【忠義?】織田と徳川【腹黒?】 [転載禁止]©2ch.net

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73日本@名無史さん:2015/01/29(木) 23:12:55.72
>>66
確かに家康は秀吉には恩義はないよなぁ。
豊臣家に臣従したのも敗れて降った訳でなく、(形の上であったとしても)秀吉にと請われて臣従したわけだし。
後に関東移封で確かに大領土得たけど、前支配者の北条が善政敷いてたから治めにくかっただろうし。

秀頼滅ぼしたのも、家康があの手この手で臣従させようとしたのをすべて拒否して兵挙げたのが原因だし、
家康も豊臣家滅亡は自業自得だと思ってるだろうし、晩年の秀吉が亡き信長に対して感じた後ろめたさみたいなものは全くなかっただろう。
74日本@名無史さん:2015/01/29(木) 23:49:48.91
>>68
菊姫の生年は1558年説が有力ではあるけど1563年説があって
上杉に嫁いだのが1579年だから前者なら21歳で後者なら16歳。
ただ1563年生なのは柳営〜やいくつかの家譜に見られる松姫より
下の信玄女と間違えているのではという説もあり。
松姫が結婚しなかったのは勝頼や信盛が良縁をすすめても
断り続けたからと伝わっている。
75日本@名無史さん:2015/01/30(金) 03:09:08.04
>>62
>家康の松姫への執念は異常に感じるだけにね。

近くには見性院もいたというに完全に尼僧となっている松姫に
しつこく側室にと迫り迎えの籠を何回も行かせるとか確かにちと異常。
松姫だけに信玄らぶ以上に織田へのコンプが相当あったのかもなあ。
76日本@名無史さん:2015/01/30(金) 05:49:14.69
そんなことやるから池田輝政と大久保長安が手を組んで(ry
77日本@名無史さん:2015/01/30(金) 13:12:43.25
>>34>>42
>男と女では扱いが異なる

摩阿姫は公家と再婚して生まれた男子を離婚のときに前田家に連れ帰っているから
男子は男側に置いて出ると決まっていたわけでもない
また豊臣完子は女子であるにもかかわらず母親の江に伴われず父方の豊臣家に残されている

武田義信の娘円光院は武田家系図にその名が見えるのみで、父切腹後母が実家に帰された際に
父方母方のどちらが引き取ったのか、またその後どのような人生を送ったのか一切不明
森長可に娘がいたか?
北条氏直の娘は氏直が高野山へ流され間もなく没した特殊事情により督姫が徳川に連れ帰ったが
督姫が池田家へ再嫁する際には先夫との娘は伴われていない
78日本@名無史さん:2015/01/30(金) 16:13:31.55
家康が豊臣に取って代わったのはそんなに非難されるような事でもない
秀吉は最後の最後まで家康を信頼してなかったし
死の間際に諸大名の前で秀頼の後見人に家康を指名したのも、自分の死後の家康の行動に
くぎを刺すためにあえてやった事だし
両者は笑顔(当然目は笑って居ない)で握手しながら、足では互いに踏みあって居たんだからな
家康は義元、信長、秀吉に一応臣従してたけど一番恩義があるのは義元で信長には完全服従だけど
秀吉に対しては恩義もないし恐怖も感じて無かっただろう(目の上のたんこぶだっただろうが)
79日本@名無史さん:2015/01/30(金) 16:37:36.28
>>14
信長としては武田と徳川の戦に織田を巻き込まないでくれが
本音だったんじゃなかろうか。
一方家康としては何が何でも織田と武田が手を組むのだけは
絶対に阻止したかったから何が何でも信長を引っ張り込みたかったとか。
80日本@名無史さん:2015/01/30(金) 19:59:01.54
そもそも歴史的に縁もゆかりもない濃尾平野のドン百姓と手を組むわけないだろ

三河と甲斐は昔から御友達、足利義兼が甲斐守護だった説もあるからな


武田政義(石和系)
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%BE%A9

京の六波羅探題を滅ぼす。甲斐源氏では5月25日に千早城攻城参加していた南部武行が敗走する途中で三河矢作宿において足利方の仁木氏・細川氏、「武田十郎」から尋問の受けているが(「南部時長等重陳状」)、この「武田十郎」は政義に比定される可能性が考えられている。
81日本@名無史さん:2015/01/30(金) 20:01:20.13
そりゃよかったなw
文章力がいくらあろうが周りを説得させんのは無理
資料さえあれば文章使ってどうとでも書けるからなw
82日本@名無史さん:2015/01/30(金) 21:35:51.21
>>79
長篠は当初は別に信長が加勢する必要のあるような戦では
なかったらしいんだよね、どうも。
後世からすると結果も相まって大事な戦になってはいるけど。
83日本@名無史さん:2015/01/31(土) 08:22:20.09
三河は武家のメッカ
84日本@名無史さん:2015/01/31(土) 14:34:49.18
家康から見た元主人たち

義元←屈辱だったけど、悪い選択じゃ無かった。義理の父として育ててくれたので感謝はしている。だが彼が天下を取れなかったのは自明の理。
信長←幼少の頃からの腐れ縁にして兄貴分。だが昔からちょっと怖いと思ってた。絶対に逆らわないようにしよう。
秀吉←猿吉のくせに偉そうにしやがって。今は大人しくいうこと聞いておくけど、今に覚えてろよ。
85日本@名無史さん:2015/01/31(土) 15:28:47.86
>>77
横からで悪いんですが反論するならするでもう少し
せめて最低限のことは調べてからにした方がいいんじゃないでしょうか?
そもそも義信の娘の院号からして違いますよ。
86日本@名無史さん:2015/01/31(土) 17:11:18.20
家康は義元が桶狭間で死ななかったら今川幕府の筆頭管領とかになってただろうな
あのまま尾張を領有してその後に美濃に攻め込んだらもう誰も勝てなくなる
家康は光秀みたいに裏切ったりしないだろうし
義元が死んだら二代目の氏真が傀儡になるかも知れないが
87日本@名無史さん:2015/01/31(土) 18:06:04.80
>>84
逆らわないというより利用させてもらうからねが妥当のような…。
少なからず長篠のやりとりを踏まえれば揺さぶっている感は否めんし。
88日本@名無史さん:2015/01/31(土) 19:40:49.43
家康は徳川名乗るより、氏真さんの養子になって今川元康になった方がよかったと思う。
いわば上杉謙信方式。
89日本@名無史さん:2015/01/31(土) 20:53:35.91
>今川幕府
こんなの作る気は更々ないだろう
京ではなく那古野荘を取り返しに行っただけだからよ

那古野荘
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)

藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)

■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る

■鎌倉時代初期〜中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する

■鎌倉時代末期〜南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助)が領家職となる

■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川)が那古野城築城

■江戸時代
・徳川家康が名古屋城築城


万年パシリの尾張ドン百姓w
90日本@名無史さん:2015/01/31(土) 22:07:17.29
>>88
氏真は姻戚の後北条から猶子を迎えていたのに
なんで家来筋の松平元康を養子に迎えねばならんのだ
91日本@名無史さん:2015/01/31(土) 22:53:27.59
確かに今川乗っ取った方がよかったな
永遠に初代親氏は古事記といわれるからなあ
92日本@名無史さん:2015/02/01(日) 00:01:28.02
>>87
案外同盟を組んだことを悔やんでいたりして…
93日本@名無史さん:2015/02/01(日) 22:02:14.33
織田信吉など濃尾平野のドン百姓だが、松平は語るべき興味深い話があるな
荻生徂徠が語った話だと、加茂義綱が子孫が荻生に姓を変え、子孫が松平親忠に嫁ぎ、初代大給松平氏の乗元を生んだ


物部氏族家伝に「清和源氏加茂義綱の後裔、子孫物部流荻生と改める。 荻生徂徠の直筆の「親類竝由緒書」


加茂義綱の父である源頼義ゆかり

熊野神社(松平広忠崇敬の神社、上の宮)
http://tikugo.exblog.jp/18615420

長瀬八幡宮
http://okazakikeikan.boo-log.com/e95416.html
94日本@名無史さん:2015/02/01(日) 22:12:36.06
95日本@名無史さん:2015/02/01(日) 22:13:51.18
96日本@名無史さん:2015/02/02(月) 00:38:15.68
>>92
さすがに後悔まではしていなかったろうけど
うざく感じ始めてはいたんじゃないかな。
長篠後に武田へ破格の和睦提案を出してもいるわけだし
武田滅亡後は下位同盟者みたいになっていたと見る向きもあるから
信長の腹の中はあくまで武田の抑えという捨て駒だったのかもしれぬ。
信忠に至っては信長以上に邪魔に感じていたかもね。
97日本@名無史さん:2015/02/02(月) 00:51:13.06
やっぱ松平家初代は古事記どからなあ
98日本@名無史さん:2015/02/02(月) 19:39:01.24
ここの松姫ヲタは何なの?
99日本@名無史さん:2015/02/02(月) 20:18:03.63
>>96
根拠はないが信康事件で信長は腹を決めたのかもねえ…。
下手すれば徳川だって武田の二の舞になったかもしれないわけで
そんなリスク背負いたくはないだろ。
100日本@名無史さん:2015/02/02(月) 20:52:00.88
信玄ですら三条夫人は処罰していないのに家康は生母共々
死に追いやっているから信長の心象は相当悪かったろうよ
朝廷へ武田を攻める許しをもらう時に言いがかりとはいっても
義信事件まで持ち出した信長のことだ、本能寺がなければ
家康も間違いなくやられたよ
101日本@名無史さん:2015/02/02(月) 22:21:50.04
そもそも尾張が、喧嘩番長で九州にも乗り込んで暴れた三河に勝った事があるのか?w
建国以来、喧嘩すら売れずにブルブル震えて引きこもっていただろうが
三河に尾張ゆかりのものは一切ない
102日本@名無史さん:2015/02/02(月) 22:25:11.52
濃尾平野のドン百姓は何をやっていたんだ?wブルブル震えていただけか?w


足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職

太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=m8suLFv1sRw
103日本@名無史さん:2015/02/06(金) 20:11:01.75
>>79
というか三方ヶ原の時も信長は徳川に援軍送るのを渋ってたと思ったが。
でも同盟関係だからとあくまで城の守りだけということで送ったはいいが
家康が自信過剰になって信長の意図とは別にその援軍まで連れて野戦に
持ち込み大敗、野戦にまで織田軍がいることで信玄が完全にぶっち切れで
武井が土下座書簡送るみたいな、記憶違いだったらすまん。

>>96
>信忠に至っては信長以上に邪魔に感じていたかもね。
信忠は確か本能寺前あたりの書簡で家康のことを呼び捨てにしていて
表現的にも見下しているか快く思っていないかのような節があるんだっけか。
104日本@名無史さん:2015/02/06(金) 20:54:04.86
三方ヶ原というと包囲網真っ只中か…。
畿内も畿内だから余裕が無かったというのもあるだろうけど背後に位置する
信玄とはこれ以上軋轢を抱えたくなかっただろうからなあ。
それでなくても同盟が破れているわけで。
105日本@名無史さん:2015/02/06(金) 21:14:36.16
秀吉は信長に掘られてたのかな?
106日本@名無史さん:2015/02/07(土) 02:08:39.57
>>104
その同盟が破れた経緯もよくわからんよね。
信玄が一方的に破ってきたとする意見がある反面東美濃や飛騨そして
岐阜城と目と鼻の先に位置する加治田まで武田に内応という
異常事態を起こしているから東美濃を中心とした国衆から信玄への
突き上げがあったんじゃないかという意見もあるし…。
107日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:53:37.24
とりあえず最近の見解はこんな感じかな、同盟破棄の背景。

・朝倉/浅井や本願寺らの再三にわたる出陣要請
・織田武田両属体制の遠山に御坊が養子入りすることについて
 きちんと周辺の国衆や武田に事情などを説明しなかったことで
 信長は乗っ取りを画策しているのではみたいな感じで完全に警戒され
 信玄には直にその不満なんかを訴えている
・信長がこれまた武田にことわりもなくじわじわと東濃を脅かし
 東濃に織田軍を侵入させたことで国境侵犯と信玄は判断したようで
 武田から撤退しろと抗議される
108日本@名無史さん:2015/02/07(土) 23:55:23.67
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
109日本@名無史さん:2015/02/08(日) 02:23:14.07
>>107
なるほどー。
東濃がそんな調子じゃ飛騨も同調だろうから織田とは手切れにして
美濃に攻め込むいい機会と判断するのは大名なら当然だもんな。
それにしても遠山が両属と知っていながらなぜ信長も織田だけで
事を進めようとするかなあ。
松姫を嫁にもらうということで武田を下にでも見てたんか?
110日本@名無史さん:2015/02/08(日) 03:11:32.42
下にというより今で言うコミュ障/距離なしだろ。
あと国人をあまりにも甘く見すぎ。
松永や荒木の謀反理由だって要は国人の突き上げが一番なわけで。
111日本@名無史さん:2015/02/08(日) 05:39:26.42
>>106
そもそも信玄て同盟やら約束をきちんと守るタイプかね
112日本@名無史さん:2015/02/08(日) 19:54:57.75
>>105
秀吉は利家と違ってブサだから無いだろ
113日本@名無史さん:2015/02/08(日) 23:05:40.31
家康は信長のことどう思ってたんだろうね。
晩年は話題にすら出さなかったんでしょ?
秀吉のことはちょいちょい話してたらしいのに。
氏真が押しかけて来た時も話さなかったのかね。
114日本@名無史さん:2015/02/09(月) 00:39:23.33
>>111
それについての評価は正直難しいところなんじゃなかろうか。
少なからず織田とでいうなら動く時は断りを入れている位だから
守っていた方ではないかと。
むしろ信長の方が信玄に対して変に狎れてしまったのかいくつか
書かれているように東濃が顕著だけどやらかしてる感じに思える。

けど信玄も織田以外では相当やらかしているのもまた事実なんだよなぁ
勝頼かわいそうに…
115日本@名無史さん:2015/02/19(木) 23:04:02.96
>>113
何とも思っていないだろ
例えるなら、結婚式にも呼ばれない顔見知りの知人程度だ
116日本@名無史さん:2015/02/20(金) 02:30:27.71
>>110
甲州征伐後の禁制みると荒木や松永の件で懲りたのか少しは
勉強したようだが信長は国衆関連でこれといった苦労をしたこと
ないからな。
117日本@名無史さん:2015/02/20(金) 13:09:53.03
>>115
顔見知り程度の男の命令で数々の合戦の出陣命令を受けて先陣切らされたり
嫡男と娘を結婚させたりするのかw
118日本@名無史さん:2015/02/20(金) 16:42:59.35
>>116
勉強だけじゃなく信房や信忠の意向もかなり入っていただろうね。
それに旧武田領は甲斐衆以外はかなり助かっているから今までのような
国衆の扱い方では通じないと判断したのかもしれない。

ただ問題は武蔵のようにそんなことはおかまいなしで破るバカがいることで
結局は信長がいくら方針を変えても贔屓グセを改めないかぎり同じように
また誰かに離反されてを繰り返すだけのように思うな。
119日本@名無史さん:2015/02/20(金) 21:43:10.70
所詮は頭の悪い田舎者、濃尾平野のドン百姓と思っていたのでは?w
三河に生まれればバサラの最後がどーなるか理解できただろうに
田舎者の無知は悲惨だわなw


明阿
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%98%BF
120日本@名無史さん:2015/02/20(金) 21:51:06.79
摂津源氏 河内源氏
121日本@名無史さん:2015/02/21(土) 03:35:38.16
>>118
森武蔵(この際団も)は論外だろ
甲州攻め時でも命令無視を2回もやり(諏訪大社焼いたのもほぼ独断)
滝川や河尻は困り果てたあげく信長へクレーム入れてさすがに
信長も叱りつけている位だぞ
甲信に関しては信長も気を使っている感があるから上杉戦終ったら
改心しない限り間違いなく森や団は飛ばされたよ
122日本@名無史さん
まあ森長可らの乱行が徳川にプロバガンダ工作のスキを与えた可能性は
否定できないという見方もあるみたいだからなあ。
家康にしてみれば森らの行動は愉快そのものだったかも。