凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part28 [転載禁止]©2ch.net
1 :
日本@名無史さん:
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1408350940/l50
二条城
三芦城
四稜郭
五稜郭
六端城
七尾城
八幡山城
九戸城
十神山城
11 :
日本@名無史さん:2014/11/02(日) 19:04:25.65
若狭野陣屋
陣屋
小泉陣屋
14 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 08:14:24.27
土塁
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられ、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
18 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 22:48:26.40
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられ、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
まだ土塀の話題は出てないな
20 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 17:23:30.43
江戸時代の城で、良質な銃眼があった城は?
良質な銃眼の意味がわからん
狭間は適所適切に開いてりゃいいんだから
大坂城の石垣にある鉄砲狭間でしょ、名古屋城とかにもあるのかどうか知らんが
竹田城が。。。
あそこは所管がテーマパークに変わってるので気にしなくていいよ
ビニールシートと工事用の柵で覆われてる上
、本丸立ち入り禁止
しかも大手石垣改変
それって城跡ですか?
城跡には違いなかろ
27 :
日本@名無史さん:2014/11/17(月) 22:06:12.07
福岡城にいってきたぞ。
他の大名なら西公園のあたりを居城にしただろうが
そうでないところに黒田氏の非凡さを感じたわ。
福岡城って天守閣はあったの?
いつのまにか山形城に高麗門が復元されているではないか
数年来取り組んでた本丸のがようやく出来上がりましたね
ちょっとずつ公園内の施設を移転させながら整備を進める予定となっています
福井城も見習ってほしいもんだね
福井城はあれはあれでいいじゃん、どうせ近世城郭だ。
現在活動中の街中じゃコンパクトが良い。
その分周りに色々城跡残ってるし
「現在でも官庁舎に堅固な防御施設が必要な場所なのだろう」
と皮肉られているね>福井城
通振りたい奴には難癖付けるにはうってつけの城なんだろ
最初に県庁置いた時に濠と石垣を保全する条件で越前家からタダで借りたって経緯知らん奴が多い
最初に置いたってのは大正時代なんだがw
その当時城跡に庁舎をおいた城跡なんて数知れずなのは知ってるよな
現在のコンクリ庁舎は昭和末に作られてるわけだしな
石垣の保全ね・・・
徳川伏見城、イエズス会年報には秀吉のそれより堅固になったが地味になったとあるので、
相応の改修が行われたと見るべきだな
まぁ掘ってみたら良いんじゃないか。
墓はどかしてさっさと掘るべき
天皇陵かもはっきりしない指定「天皇陵」である古墳でさえ掘らせてもらえないってのはなあ・・・とすれちだがいつも思う
洛中洛外図からでも同じ徳川伏見城でも出丸が塀だけとかあるので、出丸は徳川家によるものと考えられる
熊本城のような歴史的にガチで強くて威厳のある城って他にないのかな?
熊本城って強かったかw
強い城なら鶴ヶ城
官軍の猛攻にも耐えた
>>42 会津若松城なんて別に耐えてないじゃん
規模も縄張りも熊本城以下の癖に同列に語らないでほしい
>>41 神風連の変であっさり落城した熊本城が何ですか?
熊本城は見掛け倒しの役立たず
46 :
日本@名無史さん:2014/11/22(土) 12:33:06.68
>>43←なにこの馬鹿
なんもしらないならロムってろよ屑
47 :
日本@名無史さん:2014/11/22(土) 17:23:23.34
福岡城はきちんと整備したら、それはもう凄い城だな。
武具櫓の写真見たけど、アレ本当に再建するのか?凄いぞ。
48 :
日本@名無史さん:2014/11/22(土) 17:26:46.09
>>27 模型見たらすげえぞ。今の福岡城はまだ人が中に住んでいる。
大砲の発達によって天守閣や櫓のあるお城は
一気に旧式化した感じだな。
二重多聞は外様大名の城に見られるけど、譜代大名の城には見られないね
>>48 つい数年前まで大阪城にも住んでたな、そういえば
>>44 一般に開放されてる時を狙っただけで1日で鎮圧してんだが?
つか会津若松みたいなゴミと比べてんじゃねぇよカスwwwwwww
>>45 見かけ倒しってのは江戸城や大阪城みたいなあっさり落城する雑魚城の事を言うんだよwwwwwww
会津若松城はって?
ああ、ありゃ砲撃程度でボコボコになるぐらいの何の価値もない単なるゴミだわ
江戸城は開城
落城じゃないぞ
>>55 は?何言ってだコイツ?
籠城せずに無抵抗で開城とか完全に城の体を成してねぇんだが?
何の為の城だよ飾りか?
大阪城も然り
そういう意味ではこの雑魚城は日本最弱とも言えるなwwwwww
いや、そもそも城のカテゴリーに含めていいのかという疑問すら沸く
>>50 丹波亀山城とか鶴ヶ岡城とかには外観1重内部2階の多聞ならあったが、類例はあまりないな
大坂城の乾櫓のようなタイプなら例はあるけど
>>56 熊本城も開城され明け渡されてるぞw
だから西郷どんが攻めたんだし
西郷どんに攻めらそうなので
熊本城の官軍は曲輪や天守を焼き払った
戦いの邪魔だからwww
>>58 お前馬鹿か?
一度も籠城せず、無抵抗開城や城からトンズラしてんのが問題なんだが?
>>59 兵力が足りなくて総構えを維持出来なかったから仕方なく目印になる天守を焼き払ったんだが?
で、江戸城は大阪城はどうした?
この雑魚城は無抵抗開城とトンズラwwwwwww
雑魚過ぎなんだよwwwwwww
>>59 近代戦で可燃の建物なんか火つけてくださいって言ってるようなもんだからな
宇土櫓が残ったのはほんとに奇跡
>>60 横レススマン
押すべきところでは押し、引くべきところでは引く。
江戸城の場合は西郷の総攻撃から江戸市街を守るために開城したんであって、なんら問題ないよ。
大坂城のほうが問題が大きい。敵前逃亡だからね。篤姫が激怒して、あいつ(慶喜)とは付き合うなと亀之助に言い聞かせた逸話は有名
>>62 強さも人気も熊本城以下のゴミの癖に何で熊本城に対抗しようとしてんの?
>>64 江戸城は城下町も雑魚で城も雑魚だから別におかしくないな
つーか熊本城と比べたら江戸も大阪も雑魚なんだから無理に対抗しようとすんな
熊本城は児玉源太郎が火をつけて焼き払ったんだっけ
天守は基本的に土蔵と同じつくりになっているから、外部のちょっとした火ではなかなか燃えない
火をつけるなら内部に火種を投げ入れるといい
熊本城の場合は、窓の戸が軟弱な木板の突き上げ窓だったから窓を狙って火種を打ち込めばいい
こういう
>>65のようなのを一般的にお山の大将とか言うよね。
こげなもんにせーしょこさんの城ば語る資格はなか。
69 :
日本@名無史さん:2014/11/23(日) 09:56:16.47
しかし、現代から見れば勿体ないことをしたもんだ。
70 :
日本@名無史さん:2014/11/23(日) 10:19:33.55
阿蘇の山猿だったころの話はなくなってんの?
>>66 貯蔵していた食料も一緒に燃えたので
失火や放火の説もあるんだろ?
天守閣再建にともなう発掘調査では
炭化米が全く出なかった
これはあり得ないので
備蓄米を全部運び出してるのは確実
しかも城内で火災が同時多発
100%放火
それも組織的な放火
福岡城は南の山に本丸が近すぎるから二重多聞の武具櫓を建てたが、
恐らくはそれでも大砲の直撃を喰らうので、天守を解体したのだろう
甲府城も同上
当時の大砲にそんな飛距離があったのかというのが、今回の論点かな
76 :
日本@名無史さん:2014/11/24(月) 02:03:29.70
熊本城は、縄張りとか別にして建物は古臭いので他藩から結構馬鹿にされてたと家の古文書にあった
>>76 単純にお城の色が黒いからそう言ってるだけじゃないの?
とりあえず清正公以上の築城主なんて日本にいないと思うんだけど、どこの藩の話?
三大名城に入ってる清正公と熊本城を馬鹿に出来る藩とか存在しないと思うけど?
三大名城って後世の奴らが勝手に言ってるだけだしw
建物は江戸時代の古写真見てると江戸城の建物でさえ傾いたり草が生えてたりしてるわけだしw
清正公とかせいしょこさんとか言う奴って会ったこともないのにアホですかw
79 :
日本@名無史さん:2014/11/24(月) 07:36:56.98
岡山城なんかも熊本城を低くしたみたいで熊本城によく似てるよな
熊本城に似た感じの城多いよね
>>75 航空写真で見ると分かるけど本当に目と鼻の先
>>78 当時、実際に数々の城を詳細に見たひとなんているわけないもんなあ
遠くからは見られても、中には入れてくれるわけがないし
82 :
日本@名無史さん:2014/11/24(月) 10:09:10.04
福岡城は大濠公園以外の堀を埋め立てまくって、
もはや縄張りの原型をほとんどとどめていないがっかり城。
本丸の北側(海側)に申し訳程度の堀が一本残ってるだけ。
清正は熊本城の本丸を作って
あとは細川公が整備した
江戸末期まで拡張した
84 :
日本@名無史さん:2014/11/24(月) 11:13:02.58
>>82を補足すると、戦前までは城の南側の堀も残ってて、
堀が城をぐるっと囲む状態が維持されていたが、
戦後、埋め立てられていまは民家や店が建ち並んでいる。
城内に残存する民家ともども、買収・撤去して堀を復元してほしい。
>>79 豊臣配下の城だから、下見板張りの黒い城、大坂城に倣っていたから似てる。
熊本城は窓が突上戸っていうのが古めかしい。後年増築しても様式を合わせるんだろうな
熊本城は弱点らしい弱点が唯一存在しない城という事で最強となんでしょ?
こんな日本に存在してるだけで日本人は誇りに思うべきだと思う
北からまともな攻城砲で撃たれたら天守直撃です
熊本城以上の城は存在しないのが熊本城が日本最強城足る所以だけと
仮に熊本城以上の城があったらどんな城になってたんだろう?
熊本城以上に砲撃対策も万全な城がない以上、無理な話なのかな?
別に最強の城を自慢したいがために築城したのではあるまいし。秀頼をかついで
ひょっとすれば徳川幕府と一戦することを念頭においての堅固さだろ。結局豊臣は滅び、
加藤家はどうなったんだ?城が強くても、虚しい話しだな
90 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 03:17:01.86
所詮城は人が守るんです。
熊本城は完成してなかったからねえ
加藤家は清正の子で改易だし
>>91 幕府の許可なく城はいじれなくなったろ
福島はそれで難癖つけられて、飛ばされた
加藤とか細川の問題ではない
94 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 13:44:18.91
大坂城真田丸最強
95 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 19:36:14.92
福岡城の破壊ぶりはすさまじいね。
あの有名な奈良大の教授が惜しまれるは石城福岡城である。って書いてるしなあ。
96 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 19:42:41.23
>>84 あの西の丸に住んでる人たち、1代かぎりででていかなきゃいけないんだよね。
どれだけ立ち退き料払ったんだろう福岡市。
舞鶴中学も廃校になって取り壊し始まるのに
97 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 19:44:31.76
空で泣いてるわ官兵衛と長政は
戦国から江戸初期に出来た城を
幕末の兵器と戦法で云々語る奴は
タイガー戦車やスターリン2はM1に歯が立たないって
必死に説いてるのと一緒だわ。
江戸時代は色々時間が止まってたようなもんだしなぁ
まぁその分文化面が豊かになったのだが
>>95 小倉城、府内城、日出城なんかに比べたら、よく残っていてよく整備されている方。
102 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 23:03:18.17
98
その例え大好き
例えられてるブツが皆目見当つかないので、結果全くわからない
104 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 23:29:41.87
やっぱにわかな雑魚がおおいよなあ
日本の城スレで近代戦の話しされてもわからん。
戦車の喩を出されてもわからんわ。
戦好きなら全時代知ってて当たり前を思いこんでるオタクが多いのか
全城オタ=戦好きとか思い込みが甚だしいよね。建築好きで城オタもあるのに
近代戦は全くと言っていいほど興味ないなー
昔、提督の決断とかヨーロッパ戦線とか買ったけど楽しめなくて
やっぱり信長、三国志に落ち着いた
コーエーの三国志は楽しめたけど信長は全く駄目だった
どうせ出鱈目な戦国ゲーをやるなら戦国ランスの方が突き抜けてる分面白い
戦国から江戸初期の城は、少なくとも戦を想定して築造されたわけだから
戦のことをを知っていないと議論にならないというのも言える
古建築が好きでホームアローンが楽しめれば城好きになれる素質がある。俺の持論。
江戸城最強
アームストロング砲までは一般教養だが
なんたら戦車はオタ知識
アームストロング砲って「国崩し」とかだっけ。
国崩しは戦国時代の武器の印象。 そーりんだっけ
アームストロング砲はアメリカ独立戦争の印象。
>>115 国崩しは中世の青銅製フランキ砲
アームストロング砲は近代の鋼鉄製ライフル砲
どちらも後装式という共通点はあるが、300年近い開きがある
サンクスです。
戊辰戦争の時の大砲なのね。
今夏以降、家事・介護のため城巡りや読書が全くできなくなった><
>>108 まさにそう。
俺なんて建築好きで城オタになったクチなのに、侍好き戦好きだと思われてしまうんだよなぁ。
戦ならむしろ近代戦の方が好きなんだけど。
124 :
日本@名無史さん:2014/12/01(月) 18:58:48.77
>>101 小倉城は市庁舎やリバウォークが側に建ってるから、破壊されまくってる印象が強いが、
本丸の堀とかは福岡城よりもよく残ってるから、城の中心部の郭は案外保存されている。
小倉城を指定したのはたぶん復興天守の事なんじゃないかな
前田家じゃね?
>>101 飫肥城と延岡城は静かな佇まいでなかなか良かった
杵築城は城はいまいちだが城下の景観が素晴らしい
杵築城は残念だね
人吉城よかった。
石高の割に見事な石垣。
2.2万石、球磨川沿い、人吉城はいいよね。
不便すぎるけど。
火災で焼失した古い町並みが残っておればなあ。
球磨川綺麗だよなあ
んで球磨川沿いの石垣がいい味出してるよね
臼杵城は行ってよかった
岸壁がコンクリで固められているのは残念だけどね
波の侵食で苦労した城は膳所城・関宿城・桑名城と多数あるからね
前橋城なんて本丸まで崩壊して、一時は放棄されたし
地元の世田谷城址公園の土塁崩壊防止のブロック石垣には興ざめ。
公園周辺の民家、団地、豪徳寺あたりにある遺構の方が状態が良い。
137 :
日本@名無史さん:2014/12/06(土) 12:09:11.60
23区内の世田谷に中世の城跡が残ってるだけでも奇跡的なんだから贅沢言うな。
>>137 私有地に残る遺構は今後は解されても止むを得ないって感じ?
当たり前
大垣城行ってきた
最近マイナー修正したみたいだが、あの遺構のなさではいくら歴史的に価値のある城跡であっても100名城に選ばれなかったのはわかるな
今の大垣城は所詮戸田氏のものだし・・・
て書くとアンチ百名城が沸くんだろうけど・・・
旅行版に書けばぁー?
かいた後で俺もそう思った
すまん
>旅行版に
こいつ数年ぶりに戻ってきたな、五年ぶりか?
今まで何所にいたんだ、病院?少年院?何かの収容施設?
144 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 03:39:52.12
143は毎日来てんのか
尼崎城って古写真では立派そうだが
石垣とか遺構は残ってないの?
畿内の多くの遺蹟同様地表は何もありません
掘れば色々出てくるだろう
147 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 13:50:53.22
聚楽第も京都新城もあとかたもなく取り壊されたな。
なんの痕跡も地表に残していないというのがすごい。
長岡城とか
普通によく有ったことだろう
若江城なんかは大阪城に転用されてる
高槻城は奇跡か
何もない奇跡。
掘れば何かでてるんじゃね。
隣の野見神社は歴史あるし
高槻城は土の城だから埋めておしまい たぶん
宮津城とか沼津城とか桑名城とか刈谷城とか惜しいよな。
高槻は芥川山城が立派に残ってるじゃないか。
芥川平城の方はどこに有ったかも分からん
156 :
日本@名無史さん:2014/12/08(月) 21:15:27.16
>>153 桑名はその気になれば何とかなると思うけどね。
>>153 俺の家から10km圏内にある刈谷城も本丸の区域だけは辛うじて公園として残ってるな。
ただ石垣も何も残ってないし、わずかに残る堀も池っぽく拡張されてるけど。
今後本丸石垣と櫓、門を復元する計画あるけど、進んでない感じだね。
>>151 普門寺城とか総持寺城とか高槻城より歴史もエピソードも盛りだくさんあるよー
高槻城は高山右近という糞野郎の歴史のみだからな
和田惟政「………」
畿内はそうだよ
高槻城も式内社の野身神社の敷地を乗っ取る形で出来た城だろうに
164 :
日本@名無史さん:2014/12/09(火) 12:27:43.25
野見神社と野身神社はどちらが縁起式に記された社かはイマイチ不明
まぁ高山右近が悪いんだが
165 :
日本@名無史さん:2014/12/09(火) 18:02:56.66
>>161 普門寺は城だった室町戦国時代は江戸時代の高槻城より大きかったんだよ。
堀や土塀が昭和までは残ってたらしいが今ではすっかり住宅地になっとる
今朝、TVで「屋嶋城」の発掘・復元調査の話をやっていた。
1300年前に、あれだけの石垣があるのか? 織豊期以降の遺構ではなくて?
屋嶋城の真偽は分からないが、瀬戸内は古墳も石や岩で作成されたものが有るからそこまで不思議と言うわけでも無い気もする
矢嶋と同じ目的であろう鬼ノ城ですら山上に石垣があるくらいだから、海に近く近畿の最終防衛地帯でもあった屋嶋城なら超本気モードの防衛施設だったんじゃなかろか
当時は、それだけ新羅とその後ろ盾の唐による侵略が現実味を帯びてたんだろうな
>>168 元々管領の隠居城として作られたこともあって、その辺の野城と違い所謂「格の高い城」だった
落ちぶれていたとはいえ後に将軍御所としても使用されている
高槻城は街道や淀川の利便良い政庁としての城ではあったが、戦をする城としては最初から考えられてなかった模様
山崎の戦の時も秀吉の本陣は高槻城の真向かいにある山の上「野身神社」の場所に置かれている。
ココからは西国街道も淀川も見下ろせる。
隣の総持寺が庶民の寺院となっていったのとは対照的に
普門寺は江戸時代になっても堀が埋め立てることもなく土塁が崩される事もなく
後水尾上皇など離宮代わりに使用している
寺とは名乗っていたが、どーも京で何かあった場合に京方が使用する城として残してあったのが暗黙の了解事項だったようだぞ
>高槻城
しろあと歴史館、平成26年秋季特別展の図録は500円にしては内容が充実していたな
摂津の大阪府域にあるマイナーな城紹介では、これまで見てきた中で一番見易い
高槻城のしょぼさには呆れたが…
しかしまぁ、この種の展示館で何時も思うのは、ジオラマと説明図の東西南北を何故統一しないんだろう
別々に発注しているからなんだろうけど、関係者は誰も不便だと感じないのかな、パンフにも初心者云々と素人向けを意識しているのに
高槻的には
埴輪>>古墳>>>>>>>>>>>>>>>>>城
ですやん
あそこはしょぼいとも言えないほど何もない城跡だが何を見たんだ
個人の主観を数量化して他者との同意を望むなら
君が定数化してくれ
・石碑石柱のみ
・土塀が部分的に残る
ってな具合に
>171 高槻茨木などの旧三島郡で史学畑で役所に入る連中ならほぼ1000年以上前の部署に行くだろうな
江戸時代の城辺りは素人の観光課の仕事と思われる
176 :
日本@名無史さん:2014/12/10(水) 22:07:28.17
数値化
地名が残る
掘れば何かが出るかもしれない
地表遺跡無し
地元密着型公園あり
これでも満足です
鬼ノ城は復元が過剰になり高松城からも見える様になってるよ
あれ何処までするのかなー
>175
今時の自治体で人事にそんな余裕があるとは
高槻スゲーな
それともバブルの頃から機構改革せずに硬直化しているのか
たいして歴史も無い城なんだし無理して整備しなくてええやんあそこ
今の公園くらいでいいわ、高槻は
あれ以上やったら捏造復元になっていく可能性大
高槻城は津之江港の関所として沼地に建てられた城で実戦用ではないな。
摂津国京側で城が面白いのは応仁の乱から堺公方辺り、日本史で習わない辺りw
播磨方面の阪神間は石山合戦や中国攻めで戦国末期までごたごたしてたので知名度有るが
182 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 10:26:39.96
鳥羽伏見の戦いの時も
敗北した幕府軍は淀城に入ろうとして断られたあと
高槻はスルーして大坂まで敗走したな
ここ10年くらいの戦国ブーム?に押される形で整えた公園だしぃ
正直古墳だけにしておけと言いたい。
184 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 12:59:01.40
>>182 淀回りだと淀川の南岸の枚方守口経由になるから、高槻なんてガン無視だろう
淀城自体が中州にあったんで淀川右岸京街道か左岸西国街道かで選択の余地はあったんじゃねーの
都は左岸にあるやん
186 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 13:33:02.84
たしか、樟葉砲台の対岸の砲台に津藩藤堂家がいて、新政府側に寝返っちまったんだよな。
それで淀川南ルートしか使えなくなったんじゃね
187 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 13:57:32.13
>>185 右岸左岸は逆じゃね
幕府軍は淀城で門前払いを食い、後ろに新政府軍が迫っているなら、
淀川南ルートしかないだろう
河口に向かって右岸左岸ということすら知らない
スレ違いバカ
>>185
右岸左岸は間違った
190 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 15:08:33.26
>181
信長上洛の頃には摂津は商人国人で話し合いが付く感じになってたもんな
囲碁のマス取りみたく一村一荘園の取り合いしてた頃のがおもしろそ
>>171 大阪府下のメジャーな城って大坂城本願寺くらいしか思い浮かばないぞ
千早城 赤阪城 高屋城 岸和田城 とかは?
>>177 見える訳無いだろ平面世界に住んでるのか君は
見えるってのがホントかどうか分からないけど
高松城違いのような気がするのは気のせい?
高松城は鬼ノ城から見たほうが地形が分かってイイ
淀城まわりの汚いフェンスと放置自転車はどうにかならんのか
ならんのだろうな、京阪沿線だからな・・・
>>194 見てみたら高松城隣の道路ストーリートビューからも薄っすら写ってるわ
198 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 21:21:54.15
>>180 高校に出て行ってもらわなあかんので
無理でしょうな。
>186
藤堂家は良い仕事をする
>>192 時々でいいので飯盛山城も思い出してあげてください
三好さんは頑張ったんだ頑張ったんだよ!
>>166 >1300年前に、あれだけの石垣があるのか? 織豊期以降の遺構ではなくて?
織豊期より古墳時代の石室の石積技術の方がレベル高いから困る
あの技術が断絶したのは惜しかったな
>201
梶原台場も高槻城同様土地は転用され石垣は東海道本線の敷石となって今は何もない
狭い土地だもんな
>>203 その石室の石積みの技術が、後に寺院建築の基壇や石垣にいかされたともいわれる
この説が正しければ、古墳の石室の石積み技術は穴太衆なんかに脈々と受け継がれたと言う事になるけど
その前に、見た目の比較で織豊系城郭の石垣より古墳時代の石垣のほうがレベル高いとか言うのは見当違い
穴太衆は切り石積みもできるんだけど、時間ないから短時間で丈夫に積める野面積みにしただけのことだよ
207 :
日本@名無史さん:2014/12/15(月) 20:56:12.18
高石垣の技術がかなりの間失われてたのは確かでしょ
どんなクソ田舎にある古墳や古代山城でもかなりキッチリした石組みしてるのに
戦国時代になると5mの高さが限界で七尾城や金山城とか段々畑みたいにして強引に高くしてるところすらある
>>207 古墳の葺石と石垣は全く別物だろ
中世の山城は技術の前に石垣なんて積む余裕がなかったんではないのか?
国家主導の古代山城と違って築城者は地方の豪族にすぎないわけだし
古代山城の石垣技術はすごいと思うが
関東在住で土塁空堀が馴染みの
おいらは低みの見物。
中央集権と地方分裂は繰り返す。
戦国時代の築城はまさに集団が細分化の極みの時代だな
戦争に使う砦にそこまでする余裕なんてねーよ
213 :
日本@名無史さん:2014/12/18(木) 16:39:56.78
石室サイズの城なら丁寧に作る余裕あったんじゃないかな
石室サイズww
215 :
日本@名無史さん:2014/12/18(木) 19:45:22.79
石舞台古墳くらいなら、砦くらいには使えるだろう。
>高句麗は立派な山城作ってるのに中世日本の領主にその余裕がなかった
まぁ妄想は置いといてw
半島出兵した中世日本の領主が急拵えした石積みの技術の高さに驚いた半島人は
中国式の石積みを崩して、倭城式の高い石垣に組みなおしたんだけどね
>>215 あれくらいの大きさで砦になるって本当に思うのか?
石舞台古墳行ったことねーのか?
世界遺産になってる丸都山城とか高句麗がまだ集安一帯の山間部しか勢力がなかった頃のものなのに
一体あれだけのものを作れるほどの労働力がどこにあったんだろ
田中俊明によると城壁自体は中国の積石墳の技術を転用したものらしいが
高句麗人は猿並みの知性しかないという前提でものを言うのはどうかと思う
>>218が所謂ネトウヨという人種なのだろうか…
何が不思議なのかさっぱりワカラン
現時点で阪急交通社のウェブサイトの「竹田城特集」ってところに
大分県の岡城の石垣の写真がまぎれて掲載されてるんだが。
撮影スポット的なアングルなので、竹田城も岡城も知らないってことだよな。
旅行代理店って城好きな人はいないのですかね?
竹田城には違いないから良いんじゃない?
「近畿」のカテゴリになってるから
大分の城の写真を載せるのは無理筋。
旅行社のツアーで行く奴にそこまで細かく見てる奴はいねーよ
検索用インデックスの問題だろうし他の画像でもやらかしてんじゃないの
旅行板じゃないんだが
このスレで、家から一歩でも外に出るという
ありえない設定を口にすることは俺様が許さないわけですね
わかります
教えてあげなよ
電脳お城巡り!
チビが生まれてからは未整理だった写真整理しつつ机上旅行中
再開は10年後かなぁ
>>227 グーグル地図の航空写真で城跡を見ると、
城域が想定できたりして楽しいぞ。
>>230 童貞の独身がいうのもなんだが、幼い子供つれて城めぐるのも楽しそうじゃないか。
俺は親がよく城連れてってくれたぞ。全然覚えてないのだが。
山城なんて子供がいたら足手まといにしかならんだろ
何年か前に小谷城に登ったときはしんどかった。
浅井三姉妹の大河ドラマの後だったから
もっと整備されていると思っていたわ。
子供の方が身軽だから
鳥取城だったかな、後ろから子供が親をせっついて「はやく、はやく」と急かしているのに親は小休止ばかり
子供に抜かれてたまるかと、俺は先を急ぐが、常に後ろから子供の声
上に着いたときには最早城跡なんぞどうでもよかったw
小谷城では擦れ違ったアベックの女の方が「こんにちは!」と朗らかに挨拶
多分男の方に山で会ったら挨拶は基本と教えられていたんだろうけど
男は女を小突いて「こんなところで言わなくていい」と
返事をするのに躊躇した
アベックて
>>236 この文章中では躊躇よりも「唖然とした」とか「嘆息した」方がいい気がする
俺は、何にもしないで気軽に豊後の角牟礼城登ったら心臓やられた
車で山頂近くまでいけたと知ったとき力が抜けたね
月山富田城では三の丸まで登ったところで
ヘビがくねくねしているのに出くわして
怖くなってスタコラ下山した。
>>239 そうだったのか、知らんかった。
俺は麓の資料館から杖付いて歩いたわ。
心機能の弱い足軽は実戦参加せずに見学とかさせてもらえたんだろうか‥
家に居ろよ
家に居ちゃぁ喰えねぇだよ
利神城に一度行って見たいんだが、
登山道が険しそうだな。
今流行りの朝霧に浮かぶ城跡だな
>>209 俺も関東住み
地元の戦国時代の北条の城跡に道路拡張で削られた土類の断面にコンクリートの張り付け石垣が人造された
>>243 昔は戦場だろうがそでなかろうが、弱いやつ=死 の世界だったと思う
そりゃまた変なゲームにでも洗脳された思想じゃね
山城攻めるのはマジ勘弁してほしい
人生 下り坂最高!
>>243 おにぎり作りとか
いろいろやることはあったと思う。
山田洋次の時代劇"隠し剣鬼の爪"でも、悪家老の緒形拳が平山城の本丸まで登るのに息切れして難儀してた
戦のときに招集がかかるのは足軽身分だけ
足軽は登録制で、誰にでも声がかかるというもんじゃないのよ
何を言っているのかわからない
>>254 足軽身分って・・・
刀狩りと兵農分離って知ってる?
まぁ、刀狩りやら兵農分離やらの前の事としてもいいんだけど
それにしても、足軽にだけ召集がかかるとか、登録制とか‥分からない
>254
陣触れつーのは上から順に召集かかってくものだろ
>>243 そもそも心肺が弱い奴が何で足軽やってるんだ・・
悲田院行きか乞食になるしかなかったろうよ
中国大返しとか‥マラソンン選手じゃあるまいし、随分落伍者も出たんじゃねぇか
普段の戦でも現地に軍団揃うまで時間かかって開戦しても何日も戦してたんだし
当時から大将さえ速攻で付きゃ良いって感じだったんじゃねの
マジレスすると
>>254がいうように通常の軍役で招集がかかるのは足軽までで
非常事態となると民間人も招集された。非常事態というのは、兵の数が足らないとかいうこと
足軽は、侍衆の配下として編入された農民のことで、武士ではないのだがそれなりの軍事訓練を受けている。
民間人も人口調査によって1か村で兵役可能な成人男性はまとめて申告され、年2回の軍事訓練の参加を義務付けた。
当然、どうにもできない身体障害持や重い病気のものは除外された。
ちなみに兵農分離以降、足軽は侍と同じように士分に取り立てられ城下に住まい、足軽たち専用の屋敷に住まわせられた。
これが足軽屋敷とか足軽長屋とかいう。
263 :
日本@名無史さん:2014/12/27(土) 16:57:20.45
年賀状書くやつ
年賀状も城?
名附けて年賀城と云ふ
>>254 後北条の場合は、各地の郷村で人改めを行い、
僧侶や芸能民を含め15歳〜60歳の男性を軍役状に登録し足軽としたので
254の書いたとおりだが、時代や大名によっても異なるのでは?
266 :
日本@名無史さん:2014/12/27(土) 21:16:32.92
>>260 備中高松城が降った後の集結地である備前の沼城から姫路城まで約70km。
この区間が最も強行軍だといわれている。
沼城出立は6月5日の夕刻といわれている。
姫路城到着は6月6日の夜といわれている。
70kmを30時間かけて行軍した計算になるが、甲冑をつけ槍を担いでの行軍ならばきついだろうが、
武具を捨てて身一つでの行軍だったとされているから、マラソンという程きつくはない。
30時間のうち13時間の休憩を入れたと仮定すると実働17時間。17時間で70kmを踏破するには時速4kmで歩けばいい。
時間4kmというのは現代人では極普通の歩行速度。
武具さえなければ、長距離を歩き慣れた戦国時代の兵士にとっては大したことはないと思う。
実はそれほど過酷な行軍ではない。
行軍した兵が大変だったのではなく、武具を置いて行かせた判断が凄かったんだと思う。
邪魔な武具を船便で別送するという発想が当時としては革命的。
スレ違いで粘着して熱弁をふるうageバカ
268 :
日本@名無史さん:2014/12/27(土) 21:29:02.97
>>266 いいんじゃね
こういう考察も
スレちとは思わんがな
賤ヶ岳の戦いで引き返したときの方が
強行軍だったと何かで読んだ。詳細は忘れたが(´・_・`)
人がいなければ城とはいえんからの
このようなレスはべつにスレチというほどではない
現代の戦車とか、全く関係ない社寺とか宗教の話題はさすがにスレチだが
>>266 貨物を船便で合戦に間に合うのかしらと心配になる‥
273 :
日本@名無史さん:2014/12/28(日) 10:17:10.33
まぁ全力で逃げたが正解だし
まぁ退却戦だわなぁ
>>262 >民間人も人口調査によって1か村で兵役可能な成人男性はまとめて申告され、年2回の軍事訓練の参加を義務付けた。
「ルイス・フロイス日本史」見る限りではそんなシステマティックなものなくて
とりあえず動ける人間は老若男女問わず連れてってるようにしか見えないけどな
そんなことしたら数百万の大群になるだろw
フロイス「日本史」 第四五章
そこで薩摩の国主島津殿は、自国に危険が切迫しているのを見ると、国内の全地方から人々の招集を 図り、
老若男女を問わず、ついには武器を手にし得る者はことごとく、いかなる逃げ口も許さず、領国の自由のた
めに参集するように命令した。・・・
薩摩の国主は五万人近い人を招集した。それは何も驚くには足りぬことである。日本では国主または大名が
他と戦を始める時、彼は兵士たちになんら支払いはしない。
東国大名と島津などでは軍役の内容が違うかもしれんな
小田原北条は記録上では
>>262のような感じらしい
そう考えると、島津は相当焦っていたか、もともとブラックだったか
時期や地方で税率も違えば軍役も変わってくる
分国法なんてものがあった時代だ
262のように全国一律であるかのような書き方は無理がある
280 :
日本@名無史さん:2014/12/28(日) 18:24:54.76
危機的状況での動員やん
年二回の軍事訓練云々と書いてあるが?
北条も戦国遺文見る限りでは15歳から60歳までのものを集めろとだけしか書いてなくて
女や障害者は除くとかどこにも書かれてないし武装も自弁だったようだ
島津と状況はあまり変わらなかったかもしれん
城普請の人数は賃金で釣って集めたんですか
たしか白米だよ。
ブルルル、白まんまなんて勿体無いような気が‥
たしか白米だよ。
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
288 :
日本@名無史さん:2014/12/29(月) 17:30:23.46
俺は今年は島原城にしたわ
290 :
日本@名無史さん:2014/12/29(月) 21:07:36.70
つわものやな
俺は熊本城西南の役にした
年賀城図柄、upせぇよ
出してません
おぉ、本丸炎上中か
ご希望があれば、描くよ
時間かかるけど
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられ、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
日本では「お城」のことを「城壁」って
あまり言わないと思うの。
298 :
日本@名無史さん:2014/12/31(水) 09:53:45.57
壱岐とか対馬あたりに行くと、石垣で高い壁を作ってていかにも城壁って感じだけど、
壱岐対馬の軍事要塞としての城は全て日本式の石垣なんだよな。
お城にばかり行くのを城癖とは言わんのか
言わん
>>296 不自然な日本語だな。
日本語勉強中の人か?
明けましておめでとうございます
>>301 このスレの古くて有名で変なコピペだよ。気になさるな
>>301 不自然な日本語だな。
日本語勉強中の人か?
普段雪の積もらない城に行き景色見に行くちゃーんす
連休だし
いいなぁ
こっちは雪でどこにもいけねぇ
明けましておめでとうございます
>>303 このスレの古くて有名で変なコピペだよ。気になさるな
ここにいるやつは、寝正月なんやな
雪に閉じ込められてるんだよ
普段降らないから雪タイヤねーわ
>得意技は鸚鵡返されること
>>307、お前のことじゃん
寝正月にかまわず、城行った人は晒してください
ま た 城 壁 厨 か
ま た 嫌 城 壁 厨 か
正月\(^o^)/オワタ
せっかくなので、城の基本的障壁である塀について語ろう
日本の城の塀は、築地塀に始まる。中国では、まさに土の巨大な壁であるが、日本の城壁は中国のそれに比べれば断然薄っぺらい、まさに塀である。
ぶっ飛んで中世初期には土塀が主流になる。竹の小舞を編んで土を塗り、狭間を開けたものだ。
次いで屋根が被せられるようになる。腐食を防いだんだな。
鉄砲が伝来して普及すると分厚くなる。大体20センチくらいの厚さだ。これが織豊期まで。
そして江戸時代前後に練塀という最大で30センチから40センチ程度の分厚い土壁の土塀が登場するが、その後は形骸化。
意外なことに粗末な塀の代表格の板塀というのは城郭の塀には無いに等しいようだ。
塀は環濠集落に見られるけど
堀と一体になって使われていた
治安の良い日本に基本塀は不要で
ただの目隠しにすぎない
>>317 塀を取っ払って木を植えた例もあるけど、皆さん苦労していたようで
特に水に近い城は侵食が大変だった
天守というより隅櫓的なものだったとか?
曲輪を見ると本丸の両端にあるから軍事的な理由かと
それでも片方は三重、もう片方は二重にして差別化したと思うけど
>>317 ・aとbのどちらも同程度の櫓台跡
・aからは城郭用の瓦のみ、bからは寺社の転用瓦も見つかる
・城主は中村一氏(1585年〜)増田(1590年〜)長束(1595年〜)徳川直轄地(1600年〜)
同時期につくられたなら天守はaでしょう
ただ5年間隔で城主が変わっているので米子城みたいな可能性も…
ちなみに学研「戦国の城全史」ではbを天守台に推定
>>323 確かに2棟が同時期に存在したとは限らないな
発掘範囲が広がって城道や他の建物の改変とかが確認されれば面白そうだ
新しいほうの水口城の話かとおもた
俺あのシンプルな水口城のほうが好き
そういや甲賀地方では同規模の方形居館がペアで残ってることが多いよね
同じものを2つ造るのが流行ってたのかなw
大坂冬の陣、夏の陣、落城400周年ですが
面白そうなイベントある?
櫓の公開
もうすんだ
関東在住のわい低みの見物。
見物しとらんと関東の城の話書け
水口は行ってみると城跡の看板は全方位的に岡山城に向いてて地元としては岡山城のが売りなんじゃなかろか
水口新城行くのにちと手間取った
町の背後にあって目立ってるからな
これで石垣でも残ってたら町のシンボルになったのになあ
ほとんど剥がされてしまって水口新城に行ってしまった
他城の解説で見たが、麓まで続く竪堀は剥がした石材を落とす為に
造られたものもあるらしいね
夜の熊本城に多国籍外人がいてワロタ
やっぱ最強の城というのは人々を惹き寄せんだな
>>333 熊本城は韓国人ぽいの多いな。
彼らは加藤清正嫌い難じゃないのか?
韓国人は、日本一の名城である熊本城は秀吉の朝鮮侵略で強制連行された朝鮮人が造ったと教えられているらしい
彼らの大半はホルホルしにきているんだよ
おまえらは、
ほんとうに朝鮮ネタが大好きだな
公共の図書館には韓国の歴史教科書を置いているところも多いが、
小学生向けも中学生向けも高校生向けも本当に嘘八百だからな
いまだに「古代、日本の一部を支配していた」とか書いてある
ハングル読めるんか
>>338 韓国やアメリカの歴史教科書は、日本語版がでてるよ
アメリカの小学生向け教科書もWASP史観で興味深い
英訳の日本建築の本は読んだ
といっても日本語と併記
熊本城を見てニダーしている韓国人wwww
秀吉が愛した桜を見てニダーしている韓国人wwww
二ダーてなんや
朝鮮ネタと聞いて倭城ネタが出てこないようではイカンな
洲本城の案内板では登り石垣は朝鮮征伐のときの倭城で培った技術だとされていたけど、それまでには無かったのかな?
古代山城では、版築土塁を登り石垣と同様に山城の斜面に盛って、山城と麓の政庁を囲い込む
古代山城で政庁を囲い込む構造になっているものはないよ
そもそも上り石垣自体がない
登り土塁なら芥川山城や久川城といった中世城郭によく見られるのでその発展系と見るのが妥当
それにはちょっと無理がある。なぜなら「それまでになぜ出てこなかったのか」と問われるから
石垣が城郭用に登場してニ・三十年は経っているのに、朝鮮の役に至って急に登り石垣が登場する
もし中世の登り土塁とやらが登り石垣のご先祖様だったとするのなら、この間に少しは登り石垣風の何かがあってもいいと思う
そもそも、登り石垣は、山頂の主郭部と麓の平城部分を結んで囲うためのもの
中世城郭のそれも登るのだが用途や成立が異なるのではなかろうか
>そもそも上り石垣自体がない
版築土塁て書いてある
大宰府とか多賀城とか土塁や壁で外郭ラインとして山城から麓の政庁を囲い込んでいるが
違うのか
登り石垣風の何かでいいなら、立花山城
峰と峰を結ぶ尾根が石垣になっている
ジャンルは違うが、古代から中世の牧(牧場)にも登り石垣風の石塁がみられる
尾根に築かれた石塁は登り石垣風じゃなくて普通の石塁だと思うが
尾根に垂直に築かれるってのが特徴なんだから・・・
一番下どうなってるの
昔はもっと大きい画像があったんだがな・・
たしか山嶺にある館と山城と出城がそれぞれ竪堀と土塁で繋がってる構造になってたはず
なかなかないね。
>>350 大宰府については大野城と基肄城で大宰府の都府楼を挟む形で、その間を版築土塁で繋ぐようにして囲むように描かれた香川元太郎のイラストがある。
多賀城は山城ないけど、外郭があったのは事実らしい。
丸都山城、大城山城いずれも高句麗の城じゃないのかな。
大宰府の大野城や水城は百済人の指導によって築かれたとされるので、参考例はあくまでも百済の城にならないかしら。
太宰府羅城のことでしょ?あれって中国で言うところの関城で要所要所に水城を築いてるだけで政庁部分と連結してるわけではないよ
おそらく百済の夫余羅城が原型と思うけど、あれも稜線に沿って山城と山城の間に城壁を築いたもので
登り石垣のように斜面を登って平城と山城を連結する方式ではないしな
登り石垣って平城と山城をつなぐためのものじゃないだろ
竪堀と同じく山の斜面を平行に移動されないための障害物だよ
彦根城はその用法で使ってるけどね。松山城は囲うために使ってる。
どっちもあり。
登り石垣かあ。
関東在住のおいらは
低くみの見物。
>>357 山中城の障子堀があるんだからもっと偉そうにしてもいいよ!
359 :
348:2015/01/22(木) 19:17:31.22
三重県の京城の石垣はどうよ?
現地を見てないが、猪垣や牧とは違うっぽい
>>354 平野部を版築城壁で塞いでいるから、羅城で間違いない
ただ登り石垣の前身というものではないのは確かだが
大宰府は羅城で囲ってあるが登ってはないと見える。
古代の日本で築かれた羅城が登り石垣の前身ではないのは見るからに間違いない。
年代も違うし誰が言い出したのか知らんが
ところで李氏朝鮮の城には登り石垣っぽい城壁はあるの?
>>361 金井山城、南漢山城、北漢山城、三年山城など、
韓国領内で有名な朝鮮式山城では聞いた事がない
北朝鮮領内の山城や女真族対策の長城に関しては、わかりません
これこれ
やっと見つかったね
鉢形城の畝堀(´・_・`)
関宿城を忘れないで下さい
チンチン電車とお城の組み合わせ最強
路面が残ってる都市は地方の県庁所在地が多いからね
必然的に城下町が多くなる
個人的には松山のミカン色電車が最高
路面電車と城跡…
函館、富山、高岡、福井、豊橋、
岡山、広島、松山、高知、熊本、鹿児島
くらいかな
熊本、松山、高知は平山城だから天守と路面電車が一緒に見られるよね
ぐちゃぐちゃ張巡らした電線や使い古した路電の車両という現代人の営みの向こうに聳える日本の城
外国人が喜びそう
金沢が該当しないのは意外。
東京にも路面電車はあるぜ
大阪にもあるといえばあるぜ
城跡から遠いだろ
烏山がある
375 :
日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:53:40.23
金沢は昔はあったんだよ。
静岡は堀端を走っていたしな。
376 :
日本@名無史さん:2015/01/31(土) 02:08:37.57
たとえば、信長の家臣が立派で広大な城を築城したら、
信長から「お前らデカイ城を建てるなボケッ」
みたいなことあったの? 北之庄城は七重の天守だった
っていうし、多分嫌味の一つぐらい言われたと思うけど。
377 :
日本@名無史さん:2015/01/31(土) 09:22:25.42
天守は敵の威圧が大きな目的だから、上杉相手だとそれくらいは必要と
ノブも合理的に判断するんじゃね?
>>376 北ノ庄城や会津若松城の「七重」は「たくさん重なった」位の意味だと思う
北ノ庄城は秀吉が「柴田勝家が七重天守を建てた!」と手紙に書いてるんじゃなかったっけ
× 七重天守を建てた!
○ 九重天守を建てた!
九重だと「多い」っていう意味だろうな
明らかな天下人の天守が五重までしかないことを勘案すると、
やはりそれより多い重は考えにくいと思う
技術的にも難しいんじゃないのかな
塔でさえ7重がやっとだったみたいだし
重は内部の階数の可能性もあるんだけど
内部解説しているのは信長公記の安土城と当代記の駿府城だな
秀吉の大坂城天守もなかったか
蒲生氏郷の建てた会津城七重天守は、元和二年(一六一六)に幕府に提出した
領国絵図に描かれている。
北ノ庄城もいくつかの資料に九重天守とあるので実在したんだろう
塔じゃない9階建ての木造物が建てられる技術があったとは思えんが
石垣を長方形にきっちり積み上げる技術さえなかったのに・・・
文書に書いてあるからって鵜呑みにはできんだろ
>>388 江戸城の石垣は長方形の石を積み上げる切込ハギ(布積み)の箇所もあるぞ?
構造的には、布積みより打ち込みハギや野面積みの方が強いみたいだが。
それに長方形に石を加工するのではなく上から見てきちんとした長方形に積み上げるという意味だし・・・
天守建築が必ず天守台に建てられるという先入観が邪魔しておる
>>392 天守台の上とか一言も言ってないし
天守台を歪まずに積むこともできないのに9重の天守が建てられると思えないって言ってんだがな
塔でさえ9重なんて過去一度も建てられてないんだからな
まあ夢を見ることは別に人の勝手だからいいけど
平安時代に白河法皇が建立した法勝寺九重塔がある
原則ひとが立ち入らない寺院の五重塔やらと、
籠城まで考えて建築された城の天守を同列で語るのは
意味がない
>>393 適当なことを書いておいて、突っ込まれるとごまかして逃げる。
法勝寺の九重塔についてはどうごまかすか楽しみだわ。
可能城
訂正
加納城
399 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 21:29:06.75
七重の塔と言っても足利義満が作らせた相国寺七重大塔は
100mを超えていたそうだから、案外技術的には
可能だったかも知れないね。
>>393 ヒント
天守台は土方で天守は大工
これでわからんなら、ロムってろ
関ヶ原以前の天守台上面の大雑把な寸法(1間=6尺5寸)
会津若松城(蒲生氏郷)11×11間
大坂城(羽柴秀吉) 12×11間(1間=7尺)
甲府城(加藤光泰) 11×8間
岡山城(宇喜多秀家) 13×8間
広島城(毛利輝元) 13×9間)
大和郡山城(羽柴秀長)8×7間
浜松城(徳川家康?) 8×6間
北ノ庄城が九重の天守とすれば一層目の平は15間〜16間?
403 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 23:44:51.70
安土城より大きな天守を建てるのはあり得るの?
秀吉や光秀が台頭してきて、筆頭家老の威厳を同じ
家臣に見せつけたのかな
>>400 土木技術がなけりゃ建築技術あるわけないだろ
アホな分類なんかしても意味なし
しかも国家的事業の寺院建築と一地方大名のさらに上杉という強敵と戦闘中の一司令官が同じ技術、資金、時間、労働力があるわけねーだろ
406 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 01:05:57.26
>>404 土木うんたら言う前に、おまえは基礎がなってへん
恥は掻き捨てや、半年ロムって建築史勉強せえ
407 :
401:2015/02/02(月) 01:41:43.73
>>406 そういうお前はまったく論理的なことは一つも書いてないが
偉そうに言っても全く説得力ねーわ
ロム専しとくのはお前だよ
409 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 08:26:30.22
>>409 お前こそ誰やねん
上から目線でさぞかしお偉い学者さんなんでしょうねww
411 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 18:11:34.69
見下されること言うからや
建築史の観点から、建築技術と土木技術の関係がどんなんか説明するんが、おまえの唯一の挽回法なんやで
おいおい、こっちに説明を求めて自分の説明義務を果たさないのはフェアじゃねーよ
左官と大工の差と九重天守を勝家が築いたっていう話がどう繋がるのかまずお前が説明すべきだろw
建築学の大学者様w
ああ、左官じゃなくて土方と大工か
あと、関西人なんかしらんがアホみたいに関西弁使うなや
俺も関西人やけど2ちゃんでバカみたいに関西弁使ってる奴は自己満のアホが多すぎることに気づいて使ってへんわ
関西弁やったら相手がびびる思うたら間違いやぞ
あと関西人なんか知らんけどアホみたいに関西弁使うなや
俺も関西人やけど、2ちゃんでバカみたいに関西弁使うてる奴はアホ丸出しやから使うてへん
関西弁使うたら相手がびびる思うたら間違いやぞw
416 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 21:55:45.40
大事なことやから、ちょっと文章かえて2回言うたでぇ
>>416 会話できないんだな
かわいそうな大学者さまだわ
418 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 22:36:48.76
>>416 おまえは、ほんまに誰やねん
>>412 ぬしが関西弁喋くるなら、ややこしかけん、おりは熊本弁にすーけん。よかね。
419 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 22:43:03.58
ツッコミいれたとはおりたい
>塔でさえ9重なんて過去一度も建てられてないんだからな
まず、これん言い訳せえ
文書では九重の塔が建ってたという記録があるんだな
それは俺の知識不足だったことは認める
だが国家的プロジェクトである寺院建築と一地方大名の強敵と戦闘中の一司令官が同じ技術、財力、時間、労働力を持っており、非実用建築物である塔より難しい実用的建築物である城郭の建築が可能であったと結びつけるだけの論拠はなんだ?
あと土方と大工の差が九重の天守建築と関係してるという話はどういうことなんだ?
アホやから教えてくださいよ、大学者様w
421 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 23:41:05.33
ほんまにアホやな
まず初歩からでわるいけど、築城工事は普請と作事で分かれとるやろ
普請は、石垣職人が指示して工事する言うてもほんまに作業するんは、土方ゆうてもかき集めの素人や
かたや、作事は寺大工から集められたほんまもんの職人が礎の遣り方から作業するんや。技術力の差が違うで
ほんで、土木と建築のうんたらはおまえが
>天守台を歪まずに積むこともできないのに9重の天守が建てられると思えないって言ってんだがな
て言い出したんちゃうんか
古い時代の天守台がなんぼ歪んどっても、作事するんは寺大工上がりや。天守の仕口継手には殿閣を支えるだけの強固なもんが使われとる。建てもんは頑丈、正確に作れる技術はあるんでっせ
422 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 23:56:53.47
続き
資金面や技術者は信長経由や
他の家臣にも、技術者が付いとるで
せやないと、礎石建ての城郭建築は普及せーへん
人工は現地調達や。
天守や櫓は寺社でなく町の土蔵から発展したという学説が最近出たみたいだけど確定したのかな
421で書かれてるのは建物の建て方であって9重の城の建築が可能であった根拠でもなんでもない
都で宮大工をやってた技術者が前線の城を築いていたっていう根拠はなんだ?
福井の田舎まで一流の宮大工の棟梁がたかが一司令官のために出張してたってか?
422に関しては完全なお前の独自見解だろ
なんの根拠もない説だ
しかもここが崩れたらお前の意見は全て瓦解することになる
422についての論拠を出せ
しかも初期天守は望楼型だろ
宮大工が建ててた塔は心棒を一本通すいわば層塔型天守の元となった建て方だ
つまりお前が言ってるのは
宮大工上がりの棟梁が信長時代に一司令官である勝家のために歪んだ石垣の上に望楼型九重天守を建てたってことになるんだが、それでいいのか?
一向宗や上杉に信長の威光を示すために信長の指図で勝家は九重天守を建てたのだろうな
城 = 軍事施設なのだから、天下人の居城より前線の武将の城に金掛けるのは当然だよな
会津若松城七重天守も伊達政宗と奥州勢への押さえとして認められたんだろうし
428 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 12:22:57.42
>>424 論拠なんかいらん
明智の坂本城
羽柴の長浜城
荒木の有岡城
他にもあるが、全部近世の城郭建築が建てられとるそれらを建てたんは、社寺大工上がりの城大工や
>>425 せやで
当たり前や
安土城天主手がけたんは岡部又右衛門は元は熱田神宮の宮大工やぞ
天守閣はショボイが、石垣は立派なもんだぞ丸亀城。
北ノ庄城は石葺きとあるから、あまり階層が多いと重くなり過ぎないだろうか
>>430 その問題はありますわね。
寒冷地やさかい、粘土瓦じゃ割れてもうてあかんから、普通はこけら葺のところ、織田の威信のために苦肉の策で石瓦にしたんやと思うんやけど、荷重がネックでんな
ちなみに、7重9階ちゅう説もありまっせ
私見として丸岡城で二重三階だから、もう一重一階(三重四階)、多くても二重三階(四重五階)追加程度と思う
せやね
大きくても5重7階地階2階やろか
これなら9重や
>>428 論拠のない私説か
相手にして損したわ
大学者さまw
436 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 07:34:37.72
>>435 そんな論拠論拠ゆうんやったら、ウィキペディアいけやボケ
論拠出せ、と論拠ないとしか反論しないのは駄目だわ
相手が、論拠提示してこなかったら、自分が論拠ありの意見を言わないとずっと不利だろ
論拠ないのに上から目線
病気ですか?
ボケとか言ってるw
負け犬確定ですね、学者様w
方言をつかってる奴はその程度のやつが多いのは2chの常識
スルーが賢明
わいも、遊ばせてもろたで〜
アホも去ったことやから、大学者様の講義もこれで終わりや
エセ関西弁も面倒やからこれで終わりにしますは
ほな、さいなら〜
ま た 城 壁 厨 か
お城スレが。。
みなさん仲良く(´・_・`)
北ノ庄城関連として・・・
天正3年(1575年)築城を開始
天正4年(1576年)北ノ庄で楽座令
天正8年(1580年)ルイス=フロイス「石の瓦、城下は安土の2倍」
天正10年(1582年)本能寺の変
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)毛利家文書「高い石蔵」「九重の天守」
天正11年(1583年)柴田合戦記「天守の九段目」
越藩拾遺録「漆門のある南の升形に北ノ庄城の天守があった」
>>445ビギナーのくせに論拠がどうした云々言うバカもお断り
城スレなめんなよ
負け犬が効いたのかw
>>447 ぷっ
ビギナーとかニワカと言うしか相手を攻撃できないやつw
2ちゃん特有の玄人さんだな、負け犬君はw
おいおい、城のプロ様を刺激しちゃいかんだろ
451 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 23:13:40.21
>>436ウィキなんかいかすな。迷惑や
>>441勝手に締めんなやこらww
>>448 例のあほはおまえやな。待たせたな
ずっとスマホやったから史料もないし打ちづろうてかなんかったわ
>421で書かれてるのは建物の建て方であって9重の城の建築が可能であった根拠でもなんでもない
都で宮大工をやってた技術者が前線の城を築いていたっていう根拠はなんだ?
福井の田舎まで一流の宮大工の棟梁がたかが一司令官のために出張してたってか?
いいや、これが根拠や。神社建築や仏教建築は巨大やさかい、その手の建築に携わる大工は荷重に対する経験が豊富
どこにどういう木つこうたらええんかわかってはる
ソースは西岡常一師
九重言うのは、床の数、屋根の数と意見は分かれるんやけども、わては屋根やのうて床の数やと思う
理由はその当時の天守やったら望楼型なんやろうから。外見と内見で回数が一致すれば五重塔と同じように屋根の数やと私見やけど見とる
従って、一致させようと思うと階高高こうせなあかん望楼型は屋根数えたんやないて思うわけや。あくまで私見やで。どうでもええけど。
仮に、内見の九重つまり床の数とするんなら階高はそんな高こうならん。必然的にいっくら高こうても40メートル以下や
1間を6.5尺間として、一重あたり二間の階高で均等に割る。仮にやで
303は1尺。6尺5寸間は京間。大京間かもわからんけど、わかりやすく仮に京間で計算するで
303×6.5=1965mm
二間やから3939mmや。
一階高は約3.94メートル。それを9倍。上段の母屋をかてて約37メートル程度
ちゅうことは、名古屋城大天守の建屋が36メートルくらいやからなんぼ九重ゆうてもやな
ほいで、
>>449はんが提示してくれているのにもあるように毛利家文書に高い石蔵の記述があることを察すると
九重の内、穴藏部分が二重分仮定としたら建屋の高さは母屋かてて30メートル程度。姫路城大天守が31メートル程度やの
寺院建築以外前代未聞で、大工も難しかったとは思うで。でも、この数字やったら不可能とはいわれへんな。
452 :
連投スマン:2015/02/04(水) 23:15:21.75
>>451の続き
ほんでおまえの「九重天守なんか建てられるはずがない」いう根拠が
>天守台を歪まずに積むこともできないのに9重の天守が建てられると思えないって言ってんだがな
これなんやろ。否定すらできてへんやん。なんや天守台が歪んでたら柱がまっすぐ立たんのかいな
何で天守台が歪んでたら九重天守がでけへんのか説明してくれへんし、わてばっかに長文書かせおって
今度はぐらかしたら負けな
>>453 うん明らかに効いてるよねw
負け犬って言葉にトラウマでもあるんだろなぁ
なんか自分に返信とかして頭おかしくなったのか?
こんな長文書いてよっぽど悔しかったんだろうな・・・
ビギナーにムキになる城のプロw
めんどくさいんで、すこし本腰いれたった
おまえとわてしかおれへんねやから、はよせえよ
>>458 関西弁やめたんじゃなかったのかよ負け犬さんw
複数人に馬鹿にされてるのもわからない城のプロw
>>460日本の城総合スレッドは夜中けっこう過疎ってるんやで
まあ何人でもええで、相手したるさかい
>>459熊本弁でもよかよ
文通みたいになってきた
>>461 何故熊本弁なんだ?
方言使わなきゃ議論できないとか完全に負け犬だろw
熊本弁ならまねされんでよかけん
ぬしゃせいしょこさんば馬鹿にしとーとな
大分弁でもええなあ
ちょっといらっとするっちゃけど
でもおもしりーんで。方言でカキコむんは
角が丸まって、偉そうにならんやろ?
そういえば、自分関西らしいな。
関西弁は、威圧的に読めるんかい?わては親しみやすく読めるんやけど
長文だけど結局は私見・・・
あほか
なんだただのキチガイ嵐か
もう負け犬はつかわんとね
論文も論文になる前は私見ばい
おりの勝ちたい
寝るけん
自分の方言に誇りをもってる人間は他人の方言にも敬意を払うもの
面白半分で自分以外の方言を真似するべきではない
あんたも東京人が自分の方言を真似してたら腹たつだろう?
471 :
446:2015/02/05(木) 01:27:55.24
坂本城
ルイス=フロイス「豪壮華麗、安土城に次ぐ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」
安土城
天正7年(1579年)安土日記「御殿守ハ七重」
ルイス=フロイス「この塔は七重」
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
吠えなきゃ相手にされない時点で立派な負け犬だよ
お前にはもう無理だ
諦めて早く死ね
そもそも大型の天守を建てる場合は山頂と平地では風雨等の条件を考えれば階層を一緒くたに考えるすべきではないだろ
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられ、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
家康が一階分の高さを高くしてでも五重天守に拘った理由は何だろう
>>473吠えてもないのに朝から相手してくださってありがとう。バイバイ
>>470うんにゃ
その前に俺の方言、真似じゃありませんけど
プライドなんか捨てたほうがええ。特に難波っ子は。
とはいえ、方言にプライドをもつ人々おられることを改めて考慮して、わたくしは方言カキコをしばし中断します。
以上、すれ違いスマンでした
>>474 詳しくお願いします
>>477 どこまでも失礼な奴だな
方言以前の問題だよ、お前は
二度とくるな
>>477 もうちょっと論理的な話ができるようになってから来た方がいいよ
城スレを舐めない方がいいぞ
480 :
日本@名無史さん:2015/02/06(金) 12:23:55.84
いよいよ粘着と化したか
人の意見に悪口しか返さんでよくも論理的思考とか言えたな
言い合うにしても城の話をしろよ
>>477 まあ安土山はそれほど高くはないが、
山頂にあまり高層建築を建てると風雨の痛みが激しいとおもわれる
>>480 すごいな、自分のことをよくそこまで批判できるもんだわw
>>482 確かにそれはいえる
松山城は漆喰の傷みが激しくて、下見板張りにかえたというから、風雨の影響は相当のものだろう
漆喰は破損しやすいからな
486 :
446:2015/02/06(金) 22:06:41.21
北ノ庄城に関して、もはや誰も興味がないかもしれないが、
ルイスフロイスの日本史を読むと安土城>坂本城>その他の城という認識に思えるので
少なくとも1580年あるいは1581年に北ノ庄城を訪ねた際には、
安土城や坂本城を超える巨大天守はなかったと思われる。
仮に毛利家文書「九重」や柴田合戦記「九段目」も正しいとすれば、
1)1580年あるいは1581年から1583年の賤ヶ岳の戦い迄の期間に巨大天守が築かれた
→1575年という築城開始時期、技術面から疑問
2)大洲城のように階段に踊り場があったのでは?
西洋では珍しくもない為ルイスフロイスはスルーしたが、
当時の日本では特異な階段だったので、階数に加えたのでは?
前にもこのスレに書き込んだことがあるのだが
『豊西記』(天和三年(1683)?、大分県日田市)の「高井嶽城潰陥之事」に、「新原兵部少輔居城揚七階高櫓立合図之火置也」というものがある。
時期は天正九年(1581)ごろのことで、おおよそこれにいう「揚七階高櫓」とは、「合図之火」を立てるための構造物だと思われる。
この史料自身が信憑性低いと書いているものだからそれなりにしか参考にはできず、これを例に考えるのは少し難しいが、
元々は北ノ庄城の九重天守もこうした高櫓の類で、同城の立派な天守と混同して九重の天守などとして伝わったということはないかな?
もし手元に史料がある人は、史料批判してほしいですね。
女子がバレンタインデーに告白するのに相応しい城郭や城址はどこですかね?
489 :
446:2015/02/07(土) 02:04:17.44
ちなみに江戸時代の文献では、北ノ庄城は五重天守
1625年 小瀬甫庵「太閤記」
17世紀中葉 大原武清「新撰豊臣実録」
1670年 江戸幕府「本朝通鑑」
>>487 実は井楼だった説ってか?
俺も思ったことはあるがどうなんだろう
491 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 10:05:16.43
>>490 同文献は井楼と高櫓を書き分けてあるので、厳密には何か違うのだろうと思うが、天守とは別のとりあえず簡素な建物のことだろうと。
九重とか雪の重みで倒壊するんじゃないか?
史料には書いてあるけど、建築学的に無理がありすぎじゃないというのが、
北ノ庄城九重や会津若松城七重なんだよね
総統も相当層塔がお好きなようで。ンァッハッハッハッハッー
1579年(着工は1576年) 安土城天主。信長公記によれば、地上五階地下を含めた内部七重
信長公記巻九「安土山御天主の次第」に「石くらの高さ十二間余りなり。石くらの内を一重土蔵に御用い、是れより七重
なり。」とあり、石蔵(地下階)が二階分その上に五階の建屋を建てている様子
1585年 大坂城天守。大友宗麟の記録によれば、地上五階地下を含めた内部七重
『大友史料 第二輯』には「下ヨリ三重メ・・・一階ノ下ハ、皆御蔵ニ而候、其下ニ長櫃十五・・・其上ニ、綿蔵、或紙蔵・・・
下三重メヨリ上ハ、大手火矢、大筒、六挺つゝ有之候、五重六重メニハ、長刀二ツ候・・・さて、天主ノ上ニ御座候而・・・」
とある。一階の下は御蔵とあるのでこの御蔵は二重構造。地上の1階を「下の重」とか「下の段」などということが多いので、おそらく
「下三重メ」は地上一階。順を追っていくなら、四重目は地上二階。
従って、「さて、天主ノ上ニ御座候而」の階は、間が省略されていなければ、七重目であり五階に当たることになる。
ベターに考察すると、七重や九重というのは地上階のみではなくて、石蔵を含めて数えたものだろう。
着工時期がほぼ同時期の安土城天主を参考にすると、五階建屋程度なら無理が「ありすぎる」というほどのものではないと思われる。
会津若松の七重天守は問題ないでしょう
技術的には、2層3階の大櫓に望楼を上げれば6階、これに地下を足せば内部は七重
政治的には、同時期の゛天下人以外の゛大型天守に
広島城、岡山城、甲府城(天守の存在は不明)もあるのでクリア
大きな天守台も現存するし文献資料もある
>>497 七階とするなら熊本城天守の様に、外見は三重という体裁だったのかな?
と思う
熊本城の庇も津山城や南蛮造りの様に、多重天守の規制対策なのかね
>>497 >>498 若松城天守は地下二階なので地上五階。平面規模以外は現在とかわらないと見られる。
ただ、望楼型の場合自由なので外観は初重を総二階にしたり二・三重を総二階にしたりどうにでもできる。
従って、望楼型天守の場合は、一・二階の初重と初重の大入母屋の小屋の段となりがちな二・三階の二重目と
その入母屋の小屋の段を含む四・五階の望楼部分で構成の外観三重天守が必然的に多くなる。
米子城天守や高知城天守を想像してもらえればいい。
ちなみに、望楼型天守で内部階と外観を合わせようとすると、広島城天守のように階高をうんと高く造る必要がある。
熊本城天守は公称三重ですが、二・三重と四・五重を上から下まで壁一枚でいけるところ
わざわざ腰庇をつけてあり、しかも正保城絵図ではどう見ても五重に描かれているので、五重に見せようとしたのかも。
熊本城も穴蔵含めれば内部七重なんですよね。姫路城も。
500 :
499:2015/02/08(日) 17:56:24.15
正保城絵図の若松城天守の高さは十二間とある。六尺五寸間で約23.6メートル
一方で土台から十六間という記録もあるようで、こちらを単純計算すると約31メートル。
実際に階高を二間として均等に割ってみると12間の場合は五重五階の天守ぴったりに割れるが
十六間の場合は当然ながら二階分余ってしまう。その十六間の信憑性のほどがわからないのであれですが、
十六間を100%信用した場合、地上七階ということになる。二重の穴蔵を含めると九階。
五重の天守で最上階を除く各階に
雨返し的な小屋根があったかもよ。
層塔型だから見逃されているけど、名古屋城天守の1・2階の屋根も庇に分類できるな
結局、庇とするかの判断は城主次第か
しかし、7重?9重?の石瓦の城か
鉄骨でも使ったのかね?
突き上げ窓全開が屋根に見えたとか
そんなんじゃねーの。
いつの間にか地下も含めて9階建の城を9重って数えるのが正しいとする形になってるが、その他の城もそういう風に数えてたという記録があってのことなのか?
507 :
日本@名無史さん:2015/02/10(火) 08:46:20.07
丸馬出の典型とされた諏訪原城の縄張りが徳川家の手によるものとされたりして、
武田流築城術が根底から覆りつつあるからね
510 :
日本@名無史さん:2015/02/11(水) 17:04:19.85
そもそも戦国の昔に武田流築城術などというもの自体がないから
511 :
日本@名無史さん:2015/02/11(水) 17:41:40.59
510←なにこの馬鹿?
欲しい本があるが、本屋に置いてある本は立ち読みされている
ネット書店で買うと立ち読みはされてないが研磨本が送られてくる可能性がある
どちらで買うべきか・・・・
君らはこういうことで悩むかね?
本屋で立ち読みして中身を確認してから新品を本屋で取り寄せてもらう
てのはどうかな
514 :
512:2015/02/11(水) 19:48:47.85
>>513 現物があるのに別に取り寄せてもらうって難しいのではないか
いや、どうせその本が売れたら中に入ってるまた注文カードで注文するんだから大丈夫だよ
全く無問題
>現物があるのに別に取り寄せてもらうって難しい
本屋でバイトをしていた頃は稀に「プレゼントしたい本なので綺麗なのが欲しい」と
言ってくる客はいたね
注文書の欄外に「美品を」と書いとけば版元も考慮してくれたりしてくれなかったり…
中規模店以下の店だと嫌がられるけど、超大型店なら対応してくれるよ
もっとも自分の読む本で他人に触られたのは嫌とか言っている奴はどのみち買わないだろうけど
517 :
512:2015/02/11(水) 20:47:39.34
>>516 そうか なんにせよ美本をゲットするのは運が左右しそうだな
足繁く本屋の日本史コーナーに通うしかないようだな
出版社に問い合わせた方が手っ取り早くないか?
日本の城関係の書籍は書店にもよるけど一般の日本史コーナーより
専門書の歴史コーナーあさったほうが、よりいい本があることがあるよ
最近はその傾向だから一般の日本史コーナーにいく機会が激減しました
そういえば、宮上茂隆氏の大坂城が新装丁で再発行されているようだけど
>>512氏
美品がほしければ、並んでいる本をレジに持っていって
「贈答品にしたいのでこれの美品ありますか」
とか適当に理由作って問い合わせてみればいいんじゃないかな
手間かかるだろうから、嫌がられると思うけど
520 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 00:18:03.07
埼玉三名城
川越城
岩槻城
忍城
埼玉三名城
杉山城
松山城
風俗嬢
522 :
512:2015/02/12(木) 00:36:56.26
俺はその日、『ヨーロッパの城塞』を肝切って買った
>>421 >古い時代の天守台がなんぼ歪んどっても、作事するんは寺大工上がりや
こいつモノを知らなさすぎだろ
いくら天守が頑丈でも天守台がボロければ傾いて終わり
現代でもそうだが一番技量を求められるのは基礎部分だよ
>>524 プライドだけは一人前なんだからもうあんまり叩いてやるなよ
相手を威嚇して偉そうにする団塊の世代的人間であることは間違いないんだし
527 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 21:41:30.40
>>527 続きです
建築の基本として土地が歪んだ状態で建物は建てられないのは当然です。
つまりこれの言う、「歪み」というのは、土地がデコボコの歪みではなく、平面形状が矩形になっていないという意味の「歪み」なのです。
お城の歪んだ天守台というと、大概は土地が凸凹という意味ではありません。
528 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 21:46:52.55
「見ていますよ」
だってw
どういうつもりで書いてんだ?
ビビると思ってんの?
530 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 22:37:54.84
>>529敏感ですね
こんな有り触れた言葉に「ビビる」とは、普段はシリアスな暮らしをしていらっしゃる方かな
>>527>>531は私です。自作自演と思われたくないので。
>>524のレスのおかげで、やっとわかりました。
つまり、
>>393は天守台の平面形の歪み(台形とか八角形とか菱形とか)の意味を取り違えて
天守台の表面が凸凹だと思っていたというわけですね。なるほどね。
天守台の天端は通常は平、水平ですからその考えは盲点でした。
あんまり荒らすな
蒸返すバカども
535 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 04:26:28.72
関東七名城
川越城
忍城
前橋城
金山城
唐沢山城
宇都宮城
多気城
太田城
536 :
日本@名無史さん:2015/02/14(土) 21:26:13.80
537 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 03:04:42.60
土木専攻と建築専攻の対立みたいなのを感じる。
当然 建築>土木だけどな
538 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 03:08:43.58
まったく意味不明
派閥争いなら個人的にやってろって話
539 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 12:05:28.24
>>522 みうらさんとこの豊臣大坂城天守復元案を見てると、
見慣れているのか宮上案の方がイイと感じるのは漏れだけか
江戸東京博物館に、江戸城のジオラマができるらしいね
でもたぶん期待はずれ
541 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 14:24:15.57
ちゃんとしたところに発注するんだろうな
天守置くなら寛永度御殿、そうでないのなら天守は置かないで欲しい
道灌の江戸城だったら面白い
慶長期江戸城の連立式天守の模型を見てみたい
545 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 21:36:50.02
天守の真下に大奥やらあるのに日陰になってたかな。焼けてなくなってホッとしてたんだろうか
あの頃の大奥は意外と小さいので、あまり問題にはならないかと
天守があるのは大奥の北だから天守の日陰になることはないよ。
なぜなら、太陽は南から射し、影は北側にできるのだから。
548 :
日本@名無史さん:2015/02/16(月) 01:43:11.25
どこの天守も御殿の北側に建ってるのか
江戸城の話だろ
550 :
日本@名無史さん:2015/02/16(月) 09:12:18.55
慶長期江戸城天守は、バカでかすぎて絶対復元無理だろうな
慶長度江戸城天守は金鯱、鉛瓦に漆喰、御影石の石垣なのでかえって眩しかった可能性もある
552 :
日本@名無史さん:2015/02/16(月) 22:02:08.31
慶長江戸城が本来の家康の江戸城だけどなあ
資料もない、姿も分からん
寛永度になるなあ
江戸氏の館もお願いしたい
監修は鉄板の平井聖先生?
556 :
日本@名無史さん:2015/02/19(木) 22:20:01.17
おまいらが四角い天守台つくれないから、望楼天守しか建てれねえ と苛める
なにを言っているのかわからない
>>556 実は、1層目さえどうにかできれば、どんだけ不整形多角形であっても層塔型にできなくもない。前例が確認できていないだけで。
ただ、細長いのだけはどうにもならない。
559 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 13:11:33.01
岡山城なんて無理なんだろうな 細長いからな
しかし、大入母屋から上は層塔なんだから、カタチが違うのは分かるが
そもそも層塔、望楼って分類
意味がよくわかんねえよ
560 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 14:49:11.39
初層の屋根が入母屋なら望楼型。そうじゃないなら層塔型。
基本的にはこういう分類だが、和歌山城のように初層屋根が比翼入母屋なのに無理やり層塔型に分類する例もある。
本来の意味からいうと、中国の大雁塔のようなものを通常は層塔と呼ぶのだが
563 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 20:52:19.06
坂東三津五郎さん逝く
564 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 20:54:21.95
↑こういうバカが減らないという嘆かわしい事実
565 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 20:57:00.18
三津五郎先生は城オタの大御所だろ
何がバカだ
個人的に、すげー残念
歌舞伎も好きだし、お城愛好家としても尊敬してた
568 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 21:30:53.02
ヤフーのトップに出てるな。
先週のBS朝日でやってたんだがSP
569 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 22:22:52.92
お城愛好家としては、芸能人中、とても知的で一番ちゃんとした方だったのにな
他の城好き芸能人では軽すぎて、城番組作りにくくなってしまった。
570 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 22:26:33.34
【累卵の城】 パラグアイ
http://tatoeba05.seesaa.net/ http://tatoeba05.seesaa.net/article/414459497.html#more 累卵とは卵を積み重ねること。通常、不安定でいつ倒れるかも分からない危険な状況を言います。
今回、ここで紹介するお城は、別に危険な状況にあるいうわけではありませんが、「卵の積み重ね」で
作られたものですから、『累卵』という言葉にふさわしいものです。
南米パラグアイの首都、アスンシオンから、国号1号線で南東へ30キロほど。
イタ市の郊外、広い平原の岩山の上に、その城はあります。
石垣に三層四階の天守閣、日本の伝統的城郭の本格的な造作です。
正式名称「御影城(みかげじょう)」しかし、普通は「前原城」と呼ばれているそうです。
「城主」前原弘道さんは、1938年広島生まれ。
1958年、20歳の時に父親・深さんなど家族7人でパラグアイに移住しました。
病弱だった母親のために、当初の移住予定地を変更し、街の近くに農園をひらきます。
トマト栽培などで業績を伸ばしますが、収益の変動が大きい投機的な作物栽培に不安を覚え、
安定した農場経営を目指して養鶏業をはじめました。単に卵や鶏肉の生産をするだけではなく、
会社を設立し、農場の敷地内に工場を設け、加工から出荷・販売、さらに飼料の手配や雛の
飼育までを手掛けるようにしました。
これが大当たり。
設立した会社・前原農商株式会社の扱う鶏卵や鶏肉の品質は高く、パラグアイ国民の需要を
掘り起こしたのです。現在では、工場では働く従業員300人以上、農場内の鶏は65万羽。
卵の出荷は国内生産の7割を占めるまでになっています。
同社の卵のブランド名が、Yemite(ジェミータ)。パラグアイの大抵のスーパーマーケットで
扱っており、現地では、卵を「ジェミータ」というもの思い込む子供がいるほどだとか。
ちなみに、日本人がパラグアイに初めて入植したのが1937年。
地域の開発への努力、現地の産業への貢献に加え、母国日本からの長年の経済援助により、
この地での日系人への評価は極めて高いものとなっています。1959年に締結された移住協定は、
1989年に無制限延長が認められています。日系人は現在7000人ほどでしかないのですが、
日本からの移住者は、8万5000人まで受け入れ可能とされています。
571 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 22:27:10.61
さて、前原家が、同地で「養鶏王」と呼ばれるまでになったころ、弘道さんの父、深さんは、
事業を息子に譲り、自分の夢の実現を考えて始めていました。
それは、「日本の城」を作ること。
当初、ご家族の反応は芳しくなかったようです。現地の治安は決して良くはありません。
目立たず、騒がず、トラブルを回避するのが現地に根付いた日系人の知恵だったのです。
それでも、深さんは動きます。
敷地内の丘を城の場所と定め、自ら周辺の土地を整備し始めるのです。
重機もない中、クレーン使って手動で畑から岩を掘り出す作業は、現地の職人も嫌がるもの
だったといいます。深さんは、苦労を重ねながら、10年をかけて予定地の周辺を公園として整備し
道路を作り上げました。
しかし、1995年、建物の着工の目途が立つという時、深さんは交通事故により亡くなります。
82歳でした。
突然の父の訃報を聞いた、弘道さんは、その意思を継ぐことを決意。
会社の代表として多忙な生活の中、日本の専門業者に連絡を取り設計を依頼。さらに現地の
建築会社と交渉を重ねます。
翌年から、城は本格的に着工。
「作るのならば本格的なものを」との思いから、毎年日本を訪れ、業者や職人との幾度も面談。
天守閣に使われる飾りは高知城のもの、瓦は愛媛の菊間を輸入。ご本人が、地下足袋をはいて、
屋根に上がったこともあったそうです。都合3度、日本の専門の職人を招き、着工から10年、
深さんの周辺の整備を合わせると、20年の歳月をかけて、2005年、前原城は完成しました。
17メートル、三層四階の天守閣は、館山城・川之江城とほぼ同じ造作。
明け方、天守閣に登ると、見渡す限りの草原が霧に覆われている中、海の中の島のように丘が
点在している光景が見えるそうです。弘道さんに言わせると、故郷、広島の瀬戸内海を
思い起こさせる絶景なのだとか。
572 :
日本@名無史さん:2015/02/22(日) 22:27:46.50
>>569 春風亭翔太じゃオタ臭が出すぎるし
歴史好きの東出夫婦にがんばってもらうしかないね
ほかにいるかな、いい感じの城好き芸能人
高橋英樹
安住アナ
578 :
日本@名無史さん:2015/02/24(火) 01:37:56.81
帽子を被ったピエール瀧
人類の進歩と調和か
なんか今の中国を見るような感じだな・・・
文化なんてこんなもんだろ
天守付きの江戸城を復元するなら、寛永後期なら天守・本丸御殿・二ノ丸御殿・東照宮・
西ノ丸御殿の指図があるから可能かな
>>585 地味に発展したといったほうがいいかもしれない
石垣については認めるというか表向きには衰退した
588 :
日本@名無史さん:2015/02/28(土) 19:03:22.92
>>586 自分で調べりゃいいのかもしれんが、本丸御殿とか二の丸御殿とか同時期に両方使っていたのかね
本丸御殿が古びて修理が大変で、二の丸御殿増築して、そっちに引っ越したような気がするんだ。
誰ぞご教示願いたてまつる。
その通りでござる
591 :
日本@名無史さん:2015/02/28(土) 20:12:55.69
安土城の羽柴邸といわれる所は三法師の屋敷だったの?
>>591 「伝」羽柴秀吉邸跡だから、それ以上はより不明
593 :
日本@名無史さん:2015/02/28(土) 21:08:17.03
かたじけのーござる
595 :
日本@名無史さん:2015/03/01(日) 17:54:42.16
>>591 安土城の伝羽柴秀吉邸は安土山の石段中腹にある
織田家家督を継いだ三法師がしばらく住んでいたのは
安土山山頂近くにある安土城二の丸じゃなかったか
596 :
日本@名無史さん:2015/03/01(日) 20:02:37.41
三津五郎なき今、
ロンブー淳、春風亭昇太、安住紳一郎が、
芸能界城オタ三銃士
597 :
日本@名無史さん:2015/03/01(日) 20:35:17.51
>>595 二の丸は、とても屋敷を建てられる広さじゃないけどな。
元々は何があったんだろう?鷹を入れる小屋とか?
江戸城はなぜ方形にしなかったのだろう
駿府城も名古屋城も、徳川の城でも四角いのがある
地形上の制約かな
>>598 それしかないかと
新規の西ノ丸や西ノ丸下、拡張した二ノ丸は方形様だし
>>597 確か信長の女房とかは二ノ丸に住んでいたとか
安土に来た秀吉が二ノ丸で信長と対面した記録も有ったような
二ノ丸というのが今に伝わる伝二ノ丸なのか、他の場所なのかは分からないが
>>600 現二の丸は信長死後、秀吉が土を盛ってかなり嵩上げしたんじゃ?
江戸城の半蔵門みたいに家臣の名前に由来する城門は他にある?
なんでわざわざという感じがしてならない
半蔵門の半蔵て確か象が半分しか入らなかったとかしょーもないエピソードが由来で、服部半蔵のことじゃなかったと思う
寺沢二重櫓や寺沢門の寺沢とか松倉櫓の松倉って人名なのかな
坂 は城ではないだろ