟運はおこな われなくなっていったが,九州西部では現在も海上交通
が行われている。
遺跡が多いところに川があった場合って、その川が水上交通で
重要な役割を果たしたと判断していいのかな。
413 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 14:01:02.01
414 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 14:10:24.50
江戸時代の終わりになっても二日市から博多までの比恵川(御笠川)を使った水運は失敗
御笠川上流の水量の少なさが原因
御笠川でも下流は水運利用されていたようだが
どの辺まで上れたかは不明。
◎牛馬が利用できて街道が整備された江戸時代でも、このありさま。
1.運河開鑿(うんがかいさく)の理由
江戸時代の年貢米や諸物資は、人が担いだり馬の背に乗せて運搬していました。
このため黒田藩においても、上座(かみつくら)・下座郡(しもつくら)(現在の甘木・
朝倉地方)の年貢米を福岡の蔵屋敷に納めるためには、40〜60kmの距離を馬の背に
振り分けにして2俵積み、馬1頭に人夫一人が2日がかりで運ぶというように、運
搬能率は非常に悪く、人馬の疲労は甚だしいものでした。
◎江戸時代にも、
>>3に出てくる国道3号線付近の水路を利用しようとした。
今も福岡市博多区井相田(いそうだ)から板付(いたづけ)の間の国道3号線に沿って
流れる水路は古川と呼ばれていて、計画水路の位置に合致し、また86年後の再計画
による運河水路が新川と呼ばれていることからもこの古川水路が寛文当時の運河跡
ではないかと考えられます。
◎川底の泥土取り除く人夫がいた。
ところが、この運河筋の土質が火山灰質で、素掘の運河には一雨毎に泥土が流れ
込むうえに、水源となる御笠川の水量が少なく、舟底がつかえる所ができるため、
この泥土取り除きの人夫賃も嵩(かさ)み、遂に宝暦(ほうれき)13年(1763)にこの運
河は廃止されました。
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo54.htm
街道が整備され牛馬がいた江戸時代だと、水運を諦めたが、
邪馬台国の時代には、船の代わりになる牛馬がいない。
遺跡が現在の川筋や旧河道沿いに展開している場合、河川の水運があったとみなしてよい
遺跡の有意な連続が確認できなければ諦めるべき
>>415 やっぱり、国道3号線の所が運河として利用されていたんだね。
420 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 15:24:25.23
大宰府政庁のところまでは確実に水運に使われていただろうけど、
天満宮まで届くかどうかはなんともいえんな。
少なくとも太宰府小学校の横は川幅も広いし、
水量もそこそこあるね。
422 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 16:14:45.95
太宰府小学校の横も堰で水が溜まってるだけ
水が流れてないでしょ
水の水量が少ないから何か所も堰で貯めてあるようだな
とても舟の通行できる川じゃない。
それよりも個人的には国道3号線の真下が気になるがな…。
北に水路が伸びているようだし、近いうち調査に行こうかな・・・
424 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 16:34:56.57
こいつらの視野の狭さは救いようがないな
>>424 あなたの視野が広すぎるんですよ。
でも、視野が広い馬が草食動物で、視野の狭いライオンが肉食動物
なんですよね。
あれ、江戸時代のもんだろ
なんで弥生時代も同じものがあったという前提で妄想こいてんだ?こいつら
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo54.htm 御笠・那珂堀川運河
正徳(しょうとく)4年(1714)の『二日市宿庄屋(帆足甚三郎)覚書』によれば、
寛文(かんぶん)3年(1663)春から工事にとりかかり、二日市入船町から博多川端町までの
運河を通過し、入船町と川端町に土蔵を作り川船3艘を仕立て、1艘に米30俵を積んで
同年秋から運行を開始したが、水量の不足と井堰(いぜき)や素掘り運河の改修費、
船頭や蔵元手代(てだい)の人件費が嵩(かさ)み、僅(わず)か半年たらずの翌4年初めには
運行を中止したと記録されています。
ところが、この運河筋の土質が火山灰質で、素掘の運河には一雨毎に泥土が流れ込む
うえに、水源となる御笠川の水量が少なく、舟底がつかえる所が
できるため、この泥土取り除きの人夫賃も嵩(かさ)み、遂に宝暦(ほうれき)13年(1763)に
この運河は廃止されました。
428 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 17:47:54.02
>>426 長州のテロリストに乗っ取られるまで古代日本人の納める国だよ日本は
429 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 17:48:56.28
いわんや3世紀の交通事情をや
430 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 17:51:13.42
>>427 さんざん貼られているコピペの筑紫野2丁目も二日市宿あたりだから
川が深いのは運河工事の影響だろうね
江戸時代でもそこで川を使おうとしたって、相当だろ。
馬車もあるのに。
バカだな
水路は重さ関係なく大量に物資を輸送できるから
長い目で見れば、コスパ高いんだよ
邪馬台国の時代なら、行ける所まで舟だよ。
ところが、末盧国で海を渡ってきた船を降りてる。
ナゼか?
大きな船は川には使えないからだ。
不弥国から川を遡上し、20日かけて投馬国。
さらに10日舟で進み、名もない場所で陸行に切り替えた。
ナゼか?
そこは、これ以上舟で行けない渓流だからだ。
そういう土地だから人家も少なく国邑となっていない。
そこから仕方なく、きつい陸行だ。
436 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 18:40:42.42
不彌國までで〆て12000里でもお到着しちゃってるてば
>>435 こいつの理屈では、大宰府が置かれた理由が説明できないな
直接大和に行けばいいじゃんてなる
まさかと思うんだが、大宰府と太宰府天満宮を
一緒に考えてる人いない?
は?
440 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 19:10:48.83
御笠川が前を流れているのは大宰府政庁
川からは離れているが、御笠川と宝満川の間に位置するのが
太宰府天満宮
大宰府政庁と太宰府天満宮は三キロほど離れている。
大宰府と太宰府天満宮を間違えるなんてダサすぎだろww
大宰府が山をうしろに川をまえにしているのは防衛上の問題からで
船でいくためじゃねえよ
九州で降りたのは鴻臚館で入国審査をするため
川に乗り換えるためではない
444 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 19:21:13.01
>>440 脳梗塞リハビリ速度で6日か…凄く遠いねw
445 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 19:23:20.47
太宰府天満宮は菅原道真の時代 919年に創建とされる。
菅原道真の霊廟と言われるのは有名な話である。
太宰府政庁は奈良時代に作られた。
しかし、それ以前の那津宮などまで考えれば、
その前身は飛鳥時代初期ともされる。
従って正確な年代を決めるのが難しい。
都府楼地区などの出土物からは、
弥生時代のものが交じることもあるそうである。
思い出したが、大宰府政庁が背?にしている
大野城(四王寺山)も神籠石山城である。
四王寺山は中心部が大きく窪んでいる形状をしており、
その中に立てこもるための設備ではないかと推測される
特殊な石組も見つかっている。
446 :
日本@名無史さん:2015/01/29(木) 19:26:54.41
四王寺山の南西方向へは、福岡平野との間を遮るように
水城が伸びている。
水城、大野城、基肄城は大宰府の防衛ライン
大宰府が現在地に建設されたのは7世紀の後半
もともとは、邪馬台国の城だったんじゃないかな。
根拠なし
水行は、太宰府を通る川だったんだね。
>>450 ふむ。御笠川と宝満川の接続については
疑問の余地があるが、少なくとも水行は宝満川の
南下とみてまず間違いはなかろう。
間違いないという理由は?
九州説に根拠なんかあるわけなかろう。
さもありなん
で、南への水行の起点となった不弥国はどこ?
さもアリラン
サモハンキンポー
おまえらノリノリだな〜。かわいいぜ
左門豊作
460 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 06:24:58.03
妄想族勢いないな
もっと気合い入れて妄想しろよ!
今日も頑張ってパズルをやろうぜ
462 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 09:25:34.03
>>447 水城の建設は、
理科学的測定によれば下部は西暦240年、
中部は西暦430年、
上部は西暦660年で、
水城の排水口の木部も西暦430年であった
学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、
太宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前の物である。
無知な人が聞くと、いかにも変な妄想しそうな数字だね
>>463 水城の建設は、 理科学的測定によれば下部は西暦240年。
ここかなww
竹内焦土層がどこにあったか絶対に言えないだろw
466 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 12:29:20.90
467 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 12:35:56.03
アナゴさんの設定って九州人だよね?
やっぱりアホだw
大宰府遺跡は大宰府を全体を指している
あくまで範囲であるので、縄文であっても近世であっても、その範囲で確認されれば大宰府遺跡に含まれる
また、年代測定は、
1対象物
2測定方法
3対象物が考古学的にどのような評価を受けている層位から出土したものか
という情報が明らかでなければ全く意味がない
ではさらに問う
竹内焼土層は大宰府遺跡のどの地点でいつの調査で確認されたものか?
考古学的にどのように考えられれている層なのか?
測定方法と対象物は?
469 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 12:53:02.64
測定方法は放射性炭素年代測定とあじゃない
詳しくは調査を行った学習院大学に問い合わせたら
知らないなら言うなよ
トンデモになるだけだから
471 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 13:07:50.85
>>462で分かることは
水城は中部は西暦430年、排水口の木部も西暦430年なので
水城本体は西暦430年頃に造られ
その場所には元々西暦240年に造られた何らかの構築物が有り
西暦660年頃に補修された
大宰府も西暦400年前後に造られたものである
日本書紀に書かれた記事は西暦660年頃の補修のことと考えられる。
472 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 13:09:41.98
ちなみに場所は政庁の敷地内だよ
詳細は手元に資料が無いので自分で調べろよ。
それが無知人間の言うトンデモの典型
手元に資料もないままデマを流してる馬鹿発見
475 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 13:22:26.60
調べれは直ぐに事実だと分かること
無知人間のンデモの典型とは
>>473自身のことだろ。
調べるとそれが全部yBPだと判って
>>471が赤恥をかくのであった
バレテーラ
479 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 13:39:52.56
通説の学者は大宰府や水城の放射性炭素年代測定結果を
故意に無視してるようだがな。
ぜんぜん無視してない
みんな知ってる
トンデモ説デマ師だけが無知な人を騙すためにインチキ情報を流してる
ぜんぶバレてるから諦めるように
481 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 14:17:50.16
知らなかったくせに嘘吐くな
通説の学者は大宰府や水城の放射性炭素年代測定結果が出ても反応がない
説明出来ない事については黙っている。
482 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 14:26:20.72
それはウソ
誰でも知っている
水城の下に古水城があるのは割と有名な話。
大阪城の下に大阪城があるみたいな話だな
それ石山本願寺跡や
トンデモに花が咲く
ちゃんと調べた人間なら大宰府政庁内に「竹内焼土層」など存在しないことを知ってる
焦土層といえば、元寇を思い出すなあ。
489 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 20:25:16.82
たま抜かれて大宰府になった
490 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 20:31:53.59
太宰になれたら三公だから開府がでる
太宰なら開府されるのは太宰府
大宰というのは唐土には無いピュアな国産だろ
491 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 20:36:52.66
奈良時代の律令制下では曲げて「大宰」
正規表記の「太宰」のは
「隋・唐 均無此官」とのことで直近の華夏のところでは置かれなかった
492 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:02:24.23
400年頃に太宰府が造られたとなると通説からするとオーパーツなんだよな。
493 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:08:14.32
割と近くに最古級の水田をもつ板付遺跡もあるわけで、
集落と人口自体はかなり古い時代からあっただろう。
謎の遺跡とされる神籠石山城が4〜5世紀という説があるから、
大宰府の前身の政治機関がその頃からあるならば、
つながってくるのかもなあ。
494 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:17:13.55
「太宰」はもともとのが「太師」とよばれていたのだけれど
晋代になって「司馬懿」の長男の「司馬師」の「師」をはばかって「太宰」と云い直された
鏡の銘文に煩瑣に出てくる「位至三公」の「三公」に相当するのが「太師」の「太宰」で
「一大率」が「太師」や「太宰」に化けておるが故に「大宰府」の長のが「そち」とゆうことにはなるのだ
なお一部には、「太師」が「太子」に化けちゃうというのもあるのだ
495 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:27:02.76
「太宰」の居るところが「太宰府」だからして
現状残存している地名のところだけのが「太宰府」だとしてしまうのはまずいですよ
板付遺跡の水田は
その前は陸稲を育てており縄文人のテリトリーになる
倭人の刺青も縄文人の習慣だ
大陸系なら刺青はしない
太宰なんか最初からいないのだが
あったのは大宰府で、いたのは大宰だ
つまり邪馬台国は縄文系国家と言える
499 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 22:39:52.81
確かに縄文人っぽい古い習慣が残ってる感じはするな。
連綿と続いているなら、そういう残ってる習慣もあるだろう。
個人的に気になっているのは、熊本の石庖丁型鉄包丁で、
鉄が入ってきても、その文化に塗り替えられることなく、
古い文化の上に、鉄という新しいものを載せようとしたこと。
これで、「続いていること」が見えるように思う。
越ってどこの越だよ
悦に浸るな
むしろエッチに浸りたい
持躰松遺跡(もったいまついせき)も最近注目されてるんよね
南西諸島や大陸との貝の道の重要経由地でもある
506 :
日本@名無史さん:2015/01/31(土) 17:13:01.99
くだらない宣伝してんじゃねぇよ
423 名無氏物語[] 2015/01/31(土) 17:16:12.73 ID:lk1eZQb3
古文漢文について語り合うならここがおすすめ。
http://blngs.com/ 一回使ってみると、意外といいかと。
>>506 マルチポストしてるグロアフィカスリンク
決して踏まないように
おまえ、畿内説で追い返されたからって、また九州説で荒らすことはないだろw
東遷説は何処に行っても鼻つまみだな
512 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 12:50:34.23
妄想ペース落ちてぞ
気合い入れて妄想しろよ
もう邪馬台国荒らしスレ作って、荒らしさんはそこに閉じ込めよう。
そんで定期的に「へぇ。すごいね」とか相槌打つ人入れればいいんじゃね
514 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 13:08:10.37
結局どこにしたの?
大和一国の場所は?
纒向遺跡の卜骨の出土は、九州説的にはどんな解釈なの?
そりゃそういう風習は日本全国であったんじゃないの?っていう意見でしょ
九州説に解釈というものはない
それを題材にした物語がのみある
よく知らないけど
遺物や遺跡は無視するのが九州流なんじゃないの
>>515 卜骨は九州から関東まで見つかっている
証拠にはならない
しかし一々卑弥呼とつけるバカにはウンザリ
というかト骨が出た=邪馬台国というマスコミの報道も
うんざりなんだけどね。
九州説に都合の悪いものばかり見つかるのでウンザリなんだよな
いえ、まったく
もっと発掘頑張ってほしいものです
524 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 22:47:27.52
卜骨は九州でも少数見つかってはいるが、
主として静岡以東の習慣だな。
>>524 九州だとどの辺りで見つかってるんだっけ
526 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 23:19:38.20
筑後ですね。
528 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 23:35:38.38
今調べてみたら、佐賀と熊本からも出ているようです。
九州以外何も考えないで、ずっとパズルしとけばいい。
530 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 23:41:19.76
九州以外を考える必要性も根拠もありませんので。
531 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 23:54:20.70
妄想捗ってないじゃん
じゃんじゃん妄想しろよ
>>526,528
畿内の風習が伝わって以降の時代だろ?
534 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 05:26:59.87
>>533 畿内というより関東、東北中心の風習のようですね。
卜骨が畿内の風習だとは誰も言ってません
壱岐対馬に濃厚で半島南部にもあるのに九州本島にみられないということ
本州には多いこと
そして九州に出るのは畿内のその他の風習が伝播する以降であること
以上から、九州でわずかに出た卜骨は畿内からの移住者が持ち込んだ占い習俗のの痕跡であると推定できるという話
536 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 10:29:36.35
>>515 倭人伝に卜骨の記載はないし、へ〜そういう文化が
機内であったんだなぁ、という感じ。
537 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 10:33:16.33
>>535 九州でも、畿内の痕跡はありますよ。
ただ、九州固有の痕跡もどっさりありますので、
一部に畿内やそれ以外から移住してきた人が
いたということでしょう。
538 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 10:36:22.96
卜骨は畿内でも、大阪府と奈良県で2ヶ所づつの
計4ヶ所程度のようです。
あまり流行ったともいえないかも。
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。
「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。
天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。
水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。
道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。
陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。
以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。
誰か荒らしを持って帰ってくれ
>>536みたいに、倭人伝を読んだことのない九州説人間って、どういう理由で九州説になったの?
ひとが九州説になる理由は、不勉強。
それ以外はない。
九州説はパズル感覚でできるゲームみたいなもんだからでしょ
畿内説は学問の世界になってしまい難解な用語が出てきて理解できないから
そりゃそうだ
畿内説は最初から難解だし
南を東と間違えた!
なぜかというと・・・
あとはただひたすら誤魔化すだけ
いやいや東を南と間違えただw
畿内説は
行程パズルすら出来ない説
546 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 16:44:09.55
負け惜しみとかカッコ悪ぅw
史実から掘り下げてる畿内説には勝てないから!
「顔が赤い」で止まってるココと
「原料は丹だな」「徳島が産地の交易品だな」この掘り下げ具合で雲泥の差だからw
547 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 16:49:14.24
よかったな!
548 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 17:02:18.99
朱、丹の出土地点数
弥生時代
福岡県 丹 23件、朱 3件、計26件
奈良県 丹 0件、朱 2件、計2件
弥生時代は、畿内では丹の交易は
ほとんどやってなさそうです。
古墳時代になるとだいぶ増えるけどね。
畿内説の言うこととアンチのでは、学術論文と酔客の愚痴くらい差がある
断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想。
畿内説は魏志倭人伝の記述を完全に無視して成り立っている文字通り
机上の空論ですからね。
553 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 18:18:43.90
まいどトンチンカンな悪口しか言えない東遷説のレベルが低すぎる件について
博多から、御笠川と豊満川を乗り継いで久留米に行けることが分かった以上、
これからは九州南部説がスタンダードになるな。
555 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 18:30:54.15
九州説論者には2つのタイプがいる
1つはオレ様は学者よりも優れてると自惚れてるタイプ
もう1つは倭人伝を読んだイメージだけで九州と決めつけてる知識の乏しいタイプ
556 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 18:40:59.88
畿内説論者には2つのタイプがいる。
1つは、畿内は有り得ないのはわかっているが、関係のない資料を散りばめて
誤誘導する確信犯
もう1つはなにも読んですらいない知識の乏しいタイプ
コピペ荒らししか出来ないようでは話にならんわw
畿内説はもう確定だから敗者には優しくするんじゃなかったのかww
勝者の余裕はどこへ行ったww
ふと疑問に思ったんだけど、江戸以前の歴史書では邪馬台国はどういう扱いだったんだろうか
瑞渓周鳳が大和説に疑問を持ったのは知ってるけど
3つ目のタイプの畿内説曲解論者は
もう無駄な抵抗は止めておけ
>>560 では。曲解しないように、畿内説を三行でどうぞ。
>>559 江戸時代以前の認識では普通に大和ですよ。
高天原は葛城山、鴨氏の出身地とされてたし。
それに異議を出した事から邪馬台国問題が今に至る。
魏志倭人伝を読むと、九州以外考えられないけどね。
畿内説のほうは毎年考古資料が拡充されて、論が補強されていくのに
九州説は行程パズルしかやることがないのがなあ
確かに伊都は九州以外に考えられないな。
>>583 考えられないのは、古い固定観念にがんじがらめに縛られているから
畿内説は数字も読めないのかな
という理由は?
九州説しか読めない神代数字=陸行1日500m。
>>569 陸行1日500mは抱腹噴茶したわww
弥生時代の人は引きこもりかよww
亀でも半日あれば500m位移動するよ。
572 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 23:29:31.30
陸行一月は常識的に考えて陸行一日の誤記だろう
九州説だろうが畿内説だろうが陸行一月じゃあ飛び出してしまう
陸行一月だと亀かナメクジレベルの歩行。
573 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 23:40:12.19
水行30日だけでも九州は飛び越える
574 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 23:43:22.22
水行30日は帯方郡から倭へだな。
使者だって測量しながら歩いたわけではないだろう。
師行1日30里を前提に
例えば伊都国→奴国間は「3日くらいかかったから100里」と決めたのではないだろうか。
そう考えると陸行一月は1000里程度。帯方郡から女王国まで12000余里という記述にも合う。
576 :
靖国参拝、皇族、国旗国歌、神社神道を異常に嫌うカルト:2015/02/03(火) 01:18:17.96
★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法
偏った思想や考え方に染まっていたり、常識が通じない人間は、頭が悪いフリをしているカルト工作員の可能性が高い
10人に一人はカルトか外国人
「ガスライティング」で検索を!
.....
>そう考えると陸行一月は1000里程度。帯方郡から女王国まで12000余里という記述にも合う。
意味がわからん
578 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 05:16:29.23
九州説のパズルはズル
朝鮮半島から対馬までが千里。
対馬から壱岐までも千里。
壱岐から唐津までも千里。
計算できるだろ。だいたい一里が80mだ。
倭人伝の記述と実際の距離比較したら
視認性がある島間の距離が出てるんだからそこが基準になるのは当たり前だよな
581 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 09:58:42.45
九州説って雑だね
畿内説の距離感はもっと雑だね。
九州神代移動距離=陸行1日500m
584 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 12:01:46.11
>>582 畿内説のこと、何も知らないでオウム返しに言い返したろ?
まるで365歩のマーチのような行進を繰り返し、
熊本辺りについたのだろう。
水前寺清子は卑弥呼の末裔だなw
588 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 12:55:11.35
記述された距離と実際の距離が合わない=記述された距離は当てになら無いと考えるのが普通だろう
589 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 12:59:57.64
>>587 匍匐前進にも種類あるからな
芋虫みたいなの第4だっけ?
あれなら一日500メーターくらいだろ
590 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 13:08:21.61
帯方郡から松浦までの位置と距離から、中国で普通に使われた里の、
5倍程度過大な数値であることは容易に確認できる。
これから考えられることは、中国の里の1/5程度の
東夷で用いられていた、いわゆる短里が存在したか、
使者の報告や編纂時に5倍過大に記述した可能性がある。
倭人伝の里と日数を1/5すると、実際の地勢に一致し、
方向を修正する必要がない。
また、最後の万二千余里とも辻褄が合うようになっており、
倭人伝の記録の他の数値とも、矛盾が無い。
つまり距離に関係する数値を1/5するだけで、
他は一切修正する必要がない。
九州説は590みたいな主張を永遠に続けてればいい
世間から取り残されて行くだけだから
>>589 やめろ。魏使と倭人が荷物を引きずりながら芋虫行動してるとこ
想像してしまったやないかwww
593 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 15:25:46.68
>>588 陸行一月を陸行一日の誤記だとすると
記述された距離と実際の距離、その他の記事内容もピタリと合う
陸行一月を陸行一日の誤記と考えるのが普通だろう
>>588 南を東に変えるような畿内バカより遥かに信憑性が高いな
>>594 そもそも畿内説に信憑性なんかないだろうww
596 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 17:06:25.53
今の状況って九州説は真綿で首を絞められてるようなもんだろ
かつて九州説を唱えてた学者たちはみんな逃げ去って、残るはド素人の頑固ジジイのみ
一方、畿内説は着々と証拠固めを進めている
考古学とか科学の世界は九州ジジイには興味もない分野だから
自分たちが知らないうちに邪馬台国は畿内で確定ってなるかもしれんな
597 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 17:54:51.34
594とか595みたいに罵るだけのレスをするやつの頭の中を見てみたいわ
負け犬が吠えてるだけにしか見えない
畿内説の証拠って何かある?
九州説ってまだあったの?
本当に何も無いのによくやるよw
600 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 18:38:30.01
九州説は最早カルト宗教、国体を破壊しかねない危険思想。
国体を守るためには畿内でないといけない。
魏志倭人伝の記述なんかどうでもいい。
603 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 19:14:42.65
嘘も言い続ければ真実になる
九州説はあきらめるべきではない
>>598 畿内説の証拠=「でっかい遺跡があったよ!」 以上
606 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 19:24:52.17
馬鹿九爺がいかに畿内説を知らないか、また証拠でました
畿内説だろうと九州説だろうと
邪馬台国と畿内のヤマト王権の成立は
関連させて考えていかなければならないのはたしか
ただし、東遷はありえないからな
博多から久留米まで川で行けることが判明した以上、魏志倭人伝に書かれている行程は
方向も正しかったということで、九州で決まりだろうな。
ところでマスコミの報道を見ていると、畿内説ばかり
持ち上げられている気がするんだけど、
現実問題として今のところどちらが優勢なの?
610 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 19:56:12.74
>>608 御笠川と宝満川が繋がっていた可能性もないわけじゃないだろうが、
どちらかというと両川の間にある太宰府が伊都国だった方が妥当なように思う。
九州上陸地点から太宰府まで陸行し(御笠川を登るのは遅いので歩いた)、
太宰府で検閲を受け、それから御笠川を下るなり、宝満川を下るなりする方が
自然に思える。
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。
「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。
天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。
水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。
道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。
陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。
以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。
荒らしばっかり
>>609 学術的には畿内説で決まり
遺跡の発見やここ数十年で飛躍的に進歩した科学的調査の結果、
九州説を唱えてた学者たちはもう無理と自覚して白旗を掲げて消えていった
その結果、現在では畿内説の学者しか残ってない
一方アマチュアの間では九州説を支持する人が年配層を中心に根強く残ってる
専門的な知識に乏しく畿内説の根拠を理解できないため、とっくに勝負がついていることを認識できないでいるのが原因
だから2ちゃんなど一般人がほとんどの掲示板では九州説を主張してる人が依然として残っているという状態
九州のマスコミは九州説とか主張していないのですか。
自分、関西の人間だからか知らんけど、畿内説ばかりクローズアップされてる気が・・・。
そりゃ概ね確定だからね
616 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 21:59:21.67
九州大学も畿内説だしね
>>613 >学術的には畿内説で決まり
それ勘違いだからw
じゃあ聞くけど学術的に卑弥呼は誰?
神功皇后か?
618 :
ローガン:2015/02/03(火) 23:10:35.50
>>614 マスコミとしての、読者を惹き付けるキャッチーなのが、
邪馬台国 古市百舌鳥の巨大古墳 聖徳太子法隆寺 聖武東大寺
なんじゃないかな?
朝日新聞の誤報がこれだけ問題になってるのに
九州のマスコミが地元を贔屓したいがために捏造報道なんてしたら取り返しがつかなくなるでしょ
卑弥呼は卑弥呼なのが定説
>>617 いかに歴史学というものを解ってない人間が九州説であるか、という好例
>>621 わろたw
おつむダイジョウブ?
卑弥呼がどこにもいない畿内説wwwwwww
九州説ってダメダメだね
3世紀の史実が記紀にバッチリ書かれていると信じて疑わない爺さん連中に、学問としての歴史は無理だよ
九州のマスコミが九州の遺跡を紹介するとしたら
邪馬台国の候補地として一部のマニアの間で広まっている○○遺跡が・・・とか
かつては邪馬台国の候補地として名前も挙がったことのある○○遺跡が・・・とか
>>623 つまり
記紀は信用できないってのが畿内説ねw
だったら纒向遺跡はなぜ記紀の通りにあるの?
意味不明
記紀の通りにあるって、どういうこと?
627 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 02:38:15.96
九州爺(くずじじ)の言うことには無いさ
意味も論拠も真実も
628 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 02:56:15.93
倭人伝を信じるより
邪馬台国の人間、邪馬台国出身と思われる人達に聞いたほうが
早いみたいだよ
九州老人の脳は腐ってるな
>>625 >だったら纒向遺跡はなぜ記紀の通りにあるの?
記紀のどこにそんなこと書いてあるんだよ
九州説人間たちの脳内で起こる不思議な現象は
決して一般の第三者には見えない
菊地 キクチ 和名抄に肥後国菊池郡を久久知と註す。
菊地、木口もククチの転訛なり。
肥後及び摂津国河辺郡久々智は阿部族の久々智族居住地なり。
姓氏録・摂津条に「久々智、阿部朝臣同祖」と見ゆ。アベ条参照。
阿部、安部族の居住地である奥州に多く存す。
一 下野国の菊地氏 大ノ国(後の百済)の集団にて、阿部族の祖・大彦命に率いられて渡来す。
古代氏族系譜集成に「大彦命―武渟川別命―意布比命―大臣命(那須国造)」。
同書に「大彦命の弟・開化天皇の後裔、武内宿祢―木角宿根(紀臣)・・・紀角十世之孫船守(延暦十一年死)―勝長―興道―本道―下野大夫清主(下野国紀党祖)―紀検校朝氏―益子紀二郎朝忠、弟芳賀小太郎長有」と見ゆ。
子孫は紀姓を称す。
また、同書に「百済明王(五五四年被害死)・・・鬼室福信(斉明六年紀に有り)・・・藤原朝臣政則―則隆(延久三年菊地郡司と為す。肥後菊池氏祖)」と。
那須郡菊池氏系図に「大職冠鎌足公の後裔、菊池太郎則隆(肥後国菊池郡領)―高直―時隆―武則―武重―武光―武政―武泰(肥後国菊池郡平田館を退去して、下野宇都宮右馬頭持綱に従ひ、壬生館に住す、都賀郡の内、千三百貫文を賜る。
時に応永三十年・持綱自害す)」と見ゆ。
是等は在名の菊池氏にて、苗字にあらず。
当国の菊池・菊地氏は古代以来の居住者なり。
金 コン 韓半島南部の慶尚南道金海にあった金官国は西暦四二年に金首露が開祖となり、五三二年に金仇亥王が新羅に来降して金官国は滅亡す。
新羅国王も金氏である。
是等の地方より紀元前に渡来した新羅族の金一族は奥州に多く土着し、安部氏配下となり安部氏後裔と称す。
金、近、今、昆、紺、今野、近野、昆野、紺野、近藤等の佳字を用いる。野は助詞なり。
アベ、アラハバキ、キン、木村条参照。
各市町村に存す。
宮城県登米郡石越町二十八戸、岩手県東磐井郡千厩町十三戸、大東町三十五戸あり。
金野条参照。
一 物部族金氏 児玉党の祖有道宿祢は「物部豊日乃連(大部造)―船瀬足尼(久慈国造)の後裔、金乃造―真塩乃造―磐麿乃造(大部造、居常陸国筑波郡)の後裔、長道(大部を改め、有道宿祢姓を賜ふ)」とあり。
金乃造は常陸国の金氏族の管掌者で金氏であり、大ノ国(韓半島南部)の渡来集団大部族の首領である。
金氏族有道氏は武蔵国児玉郡へ移住す。
児玉郡塩谷村西光院境内に金王(こんのう)神社あり。
是を将軍頼朝の臣で豊島郡渋谷村の渋谷金王丸の墓と伝承しているが附会なり。
金王は金ノ神社であり金氏族の氏神である。塩谷条参照。
今 コン 金の佳字なり。安部氏配下の新羅族にて陸奥国(津軽)に多く存す。
・・イマ、今野条参照。
昆 コン 金の佳字なり。各市町村に存す。
・・昆野条参照。
近 コン 金の佳字なり。各市町村に存す。
・・近野、近藤条参照。
紺 コン 金の佳字なり。
上尾、北本、所沢等に存す。
紺野条参照。
コ
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html
>>634追加。
近藤 コンドウ 金藤の佳字なり。
新羅族にて安部氏配下となり、安部氏の本拠地である越後国、磐城国等に多く存す。
コン条参照。
>>630 古事記
イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木の水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
崇神天皇は3〜4世紀にかけてヤマト王権最初の大王として君臨
その前までは王権とは呼べない
>>626 日本書紀
垂仁天皇
>冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。
景行天皇
>冬十一月庚辰朔、乘輿自美濃還。則更都於纏向、是謂日代宮。
この辺りが時代的にぴったりだね
纒向は記紀によればヤマト王権の都があった場所
纒向遺跡は記紀と一致
垂仁天皇の皇居があった場所
都は纒向珠城宮(日本書紀)
都は師木玉垣宮(古事記)
崇神天皇の師木水垣宮は纒向水垣宮になる
>>626-631 崇神、垂仁、景行天皇の3代の皇居があった場所が記紀によれば「纒向」なwww
畿内説キチの阿鼻叫喚が聞こえる…
九州説工作員がシナチョンで、日本の地理や、
記紀をマトモに知らないのがよく判るなw
九州説では、纏向遺跡の存在は記紀の記述と一致していると思っているんだな
ずいぶん粗雑な読み方をしてるんだね
>>607 よく、記紀を否定する人は、天皇の血統を正当化するために書き換えたと言ってるけど、正当化するなら大和を高天原にしているはず。
東遷し、大和にいた先住民を侵略したと書いてあるのは、そういう史実があったからでは?
そもそも、古事記を書くきっかけは、天武天皇が歴史を書き換えた偽書が出回り、何が真実かわからなくなるから、真実を記録する
ために作ったらしい。
願望で歴史は語れない
>>640,641
可哀想に
反論できないようだなw
安東 アンドウ 安藤に同じにて、安部族の発祥地である安羅国渡来人なり。
陸奥国津軽郡安東浦、駿河国安倍郡安東荘は此の一族の渡来地である。
岩手県東磐井郡東山町十六戸、鳥取県八頭郡用瀬町十八戸あり。
多くは安藤氏を名乗る。
一 安倍族安東氏 東日流(つがる)の古代荒脛族なり。
安倍伝記に¬長髄彦の兄安日は神武天皇の時追放せられ、津軽に住し、外浜安東浦を領す。
斉明天皇御宇に蝦夷乱る、阿倍臣比羅夫を将軍として差向けらる、此時安日が末葉に安東と云ふものあり云々。
又、安東太郎頼良・後に安倍頼時と改む」と。
東日流武門遺系譜に¬安東氏族累系、安倍氏・阿部氏・成田氏・秋元氏」と見ゆ。
青森県の大姓である成田氏等も此の族なり。
阿部条参照。
ア
http://homepage1.nifty.com/joichi/1-1a.html
646 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 14:02:28.37
>>644 あんたのおつむの程度がよく判るね。叩いたらカランカランと音がしそうだね。
反論できないのではなくて、あんたのことは無視されているんだよ。歴史の真実
は論争で言い負かしたかどうかで決まるわけではない。実際の歴史上の事実がど
う動いたか、より近く肉迫した者が勝利する。邪馬台国は魏志倭人伝に書いてあ
る国で、記紀に書いてあるわけではない。その倭人伝の記事では中国との近さか
ら推測しても70%以上の確立で九州に有ったと考えられる。近畿に有ったと言
う人は30%の少数派だ。巻向の発掘主任の橋本輝彦氏でもまだ畿内に邪馬台国
が有ったとは言明していない。本人は畿内説だと言っているが学問的な証明がま
だ不可能なのだそうだ。あんたの畿内説のこれが実態だよ。キタナイ説君。
必死だね
無内容で文字数だけが多い
649 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 15:45:24.18
>>647 648
そうそう、必死だねー。キタナイ説も、あんたたちもねー。
この低レベルな言い返しが
東遷説の惨状を如実に物語っている
埼玉苗字辞典てなんだよw
朝鮮人の妄想はすさまじいな
平成版檀君神話みたいなもんか
東遷説は朝鮮人確定だな
しかも爺かどうかもあやしいもんだ
民団か総連の仕事でやってんじゃねえのか?ww
それはないか、あまりに低脳だもんなw
おい、東遷説
いつものコピペ貼る仕事しろよw
654 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 17:58:33.09
楽しそうだな
おい、東遷説
窮したらダンマリか?芸がないぞ、ひっこめー
656 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 18:07:27.39
お前ら、その当人のコテも知らんのかい。テイノーな荒らしだのー。のうキタナイ説。
しるか、バーカw
東遷説の第二人格だろ
東遷厨の独り芸がむなしく響くだけの夕暮れ
↑これも東遷説ですw
660 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 18:36:53.99
九州説の着地点て何処なの?
ヤマタイ国が九州の小さな国の事でしたで終わるの?
その小国が日本を支配下においてる妄想も付け足すの?
>>660 魏志倭人伝読めば?
邪馬台国の東の海の向こうに倭種が住んでる諸国があるが、女王の支配下にはないぞ。
ルールル、ルーー
>>651 埼玉苗字辞典だけに、編集者は
埼玉県人だろう。
もう、お前ら・・
ネットでルーツ調べ出来ねーな・・
何処も、埼玉苗字辞典な感じ
666 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 19:24:47.76
石破も新羅人だってな
チョン州の侵食は留まる所を知らない下痢うんこの如し
考古資料を活用する事によって
当時の列島の政治史を大まかにでも描くことができるようになった以上
魏志倭人伝の資料としての価値は相対的に低くなったと言わざるを得ない
魏志倭人伝の記述内容の解釈論争に時間を割くのではなく
考古資料によって得られた知見を主として
それらを魏志倭人伝の記述内容で肉付けし、補ってゆくのが
当時の列島の歴史を復元する上で適当な方法と言えるのではないだろうか
嘘も言い続ければ真実になる
九州説はあきらめるべきではない
それは九州説の人には認められない話しだろうな
九州から出た遺跡ならともかく
そうでないなら、魏志倭人伝だけが全ての世界だ
学校教育で九州説を教えるべき
671 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 19:56:43.84
>>667 考古資料を活用することによってーーー?。考古資料はまったくものを言わな
稲。その資料をどう解釈するかは学者達の価値観によるが、今の学会のように
最初から近畿説に凝り固まった学者が見れば近畿説型の解釈をすることになる
罠。それで考古資料の公正な評価ができているとおもう会。
672 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 19:58:26.32
もう面倒臭いから邪馬台国の看板立てちょうのがよかばい!
慰安婦像の真似するでごわす
魏志倭人伝も解釈してんじゃね
そのまま読んだら南方の海の上だろ
九州説はキチガイなんか
>>671 倭人伝を解釈することによってーーー?。倭人伝はまったくものを言わな
稲。その史料をどう解釈するかは読者達の価値観によるが、今の九州説のように
最初から九州説に凝り固まった素人が見れば九州説型の解釈をすることになる
罠。それで文献史料の公正な評価ができているとおもう会。
倭人伝は真理。疑うのは邪教徒。
つまり、九州論者は食わず嫌いをせずに
きちんと考古学を方法論のレベルから学んで
現在の畿内説に傾いている考古学会を打破し
考古学的見地に基づいた九州邪馬台国論を掲げるべきだということだね
頑張って欲しい
蝋人形確定だな
そういや、鷲崎さんとか考古学会で
発表してたな。
考古資料を恣意的に解釈して袋叩きにあった九州説の学者もどきがいたな
ただの素人老人ですが何か?
素人泥棒みたいなかんじか?
・箸墓の周濠から5世紀の馬具が出土
・ホケノ山に槨
・纏向には楼観がない
・纏向からは九州の土器がほとんど出ない
考古学の成果は畿内説を否定してるようにしか見えない
見えないのは、考古学を知らないから
685 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 22:02:40.96
鷲崎さんの発表は審査付きだから、
考古学会は否定はしてないということやね。
倭人伝を否定する悪魔よ、去れ
>>685 学会は内容を否定して意見を封殺したりしないよ
出典不明情報なんかはよくチェックが入るけど
結局なんだったんだ?、埼玉厨って
ずいぶんイキってたみたいだけど
論文として世に出ることと、それが相手にされるかどうか(引用されるか)は別の問題なんですけど
発表したあと否定される
否定のしかた
(ボコボコにされるか、鼻でせせら笑われるか)は内容による
691 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 22:34:12.37
論文の審査では、新規性と、根拠資料の関連性が
妥当かどうかはチェックされるな。
>>663 安東とか
なんで日本人風の名字なの?
半島を倭人が支配してた証拠じゃないのか?
それ中国風だし
694 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 22:44:27.73
>>674 ものまね鹿できん会。ア○ウ。そんなオリジナリティーの無いア○ウだから
畿タ内説を信じるんだろうな。あーキタナイ、くさい、くさい。
安東金氏の安東が名字だと思ってる馬鹿発見
近江源氏の近江が姓と思うが如し
日本に安東金氏がいるという証拠プリーズ
>>699 ヒント
倭王とされる「安東将軍」で、ググる・・
やすとうがねさん(千葉県)を訪ねる
キチガイの戯言を真に受けたらあかん
九州説はずっと畿内説に論破されて恥かいてきたけど
そのおかげで昔と比べたら作り話が上手くなってるよね
その才能を生かして、ラノベ作家にでもなったらいい
でなきゃ残された道は詐欺師だけだぞ
上手くってか・・・・
ぜったいに事実確認できないような主張をするようになっていきたね
安東氏って有名だろ?
女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国→不弥国
↓ ↓水行
↓ ↓水行
↓ 投馬国
↓ ↓水行
狗奴国 ↓陸行
女王国(海)→四国
(海)
九州説のダメダメさが実によくわかる
まず九州より始めよ
最近は、パズルと漢字の語呂合わせは厭きたの?
711 :
日本@名無史さん:2015/02/06(金) 19:51:23.90
>>710 最近はもっぱら他説批判だけ
批判するだけだから、パズルや語呂合わせより楽なんだろ
もう歳だしな
パズルのほうがボケ防止にはいいと思うけどな
で相変わらずの荒らしと
奈良は内陸でアワビが採れないから邪馬台国ではないと、本気で連呼していた脳がタケヤ製の男のことを、何故かしみじみと思い出す凍てつく夜更け
716 :
日本@名無史さん:2015/02/06(金) 20:46:34.40
たにしか
たしかに
東遷説は素性も知らないブロガーだけが心の拠り所か
そして東遷説は素性も知れないキヌガーテツガー
東遷説 F
722 :
日本@名無史さん:2015/02/06(金) 22:39:16.88
奈良は内陸でアワビが採れないのは事実だろうな。
アワビが採れるというバカがいたのか?
邪馬台国で採れるとはかかれていない件
724 :
日本@名無史さん:2015/02/06(金) 23:29:48.03
くぢらとかとれるやろ
東遷厨のオカンの汚いアワビなら内陸でも採れるし
アワビマンと紫ババアは九州説のツートップだったな
ボトムやろ
>>722 アワビマンがまだ自分の間違いに気付いていないのに驚嘆
730 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 18:05:01.83
>>729 じゃあ、お前、奈良でアワビを獲って証明してみせろよ。ドア○ウ。畿内説の
ア○ウで九州では丹が採れないというマ○ケがいるが、それと同じになるなよ。
邪馬台国でアワビが取れればいいのであって、奈良で取れる必要はない
732 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 18:50:55.99
あわびマンってそんな基本的な事も思い至らないで騒いでたのか
てっきりもっと高度な意味で邪馬台国で採れないって言ってるのかと思ってた
小学生でも気付きそうな話しだけど
知能は幼稚園児並か
733 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 18:56:34.01
妄想が足りないぞ妄想族
さっさと妄想しろ
>>731 それなら、奈良でアワビが取れないという
話に賛同と見て良いですか?
735 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 19:45:40.13
だから九州で丹が採れないというア○ウが畿内説にいるが、同じ穴のむじな
だと言っているだろう。テイノーな奴だな。
>>734 逆に聞くけど、何で奈良でアワビが取れると思ってるの?
奈良県に海がないことぐらい小学生でも知ってる話だけど・・・。
>>736 いや、私は奈良ではアワビは
取れないという立ち位置ですが?
あなたも奈良ではアワビはとれないという
ニュアンスのようですね。
過去にそれに反論した人がいましたので
批判するなら、その反論した方では
ないでしょうかね。
奈良に海がなくアワビも魚も取れないから邪馬台国ではないって、
そんな低レベルな議論をしている奴がまだいるのかと逆に聞きたい。
>>738 少なくともアワビや漁の記事は、
奈良の風景では無いでしょうね。
どこか別の地域を比定する必要が
ありますね。
鮑や文身の記述は、明らかに邪馬台国の話だよ。
伊都国を中心とした周辺国と解釈するのが妥当
行程も周辺諸国との位置関係も、そして気候や習俗も、何もかもが、
邪馬台国は九州南東部であることを示している。
◆FAQ
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題なし
郡使は伊都国で駐しているので、九州のことがよく観察されているのは当然
744 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 21:52:49.58
九州のことばかり書かれているというか、
畿内の事が書かれていないというか
>>741 どう読んでも、違うだろ。
末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。
鮑や刺青の話は、上記とは全然別の場所、邪馬台国に到達してからの部分に
記述されてるし、内容も違うからね。
>>745 倭国の風俗を観察した郡使たちは伊都国に駐在してて邪馬台国には行ってないと解釈すべき
だから邪馬台国までの行程は日数表記になってる
倭人からの伝聞である
邪馬台国まで行ったのは倭人伝後半に記述されている2人だけ
邪馬台国での様子が後半に別途書かれているのはそのため
747 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:15:44.75
魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝だと勘違いしてる初心者は九州説に多いよな
倭人伝に書かれていることは全部邪馬台国のことだと思い込んでる
小学校の授業で邪馬台国のことが魏志倭人伝に書かれてますって習ったから
魏志倭人伝イコール邪馬台国って先入観が出来上がってるんだろう
748 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:18:45.19
>>743 これが一番の馬鹿だよな
それまで当時の国が現代の市町村レベルで出てくるのに
数だけで言えば福岡県でも収まるくらいだ
倭国は畿内と北部九州の飛び地で出来ていたんですかね
それとも本州側は県レベルに拡大するんですかね
無理やり理由を考えてみたけどアホらしくなってきた
印を授けた時は邪馬台国に行ってるね。倭人に印を預けないよ。
何年も九州にいた政かな。
政は、台与が魏に送り返していることから見ても、邪馬台国に行ってる。
だいたい邪馬台国の都は陸行1月なんだから内陸にあると解釈すべき
沿岸の記述が邪馬台国の都のはずがない
751 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:28:25.78
邪馬台国に幻想を持ちすぎ
邪馬台国は女酋長擁する北部九州の土蜘蛛になった
畿内はどんどん勢力を拡大して大和朝廷になった
じゃいかんのか
752 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:28:26.71
>>748 伊都国や奴国が九州の国だから邪馬台国も九州であろうという初心者丸出しの考え方ですね
風俗の記述は、下記(ア)と(イ)に挟まれてるんだぜ。
(ア)南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
(イ)その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、
乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。
754 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:42:49.17
>>752 そういうのはいいから
ちゃんと納得のいく理由を言いなさいよ
こっちが戯れにも考えてるのにそれすらも出来ないほど頭が空っぽなの?
>>754 根拠もなく先入観だけで断言する初心者と議論するつもりはないんで
1人で吠えてればいいよ
756 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:48:35.69
>>755 議論はいいからあーなるほどと思わせるヒトコトも出ないのか
なんか哀れだな
757 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 22:55:44.24
>>755 >根拠もなく先入観だけで断言する
これあなたのことじゃないの?
どこぞの専門家さんか知らんが
>>748 収まるのなら痕跡を出さないと話にならん。
759 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:24:04.37
平均ので3500戸の國が20ヶまとめて〆てからに七萬戸だろ
760 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:26:30.23
761 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:30:20.38
九州で1000戸の集落すら見つかってないのにねw
763 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:36:22.89
300戸×12集落程度の国なら、いっぱいありそう。
女七人寄れば七萬戸
ありそう、それが九州説の限界。
無い物ねだりにすぎないよ。
766 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:46:48.39
20ヶまとめて〆てからに七萬戸で
どこでも邪馬壹騙ってもいいんだから
熊本あたりまで含めて〆ても良いのだよ
楽勝だな
767 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:46:58.48
>>765 戸数は不明だが、集落数は、
佐賀市大和町だけで6集落。
神埼市、吉野ケ里町だけで8集落、
確認されているからね。
奈良ですら大規模集落は見つかっていないけどね
そもそもこの戸数って誇張だろ。
魏略では伊都国は1万戸とあるのに、魏志では1000戸。
どちらかが書き間違えてるのかね。
案外、邪馬台国も7万戸じゃなく7000戸なのかも
14集落か、余裕みて20集落、平均500戸程度で計算してみろよ。
奴国でも埋まらないから。
ここは伊都の10000戸だな。
773 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 01:09:06.35
魏略ではなくって
魏略をメモった落書きだろ
両隣の国と100里しか離れていない奴国に2万戸あったんだよね。
1里が約80mだから、東西16kmに過ぎない国に2万戸。
この比率で考えると、今の県くらいの広さの国なら楽に7万戸を超える。
比率w
遺跡をまず探してからじゃないと話にならん。
聖徳太子の時代の日本の人口が500万人という記録があり
専門家による奈良時代の人口推定でも450万人〜550万人で、九州だけだと55万〜70万人の推定ってなってる
そしてその後100年ごとに10数%ずつ増加したと推定してる
一方、倭人伝に戸数が記載されてる国だけでも約15万戸で、1戸当たりの5人として約75万人
↓
3世紀の九州の人口は55万〜70万人よりもっと少ない
文化が違う南九州を除くと人口はさらに少ない
倭人伝に戸数が載ってない国を含めると倭国の人口はもっと多い
↓
倭国を九州だけに限定するのは天と地がひっくり返っても無理
777 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 07:13:54.91
邪馬台国は四国
九州に居た神武統は東遷して居りこれが邪馬台国を征服した
漢籍に倭国(≒邪馬台国)の存在が最も古い記述として存在している事から
明治政府が万世一系の政治スローガンを広める為に浅薄かにも物証の有る邪馬台国を神武統の起源であるかの如く位置付けてみたが
年表を作ってみると神武の方が先史代だったりと滅茶苦茶になり中韓の学者から実在自体まで纏めて否定される体たらくになっているw
778 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 07:42:03.46
>>777 邪馬台国は四国っていうのは妄想だろうけどさあw
万世一系っていう政治スローガンていうのは確かかもな。
明治政府がさあ偽書扱いした先代旧事本紀っていう本があるんだけど
江戸時代までは記紀よりこちらの方を重要視してたんだよな。
では何故偽書扱いにしたのかは、この本「本紀」がいっぱいあるんだよ。
本紀っていうのは王朝の記録の事だろ、この本天皇紀以外に9個も本紀があるんだよ。
万世一系の立場からは放置できんわなw
まあ記紀読めば分るが反乱反乱のオンパレードだろ、とてもじゃないが万世一系
では無いよな、だが9つもの王朝系統があったのかと言うのもアレだしなw
779 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 08:55:16.07
なんだ
また戸数の話か
海が陸になるなど古代から現在まで大幅に地形が変わった所を別にして
現在の都市の下にあるに決まってるじゃないか
だいたい日本で7万戸の遺跡が現に出てきたところなど無いだろう
推測するだけだ
それはいいとして国の数にいい言い訳は考えついたかな?
フランスとイタリアの例から考えてみたが今ひとつだな
何言ってるのか解読不明だぞw
九州説が願望からできているという話だろ
>>778 多田義俊は明治政府の手先だったらしいw
783 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 12:59:53.11
大和壹国は古事記から予想出来るのは四国淡路島
チョン州テロリストの時代に兵庫県に入れられたが
淡路島は元々徳島県阿波の国に属す領土
伊弉諾が最初に造った国が淡路島
784 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 13:02:33.23
狭い奴国でも2万戸。戸って、ほとんど人数のことだろ。
ビックカ○ラ札幌店の佐藤伸弦が暴行事件を起こしていた
>>784 その場合、普通は広い国だと解釈するのだがw
奴国は東西15キロしかないけどね。
脳内奴国か。意味不明だわww
東遷アワビマンがまだ自分の間違いに気付いてないのに驚愕
帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり
九州に文字が確認されてないとかw
九州説スレを荒らす馬鹿九州爺
793 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 16:57:19.74
どうしたお前ら!!
妄想が減速してるぞ!
気合い入れて妄想せんかい!!
794 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 17:26:05.93
妄想も経年劣化すんじゃね?
よる年波には勝てんって感じで
だからやたら最近は妄想してもコピペ改変だし
795 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 18:34:39.38
で、南への水行の起点となった不弥国はどこ?
798 :
日本@名無史さん:2015/02/08(日) 21:55:26.65
799 :
漢文天文地球物理に長けた爺 ◆tr.t4dJfuU :2015/02/08(日) 22:11:54.75
帯方郡(徳積島)
↓↓循海岸水行七千里
↓狗邪韓国(巨済島)
↓↓東渡海千里
A對海國循海岸水行八百里
↓↓南渡海千里
↓一支國循海岸水行六百里
↓↓南渡海千里
末盧國(唐津南部)
↓↓東南陸行五百里
↓伊都國(佐賀市大和町)→→東南百里→→奴國(女王國)佐賀平野
B↓東陸行百里
↓不彌國(吉野ヶ里)(女王國)→→南接→→投馬國(女王國)有明海沿岸筑後平野
↓↓南接
邪馬壹國(女王國) 筑後平野内陸部と北野地域
A:水行十日(万千四百餘里)
B:陸行一月(千餘里)
帯方郡〜末盧國〜不彌國(万千四百餘里+六百里=万二千餘里)
基本的に画像リンクさせてくるやつは見ない方がいい。
画像リンクしてくるやつは荒らしと一緒。
というか画像でないと説明できないということはないのだから
基本的に放置で構わない。
1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。
まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
と言うのである。
ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm
九州から大陸には頻繁に渡っていたのに、目と鼻の先にある本州はほとんど未踏の地で
国名さえも知らないという非現実的な仮説を立ててる以上、九州説も非現実的な説だと言える
あまりにも恣意的に結論を導いていて、中立の目線で物事を考えることができないやつらなんだろうな
九州説の場合、天皇家はどうなるのかな
東に倭種有りと書いてあるから、
知ってるのは知ってたでしょう。
あまり、重要と思ってなかっただけで。
邪馬台国の南のことは書いてないので、邪馬台国の南に国はなかった=海だった。
>>806 魏志倭人伝以降に到来した朝鮮人という人と、魏志倭人伝当時あった国という人が
いるんじゃね?
旧唐書によると、倭と日本は種類が違い、小さな日本が大きな倭国を併わせた
というから、前者の可能性が高いと思うが。
風俗も全然違うしね。天皇が入墨して顔に朱を塗ってたとは思えん。
あんたに歴史は無理だ
811 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 13:13:21.76
>>810 へー、歴史学っていつから数学や物理学みたいにIQ120以上じゃないと理解できない
学問になったの? 歴史学なんてIQ100で十分な学問のはずだけどw
812 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 13:15:07.05
いや、考古学はIQ90でもOKだw
パズルはIQ80でもOK
考古学を全然わかってない九州説のやつらはIQ90以下だと自分で認めてしまったな
もとより自明であったことではあるが
817 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 18:01:50.25
>>809 神武天皇の部下である大久米命は顔面に刺青をしていたんだが
キュッキュッキュ オバカのキューシュー
820 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 20:42:35.46
>>819 キタナイ説のくさい野郎が何を喚いても無駄だ。あーくさい、くさい。
神武天皇の名前はカムヤマトイハレ彦
漢字にすると~倭伊波禮毘古
822 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 21:18:15.67
神武天皇は阿波国の生まれ
823 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 21:35:46.38
妄想が足りない妄想が足りない
なにしよっと!妄想ばせんかい!妄想ばせんようなヤツは九州男児じゃなかばい!
滅茶苦茶だな。イハレ彦は磐余だ。
それ日本書紀
~日本磐余彥
826 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 21:56:48.42
元々の名はワカミケヌか
天照大神は日本列島にいなかった。
>>627 それはそうだ
アマテラスは高天原にいた
芦原中国=日本列島に子や孫を送り込んで征服した天照大神。
朝鮮人だね。
キューシューキューシュー キュシュキュシュキューシュー
>>629 いやいや
まったく勘違いだよ
芦原中国=日本列島に子や孫を送り込んで征服した天照大神
それにあっさり負けた半島
劇弱で一度も勝ったことがないのが朝鮮だよ
832 :
日本@名無史さん:2015/02/10(火) 07:34:09.39
>>822 今日の産経新聞朝刊に「イワレヒコ」の由来が書いてあるよ。堂々の第一面だ。
よく読んで勉強しなさいや。宮崎県に大元の皇居が有ったんだな。阿波などと
言う人はアワテンボウだな。
四国は身の丈でも十分に魅力があるのに
変なところで突っ張ろうとするからな
末っ子気質なのかな